2017-07-30

"選挙のパラドクス - なぜあの人が選ばれるのか?" William Poundstone 著

政治の在り方を問うたアリストテレスは、最善なのは君主制で、次に貴族制で、最悪なのは民主制というようなことを書いた。しかし、真の君主はどこにも見当たらず、ことごとく僭主と化す。有識者や有徳者の集団ですら権力を握ると、そうなるものらしい。今日、様々な政治体制が試されてきた中で、民主制が比較的マシとされる。そして、その実践法の代表とされるのが選挙だ。これに勝利した者だけが決定を下した事に正当性を与え、行政を機能させうる。
だが、貧困国では、西洋式民主主義を押すつける時に真っ先に導入され、腐敗選挙や恐怖選挙が横行する始末。ある経済学者はデモクラシーならぬデモクレイジーと呼んだ。民主主義は世界で一定の地位を獲得し、崇める人も少なくない。ならば、選挙の在り方について、あまり問われることがないのはなぜだろう。そりゃ、現行制度で当選した者が、わざわざ制度を見直そうなどとは思わないだろう。では、政治ショーを煽る報道屋はどうか。他の選挙方法では結果はこうなります!といったシミュレーションを公開してみるのも一つの手。選挙方法をちょいと変えただけで勝敗が逆転するとしたら、当選者の正当性はどうやって担保されるだろうか。選挙運動の不正もさることながら、選挙制度そのものの監視は誰の手に委ねるべきだろうか。
... などと問えば、民主主義ほど矛盾に満ちたものはなく、論理学を重んじたアリストテレスの主張も分からなくはない。一貫性という観点だけで言えば、独裁制の方がスッキリするだろう。腐敗体制か恐怖体制かは別にして...

ほとんどの選挙方法に「相対多数投票」が用いられ、無条件で多数決が崇められる。そうした感覚は、義務教育から馴染んできたこともあろう。候補者の戦略は、ひたすら過半数を目指すのみ。選挙に慣れない社会では最も分かりやすい方法だが、民主主義が成熟した社会ですらその意識は強い。
さらに、同じ相対多数投票であっても、境界条件が違えば意味するものも違ってくる。例えば、都道府県知事は、地域全体の直接選挙であるため単純に得票数で勝敗を決する。では、総理大臣はどうか?国会議員は地方選挙区で選出され、政党の中で有力となる人物は当選回数がものを言う。ならば、一国の元首が、地元の影響力が強い者ほどなりやすいということになりはしないか。相対多数の原理に深刻な欠陥があると納得させることは、それほど難しいことではなさそうだ。おまけに、選挙の勝者は常に好まれて選ばれるのではなく、しばしば消去法によって選ばれる。つまり、こういうことだ。
「相対多数から好かれる政治家は、大多数から嫌われる...」

本書は、相対多数より優れた方法として「コンドルセ投票」、「ボルダ式得点法」、「即時決選投票」を検討し、最有力な方法はインターネットでよく見かける「範囲投票」だと結論づけている。
しかしながら、どの方法をとっても、「不可能性定理」ってやつがつきまとう。ノーベル賞経済学者ケネス・アローが唱えた社会選択理論における法則である。やはりここにも、ナッシュ均衡が...
アロー風に言えば、そもそも合理的な民主制は不可能、いや、完全な合理的政治システムは不可能ということになろうか。政治コンサルタントとは、この不可能性につけこんで金儲けをする高度な知識集団ということことか。
「今日のコンサルタントを定義するものは、電子メディア、科学的世論調査、ゲーム理論を応用した戦略、そして最後に、徹底的にダーティなエートスだ。」
選挙戦略では、相手のスキャンダルに乗じたり、ネガティブキャンペーンを仕掛けるだけでは能がない。一騎打ちで勝算がなければ、わざわざスポイラー候補を立てて票割れのための生け贄を捧げたり、時にはメフィストフェレスとも手を組む。選挙で清廉潔白を競っても無駄だ。政治家の資質は清廉潔白などではなく、そう見せることが肝要なのだ。そして、あのマキァヴェッリの言葉が聞こえてくる... 盲人の国では片目の男が王様だ!

1. 非単調性と非推移性
本書は、「非単調性」という論理学用語が持ち出す。投票者が候補者の評価を上げようと高位にランク付けすれば、後押しできる。これが単調性で、その反対が非単調性である。単純な相対多数投票や優先順位付き連記投票では、政局に関係しそうにない票が集まり過ぎたために敗北を喫したり、支持者の一部が投票しなかったおかげで勝利したり、といった奇妙なことが起こる。
有力候補者が二人に絞られ、残りはマイナー候補者ばかりといった構図では問題はない。問題となるのは、有力候補者が三人以上の時だ。第一勢力が過半数に満たない場合、少数派であるはずの第三勢力がキャスティング・ボードを握ることもある。はたまた、アイツだけは勘弁してくれ!といった人が当選することもあれば、凡庸な首長が誕生したりもする。「スポイラー効果」のような現象は、有力者の票を喰ってしまうのだ。その場合、三番手の票が割れ、候補者が消去されていく順番が重要となり、党首指名選挙などでは決選投票が導入される。一方、知事選や代議士の選挙区には一人区があり、候補者が乱立すれば事実上の無効票も増える傾向にある。数学は二体問題を極めて単純化してくれるが、三体問題となると、たちまち難題にしてしまうのである。
また、本書は「非推移性」という概念を持ち出す。A が B よりも金持ちで、B が C よりも金持ちならば、A は C よりも金持ちとなる。これが推移性で、これが成り立たないものが非推移性である。A は B を愛し、B は C を愛しているが、A が C を愛しているかは知らんよ。
これらの概念は、勝敗逆転のパラドクスをよく表わしており、アローの「不可能性定理」の核となる。

2. ボルダ方式とコンドルセ方式
「ボルダ式得点法」は、最も好ましい者から最も好ましくない者までランク付けをする。例えば、投票用紙に記載された名前とともに番号をふり、集計の際は各候補毎に数字を合計していく。ポイント形式でもいい。このやり方は、相対多数よりも投票者の意思をより明確にする。絶対にアイツは嫌だという意思まで。ランク付け投票は、是認投票、あるいは、否定投票という形をとりうる。ただ、ライバル陣営は対抗馬に最低点をお見舞いするだろうし、この方式でも票の重みに歪が生じる。
一方、「コンドルセ投票」は、候補者が二人の場合を理想とし、あらゆるケースで一騎打ちさせるというやり方。最も正当な勝者は、すべての候補者を正面から打ち破り、最後まで立っているボクサーというわけだ。ただ、決選投票を毎回やるには手間がかかり、コストもかかる。
そこで、投票用紙には、候補者の二人の組み合わせがすべて記載され、どちらを好むかを問うようにする。これはこれで、投票用紙がややこしくなりそう。A よりも B を好む集団、B よりも C を好む集団、あるいは、C よりも A を好む集団が混戦すると勝敗は微妙だ。これを「コンドルセ循環」と呼んでいて、ジャンケンで言うところの、あいこの状態である。このような状態では誰が勝っても小差であり、すべての陣営が正当性を主張するような状況が想定される。世論はちょっとしたきっかけでどちらにも転ぶし、選挙後に不正があったと煽るのは政治屋や報道屋の常套手段だ。
ちなみに、ルイス・キャロルこと数学者チャールズ・ドジソンも、この二つの方式を自力で考えついたそうな。彼の著作「不思議の国のアリス」には数々のパラドクスが描かれ、その中にコーカス・レースが登場する。党大会レースってやつだ。まず、ネズミの無味乾燥な演説で、みんなのびしょ濡れになった身体を乾かそうとする。そして、盛り上がってきた聴衆が好きな時に走り始め、突然、ドードー鳥が終了宣言してレースはおしまい。つまり、多数派原則を、全員で勝手に盛り上げ、全員で勝利した気分になれるという不条理な競争として描いているわけだ。
多数派の循環論法が、しばしばコンドルセ循環と重なり、アロ-のパラドックスを生むという原理を再現している。その一方で、冷めた目で眺めるアリスのような存在が、結果に幻滅し、選挙の意味を疑い、無党派層を拡大させていく...

