2008-04-27

"「無限」に魅入られた天才数学者たち" Amir D. Aczel 著

無限に広がる宇宙は、人間の力が有限であることを教える。無限に迫った数学者たちは、神の怒りに触れたかのように精神病を煩わせる。本書は、ゲオルク・カントールを中心に、そうした数学者たちを物語る。ちなみに、翻訳は、サイモン・シン著の「フェルマーの最終定理」や「暗号解読」でも読んだ青木薫氏である。
今宵の記事は、不完全性に基づいて無限泥酔状態で書いている。よって、いかにも煙臭い。

「無限」という言葉には、なんとなく神へ通ずるものを感じる。あらゆるカルト宗教の源泉がここにある。数論の源流であるピュタゴラス教団は、無理数の存在を隠そうとした。ユダヤ教神秘主義であるカバラの神の概念「エン・ソフ」は、無限を臭わす。布教活動には数秘術を使う。まず、10を聖なる数として崇め、無限へと拡張する。神である無限の正体を暴くには、親しみのある数を元にしなければならない。そうでないと、理解した気になれないので、詐欺行為は成立しない。ちなみに、「十の時が流れる」という名を持つ人物が鏡の向こうに住んでいる。彼はテトラクテュスの申し子か?もしかしたら、崇めなければならない酔っ払いかもしれない。
数学界には、二つの相反する派閥がある。それは「離散」対「連続」である。代数学は自然数や有理数などの離散数を対象とし、解析学は関数や無理数などの連続体を対象とする。代数学は真理を求める理論的学問であり、解析学は生きるための実践的知恵と言える。それぞれの宗教的立場は、無限を神に崇めるか自然数を神に崇めるかの違いである。離散数の極限には神秘な世界が待ち受け、自然数は連続体の中でも特別な輝きを放つ。また、数学界を異なる次元から眺めると超越数の諸派が入り乱れる。その代表が、円周率π派とネイピア数e派である。誰がどの派閥に属するかは簡単に見分けられる。ちなみに、アル中ハイマーはe派である。その証拠に、オッパイ星人じゃなくて、脚線美にこそ自然美の対(つい)を心底感じるからである。これを自然対数の底の原則という。

宇宙には矛盾が渦巻く。全ての行動規範を論理に頼るのは危険である。コンピュータ工学を学んだ人は、実数演算をいかに近似で誤魔化しているかを知っている。たまーに、浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754の意義を匂わさなければならない。そこに、べき乗の壁があることを。実数演算が全てできると信じるのは狂信的である。実数演算のできないものの方が多いのだ。これは、アラン・チューリングの「停止問題」へとつながる。チューリングは、プログラムがいずれ停止するかどうかを決定する機械的方法が発見できれば、計算できない実数演算も計算ができると主張している。微積分学は、極限に近づくことで、人間社会を豊かにしてくれたのである。

無限に迫った数学者たちは、集合論によって数の正体を暴き、更に無限へ迫るために無限集合を扱う。そして、無限集合の中にも異なる次元の無限集合の存在を示唆する。カントールは、無限集合より大きな集合は、べき集合であることを知っていた。集合論もまたパラドックスに悩み、自己言及の罠に嵌る。神の絶対性は人間には捉えられない。人間にできることは無限を理解しようと試みるぐらいである。その試みでは、自然数の集合である有限基数から無限基数へは、算術演算によって到達することができない。更に、上の次元の無限基数にも到達できない。次元の高い無限?無限の無限?寿限無!寿限無!
人間が自分の居場所を認知するためには、より高位の系に移らなければならない。コンピュータで文書を作成する時、編集操作はいろいろとできるが、文書ファイルそのものを削除するには、そのアプリケーションから飛び出さないといけない。更なる高位の系であるOSが必要である。系の内部では答えられない命題が存在しても、不思議ではない。宗教に嵌った人間が、どうして宗教の存在を認識できるだろうか?人間の直感は案外正しい。どれだけ努力しても到達できない真理があることを、人間はなんとなく認識している。そして、より高位の系に移れば、更に高位の系が存在し、認知もできない次元の系に出会う。古代ギリシャ時代から無限を抽象的に認識していたのは、それが真理だからかもしれない。定義できるからと言って、その存在を証明したことにはならない。ユニコーンが定義できたからといって、存在するわけではない。ゴジラ映画でさえも実話になってしまう。逆に、証明できないからといって、存在を否定することもできない。証明できない真理もある。不完全性定理の本質とは、こうしたものなのかもしれない。数学は、進歩の中で、またもや宗教へ引き戻される感がある。

1. 五芒星の黄金比
ピュタゴラス派には一つのシンボルがあった。ユダヤ教にもつながる五芒星である。それは、内部の五角形の中に五芒星が描かれ、更に内部の五角形に五芒星が描かれ、と無限に続く図形である。それぞれの対角線は、長さの等しくない二つの線分に分割される。この分割された長い線分と短い線分の比が、自然界に現れる謎の黄金比で無理数であるという。フィボナッチ数列の一般項は、黄金比で表されるらしい。へー!

2. デカルト座標を使ったトリック
お馴染みのXY座標は、数の連続性を視覚化している。ただ、数直線に真の構造を与えるためには無理数の存在が欠かせない。カントールは、デカルト座標を使って無限の性質に迫る。そして、驚くことに、平面区間(0,0),(1,0),(0.1),(1,1)の全ての点は、数直線上の[0,1]区間に対応することを証明した。直観的には、平面上の点は直線上の点より多いはずである。その方法は、まず平面上の0と1の間の数字を一般化して(x,y)=(0.a1a2a3.... , 0.b1b2b3....)で表す。これに対応する直線上の数字は、0.a1b1a2b2a3b3....と表すことができる。これは1対1で対応つけられる。よって、数は同じだけあるというのである。なんとも詐欺っぽい。これは平面上の点を直線上の点に写したのだが、逆に、直線上の点を平面上にも対応させてしまう。ちなみに、これは二次元に限ったことではない。多次元でも同じ現象が起こる。

3. べき乗という嫌な奴と対峙する円積問題
数学界の有名な難問の一つに「円と同じ面積をもつ正方形を作図せよ」というのがある。これは、「角の三等分問題」や「立方体の倍積問題」とあわせて、三大作図不能問題と呼ばれる。円積問題の本質は円周率πとの関わりである。円の面積は円周率と半径の関係で表されるからである。これが、正方形の面積である一辺の二乗に等しいとなると、円周率が代数的数である必要がある。ドイツの数学者C. L. F. リンデマンは、円周率πは、代数的数ではないことを証明した。つまり、有理数を係数とするいかなる多項方程式の解には、なりえないということである。リンデマンによれば、円積問題は解けないということになる。しかし、直観的には同じ面積のものが存在しそうである。えーっと!正方形の一辺を代数的数でない無理数にしようとすると...べき乗とは嫌な奴である。

4. パラドックスに蝕まれた集合論
ガリレオは、整数全体と二乗数全体を1対1で対応つける。整数全体という無限集合は、その真部分集合である二乗数全体の集合と同じ数だけあるというのだ。無限集合には、それよりも小さい部分集合になりうる性質がある。無限と部分無限が同じ?既に無限という概念には煙臭さが漂う。
ジュゼッペ・ペアノは、数を定義するために集合論を使うことができると主張した。その数の体系を導き出す方法とは、0は空集合で定義し、1は空集合を含む集合として定義する。更に、2は空集合を含む集合を含む集合として定義する。これを無限に続けることにより自然数が定義される。
カール・ワイエルシュトラスは、べき級数は関数の無限和であることを証明した。すると、関数の目的を達すためには、無限に到達した時だけなのか?いや、近似の概念も登場するから心配はいらない。連続関数を表現する時、不連続な階段関数を多数並べて近似することができる。
カントールは、数そのものではなく、集合を考えることにより実無限の概念に迫る。そして、与えられた点集合の集積点からなる集合を考えた。ある区間に含まれる無理数の集合は、その区間に含まれる有理数の集積点である。ここまではいい。カントールは、集積点の集合からなる集合を構成するプロセスに魅せられ、次々と無限集合を構成したという。集積点の集合の、そのまた集積点の集合?これを繰り返していくと集積点はどうなるの?集合論は、その性質上、不可避的にパラドックスを抱える。にも関わらず、論理学とともに数学の基礎となって生き延びている。基礎にパラドックスを抱えていては、数学そのものが怪しい世界という証明にもなりかねない大問題である。数学の世界に無限の概念が絡んでくるだけで、詐欺師の世界になる。無限とは、神ではなく悪魔かもしれない。

