2019-05-26

"モーツァルト" 吉田秀和 著

「モーツァルトが一代で絶え、連綿たる王統を作らなかったと言われたら、彼を愛する人たちには我慢がならないかも知れない。けれども芸術における最高の成功は、一つの種族の最後のものになることにあるのであって、最初のものになったことにあるのではない。ことを始めるのは、誰にでもできる。しかし終止符をうつのはむずかしい。終止符をうつとは、つまり凌駕され得ないということだ。」
... ジョージ・バーナード・ショー

吉田秀和氏は、著作「一枚のレコード」の中でこう書いた。「ゲーテを真似て... バッハの味を知らない人は幸福である。その人には、人生で最大の至福の一つが待っているのだから...」 と。おいらは、バッハのところをモーツァルトと読み替えたい。ゲーテは、エッカーマンにこう語ったという。
「人間は再び滅亡しなければならない。凡て、異常な人間はある一定の使命をもち、これを成就するように召されているのだ。彼がその使命を果たすと、もう地上ではその姿では不必要になり、摂理は再び彼を何か他のものに振り向ける。しかしこの地上では万事が自然の道によって起るのであるから、デーモン達は彼を片足ずつ引落すようにして、遂に破滅させる。ナポレオンや他の多くの人物にはこうしたことが起った。モーツァルトは三十五歳で死んだのだ... しかし彼らはその使命を完全に果たした。それに、彼らのゆくべきときが来ていたのだろう。他の人間にも、この長い間持続するように定められた世界で、何か他にすることを残しておいてもらわなければ困ってしまうのだから...」

バッハに学び、ゲーテに愛されたモーツァルト。彼は貧乏のあげく心身ともに酷使し、生き地獄を生きて早死にしたのか。それとも、バッハを知ったがためにバッハと対決し、その喜びの中で死んでいったのか。彼の音楽には、いつも流動してやまないくせに、緊張の方向づけを曖昧にするところがある。あまりに真っ直ぐに生きようとしたがために、多くの曲がり角にぶち当たってしまう、ということはあるだろう。
「モーツァルトにとっては、方向があるから道があるのでなくて、道があるから、そこをゆくのである。その道がどこにゆくか、どうしてそんなに案ずることがあるだろう。出発の時にすでに道はきまっていたのだ。その道中で別の道に魅せられたら、どうしてまがっていけない理由があるだろう。」

モーツァルトがどんなふうに享楽を感じたかは知らない。おそらく享楽の追求に生きたのは確かであろう。でなければ、これほどの夥しい作品を遺すことはできなかったはず。六百を超えるケッヘル番号、中にはまだまだ研究の不十分なものもあり、彼の真意がどうであったか、専門家の間でも論争が続く。ジュピター交響曲にしても、ドン・ジョヴァンニにしても、死者のためのミサにしても、同じ人間が創ったとなれば、この人物の同一性、一貫性、持続性といったものを考えてみないわけにはいかない。
巷には数多のモーツァルト論が溢れ、書き手はそれぞれにモーツァルト色を帯びる。プロの眼にも、やはりモーツァルトは特別な存在と見える。対して、読み手の方はというと、どの書き手のものを読んでも、読んでも、足りないときた。
「ベートヴェンは運命の咽喉首をつかまえて、これと凄絶な格闘を演じた。それは深い責任感の精神でもあり、その闘いを通じて、遂に彼は、宥和による勝利、運命に対する信頼に到達した。... しかし、モーツァルトは、その責任感の精神に欠けているのではないが、それだけに囚われもしない。彼は単にそれから隔絶した仕事を... 孤独の中で... なしとげる必要があっただけなのだ。闘いながら超絶すること、これが現代の私たちが求めていることではなかったろうか。」

