2019-12-29

"スイスの凄い競争力" R. James Breiding 著

原題 "SWISS MADE: The untold story behind Switzerland's success."
そこには、アメリカンドリームに遜色ない成功物語の数々。いや、気質においては、むしろ地道な勤勉性を武器に... 流行技術に惑わされない千里眼を自然に身にまとっているかのように...
スイスも、日本も、天然資源の乏しい国。険しい山々に囲まれながらも優れた輸送システムや鉄道システムを構築し、なによりも几帳面さを誇る国民性に親しみを感じずにはいられない。多くのニッチな部門で世界的な地位を獲得してきたのはギルド魂の顕れか、日本のモノづくりを支える金型産業などに垣間見る職人魂に通ずるものがある。

しかしながら、決定的な違いは自立性であろうか。つまりは生き方である。スイス株式会社と日本株式会社とでは、性格も随分と違うようだ。行政だけでなく企業体も、なにかと中央の意向を伺うムラ社会に対して、大きな政府を嫌い、中央集権化を嫌い、連邦国家として自治独立の道を歩んできた。結束力によって西欧列強国と渡り合った日本に対し、自立中立を誇示して大国を撥ね付けたスイス。小国でありながら自立性が堅持できたのも、アルプスという地形的要素がある。とはいえ、小国は大国より弱い立場にあり、結束力を欠いてはサクセスストーリーも長続きしない。
本書は、地政学的な視点からスイス国民に育まれてきた自立性と開放性、これに起業家精神を結びつけて、スイス経済の強み、すなわち、Swiss Made の強さを物語ってくれる。ここには、文化的使命感もなければ、スイス流イデオロギーも見当たらない。あるのは人権尊重ぐらいなもの。それだけで充分ということか...
尚、北川和子訳版(日経BP社)を手に取る。
「同規模の国で、スイスのように比較的平等に報酬を分配する一方で、高水準の可処分所得を達成している国はない。スイスに近い規模の国でさえ、これほど多くの産業で主要な地位を維持してはいない。先進国のどの国も、多額の債務によって未来の世代に負担を負わせ、年金や医療費に対する幻想を抱かせている。国民一人ひとりがこれほど力を持ち、その声の重みを確信している国はない。ほとんどの西側の民主主義国において、政治家や公共部門に対する世論がこれ以上ないほど厳しい時代にあって、スイスの統治制度の有効性は、成功のための強力な指標である。」

中世の貧しい山国の最初の輸出品は傭兵だったという。勤勉で忠誠心の強いスイス人は、ヨーロッパ各地の戦争に引き出された。ちなみに、バチカン市国の衛兵も伝統的にスイス傭兵が務めているらしい。それが現在では、スウォッチ、オメガ、ロレックスといった時計ブランド、ネスレ、リンツといった食品ブランド、UBS、クレディ・スイス、チューリッヒ・インシュアランスといった金融ブランド、エフ・ホフマン・ラ・ロシュ、ノバルティス、ロンザといった医療品ブランドなど、世界的なブランドを多く生み出している。
これらのブランドの発明者の多くが、迫害から逃れてきた移民や亡命者、そして、その子孫だという。つまりは、もともと培われてきた自立性と外国籍に対する開放性の融合が、この国の原動力というわけである。スイス人にも気づかない気質が移民たちに受け継がれ、富の創造者としての開かれた道を提供する。土着の文化はどっしりと居座り、むしろ外国籍の人々によって強化されていく。これは日本人が最も見習うべき気質かもしれない。少子化問題で騒いでいる昨今、片言の日本語しか喋れない日本人がいてなんの不都合があろう。押しつけなければ守れない文化なら廃れるしかあるまい...

