2023-01-29

"超予測力 - 不確実な時代の先を読む10カ条" Philip E. Tetlock & Dan Gardner 著

「優れた判断力プロジェクト」の主催者フィリップ・テトロックは、「平均的な専門家の予測の正確さは、チンパンジーが投げるダーツと同じ...」という調査報告を発表した。
この発言は、なにも驚くほどのものではない。すでに市場予測では、証券アナリストたちの当てずっぽうぶりに似たような表現が用いられてきたし、大手マスコミにしても決まり文句を平然と報じるばかり。当たり障りのない要因を一つ持ち出しては、利益確定売り... だとか、ダウ平均に刺激されて... だとか、FRB の利上げ観測で... だとか。それで視聴者も分かりやすいし、分かった気にもなれる。
しかし、経済市況がそう単純な現象でないことは明らかだ。だからといって、こうした情報を無益として切り捨てるのはやり過ぎであろう。それを材料に、自ら調べればいい。そして、専門家の意見に反論できるほどの考えを持ちたいものである...

この調査報告で興味深いのは、さらに踏み込んで、そうした専門家の中にも、ごく少数の並外れた予測力を持つ人たちを発見していることである。本書は、彼らを「超予測者」と呼ぶ。しかも、その資質では、超優秀でなくても、ちょいと優秀な人ならできそうなものばかり。「できそう」と「できる」とでは、雲泥の差だけど...
例えば、慎重で謙虚、柔軟で知的好奇心旺盛、内省的で自己批判的、数字に強く確率論的な洞察に優れ... といったことである。健全な懐疑心の持ち主とでも言おうか。
学習プロセスでは、挑戦、失敗、分析、再挑戦... といった単純なサイクルが提示される。誰もが生まれた時から実践してきた基本的な思考プロセスだが、脂ぎった大人が地道にやるのは難しく、難癖をつけては近道するのがオチ。これを、超予測者は素直にやってのける。オタク的な継続力とでも言おうか。童心を忘れずにいられるのも、超予測者の資質であろう。そして、最も重要な心得は、予測に絶対はない!ってこと...
尚、土方奈美訳版(早川書房)を手に取る。

「専門家とその予測を否定する立場と擁護する立場を両極とすれば、その中間にある合理的な見方を提示していく余地は十分にある。否定派にも一理ある。予測市場には、いかがわしい洞察を売り歩く怪しげな輩もいる。先を読むということについては、どうしても越えられない壁もある。未来を知りたいというわれわれの欲求は、常にその能力を超えてしまう。しかしあらゆる先読みを無益と否定するのもまた行き過ぎだ。状況によって、またある程度であれば、将来を読むことは可能であり、それに必要な能力は知的で柔軟で努力を惜しまない人間であれば誰でも伸ばせると私は考えている。『楽観的な懐疑論者』とでも呼んでいただきたい。」

そもそも、予測に求めるものとはなんであろう。予測は正確を旨とするとは、よく言われれるが、はたしてそうだろうか。当たらなくて良かったという予測もある。例えば、核戦争はいずれ起こる!と、かなり前から予測されてきたが、人類はそんなに愚かなのか?抑止力となっている面もある。では、核戦争は起こらない!に一票か。いや、それではあまりに楽観視しすぎであろうし、単なる先送りでもある。
予測は正確であることに越したことはない。だが、どんな予測も最初はいい加減なもの。いい加減だからといって切り捨てては何も始まらない。ならば、予測そのものよりも、予測に至るプロセスを大切にしたいものである。

「認知的不協和に対処するのは難しい。『同時に二つの矛盾する考えを抱きながら、うまく折り合いをつけていけるかが一流の知性の持ち主かの試金石となる』と F・スコット・フィッツジェラルドも自伝的エッセイ『崩壊』に書いている。われわれはナチス政権に対する感情と、国防軍の組織的強靭さに対する客観的判断を切り離し、国防軍が当然破壊されるべきおぞましい組織であったと同時に、われわれも学ぶべきところがある優れた組織であったことを理解しなければならない。ここに論理的矛盾はない。心理的矛盾があるだけだ。超予測者をめざすならば、それは克服する必要がある。」

それにしても、平均的な専門家が当てずっぽうより精度の低い予測しかできないという指摘も、にわかに信じがたい。一般的に揶揄される専門家は、だいたい平均レベルにある人たちのようだが、露出度の高いコメンテータの類いか。一度でも重要な予測を当てれば、そこに人は群がり、カリスマ予測者に祭り上げるのが集団社会。予想屋がいい加減なら、それに群がる連中もいい加減なもの。
予測とは恐ろしい行為だ。当たると褒められ、外れると馬鹿にされ、知らぬが仏ということもある。メディアで知識をひけらかし大言壮語する専門家を横目に、水面下では専門家よりも見識の深い素人が静かに暗躍している。とかく知的活動では、アマチュア感覚の方が有利なことも多い。研究や調査では自由な発想が要求され、なによりも遊び心が求められる。ここに、権威や名声は無用だ。「超予測者」という称号をもらっても、却って息苦しそうだ。尤も彼らにそんな自覚はないだろうけど...