3. 中位投票者定理
一般投票者は、一人一票の権利が与えられるだけでなんとなく平等性を感じ、自分の票が無効となる可能性に気づくことはないだろう。知らぬが仏ってか。天の邪鬼なおいらは、しばしば無効票を投じる。そこそこ支持している場合でも、勝ちすぎることを懸念してわざと対抗馬に投じたり、どちらも支持できない場合はあえて第三勢力に投じたり。つまり、本書で問題とされる典型的な不正直者なのだ。選挙に行かないという選択肢もあろうが、それは選挙権の放棄を意味しかねない。白票に何か意味を持たせることはできないか?などと考えたりもするのだが...
本書は、「中位投票者定理」という概念を紹介してくれる。候補者の政治観を直線上に並べた時、中位的な立場が存在し、そこに最適点を見出そうとする考えである。購買心理に、製品ラインナップで真ん中のものが選ばれやすいというのがあるが、これと似ている。中位を制するものが勝利するという戦略は、ランク付けするような選挙方式では機能しそうである。
ちなみに、おいらは、売れ筋とは逆ポジションをとる天の邪鬼だ。例えば、最高裁判所裁判官国民審査のような記入しなければ自動的に信任される方式を、どうやって正当化できるだろう。最初からバイアスがかかっているとは、論理的にも、倫理的にも、欠陥どころではあるまい。おまけに、半世紀以上も放置されたままときた。分からないから記入しないという人が圧倒的に多い中、すべてに☓印を書くという行為も、それになりに道理に適っていよう。とはいえ、それはそれで票の重みを歪めていることになり、ここに中位の原理はまったく機能しそうにない。結局、ネットで公開される判決事例を参考にすることになるが...

4. 即時決選投票
ランク付け方式の変形で、「即時決選投票」あるいは「優先順位付連記投票」と呼ばれる方法を紹介してくれる。
まず、ボルダ方式と同じように、投票者はすべての候補者にランク付けをやり、各候補者にそれぞれの票を山に重ねていく。一位にランク付けされた投票用紙がそれぞれの山に含まれ、第一の投票で過半数をとれば、その者が勝利する。そうでない場合は、最も高さの低い山に注目する。つまり、最下位の候補者だ。この候補者は消去され、その低い山の票が残りの山へ再分配される。ここで再び過半数をとる者がいれば、その者が勝利する。こうして、候補者の消去と投票用紙の再分配を下位の方から繰り返していく。
これならば、上位二名の候補者の票が最後まで再分配されることはなく、ボルダ方式よりもよさそうである。ただし、嫌がらせ票が上位候補者に集まりやすいという前提で。ライバル陣営の投票者は、第三勢力や、その他大勢の党派、あるいは無党派層を装うこともできよう。
そして、消去される可能性の高い候補者に注目して、再分配される票をターゲットとすればどうだろう。メインの票が疎かになれば本末転倒だが、数学的に集団行動の最適化はできそうだし、この方式の弱点も見えてくる。優勢が 45% から 55% ぐらいであれば、勝敗は集団的投票行動にかかっているということだ。少なくとも数学的には...

5. 範囲投票
本書は、投票者を最も満足させる方法は「範囲投票」だとしている。それは、"hot or not.com" の評価方式である。インターネットに青年男女のプロフィールが公開され、1点から10点でホット度を投票する。合コンやパーティーで、ちょいと気になる異性に点数をつけたりする行為は、なにもネット社会に始まったことではないが、写真を公開するのは勇気がいる。そして、自分の点数を見て自虐に陥っても平気だ。Mだし...
この方式は、Amazon や YouTube などでも見かける。インターネットでは評価する集団が特定されることはなく、実に多様な集団が参加してくる。
しかしながら、範囲投票が最もよく機能するのは、同一集団が全候補を採点する場合だという。まさに選挙がその条件を満たす。スポイラーや票割れの問題も見事に解決し、驚くべきは、インチキがあった場合ですら上手く機能するという。ほんまかいな?投票数が多くなればなるほど、作為的な票は誤差に飲み込まれるということらしい。それは、どんな方式でも言えることで、正直者が多いほど機能しやすい。ただ、口コミ情報はあまり当てにならんけど...

6. 二大政党制と比例代表制
一名選出選挙のためのシステムには、有権者間の矛盾を解消するような、全員にとって最も合理的な代表者が求められる。対して、比例代表は、有権者の多様性を議会という縮小された規模で再現しようというもので、各政党に獲得票の比率に応じた議席数を割り当てる。比例代表の問題は、一名選出選挙の問題とは様々な点で正反対となる。
比例代表の一般的なシステムは、単記移譲式投票で、優先順位投票が用いられる。一定割合の票を得た候補者が当選するが、当選確定者の余分な票は、それぞれの順位にしたがって他の候補者へ移譲される。
したがって、少数派の意見を尊重しすぎるために、勝敗が逆転してしまうことがある。社会の多様性を勝者にどのように割り当てるかは、選挙制度の難題中の難題と言えよう。
ちなみに、比例代表制の反対派は、必ずヒトラーの事例を持ち出すという。過激派の躍進を許したヴァイマル共和国は、比例代表を採用した。もし比例代表でなかったら、ヒトラー率いる第三勢力の躍進はなかったというのが、反対派の主張らしい。ヒトラーの暴走を許したのは議会が全権委任法を可決させたことにある。議会を無力化した手腕は、鮮やかというか、えげつない。では、二大政党制だったら、こんなことは起こらないと言えるのか?
一方で、アメリカの二大政党制を、政権交代可能な制度として理想に掲げる政治家を見かける。比例代表が人間社会の多様性を反映する手段だとすれば、人種的にも、文化的にも、多様なアメリカ社会に適合していそうだけど。二大政党制がマイノリティを排除する方向に働き、無理やり二体問題に押し留めているとしたら、どうだろう。かつてアメリカでも比例代表制を採用していた時代があるという。廃止してしまった経緯があるだけに、復活させるのが難しいという事情もある。それでも近年、比例代表制を訴える動きがあるとも聞く。
二大政党制は、むしろ単一民族社会である日本の方が適合しやすいのかもしれない。ただ、いくら単一民族であっても、人間の多様性は一筋縄ではいかない。二大政党制と比例代表制の在り方は、人間の普遍性と多様性の共存を問うているように見える。いずれにせよ、カオスの世界で一つの方法論を崇めるのは危険である。おそらく学者は最良のセールスマンにはなれないだろう。どんな選挙制度を導入したところで、必ず批判を浴びせかけるのだから。自問を奨励し、自己をも含む批判哲学が、学問を進化させてきたのも事実。学者は、どんな現象でも単純化しようする。それが悪いわけではない。本当に単純化できるのなら...

