2013-01-27

コモディティ化の奴隷

あらゆる業界において、企業がユーザの囲い込みに躍起になり、誇大広告が氾濫するのも、ますますサバイバルの様相を強めている証しであろう。囲い込み経済は、ロビンソン物語から受け継がれる資本主義の象徴的手法というわけか。しかし、利便性の誘惑に惹かれ、均一化、あるいは均質化された環境に依存することが、合理的と言えるのだろうか?おまけに、一つの統合環境に依存すれば、リスクを拡大させる。いつサイトやサービスが閉鎖され、一瞬のうちに大企業が消えても不思議ではない時代、それどころか産業ごと頓死することもありうる。利便性はそのままリスクとなることを覚悟しておくべきであろう。ネット障害や機械の故障などのリスクはどこにでも転がっており、安全性なんてものは確率論で語られているに過ぎない。
人間には、実体のないものを恐れる習性がある。だが、利便性を追求した挙句、無理やりにでも仮想化を煽らないと経済循環が成り立たないところまできている。その象徴といえば、貨幣であろう。人々は、いつ紙くずになるか分からないものを、底なしに集めようとする。電子化してまで。そして、情報が溢れれば、多数派を拠り所にする傾向をますます強める。だが、それで安住できるかなど誰にも分からない。実体が見えないだけに不安でしょうがない。やがて真の価値が明るみになった時、初めてリスクの大きさに気づき、危機が現実なものとなる。群衆エネルギーは、そのままリスクエネルギーとして増幅されるわけだ。ちなみに、クラウド化とは、データが雲のように一瞬のうちに消えてしまう状況を言うらしい。たとえそうだとしても、依存できるものがあるということが、どれだけ幸せでいられよう...

1. コモディティ化
現代社会では、豊富過ぎるほどの情報があり、生活様式が多様化していく。にもかかわらず、あらゆる製品やサービスが、コモディティ化していくのはどういうわけか?機能や品質の差が不明瞭となり、ますます差別化が難しくなる。情報共有の場が多数派を煽り、要求を集中させるのか?ソフトウェア業界は、相変わらず強烈な不具合の発生を当たり前としているようだし、オンライン化、電子書籍、ITインフラにしても、差別化で喘いでいるように映る。となると、どこで競争するのか?
サービスの移転にはリスクをともなうが、単なる代替ならば、それほどリスクを負うこともない。コモディティ化とは、リスク分散という人間の防衛本能から生じる現象なのだろうか?あるいは、マンマシンインターフェースとして成熟しつつあるということであろうか?選択肢を失うことが、人間の思考を麻痺させるという見方もできそうだが。いずれにせよ、ユーザがサービスの奴隷であることに変わりはない。
ただ、これだけコモディティ化が進むと、公共料金の原理が働きそうだ。様々なブラウザが乱立する中、使い勝手の面から目くじらを立てるほとの違いを感じない。OSにしても、LinuxとWindowsは限りなく近づいているように映る。品質の面でも近づいているような...
相変わらず、技術の模倣合戦や特許紛争が盛んだが、いまや真の開発元がどこにあるのかも分からない。設計者自身が模倣しているかどうかすら気づいていない。そして、権利の主張だけが発達していく。これが民主主義の成熟した姿というわけか...