1. 鍵はフェルミ推定か...
予測プロセスでは、ノーベル物理学者の名に因んだ「フェルミ推定」というヤツがある。おいらのお気に入りの思考法で、社会学系の書でも見かける。本書でも、これを鍵にしている。
例えば、「シカゴにいるピアノ調律師は何人か?」という問題に対して、まずシカゴの人口を仮定し、ピアノを保有する世帯は何割か?ピアノの調律頻度は?一日に一人で何台のピアノを調律するか?... といった具合に推定していく。最初は、当てずっぽうで構わない。それぞれの問いに適当な数値を当てはめていき、最終的な問いに答える、といった思考プロセスである。調査を進めるうちに知識が蓄えられ、分解されたそれぞれの問いに対して、徐々に精度の高い数値を与えることができる。ここには、情報論と確率論の巧みな協調が組み込まれており、頭の体操にもってこい...

2. 判断力の検証は手ごわい...
一つの業績を語る上で、鍵となるものに判断力ってやつがある。答えが分かっていれば、判断するまでもない。分からないから予測するのであって、予測では何かが起こる可能性を判断することになる。
例えば、天気予報が降水確率で発表されるようになったのは、いつ頃であったか。おいらが美少年の時代、まだ数値発表はなく、天気予報ほど当てにならなものはないというのが定番であった。気象学者は地球を科学する超エリートのはずだが、気象予報となるとまるで権威が感じられない。自信がなけりゃ、うすぐもり... ってやればいいじゃない!なんて、子供なりに嘲笑したりもした。
では、21世紀の今はどうであろう。降水確率 10% でスコールにでも出くわした日にゃ、予測が外れたことになるのだろうか。確率で語れば、言い訳ができるって寸法よ...
本書は、「それは優れた判断であったか」を「それは正しい結果をもたらしたか」にすり替えることはよくあることで、またタチが悪いとも指摘している。
確かに、正しい判断であったかを検証することは比較的簡単である。手っ取り早く結果と照合できるし、後知恵も使える。だが、理に適った判断であったかを検証することはすこぶる難しい。世間は、なんでも結果で評価しがち。だから、歴史的な判断は間違いだらけということにもできるし、歴史専門家にも、そうした傾向があるようだ。現代の世界観や価値観で評価すれば、いつの時代も間違った判断ということになりそうである。
本書は、「その判断が正しかったか」ではなく、「その判断が理にかなっていたか」という視点を強調している...

3. 永遠のベータ版、人生もまた未完なり...
予測には、自信過剰と自信過少の問題がつきまとう。主観的にしか思考力を発揮できない知的生命体にとって、客観的な視点を持つということは本能に逆らった側面がある。それも修行で補うしかあるまい。本書は、自らを磨き続け、やり抜く力を「永遠のベータ」と呼ぶ。
コンピュータ業界では永遠のベータ版という言葉が皮肉の意味で使われるが、常にアップデートを試み、改善に改善を尽くすのが人生というものであろう。わが人生は未完なり!すべてこれ未完なり!
ちなみに、チャーチルとケインズの有名なやり取りで、こんな逸話があるそうな。
チャーチル首相がルーズベルト大統領との会談にのぞんだ時、「あなたの意見が正しいと思いはじめた」と電報を送ると、ケインズは「それは残念。すでに私の意見は変わりはじめた」と返信したとか...

4. 平均的な専門家とは...
平均的な専門家というのは、自分の研究の立場を重視するあまり好みの理論や型に嵌め込んだり、自らの思想信条に固執するあまりお気に入りの因果関係の雛形に押し込もうとしたり、曖昧な答えに我慢ならず無理やりにでも結論を出す傾向があるという。挙げ句に、奇妙な自信を持ち、何事も断言するようになるとか。メディアでは攻撃的な論者をよく見かけるが、その類いか。
確かに注目度は高いし、視聴率も稼げそうだ。しかし、本書に描かれる超予測者像とは真逆に映る。どんな人間のタイプにせよ、自らの間違いを認めることは難しいことだけど...
ただ、「平均」という概念も、なかなかの曲者である。統計学で最も多く出現する数値で、メディアでもよく持ち出されるだけに、余計に厄介だ。ましてや多様化社会では、経済格差、情報格差、意識格差など、あらゆる方面で両極化が進み、平均的な人間像を描くことが難しく、平均が希少となることも珍しくない。
ちなみに、統計学の定番のジョークに、こんなものがあるそうな。
「統計学者は足をオーブンに、頭を冷蔵庫に入れて眠る。そうすると平均が心地よい温度になるから...」

5. 超予測者をめざすための 10 の心得。いや、11番目こそが...
本書の最後には、10 の心得が付録されるが、これといって真新しいものは見当たらない。ただ、11番目の心得こそが、すべてを物語っているように映る...

