2020-06-28

"劇画 ヒットラー" 水木しげる 著

おいらが漫画に目覚めたのは大学時代。定食屋に行けば、誰もが漫画で時間をつぶし、おいらだけが手持ち無沙汰ときた。絵と文字が一体となったハイブリッド構造に、どうもついていけない。しかも、友人たちは五分もあれば、一冊を読み切ってしまう。大人どもの間では、先進国で漫画を文化とするのは日本ぐらいなものだ... 子供の教育に悪い... などと低俗扱いする風潮もあったが、おいらの目には、むしろ高尚なメディアに映ったものである。
仕方なく絵だけでもと、読むというより眺めているうちに、こいつぁ、推理小説なみにおもろい!おいらは貧乏性だから、風景画、人物の表情、台詞のすべてを一体化させて、じっくり味わわないと気が済まない。なので、読む速さが思いっきり遅く、周りから、速く読め!ってせかされたりもした。
しかし、だ。人間ってやつは刺激を求めてやまないもので、読者はもっと深い、もっと凄い表現を求めるようになる。エロイムエッサイム、我は求め訴えたり!... この呪文のどこが低俗だというのか。劇画ともなれば、これはもう目で見る小説!
それは、漫画に限らず、芸術でも、学問でも... そして、あらゆるジャンルに哲学を見ようとする。一流のスポーツ選手が、一流のバーテンダーが、そして一流の漫画家が、一流の哲学を披露してくれることも珍しくない。おそらく、それが物事を究めるってことなんだろう...

さて、ここでは、人間味あふれた独裁者像を披露してくれる。人間味あふれた... というのは、人間の本質を暴いたという意味で、まさに人間そのものを描ききった作品と言えよう。どんな環境が、こんな人間に仕立てるのか。どんな過程を踏まえれば、こんな人間が出来上がるのか。全世界を熱狂の渦に巻き込み、史上稀な独裁者となったアドルフ・ヒトラーという人物。彼を怪物のように言う人もいるが、数千年の歴史を振り返れば、これが特異な事例とは言えまい。
尚、この作品は、1971年に発表されたものらしい。今でこそ映画や小説などで様々な角度からヒトラー像を思い描くことができるが、既にこの時代に...
取り巻き連中では、空軍だけでイギリスを屈服させてみせると豪語するお調子者ゲーリング、情報を文学で操る紳士づらゲッペルス、怪しい雰囲気を醸し出すオカルト・ヒムラー、いつも寄り添っては独裁者を心地よくさせる妖怪ボルマン、こうした連中に囲まれながらも、唯一まともそうに見える親友シュペーア... といった配置もなかなか。執筆の際に参照した文献も付録され、かなり深く調べた様子が伺える...

「蒼褪(あおざ)めたる馬あり、それに乗る者の名を死という...」

世界恐慌に始まる大失業時代。大衆ってやつは、どん底にあれば、なんでもいいから希望めいたものに群がる。ヒトラーがまず手をつけたことは、大規模な公共事業のオンパレード。つまり、大衆に無理やり仕事を与えることであった。アウトバーン、鉄道、運河などを次々に建設。古代エジプト王のピラミッド建設の如く。さらに、自動車税の撤廃で夢の自動車を庶民のものに。こうした経済政策は、ケインズ理論の最初の実践と評されることもあるが、超ハイパーインフレの中でやれることといえば、これぐらいしかなかったのかもしれん。荒療治を施すしか。
いずれにせよ、資本主義国家群があえぐ中で、あっさりと経済問題を解決して見せた。しかし、この公共事業には軍備拡張も含まれていた。第一次大戦敗戦後、ヴェルサイユ体制で屈辱を受けていた国民の誇りを取り戻し、急激に国粋主義へと傾倒させていく。ヒトラーの経済政策は、民族主義とセットになっていたとさ...
「われわれの運動は、新しい国民を作る新しい運動なのだ!」

人間ってやつは、人種に限らず差別が大好きときた。人間社会という巨大な集団の中でしか生きられない個人は、自己の存在位置を確認しながら生きている。自己の優位性を保とうと必死に生きている。自己の存在価値を大きく見せようともがきながら生きている。虚栄心のない人間なんて、この世にいるだろうか。
誇りを失った国民に民族優越説を唱えれば、心地よく響く。集団的な不安を煽り、共通の敵をでっちあげ、恐怖下で批判者に黙認させ、卑屈さをも利用する。
こうしたやり方は、政治に限らずあらゆる商業戦略で有効だ。それは、人間の深層心理に訴えるからである。
そして、政治戦略では、この心理学に正義という観念を結びつける。国粋主義と民族主義は、すこぶる相性がいい。宗教心ってやつは、同士に対しては自愛の念にあふれても、異教徒に対しては容赦しない。いやむしろ、神の御名において残虐行為ですら愉快にやる。集団心理に正義が後ろ盾になると実に恐ろしい。全権委任法なんて、どう見てもおかしな法律を、なぜ大衆が許したのか?そこには巧みな心理学が働いていたとさ...
「民衆の中から出てきた独裁者のみが国家を救うのだ!」

