2023-07-30

"市民政府論" John Locke 著

右と左に二極化する現代社会において、右往左往する大衆を前に、自由主義や民主主義の在り方を問う。多数派に委ねられる民主政治は、市民の大多数が愚かだと、愚かな政治家どもがのさばり、衆愚政治と化す。アリストテレスは民主制を最悪な政治システムと酷評したが、それも頷けよう。それでも、君主がことごとく僭主となることを顧みれば、独裁制よりはマシか...
市民社会を支える上で、いまや欠かせない自由主義と民主主義は双子の兄弟のようなもの。その根底に立ち返ろうとすれば、避けては通れない人物がいる。そう、人間悟性論を著したジョン・ロックだ。彼の著作では、「完訳 統治二論」加藤節訳版(岩波文庫)に触れたことがある。再読も考えたが、できれば軽く流したいし、どうせなら翻訳者も変えてみたい。そこで、統治二論の第二編(後編)に位置づけられる「市民政府論」というわけである。軽くは流せないけど...
尚、角田安正訳版((光文社古典新訳文庫)を手にとる。

古くから哲学者たちは、人間の本質に根ざした共同体の在り方を思い描く上で、人間の自然状態というものを問うてきた。それは、基本的人権と深くかかわる設問である。ロックは主張する。人は生まれながらにして「生命、自由、財産」を守る権利があると。これらの権利はどんな権力にも制限されるものではないと...
中でも、最も厄介なのが、自由ってやつだ。こいつを野放しにすれば、獣が群れる弱肉強食の社会となり、人権なんぞは虚構に成り下がる。ロックは補足する。「生まれつき理性をそなえているからこそ、生まれつき自由なのである。」と...
しかし、理性なんてものは、最初から備わっているわけではあるまい。共同体の中で、その生活経験から身につけていくものであろう。となると、共同体が先か、理性が先か、といった鶏と卵のような関係を問うことに...
人間の自然状態に、理性は本当に備わっているのだろうか。ただ、これを前提にしないと、人間の尊厳が失われる。いや、経験を積むと、誰もが自然に身につけられるもの、とすることはできそうか...

自然状態には、自然法なるものが暗黙に機能するようである。それは、理性の叫びか、良心の叫びか。耳を傾ければ、理性の声が聞こえてくる。何人も、他人の生命や健康、自由や財産を侵害してはならない、と。それは、自分自身の生命や健康、自由や財産が侵害されることを嫌ってのこと。
人間が単独で生きてゆけるなら、自然法だけで十分であろう。だが、共同体の中で生き、その規模が大きくなるほど、ルールとその成文化が必要となる。価値観の違う人が集まれば、尚更。
人間ってやつは、 何事も明文化しないと落ち着かない、確固たる根拠がないと落ち着かない、いつも共通意識を確認し合っていないと不安でしょうがない、何事も言葉にしないと不安でしょうがない... そんな存在だ。
そこで、実定法なるものが必要となる。とはいえ、締まりのない大量の条文が形骸化していることは周知の通り。どんな法律も、自然法に適っていなければ、機能しないというわけか...

「地上のいかなる権力にも縛られず、人間の意志や立法権の支配を受けず、自然法以外に人間の従うべき準則が存在しない... これが人間の本来の自由である。それに対して、社会における人間の自由というものがある。そのような自由は、国内で同意にもとづいて制定される立法権力に制約される。」

では、国家の正当性はどこからくるのだろう。国家法が後ろ盾になっているにしても、その国家法は自然法に適っているだろうか。たいていの人は、この世に産まれ落ちると、どこぞの国家に自動的に所属させられるという、いわば奇跡的なシステムに組み込まれている。物心ついた頃には、疑問すら持てないほどに。これを自然状態と言えるだろうか。
現在の国家は、その多くが 18 世紀から 19 世紀頃に出現した「近代国家」と呼ばれる枠組みを継承している。既にプラトンの時代には国家論が唱えられ、現在の枠組みは歴史がまだまだ浅いということになる。古来、哲学者たちが論じてきた自然状態からも、かなり乖離しているのやもしれん。自然法の面影も薄れているようだ。
現代人は、所有権を保持するために実に多くの法律を編み出してきたし、さらに、その数を増やそうとしている。共同体の目的は、自らの所有権を保全することなのか。
少なくとも、ロックが唱えた「生命、自由、財産」が保障されなければ、国家ってやつは、その存在意義すら失う。そして、国家を支える「社会契約説」とやらが浮かび上がってくる...

