2016-10-30

WUuu... 十字架バージョンよ、記念日の呪いは解けたか?

WUuu.... (Windows Update の略: うぅぅ... と唸りながら発声する。)

Anniversary Update よ、お前もか!
こいつにしばらく呪われ、記事「Win 10 にアップして、あっぷっぷ!... そして半年後」のコメント欄に愚痴ってきた。累積的な更新プログラム KB3194496 と KB3197356 で立て続けに呪われ、KB3194798 でようやく落ち着いた模様。
そして半月が過ぎ、平和が戻ったような気がするので、その経緯をまとめておく。いや、気のせいかも。おかげでアップデートの度にビグビクする有り様。パブロフの犬の遠吠えか!WUuu....

もともと、そういう癖のある OS なのか?メジャーアップデートの度に、これではかなわん!呪われた期間は13日ほどだが、これが意外と短く感じられた。ユーザの飼い馴らしはお見事。呪われた期間が徐々に短くなれば、そのうち有り難く感じたりして... さすが、MS教(= SM狂)!
ちなみに、この「魔の13日」が我慢できず、宗旨替えをした人もいる。七つの大罪を背負ってセブン教に戻ったり、黒い林檎とにらめっこして、あっぷっぷ教に改宗したり...

1. Anniversary Update の通知があり素直に応じた ...2016.9.14
ver.1607: OSビルド 14393.187

環境設定がチャラにされるのは、相変わらず。カスタマイズを施しているほど被害は大きい。
・キーバインがチャラ。
・システムの保護が無効になる。意味がないってか?
・他にも設定が...

ただ、この時点では大きな問題はなかった。
ところで、32bit版は、当初、メモリ容量が 1GB だったが、新しい要件では、2GB に変更されたんじゃなかったっけ?事務員さんのマシンは、1GB しかないのだが、メッセージに従ってアップデートしちゃったみたい。しかも、動いてるっぽい。ちと重くはなったようだが。ただ、システム要件が変わるものを、アップデートと呼べるのかは知らん...

2. KB3194496 が提供され、呪われる ...2016.10.1
ver.1607: OSビルド 14393.222

こいつの不具合は世間を騒がしているようだが、噂どおりだった。アップデートには、マシンによってはえらい時間がかかるものもあったが、無事終了!
... と思いきや、時々ブルースクリーンに切り替わり、システムエラーを吐いて再起動がかかる。まったく気分はブルー!
そういえば、アップデートに時間のかかったマシンが、ブルーな気がする。再起動のタイミングは、マシンを起動して数分後。なので、最初の10分ぐらい、怖くて触れない。呪われたマシンは、10台中、2台!大会社のシステム管理部門ともなると、こりゃ大変だろう...

3. KB3197356 が提供されたが、呪われたまま ...2016.10.6
ver.1607: OSビルド 14393.223

イベントログには、例のごとく、いや霊のごとく、Kernel-Power 41 が刻まれる。今のところ、作業中にぶっ飛んだことはなないが、KP41 病原菌が潜伏しているとすれば、いつ何が起こるやら?作業中もビクビクしながら十数分ごとに保存している有り様。なんてスリリングなシステムだ!

4. KB3194798 が提供され、呪いは解けたか? ...2016.10.12
ver.1607: OSビルド 14393.321

以来、KP41 病原菌をとんと見かけない。恐る恐るディスククリーンアップをかけると、重さも改善された。ただ、スリリングな感覚は、更新プログラムが実行される度に条件反射と化す。

また、nVidia GeForce GTS 240 の最新ドライバがリリースされたので、手動でアップデートすると、wu のヤツが新しいドライバを見つけたといって勝手に前バージョンに戻しやがる。

・GeForce GTS 240 ver. 341.98(64bit版) : 最新版
・GeForce GTS 240 ver. 341.92(64bit版) : 現行版

前にも同じ現象があったが、ここでも最新版のドライバは 1607 と相性が悪いとでも言っているのだろうか?余計なことをして呪いが復活するのも怖いので、ここは素直に wu に従っておこう...

5. KB3197954 が提供され、問題なし! ...2016.10.28
ver.1607: OSビルド 14393.351

2016-10-23

"ロシア皇帝の密約" Jeffrey H. Archer 著

本棚の奥底から出土された考古学的発見から、さらにもう一冊。読んだ記憶がまったくないということが、いかに幸せであるか!なんでも新鮮に感じられることこそ、アル中ハイマー病患者の真骨頂!それは、学生時代から進歩がない証でもある...

この物語は、「ケインとアベル」や「めざせダウニング街10番地」といった財界や政界のサクセスストーリーから一転し、むしろ処女作「百万ドルをとり返せ!」に近い冒険活劇。平凡な一市民がふとした事から陰謀に巻き込まれ、次々に迫る偶発的な危機に翻弄される。なぜ俺が?そう、巻き込まれ型スパイ小説ってやつだ。素人の行動パターンがプロを撹乱するが、単純なミスによって結局はチャラ... これもよくあるシナリオ。
ジェフリー・アーチャーは、スキャンダル沙汰で一旦政界を退くが、1985年、サッチャー首相によって保守党副幹事長に抜擢された。この作品は浪人中に執筆されたものであり、いわば原点に立ち返った作品と言えよう。
陰謀の渦巻く世界では、知りすぎたために命を縮める。無知でいることが、いかに幸せであるか!推理小説ってやつは、そんな無知な酔っぱらいを退屈病から救済し、おまけに、麻薬のごとく病みつきにさせやがる...

