2020-03-22

"空間・時間・物質(上/下)" Hermann Weyl 著

ヘルマン・ワイルの著作「シンメトリー」(前記事)で詩的な数学に触れながら、厳密な理解を要請してくる、この大著を読破するのに一ヶ月を費やしたものの、消化不良感に満ち満ちてやがる。
しかしながら、難解な書に触れる喜びというものがある。なにもかも分かりやすさに流される現代社会にあって、この天の邪鬼な性癖ときたら難解なものにこそ癒やされる。我武者羅に噛み付いているうちに、なんとなく理解した気分になれることだってある。ページを捲っては立ち止まり、ページを戻ってはまた進む。三歩進んで二歩下がるの精神が、相対的な前進へと導いてくれる。いや、ワンツーパンチを喰らって、一歩進んで二歩下がるってか。おまけに、最終ページに辿り着いた時のクタクタ感がたまらん。M だし...

本書は、一般相対性理論の数学的解説書としての性格を帯びている。
原著 "Raum, Zeit, Materie" は、1917年の夏学期に国立チューリッヒ高等工業学校で行った講義を元に書かれたもので、1918年に刊行されたそうな。その動機は、偉大な相対性理論という課題をかりて、哲学的、数学的、物理学的思考が互いに浸透し合うことの一つの例を示したいという願望に誘われたとか。アインシュタインの論文から、わずか二年後に...
相対性理論の根幹には時間と空間を統合した時空の概念があり、この連続体の歪みをもって、ニュートン力学で言うところの力や質量を説明して魅せた。ワイルは、空間、時間、物質の関係を統合的に叙述し、理論の生みの親以上にその本質を描ききったと評されたという。彼はこんなことをつぶやいたとか...
「私は、真と美を統一するように仕事をしてきたが、真か美かどちらかを取れと言われたら、美をとるよ!」
尚、 内山龍雄訳版(ちくま学芸文庫)を手に取る。

相対性理論は科学理論には珍しく、一般大衆にも関心を引いた。それは、人間の認識能力そのものが相対的だからであろう。ニュートンは絶対空間や絶対時間なるものを論じた。ならば、絶対幾何学なるものを構築することは可能であろうか。ワイルは、そんな問い掛けをしながら、アフィン幾何学、リーマン幾何学、計量幾何学... と渡り歩き、n次元多様体に救いを求めるかのように彷徨う。
幾何学を構築するためには、その空間に存在する物質の状態を記述するための座標系を必要とする。ユークリッド幾何学では、直角という性質がその役割を演じ、人間の認識空間では、xyz 軸を基準とする。
直角を代数学的に抽象化したものが、直交という概念。直交性を利用した変換系といえば、周波数解析、データ圧縮、近似法などでお馴染みのフーリエ変換やウェーブレト変換を思い浮かべるが、ラプラス変換やアダマール変換などあらゆる変換系が直交性の恩恵を受けている。変換系を直交性に基づいた写像と定義するなら、直交性の見い出だせるところに、相対的な幾何学を構築することができそうか...

1. 直交と場の哲学
現実世界は、物質と呼ばれる材料からできており、あらゆる材料は空間によって実在し、時間によって認識される。つまり、空間は、物質の存在する場として解釈される。「存在」という哲学的な意味を数学的に定義するならば、一部の空間を占有し、一時的に時間軸に配置される、ということになろうか。相対的な幾何学では、空間、時間、物質という三つの概念が運動によって結び付けられる。すなわち、存在するとは、運動するということだ。物質に絶対静止なる状態が存在するかどうかは知らんが...
物質の運動が場を規定する一つの要因となっているのは確かであろう。量子力学的には、物質が空間を形づくるという見方があり、「物質が場を生み出し、またその状態を一意的に規定する。」としても違和感なし。物体の運動は力と慣性の間で実現され、慣性場は物質との間に相互作用を持つ実在であるからして...
では、重力の実在はどうであろう。本書は、力とは別物で、むしろ慣性に属すべきものとしている。こうした見方によって、相対性理論は重力を場の歪みで説明できるというわけである。
「慣性場に対する物質からの影響は重力の現象として現れる。これこそアインシュタインの重力理論の核心である。」

