2013-06-30

"リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上/下)" Andrew Ross Sorkin 著

原題 "TOO BIG TO FAIL"... 大き過ぎて潰せない!
この言葉を何度聞かされたことか。破綻が明るみになると、少しでも不良資産を減らす努力をするかと思えば、逆に隠蔽してきた損失を大幅に見積もり、公的資金をたかろうとする。高級車を何台も所有し、自家用ジェット機で買い物に行くなど、何かと富をひけらかす輩!さっさと支援金を返済したところで、倒産した会社や首をくくった社長たちの命は返ってこない。
「なかんずく気がかりなのは、いまだにウォール街のマシンの中心に位置するのが、エゴであることだ。金融危機は多くの人のキャリアや評判を破壊し、さらに多くの人々を打ちすえ、傷つけた。崖っぷちから生還した人は、自分が不死身であるかのように感じてる。いまの環境に欠けているのは、純粋な人間性だ。」
これは、ニューヨーク・タイムズの記者アンドリュー・ロス・ソーキンが、業界体質を暴いた物語である。

経済システムの原動力は生産性にある。人間社会が消費によって成り立つ限り、豊かな生活を送るには生産は絶対に欠かせない。なのに、生産性に直接寄与する産業が経済の主役とならず、カネを循環させるだけで何の生産性のない連中が主役であり続ける。人体では、血液の弁を一箇所牛耳るだけで、その弁にかかわる機能を支配できる。弁は、脳に近いほど思考停止に陥れ、心臓に近いほど生命を脅かす。どんなに生産性の高い細胞であっても、近くの弁をちょいと調節するだけで機能不全に陥れる。これが世界を牛耳る仕掛けである。
生産性の効率を高めるには、生産から得た価値のフィードバック、すなわち投資が鍵となる。資産の流動性が経済成長を促し、金融業は投資を円滑にするための仲介役として君臨する。投資家が資金を提供するために、企業や事業や商品などがどれだけ生産性に寄与するかを予測できる情報開示が鍵となる。投資は成長戦略の一環であるから、もちろんリスクをともなう。そして、成功率は株価や利率や配当金に反映される。つまり、生産性は将来価値によって算出され、価値評価こそが経済循環における核心部分となる。金融業界の価値評価に正当性がなければ、時限爆弾を抱えているようなもの。まさに、リーマン・ショックは、価値の欺瞞から生じた...
投資銀行が、その性格上リスクを背負うのは当然である。そこに、いくらリスクを抱えようが本質的な問題ではない。投資家はそれを承知した上で行動すればいいだけのことだから。しかし、リスク評価までもが欺瞞されているとしたら...
引き金となったサブプライム住宅ローンは、低所得者向けに開発された金融商品で、所得審査をまったく必要とせず、ほぼ誰でも50万ドル級のローンが契約できる。当然ながら住宅価格は高騰し、過熱しきった不動産市場で、ごく普通の人々までが投機家となって家を転売し、住宅担保ローンで高級車やモーターボートを買う始末。
さらに、保険業界のクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)ってやつが、価値評価を複雑化させる。債権の委譲なしで信用リスクのみを委譲するとは、どういうことか?この業界は幽体離脱がお得意のようだ。おまけに、格付会社の保証付きとなれば、住宅という実体はそっちのけでサブプライムローン担保証券だけが彷徨い、転売の転売の転売... どこの地方役場の年金資金のポートフォリオにも紛れ込んでいる可能性がある。まさに、金融屋、保険屋、格付屋がぐるになった魔術!規制緩和という、いかにも自由を感じさせる言葉で政治家たちは経済刺激策を用いるが、中身を見極める必要がある。とはいっても、国民にそんな専門的な目があるはずもなく、彼らの独壇場となるだけか...
尚、価値を煽って敵国を滅亡させようという陰謀は古代からある。通貨変造や偽金造りで貨幣量を増やせば、通貨の信用を失墜させ、一国の経済を麻痺させることができる。ここに、マネーサプライによる増殖システムの弱点がある。うまく利用すれば、処方箋にもなるのだが。資本主義経済が投資を原動力とするからには、もともと暴走する仕組みが具わっていると考えなければなるまい。そして、デリバティブという形で仮想価値を煽るということは、あらゆる価値が貨幣で換算される社会では、価値の信用を失墜させる最も効率的な方法と言えるだろう。その陰では、いつも空売り屋が虎視眈々と狙っている。ウォーレン・バフェットは、デリバティブを大量破壊兵器と呼んだ。本来、価値の評価とは単純性や透明性が鍵となるはず。だが奇妙なことに、金融工学があえて複雑怪奇にしているように映る。

ところで、我が国にも時限爆弾らしきものが見え隠れする。本書を教訓にするなら、日本国債の危険性の判断にレバレッジの水準がある。その多くを国内金融機関が保有する限り、政府は圧力がかけられる。安定資産と言われる所以である。こんなものにグローバルな空売りを仕掛けてもリスクが高い。となれば、外国人保有率が一つの目安となるだろう。その水準も、危険水域に近づきつつあるようだけど。いずれにせよ、国債残高がGDP比200%というのは尋常ではない。今、長期金利が上昇しているのは何を意味しているのか?一旦トレンドがはっきりした時、すなわち、実態に国民が気づきはじめた時、はたしてどうなるか?日本人にだって空売り屋はいるし、自称日本人ってのもいる。日本人は風評に流されやすいだけに、国債ではなく別の金融商品から資産が逃げはじめるかもしれない。まさにリーマン・ショックは、サブプライムローンの危険を匂わせながら、金融商品全般に渡って空売りの餌食となった。情報社会が高度化するほど、いや複雑化するほど、ささやかな欺瞞情報から別の所でパニックになる恐れがある。当時、リスクを分散しようとして不動産資産に手を出したために裏目に出た人も多いだろう。要するに、日本国債という一つの金融商品だけで、危険性を判断することは困難だということだ。おそらく本当の危険水域を知っている者など誰もいないだろう。それは過去の金融危機から専門家が実証してくれている。
そういえば、最近(2013年4月)、ノーベル賞経済学者ポール・クルーグマンは、ニューヨークタイムズに「エクセル不況」という興味深い記事を書いた。マクロ経済学の権威、ハーバード大学のカーメン・ラインハートとケネス・ロゴフが2010年に発表した論文「Growth in a Time of Debt.(国家債務時代の経済成長)」において、初歩的な計算ミスがあったというのだ。マサチューセッツ大学院生が、Excelのスプレットシートのミスを指摘したということでも大々的に報じられた。その論文によると、国家の負債残高が対GDP比で90%を超過すると、マイナス成長になるとされる。このマジックナンバー90%を根拠にしながら、各国政府で政策立案がなされてきた。実際、EUでもこの数値を前提にして、政府債務を圧縮すべし!と叫ばれてきた。経済学の権威とは、この程度のものなのか?
能力に驕れば、いずれ罠に落ちる。危機を回避できたとしても、偶然ぐらいに見ておいた方がよさそうである。そもそも市場は本当に機能しているのだろうか?市場が過熱するのも困るが、反応が鈍いのも困る。市場は、しばしば機能不全に陥る。所詮、カオスに対して無力な人間は、占い師ぐらいにしかなれないのかもしれん。

