2020-12-27

"記憶を書きかえる - 多重人格と心のメカニズム" Ian Hacking 著

記憶が人格をつくる... ん~、なかなか興味深い視点である。「記憶」という言葉が多角的な関心を寄せるのは、それが生きる上で不可避だからであろう。様々な事象が、様々な形で、記憶と結び付けられる。本能的に...
尚、北沢格訳版(早川書房)を手に取る。
「魂は、個人のアイデンティティの不変の核を示すものではない。一人の個人、また一つの魂は、多くの面を持ち、多くの異なる話し方をするのだ。魂を考えることは、あらゆる発言の源となる一つの本質、一つの霊的地点が存在することを認めるのとは違う。私は、魂はそれよりももっと控えめな概念であると考えいてる。」

哲学者であり、物理学者でもあるイアン・ハッキングは、多重人格という現象を切り口に、人間のアイデンティティや存在意識の根底をなす記憶をめぐる旅へいざなう。
まず、多重人格の治療では、記憶を取り戻すことに始まるという。特に、幼児体験が問題になるケースが多いとか。幼児虐待やトラウマとの因果関係など、オーラルセックスの強要が口からの挿入物に抵抗感を持たせるといった話まで飛び出す。根底にあるのは束縛の原理。行き過ぎる社会的強制や私的強制が、人の心を歪める。病的な被害妄想を駆り立てて...
また、小説の中の人物にも注目する。あの有名なロバート・ルイス・スティーヴンソンの「ジギル博士とハイド氏」に、芸術的創造と絶賛するドストエフスキーの「二重人格」に、著者が最も恐ろしいというジェイムズ・ホッグの「赦免された罪人の回想と告白」に、精神医学の豊富な症例集を見る。
人間社会では、記憶力の競争が強いられ、知識の豊富さや語彙の豊富さなどは尊敬される技術の一つとして一目置かれる。受験戦争は、まさに記憶量の競い合い。その影に、記憶への恐怖が忍び寄る。
アルツハイマーのような病を恐れるのは、それが記憶の病と見なされるからであろう。人の目を気にせず、過去の記憶をあっさりと消し去ることができれば、自由になれるだろうか。自分探しの旅がもてはやされる昨今、旅の途中で自分を見失っては世話がない。人生の旅では、何を記憶に刻んでゆくかが問われる...
「多重人格の話は、非常に複雑なように見えても、実は、人間をつくりあげる話なのである。」

ところで、記憶とはなんであろう。それは、経験であり、知識であり、生きてきた証。中には、人間形成を担う重要な情報も含まれ、潜在意識や自律神経にも関与する。
しかも、記憶は時間とともに変化する。刻まれていく記憶もあれば、徐々に薄れ、失われていく記憶もあり、あるいは歪められる記憶もある。歳を重ねれば人も変わり、困難を抱えた人は変化にも富む。多重人格者ともなれば、その変化の度合いは時の流れ以上のものがあると見える。もはや、十年前の自分は自分ではない。したがって、むかーし、こしらえた借金の取り立てにあえば、今の俺は昔の俺とは別人なんだ!帰ってくれ!と追い返すこともできるわけだ。破産法とはこの別人論に則ったもので、法の裁きが求める自省にはチャラの原理が内包される。
とはいえ、自らチャラの原理を実践するには、よほどの修行がいる。引きずっていく過去を選択できれば、幸せになれそうなものだが、忌み嫌う過去ほど記憶領域にへばりついてやがる。しかも、無意識の領域に、深く、深く...
ただ、記憶を消せなくても感じ方を変えることはできる。苦い経験を懐かしむような。いや、無関心の方が楽か...
その点、オートマトンなら、手っ取り早くデータをダウンロード。コンピュータってやつは、人格形成においては先を行ってやがる。記憶領域を書き換えれば、まったく違う振る舞いをするのだから。人間はそうはいかんよ。いや、脳にチップを埋め込めばどうであろう。高度な管理社会ともなれば、生まれたばかりの子供にマイクロチップを埋め込むことが義務づけられるかもしれん...
人間の能力では、時間の流れは制御できそうにない。どう転んでも、エントロピーには逆らえんよ。ならば、記憶を制御することはできるだろうか。都合よく解釈することが、記憶を制御するということかは知らんが...
「記憶は、理解を助け、正義を達成し、知識を探求するための強力な道具である。記憶は意識の働きを高める。またそれは、心の傷を癒し、人の尊厳を回復させる。時には暴動を引き起こすことすらある。"Je me souviens (私は忘れない)" という言葉以上に、ケベック州で、車に貼るステッカーの台詞としてふさわしいものがあろうか?ホロコーストと奴隷制度の記憶は、新しい世代に引き継がなければならない。」

