2012-10-28

"幾何学入門(上/下)" H. S. M. Coxeter 著

マンデルブロは、著書「フラクタル幾何学」の中で自己アフィン性について熱く語ってくれた。次は、基本に戻ってハロルド・スコット・マクドナルド・コクセターに挑戦してみる。しかし、これが入門書とは...手強い!
本書は、ユークリッド幾何学から、アフィン幾何学、射影幾何学、位相幾何学(トポロジー)、そして、四次元幾何学すなわち多胞体までを概観してくれる。20世紀になると代数学や解析学の発達により、幾何学は補助的な地位に追いやられた。コクセターは、幾何学の名誉回復の趣旨で、この書を記したという。そして、古典への回帰とその重要性を仄めかす。
「本書全体の流れる統一的な筋は、変換群の思想、一言でいえば、シンメトリー(対称性)である。」

幾何学の歴史には、ユークリッド原論の第五公準をめぐっての攻防がある。それは平行線公理と呼ばれ、五つの公準の中で、こいつだけが明らかに異質だ。ここに、ユークリッドは非ユークリッド幾何学の可能性を示唆していたと想像するのは、考え過ぎだろうか...などと発言すると学生時代に笑われたものである。
ここでは、第五公準を境界にして、アフィン幾何学と絶対幾何学とで区別される。アフィン幾何学とは、第五公準を崇める立場にあり、ひたすら平行移動で変換系を構築しようとするもの。逆に言えば、第三公準や第四公準で示される円や角といった概念を無視する。いや、疎かにするぐらいか。対して、絶対幾何学とは、最初の四つの公準だけに依拠する立場にあり、平行性の概念を無視するもの。こちらは完全無視か。いずれも非ユークリッド幾何学に位置づけられるが、どちらが抽象度が高いかは知らん。アフィン幾何学は、特殊相対性理論で適用したミンコフスキーの時空にも成り立つという。幾何学的操作の基本には鏡映、回転、併進があり、線対称や点対称といった対称性の原理に見舞われる。そして、ベクトルが強力な道具となる。

「ベクトルと平行移動とは、呼び名はちがっているが、事実上は同じものである。」...ヘルマン・ワイル

図形を分割して順序に着目すると、そこに連続性のなんたるかが見えてくる。分割単位を無限小にすれば微分に結びつく。
「ふつうに行われている平行の概念は、少し拡張して、2直線は共通点をもたないか、2点以上を共通するとき平行としておく方が何かとつごうがよい。」
連続の公理については様々な記述があろうが、一つはコーシー点列が極限を持つということは言えそうか。となると、ユークリッド幾何学の多くの命題はアフィン幾何学に属すのだろう。ただ、絶対幾何学と名付けるからには、こちらの方が高尚さを匂わせる。なんとなく聖書にも通じそうなネーミングだから。トポロジーのドーナツとコーヒーカップが同じ形だなんて宇宙人の発想としか思えないし、射影幾何学にしても透視図法(いわゆる遠近法)やケプラーの無限遠点は芸術の視点だ。デザルグの定理に関する記述は、まさに芸術家の眼を物語る。
「2つの三角形が1点を中心として配景的なら、それは直線と軸としても配景的であり、また逆に、直線として配景的なら、点を中心としても配景的である。」
しかし、いくら非ユークリッドを主張したところで、双方ともユークリッドの部分幾何学であることに変わりはない。物理空間であろうと、精神空間であろうと、どんなに空間概念が進化しようとも、ユークリッドの亡霊からは逃れられない。やはり、ユークリッドの作品と後世に渡って構築されてきた完璧な証明群は、人類最高の記念碑と言わねばなるまい。

「数学は真理であるばかりでなく、最上の美でもある。数学は、ちょうど彫刻のそれのように、冷たく厳しい美であって、われわれの弱点をひきつけることは絶対ない。数学は、この上なく純粋で、最高の芸術のみが示しうるあの強固な完璧さに達することができる。」...バートランド・ラッセル

解析幾何学で、絶対に欠かせないのが座標の概念である。おかげで、方程式が導入でき、あらゆる変換系が説明できる。行列式は一段と輝きを放ち、三角関数もまた生きるというもの。方程式を単純化して事物の本質に迫ろうとすれば、座標系の方に手を加えることだってできるし、幾何学的な形そのものが座標系になることだってできる。円錐曲線の性質は、放物線を特別な形状空間に幽閉する。まさに相対的な認識能力しか持てない人間の技である。座標系を勝手にいじるなんて、絶対座標系を持った神には思いつきもしないだろう。
「解析幾何学というのは、n 次元の空間の点を、座標という n 個の順序のついた数の組で表わす方法であるといってよい。」
精神空間が歪んでいれば、真っ直ぐなものも曲がって見えるだろうし、曲がったものが真っ直ぐに見えることもあろう。実際そういう言い方をする。心が曲がっているなどと。数学は直線を好むが、芸術心は曲線美を好む。美を競う女体は至る所に曲線を魅せつけ、女どもはくびれ作りに執心だ。男どもは男どもで右曲がりのダンディズムを目指す。精神空間に曲率があるとしたら、心が曲がっている方が正常なのかもしれん。そして、精神になんとなく角度があることを感じながら、三角形に憑かれる。ピタゴラスの定理やヘロンの公式を眺めるだけで落ち着くのは、三角形に心のふるさとを感じるからであろうか?二体問題は完璧に解けるのに、三体問題になると途端に解けない。だが、人は皆、複雑で退屈しない空間がお好き。だから、三角関係や三面記事を好むのか?やはり心が曲がってそうだ。
非ユークリッド空間に馴染めば、2平面が交わっても直線を共有しないことがあると言われても、まごつくことはないだろう。しかし、主観には様々な曲率が混在しているように思える。曲率の違った空間を複合して精神空間を形成すれば、それは何幾何学と呼ばれるのだろうか?多重人格の正体は、多重曲率空間であったか...

「わたくしは、自分が世間の眼にどう映っているかは知らない。けれども自分自身としては、海辺にあそんでいて、時折ふつうよりもなめらかな石や美しい貝をみつけて楽しんでいる子供にすぎないのではないかと思われる。しかも真理の大洋はまるで未知のままに、わたくしの眼前によこたわっている。」...アイザック・ニュートン

本書の話題は、目が回るほど豊富だ。定規とコンパスで作図できる条件とフェルマー素数の関係、等長変換と相似変換、結晶格子学、黄金分割と葉序、テンソル記法とクリストッフェル記号、デュパンの標形、デザルクの定理、完全6点列、有限回転群とプラトン立体の関係、四色問題と六色定理、オイラーの多面体定理とヒーウッドの定理、多胞体とシュレーフリの公式など...難解ではあるが、眺めているだけでなんとなく癒される。こういう感覚になれるのは...真理の偉大さがそうさせるのか?やはり真理とは、人をMにするものらしい。