1. サブプライムローンの猛威
サブプライム住宅ローンは、2006年あたりにピークを迎えたが、専門家からはその危険性が指摘されてきた。
まず、リスクヘッジを担う保険業界が敬遠しはじめる。2005年末、AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)は、サブプライムローン担保証券が用いられたCDO(債務担保証券)の保険を引き受けないと発表。モーゲージ証券があまりにも複雑化し、誰にも値付けできないことが明るみになると、二つの住宅専門会社、ファニーメイ(連邦住宅抵当金庫)とフレディマック(連邦住宅金融抵当金庫)の株が暴落。この2社は、住宅市場で圧倒的な位置を占めており、住宅ローンの40%以上を引き受けていたという。そして、五大投資銀行の中で最もレバレッジ比率の高い業界5位のベア・スターンズが破綻。
これらの救済に、財務長官ヘンリー・ポールソン、NY連銀総裁ティモシー・ガイトナー、FRB議長ベンジャミン・バーナンキらが乗り出す。2008年、ベア・スターンズは政府救済のもとでJPモルガン・チェースに買収され、住宅専門会社2社はチャプターイレブン(連邦倒産法第11章)が適用され国有化された。ちなみに、2007年の時点ですらバーナンキはサブプライムローン問題が住宅金融専門会社以外に及ばないと主張している。だが、素人の目にもそうは映らない。投資銀行のリスクヘッジがうまく機能しなくなると、業界の脆さを露呈する。信用を失った金融商品に引きずられて、信用ある金融商品までも空売りの餌食となり、ハゲタカはハゲタカ・ファンドによって喰い物にされる。
しかし、投資銀行でも明暗を分けた。連鎖反応で次に破綻したのは、業界4位のリーマン・ブラザーズ。なんとレバレッジ比率は、リーマンの 30.7 対 1、メリルリンチは僅かにましで、26.9 対 1 だったという。LTCM級か。普通に銀行と呼ばれる銀行持株会社には連銀の規制があり、レバレッジに頼る資金調達には多くの制限が設けられている。だが、投資銀行は、伝統的な商業銀行と違い、やりたい放題。報酬制度の後押しで、サブプライムローンを売っただけボーナスに反映される。低所得者層のマイホームの夢を喰い物にしたと言われても仕方があるまい。報酬制度については、今なお問題が指摘されているが、未だ健在のようだ。
既に、金融業界に対する世論の目は厳しく、政府は救済処置をとれないでいる。そして、リーマンは見捨てられた。さて次は、業界3位のメリルリンチか?業界2位のモルガン・スタンレーと業界1位のゴールドマン・サックスも気が気きでない。

2. TARP(不良資産救済プログラム)の発動
ポールソンと言えば、ゴールドマン・サックスの元CEOで、何かと陰謀説が囁かれる人物である。というのも、LTCMの破綻時、ほとんどの銀行が打撃を受けたにもかかわらず、ゴールドマンだけはそれほど打撃を受けていない、という指摘がある。本書にも、LTCMをヘッジでうまく利用したのではないかという噂が紹介される。しかも、ゴールドマンの経営陣は、AIGの破綻に対してすべて担保をとって、むしろヘッジで儲けていると自慢気に語る。ABX指数、すなわちサブプライムローン担保証券と結びついたデリバティブのバスケットの逆張りで資産運用していたんだとか。危険性を察知していれば当然の戦略であるが、空売りの仕掛け人という見方もできる。
さらに、リーマンが倒産すれば、その顧客との取引をどこかが肩代わりしなければならない。業界全体が失墜しても、ライバル会社にとってはおいしい話だ。ポールソンや財務省にいるゴールドマンOBとのつながりも、噂の材料とされる。実際、ゴールドマン・サックスは全米最大級の他の金融機関と同様、大き過ぎて潰せないまま残っている。
しかし、ポールソンはそんな陰謀説に構っている余裕はない。ただ、政府介入というのはデリケートな問題である。支援策の規模によっては業界ごと国有化され、むしろ逆効果となろう。そもそも焦げ付いたモーゲージ証券の値付けのできる者が誰もいないので、底なしとなる恐れがある。おまけに、大統領選の材料にされ、共和党と民主党はともに支援反対を表明。案の定ヒラリー・クリントン上院議員は、ベア・スターンズ救済を批判し、イラン問題にまで結び付けている。
下院で救済策への反対票が投じられる中、株価は急落。だが、二度目の投票では救済策の可決の目処が立ち、値を戻す。上院向けの期限切れを迎えるはずだった多くの優遇税制が付加され、個人預金に対するFDIC(連邦預金保険会社)の保証上限が、10万ドルから25万ドルに引き上げられたことが好材料になったという。1回目の投票中、株価急落を見て、金融危機の兆候を間近に感じ、賛成に転じた議員もいるようだ。さらに、ノースカロライナの大手金融機関ワコビアが必死にパートナー探しをしているという情報が流れたのも、金融危機が全米に拡がりつつあることを世間に知らしめたという。こうして、ポールソンのTARPは後押しされることに。

3. 買収戦略
救済策の成功の鍵は、不良資産の処理スピードにかかっている。世論に逆らってまで金融支援策を進めるのは、日本の二の舞だけは避けたいという信念からだ。ポールソンは、全CEOを招集して、業界の尻拭いは自分たちでやれ!とカツを入れるが、ただでさえ非協力的な業界。政府の進め方は、当然かもしれないが強引である。メリルリンチには、バンク・オブ・アメリカにタダ同然の条件でも売るように仕向けたり。それでも、なんとか最悪の条件を免れた買収となったようだけど。
一方、モルガン・スタンレーには波乱が待っていた。ポールソンは、中国初の政府系ファンドCIC(中国投資有限責任公司)に買収させようと画策する。だが、条件が悪すぎて交渉は難航。これまた、タダ同然の買収でも受け入れるように圧力をかけるが、CEOジョン・マックは従業員を守るために断固拒否。そんな時、三菱UFJから融資の話が入る。そもそも日本の銀行は、動きが鈍く、リスクを嫌い、極めて官僚的という評判。ポールソンは、日本の銀行は当てに出来ないと説得する。ごもっともだが、マックには信じるしか選択肢がなかったのだろう。中国側は日本の介入で機嫌を損ねて交渉の場を去るが、モルガン・スタンレーにとって大口顧客であり、北京まで頭を下げに行く羽目に。結局、三菱UFJから90億ドルの融資を受けることになるが、三菱UFJの動きは日本国内でも物議をかもした。
国家危機ともなれば、犠牲者はつきもので、どこかで線引は必要であろう。ポールソン、ガイトナー、バーナンキらは、リーマン・ブラザーズまでで終わりにしようとしたが、結局ゴールドマン・サックス以外の投資銀行は合併か身売りとなる。そして、リーマン・ブラザーズだけが、政府支援を受けられずに倒産した。ただ、リーマン・ブラザーズにしても、イギリスの国際的金融グループ、バークレイズとの交渉機会があったようだが、あまり執着していなかったという。ポールソンと米政府は、バークレイズを交渉に留めようと努力しなかったのか?時間の無駄だとすれば、ポールソンの判断は、正しかったのかもしれないが。そして、結果論かもしれないが、ゴールドマン・サックスの安泰が最優先!という戦略にも映る。

4. 業界体質と救済策の賛否
ウォール街の銀行ビッグ9のCEOがワシントンDCに最終招集されると、ポールソンは告げる。TARPの権限により、財務省は年末までに銀行や貯蓄金融機関の優先株を最大2500億ドル分購入すると。そして、国内最強の銀行が資金を受け取ることで、後に続く弱い銀行にとっては隠れ蓑になると説明している。
業界が危機に陥る度に、潰すべき企業は潰すべきだ!という意見があり、経営責任や業界体質を問うのは当然である。しかし、政策に対する効果を語ることはほぼ不可能であろう。選択肢の双方を経験することなどできないのだから。人間社会は、あくまでも試行実験の場でしかない。人間がやれることと言ったら、再発を防止することぐらいであろう。バーネット・フランクという人は、こう述べたという。
「政治の問題は、大惨事を回避したからといって、功績は認められないことだ。有権者のまえで、"いやはや、まったく最低の事態だ。でも知っているか?もし私がいなかったら、事態はもっとひどいことになっていた"と言えるだろうか。世界の歴史上、演壇でそんなことを言って選ばれた人間などひとりもいない。」
それにしても、後に明るみになった業界体質には唖然とする!
メリルリンチは、契約締結直前に社員に何十億ドルものボーナスを払っていたことが判明し、内密交渉が開示されると株主が大爆発!そもそもバンク・オブ・アメリカとの合併は、メリルリンチの救済措置として提示されたはず。契約締結までの数カ月でメリルリンチの損失は大きく膨らみ、それを隠蔽したまま両社の株主投票にかけられ承認されたことになる。水面下では、ポールソンとバーナンキが圧力をかけての合併交渉だったが、やはり陰謀の臭いがする。バンク・オブ・アメリカも、気づきながらあえて公表しなかったとの指摘もある。おまけに、メリルリンチのCEOジョン・セインは、取締役会に4000万ドルものボーナスを要求していたとか。
しかしながら、世間から最大の反感を買ったのは、AIGだという。850億ドルの資金援助を皮切りに、最終的には政府から1800億ドル以上の支援を受け取るに至ったと。AIG幹部に何百万ドルものボーナスが支払われたという記事が掲載される。支援金の4分の1は、即座にゴールドマン・サックス、メリルリンチ、ドイツ銀行といったグローバル金融機関に移されたという。特に、ゴールドマン・サックスはAIGから129億ドルを受け取り、最大の支払い先として批判される。
そういえば、昨年末(2012年12月)、米財務省はAIGの保有株を全株売却すると、大々的に報じられた。納税者は投資利益も得た格好となったと。このニュースに煮えくり返った人も大勢いるだろう。
一方、予期せぬ副産物もある。金融業界の混乱は、資本主義の将来にどういう意味を持つのか?経済システムにおける政府の役割とはいかなるものか?そして、今回の役割が演じたものは、不可逆的なものなのか?こうしたことに改めて疑問を提起したことである。その後、米政府は、ウォール街だけでなく、デトロイト銀行救済後、ゼネラルモーターズとクライスラーの二大自動車企業を救済した。そして今、オバマ政権下で医療保険システムにおける政府の役割にまで及んでいる。
そこで日本との比較になるわけだが、失われた10年と言われながら20年が過ぎようとしている...

