2022-07-31

"奇想の系譜 - 又兵衛-国芳" 辻惟雄 著

意表を突く構図、強烈な色彩、グロテスクなフォルム...
江戸の時代、奇矯(エキセントリック)で幻想的(ファンタスティック)な表出を特徴とする絵師たちがいたそうな。近代絵画史で長らく傍系とされてきた達人たちに、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳らの名が連なる。辻惟雄は、彼らを異端派とするのではなく、主流派の前衛として掘り下げてくれる。奇想キテレツ派とでもいおうか、その表現主義的な傾向は、むしろ現代感覚にマッチしそうな...

芸術の要素には遊び心が欲しい。アニミズムにも、美意識にも遊び心が欲しい。悪魔が皮肉をぶちまけ、これを神の微笑みで味付けすれば、主題がより際立つ。ユーモラスな悪戯ぶりは、型苦しい様式からの解放と庶民感覚に近づけた感がある。地獄をも、狂気をも、手玉に取れば、まさに近代芸術のアバンギャルド。今、八面モニタをバックグランドに、純米酒をやりながら美術館気分に浸る...




この系統では、まず、葛飾北斎の名が聞こえてきそうだが、ここでは、あえて軽く触れるに留めている。彼を扱うには、よほど腰を据えてかからねばならないようである。

「北斎の場合にしても、彼を単なる風景画の開拓者として扱うのはもとより一面的であって、動物、植物、人物から妖怪にいたる森羅万象ことごとく自己の画嚢に収めようとする描写の驚くべき多様さと、どの画題にも発揮されている斬新な機知とドラマティックな想像力、つまりは『奇想』に、彼の作画の本質的意義があることはいうまでもない...」

本書で紹介される絵師たちは、時代を先取りしすぎていたのかもしれない。表現性に馴染んだ現代人の眼には、それほど違和感はないだろうし、むしろド迫力な描写に魅了される。
例えば、「山中常盤物語絵巻」は、義経伝説を描写した御伽草子系の物語で、盗賊どもに小衣を剥がされる常盤と侍従に、常盤殺しに、その復讐劇で首を刎ねるなど、どぎつい場面で彩られている。
但し、作者の名が作品のどこにも記されていないそうな。岩佐又兵衛筆という伝称がついているだけだとか。そのため、岩佐又兵衛という人物の実在すら疑われたという。後に、その子孫の家から伝記資料や自筆の文書が発見され、おぼろげながら正体が浮かび上がってきているのが現状だとか。
この作品が世に出るいきさつでは、ドイツへ売られるところを、当時、第一書房の代表であった長谷川巳之吉が、国外へ持ち出されるのを防ごうと、家を抵当に入れ、他のコレクションを売り払って、手に入れたという。生々しい表現性の評価では西欧のコレクターの方が目が肥えているようで、辻惟雄はこう励ます...
「日本のコレクター諸氏よ、今からでも遅くはない、奮起して下さい!」

いつの時代も、社会への不満や政治への批判が風刺芸術として現れ、えげつなく描写すれば批判の的となる。その先陣を切るのが、自由を標榜する芸術家の役割というものか。当時、自由な表現は危険すぎるほど危険で、覚悟のいる仕事であったことだろう。寛政の歌麿が投獄された事例などが、それである。幕藩体制崩壊も目前に迫り、武家政治への不満が日増しに高まる中、庶民の代弁者という使命を買って出ることも。
例えば、歌川国芳の「源頼光公舘土蜘作妖怪図」は、権力の風刺画として威光を放つ。源頼光と四天王がくつろぐ中、闇から悍ましい土蜘蛛と無数の妖怪が押し寄せる。病床の頼光に、夢まくらで騒ぎ立てる化け物ども。表向きは土蜘蛛退治を描写しながら、酷政に苦しむ庶民の亡霊を描写したような、実にきわどい作品である。国芳は、捕らえられて詰問にあったが、そのような含みはないと言い張って罪を免れたという。自由精神の旺盛な人間が政治犯とされるのは、人間社会の宿命か...

2022-07-24

"自殺論" Émile Durkheim 著

生きる権利を主張するなら、死ぬ権利を主張してもよさそうなもの。死を運命づけられた知的生命体が、どうせいつかは... という気分になるのも道理である。自分の生に終止符を打つというのは、究極の自由論という解釈もできよう。生き方を問うということは、死に方を考えているのと同じことやもしれん。
自殺という行為が人間の本能に根ざしたものかは知らんが、これを抑止する良策があるとすれば、中庸の哲学と精神の均衡こそが鍵となるであろう。自殺を狂気とするなら、狂気のないところに才気は生まれない。芸術家や哲学者に自殺者を見かけるのは偶然ではなさそうだ。狂気を謳歌するところに真の正気があるのやもしれん...
尚、宮島喬訳版(中央公論社)を手に取る。

