2014-04-27

"政治論集" David Hume 著

啓蒙時代の哲学書に触れると、デイヴィッド・ヒュームの名をよく見かける。彼の主著「人間本性論」はなかなか手強そうだ。入門書として「政治論集」と呼ばれるエッセイ集で、お茶を濁してみよう...

ヒュームの立場は、共和主義的な自由主義に立脚している点ではありふれた思想にも映る。ただ注目したいのは、アダム・スミスに先んじて経済原理から自由主義を唱えている点である。古典的な共和主義では、宗教的な道徳感情に支配され、商業的な欲望を悪習と見做す禁欲主義が旺盛であった。自由の基盤には、土地が中心に据えられてきた。言い換えれば、自己存在を確認できる場所を中心にした考え方である。ヒュームは、まず土地への執着に疑問を投げかける。そして、商業的な欲望と禁欲的な欲望の差異に対して、人間本性から迫ろうとする。商業活動は、自由精神とすこぶる相性がいい。土地への従属精神は、商業活動によって解放されてきたとも言えそうか。
しかしながら、土地依存症は、人間社会の発達とともに組織依存症から情報依存症へと変化してきた。自己存在の確認できる場所もまた仮想空間へと移行する。精神現象そのものが幻覚なのだから問題ないってか。俗世間の泥酔者には、仮想と幻想の違いがとんと分からん...

当時の政治の理想像では、トマス・モアのユートピアが思い描かれるようである。ヒューマニズムを信奉する点では、時代的差異をほとんど感じない。ただ、労働を奨励しておきながら富を憎む思考回路は、マルクス主義に通ずるものがある。労働に励めば生産物を潤し、商業活動が盛んになり、富が増大するのも道理であろうに...
ヒュームは、商業を強欲と結びつけて断罪する社会風潮に、我慢ならないようである。彼は、そんな時代にあって経済的自由主義を大胆に提唱する。そして、富と徳は本当に両立できないのか?と問いかける。伝統的な道徳観念では、奢侈を怠惰の代名詞とし、快楽を悪徳としてきた。だが、勤勉によって富が獲得されるのも事実。貧困のために書物も買えないようでは、知識を得る機会までも奪われる。勤勉を放棄した道徳的堕落と、自由活動に執着した欲望的堕落は、どちらも人間の本性だ。富を欲することも、権力を欲することも、名誉を欲することも欲望ならば、健康を欲することも、愛することもまた欲望、抑制することも、禁欲もこれすべて欲望なのである。欲望は人間の本性であって、その一部を抹殺すれば、精神のバランスを欠き、他の本性を剥き出しにする。歴史を振り返れば、修道士ですら征服者同様、残虐行為に及んできたではないか。幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり人間は冷酷になるようである。
「人びとが快楽に関して洗練の度をまぜばますほど、どんな種類の快楽にも過度に耽ることはますます少なくなる。」

本書は、商業、貨幣、利子、貿易差額などに関する論説において、哲学者と政治家の役割を語る。資本と労働の生産利用という経済原理の確立では、スミスに譲ることになるのだが...
ヒューム以前の政治学は、経済問題を軽視してきた。重商主義は、空虚な理想主義への反発から生じたとも言えそうか。オランダは、ヨーロッパのどの国よりも先んじて、商業共和国を謳歌した。やがてイギリスが追い越し、自由主義との結びつきから、商業ヒューマニズムを形成することになる。欧米式資本主義は、契約の原理に支えられている。ひいては、神との契約であり、そこに帳簿の正当性を与える。実践的には商法の進化であり、法律が商業活動の後ろ盾となる。民衆の商業活動が、法律を庶民化させてきたという見方もできるかもしれない。
とはいえ、宗教的政治による既得権益を、自由主義的商業が解放したとしても、やはり不正は蔓延る。そればかりか、過度の経済活動がしばしば災いをもたらし、極度の貿易不均衡が戦争の火種となってきた。公債や金融は有益な公共財ではあるが、度を越して用いれば経済危機を招く。いまや、信用経済は国家の枠組みを越え、手に負えない怪物となった。
ヒュームの視点には、商業と自由の結びつき、あるいは平和を前提とした産業がある。そして、強欲を克服し、自由を制御し、平和で安定した社会を築くにはどうすればいいか?これを問うている。頼みとするものは知性と徳性であろう。だが、いまだ人類は強欲を克服できないでいる。金銭欲とは不思議なもので、金持ちほど旺盛になるらしい。権力欲とて同じようだ。政治家になるべき者ほど自ら資格を疑い、自分の道徳に自信満々な者ほど目立ちたがる。これが政治の世界というものか。哲学者が統治する国家を理想像とするのは、やはり夢想ではなかろうか?プラトン君!

