2013-05-26

"貧乏人の経済学" Abhijit V. Banerjee, Esther Duflo 著

「貧乏な人々を紋切り型の束に還元しようという衝動は、貧困が存在するのと同じくらい昔からあります。」
貧困層に自由を... 人権を... 支援を... 紛争の撲滅を... こうした発想はどれも、それなりに真理を含んでいるのだろう。だが本書は、涙するような悲惨な物語の盛り立て役でしかないと指摘している。政府の支援策がことごとく失敗するのは、本当に何をすべきかを知らないからであろう。有識者たちは、困っている人たちの意見を聞こう!と主張する。しかし、だいたい要求や文句を垂れるのは少し余裕のある人で、本当に苦しんでいる人はそれを口にする機会すら与えられない。プロの開発経済学者や訓練を受けた政策立案者でさえ、貧困生活を単純なモデルに頼っている。そもそも自分以外の人を理解することなど、できるのだろうか?自己ですら理解できないというのに...

自分がいい目にあうと、誰かに喋りたくてしょうがない。そしてつい、同じように振る舞うよう押しつけてしまう。だが、その助言が仇となれば、却って宗教勧誘のごとく有難迷惑となる。価値観に多様性を認めれば、支援という行為も慎重にならざるを得ない。
しかし、だ。支援には、ある程度の強制的、義務的なところも必要であろう。豊かな国の住人こそ、義務教育や福祉制度を半強制的に与えられた受益者である。実際、生活の自由を信じながら、子供の予防接種などが義務化されている。
ただそれは、社会が機能して始めて受益者となりうるのであって、腐敗した社会では制度そのものが歪められる。情報がなく知識も乏しいとなれば、迷信めいたものに頼ろうとする。例えば、多くの子供が下痢で命を落とす状況にあって、塩素漂白剤で飲料水を殺菌するだけでもかなり効果があるというのに、母親たちがそれを信じないで無料配給券をあまり使わないという。水を清潔にし、蚊帳を使うだけでマラリアから子供を守り、駆虫剤や栄養強化小麦粉などでも健康面で大きなメリットがあるのに、そうした安価なものに興味を示さないのだそうな。ちゃんと注射してくれ!高価そうに見える治療を恵んでくれ!というわけだ。そして逆に、不必要な治療がリスクを高める結果に。注射針を殺菌しないまま使い回し、村全体にB型肝炎を感染させる医者がいれば、無資格医師が繁盛する始末。おまけに、教育制度も歪んでいて意識改革も儘ならない。経済的な貧困も問題だが、知識の貧困の方がはるかに問題のようだ。
とはいえ、豊かな国の住人でも、ブランド品というだけで目を奪われ、高額というだけで自慢したりする。いくら生活が豊かになっても、精神は貧困のままというわけか。そして、不必要な情報が社会を混乱させる。金融危機といった現象は、まさにその典型。仮想価値に群がり、一斉に価値を陥れる様子は、まさに迷信に憑かれたごとく。経済的な行動原理に豊かさも貧しさも関係ないのかもしれん。
デフレ不況における若年層の失業問題は、やる気がない!とか、自助努力しろ!とか、そんな意見を言うほとんどの人が、安楽にサラリーマン時代を過ごしたり、バブル期を謳歌して起業した連中である。バブル時代では、学生を集めるために新人教育がハワイ旅行とセットになっている企業があったりと、何かが狂っていた。今は別の意味で狂っている。一昔前、高齢者の医療費免除によって、病院の待合室が老人の井戸端会議の場として占拠されていた。今では、現役の給料をむしりとってまで、企業年金が居座ったまま。経済成長の右肩上がりを十分に味わい、社会制度に守られてきた連中が、今時の若い者は...と説教を垂れたところで説得力を感じない。そして、今時の年寄りは...とつぶやかれるのであった...

さて、著者アビジット・V・バナジーとエスター・デュフロの分析法は、「ランダム化対照試行」と呼ばれるものだそうな。物理学の扱う現象では、条件を揃えて比較検討ができるように配慮する。対して、社会学や経済学の扱う現象は、条件の抽出が不可能なぐらい難しく、絶望的な状況にある。二つの村を比較したところで、民族構成や社会慣習も違い、同じような計測が成り立たない。市場はどこにでもあるが、個人や集団によってそれぞれ市場との距離が微妙に違う。ある地域で驚くべき効果を上げたからといって、その政策を他の地域に適用しても逆効果になることすらある。
そこで、ランダム化対照試行では、個体別に条件を揃えなくてもいいんじゃないか、という発想があるという。理念だけあれこれ議論しても結論は出ないので、実際に試してみるしかあるまい。しかし、実験的に施策を試みることに批判もある。観察目的で地域別に施策を変えるのは不公平といった意見が。いずれにせよ、施策に効果があるかどうかなど誰にも分からない。所詮、人間社会は試行実験の場でしかないということか...