1. 多重人格は病か
まず、精神病の診断の難しさは、それが本当に病気のレベルにあるのか、という問題がある。多重人格という現象そのものは、病であろうか。生きていく上で障害となるなら治療も必要だが、大なり小なり誰もが持っている性質のような気がする。普段から自分ではない自分を演じているではないか。建て前ってやつを。誰もが虚飾を張って生きているではないか。平然と。キレるという現象も、スィッチが入るという現象も、別の人格が顔を出しているのでは...
多重とは、二つより多いからそう呼ぶ。分裂とも違うようである。分裂病患者は、論理と現実に関する感覚が歪んでいるのに加え、態度、感情、行動の調和がとれない。一方、多重人格者は、論理や現実の感覚については問題はないが、断片化していくという。
多重人格ってやつが、二重人格から進化した新たな種類の狂気かは知らん。だとしても、精神の持ち主ならば、精神病と診断されずとも、そうした傾向があるのでは。そして、多重人格を完全に克服できれば、やりたくないことを交代人格によって処理するような、要領のいい使い分けもできるかも。様々な場面に順応できる多様な人格を備え、それを自由自在に操る。
人の心は、誰かに受動的に動かされていると苦痛や強迫めいたものを感じるが、自分自身で能動的に動く分には心地よくも感じる。そうなると、すごい能力だ!多重人格とは、ある種の精神修行であろうか...
「虚偽意識のかけらももっていないという読者がいたら、その人こそ、もっとも重大な虚偽に陥っているのだ。」

2. 多重人格とジェンダー
多重人格と診断されるケースを男女比で見ると、奇妙な偏りがあるという。なんと、90% が女性だとか。あまりに偏った数字で、鵜呑みにする気にはなれない。本書でも、様々な見方を挙げている。多重人格者の男性は暴力事件で捕まることが多い、あるいは、酒やドラッグに救いを求め、依存症と診断されるケースが多い、さらに、幼児体験の影響が大きいという観点から、男児よりも女児の方が近親姦などの犠牲になりやすい、といった見方である。著者の経験でも、女性患者の方が圧倒的に多いという。
そこで、心理学で重要な鍵とされるヒステリーの考察がある。ヒステリーといえば、昔から女性のものとされる。古代ギリシア語の「子宮」が語源となるほどに。しかし、DV の加害者と被害者の比となると、数字は逆転する。男の場合、ヒステリーを通り過ぎて腕力にまかせて暴力沙汰を起こすのかは知らんが、DV の社会的認知度はいまだ低い。
ちなみに、自閉症でも男女差があると言われ、男児は女児の数倍に上るといった統計データも見かける。知的障害者では、男性の方がやや多いぐらいで、そこまでの偏りは見せないようだけど。
先天性の場合、障害者を生む確率は天才を生む確率に比例しそうな、あるいは、遺伝子コピーのリスクの裏返しのような。つまり、生物学的確率である。
ただ、多重人格は、後天性の問題であろうか。後天性の場合、自覚症状があれば、医者にかかるだろうし、自覚できなければ、医者にかかることもなく、診断もされない。そして、医者の世話になる前に警察の世話になるってか。
また、男女には、物理的に避けられない能力の違いがある。子供を産む能力が、それだ。へその緒を通して、物理的につながっていた事実は変えられない。その分、性的暴行に対するトラウマは、女性の方が強いのかもしれない。概して、男親は女児に甘すぎるほどに甘い。おいらも、嫁はいらんが娘がほしい。こんな感覚も、心の歪の兆しであろうか...
こうした精神診断を男女比で考察すると、フェミニストに猛攻撃を喰らいそうだが、現場で治療に当たる医師がイデオロギーなんぞにかまっている暇はあるまい...