ハンニバルのアルプス越えは英雄伝説として語り継がれるが、この自然の要砦が各地の交流を妨げ、自立性を育んできた。とはいえ、ヨーロッパのド真ん中に位置し、政治野望のためにここを通らないわけにはいかない。軍隊や商人が、この中間点に荷物や財産をちょいと預けるだけで利子が稼げる。古代ローマ時代から資産管理が資産を生み、金融業を発達させてきた。
注目したいのは、政治や宗教によって迫害された人々の避難場所として機能してきたことである。ユダヤ人やユグノーなどがヨーロッパ中から押し寄せ、自立性を保ちながらも彼らを受け入れる土地柄は、グローバリズムの先駆者を見る思い。グローバリズムとは、全体的な画一化を言うのではなく、多様なローカルの調和を言うのであろう。その根底に人権尊重がある。
レーニンなどの政治亡命者が、この地を活動拠点としたことは周知の通り。ヒトラーの野望にも屈せず、独立精神を堅持してきたスイス国民は、二十世紀にはすでに EU 懐疑論をくすぶらせ、EFTA(欧州自由貿易連合)を選択した。今、ポンドを保有するイギリスがブレグジットで騒いでいるさなか、スイスフランに威厳を感じずにはいられない。
一方で、金融システムの守秘義務が各国からの干渉を退け、王侯や独裁者たちの財産の隠れ蓑になったり、マネーロンダリングといった闇取引の恩恵にもなってきた。国際色豊かな人材、文化、政治の通路は、自立と自律のバランスが問われてきたお国柄とも言えよう...

ところで、スイス連邦国家は、古代ギリシア時代の個性ある都市国家群を彷彿させる。世界経済フォーラムではダボスが存在感を示し、国際決済銀行ではバーゼルが金融の目を光らせ、国際連合の多くの専門機関がジュネーヴに置かれ、多くのスポーツや芸術団体がチューリッヒを拠点とする。
ただ、バーゼルの住人を一つとっても、チューリヒやベルンやジュネーブに対してあまり一体感を見せない。それぞれの連邦で法人税率の安さを競えば、多国籍企業の呼び水となる。だが、法人税率だけが魅力ではあるまい。
スイスは中立国だが、無抵抗主義ではない。しっかりと国民軍を保有し、政府は「民間防衛」の書を国民に配布している、と聞く。戦争の放棄と国防軍の放棄では意味するものがまったく違う。自立と自由の精神という気質こそが、この国の強みであり、もはや、スイスという国そのものがブランドなのである...

2019-12-22

"現代ファイナンス論" Zvi Bodie & Robert C. Merton 著

なにを血迷ったか!こんなものを手にして...
ツヴィ・ボディとロバート・C・マートンは、MIT大学院時代から優れたチームとして讃えられたという。1997年、マートンはマイロン・ショールズとともにノーベル経済学賞を受賞。あのオプション評価モデルとして名高いブラック・ショールズ方程式によって...
しかしながら、このノーベル賞のスターらが結成した LTCM は、自らの破綻によって悪名を留めてしまう。世界規模の金融危機の裏舞台では、いつもデリバティブの評価理論がウォール街を席巻してきた。先物、オプション、スワップと... 要するに、経済学の理論は、価値評価と価値交換の方法論で、だいたい説明がつくというわけか。経済という用語は、「経世済民... 世を經(おさ)め、民を済(すく)う」という意味に発すると、聞いていたが...
そしてそれは、比較にならないほどの大規模なリーマンショックによって再現されることになる。おかげで、この酔いどれ天の邪鬼にとっての経済学は、最も敬遠すべき学問分野となったのだった...
とはいえ、世界がお金で動いていることは、紛れもない事実。現在、年金運営や資産運用を自己管理する必要があり、ファイナンス理論に無知でいるわけにはいかない。本書を懐疑的に眺めながらも、教科書として参考にしてみる分には悪くない。教科書ってやつは、万能な処方箋ではないのだから。それに、サミュエルソン学派がそんなに悪いとも思えないし、それどころか大作「サムエルソン経済学」には幾分世話になっている。
ここでは、こう定義される。
「ファイナンスとは、時間軸上において、希少資源をどのように分配するかを研究する学問である。」