1. 帝政ロシアとアメリカの条約とは...
1867年、帝政ロシア外相エドワルド・デ・シュテックルとアメリカ国務長官ウィリアム・シュワードとの間で協定が結ばれた。アラスカ購入と噂される条約である。やがて訪れる革命の機運。ボリシェヴィキの台頭によって皇帝一家の運命は決まった... ここまでは歴史的事実である。
さて、物語は...
皇帝ニコライ2世は条約書をある名画の裏に隠して西側へ送り、家族と自身の安全を図ろうとした。実は、条約には買い戻しの条項があったとさ。ニコライ2世は、命乞いのために、あらゆるハッタリをかましたという説があるが、真相は知らん。
「皇帝が命とひきかえにレーニンになにを約束したか知っているかね...」
ある名画とは、聖ジョージの竜退治を描いた「皇帝のイコン」。この美術品は、数日間宮廷から消えたという召使の証言がある。それは、1915年、ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒの訪問後のこと。ちょうどドイツとロシアは戦争の最中、そんな時期にヘッセン大公がわざわざロシアへ何をしに来たのか?巧妙な推理小説には、しつこいほどの前戯が欠かせない...

2. 「皇帝のイコン」の行方は...
1966年、元英陸軍スコット大尉は、死んだ父から名画「皇帝のイコン」をスイス銀行に遺された。なぜ、スコットの父親がこの名画を受け継いだのか?スコットの父親も軍人で、第二次大戦後のニュルンベルク裁判でナチス上級戦犯の警護隊の指揮官に任じられた。息子への手紙には、ヘス、デーニッツ、シュペーアらを寛大に扱う一方で、ゲーリングには反感を覚えたことが綴られる。処刑前夜、ゲーリングは私的な面会を申し入れ、手紙を託したという。手紙には絵画を贈与する旨が...
ヨーロッパ中の美術品を漁りまくったことで悪名高いゲーリング。彼は青酸カリのカプセルを飲んで自殺した。絞首刑に処せられるべき人物が、人前でその死を晒すべき人物が...
毒物の入手経路は?最後に面会したスコットの父親が疑われ、無実の汚名を背負って生きてきた。この絵画にどんな重大な意味が隠されているかを、スコットは知らない。おそらくゲーリングも知らなかっただろう。知っていれば、身の安全を図るために西側と交渉する武器となるのだから...

3. KGB と CIA の追跡
ソ連では、ブレジネフ書記長が「皇帝のイコン」が偽物であることを見つけ、本物には重大な条文が隠されていた可能性に気づく。そして、KGB に奪還を命じる。本物の流れた経路は、ヘッセン大公からナチスか...
戦後、発見された多くの絵画は本来の所有者に返還されたが、まだ行方不明のものが相当数ある。国家が危機にあれば、事態をいち早く知る政治家が資金を海外に逃避させるのは常套手段。そして、人目に晒したくない財産は中立国にあるスイス銀行を経由する。おそらく、ここに世界中の大多数の国家が頼みにできるほどの個人資産が眠っていることだろう。
尚、現在スイス当局は、マネーロンダリング防止法により、疑わしいと思われる資産すべてに報告の義務を課すなどして、取り締まりを強化している。それは、あらゆる国家でも同様に、出入りする資金を厳重に監視しているはずだ。とはいえ、いまだ隠れ蓑としての中立国の存在は大きい。
KGB情報部のロマノフ少佐は、スイス銀行に眠ったままの可能性を探った。しかし、一足先に絵画はスコットが回収していた。そして、スイスからイギリスへ帰還するまでのスコットの逃亡劇が始まるわけだが、なぜかこの事態にアメリカが気づく。誰かが情報をリークしているに違いない。KGB と CIA にスイス警察やフランス警察が介入し、誰が敵で誰が味方やら?
頼みは、RPO(ロイヤル・フィルハーモニー オーケストラ)のコントラバス奏者の女性ロビン・ベレズフォードが、ひょんなことから手助けしてくれること。スコットは、RPOのチャータするバスに乗り込んで国境を目指すのだった...

4. 重要なキーワードとは?
スコットは「皇帝のイコン」という絵画ごときで、なぜ二大大国に追われるのか納得がいかない。絵画をよく調べてみると、フランス語で書かれた機密文書らしきものが隠されている。フランス語に疎いスコットだが、単語を一つ一つ丹念に調べると、どうやら 1867年の条約書らしい。目につく文字は... 1966年6月20日... 720万ドル... 7億1280万ドル... そして重要なキーワードは...
「やがてフランス語でも英語でも綴りが同じ一つの単語のところで目の動きが止まった。」
その頃、ホワイトハウスでは、ジョンソン大統領がつぶやく。
「アメリカ合衆国の一州を返還する史上初の呪われた大統領になるのはまっぴらだな。」
今日は、1966年6月17日。この文書が、三日後に効力を失うとしたら。しかも、同じジョンソンが絡んでやがる。1867年にアンドリュー・ジョンソンがロシアから買った土地を、1966年にリンドン・ジョンソンが売って返さなければならない。
ところで、なぜこんな馬鹿げた条件に同意したのか?土地購入価格が720万ドルで、インフレは事実上まだ知られていなかった。当時の政治家は、売った価格の99倍、すなわち、7億1280万ドルで買い戻すことができるとは微塵も考えていない。インフレにかかれば、百年の価値をも覆すのだ。
ソ連にしてみれば血を流さずに、アメリカの早期警戒システムを無力化できるばかりか、ソ連の短距離ミサイル基地に変えるチャンスが転がってきたのだ。二大大国が目の色を変えるのも頷ける。
尚、本物語には、肝心なキーワードがどこにも見当たらない。まぁ、仏語でも英語でも綴りが同じというだけで、それが地名であろうことは、すぐに察しがつくのだけど、はっきり言ってくれないと眠れそうにない...