2. 文明と依存性
昔々、狩猟物の恵みや農作物の実り具合で、裕福さを測る時代があった。生活はひたすら獲物や天候との出会いに依存し、まさに自然は神の存在であった。だが、人類は安定性に焦がれるが故に、思うようにならない自然の仕打ちに苛立ってきた。文明社会とは、肝心な時にいつもお留守をなさる神への依存性を弱めようと努力してきた結果である。
やがて所有の概念が生まれると、地主と小作人で種別された。地主は小作人の労働力に依存し、小作人は土地に依存する。そこで、農作物や土地にも依存しないものを求めるうちに、交換の原理が生じた。そして今、あらゆる価値が貨幣換算される。土地や労働力ばかりでなく、人の命まで。貨幣の力はますます増大し、人は皆キャッシュに依存しなければ生きられなくなった。いまや経済活動はキャッシュフロー抜きには語れない。そして、金融屋があらゆる取引に介入し、経済循環の根本を牛耳る。心臓の弁をちょいと支配するだけで、人体のすべてを征服できるという寸法よ。むかーしから、毟り取る仕組みをこしらえるのが得意な連中がいる。だが、いくらキャッシュが主役になろうとも、それ自体から何も生産することはできない。
さて、依存性の観点からすると、現代人と古代人では、どちらが自立しているのだろうか?人口が自然抑制された時代では、子供がそのまま労働力とされ、学校なんか行かずに働け!と説教された。高い税率を抜きにすれば、自分で作った農作物で家族を養うことができた。政治がお邪魔虫という議論は、ここではやめておくとして。だが、自立するためには知識が必要であり、洗脳性の強い社会でもあった。
一方、現代社会では、ほとんどの人が企業や役所からもらう給与で生活する。経営陣ですらサラリーマン社長で溢れている。そして、企業が潰れたら家族は路頭に迷うことになる。依存性を高めれば、自立性を失うことにもなろう。文明社会は、自立性を失わせようとしているのか?仮想化とは、自立性を欺瞞するための道具なのか?仮想化が利便性を煽り、利便性が犯罪を巧妙化させる。人類は、人工物への依存性を高めることによって自滅するのか?自然に依存するのと人工物に依存するのとでは、どちらがまともなのか?俗世間の酔っ払いには、とんと分からん。
アリストテレスは「生まれつき奴隷」とやらを提唱した。自分で思考するのが面倒であれば、主人に従う方が楽であろう。自立性を放棄することが幸せと信じることもできそうか。なるほど、幸せが幻想というのは、本当なのかもしれん...

2013-01-20

グローバル人という不思議な人種

グローバリズムが広まると、ナショナリズムが盛り上がるという奇妙な現象がある。それは、グローバリズムの流れに乗り遅れた人々の妬みからくるのだろうか?あるいは、帰属意識や自己存在の確認、アイデンティティの再確認といった意識からくるのだろうか?結局、人は皆、国家に縋って生きるしかないということであろうか?
人間社会には、生まれたら強制的にどこかの国に所属させられるという奇跡的なシステムがある。人は、生まれる地や生まれる国を自由に選べない。生まれる場所すら与えられない人もいる。つまり、人はまず不自由を体験することになる。だから自由への憧れが強いのか?だから枠組みへの反発を強めるのか?世界には様々な枠組みが溢れている。国の枠組み、民族の枠組み、文化の枠組み、言語の枠組み、組織の枠組み...
だが、そんな枠組みを物ともしない人々がいる。グローバル人とは、自然に自由を謳歌できるような人を言うのであろうか。

一方で、愛国心が足らないと憤慨する人々がいる。そして、海外で活躍するスポーツ選手、芸術家、科学者たちが、理不尽な批判に曝される。だが、彼らが純粋に能力を発揮するだけで、どれだけ民衆を励ましていることか。中には、政治の思惑に乗せられて招待される人もいるようだけど。
環境が違うだけで思うように能力を発揮することが難しいというのに、彼らはどこででも仕事ができる。度胸が座っているのは、才能の裏付けがあるからか?しかも、外国語が流暢でない人も珍しくない。言語は便利なツールだが、コミュニケーションの本質ではないということであろうか。彼らには、人物や文化をステレオタイプに嵌めるような感覚はないようだ。分野に関係なく何かを極めようとすれば、国や言葉の隔たりなんて関係ないのかもしれない。その意味で、彼らを真理を探求する人とでもしておこうか。
枠組みにこだわらないことが、視野を広げ、様々な思考を試す機会を得ることになる。こだわりがあるとすれば、生き方というやつであろうか。依存性を低くし自立性を高めるという意味では、リスクを分散させるという見方もできるかもしれない。経済力や政治力の勢いばかりに目を奪われ、特定の国に依存しようとする動きこそ、リスクを高めることになろう。国境なき記者団、国境なき医師団、非政府組織といったものが、どれだけ社会のリスクを分散していることか。そうした広範な活動をしている人々にだって愛国心はあるだろう。誰にでも、地元愛、郷土愛、家族愛なんてものが自然に発するものであろう。出身地や出身校が同じというだけで共感したりする。大震災時の結束力を見れば、愛国心のない国民とは言えないはずだ。なのに、愛国心を煽る連中ときたら、奇妙な信仰に憑かれているかのように、団結心を煽って暴徒化し、寄ってたかって他国の国旗を焼くことを象徴とし、自ら国家の危機を脅かす。わざわざ愛国心教育なんてやれば、団結するために無理やり敵国をでっちあげるのがオチよ。愛ほど暴走しやすい。盲目と言われる所以だ。
グローバリズムと愛国心は対立的な立場として捉えがちだが、どちらも生きるのに必死であることに変わりはない。どちらも自分の居場所を求めるための精神活動であり、防衛本能が働いているだけのことであろう。その違いといえば、多様化を認めるか認めないか、ぐらいなものであろうか。ちっぽけな違いで結果が随分と違うことはよくある。したがって、グローバル人とは、真理とリスクの観点から、あらゆる枠組みを物ともしない人ということにしておこうか。さて、どれだけ文化や発言の違いに寛容でいられるだろうか?いくら想像してみたところで、俗世間の酔っ払いには生涯到達し得ない領域であることは間違いない。