「人間はみな、本来的に自由で平等である。そして、独立している。同意もしていないのにこの状態を追われるとか、他者の政治的権力に服従させられるとかいったことは、あり得ない。本来そなわっているはずの自由を投げ出し、わが身を市民社会のきずなに結びつける方法は一つしかない。それは、ほかの人々との合意にもとづいて共同体を結成することによる。共同体を結成する目的は、自分の所有物(生命、自由、財産)をしっかりと享有し、外敵に襲われないよう安全性を高めるなど、お互いに快適で安全で平和な生活を営むことにある。」

多くの国家は、立法権を国民の代表機関である議会に委ねる。我が国の憲法でも、第四十一条に「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」と謳われる。そこで、ロックは主張する。立法部は常設する必要がないと。いや、常設するとむしろ弊害になると。
人間ってやつは、とかく権力を握りたがる性癖を持っている。最高権力を常設すれば、その地位に就こうと躍起になるばかりか、一旦獲得しちまえば、法律を改竄してでも権力にしがみつこうとする。立法権は国家の最高権力では収まらず、ひとたび共同体から委託されると、それを引き受けた者にとって神聖なものとなる。それだけに、立法権は恐ろしい。この権力を一部の人間が独占すると、さらに恐ろしい。人間社会には、神になりたがる奴らで溢れている。専制政治の最大の弱点は、こういうところに露わとなるであろう...

2023-07-23

"スモール・イズ・ビューティフル" Ernst Friedrich Schumacher 著

「人間は小さいものである。だからこそ、小さいことはすばらしい...」

八年ぐらい前になろうか、原題 "Small is Beautiful" については、「人間復興の経済」と題した斎藤志郎訳版(佑学社)を手にした。そんなことも忘れていたのだけど、ブログに記録していたことが功を奏す。
実は、既に買った本を数年後にまた買ってしまい、ブルーになるという経験が何度もあるのだ。今度は、サティシュ・クマールの編んだ「風船社会の経済学」(前記事)に触発されるも、どうせなら別版にトライしたい。そこで、小島慶三、酒井懋訳版(講談社学術文庫)というわけである。邦題の様変わりもあるが、翻訳者が違うと、こうも光景が違うものであろうか。だから、おもろい!時間が経てば読み手の感覚も変わり、さらに違うものがある。だから、おもろい!再読の妙とは、こんなところにあるのだろう...

「人間復興の経済」は哲学書風でちょいと重い感じもあったが、本書は、ちょいと砕いた感じで軽快に読める。今の風潮には、こちらの方が合っているのだろう。ただ、読みやすいと活字に流され過ぎる感あり。文字の大洪水が苦手なネアンデルタール人には、前者のリズムの方が合ってそうか。とはいえ、再読の場面では、文字の流れは軽快な方がいい。おいらにとって読む順は完璧だ!そして、拾う言葉もおのずと違ってくる...

「人間が全体として真実から逃げる一方だとすると、他方では、真実が四方八方から人間に迫ってきているともいえる。真実の一面に触れるには、昔は一生努力しなければならなかったが、今日では逃げないだけでよい。だが、逃げないということは、なんとむずかしいことだろうか...」