  1. トリアージ... 直面している問題を難易度や重要度で分類し、集中すべき問題に集中しよう。
  2. 一見手に負えない問題は、手に負えるサブ問題に分解せよ。
  3. 外側と内側の視点の適度なバランスを保て。
  4. エビデンスに対する過小反応と過剰反応を避けよ。
  5. どんな問題でも自らと対立する見解を考えよ。
  6. 問題に応じて不確実性はできるだけ細かく予測しよう。
  7. 自信過少と自信過剰、慎重さと決断力の適度なバランスを見つけよう。
  8. 失敗したときは原因を検証する。ただし後知恵バイアスにはご用心。
  9. 仲間の最良の部分を引き出し、自分の最良の部分を引き出してもらう。
  10. ミスをバランスよくかわして予測の自転車を乗りこなそう。
  11. 心得を絶対視しない!

2023-01-22

"経営の未来 - マネジメントをイノベーションせよ" Gary Hamel & Bill Breen 著

資本主義におけるほとんどの経営管理モデルは、二十世紀初頭に構築されたという。その慣行やルールは、二十一世紀の今でも幅を利かせ、とうの昔に亡くなった思想家や実務家たちの亡霊がまとわりつく... と。
確かに、経営管理の技術や組織構造は、会社が違っても似たり寄ったり。CEO や経営陣たちがすんなり他社に移れるのも、そのためか。しかし、成熟しきった経営管理モデルも、そろそろ次の段階を求めているようである。そして、非営利組織の運営手法の方が興味深い、今日このごろであった...
尚、藤井清美訳版(日本経済新聞出版)を手に取る。

「物理学の法則とは違って、経営管理の法則は既定のものでも永遠のものでもない。そして、それは悪いことでもない。」

おいらは、プロジェクトマネジメントをやることが多い。年齢は関係ないと言いたいが、経験を買われるようである。しかし、経験が邪魔をすることも多々ある。日本のムラ社会には、組織体質の悪弊もある。そんな煩わしいことから逃れ、多様な働き方を求めて独立したはずだったが...
近頃、フリーランスという都合のよい用語もあるが、それでも世間のしがらみから逃れられずにいる。三千年紀は幕を開けた。もはやネアンデルタール人の出る幕ではない。

ところで、マネジメント工学では、ずっと昔から疑問に思ってきたことがある。管理職って何を管理するんだ?管理の必要があるのか?
そもそも、「マネジメント」を「管理」と翻訳するところに違和感がある。仕事なんてものは自発的にやるもので、哲学的な意識が共通していれば、それで十分ではないか。共通しなければ、一緒にやらないだけのこと。おいらは人に命令することが大の苦手で、管理職には不向きな人間である。だから、あっさりと切り捨てる...

また、イノベーションという用語にも、なにやら宗教じみた香りがする。これをやれば、天国にでも行けそうな。そして、開発技法、生産方式、品質管理、サービス提供など、様々な技術や手法がイノベーションの対象とされてきた。企業が唱えてきた呪文は、コスト削減、リエンジニアリング、改善、アウトソーシング、オフショアリング... と枚挙にいとまがない。
そして、go to heaven... それは、すなわち、die out !

「近代経営管理は、ワンセットになった便利なツールや技法だけを言うのではない。トーマス・クーンの乱用され気味の用語を借りるなら、それはパラダイムなのだ。パラダイムは単なる考え方にとどまるものではなく、世界観であり、どのような問題が解決する価値があるか、もしくは解決可能であるかに関する、幅広くかつ深く奉じられている信条である。
  ...
人間は皆パラダイムの囚われ人であり、経営管理者としての人間は、効率の追求を他のあらゆる目標に優先させるパラダイムに縛られている。近代経営管理は非効率という問題を解決するために生み出されたのだから、これは驚くにはあたらない。」

本書で注目したいのは、上流工程を対象としていることである。階層構造では、最上位に位置づけられるのが経営管理イノベーション、次に戦略イノベーション、そして、製品やサービスのイノベーション、業務イノベーションと続く。人間の上流工程となると、人間性を問うことになろうか。仕事となると生き方を問うことになろうか。いずれも、哲学に帰するであろう。イノベーションもずっと人間に近づいてきたようで、これぞマネジメントの本質やもしれん...

