2015-10-25

"化学のはじめ 増補訂正版" Antoine-Laurent de Lavoisier 著

化学革命の父と呼ばれるアントワーヌ・ラヴォアジエ。バケガクで赤点の危機にあったおいらには、忘れられない名だ。今日認められる元素のアイデアを確立し、それを分かりやすく整理したものが、この入門書である。
ラヴォアジエは、フロギストン説を打破した人物としても知られる。古代ギリシアの自然哲学者たちは、万物の根源的な存在をアルケーと呼び、四大元素説を唱えた。あらゆる物体は、火、空気、水、土の四つの要素によって構成されると考えたのである。この説を覆したのが、1789年に出版された「化学のはじめ」というわけだ。仮説ってやつは、否定を証明された時、はじめて偏見であったことに気付かされる。18世紀になって、ようやく化学は形而上学からの脱皮を図ろうとする。この間、二千年とは!現代科学が迷信に囚われていないと、どうして断言できようか...
尚、この文句は、化学者フランソワ・ルエルが、実験室の最も目につく場所に大きな文字で書き記したものだという。
「さきに感覚に在らざりしところのなにものも、悟性に在ることなし。」

化学とはなんであろう...
元素の組み合わせや結びつきから、性質の違う物質が生まれる。物質には、人体にとって良いものや悪いものがあり、ちょいと組み合わせを変えるだけで良いものが悪いものに、悪いものが良いものに変わる。まさに化ける様子を学ぶというわけだ。その性質を知るために、構成される元素とその比重を調べ、結びつき方を観察する。実験の考え方そのものは極めて単純!分解と結合を繰り返すだけ。物質を細かく砕き、ふるいにかけ、天秤にかけ... これが化学の基本操作であり、パラダイムだ。... などと言えば、人間関係の極意を語っているようでもある。元素はどこまで元素なのか、素粒子はどこまで素粒子なのか、これは人類にとって永遠のテーマとなろう。
「化学は、分解、再分解さらにその再分解の分解を経て、その目的と完成に向かって進む。」

新たな元素が発見される度に、性質に適合する命名規則を模索する。化学には、まさに命名の哲学が内包されている。言語は、事実を描くものでなければならないと同時に、アイデアを生むものでなければなるまい。道はひたすら単純化することにあるが、人類はいまだ合理的な言語体系を編み出せないでいる。凡庸な、いや凡庸未満の泥酔者には合理性が複雑系に見えるが、天才にはそれが単純化に見えるのであろうか。そして、くだらない悩み事から解放され、真に悩むべき事柄に没頭できるのであろうか...
「われわれは言葉の助けによって考えること。言語は真の分析方法であること。表現のすべての方法に、その目的を満たしてくれる最も簡単、最も正確、最も優れている代数は、一つの言葉であり、また分析方法であること。最後に、論理学はよく整った言語に縮少される。」

1. ラヴォアジエとラヴォアジエ夫人
ラヴォアジエは、科学者としては変わり種だったようである。最高裁判所検事の長男として生まれ、マザランカレッジで法律を学び、区裁判所の弁護士になったとか。徴税管理官や火薬管理官を勤め、農家の貧困と老衰を保護するための保険制度を草案し、「フランス王国の国富について」という報告書を作って、合理的な税制を施すための基礎を作ったという。
科学者としても優れた教育を受け、数学、天文学、化学、植物学、地質学、鉱物学などを学ぶ多彩な天才だったようである。数学者のラグランジュやラプラスらとともに度量衡の単位の改制に務め、その労作は今日のメートル法の基礎になったという。
宗教心の強烈な時代では、これに対抗するために、自然科学をはじめとする普遍の学問を欲するのであろうか。ルネサンス期に多くの万能人を輩出したように...
しかしながら、科学者にとって皮肉な事件が勃発する。フランス革命ってやつが。革命裁判にかけられ、裁判官コフィナルのあの言葉を耳にしょうとは...
「わが共和国には科学者はいらない。さあ、裁判を続けよう。」
税の負担を軽減しようと努力してきた徴税管理官は、不当な掠奪、搾取の罪を問われ、コンコルド広場でギロチンの露と消えた。ラグランジュの残した言葉が響く...
「彼らはたった一瞬の間に、この首を落とすことができたが、これと同じ頭脳を得るには一世紀あっても足りないであろう。」
ここで、ラヴォアジエの実験器具へのこだわりも然ることながら、ボールズ夫人の存在が大きかったことを付け加えておこう。この才能高き婦人は、画家ルイ・ダヴィッドに絵画を学び、本書に添付される実験器具のスケッチや製図は、彼女によるものだという。天才ラヴォアジエの実験助手として科学史に名を留めるべき人物である。地道な実験人生では孤独の闘いを強いられる。化学革命の女神のような存在があったからこそ、偉大な功績が残せたのであろう。彼女の作品は妙にリアリティがあり、木造校舎の理科の実験室を思い出させてくれる。蒸留酒を作るための装置、いや酒蔵のスケッチに見えてくるのは、精神が泥酔しているせいであろうか?いや、君に酔ってんだよ!