言い換えれば、国民経済がどん底でなければ... 大敗北で国民の誇りがズタボロにされていなければ...こんな狂人は、ただの狂人で片付けられていたのかもしれない。まさに大衆がつくりあげた巨像(虚像)というわけか。ファシズムってやつは、ファッショナブルと同じ語源を持ち、大衆とすこぶる相性がいいと見える。21世紀の今でも、ヒトラー信奉者は少なくない。このような独裁者の出現は、自由主義や民主主義において、いかに平時の備えが大事であるかを突きつけている。平時でこそ、このような集団暴走を抑止するための法の整備が重要であることを...

では、ヒトラー個人に目を向けるとどうであろう。自ら芸術的音楽家と名乗るも落第。芸術的建築家と名乗るも同じこと。劣等感を人のせいにし、大学のせいにし、社会のせいにし、これを克服するには人々を支配しなければならないと、政治家になることを決意する。
しかも、ただの政治家ではない。芸術的政治家を名乗り、千年王国という国家ビジョンを打ち立てる。癇癪、女性コンプレックス、暴力的思考、こうした性癖の持ち主が正義に取り憑かれると、もう手がつけられない。自我を肥大化させ、誇大妄想に取り憑かれていったとさ...
「神の摂理によって選ばれた天才は、たとえ始めは理解されず、その価値を認められなくとも、やがて偉大な国民を導いてさまざまな困難を克服し、さらに大いなる偉大性をかく得させるだろう!」

一方、大衆は、経済政策で大成功を収めれば、その功績を讃えて多少のことには目をつぶる。いや、残虐行為ですら見ないようにする。そんな集団心理を見透かしたかのように、ポピュリズム政治を利用する。大衆を操る演説の極意は、最先端のプレゼンテーション技術にも通じる。まさに集団心理学の実践と言えよう。
人間ってやつは、絶大な権力を握れば、神にでもなった気分になる。成功すれば手がつけられないのはもとより、追い詰められると今度は独善的な行動に突っ走る。ロケットやら、列車砲やら、重戦車やら、大型兵器に幻想を抱き、まったく合理性に欠いた戦略を正当化し、逆らう者は片っ端から抹殺。現在でも、気に入らない者を公開処刑や拷問に晒すケースは珍しくない。これが独裁心理学ってやつか。
そして終いには、焦土作戦!独善的な人間ほど道連れがないと寂しいものらしい。千年王国という幻想は、一度既存物を破壊し尽くし、すべてをチャラにした上でしか構築できないということか...
「もしも人生が幻滅しかもたらさないとすれば、人生なんぞ生きるに価しない。死はむしろ救いだ!」

2020-06-21

"超越論的方法論の理念 第六デカルト的省察" E. Husserl & E. Fink 著

哲学の書に触れれば、「超越論」という用語を見かける。認識論に発する語のようだ。哲学とは、認識論の構築にほかならず、認識論なくして哲学は成り立たない。カントは、如何にして先天的な認識が可能であるかを問い、認識能力の果てにアプリオリという概念を見い出した。時間と空間の二つだけが、これに属す真に純粋な認識としたのである。それは、自己存在と直結するもので、その原因を追求しようものなら人間の能力を超越することになる。ニーチェが唱えた永劫回帰もまた、超人的な能力を要請してくる。
こうして哲学者たちは、超越的な方法を模索しながら、理性の原理をどう導くか、といったことを問うてきた。認識能力の限界に挑めば、言語能力の限界にぶち当たり、あらゆる哲学用語が迷走を始める。彼らは、いったい何を超越しようというのか。自己を克服し、自我を超越すれば、それで人間性を救えるというのか。そもそも苦悩とは、自己を認識し、自我を目覚めさせることに発する。無我ほど心地よい境地はあるまいに...