では、場は自己を認識した時に生じるのか、あるいは、自己は場の存在が前提されて認識できるものなのか、と問えば、鶏が先か卵が先か論争に巻き込まれた感がある。
ユークリッド幾何学にしても、非ユークリッド幾何学にしても、第五公準を境界面にした抽象レベルの違いに過ぎない、といえばその通りだろう。どの段階で自己を認識できるかは別にして、それぞれ渡り歩く幾何学空間に抽象レベルという境界面があるように、人間の精神空間にも認識レベルという境界面があるのだろう。
慣性力、電磁力、重力など物理量が存在するところに場が存在し、そこに時空対称性なるものを見つける。直交性もある種の対称性。場とは、対称性に看取られた認識空間を言うのであろうか... などと思考をめぐらせているうちに、直交と場の哲学に放り込まれていく。どんな専門分野にせよ、それを究めようとすれば哲学者になるものらしい。
おかげで、場末の我が家から、ぐるぐるマップ上に直交配列される夜の社交場へ直行せずにはいられない。そこには、ホットな女性の重力場が生じているに違いない。ただ、女性ってやつは、なぜか体重計の前で軽い存在を演じてやがる...

2. 時間と空間に分解、そして、長さ!?
ところで、おいらには、時間の記述には微分が、空間の記述には積分が相性がいい... という感覚がある。そして、時空を理解するためには、時間と空間を分解してみるのがええと...
本書は、ローレンツ変換において、時間的成分に相当するものがエネルギー保存則で、空間的成分に相当するものが運動量保存則、という見方を提示している。ここまではええ...
しかしながら、空間の形成ではガウスの定理に看取られ... 空間内の振る舞いではマクスウェル方程式に看取られ... いずれも、おいらを電磁気学で赤点に貶めた奴らときた。
おまけに、数学の道具では、テンソル、双線型形式、二次形式が重要な役割を演じてやがる。ワイルは、テンソル解析を意のままに使いこなせるよう練習せよ!と要求してくる。すべての運動する物体にテンソルが規定できると宣言し、一般相対性理論を理解するには、テンソルに看取られた空間認識が必要だというのである。そして、空間を理解するには「エネルギー・運動量テンソル」ってやつが鍵になりそうだ。
テンソル演算そのものはそう複雑でもなく、ベクトルの親分ぐらいの感覚でいる。だがこいつを、ある規定された幾何学と結びつけようとすると、なかなか手強い。共変と反変の違いにしても、アフィン幾何学から計量幾何学へ移行した途端に、単なる表現の違いというところに落ち着く...
「座標系に依存する数個の変数列の一次形式は、その変数列のうち、座標系の基礎ベクトルの変換に反傾に変換される変数列を任意の反変ベクトルの成分でおきかえ、また共傾に変換される変数列を任意の共変ベクトルの成分におきかえることによって、この一次形式が座標系の選びかたに無関係な一定の値をもつようになるときは、この変数列の一次形式は、実はひとつのテンソルである。」

ワイルは、計量の本質をこう言い放つ!
「質量はその本質をかえりみれば、一種の長さである。」
ん~...
「幾何学的な、また物理学的な量はすべて、スカラーか、ベクトルか、あるいはテンソルのいずれかである。このことこそ、これらの量を内包している空間の数学的性質を物語る。」
ん~...
すべての物理量を長さで規定できるような幾何学を想定することが可能ということか。時間も長さで規定できるといえばそうだけど、時間の意味するものはその瞬間の状態にある。座標系で言えば、位置情報に意味がある。少なくとも人間の認識空間では、そうだ。ワイルは、空間の構造に対して、群論的な連続体をイメージさせようと仕掛けてくる。ガリレオ = ニュートン群からローレンツ = アインシュタイン群といったイメージを...
さらに、「距離多様体」という概念を持ち出して、アフィン的に接続されたアフィン接続多様体なるものを提示している。
確かに、重力を空間の歪みで記述すれば、距離の概念が生じる。では、他の力はどうであろう。様々な物質が相互作用する空間とは、それぞれの力を距離で記述した多様体が並列的に、あるいは、階層的に接続されたような空間であろうか...
やはり、ん~...
「長さ」のことをゲージと言い、場の理論に「ゲージ理論」ってやつがあるが、どうやらこの書に由来するらしい。おいらの空間認識では、「長さ」という概念をどんなに抽象化したところで、やはり「長さ」なのである。そもそも「長さ」ってなんだ???数学の落ちこぼれは、ますます計量テンソルとの距離を感じるのであった...

