2023-04-30

"固有値問題30講" 志賀浩二 著

理解へ至るプロセスには、リズムが欲しい。人生を生きる上でも...
30 ものステップで軽妙なリズムを奏でる数学 30 講シリーズ。だが、そのリズムも、ここへきて息切れ気味。抽象数学の難解さの一因に、幾何学的な空間概念を代数的な数式で完全に記述しようとするところがある。ルベーグ積分などは、そうした一つ。積分では、アルキメデス以来、ずっと空間的思考が駆使されてきたが、これを放棄すれば、人間の直観に反する。
さらに要因を挙げるなら、用語の扱いにも馴染めないものがある。固有値問題は、まさにそれだ。そもそも固有値ってなんだぁ?ドイツ語の "eigen" に由来し、固有や特有といった意味があるらしい。定義そのものは単純だ。線形変換 A に対して、ベクトル x とスカラー λ が存在する時、次式が成り立つというもの。

  Ax = λx

この時、λ が固有値、x が固有ベクトルと呼ばれる。ただそれだけのこと。こうした視点は、ある線形空間がベクトル操作によって別の線形空間に再マッピングできる仕掛けが暗示され、画像処理システムなどの設計で欠かせない思考法となる。線形変換を行列式で記述すれば連立方程式と等価になり、ベクトルと線形代数の組み合わせで空間概念がぐっと拡がる。
しかしながら、こうした空間概念を一般化して無限次元にまで高めようとすると、空間そのものが見えなくなっていく。数学とは、何事も一般化し、抽象化し、物事の普遍性、すなわち、真理を暴こうとする分野で、その根底には宇宙法則を暴くという野心がある。野心が人を盲目にさせ、空間を見失わせるのか。人間が思い描く空間感覚なんてものは、精神空間に描写される虚像のようなものなのか。そもそも真理なんてものは、人間の直観に反するのやもしれん...

ついでに言うなら、「作用素」という用語にも違和感がある。本書は、こうした用語を少しばかりほぐしてくれる。今まで写像や関数と呼んでいたものに対して、固有の性質という視点を与え、さらに、射影作用素や随伴作用素、あるいは、エルミート作用素やユニタリ作用素などが、元に対してどのように作用するかという視点で眺めると、ずっと受け入れやすい。それでも用語に振り回され気味だけど...
理解へのプロセスには、まず用語の定義を自分の感覚で捉えること!今更ながら、こんなことを改めて思い知らされる今日このごろであった...

言うなれば、幾何学は空間を直観的に図式する世界、代数学は等式で関係を記述する世界、解析学は不等式で関係を記述して極限を求める世界。これらの思考世界は別々に歩みながら、問題の抽象化とともに共通点を見い出し、合流してきた。代数学と解析学の合流では関数解析学という一分野を形成するに至ったが、その契機となったのが固有値問題だという。

数学の落ちこぼれは、本書をこんな感じで眺めている...
まず、代数学の立場には、基本定理がある。

「複素係数の n 次の代数方程式 zn + a1zn-1 + ... +an-1z + an = 0 は、必ず(重解も含めて) n 個の複素数の解をもつ。」

この基本的な立場は、ベクトル空間をいくら抽象化しても変わらない。ベクトル空間を加法とスカラー積を持つ集合として眺めれば、加法と乗法に注目すればいい。線形写像を行列式で表記すれば、たいていの場合、対角化できそうだ。そして、鍵となる概念が、内積と直交分解である。... といった具合に。