5. ロマノフの運命とスコットの気晴らし...
スコットは、ルーブル美術館に絵画を隠した直後に、フランス警察に保護される。そして、ユニオンジャックのはためく大使館のジャガーに乗せられ安堵するが、よく見ると愕然!1801年、グレートブリテン及びアイルランド連合王国となってからのユニオンジャックは左右対称ではない。イギリス政府の車なら間違った向きにつけるわけがない。スコットは理解した。KGBに捕らえられたことを。
ロマノフは、父親の名誉を回復するための証拠がソ連側にあると言って、取引を持ち出すが、スコットは拒否。そして、十分に恐怖を匂わせながら、激しく拷問にかける。
「拷問は大昔からの名誉ある職業だ... 性行為と同じく拷問においても前戯は最も重要な要素だ...」
だが、スコットは隙を見て脱出に成功。絵画を回収してダンケルク経由でドーヴァー海峡を渡り、無事イギリスへ帰還する。それを知ったブレジネフは、KGB議長に対してあからさまな不興を示す。
そもそも「皇帝のイコン」が偽物だということをレーニンが気づいてさえいたら。都合の悪いことは、すべて死者のせいにするのがロシアの伝統芸か。だが、レーニンは批評を超越した存在で、生きている者の中からスケープゴートを見つけることになる。
ただ、物語はこれでは終われない。スコットは、ついにロマノフを葬る方法を思いつく。ソ連大使館に連絡し、取引を持ち出す。本物と偽物を交換したいと。父の潔白を証明する文書も一緒に。そして、取引は成立し、ロマノフは本物の回収に成功。だが、彼は「皇帝のイコン」の持つ本当の意味を知らなかった。真相を知った途端に命が危うくなるのが、スパイの宿命!
一方、スコットは、ゲーリングの独房に毒薬を持ち込んだのが父親ではなかったことを知って御満悦!とはいえ、世間に公表できる代物ではない。内閣文書が解禁となる1996年まで待てば、真相は明らかにされるだろうか?

2016-10-16

"めざせダウニング街10番地" Jeffrey H. Archer 著

本棚の奥底から埃をかぶった書の群れが出土された。引っ越し貧乏だったので、その都度、処分してきたはずだが。「ケインとアベル」に魅せられ、ジェフリー・アーチャー狂になったことだけは、かすかに覚えているものの、内容となるとまるで覚えなく。まさか学生時代に読んだ本で、もう一度、幸せにあやかろうとは... 進歩していない証拠というわけか。この考古学的な発見に感動を禁じ得ない...

ダウニング街10番地とは、イギリス首相官邸の所在地であり、政治の中心街。日本でいえば永田町である。1964年、貴族、中流、労働者出身の三人の新人議員が下院入り。陰謀、スキャンダル、国際紛争に揺れる政界にあって、首相の椅子を巡ってしのぎをけずる野郎ども。周りには... 女でしくじる者あり、破産して辞職する者あり、ライバルを蹴落とすために策を弄する者あり、見返りを求めてやまないタカリ屋あり... 卑劣な小悪党どもが寄生虫のごとく群がる。
「きみたち政治家はどんどん鈍くなってゆくようだな。きみに一株提供するとしたら、わたしがどれだけの見返りを要求すると思う?... 会社の1パーセントが1ポンドできみのものになるんだよ。... もう一度くりかえすが、わたしは会社の1パーセントを1ポンドとひきかえにきみに提供しようといっているんだよ。」
見事なほどの紳士の台詞!権力欲、名声欲、金銭欲を剥き出しにするからこそ人間味に溢れている。
一方で、ご婦人の冷ややかな台詞が象徴的に響く... まったく政治というのは騙し合いなのね!まさにゲーム!ゲームに勝利すれば世界は俺のもの?... おまけに、総選挙や党首選までも賭けの対象にしてしまうイギリスの国民性が絡み、報道屋もヒートアップ!
この皮肉に満ちた政治道は、しょうのない人間の性癖を観察するには、絶好の場というわけか。そして1991年、サッチャー首相退陣。エリザベス女王退位後の新国王チャールズが決定した首相は?
アーチャー自身が、政界に身を置きながらスキャンダル沙汰で何度か辞職した経験を持ち、いわば、お庭ネタ。
尚、彼が副幹事長に任命されて政界に復帰できたのは、保守党人気の低迷に苦慮するサッチャー首相が、総選挙に向けて世界的作家のタレント性に目をつけた、という見方が一般的なようである。そして、冒頭には、こう綴られる...
「この小説はフィクションである。登場人物の名前、性格、場所、事件などはすべて作者の想像力の産物か、フィクションとして使われたものである。現在の事件、場所、現在または過去の人物に似ているとしても、それはまったくの偶然である。」

この物語は、貴族、中流、労働者の階級闘争という三つ巴の構図を呈する。だが実は、米版と英版で大きく違うそうな。英版では、もう一人、スコットランド選出の議員が加わって四つ巴になるとか。首相レースで勝利する者も違うらしい。イギリスの複雑な政治事情を分り易くしたものが、米版ということのようだ。そして、本書は米版ということになる。それでも、イギリス政党政治の複雑な事情を浮彫にする。
「イギリス憲法は、北海に浮かぶあの小さな島に生まれなかったほとんどすべての人間にとって、また一度もその岸をはなれたことがない多くの人間にとっても、大きな謎のままにとどまっている。これはひとつには、アメリカ人と違って、イギリス人が1215年のマグナ・カルタ以降いかなる成文憲法も持たず、あらゆる点で前例を踏襲してきたことにもよる...」