「生の世界においては、過度におよぶものはすべてよくない。生物の能力にしても、一定限界をこえないという条件のもとで、はじめて決められた目的を果たすことができる。社会現象についても同じことである。過度に個人化がすすめば自殺が引き起こされるが、個人化が十分でないと、これまた同じ結果が生まれる。人は社会から切り離されるとき自殺をしやくなるが、あまりに強く社会のなかに統合されていると、おなじく自殺をはかるものである。」

社会が多様化すれば、死生観もまた多様化していく。しかし、自ら命を絶つ権利をあからさまに認めた社会は見当たらず、むしろ大罪とする宗派が大手を振る。
近代医学は、延命治療をますます進歩させるが、そうすることによって苦悶を長引かせるだけに終わるケースも少なくない。医学生たちは、死に向かう心理よりも、肉体に対する物理的な措置の方を多く学ぶ。医師が少しでも死期を早める措置をとろうものなら、メディアはこぞって理性の検閲官を自認し、本人が求める積極的な死ですら殺人と見なし袋叩き...
寿命がのび切った社会では、尊厳死というものを考えずにはいられない。欧米社会には安楽死ビジネスなるものがあると聞く。悪魔のビジネスマンと呼ぶ者もいるが、死への誘惑はどこにでも転がっている。その衝動に負けた時、死を処方する闇のプロフェッショナルが、少しばかり自然死のお手伝いをしてくれる。もう充分に生きたからと自らを納得させて。だがそれは、いいことがあるなら、もうちょっと生きていたいという心の裏返し。人間が合理的に生きることは難しい。死と向き合えば、尚更である。
だが、死がなければ詩は生まれないだろうし、芸術心や論理的思考を育むこともできまい。そして、生に意義を求めることも...

本書は、「自己本位的自殺」「集団本位的自殺」「アノミー的自殺」の三つに分類して論じている。とはいっても、それぞれの社会的要因や社会的タイプは、三つの類型が相互に絡み合った様相を呈する。エミール・デュルケームは、自殺をこう定式化する...

「当の受難者自身によってなされた積極的・消極的行為から直接、間接に生じるいっさいの死を、自殺と名づける。しかし、この定義も完璧ではない。というのは、これでは、まったく異なる二種類の死が弁別されないからである。高い窓を地面と同じ高さにあるとおもいこんで、そこから飛び降りる幻覚者の死と、自分がなにをしているかを知りながらみずからに一撃をくわえる正気な人間の死を、いっしょくたにし、同列に扱うことはできないだろう。」

注目したいのは、統計データを元に考察しながらも、数字をそのまま鵜呑みにせず、データ収集の仕方や数字には現れない状況までも想定している点である。
「自殺論」が刊行されたのは、1897年。社会学の論文としては斬新な試みだったことだろう。今日、社会分析で当たり前のように用いられる統計データだが、その信憑性を裏付けるのは難しい。それゆえ、いかようにも解釈できるという弱点がつきまとう。巷には、デュルケーム論法の変質で溢れている。社会現象において統計的な平均人を論じることに、どれだけの意味があるかは知らんが、ベンジャミン・ディズレーリは、こんな言葉を遺した。「嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である。」と...
なにも統計が嘘をつくわけではない。論者がデータを改竄しているわけでもない。都合のよい数字を拾い、より重要な数字を無視すれば、それだけで欺瞞できる。それは、些細なニュースを大袈裟に持ち上げ、重要なニュースをささやかに報じれば、世論を扇動できる報道屋原理と同じ。超一流の扇動者は、けして嘘をつかないものだ。
統計データの扱いは、結局は解釈の問題ということになろうか。数字を鵜呑みにしない時点で、既に主観の眼が向けられている。客観的な眼を向けるということは健全な懐疑心を保ち続けることであり、これを実践するにはよほどの修練がいると見える。デュルケームの試みは、主観と客観の相互で限界点を模索しているかのように映る...

自殺といっても、様々な動機に様々な状況が絡み合い、一筋縄ではいかない。ゴルディオンの結び目のごとく...
まず、何をもって自殺と定義するか。生活苦や病苦を背負って命を絶つ者、世間の眼に追われて命を絶つ者、社会的義務を背負って命を絶つ者、殉教の栄誉に浸る者、餓死を自然の力として受け入れる者、自ら人間失格を悟って命を絶つ者... あるいは、消防士や警察官のように自ら犠牲となる人たちもいれば、戦争では自ら捨て石となる人たちもいる。怒りは絶望に優るとも言われるが、その怒りが自らの命に向けられることも。
例えば、自説を曲げず、追放までも頑なに拒み、公開裁判で死刑を受け入れたソクラテスはどうか。征服者に屈服せず、誇り高く自刃した小カトーはどうか。後に、ダンテによって煉獄山の門番にされて...
デュルケームは日本人についても考察し、「まったくつまらない理由のために、簡単に切腹するのは有名である。」と断じる。
西洋人には、公に自殺を求めずとも、暗黙に強いられる社会が奇妙に映ったことだろう。いわゆる、空気を読むってやつか。武士の時代、恥を偲ぶぐらいなら死を選び、生に執着しないことが美徳とされた。「潔し」という言葉は重い。実に重い。それが現在では、死んじまったらお終い!とまったくの正反対、死を論じることすら忌み嫌う。その移り気を思えば、現代の価値観にも問い掛けねばなるまい。現在でも尚、集団が暗黙に命ずるものが根深くあると...