例えば、ヒルベルト空間は、まさに内積空間であり、「完備性」「可分性」を具えている。
完備性ってやつも、なかなか手ごわい用語だが、ここでは単にコーシー列を思い浮かべればよさそうだ。つまり、数列が収束するってことを。
可分性は、可算個の元からなる稠密な集合であるってこと。
これらの性質は、そんなに難しくはないが、連続関数列がスペクトル分解に至ると波動力学への道筋が見えてくる。ここに、行列力学と波動力学が結びつこうとは...
この点で興味深いのが、「2乗可積な関数」ってやつだ。
閉区間 I=[a, b] において、ルベーグ測度に関して可測な複素数値関数 f(t)で、以下の条件を満たす場合、

b
a
|f(t)|2 dt < +∞

これが、2乗可積な関数ってやつで、ベクトル空間の構造を持つ。
そして、次式を内積として採用すると、ヒルベルト空間になるという。この空間を L2(I) と表す。

f(g, t) = b
a
f(t)
g(t)
 dt

予め、これとは別に、l2-空間もヒルベルト空間であることが示され、l は任意の自然数でもええってさ。
つまり、ヒルベルト空間という論理的な視点で眺めると、連続的な関数列で構成される L2(I) と離散的な数列で構成される l2-空間が、同じ構造だと言っているのである。なんとも狐につままれたようで、今宵も眠れそうにない...

「抽象性によってとり出された論理的な構造の単一性と、それを具象化することにより得られた数学的対象の示す多様性との対照は、このヒルベルト空間では特に著しい。数学者は、L2(I) と、l2-空間をじっと見ながら、この彼方に浮かび上がる共通の論理の骨組を捉え、凝視しようと努めるのである。... だが、この場所を凝視しているのは、単に数学者だけではない。物理学者もまた量子力学から生ずるさまざまな現象の奥に、同じ場所を見ているのである。実際、量子力学の数学的基礎づけは、抽象的なヒルベルト空間の論理の枠の中で達成された。このとき、L2-空間への実現は波動像となり、l2-空間への実現は、粒子像と解釈されたのである。」

2023-04-23

"ルベーグ積分30講" 志賀浩二 著

理解へ至るプロセスには、リズムが欲しい。人生を生きる上でも...
30 ものステップで軽妙なリズムを奏でる数学 30 講シリーズ。
しかしながら、抽象数学では、リズムではどうにもならない領域がある。ユークリッド風に空間イメージができればありがたいが、逆に、幾何学的イメージを代数的に記述するやり方で挫折を喰らう。

積分ともなれば、アルキメデスの取り尽くし法のような発想で図形を長方形のタイルで埋め尽くし、これを極限に近づけるやり方で、たいていうまくいく。図形が連続関数で表記できればだけど...
では、不連続関数ではどうであろう。不連続の程度によっては、同じような空間イメージでもうまくいく方法がある。それが、リーマン積分だ。ここまでは、なんとか概形できるような有界な関数を想定すればいい。
では、空間概念をもっと一般化して、空間イメージの及ばない関数列のみで抽象化した空間を積分するには。それが、ルベーグ積分の求めるところである。伝統的に空間感覚と深淵に結びついてきた積分と微分の思考法。こいつらが空間を超越した世界へ突入しちまったら、思考イメージは何に縋ればいいというのか。哲学にでも縋るさ!
ちなみに、数学は哲学である!というのが、おいらの信条である。だから落ちこぼれたか...

おいらの解析的思考には、関数表記できる現象はなんでも、フーリエ変換やっちまえ!という感覚がある。つまり、直交成分の正弦波と余弦波で分解し、現象を三角関数で記述し直すということ。直交とは、幾何学で言うところの直角を代数学的に抽象化したもので、ノルムや内積といった演算がピュタゴラス風に意味を持つ。
こうした思考法を積分に導入すると、どうなるだろう。空間の中で単独でぽつりと存在した関数が群れを成すと、今度は関数列が空間を形成しはじめる。空間を関数の群れとして捉えれば、長方形のタイルの積み重ねが単関数列の群れと化し、集合論に看取られる...

「実数の導入によって、数が数直線上を自由に動き出したように、関数空間の導入によって、関数がこの空間の点として動きはじめた...」

さて、ルベーグ積分に至るまでのキーワードを追うと、測度、完全加法性、可測集合... といった用語が拾える。
「測度」とは、ユークリッド幾何学で中心をなす長さ、面積、体積といったパラメータを拡大解釈して、部分集合として捉えた量である。重要なのは、集合の測度の和を考える時、その集合が可算であること。
「可算」とは、自然数全体と同程度の元を持つ集合のことで、無限集合の中でも最小に位置づけられる。無限の和が最小?そして、無限を濃度でランク付けするカントール集合を相手取ることに...