2013-06-23

"天才たちの誤算" Roger Lowenstein 著

なぜGMは... に触発されて、ロジャー・ローウェンスタインをもう一冊。実は、十年以上前に一度読んでいる。株式投資の勉強を始めた当時、オプション、デリバティブ、アービトラージ、VaR(Value at Risk)など、ヘッジ手法の入門書として感服したものである。そして、リーマンショックへの流れを眺めると、金融業界の体質がまったく変わっていないことに気づかされる。
本書の主役、すなわち悪の根源は、LTCM(ロングターム・キャピタル・マネジメント)。1994年、突如無名のチームが、二人のノーベル賞経済学者ロバート・マートンとマイロン・ショールズを擁して登場すると、多くの金融機関が損失を出す場面で一人勝ちの成績を収め、夢の4年間を過ごす。しかも、年間40%のリターンを稼ぐ驚異ぶり。ブラック = ショールズ方程式の伝道師となった彼らは、ヘッジファンドなどという自覚はなく、金融リスク保険会社を自負する。
「われわれはただのファンドではなく、金融工学(ファイナンシャル・テクノロジ)カンパニーです。」
そして、難解な数学用語を持ちだし、勘と度胸が売りのウォール街土着の非科学的なネアンデルタール人どもを圧倒する。金融屋たちは、リスクとは無縁に映るドリームチームに目が眩み、われ先にと取引を申し出る始末。外国のグローバル銀行や政府系機関、そしてFRB議長グリーンスパンまでも、彼らのデリバティブ取引の仕組みに心を奪われる。
しかし、1998年、ロシア債がデフォルトに陥ると状況は一変。ポートフォリオの不透明さに加え、異常なほど高いレバレッジは30倍。自己資本が目減りした時期には55倍にまで膨らむ。世界的金融危機を免れるため、ゴールドマン・サックスがリーダ格となり、ベア・スターンズやメリルリンチなどの投資銀行が救済に乗り出す。そう、後のリーマンショックで主役に躍り出る連中だ。
結局、LTCMは14銀行に買収される。総額36億5千万ドル。十年前に読んだ時、この数字に目を丸くしたものだが、今読むと感覚が麻痺している。リーマンショックでも、ベア・スターンズやリーマン・ブラザーズの演じたレバレッジ水準は30倍に達した。おまけに、公的資金の注入では数千億ドルと桁が違う。ここで救済役を演じた連中が、十年後には主役を演じるわけだ。なるほど、本書はウォール害(街)の雛形物語であったか...
しかし、ウォール街で長く記憶される教訓はない。さて、次の十年後には誰が主役に抜擢されるだろうか?ちなみに、リーマンショックでは、財務長官ポールソン、NY連銀総裁ガイトナー、FRB議長バーナンキらが救済役を演じたが、まさか...
「第二のマートンが現れ、リスク管理しオッズを予想する優美なモデルを発表しても、過去を完璧に記憶するコンピュータが開発され、将来のリスクを測定できると言われても、投資家は今度は、大急ぎで別の方向に逃げ出すだろう。」

とかく人は、カネが絡むと合理的に行動できないものである。アナリストたちの将来予測ほど当てにならないものはない。プロスペクトル理論は、いわば欲望の法則と言っていいだろう。リスクとリターンの関係は常に監視しておく必要がある。とはいえ、リスク分散の難しい時代、不可能なほどに...
証券取引において最も注意を払うのはリスク管理であろう。そこで、無関係そうな証券を組み合わせてポートフォリオを形成し、分散投資する。その組み合わせは、流動性の高いものと低いもの、変動性の大きいものと小さいもの、あるいは多業種に分散させたりと、投資戦略を練る。だが、無関係に見えても誰かがポートフォリオに組み込み、少しでもレバレッジをかけた時点で関係を持つことになる。レバレッジをかければ決済期限に縛られ、損失が生じると評価額が下がり、証拠金を見せなければならない。損失が広がれば、証拠金を見せるために連鎖して他の証券が売られる。リーマンショックでは、資産運用リスクを分散させるために不動産に手を出して、却って大損した人もいるだろう。
また、一つの銘柄が、欧州市場、米国市場、アジア市場など重複して上場している企業も多く、なによりも地球上にある市場は為替で結びついている。しかも、ネット社会では、世界中の市場がリアルタイムでつながる。大手金融機関の間では、アルゴリズムを使って自動売買を高速で行う高頻度取引(HFT)がお盛んだ。コンマ何秒で差益を決するとなれば、大衆は大挙して押し寄せ、リスク分散だけでは対処できない。ブラック = ショールズ・モデルのような微分方程式の弱点は非連続性への対応であり、まさに金融危機とはそうした状況にある。数学的にはアトラクターのような、物理学的にはブラックホールのような状態なのだ。人は、理は避けられても、偶然までは避けられない。人間は本能的に、偶然に対して無防備にならざるをえない。
では、レバレッジをかけなければどうだろうか?1929年の世界恐慌から100年スパンで眺めれば、多少の瞬間ノイズがあるにせよ、市場全体では連続性を保っているように映る。デフォルトした国家ですら立ち直っているではないか。倒産リスクがあるにせよ、決済期限に縛られなければ、ポートフォリオはずっと機能しやすくなるのではないか。仮想価値に目を奪われず、経済循環の根幹である生産性に確実に向かっている銘柄を選択すれば、偶然のリスクを軽減することはできるだろう。実体を見据えておけば、世間が大騒ぎするような事態には陥らずに済むのではないか。ウォーレン・バフェットといった多くの投資家が、デリバティブを毛嫌いする理由がここにある。財布と相談しながら気に入った事業に投資し、地道に配当金を狙うだけでも、銀行金利よりはるかに良い成績が得られるし、わずかでも年金運用の足しにはできる。少々要領が悪くても、数年後には金融危機前の水準に回復する。マスコミや風潮に踊らされてよほどの高値を掴まされない限り。むしろ逆張りで行く方がいいかもしれない。わざわざリスクの高い時期に売買に参加することもあるまい。
いずれにせよ、リスクのない成長はありえないし、リスクを完全にコントロールすることも不可能である。それは遺伝子工学が教えてくれている。人間は、DNA配列の複製ミスのリスクを冒してまで進化の道を選んだ。欲望は人間の本質、抑制するもまた欲望、この性質はけして消し去ることはできない。そこで、微分方程式を用いて環境条件を絞りながら分析しようとする試みが、悪いとは思わない。ただ実際、カオス系で条件を網羅することは不可能なぐらい難しく、初期条件と境界条件をちょいと間違えるだけで、まったく違う答えを弾き出す。道具ってやつは、弱点を心得た上で用いて威力を発揮する。LTCMの最大の問題は、数学の道具を宗教レベルにまで崇めたことであろう。

1. 陰謀説と市場原理
世界的金融危機が生じると、必ず取り沙汰されるのが金融陰謀説。ユダヤ系金融支配説やフリーメイソン世界支配説、あるいは、ロックフェラーやロスチャイルドの影響が何かと噂され、アメリカの建国史そのものが、フリーメイソンとの関係を噂されてきた。近年で言えば、ゴールドマン・サックスであろうか。その創設もユダヤ系。本書でも不穏な動きを見せる。積極的に援助を申し出て帳簿に侵入し、ポジションをそっくりノートパソコンにダウンロードしたようだと。その張本人ジェイコブ・ゴールドフィールドは、なぜかリーマンにも精通している。ゴールドマン側は必死に否定しているけど。しかし、これは単なる産業スパイの類いに見える。金融業界そのものが、陰謀めいた性格を持っているし...
経済にとって最も重要なのは生産性であるが、それを触発するのが投資である。生産によって得られる利益を効率良く投資にフィードバックさせれば、経済循環をより活性化させることができる。資金を効率良く投資に向かわせるには、生産財の価値評価が欠かせない。その評価に信用をもたらすのが金融業界の役割である。逆に言えば、価値評価をちょいと欺瞞するだけで、経済循環を根元から牛耳ることができる。国家の枠組みを超えたヘッジファンド、あるいはテロリストによる世界金融支配を目論む連中が存在するのも確か。実際、日本国債にしても、空売り攻撃を何度も経験している。今のところ外国人保有率が低いので動じないようだが、日本人にも空売り屋はいるし、自称日本人ってのもいる。それに、経済危機の後は、国債などの安定資産に資金が向かう傾向にある。危険水準にあれば、ちょっとしたきっかけで一斉に暴落を誘発する可能性があるということを、そして、どんな金融商品であれデフォルトのリスクは避けられないということを、この物語は教えてくれる。要するに、今現在、市場が機能しているかどうかなど、誰にも分からないということだろう。やはり、アナリストとは占い師の類いか...