自殺とは、自らの命を絶つことであり、積極的な行為にも映る。だが、デュルケームは、内的要因よりも、むしろ外的要因であることが、ほとんどだとしている。
アリストテレスは、人間をポリス的動物と定義した。つまり、最高善を意図した共同体の中で生きる存在であると。悪く言えば、集団依存性からは逃れられない存在とも解せる。そして、利己主義もまた社会の所産である。
高度な文明ほど自殺者が増加するとも言われる。未開社会でも自己本位的自殺はあったようだけど、少なくとも、近代的な自殺が社会的要因によって増殖させているのは確かであろう。富裕層でも貧困層に負けず劣らず自殺する。知性や理性が自殺の呼び水になることもあり、教育も当てにならない。
自殺の抑止力では、宗教も一定の効果があろう。452年、キリスト教はアルルの教会会議で、自殺を一つの犯罪と規定し、悪魔的狂気のなせる結果であると宣言したという。すべての命が神からの賜物だとすれば、自らの命を葬ることも大罪ということになる。それでも、論理的には隙だらけ。異教徒の命はどうか。宗教戦争は犯罪行為では...
結局は、中庸の哲学と精神の均衡に縋るほかはあるまい。憂鬱ってやつは都会の病とも言われるが、田舎にも伝染する。自殺はある種の伝染病であろうか...

また、人間の無意識の領域は、意識の領域よりもはるかに広大である。自己本位的自殺とアノミー的自殺とでは、その要因において類縁性が深いという。アノミー的とは、社会規範が弛緩になったり、崩壊したりする時に生じる感情や情熱に左右されるような状態。確かに自己本位的でもあるが、本当に自分の意志がそうさせているだろうか。
例えば、著名人や影響力のある人の死が殉死を呼び込んだり、ゲーテのウェルテルの悩みが社会現象になったり。
自己本位的自殺と集団本位的自殺とでは相反し、両極にあるように見えるが、これらが結びつくと、それは誰の意志であろうか。もはや自由意志の存在すら疑わしくなり、宿命的な意志を感じずにはいらない。デュルケームも、「宿命的自殺」のような感覚を匂わせている。
しかしながら、こうした感覚は自殺に限ったことではなく、日常に渦巻いている。突き詰めれば、誰かに扇動されているのではないか、どこかに暗躍する奴らがいるのではないか、と。人間は陰謀論がお好き!というのは、集団依存症という性癖を持つ人間の本質やもしれん。つまり、人間とは目に見えぬ存在に怯えながら生きている存在、ただそれだけのことやもしれん。目に見えぬ存在が本当に存在するかは別にしても、そんな存在がないと落ち着かない、ただそれだけのことやもしれん。だから、自らの生を仮想世界に投じようと必死にもがく。死もまたある種の仮想世界、ただそれだけのことやもしれん。精神そのものが仮想的産物ってことか...

2022-07-17

"差異と欲望 ブルデュー「ディスタンクシオン」を読む" 石井洋二郎 著

生涯に一度は読んでみたい...
そう思いつつ、ToDo リストに何十年も居座ってるヤツらがいる。大作ってやつは、分かりやすさに群がる風潮にあっては、近寄りがたい存在に成り下がる。そんな時、天の邪鬼な性分が救ってくれる。気まぐれは偉大だ。難解さを理解への渇望に変えちまうんだから。まずは知識の下地が欲しい。前置きとなる歴史背景が欲しい。ピュアな情熱に触れるには、前戯を丹念に...
ピエール・ブルデューの著作「ディスタンクシオン」も、そうした一冊である。解説書の類いが多く出回るのは難解な証拠であるが、それだけではあるまい。解説書や翻訳書が原作の本質を暴けば、それが原本にフィードバックされ、重厚な改版に生まれ変わる事例も少なくない。これが、知の世界というものか。知識や教養は、私有、独占できるものではないし、共有こそが本来の姿なのであろう。共有すれば、悪意に晒すことにもなるのだけど...

フランス語の "distinction" を辞書で引くと、動詞 "distinguer" の名詞形で、区別、弁別、識別といった意味が出てくる。これの過去分詞 "distingué" が形容詞として用いられると、上品な、気品のある、といった意味になるらしい。したがって、「ディスタンクシオン」とは、「差別化」「卓越した品位」の両方の意味を含んだ用語だという。
人間は、比較においてのみ自己を自覚し、他を認識できる。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体の宿命。経験を積めば、自己を時間軸にマッピングしながら、自己と自己とを比較することもできよう。となれば、人間は絶えず差異の確認作業に追われて生きているとも言える。その場合、過去の自己は、すでに自己ではないかもしれんが...
差異は欲望を生み、欲望はさらなる差異を生み、そこにアイデンティティとやらを結びつける。それが単なる差別意識に終わるか、そこに卓越性なるものを見い出すかは、かなりの隔たりがあり、その隔たりを乗り越えるために、自由や自律といった洗練した欲望がともなう。「ディスタンクシオン」という言葉に込めたブルデューの思いに、人間の本質を垣間見る思い...