1. 政権交代の事情
一般的に、イギリス議会は貴族院(上院)と庶民院(下院)の両院制とされる。ここに国王の決定が絡むと、国王を含めた三院制とする古い学説も頷ける。
まず注目したいのは、保守党と労働党で比較的頻繁に政権交代が行われていることである。この点はアメリカ議会も同じで、民主主義のあるべき姿と言えば、そうかもしれない。イギリスの場合、これを根本的に支えている原理に「影の内閣」の存在がある。議員内閣制であるからには、不信任決議がいつ成立するか分からない。イギリス首相は5年の任期があるが、いつでも解散総選挙にうってでて国民の総意を問い、野に下る危機感を持っている。そのために、与野党ともに、次期政権を担うための準備を怠らず、常に本格的な内閣組織をちらつかせる。
ちなみに、この影の存在は、かつての日本のそれとは意味が違うようだ。日本では、本当に影で操っていた派閥のドンが存在した。今はどうかは知らんが。おまけに、政権交代の方が目的化し、巨大与党の残党や脱退の寄せ集めとなるケースが横行する。実際、二大政党制という形ばかりを崇める政治家も少なくない。ほとんどが与党の失策で野党第一党が担がれる事例ばかりで、本格的に民意が反映されることは、ごく稀。仮に優れた政策を立案したとしても、自分が関与できなければ反対派に回るような露出狂ぶり。政権交代によって、さらに悲惨な状況を露呈すれば、元の鞘に収まり、より傲慢にさせる。結局、破壊屋の餌食となって終わるのは、どこの国の事情もあまり違いはないようだ...
政治屋というのは奇妙な思考の持ち主で、支持率を足し算することばかりに執着し、合併によって新たな不支持者が生じるなどとは考えないものらしい。この足し算の思考は、報道屋にも働くようで、視聴率がまさにそれ。スポーツ中継にバラエティー要素を混在させれば、純粋にスポーツも楽しめない。彼らには引き算という概念がないのか?
政治哲学がないということが、国民にとっていかに不幸であろう。それを選出しているのが国民自身だから仕方がないのだけど、あまりにも選択肢がなさすぎる。ほとんど消去法で選出されているにもかかわらず、政治屋どもの勝利宣言は目に余る...

2. 議会制度の事情
イギリス議会、特に下院の運営の仕組みがややこしい。選挙で影響力を持つ「境界委員会」というものが登場する。1944年に設置された委員会で、人口の増減に合わせて選挙区の新設、廃止、統合を行い、議席を適正に再配分するという。
ちなみに、日本では一票の格差で違憲が指摘されて久しいが、そもそも現行の選挙制度で当選してきた連中に改正ができるのか?
さらに、「1922年委員会」というものが登場する。文字通り1922年に設置された委員会で、保守党下院のバック・ベンチャー(役職を持たない平議員)全員で構成される。政策決定の権限はないが、保守党の意見の反響板の役目を果たし、党首選出に大きな影響力を持つという。
日本にも「国会対策委員会」という分かりにくい組織がある。尤もこちらの場合は平議員ではなく、議長よりも事実上の権限を持ち、しかも非公式ときた。そのために「国対族」などと呼ばれ、暗躍組織と揶揄される。どうせなら、こいつを正式な委員会に昇格させて、他の国会議員をリストラしてはどうだろう...
いずれにせよ、権力闘争に明け暮れれば、幼稚な発言しかできなくなるという議会現象は、どこの国も同じようである。三権分立などを持ち出せば、いかにも政治機構の美しさを物語っているようにも映るが、実際のところ、毒を以て毒を制す!の原理に縋るしかない。
尚、政治屋とは、政治家の専売特許ではない。あらゆる集団において、人と人との駆け引きにおいて湧いて出る、いわば人間の性癖である...

2016-10-09

"無罪と無実の間" Jeffrey H. Archer 著

仕事が手につかず、気分転換に本棚を整理していると、埃をかぶった数冊が目に入る。ジェフリー・アーチャー...
「ケインとアベル」が話題になったのは、三十年くらい前であろうか。どんでん返しの結末に魅せられ、十作品ほど読み漁った記憶がかすかに甦る。酔いどれ天の邪鬼は、むかしっから惚れっぽいのだ。引っ越し貧乏だったので、その都度、処分してきたはずだが、目の前に現れたのはまさに奇跡!いや運命に違いない!ただ、一番印象に残っている「ケインとアベル」が見当たらないのは、なんで?
そして、つくづく思う。内容をまったく覚えていないということが、いかに幸せであるか!ミステリーな運命とサスペンスな作風が遭遇すると、ますます仕事が手につかないのであった...

「無罪と無実の間」は、ジェフリー・アーチャーの初の戯曲である。29歳で国会議員になるが、破産して議員辞職。その後ベストセラー作家へ転身するも、保守党副幹事長に抜擢され、コールガールとのスキャンダル沙汰に巻き込まれ、またもや辞職。めまぐるしい浮き沈みの中で、今度は劇作家として甦る。この法廷を舞台にした作品は、世間に渦巻く噂への反感から生まれたのだろうか。原題 "Beyond Reasonable Doubt" は法律用語だそうで、合理的な疑いの余地なく... 合理的な疑問を越えて... といった意味がある。
「正義の泉は無知からではなく、知識から湧きいでるもの...」

物語は、二幕で構成される...

第一幕、法廷シーン
勅選弁護士サー・デーヴィッド・メトカーフは、妻殺害の容疑で起訴された。彼は自らを弁護し、無罪を主張する。妻はリンパ腺の癌を患い、頻繁に激痛に襲われていた。週一回しか服んではいけない劇薬を手渡したのは、故意だったのか?家政婦は証言する... 旦那様は酒を飲んで暴力を揮っていました... 奥様を殺すのをこの目でしかと見ました!
おまけに、株式投資の失敗で膨らんだ借金を、夫人の多額な遺産によって清算した事実が暴かれる。数々の不利な証言で追いつめられていく中、いよいよ陪審員に評決が求められる。
「怒り、同情、その他もろもろの人間感情を頭からしめだしてください。しかしその反面、正当なる疑問の余地がない場合は、いかに気が進まなくとも、評決は有罪でなければなりません。」

第二幕、居間のシーン
「夫人が生きる意志を持ちつづけられたのは、並々ならぬ勇気があったればこそです。」
苦痛をこらえて夫に尽くす妻と、悲しみを隠して陽気に振る舞う夫の姿は、周りにはどう見えるだろう。夫婦仲とは、優しそうで評判のよい人物が DV の張本人であったり、仮面夫婦もあればその逆の場合もあったりと、外から見ると想像のつかぬ謎めいた人間関係なのかもしれない。結婚が人生の賭け、と言われる所以だ。ましてや真の愛など当人以外に分かるはずもない。ちなみに、真の幸せ者は結婚した女と独身の男だけ... と言ったの誰であったか...
「彼女がそれを望み、わたしは断れなかった。それほど妻を愛していた...」
デーヴィッドは、まさに人生の賭けに立たされた。そして、真実を友人に語り、その運命に自ら決着をつけるのであった...