1. 完全6点列と調和点列
射影幾何学の最も美しい特質の一つは、双対原理であるという。射影平面上の定理では、「点」と「直線」という語を入れ替えても、定理が依然として成り立つというから驚きだ。共線変換では、直線を直線に、点列を点列に、線束を線束に、完全四角形を完全四角形に変換する。相反変換では、点を直線に、直線を点に、点列を線束に、完全四角形を完全四辺形に変換する。
尚、完全四角形とは、平面上の4つの任意の点を2点ずつ2組に分ける組み合わせは3通りあり、これらの点を結ぶと6本の直線が引け、その4点と6直線とでできる図形である。完全四辺形とは、平面上に4本の直線があり、どの2本も平行ではなく、どの3本も共通の交点をもたない場合、直線どうしの6個の交点からなる図形である。
「完全四角形の2組の対辺がそれぞれ垂直ならば、残りの1組の対辺も垂直である。」
また、無限遠点が特別な役割を果たさないという事実を強調するために、重心座標を放棄するという。具体的には、完全6点列が調和点列になる特殊な例を紹介してくれる。完全6点列とは、完全四角形の6直線を、その頂点を通らない任意の直線で切ってできる図形のことで、6点列が特殊な場合において調和点列をなすという。ちなみに、調和点列では、任意の点 A, B, C, D が直線上にある時、AB : BC = AD : DC の関係になる。
完全6点列の各点は、残りの5つの点から一意的に定まるわけだ。任意の点を直線上以外に選び作図していく様を眺めれば、調和点列は定規だけで作図できることが見えてくる。そして、調和点列を射影座標と見ることもでき、二次元空間を一次元空間に投射していると解することもできる。

射影幾何学の基本定理:
「射影変換は、1つの点列の中の3点と、他の点列の中のそれに対応する3点を指定すれば、一意的に定まる。」

2. 有限回転群と無境界仮説
回転とは、例えば集合 (a, b, c, d, e, f) において、a と b を交換し、 c を d に、d を e に、f はそのままといった変換をする。要するに部分的な巡回置換だ。こうした巡回群を、幾何学的に解釈するとどうなるか?例えば、正三角形を一辺について対称変換を行い、この操作を繰り返せば、正四面体が形成される。このような回転群は必然的に円軌道を描くだろう。しかも有限回に閉じられるはず。なるほど、有限回転群と巡回群は同型の群と見なすこともできそうか。次の記述が、五つのプラトン立体に通ずるのは言うまでもない。

「3次元の有限回転群は、巡回群 Cp(p = 1, 2, 3, ...)、二面体群 Dp(p = 2, 3, ...)、
四面体群 A4、八面体群 S4、20面体群 A5 にかぎる。」

ところで、有限回転群に支配された空間とは、どんな世界であろうか?1点を通るすべての直線が一巡して元へ戻るように、1直線上の点の集合は閉じている。有限の平面に閉じられる点が、直線上を永遠に進めば、元の位置に戻る。すると、回転群をどんどん細かく分割していき、無限集合に拡張しようとすると、直線はやがて曲率を持ち始め、ついには円になるということであろうか?距離の変換によって、直線は円に近づき無限遠となって極限は消滅する。数学的に言えば、集積点が消滅する。第五公準を仮定しなければ、永遠に円の中に幽閉されるではないか。これが宇宙の無境界仮説の正体なのか?んー...そうだと勝手に解釈しても、今度は曲率が負になる空間が説明できない。曲率が負になる空間を、単純に曲率が正の宇宙の外側の空間とすればいいのか?だとすると、宇宙の外側の空間では、二度と同じ位置に戻れないということか?そうかもしれん。これが時間の正体なのか?だから、人はいつも心の外で後悔し続ける。これを客観性と言うのかは知らん。人間が思考するとは、ハムスターが回し車の中で永遠に走っているような状態を言うのかもしれん。

3. テンソル記法とクリストッフェル記号
「有名なリッチの記法を導入しよう。この記法は意味深くもあり経済的である。この助けがなかったとしたら、一般相対論を定式化することはおそらく不可能であったろう。」
テンソルは、多次元の行列として表現できる便利な道具で、線形性を扱う時に病みつきとなる。例えば、ベクトル空間の基底 r1, r2, r3 に対して、双対基底 r1, r2, r3 を用いると、次のように表せる。

  rα・rβ = δαβ

δは、クロネッカーのデルタとして知られる。ただし、αとβは、単なる添字にすぎない。この記法を幾何学に持ち込むと、r1 は、平面 r2r3 に垂直で、長さは、r1・r1 = 1 となる。r2 や r3 についても同様。また、共変テンソル gαβ = rα・rβ と、反変テンソル gαβ = rα・rβ という二つの対称行列の積は単位行列となる。
そして、クロネッカーのデルタと似た交代記号を紹介してくれる。交代エプシロンとかいうもので、なかなか便利そうな形をしている。

  εαβγ = εαβγ = 1/2(β - γ)(γ - α)(α - β)

さらに、クリストッフェル記号を見せられると、ある種の巡回群が見えてくる。

  第一種クリストッフェル記号: Γij,k = 1/2{ (gjk)i + (gik)j - (gij)k }

これが測地線の大定理として紹介されると、精神空間もテンソル記法でモデリングできるのではないかと思えてくる。

4. デュパンの標形とオイラーの公式
デュパンの標形が、曲面率を与えるオイラーの公式になるプロセスは感動モノだ。

デュパンの定理:
「たがいに直交する3つの曲面系では、そのうちの1系の曲面上の曲率線は、かならず2つの系の曲面の交わりになっている。」

リューヴィルの定理:「すべての等角変換は球を球に移す。」

曲面がモンジュの形 z = F(x, y) で与えられると、導関数は次のようになる。

  z1 = ∂z/∂x, z2 = ∂z/∂y, z11 = ∂2z/∂x2, z12 = ∂2z/∂x∂y, z22 = ∂2z/∂y2

そして、マクローリン展開すると、次のようになるという。

  z = z(0, 0) + z1x + z2y + 1/2(z11x2 + 2z12xy + z22y2) + 1/6(z111x3 + ...) + ...
     = 1/2(b11 x2 + 2 b12xy + b22y2)

この平行平面の切り口は円錐曲線の形になっている。デュパンの標形とは次のようなもので、これと相似になるということらしい。

  b11 x2 + 2 b12xy + b22 y2 = ±1

また、標形上で任意の方向での動径の長さは、この方向での法曲率半径の平方根に等しいという。原点からのベクトル r(x, y, z) において、法曲率 k とすると、次の関係が得られるという。

  r = 1 / √|k|

これを極座標系に変換すると、曲面率を与えるオイラーの公式になる。

  k = k(1) cos2 θ + k(2) sin2 θ

5. オイラーの多面体定理とヒーウッドの定理

  V - E + F = 2 (V:頂点の数, E:辺の数, F:面の数)

これがオイラーの多面体定理である。任意のコンパクトな曲面上に対して成り立つ公式に拡張すると、次のようになるという。

  V - E + F = χ ≦ 2

χをオイラー - ポアンカレの標数と呼ぶそうな。
また、ヒーウッドの定理は、任意の曲面を塗り分けるのに十分な色数を規定する。
「種数 χ < 2 の曲面上の地図を塗り分けるには、高々 N 色で十分である。」

  N = {7 + √(49 - 24χ)} / 2

ここで種数について議論され、種数 p において次式が成り立つという。

  χ = V - E + F = 2 - 2p

尚、球面は種数0、円環面(トーラス)は種数1の閉曲面となり、この場合の種数は穴の数ということになろうか。ただ、ヒーウッドの公式は、以下の形の方をよく目にする。

  N = {7 + √(1 + 48p} / 2

6. 正多面体と正多胞体
正多胞体とは、3次元の正多面体すなわちプラトン立体を四次元に拡張したものである。正多面体は、正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の5種類ある。一方、正多胞体は、正五胞体、正八胞体、正十六胞体、正二十四胞体、正百二十胞体、正六百胞体の6種類ある。これらをシュレーフリ記号で表すと、次のようになる。
尚、シュレーフリ記号は、構成面の正 p 角形、各頂点に集まる面数 q とした時、4次元では {p, q} を胞(セル)と呼び、一辺に集まる胞数 r とすると、{p, q, r} の形で表す。