技術屋の間では、"Simple is Best" という信仰が根強い。"Small is Beautiful" も、その類いであろうか。物事を必要以上に複雑に考えることもあるまいが、想像以上に適度に考えることも難しい。
おまけに、自意識ってやつは、大きな流れに飲み込まれたいと見える。たいていの人は大多数派に属すことで安住し、就職先では大企業に人気が集中し、ナショナリストは領土拡大欲に憑かれ、独裁者は巨大兵器に幻想を抱き、独占欲の強い奴は愛の大きさを乞う。
だが実際には、コンパクトで小回りの利くものの方が実用的なことが多い。何事も大き過ぎると手に負えなくなるのが道理。
但し、小さきものが美しいとは限らず、醜態の寄せ集めということも十分にありうる。
"Small is Beautiful" という言葉には、適度な規模と適度な技術、そして総合的な視野という思いが込められているようである。何事も美しさの原理には調和が保たれており、E. F. シューマッハーの唱える仏教経済学とやらに中庸の哲学を見る思い...

「唯物主義者が主としてモノに関心を払うのに対して、仏教徒は解脱(悟り)に主たる関心を向ける。だが、仏教は『中道』であるから、けっして物的な福祉を敵視しはしない。解脱を妨げるのは富そのものではなく、富への執着なのである。楽しいことを享受することそれ自体ではなく、それを焦れ求める心なのである。仏教経済学の基調は、したがって簡素と非暴力である。経済学者の観点からみて、仏教徒の生活がすばらしいのは、その様式がきわめて合理的なこと、つまり驚くほどわずかな手段でもって十分な満足を得ていることである。」

経済学は、利潤や生産効率の最大化といったものを主眼に置き、ひたすら合理的な社会を論じる。それは、誰にとっての合理性であろう。経済学者にとっての合理性か。金融アナリストにとっての合理性か。
そもそも、経済学は何を見据えた学問であろう。人間性は、GDP などでは測れない。国民所得の増大や完全雇用を論じても、人間の豊かさには至らない。人間は仕事を失うと絶望するが、それは単に収入を失うからではなく、規律正しい仕事に内包される活力までも失うからである。
本書の意図には、一度、人間に立ち返ってみよ!という要請があるように思える。人間らしい生き方とは... 人間らしい社会とは... そうした観点から経済学を論じよ!と...

「民主主義、自由、人間の尊厳、生活水準、自己実現、完成といったことは、何を意味するのだろうか。それはモノのことだろうか。人間にかかわることだろうか。もちろん、人間にかかわることである。だが、人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる。そこで、数多くの小規模単位を扱えるような構造を考えなければならない。経済学がこの点をつかめないとすれば、それは無用の長物である。経済学が国民所得、成長率、資本産出比率、投入・産出分析、労働の移動性、資本蓄積といったような大きな抽象概念を乗り越えて、貧困、挫折、疎外、絶望、社会秩序の分解、犯罪、現実逃避、ストレス、混雑、醜さ、そして精神の死というような現実の姿に触れないのであれば、そんな経済学は捨てて、新しく出直そうではないか...」

2023-07-16

"風船社会の経済学 - シュマッハー学派は提言する" Satish Kumar 編

原題 "THE SCHUMACHER LECTURES"
E. F. シューマッハーといえば、「小さきことの善」を説いた人で、昨日、南米ジャングルから彼の著作「スモール・イズ・ビューティフル」が届いたばかり。本書もまた小さき知の結集といった様相を呈する。叡智とは、多角的な知の総動員!しかしながら、小さきことばかりに目を奪われれば、大局を見失う。ご用心!ご用心!
尚、村山勝茂訳版(ダイヤモンド社)を手に取る。

本書は、E. F. シューマッハーの追悼講演録で、精神医学、歴史学、考古学、言語学、心理学、物理学、未来学、政治哲学といった分野で活躍する八人もの研究者や実践家が入り乱れ、これらをサティシュ・クマールが編む。八人それぞれが専門の枠組みから解き放たれ、地球の在り方や自然との共存を問い、人間らしい社会とは... という観点から社会に物申す。それで新たな見解が得られるわけではないが、知的好奇心とは、それ自体に意義があるのだろう...