1. Broken English のすゝめ
世界人口における公用語の分布を眺めれば、英語という一つの言語にこだわる時点で、グローバル人とは縁が遠いのかもしれない。だが、企業では英語を公用語にする動きが見られる。その結果、英語力を優先した雇用に走り、技術力が疎かになったエンジニア会社も珍しくない。そして、英語屋は伝言係となる。言語的な翻訳よりも、文化的な翻訳の方がはるかに貴重であるはず。それは経験に裏付けられるものである。科学力や技術力を差し置いてまで英語に走ることもあるまい。ついでに、数学も言語の一種であることを付け加えておこう。
技術屋さんの議論では、日常英語があまり通用しない。重要なやりとりは文書ベースになりがちで手間がかかる。だから、俗世間の酔っ払いは、流暢に喋りたいと思う。それでも、軌道に乗り始めると、相手も片言日本語を喋り、互いの片言言語の応酬は、なかなか楽しい。向上心とは、恥をかくことと見つけたり!
実際、ポンコツ英語を自負する企業家たちがいる。長く付き合うなら、Broken English がお勧めだとか。流暢でも中身がないよりは、はるかに歓迎されると。最初は誤解を招くことも多いが、誤解が解けると逆に信頼が厚くなると。恋愛でもギャップに惚れるというケースがあるが、まさにそれか。しかし、こうした助言は、慰めにしか聞こえんよ...
コミュニケーションの方法を誤れば、流暢な分、却って反感が増幅される。英会話がどんなに上手くても、議論ができなければ意味がない。日本語ですら内容のないことしか話せない人が、英語でいったい何を話すというのか?ネイティブとは、どういうことか?英語圏の方言も多様で、日本人は英語という枠組みで一括りに捉え過ぎる傾向があるようだ。方言や訛りがあるということは、地方文化を知り尽くしているとも言えそうか。日本人は、首都圏に行くと方言を封印しがちである。田舎者と馬鹿にされるのを嫌うからだ。アメリカでも同じ傾向はあるらしいが、あれだけ多種多様な人々が集まると、そんな感覚は簡単に吹っ飛んでしまうらしい。そもそも、アメリカは土地が広く、方言が酷く、ポンコツ英語を喋る人も多いと聞く。
ある外国人から、日本人は言葉を完璧に喋ろうと意識し過ぎると指摘されたことがある。完璧な人間なんていないんだから、間違ったことを喋ってもいいのではないかと。とりあえず、口にすることが大切だと。しかし、欧米人の誰もが主張したがるわけでもあるまい。ダーティハリーがお喋りではしまらない。日本には、空気を読む...無言で通じ合う...といった文化がある。それはそれで感心される。極意を教えろ!と聞かれても知らんがねぇ... とりあえず、やかましい!