5. 宗教からの援護
実無限へのアプローチは人々を不快にする。やはり世間の目は冷たいものだった。しかし、意外なところから援護がある。ローマ法王は、無限の概念を神を説明する手段として指示する。なんと、数学を宗教が援護したのだ。ちなみに、カントールはユダヤ人だった節がある。彼はサンクトペテルブルク出身である。それは、キリスト教を強要された改宗ユダヤ人と、その移民の歴史に重なる。そこで、ユダヤ教の伝統である無限に取り付かれたとなれば説明がつく。しかも、カントールは、無限の基数を表現するのにヘブライ文字アレフを使った。アレフは英字アルファベットのAに相当する。最下層の無限、つまり整数と有理数の無限をアレフ・ゼロと名付けた。アレフの構造は、ユダヤ人社会におけるカバラの視覚的イメージに類似している。それは「エン・ソフ」の同心円図である。もし、ユダヤ人が示した神の概念をカトリック教会が支持したとなると、それは皮肉な結果と言えよう。

6. 悪魔を認めるか?連続体仮説
べき集合は、必ず元の集合より高次の基数を持つ。集合のべき集合、更にそのべき集合と...無限に続ければ、集合の基数も無限になりそうである。指数演算には、アレフの値を変える性質がある。カントールは、アレフに順番をつけようとする。無限に順番をつける?これが連続体仮説の正体か?しかし、アレフとアレフの間に無数のアレフが存在する。だってそれを証明しようとしていたのではないのか?連続体仮説を解くためには、超限基数同士を比較する方法を探る必要がありそうだ。それができれば、超限基数はすべてアレフの系列であることが証明できる。ここで「整列原理」が登場する。これは「すべての集合は整列させられる」という主張である。その第一歩は、無限集合も整列させられることを証明しなければならない。しかし、カントールは証明できなかった。これを救って証明したのがエルンスト・ツェルメロという人物らしい。ツェルメロは、任意の集合を整列させる具体的方法を示したという。その証明はこうだ。与えられた集合の部分集合から、それぞれ代表点を選ぶという「選択公理」である。しかし、無限に選択する方法を明確に示す公理としなければならない。そもそも、無限に選択できるってなんだ?こんなものが公理として認められるのか?もちろん論争は絶えない。更に、ポール・コーエンの「強制法」が登場する。仮説の集合が二つのうち一つに強制することができるという。こうなると煙臭さも最高潮となる。これは、連続体仮説がいよいよもって集合論の公理系内部では立証できないことを明らかにする。真でも偽でもない、謎のままという、最も収まるべきところに収まった感がある。ちなみに、選択公理を認めると、バナッハとタルスキは、ユークリッド空間内において、ある球を有限個に分解し、それを再構成させると同じ大きさの球が二つ作れることを示した。バナッハ=タルスキのパラドックスである。選択公理を認めると、数学界に悪魔を認めることになるのか?いや、非ユークリッド空間に持ち込めば、新たな発見があるかもしれない。そもそも神がユークリッド空間に留まっていると考える方が不自然である。

7. 精神病になった数学者の次なる目標
連続体仮説の重圧は、人間を変貌させた。無限の順序を知ろうとしたことは、神を知ろうとした報いか?世間からも異端視された仮説の行方は?その重要性が認められた時、カントールは既に精神病に蝕まれていた。彼は、変貌しシェークスピア学者になっていた。そして、彼の目標は、シェークスピア劇の真の作者はフランシス・ベーコンだということを証明することだった。ゲーデルも負けていない。ライプニッツの理論がライプニッツのものではないことを証明しようとしたという。ゲーデルは、合衆国憲法に論理的矛盾を探し出した。その条文で、独裁者が現れる可能性を指摘する。にも関わらず、なぜかアメリカの市民権を得ている。付添い人がアインシュタインだったからかもしれない。

8. おまけ: googleの語源
本書でgoogolという言葉が出てきた。なんとなくgoogleを思い浮かべる。どうもこれが語源のようだ。googolとは10の100乗のこと。10の100乗、100の100乗、1000の100乗、... googolの100乗、依然として最大数にはならない。googleは無限に広がることをイメージしているようだ。

2008-04-20

"史上最大の発明 アルゴリズム" David Berlinski 著

論理学は、物事の真理を追究していく学問であるが、危険性もはらむ。自分自身の思考で道に迷った挙句、狂気する者も数知れない。常識によって救い出された人は、見つけられないものを探していたことに気づくだろう。それでも、狂気に向かう衝動は抑えられない。数理論理学に身を投じた数学者の人生は、叙事詩的でもあり悲劇的でもある。人より早く歳をとり、成人を迎えると無情な早さで衰える。数々の論争を単純化することに努力した天才たちは、ついに生きることよりも死ぬことの方が単純であることを悟る。その結末が本人にとって悲劇でなければ、それでいい。
数学の中で疑う余地がない分野があるとしたら、それは算術であろう。手に負える知的範囲に留まっていると思えるのは、ユークリッド幾何学のみである。一度得られた数学の公理は永遠である。数学者は帰納法という魔術で、無限をも手なずけ、見ることもできない世界を証明する。彼らは魔術師か?それとも占い師か?詐欺師のアル中ハイマーとしては見逃せない。「私は嘘をついている」さて、この嘘つきの言葉は真か?偽か?数学のパラドックスのほとんどが、この自己言及の罠に嵌る。大デカルト曰く「我思う、故に我在り」。そして、自らの存在を証明し、ついには神の存在までも証明してしまう。アル中ハイマー曰く「我時々思う。故に時々存在する気がする」。そして、自らを酔っ払いであることを認め、ついには人間は皆、俗社会に酔っていることを証明するのだ。
ゲーデルは晩年、不完全性定理は、自分が発見しなくても誰かが発見していたにちがいないと謙虚に述べたという。この主張は正しいだろう。真理の概念とは必然的なものであり、概念が歴史の中で散歩しているのである。誰がその概念を歴史の流れに乗せるかは、大した問題ではないのかもしれない。すると、人間は何のために存在するのか?人間は真理を暴くための使命を帯びているのか?人口増加とは、真理を導くために、その確率を高めるためのものなのか?戦争とは、科学を進化させるために、怠け癖のある人間の尻たたきを目的としているのか?競争の原理の正体とは?その最終目的とは、宇宙の真理を暴くことか?神は随分とカオスなシステムをお創りになったものだ。こうしたくだらないことを真面目に考えた挙句にかかる病が、アル中ハイマー病である。おっと!論理学を語り始めると酔っ払いは歯止めがきかない。これを静めるには、グィッと一気に沈めるのが一番だ。なぜかって?そこにグレンリベットがあるから。

本書は、哲学と論理学を母体とする人間の思考から、ついにアルゴリズムに到達するまでの歴史ロマンを物語る。また、歴史上の人物たちと会話するフィクションが盛り込まれ、現実と幻想が交錯する。文学的でもあり、科学抜きで読み物としておもしろい。アルゴリズムの歴史は古代ギリシャにさかのぼる。その語源は、アラビア代数学の創始者、通称アルフワリズミが変形したものらしい。アルフワリズミが示す10進数の四則演算は、最も単純なアルゴリズムである。科学の意義は体系化されるところにある。人間思考や社会現象のような複雑系は、論理的な姿も見せるが、推測できない部分が多い。数理物理学者を支えてきた偉大な概念は微積分であるが、その時代も三百年に渡って息切れしている。これを解明する手段として、注目されている概念がアルゴリズムである。アルゴリズムは記号を操作する手続きに過ぎないが、知能の概念をも解き明かそうとする。アルゴリズムの計算は、有限で不連続で、関数などをもたらさない。ただ、シミュレーションによって離散的にスナップショットするだけである。数学者は、この不連続なものを貼り付けることによって、近似的な仮想世界を推論する。いまや、自然科学の基本法則は、アルゴリズム、情報、記号の三つの概念によって救済されている。果たして、この道具は複雑系にどこまで迫ることができるだろうか?