シュレーフリ記号V, E, F
正四面体{3,3}4,6,4
正四面体(立方体){4,3}8,12,6
正八面体{3,4}6,12,8
正12面体{5,3}20,30,12
正20面体{3,5}12,30,20
  (V:頂点の数, E:辺の数, F:面の数)


シュレーフリ記号N0, N1, N2, N3
正五胞体{3,3,3}5,10,10,5
正八胞体{4,3,3}16,32,24,8
正16胞体{3,3,4}8,24,32,16
正24胞体{3,4,3}24,96,96,24
正120胞体{5,3,3}600,1200,720,120
正600胞体{3,3,5}120,720,1200,600
  (N0:頂点の数, N1:辺の数, N2:面の数, N3:胞の数)

こうして頂点や辺や面や胞の数を眺めるだけで、対称性の原理に秘められた真理の数なるものの存在を予感させる。「万物は数である」と信じても不思議はないか。やはり、幾何学は宗教であったか。

2012-10-21

"フラクタル幾何学(上/下)" Benoit B. Mandelbrot 著

買ったはいいが、一年ぐらい積まれたまま、亡霊のように付き纏う奴らがいる。それは未読エリアと呼ばれ、退治に乗り出しても乗り出しても、部屋の一郭に代わる代わる陣取ってやがる。もはや、混沌とした知識の山が異次元空間に埋もれていくのを、指をくわえて見ているしかない。中でも、こいつは一際手強い。なにしろ数学界の怪物を相手取るのだから...

怪物たちは、非整数次元や非整数微積分という奇妙な空間に住んでやがる。非整数というからには離散性を否定する。しかし、だ。連続性を主張しながら、微分不可能とはどういうわけか?ユークリッド幾何学では、点、線、面...を、0次元、1次元、2次元...に対応させる。つまり、次元は整数で組み立てられる。非ユークリッド幾何学の立場にトポロジー(位相幾何学)があるが、位相においては連続性を保っても、次元の移行ではやはり離散性を示す。徹底的に連続性を崇めるならば、空間次元においても連続性を保ちたい。そこで登場するのがフラクタル次元だ。
フラクタル幾何学とは、ユークリッド幾何学やトポロジーで常識とされる離散的次元を連続的次元に拡張しようとするもの、とでも言っておこうか。尚、ライプニッツは、既に微積分を非整数で一般化していたそうな。その意味で、古典数学に隠された素顔を暴こうとする試みである。ユークリッド空間では、直線は1次元だが、海岸線は平面に拡がるので2次元ということになる。トポロジー空間では、直線も海岸線も同じ線だから、位相で抽象化されて1次元となる。ところが、フラクタル空間では、直線より海岸線の方がどう見たって複雑なのだから1次元より大きく、正方形のように面を埋め尽くすわけでもないのだから2次元より小さいとする。こうした視点は極めて感覚的ではあるが、合理性があるかもしれない。
議論する時、人は「思考の次元が違う」などと言い相手を蔑む。次元は認識空間において自己存在にかかわる重要な問題なのだ。そこで、3次元空間に肉体を置くと知りながら、精神という証明のしようのない空間に救いを求める。やはり次元の違う自我がどこかに存在するのだろうか?精神空間にはフラクタル次元のようなものが形成されているのだろうか?おそらくそうだろう。その証拠に、いつもフラフラよ!千鳥足になってどんなに複雑な軌道を描こうとも、俺は酔ってないぜ!と主張し、真っ直ぐ歩いているつもりでいるのだから。

フラクタル幾何学を実践面から眺めると、まだまだ未知数のようだ。とりあえず統計解析の分野で利用されるのだろう。おいらは、統計学と聞くと拒否反応を示す。というのも、分布モデルに当てはめることに執着し過ぎるように思えるからである。モデリングに失敗すれば、簡単にピント外れな議論に陥り、たちまち誤謬をばらまくことになる。その意味で、数学から程遠く、社会学に近い印象がある。なによりも、型に嵌めようとする考え方が嫌いなのだ。その代表と言えば、ガウス分布。正規分布とも言うが、何が正規なんだか?初等教育で学業成績の偏差を例に持ち出せば、学生は素直にうなずく。しかし、現実社会には非ガウス分布が溢れている。新たな問題が発生すると、とりあえずガウス分布に当て嵌めてみる。その考えが悪いとは思わないが、信仰化する傾向がある。株式市場ですら、ちょいと前までガウス過程を想定してきた。ド素人感覚で言えば、関数の直交性や対称性から地道に解析すればいいものをと思うのだが、おそらく複雑系を相手取ると、なんらかの法則や型に嵌め込んで近似する方が現実的なのだろう。
本書は、統計理論があまりにもガウス過程を信じこんできた弊害を指摘している。ガウス過程に着目して非定常性を想定するために、スケーリング則に持ち込めず、幾何学的な解析ができないと。逆に、定常性に着目して非ガウス過程を受け入れれば、安定した確率過程でモデリングできるという。スケーリングとは、拡大縮小や鏡映や回転などの幾何学的な変換操作とでもしておこうか。その重要な特性に自己相似性があるが、ここでは「自己アフィン性」という用語を持ち出している。
ところで、アフィン変換って、ユークリッド幾何学で言うところの第5公準を中心にした物の考え方じゃなかったっけ?つまり、ひたすら平行移動だけで変換系を説明しようするもので、その中心的概念は合同や相似ということになる。学術的な立場からすると、曲率を中心にしたトポロジーとは真逆な発想で、抽象レベルでは低い方向に映る。
そこで、例のごとく思考が勝手に暴走を始めるのであった...
相似性だけで複雑な現象に追従しようとすれば、拡大縮小、回転、鏡映、反転、ループ、カスケードなどの操作が必要になる。ただ、時間軸と空間軸で同じ相似比ではかなり制約を受けるので、各々の次元で独立した相似比に対応させることになる。連続性を保つならば、どこかに不動点が存在するかもしれない。不動点が存在しなければ単純な平行移動で、不動点が存在すれば逆変換と捉えることもできそうか?つまり、回転操作に対して不動点で簡略化できるということか?その意味では抽象レベルが高い方向なのか?また、スケーリングでは、対数スケールや指数スケールに留まらず、あらゆる関数的スケールまでも含まれるのであろう。ただ言えることは、その根底に対称性の原理があるということ、そして、手に負えない無秩序な現象に対して唯一秩序として引き止めてくれるのがスケーリングであるということ、ぐらいであろうか。
...などと勝手に解釈してみたものの、自分の理解力の乏しさを露呈する結果となってしまった。だが、なぜか心地良い。難解な書とは、M本能を呼び覚ますものなのか?

