2008-09-28

"ナポレオン言行録" ナポレオン・ボナパルト 著

前記事でニーチェを読んでいると、学生時代、独裁者の心理に興味を持っていたことを思い出す。本書に出会ったのは20年以上前。コニャックを飲みながら本棚を眺めていると、なんとなく読み返したくなる。
一般的に呼ばれる「ナポレオン戦争」は、人類史上初めての世界規模の戦争と言える。アル中ハイマーは、これこそ第一次世界大戦と呼ぶに相応しいと思っている。だが、あえてナポレオンその人の名で呼ばれるところは、それだけインパクトのある人物であったことの証であろう。その影響範囲はアメリカや極東にまで及ぶ。ナポレオンは、フランス領ルイジアナをアメリカへ売却し北米大陸から撤退した。中南米のフランス領およびオランダ領はことごとくイギリスによって攻略された。そして、イギリス海軍による海上封鎖によって米英戦争が勃発する。長崎で起きたフェートン号事件も、ナポレオン戦争が波及したものと言える。当時、そうした興味から本書を読んだはずなのだが、その印象はジョゼフィーヌへのラブレターのオンパレードということぐらいしか残っていない。不貞の女性がそこまで愛される資格もないのだろうが、不安、悲しみ、希望など愛にあふれた詩が綴られていたように記憶している。ところが、今読むと、愛妻への手紙もさることながら、戦争を続けなければならなかった心境や、彼の理想としたヨーロッパ観が描かれていることに感動してしまう。特に、セントヘレナでの回想は、文人ナポレオンの姿が現れる。素朴な心情に、威風堂々としながらも風流。自らの思想の気高さを語り、時には自らの手段の誤りを認める。もはや、表舞台がなくなる運命にあると、自らの回想録に浸るしかないのだろうか。最高潮な時ほど見えないものも多いが、流人の身ともなれば率直な姿や、自らを美化した姿も見えてくる。そして、ナポレオンは歴史家となった。また、ローマ皇帝を擁護している部分もある。ローマ皇帝たちはタキトゥスが中傷するほど悪い人間ではなかったと語り、尊敬の念も抱く。こうした回想場面は、全く記憶に留まっていないので、新鮮な書物として読める。これも記憶領域の破壊されたアル中ハイマーの特権なのである。

本書は、岩波文庫で絶版となっているようだ。もったいない!原標題を「ナポレオンの不滅の頁」と言うらしい。そこには、手紙、布告、戦報、語録など厳選されたものが並び、ナポレオンの自筆によって残された生々しさがある。編集者オクターブ・オブリ氏によると、ナポレオンの文章には、イタリア風なところもあるという。ナポレオンは、フランス語とイタリア語を操り、フランス語に当てはまらない言葉をイタリア語に求めている。ただ、思想も文章もイタリア的ではなく、フランス的で省略や簡潔なところもあるが、これは、フランス語固有なものだという。軍人の布告の中にも詩人としての姿を現す。また、自らを解放者と呼び、その傲慢さには見事な独裁者振りがある。ナポレオンは新聞の重要性を理解していた。フランス革命も新聞が無ければ成り立たなかったかもしれない。彼は新聞を監視し鼓吹する。そして、世論を惹きつけるための論説も書いている。政治家が偉業を成し遂げるためには、詩的な風格と傲慢さの両方を具える必要があるのだろう。偉大な行動には、一種の興奮状態になることもある。詩的でなく、高揚のセンスを欠き、知識や視野の狭い政治家は、つまらない政治屋ということか。精神の詩人は多くの書物で見かけられるが、ナポレオンは政治や戦争を通しての行動の詩人と言える。

ヨーロッパのこの時代は、一時的とはいえ世論の支持がないと独裁者として君臨できないはずである。にも関わらず、ナポレオンという独裁者の出現を許したのはなぜか?フランス革命が起こりブルボン王朝は崩壊する。しかし、革命後の共和政はすぐに恐怖政治へと変貌する。こうなると、歴史の振り子は王政復古へと振れそうだが、そうはならなかった。それも、人民の王家に対する反感が根強いものだったのかもしれない。君主制を避けたからといって独裁者が出現しないわけではない。また、共和政と民主政を比べるべくもないが、現在においても、マスコミなどの世論扇動によって恐怖政治のような流れを感じることがある。大衆は感情に流されてきた歴史がある。こうした光景は、どんな政治体制であっても、人間に内在する本質なのかもしれない。民主主義を永続させるためには、民衆が世論扇動に惑わされないように思考するしかない。ところで、近代民主主義に独裁者が出現する可能性はないのだろうか?ゲーデルは合衆国憲法の条文で独裁者が現れる可能性を指摘したという話を読んだ覚えがある。人類の発明した言葉による条文によって、論理的矛盾を完全に解消できるとは信じていない。戦争放棄を謳ったところで、戦争を完全に回避できるわけではない。歴史には平和主義者によって戦争を招いた例も多い。そこで、条文を補完するための慣習が必要となる。人類は未だ恒常不変の善悪を知らないのだから。

1. ラブレター
やっぱり、妻ジョゼフィーヌへの手紙が多い。自らの名誉へ執着するのは、彼女が名誉へ執着しているからだとか、戦場で早く勝利しようとするのは、彼女に一日でも早く会うためだとか、手紙をくれないことを嘆いたり、まるで片思いかのような必死さが伝わる。本書で一番多く登場する単語は、「ジョゼフィーヌ」であろう。そこには、皇后のためなら二十万人を犠牲にしても構わないなどという傲慢さが表れる。ナポレオンは、妻ジョゼフィーヌとの間に子が生まれないのは、自分の能力のせいだと疑っていたようだ。家族会議でも、ジョゼフィーヌとの間に子ができないことを精神的苦痛であると語る。そして、愛人マリア・ヴァレフスカ伯爵夫人との間で子供ができて、離婚を決心したと言われている。ちなみに、ジョゼフィーヌは、ナポレオンとの結婚が再婚で連れ子もいた。不貞も多かったと言われる。離婚後、オーストリア大公の娘マリ=ルイーズと再婚し、ナポレオン二世が誕生する。当初、ルイーズはナポレオンとの結婚を望まなかったが、宰相メッテルニヒの策略で実現したという。そして、二人の皇后への書簡が続く。なかなかマメなおっさんである。もし、この時代にインターネットがあったら、戦争中に嫁さんとチャットしている光景が目に浮かぶ。