2. 底なしの資金調達機関
LTCMの当初の戦略は、安定資産をロングポジション(買い)で仕込み、ショートポジション(売り)でヘッジするというやり方。つまり、デリバティブをヘッジとして機能させている。この手法は、それほど悪くない。むしろ参考になるぐらいだ。
ただ、一つ一つの取引が小銭稼ぎのために、ファンドとしての利益拡大が見込めない。そこで、自己資本を大幅に超えた資金を投じる物量作戦にでる。失敗の確率は、いくら資金を投入しても同じという先入観。しかし、失敗した時に取り返しがつくかどうかは別で、小学生でも分かりそうなものだけど。そして、デリバティブ残高は、1995年の時点で6500億ドル、1997年では1兆2500億ドルという途方も無い値にまで膨れ上がる。レバレッジをかけた分、損失期間を耐えぬくための資金が必要になる。ここにデリバティブのメカニズムがある。
それにしても、ちっぽけなファンドがなぜ、これだけの資金を集めることができたのか?LTCM率いるジョン・メリウェザーは、数学の才能に溢れ、ソロモン・ブラザーズで債券アービトラージャーとして才覚を現した人物だという。内気で一分の隙もないポーカーフェース。怯えと強欲さというトレーダーにとって命取りとなる二つの感情を、並外れた自制心で抑えることができるという。私利を追求する人間には珍しく気品を感じさせるそうな。業界でも信頼が厚く、寛容な態度と部下を思いやる態度は、トレーダーらしくない道徳心も見せるという。
彼の人事戦略は単純で、自分より頭のいい人材を雇うこと。まず、ノーベル経済学賞の有力候補ロバート・マートンとマイロン・ショールズの二人を引き入れる。さらに、射止めた人物は衝撃を与える。グリーンスパンの後継者とも言われる人物、FRB副議長デビッド・W・マリンズ。ワシントンから太鼓判を押された格好で、香港土地開発局、シンガポール政府投資公社、台湾銀行、バンコク銀行、クウェート国営年金基金などから相次いで契約を取る。イタリア中央銀行の外為局に1億ドルを投資させる離れ業まで披露。とても民間のヘッジファンドのできる芸当ではない。というより、相手側もヘッジファンドという感覚がないのだろう。住友銀行も1億ドルの契約、ドイツ銀行とリヒテンシュタイン・グローバル・トラストも、スイスのプライベート・バンク、ジュリアス・ベアーは億万長者の顧客にファンドを売り込んだという。LTCMの掲げる肩書きに、銀行をはじめ一般の大企業のCEOや著名人たち、あるいは資産運用機関が群がる。手数料の高さなど、そっちのけ。マートンとショールズの書籍を読めば、ローリスク投資だと思い込んでいる。ウォール街の幹部クラスは、学術的な話になるとチンプンカンプン。
しかし、金融屋や保険屋という人種は、専門家ですら理解の難しい複雑な金融商品を編み出して、素人を喰い物にする連中である。ここでは逆に、難しい数学用語によって喰い物にされる。メリウェザーがいなかったら、こうした数学者たちに実験の場を与えることはなかったのだろうけど...

3. 金融工学の相対性理論 = サヤ取り商法
経済循環における投資の役割は、流動性を形成することである。だが、LTCMの戦略は、流動性などはどうでもよく、相対価値戦略にある。サヤ取りこそが、メリウェザーの基本形というわけだ。というより、業界全体の体質であろう。
市場で相対価値が生じる最も基本的な形は、先物と現物であろう。つまり、将来価値と現在価値の差益を求める仕組み。原理的には、将来価値は現在価値に収束するはず。その前提では、購入時に将来価値と現在価値の差が大きいほど、差益が得られることになる。つまり、相対価値戦略とは、相対的な関係を持つ金融商品において、その双方のスプレッド(格差)を狙う取引術である。
本書が紹介する住宅ローンの仕組みは興味深い。それは、PO債(Principal Only)とIO債(Interest Only)である。借り手が、住宅ローンを途中で借り換える場合、元のローンは一括返済される。多額の元本が一気に支払われ、利息プールへの支払いは、そこで途絶える。その元本のみの証券が、PO債である。一方、当初の契約どおりに月ごとの利払いのみを行う証券が、IO債である。つまり、IO債は、借り換える人が増えると値を下げ、借り換える人が減ると値を上げることになる。
1993年頃から、米国では借り換えブームが起きたという。ベトナム戦争後、初めて住宅ローン金利が 7% を割り込み、ベビーブーマー世代が一斉に利払いの節約に走ったという。IO債は明らかに低すぎる水準まで急落。そこに目を付けたLTCMは、IO債を買いまくり大儲けする。その基本原理には、イールドカーブ取引による戦略がある。金利がある期間に限って、これといった理由もなく通常の水準から乖離していると、すかさず介入。例えば、中期の金利が短期を上回り、長期に肩を並べそうな水準であるような場面で一連のアービトラージ取引を仕掛け、この中期の出っ張りが消える方向に賭ける。こうした複雑な取引を物色する眼力は鋭い。1994年の米国債権市場の混乱が、ドイツ、フランス、イギリスの国債と、それぞれの先物とのスプレッドが拡大、そこにLTCMが飛びつき利益を上げる。あるいは、日本株ワラントと東証株価指数オプションとのアービトラージにも目をつける。その性格が、ロシア債にも手を出すことになる。
また、ペア株にも目を付ける。複数の市場に上場した銘柄は、必ずスプレッドが生じる。しかし、だ。PO債やIO債にせよ、元本と金利を分けた証券を編み出したのは金融屋だ。まるで価値の幽体離脱!マイホームの夢は、どこの国でも同じようで、住宅ローン証券は餌食にされやすい。信用取引とは、実体価値から信用だけが浮遊してまわる原理というわけか。金融屋たちは霊感が強いのか?
そして、リーマンショックでは、もっと巧みな技法、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)という債権の委譲なしで、信用リスクのみを委譲するなんて証券が主役を演じることになる。相対価値を無理やり編み出してスワップするのは、金融屋の得意技か。他にも、貸出を資本にスワップされるような仕掛けを編み出すなど...これが金融工学なのか?金利スワップに、株式スワップに、通貨スワップに、信用スワップに...なるほど、欲望の原理はスワップにあったのかぁ。そして、夫婦関係もスワップ?
金融業界は、こういう取引のあり方に疑問を持たないのだろうか?本来のデリバティブは、災害などで生じる大幅な価格変動を軟着陸させるための方策であったはず。堺の商人によって考案された先物取引は、気象状況に影響されないように、予め米価を決めておくことによって価格を安定させ、社会混乱を避けようとする仕組みであった。政治屋は金融屋と結びついて、規制緩和をいかにも自由主義の象徴にように持ち出すが、奇妙な金融商品を編み出すために利用されているとしたら、本末転倒も甚だしい。最大の問題は、LTCMの出現よりも、その出現を呼び込んだ業界体質の方にあるように思えてならない。