本書は、最初に多くの知見をまとめたエッセイであることが宣言され、フラクタル理論が完成にまだ遠いことも曝け出す。特定のケーススタディの形式で記述されるのは、まだ結論めいたものが打ち出せないからであろう。分布モデルの型に嵌めるというより型を模索するという意味では、統計学よりも解析学に近いか。抽象化のアプローチとは対立的で、現実からのアプローチという意味では、数学よりも科学に近いか。フラクタルにとって、スケーリングが重要な概念であることは分かる。幾何学的解析には欠かせない視点であろうから。しかし、非スケーリングなフラクタル集合も紹介されるから、訳が分からん。フラクタル次元が複雑度を示すのに有効であることは分かる。ただ、フラクタルかそうでないかの曖昧さは拭えない。一応、このように定義される。
「フラクタルとは、ハウスドルフ - ベシコビッチ次元が、トポロジカル(位相)次元よりも大きくなる集合である。...
非整数Dを持つすべての集合はフラクタルである。...」
次元の索引では、ペアノの平面充填曲線は、D = 2、カントールの悪魔の階段は、D = 1 で、いずれも「予想に反してフラクタルでない集合」に分類される。そうなると、カントールの悪魔の階段をフラクタルとするには、別の概念が必要になりそうだ。んー...フラクタルの定義そのものがぼやけてくる。また、割れたガラスの断面がフラクタルとは似つかないものに対して、石や金属の破砕(フラクチュア)面はフラクタルだという。フラクタル理論があらゆる複雑系を言い当てるほど万能でないことは、確かなようだ。フラクタル性は、純粋ランダム性とも違う次元にありそうか。

1. フラクタルの研究方針...ブラウン運動、非整数次元、くりこみ論
物理的なブラウン運動の幾何学モデルにウィーナー過程があるという。連続的な確率過程で、ランダムウォークを分析する時に重要な概念とされるそうな。意外にも、ブラウン運動は単純な現象だという。直線運動と衝突だけで説明できるのだから、単純と言えば単純か。そして、紹介される事例の多くは、ブラウン運動を修正したものである。
最も基本的な操作は、自己相似形のカスケードで生成される。ある次元 D において、自己相似形に支配されるということは、全体が相似比 r で N個の部分に分割できるということである。その関係は、次式のようになる。

  r = 1 / N1/D

変形すると、

  NrD = 1
  D = log N / log (1/r)

これがフラクタル次元である。ユークリッド次元を E とすると、0 ≦ D ≦ E の関係になる。具体的な事例がわんさと紹介されるが、気になるところをつまんでおこう。
(E: ユークリッド次元, D:フラクタル次元, DT: トポロジカル次元)

・海岸線(リチャードソンの指数)E = 2,D = 1.2,DT = 1
・カントール集合(カントールダスト)E = 1,D = log2/log3,DT = 0
・トリアディックなコッホ曲線E = 2,D = log4/log3,DT = 1
・アポロニウスのガスケットE = 2,D = 1.3058,DT = 1
(正確な上限と下限は、1.300197 < D < 1.314534)
・一様なフラクタル乱流E = 3,D = 2.5 ~ 2.6,DT = 2

しかしながら、フラクタル次元が整数の場合もあるようだ。

・E ≧ 2 における連続的なブラウン軌跡D = 2,DT = 1
・E = 2 における連続的なブラウン関数D = 3/2,DT = 1
・E > 2 における連続的なブラウン関数D = 1 + (E - 1)/2,DT = 1

連続なブラウン運動の軌跡と関数は同値にならないという。だから区別して記述される。尚、ブラウン運動という用語そのものが曖昧だという。確かに、時間的な軌跡と事象的な関数では、観点が違うような気がする。本書の話題は、このブラウン運動を基本に置きながら修正を加えていくことになる。
また、重要な概念に「くりこみ論」がある。くりこみ群の目的は、観測における粗視化の度合いを変えたときの物理量の変化を定量的に捉えることだという。その特徴は、逆変換をもたず、粗視化した状態を与えても一意的に元の状態に戻らないという。例えば、乱流は自己相似的ないくつかの渦に分解され、散逸に終わるという。エントロピーの法則に従うのだろうか?このようなモデリングには、ハミルトニアンを用いる方法があるそうな。有限にくりこまれたハミルトニアンは、ある程度縮小された図形の分布を与えるという。そして、この極限の分布がフラクタル次元を与えるはずだとしている。なかなか手強い研究方針だ。様々なランダム図形の結合確率分布を求めるようなものであろうか?

2. カントールの悪魔の階段
病的とされるカントール集合だが、原理そのものは単純だ。まず、線分 [0, 1] を3等分し、中央区間 [1/3, 2/3] を取り除く。残った部分を更に3等分して、中央区間を取り除く。この操作を無限に繰り返し、残った点の集合である。操作方法を眺めれば、通信回線におけるバーストエラーの分布モデルをイメージさせる。
そのフラクタル次元は、D = log2 / log3 = 0.6309...
1より小さいとは、存在するようで存在しないような...存在確率と相性が良さそうな...
本書は、「カントールダスト」という用語を提唱している。これは、言うまでもなく不連続体である。ところが、カントール関数は単調増加の連続体になるから摩訶不思議。カントール関数とは、カントール集合に質量の概念を持ち込んだようなものらしい。
まず、元の棒の長さと質量をともに 1 とし、横座標 R の値が、0 から R の間に含まれる質量を M(R) とする。ギャップには質量がないので、M(R) が変化しない区間がある。そして、座標 (0, 0) から (1, 1) まで増加するグラフを描くと、なんと!質量の概念を加えるだけで不連続体が連続体になってやがる。しかも、微分不可能ときた。この階段は、一様性が欠落したカントールの棒を、一様で均質なものに写像するという芸当をやってのける。
また、ギャップ(隙間)をトレマと呼んでいる。ギリシャ語では穴を意味するそうな。ちなみに、重要な科学的意味を伴って活用されない最も短いギリシャ語であろうと、笑わせてくれる。
トレマ側が重要なモデリングになることもある。トレマの長さの和は次のようになる。

  1/3 + 2/32 + ... + (2k)/3k+1 + ... = 1

これは、乗数理論モデルをイメージさせる。こうなると、連続性の定義そのものを見直す必要があるかもしれない。そして今、知らず知らずして悪魔の階段を登っているってことはないだろうか?千鳥足で歩きながら記憶がぶっ飛ぶとは、まさに不連続体への写像を体現しているのではないか?

3. 宇宙のクラスター化
膨張宇宙と言われるが、物質密度は均等化するようには見えない。銀河はその集団性を壊そうとはしない。物質の世界では、ポリマーのような重合した巨大分子が、複雑な幾何構造を維持しながらブラウン運動をする。通信回線ではエラーの出現に間欠性が見られ、磁気記憶装置の誤り訂正符号はバーストエラーに対処する。そして、なによりも人間社会は群衆化を好む。どうやら自然界は、均等性よりもクラスター化を望んでいるようだ。完全な分散システムを構築することは、ほぼ不可能なのかもしれん。
宇宙の均等化と言えば、オルバースのパラドックスという有名な逆説がある。天体が一様に分布していれば、すなわち、あらゆるスケールに対して D = 3 と仮定すれば、昼夜を問わず光り輝くことになる。しかし、宇宙のクラスター化を前提にすれば、このパラドックスを回避できるという。たとえ宇宙が無限空間であったとしても。フラクタル宇宙の研究者たちは、そのことに気づいていたという。しかし、歴史は彼らを病的に扱ってきたという。
その功績ではフルニエの宇宙モデルを紹介してくれる。科学界では嫌われ者だそうな。ユグノー教徒を祖先に持ち、唯心論者で宗教的神秘者でもあったというから、そのせいかは知らん。フルニエは、盲人が文字を聞くことができる人工器官を作ったり、初めてロンドンからテレビ信号を送ったりした人物だという。マンデルブロは、ケプラーへの反論として持ちだそうとしなかった議論を、フルニエへの反論として持ち出すことに納得がいかない様子だ。
ところで、宇宙の密度って、どうやって定義するのだろうか?
まず、地球を中心に定義してみよう。半径 R の球内の質量 M(R) とすると、次式で近似できる。

