2007-02-25

"C言語による組込みプログラミング スタートブック" 鳥海佳孝 著

著者とは飲み仲間である。とアル中ハイマーが勝手に思っているだけかもしれない。
以前、行付けのバーで生涯飲めないような高級なお酒をご馳走になったことがある。お返しをせねばなるまいと思いつつ甲斐性がないのでなかなか実行できないのである。
W杯の話になると互いに熱くなる。現地へも行かれているようだ。本書の著者紹介には4大会連続出場中とある。
日韓大会では"FINAL 2002-6-30 YOKOHAMA"が刻印されたヒップフラスコをプレゼントして頂いた。アル中ハイマーは時々これに酒を入れてニヤニヤしている。
個人で独立して活動されている点においては親しみを感じるのだが到底及ばない。セミナーでも活躍されており、こういう方々の地道な努力が本当の意味で社会を支えているのだろう。
本書のおかげで、たまには仕事関係の記事を書いてみる気になるのである。ちなみに、おいらの本職はちょいと味のあるボケた詐欺師である。ゆえに、いつも詐欺に会うのである。

組込み系というとマイコン制御を思い出すが、本書はソフトウェア技術者のためにHDLの知識無しでも回路設計ができる例を紹介している。
Cベースによる設計環境ではC++の"System C"が有名であるが、本書では手軽さでC言語の"Impulse C"を題材にしている。
C言語では逐次処理を記述していくが、ハードウェアでは個々の素子が並列に動作する点が大きく違う。よって、HDLでは並列動作を記述することは当り前であるが、ソフトウェアではこの点を表現する方法が難しい。
Impulse Cではハードウェアの動作を表現できるco_*関数を用意しているので、この使い方を紹介している。開発手順は、C言語で書いたプログラムを動作合成によりHDLに落とす点が追加されるだけで、後は論理合成、配置配線と設計手順は通常のハードウェア設計と同じである。本書にもあるが、動作合成ツールの性能により回路の出来が決まり、現状では回路効率は圧倒的にHDLが優位にある。

かつて、回路図ベースで設計していた時代に、HDLが登場してソフトウェア化が進もうとした。しかし、プログラムが書ければ回路が実現できるものでもない。今日では、回路の知識とプログラムの知識の両方が必要となった。
それでもプログラム記述の方が抽象化できて圧倒的に効率が良い。なによりも検証環境を構築しやすい点が最大の利点であろう。ターゲットモジュールはもちろん、周辺部分をソフトウェアでモデル化できることはとてもありがたいのである。
こうしてアル中ハイマーは、ジョブを積み上げて夜の社交場へと消えていく。そして、酒場からsshする。その日の酒の量はログの量で決まるのである。

おいらは、回路設計を請け負うことがあるが、周辺装置のモデル化や期待値モデルの作成において、C言語だろうがHDLだろうが言語依存で考えたくない。本音は貧乏なので高価なツールなど買えないのである。手段は顧客の要望次第であるが、極力、言語依存、ツール依存を避けるため、ファイルでI/Fするという原始的な手段を取ることが多い。よって、画像処理など大規模な検証パターンを要する検証環境では、大きなファイルが多く存在してしまうなど、つまらないことを気にしなければならないのである。

個人的にはプログラム経験のある人であれば、HDLを覚えるのはそう難しいことだとは思わない。と言ってもハードウェアの知識は必要である。しかし、アルゴリズム検討で作成したコードをそのまま回路に実現できれば、こんなうれしいことはない。そのためには動作合成ツールの性能にかかっている。かつてマシン性能が上がって数々のソフトウェアが実現できるようになったように、素子性能や集積度の向上により、時代が解決してくれるのかもしれない。おいらは、HDLなんて中間ファイルを生成しなくなったら使う気になるのである。ついでに、回路図を滅ぼしたように、HDLを滅ぼしてほしいのである。その前にアル中ハイマーが滅びるのは自明である。

こういうセミナーを受講すると貧乏人には辛いが、本書で受講した気になれるのは幸せな領域へ導いてくれる。また、非常に丁寧に記載されているものと思われる。アル中ハイマーのような酔っ払いにでも理解できるからである。
正確には理解できたような気がする。これが重要なのである。気持ちええのである。どうせアル中ハイマーには万物は何一つ悟れないということを悟っているのである。