昔から、おいらはモーツァルトが好きなつもりでいる。仕事の BGM では、困った時のモーツァルト!という感覚があり、おそらく生涯で一番よく聴いてきた音楽家である。
しかしながら、どういうふうにいいか、喜びのうちにか、悲しみのうちにか、と具体的な感情を問うても答えられそうにない。捉えどころの難しいモーツァルト。得体の知れないモーツァルト。まるでメフィストフェレスの導きのごとく、惹きつけやがる。彼の中に人生のカノンを発見したとしても、レクイエムは永遠に未完成のまま。この天才は、音楽の悪魔性を解き放ってしまったのだろうか。人々は生きるためではなく、死ぬためにここに集まってくるかに見える...
「モーツァルトには、自分の霊の永遠の憩いを祈願する歌を書き上げることが許されなかった。それは、われらのために、十字架に上って、苦しみ、埋められたものの運命に似ていなくもない。しかし、そのような死者のためのミサとして、これは人を救う。死の床にあって、ショパンはこういったという、『私が死んだならば、本当の音楽を鳴らしてほしい。モーツァルトのレクイエムのような!』と。」

そして本書は、モーツァルトの創作の生き様を、こう描写する...
「恐らく人生は賭けであり、戦いであろう。だがその賭けも戦いも戯れなのだ。諸君、忍耐とユーモアを忘れ給うな。苦悩は深いが、よろこびは永遠に過ぎることはない。」

2019-05-19

"ソロモンの歌" 吉田秀和 著

「かつて起ったこと、それはこれからも起るだろうものと正に同じだ。人間がかつてやってきたもの、それは彼らがこれからもやるだろうことにほかならない。」
... ソロモン

音楽評論家に音楽以外のものを... と勧められて書いたものが、この本だそうな。著者にとって、文学も音楽と同じように心に奏でるものがあると見える。中原中也に宇宙論の啓示を見、吉田一穂に自恃の表出から湧き出る虚無を感じ、荷風に急速な近代化への反発心を共感し、漱石に日本社会の病魔を意識する。その明るい筆の影に、昭和の戦争が深刻化していく様を想像せずにはいられない。
「日本人の最大の特徴は、外国の文物思想の浅薄な模倣をよろこぶ気持ちと、深いところに潜在する排外思想との間の緊張ではあるまいか。その間に調和を求めるものは、どこかに逃避しなければならない。」

芸術は、ある種の社会的反抗から生じるところがある。人間の自由と個人の尊厳こそが、その精神を支える。知性と意志に働きかけ、感情、ことに皮膚感覚に微妙をきわめた音色が聞こえてきそうな...
詩人でなくても、芸術家たちは自己の中に詩を奏でるようである。詩人とは、よほど辛いものらしい。自殺するにせよ、諦念のうちに死ぬにせよ、けして妥協を許さない。自己破滅型人間、いや、自己完成形か。どうしてこんな人種がいるのか、理解を絶する。狂気しなければ到達しえない境地が、確かにある。それは、人生における戦術の問題であろうか。彼らの生き様は滑稽ですらある。いや、あえて滑稽に生きよ!というのか。狂気できない者は未熟児同然というのか。そうかもしれん。彼らは、自分の人生をハッキングしながら生きようというのか...

中原中也との出会いには、こう回想する。
「彼の存在が、私にあきらかにしてくれたことは、一口でいうと、何億という人間の中には、『この宇宙で人間が生きている』という、簡単といえば簡単な事実について、ある意味を、突然、私たちが日常生活ではあまり経験しないような形で、啓示できる人間がいる、ということである。」

吉田一穂については、裸の思想を紹介してくれる。
「だから詩を書くのだ。私は詩人だ。ほかの何者でもない。だが、詩とは何か?詩とは自分の内外にある虚無に向かって、火を放つものだ。詩は、もう一つの宇宙を創る天を低めて自らを神とする術である。」

漱石については、こう語る。
「漱石は、近代百年を通じて、日本人の意識の変化と混乱を最もはっきり意識した人であり、また、その混乱の正体をはっきり意識することに一生を賭けた人であったように見える。その彼が、どんな治療法を示しているか、私にはわからない。彼を読んで私にわかるのは、私たちが病気だということだけである。病気だといえば世界中がそうではないか、と言われるかも知れないが、それなら日本の病気は日本としての非常な特殊性をもっている。」

とはいえ、時事的おしゃべりでは、やはり音楽畑を離れることはできないと見える。カール・リヒターやアルトゥール・ルービンシュタインといった偉大な音楽家たちを、単に音楽の達人としてだけでなく、人生の達人として捉える。バッハがどんな人物だったかは知らない。知る由もない。ただ、音楽に憑かれた人で、探求してやまない人であったことは確かであろう。彼らを語る風景には、ルーベンスやラファエロといった稀代の名画が合いそうだ。そして今宵は、虎の子のフィーヌ・ブルゴーニュをやらずにはいられない...