  M(R) / [(4/3)πR3]

R を無限にすると、近似密度が収束する極限値として宇宙密度が定義できるという寸法だ。ただ、宇宙が球形なのかは知らん。過去の観測値では、望遠鏡で観測できる範囲が拡がるにつれ、近似密度は驚くほど規則正しく減少しているという。そして、次式の関係でうまく推測できるそうな。

  M(R) ∝ RD

カントールダストでも同じ結果を得たという。地球近辺から始めれば、最初は3次元が現れることになる。そして、周辺には物質がないから、次に0次元がくるのか?さらに観測範囲を拡げて物質にぶつかると、また3次元に戻るのか?大雑把には、0 < D < 3 あたりの分布になりそうか。フルニエの理論値では D = 1 となるらしいが、最良の推定では D ≒ 1.23 になるという。ただ、宇宙密度が正に収束する必要があるのかは知らん。それに、宇宙が時間とともに膨張しているのなら、フラクタル次元は時間の関数にならなくていいのか?

4. コンピュータ回路の幾何学
複雑なコンピュータ回路では、多数のモジュールに細分化される。多数の要素 C とし、多数のターミナル T を介して周辺機器と接続されるとすると、数%の誤差で次式の関係があるという。

  T1/D ∝ C1/E

いわゆる、レントの法則か。実際、電子回路設計では、これと似た感覚でゲート規模の見積もりをやる。C をモジュール全体の体積、T を分割されたモジュールの表面積の和と捉えれば、幾何学的考察ができるはずだ。モジュールの表面積の和とは、インターフェースの持つ総ビット数、あるいは総情報量という見方をすればいい。ただ、モジュールの質の概念が曖昧で経験的なものが大きい。つまり、勘よ。尚、同じ性能分析が人間の能力においても説明できるかは知らん。例えば、脳のつまり具合や質量やらで。

5. R/S解析とハースト指数
ハロルド・エドウィン・ハーストは、アスワンハイダムの計画にあたり、ナイル川の流量分析から、R/S解析とハースト指数を考案したという。
0 年から t 年までの川の流量を総計したものを X(t) とする。t を 0 から d まで変化させ、d 年目における平均値からの増加量と減少量の累積和を求め、その累積和の最大値と最小値の差を R(d) とする。これは、当面の d 年間を支障なく過ごすために備えるべく貯水量ということになる。そして、次式を導いたという。

  R(d)/S(d) ∝ dH

S(d)はスケーリング因子で、とりあえず標準偏差としておこうか。解釈が間違っていたらごめんなさい。というのも、こう記される。
「0 年からd 年の間の標本の平均流量を各年の流量から引いて調整し、t が 0 から d まで変化するときの調整された X(t) の最大値と最小値の差によって R(d) を定義する。」
この調整というニュアンスがよく分からん。おまけに、各年の流量はガウス型ホワイトノイズに従うという仮定の元では、S(d) は重要でないとしている。実際は重要らしいが、マンデルブロの論文を読めってか。
ハーストは、マルコフ的であることを期待したが、予想外の結果となったそうな。川の流量では、H はほとんど 1/2 より大きくなるらしい。ナイル川は、H = 0.9 で、各年の流量は独立とは程遠い。セントローレンス川、コロラド川、ロワール川は、H = 0.9 ~ 0.5 だそうな。H の範囲は 0 ≦ H ≦ 1 となり、0.5 より大きければ持続性があり、0.5 より小さければ持続性がないことを意味する。実際、ハースト指数は市場経済でトレンド性を分析するために用いられる。

6. 主観的数学か、芸術的数学か
しばしば数学は客観性に富んだ学問とされるが、次元の中間的な按配を求める発想は主観性の強い数学と言えよう。このような思考は、カントに通ずるものがある。カントは、理性を構築するには客観だけでは不十分だとし、主観で魅了した。彼の重視した主観とは、直観と芸術心である。本読は、美術品にもフラクタルが出現する例を紹介してくれる。啓蒙用聖書の口絵、レオナルド・ダ・ヴィンチの「大洪水」、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」など。
それにしても、コンピュータが作図した仮想惑星、仮想大陸、仮想山脈は、気味が悪いほどリアル!D = 2.1 から 5/2 のブラウン湖の景観、D = 2.3 のブラウン諸島など。「ガウスの山」と呼ばれるCGを眺めるだけで、自然界に存在する複雑系はすべてガウス過程で説明できると錯覚しても仕方があるまい。だが、現実は非ガウス分布に満ち満ちている。そうなると、ガウス分布を用いる正当性を説明する必要がある。山脈はスケールの不変性という特性を持ち、連続的な起伏をもたらす分布が、ガウス分布と相性がいいようだ。最も簡単な起伏はブラウン関数に支配されるという。そして、「非整数ブラウン関数」と名付けている。ブラウン関数の特徴は、どの部分を垂直に切っても、断面は線分のつながりである普通のブラウン関数になることだという。当たり前か。さらに「非ガウスの山」も紹介されるが、これまた気味が悪いほどリアル!ここに提示される数学は、芸術に近い数学なのかもしれん。コンピュータの観点からの芸術とは、些細なバグによってもたらされる結果であろうか?

7. 孤高の英雄たち
今でこそ学問の本流に名を連ねる天才たちだが、彼らが生きた時代には夢想家や異端者とされた人たちが大勢いる。社会から受け入れられるのは、皮肉にも人生の幕を閉じてから。貧乏生活を送り、共同墓地に埋葬された偉人も珍しくない。人類の文明は、こうした孤独の英雄として生きた人々によって支えられる。対して、時代の寵児とされる人たちが、隠れた英雄を覆い隠すかのように生きているのかは知らん。アカデミーや学会などの客観性に富んだとされる団体でさえ、政治的思惑に支配される。あまりにも突飛的な着想がゆえに、審査会から侮辱的な評価を受けたりと。フラクタル幾何学に携わった研究者たちは、まさにそんな人たちの集まりだという。
レヴィ分布のポール・レヴィ、乱流における微分方程式の離散化モデルを提唱したルイス・フライ・リチャードソン、連続時間における確率過程によって株価変動を推測したルイ・バシュリエ、宇宙をスケーリングで説明できるとしたフルニエ、単語の出現頻度の順番と出現確率の関係が反比例するというジップの法則を提唱したジョージ・キングズリー・ジップ、などなど...いずれも、今日もてはやされるロングテール現象やべき乗則を説明するための道具とされるが、その功績はあまり目立たない。真理を探求する匠たちの執念は、けして脂ぎった欲望から生じるものではあるまい。
「現代数学が重視している抽象的な理論からなにか実際の用に役立つことが引き出され得るかという質問に対しては、ギリシアの数学者達が、数時代後に天体の軌道を表現することになるとは思わずに、円錐曲線の諸性質を発見したのは、その純粋な思索が基礎にあったためであると答えておくのがよいだろう...アーメン」