2. 元素表と熱素(カロリック)
本書には、32個の単一物質が紹介される。大まかに分類すると、物体の基本を成す単体(5つ)、酸化する非金属(6つ)、酸化する金属(16つ)、土類で塩となる単体(5つ)の四種。物体の基本を成す単体には、光、熱、酸素、窒素、水素を挙げている。まさかこの時代に、光子の概念があったとは思えないが、熱を含めてある種の力のような存在を考えていたようである。力があれば質量が存在し、そこに物質なるものが存在すると考える。それは、物質と熱との間に、親和力、吸引力、はたまた弾性力を考察している点に見て取れる。
そして、「質量保存の法則」が記述される。化学反応によって元素が増加したり減少したり、他の元素に転化したりはしないと。つまり、光も熱も元素である必要があるという考えである。
固体に熱を加えると、液体や気体になって容積が増加する現象を、熱の素が分離することで説明し、これに「calorique」と名づけている。いわゆる、カロリック説というやつだ。
しかしながら、力の正体については、アリストテレスの運動論以来、インペトゥス、モーメント、トルク、フォースなどと用語が乱立してきた。ニュートンは質量を万有引力で説明し、アインシュタインはあの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示した。ここに、力は質量を通じてエネルギーと結びつき、今日では、熱量と仕事量の等価性からエネルギー保存の法則、すなわち熱力学第一法則で説明される。
だからといって、力の定義の曖昧さが解消されたわけではない。エネルギーってやつは奇妙なもので、質も、量も、力も、運動という概念の中で都合よく抽象化される。その証拠に、人間はあらゆる関係において力が生じることを本能的に知っており、政治の力、金の力、愛の力... などと物質欲の幻想に憑かれている。ラヴォアジエが、熱の正体を物質で説明しようとしたのも道理であろう。カロリックがカトリックと同じ音律に響くのは、偶然ではないのかもしれん。そう、同じ熱病よ!

3. 大気の命名
ジョゼフ・プリーストリーとカール・ヴィルヘルム・シェーレ、そしてラヴォアジエが同時に発見した空気についても言及される。本当のところ、誰が最初だったかは知らん...
当初、ラヴォアジエは、「air éminemment respirable(優れて呼吸に適した空気)」と名づけたという。そして後に、「air vital(活性空気)」と呼ばれるようになったことに、苦言を呈している。空気を分解して窒素と酸素を見出し、呼吸に適するかどうかという性質から迫っている。窒素については、ギリシャ語のゾイ(生命)に否定詞 a をつけて、「azote(アゾト)」と名づけている。
また、ラヴォアジエの名は、酸素の発見者は誰か?という論争でも見かける。歴史上の功績は、プリーストリーということになっているが、シェーレの実験抜きには語れない。そして、命名したのがラヴォアジエということで落ち着いているようである。
本書には、二つのギリシア語、oxys(酸)と genen(つくる)から、oxygen(酸素)と名づけた様子が語られる。酸化についての系統的な命名法を決定して、硫酸、リン酸、炭酸... とし、分子構成と性質によって、お馴染みの、いや!蕁麻疹の出そうな、 oxide...、acide... と命名する様子など。そして、燃える物質という視点から、酸素の飽和度で分類される。例えば、オキソ酸は、ヒドロキシ基(-OH)とオキソ基(=O)の結合によって構成されるが、その種類では、硫酸 H2SO4 や酸素が一つ少ない亜硫酸 H2SO3 で区別されるといった具合に...
当時、「化学命名法」を発表して伝統的な言語系をすっかり変えてしまい、世間から猛烈な非難を受けたことを苦々しく語ってくれる。ラヴォアジエの化学改革を推奨したウプサラ大学のベルクマン教授は、こう書き残しているという。
「不適切な名称はどんなものでも容赦してはならない。それまでにそれを知っている者は、いつまでも覚えていることになるし、まだ知らない者は、ただちに覚え込むであろう。」

4. 酒精発酵と酒の聖霊
アル中ハイマーと呼ばれるからには、「酒精」という用語に反応せずにはいられない。アルコール、エタノール、エチルアルコールなどと呼び方は違えど...
発酵も腐敗も似たような現象である。ただ違うのは、化学反応を起こした結果、人体にとって好ましいかどうか。物体が固体、液体、気体の三態のいずれかで存在しうるのは、世間で常識とされる。
では、それらの魂とはどういう状態であろうか?固体のように頑なになることもあれば、液体のようにドロドロした人間関係もあり、アルコール濃度の高いものと反応すれば、カッとして揮発する。はたまた、腐ったものが、必ずしも悪いものとは言えない。適度に腐れば、それは発酵と呼ばれ、酒の精霊となる。さらに蒸留して熟成すると、記憶までも蒸発してしまう。化学の最大の貢献は、錬金術なんぞではあるまい。魂を聖霊と化すことであろうか。やはり化学実験には、蒸留と濾過は欠かせない。固体と液体を分離する道具では、デカンテーションが紹介されるが、デキャンタと言ってくれた方が親しみやすい。そう、バー用語だ。おまけに、物体が蒸留して固形の状態に凝結することを、「sublimation(昇華)」と名づけている。今宵も、精神を昇華させるために、夜の社交場へ向かう衝動を抑えられそうにない...

2015-10-18

Win 10 にアップして... あっぷっぷ!

十月になって、一段と催促が激しくなったようである。おまけに、事務員さんが、何かの拍子にアップデートが勝手に始まった!と騒ぎよる。仕事が落ち着いたらアップデート計画を立てます... 年内にはなんとかします... と通達してきたが、しょうがねぇなぁ!
結果的に、大した問題はなかったにせよ、精神衛生上よろしくない。コンピュータ業界に限らず通信業界もそうだが、横暴な宗教勧誘は勘弁願いたい。誰か残業代、いや睡眠代を払ってくれ!
... こんな愚痴がこぼれるのも、M性の定めであろうか。ちなみに、M性とは、Mさんの奴隷になってもなお、もっといじめて!とピロートークを仕掛けてくる人のことを言うらしい...