1. ライプニッツに始まる
論理学を体系化したのはアリストテレスである。それは、万物を「すべて」と「ある」の絡み合いである。これを表すには、0と1の二つの数で十分であり、なんとなくデジタル思想がうかがえる。この体系は、矛盾を抱えながらも幾世代にかけて支配し続けた。17世紀、論理学は、まだ社会的に認められた学問ではなかったが、それにライプニッツが挑む。彼は、この世はこれ以上悪くしようがないという通念とは逆に、この世はこれ以上よくしようがないと信じていたという。ライプニッツの概念は「神」と「無」であったらしい。この時代の偉大な数学者にオイラーがいる。数学界で、足し算が無限和に拡張された時、数がどこまでも続くのに、どういうわけか、ある数に収束するパターンを発見した。無限の演算を「部分和」と「極限」の二つの道具で克服する時代が到来する。ジュゼッペ・ペアノは、一次微分方程式の解が存在することを証明した。それは無限個の数を有限個の記号に分解される。ペアノ公理は無限にいたる道を示す。新しい数学の体系を示す概念は、しばしば矛盾をはらむ。微分の概念で、無限に小さい数は他のどんな数よりも小さく、しかも0ではないとは、不条理にしか思えない。
本書で登場する夢商人の話はおもしろい。真理の見える夢を商売にしている。毎晩夢を見ることによって、一段ずつ真理の階段を上っていき、だんだん真理に近づいていく。では、いつ真理に到達できるのか?それは階段を上りきったら。では、いつ階段を上りきるのか?それは真理に達すれば。真理の夢を見るには高くつきそうだ。

2. ラッセルのパラドックス
フレーゲは、量化を持ち込んで命題演算を可能にする。「すべて」と「ある」の論理は、「任意」と「存在する」という概念に置き換わる。フレーゲは、アリストテレス以来、二千年続いていた伝統論理学を一掃し、推論規則を体系化した。あらゆる命題を解くために、変項、量化子、述語という道具を使って述語演算する。フレーゲの野望は、算術演算で論理思考を組み立てることだったという。19世紀末、ゲオルク・カントールは、集合論を確立した。基本的な概念は「分離」と「同化」である。分離は対象から選び出すこと、同化は集めること。フレーゲは、集合論をも含む論理形式の算術へ挑む。そして、集合から生まれるあらゆるものを同化しようとした。ここで、ラッセルは集合論における矛盾を指摘する。これは、数学界にとって深刻な問題となる。ラッセルは言う。「自らを要素として含まない集合を考えよ!」と。そもそも集合とはそういうものだ。全ての数の集合は数ではない。全ての犬の集合は犬ではない。しかし、通常ではありえない、それ自体を集合として含む集合がある。つまり、集合の集合はどうか?複数の集合を集めて一つの集合とした場合、要素に集合が含まれる。
ここで、集合Xについての条件Aは、「Xは、X自身の要素とならない集合である」とする。「集合Xは、要素ではない」とすると、条件Aを満たすので、集合XはXの要素となる。「集合Xは、要素である」と仮定しても、条件Aを満たさないので、集合XはXの要素とならない。この議論は、「この文章は偽である」という文章が正しいのかどうか?という問いに似ている。自己言及は自己陶酔を招き、自らをアル中にしてしまう。

3. ゲーデルの不完全性定理
ヒルベルトは、初等幾何学に革命を起こし解析数論を統一した。彼は、ヒルベルト・プログラムで、数学界の未解決問題をリストアップし、解を導くように先導する野望を画策する。彼は、どんな問題も体系的であり、数学上の共通する構造があると主張した。彼の目指す論理体系とは、無矛盾でなければならない。形式的体系は完全でなければならない。そして、これを証明するために、同じ形式的体系をもった道具を使わなければならない。広範囲に及ぶ難解な概念を、機械的ルーチンに従属させようとしたのである。しかし、クルト・ゲーデルは、ヒルベルト・プログラムを破綻させる。「算術は不完全である」ことを証明してしまったのだ。彼の定理では、無矛盾性の証明が、算術そのものの次元を超えているという。算術には言うまでもなく矛盾が無い。その無矛盾から自身の無矛盾性を証明できないという主張である。またもや酔っ払いの発言である。「自己言及!」という酒の銘柄を造れば、きっと売れるだろう。しかし、これを形にできる道具があった。それが帰納法である。帰納法は、有限な構成規則を扱うのに、なぜか無限の世界へ導いてくれる。まず初期値を指定し、次にk番目の数を定義し、更に(k+1)番目の数を定義できれば、無限の数列が得られる。帰納法は、人間が無限の総体を把握する一つの手段である。ところで、人間の精神は無限なのだろうか?そもそも人間は無限の総体を把握する必要などあるのだろうか?無限を把握することは、精霊にでも任せようではないか。
アロンゾ・チャーチは、論理学界にラムダ変換という計算方法を持ち込んだ。これは、様々な関数型プログラム言語に具体化される。それは、二つの基本操作「適用」と「抽象」により結び付けられ、柔軟な表記法ができあがる。ところで、柔軟とか自由とかいうものほど混乱するものはない。矛盾から逃れるために自由度が必要である。抽象度は、レベルによっては不毛なものになりかねない。そして、ついには「すべての難問」を「理解した気になった」と変換してしまうのだ。アル中ナイマーは、この「理解した気になった」という概念が大好きである。

4. チューリングマシン
帰納関数とラムダ計算が登場したところで、新たな概念が登場する。アラン・チューリングは、仮想機械という概念を持ち込み、抽象概念を単純な構成概念に変化させた。これは、現在のコンピュータの青写真となる。彼は、人間の思考は、人間コンピュータとして振舞っているのではないかと推測する。そして、「四つの構造」と「手続き」の構成要素で実現できると考えた。四つの構造とは、マス目に分割された無限に長いテープ、有限個の記号(0と1)、一度に一マスを走査する読み取りヘッド、一組の有限個の状態である。手続きとは、従うべき指示であり、左右どちらかに一マス動くか動かないか、マス目に記号を書くか消去するか、この動作をその置かれた状態で判断する。この振る舞いはif...then...によって制御できる。これは、まさしくコンピュータの基本構成であり、しかもハードウェアとソフトウェアの境界がある。フォン・ノイマンのストアドプログラムをも彷彿させる。チューリングは、この構成概念で、人間の知的行為が説明できると主張したのである。ここで重要なのは、この仮想機械は、問題を解く道具であって、問題を設定することはできないことである。現代社会を考える上で、その因果関係を考察する時、常に動きつづける現在と、過去の概念を結びつけようとするだろう。しかし、あらゆる偉大な発明は、時間という連続体を分割するという。チューリングマシンは、まさしく時系列を分断している。