「完全加法性」は、互いに素である集合の和が一致とするまではいいが、可算において論じられるところが厄介!なにしろ、零集合を抱え込むことになるのだから。零集合には形という概念がない。測度 0 という集合を、どうやって積分するというのか。
ルベーグ積分は、この測度が定義される可測集合で論じられ、対象は連続関数から可測関数へ移行し、図形概念から脱皮して測度概念へ放り込まれる。
とはいえ、積分論の根幹が極限操作にあることに変わりはない。それは、測度の完全加法性から導かれる帰結であろうか。
そして、積分空間論も有形から無形へ脱皮していくのを感じる。幽体離脱のごとく...

「ルベーグの独創性は、測度の考察の過程で、実無限と遭遇せざるを得ない点にあった。しかし 20 世紀前半の数学の流れを見ると、ルベーグの理論は、測度論のかかえた零集合のような深淵にあまり立ち入らずに、この積分論を用いて解析学の形式を整備し、展開する方向へと走っていったのである。ここに完成された美しい形式 -- 関数解析の世界 -- は、ルベーグ積分のもつ謎めいた姿を、ひとまず完全に隠してしまったようにみえる。しかし、この解析学の形式の奥から、時折りルベーグ積分のもつ不可解な姿が見え隠れするのは避けられぬようであって、それがルベーグの理論に対するある独特な気分として残るのではなかろうか...」

2023-04-16

"錯覚の科学 - あなたの脳が大ウソをつく" Christopher Chabris & Daniel Simons 著

ノーベル賞のパロディ版に、イグノーベル賞ってやつがある。格調高き研究を対象とする本家に対し、庶民感覚で笑わせながらも、どこか考えさせられる... そんな研究を対象とし、科学する達人たちの遊び心を垣間見ることのできる賞だ。品がない... 不名誉な... といった意味を持つ形容詞 "ignoble" にひっかけたネーミングもなかなか。
ちなみに、受賞者の発表は、エイプリルフールにやると洒落ているのでは... などと、密かに期待している。

2004年、クリストファー・チャブリスとダニエル・シモンズは、ある実験でこの賞を射止めた。その実験とは、バスケの試合のビデオを被験者に見せ、パスの回数を数えるように依頼する。画面には、ゴリラの着ぐるみを着た女子学生が乱入し、ゴホゴホと胸を両手で叩いて立ち去る。その間、約九秒。この悪戯にどれだけの人が気づくか?という実験である。
そして、参加者を何度も入れ替え、何度も繰り返し... すると、なんと!半数もの参加者がゴリラに気づかなかったという。興味深いのは、見落とす人の多さだけでなく、改めてビデオを見直し、見落としたことを知った時の驚愕ぶり。ゴリラなんて絶対に出現しなかった!そんなものを見逃すはずがない!と自信満々に主張しながら...
人は、何かに集中していると、たとえ目の前の出来事でも簡単に見落としてしまうことがある。例えば、自動車の運転でバックさせる時、そこに障害物はないはず、という思い込みのために、ハッ!とした経験を持つ人は多いだろう。ながらスマホが問題とされる昨今、それがハンズフリーであっても電話にはご用心!
注視力の本質は、「何が見えたかではなく、何を見ようとしていたか」ということ。人間は、予期したものを見る傾向があるという...
尚、木村博江訳版(文藝春秋)を手に取る。