まず、対象マシンは...
  Surface Pro3           : Win 8.1 Pro 64bit
  Dell Studio XPS8100    : Win 7 64bit
  Dynabook Satellite J70 : Win 7 32bit # どうしてもと頼まれた!

とりあえずの心得は、サードパーティのウイルス対策ソフトは削除しておくこと、常駐プログラムはなるべく止めておくこと、そして、ドライバの対応状況を確認しておくこと、ぐらいであろうか。まだまだ情報不足の感はあるが、あとは問題が発生したら考えるとしよう。
いくらなんでも、Surface は問題ないでしょう!Mさん... と思ったら、なんじゃこりゃ!
一方、Dynabook はメモリを増設して無理やり Win 7 を動かしている状態で、しかも他人のマシンなので、ドライバ情報を念入りに調査して挑んだが、まったく問題なく拍子抜け!

1. 64bit系アプリケーションの実体が消えた!
64bi環境では... 64bit系アプリは、Program Files 以下に tools というフォルダを作成して、ここにインストールしている。32bit系アプリは、Program Files (x86) 以下に同じ構成でまとめている。
なんと! Program Files\tools というフォルダだけが、そっくり削除されているではないか。Surface と XPS8100 で同じ現象。"tools" というキーワードが悪いのか???ぶつかっている様子はないが...
[プログラムと機能]で調べると、"既にアンインストールされている可能性があります" だって。ショートカットやレジストリのゴミは、しっかり残っている。
おかげで小一時間、体が固まってしまった。結局、64bit系アプリを再インストールする羽目に...

2. ファイル共有とホームグループが動かない!
いきなりホームグループに参加できなければ、新たなホームグループの作成もできない。これだけで数時間悩む...
先にファイル共有を動かそうとすると、これもダメ!どうやら一旦チャラにして、再設定するとうまくいくようだ。おそらくホームグループもそうだろうと思い、一旦チャラにしようとしても、今度は[ホームグループ設定の変更]以下の項目が一切出てこない。そうこうしているうちに、この項目が出てきた。今がチャンスとばかりに、一旦チャラにして再設定するとうまくいった。そして、一台がうまく繋がると、他のマシンも問題なく繋がるようになる。結局、何が悪かったのか分からずじまい???
トラブルシューティングで最も厄介なのは、再現性がないことだろう...

3. 日本語入力システムの既定が勝手に戻される!
Google IME を既定にして再起動しても、すぐに MS IME に戻される。一旦アンインストールして、再インストールするとうまくいった。Mさんは、Gさんに恨みでもあんの???
尚、ATOKでも同じらしい...

4. Google Chrome のフォントが微妙におかしい!
web コンテンツのフォント設定がきかないケースがある。Chrome を一旦アンインストールして、再インストールすると直った。やっぱり、Gさんに恨みでもあんの???

5. 一週間ほど様子を見て、前バージョンのゴミを抹殺!
無償アップデート後、1ヶ月以内なら前バージョンに戻せることになっている。ということは、1ヶ月後に新たな問題が発生しそうな臭いがする。どうせなら、今のうちに膿を出しておきたい... と思い、disk cleanup やら手動やらでゴミを削除した。Windows.old や $Windows.~BT など...
そして、二週間経つが、今のところ問題はない。
尚、この行為は推奨されていない。こんな衝動に駆られるのも、クリーンインストールするきっかけが欲しい!という意識が心のどこかで働いているものと思われる...

ただし、Surface関係のドライバの削除で手間取る。

  SurfaceAccessoryDevice.sys, SurfaceDisplayCalibration.sys

パスはここ...
  c:\Windows.old\Windows\System32\drivers\
  c:\Windows.old\Windows\System32\DriverStore\FileRepository\

Disk Cleanup でダメ!
rd /S /Q c:\windows.old でもダメ!
所有者を変更してフルアクセス権を与えても、"別のプログラムが開いている" とのメッセージが... まさか、本当に参照されているのか?いや、どこからも参照されている様子がないし、c:\Windows\System32\ 以下にしっかりと実体がある。結局、Cygwin から管理者権限で remove した。これをやれば、出来るとは思っていたが...

所感...
何か問題が発生した場合、一旦削除したり、設定をチャラにしたりで、最初からやり直す!... これでだいたいうまくいくようだ。アップデートに成功したものの、安心できない。やはり、この手のアップデートはクリーンインストールすべきであろうか...
また、Windows update やシステム関係などは[設定]の中にあり、アイコン通知領域の設定を見つけるだけで苦労した。「とりあえずコントロールパネル」という発想は変えた方がよさそうである。
なにかと騒がせるスタートメニューについては、選択肢が増えた点では、ましになったようである。Surface では、その場でタブレットモードに切り替えられる機能はいいかもしれない。しかしながら、デスクトップ環境では、愛用してきた StartMenu X がやめられない。
尚、バッテリ残量がパーセント表示だけでなく、残りまでと充電完了までの目安時間が表示されるようになったのはありがたい。

おまけ...
ウィンドウ枠がほとんどなくなったのは、モバイル環境ではありがたい。だが、タイトルバーが白色しかないのは、ちと寂しい。これらの調整が欲しいという方が結構いるので、ついでにメモっておく...
デフォルトのままでも十分ではあるが、なぜ、このような機能を削ったり隠したりするのか?おいらには理解できない。Win 8 でも感じたことだが、ユーザ環境に自由度を与えないというのはどうであろうか?ユーザインターフェースは、用途や個人によって多様化する方が、自然に適っているような気がする。業界そのものが、ますます宗教に見えてくる...