おそらく、人間社会のようなカオス系において万能な方法論なんてものは存在しまい。仮に存在したとしても、人間の能力でそれを見極めることはできまい。AI なら見極めるかもしれんが...
どんなに優れた方法論をもってしても、同じ考え方を持つ者ばかりが集まると全く機能しなくなる。ゼロサムゲームでは尚更。ことお金となると、人間には一つの成功例に群がる習性がある。光に集まってくる昆虫や、太陽に向かって伸びる草木のように...
しかも、当分は儲けることができるため、群衆はそれを崇めるようになる。経済学で決まって唱えられるのが「利益の最大化」ってやつだ。本書にも登場する。では、利益ってなんだ?ダーウィンは、なにも弱肉強食を唱えたわけではあるまい。種が共存するためには、多様性こそが鍵だとしたのではあるまいか。種の分岐とは、いわば生き残る智慧である。市場でも、多種多様な欲望が集まれば機能するのであろうが...
その処方箋として、客観性を強めるための数学的方法論が悪いとは思わない。イールドカーブを眺めるにしても、社会学的な視点から興味深いものがある。実際、福利厚生、年金、生命保険など、あらゆる社会的制度が数理統計学によって成り立っている。ただし、万能薬として崇められた時、非常に危険となる。
偏微分方程式の基本的な思考法に、想定しうる変数を微分形式の総和で構成するという考え方がある。ブラック・ショールズ方程式もその一つで、ここでは五つの変数で構成される様子と、そのうち四つの変数が直接観察できる形で解説してくれる。株価、行使価格、無リスク金利、オプション満期などがその変数である。こうした思考法には連続関数が前提されているために、アトラクタのような現象に陥るとまったく機能しなくなる。物理学風に言えば、ブラックホールに遭遇すればあらゆる力学系が無力化するってことだ。これは、微分方程式が抱えいてる根本的な性質である。同じ方法論に取り憑かれた人間が市場に群れるということは、まさにそうした状況にある。
したがって、問題は、数学的方法論にあるのではなく、これを用いる人間の側にあるということになろう。デリバティブに限らず、価値評価の問題は価値観の多様化とともに永遠につきまとうであろう...

ファイナンシャルプランニングで資産運用の話題になると、必然的にリスク分散や分散投資といった考えに及ぶ。税金、投資、不動産、教育、相続、老後など、こうした話でファイナンシャルプランナーの言葉を鵜呑みにするような生き方は避けたいものである。
さて、分散投資における戦略は、個人的にはポートフォリオ理論に落ち着いている。おいらには、最も保守的なインデックス戦略で充分。ただし本書は、ポートフォリオ選択の戦略で万人に通用するものはない!と警告している。現実的には、数学的な方法論を用いながらも、手探りで経験的に構築することになろう。いずれにせよバランスシートが読めないようでは話にならない。
ちなみに、西欧の会計システムは宗教との結びつきが強く、神への貸し借り報告書としてバランスシートを書くことに義務の意識が働くようである。先進国と呼ばれる国々で、自分自身のバランスシートも書けないのは日本のサラリーマンぐらいなものであろうか...