「人間は、他人と異なっていることにも、他人と同じであることにも、ともに耐えられない存在である。他人と異なっていれば、他人と同じになろうとする。他人と同じであれば、他人と異なろうとする。要するに人間は、相反する二つの欲望に引き裂かれた存在である。他人と同一化したいという欲望と、他人と差異化したいという欲望と...」

著者の石井洋二郎氏は、「ディスタンクシオン」の翻訳者として知られる。翻訳者が最も理解した立場とは言い切れないが、最もピュアな情熱をもって触れているということは言えそうか。本書は、この難物に立ち向かう術(すべ)として、「資本概念の拡大」「社会空間とライフスタイルの結びつき」「ハビトゥスとプラティックの概念」という三つのアプローチからヒントを与えてくれる。

「資本概念の拡大」とは、何を持って資本とするか、それは解釈の問題でもある。資本ってやつは、なにも金銭だけで測れるものではない。自己実現や自己啓発といった動機は独善的な自問を繰り返しながら、どんな情報も、どんな経験も、自己資本として捉えることができる。文化資本に、社会資本に、環境資本に... 精神的土壌を整える糧として...
経済学的には、資本は投資と結びついて合理的となる、いわば両輪。なんでも貪欲に自己投資しちまうのが、哲学する!ということかもしれん...

「社会空間とライフスタイルの結びつき」については、支配階級、中間階級、庶民階級といった分類に始まり、経済的格差や身分的差別に人種差別的意識、選好空間の分散やライフスタイルの多様化といった側面から人間認識の根源を追う。
フランス社会では、支配者階級と労働者階級で明らかな区別があり、ブルジョワやプロレタリアといった用語も輝きを放つが、日本社会ではどうであろう。階級なき社会などと形容されることもあり、プチブルや小ブルジョアといった用語の方がしっくりいくであろうか。戦時中の一億総玉砕の意識は、戦後に一億総中流の意識へ移行し、集団意識の強さは変わらないようである。経済的格差や身分的差別はヨーロッパ社会に比べると小さそうだが、その分、集団的な排他意識が強そうな。村社会、いや、村八分社会と言われる所以である。ライフスタイルは多様化しているものの、それを影で否定し、陰湿な攻撃を仕掛ける集団性が蔓延り、顔の見えぬ仮想空間となれば、誹謗中傷の嵐が渦巻く...

「中学校から大学にいたるまで、ほとんど露骨と言ってもいいような学校同士のランク付けがなされている。学校とは個々の生徒を差別化する制度であると同時に、みずから集団的に差別化される対象でもあるからだ。そして個人の偏差値と学校の偏差値のあいだには、きわめて緊密な共犯関係が成立する。」

「ハビトゥスとプラティック」は、両輪をなす概念だという。
"habitus" という用語は、habitude(習慣)からも想像できるように、後天的に獲得されたもろもろの性向であり、思考や行動様式そのもの。わざわざ「ハビトゥス」という言い方を持ち出して習慣と微妙に区別した理由は、「強力な生成母胎」というニュアンスを強調するためだとか。それは、ほとんど無意識化されたルーティンのような感覚であろうか。人間の本性は、無意識の領域に広大な部分があるということであろうか。
そこで、"pratique" という用語が補足してくれる。このフランス語の単語には、大抵「実践」という訳語が当てられるらしいが、英語の "practice" と重なり、意欲的な行動をイメージさせる。ただ、フランス語の文脈では、マルクス = サルトル的なイメージで用いられることが多いという。ここでは、「慣習行動」という用語を当て、無意識の領域をも含んだもっと広い意味を与えている。
となると、慣習行動はいかに惰性化を免れ、主体なき実践となりうるか?と問わずにはいられない。慣習は恐ろしい。実に恐ろしい。日々の繰り返しが、いつのまにか義務のような感覚に囚われ、疑問すら感じなくなる。それだけで行動規範と化し、自分自身の行動パターンを縛っちまう。常識ってやつも、この類い。
だがその反面、規範ってやつは、逆らいたいという意識をどこかに忍ばせ、突然爆発するパワーを誘発させることがある。それが、自由意志ってやつかは知らんが、アリストテレスは、こんな言葉を遺してくれた。「人は繰り返し行うことの集大成である。それゆえ優秀さとは、行為ではなく、習慣である。」と...