1. タイトルバーの色変更
尚、Win 10 のバージョン 1511、ビルド10586 にアップデートすると、タイトルバーの色変更ができるようになった。1511 とは、2015年11月という意味らしい。... 2015/11/14追記。

関係ファイルは、二つ。

  c:\Windows\Resources\Themes\aero\aero.msstyles
  c:\Windows\Resources\Themes\aero\Ja-JP\aero.msstyles.mui

どうやら、"Aero" というキーワードで管理されていて、\aero 以下をコピーしてリネームするだけでいいようである。この作りもどうかと思うが...
元ネタはここ。

  http://winaero.com/blog/get-colored-title-bars-in-windows-10/

尚、このサイトのホーム(http://winaero.com/)には、「Winaero Tweaker」というツールが紹介されている。これを使うと、"Colored Title Bars" というテーマが追加される。気に入らなければ、同時に、colored というテーマのタネが生成されるので、このタネを対象テーマで直接指定すればいい。

  c:\Windows\Resources\Themes\colored\colored.msstyles
  c:\Windows\Resources\Themes\colored\Ja-JP\colored.msstyles.mui

そして、対象テーマの中にある [VisualStyles]という項目のパスをエディタで直接修正する。例えば、xxxx.theme 内の Path に colored.msstyles を指定する。

c:\Users\username\AppData\Local\Microsoft\Windows\Themes\xxxx.theme

  ....
[VisualStyles]
Path=%ResourceDir%\Themes\colored\colored.msstyles
  ....


実際、ツールと手動の両方を試したが、結果は同じ。尚、手動では、"colored" とは別の名前にしてみた(管理者権限が必要)。

2. 色彩を微調整するツール
標準機能だけでは色彩の調整が大雑把すぎるので、隠された微調整ツールを使う。
これを実行すると設定ウィンドウが出現...

  rundll32.exe shell32.dll,Control_RunDLL desk.cpl,Advanced,@Advanced

3. ウィンドウ枠のテーマには、AeroLite ってやつがある

  c:\Windows\Resources\Themes\Aero\AeroLite.msstyles

同様に、[VisualStyles]にタネを指定すればいい。

c:\Users\username\AppData\Local\Microsoft\Windows\Themes\xxxx.theme

  ...
[VisualStyles]
Path=%ResourceDir%\Themes\Aero\AeroLite.msstyles
  ...


しかし、default の幅が太いので、レジストリで細くする。

HKEY_CURRENT_USER\Control Panel\
  Desktop\WindowMetrics\PaddedBorderWidth
# default = -60  -> -20

ただし、スタートメニュー枠の影の部分が透明になって気になる。個人的には枠はほとんどなくていい!

2015-10-11

"科学革命の構造" Thomas S. Kuhn 著

宗教をも巻き込んだ科学革命の大エピソードには、コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインといった人物をあげることができる。だがそれは、歴史における便宜上の問題でしかないかもしれない。科学の大転換点は、突如として出現する一人の天才だけのものではない。ささやかな観測技術の発明、細々とした理論、こうしたものが蓄積された結果、ある日、科学体系として開花させてきた。それは、進化論に通ずるものを感じる。継続的な意識がエネルギーの蓄積を伴って突然変異を引き起こすような、連続性と離散性の協調のようなものを。
科学史家トーマス・クーンは、「科学革命」に「通常科学」という用語を対置させる。通常と呼ぶからには、異常について語るということだ。彼は、「パラダイム」という概念を持ち出した人物として知られ、変革時に出現する変則性とその必然性を語る。革命ってやつは、官僚主義に陥った惰性的精神を打倒するために生じるところがある。健全な懐疑心を失った社会に、進化の道はない。
一方で、安定した周期を持つ慣習ってやつが、魂に安住の地を与える。不変の周期があるとすれば、それは世代を超えて持続されてきた知への渇望であろうか。ゲーデルは晩年... 不完全性定理は自分が発見しなくても、いずれ誰かが発見するだろう... と語った。この発言は、おそらく正しい。真理の概念は必然的な存在であり、概念が歴史の道を散歩しているようなもの。誰がその概念を歴史の舞台にあげるかは、大した問題ではないのかもしれない。
すると、人間は何のために存在するのか?人間は真理を暴くための使命を帯びているのか?人口増加とは、その確率を高めるためのものなのか?戦争とは、怠け癖のある人間を尻たたきするためのものなのか?競争の原理とは、その最終目的は宇宙法則を導くことなのか?神は随分と遠回しな思わせぶりを、人間社会に埋め込んだものよ...