2. 皇帝としての立場
ナポレオンは、帝政時代、ヨーロッパにおける自らの地位について語る。そこには、戦争を持ちかける心理がうかがえる。当時ヨーロッパでは、五つか六つの名家が帝位や王位を分け合っていた。それぞれの名家は、一介のコルシカ人が帝位の一つについていることに我慢できない。これら名家に対抗するためには、ナポレオンの恐怖下に置くことのみが、彼らと同等の立場を維持できる。ナポレオンという皇帝が、恐れられる者でなければ、フランス帝国は滅ぼされると考えていた。ナポレオンは、他国の企てを監視し鎮圧せずにはいられない。他国から威嚇されれば反撃せずにはいられない。古い家柄の王にとっては些細な事でも、ナポレオンにとっては存亡をかけた重要な問題となる。もし、息子が同じ態度を取り続けなければ、簡単に帝位から失脚するであろう、と語るあたりは、一つの君主制を固めるためには一人の人間では成しえないことを理解していたとも言える。ルイ14世にしても、長く続いた王家の継承者でなければ、簡単に王位を失っていたかもしれない。ナポレオンにとって、自身の存続やフランス帝国の存亡が、侵略戦争にかかっていた。

3. フランス革命を回想
イギリスは、数々の植民地の喪失、特に北アメリカの独立について、ルイ16世を赦していなかったという。ルイ16世は、高慢な政策によって、フランス海軍を世界第一の列に押し上げた。もし、フランス革命が起こらなかったら、ルイ16世によって英仏両国で通商貿易を独占し、両国民の恩人となるはずだったという。フランス革命は、初期においてルイ16世の庇護の下に進行した。ところが、民衆が宮殿を囲み、王が侮辱された事件が起こる。これは、フランス人によってのみ惹き起こされたのではなく、イギリスの悪しき助言があったという。その後、ルイ16世はヴァレンヌへ逃亡。これは裏切りとされ、王位を転覆させようとした少数派の餌食とされた。コブレンツにおける亡命軍の集結、ピルニッツの会議、滑稽なプロイセンとの戦争、更に滑稽なのが組織されていないフランス軍を前に退却したプロイセン軍、これらが、革命熱を最高潮にした。そして、立法議会から、国民公会の時代へと移り、革命を恐怖政治へと変貌させた。イギリスは、こうしたフランスの破壊的徴候を見て喜んだ。しかし、イギリスは敵を見誤ったがために、革命の気運が飛び火した。ルイ16世の処刑という暴挙を傍観していると、共和国という恐ろしい力が起こる。イギリスはフランスを圧殺しようと、ヨーロッパに莫大な軍援助金をばらまいたが、その負債を各国は冷ややかに見ていた。プロイセンはイギリスから離れ、ロシアは遠く見守っていた。ただ、オーストリアだけが復讐すべき侮辱を受けていた。エスパニアは、おのが利益のためなら血縁関係をも犠牲にする。イギリス首相ピットの反革命戦略は、オーストリアと神聖ローマ帝国といったゲルマン諸国のみがささえていた。キブロンでは、ブルターニュ海岸から身を投げた亡命者や銃殺された亡命者を、イギリス艦隊は傍観した。ピットはイギリス議会で、こうした政策の犠牲になった者たちを持ち出されると、イギリス人の血が流されなくて良かったと答えたという。キブロンの出来事は、フランスにとってのみ不幸をもたらし、イギリスにしてみれば金がかかっただけであると語る。

4. ナポレオンの理想
ナポレオンは、ヨーロッパを一つの世界帝国として再構築する理想を掲げていたようだ。アウステルリッツで勝利した時、アレクサンドルを捕虜にもできたが自由の身にした。イエナで勝利した時、プロイセンの王家に王位を残した。ヴァグラムで勝利した時、オーストリアの君主国を分割することを怠った。これらを、寛大処置として非難されても仕方が無いと振り返る。それは、もっと高い思想に憧れ、ヨーロッパ諸国の利害の融和を夢見ていたという。人民と王たちを和解させようという野心を抱いていた。そのために、王たちの支持も必要とした。人民による非難も覚悟の上だったが、自らを全能だと信じていた。エスパニアについては、後方に放置した事で、イエナでの対戦中、宣戦布告された。この侮辱を罰するべきだった。勝利の疑いもなかった。しかし、この勝利の容易さが逆に迷わせた。エスパニア国民は政府を軽蔑していたので、平和裡に改革ができると信じていた。そこで、自由主義的な憲法を与え、ナポレオンの兄弟を王に据えた。これはエスパニア国民から反感を買う。彼らの王朝を変えるべきだと思ったのは軽率だったと語る。ポーランドについては、再建しなければ、オーストリアとプロイセンは、依然として世界最大のロシア帝国に立ち向かわなければならない。1812年には、オーストリア、プロイセン、ドイツ、スイス、イタリアはフランス軍旗の下に進軍していた。もし、ロシア遠征で勝利していたら、ヨーロッパにおける百年の平和問題は解決されていたと主張する。しかし、そこにはフランス帝国が第一であるという前提がある。あらゆる独裁者たちは、ことごとく同じ論理に辿り着くようだ。自らが中心となって...という論理である。