2007-02-18

"ウォール街のランダム・ウォーカー" Burton G. Malkiel 著

ランダム・ウォークとは、物事の過去の動きからは将来の動きや方向性を予測することは不可能であるという意味である。
この言葉は、ウォール街では専門家が猿と同列にされるとして忌み嫌われているそうである。
本書は二大陣営であるファンダメンタルズ分析派とテクニカル分析派の死闘に古典的論争を加えているところがおもしろい。テクニカル分析派は、砂上の桜閣学派として群集心理の原理を重視する行動ファイナンス理論であり、ケインズの美人投票論であると酷評している。

おいらはファンダメンタルズ分析を支持する立場をとりたい。なぜならば、性格的にどんくさいのでのんびりと構えたいのと、市場原理は群集心理の影響を受ける複雑系ではあるものの、基本は重力物理学であると信じているのである。
しかし、これだけテクニカル派を下げ降ろすといくらファインダメンタルズ原理主義者のおいらだって逆に興味を持つのである。
ファンダメンタルズ派にしても、将来予測という不確定要素を拠り所にしており、そもそも分析対象とした公表データの信憑性も疑わしいのである。
テクニカル分析派が多く存在するということは、その影響で市場が動かされるのも事実であり、無視できないのである。また、本書は企業の将来予測も不可能と言っている。このような矛盾の中でリスク管理と資産運営を考えることが、アル中ハイマーの目的である。

テクニカル分析について。。。
「人間の性は秩序を好む。ランダムという概念を認めるのは難しい。ランダムな事象の中からパターンを見つけ出そうと努めるものである。」
スポーツではバスケットのシュート成功率の連続性などを例にしている。コイン投げでも表の出る事象が連続することは多々ある。これらがプロのファンドマネージャの実体であると酷評している。同時にアノマリー学派も攻撃している。アノマリーも皆が気づけば旨味は廃れる。
アル中ハイマー流に表現すると、2人でジャンケンして勝ったもの同士が更にジャンケンしていく。このようにトーナメントを行っていき必ず最後には勝ち続ける人がいる。そいつをカリスマ・ジャンケン家と崇めるマスコミがいるということなのである。

ファンダメンタルズ分析について。。。
「専門家である証券アナリストでも、企業の利益予測など当てられるものではない。ハイテク業界のような将来予測が難しい業種であろうが公益産業であろうが同じことで、素人の個人投資家と大して変わらない。」
これは株式の世界に限ったことではない。素人でも専門家を出し抜ける業界は多々ある。多くの証券アナリストは、特に明敏でも、批判力があるわけでも、有能でもない。と言い切っている。確かに、おいらの業界でも、素人で向上心のある方がマシと思わされる人材はごろごろしている。また、証券会社はマスコミとつるんで、手数料目当てで必ず強気相場を演出し買いを推奨する。証券アナリストが売りを推奨してるところなど見たことがないのである。スポンサーに機嫌をとらなければならない。裏の政治が絡んで論ずる連中が到底プロだとは思えないのである。

ランダム・フォーク理論によれば、過去の経験から未来予測はできないと語っている。
「既に公開された情報を元に銘柄を選んでも平均以上のパフォーマンスは得られない。最近の情報インフラの発達により、素人でもプロ並の知識は得られる。よって、公開情報は既に株価に織り込まれ済みなので、ファンダメンタルズの旨味も消えて行くであろう。また、リスクに着目した国際分散投資もグローバル化の波で旨味が消えるだろう。企業価値を判断することの困難さは並大抵のことではない。」
行き着くところは、インデックスファンドの長期保有ということか。ピーター・リンチ、ベンジャミン・グレアム、ウォーレン・バフェットも同じ結論に達したようである。長期保有とは、だいたい25年とみているようだ。おいらが年金生活を必要とするまで、だいたい同じぐらいの期間だ。ちょうど独自のポートフォリオを構築せねばならない時期にきているのである。

本書は長期的には効率的市場理論を支持する立場をとっているが、全体としては中間的立場をとりたいと言っている。効率的市場理論を無視するまでの心の準備ができていない。という自信のないコメントもある。
尚、本書の舞台は米国市場である。いずれ日本市場も米国市場に近づいていくのであろうが、果たして日本でも同じ思想が使えるのだろうか?やはり国際的な分散運営が必要なのかもしれない。語学力がないおいらは勉強しなければならない事項がまたまた増えるのである。
さて、本題である資産運営をどうするか?資産配分をどうするか?一部を土地などの固定資産、一部を事業資産、一部を流動資産に、さて割合は?債権と株式の割合は?
本書では、個々のリスク許容度で戦略が異なってくることを指摘している。当然である。しかし、効率的市場理論の存在が前提である。読み終わって、いまだに経済は重力物理学であると信じたい。