5. 時間によるシミュレーション
多くの事物は、局所的に崩壊し秩序を失うように見える。トランプをきると、カードはごちゃごちゃになる。コーヒーは冷める。ちなみに愛も冷める。グラスが破れると元に戻らない。美酒は知らないうちに無くなっている。こうして無秩序は容赦なく進行する。果たして無秩序は解析できるだろうか?その解決策を熱力学が提示する。分子の振る舞いを時間の経過とともにエントロピーの概念で説明した。ランダムな現象を時間に分割することにより、確率論に持ち込んだのだ。科学者は、事象を時間の関数で定義できれば、シミュレーションに頼ることができる。シミュレーションは、個々の事実から仮想世界を作る。
物理学者がずっと悩ませた世界に微分方程式がある。物理学者は、多くの微分方程式が解けず、多くの微分方程式が解析的に扱えない。しかし、有限な計算手法によるアルゴリズムを用いればシミュレーションできる。なんでもシミュレーションすればいいと知るや、これまた罠に嵌る。そこには、近似の概念で必然的にともなう誤差を含む。結局、人間的な計算手法には限界があるということか?数学は、完全な道具とは言えないようだ。しかし、ある有限の時間内で機能させると、限られた誤差範囲で有効な解をもたらす。科学者は、宇宙理論が完全に解けなくても、宇宙モデルをステップ毎に眺めることができる。

6. 記号が表すものは?
アルゴリズムは手続きを定義し、記号を操作する手段に過ぎない。では、記号とはなんだろうか?記号は抽象化されたもので、それ自体に概念が宿るという。つまり、人間が意識できる情報である。この情報という概念を具体化したのが、クロード・シャノンである。彼は通信モデルに秩序をもたらした。メッセージという情報には、人間の感情を動かす何かがある。あるメッセージを受け取るまで、人はそれを知らない。隠されたものが明らかになるまでには、時が流れるのを待つ。情報もエントロピーと同じく時間の経過と結びついた量である。科学者は、記号という概念に、確率論という古典的概念を組み合わせることにより、人間の精神に迫る。知能は何を行うか?それは「計算」である。知能は何を用いてそれを行うか?それは「情報」である。知能は知的能力をどうやって獲得したか?それはダーウィンに任せよう。「機械はものを考えられるか?」の問いにチューリングは次のように答えたという。
「人間と会話して、機械が人間なのだと思わせることができればイエス。できなければノー。」
ニューラルネットワークは、一種の信号処理として機能するベクトル変換器である。これは計算可能な関数を計算する装置であり、チューリングマシンにもできる。本書は、「人間の心は本質的に一つの計算装置だ」という考えが支配的になるのは、それ以外に答えがないだけであると語る。この主張にどんな価値があるかわからない。ただ、心が計算装置として認められたとしても、疑問は生まれる。その装置は、どんな計算をしているのか?そこには、どんなアルゴリズムが存在するのか?心の計算理論は、人間がなしうる全ての心的状態をカバーしなければならない。
例えば、物を見るという行為は、光が網膜に当たり、脳の視覚系への入力となる。それが脳で計算されて像として描かれる。これは表象なのか実体なのか?物理的には脳への入力データは、誰に対しても同じである。では、出力である表象は同じであると言えるのか?人間が持つベクトル変換機は、どんな人間も同じものを実装していると保証できるのか?赤に見える色も、言葉では誰もが同じように表すが、本当に見えている色は同じものなのか?芸術が理解できる人は、感性の違いで、違う世界が見えているに違いない。見えるもの一つ取り上げても、いろんな仮説が渦巻き、目が渦巻き、とうとう真っ直ぐ歩けなくなった。やはり空間は曲がっているようだ。こうして、なぜかアインシュタインは偉大であるという証明に繋がるのである。

2008-04-13

"コンピュータアーキテクチャのエッセンス" Douglas E. Comer 著

コンピュータアーキテクチャーは、ハードに生きる人間には興味のある分野である。ハードに生きる人間はハードボイルドに反応する。タイトルからして、エレガントでもう少し電子工学を掘り下げてくれるものを期待したが、対象者に学生をも含めた基本書である。ただ、それはそれで意義深い。脳の記憶領域を管理できないアル中ハイマーは、しばしば基本に立ち返らなければならない。この分野の教科書といえば、パターソン&ヘネシーが思い浮かぶ。うちの本棚にも第2版が並んでいるが、隅々まで読み渡したことがない。この機会に基本に立ち返るのも悪くはない。今日、高水準言語を使うことが多くなり、基底のハードウェアを認識する必要もなくなってきた。ただ、プログラム性能と正面から向かい合う組込み系などでは、こうした知識を疎かにはできない。

本書は、工学的な詳細よりは概念に焦点を合わせおり、プロセッサ、メモリ、I/Oといったディジタルシステムの基本要素を網羅しようとしている。また、ハードにがちがちに固まった内容ばかりではなく、OSとプログラマの視点からも解説が施される。ただ、事前知識としてTTLを使った論理回路の説明が少々くどい。学生をも対象としている教科書なので仕方がないのかもしれない。それにしても74シリーズは懐かしい。また、マイクロプログラミングも登場するなど、なかなかの古典振りで、アル中ハイマー世代にマッチした懐かしい香りがする。ちなみに、その世代は16進数で20代である。尚、年齢表記にアルファベットを要する。
著者が本書を執筆した理由の一つに、学生向け授業の内容を嘆いていることが語られる。それは、実践的ではないブール代数に集中した授業や、特定マシンのアセンブラ言語の詳細を学ぶ授業になっているという。この意見は、おいらの学生時代と変わっていない印象で少々意外に感じる。大学の講義とは、時代の流れについていけない官僚的なものなのだろうか?いずれにせよ、おいらがコンピュータ工学を学んだのは卒業後である。学生時代に学んだ知識は役に立っていない、というより睡眠学を研究していた。講義中、夢を操ろうとして金縛りにあったりして友人に笑われたものだ。ただ、それは自我を制御する実験をしていたのである。

コンピュータの性能を語る上で、メモリ制御が中心になるのは仕方がない。フォン・ノイマンアーキテクチャであるストアドプログラム方式は、プログラムとデータの両方をメモリに格納することから、メモリアクセスがボトルネックとなる。特にオペランドによるアドレス指定が弱点となる。間接アドレッシングは性能面からなるべく避けたい。全ての命令セットが同一サイクルで動作するならば、並列パイプラインの構想は優れている。更なる性能改善を求めると、プログラムの流れも考慮する必要がある。実行時間の多くが分岐命令に費やされることから、分岐方向のスケジューリングや、両方の条件を並列評価して不要な値を破棄するなどの手法も現れる。物理的な構成では、複数のメモリをインターリーブなどの手法でアクセス時間を先回りする方策もとられる。また、キャッシュの方法論にも、いろいろと論争が見られる。本書は、こうしたコンピュータの性能改善のための概念を議論している。

1. マイクロコード
CPU内部の複雑さを解消するために、マクロアーキテクチャとマイクロアーキテクチャの二つの抽象化がなされる。マクロ命令をマイクロコントローラが解読して、マイクロコードに分解しステップ実行する。マイクロコードの利点は、コードの抽象化と、回路で構築するより実現が簡単である。欠点は、ハードウェアよりオーバーヘッドが大きい。最近では、CPUにマイクロコードを上書きできる機能を持つものがある。CPUがマイクロ命令セットへのアクセスを提供する理由は、柔軟性と性能である。必要な命令セットの判断は用途によってユーザ側に任せられる。従来のマイクロコード方式は垂直型で、CPUの命令セットをそのまま引き継いだもので、性能面ではあまり魅力がない。これを克服するために水平型が考案された。その構成は、複数の機能ユニットが結合されるデータパスに、マイクロコントローラも結合される。そして、複数の機能ユニットの動作をスケジュールすることを許す。コントローラが命令の先読みで、命令をスケジューリングする機構もある。アウトオブオーダー実行で、命令の状態を追跡するスコアボード機構を利用して、命令順に実行しなくても、順序を入れ替えることにより結果的に同じにする。マクロ命令セットの書き換えは、性能向上のための最適化手法の一つである。

