2014-12-28

"無形化世界の力学と戦略(上/下)" 長沼伸一郎 著

本棚を掘り起こしていると、とんと覚えのないヤツを見つけた。「物理数学の直観的方法」の著者が、人間社会の力学をミリタリーバランスの観点から定量的に語ろうというのである。我が家で数十ページほど立ち読みしてみると、これがなかなか!購入履歴を遡ると、およそ十年前に買ったことになっている。記憶力がないということが、いかに幸せであるか...
そういえば、政治家の資質には、理系出身者が相応しいと考えていた時期があった。厳密には、自然学者と言った方がいい。しかーし、未納三兄弟!などと発言して墓穴を掘った某党首が理学部出身と知るや、そんな考えをあっさりと捨てた。おまけに、その御仁は首相になった挙句、原発事故でせっかく放射能予測システムSPEEDIがありながら情報を開示しなかった。環境汚染を語る前に科学が政治に汚染されているとは...
プラトンは政治を哲学者の手に委ねることを理想とした。真理の探求に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。そして、夜の社交場ではセクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も捨てがたい...

価値の無形化は、貨幣の発明から始まった。能力は賃金で査定され、信用は利息で精算され、欲望はインフレ率で測られ、希望は株式市場に委ねられ、命ですら貨幣換算される。さらに、電子マネーや暗号通貨の登場により、貨幣自体が曖昧な存在となった。精神の持ち主とは、奇妙なものよ。精神自身の実体を説明できなければ、どこにでも都合よく代替価値を見出すことができるのだから...
人間社会における競争原理は、価値の創出合戦によって繰り広げられる。そう、価値こそがパワーの源泉なのだ。古代、人間の価値は、腕力、脚力、格闘力で測られた。それは、オリュンピア祭典競技の種目に見てとれる。国力では武力が指標とされてきた。やがて、これらのパワーは機動性や柔軟性に呑み込まれていき、腕力は智力に、武力は戦術や戦略にとって代わる。重装歩兵が主力であった時代、アレキサンダー大王は騎兵の機動力に注目してアケメネス帝国を制した。フリードリヒ大王は奇襲をもってオーストリア軍を制した。第二次大戦でドイツの用いた電撃戦は、機甲部隊と航空部隊との連携によって高い機動性を発揮した。
一方、大日本帝国は自ら空母の機動性を証明しながら、大艦巨砲主義に固執した。太平洋戦争の敗因では、索敵の不徹底や暗号神話に陥った硬直性など、情報戦略のお粗末さがよく指摘される。それも一因ではあるが、本質的な問題ではあるまい。近代戦争はそのまま消耗戦と化す。ウィリアム・ペティの政治算術から受け継がれる国力試算は、既に武力から工業力へ移っていた。工業資本の付加価値性と物量こそが、武力の機動性と柔軟性をもたらしたのである。
では、現在はどうであろうか... 戦後、国力の指標は経済力に向けられた。経済が整わないうちは、いくら軍事力を強化しても持続できない。さらに、経済循環を円滑にするために、購買意欲を誘う宣伝力が注目される。現在では、プレゼン力と呼ばれるやつだ。宣伝力が武力として有効であることに最も早く気づいた戦略家は、ヒトラーかもしれない。宣伝相という要のポストを設置し、映画製作やらで見事に正義を装った。
もはや無形化は単なるアナロジーの域を脱し、情報が物質に替わるという文明上の問題を抱えている。静かに語られる真理よりも、大声で誇張し、分かりやすい言葉で反復効果を狙う方が世論を席巻できるとすれば、人間社会はますますロストワールド化していくであろう。とはいえ、悲観論ばかりでもない。ネット社会では、一権力によって情報操作が思うようにならなくなった。それは、ある意味健全かもしれん...