「口づけとかみつき...
何と二つは似ていることか、そして心からまっすぐ愛するとき
貪欲な口は、たやすく二つを取り違える」

2020-12-20

"確率の出現" Ian Hacking 著

確率論という学問は、数学の一分野に位置づけられるものの、ちと異質感がつきまとう。数学ってやつは、他のどの学問よりも客観性を重んじ、数学の定理は何よりも明瞭な確実性を備える。なのに確率論となると、主観確率なるものを持ち出し、確からしさという曖昧な物理量を堂々と算出して見せる。偶然までも手玉に取ろうってか...
生か!死か!と存在の可能性までも論じ、まるでシュレディンガーの猫。存在の薄いチェシャ猫も、運命論に招き入れようと、ほくそ笑む。考えうる事象をすべて抽出し、各々の度合を考察する点では、組合せ論や集合論に通ずるものがあるが、明らかにピュアでない。応用数学とも違う。むしろ社会学に近く、統計学と瓜二つ。数学の限界を試すかのような...

とはいえ、人間社会で生きてゆくには、確率と無縁ではいられない。社会保障に年金、企業経営に市場メカニズム、災害リスクに疾病リスク、デジタルシステムの誤り訂正率に製造品質の歩留まり、そして、生命体の避けられない遺伝子の変異率など、あらゆる意思決定プロセスで幅を利かせている。
あのパスカルだって、賭けに出た。宗教を信じるのが楽か、神の存在を信じるのが合理的か、と。いまや確率は、運命の指導原理として君臨してやがる...

主観のようで主観でない、客観のようで客観でない、ベンベン!
数学は告げる。コイン投げで表か裏の出る確率は 1/2、サンプルが多いほどこの値に収束する... と。ならば、表が何度か続けばそろそろ裏が出そうな、あるいは、これだけ表が続けばこのコインは表が出やすいよう変形している、なんてことも考えてしまう。現実社会を生きてゆくのに、理想モデルだけでは心許ない。コルモゴロフの公理モデルだけでは...
ほとんどのケースでデータ量は不十分、知識も不十分、それでも前に進まなければならない。となれば、直観ってやつが役に立つ。実際、ギャンブルで勝つには、サイコロの目、カードの流れ、牌の気配といったものを読み、確率を超えた嗅覚が求められる。
確率では、独立性が重要な鍵となる。それは、客観的な視点を与えてくれるからだ。しかしながら、確率事象が、けして過去に影響されないものだとしても、人間ってやつは過去を引きずって生きている。今まで生きてきた時間を無駄と考えることほど虚しいものはなく、過去の経験を未来への期待値に転化せずにはいられない。精神空間で、この時間軸を見失えば、たちまち精神病を患うって寸法よ。

おそらく、人間の認識能力で完全な「純粋客観」なるものを扱うのは、手に余るであろう。だから、「客観性」なのである。そして、客観性そのものが確からしさの天秤にかけられる。
そもそも人間が思考するのに、完全に主観を排除することは可能であろうか。直観はきわめて主観の領域に近い。が、主観確率となると、限りなく客観の領域に入り込もうとする。限りなく近づくということは、けして到達できないことを意味する。それが、微分学の美学ってやつよ。
ベイズ主義が主観主義の代弁者かは知らん。頻度主義が客観主義の代弁者かも知らん。確率論とは、中庸を模索する学問か、いや、妥協を模索する学問か。まさに、人生は妥協の連続!これほど、人生戦略に適合した連続関数はあるまい...
尚、広田すみれ、森元良太訳版(慶應義塾大学出版会)を手に取る。