「業務効率イコール戦略効率ではない... 企業は業務効率を測定する方法はたくさん持っているが、戦略効率を評価するとなると、ほとんどの企業がお手上げになる。新しいプロジェクトの案をどんどん生み出して検討するプロセスがないとしたら、現在のプロジェクトの構成が人材や資本の最も効率的な使い方であると、企業のリーダはどのようにして確信できるのか。資本や人材がより有望なプロジェクトに自由に移動できないとしたら、適切な資源が適切な機会に配分されていると、どのようにして確信できるのか。答えは簡単で、できないのである。」

こうして眺めていると、組織運営で当たり前とされるトップダウン的な規律は、あまり必要なさそうに見えてくる。いや、むしろ邪魔か...
現場の社員が状況を最も把握しているとすれば、そこに責任を与え、裁量と権限を持たせる方がずっと合理的なはず。自発的で持続的な行動を促すには、社員一人一人が経営戦略に参加しているという意識が持てること。社員が、業績データにリアルタイムでアクセスできることも付け加えておこう。
その心理的要素に、「大学院のような風土」「徹底的にフラットで大胆に分権化された組織」「小規模な自己管理型チーム」「自分の情熱に従う自由」といったものを挙げている。ベストプラクティスは、民主主義的な風土から生まれるというわけである。
しかし、こいつぁ、経営管理モデルというよりは無秩序に近い。いや、人間の本質に根ざした秩序というべきか。だからこそ、一旦、手懐けちまえば最強のイノベーションということになろう。但し、手懐けるまでの道のりは嶮しい...

ちなみに、政治学者フランシス・フクヤマによると、民主主義とは「一連の説明責任のメカニズム」を言うらしい。しかも、「説明責任が大きい体制ほど適応力が高い。」という。
そして、「階層構造ではなく格子構造の組織」「上司はいないが、リーダは大勢いる組織」などの事例を紹介してくれる。
組織運営では、肩書で序列化されたヒエラルキーよりも、責任の所在を明確にする方がずっと合理的というわけか。独裁体制では、ボトムアップの変革の機会はことごとく葬られるであろう。政治のごとく。それで、革命や反乱といった時代遅れの形で露呈するのでは、何をやっているのやら。二十世紀の終盤から、大企業といえども突発的な倒産に晒される事例が目立つ。世紀末現象かは知らんが、安定神話ってやつもまた自然法則に寄り添って崩壊するようである...

「民主主義社会では、権力は上に向かい、説明責任は下に向かう。政治家は自分の選挙区の有権者によって選ばれ、彼らに対して説明責任を負う。そのため、彼らはさまざまな視点を考慮に入れなければならない。企業の世界では、このパターンが逆になっている。社員は上に対して説明責任を負い、その一方で権限は取締役会から下にしたたり落ちる。トップ・マネジメントが説明責任を負っているのは、株主に対してのみだ。問題は、取締役会は価値を創造しないということだ。どれだけの価値が創造されるかは、社員の英知と想像力、それに彼らの戦略がどの程度、尊重されるかによって決まるのである。」

2023-01-15

全自動トイレは懲り懲り... せめて便器の中にやって下さい!

これは、前記事の介護論、いや、介護奮戦記の続編である。介護とは、日々気が狂いそうになる自分との闘い。いや、もう狂っちまったか。だからこんなものを書いているのやもしれん...

さて、全自動トイレを設置して、十年ぐらいになろうか。御老体のために!と思ったけど、余計なお世話であったか...
確かに、全自動は便利だ!前に立つだけで、ようこそいらっしゃいませ!ってな具合に蓋が開き、便座から立つと勝手に流してくれて、おまけに、お尻まで洗ってくれる。おかげで、よそで用を足そうものなら、流し忘れるという大罪を犯しちまう。トイレのペーパーレス化は、オフィスのペーパーレス化のようにはいかんよ。

停電時は大騒ぎ!バケツに水を汲んでよっこらしょ!
定期的に洗浄までやってくれれば、夜な夜な奇妙な機械音がして、年寄りが騒ぎおる。
健康診断で大便検査でもやろうものなら、おっと!せっかく出したものが勝手に流れちまう。
要介護の御老体ともなると、全自動システムでは行動パターンが読めないと見える。用を足し終わっても、立ってパンツを上げているうちに、またやりたくなることも。すでに自動で蓋が閉まっていれば、その上に座って... あちゃぁ!ウォシュレットの上で... あちゃぁ!AI でも搭載してくれ!
まったく肛門の締りが悪い。現代人の肛門を軟弱にさせているのは、この手の機能やもしれん。
肛門の口で詰まるからといって、ボケ爺が自分で指を突っ込んで出そうとしやがる。怒りをぐっと、ぐっと飲み込んで... 時間をかけてもいいから... と、自然に落とすよう再教育し、ようやく大袈裟なことにはならなくなったものの... どんなやり方すれば、こんな所汚れるの?どんなやり方すれば、こんな汚し方するの?どこから掃除したらええのか... 途方に暮れる。何度手を洗っても、臭いが残った感じ。潔癖症になりそう... せめて便器の中にやって下さい!