4. ボラティリティで、ぼられる?
LTCMの基本形と言うべき取引に、エクイティ・ボラティリティといものがあるという。これが破綻の原動力か。
さて、ボラティリティ(変動性)に賭けるって、なんだ?変動幅を予測するのは、チャート分析では欠かせない考え方で、微分方程式を用いた基本的な思考方法である。ただ、変動の激しさを予測するとなると、途端に難しくなる。
1998年の初め、LTCMはエクイティ・ボラティリティを大量に売り始めたという。といっても、エクイティ・ボラティリティなんて株式や証券があるわけではない。オプション価格を決定する鍵は原資産の予想ボラティリティにあり、ブラック = ショールズ方程式によると、オプション価格が分かれば、市場がどの程度のボラティリティを予想しているかを推定できる。ボラティリティから市場予測の間違いを推定し、オプションの方向性を売るといったことをやるわけだ。
まず、オプションの買い手は、相場の下落に備えて保険をかけたいと考える。暴落のリスクに対して、わずかばかりの保険料(プレミアム)なら喜んで支払うだろう。一方、LTCMは保険料を徴収する代わりに、市場が暴走した時は損失を引き受ける義務を負う。モルガン・スタンレーは、LTCMに「ボラティリティ中央銀行」というニックネームを進呈したとか。
実際には、LTCMは急速な下落と急速な上昇の双方向のリスクに対して、保険(オプション)を売ることになる。買い手は、オプション価格が適性かどうか判断できないので、双方に買い手がつく。ちょうどアジア通貨危機を目の当たりにした時期で、保険料の相場がどうであれ、保険に入りたいという心理が働く。投資家が安全ネットへの出費を増やせば、オプション価格を押し上げる。金融機関は、投資家の不安につけ込み、下落リスクをヘッジした株価指数商品を売り込む。LTCMは、こうした動きが、オプション価格を人為的に押し上げると見ている。それも間違いではあるまい。オプション価格が高い水準にあれば、実質的には保険に割高な料金を請求していることになり、オプション契約満了時に儲かるという寸法。なるほど、保険屋の言い分ももっともだ。
「保険にばかげた値段を支払おうという客がいるのに、売らない理由がどこにある。」
長期的なオプションは取引所では売買されないので、個別契約をしているという。1対1の契約を、JPモルガン、ソロモン・ブラザーズ、モルガン・スタンレー、バンカース・トラストといった大手に売る。エクイティ・ボラティリティは、長期的には理に適っている。だが、短期的にはハイリスクとなる。やはり、レバレッジに耐えうるだけの資金力が鍵になるというのは同じか。

2013-06-16

"なぜGMは転落したのか" Roger Lowenstein 著

世界一の自動車メーカとして君臨し、アメリカの象徴となったゼネラルモーターズ。会長チャーリー・ウィルソンが国務長官に任命された時、議会で発言したあの言葉が蘇る。
「我が国にとって良いことは、GMにとっても良いことであり、その逆もまたしかり。」
ところが、2009年、GMはチャプターイレブン(連邦倒産法第11章)の適用を申請する。その凋落ぶりの最大の原因は、利益を喰い潰す企業年金にあったという。しかも、この問題はビッグスリーに留まらず、全米に蔓延していると指摘している。
注目すべきは、民間部門よりも、むしろ公共部門の方が深刻なことである。どこの国でも、民間企業の従業員よりも公務員の方が、明らかに職場の財政破綻に対する危機感が薄い。周知の通り、アメリカは社会保障制度があまり充実していない。その分、民間企業がその役割を果たしてきたということか。言い換えれば、企業に所属しなければ社会保障制度にありつくこともできない。労働組合は奇妙な労働者権利を増幅させてきた。まさに既得権益の原理がここにある。
本書は、地方自治体の至るところで年金爆弾を抱えている実態を暴き、実際にニューヨーク市地下鉄とサンディエゴ市で起こった年金破綻の事例を紹介してくれる。特に、サンディエゴ市の事例はエンロン級の粉飾、いや、陰謀の類いか。著者はペテン師と呼んでいる。これらの事例で共通している事は、経営陣による「先送りの原理」と労働組合による「タカリの原理」が相補に作用した結果だということ。そして、我が国にもそのまま当て嵌まるということ。いや、20年前に語るべきものだったかもしれない。

「不幸なことだが。年金プランは政府予算のバランスをとるために支出を簡単に先送りできる領域だ。」
...連邦下院議員エルウッド・ヒリス

まだしも民間部門の破綻は仕方がないかもしれない。だが、地方自治体の破綻を目の当たりにすると国家の危機となる。公共機関における労働組合の政治的結束力は強く、そのまま公務員という名の特権階級に押し上げる。ただ、公務員にも同情すべき点はある。法律でストライキ権が認められていない上に、なにかと批判の対象とされやすい。それでも、TWU(全米運輸労組)は過去に二度のスト経験があるらしいが。いずれにせよ、能力主義が明確に現れない職場ほど、奇妙な団結力を発揮するものである。
本書に驚かされるのは、あのアメリカにして共産主義的な、社会主義的な思想が根強くあることである。老舗巨大産業は、1974年のエリサ法(従業員退職所得保障法)などを経て、労働者待遇の義務化を押し付けられてきた。GMから分社化した自動車部品メーカ、デルファイの従業員は、こんな権利まで手にしていたという。歯科、眼科、年金、生命保険、疾病、身体障害、事故などに対応する各種保険、約5週間の有給休暇、おまけに無料法律相談... と、呆れんばかりの優遇!こんな堕落産業に公的資金投入とは、これいかに?官僚化とは、なにも公務員の専売特許ではない。モラルハザードとは、なにも金融屋の専売特許ではない。そして、航空会社、繊維メーカ、製鉄業など至る所で年金スポンサーが倒産に追い込まれる。
一方、ウォルマートのような小売業やグーグルのようなIT企業といった新興産業では、企業年金を拒否する。米議会では国民皆保険でいまだ揉めているようだが、あながちアカの政策とも言えないようだ。日本でも同じように、企業の競争力を削ぐかのように巨額な法人税を課す。純粋な競争力で試算すると、日本企業も捨てたもんじゃないはずだが。社会保障において、国家と民間の役割分担を論じることは難しい。それは、国際競争力と深く関わり、絶対的な解を見つけることはできないだろう。
こうした構図を眺めていると、我が国でも似たような政策に出くわす。最近の例では、2009年に成立したモラトリアム法(中小企業金融円滑化法)あたりであろうか。リーマンショックの煽りで成立したと言っていいだろう。当時の金融担当相亀井静香氏が推進した政策で、約30万社に総額95兆円をばら撒いたとも言われる。返済を猶予すると宣言すれば、弱者を守る心地良い制度に映る。実際、この制度を活用して助かった企業も少なくないだろう。だが、1年間の時限立法だったはずが、1年延長、2年延長と先送り。当初からペーパー会社の乱立が指摘された。民間が政治家にたかる構造によって政治家が大きな顔をする、その典型であろう。頭の痛い金融副産物は、いまだ亡霊のごとくつきまとう。

1. 労働組合
「年金物語の大半は、労働組合の力がゆっくりと増大する物語である。」
労働組合はその性格上、共産主義や社会主義と結びつきやすい。プロレタリアートの代表として。企業側が裏社会と結びつき労働者組織を潰しにかかれば、共産主義者が突撃部隊を組織し、ストライキ、脅し、あからさまな政治工作によって、議会の一大勢力へ伸し上がってきた。暴力抗争の末、ニューディール政策によって労働者を保護するワグナー法が制定されると、上品な労使交渉へと移行していく。それでも、ルーズベルト大統領は公共機関に対する労働組合という考えには冷ややかだったという。
労働組合にしても共産主義にしても、発足当初はおそらく意義深いものだったに違いない。あらゆる市民階層から生じる草の根運動の類いが、そうであるように。資本階級に権利が集中した時代、マルクスが資本主義の弱点を指摘すると、労働組合は労働者の権利を獲得していく。だが、どんな組織でも、増殖していくうちに心得違いした者が紛れ込み、本質的な意義が失われていく。これが、官僚化の法則というやつだ。
そして今、労働組合は本当に労働者の代表者として機能しているだろうか?本書が紹介する逆転現象は興味深い。大手労組の多くは自らの政治的利益にきわめて敏感な幹部で固められ、確実だが控えめな給付金よりも、不確実でも贅沢な利益を求める交渉を好んだという。むしろコダックやIBMのように労働組合のない企業の方が、年金基金の積立状況が良いそうな。日本においても大手労組が選挙運動に血眼になる光景を見かける。目先の平等主義を訴える姿を。組合費が選挙戦に費やされ、まさに政治団体と化す。経済学者の中には、労働組合不要説を唱える人も少なくない。実際、労組が獲得する賃上げ運動が非正規社員や下請けをいじめ、組織外の人々に犠牲を強いることによって存在感を示している。