7. ベイズ後悔
「ベイズ後悔」という統計学用語を紹介してくれる。その名はベイズ統計に由来し、範囲投票の優秀さを唱えるウォーレン・D・スミスが唱えた基準だという。その定義には、こうある。
「人間の不幸のうち、回避可能だったと予測される不幸」
ベイズ後悔がゼロとなるような選挙方法が理想というわけである。彼のコンピュータ・シミュレーションによると、最良な結果を得たのが「範囲投票」だという。パラメータには、投票者の正直度、無知度、作為度、恣意度、策謀度などが持ち込まれる。多くの投票者は、マスコミが報じる世論調査にも耳を傾けるだろうし、マスコミの思惑にも乗せられるだろう。満足できない選挙結果に遭遇すれば、正直者の行為より戦略的な行為の方が、後悔度は大きいかもしれない。
スミスのシミュレーションは、他のことも示したという。正直者が多い場合、即時決選投票は相対多数投票よりもはるかによく機能すること。コンドルセ方式が改善されること。全員が正直者だったら、ボルダ方式は、即時決選投票、コンドルセ方式よりも、はるかに凌ぐ結果になったこと。それでも、範囲投票を凌ぐものとはならないらしい。

8. 功利投票
社会学や経済学において、数値による点数評価は長い歴史がある。一つは、ボルダやコンドルセからアローへと至る流れ。もう一つは、功利主義から広まった流れ。
ジェレミー・ベンサムも啓蒙時代のリベラル派で、コンドルセと同じ種類の個人的自由を擁護したという。社会にとっての最良の選択は、全員にとっての最大の幸福を導くものだとする考えである。数学的には、全市民の幸福を合計して、最良の方式を判定する。
「功利投票」とは、各候補に対して感じる幸福を、投票者が数値で記入していくもの。原理的には範囲投票と同じで、投票のルールは必然的に範囲を規定することになる。

2017-07-23

"天才数学者はこう賭ける - 誰も語らなかった株とギャンブルの話" William Poundstone 著

博奕打ちとは、楽して金儲けをしよういう人種。そのために、情報収集に努め、賭け場を研究し、己の技を磨く。怠惰を求めて勤勉になるとは... 株式市場に参入する動機は、まさにこれ。今まで働いて貯めてきたお金を、今度はお金に働いてもらう。これが資産運用ってやつだ。自分自身に生産性がなくなれば、生産性のある者に投資する方が、社会的合理性に適っている。
では、株式市場は合理的であろうか?ほとんどの経済学者はそう考えているようである。ただ、合理的という言葉は、修正のきく言葉だ。カオス理論では、原理がほぼ合理的でも、ほんのわずかな不確定要素のために混迷となる現象を扱う。その結果生じる物理学的なブラックホールも、数学的なアトラクターも、一旦嵌まると抜け出すことが難しい。こうした数学的モデルは、青天井になる金銭感覚を忠実に再現し、欲望社会の混迷を如実に投影する。人間は、理は避けられても、偶然は避けられない。ならば、偶然をも味方にすれば無敵となろう。もし偶然を法則化できれば、数学は錬金術となる。無作為、無秩序、不確定... これぞギャンブルの醍醐味。人生もまた。そして、オケラの酔いどれ天の邪鬼は、ドスの利いた声でつぶやくのだった... 一人勝ちするのは悪い奴!ハコテンこそ美学さ!

理論的には株価に上限はない。それは、リスクもまた無限大であることを意味する。それでも、市場は長期的にはある程度合理的と言えよう。世界恐慌も、ブラックマンデーも、リーマンショックも乗り越えてきた。どうなに暴落しようとも、主だった株価指数がゼロになったことはない。最も危険なのは、レバレッジを賭けた場合だ。自分の財布と相談しながら賭けをやる分には大怪我をしない。これは最も単純なギャンブルの法則、小学生でも知っている。
しかしながら、元手が自己資本から他人資本へ移行していくにつれ、大人どもはこんな単純な法則までも忘れてしまう。最も高度な金融工学で教鞭をと執る経済学者や、ノーベル賞級の経済学者までも。大金が人を狂わせるのか?そもそも人間が狂っているのか?天才数学者たちの運命の分かれ目もまた、この最も単純なギャンブルの法則が境界面にある。株式市場は、経済学や金融工学という名を借りて、すこぶる立派な社会行動の場に見えるものの、やはりカジノの類いか...

本物語で驚かされたのは、あのクロード・シャノンが既に数学的方法論で株式投資をやっていたということである。情報理論の父と呼ばれる巨匠が。しかも、かなり成功していたとか。
情報理論は、S/N比を問う世界。情報効率の観点から「情報エントロピー」の概念を用いて、CPUの性能アップよりも帯域幅を節約することの方に注力する。株式市場もまたノイズの渦巻く世界。乱雑する情報からいかに有効な情報を抽出するか、投資戦略はこれにかかっている。
もう一人、注目すべき人物が紹介される。その名はジョン・L・ケリー2世、ベル研究所で二番目に頭が良いと評されたとか。すなわち、シャノンの次ということだ。彼が編み出した投資戦略は「ケリー基準」と呼ばれ、元手に対する賭けるべき割合の指標を与える極めて保守的な方法である。ケリー基準の大まかな枠組みは利益とリスクを均衡させる点にあるが、本書が「シャノン方式」と呼んでいる方法は、ケリー基準の特殊な形の「定率再分配ポートフォリオ」というシンプルなポートフォリオの最適化である。
そして、重要な計算法に「幾何平均」を持ち出す。平均といえば、普通「算術平均」を思い浮かべるだろうが、ユークリッド空間に投射する「幾何平均」という捉え方がある。ケリー基準の計算式は、幾何平均の最大化を目論み、破滅を避ける単純な方法を提示している。大雑把に表せば、「幾何平均 = 算術平均 - 分散の半分」の形。幾何平均は、必ず算術平均よりも控え目な値をとり、リスクがゼロの場合に同値となる。「平均分散分析」という方法論を提示したハリー・マーコウィッツも、著作「ポートフォリオ選択論」の中で、幾何平均の基準に大いに利点があると書いているという。リターンの幾何平均を投資に対する福利で計算した収益率、と捉えてみるのもいいだろう。
株式投資の分析法では、テクニカル分析とファンダメンタルズ分析、あるいは、バリュー投資といった考え方があるが、シャノンやケリーの戦略はファンダメンタルズ的な、あるいはバリュー投資的な思考に近い。世界恐慌を目の当たりにすれば、保守的な思考を重んじるのも頷ける。ウォーレン・バフェットが師と仰ぐベンジャミン・グレアムの投資哲学も、世界恐慌の経験から生まれた。
さらに、ケリー基準を先取りしていた人物にダニエル・ベルヌーイの名を挙げていることも見逃せない。そう、巨匠オイラーとともにピョートル大帝に招かれ、サンクトペテルブルク科学アカデミーで活躍した数学者だ。流体力学における「ベルヌーイ効果」でも知られ、株式市場のランダムウォークをブラウン運動的な捉え方をするのは、いかにも彼らしい。ただし、ここに熱力学の第二法則が成り立つかどうかは知らん...