本書は、こうした力関係を、陸軍、空軍、海軍の性質に分類しながら、経済を陸軍力に、メディアを空軍力に、研究機関の知的影響を海軍力に結びつけて考察している。そして、米ソ冷戦構造を無形化された準三次大戦に位置づけ、第一大戦や第二次大戦との類似性を分析している。
注目したいのは、「運動量保存の法則」「最小語数の原理」「パターン再現仮説」の三つの概念を柱にしていること。二つの大戦が軍備競争によって約5年かかったのに対し、冷戦は資本主義と共産主義の経済対立によって50年を要した。一般的に軍事予算は、GDP比のほぼ1割とされる。残りを経済力で換算すれば、経済部門は軍事部門に比べて鈍速だが、その分体重が重く、比率は10倍で等しくなる。
また、マスコミ屋と空爆屋との類似性から「情報制空権」の重要性を物語る。
「ある概念は、それがたった一語で内容を表現できる場合にのみ、一般社会に爆発的に流布する。そしてそれは表現に2語以上を要する複雑な概念を常に駆逐する。」
確かに、機動性や柔軟性においては、軍事力よりも経済力が、経済力よりも情報力の方が優っている。メディアに至っては、むしろ流動性と言った方がいい。速度の影響力は絶大であり、ニュートン力学においても質量と速度の積によってパワーが定義される。現実に、経営戦略では意思決定能力が問われ、資源の集中と敏速な行動こそが成功の鍵を握る。
「経済的世界においても、その運動を本質的に決定している抽象的要素の相対的な関係が同じである限り、対応する軍事的世界において起こったのと全く同じ力学によって必ず支配され、相互の動きは基本的に同じパターンに従う。」
しかしながら、最も重要な要素に「知的制海権」の概念を持ち出している。
「現状を見る限りでは、インターネットの興隆に代表されるように、"様々な垣根を取り払って文明を速くする"テクノロジーによって世界統合に行き着く道が圧倒的に優位にあり、対抗馬にはもはや安楽死以外の選択はあり得ないかのように見える。しかしここで一つ考慮すべきことがあり、それは"伝統的な垣根を残して文明を遅くする"側に人類はどの程度の頭脳を投入してきたのだろうかということである。」
流動性の高さが機動性を発揮するのも事実だが、流動性が高すぎると、自身の中に力学を構築する前に流動体の奴隷と化す。手段にばかり目を奪われ、地に足がつかない戦略が横行するのは、まさにそういう状態であろう。いくら経済力や情報力を強化したところで、真の底力は深遠な道理を踏まえた知的能力に辿り着くはずだ。
ただ神の目には、戦争も経済も、はたまた超新星やブラックホールも、同じ物理現象に映っているのかもしれん。だから野放しにしているのか?戦争にしても、経済にしても、人間社会の手段に過ぎないと。では、どちらを選択するか?それは人類の叡智にかかっているとするしかあるまい...

1. 核兵器と精神力学
機動性や柔軟性を唱えたところで、それは社会に適合する上での相対的な特徴でしかない。いくら優れた特徴を備えていても、時代に受け入れられなければ、変質扱いされる。
核兵器は物理的に絶大な破壊力を持つが、使用するとなると、これほど硬直した融通のきかない兵器はない。核はもはや人間社会における相対的な武器を超越し、絶対的な破壊力の前では戦争の抑止力というより、人類滅亡のリスクとして機能する。この抑止力が、5年の軍事戦争を50年の経済戦争へ転嫁させた。事実上使用できなければ、経済的負担となるだけ。にもかかわらず、核のパワーに憑かれた政治指導者はごまんといる。自己の悪魔を制するには、悪魔に縋るしかないってか...
権力を暴力と置き換えれば、モンテスキュー式の暴力分立の原理がここにある。冷戦時代、核兵器の存在を意識しながら、戦車や戦闘機による小規模の戦闘が水面下で生じてきた。そして、長い時間を経て小さなエネルギーが蓄積し、巨大帝国を自然に崩壊させた。幸いにも人類滅亡の危機は避けられたわけだ。アルキメデスが言った... 我に支点を与えれば、地球を動かして見せよう!... というのは本当かもしれん。
本書は「通常兵器の相対的核兵器化」という考えを持ちだしている。核兵器の代理兵器と言おうか。そして、その延長上に「経済力の相対的軍事力化」という概念を持ち出す。
戦争を国家権力の及ぶ国境線を動かす仕事量とするならば、経済はグローバル化によって国境線を曖昧にする仕事量とすることはできそうである。平和時の交通事故の死者、自殺者、災害死などの社会的リスクは、死者の観点からすると戦争時と原理的には同じかもしれない。
「かつて平和を語っていた者が今や戦争を語り、かつて戦争を語っていた者が平和を語り始めたという立場の皮肉な逆転はこのような理由による。」
また、冷戦構造における西側勝利の最大要因は、半導体技術の登場だとしている。ハイテクが庶民に浸透し、豊かな生活をもたらした。東西の生活水準の格差は、民衆の大量流出を招いた。いまや、半導体業界の動向が、経済動向を判断する上で重要なファクタとなっている。しかし、一般報道では携帯端末といった身近なハイテク商品が話題になるだけ。所詮、半導体は部品よ!開発現場でも半導体技術者は粗末に扱われている... などと自分の立場を愚痴るのもなんだが... 所詮、人間は部品よ!
しかしながら、いくら核兵器を多様な兵器で置き換え、さらに軍事力を経済力に代替して、機動性や柔軟性をもって制圧しようとも、絶対的な自然力には到底敵わない。人間のできることといえば、せいぜいリスクを回避するぐらいなもの。いくらテクノロジーを進化させようとも、人間の頭脳の中で働くソフトウェアはほとんど変化しないし、精神力学はあまり変わらんようだ...