2020-03-15

"シンメトリー" Hermann Weyl 著

小雨じめつく中、なんとも虚ろな気分で古本屋を散歩していると、数学を文学のように嗜める書に出会う。こいつぁ... 群論の入門書ではないか!いや、そこそこかじって余韻に浸る書であろうか。厳密な数学を空虚な気分で眺めると文学になるのか... ここに抽象化の真の意味が暗示されていそうな... なるほど、数学の詩人と謳われたヘルマン・ヴァイル。空虚な空間には、高度なシンメトリーが具わっているらしい...
しかしながら、よりずっと厳密に理解を要請する大著「空間・時間・物質」が、本書の横で手ぐすね引いて待ち構えてやがる...
尚、遠山啓訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。

数学屋たちは、数と数字の違いにこだわる。数は概念を示す。だから、万物は数である... との信仰が輝く。数字はそれを表す記号。すなわち、ただの手段。この手段を文学作品のように記述できれば、概念化され、心に調和をもたらす。
シンメトリーとは、まさに人の心に調和をもたらす空間概念である。この空間において、芸術は左右対称を、論理学は二項対立を根本原理とし、数学はその双方を相手取る。哲学は、二律背反の原理に中庸を見い出そうとし、数学は、数の抽象化によって調和を発見しようとする。
数の抽象化で最高峰に位置づけられるのが、群論である。合言葉は... 自己同型の集まりは群をつくる!自己同型とは、代数的な性質を保ちながら写像すること。代数的な性質とは、例えば、四則演算の結果が同じ体にとどまるかを問うた時、自然数体であれば、負数や少数が生じて整数体や有理数体にはみ出てしまう。演算結果が同じ体にとどまるかどうかを探ることは、数の性質を知る上で重要な鍵となり、方程式の解が代数体にとどまるならば、その方程式には代数的な解が存在することを意味する。解の発見とは、自己同型群を観察しながら自己を見つめ直し、自我を再発見するってことか。そして本書の中に、数学は哲学である... との持論を再発見するのであった...

ニュートンは絶対空間や絶対時間なるものを論じたが、そんなものが存在するかどうかは知らんよ。ただ言えることは、相対的な認識能力しか持ち合わせない生命体には、到底及ばないってことだ。直接認識できないとすれば、概念によって認識できる気分にはなれそうか。何事にも気分は重要だ。特に、心の持ち主には...
左も右も、善も悪も、相対的な概念であって、人間社会によって都合よく決められた基準に過ぎない。はたまた対称性も非対称性も。美術史家ダゴベルト・フライは、こんなことを言ったとか...
「シンメトリーは静止と束縛をあらわし、非対称は、運動と弛緩をあらわす。前者は秩序と法則を、後者は不分明と偶然を、また、前者は、法則のもっている厳密性と強制を、後者は、生命と遊戯と自由とをあらわしている。」

シンメトリーとは比の調和によって支えられる、いわば主観の概念である。鏡映、平行移動、回転といった幾何学操作によって点集合を変換し、この同型を探る過程に数学美を見る。ここに絶対客観なるものは見当たらない。だから、客観性なのである。
客観性とは、自己同型群における不変性を問うことであろうか。普遍的な美を追求することであろうか。様々な変換によって、どこまで同型を保ちうるか、どこまで代数的性質を保ちうるか、そして、どこまで数学美を体現できるか、などと問えば、その先に、自己相似形を追いかけるフラクタル幾何学が見えてくる。フェリックス・クラインは言う、「幾何学は、変換群によって定義される。」と...
ただし、本書には「フラクタル」という用語は見当たらない。