おまけに、トイレまでも老いて故障が多い...
昨年だけで三度も... 自動洗浄時にエラーランプが点滅して機能停止。モータがいかれて蓋が開かず。水漏れで床が水浸し。といった具合.... その都度、修理費がかさむ。
しかも、この手の機械が故障する時は、きまって真冬のクソ寒い時期ときた。業者によると、交換部品は 12 年間までしか保持しないらしい。
そして今、便座を上げるとエラーランプが点滅してリモコンが反応せず、怪しげな臭いを醸し出している。御老体には、便座を上げる必要がないとはいえ。
なので、ピュアな、いや、プアな型を発注したが、コロナ禍のせいで納期が数ヶ月遅れているところ。故障してからでは手遅れだ!

ちなみに、2階にもトイレがあるが、昔ながらのシンプルなタイプで、築 25 年になるが一度も故障したことがない。便座を温める機能があるぐらいだが、コンセントを抜いたまま。おいらは、プラスチックの生暖か感がどうも苦手で、ウォシュレットも大嫌いなネアンデルタール人だ。
用を足す時ぐらいは、自然でいたい!排便人生こそ、Simple is the best !

2023-01-08

独り善がりな介護論... 地獄を見るのはこれからだ!

まずは、哲学者気取りで自問してみる。人間とはどういう存在か?人生とは、いったいなんなんだ?人間なんてものは、喰って!排泄する!ただ、それだけの存在やもしれん。そんな退屈な日常を紛らわすために、生き甲斐のようなものを見つける。ただそれだけのことやもしれん...

宇宙に存在するすべての物体は、なんらかの原子構造を持っている。原子は単体でも存在しうるが、そのほとんどが互いに結合して分子を成す。結合や分離を繰り返すからには、そこにエネルギーのやりとりがある。人体の構造は、だいたいそれで説明がつくだろう。そして、エネルギーを得るための摂取物と、エネルギー交換に生じる排泄物が問題となる。
では、魂はどうか?精神ってやつは?自由意志ってやつは、おそらく物理的には自由電子の集合体で説明がつくだろう。
しかし、それで自己を納得させられるだろうか...

「幸福になる必要なんかないと、自分を説き伏せることに成功したあの日から、幸福が僕の中に棲みはじめた。」
... アンドレ・ジッド

さて、婆ヤと爺ヤが要介護認定を受け、本格的な介護モードに突入してから五年が経つ。毎年、現状維持を目標に掲げるも、達成できたためしがない。婆ヤがパーキンソン病で難病指定を受け、爺ヤがアルツハイマー型痴呆症とくれば、本ブログのタイトルが「アル中ハイマーの独り言」では洒落にもならん。ただ、二人とも独りでは歩けない有り様で、徘徊できないのが有り難い。

介護を論じれば、体験談をぶちまけ、独り善がりな奮戦記となるは必定。
ヘルパーさんを呼べばいい!施設に入れればいい!... などと安直な助言はまったく役に立たないばかりか、むしろ腹が立つ。散歩に連れて行ってやれ?買い物に連れて行ってやれ?... そんな余裕あるもんか!一般論なんぞ糞食らえ!そして、こっちが糞食らう。
巷では「介護地獄」なんて言葉も飛び交うが、こんなものを書いているのだから、まだまだ余裕がある証拠。戦争をやっている国を思えば、まだまだ平和ボケな悩みやもしれん。
人生百年時代というが、それが本当なら、二十年ぐらいは覚悟せねば... 地獄を見るのはこれからだ!

「一生涯ずっと幸福だって!生きている人間でそんなことに耐えうる人はいないだろう。そうであったら、まさにこの世の地獄になるだろう。」
... バーナード・ショー

しかし考えてみれば、排泄処理さえ克服できれば、なんとかなる。やはり、人間なんてものは排泄するだけの存在か...
まず、トイレが近いのが如何ともし難い。一旦トイレに行かせれば、二時間ぐらいは放置できる。婆ヤと爺ヤが同期した日にや、連れションかぁ...
何をやるにしても、用を足した後のニ時間が勝負!外出にしても、仕事にしても、睡眠にしても... オムツが一回拾ってくれれば、計算上は四時間になるが、排便は算数じゃない。
日常は、変化に飛んでいる。ほんま、ぶっ飛んでいる。打ち身に、捻挫に、腰の疲労骨折に... いつも臨機応変を前提とした計画と予測が肝要だ。でないと心が折れるし、怒りを爆発させちまう。
よく、年寄りは怒りっぽいのがストレスになる!という話を耳にするが、うちは、それがないのが救い。むしろ穏やか。そして、ありがとう!と言う口癖を習慣づけるようにしている。施設や病院でもお世話になるし...