2. 情報制空権と運動量保存則の罠
空軍の威力は絶大であり、味方の犠牲を最小限にできるために、空軍至上主義に陥りやすい。だが、地上制圧が主目的であり、空爆しかできない軍隊では都合が悪かろう。むしろ宗教力の方が影響が強そうだ。戦争状態で地上を制圧する役割が陸軍力だとすれば、非戦争状態では経済力や文化力ということになる。ただし、ここで言う経済力や文化力は、政治的に仕向けられた思惑とは一線を画す。空爆的な威力を発揮するメディアの誇張が事実を伴わなければ、空回りするのも道理。情報化社会が高度化するほど、冷笑や虚無主義へ誘導するというのは本当かもしれん...
ちなみに、トーマス・ジェファーソンの言葉に、こんなものがあるそうな。
「良い政府が存在するが良い新聞が存在しない世界よりも、良い新聞だけが存在して良い政府が存在しない世界のほうが良い。」
人間には自分の意見と合う者同士で群れる習性があり、報道屋だけに中立の立場を課しても無理というもの。歴史を振り返れば、新聞が戦争を煽ってきた例は実に多い。そして敗戦が濃厚になると、平和主義者に豹変して戦犯探しに明け暮れる。英雄に持ち上げながら、一夜にして国賊扱い。専門家でも意見が分かれるところを、メディアは都合の良い立場しか取り上げない。著名人に罠をしかけ、スキャンダラスな事を言わせて注目を集めようとするのも彼らの常套手段で、勝手に人物像をでっちあげて抹殺にかかる。実際、マスコミ手法にはガスライティング的なものも少なくない。空爆で攻撃するパイロットは海兵隊などと違い、殺す相手を直接見なくて済む。だから、残虐性に疎いのかは知らん。
「ある事業がメディアの支援を受けながら行われる場合、事業完成までに要する時間の 1/10 の時間でメディアはそれを陳腐化させ、精神的な力を奪う。これが運動量法則の罠である。」

3. 知的制海権
伝統的な海軍の任務は、制海権の確保、パワープロジェクション(戦力投射)、プレゼンス、シーレーンの防衛といったところであろうか。総合的な戦略では、海を制して、いかに陸上に戦力を投射するかが問われ、その役割は空母の登場で、より直接的となった。経済的に言えば、企業の研究部門が新技術を開発して市場の膠着状態を一変することができれば、市場に投射できる。
政策で大きな役割を担う研究部門といえば、シンクタンク系である。ただ残念なことに、国家レベルでシンクタンクを機能させるアメリカに対して、日本では政府系シンクタンクが弱点とされる。かつては、総合商社や金融機関といった民間のシンクタンクがその役割を担い、官僚集団がそれらの機能を補ってきた。代替のシンクタンク機関を構築せずに官僚支配を弱めれば、もはや国家の頭脳は麻痺するだろう。そうした構造が官僚支配を助長する結果を招いてきたわけだが...
経済活動は多様化し社会構造も複雑化していく中で、バラバラの行動パターンによって、ゲリラ戦の様相を呈していく。手段が多様化する中で合理性を求めるならば、分進合撃といった戦略が必要であるが、国家レベルの知的戦略がないために、民間の研究部門が危機感を募らせる一方で、公共の研究機関は予算獲得に奔走する始末。
また、天然資源の乏しい我が国にとって、シーレーンの防衛は死活問題となる。それは、そのまま技術のシーレーンと結びつき、教育機関や研究機関が知識の補給線となる。かつては、技術力に直結する理工系が重要視された。現在では、仮想価値を煽ることで経済循環を促すことができる金融の異常発達が、原理的にそれを補っている。だがそれも、砂上の楼閣であることは否めない。MBAの取得に躍起になるような風潮では持続性に欠ける。金儲けに直結する知識ばかりに偏れば、知的柔軟性を失い、やがて知識の大艦巨砲主義に成り下がるであろう。
多様性と柔軟性は相性がよく、兵器と同様、知識も多様性によって相乗効果が期待できる。しかしながら、人間には目先の勢いに惑わされる習性がある。太平洋戦争時代、海軍の外交的見解よりも陸軍の精神論の方が、一般庶民には分かりやすかった。ドイツ陸軍の勢いに惑わされて、アメリカの工業力という潜在的な能力が見えなかった。現在でも、政治的リスクを無視して新興国の勢いに釣られて進出するなどの経済活動が旺盛である。しかも、研究部門を放棄してまで売上至上主義に突っ走った企業も少なくない。バブルの後遺症かは知らんが。バブル景気とは、高度成長時代に蓄積された平和ボケという堕落エネルギーがもたらした結果と見ることもできよう。
本書は、余剰労働をサービス業にばかり転化すれば頭でっかちな経済システムとなり、「万人が万人の召使になる」社会となり、さらに競争が激化すれば「万人が万人の奴隷になる」社会に堕落する、と警鐘を鳴らす。サービス業の概念も随分と多様化しているので、そこに知的部門を見出すこともできようが。
知的資源は目に見えにくいだけに、これを主軸とした国家戦略を練ることは難しく、よほどの計画性を要する。政治ジャーナリズムは、政治家の無力や無能を言い立て、政治不信こそが社会の閉塞状態の根源であると非難するが、それは本質的な問題ではなさそうである。情報制空権や知的制海権を確保しようという国家戦略すら存在しないのだから...
「政治家たちは情報制空権も知的制海権もない状態で、国旗の下の防御拠点に立てこもる以上の選択が最初から与えられていない。それゆえ政治家のどんな交代劇も、せいぜいマジノ線の防衛指揮官に誰がなるかということ以上の意味をもともと持ち得ないことは明らかなのであり、大衆がそれに無関心になるのはむしろ当然であろう。」