「p を支持する理由を把握することは、その原因を理解することであり、なぜ p であるかを理解することである。」

1. 確率論という思考の幕開け
1865年、アイザック・トドハンターは「確率の数学論史 - パスカルからラプラスまで」という本を出版したという。確率の歴史は、パスカル以前に記すべきものがほとんどなく、ラプラスでほぼ語り尽くされたというわけである。
とはいえ、人類の歴史で、賭博の存在しない時代は見当たらない。人間の認識能力ってやつは、あいも変わらず時間の矢に幽閉されたままで、未来志向から抜けられないでいる。未来を占う呪術や占星術の類いは古代から健在であり続け、近代科学の時代になっても大勢の人がハマる。神の意志をサイコロの目と同等に扱うのは、不謹慎極まりない!ってか。かの大科学者は「神はサイコロを振らない!」と豪語した。代わりに人間が振ってりゃ世話ない。
パスカル以前に欠落していた思考は、証拠や検証の概念ということか。数学で言えば証明の手続き。あらゆるシステム構築で欠かせない概念ではあるが、完全である必要はないし、完全を求めすぎても前に進めない。現在では、ランダム生成器なしにアルゴリズムの検証も難しいが、未来予測のためのランダムモデルの導入が、確率から確率論へ進化させた、と言えそうか。
それにしても、不思議な現象がある。生起する事象の曖昧さを数学が明るみにすればするほど、ギャンブルに走る人が増えようとは。ギャンブル依存症は古代の記述にも見られるし、人生そのものがギャンブルなのだから仕方あるまい...
「先人たちはランダム生成器を作り出し、また、サイコロで安定した頻度の生成もおこなった。そして帰納的推論という、(前提が正しくても)結論は確からしいものにしかならない推論法も引き出した。」

2. さすらいの確率論、二元性の狭間で...
確率は、二元論的だという。一方で、合理的な信念の度合い、もう一方で、長期試行における安定した頻度の傾向であると。認識論と統計学の共存というわけか。この二面性を克服しようと、信頼性、傾向性、性向など様々なパラメータが試されてきた。
統計的安定性という観点は、極限定理や大数の法則を示唆するが、今この瞬間の状態は、曖昧さを残したまま。正規分布が、独立した事象の集合体にせよ、その集合体の誤差にせよ、やはり状況は変わらない。
この瞬間の曖昧さまでも完全に明瞭化することができるとすれば、それはいったいどんな世界なのだろう。いや、曖昧さってやつは、曖昧であってこそ価値があるというもの。人間の存在価値とは、解釈の余地を残すことであろうか...

3. 帰納論理という道具
古来、数学の証明には、二つの道筋がある。演繹法と帰納法が、それだ。おそらく王道は、演繹法であろう。あらゆる物理現象を論理形式で演繹的に説明できれば、それに越したことはない。だが、そうはいかないのが現実世界。むしろ、帰納法の方が有用な場合が多い。ルネサンス時代には、前者を高級科学、後者を低級科学という見方があったらしい。現在でも、その余韻を感じないわけではないが...
"probable(蓋然的)" と呼ばれるものは「臆見」に属し、論証で導かれる知識と対照をなしていたという。証拠立てには、権威や尊敬される裁定者の証言が是認された時代である。臆見は、科学者には受け入れがたいであろう。
とはいえ、帰納法はユークリッド原論にも記述を見つけることができる。その代表が互除法ってやつで、これを低級科学とするのはいかがなものか。確率の思考がまだ信仰心に毒されていた時代、神の命題を弁証法的に論じたパスカルによって思考が解放された、という見方はできそうか。あるいは、それも賭けだったのか...
何に賭けようが、完全に証明できれば問題はないが、帰納的な証明は脆さがある。「全てのカラスは黒い」という命題ではないが、一つの反証例が示されればそれでおしまい。そこで、「黒でなければ、カラスではない」とすればどうだろう。カラスでなければ、別の名前を与えればいい。それで証明は成り立っているだろうか。帰納的な思考には、常に詭弁がつきまとう。自己矛盾という詭弁が...
現代社会でも、完全に正しいというより、だいたい正しいとする方が有用なケースが多い。デジタルシステムにも多くの事例を見つけることができる。例えば、検索アルゴリズムでは、じっくりと時間をかけて 100 % の正解率を得るより、スピード感をもって 90% ぐらいの正解率を得る方がありがたい。データ領域のゴミ掃除をしてくれるガベージコレクションのアルゴリズムにしても、完全なゴミ判定を試みるより、明らかにゴミと判定できるものをさっさと処分してくれた方がありがたい。リソースの贅沢な時代では、少しぐらいゴミが残っても、システムに影響を与えない程度なら充分に使える。たまーに、再起動に迫られるけど...
リスクとのトレードオフでは、「確からしさ」という思考は有用である。現代人は忙しいのだ。寿命が伸びたからといって、のんびりとはしてられない。期待値は、結果ではなく、過程の情報を与えるだけだが、行動指針の材料にできる。大数の法則を会得したからといって、有意義な人生を送れるかは別の問題。数学が道具なら、確率論も道具。道具ってやつは、いかに用いるか、それも使う人次第ってことに変わりはない...