2012-10-14

"美の構成学" 三井秀樹 著

美とは何か?こうした主観的概念への問いは、永遠に繰り返されるであろう。それは、精神そのものが得体の知れない抽象体であることの証であろうか。科学者は単純な理論を美しいと言う。数学者は単純な数式で世界を表せれば、それを美しいと言う。芸術家は本質的なものをうまく体現できた瞬間、新たな世界美に酔い痴れる。いずれも真理の探求とその苦悩から解放された結果であろうか。真理とはよほど心地良いものらしい。
何をするにしても、センスが良いというだけで惹きつけられるものがある。ファッションやインテリアばかりでなく、仕事スタイルやライフスタイル、そして思考のスタイルに。金持ち振りを見せびらかすのではなく、さり気なく演出されるしぐさや哲学に。これぞ美学というものであろうか。それにしても、芸術とは奇妙なものである。写生した絵画が芸術的な評価を受けても、実物には目もくれない。オーケストラの奏でる音はとても自然界ではありえないのに、高尚な趣味とされる。極めて人工的なものに目を奪われるのは、自然を征服したとでもいうのか?いや、永遠に満たされない虚しさを表明しているだけのことかもしれん。

人類は、古くから美しい形やプロポーションに憧れ、造形に対して調和の美を求めてきた。美の摂理は、伝統的な様式の踏襲と芸術家たちの直感に支えられてきた。どんなに複雑な形でも、対称性を示すだけでなんとなく和む。なにしろ、人体という入り組んだ形に対して、脚から頭までシンメトリーというだけで美人の概念が成り立つのだから。美に共感が生じるということは、そこになんらかの普遍的な感覚があるのだろう。構成学とは、まさに美の原理体系を学術的に模索しようとするものである。著者は、構成学という学問があまり認知されていないことを嘆く。電子工学や宇宙工学を学ぶためには、基礎である物理学の諸原理を学ばなければ話にならない。ところが、構成学を学ばなくてもグラフィックデザインやファッションデザインはできる。こうした背景が、構成学を魅力のない学問にしていると指摘している。確かに独学型のデザイナーは少なからずいる。国語教育から逸脱した小説家が大勢いるように。だからといって、基本を疎かにすることにはならない。独学ほど能動的な学び方はないだろう。学問には堅苦しい印象もあるが、実は、芸術と同じくらい自由とすこぶる相性がいい。おそらく構成学的な思考は古くからあり、独学的な歩みを遂げてきたのであろう。古代の建造物や美術品には、シンメトリーや黄金比やルート矩形といった数理的原理が多大に盛り込まれる。やはり、人間はユークリッド幾何学の純粋さに居心地の良さを感じるようだ。
しかし、学問として本格的に始まったのは、1919年ドイツの造形学校「バウハウス」からだそうな。そして、色の三要素、色彩対比、配色や単純な幾何学的形体を用いたリズムやコンポジションなどが盛んに研究されたという。ちょうど産業革命後、世界中に工業生産の波が押し寄せた時代と重なる。機械生産からは見出せない美的感覚の必要性から、構成学なるものが生じたという。その理念は、ネーミングからして後の構造主義に通ずるものを感じる。「構成」はドイツ語の「Gestaltung」、英語の「Construction」の翻訳というから、建築的発想を主眼にしているようだ。ちなみに、ガウディは自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家になり、建築家のみが他の芸術を支配する空間を組織できるとした。バウハウスは、ガウディ精神が受け継がれるように映る。

人間の造形に対する美的感覚は、極めて複雑な形を相手にする。人は奇妙な曲線美や不条理な形に芸術を感じる。日本の伝統美では、茶碗にみる釉薬の流れや、滲み、かすれ、あるいは偶発的に生じるひび割れや墨流しのようなパターンまで、わび、さびの表象としてきた。まさに芸術は、理不尽さを見せつける。
一方で、数学には複雑な形を分析する手法にフラクタル理論がある。その基本概念は、自己相似形を用いて、鏡映、回転、平行移動、拡大縮小といった幾何学操作にある。フラクタル幾何学の父ブノワ・マンデルブロは、雲と山の風景をデジタル数値のみで写真のようなリアルな映像を再現して世間の度肝を抜いた。以降、フラクタル・パターンが各国で次々と発見される。フラクタル理論は、どんな複雑系も定量化できる可能性を示唆している。実際、この偉大な数学者は、あるインタビューで経済学者を名乗り、株式市場の分析をやってのけた。構成学にも、鏡映や回転といった幾何学操作によって造形の美を解析しようとしてきた歴史がある。
本書は、バウハウスの理念からフラクタル理論までの構成学の歩みを概観してくれる。構成学とは、人間の美的感覚に数理的秩序を結びつけ、さらに哲学までも結びつけようとする学問というわけか。改めて科学と芸術の相性の良さを感じるのであった...

1. デザイン運動のはじまり
ヴィクトリア朝の時代、大量生産による安価で粗悪な商品が溢れたという。19世紀、産業革命によって引き起こされた工業生産に対抗して、アーツ・アンド・クラフツ運動が起こる。ウィリアム・モリスは画家や工芸家に働きかけた。機械生産は人間性を疎外すると。職人ギルドの造形精神を取り戻せと。しかし、彼は過去の伝統的様式に囚われない。機械生産を否定しつつも革新的なデザイン精神を模索したころから、モリスは近代デザインの父と呼ばれるそうな。デザイン運動はヨーロッパ各地に飛び火する。パリではアール・ヌーボー様式、そのオーストリア版でウィーンで結成されたのがゼセッション、ドイツではユーゲント様式がそれぞれ展開される。この時代、美を工学的に研究する教育分野を必要とした。この頃、工業製品の品質向上と効率化を図るための標準化運動が発生し、やがて規格化運動へと発展する。20世紀初頭に設立されたドイツ工作連盟(DWB)のムテジウスやベーレンスが起こした標準化運動は、日本工業規格(JIS)の原型になっているという。

2. バウハウスとメディアラボ
バウハウスとメディアラボとは、まったく関係なさそうだが、実は血統を受け継いでいるそうな。1919年、国立バウハウスは、ワイマール共和政の元で、世界初の本格的なデザイン教育機関として創立。もっとも19世紀中頃から、イギリスをはじめヨーロッパ各地に、専門的な職能技術を教える学校や工芸学校は存在したらしい。だが、職能に特化したものではなく、美術、建築、工業、手工業、工芸など広範な造形活動に共通する原理や理論が扱われたのは初めてだったという。初代学長ワルター・グロピウスには、芸術と技術の統合の最終的な姿は建築であるという信念があったという。彼もDWBの一員。フォトモンタージュや多重露光による超現実的表現、あるいは、カメラを使わないフォトグラムや、現像途中で故意に光線を入れ画像の反転現象を起こすソラリゼーションなど、光による新たな表現法が登場する。そして、平面から立体への展開、様々なテクスチャの試みなどが、構成教育のカリキュラムに組み込まれていく。タイポグラフィやグラフィックデザインが登場したのもこの頃。こうした試みが今日のコンピュータグラフィックスの礎となる。
ところが、1933年バウハウスはナチス政権下で弾圧され、ドイツを追われた教授陣はアメリカに渡る。その一人モホリ・ナジは、1937年シカゴにニューバウハウス(アメリカンスクール・オブ・デザイン)を設立。1939年シカゴ・デザイン学校に改名し、1949年にイリノイ工科大学に併合。ナジの弟子ギオルギー・ケペッシュは、マサチューセッツ工科大学に招聘され、メデイアラボの前身、高等視覚研究所を設立。こうして、IITとMITが世界の工業デザイン、建築デザインの最先端をいく教育機関として君臨することになったという。ケペッシュは、視覚伝達の重要性を説き、科学と芸術の共生による視覚言語の研究を行ったという。その意志を継ぐMITメディアラボは、マルチメディアの基礎研究を行い、マンマシンインターフェースの概念を生み出すことになる。