また、投機の心理学も避けるわけにはいくまい。投機家は、自らリスク・エクスポージャーを増やして利益の最大化を目指す。逆にヘッジングは、リスク・エクスポージャーを減らすことによって利益を守ろうとする。本来はそうした役割分担があるが、現実には、同一人物や同一機関が投機家とヘッジングの両方を演じる。ヘッジングは、インシュアリングとも違う。インシュアリングでは、前もってプレミアムを支払って損失を回避する。プレミア'とは、保険や信用保証やオプション契約など。
リスクをヘッジすれば、損失を被る可能性を軽減できるが、同時に利益を得る機会を犠牲にする。逆にインシュアリングは、プレミアを支払っているために利益を得る機会を犠牲にしない。こうしたリスク分散や分散投資といった保守的な戦略は、しばしば利益の最大化と相反する。
そして、LTCM の行動パターンが透けてくる。なるほど、本書は反省の書であったか...
ところで、この手の書にきまって登場するのが「サヤ取り」の話だが、本書には、なぜか用語すら見当たらない。ただ、うまい表現を見つけた...
「一物一価の法則とは、競争的市場においては、2つの資産が同じであれば、価格も同じになることをいう。一物一価の法則は裁定(arbitrage)によって実現される。裁定とは、同一の資産間の価格差を発見し利益を得ようとする動きをいう。」

2019-12-15

"境界を生きた女たち" Natalie Zemon Davis 著

歴史学者ナタリー・ゼーモン・デーヴィスは、16 - 17世紀のフランスの宗教生活、民衆文化、ジェンダー研究が専門だそうな。おいらは、彼女にちょっぴり首っ丈...
まず、著作「贈与の文化史」では、贈与行為の心理学といった側面から人間社会の根本原理のようなものを語ってくれた(前々記事)。
次に、著作「歴史叙述としての映画」では、存在の記録すら残されない奴隷という身分を通して、それを描写する映画の可能性、いや、歴史における映画の役割というものを問い掛けた(前記事)。
贈与に限らず言葉や財の交換という手段をもって社会的な存在位置を確認しようという行為も、映画に限らず詩作や芸術活動という手段をもって感情的に印象づけようとする行為も、古代から集団社会に馴染んできた。こうした当たり前の行動パターンを新たな概念として掘り起こす彼女のセンスは、文化史の考古学者とでも言おうか。そして、こいつで三冊目...

原題 "Women on the Margins: Three Seventeenth-Century Lives."
ここでは、17世紀を生きた三人の女性が主役。その名は、ユダヤ商人グリックル、修道女受肉のマリ、博物画家メーリアン。記録によると、彼女らの関係にまったく接点はないらしい。共通点は生きた時代と、三人とも専門的な知識を有したこと、熟練した会計士でもあり財の行き来を念入りに記録したこと、難事を乗り切るために迅速に決断して持てる技能を遺憾なく発揮したこと、そして、自身の教訓を自伝に遺したことである。
男社会にあって男勝りの生き様、彼女らのジェンダーの域を超えた生涯はフェミニストなんて安っぽい表現では足りない。印象的なのは、三人がそれぞれにユダヤ教徒、カトリック教徒、プロテスタントだということである。ヨーロッパのキリスト教世界を生き抜いたユダヤ商人、アメリカンインディアンを改宗させるために苦悩した英雄的修道女、植物や昆虫と対話した風変わりな自然主義画家という構図は、ユダヤ教とキリスト教の対立に未開人を加え、異文化を受け止めるための途方もない寛容さといったものを突きつける。
そして物語は、接点がまったくないはずの三人が、それぞれに自分自身に思いをめぐらせながら会話する形で始まる。場所は、理想の地。時代は、1994年。登場人物は、六十過ぎの四人の女。四人目はデーヴィスそのひとである。似たような三人の人間像に対して第四の目を配置することで、純粋に宗教的立場の違いを観察できるという寸法よ。このような設定はプラトンの対話篇を観る思いである...
尚、長谷川まゆ帆 + 北原恵 + 坂本宏訳版(平凡社)を手に取る。