「変りはてた夏の少年たちはわれを見る
もはや死の支配を許すまじ
光の臨終に憤怒(ふんぬ)を、憤怒を
おやすみの夜へとわれは静かにはいりゆかん」

この物語は、イギリスらしい称号が対決構図をより鮮明にしている。それは、女王の弁護士と呼ばれる勅選弁護士(QC = Queen's Counsel)で、国王の治世では KC = King's Counsel となる。もともとは、国王を弁護して功績のあった者に与えられた称号だそうな。近年では、実績を積んだ優れたバリスター(法廷弁護士)に大法官から与えられる名誉の資格だとか。QC になるためには、15年から20年ぐらいの経験を積んだバリスターが大法官に申請するらしい。報酬もぐっとよくなるんだとか。"Silks" と通称されるのは絹のガウンを着ることが許されるからで、下級弁護士(Junior Counsel)を従えて出廷する。
サー・デーヴィッド・メトカーフがその勅選弁護士で、自らを弁護する立場にある。検察側もまた勅選弁護士のアンソニー・ブレア=ブースで、今まで敗北してきた因縁を露わにするのであった...
「挙証義務は検察側にあります。彼らは合理的な疑問の余地なく罪を立証しなければなりません。人間は合法的な理由なしに故意に他者を死にいたらしめたときにのみ、殺人で有罪であります。これが法律であり...」

2016-10-02

"蒼き狼" 井上靖 著

「東方見聞録」に触発されて「元朝秘史」を。その余韻に浸っていると、いつの間にか小説版を手に取っている。「東方見聞録」がモンゴル帝国の支配を贔屓目に伝えているのは、マルコ・ポーロがクビライ・カンに厚遇されたこともあろう。チンギス・カンの一代記として名高い「元朝秘史」もまた、英雄伝にありがちな正義の征服物語といった性格を覗かせる。双方とも主観の濃い歴史書という印象を拭えないが、そもそも歴史とは、解釈で成り立つもの。
だからといって、思いっきり主観の強い小説の領域に踏み入るとは、これいかに?他人の主観と主観を戦わせ、さらに深く自己の主観を彷徨い、主観をくたくたに疲れさせた挙句、その中から客観を見出そうとでもいうのか?もちろん鵜呑みにはできないし、だから小説なのだ。それでもなお、このくらい面白くないと、歴史の理解、いや誤解は深まらない。もはや酔いどれ天の邪鬼の衝動は、とどまるところを知らない...

本物語には、「元朝秘史」の冒頭を飾る発祥伝説が挿入される。
「上天より命(みこと)ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる惨白(なまじろ)き牝鹿ありき。大いなる湖を渡りて来ぬ。オノン河の源なるブルカン岳に営盤(いえい)して生まれたるバタチカンありき...」
ブルカンとは、仏陀のモンゴル語化した形で、仏や神を意味するそうな。初代バタチカンの後、狼と牝鹿の血は長い歳月をかけて受け継がれてきた。そして、十一代目ドブン・メルゲンと妻アラン・ゴアとの間に二人の男子を授かり、間もなく夫は死ぬ。その後も、アランは子を産み続けた。彼女が妊娠する時は、いつも天の一角から光が射し、白い肌に触れたという。そう、感光出生伝説だ。親はなくとも子は育つというが、夫はなくとも子はできるってか。蒙古高原の支配者は、蒼き狼の血筋で、しかも神から使命を授かった者でなければならないというわけである。
しかしながら、正統継承者の長子として生まれた鉄木真(テムジン) = 成吉思汗(チンギス・カン)には、消すことのできないコンプレックスを抱えていた。母ホエルンはメルキト部族に拉致され、男どもに犯された経緯があり、父親が誰かはっきりしなかったのである。出産の時、父エスガイはタタル部族との戦の最中、捕虜とした首領の一人の首を刎ねた。父が与えた「テムジン」の名は、その首領の名だ。チンギス・カンの飽くなき征服欲は、自分が正統継承者であることを証明するためのものであったのか?人間離れした大偉業がなされるところに、神がかった信念が宿り、信念が使命を駆り立て、宿命と化す。そして、息子ジュチの血統もまた...

ところで、分かりやすさという点では、歴史書よりも小説の方が断然優っている。だが、分かりやすさと理解は別の問題だ。例えば、軍制についてこんな記述がある。
「成吉思汗は二十万の金国攻略軍には、独特の編成を施していた。一番の末端は十人ずつを一組にして、それらを次々に集めて百人、千人、万人の部隊を作り、それぞれにそれらを統轄する長を置いた。一万人の指揮官には百戦錬磨の将軍が配せられ、成吉思汗の命令はいかなる時でも幕僚に依ってこれら将軍たちに伝えられ、将軍たちからまたたく間にそれぞれの集団の下部組織へと浸透して行った。」
千戸の制を語ったくだりで、確かに分かりやすい。だが、独特の編成を施していた... というわりには、チンギスの独創性がいまいち伝わらず、物足りなさを感じる。こうした点は、「元朝秘史」の方が優っているだろう。このあたりが小説の限界であろうか。まぁ、そう感じるのも、「元朝秘史」を読んだ後だからであって、本書を先に読めば何も感じないのかもしれない。いずれにせよ酔いどれ読者ごときに真相が分かるはずもない...