1. 不合理な行動原理
餓死寸前ともなれば、いくらなんでも食べ物が優先されるだろう。だが、貧乏が定着した社会では、たとえ腹ペコであっても、カロリー摂取よりテレビが優先されるという。海外から食糧支援が行われているというのに、民衆はテレビも、パラボラアンテナも、DVDプレーヤーも、携帯電話も持っているとは、これいかに?人生において、退屈とは、飢餓と同じぐらい苦しいものなのかもしれん。
貧乏子沢山というのも不合理に映る。暇だと子づくりぐらいしかやることがないのか?避妊法の知識が乏しいこともある。社会的地位に男女格差があれば、男子が生まれるまで励む。就学や就職に優劣があれば、男子が将来の社会保障制度として機能する。そして、病気に対する治療意識に差が生じ、男女の人口バランスまで歪ませる。インドには「嫁焼き!」というものがあると聞く。ノーベル賞経済学者アマルティア・センは、足りない女性を「喪われた女性たち」と呼んだとか。望まない出産によって生まれた子は、犯罪に走りやすいという見解も聞く。社会秩序という観点からも、避妊法は重要な意味がある。だが、避妊そのものが宗教的にタブーとされる地域も多く、HIV/AIDSの感染率とも関係するデリケートな問題である。
知識が乏しいからといって、教育制度を整えても効果が上がらない。就学率が上がらないのは、学校がないからではなく、子供自身や親が学校に行かせたがらないからだという。家族の露店や店の手伝いをする子供たちは、小学校で教える計算よりもずっと複雑な計算を暗算でやってのける。親たちが、公的な教育効果の質に疑いを持っているばかりか、教育や知識を金儲けの手段ぐらいにしか考えておらず、どうせ学校にやるなら、私立を目指しエリート志向を強める結果となっている。ちなみに、我が国にも昔々、学校に行く暇があるくらいなら、商売の手伝いでもしろ!と説教された時代があった。
また、選挙を実施したところで、誰に投票していいか分からず、選挙の意義も知らない。だから、同じ民族や同じ出身者に投票するだけで、そうした集団行動が既得権益による腐敗を助長する。ただ、このような投票行動は、我が国の後援会選挙と同じに映るのは気のせいか?
ところが、彼らの行動原理も、知識をちょっと与えるだけで、がらりと変化するという。投票行動にしても、民主主義的な知識をちょっと与えるだけで、正反対のインセンティブを働かせることができると。人が愚かな行為をするのは無知にほかならない、という考え方はソクラテス流の教義にある。そして、無知を自覚できる者こそが、賢者というわけだが、インセンティブの働きとは、まさにそれか。人間は不合理な行動がお好き!お金をドブに捨てるような使い方をするのは、どこの国にも見られる。ちなみに、世界人口で2%にも満たない日本人が総額保険料の20%近い保険料を支払っていることに、外国人たちは滑稽に思っているようだ。高額療養費制度まである国で。おまけに長寿大国!そんなにお金が余っているなら、自己投資でもすればいいのに...

2. 奇妙な貯蓄法とインセンティブの働き
途上国では、都心から郊外へ出ると、未完成の家がたくさん見られるという。屋根がなかったり、窓がなかったり、壁が作りかけだったり。それは、貯蓄の手段なのだそうな。手元に現金が余ると、少しずつ家を作っていく。何年もかけて煉瓦100個ずつ建てられる。これが、1日99セントで生活する人々の暮らしで、貧乏だからこそ巧妙な貯蓄法を考えだすという。豊かな国の住人でも、少しづつ増築したり、家具を徐々に増やしたりする。古くから貧乏人は無能で怠惰という見方があるが、貧乏人が貯蓄しないのはお金がないから、という考えはどうも豊かな人の勝手な発想のようだ。
小口の貯蓄口座にしても、銀行側は管理するのに手間がかかる。そこで、インドで人気の「自助グループ」は、コストを下げる方法の一つで、メンバーたちが貯蓄をプールして、引き出しや預け入れを協調して行う仕組みだという。貧乏人にだって、貯蓄が将来の保険として機能することを心得ている。
しかし、肥料に関する行動は腑に落ちない。農民たちは無料で肥料を提供しても使わないという。肥料による年間収益率は、少なく見積もっても7割を超えると推計されていて、効果に対する知識がないわけではないらしい。肥料は少量ずつ買っても使えるので、ごくわずかな貯蓄があれば、活用できる絶好の投資機会となるはず。だが、農民たちは、収穫期から作付けまでの期間に、すっからかんになってしまうそうな。隣人の病気見舞いとか、お客の食事とか、近所付き合いを断りづらいとか...なんだかんだと物入りだとか。そこで、肥料を購入する時期を収穫直後にすると、肥料を使うように誘導できたという。適切な時期に、玄関まで届けてやれば、農民たちは喜んで肥料を買うのだそうな。それは、豊かな国の住人が、モバイル端末のおかげで最も欲求の高ぶるタイミングで物が買える行動原理と似ている。支援とは、こうした行動へのインセンティブを働かせることが重要だという。貧乏だからこそ、余計に自制心が必要なのかもしれない。自家用ジェット機で買い物に行く金融屋が破綻しても公的資金にたかれば済む、のとはえらい違いだ。
ところで、インセンティブには不思議な力がある。我が家で太陽光発電を設置したのが10年ぐらい前。計算上では15年で設備投資が回収できる予定だったが、妙にエコ意識が働き10年未満で回収できた。エコ意識や貯蓄心理というものは、快感になりやすい。意識改革とは、そうしたちょっとした事から始まるものかもしれん。結局、書籍代になって浪費されるのだけど...

3. マイクロファイナンスと初期誘導の難しさ
貧乏人向けの小口融資にマイクロファイナンスという事業がある。だが、かつて騒がれたほど機能するものではないらしい。貧困層は自立性を欠いているので、ボランティア的な性格を持つことになろう。実際、NGOが運営しているケースも多く、この関係事業でノーベル平和賞の対象となったケースもある。一方で、金融屋魂を強めるマイクロファイナンス機関もあって、借金を苦に集団自殺に追い込んだ事例もある。
本書は、マイクロファイナス機関は債務不履行を絶対に避けるべきだとする考えが強く、酷く柔軟性を欠くと指摘している。マイクロ融資は、グループメンバーの連帯責任という形で運営されるという。借金で連帯責任を負わされるとなれば、その利用を躊躇するだろう。グループの構成員ならば、他のメンバーに安全に振舞うように求めるだろうが、他人に口出しされたくもない。マイクロファイナンスに柔軟性を欠くならば、柔軟性のある高利貸しを頼ることになる。高利貸しが必ずしも悪徳業者ではないようだし、結局、高利貸しの引き立て役になってしまうのか。スーツで着飾り、証券取引所で活動するだけでは、真のビジネスモデルを構築することはできない。ドロドロとした現場にこそ、創意工夫というものが現われる。貧乏人は天性の起業家となりうる可能性があり、社会の底辺層から生じたビジネスの成功物語はいくらでもあるという。ゴミ拾いから始め、ゴミ分別モデルとゴミ収集の大規模ネットワークの構築で成功した者も、高利貸しから借金していたとか。
経済学者は、何かと限界収益といった用語を用いたがる。つまり、経営効率が成功の鍵を握ると。それも間違いではない。ただ、貧困社会には最初から非効率で溢れている。政府の施策や社会制度でさえ。限界収益は、利益が枯渇した時、投資を増やすか減らすかを判断する上で重要な考察となる。しかし、貧乏な事業では、投資が最初から限られていて、総収益がどうなるかの方がはるかに重要であると指摘している。小規模な事業が乱雑することも非効率の要因であり、限界収益が高くても総収益が低くならざるをえないと。小事業主のコミュニティ化に融資がセットになって生産性を向上させる。マイクロファイナンス機関が目指すものとは、そういうものであろうか。現実に起業することは難しい。利潤の再投資に対して見通しがなければ、借金しても苦しむだけ。ここに初期誘導の難しさがある。バラマキ政策がうまくいかないのは、非効率性を助長するからであろう。世界最大級のマイクロファイナンス機関FINCAのCEOジョン・ハッチは、こう語ったという。
「貧しいコミュニティに機会を与えて後は邪魔をしないこと」