本書は、日常の六つの錯覚...「注意力、記憶力、自信、知識、原因、可能性」にまつわる錯覚を様々な実験を通して紹介し、人間の認識能力が、いかにいい加減で、いかに曖昧で、いかに操作されやすいかを物語ってくれる。日常の錯覚は、後を引くだけにタチが悪い。誤りと分かっていても、なかなか変えられない。
しかし、だ。錯覚しない人生って、どうであろう。錯覚に振り回される人生も困るが、まったく錯覚を起こすことがないとすると、それはそれで退屈しそう。
錯覚に救わえることもあれば、錯覚に身を委ねる方が幸せってこともある。錯覚の性質を知った上で、錯覚を活用することができれば、人生の幅が拡がるやもしれん。
人類は進化の過程で、錯覚にも役割を与えてきたことだろう。脳の進化には、都合のいい推論と信念も必要である。思い込みと信念は、紙一重!少なくとも、精神に安住を与えられる。
本書には、錯覚を科学する根底に、いかに己を知るか!という難題が提示されているように思われる。人は、自分のことは自分が一番知っていると思いがち。自己が自己に謙虚になることは、なかなか難しい。人間には、自分が本当に知らないことを、本能が偽って知っているかのように錯覚する性癖があるらしい...

錯覚を科学すると、思い込みと自信に対する感情操作のメカニズムが見て取れる。モーツァルトを聴くと頭が良くなる?脳は、10% しか使われていない?潜在意識を刺激すれば、もっと能力が引き出せる?だから、俺はまだ本気を出しちゃいない!ってか。
サブリミナル効果の類いに期待する前に、認識能力の錯覚に陥らぬようご用心!
自己啓発書などでは、自信を持つことが大切だと力説される。だが、根拠のない自信は却って危険である。
専門用語にもご用心!専門家は、自らの知識を過大評価する傾向があるという。難解な言葉を駆使する専門家ですら、肝心のことが分かっていないことが多いと。
また、大衆は、俗説、デマゴーグ、陰謀論の類いが、お好き!ときた。巷では、根拠のない逸話が定説となる。
人々は、話の物語性に惹かれる。社会が複雑化すれば、分かりやすさに人は群がる。分かりやすさが善!分かりにくさは悪!と言わんばかりに。扇動者は分かりやすい物語を巧みに語り、それが扇動しやすさのバロメータとなる。物語性は、記憶を強烈に植え付けるばかりか、頭の中で物語をこしらえて記憶を本能的に上書きすることもある。
自意識とは、恐ろしいものだ。情報源が誤って記憶されようものなら、他人の体験談までも自己の体験談にしちまう。知識や経験にも所有の概念がつきまとう。俺のモノは俺のモノ。お前のモノも俺のモノ。おいらの女に、あたいの男に... と。所有意識こそが、最も顕著な錯覚やもしれん...

自信は当てにならない。なのに、人は、自信満々の言葉に惑わされる。人は、自信ありげな人の言葉を信じてしまう。それは、拠り所にする何かを求めているからであろうし、人間社会を生き抜くことが大変であることを、本能的に感じ取っているからであろう。
政治屋や報道屋が、言葉巧みに説得してくることは分かっている。金融屋や商売人たちが、心地よさげに売り込んでくることは分かっている。そして、詐欺師はみな自信家だ!
自信が持てないと生きることが難しいとすれば、歳を重ねるほど息苦しくなっていく。チャールズ・ダーウィンは、こんなことを言ったそうな...
「知恵者より愚者のほうが、自信が強いものだ!」

優れた人の自信には、余裕のようなものが感じられる。でなければ、知らないことを素直に認めたりはしないだろう。そして、智慧者にためらいなく相談できる。自分の知識に根拠のある自信が後ろ盾になれば、その自信は本物かも。
自信なさそうな人物像は、ドラマの主人公には不向き。自信に満ち、テキパキと指示の出せるリーダは、かっちょええ!
リーダの自信は、部下の不安を和らげてくれる。苦難や災難に立ち向かう時、チームリーダの自信が支えになる。強がり!という見方もできるにせよ。
一方で、支配欲の強い独裁的なリーダも見かける。その苛立ちはなんなんだ。その脅迫的な態度はなんなんだ。自己を支配できないから、他人を支配にかかるのか。自信は言葉の強さではない。いや、むしろ逆かも...
「自信の錯覚は、能力ある人の存在を埋もれさせてしまう。」