知るには、まず観ること!思考の礎がここにある。そして、知識は押し付けがましいところがある。さらに、学ぶには知識の前提が必要である。学ぶとは、受動的な活動が能動的な活動に昇華する過程を言うのであろうか。知性に優れた者ほど寛容さを発揮できるのは、知識を欠いていた頃の自分自身を鋭く観察してきたからであろうか。そんな境地に達してみたいものだが...
科学理論は、後から出てくるものほど真理に近いとは、よく耳にする。アリストテレス力学よりもニュートン力学が、さらにアインシュタイン理論が優ることに疑いはない。科学は着実に客観性を進化させているかに見える。ならば、人間は主観性をも進化させているだろうか?はたまた、客観性が主観性を打倒しようとしているのか?どちらか片方でも失えば、人間を失いそうだ。真理の勝利とは、人間性を失わせることなのか?まさか...
では、真理ってやつは、本当に存在するのか?仮に存在するとして、人間の認識能力で説明できるような代物なのか?それでも真理は存在すると信じたい... などと語れば、科学もなかなかの宗教である。客観性や論理性ってやつは、崇めるに値するものなのか?いや、科学とて論理崇拝主義だけでは心許ない。社会学は心理学を経て生物学に、生物学は化学を経て物理学に還元され、そして自然学へ昇華し、やがて形而上学へ帰するのかは知らん。帰納法と演繹法とでは、どちらが王道なのかも知らん。
真理への道は、はたして抽象化が正しい作法なのか?それとも多様化が正しい作法なのか?仮に、宇宙法則という観点から正しい道というものがあるとして、それは主観的な人間にとって可能な道なのか?やはり邪道も必要である... とすれば、酔いどれだって居場所が得られる。
本書は、科学であっても、たまには社会学的に、心理学的に語ることの大切さを教えてくれる。真理の探求に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。間違いなくセクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も必須だ...

1. パラダイムとパラドックス
「パラダイム(paradigm)」という言葉の響きには、「パラドックス(paradox)」と同じ音律を感じる... のは気のせいであろうか。アインシュタインは、同時性が相対性であることを示したのか?それとも、同時性自体の概念を変えたのか?同時性と相対性にパラドックスを感じるのは、誤謬を犯しているからか?あるいは、形而下で矛盾するものは、形而上では矛盾しないとでも言うのか?このフレーズを眺めるだけでも、パラダイムという用語に多義性があることが分かる。
「ニュートンの法則は、時にはパラダイムであり、時にはパラダイムの部分であり、時にはパラダイム的である。」
哲学的な用語とはそうしたもので、真理を探求すれば必然的に言語の限界に挑むことになる。言語システムは、真理に到達していない人間が編み出したものだから。にもかかわらず、専門家の間でも用語の解釈で食い違いがあると、理解が足らないと馬鹿にする。露出狂の有識者ほど、その傾向を強めるらしい。明確に定義できないから新たな語を必要とするのであって、人によってニュアンスの違いが生じるのも自然であろうに。そもそも用語を的確に理解している者などいるのか?言葉を編み出した本人でさえも...
例えば、「抽象化」という用語でも、学問分野によってニュアンスが違う。政治屋や経済人は、曖昧さという意味を込めて、具体化しなければ無意味として片付けがちだが、社会学や歴史学では、一般化という意味合いが強いだろうか。科学や哲学では、普遍性という意味合いが強く、コンピュータ工学では、データ構造の隠蔽という意味合いで用いたりする。「客観性」という用語でも、学問分野によって度合いが違い、数学のそれは他を寄せ付けない。「信用」という用語では、道徳家は大切に用いるが、経済人は担保がなければ受け入れられない。
さて、パラダイムという用語は、コンピュータ科学やソフトウェア工学、はたまたマネジメント論やビジネス書でも見かけ、いまや一般的となっている。それは、ある学問分野を席巻する理論の法則性や思考の方向性といった総合的体系を指す言葉と理解している。本書は、こう定義している。
「パラダイムとは、一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの。」
あくまでも科学に発した言葉というわけだが、研究における思考の傾向を示すからには極めて社会学的となろう。実際、論理実証主義者から非難された経緯がある。科学理論が論理的実証の立場から支えられているのも事実だ。おそらく世界は、絶対的な宇宙法則に支配されているだろうし、純粋客観にこそ真の合理性があるのだろう。
しかし、だ。人間の持つ合理性という観点からは、どうであろうか?主観すなわち直観が、思考力を牽引するところがある。相対的な認識能力しか発揮できない人間にとって、最初から客観性を得ることなどできないばかりか、獲得した客観性ですら主観性に惑わされ、おまけに、それすら気づかないでいる。ならば、人間の持つ合理性は、主観と客観の双方を凌駕するしかないのではないか。だが、どちらも完全に凌駕することは不可能ときた。やはり主観と客観の調和を求めるのが、現実的ということになろうか。
一般的な科学の方法論では、まず仮説を立て、それを検証するものと言えば、もっともらしく聞こえる。だが、研究に携わった経験のある人には陳腐に聞こえるだろう。現場では、極めて直観的な思考を試しては、泥臭くそれを繰り返している。そして、科学的な思考には、芸術的な思考がよく適合するように映る...