4. ハートランドと地政学
伝統的な戦術や戦略における理論において、地理的優位性というものがあり、戦略的要地をいかに制すかが勝敗の鍵となる。地政学の結論を大雑把に言えば、こういうこと。
「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する。」
ハートランドとは、大陸の心臓部という意味で、ハルフォード・マッキンダー著「デモクラシーの理想と現実」の中で、ユーラシア大陸の中核地域を中軸地帯と呼んだことに始まる。ヨーロッパを含むユーラシア大陸が地上の陸地の大部分を占めることから、これが世界島というわけだ。
ただ世界島の中で、戦略的要地は時代によって変化してきた。例えば、ローマ帝国の海軍力の低下を、閉鎖海戦略にあるとしている。地中海がローマ陸軍に制圧され、閉鎖海となったことで、コップの中の海軍と化し衰退したという。陸軍が強すぎても、海軍が強すぎても、はたまた空軍が強すぎても、うまくいかない。古くからヨーロッパとアジアの主導権争いでバルカン半島が要地とされ、第二次大戦では資源要地をめぐる戦いとなった。つまり、兵力の機動における地理的要地から、強力な武器のエネルギー源となる資源的要地へと移行してきたわけだが、無形化社会では、柔軟性と寛容性を持った知的要地へと移行していくのであろう。
従来の戦略には、「戦略的影響力は距離の2乗に反比例して減衰してゆく」という原則があるという。戦略的要地の概念も、距離の概念も、根本的に見直す必要がありそうだ。文化の中心地という意味ではあまり変わらないかもしれないが、流通経路、情報経路といったものが要地となる。実際、人間の集約力ではメガターミナル構想、物資の集約力ではメガフロート構想、資金の集約力ではメガバンク構想、情報の集約力ではビッグデータ構想、生産の集約力では多国籍企業化といった戦略がある。
日本列島は、太平洋上の航路において地理的条件は良い。だが同時に、中途半端な空港や港湾建設が乱立すれば、ガラパゴス化しやすいという脆さも抱えている。なにも海上封鎖などに頼らなくても、一国をガラパゴス化することは可能なのだ。にもかかわらず、政治屋どもは相変わらず地方へに利益供与に執心し、いまだ領地の幻想に憑かれている。おまけに、情報封鎖がお好きときた。冷戦構造が終結し、大国の影響力が弱まりつつある時代に、寄りかかり外交では危険である。既に準四次大戦が始まっているというのに...
「日本側が認識すべき厳しい現実は次のことである。... 現代世界では情報制空権さえもっていれば、"真実(少なくとも政治レベル)"は作れるのであり、そして中華文明圏の上空において、日本側が情報制空権を握れる見込みはほとんどないということである。」
もはや唯一の戦略は、単なる民主主義のレベルを超え、普遍的な理念を持つことしかあるまい。しかしながら、人間社会には陸軍的な論理に引きずられやすい傾向がある。愛国心ってやつは陶酔しやすいだけに歪みやすい。数千年に渡って変えられなかった意識を無形化世界の力学によって変えることは、突然変異でも起こらない限り難しかろう...

2014-12-21

"ラファエロ" 若桑みどり 著

「ラファエロには、ただ一つの傑作というものはない。彼のどの作品にも、"刹那よ、とどまれ!"ということはできない。彼は水であり、河である。それも、澄んだ河である。まわりのものを誰よりもみごとに映して見せる、鏡のごとき河である。彼が本当に持っていたもの、それは透明さなのだ。それは、自己の色を持たないということを意味している。」
ラファエロは、盛期ルネサンスの三大巨匠の中でも地味な存在、いや、他の二人があまりにも強烈なキャラクターであったと言った方がいい。レオナルドは科学者、哲学者であり、その万能者ぶりは群を抜いている。おまけに、同性愛の容疑をかけられた。ミケランジェロは、神がかりな新プラトン主義者であった。
レオナルドにとって、自然界は既に秩序が失われ、怪奇と謎の得体の知れぬ創造と破壊を繰り返す、魔術的な力の場であったという。より人間と神との対立を敏感に感じ取ったミケランジェロは、ルター派のような神による救済を信じることができず、烈しく苦しみ抜いた生涯を送ったという。
対して、ラファエロは、それほど深く思い悩む人ではなかったようである。その思想は大衆性に根ざしたもので、意図的に宗教的な権威を批判したのか?あるいは、素朴な感情がゆえに崇高な思想を排除したのか?本書は、レオナルドとミケランジェロが改革家ならば、ラファエロは神のごとき剽窃家であったとしている。