ところで、おいらの物事を理解したかどうかの判定基準に、図形的なイメージが湧くかどうかという感覚がある。ユークリッド空間的な脳内マッピングとでも言おうか。子供の頃からそうなのだが、いくら記号や文字を操作しても、上っ面しか理解できていないような気がする。頭の中に浮かぶ自己鏡像との葛藤とでも言おうか。サヴァン症候群のダニエル・タメット氏は「数字が風景に見える」と共感覚能力について語ってくれたが、理解空間にもそのようなものがあるような気がする。
よく数学で用いられる連続体やら、よく物理学で用いられる空間やら、こうした用語は単なる概念、もっといえば、人間の想像の産物にすぎないのではなかろうか。あらゆる関連性も...

2020-03-08

"ビーグル号航海記 新訳(上/下)" Charles Darwin 著

ヒトという種は、猿の進化版か、それとも猿の方が進化版か。地球に住む生命体の物理構造を辿れば、だいたい同じ分子に行き着く。糖質、タンパク質、核酸といった生体高分子と呼ばれるやつに。さらに辿れば、この宇宙に存在するすべての物体は、素粒子レベルでは同じ物理構造を持っている。種の起源を辿れば、やはり同じこと。自由意志の正体が単なる自由電子の集合体なのかは知らんが...
ここで注目したいことは、種が変化するってことだ。分子の組み合わせを微妙に変化させながら、体内に侵入してきた病原体に対して抗体を形成したり、厳しい気候に適合するために身体部位を変化させたり、環境が違えば、そこに住む生物の特徴にも違いを見せる。地理的に同じ諸島に属していても、それぞれの島で生物の特徴が違うばかりか、生態系からして違う。
本旅行記は、地球を一周しながら実に多種多様な光景を物語っており、ここに進化論構想の源泉を見る思い。進化とは、まさに変化を言う。いや、退化もそうか...
尚、荒俣宏訳版(平凡社)を手に取る。
「自然の偉大な運行においてまるっきり用をなさないように見える動物に遭遇すると、われわれはすぐに、なんでこんなものが創造されたのか、と首をひねりたくなる。しかしつねづね肝に銘じておくべきは、ところ変わればそれが社会の欠くべからざる成員であるか、あるいは過去の一時期そうであったものだろう、とみなす心がまえである。」

とはいえ、人間は変化を嫌うところがある。キリスト教世界では、種は神の創造物であり、生まれつき運命づけられた存在とされる。生物種が変化していくなんてもってのほか。世間では、チンパンジーの身体にダーウィンの顔をくっつけた風刺漫画が舞った。
ただ、あまりに変化なしでは退屈病を患わせてしまう。安住できる程度の小さな変化を求めてやまないのは、進化の過程があまりに長い年月を要するからであろう。物質ってやつは、原子が個々で存在する分には殺風景だが、分子として結合を始めるとまるで落ち着きを見せない。変身願望にでも取り憑かれたように。
この願望エネルギーが溜りに溜まると、ポテンシャル障壁を破って突然変異まで引き起こす。生物種に普遍の原理を求めるとすれば、まさに変化こそが法則ということになろう。
ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したものではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様化する必要がある、というのが真意のような気がする。ここでは、普遍性と多様性の相性の良さを物語ってくれる。現代社会では、どんな良いことでも同じことをする人が多すぎると何かと問題になる。一つの種が多すぎるとなれば、同じ種の中で多様化するほかはあるまい...

自然界では、運動する物体はすべて動力機関として働く。生物もまた一つの動力機関であることは確かだ。その証拠に、ひたすらエネルギーを消費する存在で、喰って排泄するだけの存在。人間社会で人が生きるということは、ゴミや排泄物を出すってことだ。そして、街づくりで最も深刻な問題がゴミ処理と排泄物処理ということになり、ここに文明の度合いが顕れる。もやは現代人は、野生のポテトを見る機会を失った。曲がったキュウリすらとんと見かけない。それが、高度な文明なのかは知らん...
「人は長いこと粗末な肉食だけをつづけると、脂肪分がとてもほしくなる。そこで純粋なオイル状の脂肪を、平気で大量に消費するようになる... これは、おもしろい生理学的事実だ。」