5. 自画像
ナポレオンは、自己防衛のためにしか、決して征服を行ったことはないと主張する。そして、フランスは、無政府状態にあり、共和国を救うために独裁者が必要であったと語る。ヨーロッパはフランスの諸原理のためにフランスと戦うことを止めなかった。打倒されないためには、打倒するしかなかった。平和な時であれば、独裁は行わず憲法による統治を進めていたという。また、自らの行動を、当時のヨーロッパで最も自由主義的なものであったと主張する。無政府状態の溝を埋め、革命の汚れをすすぎ、民衆を栄光へ導き、王たちの地位を固めた。もはや、歴史家は、自分を批判することなどできないと語る。更に、ナポレオンは自問する。自分がどこから来たのか?どういうものか?どこへ行くのか?この神秘的な疑問が宗教へと走らせる。そこで、教育が待ったをかける。宗教にとって教育と歴史は大敵であり、宗教は人間の不完全さによってゆがめられる。ナポレオンでさえも信仰には逆らえない。盲目的に信じられれば幸せであろう。ナポレオンは言う。イエスが神になれたのは十字架の上で死んだからである。世界平和のために、ナポレオンもルソーも生まれてこなかった方がよかったのだろうか?それは未来が教えてくれるだろうと。

6. ナポレオンの戦争論
本書には、あちこちにナポレオンの戦争論がちりばめられる。それは、クラウゼヴィッツの「戦争論」を思わせるところがあって興味深い。その言葉を拾ってみよう。
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避けられない戦争は常に正戦である。あらゆる攻撃的戦争は侵略戦争である。作戦計画は前提や状況に応じて無限に変化する。軍学とは、戦地にどれくらい兵力を投入できるかを計算することである。軍学は、好機を計算し、次に偶然を数学的に考慮することにある。しかし、こうした科学と精神の働きを一緒に持っているのは天才だけである。創造のあるところには、常に科学と精神の働きが必要である。偶然を評価できる人物が優れた指揮官である。指揮をする術を知るためには服従する術を知らなければならないというが、40年間服従することしか知らない人間は、もはや指揮能力はない。60歳を過ぎた将軍があってはならない。名誉ではあるが、何もすることのない地位を与えるべきだ。作戦会議を重ね過ぎると、最悪の策が採られる。最悪な策とは最も臆病な策である。戦闘の翌日に備えて新鮮な部隊を温存しておく将軍は敗れる。将軍は常にその場に居るべきである。ガリアを征服したのはローマ軍ではなくカエサルである。ローマを恐れさせたのはカルタゴ軍ではなくハンニバルである。ヨーロッパ最強の三大国から、プロイセンを7年間防衛したのはプロイセン軍ではなくフリードリヒ大王である。フランス軍が最強なのは下士官が引っ張るからである。対等な立場だから、下士官は兵卒を傷つけない。仕官たちが亡命し、下士官が将軍や元帥になったから無敵なのである。フランスの兵隊は他の国の兵隊よりも統率が難しい。それは機械ではなく分別ある連中だからである。フランスの兵隊が議論好きなのは、頭がいいからである。彼らは作戦計画と機動演習とを議論する。そして、作戦行動を是認し、指揮官を尊敬していれば、どんなことでもできる。だが、その逆の時は失敗する。退却の術はフランス軍には難しい。敗北は隊長の信頼を失い、命令に反抗する。ロシアや、プロイセンや、ドイツの兵隊は、義務観念から持ち場を守るが、フランスの兵隊は名誉観念から持ち場を守る。前者は敗戦に無関心だが、後者は敗戦に屈辱を感じる。国民的栄光と戦友の尊敬よりも、生命を大切にする者はフランス軍の一員になるべきではない。
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2008-09-21

"ツァラトゥストラはこう言った(上/下)" ニーチェ 著

学生時代、新潮文庫版の「ツァラトストラかく語りき」を読んだ。もう20年以上前かあ。本屋を散歩していると、なんとなく岩波文庫版が目に留まる。そういえば、学生時代、独裁者の心理に興味を持っていた時期があった。その時、ニーチェに影響された独裁者につられて読んだのである。もしかしたら、アル中ハイマーのニヒリズムの原点は、この本にあるかもしれない。本書は間違いなく名著だ。だが、薦めはしない。今、酒樽の中から神託が下った。「汝は再び、これを買うであろう!」

そこには、国家は敵、親友は最大の敵、道徳や宗教を否定し、学者は嘘つき、詩人は口先だけ、聖職者は誹謗者、人間は生まれながらに死を運命づけられた死刑囚、といった御託が並べられる。「神は死んだ!」この言葉で象徴されるように、読み方を間違えると危険な思想に嵌りそうな香りがしたのを思い出す。純情なアル中ハイマーは、ニーチェのおかげで哲学恐怖症と宗教拒否症を患ったものである。それでも、人間の深層心理を鋭く抉る感覚には魅了された。それが今読むと不思議なことに癒される。それだけ邪悪な社会を見てきたということか?いや!単に精神が泥酔しているに過ぎない。どんなものであれ、出会った時の精神状態によって解釈が違うことがよくある。気づかなかった日常の幸福にも、やがて見落としていたことに気づく日がくるかもしれない。ただ、こういう本は、酔っ払いのお喋りが「かっぱえびせん」状態になるから困ったものだ。しかも、鏡の向こうの住人が、赤い顔をして「ああ気持ちええ!」と呟きながら延々と話しかけてくる。

アル中ハイマーの住む業界では精神病や脳卒中といった病を患う人が多いようだ。それが当人だけでなく、奥さんや家族に伝染するのは偶然だろうか?ちなみに、おいら自身が5年ほど前に脳梗塞と診断されたことがある。即日入院させられたが、厳密には一歩手前であろう。酔っ払っているお陰でまったく自覚症状がない。医者は騒ぎおるわい!ただ、看護婦さんに会える口実を与えてくれたことを喜んでいる。
哲学という一見高度に見える思考は、生きる上であまり役には立たない。哲学は苦悩する具体的な問題に何一つ答えてくれない。論理的な解明を深めると鬱病にさえなる。だからといって、それ以外に何ができるだろうか?できるだけ抽象的に語り、様々な解釈を思わせる可能性を示せば、そこには、崇高な地位へと押し上げる何かがある。これが哲学の極意というものだ。 絶望という名の希望は、生きる上で時々立ち止まり、そして、時々振り返ることの大切さを教えてくれる。本書には、絶望の末に到達したニヒリズムがある。