... こうして眺めていると、「ディスタンクシオン」という用語に、卓越した差別化といったものをイメージしてしまう。人間は、本質的に差別好きな動物である。ならば、差別するという性癖を率直に受け止め、これを卓越したものに化学変化させるにはどうするか、などと問えば、なんと酷な要請であろう。卓越性とは、それ自体が他との区別であり、優越意識でもある。
その意識がネット社会に晒されると、たちどころに大衆化し、弁別機能を失う。差異を意識するあまりに、それに属すグループが異様なまでに似通ってしまうのである。
卓越性がさらなる卓越性を求めれば、大衆というグループに属すことを極端に嫌うようになる。自己が存在を意識するということは、わたしはあなたではない!ということを強烈に意識することだ。それは、自由意志によって裏付けられるのであろうが、自由意志ってやつは必ずしも意識的に働いているとは限るまい。むしろ無意識の領域に本性が隠されているのやもしれん。無意識の領域にまで卓越性を求めるとは、なんと酷な!意識の領域ですら、みすぼらしいというのに。哲学者という人種が、金銭や名誉なんぞではけして満たされない、最も貪欲な存在に見えてくる...

「社会がその健全なダイナミズムを維持することができるとすれば、それはただ、私たちがみずからの欲望を励起しながら、ざわめく差異の群れを次々に差別化のプロセスへと送り出し、社会というテクストを絶えず新たに織りなおすことによってのみである。いかなる絶対化からも自由な場所で、あらゆる停滞と硬直に抗しつつ、みずからを熾烈な差別化 = 卓越化の運動にさらすこと。差異のフェティシズムを周到に回避しながら、しかし執拗なまでに差異を生産しつづけること。『ディスタンクシオン』とは結局のところ、社会に生命を与える最も根源的な集合的欲望の別名にほかならない。」

2022-07-10

"アルファベットの事典" Laurent Pflughaupt 著

おいらは、大の辞書嫌い。かつては、そうだった。義務教育時代に国語アレルギーを摺り込まれ、事典と名のつくものを避けてきたところがある。
しかしながら、知の宝庫を放棄するのは、あまりにもったいない。合理的に生きるためにも。ましてや今の時代、辞書を引くのも随分と手軽になった。引くというより検索!仮想空間には専門や雑多な知識に溢れ、ウィキウィキ百科に、ウェブリオ・シソーラスに、グー国語辞典に、グルグル翻訳に... おまけに新旧漢字対照表や手書きサイトまで...
多角的な知識は多様な解釈やアイデアの種となり、なにも辞書通りに生きることはあるまい。辞書の視点に奥行きや柔軟性という感覚が加わると、言葉の視界がぐっと拡がる。いや、そんな気分になれる。人生の合理性に、気分は重要である...

言葉は、時代とともに変化してきた。言葉は精神の表れとも言われるが、精神という実体を完全に解明できない限り、これからも変化し続けるだろう。
言葉の柔軟性こそが言葉そのものを豊かにし、記述の仕方や使い方などで、そのセンスが問われる。言葉が変化すれば、その構成要素をなす文字そのものも変化してきた。ただ、人間は変化を嫌う動物でもあるのだけど...
ここでは、アルファベット 26 文字に焦点を当てる。事典ってやつは、なにも読むだけのものではあるまい。文字の形を歴史年表上にマッピングすれば、風景のように眺められ、まるでフォント事典!
猫も杓子もデジタル化を叫ぶ昨今、杓子定規的なシステムフォントを押し付けられて、うんざりしているところに、アナログ風フォントや手書き文字に癒やされようとは。グラフィックアートの真髄は文字にあるのやもしれん。著者ローラン・プリューゴープトの紹介には、グラフィックデザイナー、書家、画家とある。なるほど...
尚、南條郁子訳版(創元社)を手に取る。

「文字にオマージュを捧げること、それが本書の目的である。」

人類最古の文字といえば、古代メソポタミアの楔形文字や古代エジプトのヒエログリフに遡る。楔形文字はシュメール人が使った絵文字の発展形とされ、有名な記述に「ギルガメシュ叙事詩」がある。
ヒエログリフは、ギリシア語の "hieros(神聖な)" と "gluphein(彫る)" からつくられた名称だそうな。いわゆる象形文字のことだが、これを解読する出発点になったのが、あのロゼッタ・ストーンである。"gluphein" という言葉は、グラフィックの語源にも通じそうな。グラフィックの源泉は、線を彫ることにあろうか...

文字の変化は形だけでなく、それを表記する手段までも変化してきた。まず彫る作業に始まり、ペンを走らせる作業へと変化し、今では、キーボード入力やフリック入力。手段がどんなに進化しようとも、一次元の情報を二次元にマッピングする行為に変わりはない。一次元の行為ならば、書き順までも規定される。
ただ、キーボード入力に慣れちまうと、「漢字」の記憶がおぼろげになり、いざ手で書こうとすると、書き順も忘れ、形がこんな「感じ」ってな具合...
写真技術が発明された時代は絵画の衰退が叫ばれたらしいが、そうはならなかった。印字技術がどんなに進化しようとも、手書きがなくなることはなさそうである...
また、直線や曲線を空間に解き放てば、線と線で挟まれた空白の膨らみが存在感を強調する。線を描くということは、いかに空白を彩るか。文字のアイデンティティってやつは、線そのものよりも空白の方に大きな意味があるのかもしれん。存在とは、無の引き立て役に過ぎないのかもしれん...