「どんな研究分野であれ、新しい着想を得ようとするときに、旧い概念に対する批判や攻撃を加えるという方法は必ずしも有効ではない。垂直に物事を積み上げて、自らにいっそう重い負担をかけて苦しむより、発想を思い切って転換し、要点と思われるところで物事を水平に切って頭を軽くすると新しい着想が得られることがある。」

学問を深化させれば、専門化が進むは必定。だがそれで、専門バカを量産し、知の縦割り社会となるのでは本末転倒である。「風船社会...」と題しているのも、中身は空っぽ!ってかぁ...
しかしながら、現実に目的を求めたところで詮無きこと。この世に合目的なんてものが存在するのかは知らんが、人生に意味を求めずにはいられないのが人間の性(さが)。現代人は、空っぽの中身を連想で埋めようと必死にもがき、仮想化社会にのめり込んでいく。それは、現実に幻滅した結果であろうか...
巷では、リアリティという表現をよく耳にするが、Real と Reality では、ちとニュアンスが違う。現実から現実性へ、実存から実存性へ。精神の実体が自由電子の集合体なのかは知らんが、この塊を魂と呼ぶなら、魂ってやつは、真実よりも真実っぽいものに、本物よりも本物っぽいものに引き寄せられる性質があると見える。そして大衆は、リアルではなく、リアリティに群がる...

「物事はもはや知性ある人間のコントロールを離れ、盲目の権力が敵対する権力に対し、ゲームのルールに従って、両者があらかじめプログラムされたとおりに対応するようになる... そうして、世界権力をめぐる二つの権力のゲームは人間の理性が不在のまま継続し、残された地球の鉱物資源と奴隷的人口の忠誠の獲得を競い、宇宙の覇権とその他もろもろの愚かで自殺的な目標を競うことになる...」

E. F. シューマッハーは、ケインズに師事しつつも、ケインズやマルクスの理論に違和感を覚えるようになったという。今日の経済理論でも、生産力の上昇、国民所得の増大、失業率の改善といったものを論じながら、自然環境の破壊を黙認している。産業革命から続く科学技術の進歩は、莫大な人口増殖を引き起こし、エネルギー危機や資源問題に直面しつつある。人類は、地母神に見放されつつあるようだ。ついでに、月は地球から数センチずつ遠ざかっているとも聞くが、ツキからも見放されつつあるようだ...

「工業経済が中央集権化と資本集約的生産の一定の限界に達してしまったら、今度は横断的情報網と意思決定をより多く用いて、地方分権的な経済活動や政治形態へと方向転換せざるをえない... さもなければあまりにも階級組織化され、官僚化された制度における深刻なボトルネックに陥って、どうしようもなくまってしまう...」

2023-07-09

"啓蒙とは何か 他四篇" Immanuel Kant 著

昔からそうなのだが、おいらには「啓蒙」という用語が、イマイチしっくりこない。押し売りの類いか。宣教と何か違うのか。そんな眼で見ちまう。天邪鬼にも困ったものだ。
辞書を引くと、「人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするよう教え導くこと...」とある。「啓」は、開く、教え導く... といった意。「蒙」は、暗い、愚か、無知... といった意。よって、愚か者を導くといった意味になりそうな... 
しかし、西洋語の "Enlightenment(英)", "Lumières(仏)", "Aufklärung(独)" は、いずれも「光」や「明るさ」といった意味合いが強い。つまり、光を見るのは自分自身の力であること... 誰かの思想に乗っかるにせよ、教え導くのは自分自身であること... といったところであろうか。「開眼」という語に近いような...

17 世紀から 18 世紀にかけて、ホッブズ、ロック、ヒューム、モンテスキュー、ルソーらは、人間の自然状態を盛んに論じた。理性の原因を人間の本性に求め、自然に発する理性の実践によって自立を促すといった目論見である。それで、彼らの啓蒙思想は完成を見たであろうか。いや、まだ始まったばかりか。いやいや、ソクラテスの時代からずっと続いてきたような。カントは大衆を鼓舞する。人の意見を当てにして生きている大人どもよ、大人になれ!と...