宇宙の存在意義とは、自らの精神を意識できる瞬間でしか意味がないのだろうか?魂が死んだらどうなるのか?人類が宗教を発明した理由の一つは、人生がこの世で終わるのでは、たまらない!と人々が願うからであろう。無神論者であっても、「あの世」とか、「天の声」といった言葉を使うものだ。ご都合主義の人間が、来世を信じるのも分からなくはない。いずれ、地球は死滅し、人類が死滅する日がくるだろう。そうなると、自分の生きた証どころか、人類の歴史が全て失われる。宇宙の歴史からすれば、人間など「うじ虫ども」の地位にしかない。偉大な生物の歴史では、一匹のプランクトンよりも役立った人間などいないのかもしれない。

本書は、この手の文献にしては珍しく注釈がない。文章も翻訳にしては分かりやすく、仏教的な用語に置き換えていると思われる部分もある。だいたい、この手の本が読み易いわけがない。直訳するとへんてこな日本語になるはずだ。訳者氷上英廣氏の意向が感じられる。こうした意図は、学術的な立場からすると許されないだろうが、酔っ払った凡庸な読者にはありがたい。
「ツァラトゥストラ」とは、古代ペルシャのゾロアスター教の開祖の名前である。ニーチェは、主人公にツァラトゥストラを登場させ自らの哲学を代弁させる。これは、矛盾した宗教への挑戦か?善悪を語る道徳への皮肉か?キリスト教をパロッた場面もちりばめられる。そこには、「人間は人間を克服しなければならない」と語り、「超人」と「永遠回帰」という二つの概念が語られる。凡人は生まれて死ぬものであり、無情な時間の中でもがく。だが、「超人」は、この時間をも克服してしまう。それは、自己目的で完結してはならず、時代のかけ橋となることを意味する。そのために自らの没落を勧める。没落とは自己犠牲とも微妙に違う。人間の最も恐れるものは退化である。それは、自らの意志を次の世代に受け継ぐことの意義を教えている。だが、精神や道徳は、何度試みては失敗し誤ったことか。人間とは単なる試みなのか?昔から受け継がれた理性によって、今もなお精神は錯乱する。「永遠回帰」は自己克服と成熟を求めるが、人類は物事の真理を探求しながら、未だに答えを見つけられない。人類は未だ恒常不変の善悪を知らない。そもそも、善悪は存在するのだろうか?人間を克服するとは、善悪の創造者になることである。そのために思考し続けるが、精神は迷い続け、永遠に矛盾と対峙する運命にあるようだ。

人生には悩みが付きまとう。生き甲斐なんてものは、思い上がりなのだろうか?謙遜という意志ほど難しいものはない。人間はなぜ生きようとするのか?そこには限りない欲望が渦巻く。幸福は、苦痛を忘れた瞬間に訪れる。その瞬間を作ってくれる芸術や音楽には、癒しの力がある。逃避的で消極的な幸福は、癒しの空間を与えてくれる。だが、ニーチェは、更に生きる苦痛を正面から受け止めよ!「勇気こそ人生の先史学」と訴える。消極的な幸福よりも、積極的に覚悟を決めることによって癒される何かがあるというのか?永遠に苦悩する勇気によって、次の瞬間に何かが悟れるとでもいうのか?それが「永遠回帰」ということか?本書は、人間を蔑み、人生を散々否定的に語っておきながら、それを直視し真理を探究し続けることにこそ、自己克服があると語る。自由な精神を獲得するには、究極まで思考し続けるしかない。だが、どうせ答えなど見つからない。真理には不思議な性質があって、近づこうとすれば逆に遠ざかる。まるでホットな女性のように。

さて、次の20年後に読み返すと、どんな解釈が得られるだろうか?その頃は何歳だ?今、16進数で20代だから...そのうち16進演算も怖くなりそうだ。次はモジュロ計算で生まれ変わるとしよう。
それでは、大作の中からストレス解消になりそうな愚痴っぽいところを、ほんの少し摘んで要約しておこう。なぜかって、そこに辛さの効いたカラムーチョがあるから。この辛さはビールのピッチをあげる。

1. 人間
ツァラトゥストラが愛する人間は、没落を願う人間、破滅に向かう人間である。ツァラトゥストラは病人には寛大だ。神を渇望する人々には、実に多くに病的な輩がいる。暗黒な時代では、信仰は妄想であり、理性は狂乱となり、冷静な懐疑は罪とされる。世界の背後には、救済と称した信仰が蔓延り血が流される。そして、戦争や闘争といった悪は必然となる。人間は、徳どうしの妬みや不信と誹謗からは逃れられない。人間は徳によって滅びようとする。かつて精神は神であった。やがてそれは人間となった。今では賤民にまでなり下がる。

2. 国家
国家は冷めた怪物である。国家は民族であると嘘をつく。民族には、善悪を表す言葉に風習と掟がある。国家があらゆる言葉を駆使して善悪を語っても、それは全て盗み取ったものだ。国家にひれ伏し拝むならば、この新しい偶像は人々に餌をばらまき、人々から美徳と誇りを買い取る。国家は余計な人間を生みだし、庶民の財産を盗み取る。この窃盗を教養と呼ぶ。中には人々を感情で逆なでする者もいる。これを新聞と呼ぶ。彼らは互いに貪りあう。この余計な人々は、富を手に入れ権力を欲する。だが、ますます貧しくなることに気づかず、王座を欲する。まるで王座に幸福があるかのように。だが、王座は泥に過ぎない。国家という新しい偶像を崇拝する者どもは、ことごとく悪臭を放つ。