2. 先送りとタカリの融合
選挙の機能について、興味深い指摘がある。選挙は、一般人にとっては政策の選択となるが、公務員にとっては上司の選択になるという。サンディエゴ市の事例では、政治家たちは情報を隠蔽し、労働者優遇や公共施設の整備を訴えて当選を繰り返す。そして、サンディエゴ市職員の給付金は、民間企業よりもはるかに高い水準にまで達したという。GMでは馴れ合い取締役会が先延ばしを続け、サンディエゴ市では政治家の心地良い公約が市民を欺瞞し続けた。
「政府の実施する計画のなかで、年金ほど政治的性格が試されるものはない。年金は未来との契約である。つまり、市が職員をどれだけ評価するかを表明するものだ。」
では、政治家が情報を開示し、正直に給付金カットを宣言したらどうだろうか?それでも当選できるだろうか?市民は冷静な判断を下せるだろうか?政治家がいくら先延ばししようとも、市民が実態を知り、拒否すれば済む話。
そこで、一つは情報の透明性が鍵となる。全面的な情報開示は健全な株式市場には必要不可欠で、良好な行政においても同じであろう。しかし、仮に正確な情報を公開したところで誰が信じる?既に、政治不信は蔓延しているというのに。それに、市民は給付金カットに応じないだろう。そして、より権利を主張してデモを繰り返すだろう。企業が既に破綻しているにもかかわらず、どこぞの労働組合は賃金カットを拒否するどころか、賃上げを要求する始末。人は誰しも、不都合な事実には目を向けない上に、多数決の場に安住を求める。ちなみに、大都市が焼夷弾で焼け野原になっている現実を前にした時でさえ、戦争は勝っているという言葉を信じる。これが集団心理ってやつか。
また、選挙戦を踏まえれば、地方自治体の財政破綻は絶対にありえない!などと主張する政治屋や有識者がいる。暗に、必ず国が援助してくれると主張するがごとく。民間企業では、大き過ぎて潰せない!という言葉を何度聞かされたことか。
先送りとタカリは相性がいいだけに、これらが融合すると集団性の悪魔に取り憑かれた状況となる。そして、一度でも隠蔽するとそれが習慣となり、一度獲得した保障は病みつきよ。なるほど、これは人間の本質と、その集団性を暴いた物語であったか。

2013-06-09

"民主主義がアフリカ経済を殺す" Paul Collier 著

ポール・コリアー氏をもう一冊。「最底辺の10億人」では基本的人権を問うていた。本書では権力の側を問うている。冷戦終結後、国連をはじめとする国際的圧力は、紛争国家に対して民主主義を広めてきた。それが悪いとは思わない。しかし、最底辺の国々では、民主主義の普及ではなく選挙の普及となった。大統領たちは、政治理念を学ばず、ひたすら選挙での勝利法を学ぶ。その結果、恐怖選挙と化し、腐敗政権に正義のお墨付きまでも与えてしまう。通常の民主主義国家では、選挙の敗者は信念があるなら、それを貫くために次回の選挙に備えるだろう。だが、敗者が政治暴力によって迫害されるとなれば、選挙の意義は紛争の火種と化す。そして、正当性を信じる改革派は、選挙で負けることを察知すれば、不正選挙だと叫んでボイコットする。これが民主主義の姿だと言うのなら、民衆は民主主義に幻滅するだろう。そして、独裁制へ回帰する機会を与える。本書は、デモクラシーならぬ「デモクレイジー」と呼んでいる。

古代ギリシアの教訓では、民主主義には啓発された市民が前提され、プラトンは哲人たちの支配による国家を理想に掲げた。スイスのように数百年に渡って自らを磨き続け、村レベルから統治について試行錯誤を重ねるような国であれば、民主主義は有効なシステムとなろう。何事も手段に目を奪われ、意義や哲学観念といったものを無視して運営することは危険である。人間が完璧でない以上、あらゆる分野において完璧なシステムを構築することは不可能であろう。そして、システムの弱点をよく研究した上で、実践することが肝要となるはず。民主主義は、人間社会が試行を重ねた結果、比較的ましな政治システムというだけで、なにも崇めるほどのものではない。先進国と言われる我が国でさえ、「民主主義 = 選挙」という目でしか見られない政治屋どもで溢れている。確かに、選挙は民主主義を実践する上で有効な手段の一つである。選挙運営を観察すれば、その国の民主主義の成熟度を測ることができよう。
民主主義は自由と相性がいいだけに、凶暴化すると弱肉強食となりがち。だから、権力分散が基本概念にある。民主主義にとって、選挙よりも分権によるパワーバランスの方がはるかに本質的であろう。だが、話題性を煽るには選挙の方がはるかに盛り上げやすいし、報道屋どもは存在価値をここに求める。ならば、民主主義を機能させる上で、透明性が重要な鍵となろう。本書は、「チェック・アンド・バランス」を強調する。

「銃が人を殺すのではなく、人が人を殺す。」
内戦の愚かなところは、自ら国家を破壊することにある。最底辺の国々の政治指導者たちは、自国の生産性を破壊し、自国民を虐殺してまで、権力の座を固守する。その非人道性が国際世論に曝されると、国際的な軍事介入によって政治的暴力は抑圧される。しかし、政治理念まで変えることはできない。国際的な支援金は、国家安全保障の名目で軍事費に消える。公共財が不足しているというのに、カラシニコフの経済学は見事なまでに機能する。中古品が政府軍から流出し、安価なカラシニコフが出回るグローバル市場を形成する。闇の市場は、まさに武器のブラックホール。そして、内戦気運がいつも燻り、労働技術の習熟に向かうはずの人材が、カラシニコフの達人となる。軍部も公共財であることに違いはないが、もはや公共悪として君臨する。
また、援助のあり方にも問題があると指摘している。労働者を海外から受け入れるために、自国の若者たちが労働機会を失い、生活は一向に改善されないという。必要な援助は、レンガ職人、配管工、溶接工などの技術指導であって、「国境なきレンガ職人団」であると訴える。
そして何よりも強く訴えているのは、国際的な軍事介入である。それも10年スパンで。軍事介入は主権にかかわるデリケートな問題で、国際世論から非難されやすい。だが、あえてそこに踏み込むのは、国家主権が政治家やエリートたちに私物化されているからである。国の面子よりも政治家の面子が優先されるのは、どこの国でも似たり寄ったり。必要な供給は、ワクチン同様、安全保障とアカウンタビリティであると指摘している。
「ブッシュ大統領は、予防措置がこうした安全保障上の問題に対する正しい対応になりうるという点では正しかったが、先制的な手段として最適なのが軍事侵略だと考えた点で誤っていた。」

1. アフリカの地域特性
最底辺の国々における戦争は、歴史で経験してきた戦争とは少々様子が違う。二つの大戦をはじめとする過去の戦争は、ほとんどが領土意識から生じた侵略戦争であった。そして、領土としての価値と軍事リスクが天秤にかけられる。国家の威信などという動機で、無闇に領土を拡げる場合もあるが、いずれにせよ国益が前提とされてきた。
対して、今日頻繁に起こっているのは内戦である。内戦も古くからある現象だが、それが民族間戦争となり、国家間戦争へと発展してきた。21世紀となった今では、侵略型の戦争は稀である。休火山のように鳴りを潜めているだけのことかもしれないが。
ヨーロッパでは、大帝国による統一と、その滅亡による分裂というパターンを繰り返してきた。ローマ帝国、ハプスブルク家、ナポレオン戦争、そして、二つの世界大戦を経て、今の国境線に落ち着く。
ところが、最底辺の国々では、国境があまり動いたことがないという。周辺国からの挑戦や、併合などの恐怖にあまり遭遇してこなかったとか。ほんまかいな?アフリカ大陸では、そうした経験をする前に、あっさりと植民地化されたということか?あるいは、民族の多様性が、外敵よりも民族間闘争を優先させてきたということか?だとしても、歴史を遡れば、ローマ帝国に対抗できるほどの古代エジプトという勢力があったし、エチオピア帝国も生じた。民族の多様性にしても、どこの地域にも見られる現象で、それほど特別な状況ではないように思える。植民地だった地域が、突然解放されて独立したという意味では、アジア諸国にも似たような経緯がある。世界のどの地域を眺めても、似たような国が集まりやすいというのは言えるかもしれない。最貧国がアフリカに集中したのは、宇宙のクラスタ化のような現象であろうか?そして、負の相乗効果が生じた結果であろうか?