一方、ベルヌーイ、シャノン、ケリーといった流れを否定した学派がある。意外にも、あのポール・サミュエルソンは、ケリー基準を否定したという。彼は、愛弟子ロバート・C・マートンにオプション価格を決定する難題を解くよう促す。そう、あの悪名高い LTCM の破綻で主役を演じた一人だ。マートンは、「ブラック=ショールズ方程式」の証明でマイロン・ショールズとノーベル経済学賞を分け合った。ショールズは懐疑的な投資家に向かって挑発的な言葉を放つ。「あなたのような馬鹿がいるから成功するのだ。」と...
確かに、ケリー基準が完全だとは到底思えない。だからといって... サミュエルソンの業績は、経済学に数学の視点を与えてくれた。彼の著書「経済学」は、いまや教科書的な存在である。とはいえ、これほどの権威がマートン側にいたとは... シャノンがサミュエルソンの言動に衝撃を受けたのも頷ける。

1. オッズとエッジ
カジノにハウスエッジがあるように、あらゆる賭け場にはエッジが存在する。いわゆる、寺銭ってやつだ。パチンコ屋で10%以上、競馬場で25%、宝くじで50%強、生命保険はもっと悲惨な率だという噂もある。つまり、賭け場の主催者が常に有利な立場にあり、プレイヤーは最初からマイナスのエッジをしょいこんでいる。オッズは仮の姿というわけだ。
銀行利息がいくら安全だとしても、インフレ率を上回らなければ最初から損失を抱えているようなもの。おまけに、微々たる利息にも一定の税率がかかる。株式市場も同じだ。取引手数料がとられれば、収益や配当にも税金がかかり、収益はそれ以上を見込まなければならない。それでも、プレイヤーのエッジは、他の賭け場に比べればはるかに有利か。いや、情報の非対称性は想像以上に重荷である。プレイヤーのエッジがわずかでもプラスを維持できれば、長期的には負けることはない、少なくとも数学的にはそうなる。ケリー基準は、エッジがマイナスならば、そもそも賭けるな!と言っている。

2. ケリー基準の原動力「大数の法則」
ダニエルの伯父ヤコブ・ベルヌーイは、ギャンブラーや投資家に誤解され続けた法則を発表した。「大数の法則」がそれである。この法則には期待値の存在が前提されるが、しばしば平均値と混同される。コインの表と裏の出る確率が 1/2 でも、1回目に表が出たからといって、2回目は裏の出る確率が上がるわけではない。それでも長期的にはエルゴート的であり、連続して表が出れば、そろそろ裏が出るだろうと勘を働かせることはできる。実際、ギャンブルで勝つためには確率以上の感覚が求められ、これがプレイヤーのエッジとなる。
では、勘ってやつに、どれほどの信用を置き、どれだけ身を委ねられるか?ここにギャンブラーの資質がある。短期間に全部すってしまえば、数学が定義する期待値とは大きく乖離した行動となる。
しかし、人生は短い!ここで勝負だ!そこで、自分の許容量を超えて仕掛けるのがデリバティブ。バフェットが金融界の大量破壊兵器と呼んだやつだ。リスク回避のために逆ポジションをとる手もある。ただ、ヘッジをかけるにしても元手を保証するための見せ金が必要となり、いずれ資金調達に迫られるだろう。こうしたものはあくまでも補助的な戦術であって、そもそもヘッジを不要とする戦略を用いたいものである。
大阪商人が始めた先物取引は、農作物が気候の影響を受けても予め米価を決めておくことで価格を安定させ、社会混乱を避けようとする仕組みであった。ところが今、デリバティブの方が主役を演じて価格変動を煽り、市場不参加者までも巻き込んで、時間と金、さらに才能までも飲み込む強力な重力場と化す。裁定取引が成り立つのは、市場が不完全であることの証拠だ。主要株は世界各地で上場しており、為替も常に変動し、同じ証券や同じ貨幣であっても、必ず差額が生じる。グローバル時代で世界各地の市場がリアルタイムでつながっているとはいえ、少しでも差が生じれば、サヤ取りの機会を与える。おまけに、HFT(超高頻度取引)によってナノ秒単位で決するとなれば、人間が悠長に考えている暇などない。本来、株式市場とは、投資の機会を与え、生産社会を活性化させようという場であるはず。だが、今日の主役はサヤ取りの方で、ゼロサムゲームと化す。株式市場を完全にするには無裁定の状態を構築する必要があるが、おそらく不可能だろう。
ケリー基準は、どんなに運が向いていても、賭け金が許容量を超えれば、長期的には破綻すると言っている。

3. サンクトペテルブルクの逆説
ダニエル・ベルヌーイは、兄ニコラウスが考案した架空の賭けを論文発表した。そう、「サンクトペテルブルクの逆説」である。
まず、硬貨をはじき、表がでるまで続ける。1回目に表が出たら金貨を1枚、2回目に出たら2枚、3回目なら4枚、4回目なら8枚を与えるとする。つまり、表が出る回数が1回増すごとに、金貨の枚数が倍になるというルールだ。
さて、このゲームの期待値は?最初に表が出る確率は、1/2 で金貨は1枚。2回目に出る確率は、1/4 で金貨は2枚。3回目に出る確率は、1/8 で金貨は4枚。4回目に出る確率は、1/16 で金貨は8枚... そして期待値は、各事象における確率の総和だから...

  1 x 1/2 + 2 x 1/4 + 4 x 1/8 + 8 x 1/16 + ....  = ∞

期待される賞金は、なんと無限大?利益とその確率の度合いが異なれば、いろいろな筋書きが描ける。ちゃんとした理性の持ち主は、このゲームを IPO(新規公開株)の期待値などとすることはないだろう。経済学には「限界効用逓減の法則」ってやつがあるが、これを思いおこさせる。
ダニエルは、この問題に富の効用は金額ではなく、相対的な倍率によって決まるという考えを持ち込んだという。金銭感覚は自分の財布との相対的関係であって、例えば、金持ちが道端で百円を見つけても通り過ぎるだろうが、貧乏人が拾うとハッピーになれる。つまり、富の増加によって生じる効用は所有財産に反比例するというものである。そこで、指数関数的な期待を相殺するための対数関数的な効用を考慮して、無限級数の各項を下方修正する。

  1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + .... = 1

すると、同じ無限級数でも行儀よく収束する。このゲームで期待できる金貨が1枚だとすれば、まぁまぁ妥当であろう。この無限級数は、ユークリッド空間に配置すると、一辺を 1 とする正方形となり、幾何学的投影という見方をすれば、幾何平均の考えに近い。
もっと高い水準に「至福水準」というのもあるが、いずれにせよ幸福の価値は金額だけでは測れない。価値観の違いとは、何に依存するかの違いである。そして、破綻を招くのは、その価値水準を超えて行動しちまった時だ。とはいえ、経済的な破綻は、まだましかもしれない。人間そのものを破綻させるよりは...

4. 人間は誰もがマーチンゲール人
巷で、よく揶揄される数学的方法に、「マーチンゲール法」ってやつがある。基本的な戦略は、負ける度に賭け金を倍額していく。次の勝ち分で全ての負けが取り戻せる、という誘惑に駆られ続けるという寸法よ。ただ、底知れぬギャンブル心理を、うまく数学的に表わしている。
ジョン・メリウェザーは、マーチンゲール人という噂がある。LTCM が10億ドルもの資金を集めることになったのも、この方法論に近い。いや、そのものか。ヘッジファンドの基本的な戦略は、ロングとショートを組み合わせたヘッジ取引である。
ちなみに、夜の社交場のポジションは、ショートヘアの小悪魔を指名し、ロングカクテルでまったりと攻略!
LTCM の事業の中心もまた、ロング・ショートを基本戦略に据えた収束取引。それはコンバージェンスを前提とした裁定取引である。同じ証券でも世界各地の市場で差額が生じ、その差額はいずれ収束するという前提で賭ける。理屈では、同じ証券なのだから価値も同じになるはず。そして、瞬間的な差額が大きいほど儲かるということになる。ただ、その差額は証券単位では微々たるもので、巨額な資金を投入しなければ大きな収益が見込めない。しかも、他人の資金を元手にすれば、途中でやめることもできない。まさに倍賭けゲーム!一旦マイナスに転ずると、ブラックホールに捕まるは必定。そして、IQ が平均して 170 もあろうかという大人どもの運命は、収束ではなく終息へ...
「ジョン・ケリーのリスク哲学の核心は、なにも数学を使わなくても述べることができる。どんなにありそうにない出来事でも、時間がたつうちにはっきりと起きるということだ。したがって、わずかでもすべてを失うリスクがあることを認める人は、いずれ実際にすべてを失うのだ。最終的な複利計算でのリターンは、太いしっぽに敏感に反応する。」