2. 文化の壁と自立性
言葉の壁よりも、はるかに手強いものがある。国内企業への転職でさえ、組織文化に馴染めず辞める人はわんさといる。実際、日本企業の人事屋は、優秀な人材がほしいと言いながら、そこを見ている。つまり、服従者になりうるかを。建て前では、外国語能力や異文化を受け入れる感覚、そして自立性といったものが要求される。確かに、自立性を強調するお偉いさんをよく見かける。そういう人は決まって社員の自立性のなさを嘆く。自立性とは、組織への依存度を極力小さくしようとする意思の表れであろう。優秀な人材にはどこか異端的なところがある。革新的なパワーはそういうところに秘めらることが多い。しかし、組織の欠点をよく観察し、ズバリ言い当てるような人材を煙たがり、本音では和を乱す害虫のように見ている。村社会では、自立性は孤立性へと追いやられるわけよ。異文化を受け入れる度量のない組織ほど、自立性などと掲げているように見えるのは気のせいか?そして、自立性のない面接合格者に、君には自立性があるよ!と洗脳しているのかは知らん。
自分の価値観から大きくはみ出した人を避けたいと考えるのも自然であろう。自己存在の防衛本能でもあるから。自立性に富んだ集団は、個性も自然に溢れているから鬱陶しいところがある。だが、こういう連中を相手にすると楽しい。相互に論理的に議論できるならば、想像もつかない世界に生きている連中は、それほど邪魔な存在にならない。周りからは、まったく協調性がない集団のように映るらしいが、実はそうでもない。チームに技術的な問題が発生すると、自主的に結束し、猛然と徹夜を始めたりする。普段は勝手気ままな奴らだけど。論理的に説明すれば、だいたい納得してくれるし、説得できない時は、だいたいこちらの論理性に隙があるから分かりやすい。
一方で、管理職の側が論理性の未熟さを棚に上げて、協調性がないというレッテルを貼るケースが実に多い。したがって、チームに哲学的な共通意識さえ根付いていれば、自立性などというものはあまり心配には及ばないと思っている。やはり仕事は楽しくなくちゃ!共通の価値観とは、これだけよ!

3. 人材流出
日本社会は、技術者に冷たいところがある。リストラで居場所を奪っておきながら、海を渡った人材を一括りに売国奴であるかのように攻撃されることもある。中には、そういう人もいるだろうけど。希望退職を募れば、そりゃ優秀な人から辞めていくさ。ならば逆に、もっと優秀な人材を海外から受け入れればいいのだが、そんな度量もない。人の価値とは、去った時にはじめて気づくものである。そもそも、企業体質がグローバリズムとは程遠いのに、求める人材がグローバルな人とは、これいかに?グローバリズムを手段としてしか見ていない証拠である。ちなみに、おいらも海を渡りたいといつも思っているが、秀でたものが何もない。向こうから渡ってくる人もいるから、それでよしとするか...

2013-01-13

民主主義の象徴ども

民主主義の象徴とされる選挙や代議制、デモや対話。これらは、本当に民主主義と相性がいいのだろうか?政治がまともに機能するならば、どんな形でも構わない。君主制だろうが、貴族制だろうが、民主制だろうが...
アリストテレスは、最善なのは君主制で最悪なのは民主制であるとした。ただし、僭主は君主の逸脱形態としながら。だが、歴史を紐解けば、君主と称した人物は例外なく僭主であった。貴族によるパワーバランスを試みたところで、官僚化は防げず、様々な癒着が生じた。そして今、民主制が最後の砦とされる。ただ、誰よりも学問に励み、それを自認した者が民衆を導こうとする構図は、ソフィストの時代から何ら変わっていない。学問とは、本来真理の探求であるはずだが、古代から民衆を扇動する方法論を学ぶことがもてはやされてきた。
一方、プラトンは、愛智者を無知を自覚する者とした。また、社会人類学者レヴィ=ストロースは、原住民の生態系の研究から首長の存在意義に疑問を投げかけた。「首長の政治力は、共同体の必要から生まれたものではないように思われる。」と。
近代では、政治の存在意義までも疑問視される。政治とは、真理と相性が悪いものなのか?人間とは、誰よりも優位な立場に居たいというだけの存在でしかないということか?政治とは、その欲望を体現する場でしかないということか?そうかもしれん。結局のところ、国家の形態とは、社会形態の試行実験に過ぎない。政治屋が社会制度を崩壊させ、金融屋が国際規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が敵国をでっち上げ、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。いずれも自己存在を必要以上に強調し、価値観を押し売りした結果であろう。思惑が思惑を呼び、虚実の理からますます遠ざかり、いまや、国家の枠組みを超えた領域でリスク管理が求められる。これがグローバリズムというやつか?リスク社会における政治の安定は、問題を直視しないことによって成り立つとさえ言える。
経済学者シュンペーターは、資本主義はその成功によって崩壊すると語った。21世紀は、民主主義の成功と、それを崇める人々によって、最後の砦までも崩壊させるのであろうか?
しかし、そう悲観することもあるまい。いつの時代でも人間は幻想を描くことを得意としてきた。その証拠に、仮想化へ邁進する様相は一向に衰えを見せない。これが希望とやらの正体かは知らんが...