尚、これはルービンシュタインの言葉として紹介される。
「私は人生をあるがままにうけ入れる。人生とは多くの、より多くの幸福を内蔵しているものだ。たいがいの人は幸福の条件をまず考えるが、幸福とは人間が何の条件も設置しない時、はじめて感じることができるものだ。
... 人生には、より一層の幸福がある。諸君が幸福になるための条件など数えたてず、人生をありのままにうけ入れれば、そこに幸福があるだろう。その時、音楽もきこえてくるだろう。」

2019-05-12

"一枚のレコード" 吉田秀和 著

レコードをコレクションし、自己満足に浸る。それは三十年ぐらい前のこと。今ではレコード針を求めるのも一苦労で、プレーヤーが健在でなければ再生もできない。もはや蓄音機か。そして、CD でコレクションをやり直すも、ハイレゾ音源の出現でまたもや迷走する。
とはいえ、デジタル化によって音質が保たれるということは、幸せな時代を生きていると言わねばなるまい。テクノロジカルに精神が同化した時、ノスタルジアやデジャヴといった感覚へ導かれる...

芸術は、極めて人工的な行為でありながら、自然な感覚に強く訴える。騒々しい日常から逃避するかのように...
おまけに、芸術は、自己主張の強い世界。ことクラシックでは、演奏家たちは誰もが作曲家の意図を忠実に再現していると、その正統性を主張してやまない。そのくせ、ちっとも強制的でなく、威圧的でなく、機械的でなく、鑑賞者に人間味のある自由な空間を提供してくれる。音楽は、心が平静であり続けることを許さない。音楽家たちは無責任にも、絶えずも心をかき乱すよう仕掛けてきやがる。圧倒的な才能たる腕力で無力感に苛ませ、これが心地よいとくれば、M性にはたまらない。
本書で紹介される演奏家たちの音楽哲学も様々で、即興的な天才演奏家あり、およそ考えられる限り完璧な域に達しないと披露しない者あり、一つの曲だけを徹底的に究めるスペシャリストあり... これほどの多様性をドレミファソラシドだけで体現できるとは。音符に魂を吹き込むとは、こういう仕事を言うのであろう。但し、最高のものばかり味わうのでは、ちと疲れる。駄作の存在感も噛み締めなければ。時代、時代に達人が登場し、そのたびに古典は新たな力を得て蘇る。古典ほど長く愛される新作があろうか...

さて、レコードには、作曲家と演奏家がセットになって刻まれる。そして、生涯でこの一枚!となるとなかなか手強い。選曲だけでも大変なのに、演奏家が絡むとほぼ無限に広がる。ベスト 10 を選ぶだけでも葛藤が収まりそうにない。
吉田先生ほどの音楽評論家ですら、「一枚のレコード」と題しておきながら、二十枚じゃ済まない。バッハのカンタータに宇宙論を求め、シューベルトのピアノ書法に清澄な光景を見い出し、はたまた表現主義的なネオバロックに惹かれるかと思えば、トロイメライにスラブ的な憂愁を感じ入り、エロイカシンフォニーに誇りをくすぐられ、魔笛に音楽のアルファとオメガを見るといった具合。音楽の思い出や音楽とのふれあいを風景画のごとく描いて魅せる。
ちなみに、α(アルファ)とΩ(オメガ)はギリシャ語アルファベットの最初と最後の文字で、聖書には神が最初から最後まで看取るという形で、これらの文字が刻まれる。音楽もそういう感覚で刻まれていくのであろう。
吉田先生にとっても、やはりモーツァルトは特別な存在と見える。
「魔笛とは何たる音楽だろう!! この音楽をきいて、胸を打たれない人は、音楽を必要としない人だ。こんなに美しくて、しかも冷たい水が歯にしみるように胸に沁みてくる音楽はほかにない。タミーノの恋心、パミーナの悲しみ、夜の女王の誇り高き怒り、パパゲーノの嘆きと有頂天、ザラストロのくそまじめな説教とモノスタトスの黒い欲望。三人の侍女と三人の童子の、奇妙に無量感を脱した呼びかけ... この中の、そうして、これ以外のすべての一つ一つが、何の作為もなしに、透明な矢のように私たちの胸にまっすぐに走ってくる。この音楽は、私にはほとんど涙なしにはきき終えられないものだが、さてその涙は悲しみから生れたのか、それとも喜びからのものかときかれても、わかったためしがない...」