ここでの超越論は、フッサールの名を目にすれば、それが現象学におけるものであることは想像に易い。70歳のエトムント・フッサールは晩年の力を振り絞り、今一度、改訂出版に挑んだという。46歳年下のオイゲン・フィンクを共著者に従えて...
フッサールのデカルト的省察は、「第一省察」から改訂を重ね、フィンクの「第六省察」で完成を見たのかは知らんが、フィンクは単なる伝言役などではなく、批判的な問題提起も加えている。
ちなみに、フッサールは、ハイデガーに「君と私が現象学なのだ」としばしば語ったそうな。ハイデガーもまた彼の弟子となるが、のちに仮借ない批判を展開した。アリストテレスが師プラトンに反論したように。哲学者という人種は、何よりも真理を友とするらしい...

さて、現象といえば、観察能力を問うことになるが、物事を正しく観ることの難しさは科学が教えている。ニュートンは大作「プリンキピア」の中で「我、仮説を立てず」と宣言したが、人間の思考過程において仮説を排除することは可能であろうか。客観とは、主観の試行錯誤の末に見えてくるもの。仮説とは、その試行錯誤そのもの。主観を存分に解放しなければ、純粋な思考は見えてこない。脂ぎった思考を削ぎ落とし、その先に見えてくるものとは。徹底的に自己を追求し、究極の自我を探し求め、その先に見えてくるものとは...
そして、ついに裏返ってしまう。利己主義とは真逆の自己主義、しかも、利他主義や愛他主義とも違う何か、それが純粋客観というやつか...

本書には、馴染みのない二つの用語がちりばめられる。
まず、「エポケー」ってなんだ?古代ギリシアの懐疑論者たちが、独断的判断を批判する語として用いたらしい。存在するという現象は、自己の主観がその存在を信じているだけのことであって、まずは判断するな!と。
次に、「現象学的還元」ってなんだ?論理的に分析し、その裏付けがあって初めてその存在を認めよ!と。分析するということは、既にその存在を仮定している。それは仮の存在認識であって、いわば、仮説である。
そして、こいつらが、省察とどう結びつくというのか。省察とは、経験に対する態度であり、つまりは自己分析。自己、すなわち自我ってやつは、反省の果てに見えてくるものというわけか。
そして、ついに裏返ってしまう。主観の客観化、すなわち、自我の客観化とは、省察を超越した境地を言うのであろうか。この酔いどれ天の邪鬼には、現象学がまるで主体を放棄した幽体離脱論に見えてくるのであった...

「現象学的還元は... きわめて動的な構造をもつ反省的エポケーにおいて形成される、すなわち、徹底した自己省察をつうじて変容しつつ、人間は自己自身と世界内での自己の自然的に人間的な存在とを超越論的観視者を生み出すことによってのりこえるのであり、そして、この超越論的観視者自身は世界信憑(Weltglauben)に関与せずに、つまり世界を経験する人間的自我の存在定立に関与せずに、むしろ世界信憑を注視し、しかも世界信憑的な生の世界性格、すなわち人間世の背後にまで問い通り、次ぎにこの生を人間統覚によって覆い隠された超越論的構成的な世界経験へと還元する。」

なんじゃ、こりゃ!狂ったかフッサール...
「世界信憑」ってなんだ?純粋客観の類いか。あるいは、究極の幽体離脱か。哲学ってやつは、触れれば触れるほど頭が混乱してくる。バラバラな草稿の群れ...ここに、一貫性はあるのか?
しかしながら、この言葉の渦は、心地よい混乱である。真理ってやつは、分かりにくいぐらいでいい。すこし混乱して、なが~く混乱して... 退屈病患者の処方箋にいい。真理を覗くことによって自己否定に陥り、それでもなお、愉快でいられるとしたら、真理の力は偉大となろう。
フッサールによると、「哲学する」とは「現象学する」ということらしい。精神の正体ですらまともに説明できないのに、自己把握なんてとんでもない。結局、人間なんてものは、都合よく言語を編み出し、自由気ままに言葉遊びをする、ただそれだけのことやもしれん。言語という手段をもって、自我を肥大化させるだけの。
そして、ついに裏返ってしまう。ネガティブ思考からポジティブ思考へ。だから、もっと混乱させて。おいら、M だし...
「現象学的営為は観念論でも実在論でもなければ、その他なんらかの立場をとる教説でもなく、あらゆる人間的教説よりも崇高な絶対者の自己把握なのである。」