2020-12-13

"死父" Donald Barthelme 著

原題 "The Dead Father"...
これに「死父」という怪しげなタイトルを与えたセンスはなかなか。直訳するだけでは芸がない。外国語と母国語の狭間でもがき、日本語にない日本語まで編みだす。翻訳家という仕事は、創造的な仕事のようである。
そして、原作者ドナルド・バーセルミとの対談を仕掛ける。
「あのう... ええと... 思い切っておききいたします。死父とは、いったい、何なのですか?尋ねられたアメリカ人の驚愕。尋ねた日本人の顔をまじまじと見つめる。もじもじする尋ねたほうの日本人。死父とは死んだ父親です。死父とは死んでいるのに生きている父親です。死父とは生きている父親です。死父とは... まだつづけますか?」
しかも、架空の対談というオチ!仕掛けが大きすぎると、そのギャップを読者が埋める羽目に...
尚、柳瀬尚紀訳版(現代の世界文学:集英社)を手に取る。

こいつぁ、父親の存在感というものを、世に知らしめる物語か。いや、居場所を求める父親諸君を慰める物語か。その支離滅裂ぶりときたら...
まず、巨大な存在感を示すために、でかい図体。全長 3200 キュービット、半分は地下に埋没し、四六時中、生きている者どもに目を光らせている。キュービットは、古代文明から伝わる長さの単位で肘の長さに由来し、1 キュービットは 50 センチ弱。つまり、全長 1600 メートル弱の恐るべき巨人で、左足の義足には懺悔室がすっぽり入る。
大きな人間というのは、幅を利かせたり、社会を支配したりすることかは知らんが、畏怖の的でありながら愚かしく滑稽。その狂気ぶりはパスカル以上に病的で、身体がでかい上に態度もでかい... とくれば、ぼくらは死父に死んでもらいたいのです。
そして、息子と大勢の従者に牽かれて埋葬の地へ。このバカでかい穴はなんだ?わしを生き埋めにする気か!巨大な骸(むくろ)にブルドーザーが押し寄せる...

死んだ人間に死んでもらいたいとは、どういうことか...
故人を偲び心の中に生き続けるということもあろうし、その思いを断ち切るということもあろう。だが、そんな感覚からは程遠い。そもそも、生きていることと死んでいることの違いとはなんであろう。肉体の有無か。魂は永遠... というが、死人に口無し... ともいう。沈黙する限りでは神にも似たり。
死後の世界を知らないことは、人間にとって幸せであろう。天国も地獄も都合よくこしらえることができるのだから。生きている人間を黙らせるには、神に大いに語っていただかなければ。ただ、神ってやつは、よほどの面倒くさがり屋と見える。代理人と称する輩に思いっきり語らせているのだから...
では、死んだ人間に喋らせれば、言葉に重みが与えられるだろうか。いずれにせよ、生きている間は生きている者同士で語り合い、死んでいる者に口を挟んでもらいたくないし、死んだら死んだ者同士で静かに心を交わし、生きている者に眠りを邪魔されたくないものである...