自然界には、生命が存在することによって台無しにしてしまう領域がある。不毛な土地の奇異な眺めにも、植物すら存在しないがために、ある種の威厳が備わる。敬愛する大自然がここまで残酷になれるものか、と嘆かわしい現象を引き起こすこともしばしば。
だから、人間は大自然に神を見る。自然は、宗教が安易に唱える「調和」ってやつの難しさを教えているようでもある。
人間社会には、何事も経験しなければ分からない、とする考えが蔓延している。奴隷に冷たい人は奴隷の立場に身を置いたことがない、としか想像できないとすれば、なんと絶望的であろう。人間社会は、永遠に奴隷制度に依存するほかはあるまい。
ちなみに、昔から言われてきた説に、こんなものがあるそうな。「利己心というのものは残虐行為が行きすぎるのを止める」という説だが、あながち否定はできまい...

1. 科学者魂を垣間見る...
「ビーグル号航海記」は、艦長ロバート・フィッツロイ大佐が表明した一つの要望によって生まれたという。大佐は科学者の同乗を望み、これにダーウィンが志願する。その目的の裏には、政治的思惑と科学的好奇心が複雑に絡んでいたことだろう。海運国家としての使命も付け加えておこうか。地質学調査は金脈探索や鉱山開発を目的とし、原住民調査は後の奴隷支配を匂わせ、宣教師の派遣は精神的支配の布石。
しかし、ダーウィンの科学者魂は、そんな政治的な思惑をとうに越え、純粋な好奇心に邁進する。彼の記述には、旅の風景を喜びで彩るという思索が感じられる。まるで画家のように。どんな光景を前にしても失望はなく、ここにダーウィン流観測哲学を見る思い...
「わたしが強く信じてしまったことは、こうだ ―― 音楽を例にとると、音符が全部理解できて正当な感受性をもっている人は、音楽全体をもっと完全に楽しむことができるだろう、それと同じように、一つのすばらしい風景をあらゆる角度から調べる人も、風景が見せる全体の組み合わせの効果を完全に理解できるのだ、と。したがって、旅をする人はまず植物にくわしくなければならない。なぜなら、どんな風景も主たる装飾は植物が担っているからである。大きな裸岩が集まった光景は、どんなに殺風景であっても、少しのあいだなら壮大な印象を与えてくれるが、すぐに単調な眺めとしか思えなくなってしまう。ただし、この岩だけの眺めに、たとえば北チリのように、明るく多彩な色を塗りつければ、幻想的な風景となる。植物で覆えば、美しい絵とはいかないまでも、それなりの景色になるに違いないのだ。」

2. サンゴ礁に関する考察は圧巻...
「リーフをつくるサンゴは、地下面に上下の振動があったことを物語る驚くべき記念碑を、ずっと積みあげつづけ、しかも、それを守ってきた。われわれがいま見るバリアリーフはどれも、大地がそこで沈んでいることを示す証拠物であり、アトールはどれも、島が海中に沈んだことを示す記念碑なのだ。こうしてわれわれは、一万年の長寿に恵まれて変化の記録をずっととりつづけてきた地質学者から教えを受けるかのように、一つの巨大なからくりに関する手がかりを、いくつか獲得することになった。それは、地球の表面を切れぎれにして、陸と海をとりかえてしまうからくりなのである。」