介護と仕事の両立は難しい...
個人事業主でなんとかなっているけど、いや、なんとかなっていないかも。介護のマネジメントは、プロジェクトマネジメントの要領に似ている。
しょんべんまみれで御飯を作り、ウンコまみれでキーボードを叩く。このマルチタスクは、なかなか手ごわい。
どんなやり方すれば、こんな所汚れるの?どんなやり方すれば、こんな汚し方するの?どこから掃除したらええか分からん。何度手を洗っても、臭いが残った感じ。潔癖症になりそう... せめて便器の中にやって下さい!
ご飯といえば、この世代は炭水化物ばかりに目がいき、タンパク質を摂らせるのに一苦労。
なにかと、どうにかなりたい!人間辞めたい!などと口にするのも頭が痛い。論理思考で悲観論をボヤくのはいい。いや、むしろいい。しかし、単にメソメソするのは御免だ!
何か行為をする度に、よっこらしょ!どっこいしょ!と掛け声で御老体を励ましているが、実は、自分自身を励ましている。イライラが募ると、一つ一つの行為が雑になり、足先や手指をぶつけたり、皿や瓶を割ったりと、さらに悪循環。おいらが機嫌が悪いと、御老体の調子も悪くなるので、とにかく笑顔。腹が立っても、目尻の筋肉を緩める訓練。これには、まだまだ修行が足らん!
介護とは、日々、気が狂いそうになる自分との闘い。いや、もう狂っちまったか...

運良く、介護環境は整っている....
週二回デイサービスを利用し、自宅から徒歩五分ぐらいの所。これにショートステイを絡めてなんとか乗り切っている。通所介護や病院など同系列の医療法人を利用し、ケアマネージャさんをはじめ、介護士さん、福祉用具屋さん、お医者さん、看護師さん、栄養士さん、理学療法士さん... ついでに食堂や売店のおばさんたちの連携が素晴らしい。プロとはいえ、彼らの仕事ぶりには頭が下がる。いつも笑顔で... 感謝以外に言葉が見つからない。
医療現場といえば、たいてい医師が主導する立場にあるのだろうが、逆に、介護士さんや看護師さんたちが率先してくれて、お医者さんは後ろから支えてくれるような位置づけ。こうした組織構造は、実に民主主義的で、上の命令がなければ動けない大企業や官僚組織が見習うべきであろう。彼らこそ日本企業の組織の在り方、意識の在り方を問うているような気がする。
延命医療はいらない。一流の医療もいらない。いかに穏やかに人生を完結させるか、これが最大の関心事である。第一希望は自宅のベッドで、第二希望はいつもお世話になっている施設のベッドで... 現実は、そうもいくまいが...

介護グッズも充実してきた...
介護保険で適用される住宅改修を利用し、玄関や風呂場やトイレに手すりを設置。家を建てる時は介護なんてまったく想定してなかったが、理学療法士さんによると、廊下が広く、バリアフリーで、わりと介護向けの構造になっているらしい。
福祉用具は... 歩行器、車いす、シャワーチェア、玄関口とトイレとベッドに補助手すり、あちこちに突っ張り棒... といった具合で、ジャングルジム状態!
ベッドも立ち上がりやすいように、ちょいと床から高さのあるヤツに... あとは、ナースコールに、監視カメラに、音声感知に、人体検知に... 24 時間稼働中!
ちなみに、我が家には、もう一人障害者がいて、2階がオフィスで、1階が障害者施設となっている。コロナ禍前は、技術屋さんがオフィス見学に来たものだが、今では、福祉屋さんの見学がちょこちょこ。介護そのものは辛いが、介護システムの構築は結構楽しかったりして...

しかしながら、最も頼りになる武器は、オムツだ!
なんといっても、オムツの性能がいい。自分でも試してみたが、災害時などでも使えそうだし、まだまだ研究の余地あり。
あまりカバー回数の多いやつに頼ると、オムツが重くなって却って被害が大きくなる... といった助言も頂く。簡易トイレという手もあるが手間がかかりそうで、今のところ却下。オムツの中で行儀よくやってもらうよう教育し、ようやく大袈裟なことにならなくなったところ。そのうち、AI 搭載のスマート・オムツなんてものが登場しないかと、笑いながら本気で期待しつつ。
いま最も幸せなひとときは、仕事に集中できる時間。タスクスケジューラが 24 時間コンビニ営業となれば、唯一の頼みはオムツだ!

車いすの性能もいい...
モノは、グレイスコア・アジャスト GRC-51B(松永製作所)。病院などに設置されている車いすは、点字ブロックなどの小さな段差に車輪を取られるが、こいつは滑らかに走行できる。しかも、ブラック色でスタイリッシュ!
こんな立派なヤツでなくていいのだけど、在庫はこれしかないから... 製造業者が是非試してみて!って言うから... と、福祉用具屋さんが即日持ってきてくれた。折りたたみ式に背折れ式でコンパクト。パンクレスタイヤもいい。病院では、パンクしているやつをよく見かけるし。難を言えば、重さが 17kg もあって自動車のトランクに乗せるのに一苦労...