1. オーマンディの一枚
無理やりにでも「一枚のレコード」とするならば、最初に出会ったものを挙げることはできよう。どんなに美味いラーメン屋に行っても、結局、地元のラーメンの味が忘れられないように...
そして、おいらが美少年と呼ばれていた小学校低学年の頃、曲名も分からず、テレビで聞いた記憶を頼りにレコード屋に連れて行ってもらった記憶が蘇る。それが何だったのか?結局分からず、ジャケットのオーケストラの見栄えだけで選んだ一枚が... 「新世界交響曲」、ユージン・オーマンディ + ロンドン交響楽団... であった。レコードの解説には、こうある。
「かつて... フィラデルフィア管弦楽団という天下の銘器は、ストコフスキーによってつくられ、オーマンディによってかき鳴らされる... といわれたものだ。」
おかげで、おいらの音楽鑑賞人生はオーマンディに始まり、コレクション人生はフィラデルフィア管弦楽団に始まったのだった。
本書にも、オーマンディのエピソードが綴られる。彼はこう言ったそうな。
「フィラデルフィア管弦楽団の音ということがよく言われるが、あれは私の音であり、オーマンディ・トーンと呼んで欲しい。」

2. 魔王に惹かれて
シューベルトにはデモーニッシュな面があり、魔王には何がしら不思議な力が宿る。国粋的で、大衆動員的な気配。志賀直哉は、この音楽を「子供を持ったことのない男の無思慮な残酷さ」と言って酷評したそうな。だが、この深く食い入ってくる悪魔性にどことなく惹かれるのは、吉田先生とて同じようである。

3. バロックな自由のエチケット
「十七世紀から十八世紀のバロックの音楽では、楽譜の書き方が近代のそれと違っていて、演奏されるべき音のすべてを、一つ一つ克明に書きつけておくというのでなく、楽譜に書かれたものを実際の音として現実化するに当っては、演奏家の判断、つまり彼らの趣味と手腕、音楽的教養と知性といったものに任せる部分が少なからずあった。特に、当時はまた、描写的標題音楽では、ソリストに最大限の自由を保証することがエチケットとされていたのである。」

2019-05-05

"ウィトルーウィウス建築書" Marcus Vitruvius Pollio 著

何を建て、何を築くか...
「建築」という概念も、二千年もの月日が流れると、随分と変質してきたようである。原題 "De Architectura" は、現代語の "architecture" で認知される建築術の範疇に収まりそうにない。それは、建築技術や土木技術はもちろん、音楽論、機械技術、造兵技術にまで及び、都市計画から国家防衛論までも視野に入る。ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築をあらゆる芸術の総体と捉えた。建築家という人種は、五感を存分に解放できる空間を求め、その空間のみが五感を超越した六感なるものを生起させる、かのように考えるものらしい。真の自由は、まさに空間にあると言わんばかりに...
「学問なき才能あるいは才能なき学問は完全な技術人をつくることができない... そして願わくば、建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである。」