ところで、父親の威厳ってやつは、どこの家庭でも影が薄いと見える。居場所を確保するだけでも大変と聞く。書斎のような籠もれる場所があればいいが、たいていはベランダで雨風に晒され、寒さに凍える。
存在感ってやつは、それが威厳や風格に結びつくとは限らない。威厳は威圧と紙一重、風格も風刺と紙一重。妻は子供とグルになり、まるでゴミ溜め扱い。休日に寝坊でもしようものなら掃除機に追い回され、洗濯物だって別々にされ洗濯槽を二つ備える洗濯機がバカ売れ。「父親」という語は、もはや家庭内差別用語か...
生きている間はお邪魔虫、ならば、死んでみるのはどうであろう。威厳が取り戻せるだろうか。そもそも威厳ってなんだ?肩書や年功序列の類いか。寿命ってやつは、移動平均で年功序列ということになってはいるけど。
超高齢化社会ともなれば、子供が先に逝くケースも珍しくない。天国の受付窓口で年功序列などと言い張っていれば、すぐに地獄の窓口へ回される。
おまけに、たいていの男は年下の女房を娶り、平均寿命では女の方が長いときた。たいていの父親は、死に顔を曝け出し、女房に愚痴を言われながら死んでいくのよ。子供はいらんが、孫がほしい... 嫁はいらんが、娘がほしい... そんな愚痴が死に顔から聞こえてきそうな。
父親の人生は、はかない!そりゃ、ノーパンでぶらりぶらりしたくもなろう...

2020-12-06

"辞書を読む愉楽" 柳瀬尚紀 著

いつも脇役を演じ、存在感も薄く、それでいて、すこぶる頼りになるヤツらがいる。百科事典に広辞苑、英和辞典に漢和辞典、科学用語事典に IT 用語辞典... 義務教育時代から書棚にのさばる国語辞典ときたら、いまだ現役だ。
そして媒体は、リアルな紙からバーチャルな電子機器へ。パピルスが発明された時代も、一大革命であったことだろう。紙面の活字にしても光と呼ばれる電磁波を介して見ているわけで、電子を媒介することに変わりはないのだけど、ネット媒体におけるサービスの可能性には目を見張るものがある。いまやグルグル翻訳の多言語ぶりは百を超え、ウィキウィキ百科のボランティア記事は勢いを増すばかり。
ボキャブラリー貧困層の酔いどれときたら、類語や対義語を集めたシソーラスは必要不可欠だし、OED に病みつきだし、古典を読む時には、手書き入力の漢字認識や新旧漢字の対照表にもお世話になりっぱなし... たまには、彼らに感謝の意を込め、辞書で愉楽に浸ってみるのも悪くない。
ところで、「愉楽」という文字をちょいと観察してみると、「愉」は、りっしんべんの「心」と旧字体の「兪」に分解できる。旧字体の方が心が踊っているようで、まさに愉快!そこが象形文字のいいところだけど、合理化の波には勝てないと見える。
「愉」を「楽しむ」ついでに、「湯楽」には純米酒がつきもの。毎年改版される名酒辞典にも粗相があってはなるまい...

辞書といっても、堅苦しいものばかりではない。本書は、マニアックなものも持ち出して言葉遊びを仕掛けてくる。日本方言大辞典に日本民俗大辞典、将棋戦法大事典に... 競馬ファンなら当たり前の種牡馬辞典ってのもあるらしい。そこには、辞書にまつわる 81 篇ものエッセイが掲載、いや、駄洒落挿話が満載...
辞書を編むとは、言葉を編みだすことであろうか。言葉を新たに知ると、すぐに使ってみたくなる。そして、文章のバランスを欠き、ついには壊してしまう。それは、プログラムを書くのでも同じ。新たな技を覚えると、無理やりにでも使ってみたくなるもので、まさに子供心に看取られた証。
こうしたささやかな失敗の積み重ねが、言語センスを磨いていくのであろう。どうせやっても同じ!と考えるようになったら、脂ぎった大人心に見切られた証。
試行しなくなったら、思考もしなくなる。せめて言葉と戯れていたい。そして、言葉遊びは、語呂合わせとなり、駄洒落に走る。それも老害心に蝕まれた証。
だとしても、言葉には救われるよ...