芸術家は、革命家になるか、剽窃家になるかのどちらかだ。...ポール・ゴーギャン

しかしながら、バロック期に宗教の大衆化の波が訪れると、むしろラファエロ芸術が権威と結びつく。16世紀半ば、反宗教改革のカトリック教は大衆性に着目し、ミケランジェロを避難してラファエロを持ち上げた。崇高で重々しい歴史を説くよりも、分かりやすく、親しみやすく、面白がらせる方が洗脳しやすい。そして、ロマン主義の時代になると、古き様式の権化とされ、激しい批判に晒される。ジョルジョ・ヴァザーリはこう語ったという。
「私はかく思う。ラファエロはミケランジェロに比肩しようとしたが彼に近づくことはできなかった。そこで彼はこの巨匠の手法を真似ることを止め、別の分野で、カトリック的な名声を得ることにした。たとえ誰であるにせよ、我々の世代の人間が、ミケランジェロの作品のみを研究しようとすれば、我々は彼の極度の完璧さにはけっして至りつくことはできない。... だが、カトリックの教えと、他の分野とをめざせば、自分たちにもこの世に役立つことができよう。」

1. 異色の肖像画
肖像画の技術において、レオナルドの「モナ・リザ」がバイブル的な存在であったことは確かであろう。それが男性像であっても、人物の角度といい、色彩の用い方といい、「アーニョロ・ドーニの像」、「一角獣と貴婦人」、「唖の女」、「バルダッサーレ・カスティリオーネの像」などの作品に見て取れる。
しかしながら、「ラファエロとその友人の像」は、やや異色である。晩年によく見られる様式だそうで、古典主義の原理からまったく外れているという。37歳という若さで死に、晩年と呼ぶのも、ちと違和感があるが。
非常に強い明暗と極端な短縮法、おまけに偏った配置は、確かにレオナルド式とは程遠い。画面の大部分を占める武人のポーズは、上半身をひねり、差し出された手が妙に強調されている。光のあたり具合では、後ろで控えているラファエロの肖像が浮き出されるような仕掛け。一瞬、友人が主役かと思いきや、じっくり眺めると、やはり主役はラファエロ自身か。遠近法と光源効果を巧みに組み合わせた手法を魅せつける。

2. 古典主義とキリスト教文化の不完全な統一
レオナルドとミケランジェロは、古典主義とキリスト教文化をルネサンスにおいて見事に統一した。対して、ラファエロには、その統一性において不完全だという酷評がある。
その対象とされる作品が「墓へと運ばれるキリスト」。フィレンツェ時代の最終作品で、まだ未熟だったということか。本書は、その意味を擁護している。この作品は、息子を殺されたアタランタ・バリオーニの依頼によるもので、死者を運ぶ若者と嘆くマグダラのマリアに、母とその子の肖像を描かなければならなかったという。主要人物は、バリオーニ家の人々というわけだ。重厚な歴史画に個人の肖像画を埋め込むという構想が、なんともアンバランスな感じを与える。
しかしながら、神話の世界において、優美な女神の裸体像などは完成度が高い。「三美神」では、互いに背く貞節と甘美を結び、そこに我を配置した三位一体図は、宗教画の域を脱しており、高尚さや崇高さを失いつつも、節約簡素な古典的イメージを醸し出す。背く二つの徳の仲裁に入れば、二倍の徳をともなって、我に返るとでも言いたげな...
「アダムとエヴァ」は、ユリウス2世の依頼で「著名の間」の天井の区画に描かれた作品で、キリストによる贖罪の原因となった人間の祖先の原罪を表しているのだとか。
この手の作品は、芸術性が高いのかもしれないが、裸体の不自然さと、無理なポーズが理解不能。完成度において一貫性を欠いているのは、パトロンの思惑次第というところもありそうか...
一方で、聖母の特徴は、一貫性を保っている感がある。「ひわの聖母」「緑野の聖母」「カニーニの聖家族」「フォリーニョの聖母」などは、連作として眺めると聖母へ昇華していく様子が伺える。

3. 神学的ヒエラルキー
「アテナイの学堂」は、階段を使った見事な遠近法の中に古代ギリシアの偉人たちを勢揃いさせる。階段は、形而上から形而下に渡る学問の格付けであろうか... といったことは前記事で触れた。
これと似たような主題に「聖体の講義」という作品がある。「講義」というネーミングはヴァザーリの記述から誤って伝えられ、この構図に相応しくないと指摘している。本来、教会または秘蹟のトリオンフォ(勝利)と題されるべきであると。画面の中心は、輝く聖体盒に入った聖餅で遠近法的中心点になっていて、同時に、天と地、霊と肉との奇蹟的な合体である秘蹟の意味が、遠近消失点と合致しているという。そこに三位一体のシンボルが加わり、縦軸に天と地の人々の半円状の環が取り巻いているという構想だとか。地上の人物がだいたい実在人物の肖像画とされるのも、「アテナイの学堂」と同じ趣向か。ルネサンス期の人物像を、天球に配置して崇めようとでも...
また、「パルナソス」では、9人のムーサイ(詩女神)に囲まれて、丘の頂で竪琴を奏でるアポロンを中心に、古今の詩人たちや神々が並ぶ。左側には盲目のホメロスとかたわらにダンテ、右側にはバルダッサーレ・カスティリオーネとも、ミケランジェロとも言われる人物。9人のムーサイに支配される9つの詩の分類に従って、新旧の詩人が選ばれているという。古代の詩人に、ルネサンス期の人文主義者たちの肖像を置いて、古代文芸の復活をイメージしていると。
とはいえ、「聖体の講義」と「パルナソス」の二つの作品は空間的な精彩を欠いており、「アテナイの学堂」ほど遠近法と神学的ヒエラルキーという構想が結びついたものはあるまい。