2013-05-19

"実験心理学が教える人を動かすテクノロジ" B. J. Fogg 著

Captology(computers as persuasive technologies)。この用語を耳にしたのは、十年ぐらい前であろうか。コンピュータによる説得のための、あるいは動機づけのためのテクノロジ... 著者B. J. フォッグが名付けた造語だそうな。
コンピュータ設計が、擬人化エージェントという観点から議論され始めたのは、Windows95 が登場したあたりであろうか。むかーし、そんなセミナーに参加した覚えがある。今日、人間同士の社会的インタラクションをネット経由で構築する手法が定着した。その鍵となるのは、なんといっても相互信頼性であろう。本書は、コンピューティングによって構築される信頼性を、説得の観点から掘り下げてくれる。
近年、注目されるものと言えば、TED(Technology Entertainment Design) であろうか。TEDカンファレンスは、非営利目的で開催され、年会費7,500ドルとVIPの世界。ちなみに、講演者の側は報酬ゼロ。しかしながら、TED.com から無料で観賞でき、至福の時間が得られる。グローバルな視点から社会を変革しようと目論む著名人たちは、プレゼン能力を見せつける。まさに説得法の事例である。人を動かすものは好奇心から。そして、あらゆる思考は疑問から始まる... としておこうか。

説得とは、民主主義の根幹的手法である。言うまでもなく、強制や欺瞞といったものが排除されて機能する。アリストテレスの時代から、弁論術や修辞法が盛んに研究されてきた。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりになって同調している状態ほど都合のよいものはない。賢い見識を持った人たちですら、あるきっかけで愚かな判断を下し、異常な行動をとるものである。よって、説得は、自由意志が働いていると思い込ませる技術となりやすい。そぅ、ある種のマインド・コントロール!これが政治術ってやつか。政治の世界では、心地良い言葉や癒し系の言葉が乱用される。減税やら幸福やら友愛やら...根拠を精査すれば問題なさそうだが、人間には不都合な事は耳に入らない習性がある。
一方、コンピューティングの世界では、使いやすい!分かりやすい!といった言葉が乱用される。コンピュータの最大の武器は、面倒なことを肩代わりしてくれる便利屋になってくれることだろう。なにひとつストレスを感じることなく、従順な奴である。だが、機能が複雑化すると、デフォルト設定の罠が潜む。通信業界は、課金方向に誘導しやがる。サイトでは、面倒な説明文を読む前に、Yes!, Ok!, I agree! がクリックしやすく設計され、販売サイトの操作性が、ワンクリックボタン!をつい押させる。ネット投票が実現すれば、政治に参加しやすいくなるという意見も少なくない。おそらくそうだろう。だが、熟慮の上で選択がなされるかは別である。
さて、人間心理を操作する根本原理に恐怖心の刺激がある。人の行動パターンなんてものは、ほとんど自己存在、ひいては自己愛で説明がつくだろう。流行に乗り遅れる...アップデートしないと脆弱になる...などとちょいと不安を煽れば、人々はその情報に群がる。おまけに、自己存在の危機までも匂わせれば効果覿面!それは、生命の生存競争に裏付けられた原理である。大震災後に災害保険の加入者が急増する。感情論に左右されやすい国民性が、生命保険に群がりやすくさせるのかは知らん。リスクが露わになれば、人々はその考えを見直すだろうが、仮想化社会ではリスクそのものが偽装されやすい。
本書は、説得のためのテクノロジには倫理的問題が裏腹にあることを指摘している。「人を動かすテクノロジ」もさることながら、「人に動かされないテクノロジ」にも留意しておきたい。

人々は、なぜネットに依存するのだろうか?一つは人格形成にあろう。直接対話では、容姿、会話能力といったものを、リアルタイムの下で曝け出す。だが一旦ネット社会に身を置けば、人格までも装うことができ、自分の描く人物像が演出できる。
利便性は人々を衝動へ向かわせやすい。しかし、心理的に煽れば、自ら情報の信頼性を揺るがすことになろう。書店の売り場には、タイトルだけ変えて内容の似たような本が氾濫する。おまけに著名人の写真付きとなれば鬱陶しい。ネットには、お薦め!大好評中!といった宣伝文句が踊る。おまけに目障りなポップアップ広告!カスタマーレビューや口コミにしても怪しい。通販番組では、売り手の甲高い声が深夜に響けば、その周波数で頭が痛い。おまけに、おばさんたちの驚きの声で盛り上げる。こうした脂ぎった商法に、嫌悪感を持つ人も少なくないだろう。商売戦略では、長く付き合うユーザを遠ざけ、その場限りのユーザを囲い込もうとするやり方が流行りやすいのか?ただ、新しく見える手法を編み出しても、ユーザは飽きっぽいものである。
ネット社会には有効な情報が溢れているのも確かだが、絶対に知らなければならない情報となると出会うのが難しい。情報量が膨大になれば、相対的に重要である率は減少するのか?存在の重要度が低いから、余計に存在感をアピールするのか?情報能力は、収集能力から選択能力へと移行している。ちょっとぐらい時代遅れになったところで、大して困らない。そりゃ、新しい情報も知っているに越したことはないが、場合によっては、浦島太郎状態の方が真理を見極めるのに都合がいいだろう。いまや、経済循環やソーシャルダイナミクスは、消費を煽ること、流通を煽ること、情報を煽ることによって成り立っている、とさえ言えるかもしれん。