ところで、西欧の会計システムは宗教との結びつきが強い。それは、神への貸し借り報告書として。このような文化圏では、自分自身のバランスシートを書くことに、義務という意識が働くようである。無神論者を蔑視する伝統的な態度も、こうした意識との関係がありそうか。先進国と呼ばれる国々で、自分自身のバランスシートも書けないのは日本のサラリーマンぐらいなものであろうか。だから、消費税のような目先の税金に目くじらを立てることぐらいしか思いが寄らないのだろうか...
三人とも、道徳的な教訓を残そうと自伝の書き手になったことも、神への義務を果たそうとする意識からであろうか。
とはいえ、会計スキャンダルは西欧にも横行する。道徳をひたすら神の意志に委ねるのは危険であろう。そもそも、人間ごときに神の意志を解することができると考えることが、神を冒涜していることにならないのか。神との問答とは、自己との問答にほかならない。それ以上のことを人間に何ができよう。それでも、生身の人間に超自然的な自己を求め、成熟度を図ろうという変人ぶりにも共感できる。
そして、神から与えられた受肉は、宗派が違うというだけで骨肉の争いへ。神に看取られていると信じることができれば、人はなんでもやる。やはりパスカルが言ったように、人間とは狂うものらしい。彼はこうも言った... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。

2019-12-08

"歴史叙述としての映画 - 描かれた奴隷たち" Natalie Zemon Davis 著

歴史家ナタリー・ゼーモン・デーヴィスは、贈与行為の心理学といった側面から人間社会の原理のようなものを語ってくれた(前記事)。アリストテレス風に... 人間は社会的動物... と表現するならば、そこにはなんらかの交換行為が育まれる。言葉の交換しかり、 財の交換しかり... 贈与とは実に古くからある慣習で、当たり前過ぎるほど集団社会に馴染んできた。しかし、これを新たな概念として掘り起こす彼女のセンスは、おいらに新たな視点を与えてくれる。贈与の経済学という視点を...
ここでは、五つの映画作品「スパルタカス」,「ケマダの戦い」,「天国の晩餐」,「アミスタッド」,「ビラヴド」を題材とし、歴史上言葉を発する機会を与えられなかった奴隷という身分に焦点を当てる。そして、こう問いかけるのである。
「過去を有意義かつ正確に描こうとするとき、映画にはどのような可能性があるだろうか...」
尚、中條献訳版(岩波書店)を手に取る。

世界を語る... という行為は数千年前から受け継がれ、さまざまな手段が編み出されてきた。詩、小説、新聞のコラム、ネット配信など。今や映画はその一手段として君臨しているが、その歴史はすこぶる浅い。デーヴィスは、これを感情的なジャンルとしてホメロスの時代から受け継がれる詩作と重ねて魅せる。
ヘロドトスやトゥキュディデスは叙述文体を詩文から散文へと移行させ、歴史をいかに厳密に記述するかを問うた。ホメロスのような偉大な詩人には、聞く者を喜ばせ引きつけるための誇張や創作が許されていたが、こうした風潮に警鐘を鳴らしたのである。
アリストテレスは、もう少し突っ込んで、詩文や散文といった形式の違いよりも叙述の内容と目的を重視した。そして、こんな言葉を残した...
「歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語る。... 詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語る。」