様々な方面で編み出される専門用語は、夜の社交場でも教えられる。ちなみに、恋愛の達人と称すお嬢には、「愛」と「恋」では心の在り方が違うと教えられた。「愛」は心が真ん中にあるから真心がこもり、「恋」は心が下にあるから下心が見え見えなんだそうな。言葉遊びで、心変わりも見て取れるというわけである。そういえば、ある男性が向こう隣のボックスでチェンジ!チェンジ!と叫んでいたが、この専門用語の意味は未だに分からん...

1. ナナカンオウ vs. シチカンオウ
著者には棋士羽生善治氏との共著もあって、史上初の七冠王が誕生した時のエピソードを紹介してくれる。そこで、「七冠王」の読み方は?という話題になる。なにしろ、この世に初お目見えの用語だ。「三冠王」なら、野球のみならず見かけるけど。
おいらは「ナナカンオウ」と読むのが普通だと思っていたが、国語の専門家の間では「シチカンオウ」とする意見が圧倒的に多いようだ。近年、永世七冠に、囲碁界にも七冠が誕生したが、相変わらず「ナナカン」と読まれる。新語というものは、最初に編み出した時のインパクトで、そのまま定着してしまうところがある。某国営放送が発表すれば尚更。
学術用語や専門用語にも、最初に翻訳した偉い学者の用語が定着しているケースは多い。中には違和感のあるものもあり、無理やり日本語にする必要があるのか、と思うことも。言葉には民主主義的な性質があり、意味にせよ、読み方にせよ、圧倒的多数が支持すれば、そのように変化してしまう。要するに、言葉は文法や規則に縛られるものではなく、言い方であり、使い方なのであろう...

2. ポチ vs. pooch
犬の愛称でお馴染みの「ポチ」。英語にも "pooch" という語があるらしい。グルグル翻訳機にかけると、「犬」とでる。そこで、ポチと pooch の語源は同じか?という話題になって、辞書めぐりを始める。
pooch は、特に雑種をいい、血統書付きではなく、駄犬を指すらしい。"butch" なら、そんなイメージも湧くけど、トムとジェリーの見すぎか。どちらも、小さいという意味が含まれ、チビのニュアンスを与えるらしい。pooch からポチを連想する話題は、なかなか!
しかし、語源となると、pooch から ポチが生まれたとは考えにくい。そして、二葉亭四迷の小説「平凡」を紹介してくれる。どうやら、愛犬ポチのことを綴ったものらしい。とりあえず、ToDo リストにエントリしておこう。酔いどれは暗示にかかりやすいのだ...

3. キツネ vs. タヌキ
うどんや蕎麦にキツネとタヌキがあるが、女の顔もキツネ顔とタヌキ顔で分類されるという。著者は、真夜中に奥方を起こして、キツネ蕎麦が喰いたいと言うと、油揚げがないからできません!と、タヌキ顔の奥方に素っ気ない応対を喰らったとさ。
うどんでは、キツネの方はネタがはっきりしているが、タヌキの方は地方によって様々なようである。
そういえば、男の顔もソース顔としょうゆ顔で分類される。いや、ケチャップ顔やマヨネーズ顔、塩顔なんてのも。女はキツネとタヌキの化かし合い、その脇で男は調味料を演じているわけか。人間社会の主役は、やはり女の方らしい。せめて男は、辞書の役を演じたいものである。影が薄くても...

4. 名言 vs. 豪語
辞書にまつわる名言を見かける。いや、豪語か!
ナポレオンの名言に「余の辞書に不可能という文字はない。」というのがあるが、そんな辞書は役に立ちそうな気がしない。ナポレオンの豪語も強烈だが、ヘミングウェイの豪語もなかなか...
「もし作家が辞書を必要とするなら、書くべきではないのです。その辞書を少なくとも三度は読破して、とっくに誰かに貸してあって当然でしょう。」
そういうヘミングウェイ自身は、よく綴りを間違えたらしい。実行するかどうかは別にしても、作家なら辞書を丸ごと記憶するぐらいの意気込みがいるというわけか。小説を書くということは、そのぐらいの凄みが必要なのであろう。酔いどれには、ささやかにつぶやくのが関の山よ...