3. 黄金比と造形美の原理
「形体は機能に従う(Form follows function)」という機能主義、あるいは実用主義は古くからある。技術業界には "Keep it simple, stupid!" という思想があり、技術屋は不必要な複雑性を嫌う。単純化思想はあらゆる構成的なものに用いられ、美の基本理念とされてきた。古代遺跡にも、ピラミッドや古墳など単純な幾何学的原理が見られる。構成学では、分割やプロポーション、そして、シンメトリー、リズム、バランス、ハーモニー、コンポジションなどの美的原理を理解することが重要だという。そして、造形の中でも、最も重要な原理は分割とプロポーションだとしている。
黄金比は、パルテノン神殿からルネサンス美術など基本尺度とされてきた。
尚、黄金比とは、a : b = b : (a + b) の関係、具体的には、1 : (1 + √5) / 2 となる。
1 : 1 のシンメトリーな関係は安定して動きのない状態をイメージさせ、むしろ威圧的な印象を与える。宗教的な儀式や祭壇の境界の配置などは、すべてシンメトリーであり、これが調和の原点とされてきた。だが、物体の本質は静止よりも運動にあり、動きや変化には黄金比の方が視覚的に心地良いとされる。静止とは相対的に定義できる状態であり、人類は絶対静止なるものをいまだ知らない。古代ギリシア文明は、ユークリッド幾何学をはじめ、黄金比、シンメトリー、ルート矩形など、数理性の研究に優れた功績を残した。ミロのビーナスでは、当時の理想的な女体像を見ることができる。黄金比やルート比は日常にも見られるという。クリスマスカード、手紙や色紙の縦横サイズ、文字のレイアウト、生け花の按配、インテリアやファッションなど。ルート比では、1 : √2 の関係がよく用いられるという。
では、黄金比はなぜ美しく見えるのか?等差数列や等比数列のパターンも悪くないが、グラデーションを実現するパターンにフィボナッチ数列がある。それは、前項と次項を足したものが、その次の項となるような数列で、最初は荒っぽいが徐々に黄金比に近づいていく。おいらは擬似乱数を作る時や、ちょっとした気まぐれなパターンデータを作るのに重宝している。20世紀、生物学者ダーシー・トムソンらが、巻貝の螺旋形、ひまわりの種、サボテンの刺など、動植物の美しく見える配列がフィボナッチ数列になっていることを発見したという。黄金比をもつ相似性には、自然美に通ずるものがあるらしい。人間も自然界の生物だから、そこに美を感じても不思議はないか。ハナミズキの木は、120度ごとに同じ葉が出ていて、3分の1の自己同型になっているという。ホトギスの葉も、中心軸から左右に出て180度ごとに同じ形が現れ、2分の1の自己同型になっているという。
一方、日本文化では、1 : 1, 1 : 2, 1 : 3 といった単純な整数比が美の原理とされる。畳や建築基準も 1 : 2 で構成される。千利休は茶の道を「数奇道」とした。その意味では、日本の伝統美は静止の美と言えるのかもしれない。
ところで、古今東西、美人のプロポーションの探求は止むことがない。プロポーションにも数理的な原理がある。その証拠に、男性諸君は八頭身美人に弱い。これが整数比である意味は、女性は静的で物静かな性格が好まれるということか?ちなみに、昨夜は静かで知的なボディラインを求めて、夜の社交場へ繰り出したはずが...

2012-10-07

"茶の本" 岡倉覚三 著

岡倉天心こと本名岡倉覚三。著書「茶の本」は新渡戸稲造の「武士道」や内村鑑三の「代表的日本人」と並んで、日本人が英語で書いて日本の文化と思想を欧米に紹介した作品として知られる。尚、本書は村岡博による翻訳版。いずれも別の日本人によって翻訳されるという風変わりな経緯がある。自ら英文で記したのは、西洋人の翻訳では真意が伝わらないと考えたからであろうか?欧米で評価され逆輸入される形は現在でも見かけるが、ある種の西洋コンプレックスの顕れであろう。時代は19世紀、欧米では西洋中心主義全盛の時代。天心は東洋文化に対する偏見への悔しさを滲ませる。
「インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。西洋の諸君、われわれを種にどんなことでも言ってお楽しみなさい。アジアは返礼いたします。」

これは茶の本ではない。天心が茶道にどこまで精通していたかは知らん。ただ、茶を通じて人生を語り、老荘と禅那を説き、さらに芸術観賞に至るのには感服せざるを得ない。そう、これは茶の哲学である。
「茶道は、美を見ださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である。」
茶道と言えば、堅苦しい礼儀作法や儀式を重んじる印象を与えるが、それだけではない。厳正でありながら、風雅な気質から喜怒哀楽や滑稽を重ね、侘び、寂びを交える世界である。天心は、茶室の建築様式、あるいは茶器などの美術品や華道といった多彩な詩趣との調和の中で、悟りを開こうとする。そして、茶室を「好き屋」、「空き家」、「数寄屋」や「すきや」などと言い換えて、語呂と戯れるかのようにその意義を語る。茶碗は人間享楽を煎じるところ、茶の湯は享楽の涙にあふれ、飲み干せばすぐに乾く、と言わんばかりに。なによりも、惚れ惚れするようなフレーズの数々に、言葉の力とやらを見せつけやがる。

真の美はただ不完全を心の中に完成する人によってのみ見ださせる。...
心は心と語る。無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。...
われわれは万有の中に自分の姿を見るに過ぎないのである。...

相対的感覚から絶対美なるものを見出し、空虚から実体を語り、不均衡から均衡を導き、そして人間の不完全性から自然美の完全性を求める。これが天心哲学の極意というものか。
「傑作というものはわれわれの心琴にかなでる一種の交響楽である。」
茶が芸術であるならば、絵画のように傑作も駄作もあるはず。その奥底には、自己に向かって微笑むような気高い奥義が秘められている。だからこそ、「茶気」という言葉は「茶目っ気」という俗語で受け継がれ、「茶化す」という余裕を与えるような言葉が生まれるのであろう。これこそが精神の奥行きであり、寛容さであり、人生に美と和楽を授けてくれる。
...などと褒めちぎれば、目の前の茶碗だって照れくさそうにしてやがる。もちろん今宵は、純米酒「天心」をやっている。茶碗に注いで。ちなみに、製造元溝上酒造は地元コース、河内貯水池へ向かう途上にある。