歴史学という学問は、その性格上客観性を重視する。否、あらゆる学問が主観性から距離を置き、あらゆる事象を遠くから眺める立場にある。
とはいえ、人間の思考の原動力は主観性の側にある。人間は感情の動物であり、この本質からは逃れられない。プレゼンテーションなどでは視聴覚的な演出がよく用いられるが、実は人間にとって、淡々と語るということほど難しい方法論はないのかもしれない。
さらに言うなら、客観性という用語の解釈もなかなか手強い。学問分野によってもレベルが違い、最も客観性を帯びた数学ですら、定理への道筋には感動的なドラマで満ち満ちている。ちなみに、客観的に語ると宣言された政治屋の演説で、そうだったためしがない。
デーヴィスは言う、「歴史映画は過去についての思考実験だ...」と。事実を語ることは難しい。こと歴史事象では、時間的な距離を置かないと見えてこない部分があまりに多い。当事者だって、それぞれの立場で言い分があろう。ましてや奴隷という身分となると、当事者たちの記録はほとんど皆無。これを、感動的に映像化してしまえば、ただちにイメージが固定化され、固定観念までも植え付けてしまう。まぁ、人間にとって思い込んでいる状態は、幸せな状態でもあるのだけど...
映画界においても、人物像を描くシナリオや手法が形式化や慣習化しているところがある。それでも近年、歴史の再解釈を試みる映画監督やプロデューサたちが、ちらほら現れてきたのは救いであろう。一方で、事実に基づく... と触れ込むだけで興行的に成功が見込めると考える映画監督もいるようだ。
デーヴィスは、もう少し突っ込んで、歴史的事実に対して、たとえ簡単であれ、どのように演出を施したかを観客に伝えるべきだと主張する。時代背景を映像の中に組み込めれば尚いい、と。
しかし、映画制作には商業的な性格があり、時間的にも制限される。上映時間については、黒澤明が ...どうしても切ると言うなら、フィルムを縦に切ってくれ!... と言い放った逸話が有名だ。似たような愚痴は、作家たちにも見かける。あとがきで、ページ数の制限や省略した項目などで出版社とひと悶着あったことを匂わせたり。分厚い本は売れないというわけだ。芸術家たちのこだわりは、しばしば商業的に反発する。それは、自由人の宿命であろう。
映画監督が本質を描こうとすればするほど、大衆に受け入れさせるのに苦難がつきまとう。なんといっても、映像と音楽がタッグを組めば、激的に感情移入を仕掛けることができるのだから、これほど手っ取り早い方法はあるまい。この時代になっても尚、映画作りにご執心な政治屋たちが暗躍するのもそのためだ。観客動員数なんてものを気にせず、才能ある方々には自由に創造力を解放していただきたい。凡人は、それを拾う機会を与えてくれるだけで幸せになれる...

ところで、映画というメディアに、どこまで歴史の重荷を背負わせるか、という問題がある。そもそも、歴史書の執筆と映画の制作とでは、性格があまりに違う。デーヴィス自身、映画「マルタン・ゲールの帰還」の制作顧問を担当し、この違う二つの分野のあり方について、改めて考えさせられるものがあったと見える。
近年、歴史文献では、歴史家の解釈の大勢が、これこれになっている... といった表現を見かけるようになった。歴史の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。科学においても、宇宙論などで、現時点ではこれこれが有力である... といった表現をよく見かける。真理の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。人類が学術面において少しばかり控え目になったのは良い傾向であろう。ヒルベルトの時代には、すべての問題は科学で解明できると、豪語されたものだが...
それはさておき、映画が完全に伝えようとしなくても、軽く匂わせるだけで、その情報の欠片から歴史事象に興味を持ち、小説や文献を手に取って理解を深めようとする観客も少なからずいる。その意味で、ディーヴィスは、映画監督、役者、観客は、過去についての思考実験の共同参加者と見ている。
やはり映画は娯楽だ。忠実すぎても肩がこる。いくら事実に忠実であろうとしても、やはり限界がある。解釈をめぐる限界が。ここでは、フランチェスコ・ロージ監督の言葉がなんとも印象的である...
「もし、実在した人物の物語を作るならば、... 私の考えでは、解釈することは許されても、創作は許されてはいけないと思う。二つのあいだには、大きな違いがある。観客の注目を集める容易な手段として、より壮大な映画に仕立てようという理由で、わざわざ何かを創り出す必要があるのだろうか。そのようなことはない。私にとっては、真実を解釈するために必要なだけの猶予が、作品の中で充分に与えられていることが肝心だ。なぜなら、その事実の解釈こそが、私にとって重要であるからだ...」