本書は、「手で書く」という行為を通して、文字の在り方を熱く語ってくれる。
「まず『手(main)』についていうと、この単語は『人間(humain)』という単語の第 2 音節をなし、ラテン語の manus(手)に由来している。manus は印欧語根 m-n からつくられているが、ラテン語の mens(知性、精神)や、英語の man(人)も同じ語源をもっている...。こうしてみると、どうやら『手』という単語においては、それが本来あらわしているもの以上に、その本質ともいうべき肉体と精神の基本的な相互作用こそが重要であるらしい。
  ... <略> ...
それでは『書く(écrire)』という単語はどうだろうか。この単語はラテン語の scribere に由来し、scribereは<切り目><刻み目>などに関係する印欧語根の ker や sker からつくられている。それなら『書く』とは、記号を刻みつけて概念をそこに固定することであって、かならずしも多くの辞書が示唆しているように、『それを使う人たちの間で取り決められた文字記号によって言葉を表すこと』とは限らないだろう。」

文明社会では、文字は誰もが理解できる通信プロトコルとなっている。文字が文字たるための重要な要素は、形を規定することと、音を固定すること。線で形作るパターンは無限にあり、音声にしても、母音と子音が基本要素としながら、歯音、歯茎音、舌背音、口蓋音、軟口蓋音、咽頭音、喉頭音、唇音など、その組み合わせは無限にある。
通信プロトコルとなりうるには、形や音声が合理的に単純化されてきたはず。文字そのものにも、慣習によって刻まれてきたイメージがあろう。デジタル社会では絵文字が流行り、意味を知らないネアンデルタール人は馬鹿にされる。おまけに、プレーンテキストだけで視覚効果を与えるアスキーアートまで出現する。こうした風潮は、古代回帰にも映る。

グラフィックの世界では、これに色が加わる。色は電磁波の物理特性であり、白色光をプリズムに通すと、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫に分散できる。たいていの場合、トゥルーカラーの 24bit で十分であろうが、達人ともなると、48bit や浮動小数点カラーまで持ち出し、そこには無限色が渦巻く。ただ、Web で多用される透明色の Transparent 属性は、特別な輝きを放っていると見える。どんなに高精細な表示システムも、無色の引き立て役なのやもしれん...

「美術作品の要素のうちで色ほど魔術的なものはない。主題やフォルムや線はまず思考力に働きかけるのに、色は知性にとっては何の意味もなく、ひたすら感性に訴え、感情を揺さぶる。」
... ウジェーヌ・ドラクロワ

本書は、アルファベット 26 文字が、それぞれ象形となったいきさつを物語ってくれる。ややこじつけ感があるものの、着想は愉快!実に愉快!
例えば...

A は、アルファベットの最初の文字にして、最初の母音字。フェニキア文字の先頭を飾るアレフに当たり、雄牛を表す絵文字に由来するという。クロスバーをやや低めに配置して安定感や重量感を与え、ピュタゴラス学派が愛した三角形をイメージさせる。
ただ、クロスバーのない書体もある。例えば、おいらが愛用するマザーボードメーカ ASRock のロゴには、A にクロスバーがない。クロスバーがなければ、二本の線が二項対立を表す、という解釈も成り立ちそうか。そして、その結び目の頂点に、高次の実在を夢見たかは知らんが、文字を発明した人は最初の文字に強い思い入れがあったと見える...

N は、否定や内面性を意味するという。斜め線には、右上がりに上昇を、右下がりに下降をイメージさせるのは、経済指標の見すぎであろうか。そして、A, M, W, V, W は、右上がり線と右下がり線が結びついているが、右下がり線だけの文字は、N のほかに見当たらない。
それで、H は安定ってか。柵がハシゴになってできた文字?うん~...
ならば、おいらは、S に、波乱万丈か行き当たりばったりを、X に人生の行き違いを、Y に人生の分岐点を、終いには、Z に S が角張って人生の行止りをイメージしちまう。ちなみに、XYZ というカクテルは味わい深い...

U & V には、器、土、母体をイメージして、老子の言葉まで飛び出す...
「埏埴以為器。當其無、有器之用。」
(粘土をこねて器をつくる。その中が空であるところに器の有用性がある。)

2022-07-03

"モノここに始まる" John Beckmann 著

ここに収集された知識の群れは、分類すれば雑学ということになろう。いや、ウンチクのオンパレード!誰かからの又聞きの又聞きに、その又聞きの又聞きといった推定文体が押し寄せてくれば、まるで伝言ゲーム。
しかし、知識なんてものは、総じてそうしたものかもしれん。例えば、地球は丸く、自転しながら太陽の周りを公転している... なんて当たり前のことも、義務教育で叩き込まれただけのこと。自分の目で確かめたわけでもなければ、巷で馬鹿にされぬよう用心するばかり。疑うこともできなければ、宗教と何が違うのだろう。まるで、逆ガリレオ心理学、異端審問にでもかけてくれ!
そこで、ウンチクなら安心して疑ってかかれるし、なによりも好奇心を焚きつける。すべての物事に始まりがある。その根本にある動機は、やはり好奇心か。健全な懐疑心を保ちつつ知識を豊かに調和させるには、ウンチクあってこそ。好奇心が後押しすれば、どんな突飛な発想も受け入れられる...
尚、今井幹晴訳版(地球人ライブラリー)を手に取る。