3. ガラパゴスへの思い...
このような大自然物語に触れていると、人類には、どこか本能の奥深いところに自然回帰を欲するような原始的な意志が、まだ残されているような気がしてくる。原生動物の記憶か?遺伝子か?は知らんが、都会的な気取ったものに反抗心を抱くところが、なんとなくあるのだ。単に天の邪鬼な心が、そうさせるのかもしれんが...
文明化の波が地球の隅々に伝わり始めた19世紀、ゴールドラッシュの波がインディオの土地を穴ぼこだらけにしちまったとさ。21世紀の現在でも、余暇に自然を求めてやまない人々の影で、観光客の群れに荒らされる世界遺産という構図がある。ここに物語られるガラパゴス諸島の光景には、やはり癒やされる。大衆の目には触れさせてはならぬ楽園が、地上にはまだまだあることを教えてくれるのだから...
しかしながら、「ガラパゴス化」という用語は、現代社会では忌み嫌われる。孤立を恐れてはソーシャルネットワークに縋り、電子機器の奴隷と化し、ますます依存症を深めていく。慢性的な退屈病を患えば、いつも刺激を求めて徘徊し、慢性的な関係依存症を患えば、仮想社会を徘徊してやまない。騒々しい空間で自己を見つめ直そうとすれば、孤独を渇望し、誰とでも繋がろうとする社会ともなると、逆に孤独愛好家を増殖させる。人間社会に嫌気が差さないと、なかなか自然には目を向けないものである。
人間は何かに依存しなければ生きてはゆけない。空間にあっては集団社会に寄りかかり、時間にあっては自我に振り回され、そして、なによりも自然界の一員として存在する。自然だけを相手取るならそれほど悩まなくて済みそうだが、集団社会に自我が結びついた途端に人生は修羅場と化す。
そして、現代社会における恐怖の最たるものが、孤独死ってやつだ。なにゆえ、こうも恐れるのか。誰に看取られて逝きたいというのか。どんなに立派な墓を作ったところで、時代の流れと共に無縁墓となるは必定。墓の面倒を見る人がいなければ、共同墓地に入る方が賑やかそうだ。
そこで、無人島に真の自由を夢見る。群島は、それ自体が一つの小宇宙。嘆かわしいのは「ガラパゴス化」の方であろうか。いずれ、この忌み嫌われる用語に生命の故郷を感じる日が来るやもしれん...

2020-03-01

"燃えさかる火のそばで シートン伝" Julia M. Seton 著

古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風のような... そんなフレーズに出会った。
「バッファローの風が私たちの生活の中を吹くとき、私は燃えさかる火のそばで耳を傾けた。最初私の耳はその音をそのままに聞くことはできなかった。私の耳が調和しなかったのだ。しかし私は常にその風の存在には気がついていた。ただ長い間、はっきりそれを理解できないことで、私の心は落ちつかなかった。私には聞きとれなかったし、はっきりとわからなかったが、しかし私はそれを感じていた。」

おいらは、美少年と呼ばれていた頃から科学が大好きだったが、その中で敬遠してきた分野がある。生物学がそれだ。特に動物学を敬遠してきた。「シートン動物記」といえば、絵本で見たような... そんな感覚がかすかに残るだけ。小鳥を飼ったり、昆虫採集をやったりもしたが、あまり長続きしなかったような...
この感覚は未だ継続中で、呪縛を解こうと必死にもがくも、純真な子供心を取り戻すことは、脂ぎった大人には難しすぎる。ダーウィンの大作に触れるのにも、かなりの時間を要した。そして、シートンの大作となると、これに向かう勇気はまだない。おいらのタスク管理ツールには、このような ToDo リストに昇格しきれない、準 ToDo リストで溢れてやがる。
とりあえず、アーネスト・トンプソン・シートンの二番目の夫人ジュリアが記したシートン伝でお茶を濁すとしよう...
尚、佐藤亮一訳版(早川書房)を手に取る。

ボーイスカウトの創始者としても知られるシートン。幼き彼が会得した生活信条がこれだそうな。
「生きる喜びを求めよ!」
そして、天与の権利とは何か?と問いかける。
動物と人間の権利が衝突した場合、人間の方を優先するのは文明社会では当たり前。これに疑問を投げかけようものなら、環境ヒステリーなどとレッテルを貼られ、猛攻撃をくらう。それは、シートンの時代だけでなく、現代とて炎上沙汰をくらう。確かに、どんな議論にも右派もいれば、左派もいるし、中庸でいることの方がはるかに難しい。ただ世紀が変わると、どちらがヒステリーだったか再評価されるのが、人類の歴史である。
殺してしまった夥しい生命の権利はどうなるのか?と問えば、人間社会における最高の権利、すなわち、強者の天与の権利などという考えが浮かんでくる。そして、人間社会の合理性は自然界の合理性に適っているだろうか?と問わずにはいられない。かつて、希望の満ちた土地にバッファローの風が吹いていた。やがて、バッファローやカモシカの姿が消え、風は止んでしまった。動物の息苦しい世界は、人間だって息苦しい...