2017-07-16

"ゲーム理論と経済学" David M. Kreps 著

今日、多くの研究分野で見かけるゲーム理論。その最も典型的な応用例は、経済行動におけるものであろうか。この理論自体は経済現象を完全に説明するものではなく、演繹的、帰納的に分析できるような数学モデルを構築する上で、一つの補助的な道具を提供してくれる。人は金が絡むと本性を剥き出しにする。そこに愛が絡もうものなら... つまり、人間の本質をモデリングする対象としてはうってつけとも言えよう。仮に、理想的なモデルとしての合理的な個人が存在するとして、そのような個人の集団が相互にどのように干渉し合うか、そこから現実の人間行動を理解しようという試みである。その予測過程では、チューリングマシン的な、オートマトン的な、あるいは人工知能的な方法も模索されてきたことだろう。ゲームという名に反し、ずっと厳密な戦略科学と言えよう。本書は、この方面の第一人者デイヴィッド・クレプスが語ってくれる入門書である。

ゲーム理論の枠組みは、大きく二つに分類される。それは、「非協力ゲーム」「協力ゲーム」である。本書が主題とするのは「非協力ゲーム」の方で、「協力ゲーム」は所々で説明の補足に用いられる。この扱いは、いかにも経済人モデルという印象を与えなくもないが、個人的な利得しか考えていなくても、結果的に利害が一致して協力的な行動を選択することもあれば、協力するつもりであっても、我が身可愛さに非協力的な行動を選択することもある。共通の利得が見い出せるかは、妥協という心理も働き、社会的合理性だけでは説明がつかない。
経済活動に限らず政治活動ですら、十分に検討されたはずの契約や提携を破棄するといった行動がしばしば見られる。相手の思惑を知っているかどうかでも戦略は変わり、その行動パターンは、極めて統計学的であり、確率論的ですらある。
犯罪心理学では、必ず動機というものが想定されるが、行動経済学においても、やはり同じであろう。どんなに協力的な行動であっても、人間ってやつはどこかで見返りを求めている。たとえボランティア的な動機であっても、自己実現や自己啓発という観点から、やはり独善的という見方はできるわけで、自己意識や自己愛の類いからは免れない。良心そのものが自己愛から発しており、その潜在意識から派生する人間の価値観は、金銭欲や名誉欲だけでは推し量れないのである。

本書には、「均衡」という用語がちりばめられる。個人と個人、あるいは集団と集団の関係において、ある落ち着く点、協調点や妥協点と呼ぶ場合もあるが、そのような収束する状態を検討してみるのは有意義であろう。この収束点において、経済行動の基軸となる契約、提携、取引などが成立する。
そして、非協力ゲームを研究する上で最も有用な概念に「ナッシュ均衡」を位置づけている。その事例で、あの有名な「囚人のジレンマ」が登場する。
人間の価値観は、実に多様だ。それは趣味の数ほどある。いや、人の数ほどあると言ってもいい。あらゆる多様な観念から、どこかに均衡状態を求めているとしたら、それは人間が自然物である証であろうか。
人はみな、心の落ち着ける場所、自己の安住できる場所を求めてやまない。その一方で、社会関係における均衡は、緊張を求めている側面もある。どうやら人間は、退屈ってやつが苦手なようだ。
しかしながら、どんな均衡を求めたところで、思惑どおりの状態に落ち着くとは限らない。人によっては均衡が不均衡に見えることもあろう。少なくとも混沌とした宇宙では、エントロピーの力は偉大である。

ところで、ゲームというからには、ルールがつきもの。ゲームのプレイヤーたちが、そんなに合理的で頭の良い連中ならば、なぜこんな馬鹿げたゲームを続けているのだろうか?なぜルールを変えて、みんなでもっとうまくやれるようなゲームを編み出せないのだろうか?プレイヤーたちは、隙あらば自分が有利になるようルールの改善を目論む。市場原理がゼロサムゲームと考えられる以上、そうした意識は改められそうにない。将棋や囲碁は、勝者と敗者を明確に区別してゼロサムゲームとなる。では、株式市場はどうであろう?選挙は?そして、戦争は?
奇妙なことに人間の心理は、自分一人が損をすることは認められなくても、みんなで損をする分には受け入れられる性分がある。株式市場では、上昇トレンドでみんなが儲けていると報じられれば、自分だけがその波に乗れないことを恐れるがために、上値を掴まされる。そして、下降トレンドで、みんなが損をしていると報じられれば、安堵できるのである。投資戦略がトレンドに流されるのであれば本末転倒。
政界におけるゲームの均衡は、さらに悪魔じみている。なにしろ、「毒を以て毒を制す」の原理に縋るしかないのだから。これをゲームと呼ぶと、不謹慎だ!などという声が聞こえてきそう。だが、将棋のようなゲームにしても、戦争好きな王を改めさせるために戦いに模したゲームを献上したことが始まりといったことも伝えられるし、実は、政治のリアルな世界よりも、ゲームの世界の方がはるかに高尚なのかもしれない。社会的合理性への道は、果てしなく遠いってことか...

1. 戦略形ゲームと展開形ゲーム
非協力ゲーム理論で用いられるモデルには、二種類の基本形があるという。
一つは、「戦略形ゲーム」、あるいは「標準形ゲーム」と呼ばれるもの。例えば、二人でジャンケンをすると、何を出すかの選択肢が戦略で、勝ったことで得られる利得などを分析する。表記法では利得表が用いられ、ゲームは勝者と敗者で規定され、利得の合計がゼロとなる。極めて数学的な、いや確率論的な思考である。
二つは、「展開形ゲーム」。どのプレイヤーが、どの時点でどんな行動をとるか、その時点でプレイヤーがどんな情報を持っているかなどを分析する。表記法では、ノード点とベクトル表記が用いられる。プレイヤーの現時点、次の分岐点、さらに様々な分岐点への移行を検討し、最大利得を獲得するための経路を規定する。ただし、プレイヤーの行動は最大利得と安全利得の間でうごめき、利得にともなうリスクという概念が生じる。
そして、双方のゲーム形式においてモデルが数学的に定義できるということは、プログラム可能ということである。基本的な思考概念は確率論的であり、確率であるからには、事象は同時かつ独立ということになる。例えば、クジ引きのような期待利得を考慮した場合、期待値の高い方を選択するのが好ましい。
しかしながら、人間は数学ではない。現実の人間行動は、こうした数学モデルからしばしば乖離する。とはいえ、数学には、リアルな世界を補完する役割がある。極めて主観性の強い世界を、客観性をもって調和させてくれるのだ。
本書は、戦略形ゲームと展開形ゲームの双方を組み合わせるような分析法を要請してくる。これらをうまく組み合わせた時、はじめて予測可能となり、予測を誤った時、戦略は空振りに終わる。
「どのような展開形ゲームについても、それに対応して、1つの戦略形ゲームが考えられる。その戦略形ゲームでは、実行すべき戦略を同時に選択する複数のプレイヤーが想定される。他方、一般に、ある与えられた戦略形ゲームに対しては、いくつかの異なった展開形ゲームを対応させることができる。」