2. 科学者集団の社会学
客観性を崇める科学者集団の世界とて、人間社会であることに違いはない。そこには権威や名声もあれば、嫉妬や憎悪も生じる。科学界の論争で醜態を演じたものの一つに、微積分学の功績を巡るニュートンとライプニッツのものがあるが、アルキメデスの功績が明るみになると、彼らも少しは遠慮したかもしれない。
専門用語の揚げ足をとるような論争に巻き込まれると、肝心な用語の定義を忘れ、正論を語ることを怠り、ミイラ取りがミイラになることもしばしば。論争とはそうしたものである。
そこで、仮説嫌いのニュートンに、ちょいと反論しておこう。誤った仮説も全然ないよりはましよ。仮説が誤りであることは、恥でもないだろう。科学者としての恥は、概念が固定化され、広く承認され、一種の信仰告白となって誰も疑うことが許されない風潮を作ることである。ある大科学者は、常識とは18歳までに身につけた偏見の寄せ集め、と言ったとか言わなかったとか。かつて学問は、総合的で学際的な知に支えられた。現代の聖人は、古代の聖人ほど神秘的である必要はない。現代の芸術家は、古代の芸術家ほど威厳を持つ必要はない。現代の知識人は、古代の知識人ほど迷信的である必要はない。そして、現代の科学者は、古代の科学者よりも知性的である必要はないのかもしれん。実際、劣っていそうだし。だからこそ専門に特化し、そこに人生を賭けることができる。
しかしながら、専門化が進めば視野を制限し、パラダイムの変革を妨げることになりはしないか?深く学ぶことと多面的に学ぶことを両立させることは、まさにパラドックス。だが、どちらも怠ることはできない。したがって、研究のどの立場に身を置くか、これも人生の賭けだ!理論が検証され、否定されたら研究人生も終わるのだから。科学者はそれを覚悟し、研究に没頭する冒険心が求められる。自分の立場を正当化しようと固執するのは、人生の無駄を認めたくないからであろう。しかし、間違いを証明できれば、それはそれで有意義な無駄となる。無駄の概念をちょいと変えるだけで、そこに居場所が与えられるという寸法よ...
真理の探求者は、けして自己否定を拒まないものらしい。真理とは、自己愛や自己陶酔の類いよりも、遥かに心地よいと見える。パラダイムとは、理論体系だけで説明できるものではなく、研究者の意識傾向も含めて体系化された結果であろう。人類の叡智とは、知の永劫回帰のようなもの。それは、思考実験の繰り返しに支えられている。正しいことばかりを求めている人は、まったくリスクを背負えないばかりか、正しいことを何一つ掴めず、他人の後追いをしているに過ぎない... ということになろうか。そして、知識の抗争では、後出しジャンケンの原理に縋って非難攻撃を展開することになる。正しいことを掴んだ者は、多くの間違いを犯してきたはず。失敗をしたことがないと主張する者は、とこか失敗の概念を間違えている... と言わねばなるまい...

2015-10-04

"色彩論" Goethe 著

人類は、光に特別な地位を与えてきた。魂の難題を迎え入れては開眼を求め、絶望の淵にあっては神に乞う。光を与えよ!と。人間が知覚できるものの中で、これほど幻想的で、神秘的なものがあろうか。しかしそれは、闇をともなって、はじめて成り立つ情念。光は盲人を区別しない。俗世間は、相も変わらず眼の前の事象に惑わされる。物事が本当に見えているのは、どちらであろうか。絶望を見た者にしか見えない何かがある。その何かを見るためには、純粋な集中力をともなった精神活動を要請してくる。
一方で、物理学では、光は可視光線と呼ばれ、電磁波の一種に過ぎない。闇は光の存在しない状態、すなわち無であり、光学的に意味をなさない。
だが、芸術の巨匠たちは、闇の方に深い意味を含ませ、光をより効果的に用いて見事な陰影を仕掛けてくる。人間にとって、闇は光の引き立て役なんぞではない。光と闇が対照に配置されると、神と悪魔、あるいは自然と人工が同列に扱われ、物理現象に精神現象が結びついた結果、薄気味悪い無限とやらを彷彿させる。色彩が心象に現れ、ある種の有機体のようなものが生起するのである。その状態は薄明のままに留まり、いつまでも明確な意識として説明できず、もはや自分自身を啓蒙するしかない。それは精神そのものが、幻想的で神秘的な存在だからであろうか。未だ人類は、精神の正体を知らないということか。
ゲーテは、物理的現象と化学的現象に生理的現象を結びつけ、客観的な光学現象を主観的な色彩現象として考察する。無味乾燥な周波数スペクトルだけでは、色彩を語ったことにならないというわけである。とはいえ、いくら陰翳を礼賛したところで、人はみな色仕掛けに弱い...

ゲーテの自然研究は、植物学、動物学、地質学、鉱物学、骨学、色彩学、気象学など多岐に渡る。これらの共通点には、16世紀頃の汎知学に影響された神秘的な自然観があるらしい。この文豪が自然研究に没頭したことは、現在でも毀誉褒貶が絶えない。ニュートン批判に及ぶと、素人が何を言うか!と。
だが彼は、自然は物質的存在であると同時に精神的存在であるという立場を変えようとしない。学問にもそれぞれの立場がある... 利用する人、知識の人、直観する人、包括する人... そして、包括する人を最高位とし、ゲーテ自身その段階を極めようとする。学問は、専門家だけのものでもなければ、専門家が支配するものでもあるまい。科学者も元を辿れば、同じ自然愛好家であったはず。現実に素人の発想が専門知識を補完することはよくあり、専門的な知識が邪魔をして誤謬を犯すことだってある。それ故、全生涯を学問に捧げることができない者であっても、学問に寄与できないなどとは言えまい...
「芸術を高次の意味で考察した場合、願わしいのは、名匠のみが芸術にたずさわり、弟子は厳格に能力をためされ、愛好者は芸術にうやうやしく近づくだけで幸福に感じるということである。なぜなら、芸術作品はほんらい天才から生ずべきものであり、また芸術家は内実と形式を彼自身の存在の奥底から呼び起こし、素材に対して支配者としてふるまい、外面的影響はたんに自己完成のために利用すべきだからである。」