はぁ~...
思いっきり愚痴っぽく書いてみたが、文章にすると冷静になれる。ストレス解消にもなる。論理的思考の威力か。
しかし考えてみれば、いい経験をさせてもらっているのやもしれん。少なくとも、人生の終わり方を見せてもらっている。どんなにみっともなくとも、人の目を気にしている余裕はない。そして、自分自身をどう終わらせるか... これに答えを見つけなければ... 見つけられずに人生を終えそうだけど... 美しく歳をとるなんて、夢のまた夢!

ついでに...
昨年の真夏、一家揃って新型コロナにやられた。みんな 39 度以上の熱が出て、婆ヤは血を吐いて意識を失う。とはいえ、全員分の救急車を呼ぶわけにもいかず、一家揃って死ぬのもいいかと思ったりもした。意識は朦朧とし、不安もなく、そのまま天国へ行けそうな。婆ヤのベッドは血の海に。爺ヤのベッドはウンコの海に。おいらは炎天下に 39 度の熱で、布団の処分に、ベッドメイキングに... そんな地獄も、一週間で過ぎ去り、今では笑い話。
三回のワクチンが効いたのか。おいら一人なら、ちょっいと熱の高い風邪のレベルであった。ただ、後遺症か、御老体は二人とも足取りが悪く、パーキンソン病の症状も顕著に。
心理学によると、笑うと心身ともに良好になるというので、御老体をくすぐったりしているところ。ほんま、笑ってないとやってられんわ...

2023-01-01

独り善がりな読書論... 速読術は速愛術のようにはいかんよ!

まずは、冒険家気取りで自問してみる。なぜ本を読むのか?そこに本があるから...

目的がないと生きてゆけないとすれば、人生はにがいものとなろう。読書を趣味にするとは、どういうことか。一旦、読書空間に入り込めば、自我から解放され、現実から解放され、まったくの別世界へ導かれる。不思議の国のアリスのように...
音楽を聴くのも、映画を観るのも、スポーツを観戦するのも、同じこと。そもそも趣味なんぞに、目的があるのか。そんな大層なことでは、趣味とは言えまい。趣味には、目的にも束縛されない自由が欲しい。これぞ、読書の目的だ!

「夏の夜の夢よ!私の歌は、空想のように目的がない。
 たしかに恋のように命のように、神と自然のように目的がない!
 わが愛する天馬(ペガサス)は、自由自在に地を走り天を飛び
 物語(ファーベル)の世界を駆けまわる。」
... ハインリヒ・ハイネ著「アッタ・トロル」より

読書スタイルは、十人十色。読書を論じれば、体験談のオンパレードとなり、独り善がりとなるは必定。本を読むことに愉悦を覚える人は、我流の読書論といったものが湧き上がるだろう。読書を論じるなんて、読書好きでもなければやるまい。
読書好きとは、じっくり読む人のことを言うと思いきや、そうでもないらしい。巷では、速読法なるものがもてはやされる。愛する人には、なるべく長く一緒にいたいと切望するのに、相手が本となると、なるべく早く通り過ぎたいとは、これいかに?
カントの三大批判書を速読できる才能は尊敬に値するが、羨ましいとは思わない。プラトンの「饗宴」なら速読できそうだが、そんなもったいないことを...

本の虫!という形容もあるが、どのくらいの量を読めば、その称号に相応しいのだろう。ある大学の先生は、月に四、五十冊も読むと聞く。確かに、だらだらと文字を追いかけるより、倍速で追いかける方が集中力も増す。
しかし、読書は一期一会!やはり多読より精読!いや、多愛も捨てがたい。いやいや、なんとしても多愛だ!とはいえ、速読術は速愛術のようにはいかんよ...

「よく、速読が良いか精読が良いかと訊ねられることがあるが、必要に応じて、どちらでもすぐやれなければ、どちらも役に立たない。... 精読も速読も、習慣の問題で、いずれも一種の才能である。精読しようにも、その習慣を持たない人は、読み方を知らないものである。」
... 福原麟太郎

読書好きと本好きとでは、微妙に違う。シリーズものではコレクションしておきたものがある。本棚の片隅で、読まれずに愚痴ってる奴らが。それで、もったいない病が疼けば、しゃあない!
読書には、読書体力もいる。読破した瞬間のクタクタ感がたまらん。M だし!
一冊を読めば、賢くなった気分にもなれる。昨日の自分より今日の自分の方が。すると、読書を重ねれば、どんどん賢くなっていきそうなものだが、ふと十年を振り返ると、あまり代わり映えのしない自分がいる。読書とは、なんと虚しい行為であろう。
難解な書に手を出せば、無力感に襲われるのは分かっている。それでも、ほんの一部分だけでも理解した気分になれれば、大きな達成感が得られ、その感情連鎖に癒やされる。まるで麻薬中毒!ソクラテスは無知を装って対話を仕掛け、読者に自省を促すが、おいらは苛つくばかり。おいらはベーコンの言葉が好きだが、いまだ懐疑的ときた...