2. 三すくみの均衡
均衡の関係では、まず「三すくみ」という状態を思い浮かべる。天文学は二体問題を簡単に解き明かしてくれるが、三体問題となると極端に難解にしやがる。
ジャンケンのルールも、三すくみの状態を基本とする。この状態では、「毒を以て毒を制す」の原理が働く。つまり、蛙、ナメクジ、蛇のような三つ巴の関係だ。三角関係が一筋縄ではいかないのも道理である。そして、揉め事が渦巻く状態もまた、ある種の均衡状態なのである。
さて、ナッシュ均衡とは、各プレイヤーがそれぞれの利益に目が眩むあまりに、自分の立てた戦略から離れられなくなるような状態とでも言おうか。この概念を説明するには、「囚人のジレンマ」という事例が分かりやすい。それは、警察官と二人の囚人の関係である。
いま、警察官が非常に疑わしい二人を逮捕した。だが、十分な証拠はない。そこで、別々の監禁室で司法取引を持ちかける。仲間を共犯者だと認めよ!と。どちらも相手を共犯者だと認めなければ告訴されず、拘留期限が切れるまで留置される。
しかし、片方だけが相手を共犯者だと認めた場合、認めた方は釈放され、反抗する方は最高刑が与えられるよう判事に進言する。また、両方が相手を共犯者と認めた場合は、二人とも刑務所に送られ、協力的だということで寛大な判決が下されるだろう。
最も良い結果が得られるのは、自分だけが共犯者と認めた場合。二番目は、二人とも共犯者と認めない場合。三番目は、二人とも共犯者と認めた場合。最悪は、自分だけが共犯者と認めなかった場合だ。互いに最大利得を得ようとすれば、互いに首をしめることになり、妥協も視野に入る。
こうしたケースは、経済活動でもよく見かける。例えば、似たような製品を販売している企業が二つあるとする。競合企業よりも大きな利潤を得ようとすれば、宣伝戦略を強化して広告費を増額するという手もある。だが、競合相手も同じ戦略をとれば、ともに利潤幅を下げる。利潤の総和を減少させるとなれば、双方で談合という手もある。
また、互いに貿易相手である二国間の場合も。相手国の戦略が変わらないと考えれば、自国の利益を最大にするために、あらゆる種類の保護貿易措置をとることができる。だが、両国が保護措置を強化すると、やはり状況は似てくる。リカードの比較優位論も輝いて見えるというもの。
あるいは、租税優遇措置をとることによって、その地域の産業発展を競い合う二つの租税管轄区域を考える場合も。
競争の原理と「囚人のジレンマ」には密接な関係がありそうだ。
「実行可能で、かつ、効率的で、かつ、個人合理性を満たす配分は、どれでも、ナッシュ均衡であるということ...
主な論点は、ゲーム理論の経済学への多くの応用においては、複数のナッシュ均衡からどれかを選び出すには、後ろ向き帰納法や前向き帰納法といった精緻化に依存してそれが行われるということ...」

3. 両性の闘い
物語は、晩をどのように過ごすかを決める夫婦の物語。夫はボクシングの試合を見に行きたい。妻はバレイ鑑賞に行きたい。二人とも一緒に行く方が楽しいと思っている。協調の動機が優先される場合はどうだろう。その場合、夫婦間の力関係で左右されるので、外野は多くは語れない。
こうした関係は、競合する企業で市場を分け合うような状況と似ている。例えば、互いに補完財を生産する場合、できることなら共通の規格を採用したい。災害対策なども考慮すれば、社会的には独占的な体制よりも、互いに補完できる体制を整えておいた方がいいし、行政もそのように指導するだろう。最大利益で考えがちな従来式の経済学では、なかなか説明の及ばない領域である。
このような動学的な競争モデルには、戦略形ゲームだけでは説明が乏しく、展開形ゲームを考慮する必要がある。独占企業や寡占企業は、常に新規参入の脅威に晒される。独占や寡占とは、亭主関白や嬶天下のような状況というわけか。
企業戦略では、目先の利潤よりも将来的な成長戦略が重んじられる。では、将来的とは、どのくらい先を言うのだろう?それは企業によって様々であり、定量化することは困難である。これが、経済学の編み出したあらゆる公式の弱点、すなわち、数学の弱点と言えようか。そして、短期的な独占と長期的な共存と、どちらが合理的か?と考える企業経営者が業界にどれだけいるかが問われよう。

4. 独占や寡占における競争モデル
「フォン・シュタッケルベルグ」のゲームという市場価格ゲームを紹介してくれる。プレイヤーは先導者と追随者で構成され、先導者が市場の価格を決定できるような状態にある場合。まず、独占者が生産量をある水準にコミットすることができると想定する。独占者が先導して生産量を選び、参入者はこの生産量を見極めて参入するかをどうかを決める。この時、独占者がどれだけ生産量を調整すれば、どれだけ新規参入者が増えるか?といった情報を知っているかが鍵となる。
また、「クールノー均衡」という複占企業の競争モデルを紹介してくれる。フォン・シュタッケルベルグのゲームで参入が決定されると、この均衡状態へ移行することが想定される。互いに利得最大化を目論んで、相手の生産量が変化しないと予測し、自社の生産量を減らして価格を釣り上げようとする。
そして、両者はナッシュ均衡の状態に落ち着きそうだが、そう結論づけることも微妙だ。というのも、生産の動機には、生産物や生産活動に対する信念や哲学も関与する。そこには、社会的貢献という動機も含まれる。人間の長期的な行動パターンには、この動機が大きく影響するものと思われる。
さらに、長期に渡って生産の正当性を握ってきた先導者は、政治力を持った者と癒着していることも想定できよう。政府の規制による脅し、あるいは、免税といった優遇措置などの条件が加われば、さらに複雑なゲームとなる。
どんな業界でも、たとえ競争原理が平等に働いているように見えても、人間のやることだから、そこには必ず力関係が生じる。新規参入の余地は業界に活気を与える要素でもあり、業界にとっての合理性を担保できなければ、業界全体が先細りとなろう。

5, フォーク定理と情報経済学
囚人のジレンマのような状況を繰り返しているうちに、やがて協調という均衡がもたらされる場合がある。これが、「フォーク定理」というものらしい。共倒れは、ごめんだ!というわけだ。
嫉妬心や復讐心ってやつは、人を先細りにさせる。駆け引きと緊張から、協力へと収束するならば、これぞ合理的社会というもの。目先の利益から長期的な利益を模索した結果、長期的な妥協という見方もできる。激烈な価格競争に疲れた時の無限級数的な収束点だとすれば、レッドオーシャン戦略からブルーオーシャン戦略への移行という見方もできそうか。そのために相手のプレイヤーの本音を知ることが重要となるが、相手の本音を知るということは自ら本音を晒すことでもあり、ここにも囚人のジレンマのような状況が起こる。情報の非対称性の中で事はうごめく...

6. オークションの法則
競争入札では、出品する側が有利になるという。なぜなら、入札する側は最大コストを支払うことになるから。入札したければ、金額が提示される度に上乗せしていかなければならず、ポーカーでレイズしていくようなもの。入札者は勝利して満足するものの、高値をつかまされた格好だ。それ故に「勝者の呪い」と揶揄される。仮に出品者と結託して、価格の釣り上げ役がいるとしたら...