ところで、波という物理現象が人間の感知できるというだけで特別扱いされるのは、視覚だけではない。物理学的には雑音も同じく音波でありながら、人間の魂に何か訴えるものがあると、それは音楽と呼ばれる。music の語源は、ギリシア神話の詩歌の女神ムーサ(ラテン語形の musa, 英語形の muse)に遡る。いま巷で騒がれるハイレゾ音源は、人間の耳の持つ可聴帯域を超え、精神的に安心感や快感を与えるという研究報告がある。光もまた、人間の眼の持つ可視帯域を超えた領域で、身体全体で光線を浴びて感じとっているのだろうか。人間の知覚能力は、五感だけでは説明できないところが多分にある。人体構造を司る遺伝子メカニズムは、スイッチをオン/オフするだけで多様な細胞形態をこしらえる機能を具える。とすれば、人体を形成するあらゆる細胞に、なんらかの周波数感知能力が潜在的に眠っている可能性はないだろうか。それが、第六感ってやつかは知らん...
「人間は世界を知る限りにおいてのみ自己自身を知り、世界を自己の中でのみ、また自己を世界の中でのみ認識する。いかなる新しい対象も、深く観照されるならば、われわれの内部に新しい器官を開示するのである。」

1. 光学 vs. 色彩論
本書には激しいニュートン批判が込められている。そこで酔いどれ天の邪鬼は、ニュートンを少し弁護したい気分になる。
そもそもニュートンが研究したのは光学であり、ゲーテが探求したのは色彩論であり、ここに決定的な違いがある。光も色彩も自然現象であり、同じ物理学の研究対象であることに違いはない。
ただ、芸術の観点から色彩は重要な要素であり、光よりもむしろ闇の方に大きな意義が与えられる。それ故、ゲーテが陰影現象に主眼を置くのも道理に適っている。
物理学がいくら客観性を主張したところで、観察するということは人間が認識することを意味する。人間が認識するということは、主観が関与するということだ。科学実験は、客観と主観の仲介役とでもしておこうか。客観性と主観性の重きの置き方に違いはあれど、どちらも興味深い研究であることは間違いなく、互いに補完的な立場に置きたい。学問と芸術はすこぶる相性がよく、けして分離できないものであろうから...
「われらの書きしもの、正誤いずれにせよ、われら生くる限り、それを弁護してやまず。われらの死後、いま遊び戯れる子らが裁き手とならん。」

2. 生理的色彩と陰翳礼讃
医学的に健康とされる眼に映る色彩は、生理的色彩と呼ばれる。対して、病理的色彩というものがありそうだ。それは、有機的に異常に発達した状態、あるいは劣化した状態ということになろうか。
ただ、正常を明確に定義することも難しい。生理的色彩を語るからには、心理的領域に踏み込むことになり、それは、空想的、想像的、あるいは妄想的ですらある。人間の認識が五感だけで説明がつかないとすれば、色覚異常と精神異常を区別することも難しい。いずれにせよ、色彩で最も単純な構造は、白黒画像ということになろうか。そこに物体の像を浮かび上がらせるのも、認識脳の中で物体が再構築されるからである。
人間の知覚能力は、危険との関係、すなわち自己存在との関係から発達させるところがある。生まれつき盲目な人が青年期に手術を受けて視力を回復させても、目の前の像から危険を察知することができない、と聞く。はっきりと何かが見えるのだが、その像が自分にとって何を意味するかが分からないと。ならば、危険を感じない領域では、客観的なものの見方ができるのだろうか。それはそれで、無感動、無価値、無駄、無意味として通り過ぎるだけのことかもしれん...
一方で、認識脳ってやつは、物理現象に享楽が結びつくと、あらゆる幻想を見せる性質を持ってやがる。真理が心地良い存在となれば、光がさすところに開眼や悟りの像を見せる。それは、陰影から育まれる像であって、そこに多彩な色が副次的に結びついて、より豊かな感情を呼び覚ます。色彩を超越した心的エネルギーの覚醒とでも言おうか。バーの空間が薄暗く演出されるのも道理である。余計な情報を排除してこそ味覚も研ぎ澄まされ、五感を総動員しなければ真の愉悦は得られまい。となれば、色彩論の本質はむしろ無彩色の方にあるのかもしれん。
尚、ゲーテは見事なほどのロウソクの妙技を語ってくれるが、このお爺ちゃんが七十を過ぎて二十歳前の娘を口説く時、陰影の妙技を演出したのかは知らん...