2019-12-01

"贈与の文化史 - 16世紀フランスにおける" Natalie Zemon Davis 著

アリストテレスは人間を定義した... ポリス的な動物である... と。ポリスとは共同体のこと。人間は一人では生きられない。人と関係を持ちながらでしか生きられない。いわば人間社会の掟である。それは、集団社会の奴隷という見方もできるわけで、生まれつき奴隷説もあながち否定はできまい。
贈与とは、まさに人と人の関係において成り立つ概念。いわば日常の行為である。贈る者とそれを受け取る者の関係は、美談として語られる。しかし、その動機となると、あまりに多種多様。贈与という行為は集団社会を活性化させるところがあり、感謝の念をこめた無償性こそが基本的な動機となろう。
しかし、人間は自己存在を無意味とすることを忌み嫌い、その先に、自分の行為が無駄であることを極端に嫌う性癖が見えてくる。いわば見返りの原理というやつだ。よく見かける行為に社交辞令ってやつがある。そこには慣習化された常識とやらに囚われ、脂ぎった思惑も見え隠れする。存在感を示すために、集団の一員であることを確認するために、虚栄心のために、あるいは、人間関係を清算するための贈り物、恩を売るのを嫌った返礼品、悪名高いものでは贈収賄の類い... 中には、純粋な感情から発する贈り物もある。その動機の歴史となると、キリスト教が成立するずっと前から...

それにしても、これほど古くから馴染んできた行為でありながら、新たな概念として掘り起こすナタリー・ゼーモン・デーヴィスという人は、文化史の考古学者とでも言おうか。経済学は、限界効用論やポートフォリオ理論などを持ち出すよりも、贈与の経済学を論じた方がまともに映る。現代社会では、市場経済と贈与行為とが根深く共存し、しかも相互作用を及ぼしている。こうした視点は、彼女にとっては自然な思考なのであろう。この方面の権威では、マルセル・モースという文化人類学者を紹介してくれる。彼の社会モデルは、「自発的 = 義務的な贈与と返礼」という形だとか。
しかし、だ。自発的と義務的とは少々対立するところがあって、返礼の型を規定できるはずもあるまい。現実に、ポジティブな互酬性とネガティブな互酬性とが共存する。親切ってやつは、言葉の響きがいいだけに、押し売りと化すと余計に厄介。そこで本書では、贈る者は見返りを求めず、受け取る者は御礼の心を忘れないという、バランスのとれた互酬性が問われる。とはいえ、モースの「贈与論」も、いずれ挑戦してみたい。
尚、宮下志朗訳版(みすず書房)を手に取る。
「贈与とは、理屈としては、自発的なものとはいえ、実際は、義務としておこなわれ、また返礼されるのであって、外見上は、自由で、感謝の念にみちていても、実は、強制的にして、利己的なふるまいにほかならない。どの贈与も、多くのことを同時に完了させる、一連のできごとの連鎖のなかで、返礼なるものを生み出すのである。明確な商業マーケットを有さない社会においては、財は交換され、再分配される。こうして平和が、ときには連帯感やら友情までもが維持されていく。そして社会的なステイタスが、北アメリカの北西海岸のインディアンのあいだのポトラッチのように、確認ないし獲得される。(略)はたしてだれがもっとも多くの財をふるまえるかを誇示しようとして、競ったのであった...」