3. 民族
地上において善悪ほど大きな力を持ったものはない。まず、民族が生きていくには、善悪の評価が必要である。どんな民族も隣国どうしで理解し合ったものはない。民族にとって手に入れることの難しいものが善である。民族を支配と勝利と栄光に導き、隣国にとって恐怖と嫉妬の的にされることが、高貴なものとなる。ギリシァ人は、他者よりも秀でることを美徳とした。ペルシァ人は、真実を語ること、弓矢に練達することが困難であると知りつつも好んだ。ユダヤ人は、父母を敬い、父母の意志に従うことを不滅とした。ドイツ人は、忠誠を尽くし、たとえ悪いことでも名誉と血を賭けることを教えとし、自らを強制した。民族にとって善悪の価値は自己を維持するために必要だった。だが、人類はいまだに共通の目標を見つけることができない。人類に目標がないのなら、人類そのものもまだ成り立っていないということではないか。

4. 自由な死
「ふさわしい時に死ね!」。これがツァラトゥストラの教えである。だが、ふさわしい時に生きたことがない者が、どうしてふさわしい時に死ねようか。ツァラトゥストラは言う。「余計な人々は、そもそも生まれてこなければよかった。」余計な人々は死をもったいぶる。全ての者が死を重大視する。だが、死はいまだに祝祭とまではならない。多くの人は、自らの真理をつかむ頃には、あまりにも歳をとり過ぎる。栄光を欲する者は、良い潮時に名誉に分かれを告げ、良い時に逝くという難しい術を習得しなければならない。あのヘブライ人イエスは、あまりに早く死んだ。彼がもっと長生きしていれば、おそらく彼自身の教えを撤回したであろう。撤回できるほど十分高貴な人間だったが、未熟なうちに死んだ。

5. 聖職者
生きるということは羞恥の連続である。他人を同情することで自らの幸福を確認する。自己を喜ばせようとすれば、他人を悲しませ困難や迷惑を与える。小さな悪行を楽しめば、大きな悪行をしなくて済む。裁判で裁かれれば、罪を償ったと勘違いして自らの罪を忘れる。聖職者たちは、あまりにも苦悩してきた。そのため彼らは他の者にも苦悩を与える。彼らの謙遜ほど復讐心に満ちたものはない。救済は、偽りの価値と虚妄の言葉を浴びせかける。彼らの神の愛し方は、人間を十字架にかけることしかできなかった。彼らは屍として生きようとした。自らの屍を黒衣で覆い、その説教からも死体置場の嫌な臭いがする。彼らの同情によって神は死んだ。教会は神の墓場である。

6. 有徳者
有徳者たちは、なぜ徳に対する報酬を受けるのか?徳はそれ自体が報酬ではないのか?徳には、報いと罪という嘘っぱちが持ち込まれる。有徳者は、自らを高めるために、他人を低める。徳は必要だと叫ぶより、警察は必要だと叫んだ方が説得力がある。名高い賢者たちは、大衆に奉仕し、迷信に奉仕してきたのであって、真理に奉仕してきたのではない。だから、大衆に尊敬される。彼らは大衆の代弁者として誇りを持つ。まるで神の代弁者かのように。

7. 詩人
詩人は嘘をつき過ぎる。弟子がなぜか?と質問する。ツァラトゥストラは「なぜ?」と尋ねられると困る人間だと白状する。だが、ツァラトゥストラも詩人なのだ。詩人は、知識に乏しく学ぼうとはしない。だから嘘をつかざるをえない。詩人は、淋しい丘に寝ころび耳を澄ませると、天地がささやいてくれると、得意げにふれまわる。詩人は、天上と言って神々を比喩するが、それは表面に過ぎず自らを深く見せかけようとしているだけ。詩人の精神は見物人を欲する。自虐的な「精神の苦行僧」は、詩人から生まれた。

8. 善人
あらゆる人間は、いたわられ同情されたがっている。善人と自称する者は、無邪気に嘘をつく。善人たちは、同情という嘘をつくように教える。隣人愛という言葉ほど嘘と偽善のために役立ったものはない。かつて人々は予言者と占い師を信じた。運命という言葉を信じた。やがて人々は、予言者と占い師を疑うようになった。そして、一切は自由であり、自由意志を信じるようになった。しかし、それは妄想であって、本当は何も分かってはいない。かつて、略奪はいけない、殺してはいけない、ということが神聖とされた。だが、生きること自体が略奪と殺害を含んでいる。善人は、古い価値を壊す者を犯罪者と呼ぶ。そして、創造する者を憎む。なぜならば、善人たちが創造できないからである。善人たちは、新しい価値を掲げる者を十字架にかける。善人たちは常に終わりの始まりである。

9. 先史学
昔々紀元の始まった頃、ローマは堕落し娼婦になり下がった。ローマ皇帝は家畜になり下がり、神様もユダヤ人になった。ツァラトゥストラは言う。「私以上に神をなすものがあろうか。神は死んだ!」そして、人々を無神論に改宗させる。神は死ぬしかなかった。神は、人間の奥底に隠された汚辱と醜悪を見た。神の同情は少しも羞恥を知らなかった。人間はそのような目撃者がいることにに堪えられない。人間とは、なんと醜く、苦しげに喘ぎ、無駄な羞恥に満ちていることか。にも関わらず、人間は自分自身を愛する。自らを散々軽蔑しながら自らを愛す。人間の自己愛はよほど広大なものに違いない。人間には古くからの恐怖心がある。それが洗練され、知性化され、今では学問と呼ばれるに至った。そして、勇気こそが先史学である。人間はあらゆる動物の勇気を妬み奪い取った。