尚、本書には、「啓蒙とは何か」「世界公民的見地における一般史の構想」「人類の歴史の憶測的起源」「万物の終り」「理論と実践」の五篇が収録され、篠田英雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用しえない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは自身に責めがある。というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから『敢えて賢こかれ!』、『自分自身の悟性を使用する勇気を持て!』... これがすなわち啓蒙の標語である。」

本書で目を引くのは、「世界公民的...」という用語と、成熟した個人の行動に「理論と実践の一致を見る」という観点である。
まず、「世界公民的...」というのは、犬のディオゲネスが唱えた世界市民構想に通づるものがある。現代風に言えば、国民である前に、市民であれ!といったところであろうか。
イギリス革命やフランス革命などの市民革命の連鎖を経て、「近代国家」と呼ばれる政治形態が各地に出現した。現在の国家の枠組みは、この頃の形態をほぼ引き継いでいる。つまり、現在の国家という概念は、三百年ほどの歴史しかないということになる。おそらく、プラトンが唱えた国家論とも随分違うものなのだろう。
やがてグローバリズムの波が押し寄せ、国家という概念も随分と曖昧なものになった。とはいえ、ナショナリズム的な精神高揚は、19世紀頃からあまり変わっていないような。国家の枠組みに囚われた者とハミ出した者とで、世論が二極化するのも無理はない。ただ、自由主義や資本主義は、国家の枠組みから解放させてあげた方が機能すると見える...

次に、「理論と実践の一致を見る」という観点では、理想高過ぎ感は否めない。どんなに立派な理論でも、実践で役立たずでは意味がない。そればかりか、理想が現実を歪めちまうこともよくある。大衆社会では、理論と実践はしばしば矛盾し、たいてい実践が重んじられる。実践は難しい。理論はさらに遠く、道徳原理は遥か彼方なり...
しかしながら、カントは敢えて理論と実践の一致を唱える。理論が実践に近づくのか、実践が理論に近づくのか。いずれにせよ、調和や中庸といった概念を必要とするだろう。例えば、道徳を理論とするなら、義務が実践に位置づけられる。道徳哲学とは、自己が幸福になる方法を教えるのではなく、共同体にとって幸福に値するようなものを教える学を言うそうな。しかも、その学には義務が必然的に伴うとか...
そして、道徳と義務の一致を見る時、最高善という概念が薄っすらと浮かび上がる。アリストテレスのポリス構想にも通ずるような。自己啓発や自己実現といった地道な行動に、啓蒙を見る思い。そのためには、道徳だけでは不十分!ましてや幸福なんぞを目的にしても満たされるはずもない。道徳原理や義務遵守に定言命法を要請してくるとは、なんと酷なことを。凡人は、屁理屈でも唱えてないとやっとられん!

「無知な人が、自分で実践と思いなしているところのものについて、理論はもともと不必要であり無くても済むものだなどと放言しているのは、まだしも我慢できる。しかし利口ぶった人が、理論とその価値とを、(ただ頭脳を訓練する目的だけの)学課としては認めるが、しかしいざ実践ということになると、様子ががらりと変ってくるとか、或いは学校を出て実社会に出ると、これまで空虚な理想や哲学者の夢に徒に追随してきたことをしみじみと感じるとか、... 要するに、理論ではいかにも尤もらしく聞こえることでも、実践にはまったく当てはまらないなどと主張するにいたっては、とうてい我慢できるものではない。」

うん~... 最も理論を実践に近づけているのは、道徳哲学よりも科学やもしれん。客観的な法則は、思い込みの強い人間の思考をねじ伏せちまう。宗教裁判なんぞを鑑みると、時間はかかるにせよ。なので、カントに限らず、啓蒙思想家たちが宗教政策に対して批判的な立場をとったのは頷ける。
本書の影で、啓蒙思想ってやつが近代国家の出現や科学革命の布石に見えてくる、今日このごろであった。そして、おいらも啓蒙されたい。M だし...