「読書は満ちた人をつくる。」... フランシス・ベーコン

読書家とは、どういう人を言うのであろう。どこででも本が読めるというぐらいでないと、読書家とは言えまい。おいらは、電車の中でとか、休憩時間にとか、そういった読み方ができない。電車の中ではうとうとしたいし、休憩時間にはぼんやりしたい。
そして、読書の時間は、決まって書斎に籠もる。「明窓浄机」という言葉もあるが、あえて照明を落としてセピア色で彩り、ページには LED ライトでスポットを浴びせ、BGM で臨場感を高めながら、お香を炊いて気分をほぐし、ちびちびとヴィンテージ物で喉を潤す。読書空間とは、五感を総動員して愉悦する場!まったくの贅沢なひととき!やめられまへんなぁ...

読書なしの人生なんて想像だにできん。依存症だ!そう悟って衝動に身を委ねるものの、巷にはあまりに多くの本が溢れてやがる。読みたい本を片っ端から相手にすれば、それはそれで無駄な人生となろう。
しかし、無駄でない人生とは、どんな人生であろう。結局、自己満足に縋るほかはない。自己啓発によって自己陶酔に溺れ、自己実現によって自己泥酔のうちに死んでいく、それ以外にどんな道があるというのか...

書物は、それ自身の運命を持つという。名著ともなれば、著者の手を離れ、独り歩きを始める。読み手が本を選ぶなら、書き手だって読み手を選びたいであろうに。ここには暗黙の不平等契約が成立する。
いや、安直な読み手を追い払う手はある。しっかりとした文章で、しっかりとした構成で仕掛ければ、しっかりとした読み手が集まってくる。小説の文章が単純で分かりやすいのでは、味も素っ気もない。
読み手の本選びにも、流行を追うという本能めいた感覚がある。誰もが知っていることを知らないと、不安に駆られるものだ。情報の性質からして、誰もが知らないことを知っていることの方が希少価値が高いはずだけど...
クチコミやオススメの類いが流布し、それが瞬時に拡散する時代では、目を閉じることも難しい。情報の自由化は、偽情報の自由化でもある。
そこで、古典という選択肢がある。時代の篩にかけられ、それでもなお輝きを失わないのが古典である。
ただ、偉大な書き手たちが欠席裁判を強いられるのも気の毒ではある。本人が亡くなったから、批判しやすいというのもある。そりゃ、死んでも死にきれまい...

いずれにせよ、自分のモノの見方や考え方を把握しておかなければ、本を選ぶことも儘ならぬ。まずは、己を知ること。それは、何千年も前から唱えられてきたことだ。なんらかの興味があるから、その本を選ぶことができる。本選びとは、似た者同士の集いとも言えよう。
一方で、必読書百選!といった宣伝文句を見かける。なんとなく読まないと気まずいような。本選びのアウトソーシング!本を選ぶ労力を考えれば、実にありがたい!
しかし、だ。あえて逆を行くという手もある。いつの時代も、流行ってやつは、だいたい修正されていくもの。ならば、天邪鬼な人生も悪くない...

「大事なのは本を読むことではなく、考えること。まず考えれば、何を読めばいいかだってわかるんです。まとまった時間があったら本を読むなということです。本は原則として忙しいときに読むべきものです。まとまった時間があったらものを考えよう。」
... 丸谷才一

昨今、本は魔力を失ったと言われる。インターネットに圧倒され、SNS に圧倒され、知識を得るのに、本に頼るまでもない。ただ、たやすく手に入る知識は、たやすく人を流す。どこへ流すかは知らんが...
ちなみに、藁人形の赤い糸を解くと、地獄へ流してくれる... という呪術あがると聞く...
ある研究報告によると、スマホで読書すると読解力が落ちる!というのも見かける。視野が狭まって呼吸のリズムが狂うのか、あるいは、前頭前野が余計な活動を強いるのかは知らんが...
本を読むという行為は、1 ページずつ捲り、1 行ずつ活字を追うというだけに留まらない。行間を読むには修行がいる。分かりやすい文面ばかり追えば、言葉の深みは読めなくなるだろう。本には印刷の重みがあり、そこが電子メディアの弱点かもしれん...
分かりやすい文面では、却って本質がぼやける。なぁ~に、心配はいらない。本質とは、もともとぼやけたものだ。空気を読む前に、行間を読むことに集中するとしよう...