1. 選挙と占拠
国家は誰のものか?ずっと昔から、政治を民衆の手に取り戻せ!と叫ばれてきた。では、国家は民衆のものなのか?それも疑わしい。国民は気移りが激しく、意思決定に一貫性を見出すことは難しい。おまけに、報道屋が世論を偏重させる。そして、一部のエリートの面子と名誉欲によって決定されるならば、国家は誰のものでもない!とする方がよかろう。人間社会では、所有の概念が絡むと、何かと奇妙なことが起こるようである。
責任の観点から眺めると、君主制は君主に責任があり、貴族制は代表者である貴族に責任があることは疑いようがない。そして、民主制は民衆に責任があるということになる。ただ、責任のないところに権利は生じないはず。政府を監視する役割に司法や議会があるが、いまや三権分立が機能していると考える人は少数派であろう。そこで、情報の透明性と国民の意識が鍵となる。
国民の意思は投票を通して反映されるのだから、選挙は民主主義の象徴と崇めている人が多数派であろう。実際、政治家は、多数決こそが民主主義だと発言し、チルドレン戦略に余念がない。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりになって同調している状態ほど、都合の良いものはない。陶酔することのみを奨励すれば、アル中ハイマー病患者は絶好の餌食となる。
しかし、選挙は民主主義の産物ではない。代議制は貴族制の時代からあり、君主制でさえ後継者選びが実施された。
政治屋どもは、国民のため!国益のため!と連呼する。確かに、後援会や政治団体の構成員も国民だし、なによりも政治家自身が国民である。そして、政治屋の利益供与に一部の国民がたかり、それを票田とする構図は変わりそうもない。選挙制度が偏重していれば、政治も偏重するだろう。選挙が民主主義の根幹だと言うのなら、その用い方は慎重に検討すべきものであるはず。なのに、政党間の主張は盛んでも、選挙制度の正当性に関する議論がなされないのはどういうわけか?国家元首を国民が直接選べないことが、民主主義を機能させないという意見も耳にする。それも一理あるだろう。もし、国民投票によって首相が選ばれる制度下では絶対にありえない人が、現実に首相になっているとしたら、それは民主国家と言えるだろうか?ちっぽけな選挙区で地元と癒着した者ほど、支持母体を強固なものとし、当選を繰り返す。当選回数の多い者が政党内で発言力を増し、主要ポストに就く。首相は一部の国民によって選ばれているようなものか。意思を放棄した者をいかに集めるか、これに政治屋は執着する。よって、選挙とは、一部の国民どもが占拠した状態を言う。