1. タイチュウトをやっつけろ!タタルをやっつけろ!
モンゴル族が、いつ頃からこの地に移り住んだかは不明だが、八世紀前後には他の聚落とともに突厥の勢力下に、八世紀中頃には回鶻(ウイグル)に隷属し、九世紀以降は韃靼(だったん)の支配下にあった。韃靼の衰退後、各聚落で家畜や婦女や牧草の奪い合いに明け暮れ、テムジンが生まれた十二世紀中頃には、モンゴル、キルギス、オイラト、メルキト、タタル、ケレイト、ナイマン、オングートなどの部族が住民となっていた。中でも、モンゴルとタタルのニ部族が、指導権を握ろうと絶えず小戦闘を繰り返す。
さらに、モンゴル部族の中でも、数々の氏族に分裂し、主導権争いが絶えない。アラン・ゴアの感光出生伝説から生まれたブク・カタギ、ブカト・サルジ、ボドンチャル・モンカクの三人の男子は、それぞれ、カタギン氏族、サルジカット氏族、ボルジギン氏族の祖先となる。中でもボルジギン氏族は、最も多くの汗(カン)を輩出した名門。ボドンチャルから八代目カブルは、分裂したモンゴル部族を曲りなりにも一つにまとめ、初代汗となった。そして、アムバカイが二代目汗となった時、タイチュウト氏族を名乗って独立する。
三代目は、またボルジギン氏族に戻ってエスガイの叔父クトラが汗となり、エスガイが四代目汗となる。テムジンが生まれた時、ボルジギン氏族とタイチュウト氏族は反目しあっていた。いわば、主家と分家の争いである。タイチュウトの奴をやっつけ、タタルをやっつけ... とは、父エスガイの口癖であったという。テムジンは父の遺志を継ぎ、蒙古高原からタタル族を葬り、続いてタイチュウト氏族を叩くことになる。

2. 嫁探しの旅と異母兄弟との確執
テムジン九歳の時、母ホエルンの希望で、父とともに母の郷里オルクヌウト部族の聚落へ、嫁探しの旅に出た。だが途中、オンギラト部族の首領デイ・セチェンと出会い、彼はテムジンを気に入って我が聚落へ来るよう勧める。ボルテという娘があると。富裕なオンギラト部族と婚姻関係を結ぶことは損な取引ではない。
また、長城に近い地域にあって金国とも交流があり、武器や武具に優れ、蒙古高原で最も高い文化水準を持つと聞く。将来敵となろう金国を知る上でも重要な部族というわけだ。テムジンは父の命で、この地に留まる。
テムジン十三歳の時、父エスガイが死ぬ。タタル族との戦いで勝利したものの、タタル族が催す酒宴で毒殺されたのだ。テムジンは帰郷する。テムジンには、母ホエルンが産んだ兄弟の他に、異腹の弟ベクテルとベルグタイの二人がいた。その二人は反抗的で、お前は母が拉致された時に孕んだ子ではないか、父エスガイの血筋ではない!と罵られると、ベクテルを殺してしまう。テムジンは兄弟を葬った罪を生涯背負うことになる。本当に同じ狼の血が流れているのかと...

3. テムジン一家襲撃事件と客人「ジュチ」誕生秘話
タイチュウト氏族に聚落を襲われ、テムジン捕らわる。この時、ソルカン・シラが逃亡を手助けする。テムジンの手枷を外したのは、彼の息子たち。彼の家はかつてエスガイの配下だった。
また、逃亡の途上で、敏捷な少年ボオルチュと出会い、家に匿われる。テムジンは、タイチュウト氏族の聚落で、ボルジギン氏族に心を寄せる人々が少なくないことを知る。
そして、拉致されて殺されたと思われた不死身な男の下でモンゴル部族が結束を始め、反目していた異母兄弟ベルグタイも従順する。テムジンは恩返しに、ボオルチュとソルカン・シラの二人の子、チンベとチラウンを帳幕に迎えた。ボオルチュとチラウンは、後に四俊馬に数えられる重臣となる。母ホエルンが、老人ジャルチウダイから預かり養育してきたジェルメも、立派に成人して加わる。この老人は、かつて父の帳幕にあった人物だったという。
この時期、蒙古高原の一番の実力者はケレイト部族のトオリル・カン。一時期、彼は父エスガイと親交があり、その誼で同盟する。そして今度は、メルキト部族に幕営を襲撃され、妻ボルテが略奪される。まだ弱小であったテムジンは、同盟者トオリルに応援を頼む。トオリルはジャダラン部族の長ジャムカに伝令し、三連合軍となる。ジャムカは、モンゴル族の最初の汗であったカブル汗の兄弟の後裔でボルジギン氏族に属すが、独立してジャダラン氏族を称していた。そして、三連合軍は勝利する。
ところが、ボルテは妊娠していた。はたして自分の子か?テムジンは混乱しながら、「ジュチ」の名を与える。それは「客人」という意味だ。かつて父エスガイが、自分の子か疑いを持ちつつ、敵の首領の名を与えたように。俺は狼になる!お前も狼になれ!との励ましの名か?それとも、テムジン自身を奮い立たせるための名か?ジュチもまた、蒼き狼の血筋であることを証明しなければならない宿命を負う。