4. 遠近法の破綻と崇拝の破綻
「ヘリオドロスの追放」は、16世紀の激情に放り込まれるような作品で、右側に激情が集約され、左側に不安が集約されるという構想。神殿から略奪するヘリオドロスを馬で踏みにじる天の騎士と、恐れおののく女子供たちの表情が、事件の残忍さを物語る。さらに、左端で平然と傍観している人物はユリウス2世か。静と動の意識的な配置が、劇場鑑賞を思わせ、激情の明暗と遠近法が見事に融合する。
「ペテロの救出」にも、明暗の調和による激情の物語がある。中央には、鉄格子の中で眠るペテロと、救出しようとする天使の姿を輝かせる。右側には、天使に導かれて牢を出るペテロと眠りこける兵士たち。左側には、囚人の逃亡を知って駆けつける兵士たちが、月光の下で浮かび上がる。
これとは対照的に、激情とは一変した冷静さで奇蹟を物語っているのが、「ボルセーナのミサ」。1263年にボルセーナで起こった事件を題材に、不信の司祭が手にした聖餅が血を流した奇蹟を描いている。ユリウス2世と従者たちは、奇蹟を予知していたかのような冷静さで、背後で群衆がざわめき、ロウソクがゆらめく。奇蹟の偉大さをユリウス2世の前では当然とし、逆説的に教皇の偉大さを示しているとすれば、却って庶民が期待する激的なものは伝わらない。
さらに、「ボルゴの火事」では、遠近法によって主題が隠された感がある。9世紀半ば、レオ4世の治世に起こった火事を鎮める奇蹟を、時の教皇レオ10世の讃美として描いた作品。中央のはるか遠くに、教皇らしき人物が見えるものの、火事で大騒ぎしている民衆が強調され、もはや主題は奇蹟というより火事そのもの。壺に水を入れて運ぶ人々、裸体で壁をよじ登ろうとする男、壁の上から子供を拾い上げようとする女、老人を背負って逃げ惑う男、両腕を祈るように掲げる女たち... A.M.ブリッツィオは、「ギリシア悲劇の舞台」と解した方がいいと言ったそうな。
ついに、「オスティアの戦い」では、遠近法が崩壊する。空間的構想より主題を強調することで、合理的な空間を形成することはあるだろう。だが、題名からして海戦が主題であるはずなのに、船団は遠くに描かれ、手前で人々がごった返している様子。祈っている人々や司祭やら、負傷者や捕虜やら、床を掃除している男やらが目立ち、もはや何を描きたいのかも伝わらない。遠近法の破綻が精神の破綻にも映るのは、パトロンである教皇の精神を映し出しているのであろうか。なぁーんだ、このブログと同じじゃないか...

2014-12-14

"ラファエロの世界" 池上英洋 著

1520年... 美術の教科書では、この年をもってルネサンス期の終焉とするそうな。なんのことはない、ラファエロが亡くなった年である。彼を盛期ルネサンスとマニエリスムのどちらに区分するかは微妙であろう。既にバロック様式を体現していたとする意見も耳にする。37歳という早すぎる死にも、係わりがあるかもしれない。芸術家として成熟を極めた年齡とは言い難いのだから。いずれにせよ、芸術様式がある年をもって突然変化するわけもなく、歴史における便宜上の問題でしかあるまい。
さて、盛期ルネサンスの三大巨匠といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ。代表作でいえば、レオナルドの「ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)」や「最後の晩餐」、ミケランジェロの「ダヴィデ」とすぐに思い浮かべることができる。
しかし、ラファエロのものとなると、どうであろう。そういえば、ある専門家は、ラファエロ好きなどと発言すると変わり者という目で見られる、と語っていた。三人の中で最も地味な存在という印象もあるが、実は一番好きな画家だ。もっとも美術的な価値は分らないが、動的な物語に惹かれるのである。
あの「アテナイの学堂」には、ネオプラトニズムが存分に顕れている。古代ギリシアの偉人たちが賑やかに勢揃いし、しかも、ルネサンスの著名人たちをモデルにするという洒落が利いている。中央のプラトンのモデルがレオナルドというだけで、その存在感が伺える。階段の下で、のんびりと肘をついているヘラクレイトスのモデルは、ミケランジェロ。右下で幾何学を講義するユークリッドのモデルは、建築家ドナト・ブラマンテ。ラファエロ自身は、右端で遠慮気味に顔を覗かせるアペレスとして描かれる。個人的に見過ごせないのが、階段の中央でだらしなく横たわっている犬のディオゲネス。このモデルは誰であろうか?乞食の代名詞をわざわざ名指しすることもなかろうが...
こうした着想は、古代文化に匹敵するほどの偉大な時代を生きていることへの自負心であろうか。美術オンチの酔いどれですら、いつかはヴァチカンの「ラファエロの間」を訪れてみたいと夢見るのであった...