2023-07-02

"プロレゴメナ" Immanuel Kant 著

"Prolegomena" とは、ギリシア語で序論を意味し、正確な表題は「およそ学として現われ得る限りの将来の形而上学のためのプロレゴメナ(序論)」となるらしい。ここに、批判哲学の建築スケッチを見る思い。哲学の建設には自省がつきもの。自省の建築には自己否定がつきもの。批判哲学の建築に、健全な懐疑心なくして成り立つまい。自己否定に陥っても尚、愉快になれるなら真理の力は偉大である...
尚、篠田英雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

「人間の理性は、たいへん建築好きにできているので、なんべんとなく高い塔を築いては、あとからまたそれを壊して、土台が丈夫にできているかどうかを調べたがるものである。人間が理性的になり賢くなるのに遅すぎるということはない。しかし透徹した洞察をもつのが遅れると、これを活用することがそれだけ困難になるのである。」

カントの三大批判書に触れたのは、十年以上前になろうか。ブログの履歴を辿ると、そういうことになっているが、つい此の間だったような...
その第一弾「純粋理性批判」には形而上学への皮肉が込められていたが、刊行当初、それが形而上学そのものの否定と解され、有識者たちに猛攻撃を喰らったようである。著名な書には曲解がつきもの。難解な哲学書ともなれば、尚更。そもそも哲学とは、抽象的な概念の集合体であり、様々な解釈を呼ぶものだ。読者は、分かったような、分からないような、その境界をさまよいながら、自我の中に眠っていた思考を呼び覚ます。眠らせたままの方が幸せやもしれんが...

本書は、曲解への反駁として書かれているが、カントにしては文体が平明。実に、らしくない!そのためか、形而上学への皮肉が、より冴えてやがる。実に愉快!偉大な哲学者の愚痴が聞けるのもいい。いまだ人類は真の形而上学を手に入れていない!と言わんばかりに。これも曲解であろうか...

カントは、形而上学への道筋を、四つの問い掛けで組み立てる。
一つに、純粋数学はどうして可能か。
二つに、純粋自然科学はどうして可能か。
三つに、形而上学一般はどうして可能か。
そして、学として形而上学はどうして可能か... と。

ユークリッド原論には、五つの公準が規定される。純粋幾何学は、これ以上証明のやりようのない純粋な命題で構築されている。第五公準は反駁されたにせよ...
カントは、時間と空間をア・プリオリな認識として規定した。この二つを、経験に依拠しない、人間の根源的な純粋認識に位置づけたのである。公準も、アプリオリも、人間の認識能力の限界を示しており、直観の限界を暗示している。そして、純粋理性というものを探究すれば、この限界に挑むことになる。
純粋数学の真理は、絶対的必然性を帯び、まったく経験に依拠せず、ア・プリオリ的である。数学的判断と哲学的判断はともに理性的であるが、前者は直観的で、後者は論証的。いや、屁理屈的か。
したがって、純粋理性の建築には、論証だけで組み立てられるものではなく、直観で補完する必要がある。形而上学を学と成すにも、悟性だけでは心もとなく、直観と経験、主観と客観の協調が求められる。しかも、自我という閉じられた空間で。
「学として形而上学が可能か」との問い掛けは、詰まるところ、理性が学問として可能かを問うているようなもの。これも曲解であろうか...

カントは、「純粋理性批判」に至った経緯で、ヒュームが形而上学で持ち出した問題意識に触発されたと告白する。それは、「原因と結果との必然的帰結」という視点だそうな。たいていの認識過程は演繹的に導くことができるが、その必然性を突き詰めたところ、その先に純粋理性、すなわちアプリオリなるものを見たようである。そして、普遍的な原理において、理性の限界を規定するに至ったと。
理性は、自制において機能する。自分自身の理性に自信を持つということは、すでに理性が暴走を始めている。理性の暴走ほど厄介なものはない。信念や信仰を後ろ盾に、残虐行為までも正当化しちまうのだから。やはり、理性にも限界を規定する必要がありそうだ。それは、自分自身の認識能力の限界を知ること。すなわち、己を知ること。そして、ソクラテスの時代から唱えられてきた格言に回帰する... 汝自身を知れ!これも曲解であろうか...