2023-04-09

"物の本質について" ルクレーティウス 著

「如何なるものも無に帰することはなく、ただ万物は分解によって、原子に還元する。」

モノの本質とは何か... と問えば、唯物論的な、原子論的な考えを巡らすことになろう。何事も実体を知りたければ、まず、そいつをバラバラにして構成要素に還元せよ!こうした思考は、自然哲学の、ひいては、科学の根源的な動機となってきた。
古代では、西洋の四元素説や中国の五行説に遡ることができ、現代では、素粒子物理学や量子力学に受け継がれる。
そして、精神や魂といった正体も物理的に説明せずにはいられない。物質の根源がどこまで微小か... 素粒子はどこまで素でありうるか... などと問えば、精神はどこまで純粋でありうるか... と問い、プラトン風のイデア論に誘われる。宇宙を根源的に構成しているものとは... 人体を根本的に形作しているものとは... それは原子の集合体で説明がつく。
となれば、精神や魂もまた原子の集合体ということになろうか。心や感情といった自由精神の活動もまた、自由電子の運動力学で説明がつくのやもしれん...

四元素説とは、「火、風、水、土」を万物の原初的要素とする考えで、エンペドクレスに始まるとされる。そして、レウキッポスやデモクリトスによって原子論が唱えられ、プラトンは四つの元素は複合体で分解できると考え、アリストテレスはそれぞれの元素の「熱、冷、湿、乾」という性質の方に着目した。
四つの元素の変化と、その柔軟性を目の当たりにすれば、根底にはもっと強固で、もっと根源的な何かが存在するのでは、と思えてくる。これらに多少の修正を加えて受け継いだのがエピクロスという流れ。
ルクレーティウスは、エピクロス哲学の原子論的宇宙観を、長編詩をもって歌い上げる。精神と魂(アニマ)の本質は有形的なものであると...
それにしても、既にこの時代に、このような形で科学啓蒙書なるものが存在していたとは、古代の叡智、恐るべし!
それは紀元前の物語であったとさ。しかしながら、このような科学的思考も、やがて出現する一神教に迫害される羽目に。無神論のレッテルを貼られて...
尚、樋口勝彦訳版(岩波文庫)を手に取る。

宇宙は、原子と空虚で構成されるという。原子とは、けして消滅せしめることのできない強固な存在。空虚とは空間のことらしいが、まぁ、真空といったところであろうか。
原子は単独で存在することもあれば結合することもあり、万物は種々の原子の結合、重量、打撃、集合、運動によって生み出されるという。
あらゆる原子は、いかようにも結合できるものではなく、種々で相性のようなものが見て取れる。配列の順序によって、様々な性質を得たり、変化したりするんだとか。原子には全く色がなく、物質が色彩を帯びるのも、結合の形態にかかわるんだとか。まさに分子説を物語っている。
そして、結合した原子に空虚がうまい具合に絡み合うことによって、四元素を変化させたり、柔軟性を持たせたりするという...

「万物は移り変わる。自然は万物を変化せしめ、移り変わることを強制する。」

さらに、「宇宙の全域は死滅すべきもの」としながらも、宇宙空間における原子の総和を一定とし、原子不滅の法則のようなものを説いている。ここに、エネルギー保存の法則に通ずるものを感じるのは、気のせいであろうか。
宇宙の無限性に思いを馳せれば、その正体を暴くために極小の実体に取り憑かれる。思考ってやつは、両極に思いを馳せながら、綱引きという物理運動においてなされるものらしい...

「自然は宇宙を維持するのに、宇宙に宇宙自身の限界をもうけ得ないようにしている。すなわち、自然は原子を空虚によって限らしめ、しかして一方空虚を原子によって限らしめ、かくの如く交互の錯列によって、宇宙を無限ならしめている...」

2023-04-01

堂々と冗談の言える日に、こっそりと嘘を論じてみる...