2. ディベートなき民主主義
昨年、米大統領選の前哨戦として、数回に渡ってディベートが行われた。四年に一度、マスコミ、識者、政治家、聴衆が一体感を持ち、国の行く末を託す人物は誰か?を議論する様は、民主主義国家としての成熟度の違いを見せる。CNNなどの分析を見ても、数の勢力図報道を繰り返す連中とは次元が違うようだ。ちょうどその頃、我が国では、首相降ろしや政治スキャンダルの報道で盛り上がっていたのだから。
しかしながら、ディベートにも欠点がある。洗脳と結びついてきた歴史があり、なによりもカネと手間がかかる。選挙戦が一年以上も続けば、大陸横断鉄道が開通した西部開拓時代を思わせ、情報化社会ではいかにも長く感じる。しかも、任期の残りはほぼ政治が停滞することになる。今回の特徴では、ヒスパニック系や黒人系の票で明暗を分け人種対立を一層強く印象づけた、と報じられた。民主党は、社会的弱者の支持層が強いだけに歳出削減が難しく、また、下院は共和党が過半数を占めたままで、相変わらず意思決定が難しい状況にある。そして、大統領選以後しばらく市場は停滞感を見せた。最多得票数を得た候補者が、その州の選挙人票をすべて獲得できる選挙人団という制度にも問題がありそうだ。民主主義先進国にしてこれだから、我が国の選挙制度も老朽化していると見るべきであろう。
一方、日本にも党首討論会があるにはある。だが、なぜか機能しない。論理的に説得しようとする意識が薄いために、誰が政権を握るかばかりに注目が集まる。日本の文化では、質問すると挑戦的で不快感を与えるという意識が働く。だから、説明責任という慣習が根付かないのだろうか?
欧米人の印象として、子供のようになんでも Why? と聞いてくるので、鬱陶しいところがある。対して、日本人は、How? を好む傾向があるように映る。知識を論理的に組み立てるというより、知識は教えてもらうものという意識が強いのかもしれない。教育の弊害であろうか。思考を省略したいから、ハツツウものに飛びつくのかもしれない。質問力というものは、論理性から組み立てられるところがある。価値観の多様性を認めるならば、共通意識は論理性に求める方が良さそうである。論理に完璧さは求められないにせよ、感情を補完する道具にはなるはずだ。増税にしても論理的に説明すれば納得できると思うが、日本国民はそれすらできないと馬鹿にされているのか?国民から反感を買いそうな重要法案を通す時、政治生命をかけるという主張が理解できない。正しいと思うなら、その根拠を示せばいいだけのことではないのか?納得できずに財政破綻するならば、それは国民が選んだ道となるだけのこと。だが、国債発行額の見通しで論理的に説明した例は見たことがない。無党派層を説得するには論理的に説明するしかないだろう。政治屋どもはそれすら気づかないのか?いや、地元の選挙民に働きかけた方が確実だということを、彼らは熟知している。つまり、我が国の選挙制度は、老朽化以前に民主主義とは程遠いシステムだということかもしれん。

3. デモと集団性の悪魔
選挙の実態を見れば、政党政治に失望する人も少なくないだろう。では、デモは政治参加の新たな手段となりうるだろうか?そして、選挙しか頭になく、ひたすら数合わせに奔走する政治屋どもを排除することができるだろうか?
かつて、学生運動や社会運動に参加しなければ、愛国心が足らないと言われた時代があった。愛国心を煽るあまり奇妙な使命感に憑かれ、自己を見失い暴徒化する。脱原発機運が高まる今日、少しでも原発は必要だと発言すれば非国民のような言われよう。太平洋戦争時代にも、講和を主張すれば非国民と罵られた。デモの参加者たちは、地方役場の一郭を占拠したり、傍聴席からヤジを飛ばし議会を中断させたりと、とても子供には見せられない醜態を見せる。おまけに、都心から有名人までも乗り込んできて役場を占拠する。確かに、原発推進派がその隠蔽体質から強引に政策を進めてきた。事故後の炉心溶融を関係者が語れず、大手マスコミも知りながらメルトダウンという言葉を使わない。軍部の暴走に大本営式報道の時代と、何が違うのか?だからといって、脱原発派が彼らと同じレベルで活動すれば、却って説得力を失う。それに、代替案が火力発電のフル稼働でいいのか?ちょっと前まで叫ばれていた環境問題はどこへいった?原発廃棄物の処理は?新エネルギーの開発にしても、軌道に乗るまでにはまだまだ時間がかかるだろう。ここでは、エネルギー政策はリスク分散に目を向ける必要があるとだけ言っておこう。
さて、デモが暴徒化するのであれば、それは民主主義の危機と見るべきかもしれない。ところが最近、都市部の市民運動は多少なりと変化を見せていると聞く。主催者は、参加者の安全に配慮したり、運動後のゴミ処理を活動の一環としたりと、紳士的な振る舞いが目立つとか。しかも、若年層だけでなく、老若男女、障害者や外国人までも集まってくるという。なるほど、かつての労働運動や学生運動などとは違うようだ。ガンジー思想の非暴力抵抗が開花しつつあるのだろうか?いまや、優れた見識はネット上に溢れ、有識者どもに誘導される時代でもあるまい。デモが論理的な活動となれば、共感する人も増えるだろう。情報の共有は、昔よりもはるかにやりやすい。
とはいえ、ネット上の炎上騒ぎは相変わらず、いじめでは被害者側が退場させられる始末。徹底的に叩くという歪んだ正義感が、ストレス解消の場とされる。まるで娯楽感覚、戦争と同じくらい狂った社会。大概の組織や集団というやつは、結束当初は素晴らしい志を共有して結びつくものである。少数精鋭による自由意思の結集として。ネット社会でも、少数派として結びつく段階がある。しかし、集団の規模が大きくなるにつれ、時間が経つにつれ、思考が硬直化していき、過激な不心得者が紛れ込んでくる。集団の構成員は、信仰化していることにも気づかない。あらゆる選挙運動や社会運動は、この呪縛に嵌っていく。これが官僚化の法則だ。
最近の市民運動が、新たな民主主義の兆候となるのかは分からない。ただ、いつの時代でも、社会は新たな風潮に過大な期待をかけてきた。集団性の悪魔ってやつは、人間社会の本質であることを、心に留めておいた方がよさそうである。