2. 仮想メモリ
メモリコントローラが物理メモリ側に存在するのに対して、MMUはプロセッサ側に配置される。MMUは、物理メモリを多重化し仮想空間を作る。長所は、異なるメモリデバイスを吸収したり、メモリ毎の命令セットやオペランドを用意する必要がない。また、一定のメモリ空間を見せることにより多重プログラミングを助ける。仮想メモリ機構は、プログラムとデータ保護を直結する。その古典的な手法に、ベースと範囲を指定するレジスタを使う方法がある。OSが動的にマッピングし、空間の確保と保護を提供する。メモリ資源が乏しい時代、プログラムを可変サイズのブロックに分割し、必要とするブロックをメモリにロードするセグメンテーションがある。多くの研究と実験からセグメンテーションは衰退化する。問題は、OSがメモリから断片の出し入れを繰り返していくと、小さな未使用領域が細分され、フラグメンテーションが起きる。
次に登場した機構がデマンドページである。これは、セグメンテーションを一般化した方式で、その違いはプログラムの分割方法にある。プログラムの可変サイズに対して、ページによる固定サイズを提供し隙間を無くす。実現するための必要な機構は、失ったページを検出するハードウェアと、外部記憶と物理メモリの間でページを移動するソフトウェアである。ページの置き換えのための、アドレス変換、ページ表の記憶の実装は、そのままボトルネックとなりやすい。その対処で、表引きのためのバッファに連想メモリ(CAM)を使うなどの工夫がある。本書は、TLB(Translation Lookaside Buffer)を使わない仮想メモリは、受け入れ難いほど性能が出せないだろうと語る。TLBという高速検索機構により、ページ表の表引きが効率的に行われる。

3. キャッシュ
キャッシュ技術は、フォン・ノイマンボトルネックを軽減する最適化技術である。キャッシュ置き換えポリシーは、キャッシュがいっぱいになった時、新たな要求を無視するのか、どの古いデータを追い出すかを指定することである。ヒット率を確保するために、当然、頻繁にアクセスするデータを残す。LRU(Least Recently Used)は、最も長い期間参照されなかったデータを置き換えるように指定する。これは、実現が容易で多く利用されているポリシーである。多重レベルキャッシュ構造は、キャッシュの性能向上のためにキャッシュを使う。L1,L2,L3がそれである。L1がチップ内に配置されるのに対して、L2,L3はチップ外に配置される。先読みキャッシュも性能改善に役立つ。初期の機構では、ライトスルーによりキャッシュはコピーを保持していた。別の方法では、キャッシュがローカルとなり、必要に応じてメモリを更新するライトバックがある。書き換えタイミングは、キャッシュの置き換えが生じた時にデータを書き戻す。どのデータを書き戻すかはダーティビットで管理する。
キャッシュ内のランダムな参照を連続アクセスすると性能は悪化する。逆にランダムな参照数を減らすことによりキャッシュ性能は改善される。
キャッシュ機構は、マルチプロセッサ環境では、キャッシュの一貫性を保つのが難しいなど、数々の問題が生じるため、研究者の中でも議論が分かれるようだ。
命令とデータで別々のキャッシュを配置すれば改善されるいう意見がある。また、キャッシュ容量が、参照方法よりも重要であるとした意見もある。つまり、キャッシュ容量が充分確保できれば、命令とデータを混在したところで問題はないという主張である。
他にも、キャッシュの物理的な配置についても議論がある。キャッシュは、プロセッサとMMUの間に配置するべきか?それともMMUとメモリの間に配置すべきか?つまり、キャシュアドレスを仮想空間で使うか物理空間で使うかといった議論である。
プログラマの立場からすると、書かれるコードにはループが含まれる傾向がある。これは繰り返し小さな命令集合を実行することを意味する。プログラマは、何度も同じデータを参照する傾向もある。また、キャッシュを有効に使うために意識したコンパイラもある。キャッシュの仕組みを知っていれば、活用するためにうまくコードを書くプログラマもいるだろう。

4. I/O
一般的にプロセッサの速度と入出力装置の速度に大きな差が生じる。これらを同期するためにポーリングするのは、CPU資源が勿体ない。これを意識しない割込み機構は、おいらの時代には画期的であった。おいらはZ80時代を謳歌した。ワンチップマイコンという言葉が流行り出し、割込み機構とDMAが内臓されているのには感動したものだ。本書は、DMAに加えて、更なる性能改善に、次々にくるデータバッファの数珠繋ぎ、複数の操作を連続させるために操作の数珠繋ぎと続く。また、プログラマの立場から見たデバイスドライバの概念を説明している。低レベルと高レベルのインターフェース、データの共有、待ち行列、デバイス依存部を隠蔽などなど。こうした資源は、ライブラリとしての提供されることもある。また、OSが提供するシステムコールのスタイル、open/read/write/closeパラダイムがある。入出力装置の性能を最適化するために、バッファリング手法が用いられる。バッファリングは、システムコールのオーバーヘッドを減らす。そして、アプリケーション側でタイミングを制御できるflush操作が実装される。

5. マルチプロセッサ
一般的な並列パイプライン処理は、フェッチ/ストアの階層で、その効果は大きい。しかし、マルチプロセッサで物量にものを言わせても、性能向上には限界がある。OSのオーバーヘッドや、アプリケーションによってまったく意味を持たない場合もある。プログラマの視点からすると、ロックと解除を、暗黙的に任せるよりも明示的に並列を意識する方がピンポイントで性能改善されることもある。単に、同種のプロセッサを複数搭載する方法もあるが、科学演算用やグラフィックスエンジンなど異種のプロセッサを組み合わせる場合もある。理論的には、マルチプロセッサの方がその数だけ性能が上がりそうだが、実際にはメモリ競合、通信のオーバヘッドなどで、数に比例した性能は期待できない。逆に、プロセッサが増えることによって性能が低下する場合すらある。

2008-04-06

"オイラー入門" William Dunham 著

入門ということで立ち読みで済まそうと思ったのだが、アル中ハイマーの頭脳では無理である。それに、本書は是非とも手元に置いておきたい。こういう本を読むと、学生時代に挫折した数学に再チャレンジしてみたくなるから困ったものだ。どうせ、またアホを自覚するだけなのに。

本書は言うまでもなく数学の巨匠レオンハルト・オイラーについてのものである。オイラーの功績はあまりにも広大なため、こうした本で紹介するのにも限界があるだろう。著者は、オイラーの功績で無視している部分が大きいことを認め、特に、応用数学に関するものを省いていることを詫びている。人類は論理で武装して、誰が見ても明晰な世界を説明しようと奮闘してきた。しかし、その発端は天才たちの直観に頼るところが大きい。本書は、そうしたオイラーの直観的な部分もさらけ出す。また、フーリエ級数、ベッセル関数、ヴェン図といったものは、むしろ、オイラー級数、オイラー関数、オイラー図と呼ぶ方がふさわしいと語る。しかし、そんなことでオイラーの偉大さは微動だにしない。
オイラーは、バーゼル大学でヨハン・ベルヌーイから数学の手ほどきを受けている。サンクト・ペテルブルグのアカデミーでは「バーゼル問題」を解決して有名になる。ここで、なぜロシアなのか不思議でもあるが、時代背景から推察すると、ピョートル大帝時代、ヨーロッパ諸国でも遅れて近代化に乗り出したロシアは、教育問題を抱えていた。ピョートル大帝は、積極的にヨーロッパの科学や文化を持ち込み交流したことでも知られる。新しい首都サンクト・ペテルブルグでアカデミーを設立し、多くの外国人学者を迎えている。その中に、ヨハンの息子ニコラスとダニエルのベルヌーイ兄弟もいる。
オイラーは視力の衰退という身体上の問題を抱えていたという。30歳ぐらいで右目を失明し、60代でほぼ全盲になる。だが、それからの膨大な研究成果には驚嘆させられる。