3. 色相環の巡回符号
三角形は、数学者によって特別な地位を与えられ、神秘主義者たちは崇拝の源泉としていきた。実際、三角形を用いると実に多くのことが図式化される。正三角形の向きを反転させて重ねると、神秘の代名詞となった。
ゲーテの色彩論もまた、赤(深紅)を頂点とし、底辺に青と黄を配置した三原色論を導入し、さらに、逆三角形の頂点(底点)に緑を置いて、菫と橙を底辺に配置し、赤(深紅)、菫、青、緑、黄、橙の色相環を形成する。そして、最高の深紅色を尊厳ある色とし、その対極の緑を希望の色として、神秘的な解釈を試みる。緑は自然の中で最も始源的な色で、青や黄へ枝分かれしながら精神の高進が始まり、深紅という一致する高貴な対象へ向かうというのである。
確かに、緑は目に優しい色とされ、植物の放つ緑は最も自然的な存在で、心を落ち着かせる。目の悪いおいらは、眼科のお医者さんに、遠くの緑の風景を見るようにするといい、と助言されたことがある。対して、赤は情熱的な色とされ、何か駆り立てるものがある。その段階的な色彩で、古くから階級を区別したり、心理学では精神状態を重ねるといった試みもある。
一方で、色彩現象では、色の混ざり具合によって色相、明度、彩度といった状態が近似され、色の伝達、除去、同化といった感覚的相殺が生じる。実際、錯視という現象がある。同じ物体でも、色の明るさによって大きさが違って見えたり、色の領域がはっきりと区別されても、遠くから見ると一つの色に見えたり。ミュラー・リヤー錯視、ツェルナー錯視、ヘリング錯視... など幾何学的錯視の事例は腐るほどある。
こうした感覚は、認識脳の都合上の問題であろうか。テレビが動画としてそれなりに見えるのは、視覚能力の追従性の鈍感さを利用して、誤魔化しているに過ぎない。そう、残像効果ってやつだ。人間の知覚能力には、認識脳と協調して、うまいこと補完する機能を具えている。それは、誤り訂正能力、いや、都合よく見せる技と言うべきか。宇宙人の眼には、ノイズだらけの情報で熱中する地球人が滑稽に映ることだろう。だから、近づかないようにしているのか?
無限にある色彩の状態は、いまだ精神の過程にあるとすれば、精神状態は常に色彩循環を求めているのだろうか?ちなみに、符号理論では、巡回符号を誤り訂正の手段として用いられる。認識の誤りを色彩循環によって補正しようとするならば、ここには一種の巡回符号が形成されている... と解するのは行き過ぎであろうか。
しかしながら、このお爺ちゃんは深紅を崇めつつ、七十を過ぎてもなおバラ色のテクニックを駆使したものの、二十歳前の乙女の心を射止めるには至らなかった...




4. 像を写しだす境界面と接合芸術
人間の眼に色彩を写しだすためには、ガラス、水面、鏡、スクリーンなどの境界面を必要とする。しかも、その境界面で色を重ねたり相殺したりすると、別の色に見せたり、無色に見せることだってできる。あらゆる色が空気中を浮遊しているにもかかわらず、境界面においてのみ眼に見えるとは、どういうわけか?その境界では、色彩エネルギーが心的エネルギーに変換されるとでも言うのか?
ニュートンのプリズム実験は、光線のエネルギー境界を示したという重要な意味があり、単に屈折を示したわけではあるまい。液晶ディスプレイは、それ自体発光しない液晶組成物を利用して光を変調することによって像を映し出す。太陽の像にしても、目に危険を冒してまで直接見なくても、反射面を利用すれば間接的に観察することができる。実は、色彩の物理的意味は、物事を間接的に観察するってことかもしれん。
さて、色彩現象の度合いは屈折の度合いに比例すると考えられ、屈折の強弱は媒体の密度に依存するとされる。実際、大気中の空気や霧の密度が高まるほど、像の変位の度合いを増す。また、屈折の原因は物質的性質の他に、化学的性質を加える必要があるとしている。屈折の増加は酸性によって規定され、減少はアルカリ性によって規定されると。
本書は、最初に実用化されたクラウンガラスとフリントガラスを紹介してくれる。望遠鏡の設計で欠かせない概念に、色収差というものがある。接眼レンズの設計は、単純に屈折率や拡大率を調整すればいいというものではなく、収色性や余剰色といったものの補正を考慮する必要がある。この点は、光学と色彩論が協調して振る舞う部分である。精度の高い望遠鏡は、見事な接合芸術というべきであろう...
「有色の輪の現象が最も美しく生じさせられるのは、同一の球面に従って研磨された凸レンズと凹レンズを接合させる場合である。私はこの現象を、色収差のない望遠鏡の対物レンズの場合ほどすばらしく見たことはいまだかつてない。その対物レンズの場合、クラウンガラスとフリントガラスとじつにぴったり接触していたに違いなかった。」

5. 自然に恋したゲーテ
「自然!われわれは彼女によって取り巻かれ、抱かれている。彼女から脱け出ることもできず、中へより深く入っていくこともできない。頼まれもせず、予告することもなしに彼女は輪舞の中へ引き入れ、われわれとともに踊りつづけるが、そのうちにわれわれは疲れ果て、彼女の腕からすべり落ちる。
...
彼女は比類のない芸術家である。いとも単純な素材から最大の対照物をつくり上げ、苦労のあともなく最大の完成にいたる。緻密な確実さを有しながらつねに何かを柔弱なものでおおわれている。彼女の作品はいずれも独自の存在をもち、彼女の現象はいずれもはっきりと孤立した現実ではあるが、すべては一つをなしている。
...
自然は一つの芝居を演じている。彼女がそれを自分で見ているかどうか、われわれは知らない。しかしながら彼女はそれをわれわれのために演じ、われわれは片隅に立っている。
...
自然の冠は愛である。愛によってのみ人間は彼女に接近する。彼女はすべての個物のあいだに間隙をもうけたにもかかわらず、すべてのものは互いにからみ合おうとする。彼女がすべてのものを孤立させたのは、すべてのものを引き寄せるためである。愛の酒杯からほんのすこし飲むだけで、彼女は苦労に充ちた生活の償いをする。」

ドイツ語の Natur が女性名詞であることは、偶然ではなさそうである。掴みどころのない永遠の謎!自然の中に生きながら、その正体をまったく知らない。自然は人間を支配し続け、人間は自然ばかりでなく、自分自身ですら支配できない。自然は、常に運動を続け、停滞することを許さない。静止とは、ある種の呪いであろうか。永劫不変とは、永遠に未完成であることを意味する。人間ってやつは、完成の美よりも、はるかに未完の美に恋焦がれる。どうりで男はみな色仕掛けに弱い...