4. 対話から政治不要説?いや、政治家不要説!
あらゆる社会問題は対話で解決できると主張する有識者や有徳者たちがいる。だが、それも疑わしい。所詮、人間は感情の動物、どんなに意見が一致しようとも、相手に対して好き嫌いが生じる。対話という語は、平和的でなんとなく癒してくれる。だが、だいたい癒し系の言葉には、危険性が潜んでいるとしたものである。
対話を機能させるためには必要条件がある。哲学的な共通観念、互いに近づきたいという共通意識、そして、論理的な指針など。その前提がなければ、対話はむしろ敵対心を煽ることになろう。文化や教義を強制すれば反発心が生じる。猛烈な愛によって結ばれた時でさえ離婚争議は絶えない。神の前で誓っても、都合良く無神論者に鞍替えよ。互いに触れられたくない事柄もある。欠点をつつき合えば、憎悪しか生じない。そして、顔を合わせないことによってのみ、互いの存在を認め合うことになる。互いの存在ですら認められないとなれば、血を見ることになる。結婚(けっこん)と血痕(けっこん)が同じ音律なのは、偶然ではないらしい。運命の糸が血の色というのも道理か...
これが国家間であれば戦争となる。過去の平和主義者を自称する政治家たちがそうであった。歴史を振り返れば、偏重した愛国心教育が国民性を暴走させてきた。外交戦略のない政府は、面子ばかりの主張を繰り返す。人間ってやつは、老いていくと、存在感が薄れるのを感じ、さもしくなるものらしい。おまけに、冷静さを失えば、悲劇は現実のものとなる。政治の戦略のなさに官僚の発想力のなさが加われば、ますます閉塞感を募らせ、国民は偏重したナショナリズムでエネルギーを発散させることになろう。
しかーし、そんな悲観的な状況にあっても、対話に限界があることを認識した上での対話ならば、功を奏すかもしれない。関係を持つということは、距離を計ることを意味する。近づきすぎず、遠ざかり過ぎず。いまや一国だけで成り立たない時代、自然に経済交流や文化交流が生じる。だが、国家が余計な口出しをした途端に混乱させる。国家の存在意義とは何か?本来、主権と基本的人権を保障することにあるはず。つまり、存在の権利だ。換言すれば、それ以上の権利を保障する必要はない。しかし、基本的な権利を差し置いて、余計な権利に凝り固まった平等主義が蔓延る。
無政府状態と言えば、社会秩序が保たれていない状態をイメージしがちだが、政治不要説は古くからあった。おまけに、そういう風潮が広まるほど、政治屋どもは自分の存在アピールに躍起になり、癒し系政策で大盤振舞!そして、政治不要説は新たな局面に達し、政治家不要説となるのであった。

2013-01-06

ふしめ

2013年は巳年ということで、蛇道(邪道)で参りとうござる... なぁーに、いつものことよ。

昨年は、いろんな意味で節目の年であった。
まず、独立10周年でささやかなパーティを催した...お集まり頂いた方々御礼申し上げます。尚、久しぶりの「朝までフルコース」は辛い。おまけに、その晩も某所から呼び出しを喰らう。
また、ちょうど30歳になった。尚、年齢表記は慣例に従い16進数を用いている。
そして、恐ろしい大台が見えてくる...