2017-07-09

"グラハム・ベル空白の12日間の謎" Seth Shulman 著

状況が混沌とすればするほど政治力がものをいう。人間社会とはそうしたものだ。悲しいかな、真に技術に執心する者ほど政治に関心が薄く、そうした策謀に疎いものである。電話を発明した人は誰か?と問えば、真っ先にアレクサンダー・グラハム・ベルの名が挙げられる。理科の教科書や子供向けの伝記物語、そして権威ある学術書に至るまで。特許を巡っては、イライシャ・グレイとの争いが知られているが、グレイの出願が数時間遅れたことが不運な野呂間とされ、歴史からその名は消えた。歴史とは無残なもので、一番でなければ抹殺される運命にある。bell(鐘)という名が、電話により一層インパクトを与えたのかは知らん。
しかしながら、産業革命がもたらした発明の時代とは、一攫千金の時代。けして一人の発明者が崇められるほど単純な時代ではなかったはず。ましてや通信業界は、自由精神を体現するツールとして強力なだけに、そこに政治力が関与すると、いびつな世界にしてしまう。おまけに、儲け話が絡めば野心家どもが群がるは必定。実際、ベルが創設に関与した AT&T の前身ベル・テレフォン・カンパニーは、世界最大の収益を独占した。今日の特許闘争でも、争っている当人たちではなく、第三者のものではないか?といった多くの疑問が投げかけられる。
「歴史の勝者は、物事がどのように記憶されるかをコントロールするのに最適な立場にいる。」

サイエンス・ライターのセス・シュルマンは、ベルの実験ノートを見て腑に落ちない点を見つける。12日間の空白... そして、突然わいて出たアイデア... これが天才のなせる業!と片付けてしまえば、それでお仕舞い。
しかし、シュルマンはベルの足跡を執念で追い、そこに渦巻く政治的思惑を突きとめる。神格化されたベル伝説の裏に、法律家ガーディナー・ハバードたちの限りなく疑わしい陰謀があったことを。
ベルの資料が米国議会図書館で見事な目録まで添えられるのに対して、グレイの業績に関する文献は数も少ない。そんな不利な状況でも、グレイが受けた不当な仕打ちを明らかにしようとしたロイド・テイラー博士のような人たちがいる。テイラーは、グレイの親族から長年忘れられてきた書類の山を引き取っていたという。その意志を引き継いだシュルマン。事実を細い糸でつなぎ合わせれば、まさに糸電話の伝言ゲーム... ベルは電話のアイデアを盗んだのか?
とはいえ、歴史を完全に明るみにすることは不可能であろう。真相を知るのは当事者だけであるばかりか、当事者ですら分かっていないこともある。当時の電信から派生した電話にしても、さらに派生したインターネットにしても、人間社会でこれだけ恩恵を受けていれば、誰が発明者だ!などと権威を振りかざしたところで詮無きこと。この物語は、いわばベル崇拝者へ叩きつけた挑戦状と言えよう...
「電話の発明に関するこの研究で、わたしが何かを学んだとすれば、それは、歴史というものは、常に挑み、問いたださねばならないということである。この点で妥協すれば、世代から世代へとささやかれる歪められた物語を暗黙のうちに受け入れてしまうことになり、その結果、まるで小どもが電話機を真似て遊ぶ伝言ゲームのような状況に陥ってしまうだろう。」

ベルの実験ノートは、高解像度デジタル再生画像としてネットに公開された。インターネットで情報検索する利便性は驚異的で、いまや大概の知的情報が入手できる時代となった。ただ、あまり便利な環境を提供してくれるがために、現地に行ってまで調査しようという気分が起こらないのも事実で、おいらのような面倒臭がり屋には実に都合のいいツールである。言い換えれば、一度真実という地位を獲得すれば、勝者になれるという恐ろしいツールでもある。インターネットには実に多くのヒントが埋れている。にもかかわらず、なかなか自分の目で見ようとはしない。こうしてブログを書いているおいらも、この一冊を読んだだけで分かった気になろうとしている。
一方、ここで紹介される実際に多くの資料館を訪れる様子は、推理小説バリ!シェルマンはインターネット上にある一つの仮想知識を現実知識へ変えてくれた... というのは、ちと大袈裟であろうか。
「ベルに名声をもたらした有名な物語が、史上最もおぞましい剽窃の中心人物として彼を永遠に留めるものになっているのだ。」

1. アイデアは盗まれたのか?
電話の基本原理は、リード線を振動させて電磁石の接触と非接触の状態を交互に繰り返すことによって、振動周期に対応する断続電流を生じさせるというもの。この断続電流は、電信線を伝わって離れた場所にある受信機のリード線を共振させる。
ちなみに、これを制御するための開閉回路は、今日では可変抵抗回路と呼ばれ、重宝されている。この可変抵抗の原理を、最初に理解した人物という意味では、ベルは賞賛に値するだろう。だが、発明家が問題とするのは、現実に振動させる方法である。
グレイが考案したのは、送信部の導線を液体中で振動させるという液体送信機だったという。ところが、ベルの実験ノートには、こうした液体を試すといった徴候がまったく見られないばかりか、ベルがイギリスに送った出願特許にも、可変抵抗に関するパラグラフが含まれていなかったという。なのに、アメリカ特許庁への出願直前に、とってつけたようにグレイの構成図が描かれていたとか...
「発明者が、自分の発明の要となる特徴を、最後の瞬間まで見落としているなど、あまりに妙ではないか?」
こんな見え透いた剽窃行為を認めたとなれば、ベルの不手際というより、米国特許庁の不手際を明るみにする事件となる。ベルの特許が「電信の改良」であるのに対して、グレイの出願は「電信によって音声を送受信するための装置」で、後者の方が電話を意識した題目である。ベルにとって電話は、派生的な玩具としか考えていなかったのかもしれない。ベルが名付けた「多重電信」とは、複数のメッセージ周波数を互いに干渉しないように同時に送受信するというもので、現存の電信をより商業的に活用するという意味で政府や企業からの圧力が強かったと見える。
テイラー博士は、数々の未発表文献から、ベルがグレイの液体送信機の構成を盗用したと確信したという。グレイは、ベルよりも一年も早く、かなり洗練されたミュージカル・テレフォンの受信機を製作して、公で演奏していたらしい。そして、博士はグレイを可変抵抗の原理を実際に機能させた最初の人物と結論づけている。本書も、この結論に吸い寄せられるように未公開資料を辿る。しかし...

2. 人徳者がなぜ?
あまり知られていないが、エジソンとベルは同年齢で、1847年に12日違いで生まれたそうな。二人は、性格も生い立ちも、発明に対するアプローチもまったく違い、激しく競い合ったこともあまり知られていないようである。
エジソンは、短気な独学者で白熱電球を発明し、実験派として知られる。
対して、ベルは、ボストン大学で教鞭をとり、洗練された貴族のような雰囲気の持ち主で、理論が実験的研究を先導すべしとする理論派だったという。また、ヘレン・ケラーにサリバン先生を引き合わせた逸話に象徴されるように、聴覚障碍者の熱心な教育者としても知られる。本書に紹介される知人たちの証言にしても、ベルの評判はすこぶる良い。
そんな人格者がなぜ?ただ、人徳者や正直者というのは、政治屋どもに利用されやすい側面がある。ベルの運命を変えたのは、妻メイベルとの出会いであったのかもしれない。ベルは、聴覚障碍者学校の生徒メイベルに恋をする。ベルの純粋さは、彼の日記、助手ワトソンの証言、メイベルや彼女の母親に送った手紙からも見て取れる。
だが皮肉なことに、メイベルの父ガーディナー・ハバードは辣腕弁護士で有能な実業家であった。ベルは開発スポンサーとしてハバードに頼ろうとするが、逆に野心に飲み込まれてしまう。
そして、特許審査官ゼナス・ウィルパーを抱き込むよう画策した証拠が浮かび上がる。ウィルパーの宣誓供述書には、金銭の受け渡し、非公開のグレイの仮特許を見せるよう強制されたことが記される。だが、彼はアルコール中毒を自認しており、法的な価値は失われたようである。そもそもグレイが最初に申請したのは仮特許であって、公開される類いのものではない。なのに、ベルとグレイがやり取りした手紙の中で、ベルは仮特許の詳細についてうっかり漏らしているらしい。ベルの特許は、実際に動作するものがないにもかかわらず出願され、しかも異例の速さで承認された。
さらに、ハバードの画策は続く。1876年、アメリカ独立百年祭のフィラデルフィア万博で、錚々たる審査員の前で実演させた。客観的に見れば、技術的にはグレイの実演が優っていたようだが、高い評価を受けたのは実演をうまくやったベルの方であった。政治的な振る舞いが奏功したものの、ベルには憂鬱な気分が残る。
「生涯を通して、ベルは聴覚障害の問題に深い関心を抱き続けました。実際、このうえなく謙虚で人間性にあふれる人物だった彼は、自分は電話の発明者としてよりも聴覚障害の教師として人々に記憶されたいと家族に話していました。」