1. 16世紀という時代
本書は、16世紀のフランスを題材にしているが、それはどんな時代だったのであろうか。キケロの「義務について」とセネカの「恩恵について」という古代ローマの偉大なガイドブックが刷られた時代。カトリックとカルヴァンとが、人間は神に何を与えることができるかを巡って激しく論争した時代。それは、濃密な感謝と義務の文化に由来する贈与システムに、重荷を背をわせた時代であったという。
大航海時代から植民地時代へと流れていく中、原住民の中に贈与の動機を探る。奴隷という言葉は悪いイメージを与えるが、悪い主人ばかりではあるまい。原住民が自発的に贈り物をするのも、けして珍しいことではなかったようである。
だが、文明レベルの違いが物品価値の格差を明るみにし、もらっても馬鹿にしたりする民族的な優越感が蔓延る。フランスでは、贈与品の価値をけなしたり、からかったりするのは、侮辱よりも酷い振る舞いとする伝統があったという。16世紀の贈与の特徴は、同じ身分の人々だけでなく、異なる身分の人々の間でも人間関係を和らげるのに寄与したようである。贈与行為が読み書き能力の垣根を取り払い、コミュニケーション回路を開く。これこそが互酬性というものであろうか。
しかしそれも、市場経済が勢いを増すとともに影をひそめていく。そうした時代の流れを敏感に感じたからこそ、モースは「贈与論」というものを書いたのかもしれない。そこには、こう書かれているそうな...
「われわれのモラルや生活のかなりの部分は、依然として、贈与と、義務と、自由とが混じり合った環境のなかに立ち止まっている。さいわいなことに、まだまだ、すべてが、売ったり買ったりといった言い方で整理・分類されてしまっているわけではない。モノには、いまだに、市場価値に加えて、感情的な価値が存在するのである。(中略)返礼なき贈与は、これを受け取った人間を、さらに低い存在とする。返礼する気持ちもなしに、そのモノが受けとられた時には、特にそうである。(中略)慈善は、これを受けた者にとっては、さらに感情を傷つけるものとなる...」

2. 贈与の信仰
贈与の動機は、ヨーロッパでは、キリスト教的な施しと結びついてきた歴史があり、倫理観や道徳観とも深く関わる。しかし、キリスト教が成立するずっと前から古代ギリシア風の動機がすでに発達していた。アリストテレスは、贈与の動機を互酬性と結びつけて説明したという。社会的市民には、お互い様という感覚が自然に働く。第一の動機として、神の恵みと結びつける信仰が未開人や部族にも見られる。ただ、強者への返礼よりも弱者への施しを重んじるという感覚は、キリスト教的であろうか。仲間内の儀礼はちっぽけな事で、より貧しい人を救おうと。人に対して非対称性でも、神との契約で対称性をなせば、チャラ!
しかしながら、個人に感謝しないで、神にのみ感謝するというのも利己的である。弱者にも格付がある。文句の言える弱者が救われ、文句を言う機会もなく、ただ沈黙するしかない弱者が救われないのであれば、十字磔刑の時代からあまり変わっていない。
しきたりと義務はすこぶる相性がいい。意味の分からないものを常識と定義づければ、何も考えずに済む。面倒くさがり屋には実に都合のいい思考アルゴリズムである。贈った者が、返礼がないから奴は無礼だとするなら、もはや贈った者が無礼極まりない。返礼する者が、悪口を言われたくないからというなら、もはや儀礼の奴隷。冠婚葬祭では、包む金額をいくらにするか駆け引きをやる有り様。協調性や絆までも強制される。
一方で、入院病棟でよく見かけるのが返礼品のお断りといった張り紙で、実に合理的である。気持ちだけで十分というは本音であろう。真に仕事をしている人たちは、形式的な儀礼に付き合っている暇もあるまい。
贈与という行為を、信仰との結びつきから論じるのもいいが、贈与行為そのものが信仰になっていることがある。人間の慣習や行動パターンなんてものは、どこか信仰的なところがある。信念めいたものがなければ学問もできない。宗教から遠ざかるには、合理性という信仰も必要だ。人間ってやつは、信仰なしに生きるのが難しい動物である。
但し、宗教に頼らなくても信仰は構築できる。実際、まったくのキリスト教徒でありながら、その伝統にこだわらず、独自の宇宙論的な信仰を構築している人たちがいる。キリスト教は秘密主義として育まれた経緯があり、おそらく点在したグループの多種多様な解釈の下で広まってきたのであろう。けして限られた数の聖書で規定できるような代物ではなさそうである。疑問を持ち、見直し、応用をともなってこその信仰とするなら、科学もなかなかの信仰である...