4. 盟友ジャムカとの確執... 血を流さずして殺し!
テムジンとジャムカは盟友を交わす。しかし、ジャムカ陣営では、怠け者は得をし、優秀な若者は損をしていたために、テムジン陣営に鞍替えしたいという者が増えていったという。テムジン陣営は、次第に今までとは違う統制が求められ、帳幕の規模も父エスガイの時代よりも大規模となる。箭筒士と帯刀士を組織し、伝令を作り、軍馬の官、車輌の官、食糧の官、馬を飼育する官、羊を養牧する官などを任命。そして、自分に次ぐ帳幕の最上位にボオルチュとジェルメを就けた。
ジャムカは、自分の帳幕から離脱してテムジン陣営に走った者があることに恨みを持ち、突如、十三部族、三万の兵を率いて進軍を始める。テムジンの臨んだ初の大会戦は、不幸な結果に終わるが、不幸中の幸いと言うべきか、敗走しただけで被害は小さかったという。テムジンに敗戦の実感がなかったように、ジャムカにも勝利感があまりなかったようである。その後、三年間、互いに対峙するも、大きな戦闘には至っていない。
テムジンはトオリルと連合してタタル族を葬り、蒙古高原は、テムジン、トオリル、ジャムカの三つ巴。タイチュウト氏族はジャムカの傘下となった。
ジャムカがトオリルを攻めた時、テムジンは援軍を送り、仇敵タイチュウトを包囲する。この包囲戦で、テムジンは敵の毒矢に当たって負傷し、ジェルメが口で毒を吸い上げ、一命を取り留める。その翌日、包囲されたタイチュウトの聚落から二人の者がテムジン陣営に移ってきた。ソルカン・シラと矢を射た若者である。早く首を落とせ!と潔い若者をテムジンは気に入り、「ジェベ(矢)」の名を与えて臣下に迎えた。
ジャムカはテムジンとトオリルの連合軍に敗れて遠く北方に逃れていたが、再び軍勢を率いて現れ、トオリル陣営に身を投じる。すると今度は、テムジンとトオリルとの対立が表面化する。トオリルが敗れると、ジャムカはその傘下にあったナイマン族に身を寄せた。
ナイマンが劣勢になると、テムジンの本陣にジャムカが自身の五人の部下に縛られて連行されてきた。実に17年ぶりの対面。テムジンは、己の主君に手をかけた者を赦せず、ジャムカの前で五人の首を斬らせた。テムジンにジャムカを斬る気はなかったが、ジャムカは敗れた天運から逃れることを嫌い、血を流さずして殺せ!と告げる。「血を流さずして殺し...」とは、 古代モンゴルの信仰にしたがって、高貴な人には血を流さず死罪を行う慣習があったそうな。

5. チンギス・カン誕生とシャーマンの呪い
1206年、テムジンはナイマン攻略を終え、蒙古高原を平定し、盛大なる大君という意味の「成吉思汗(チンギス・カン)」の名を宣言する。
モンゴル帝国建国当初、一番やっかいな問題は、ムンリクと彼の七人の子供だったという。ムンリクは既に六十の老人で最高長老会議に出席できる地位にあり、子供たちも重要な地位に就いていた。チンギスが、彼らを重く用いる理由は、ムンリクの父チャラカへの恩義のためだけだという。三十数年前、父エスガイが死んだ直後、全ての部衆が離れていったが、一家が悲惨などん底にあった時、忠誠を尽くしたのがチャラカである。
ムンリクの方はというと、チンギスはこの男を信用していない。窮地にあるチンギス一家を棄てた一人であり、チンギスが成人すると、臆面もなく七人の子を連れて戻ってきたのだ。最も忍び難いことは、ムンリクが母ホエルンと通じていること。それゆえ、ムンリクは隠然たる勢力を張っていたという。おまけに、七人の子供たちも、父親の地位を笠に着て、目に余る行為。特に甚だしいのは長男で、シャーマン教の僧テップ・テングリだという。チンギス・カンという名を選んだのも、この卜者だ。父ムンリクの政治的立場と祭政を仕切る神託者という特権を利用し、人を人と思わぬ振る舞い。己が一族の勢力を張ることだけに腐心していたという。チンギスは、ムンリク同様、テップ・テングリも信用していないが、彼の予言は不思議と当たるので、無下に退けるわけにはいかない。
やがて、一つの事件が起こる。テップ・テングリは、弟カサルがチンギスに代って王位に就こうと図っていると、謀反を告げた。幼き時から苦難を共にしてきた片腕カサルが?真相を知りたければ、カサルの幕舎へ今行けば分かるというのである。そして、酒気を帯びたカサルが、テムジンの愛妃である忽蘭(クラン)を追いかけている光景を目にする。激怒したテムジンは、殺すべきか?追放すべきか?を決めかねていた。すると、老いた母ホエルンが説く、「お前は曾て弟ベクテルを殺した。そしていまカサルを殺そうとするのか...」と。カサルを罰しない限り、神託によって謀反者を断定したテップ・テングリを処刑しなければならない。かくして神の代弁者は葬られ、ムンリク一族の権勢は弱まり、横暴な行為は跡を絶ったとさ。

6. 母の死が意味するもの
母ホエルンは、突如、三日病んで他界する。チンギスにとって母の死は、己が出生の秘密を知るただ一人の人間が、この世を去ったという思い。真相を知る者がいないとなれば、チンギスは大きな自由を得る。チンギスは、蒼き狼と惨白き牝鹿の末裔の正統であることを信じてきたが、同時に疑いもあった。母ホエルンが、弟を殺したチンギスに激しく当たったことを思えば、正統な血筋ではないかもしれないと。同じ狼の血統を斬殺した自分にも、疑いを持っていた。母の死によって、初めて蒼き狼の正統であることを自由に夢みることができ、自覚にまで高めたとさ。