オイラーといえば、複素解析に重要な指数関数と三角関数の関係を示したことが思い浮かぶ。この数学の道具は、急激に増大し発散する世界を、振動する閉じた世界に変えてしまう。そのお陰で、ホーキングは、虚時間という概念を持ち出し、宇宙の境界線まで無くしてしまった。アルコールのピッチが上がれば上がるほど、同じ台詞を繰り返してホットな女性を口説くという現象もオイラーの公式によって説明がつく。夜の社交場へとまっすぐに向かう足取り(クリティカル・ライン)は、いつのまにか例の店(零点)にいる。店を出て、更にまっすぐ歩くと、またまた例の店(零点)に辿り着く。この現象は、実(実数部)は1/2しか飲んでいないのに、ひょっとしたら(虚数部で)無限に飲んでいるのかもしれない。しかも記憶がない(自明でない)。たとえベロンベロンに酔っ払っていても、別の人格(定義域)では、俺は酔ってないぜ!と主張する。これはまさしくゼータ関数の特性ではないか。アル中ハイマーの気まぐれな行動は、リーマン予想をも体現する。ひょっとしたら、あらゆるランダムな自然現象は、無限級数によって数学的に表されるのかもしれない。これすべて、背後に偉大なオイラーの影を感じるのである。

本書を読んでいると、なんとなくフーリエ変換が懐かしく思い出される。アル中ハイマーは、いろんな酒を飲み回ると、つい悪乗りして行き過ぎた行動にでる。これは、いろんなアルコール成分の係数和が急激に振動して、人格がオーバーシューティングするためである。これがギブス現象の正体だ。ちょいとフーリエ変換ごっこでもして遊ぶとしよう。尚、遊んだ詳細は、酔っ払いディオゲネスのページに掲載する。たまにはHPも更新しないとすねちゃう。バイクばかり可愛がっているから、愛車のバッテリーが上がるのだ。

1. 数論
数学の歴史を紐解けば数論から始まる。それは紀元前6世紀のピタゴラス学派までさかのぼる。最初の対象は正の整数である。ユークリッドは、著書「原論」の中で完全数についての定理を記した。オイラーと数論の関係を調べるとゴールドバッハに辿り着くという。ゴールドバッハは、フェルマーが予想した「2^(2^n)+1は、すべて素数である」という考察をオイラーに紹介したという。物語は、オイラーがこれに反例を挙げたところから始まる。その後、オイラーは完全数と友愛数を考察し、すべての約数の和を考えることに没頭した。ユークリッドは、2^k-1が素数であれば、2^(k-1)・(2^k-1) は完全数になると証明した。ちなみに、2^k-1型の素数は、メルセンヌ素数と呼ばれ素数の中でも名声を博している。オイラーは、偶数の完全数に制限した場合、このユークリッドの十分条件が必要条件にもなることを証明した。ただ、完全数を発見しても、完全数が無限にあるかどうか?奇数の完全数は存在するか?などは未解決のままである。

2. 対数
オイラーの著書「無限解析入門」は、微積分の計算をするのに前提とされる知識を集めたものである。オイラー以前の解析は、曲線の性質を調べるものであったが、オイラー以後は関数を調べるものとなった。オイラーは、指数関数の逆を考え対数関数の概念に至る。おいらが学生時代に対数に出会った時は感動した。なにしろ面倒な乗算が、加算に置き換わるからだ。電子工学を専攻したので、デシベルの概念でこれを体感した。今でこそ、電卓で簡単に求められるが、古代の人々は対数表を使っていた。おいらも高校時代、教科書の付録についている対数表を破りとって持っていた覚えがある。オイラーは、指数関数や対数関数の無限級数展開を求めようとした。彼は、自然対数の底e(ネイピア数)を無限級数を展開して求めている。また、対数と調和級数の関係も考察する。そして、オイラーの定数ガンマが登場する。これはオイラー・マスケローニ定数とも呼ばれる。

3. 複素数
三次方程式の実根を解く時に、避けることができない概念として虚数が登場する。それは、カルダーノの公式として知られるが、二乗してもマイナスになる場合がある。オイラーは、これを虚数の概念を用いて解決した。ド・モアブル - オイラーの定理は、複素代数の基礎となっている。ここでオイラーの公式も紹介される。それはいいとして、なんじゃこりゃ!
i^i = exp(-π/2) × exp(±2πk)
オイラーは、こんな言葉を残しているという。
「なんと注目すべきことなのだろう。なぜなら結果は実数であり、しかも無限個の異なる実数を含んでいるのだ。」
k=0 の時、i^i = exp(-π/2) = 1 / √exp(π) = 0.20787957... になるらしい。
数学界で美しいとされる等式 exp(πi) = -1 の両辺を平方根すると、
exp(πi/2) = i の両辺をi乗すると、exp(-π/2) = i^i
ほんまや!gさん電卓で試すと...感動するほどのことではなかった。

4. 解析的数論
オイラーの特徴は、数論を解析的に扱っていることである。素数を中心とした分野に微積分を持ち込んだ。ここで不自然なのは、数論の対象が離散的であるのに対して、微積分の対象が連続体であることである。それを見事に融合してみせた。素数定理は、自然数の中に素数がどのくらいの割合で含まれているかを述べる定理である。素数が自然数の中にどのように分布しているのかという問題は数学界の難問の一つである。
本書では、付録で紹介されるが、ゼータ関数をオイラー積で表している。
ζ(s) = Σ n^-s = Π 1/(1-p^-s), ただしpは素数
ちなみに、ζ(2) = π^2/6 は、バーゼル問題である。
おもしろいのは、正の数を成分とする無限個の和が、素数全体を成分とする積で表されていることである。これは、s=1の時、左辺が無限大であることから、右辺の積も無限大となり、素数は終わらないことの証明にもなっている。ちなみに、素数が永遠に見つかることを、既にユークリッドが証明している。
(2 × 3 × 5 × 7 × 11 × ... × N) + 1, (Nは素数)
これは、2からNまでのどの素数でも割り切れないので、Nより大きな素数である。だから素数は無限に存在する。なんとエレガントなんだ。更なる疑問は、素数の存在がまばらになる様子に法則はあるか?与えられた数よりも小さい素数は何個あるか?これがリーマンの扱った問題である。いずれリーマン予想に関する書籍にも挑戦してみたい。

5. 代数
代数は、古代ギリシャにまでさかのぼり、方程式を解くことに起源を持つ。開花させたのは、9世紀のイスラムの数学者たちで、アル・フワーリズミーは1次、2次方程式の論文を書いた。3次方程式の解は歴史的にやや複雑なところがあるがジェロラモ・カルダーノが著書で示し、4次方程式の解はその弟子ルドヴィコ・フェラーリが導いた。オイラーも4次方程式の解を別の方法で導いているという。当時の数学者たちは、どんな多項式でも1次もしくは2次で因数分解できると信じていた。オイラーは、高次方程式の解法を導こうとするが、できなかった。後に、ニールス・アーベルによって、5次以上の方程式に決まった代数的解法がないことが証明された。こうした代数の世界でも幾何学的解釈が登場する。それは、ガウスらによる複素数平面の導入である。ある関数が複素微分可能な場合、その関数は解析的であり、これを整関数というらしい。そして、「有界な整関数は定数である」というリウヴィルの定理が登場する。この定理、おいらにはよく分からない。そもそもcos関数やsin関数自体は微分可能な上に、定数にはならない。本書の説明では、実数の範囲ではその通りだが、複素数全体上では有界ではないので、この定理の判例にはならないという。まるで魔法にかかったようだ。波の世界はなんでも酔っ払いにしてしまう。ちなみに、本書は、この辺りの知識は、一般の複素解析の講義で数ヶ月かかることを強調している。