万能人を多く輩出したのも、この時代の特徴であろう。ミケランジェロにしても、ラファエロにしても、芸術家でありながら建築家でもあった。レオナルドに至っては、科学者、数学者、あるいは発明家とも呼ばれる別格。
ルネサンス時代に古典文化を重ねるということは、多彩な学問の融合が要求されるであろう。そもそも古代ギリシア・ローマ文化は神話的な多神教の世界であり、キリスト教的な一神教の世界とは相反する。そこで、聖書の下で、神話の中に登場する神々の新たな解釈が求められる。おそらく、信仰心を超越した普遍的な抽象レベルにおいて、思想の融合を図るしかあるまい。この時代の芸術家たちが自然科学にも精通していたことは、必然だったのかもしれない。幾何学に精通した様子は、遠近法の作品群が如実に物語っている。信仰的な矛盾を犯しながらも、古典回帰の思想が生まれたのは、よほど宗教の暴走を嘆いた時代ということであろうか...
18世紀になると、産業革命とともに中産階級が台頭し、絶対君主の庇護にあった美術作品は批判の的とされる。ロマン主義の時代には、ラファエロ芸術もアカデミズムの権化として攻撃されたという。芸術作品が、政治思想の象徴として描かれてきたのも事実。ラファエロがルネサンス期の最後を飾ったことも、古典至上主義の代名詞とされた一因であろう。芸術作品に宗教思想のレッテルを貼って、古臭いカノンなどと攻撃を受けたり。偉大な思想は、後世の解釈のされ方によって、ほとんど言いがかりのような批判に曝されることがある。今を生きる人間は、流行の意見に惑わされがちで、純粋な価値が見えないもの。
しかしながら、偉大な芸術は、時代の潮流から切り離されて、純粋に評価させようとする力がある。死後に再評価されるのは、偉大な学芸家の宿命なのかもしれん...

1. アテナイの学堂
階段を使った見事な遠近法の中に古代ギリシアの偉人たちが勢揃いする作品で、「署名の間」に描かれたフレスコ壁画。ただ、人物にばかり目がいっていたが、本書はその構造上の解説を加えてくれる。
聖堂の象徴的なアーチの奥に、二体の巨大な大理石像が配置され、左側がアポロン、右側がミネルヴァ(アテーナー)で、芸術と知識のシンボルが描かれるという。ルネサンス芸術とギリシア知識の融合というわけか。神話の神々は多神教、いわば、異教徒の神だが、これらが教会支配下の中心、つまりは聖堂において集約されるってか。どんな異教であろうがキリスト教の下で一元化できるというのも、ちと無理があるけど。なるほど、パトロンは戦争好きのレッテルを貼られた教皇ユリウス2世か...
ところで、この作品には昔から考えさせられることがある。それは、階段が何を意味しているかということ。最上段では、自著「ティマイオス」を脇に抱えるプラトンと、隣で語り合うアリストテレスも何やら著作を抱え、二人で共に歩きながら、やがて階段を降りるであろうことを想像させる。最上段が最上の哲学の原型であるイデアだとすれば、階段の下へ行くほど現世に近づき、どんな叡智もやがて庶民化していき、下っていく... と解するのは行き過ぎであろうか?階段の下でヘラクレイトスが肘をついているのは、現世で諦めの境地に達したようにも映る。階段下の右側で民衆相手に講義しているユークリッドは、幾何学と現実空間の親和性を物語っているのであろうか。ラファエロ自身をアペレスに重ねて、幾何学のグループに属しているのも興味深い。
犬儒学派ディオゲネスが階段の中央で横たわり、まだ階段の下に足が到達していないのは、この狂えるソクラテスはまだ救いの領域にあるとでもいうのか?あるいは、昔を懐かしんで階段を登ろうとし、疲れきっているのか?はたまた、形而上から形而下への格付けなんてものは、所詮人間が編み出した価値観に過ぎないと蔑んでいるのか?
尚、この作品には、女性数学者ヒュパティアも描かれるが、別の作品「天体の起動」に描かれる天使に祝福される女性もヒュパティアではないかと想像してしまう。映画「アレクサンドリア」でも描かれた彼女は、狂信的なキリスト教徒に八つ裂きにされる運命を辿る。「天体の起動」もまた「署名の間」に描かれたフレスコ画だそうな...