1. 茶道
「宋の詩人李仲光(りちゅうこう)は、世に最も悲しむべきことが三つあると嘆じた、すなわち誤れる教育のために立派な青年をそこなうもの、鑑賞の俗悪なために名画の価値を減ずるもの、手ぎわの悪いために立派なお茶を全く浪費するものこれである。」
茶が粗野な状態から理想の域に達するには、唐朝の時代精神を要したという。8世紀頃、仏教、道教、儒教が混在する時代、茶道の鼻祖とされる唐の陸羽(りくう)が「茶経」を書した。ここに、茶の湯に万有を支配するものと同一の調和と秩序が現れ、高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達したという。15世紀、将軍足利義政が茶の湯を奨励し、禅の儀式にまで高められた。茶道は、神聖で背後に微妙な哲理が潜み、道教の仮りの姿であったという。
茶道の奥義は、「不完全なもの」を崇拝することにあるという。人生という不可解なものに照らしあわせる道とでも言おうか。単なる審美主義ではなく、倫理、宗教と合わせて、天人に関するすべての見解を表すもの。そして、清潔を厳しく説く衛生学、複雑な贅沢ではなく純粋な慰安を教える経済学、宇宙に対する比例感を定義する精神幾何学となり、東洋民主主義の真精神を表しているという。

2. 道教と禅道
茶の湯は禅の儀式の発達した形態であり、道教は審美的な理想の基礎を与え、禅はこれを実践的なものにしたという。
まず、道教に目を向けてみよう。
老子曰く、「物有り混成し、天地に先だって生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり。独立して改めず。周行して殆(あやう)からず。もって天下の母となすべし。吾れ其の名を知らず。これを字(あざな)して道という。強いてこれが名をなして大という。大を逝(せい)といい、逝を遠といい、遠を反という。」
天地より先に、カオス(混沌)が生じた。静かで無形で何事にも依存せず、あらゆるところを動き回る。これを母となすべきだが、名も知らない。とりあえず「道」とし、あえて「大」とで呼ぶか。大なるがゆえに果てしなく広がり、果てしなく遠く、はるか遠くに達して戻る。果てしなく先に何かを悟る。これが「道」というものか。まるでヘシオドスの「神統記」を思わせる一節だ。
一定や不変は、成長停止を表す言葉に過ぎないという。
屈原(くつげん)曰く、「聖人はよく世とともに推移す。」
「道」は経路を意味し、宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとする永遠の成長というわけか。道教では、絶対的な宇宙観念は相対的だという。倫理学において、道教徒は法律道徳を罵倒したとか。彼らにとって、正邪善悪は単なる相対的な言葉でしかなく、定義は制限になるからである。無限宇宙に矛盾するというわけか。
「社会の慣習を守るためには、その国に対して個人を絶えず犠牲にすることを免れぬ。教育はその大迷想を続けんがために一種の無知を奨励する。人は真に徳行ある人たることを教えられずして行儀正しくせよと教えられる。われらは恐ろしく自己意識が強いから不道徳を行なう。おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。他人に真実を語ることを恐れているから良心をはぐくみ、おのれに真実を語るを恐れてうぬぼれを避難所にする。」
道教の考えでは、物事の釣り合いを保って己の地歩を失わず、他人に譲りながら、個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならないという。これが、精神の相対性原理というものか。己を虚にし、他人を自由に受け入れれば、すべての立場で自由に行動できるのだろうか?全体は部分を支配できるのだろうか?生の術を極めるとは、虚の美徳を極めるということであろうか。
次に、禅に目を向けてみよう。
禅は、禅那からとった名で、その意味は静慮であるという。精進静慮によって、自性了解の極致に達することができると教える。静慮は、悟道に入ることのできる六波羅蜜の一つで、釈迦牟尼はその後年の教えで特に力説したとされるそうな。禅道もまた相対を崇拝し、真理は反対なものを会得することによってのみ達せられると考えるらしい。悪を知らずして、善を知ることができない。だからといって、悪行を実践するということにはならない。人には、追体験能力や先験的能力というものがある。
また、禅道は、個性主義を強く唱えているという。全体の調和における個精神の美徳である。精神の働きに関係しない一切のものは実存ではないとするあたりは、アリストテレスのモナド的な思考を感じさせる。禅は、しばしば正統の仏道の教えと相反したという。道教が儒教と相反したように。先験的洞察においては、言語はただ思想の妨害になるという。精神の抽象化は、言葉では限界があるということであろう。経験的思考が真理の妨げになると言っているのだろうか?なんとなくカントのア・プリオリな概念にも通ずる。禅の主張によれば、事物の相対性から大小の区別がなく、一原子の中にも大宇宙がある可能性があるとなる。ただ、相対性は単なる人間認識の産物だとすれば、無意識無想こそが真理ということになりはしないか。

3. 花道(華道)
花道が生まれたのは、15世紀頃で、茶道とほぼ同時期だという。始めて花を生けたのは仏教徒だったとか。千利休と同じ頃、織田有楽、古田織部、光悦、小堀遠州、片桐石州らが、競って新たな配合を作る。
だが、生花は、茶室にある他の美術品と同様、装飾の全配合の従属的なものであったという。花の宗匠が現れ、花を花だけのために崇拝するようなことが起こったのは、17世紀中旬。形式派と写実派の二大流派が生じる。池の坊を家元とする形式派は、絵画の狩野派に相当する古典的理想主義を狙っていたという。一方、写実派は、自然をモデルに、ただ美的調和を表現する助けとなるような修正を加えただけとか。
しかしながら、花の宗匠の生花よりも、茶人の生花の方が、ひそかに同情を持つと言っている。茶人の花は、適当に生ける芸術であって、人生と真に密接な関係を持っているから、心に訴えるものがあるという。そこで、形式派や写実派に対して、茶人の花こそ自然派と呼んでいる。
「どうして花はかくも美しく生まれて、しかもかくまで薄命なのだろう。虫でも刺すことができる。最も温順な動物でも追いつめられると戦うものである。...花は皆、破壊者に会ってはどうすることもできない。彼らが断末魔の苦しみに叫んだとても、その声はわれらの無情の耳へは決して達しない。」
人々は、花に癒されながら、花の叫びが聞こえない。なんと不条理な。真の愛とは、見返りを求めいないということであろうか。

4. 千利休(宗易)
日本で偉い茶人は、みんな禅を修めた人だという。
「宗教においては未来がわれらの背後にある。芸術においては現在が永遠である。」
芸術を真に観賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す者によってのみ可能だという。あらゆる状況において平静を保ち、談話は周囲の調和を決して乱さぬようにする。着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子、これすべてが芸術的人格の顕れであり、審美主義の禅だという。日本の有名な庭園は、すべて茶人によって設計されたという。人格と芸術の一体感、総合的な調和、これぞ日本式美徳ということであろうか。ちなみに、ガウディは建築家だけが総合的な芸術家になれるとし、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となった。
また、自己を律する道を知らない者は、外観は幸福に努めても、絶えず悲惨な状態にあると指摘している。心の安定を心がけたところで、すぐに荒波に呑まれる。利休は、死刑執行の日でもなお、門人を最後の茶会に招いたとされる。その時、笑を浮かべて残した言葉がこれ。
「人生七十 力囲希咄 吾が這(こ)の宝剣 祖仏(そぶつ)共に殺す」
「力囲希咄」を利休がなんと読んだかは分からないが、「りきいきとつ」という読みは「茶話指月集」にならっているという。その意味も、茶人の間で問題になっていて諸説があるらしい。今泉雄作氏の説では、禅の喝のような一種の間投詞で、「ええんじゃないの」という意味があるんだとか。死に向かう覚悟か?あるいは気合のようなものであろうか?