7. 西夏と金国へ遠征
「モンゴルの民の上天より降された使命は、宿敵金を撃つことである。われらの祖アムバカイ汗はタタルの手で捕えられ、金国へ送られ、木の驢馬に釘打ちにされた上、生きながらにして皮を剥がされた。カブル汗も、クトラ汗も、みな金の謀略に依って殪れている。モンゴルの歴史の上に血塗られた汚辱を、われわれは忘れてはならぬ。」
金国への怨恨は根深いが、父エスガイの代では報復を諦めるほど強大であった。おまけに、南には宋国が控えている。いよいよ狼の野望は、チンギスの代で現実味を帯びる。
まずは、金国へ進軍する途上にある西夏。西夏を避ければ、万里の長城と興安嶺の険峻にぶつかり、行軍が難しい。そして、西夏を平定し、西夏の南から大軍を東へ進める。ここに本格的な異民族との交戦が始まるが、モンゴル族の騎馬群団にかかれば、西夏の駱駝も馬も兵もひとたまりもない。一気に首都、中興府へ攻め上った。
そして、1210年という年を、金国遠征のための準備に費やす。軍事力や経済力がいかに大きいか見当がつかないため遠征時期を決めかねていると、金国の方から使節がやって来た。金国皇帝の章宗(しょうそう)が崩じ、允済(ユンジ)が即位したことを告げ、これを機に長く絶えていた来賓を促す。だがチンギスは、金国が恐れていることを知り、却って自信を深め、遠征を決するのだった。
しかし、野戦では得意の騎馬軍団で圧倒しても、城塞戦となると思うようにいかない。中都(北京)と叫んで進軍していたはずが、いつしか大同府と目的地が変わったり、指揮系統にも混乱をきたす。落としても落としても城塞が現れ、勝っているのやら、誘い込まれているのやら...
そして、新たな戦術が求められる。やがて二十万の金国兵を吸収していき、九十もの城邑を血で塗り、それぞれにボルジギン氏の旗を掲げた。1214年、ついに金国と講和を結ぶが、事実上の金国の降伏だったという。チンギスの中国各地で得た美麗な女は夥しい数に上り、公主の哈敦(カトン)を妃とする。
しかし、凱旋して間もなく、金国に和平の意志がないことを知る。金帝が、都を中都から汴京(べんけい) = 開封(かいふう)に移転したという知らせが入ったのだ。講和はわずか三ヶ月ほどで敗れ、1215年、中都陥落。その勢いで、大宋国も征服しようと目論む。
この戦で、チンギスは捕虜の中に「耶律楚材(やりつそざい)」という名を持つ契丹人を見出した。人間離れした大男で、天文、地理、歴史、術数、医学、卜占に通ずる。チンギスは彼の予言を喜び、家臣に迎えて「ウト・サカル(長き髭)」の名を与えた。彼の予言はこうだ...
「西南の方角に新しき軍鼓の響きがある。可汗の軍が再びアルタイを越え、カラ・キタイの国に進入する時は迫りつつある。いまより三年の後に、必ずやその時は来るであろう。」

8. カラ・キタイ遠征
かつての仇敵、ナイマン王グチルクが、カラ・キタイ(西遼)国の王位を簒奪して、六年が経っていた。1218年、耶律楚材の占いどおり、ジェベを二万の軍勢の将として侵攻させた。そして、直ちに宗教の自由を宣言し、グチルクに迫害されていた回教徒を解放すると、回教徒は各地で反乱を起こして味方した。ここに、高い文化の国と噂されるホラズムと国境を接する。
チンギスは未知の大国との貿易を企図し、450人からなる隊商を派遣する。だが、守将ガイル・カンに捕縛され、450人の隊商はモンゴルの間諜として処刑された。チンギスは回教国に激怒し、1219年、自ら二十万の軍勢を率いて出陣する。民族興亡を賭けた戦と位置づけ、降伏する者は生かし、反抗する者は徹底的に殺戮。城塞を攻略すれば、白昼、女という女の貞操は奪われ、市民の大部分が殺害された。1220年、サマルカンドへ到達し、ガイル・カンは処刑された。チンギスは、ジェベとスブタイに国王ムハメットの追跡を命じ、モンゴル勢はカスピ海沿岸にまで達する。ムハメットは、カスピ海の小孤島に逃れ、病死したとさ。

9. インドへの夢とジュチの死
ヒマラヤの向こうには、まだ未征服の大国があると聞く。暑熱の国、巨大な象の住む国、仏陀の国。だが、夢はいつかは覚める...
1224年、チンギスは全軍にインド侵攻を宣言。モンゴル軍は、行軍月余にして、越えなければならぬヒンドゥークシュ山脈の鋸の刃のような高峰を遠くに見る。山中に入ってわずかの間に、人馬の消耗が甚だしい。そこに愛妃、忽蘭の死の知らせが。もともと忽蘭の願いによって企画された侵攻であり、ついに意味を失ってしまう。ある夜、チンギスは角端という動物の夢を見る。その動物は、前脚を折って座ると、こう言ったという。
「卿ら一日も早く軍をまとめて、国に帰るべし!」
この言葉は天意か?チンギスはサマルカンドまで軍勢をひく。そして、西方へ遠征中のジェベとスブタイ、キプチャク草原にある皇子ジュチへ伝令を送る。即刻帰還せよ!と。1225年、スブタイと合流するが、そこにジェベの姿はない。ジェベは命を使い果たしていた。
さらに、ジュチの死の知らせが。三年来病床にあり、カスピ海北方の聚落にて薨ぜり、遺命により遺骨を奉じて帰還の途につく、と。チンギスは、今こそ知った。誰よりもジュチを愛していたことを。自分と同じく掠奪された母の胎内に生を受け、自分と同じくモンゴルの蒼き狼の裔たることを、身を以って証明しなければならなかった運命を持つ若者を。
チンギスの勇士たちは、みな年老い、いまや昔の武勇伝を懐かしむあまり。過去の栄光に縋る軍勢は、敗走する哀れな軍隊と化す。

10. 最後の遠征
1226年、西夏侵攻を決定したのには、三つの理由があるという。一つは、ホラズムに侵入せんとした時、西夏王が援軍を拒否し、これに対する罰則を与えるため。二つは、まだ完遂していない金国征討には、西夏の完全制圧が先決。三つは、ジュチの死を癒やすことができるのは、もはや大作戦を決行することだけ。そして、狼は死に場を求めるかのように、敵地をさまよう。
1227年、首都、寧夏(ねいか)を落とし、続いて、金国の南京の朝廷に使者を送り、臣属を要求。寧夏にある西夏王、李睍(リヒエン)は降伏。開城のための猶予を一ヶ月乞うたので、チンギスはそれを許した。
次は、金国征討の完遂であるが、冷血な狼は和平の申し出を拒否する。しかし、西夏王は約束を破って、期限がきても開城しない。怒ったチンギスは全軍をもって城を落とし、李睍を斬り、住民の大部分を殺戮した。その後、金国へ向かわず蒙古高原へ。陣中でチンギスが死んだのである。彼の死は少数の重臣しか知らされず、静かに帰途についたとさ... 享年六十五。