とはいえ、人間社会に嫌気が差さないと、なかなか自然には目を向けないもの。社会学者マックス・ヴェーバーは、学問は自然の真相に到達するための道である... と説いた。かつて科学は自然哲学と呼ばれ、自然との調和から人間の合理性というものを問うた。いつの間にか、その対象は自然物に対して人工物で区別され、人間社会における合理性を問うようになった。
産業革命に始まる経済的大成功は、爆発的な人口増殖を招く。そして、人に依存し、組織に依存し、社会に依存しているうちに、最も依存しているはずの自然との関わり方が見えなくなる。そもそも人間が多過ぎるのだ。地球という有限のアクアリウムにおいて、人間の数だけは限りがないなんてことはありえない。
自然は常にそこにある。目の前に見えなくても。自然は自立自尊している。だから依存症患者の憧れの的。原始林の中では、誰にも罰せられずに野蛮人でいられる。いや、文明社会だって競争原理に囚われた野蛮人で溢れている。天災と人災はどちらが恐ろしいだろうか。天災が神の仕業なら、人災は悪魔の仕業か。そして、神と悪魔が手を取り合って、もっと恐ろしい災いに見舞われるのかは知らん...
「まったく虚構というのは、一般的には扱いやすい。『半分が真実である嘘は』詩人の言葉によれば『危険なものである』という。その中に存在する僅かな真実の要素が、それに戦う力と生命とを与えて、もっと悪くしてしまうからだ。... そういう危険な語り方をするのが、民間伝説なのだ。そして時代から時代へと残存していくすべての伝説にみられるその力の強さは、僅かの事実に由来するということは、かなり確かなことである。」

それにしても、これは科学だろうか。ある者は文学だという。また、ある者は描く動物があまりに人間的だという。動物の生き方を人間の感情に対比させ、さらには神話や古典文学にも対比させ、まるでイソップの寓話。この動物物語を科学と呼ぶには、ちと躊躇する。
ここでは、シートン流の言語哲学を垣間見る。彼は、緻密な科学者である面と、想像力豊かな物語作家である面とを奇妙に合わせもっていたという。詩情や哀愁に満ちた物語... くだけた文章へのこだわり... こうした要件が、堅苦しい論説よりも説明に余裕を持たせる。科学書を読みやすく配慮することによって、読者の心を用語にではなく、考え方に向けさせる。学者連の論説では、難解きわまる特殊な用語を多用しては自分の研究に権威を与えようとする動きが見られるが、シートンはこうした傾向に一石を投じる。
動物観察は、多様性に満ち満ちており、専門用語でひと括りに説明できるものではあるまい。それは、人間観察とて同じ。シートンは、動物を説明するのに三つの要件を挙げている。

  • 第一に、例外的な動物を一匹選んでもよい。
  • 第二に、それと同類の動物の冒険や性質を、その一匹に代表させてもよい。
  • 第三に、作者は同類の動物が実際にそんなことをするのがわからなくても、種々の行動をさせてもよい。

もはや、客観性を放棄しているような、いや、客観性の限界を生物学に投影しているような。要するに、あらゆる動物行動は、可能性でしか説明のしようがないということか。つまりは、確率論でしか。物理学にしても、しばしば量子の個々の運動を確率的に論じ、統計力学で処理する。ましてや、その量子の大集合体である動物の個々の行動を説明するとなると...
ここに多様性が、確率論を通じて普遍性と結びつく思い。さらには、文学が多様性を通じて科学と結びつく思い。もう一つついでに、シートンの観察哲学にダーウィン思想を見る思い。自然と戯れるとは、こうした結びつきを楽しむことを言うのやもしれん。そして、この言葉がいつまでも残るのであった...
「人間のこの世における一番重要な仕事は、『自分自身を知ることである』と教えられた。」