1. カプトロジ
コンピュータは、ツール、メディア、ソーシャルアクターとして振る舞うことができるという。そして、トンネリングの原理、カスタマイズの原理、監視、バーチャルリハーサル...などの原理から心理学を紐解いてくれる。トンネリングの原理は、ローン地獄や薬物依存といった抜けられない状況に陥ることで、カスタマイズの原理は、顧客固有のニーズにマッチした情報を提供することである。特に重要な機能は、ソーシャルアクターとしての役割であろうか。社交性における有効な原理に、人を褒める振舞いがある。どんなに厄介なユーザにも忍耐強く丁寧に応接できるのは、とても人間にはできない技である。コンピュータに褒められてうれしいかどうかは知らん。いや、リアルなお姉さんロボットに褒められれば、イチコロよ!
また、類似性の原理は興味深い。つまり、自分の行動や思考と似たエージェントに惹かれるというのだ。親近感が生まれるということはあるだろう。おいらの行動様式では、サービスの設計思想や哲学に注目する。じゃ、自由度や柔軟性に惹かれながら、細かいバグの多いサービスを利用するのは、自我が不具合だらけということか?納得だ!
さらに、互恵主義の原理が働くという。コンピュータが助けてくれた時、お返しをしなければならないと感じるのだとか。信頼関係とは、そんなところから生じるものではあるが、ほんまかいな?コンピュータに意思なるものを感じれば、そうかもしれん。というより、設計者の思想に共感することはよくある。
カプトロジでは、こうした人間の行動様式や思考方法を、いかにコンピュータに実装するかということを研究することになる。その意味で、人間が人間自身を理解しようとする学問とすることができそうだ。
「コンピュータが人間をどのように説得するのかが明らかになるにつれて、人間が他人をいかに説得するかについての新しい洞察が加えられていくことになる。」

2. 信頼性と説得
信頼性は、信用性と専門性の二つの側面から構成されるという。そして、信頼性のタイプを、仮定型、外見型、評判型、獲得型の四つに分類し、中でも獲得型が重要だとしている。やはり、信頼性を得るには地道な活動が一番のようだ。尚、おいらは三つ目の側面として、哲学的意志を加えたい。
信頼性は、説得力に直結する要素である。そして、説得には、最適な場所と最適なタイミングが重要だとしている。モバイルコンピューティングは、まさにそれを実現してくれる。そういえば、ユビキタスという用語をとんと聞かなくなった。いまや定着したということか?
コンピューティングが、思惑に惑わされない、客観的な情報を提供してくれるのであれば、権威を持つことができるだろう。しかし、コンピュータの意図を設計するのは人間であり、コンピュータの弾き出した結果を利用するのも人間である。正直で公正、偏見がないと見なされながらも、せっかくの客観的データが政治の思惑で無視される。近年の事例でいえば、災害で活躍するはずだった SPEEDI がそれで、先入観を持たないことが、いかに困難であるかを教えている。
ネット社会はコンピューティング依存をますます促進し、いまやその存在がなければ人間社会そのものが成り立たない。サイトの炎上騒ぎは相次ぎ、いじめでは被害者側が退場させられる始末。徹底的に叩くという歪んだ正義感が、公共の場をストレス解消の場へと変貌させる。見事なまでの集団性の悪魔の体現、その意思はどこから発するのだろうか?いずれ、コンピューティングによってカリスマ的な擬人が出現し、人間社会を扇動する時代が来るのかもしれん。ところで、リアルな擬人化社会では、女性ロボットとの関係で不倫は成立するのだろうか?

2013-05-12

"ゲーム開発のための数学・物理学入門" Wendy Stahler 著

ゲームプログラムを開発するわけではないが、こういう本を眺めているとノスタルジーな気分にさせてくれる。20年ぐらい前になろうか、コマンドラインのOSに勢いがあった時代、ブラウン運動やインクジェットの噴射といった統計的現象を視覚化する時、スクリーンライブラリを駆使したものである。グラフィックライブラリもあるにはあったが、一般化には程遠かった。スクリーン座標系とデカルト座標系が違うのは仕方がない。だが、いまだデカルト座標系には業界標準がないらしい。OpenGL と Direct3D で右手座標系と左手座標系で違うのも気になってしょうがない。確かに、万能な座標系を想定することは難しいだろう。空間座標を固定しない方が、想像空間も拡がるだろうし。そして、相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体は、自ら編み出した多種多様な空間変換系によって精神空間までも歪めるのだろうか?