本書が扱う題材は、あまりに多種多彩で目が回る。日用品では洗濯石鹸や黒鉛の鉛筆... 経済観念では複式簿記や錬金術... 発明技術では蒸気機関や携帯時計... 自然物ではチューリップや電気石... 嗜好品では手品や機械人形... 制度では公衆衛生や金融... と、仕込まれたネタは実に四十数個にのぼる。
博物学とやらが、いつの時代に始まったかは知らんが、古代ギリシア時代にその源泉を辿ることはできよう。万学の祖と称されるアリストテレスは、形而上学、倫理学、論理学、自然学、政治学など、多岐に渡って学問の道を切り開いてくれた。叡智とは、総合的な知識を得、それらを調和させることにあると言わんばかりに...
しかしながら、知識を深めれば、高度に専門化していくは必定。学問分野は多岐に渡って細分化され、時代とともに総合的な調和を求めることが難しくなっていく。
そして、ヨハン・ベックマンの試みに、学問の始まりに立ち返って博物学の始原を見る思い。なにごとも、その本質を知りたければ、事の始まりを探求すること、という考えは一理ある...

ベックマンが生きた時代は、18世紀後半。ヨーロッパでは実験科学が脚光を浴び、理論的な仮説から脱皮して実証的な見解が重要視されていく。彼は、ヨーロッパ圏の十ヶ国語を修得して暗黙の言語パスポートを手に入れ、実際に各地で見聞したものと古代文献とを比較しながら見識を広げていったという。
例えば、スウェーデンでは、鉱山での作業を通じて、鉱石や地質についての研究に没頭したとか。当時、石炭を始めとする鉱石が物事を動かしたり、変化させたりする原動力とされ、科学者たちが化け学に群がった。かのニュートン卿までも錬金術に執着したことは広く知られる。
本書では、天文学で惑星の名と金属の名の関連性に執着し、物質の根源を金属原子に求めるあたりは、周期表でエネルギーの根源を探っているようにも映る。時代の象徴を元素で表すならば、現在はシリコンといったところか。その視点は、唯物論的であり、機械論的であり、これを構造主義の始まりと見るのは行き過ぎであろうか...
また、経済学では、一般的なものと違い、民族学的であり、生態学的であり、さらに宗教的慣習までも含んでいる。これを厚生経済学の始まりと見るのは行き過ぎであろうか...
ベッグマンの思考回路には、物質面では原子論に立ち返り、社会面では人間の本性に立ち返る、といったパターンがあるようだ。そして、すべての始まりが人類の叡智によってもたらされ、すべての物事が自由と欲望に看取られていたとさ...

1. 文明人とは、文明の重荷を背負う人種か...
人口が溢れていくと、多種多様な職業が生まれる。技術で収入を得る者、人を楽しませて収入を得る者、人の苦しみを和らげて収入を得る者、そして、人を騙して収入を得る者など。
手品のように、太陽によってできる影、不思議な力をもつ電気、身体を映し出す鏡、金属を引きつける磁石など、自然現象を利用して大袈裟に演出して魅せれば、根拠のない迷信や秘跡、呪いや魔術といったものにのめり込む。火を使って感動を呼ぶ芸も多く編み出され、口から火を吹き出したり、花火職人もその類い。現在ではイルミネーションなどとお洒落に呼称される。
こうした芸は神をも恐れさせ、聖職者たちが実験科学に目くじらを立てるのも頷ける。そして、伝統あるメディチ家に枢機卿という特権を与え、科学の進歩を抑え込もうとした。人口密度が過剰になれば、娯楽が多様化する反面、働く機会を失う者も増え、犯罪も巧みになる。すべては人口論に看取られているのであろうか...
「文明社会は、子孫の繁栄という本能的な強い衝動を、どのように幸福に結びつけていったらよいかを教えてはくれず、結婚を苦しみに満ちたものにしたり、重荷にさせてしまう。文明から遠くへだたった未開の地に住んでいる人々は、このような悩みがないようだ。」