2008-09-14

"ポアンカレ予想を解いた数学者" Donal O'Shea 著

ポアンカレ予想を解いた数学者と言えば、グレゴリー・ペレルマン。彼を知ったのは、フィールズ賞を辞退した唯一の数学者として話題になった時である。彼は数学界からも去った。金銭にも名誉にも興味を示さなかった彼の残した言葉はこれである。
「有名でなかった頃は何を言っても大丈夫だが、有名になると何も言えなくなってしまう。だから、数学から離れざるを得なくなった。」
偉大な仕事を成し遂げるためには純粋な精神が必要なのだろう。科学者が科学以外に関わらなくてよければ、それは一つの理想像と言える。本書は、様々な書籍で見られるように、数学の難問の発端を古代ギリシャに求め、人類の遺産として残された歴史ロマンを語る。そこには、幾何学が非ユークリッド世界へと飛び出し、位相幾何学、微分幾何学へと発展した数学史が描かれる。アル中ハイマーには、トポロジーの世界は酔っ払った景色にしか見えないのだが、本書のおかげでなんとなく興味が持てるようになった。
本書は、地球儀と世界地図を対応させるように、二次元の折り紙の世界から説明してくれる。こうした初心者への配慮がうれしい。地図から再現される地球の形は、ドーナツ形にも、無限に伸びる円筒にもなる可能性がある。これは、北極と南極が地図という座標系における特異点と見ることもできる。二次元の地球表面は、三次元の視点からでしか観察できない。三次元の宇宙の形は、四次元の視点が必要であるが、四次元の世界は人間には体感できない。ところが、数学は四次元の世界どころかn次元の世界をも定義できる。ポアンカレ予想とは、宇宙を理解する上で中心的な役割を果たす物体の理論で、宇宙のあり得る形に関する大胆な推測である。

世界のあらゆる形について考察する上で、「二次元多様体」または「曲面」という概念がある。全ての二点について、関係を定義できなければ世界地図は成り立たない。つまり、二点間の関係は、二次元で示せる。物体を表現するのに、三次元は必要であるが、二次元多様体は何らかの立体の曲面として表現できる。
また、「境界」という概念がある。二次元多様体には境界を持つものと持たないものがある。平面状の円盤は境界を持つが、球面は境界を持たない。地球の表面を移動する生物が地球の果てを見つけることはできない。厳密に言えば、球に囲まれた球面そのものが境界なのだ。「境界」という概念は、次元をまたがる。ある物体が有限であるためには、境界を持っている必要がある、という考えはよくある勘違いということか。本書を読む時は、こうした考えは捨て去る必要がありそうだ。
いつも思うのだが、天才は特異点が登場するとブチきれた発想をする。宇宙の特異点を消してしまったホーキングしかり。ペレルマンもまた、特異点に立ち向かう。ここでは時間関数ではなく、空間スケールを変数にする。だが、酔っ払いにしてみれば、飲む時間も、夜の社交場の湾曲具合も同じように見える。また、次元の移り変わりも速い。いつのまにか、別の店に瞬間移動するのも、ブラックホール付近では空間多様体が多重連結されている証拠なのかもしれない。ちなみに、次元大介は早撃ち0.3秒、なんといっても、帽子がゾウアザラシのオス四歳の腹の皮製というのが鍵なのだ。

1. トポロジー(位相幾何学)の世界
二つの物体の形が同じであるかどうかは、見る人の観点によって違う。通常、形について語る時は、大きさや距離といった属性に着目する。ここで重要なのは、大きさや距離といった幾何学的な特性は無視することである。引き伸ばしたり、ちょっとした変形などは意味がない。一方の曲面上の点を、他方の曲面上の点に、一対一で対応することができれば、それらの二つの曲面は位相的に同じであると定義する。位相幾何学では、このような同相であるかどうかが議論の的となる。ドーナツのような形状をトーラスといい。多数穴は1穴トーラスの連結和と見なす。したがって、有限な二次元多様体のあり得る形は、平面か、球面か、トーラスのどれかになる。トーラスと球面の違いを区別する方法は、多様体の住人が周遊旅行することを想像する。出発点に糸を結び付け、その糸を垂らしながら旅行し、出発点に戻ると巨大なループが形成される。そこで糸を巻き上げると、住んでいる世界が球面または平面であれば巻き上げられるが、トーラスでは、引っかかって巻き上げられない。つまり、一点上に縮めることができるループがあるかどうかで判別する。これを三次元多様体に拡張することが、宇宙の形に近づく議論となる。現在の有力な説が正しければ、宇宙は有限である。宇宙全体の形を思い描くのが難しいのは、宇宙の外には出られないことだ。これが地球と宇宙の違いである。宇宙に境界がないと仮定しても、無限であるとは言えない。宇宙が無限ではなく、宇宙に壁がないとすれば、宇宙は湾曲しているということか?こうして、宇宙のあり得る三次元多様体とはどんなものかという議論が始まる。

2. ユークリッドの「原論」
ユークリッドの「原論」は厳密性を極めた書物として有名である。となれば、どれほど厳密かという議論は絶えない。ユークリッドは、公理や定義のみに基づいて議論を展開したとされ、何世代にも渡って礼賛される。ただ、暗黙のうちに述べられているものもある。本書は、「原論」の合理的というよりいい加減なものに映る可能性を指摘している。一部の学生には数学離れを引き起こし、自らの理解力を嘆き、数学は高嶺の花だと結論付けてしまう恐れがあるという。特に、第五公準は他の公準に比べてもかなり複雑である。これは、平行線公準としても有名であるが、おいらには何度読み返しても理解が難しい。しかし、人類が示す論理的思考には、直感や暗黙の了解から得られる社会的文脈や、文化的文脈によって継承されるところがある。言語表現にも限界がある。多少の欠陥があるにせよ「原論」の寿命は恐るべきものを感じる。ただ、ユークリッドの著作の半分は残っていないのは残念である。アレキサンドリア図書館の火災がなければ、人類の歴史も違っていたかもしれない。