2020-06-14

"現象学と人間性の危機" E. Husserl & A. Tymieniecka 著

「現象学」といっても、捉え方は様々。それだけ抽象度が高いということだろう。哲学用語とは、そうしたもの。真理ってやつには、様々な解釈を与える余地がある。真理ってやつには、いつまでも自由でいて欲しい。そもそも、真理なんてものが本当に存在するかも知らんし、人間が退屈病を紛らわせるために編み出した概念やもしれん...
この用語を文字通りに捉えれば、見たまんまといった皮相的な見解に陥り、物事の本質を捉えるという主旨に反する。だからといって深読みすれば、今度は客観性を見失う。人間が思考するということは、そこに主観性が介在することを意味する。主観には思考の深さを牽引する役割があり、客観には思考を整理して感性と知性を均衡させる役割がある。この両面を凌駕することは至難の業。だから面白い!
「哲学にはただ、普遍的で批判的な態度をとることの出来る能力がありさえすればよい...」

尚、本書には、エトムント・フッサール著「西欧的人間性の危機と哲学」と、その助手アンナ=テレサ・ティミエニエツカ著「現象学と現代西欧思潮」の二つの論文が掲載される。

客観性によって担保される学問といえば、数学であろう。どんな学問分野であれ、客観性を重視する立場であることに違いはないが、客観性の水準となると数学は他を寄せつけない。そのために、しばしば無味乾燥な学問と揶揄される。
フッサールが生きた時代は、現代数学の父と呼ばれるヒルベルトが 23 もの未解決問題を提示した時期と重なる。それは、あらゆる物理現象は科学で説明できると豪語された時代。ヘーゲルは、すでに精神現象を弁証法的に捉えていたが、さらに科学や数学で裏付けられれば強固な理論となる。フッサールは、より科学的に、より数学的に基礎づけようとしたようである。
しかしながら、科学界は、あらゆる物質の根本をなす量子系の中に不確定な特性があることを認め、数学界は、自然数の理論の中に不完全な性質があることを証明してしまった。これに呼応するかのように、フッサールは人間性の危機を唱えているように映る。彼は、現象学をもって、近代科学から人間性を救おうとしたのであろうか...
「精神科学の研究者は自然主義に目をくらまされて、普遍的で純粋な精神科学の問いを立てて、精神の無制約的普遍性に従い、種々の原理や法則を追求する純粋精神の本質論を問うということを、全く放棄してしまった...」

とはいえ、一つの学問分野に、人類を救え!などとふっかけるのもどうであろう。フッサールは、学問の超党派でも目論んだのであろうか。科学を中心に据えながら。
確かに、科学には、その精神を根本から支える信条に、古代から受け継がれる観察の哲学がある。まずは観ること。それは、先入観や形而上学的な判断を排除する立場であり、21世紀の科学者とて、その野望は捨てきれない。現象を正しく観ることの難しさを、客観性の水準の高い学問ほどよく理解していると見える。現象は、正しく観察しなければ、適格な判断ができない。それは、宇宙がその住人に課した永遠のテーマにも思える。それで、単なる物質を知的生命体へと進化させようというのか。神の思惑は、まったく読めん...
「現象学は、現象の構造の直接的な分析にひたすら専念することによって、説明上の仮説を立てることを不用にし、多くの分野で古い方法が自称していた以上に、複雑なことを解明したのである。(略)現象学的アプローチは自己解明的であり、従って、直接的な洞察による明証性によって、仮説因果的アプローチは除去されるのである。」

尚、本書には、現象学の理念めいたものも語られるが、著作「超越論的方法論の理念」で詳しく扱っているので、次回触れるとしよう...

2020-06-07

"戦争という見世物 - 日清戦争祝捷大会潜入記" 木下直之 著

「美術という見世物」(前記事)の続編、浅草の油絵茶屋から上野公園の日清戦争祝捷大会へ所を移し...
油絵茶屋の時代では、西洋かぶれしてゆく専門家や評論家を皮肉り、画一的な評価基準の下で埋もれていった職人たちの技術を掘り起こしてくれた。ここでは、なにもかもが戦争に彩られていく熱狂ぶりを見物させてくれる。平成の時代を生きる美術史家が、明治時代の写真画報を眺めながら歴史を回想していると、いつのまにか居眠りをし、目が覚めると、そこは明治27年(1894)の東京だったとさ...
なぜか?ここにタイムスリップ感はない。平和ボケの時代も、戦争に驀進する時代も、大して変わらんということか。どちらも両極端な時代、集団社会で中庸を生きることは難しいと見える...