著者はインデックス・ファンド大手の社外取締役でもあるせいか、本書で上げられている数々のデータは、実は宣伝用にも見える。しかし、共感できる点は多いので、騙されてみるのも悪くないと思うのである。おいらはインデックス銘柄のポートフォリオを独自に構築することを研究するのである。おいらは財務諸表を読んだり、会社分析をするのがそれほど嫌いではない。市場分析には、経営とマーケッティングの勉強も欠かせないのである。

本書は個人投資家に対する株式投資の入門書という位置付けであるが、おいらにとっては資産運営の参考書である。人間は欲望を捨てることができない。いかに理性を持って資産運営をするかは非常に難しい。効率的市場原理が成り立つという前提で話が進むが、実際は人間の欲望でランダムフォークさせられる。考えたくないが、効率的市場原理の前提が崩れているとしたら。会社選びも年金期待も全てギャンブル。どうせギャンブル人生なら自己責任を楽しむのである。こうして、アル中ハイマーは人生の墓場へとランダム・ウォークするのである。

2007-02-11

"相対論的宇宙論(名著復刊)" 佐藤文隆, 松田卓也 著

本書は、30年前に出版された「相対論的宇宙論」の復刊版である。
中学生時代に読んだ覚えのある本だ。やはり本棚の奥に色あせたブルーバックスがある。当時は、真面目に宇宙物理学を専攻したいと考えたものだが、アホなので別の道を歩んでいる。夢を見ていた当時を思い出しながら懐かしく読んでしまうのである。

それにしても、30年も前の科学の書籍が復刊するとは信じられない。一般相対性理論が90年以上も実証されてないというのもすごい話である。あらためてアインシュタインの偉大さを感じる。いまだに、本当かどうかわからない理論というものは不思議と興味を持つのである。もしかしたら究極の詐欺師なのかもしれない。師匠として崇めなければならない。

天動説と地動説。定常宇宙論と進化宇宙論。様々な論争で、世論または宗教へ闘いを臨んだ科学者達のいきさつを紹介している。宗教、哲学から物理学へ引っぱりだした科学者の功績は大きい。しかし、宇宙論は未だに物理学というよりは幻想的な世界のようである。
地球がまわっているのか。アル中ハイマーがまわっているのか。酔いがまわってくるのである。

無限質量で吸い込むブラックホールの存在では、運動を吸収の一方向にしか表現できないという一見矛盾したかに見えるものを一方向に放出するホワイトホールと結びつけて、ブラックホールとホワイトホールがこの世とあの世を結びつけるかのような発想は興味深いのである。

宇宙論については、古くからの論争を紹介している。
宇宙は有限か無限か。宇宙に中心はあるか。宇宙は一様か。真空はあるか無いか。真空説と充満説。絶対空間が存在するか。相対空間のみが存在するか。これらの現時点の解釈を説明してくれる。
アル中ハイマーは絶対的に酔っているか?相対的に酔っているか?と言う議論には"君に酔ってるんだよ!"つまり、エーテルとは酒なのである。

宇宙の起源、銀河の起源の、数々のモデルを紹介している。
ここで気に入ったフレーズがあったので紹介しよう。
「"神は宇宙を創る前は何をしていたか?"とたずねるへそまがりへの神学上の回答は、"神はそのような質問をする人のために地獄を創っていた"」
なるほど。アル中ハイマー流の解釈は、超宇宙とは地獄のことなのである。つまり、ブラックホールとは酒場のことだったのである。

本書は、観測可能かどうかの狭間で形而上学から物理学へと進化したいきさつを紹介してくれる。そして、まさしく宇宙論はその狭間にあると締めくくる。
昔は、なぜ光の速度が基準となるのか、それより速い速度はなぜ有りえないのか?純粋に疑問に思ったものである。未だにこの疑問への回答はできないようである。
このような昔からの本を読んでいると脳の一部が活性化されるがごとく気持ちいいのである。しかし、つい最近読んだものはすっかり忘れ去られ、随分昔に読んだものが思い出されるとは、老いている証明であり信じたくない現実である。
アル中ハイマーは現実から逃避するがごとく、ブラックホール(酒場)へと落ちていくのである。

2007-02-04

"父と子" ツルゲーネフ 著

アマゾンを放浪していると推薦図書にツルゲーネフがあった。トルストイを読んだからである。そういえば学生時代、文系の先生に理系の人間はトルストイは読んでもツルゲーネフは読まないだろうと馬鹿にされたのを思い出したのである。悔しいので読んでみることにした。アル中ハイマーは根に持つのである。