さて、ここに登場する数学と物理学の知識は、極めて基本的なものばかりだが、疎かにはできない。ピタゴラスの定理や三角関数、あるいはベクトルで物体の軌道や投射物の運動を記述し、ニュートンの運動法則と運動量保存則で衝突をモデル化し、行列を用いて2次元空間から3次元空間へ拡張する。
また、運動の要素を観察すると、直線運動と回転運動に分解できる。そこで、ニュートンの運動法則における角運動量、すなわちモーメントとしての解釈が鍵となる。
ゲームでは、物理現象をいかにリアリティに描写するかが問われる。衝突現象を一つとっても、弾性衝突(完全弾性衝突)と完全非弾性衝突の二つの極端な現象の間で、非弾性衝突を記述するわけだが、そこで、はねかえり係数や摩擦係数を用いて按配を計算することになる。

ところで、ニュートン力学の中心的な概念に「力」ってやつがある。なんと曖昧な用語であろう。学生時代、エネルギーと何が違うのか?と悩んだものである。ガリレオは、著書「天文対話」で慣性の法則らしきものを語っているが、質量については、おぼろげな認識しかなかったようである。アリストテレスの運動論以来、インペトゥス、モーメント、トルク、エネルギー、フォースなどと用語が乱立するのも、質量問題は哲学の存在問題との境界をさまよってきた歴史がある。アインシュタインは、あの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示した。おかげで、ニュートンの運動方程式から力をエネルギーに換算することができる。
また、力と同様、曖昧な語に「仕事」ってやつがある。物体に加える力と、その変位との積によって定義される物理量である。仕事と力の関係から、運動エネルギーや位置エネルギーに分解されると、力学的エネルギーとの関係が記述できるようになる。
さらに、「運動量」「力積」という物理量が登場する。運動量は、質量と速度の積で定義され、絶えず変化する速度によって決まるので、物体の状態を示している。力積は、力と時間の積で定義され、運動量の変化量を示している。
本書は、瞬間運動量や、時間における運動量の変化を考察することに重要な意味があるとしている。運動の軌道を具体的に記述するには、エネルギーを運動量として眺める必要があろう。エネルギー保存則は、力と仕事を通じて運動量保存則に置き換えられるという見方もできそうである。人間認識とは、なんらかの運動に対して生じるものであり、ニュートン力学と運動量の法則があれば、大方記述できるというわけか。ゲームの中にニュートンとデカルトの融合があったとは...
人は、ある現象を説明する時、本能的に力関係を感じたり、努力を仕事量で計ったりするところがある。政治の力、金の力、愛の力などと言えば幻想にしか思えんが、人間認識ってやつはデカルト式実存論がお好きなようだ。尚、ニュートンとデカルトで霊感まで記述できるのかは知らん。

1. 変換系と三角法
「アフィンとは移動後もオブジェクトの基本的な形が保たれるという意味です。」
アフィン変換に関しては様々な記述を見かけるが、ここでは、平行移動、スケーリング、回転について言及される。この変換系には、力の合成や非均一なスケーリングも含まれる。
さて、最も単純な幾何学的軌道は直線である。デカルト座標系では、直線は始点と終点だけで記述できる。その性質には傾きが生じ、それだけで直角三角形と相性がいいことが分かる。そこに角の概念を持つ三角関数を用いれば、直線運動と回転運動の変換が容易になる。ニュートンの運動法則を回転運動として解釈するには、デカルト座標と極座標の変換が欠かせない。

2. 内積と外積
幾何学的な直角の概念は、重要な意味を持っている。線と点の関係では、垂線というだけで、そのスカラー値が距離を示す。さらに、ベクトル空間を用いれば、代数学的な直交性の概念に抽象化され、内積や外積が導入できる。
内積は、ゼロの時は垂直、負の時は直角より大きい、正の時は直角より小さい。この性質は、物体が視野内にあるかどうかの判定に使えたり、正規化すれば投影物の運動も記述できる。つまり、内積は2つのベクトルの関係を示しており、物理現象の観察において重要な道具となる。また、行列演算では、直交性によって演算を簡略化でき、幸せになれることを付け加えておこう。
一方、外積は2つのベクトルに対して、垂直な3つ目のベクトルを生成する。内積の結果がスカラー値になるのに対して、外積の結果はベクトルになる。そのために、外積を使って面法線を計算することができる。曲面に対しては放射ベクトルを生成することもできるわけだ。そして、内積では交換法則が成り立つが、外積では交換法則が成り立たない。

3. 衝突の検知と物体の境界
自動車をモデル化する時、車輪、車体の中央部、前部、後部というように円で分割する。そして、自動車全体を円で囲むことで、その中心点を位置情報とする。こうして複合円の階層構造によって物体を構成する例を紹介してくれる。衝突の検知では円周を境界とし、そのダメージを円の交差点としてモデル化すれば、円の方程式が物体の境界条件にできるという寸法よ。

2013-05-05

"次元の秘密" 竹内薫 著

次元大介の秘密は、早撃ち0.3秒のプロフェッショナル、その境界条件は、帽子がゾウアザラシのオス四歳の腹の皮製でなければならないことである。
さて、言わずと知れた超難解な超ひも理論。これを一般向けに解説するにはどうすればいいか?そんな試みをしてくれる、ありがたい書がある。分かった気になれるということが、どれだけ幸せなことか。知識ってやつは、具えた度量の範疇で身に付ける分にはすこぶる心地良い存在だが、精神次元を超えた途端に面倒な存在となる。分かりやすくすれば、厳密性をある程度犠牲にせざるを得ない。時には、暗黙で了解することも必要であろう。これを抽象化と言うかは知らん。
真理を探求するには、こちらから高みにのぼっていくしかあるまい。だが、いくらのぼっても頂点が見えてこない。それどころか、一つ疑問を解決する度に続々と疑問が湧いてきやがる。知識はエントロピーな状況にあるのか?何事も、解釈することができても、永遠に理解することはできないということか...