2. 女の達人!?
「美術家列伝」の著者ジョルジョ・ヴァザーリは、ラファエロの早すぎる死の一因を過度の女好きに求めたという。神々しい女性を描いた作品群が、親しみやすい雰囲気を漂わせているのは、実存する女性を描いたためだとか。しかし、派手な女性関係を噂されながらも、特定の女性との交際を裏付ける資料はほとんど残っていないという。証拠を残さないとは、よほどの達人か!
パトロンの枢機卿メディチ・ビッビエーナから、姪マリア・ビッビエーナを紹介されて婚約したのは確かなようである。だが、婚礼に至らぬまま、彼女は1514年に急死したとか。彼女への遠慮からか、あるいは、枢機卿の推挙で聖職者としての重職に就く可能性があっためか、表向きは生涯童貞を宣言したという説もあるそうな。一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。愛はホットな女性の数だけあるとすれば、独身貴族こそ純粋な平等主義者となろう。実際、彼は生涯独身を通したという。
この時代の肖像画は、男性像であっても、人物の角度といい、色彩の用い方といい、レオナルドの「モナ・リザ」がかなり意識されているようである。
作品「ラ・フォルナリーナ」には、腕輪に「RAPHAEL VRBINAS」と銘記され、ラファエロの「秘めたる花嫁」という伝説が生まれたという。パン屋の娘という意味だが、日本流であれば、ラファエル命!と腕に入墨をやるところであろう。シエナ出身のマルゲリータ・ルーティがモデルとされ、高級娼婦との説もあるらしいが、実在人物かも定かではないらしい。
作品「ヴェールをかぶった婦人(ラ・ヴェラータ)」に描かれる女性もフォルナリーナと同じ人物とする説もあれば、花嫁特有の仕草から、婚約者マリア・ビッビエーナと考えられるむきもあるという。
さらに本書は、ちと興味深い指摘をしている。それは、作品「システィーナの聖母(サン・シストの聖母)」のマリアにも酷似していること。愛する女性を理想化し、聖母として神格化させることは、男の深層心理としてありがちな話である。ましてや、女性の死が早いとなれば、若く美しいままの姿で記憶に留めることであろう...

2014-12-07

壊れかけの Raid

いまだ、ハードディスクがいきなり壊れるという経験がないのは、幸運であろう。この手の呪いは、なんらかの前兆がある。不良セクタが見つかるやら、アクセスのリトライが増えるやら、異音が鳴り始めるやら...
そして今回は、BIOS がゲロを吐く... "AHCI PORT0 Device Error"
Win7(64bit)でも... "ハードディスクの問題が検出されました"

モノは、DELL Studio XPS8100(2010年購入)内蔵 HDD...
  Seagate ST3500418AS(500GB/7,200RPM)
  # Motherboard: 0T568R(SATA)

お陀仏になる前に交換することに...
  Western Digital WD5003AZEX(500GB/7,200RPM)

1. Win7 の復旧で、ちと手間取る...
いきなりインストールで失敗!途中で固まる。たまたまかと思いきや、再度やってもダメ。
あっそうだ!BIOS の S-ATA 設定が、RAIDモードになっていた。Win7 のインストーラは対応していないが、必要なドライバを参照できるようになっている。DELL提供のドライバディスクにある RAIDドライバを、外部のメディアに展開しておいて、インストーラに食わせればいい。いや、最新版をどこからかダウンロードしてきた方がいいだろう。
さて、パーティションは、ブート領域に 100MB を確保する仕様になっている。なるほど、ここにシステムを置いて、起動安定性を確保するという戦略か。壊れたら、とりあえずこの領域を修復すれば起動はできる。
しかし、HDD が破壊される確率は、物理構造に依存することに変わりはない。システム領域よりも、データ領域のバックアップの方が重要であろう。

2. RAID から ATA へ
ところで、RAID にする意味ってあるんだっけ?内蔵HDD が一台しかないというのに。購入時、なぜ RAIDモード?と思ったが、深くは突っ込まなかった。工場出荷状態で、数MB のゴミのようなパーティションを切っているのは、気になっていたが...
ミラーリングだけなら、外付 HDD で十分!ただ、速度重視で内蔵HDDを増設して、RAID 0 で組む手はある。
とはいえ、Surface Pro3 のおかげで SSD に魅せられ、少々静かでパフォーマンスの高い HDD を持ちこんでも、まったく感動できない有り様。SSD で RAID を組むなら元気も出そうか?
てなわけで、BIOS の設定をATAモード(no AHCI)で再構築することにした。

3. ネアンデルタール人のバックアップ思想
ちっぽけな事業所とはいえ、ミラーリング(RAID 1)ぐらいは構築しておきたい、と考えたのが十年以上前。当時、RAIDといえば、サーバといった大掛かりなイメージがあった。そして、大昔のバックアップ思想が残っている。作業領域の差分データをサーバへ ftp して一括管理し、サーバ側で日々の差分をバックアップして、週末に全体を再構築するといった具合。大規模な事業所ならともかく、バックアップテープの発想だ。こんなやり方はとっとと捨てたいところだが、せっかく自動化しているのだからもったいない!という意識が妙に働く。これには、深かぁ~い言い訳がある。面倒くさい上に、当時の思考回路が再現できないときた。
見直せど見直せど、なお我が魂、官僚主義に沈みつつ、じっと手を見る...