6. 幾何学
古代ギリシャでは、数学は幾何学と同義であった。オイラーはユークリッド幾何学にも大きな遺産を残した。幾何についてのオイラーの論文は、座標軸がおかれた解析的なものであったという。そこには、代数学の融合が見られるようだ。ただ、当時は、解析幾何学が本当に幾何学なのかと反論された時代でもあった。
「ヘロンの公式」は、三角形の三辺の長さから面積を求めるものである。本書は、このエレガントな証明を紹介している。また、三角形の重心、垂心、外心が同一線上にある「オイラー線」を発見する。
また、「フォイエルバッハの円」も紹介している。「9点円」と呼ばれるものである。
「三角形の各頂点から向かい合う辺へ下ろした垂線の足を通る円は、3辺の中点を通り、更に垂心とそれぞれの頂点を結ぶ線分の中点を通る。」
余談で、モーリーの定理にも触れる。ユークリッドは、3つの角を二等分することで三角形の内心を見つけたが、フランク・モーリーは三等分することを考えた。既に、コンパスや定規で角の三等分線が作図不可能であることは証明されている。ただ、その結果には感動させられる。3つの角の三等分線が交わる図形は、正三角形を形成する。この図は、なんとなく宗教の香りがする。

7. 組合せ論
組合わ論は、離散数学の中で重要な分野の一つである。その対象は物を数えることであり概念は簡単であるが、一筋縄ではいかない。ものを選択する時、可能な配列が何通りあるかが鍵となり、これは確率論の基礎でもある。本書は撹乱順列を取り上げる。n個の文字の配列があった時、全ての文字が元の配列の場所に一致しない再配列の方法は何通りあるかという問題で紹介される。ここで、オイラーが与えたe^xの級数展開が利用される。そして、無限個の配列に対して、全ての文字が一致しない再配列の確率は、
なんと、x = -1の時で、e^-1 になっちゃった。驚くべきは、結果にeが現れることだ。しかも、この極限値の収束は非常に速い。つまり、20個以上では、無限個でも確率は、大して変わらないというのだ。これは、20杯以上飲んじゃえば、その先に見えるものは同じで、全て「天国への階段」へ通ずることを示しているに違いない。

2008-04-01

"困ります、ファインマンさん" Richard P. Feynman 著

昨年のエイプリルフールでは「ご冗談でしょう、ファインマンさん」を読んだ。その時は、アル中ハイマー&オッペンハイマーで盛り上がり、ノーベル賞物理学者に女性を口説く基本法則を伝授してもらった。今年もファインマンさんでいこう。本書は、「ご冗談でしょう!」に続くエッセイの続編である。相変わらずの哲学者ぶりに、日々の出来事が馬鹿馬鹿しくなる。著者は、ロスアラモスで原爆の仕事に携わった人に多いという腎臓周辺組織の癌と闘い、何度も手術を重ねた。本書は、その度に復帰した中での物語である。にも関わらず、悲壮感など微塵も感じさせず、人生を謳歌している様子がうかがえる。自称「積極的無責任者」と語るが、そこには照れ隠しが見える。これがファインマン流哲学であろう。権威のあるお偉いさんにはあまり見られない行動ぶりに、おもしろく読みいってしまう。

著者は、最後に、科学の価値とは?全身全霊を打ち込んできた科学とは?その疑問への答えを導こうとする。原爆作りに携わった人間として、間違った使い方をされた科学の恐ろしさを告白する。その中で、進歩を重ねるためには、自分の無知を悟り、疑問の余地を残すことが重要であると語る。少々意外であるが仏教の言葉も飛び出す。
「人はみな極楽の門を開く鍵を与えられているが、その同じ鍵は地獄の門をも開く」
社会貢献という言葉をよく耳にする。科学者は社会に及ぼす影響を考えるべきだと説教する人々がいる。科学は人間の知的欲求から成り立つ。科学の発展は新しい世界観をつくる。それをどういう世界観にするかは人間次第である。そもそも社会の役割とは何か?社会は人間のエゴのために存在するのか?生物の存在すらほんの一瞬の宇宙現象に過ぎないのかもしれない。もし、人類に宇宙を解明をする使命があるならば、まだまだ人類は存続し続けなければならない。

今宵のブランデーは濃厚なマイルド感を醸し出す。気持ち良く千鳥足で章立てて見よう。

1. 生い立ち
著者は、ユダヤ系の家庭で育った。父親の教えに次のようなものがある。
「権威なんぞというものには頭を下げてはならない。どんな立派な人間が発言しようとも、それが理にかなうかどうかを自問することだ。」
父親から科学することを学び、母親から人間の精神の到達できる形は笑いと人間愛であることを学んだと語る。少年期は、大人の教える奇跡が許せなかったようだ。サンタクロースが一夜のうちに一人残らずプレゼントを配るという奇跡はまだ可愛い話である。しかし、モーゼが杖を投げると、これが蛇になってニョロニョロと這い出すなんぞは許せないと力説する。ラビの教説は最たるもので、ユダヤ教会の日曜学校では子供達にいろんな奇跡を話して聞かせる。異端審問でユダヤ人が拷問にあって苦しんだ話では、ルツという特定人物を持ち出す。ルツの話は、実は作り話であったことを知ると、以来宗教というものが信じられなくなったと語る。

2. 夫人の不治の病
夫人の家系で唯一許せない習慣があるという。それは、善意から出た嘘ならいくらついても構わないというものだ。著者は言う、こっちがどう思っていようが、どうでもいいことではないのか。この点は、意見が一致し、互いに嘘をつかないと誓いあう。婚約したばかりの彼女が不治の病であることを、本人に告げるかどうかをめぐって家族会議で苦悩する。著者は嘘をつくべきではないと譲らない。説得されて一旦は隠し通すが、彼女に見抜かれてしまう。彼女は、誓いを破ったにも関わらず、家族に追い詰められたことを気遣う。そして一層の絆を築き結婚する。ロスアラモス時代、入院中の夫人との冗談のやりとり、検閲を遊びに使った手紙のやりとり、むしろ夫人の方が冗談は巧みだったようだ。夫人が重病人であるにもかかわらず、そこには悲壮感がない。しかし、読んでいるとそれがむしろ悲壮感として伝わる。夫人は、著者の定義できないというだけで信じないという主張に、美的バランスを教える。美には決して定義できないにも関わらず、ある定まった何かがあることを。著者は美術にも興味を持つようになる。そして、いよいよ最期を迎える。

3. 名前を覚えるのが苦手
ロスアラモス時代の旧友からハーマンという人物が亡くなったことを知らされる。どうやら友人らしいが思い出せない。適当に話を合わせ、葬式で棺を覗けばわかるだろうと高を括る。しかし、見てもお目にかかったことすらない。とうとう我慢できずに旧友にハーマンって誰?って聞く。話によると、旧友とハーマンが親友で、旧友と著者が親友で、ハーマンと著者はロスアラモスに居た時期が入れ違いで、旧友が知り合いだと勘違いしたというオチである。おいらは10年くらい前の出来事を思い出す。川崎駅で高校時代の知人に偶然会った。名前が思い出せない。話しているうちに、とうとう我慢できなくなって、名前を聞く。もう少し我慢すれば、卒業アルバムで確認できたのに。おいらは正直ものである。また、仇名は覚えていても本名を覚えていないことが多い。アル中ハイマーは、人の名前を覚えることが大の苦手である。ただ、クラブ活動で横に座ったホットな女性の名前を覚えるのは天才的である。