本書は、次元の概念を「自然単位系」「Dブレーン」という切り口から迫る。ひもとは何か?宇宙の構成要素の最小単位に迫ろうとすれば、素粒子なるものにぶち当たる。素粒子がどこまで素粒子なのかは知らん。ただ今のところ、ボソン(ボース粒子)とフェルミオン(フェルミ粒子)とに種別される。ボソンには、ゲージ粒子がある。ゲージ粒子とは、電磁場における座標変換...それも回転変換が重要のようだが、時空変換とでもしておこうか...その変換系において対称性を示すようなものらしい。対称性とは、ある変換系を通しても基本的な性質が変わらないこと。具体的には、光子、弱い力を伝えるウィークボソン、原子核を作っているクォークを結びつけるグルーオン、重力を伝えるグラヴィトン(重力子)がある。一方、フェルミオンには、電子やクォークなどがある。物理学は、これら素粒子を扱う量子論と、運動の相対論との間で矛盾が生じることに悩まされてきた。そこで、ひもの特性から5次元以上の空間を仮定すると、素粒子と電磁場の関係が自然に説明できるとされる。
本書は、ボソンを力の素、フェルミオンを物質の素として、性質の違いを説明してくれる。しかも、対称性の中でも飛び切りの「超対称性」ってやつが、ボソンとフェルミオンの相互関係の入替えまで起こすという。力の素とはなんとも曖昧な用語だが、ニュートンは力を質量と加速度の体系で、運動の存在論として記述した。物質の素とは、ある種のポテンシャルと考えていいだろう。ただ、電磁ポテンシャルの本質に迫ろうとすると頭が痛い。
物質の存在を強烈に印象づけるものに質量があるが、アインシュタインは質量をエネルギーに転化した。さらに量子の存在は、エネルギーを運動とポテンシャルの体系で定義される。そして、素粒子のエネルギーの根源を突き詰めていくと、その正体がひもの振動であることに行き着く。それは、ギターの弦のように腹と節が生じるような運動を想定すればいいだろう。腹と節が境界条件として重要な意味を持ち、ひもの端点が固定される場合が「ディリクレ条件」とされる。
さて、人間の存在論も、肩書きや権威といった重みから、能力や意欲といったエネルギーに転化されてきた。そして今、何かに依存しなければ生きてはいけないことに気づき始めている。その何かとは、ひもであったか。男性諸君は皆、ひもになるのを夢見る。右へ左へと心が揺れ動き、孕(腹)ませると節目へ逃げる、ということを繰り返しながら...

ここで注目したい概念に、キス数によって決まる安定な次元数というものがある。同時に何人とキスできるか?もっとも、単位球が同時に何個くっつくことができるか、という幾何学の問題である。2次元であれば、真ん中の円に6個の円がくっつくので、キス数は6となる。平面では正六角形の格子点で安定するわけだ。3次元になると意外と難しい。12個まではくっつくが、13個目となると微妙で、うまいこと摩り替わる。
さて、次の安定状態は、8(= 10 - 2) と、24(= 26 - 2) になるという。接する相手が安定するとは、エネルギー的には自由度を示すことになるらしい。相手が固定されると不自由を感じそうなものだが。そして、超ひもの自由度は8次元、ボソンひもの自由度は24次元になるとしている。格子的な安定次元で言えば、10次元と26次元ということになるのだが、それぞれ -2 されるのは、ひもは時間方向と縦方向に振動できないからだという。
尚、振動現象には横波と縦波がある。例えば、電磁波は横波、音波は縦波、地震波は両方。仮に光子が縦波であれば、一時的に光速を超えて、こりゃまずい!なので、電磁波の振動方向である偏光は、進行方向に対して直角になる。
話を戻すと、宇宙が10次元と26次元に存在する素粒子で構成されると仮定すれば、宇宙空間が自然に説明できるという。Dブレーンとは、ディリクレ面を意味し、各次元の境界条件がディリクレ条件になるということのようだ。
しかし、だ。次元が安定する必要があるのだろうか?次元は本当に離散的な存在なのだろうか?実は、次元そのものが、丸い!ってことはないのだろうか?フラクタル次元は、もはや整数の枠に留まらない。人は思考レベルが違うと「次元が違う」なんて言い方をするが、年齢を重ねると「心が丸くなる」なんて言い方もする。日々虚しさが過ぎるのを眺めれば、虚時間や無境界仮説を信じたくもなる。それでも、次元が多いと幸せになれそうな気がする。電磁場では乱数的に吸い寄せられる素粒子群が、夜の社交場では乱交的に吸い寄せられる小悪魔群へと転化される。これも、場におけるゲージ変換系に加えておこう。
したがって、次元数はキスのテクニックで決まるのよ。キスの修行を無限に励めば、次元も角が取れて丸くなるに違いない。やはり、空間の本質はハーレムにあったか... おっと!いつの間にか幸福論を語っている。超難解なものを分かりやすく記述しようとすれば、男の美学に近づき、ひも屋の独り善がり論となる。

1. 単位系の意義
ニュートン力学では重力定数 G が、量子力学ではディラック定数 ℏ が、相対性理論では光速 c が、それぞれ基準とされる。どこまでを自然単位系と呼ぶかは、世界によっても多少違う。ひも屋は、ディラック定数 ℏ と光速 c を 1 とする自然単位系を使い、重力定数 G は残しておいた方が良いことが多いという。
しかし、いくら重力定数、プランク定数、ボルツマン定数、光速といった基準を設けたところで、宇宙は時間とともに膨張を続けている。よって、あらゆる基準や定数は、時間の関数となるはず。宇宙構造の最小単位が超ひもであるなら、どんな物理量も超ひもに内在するエネルギーで換算できるかもしれない。プランク長 lp は、自然界の3つの基本定数を組み合わせて作った、最小長さの次元を持つ数値だという。

  lp = √(ℏG/c3) ≈ 1.6 x 10-35 m

単位系の意義は、何を 1 として基準にするかにある。こうした発想は、相対的な認識能力しか持てない知的生命体の悪あがきであろうか。一般に親しまれる MKSA単位系にしても、すべての定数を解体すると、とてつもない数値になる。そもそも 1秒って、どうな数値なのか?プランク長で換算すると...やーめた!光速 c = 2.99792... x 108 m/s2 にしても、ディラック定数を 1 とした結果である。ちなみに、ディラック定数 ℏ(エイチバー)とは、プランク定数 h を 2π で割ったもので、π が介在することで量子スピンの周期性を表している。
さて、単位系を再定義してみよう。重力定数をちょいと変えてやるだけで、多くの女性たちが救われるだろう。アルコール濃度を酔っ払い度で換算すれば、酒税効率が上がるだろう。これが単位系の意義というものよ。