人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり、ひとたび生を得て、滅せぬ者の有るべきか...

人間50年も生きれば、それなりにケジメがつくものであろうか?寿命が延びれば、未練も先送りされる。考え方も学生時代からあまり変わっていないような気がする。いや、精神面では幼年化しているかもしれない。その証拠に、夜の社交場では...マダムにお子ちゃまと呼ばれ... 平成生まれのお嬢に恋愛論を説かれ... その横で、勉強になります!と畏まる始末。ちなみに、先日、献血に行くと、動機についてアンケートがなされ、耳にピアスをした二十歳ぐらいのガキが、「社会に少しでも役立ちたい!」と堂々と語っているのに見入ってしまう。そして、いざ自分に質問が向けられると、「若い看護婦さんに血を抜いてもらいたい!」と心の中でつぶやきつつ、「いやぁ...そのぉ...なんとなくぅ...」と慌てて答えてしまった。どっちがガキなんだか...
それになりに生きれば、多少の知識も増えよう。だが、忘れた知識も多く、消化と排泄によるエネルギー保存則は健在!元々頭の回転が鈍く、記憶力も弱いとなれば、衰えを感じなくて済む。これも、ささやかな幸せというものよ。
一方で、死を宣告された末期患者が、突然人生に目覚め、超人的な能力を発揮することがある。死と隣合わせだからこそ、研ぎ澄まされる感覚というものがあるのかもしれん。死を身近に感じていなければ、生きることの意義さえ考えることもないのかもしれん。

技術チームで仕事をしていると、歳をとる気があまりしない。マネージャとメンバーという立場の違いがあるにせよ、年齢に関係なく対等の意識が働く。だが、向こうはそうは思っていないようだ。そういえば、おいらが20代の頃、40代の人を大先輩という目で見ていた。同じように見られているのだろうか?いや、それはありえない。事実、アル中ハイマーなどと呼ばれバカにされている。
技術屋さんと付き合うのは気楽なもんだ。論理的に説明すればだいたい納得してくれるし、説得できない時はだいたいこちらの論理に隙がある。哲学的な共通意識さえチームに植えつけておけば、互いの意思が分かりやすい。
ただし、優秀なエンジニアと仕事をするとかなり辛い。こっちは、いつも全力疾走しなければならない。ちょっと休んでくれ!と弱音を吐くと、実は互いに見栄っ張りで、余裕を演じていただけというオチも、たまにはあるけど。最近、教育の依頼を受けることがある。教えられるものなんて何もない。そうか、引退勧告であったか...
そして、シニアという言葉がちらつく。シニアとは、何歳ぐらいからを言うのであろうか?ゴルフのシニアツアーは50歳以上と聞く... スポーツ選手の引退年齢は40代ぐらいであろうか... 将棋の達人戦は40歳から... フィールズ賞は40歳まで... プログラマに至っては35歳定年説なんてものもある... 職業寿命なんてものは意外と短いものかもしれん。
そういえば、健康診断では35歳以上になると検便用の小道具が手渡された。形状からして、初体験のおいらは直接突っ込むものかと勘違いした。すると、大先輩のSさんが嬉しそうに実演していた。次は大道具の出番であろうか?癖になりそうで恐い。

なんにせよ、年齢的な限界が訪れるのは生命の宿命。歳とともに気力が失せることもあろう。かつて自信を持っていた知識も、知れば知るほど分からなくなる。ただ、分からないことが増えると、なぜか心地よい。ある種の諦めであろうか?いや、人間の性質は、M系に走るものかもしれん。人生楽しまなきゃ損というわけか。何かを悟るのに、一人の人生ではあまりにも短い。それどころか、目指すものすら未だ見えてこない。ならば、技術を磨くのに年齢は関係ないとするしかあるまい。
そして目指すものは... 夜のテクニシャン!... ということにしておこうか。