2. 価値あるブツには偽物が出回る...
価値が本当にあるかどうかは別にして、価値があると認められたものには偽物が出回る。添加物という発明品は、もともとはワインの味を台無しにする酸味を抑えるためのものであったが、やがて食品添加や食品保存などの本来の目的を見失い、俗悪な味を誤魔化すために用いる悪質業者が出現した。
庭を飾る優雅なチューリップは、貴族階級の象徴とされて価値が高まると、やがて市場で投機の対象となり、チューリップなんぞに興味のない連中までも先物相場に群がった。チューリップ狂は、経済学で忌まわしい記録として語り継がれ、市場価値の脆弱性を物語ってくれるが、今も尚、対象物を変えながら受け継がれている。
社交界で貴婦人たちが真珠の美しさを競えば、人造真珠を発明する者が出現した。ところで、真珠って本当に酢に溶けるの?クレオパトラ伝説が本当かどうかは知らんが、彼女は恋人と賭けをし、酢に漬けた真珠を自ら飲み込んで見せ、見事に賭けに勝ったとさ...
すべては価値の欺瞞か。現代風に言えば、価値の仮想化!うん~... 実にうまい言い方である。
錬金術もその類いか。古くから、物品を高価に見せるために金メッキという技がある。これに使用するアマルガムの性質を、古代人はよく知っていたそうな。多量の水銀を金属に練り合わせるとペースト状になり、これがアマルガムってヤツ。水銀は、金属と簡単に混じり合うが、土と混じり合わない性質があり、加熱すると蒸発するので、金や銀を含む鉱石などの物質から貴金属を分離するのに利用できる。金メッキの場合、アマルガムを塗って水銀が蒸発するまで加熱すれば、表面に金だけが残るって寸法よ。
現在では、水銀が有毒であることが知られ、歯科医院では歯の詰め物にも使われてきたので健康被害も囁かれる。
また、超伝導体としても知られ、最先端技術への応用が期待されるばかりか、古代遺跡でも発見され、考古学的にも意味深い存在となっている。
いずれにせよ、人類の叡智は、善にも悪にも作用する。どんなに優れた技術も、悪用は避けられそうにない...

3. なぜ記録をつけるのか...
記録をつける行為が、歴史の礎となっているのは確かである。日記をつける習慣は古くからあり、現在でも思い出を写真や動画に残したりと。それで生きた証しを残そうってか。死を運命づけられた知的生命体は、未練がましいってか。
ただ、記録が正確だとは限らず、欺瞞や誤謬がつきもの。忌まわしい過去に至っては抹殺されてきた。
古代ギリシアでは、病気にかかって健康が回復すると、その症状や治療法について書き記し、医術の神アスクレピオスの神殿に納めたという。この記録は、医学の父ヒポクラテスも利用したと言われる。
一方で、伝染病に関する検疫制度や防疫制度の記録はお粗末らしい。そんな記録を残せば、忌まわしい病の発祥地が、わざわざ自分の土地だと宣言するようなもので、国家の思惑が絡んできたことも想像に易い。
例えば、ペストについては、トルコ人はエジプトからきたと信じ、エジプト人はエチオピアから持ち込まれたと断言する。もちろんエチオピア人だって...
地理的には、レヴェント近郊のトルコと、トルコと頻繁に交易した地域で何度も発生しており、これらの国々で検疫制度が確立されたと言われる。それで、新型コロナの震源地はどこかって?そんなことは知らんが、政治的駆け引きは相変わらずのようである。
人間社会では、善であろうが、悪であろうが、情報は操作される運命にある。陰謀や謀略で用いられる医薬品に、秘毒というものがある。飲んだ人に気づかれぬよう軽い持病のような感覚を植え付け、徐々に生命を弱らせていく毒薬である。
十七世紀のイタリヤとフランスほど頻繁に造られ、巧みに使用された時代はないだろうって。いや、病気がなくなれば医者は儲からないし、秘毒だけにいつどこで仕込まれるやら。国家が関与すれば、隠蔽工作や文書改竄なんぞお茶の子さいさい。
ちなみに、あぶりだしインクの歴史は古く、古代ローマの詩人オヴィティウスは、親の目を忍んで恋人に手紙を書く手法を述べているという。恋文に暗号文の始まりを見る思い。セキュリティシステムだって適当に穴を仕込んでないと、誰もアップデートしなくなり、経済的に立ちゆくまい...

4. 人間の心理学には損得勘定が働く...
金銭感覚に貸し借りのバランスシートが根付いたところで、心理的には見返りの原理が働き、利息は膨れ上がるばかり。これが、イタリア式簿記、すなわち複式簿記の本性か。
そもそも宗教には施しの原理が働く。そして、貸し借りといった行為も、そうした慣習から始まったのであろう。ただ、孤児養育所などに入所する子供を集めるのはそれほど難しくないが、親代わりとなって面倒を見る人を集めるのは極めて難しい。
宗教では悪書は禁書とされるが、悪書が戒めとなったり、反省を促すところがある。善行が社会に必ず良い影響を与えるとは言えないし、盲目を奨励するところがある。貸し借りも、善悪も、そして、様々な知識にもバランスシートが必要やもしれん...
「キリスト教は慈愛や慈悲を人にほどこすことを信仰の中心にかかげているため、じつは血も涙もない残虐行為であるのに、それとは気づかずに善行であると思って押し付けることがある。かと思えば、貧困な人々に対してはいたって寛容で、あまりにも寛容すぎるために、かえって貧困者を増やしてしまう事実は否定できない...」