2. 民族の多様性とアイデンティティの共有
国民の意識を一つにする要因に外敵の存在がある。侵略の恐怖に曝されれば、世論は国防論で盛り上がる。ナショナリズムの高揚のために、古くから愛国心教育が実施されてきた。多民族国家で分裂の危機となれば、仮想敵国をでっちあげる政策がよく用いられる。だが、アイデンティティというものは、集団的な自衛だけで形成されるほど単純なものではあるまい。そこには、長い年月によって育まれた価値観の共有がある。本書は、国民的アイデンティティは政治的に構築されるとしている。確かに、そういうところもある。だが、民族的アイデンティティは文化や言語、あるいは風土によって構築される。方言で地元意識を感じたり、同じ語を喋るコミュニティが文化的な誇りとなったりする。チームワークがよく機能した集団では、同じポーズや合言葉のようなものが自然に生まれる。こうした帰属意識のようなものは、政治体制を議論する前に考慮すべき問題のように思える。
しかし、最底辺の国々では、民族的多様性がアイデンティティの共有を妨げているという。それでも本書は、民族の多様性に一筋の希望を見出してくれる。公共性においては、多様性が悪影響を及ぼすが、民間活動においては、多様性が利点になるという。確かに、多様性の高いチームは、一緒に仕事をするのが難しい面があるが、その分潜在能力は高い。個性の強い集団ほど、チームとしてうまく機能すれば生産性は著しく高い。実際、アメリカの生産力は民族の多様性によって支えられ、組織の柔軟性は思考の多様性を原動力としている。しかも、それが教育システムと結びついて、イノベーションの可能性を高める。概して、官僚は同じような学歴や経歴を持つ同類項となりがちだが、民間は多様性を取り入れる傾向がある。
とはいえ、最底辺の国々では、多様性を活かせるほどのスキルがない。よって、指導力のある人材を必要とするという。まずは、民主主義を受け入れる土壌作りから始めることであろうか。

3. イボワールの奇跡とは何だったのか?
独立から1980年まで大成功を収めた国が、突如破綻国家となった事例を紹介してくれる。それは、開発災害の餌食となった典型で、暴力選挙、クーデター、内戦と本書が扱うテーマをすべて網羅している。
コートジボワールの首都アビジャンは、「アフリカのパリ」と呼ばれた。過去の成功は、独裁的なウフェ = ボワニ大統領の構想に基づいている。故郷の村ヤムスクロに遷都し、サンピエトロ大聖堂をモデルにした巨大なバシリカ式聖堂を建設し、ローマ教皇を招いた。しかし、建築費に援助金が流用されたために、援助国は不快感と嘲笑の入り混じった気持ちで眺めていたという。一方、隣国のガーナは社会主義モデルを採用し、失敗国となっていた。
さて、コートジボワールの成長戦略の核は、移民政策だったという。移民を歓迎し、未利用地にココア農園を開拓させる。内陸国で天然資源の少ない隣国ブルキナファソから移民が押し寄せる。なんと、80年代まで労働力の40%が移民で占めたという。国民への埋め合わせとして、移民が生産するココアに重税を課す。移民が一大勢力となる高いリスクの下で、一党独裁制のもとで運営されていた。そこに経済ショックが訪れると、戦略は頓挫。平均所得は3分の1まで目減りし、貧困が拡大。
こうした状況に拍車をかけたのが政策だという。ココアに対する課税は、価格安定策を装っていたという。実際には価格保証だが、国際水準よりも低い水準まで下がると、課税どころか助成の対象となる。おまけに、移民優遇とならないように、均衡を保つために国民の雇用を占める行政部門、官僚組織を拡大したという。移民に働かせて国民が甘い汁を吸うというリスクの高い戦略は、経済ショックのために移民をも保護せねばならない。民間経済を活性化させるどころか、官僚を強化したために、更に経済を悪化させてしまう。ウフェ = ボワニ大統領は、30年以上も権力の座に居座り、老人となっていた。そして、1993年死去。政府が求心力までも失うと、移民政策が政治問題として表面化し、ガバナンスが急激に劣化。暴力選挙や軍事クーデターが起こるが、フランス軍は介入を避けたために内戦が勃発したという。
その後、政変を繰り返し、ローラン・バグボが不正選挙と私兵による蜂起で大統領になる。すると、バグボから排除された政治家たちがクーデターを起こす。アビジャンは、アフリカで群を抜いて多くのフランス人居住者が集中していたという。それを人質としフランス軍に防衛を要請。しかも、フランス軍がバグボ政権を防衛する最中、バグボは若者の集会でフランス人を殺せと扇動する異常な事態。独裁体制にありがちな、タカリの構図である。そこに、コートジボワール沖の海底油田の開発など、天然資源の利権までも絡む。
国家の様変わりとは恐ろしいものである。一瞬のうちに大企業が消え、産業ごと頓死しても不思議ではない時代、国家とはいえ、ちょっとしたきっかけで破綻する可能性があることを認識しておくべきだろう。我が国にも、奇跡と呼ばれる戦後の高度経済成長があったが、それが何だったのか?とならないよう願いたい。

4. 腐敗した政治家の定義
腐敗した政治家を定義する簡単な方法を教えてくれる。それは、自由に着服できる分を最大化する税率を選ぶ能力があること。課税が低すぎても、横領できる分がなくなるので困る。課税が高すぎても、横領に対する目が厳しくなるので都合が悪い。そこで、腐敗者から見て理想的な税率なるものがあり、それも極めて低いという。支援金にしても、あまり大きいと監視が厳しくなる。常に最適値を導き、タカリの按配を絶妙に設定できるセンスの持ち主。金融法則の預入利息と貸出利息の按配のような設定か。なるほど、腐敗者は経済学の達人というわけか。

2013-06-02

"最底辺の10億人" Paul Collier 著

世界銀行は貧困の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命とする...などというのは本当であろうか?著者ポール・コリアーは、そうした観点から注目してきた経済学者の一人で、アフリカ経済の世界的権威者と目される人物。彼は、世界銀行で開発研究グループディレクターを勤めた経験から、ノーベル賞経済学者ジョセフ・スティグリッツの示唆を受けて最貧国の研究を進めてきた様子を語ってくれる。そして、最底辺の国々が負のスパイラルから抜け出せない原因を、四つの罠から解き明かす。それは、紛争の罠、天然資源の罠、劣悪な隣国に囲まれる内陸国の罠、劣悪なガバナンス(立法、司法、行政に及ぶ広義の統治)の罠である。しかも、一国の直面する問題がその中の一つだとしても、周辺地域の統合によって複雑化し、悪の相乗効果を生み出す。さらに、犯罪者やテロリストや疫病の逃避先となり、悪のブラックホールと化す!
どんなに苦しくても、ほんの少し生活が右肩上がりになり、今年よりも来年は必ず改善されるという保障さえあれば、人々は希望をつなぐことができよう。しかしながら、どんな集団にも蟻地獄に吸い込まれていく人たちがいる。これが集団性の法則だとすれば、人間社会は集団性の悪魔と同居していることになろう。この書は、基本的人権を問うている。

負のスパイラル下では、援助もまた絶好の餌食となる。援助の熱狂は、ある種のイメージ作りとしてロックスターやセレブやNGOによって引き起こされる。だが、援助を受ける側では既得権益が優先され、多額の支援金が腐敗を助長する。おまけに、抵抗勢力が海外主導の改革を頓挫させれば、奇妙な国家安全思想を煽り軍事費を増大させる。支援金で一時的に貿易が改善されたとしても、すぐに軍事費に吸い上げられ、元の木阿弥!
天然資源にしても、オランダ病の根源となって他の生産活動を阻害する。石油やダイヤモンドなど一次産品に依存すれば、そこに欲望が群がり、神からの恵みも悪魔からの施しと化す!更に追い打ちをかけるのがグローバリズムで、見事なほど負のスパイラルと同化している。国内に失望した優秀な人材が海外へ逃避するのを手助けし、グローバル化した金融システムが資本の海外流出を円滑にする。
各国の政治家たちは、援助を世論向けの宣伝材料にする。正義という名を掲げれば、そこに人々が群がる。似非ヒューマニズムってやつは、どこにでも転がっているものだ。だいたい、友愛やら博愛やらといった癒し系の言葉には危険性が孕んでいるとしたものである。
援助をめぐっては、激しい政治対立に曝される。左派は、援助を植民地主義に対する償いと見なし、開発のためでなく西側社会の贖罪であると主張する。右派は、援助を生活保護へのたかりと同等に考え、単なる施しは問題を拡げるだけだと主張する。本書は、左派と右派の対立は最悪な部分を引き出し合うかのように見えると語る。
「世界政府というものは存在しない。それはたぶん良いことだろう。たとえ世界政府を望んだところで、それは誕生しないという事実を受け入れなければならない。少なくとも、底辺の10億人の国が直面する問題に関わる期間には起こりえない。」