時代は、アウグストゥスの時代。建築様式ではドリス式やイオニア式は廃れ、コリント式に取って代わっていたという。にもかかわらず、この建築書は、ローマ帝政時代に好んで用いられた様式にはあまり触れず、ドリス式やイオニア式に多くのページを割く。ウィトルウィウスは、古き様式に何を求めたのだろうか。人間社会ってやつは、繁栄の度が過ぎると、やたらと流行り建造物を乱立させるものだが、ローマ帝政時代にもそのような傾向があったと見える。この書は、時代への苦言と解するのは行き過ぎであろうか...
ちなみに、公共浴場については、ローマ時代に thermae(テルマエ)と呼ばれたが、ここでは、balneae(バルネアエ)という語を用い、この分野でも建築の地位が確立されていたことが見て取れる。

技術の進化が抽象的な概念を具現化していく。学問の進化が学問分野を細分化していく。各分野で専門性を高めれば高めるほど専門バカを量産し、門外漢を閉め出す。それで、哲学的な論点を見失うとしたら、それは進化なのだろうか。知識の総体を眺める立場と、より深い知識を探求する立場のバランスは、いつの時代も問われてきた。
技術の進化が大いなる利便性をもたらしてきたのは確かだ。今日、続々と出現する電子機器によってユーザたちは達人レベルに飼い慣らされ、もはや道具を使っているのやら、道具に使われているのやら。そして今、巷を騒がす AI ってやつは機械なのか、道具なのか。それとも、人間の方が...
AI は情報を集積し、学習し、そのデータを元に機能する。高度な計算や状況分析の分野では非常にありがたい代物である。となると、人間らしい知識とは、どんなものを言うのであろう。文明が高度化するほど、人間は人間自身を見失わせるのか。人体を構造的に眺めれば、原子や電子の集合体でしかないし、人間もまたオートマタに過ぎないのかもしれない。心臓の鼓動が、ゼンマイ仕掛けのオルゴールと何が違うというのか。精神の正体は、単なる自由電子の集合体なのかもしれない。純粋な意志が集まり過ぎると、脂ぎった意志に変貌するらしいことは、人間社会という集団性が示している...

さて、本書は建築のバランス感覚を成立させる要素として、「オールディナーティオー」、「ディスポシティオー」、「エウリュトミア」、「シュムメトリア」、「デコル」、「ディストリブーティオー」という用語を持ち出す。現代語で表現するなら、数学的な対称性やシンメトリーな美、調合性や均衡性といった感じになろうか...

「オールディナーティオーとは、作品の肢体が個別的に度に適っていることであり、全体的比例をシュムメトリアに即して整えることである。」

「ディスポシティオーとは、物をぴったりと配置することであり、その組み合わせによって作品を質を以て立派につくり上げることである。」

「エウリュトミアとは、美しい外貌であって、肢体の組立てにおいて度に適って見えることである。」

「シュムメトリアとは、建物の肢体そのものより生ずる工合よき一致であり、一定の部分が個々の部分から採られて全体の姿に照応することである。」

「デコルとは、建物が是認された事物によって権威をもって構成され、欠点なく見えることである。」

「ディストリブーティオーとは、材料や場所を工合よく配分することであり、工事の際の費用の計算によって細かく割り振ることである。」

ウィトルウィウスは、こうした用語に数学を結びつけ、当時、基本物質とされた四元素(気、地、火、水)を体現する場としての空間論を唱える。それは、神の宿る場としての、あるいは、魂の居心地の良い場としての宇宙論という見方もできよう...
「建築術の理論とコンパスの作図を通じて宇宙における(太陽の)挙動が見いだされる。宇宙は自然万物を総括する最高のものであり、星群と星の軌道で形成された天空である。それは、軸の両端を中心として、絶えず地と海のまわりを回転している。実に、ここで自然を支配する力は(宇宙を)このように建築的に組立て、中心としての両端を、一は地と海から天頂にあるいは北斗七星そのもののうしろに配置し、他は反対に地中を通って南方に配置した。」

人間は、その本性において模倣的である。技術の習得も、芸術の習得も、その鍛錬において似たところがある。何を師範にするか、それを作品に求めるか、師匠に求めるか、はたまた書に求めるか...
それにしても、本書の図柄を眺めていると、数学と芸術の相性の良さを感じずにはいられない。理念においても、表現においても、ヘレニスティックな香り漂う。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この大技術書を美術図鑑として眺めている...