2. ディラックの巨大数仮説
興味深い二つのオーダーを紹介してくれる。

  e2/(cℏ) ≈ 1/137 : 微細構造定数
  e2/(Gmemp) ≈ 2 x 1039 : 電磁力と重力の比

me は電子の質量、mp は陽子の質量。上式は、10-2 オーダーだが、下式に比べてほぼ 1 と捉える。下式は、1040 オーダーとして眺める。そして、物理学の基本定数や素粒子の質量などを使って無次元の量を作ると、驚くことに!すべて 1 か 1040 のオーダーになるという。これが、ポール・ディラックの巨大数仮説というものだそうな。ディラックは、光が電子を横切る時間で宇宙年齢を換算したという。
例えば...
宇宙年齢は、137億年とされる。つまり、約 1010 年オーダー。
電子の大きさは、e2/(mec2) = 2.81794 x 10-15 m。
これを光速で割ると、e2/(mec3) = 9.39963 x 10-24 s。
さらに、1010 年を秒換算して、光が電子を横切る時間で割ると、

  (1010 x 365 x 24 x 60 x 60 s) / (9.39963 x 10-24 s) = 3.3503 x 1040

なるほど、1040 オーダーが出現する。つまり、重力定数が時間に反比例するというのだ。

  e2/(Gmemp) ∝ t

確かに、空間が変化するのなら、質量が一定とは考えにくい。ディラックの論文の要旨をまとめると、こんな感じになるらしい。
「宇宙の年齢は当然のことながら時間 t に比例して増える。その無次元の大きさは 1040 程度である。電子と陽子の間に働くクーロン力と重力の比も 1040 程度である。この二つの無次元量は、ほとんど同じなので、簡単な関数関係にあると考えるのが妥当である。仮に、この2つの量が等しいと考えると、重力定数は時間 t に反比例するという結論が導かれる。」

3. カルーツァ=クライン理論
ニュートン力学では、ポテンシャルを微分すると力が現われる。電磁気では、電磁ポテンシャルを微分すると電場 E や磁場 B が現われる。

  E = - ∂A/∂t - ∇φ
  B = ∇ ☓ A

A はベクトルポテンシャル、φ はスカラーポテンシャル。
電磁気学の本質は、ポテンシャルのゲージ変換によって、マクスウェル方程式が不変であることだという。電磁ポテンシャルを4次元で考えると、微分して得られる電場や磁場は3次元空間になる。つまり、時間の次元を考慮しなければ、電磁場は平面上に幽閉されるわけだ。そして、0次元の点を円の次元に昇格させて、次元数を一つ増やすと、電磁場の空間をうまいこと説明できそうか。
仮に、物質の根源が超ひもの振動だとすると、ほとんど永久的に振動できるほどのエネルギーが放出されることになろう。そこで、5つ目の次元が円軌道のようなエネルギー状態であれば、普段は相殺しあって、その存在にも気づかないかもしれない。
アインシュタインの4次元空間に円筒の次元を加えて5次元にすることで、電磁気学と相対性理論の統一を図ろうとしたのが、カルーツァ=クライン理論というものらしい。要するに、次のように見なすということだが、まさに巡回群である。

  x4 ≡ x4 + 2πr

そうなると、素粒子の自由度を増やすには、5次元と言わず、エネルギー状態が円を形成するような次元をどんどん増やせばよいことになりそうだ。宇宙空間の本質は、振動や周期性にあるのか?そして、真空中にも何かが存在するというのか?

4. ひもの境界条件
ひもの物理的な構造は、無限小のバネの数珠つなぎになったような状態をイメージすればいいようだ。
とはいえ、開いたひもは一次元なのだから端点があり、それが腹か節かで様子が変わってくる。腹であれば自由端となり、これを「ノイマン条件」、節であれば固定端となり、これを「ディリクレ条件」と呼ぶそうな。昔は自由端だけを想定したそうだが、現在では固定端でもいいことが分かっているという。尚、古典的なひも理論では、質量密度が一定で、張力も一定にするという。超ひも理論では、質量密度を一定にしないところが違うらしい。質量密度が、点の伸び率に比例するとか。
そして、張力 T から、ひもの長さ ls は、次のようになるという。

  ls = 1/√(2πT)

さらに、プランク長 lp との関係は次のようになるという。

  ls8 = elp8

φはディラトンと呼ばれる素粒子。添字の8(= 10 - 2)は、超ひもの10次元を示す。尚、eφ は電荷に相当するもので、ひもの「結合定数」と呼ぶそうな。
結合の強弱の交換 eφ ⇔ 1/eφ は、φ ⇔ -φ と同義になるらしい。強弱の交換を「S双対性」、大小の交換を「T双対性」、双方を混ぜたものを「U双対性」と呼ぶそうな。ひも理論では、エネルギーの強弱交換や、スケールの大小交換などを組み合わせて、対称性を見出すことが鍵となりそうか。
さて、ここでは指数関数にディラトンが現われるのがミソのようである。つまり、指数関数だからオイラーの公式に持ち込むことができて、うまいこと相殺するわけか。要するに、指数関数 e やら π やらが絡むと、その周期性から空間に認識できない何かが生じて、幸せになれるということかもしれん。

5. 重力定数とラグランジアン
ひも理論では、作用という概念を導入すると、自動的に方程式が出てくる仕組みになっているという。その作用とはラグランジアンのことで、大まかに運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの差のようなものだという。ちなみに、ハミルトニアンは、大まかに運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの和のようなものだという。
さて、バネ振動の運動エネルギーとポテンシャルエネルギーを求めれば、ひものラグランジアンが求まる。そして、ラグランジュ方程式にラグランジアンを代入すると、単振動の方程式に帰着する。こまでは普通の運動法則。
ところが、これに重力子とディラトンと電磁場が絡んで行列展開されると、理解力を超えた結果が登場しやがる。多次元理論で、重力定数が変化すると考えるのは自然かもしれない。なにしろ空間が変化するのだから。とはいえ、なんじゃこりゃ???