アフリカや中東の地図を眺めると、国境線が一直線になっているところが多く見られる。民族や部族による生活圏によって作られた境界線ならば、自然地形に沿った複雑な線となりそうなもの。それは人為的に作成された境界線であることは明らかで、欧州列強国による植民地時代の名残である。したがって、国境付近には、無理やり分裂させられた民族や部族が混在し、国家とは無関係の集団を点在させる。こうした構造に、アルカイダ系イスラム組織などの武装勢力が結びつくと、国境付近で政府軍の及ばないテロ活動のリスクを抱えることになる。近年、北アフリカや中東でテロの脅威に曝されるのも、植民地時代の代償を払っているという見方もできるだろう。
本書は、軍事介入の必要性と、貿易障壁の削減を主張している。こうした意見は世論を敵に回すことになろう。軍事介入は平和主義者によって主権を脅かすと非難され、貿易障壁の削減は平等主義者によって弱い者いじめだと非難される。しかし、軍事介入を躊躇したがために大虐殺が発生し、貿易障壁を設けるがために一次産品への依存度を高めると指摘している。支援では、自立を促す必要がある。国が自立するためには、生産性を高めて貿易品目を多様化させる必要がある。国際援助はそれを阻害しているというのか?俗世間の酔っ払いができる事といったら、ユニセフのような援助機関を通じて寄付金を出し、自己満足に浸ることぐらい。だが、募金の使途など知る由もない。ひょっとしたら腐敗の手助けをしているのかもしれない。先進国とされる我が国ですら復興財源が転用される始末。ガバナンスなんてものが、いかに脆いものか。モラルハザードは、なにも金融業界の専売特許ではない。
著者は、国際的な機関や開発機関だけでなく、各国の有権者の考え方も変えなれければならないと訴える。有権者の世界観こそが可能性を形づくると。まずは、見ること!知ること!であろうか。そして、残された道は情報の透明性ぐらいであろうか。
「情報に精通した有権者がいなければ、政治家は底辺の10億人の国を写真撮影の機会に利用するだけで、それらの国を真に変化させようとはしない。」

1. 軍事介入の必要性
いくら政府レベルで公的資本を投下しても、労働機会を見出すことができないのはなぜか?必要なのは民間資本の方だという。確かに、手っ取り早い方法は民間企業の進出であろう。工場誘致によって労働機会を見出すことができる。アジア諸国が豊かになって実質賃金が上昇すれば、次はアフリカの番であろうか。とはいえ、ロボット化が進み、工場が無人化していく中で、東アジアで成功したような事例は期待できないかもしれない。
さて、ポール・クルーグマンとアンソニー・ベナブルズによる洞察の重要な要素に「集積の経済」という用語があるそうな。規模の経済による利益を相殺するほど賃金格差が大きくなるとどうなるか、と二人は考えたという。いくら労働賃金が安いとはいえ、企業がその国に最初に進出するリスクは大きい。労働に対する意欲や教育、工場立地のための整備、そして何よりも言語と文化の壁がある。資本の根本には信用の問題があり、国際援助で誘発される改革を投資家はあまり信用しないだろう。ましてや、政治リスクや暴動リスクが高ければ躊躇する。それでも、成功例を一つでも作れば、話は変わってくる。よって、治安維持が最優先されることになる。
本書は、国外軍の駐留を10年スパンで行うことを主張している。国内軍の充実は、むしろ内戦の発端になるという。しかし、世論は軍事介入となると敏感に反応し、誇大宣伝に流されやすい。特にアフリカへの介入は、ネオコロニアリズム(新植民地主義)と非難を受け、先進国の間でも歴史の陰がつきまとう。だが、軍事介入を躊躇したために、ルワンダでは50万人にのぼる大虐殺が発生した。シエラレオネでは、アハメド・フォディ・サンコーが反政府勢力である革命統一戦線(RUF)を組織し、若者を麻薬中毒にして従順に従う兵士にするばかりか、村人たちの手や脚を切り落とした。歴史背景が躊躇させるなら、アフリカの一国がリーダーシップをとって介入に乗り出すという手もある。実際、南アフリカはコートジボワールの内戦の調停に乗り出しているという。
また、アジアから企業進出する手もある。アジア諸国は経済成長に伴い天然資源の確保に必死だ。特に中国はアフリカの至るところに働きかけている。しかし、中国の巨額支援は、天然資源依存という悪循環を助長していると指摘している。ガバナンス問題をあまり気にしないために、却って情勢を悪化させると。政治的影響力を強めようという意図は見え見えか。そもそも、政治的な思惑を排除した国際援助は可能であろうか?何百年か先であれば、可能かもしれんが...

2. 貿易障壁の削減
保護は、援助と同じぐらいデリケートな問題である。そもそも競争の原理を働かせないと産業は育たない。国際貿易では比較優位の理論が基本的な概念としてあり、貿易政策ではその国の強みを相対的に活かすことになる。だが、保護貿易主義はどこの国にも根強くあり、貧困国ともなれば尚更。しかし、何を保護しているのやら?貿易政策は専門家にも分からない厄介な問題であろう。経済学者たちの意見はまるっきり正反対だし。ならば、確率的なモノの見方をしたらどうか。天気予報のようにとまでは言わないまでも。どうせ蟻地獄が続くのなら、失敗覚悟で思い切った政策を試すべきかもしれない。正論を展開したところで、ジリ貧に陥るようにしか見えないし。いずれにせよ、人間社会は試行実験の場ということになろう。
保護貿易を訴える運動は、だいたいキリスト教の慈善団体が粗雑なマルクス主義を押し付けるという形で生じるという。貿易政策は、いかに時代の潮流に乗るかが検討されるべきであろうが、政治家どもは奇妙な国家像を持ち出す。押し売り的な援助が、関税障壁の問題を悪化させることは想像に易い。本書は、西側の人々がアフリカの貿易障壁削減に反対する運動に、善意の募金を注ぎ込んでいると批判している。とはいえ、初期段階では保護を必要とする。フェアトレード(公正貿易)が解決策となるかは、難しいところではあるが。
本書は、支援が必要としながらも、保護政策が長期化すれば、政府高官たちの汚職の場を提供すると指摘している。親戚や友人の所有する企業の優遇措置として機能すると。多くの国で、保護産業が逆に国際競争力を失う結果となる事例がわんさとある。それが癒着の場となることも珍しくない。そうした経験から、援助に否定的な意見も少なくない。ただ、最底辺の国々では腐敗の次元が違うようだ。援助と腐敗の按配を模索するしかなさそうか。少なくとも援助の質を考慮する必要がある。金銭的支援よりも、人材不足なので人的支援の方が効果がありそうか。多くの場面で現物支給の方が効果がありそうだが、政治家ってやつはどうもバラマキ習性があるようだ。援助バロメータとして選挙アピールしやすいわけか。ならば、有権者の方が見方を変えるしかあるまい。

3. 方向転換の条件
方向転換のための条件として、三種類の特質が検出されたという。なんと、人口が多いほど中等教育を受けた国民の割合が高いこと、さらに、最近内戦から脱した国ほど持続的な方向転換が可能になる傾向があるという。そして、方向転換にそれほど重要でないものは民主主義と政治的権利だという。政策転換や改革には民主主義は向かないのか?これは、底辺の10億人の国々でも民主主義が普及しているため、ひどく失望させる見解である。しかし、妙に説得力がある。我が国の情勢を眺めれば...
どうやら、教育を受けた批判精神をもつ大衆が必要ということらしい。無知な大衆は却って邪魔ということか。国際的な視点の持てる高度な教育が必要であるが、そもそも国の教育機関が腐敗している。教育レベルが低いと、偏重した愛国心教育によって内戦へ向かわせる。腐敗者は自分が腐敗しているとは思わないし、それどころか正義感旺盛だ。新大統領が就任し、民衆が改革に希望を抱いたところで、中身に幻滅すれば改革そのものを疑う。民主主義が方向転換にそれほど役に立たないとしても、一旦その方向に舵をとれば後戻りできない。もし逆戻りすれば、更に強烈な独裁国家へと進む。政策の失敗を掲げ、大統領を批判するのも命がけ。それでも、そんな勇気を持った人が少なからずいる。改革とは、方向転換の機会が訪れたら、その初期段階をいかに持続させるか?これにかかっている。