本書は、虚無主義者「ニヒリスト」である主人公を描写したものである。
ニヒリストとは本文を引用すると、
「何事にも批判的見地から見る人間。いかなる原理も、たとえその原理が人々にどんなに尊敬されているものであっても、そのまま信条として受け入れない人。」とある。

本書は時代背景から理解してないと分かりづらいので少し触れてみよう。
父の世代とは、1840年頃のニコライ一世の反動政治の暗黒時代。自由主義は専制政治により弾圧されていた。子の世代とは、1850年頃のアレクサンドル二世。国民精神が高揚した時代。父の時代の無気力を恥じ敢然と行動する。そして、1860年代は世代の分裂が顕著になる。農奴廃止運動が高まったのもこの頃である。知識階級で貴族階級と雑階級の不和を生む。社会思想と個人思想が対立する。そしてニヒリズムは個人思想に属する。この時代の描写に雑階級出身、つまり何も失うものがない無産階級の知識人のエネルギーが必要であるとして主人公を創造していると解説されている。本物語は、このようなロシアの一時代を背景にして、世代間の思想的対立が展開されていく。

いつの時代でも親の世代と子の世代の対立はある。
おいらは親の言うことを聞きたくないので、家庭では気まずい雰囲気が漂っている。しかし、本書を読んでいると父の世代にも少々同情する立場をとってしまう。というのも、人間というものは自分の生きた時代を否定されると自分自身の存在そのものを否定された気がするからである。すると自尊心は傷つけられ防衛的態度を取ってしまう。自分の存在意義を示し頑固親父となるのである。実際は、どんなすばらしい人間でも存在しなくなったからといって一部の人間が悲しむものの、世の中が変わるものでもない。しかし、無能な人間ほど出しゃばって混乱させているのも事実である。アル中ハイマーは皆さんの仕事ぶりを邪魔しないように心がけ細々と生きることを目標にしているのである。

少し余談になるが、おいらはずっと知的障害者を観察してきている。慣れているせいか?あまり同情的な目で見ることはない。障害はかなり重度なので言葉が話せない。生活は周りが面倒を見ているので、仕事などの義務は無いし、圧力があるわけでもない。心配事など無縁に思える。順風満帆に生きているようにさえ見える。かつて代わってほしいと思うことすらあったのである。
しかし、自閉症やら、不眠症やら、突然発狂したり、深夜に踊りだしたり、次々と変わった症状が複合的に表れる。物事を行う時は、いつも呪文を唱えながらヨガでも踊るかのごとく、まるで儀式のようにある決まった行動パターンを見せてから始める。
何を考えているのだろうか?常識では量れない何か不安な事でもあるのだろうか?何かに必死に耐えているように感じるのである。
こういう症状を見ていると、人間は何も目的がなくなるとどうなるのだろうか?などと考え、妙にに虚しくなることがある。これも一種の虚無主義かもしれない。

そう言えば、政治や企業などあらゆる組織において、統制するための規則を作り決まった儀式を行う習性がある。その理由を聞くと"伝統"という言葉で片付けられる。
人間というものは、不安や悩みから逃れるために、一定の儀式が必要なのかもしれない。ある決まった行動パターンに嵌め込むと精神的に落ち着くのかもしれない。不安を感じる人ほどルール化して自分をあるいは他人を束縛したがるのかもしれない。

おいらも独立して定期的に得られる給料が無くなったせいか?何か忙しくしてないと落ち着かない。そこで毎日、自己啓発で必ずやることを決めている。こんな不精な人間がよく続いていると自分でも感心するのである。
どこかに不安を背負っているのだろうか?全く自覚症状はない。だからと言って悩む必要もない。そもそも、アル中ハイマーは、人間分析には使えないのである。

さて、前置きはこのぐらいにして本題に入ろう。
「アル中ハイマーの虚無についての考察」
とある情報筋によると、こんな行動パターンがあると報告されている。
・夕方5時から開店するバーを無理やり4時から開けさせる。
・飲み会の幹事であるにも関わらず、先に数件、はしごしてから現れる。
・彼の待ち合わせ場所は、必ず飲み屋である。
これは、かなり人生の虚しさを感じていると言わざるをえない。
そして、ぼやくのだ。"昔は理性の固まりと言われていたのに、こんな人間に誰がした!"
こうして、あらゆる事を人のせいにして、何事にも批判的な見地に立つのである。これは、アル中ハイマーがニヒリストであるという証明なのである。
ちなみに、ニヒリストは国際交流も盛んなのだ。スコッチ系、アイランド系、シェリー系などなど。