3. ベルンハルト・リーマン
ガウスは、「原論」の第五公準が成り立たなくても、成立する幾何学があることを確信していたという。そして、曲率をめぐった議論が始まる。平らな平面では、三角形の内角の和は180度である。ただ、空間が湾曲している場合は、これに限らない。180度より大きければ、その平面は、正の曲率を持ち、小さければ負の曲率を持つ。こうした議論が非ユークリッド幾何学を誕生させる。リーマンは微分幾何学を導く。彼は、n次元多様体を実数の配列で表した。点を数とみなし、一次元は一つの実数で数直線上に表れ、二次元は二つの実数で平面上に表れ、三次元は三つの実数で立体の中に表れる。四次元以上は想像できなくても、実数の並びと考えれば定義できる。リーマンは、無限次元多様体の存在までも認めている。数学では、直線を二点間を最短で結ぶ線と定義する。これは「測地線」と呼ばれ、その空間の住人にはまっすぐに見える。直線が定義できれば三角形を定義することができる。三角形は、三本の測地線分を境界とする図形である。三角形が定義できれば曲率を定義することができる。三次元多様体では、一つの点を通過する二次元平面が多く存在する。その点を通過する様々な平面の曲率は、それぞれ異なる可能性がある。二次元多様体で地球のような球面では、子午線と赤道のような大円が測地線である。球面上では三角形の内角の和は180度より大きくなり、曲率は正である。こうした整った形を相手にしているうちは気分がいい。だが、ゴツゴツしたジャガイモのような形に幾何構造があるかと言われると違和感がある。なんといっても、幾何構造の美しさは対称性にある。また、トーラスには、正の曲率と負の曲率が共存する。酔っ払いの神経では、空間のねじり曲がったリーマンの世界に慣れ親しむことができそうもない。よって、ここで芋焼酎をおかわりするとしよう。

4. アンリ・ポアンカレ
クラインとポアンカレは、二次元曲面での位相幾何学が、ユークリッド幾何学と深い関係があることを導いたという。それは、どんな曲面にも曲率が一定になる幾何構造を持たせることができるというのである。そして、曲面の分類が始まる。単位元の多様体の基本群が、三次元球面と同相でない可能性はあるのか?多様体の基本群を、多様体上の一点を基点とするループの集合と定義し、一方のループを変形させると、もう一方のループになれば、同じループと見なす。ループが一つの点にとどまるならば、それを単位元とする。つまり、単位元はループを縮めると一点になる。基本群が単位元になるということは、多様体上のすべてのループを一点に縮められるということで、これを単連結というらしい。そして、ポアンカレは問う。
「三次元球面と同相でない多様体で、その上のすべてのループを一点に縮めることができるものが存在するだろうか?」
境界を持たず、無限に広がることのないすべての単連結な三次元多様体は、三次元球面だけなのか?ポアンカレ予想は一般相対性理論との関わりも大きい。アインシュタインは、重力の正体を時空の曲率とした。アインシュタインは、リーマンの理論が自らの物理法則を説明するのに最適であると認識していたという。物質は時空を湾曲させ、光も曲がる。というより光は測地線に沿って通るだけである。

5. 高次元への展開
ジョン・ミルナーは三次元空間内の閉曲線に関する問題を解決した。どの次元にもユークリッド空間はある。同じように、どの空間にも球面がある。例えば、二次元球面は、三次元空間内である原点から一定の距離だけ離れた点集合である。三次元球面は、四次元空間内である原点から一定の距離だけ離れた点集合である。ただ、ここでいう四次元空間は、四個で一組の実数集合で単なる数学的表現に過ぎない。これはn次元球面に拡張できる。ユークリッド空間内では微積分ができる。微分可能構造とするには、一貫性のある変化率を定義できればいい。つまり、線形ということである。ミルナーは、二つの七次元球面が同相であるにも関わらず、微積分の方法が多く存在し、その値はすべて異なるという衝撃的な発見をしたという。
スティーブン・スメールは、一つ高い次元の多様体の境界にある二つの多様体の性質に関する重要な結果を証明した。そして、3を上回る次元のすべての多様体は、実際には球面であることがわかったという。
ウィリアム・サーストンは、幾何学の流れを根底から変えた。二次元には三種類(平面、球面、トーラス)ある幾何構造が、三次元では八種類あり、それ以外にはないことを示した。
リチャード・ハミルトンは、熱が温かい部分から冷たい部分へ流れるように、多様体では湾曲のきつい部分からゆるい部分へ曲率が流れるという考え方を提唱した。曲率がもっとも大きくなる方向で距離が最も速く縮むように空間上の計量を変えるのである。といっても、温度よりも曲率ははるかに想像が難しい。温かい部分から冷たい部分へ流れる熱法則を定量化するには、ある点を中心とする平均温度へ向かうことを想像すればいい。だが、曲率では、次元が高くなれば変数が増える。また、熱方程式に相当する曲率を表す式を求めなければならない。曲率の変化を表す式、これこそがアインシュタインの直面した問題である。
ここで、自然な変化を表現する解析の道具にラプラシアン演算子がある。これを、ある点を中心とする小さい球面上の数量を平均化することに使う。熱伝導の場合、時間に対する温度の変化率は、ラプラシアンの符号を負にしたものに比例する。ちなみに、金融市場のオプションの値を決めるのに使われるブラック=シュールズ方程式の基盤となるメカニズムは、これと同じである。曲率の場合、これをリッチ・フローと呼ぶらしい。ハミルトンが提案したリッチ・フロー方程式は偏微分方程式である。すべての点のすべての方向で目的の変化率を求めるように、様々な方向の変化率を指定できる意味で、偏微分は有効である。ちなみに、マクスウェルの方程式は、電場と磁場を統一した偏微分方程式である。アインシュタインの方程式は、物質、空間の曲率、重力を結びつける意味で偏微分方程式で表す。流体の流れや熱伝導を支配する方程式も、量子力学のシュレディンガー方程式も、偏微分方程式である。ただ、偏微分方程式にはしばしば特異点が現れる。ハミルトンもこの悲劇からは逃れられない。三次元多様体では、リッチ・フローが特異点を与えることを証明してしまったのだ。ポアンカレ予想への証明は絶望かと思われた。