  G4 ≈ G10/R6

4次元の重力定数が、10次元の重力定数と6次元の空間半径で決定されているではないか。これは異空間との接触を意味しているのか?それとも霊感を数式で表したらこうなるのか?

6. 超対称性
ボソンが無限次元と関係するのに対して、フェルミオンは2次元に潜んでいるという。ちなみに、ボソンは同じ状態が無限に、しかも同時に存在することが可能だという。
物理学には、重要な概念に「調和振動子」というものがある。単なるバネの単振動だが、それを量子化するところにミソがあるようだ。ボソンとフェルミオンのそれぞれの状態と生成・消滅演算子は、次のようになるという。

  [a, a*] ≡ aa* - a*a = 1 :ボソン
  {c, c*} ≡ cc* + c*c = 1 :フェルミオン

* は、複素共役。a や c は調和振動子の振幅。
さらに、超対称性は、次のような電荷 Q を考えることによって実現できるという。

  Q = c*a + a*c

ボソンとフェルミオンをごっちゃにしたような電荷。この関係から、ボソンをフェルミオンに、フェルミオンをボソンに変えてしまうようなことが生じるらしい。例えば、ボソンの光子に Q を施して回転させると、フォティーノというフェルミオンになり、ボソンのグラヴィトンを回転させると、グラヴィティーノというフェルミオンになるといった具合に。ちなみに、フォティーノもグラヴィティーノもまだ未発見のようだ。あくまでも理論的な仮説だが、無限次元と2次元の間で交信ができるとでも言うのか?これが、テレポートってやつかは知らん。

7. 10次元と26次元
ひも理論で次元を考察する時、臨界次元とローレンツ異常を考慮する必要があるという。臨界次元を求める方法の一つは、異常項をなくすことだという。
異常項ってなんだ?ローレンツ異常と呼んでいるが、4次元におけるエネルギーと質量の関係と、量子スピンの概念から面白い考察を紹介してくれる。
まず、4次元の空間座標 (t, x, y, z) を想定する。
同様にエネルギーや運動量も (E, px, py, pz) の4次元とする。
ローレンツ変換は座標変換であり、(t, x, y, z) = (t', x', y', z') において、

  t2 - x2 - y2 - z2 = t'2 - x'2 - y'2 - z'2

という不変量が存在するという。同様に、運動量にも不変量が存在し、それを質量に転化する。

  E2 - px2 - py2 - pz2 = E'2 - p'x2 - p'y2 - p'z= m2

ここで、x方向にのみ運動すると仮定すれば、次のようになる。

  E2 - px2 = m2

座標系で表すとこうなる。

  (E, px, 0, 0)

いっそのことx方向だけでなく、質量 m の粒子と一緒に動く座標系を想定するとこうなる。

  (m, 0, 0, 0)

つまり、E = m というわけだが、かなり強引だ。ここで問題になるのが、m = 0 の時。

  E2 - px2 = 0

E = ±px となるわけだが、プラスだけ選ぶと、

  (E, E, 0, 0)

つまり、質量ゼロの粒子は必然的に運動量を持つという。なんじゃそりゃ?質量ゼロの光子や電子が存在したって、不思議はないってか?
また、素粒子はスピンという角運動量を持っているとされる。つまり、自転している。光子はスピン1、ウィークボソンもスピン1。光子には二つの偏光状態があって、スピンの向きでそれぞれ +1, -1 になる。
ところが、ウィークボソンには、スピンの向きが、+1, 0, -1 の三種類あるという。それは、光子には質量がないのに対して、ウィークボソンには質量があるからだそうな。光子のスピンは (E, E, 0, 0) という格好で、y と z の方向に2の自由度があり、ウィークボソンのスピンは (m, 0, 0, 0) という格好で、x と y と z の方向に3の自由度があるということか。そして、次元 D において、質量ゼロの粒子は D - 2 の自由度があり、質量があると D - 1 の自由度があるということらしい。
おまけに、ひも理論の教科書には、次のような質量と次元の関係が出てくるそうな。

  m2 = 2πT(26 - D)/24

こうして俗世間の酔っ払いは、狐につままれるのであった...

8. 熱力学とブラックホール
ブラックホールは、驚くほど熱力学に似ているという。
熱力学の法則は、こんな感じ...

第0法則: 熱的な平衡状態にある物体で温度 T は一定
第1法則: エネルギー保存則、dE = TdS + 仕事の項
第2法則: エントロピー増大の法則、δS ≧ 0
第3法則: どんな物理過程も、絶対零度 T = 0 には到達できない

ブラックホールの法則はこんな感じ...

第0法則: 定常状態にあるブラックホールの地平線で表面重力 κ は一定
第1法則: dM ∝ κdA + 回転や荷電の項、質量の変化分は表面重力と面積の変化分の積に相当
第2法則: 常に、δA ≧ 0、地平線の表面積は増加するのみ
第3法則: どんな物理過程も、κ = 0 には到達できない

熱力学の方は、E が内部エネルギー、S がエントロピー、T が絶対温度。ブラックホールの方は、M が質量、A が地平線の表面積、κ がその表面重力。地平線とは、そこに入ると二度と出られない境界線のことで、次のような対応関係があるという。

  T ∝ κ, S ∝ A

エントロピーが、体積ではなく表面積に比例するのか?熱力学は統計力学によって支えられているが、ブラックホールも Dブレーンを波動的に捉えるというイメージが伝わる。
量子力学では、真空は何もない状態ではなく、量子場でいつも電子と陽電子がペアで生成しては消滅し、それを繰り返している状態と考える。だが、ブラックホールの地平線近辺で生成と消滅を繰り返せば、陽電子だけが地平線の向こうに落ちて、電子だけが残る可能性がある。相棒を失った電子は、自己消滅もできず、あたかもブラックホールが電子を放出しているように見えるかもしれない。ホーキング放射ってやつだ。この現象は、Dブレーン上を走っているひも同士が衝突して、ちぎれて、閉じたひもが放出される過程だという説もあるらしい。