今日、四月一日...
巷では、堂々と冗談の言える日ということになっている。だが実のところ、本音が存分にぶちまけられる日のようである。
ある弁護士を名乗る奴がボヤいてやがる。保険金を惜しまず掛けてから、本音を言えばよかった... と。どうやら相手は、嫁さんらしい。彼が言うには、コミュニケーションには言葉のキャッチボールが大切だとか。それでも、すぐさま言葉のドッジボールとなり、やがて言葉のビーンボールが頭をかすめよる。
自称法律家ともなると、法律で裁ける嘘と法律で裁けない嘘の境界をよく心得ていると見える。しかも、法律で裁けない嘘が真実となるから厄介この上ない。
そこで、手っ取り早い解決策を... その弁護士が言うには、完璧な仕事料の相場は 300 万ドルだとか。
ゴルゴ13... ヤツを狙撃しろ!

冗談とは、言わば、笑い飛ばせる嘘。但し、笑えない冗談もあれば、引いてしまう冗談もある。まぁ、それは置いといて...
人間が生きてゆくには、嘘が欠かせない。この世に嘘というものがなければ、おそらく人生は退屈きわまりないものとなり、現実に絶望するほかはあるまい。もしかしたら、真実よりも大きな意味があるのやもしれん。
真実と嘘の存在感では、かつて後者の方が若干強かったが、いまや圧倒的に強くなった。マーク・トウェインは、こんなことをボヤいた。「真実が靴をはく間に、嘘は地球を半周する。」と。
まさに現代は、情報が瞬時にネットを駆け巡り、嘘がごまんと溢れている。情報の自由化は、偽情報の自由化でもある。厄介なのは、その内の何割かが真実だということだ。しかも、極めて重要な...

人間は、嘘をつく動物である...
人に嘘をつかなければやってられない人生もあれば、自分に嘘をつかなければやってられない人生もある。
現実は残酷だ。すこぶる残酷だ。現実逃避に嘘は必要不可欠!それが必要悪かは知らんが...
嘘は優しい。すこぶる優しい。嘘も方便というが、女性に嘘をつかない野郎は、女心への思いやりに欠けるわ...

人間は、表と裏のある動物である...
それは、人の目を意識しながら生きている証拠。いや、それだけなら、他人に嘘をつくだけでいいはず。自分にも嘘をつきながら生きているとすれば、むしろ、そちらの方が大きな意味を持つ。
嘘つきは泥棒の始まり... と言うが、嘘が悪の道と結びつくのも確か。しかし、人間社会は、嘘をつかないで生きていられるほど、おめでたい世界ではない。
アリストテレスは、人間を「ポリス的動物」と定義した。ポリスとは単に社会を営むだけでなく、最高善を求める共同体というような哲学的な意味も含まれているが、人間社会では大嘘が大手を振ってやがる。
となれば、嘘をどうつくか、嘘をどう利用するか、嘘とどう付き合うか、これが問われる...

そして文明人は、現実社会からの避難場所として高度な仮想化社会を編み出した。それは夢想の世界であり、言わば、嘘で固められた世界。嘘が人を救うのか、嘘が人を廃人にするのか。嘘が嘘を呼び、やがて自分の嘘に潰されていく自我。あとは、自己肯定にすがるほかはあるまい。だがそれで自我を納得させられるだろうか...

巷では、「自己肯定感」ってやつがもてはやされる。それで、自己啓発から自己陶酔へ、自己実現から自己泥酔へ、さらに、自己欺瞞に、自己肥大に... と世話ない。
巷では、「自己責任」という言葉が飛び交う。それで、自己に責任を持てる人間がどれほどいるというのか。この言葉は既に、お前が悪い!という意味で使われており、自己肯定感を他人否定で支えているのが現実である。
やはり、自己を知るには勇気がいる。やはり、自己肯定感には嘘が欠かせない...