4. 時間の意識
人間は、ある程度同じ速度で数を数えることができるという。では、その速度は何で決まるのか?心臓の鼓動か?著者は階段を駆け回り実験する。同僚からは大笑いされる。熱運動法則に従って、体温が高いと数える速度も変わるという仮説も実験する。著者の結論はこうだ。ものを読みながらでも数えられる。喋りながらは数えられない。だが、それも間違っていた。喋りながらでも数えられる同僚がいた。そいつは読みながらは数えられなかった。つまり、数え方が違う。著者は頭の中で数を唱える。同僚は、数の書いてあるテープが回っているのを頭の中に思い浮かべる。著者は唱えてるから、喋りながら数えられない。同僚はテープを見ながら数えているから、読みながら数えることができない。数える速度を変化させるものは、数える作業を中断させるような、脳が他のことを考える場合に起きる。んー!当り前のような気がするが、天才は当たり前と決めつけずに実証するところが偉大である。数を数えながら、できることとできないことを分析すれば、その人の脳の働きが分析できるのは確かだろう。

5. 教科書「ファインマン物理学I」
教科書の一節。これはメモらずにはいられない。
女性が運転する自動車が白バイに捕まった。
警官曰く「奥さんは時速60マイルで走っていましたね。」
女性曰く「そんなはずはありませんわよ。まだ7分しか走ってませんもの。1時間も走ってませんから。」
警官曰く「いや、あなたがこのまま走りつづけたら、1時間で60マイル行くだろうということです。」
女性曰く「私はアクセルを踏んでいませんでした。ですから60マイルも行くはずがありません。」
この話は、女性蔑視だ!という抗議デモに発展したという。わざわざドライバーを女性にすることはないだろうと言うのだ。もちろん著者は反論する。
「女性が警官をへこましたんですよ!警官の方が馬鹿に見えるのは気にならないんですか?」
すると抗議している一人の女性が叫ぶ。
「警官なんてみんな馬鹿に決まってるじゃないの。あの連中はみんなとんまな豚野郎なんだから」
著者もやり返す。
「やっぱり気にされた方がいいですよ。ああ!言い忘れましたが、その警官、実は女性なんですよ。」

6. チャレンジャー号爆発事故調査委員会
著者は、チャレンジャー号爆発事故調査委員会のメンバーである。その会議のお粗末さを暴露する。公開会議では、NASAのお歴々が一般的なシャトルの説明をする。メンバーは自然科学の学位を持った優れた連中なので、発表者が答えられないような突っ込んだ質問をする。すると、委員長のロジャース氏は「後ほど詳しい情報を提供します」と決り文句を繰り返す。著者は、期待どおりに独自行動を取る。ジョンソン基地に行くことや、技術者を集めるなどの手配をすると、ロジャース氏はメンバーが秩序正しく行動しなければならないと反対する。彼が手配したケネディ宇宙センターの見学にしても、視察と称したどこぞの議員一行様のようである。口論が続く中、話題を変えて「ファインマン先生は滞在しているホテルがお気にいらないようで、別のホテルを手配しましょう」という始末。偉人の愚痴も庶民のレベルとあまり変わらないようだ。
シャトルの問題は、技術的問題以外に運営の問題も明るみになる。通常より打ち上げ時の気温が低すぎると知りながら、わざわざリスクを犯したのはなぜか?噂では、その夜レーガン大統領の年頭教書演説がある予定だった。演説中、搭乗していた女性教師と宇宙から会話する筋書きになっていた。現場の技師たちが危険性に警告を発しているのに、管理職が安全基準を甘くし、問題が発生しても原因究明すらしない。ただ、技術屋は専門的な問題を話し合うのが好きな人が多い。著者の感心なところは、技術調査で最も味方につけなければならないのは、現場の技術者であることを見抜いていることである。NASAの高官連中は金を倹約するためにテスト回数を減らしたいと考えている。調査報告書に至っては、改ざんされた上に骨抜きにされる。委員会のメンバーが、自らの報告書を持ち寄って意見交換するような会議をしない。国家レベルの委員会ですら、所詮そんなものらしい。要は、政府を批判にさらしたくないという陰謀に過ぎない。著者の報告書は付録で決着する。真実を語ろうとすることと、政治家の面子は、互いに反発しあうようだ。地位の高い連中は、部下の抱えている問題は見知らぬふりをする。しかし、著者は、実は本当に知らないまぬけな連中かもしれないと語る。

7. NASAの実態
戦争中、ロスアラモスでは皆が一丸となって原爆を作ることに努力した。一人がうまくいかない問題を抱えれば、その困った人を皆で知恵を持ち寄って解決しようとする。著者は、そうした感覚は初期のNASAでもあったのではないかと推察している。人類を月に送り込もうと途方もない夢を描いた時代、同様に緊張感、切迫感があったにちがいない。ところが、大きな目標が完了するとNASAはいつのまにか大所帯に膨れ上がっていた。これだけの人材を突然解雇するわけにはいかない。常に予算を取り続けるために議会を説得する必要がある。シャトルは経済的で何度でも飛ばせる。安全であると誇張する。一方で技師たちは、そんなに何回も飛べるわけがないと叫んでいた。飛ばし続けるためには、管理職がそうした声を封印しなければならない。そして、硬直した大官僚組織の出来上がりというわけか。著者は、少なくともNASAで働く優秀な連中は、自分が何をすべきかを十分熟知していることを感じ取ったと述べている。彼らをいち早く軌道に戻すためにも、NASA組織の正常化は急務であると主張する。

x. 中洲追突事故調査委員会(おまけ)
本項は、本書とはなーんも関係がない。アル中ハイマーは中洲のとあるバーでスコッチを飲んでいた。すると、隅の方で数人の刑事と思われる連中が愚痴をこぼしていた。聞き耳を立てていると、どうやら事件の話をしているようだ。その一人が、すっかり酔っ払って近づいてきた。一杯おごるから捜査に協力しろという。その中でボスと思われる人間が、荒っぽい剣幕で捲くし立てることからアラケンと呼ばれていた。彼が言うには、事件は単なる追突事故でつまらないものらしい。凄腕の刑事からするとやりきれないようだ。被害者とされる人物は大勝(オオカツ)とかいう当たり屋で、その道では有名で胡散臭い。その相棒が雑餉に潜伏しているのは確かで、闇崎(ヤミザキ)とかいう人物である。彼は韓国人女性と一緒のところを一度パクられたが、藤西(トウサイ)という人物の手引きで脱走したらしい。とりあえず犯人と目される指名手配中の人物の写真を見せてもらった。その名は司馬懿(シバイ)といい三角関係を好む。まあ、三国志も国の三角関係であるのだが。1年前の情報では、アレックスとかいう外国人に変装して博多湾の埋立地方面に潜伏中という話だ。その姿といったら、上半身は白いYシャツに黒いネクタイ、下半身はパンティーに裸足で黒い革靴、黒いソフト帽をかぶり、得意技はメキシカンダンスを踊るという。おいらはある店で見かけたと証言した。その店に案内すると、なんと大勝氏と闇崎氏が二人揃って内股で歩いていた。おいらは、てっきり自動車事故だと思っていたが、接触したのは生身の体だったようだ。状況証拠からして、当たり屋が当たりにいったら、逆にやられたというのが真相である。こんな事件の担当ではアラケンが愚痴りたくなるのもわかる。犯人は間違いなく司馬懿氏だろう。しかし、行方不明。ここまで追い詰めながら迷宮入りか?本日2008年4月1日をもって時効を迎える。尚、登場人物は96%実名である。捜査員たちは締めにスピリタスを飲み干していた。