9. ペレルマン
ペレルマンは計量の階層という概念を持ち出す。大距離スケールでは互いに遠く離れているように見える領域どうしが、小距離スケールでは互いに近づいている可能性があるという。なんと、リッチ・フローが特異点に到達すると、大距離スケールでは別々の連結された部分の領域が隣接する可能性もあるというのだ。ここでは、時間の関数ではなく、スケールをパラメータとしている。数学者は、なるべくなら特異点を避けたいと考えるだろう。ペレルマンはリッチ・フローの特異点について徹底的に追求したという。そして、多様体内の空間が崩壊する寸前まで曲率が大きくなった時、予想外の規則性が生じることを発見した。なんと、特異点が発生した時点で、元の多様体から切り取って、同種の幾何構造を持たせることができるというのだ。特異点では、別の空間を連結させてフローを継続できるとでも言うのか?もしかしたら、これがブラックホールの姿で、この付近で多重連結でもされるのか?都合が悪くなったら多様体を自由に分割したり、合体したりして、なんとも幼稚園で積み木遊びでもしているように見える。ペレルマンは、その多様体が単連結ならば、リッチ・フローが曲率の極限を平坦にならしてくれて、元の多様体と同相な一定の正の曲率を持つ多様体が形成されることを証明したという。んー!ますます酔っ払いの見える空間はねじれていく。
ところで、肝心の宇宙の形はどうなるというのか?現在、多くの天文学者の観察が、宇宙の平均曲率がきわめてゼロに近いことを示唆している。宇宙物理学者の間では宇宙は平坦であるという意見が支配的だが、宇宙はわずかに正の曲率を持っているというのも否定できない。ただ、負の曲率を持っている可能性は、実験的証拠によって否定されているらしい。

2008-09-07

"プログラミングのための線形代数" 平岡和幸 & 堀玄 著

一日中、本屋で数学の本を立ち読みしながら頭の体操をした。んー!やっぱりタダ酒は美味い!本書は、線形代数を題材として、その概念を大切にしている。中でも、数学の道具として有効な行列式を扱っているところがうれしい。ただ、本書は立ち読みで済ませるには少々重たい。ちょいと腕が疲れたので買うことにした。
アル中ハイマーは大学時代に数学を挫折した。特に、ε-δ論法という殺虫効果の強い落ちこぼれスプレーを浴びせかけられると、ピクリともしなくなった。以来、原理の意味合いや過程を無視して、結果だけを使って誤魔化している。数学ができないことが、仕事の幅を狭くしていることは、今でも苦々しく思う。

コンピュータの世界は、ムーアの法則に従い高密度化や高速化が進むとはいえ、その分、高機能が要求される。仕事を容易にこなせるようにツールも進化するが、その分、複雑なアルゴリズムが要求される。人間は、ますます贅沢になるが、それに伴い仕事量も増えるようにできている。「働けど働けど、我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る。」これが労働の法則というものである。自然法則は、人間を永遠に努力させるように留めおくようだ。
おいらの主な業務は、LSIに内臓される電子回路の設計である。設計の基本方針は、分かりやすくするのが最も重要であると考えている。しかし、回路規模や処理速度によって制約を受ける場合も多い。画像処理などの複雑な演算では、いかに効率良く近似値を求めるかが鍵となる。実装の際には、計算量を減らすことも課題の一つである。こうしたアルゴリズムの検討では、数学の道具である行列式の恩恵を受けることも多い。だが、優れた道具を使っても、その変換系が発散してしまうのであれば、物の役には立たない。本書は、その判定を容易にしてくれる固有値と固有ベクトルの概念をわかりやすく説明してくれる。

一つの行列は、ベクトルからベクトルへの写像を示し、一つの変換系を表している。そして、行列の積は、写像の合成であり、変換系の合成とも言える。ここまでは簡単な概念である。だが、昔から連立方程式をまともに解くことしか考えなかったアル中ハイマーには、ブロック行列を使った解法で、行の入れ替えなど単なるご都合主義にも見える操作を繰り返すことによって、いつのまにか解が得られるのを見ると、なんとも魔法のように思えたものである。また、座標系も軸が直交するとは限らないし、内積は座標系が違えば値も変わるし、外積は三次元で扱うには便利であるが特異に思えた。本書は、空間感覚のない酔っ払いでも、行列式を空間に対応させてくれるところがありがたい。空間を引き伸ばせば、体積拡大率は大きくなり、密度が下がるといったことが容易にイメージできる。行列の演算は、Octaveのような数値演算言語を使えば、LU分解までも一発で計算できるが、本書はLU分解の意義も説明してくれる。

変換系は、それが発散するかどうかは重要な問題となる。もともとの対象が対角行列ならば問題はない。大抵の行列は乗算やN乗すると極端に複雑になる。ところが、うまい具合に正則行列を見つけて対角化できれば、発散するかどうかが判別できる。対角化さえできれば、演算数を大幅に減らし、実際に解ける可能性が出てくる。微分方程式も対角化できれば解ける。固有値の目的は、それを使って行列の対角化ができると見ることもできる。ある行列に固有値と固有ベクトルが求まる絶妙なケースが見つかれば、標準形に持ち込むことができる。ただ、おいらには固有ベクトルが複素数の領域になるとわけがわからない。
ニールス・アーベルの証明やガロア理論の結論では、5次以上の代数方程式の解は存在しない。これは、5x5以上の行列で固有値を求める方法がないということである。つまり、有限回の計算で固有値をピッタリ求める一般的な計算法が存在しない。したがって、コンピュータの計算では、相似変換を繰り返して徐々に対角行列に近づけていくという反復計算が用いられる。本書は、その近似法のアルゴリズムとしてJacobi法とQR法が紹介される。

対角という性質には、複雑な物事を単純化する何かがありそうだ。周波数解析で有名なフーリエ解析やウェーブレット解析では、直交性質を利用する。この数学の美しい性質が、波のゆらぎを観察するのに適しているのも偶然ではない。そして、酔っ払って千鳥足で歩くゆらぎ具合も解析されるのである。夜の社交場を見渡せば、行付けの店が、ことごとく「鴎外通り」から対角に配置されているのも偶然ではない。これも、くだらない精神を酔わせ、人生を単純化する効果がある。