3. 先人たちの功績
1878年、ベルと同時代の電気研究者ジョージ・プレスコットは、「しゃべる電信機、、会話する蓄音機、そしてその他の新奇な装置」という本を出版したという。
1939年、電気技術者ウィリアム・エイトケンは「誰が電話を発明したのか?」という本の中で電話の歴史を再検討したという。
さらに、1995年、ルイス・コーは「電話とその数名の発明者たち」の中でこのテーマを再度取り上げているという。
これらの研究者たちの一致した意見では、物理学者で内科医チャールズ・グラフトン・ペイジの貢献が賞賛される。1837年、ペイジは電磁石に流れる電流を素早く遮ると、電磁石が音を立てることに気づいたという。この効果を「電気音楽」と名付け、電流を遮断する速さを変えると音が変化することを発見したとか。ベルが生まれる十年前である。
ヘルムホルツも自身の音響理論を検証するために作った音叉音響器に言及しているというから、当時、音響と電気を結びつける研究がいかに魅力的であったかを物語っている。
また、1854年、チャールズ・ブルサールの論文「電気による会話の伝送」には、電気回路を開閉することで音声が伝達できる原理について驚くほど的確に記述されているとか。
さらに、1883年、シルヴァヌス・トンプソンは、「フィリップ・ライス : 電話の発明者」でライスの業績を広めたという。ライスは控え目な性格で、あまり裕福ではなく、政治力のある人間とも、科学の専門知識を持つ人間とも、繋がりがなかったという。つつましい学校教師という境遇では、世間の注目や賞賛を集めることは叶うまい。対して、グレイはアメリカで第一級の電気技術者として名を馳せ、実力者たちとも強い結びつきがあり、弁護士を雇えるほど裕福であったというから、発明戦術家としてはやはり野呂間だったのだろうか。
ベルの世代は、なかば漁夫の利を得た格好である。

4. 電話誕生秘話と厄介な文献
「ワトソン君、ちょっと来てくれたまえ!」
電話で最初に交わされたとされるこの言葉は、ロマンチックな誕生秘話として語り継がれる。だがこれも、ニュートンの万有引力の発見にともなうリンゴ伝説のごとく、誰かが盛り上げるために加えた神話の類いか。ディブナー科学史研究所の所長代理ジョージ・スミスは、こう述べたという。
「教科書の著者たちは、科学の記述に関しては誤りを避けようと大いに努力するのに、その周辺の歴史についての記述となると、実際の歴史資料を参照してチェックする労を取らずに、ほかの教科書の記述をそのまま使ってしまうことが多いようだ。」
また、高く評価された厄介な文献も紹介してくれる。1973年出版のピューリッツァー賞を受賞した歴史家ロバート・ブルースの著作「孤独の克服 - グラハム・ベルの生涯」である。ブルースは、グレイこそベルのアイデアを盗んだとして非難しているという。その書きっぷりは自信に溢れ、いかにも権威があると。さすがピューリッツァー賞!

5. ダウド裁判
ウエスタン・ユニオンは、グレイやエジソンをはじめとする数名の発明家から電話に関する一連の特許ライセンスを受け、法的な権利を確保したと主張して子会社を通じて電話のサービスを提供しはじめた。
対して、ベル・テレフォン・カンパニーは、ウエスタン・ユニオンの電話事業を停止させようと、ベルの特許権を主張し、子会社の社長ピーター・ダウドを訴えた。そう、ダウド裁判である。当然ながら、この法廷はベルとグレイの対決の場となる。
当時、当事者全員が公判前に宣誓供述書を作成するように義務づけられていたという。ハバードはベルに供述書を書くよう求めたが、ベルはそれを拒んだとか。ベルが電話に対する排他的権利を主張しない限り、ベル・テレフォン・カンパニーは裁判に負ける公算が高い。しかし、ベルは何度催促されても応じようとはしない。わざわざそんな時期に妻と旅行に出かけているのも、気持ちが伝わる。結局はハバードの説得に応じ、何度も証言台に立つことに。ベルは、この裁判を転換期に電話の研究を放棄したという。そして、妻メイベルへの手紙にこう綴ったとか...
「電話の恩恵を受けていられる以上、誰がそれを発明したかなんて、世間には関係ないはずだ。そのためにこそ骨身を削って働いた目標のものを手に入れた以上、つまり、わたしの大事ないとしい妻である君を獲得できた以上、世間が電話のことを何と言おうと、わたしには関係ないはずだ。」

2017-07-02

初体験!博多港クルージングパーティ...

先週日曜日、バーの五周年パーティで博多港マリエラ・クルージングを体験させていただいた。マスターとは、彼の中洲デビュー当時からの付き合いで、二十年くらいになろうか。お酒の弱いバーテンダーはよく見かけるが、彼はその中でも弱い。その分、デリケートなお酒を作るとも言えそうか。いや、最近はお弟子さんに任せっきりか...
地下とはいえ、中洲のど真ん中に店を構え、そして独立五年目で船を一隻チャータし、百人以上詰めかけたという次第。短い期間で、こんな立派な催しが企画できるとは、大したものである。
ちなみに、おいらも今年で独立十五周年。十周年には、ささやかな酒席を催したが、いつもの飲み会と何が違うんだって突っ込まれる始末であった...




ところで、日曜、祭日といえば、どこへ行っても人が多い上に、行付けの店が総閉まり。なので、天の邪鬼の休日は世間とは真逆である。連休には存分に集中して仕事をし、年末には除夜の鐘が BGM で鳴り響き、年が明けた瞬間にも気づかない。仕事は半分趣味のようなもの。電子回路設計なんて、ちまちましたことは、好きでもなければ、やってられんだろう。
そして、イベントが日曜日にあるということで、出席するか?ちと悩んでしまった。バーテンダー仲間では、その方が都合がいいようである。最近、騒々しい飲み会は、たいてい欠席するようにしている。歳のせいか、優先順位を気にするようである。
しかし、だ!クルージングとなると、話は違ってくる。人生で優先すべき事は何か?今の仕事は、それほど重要な事か?と問えば、答えはすぐに見つかる。初体験!という言葉の響きには、いくつになってもワクワクさせられるものがある...




案内状に、ドレスコードは赤!
何か一つ赤いものを身につけて... とのことなので、ワインレッドの裏地に、ブラックラベル風の着物でチラリズムを演出する。ただ、上品な海上(会場)で裏地を見せる機会があるはずもなく、わざわざ自分でめくってアピール。なんて上品な客だろう。千鳥足には船の揺れで相殺させ、赤ワインに酔った体もしっかりとした足取りに見えるという寸法よ...




音楽の演出は感動モノ!
お酒や食事が華やかなのは想定内だとしても、音楽の演出には感動した。ピアノ、バイオリン、ハープに、アルゼンチンタンゴの楽器バンドネオンのライブ。惚れっぽいおいらはイチコロよ。バンドネオン演奏者の川波幸恵さんは、2016年世界チャンピオンだそうな。CDも発売され、9月にもコンサートがあるというので、さっそくチケット状況をググる。
何に感動したかって、選曲が... なにしろ仕事で BGM にしている曲のオンパレード。そして、"You Raise Me Up" が奏でられた時、つい陶酔してしまう。いや、泥酔か。どうやら、おいらの仕事のリズムは、船の揺れにマッチしているらしい。
てなわけで、マスターには悪いが、パーティそっちのけで最前列で聴き入ってしまう。まさに人生の優先順位を謳歌したひとときであった...