上野公園には、美術館や博物館や動物園など多くの文化施設がある。ほとりには不忍池があり、大都会の憩いの場として「上野の森」とも呼ばれる。2009年に「アイアイのすむ森」が建設され、マダガスカル島の希少動物やワオキツネザルなども鑑賞できる。
ただ、もともと日本の文化に「公園」という概念はなかったらしく、美術館や博物館や動物園といった施設も、近代化の波に乗って到来したようである。珍しいものを集めるという純真な収集家の動機に、国家の脂ぎった思惑が絡むと、所有の概念を剥き出しにする。クラウゼヴィッツ風に言えば、戦争は極めて政治的な行動。だが、侵略となると、文化の征服、価値観の征服と化す。それは正義の旗の下で正当化され、正義もまた極めて政治的な行動と化す。
そのために戦利品を展示する公の場が設けられ、国民の誇りを鼓舞する。他国の文化品を並び立て、国内では見られない珍しい動物を収集し、それで征服感を満喫できるのかは知らんが、文明開化から受け継がれる高揚感は「勝てば官軍」思想から抜けきれないと見える。
美術館や博物館や動物園の発祥には、そうした意味も含まれていたのかもしれない。ナチスの高官たちは、ヨーロッパ中の美術品を漁りまくった。大英博物館も、暗い植民地の時代には戦利品の展示場となったが、同時に、人類の遺産を保護する役割も果たしてきた。サミュエル・ハンティントンではないが、文明とは衝突するものらしい...

さて、このタイムトラベルは、著者が「栽松碑」という石碑の存在に気づいたことに始まる。初代台湾総督となった樺山資紀海軍大将は、戦死病没者の慰霊祭を行い、彼らの功績を讃え、不忍池畔に松を植えたそうな。
しかし、肝心の松の木が見当たらない。歴史資料を探っていくうちに、いくつかの挿絵を見つける。「征清捕獲品陳列之図」には、群がる見物人の背丈を凌駕する二つの大きな錨が石碑の両側に立ち、その背景に不忍池が茫洋と広がる。著者は、戦死病没者を悼んで松を植えた場所で、捕獲品や戦利品が一般公開された様子に違和感を抱くのだった。
捕獲品の陳列は、人心を奮起させるらしい。相手国の国旗を焼くパフォーマンスは敵の象徴を破壊する行為であり、現在でもなお健在ときた。日清戦争、日露戦争と勝利を重ねていく中で、敵国から奪った戦利品が国民に戦意高揚をもたらす効果が認識され、こうした陳列所は各地に設けられていったという。その最たる場所が、聖地となる靖国神社の遊就館だったとか。
そして、国民皆兵の国家建設を進める日本が経験した最初の対外戦争が、いかに国民の心を一つにしたか、その国民がいかに敵国を蔑み笑ったか、しかも、それを新聞がいかに煽ったか、そして今、それがいかに忘れ去られてしまったか、これを問う旅へといざなう...

ここは東京市祝捷大会。「捷」は今ではあまり見かけない字だが「勝」と同義で、つまり、日清戦争の勝利を祝う集会である。明治維新以来、朝鮮と台湾の利権をめぐって清国と睨み合い、ついに衝突。東京23区が東京市だった時代、広島に大本営が置かれ、天皇は東京を離れて駐在した。平壌を陥落させ、黄海海戦で大勝利し、元寇以来の神風思想を高潮させていく。
著者は、連勝連勝で沸き立った大衆に混じって、見せ物小屋と化した上野公園を見物して回る。入り口には平壌の玄武門がハリボテで建てられ、記念碑には撃沈した敵の戦艦の錨が飾られる。川上音二郎一座による野外劇や少年剣士らによる野試合、戦地から届いた分捕品の展示、日本赤十字による野戦病院の再現など、公園各所で催しが行われた。時が経つにつれ会場は興奮のるつぼと化し、クライマックスは日暮れに行われた不忍池海戦。池を黄海に見立て、清国軍艦の模型を浮かべて焼き討ちし、気勢をあげる。締めくくりは、数万の市民が万歳三唱!
万歳三唱の伝統がいつ始まったかは知らんが、明治維新あたりからの儀礼のようで、「万歳三唱令」という偽文書がそれなりに説得力をもったのもうなずける。大本営に擦り寄る新聞が煽動する様子も、現代の報道屋にしっかりと受け継がれているようだし。それは、やがて訪れる、戦争反対を唱えようものなら非国民と罵られる時代を予感させる...
「明治の日本人が何を考えていたかを知ることは難しい。三日間の旅でもほんのひと握りの人としか言葉を交わしていない。上野の山を埋め尽くした彼らは別世界の住人だと思うこともあれば、いや現代人と変わらないと思うこともあった。これからのちに不忍池海戦が再現されるとは思わないが、何かのはずみで、東京市祝捷大会は別の姿で催されるかもしれない。栽松碑のような不忍池畔に残されたわずかな痕跡は予兆であるかもしれない。」