1. 政治の世界
ヒュームは、人間本性的に政治論、経済原理、人口論を語ってくれる。それは、利害関係を楯にした嫉妬の力学とでもしておこうか。嫉妬、憎悪、競争心、見返り... こういった思惑が本音を建前で偽装する。ナショナリズムは感情論と結びつきやすいだけに仮想敵国をでっちあげ、かたや経済や文化が繁栄すれば、流言蜚語の類いから陰謀や罠まで仕掛ける。平和に寄与する経済交流や文化交流に励む人々にとっては、はなはだ迷惑であろう。
そもそも、国連という世界規模の同盟が存在すれば、わざわざ国別に友好関係を斡旋する必要があるのか?いかに国連が独立権限を持たず、各国の思惑が絡み、本来の機能を果たしていないかという証でもあろう。本来の政治活動とは、人類の普遍的価値を求めるための集団的行動とならなければならないはず。それとも、政治とは、人間の醜態を曝け出すためにあるというのか?いわば、理性の捌け口として。なるほど、理性のない者に理性の捌け口はいらない。法律の限界実験をしながら、自分の理性の限界を試しているとでも言うのか?陰謀が渦巻くところに、必ず政治力が働く。政治力や権力のないところに陰謀は成り立つまい。
「浅薄な思想の人間は誰も、健全な知性の持ち主までも、思想家、形而上学者、改良家だと非難しがちであって、自分の弱い理解力が及ばないことは何であれ正しいとは認めたがらない。」
政治が、慢性的に矛盾を抱えるのは、強欲が絡み合うからなのか?確かに、政治には大義が必要である。だが、政治家どもの理屈では、野心と志を混同させ、国家の面子よりも政治家の面子が優先されるではないか。おまけに、人を貶め、蔑むことに懸命で、公の場ではパフォーマンスで勝つことに懸命だ。ヒュームは、政治が突発性や偶然性、あるいは少数の人間の気まぐれに依存してはならないと語る。そして、嫉妬の競争原理を、建設的な競争原理へ向かわせる術を模索するものの... やはり、毒を以て毒を制す!の原理に縋るしかないのではないかい!
「すべての人間のうちで、政治的企画室というのは、権力を握ると、これほど有害なものはないし、権力をもたなければ、これほど滑稽なものもない。」

2. 自由と公信用
人間社会には、生まれるとすぐに強制的にどこかの国に所属させられるという奇跡的なシステムがある。人間は、生まれる地を自由に選べないばかりか、生まれる場所すら与えられない人もいる。つまり、人間はまず不自由を体験することになる。だから、本能的に自由に憧れるのかは知らん。おまけに、無条件に租税の義務までも背負わされる。こうしたシステムが機能するのは、ひたすら慣習が支えているからであろう。人間には、本性的に当たり前という感覚に慣らされる性質がある。本書は、こうした性質に「公信用」という語を当てる。
犯罪を見れば、警察に知らせるという性質が、自動的に治安システムとして機能させる。だが、公信用が崩壊すると、国家は成り立たない。私有財産を守る権利が維持されない社会に、信用など担保できない。すべてを自己責任に委ねれば無法地帯となろうし、すべての判断を世論に委ねれば法治国家を放棄することになろう。自己責任と公信用の按配こそが、社会を維持させるというわけか。慣習の力、恐るべし!
となれば、いくら自由を唱えたところで制限されることになる。自由精神の本質は、自らの自由をいかに抑制できるかにかかっているのかもしれん。人間社会には、哲学的、思弁的な原理体系が必要であろうが、民衆は思弁的な点では極めて粗雑となりがち。空気を大切にする社会は空気に呑まれやすく、村八分社会では哲学することも難しい。
一方で、自分の利益を放棄してまで、他人の意思のままになろうとする人も少ない。主権者に正義の保護が前提されなければ、義務を課すこともできない。人間は何らかの代償がないと動かないというのか。その代償が、正義と結びつくかは別にして。なるほど、神に対してですら見返りを求めてやがる...
「貧しい農民や職人が自分の国を離れる自由な選択権があると、まじめに主張できるであろうか?外国の言葉も生活様式も知らず、稼いだわずかな賃金でその日暮らしをしているのだから。ある人が眠っているあいだに船に乗せられ、船から離れようとする瞬間に、大洋に落ちて死んでしまうにもかかわらず、船内に留まっていることによって、その人が船長の支配に自由な同意を与えているのだ、と主張するのと同然であろう。」

3. 民主主義の本性
民主主義には、議会を支配すれば都市を乗っ取ることだってできるという危険がある。ある地方議会を、圧倒的過半数で占拠すれば、外国から動員された移住者によって現地人の発言を沈黙させ、部分的に別の国家に組み込むことだってできる。また、偽装貨幣の鋳造が、貨幣量を増大させることによってインフレを引き起こし、ライバル国の経済を転覆させようとする目論みも、よく機能する。古来、このような政治的な陰謀がしばしば実施されてきた。
現在ですら、ライバル国を蹴落とすことによって自国の安泰を図るという思惑は、当たり前のように実行される。政治は正義などという心地よいもので支えられているのではなく、政治家たちの集団的動物性によって支えられている。だから、いつの時代も、政治不要説ならぬ政治家不要説がくすぶるのか。あるいは、自己の幸福を確保するためには他人の犠牲が必要だという人間の本能が、そうさせるのか。政治現象とは、突き詰めれば、自己存在、ひいては自己愛の強調なのであろう。その具体的な解決手段が、暴力か話し合いかの違いぐらいなもの。この違いが大きいのも事実だけど...
クセノフォンは、「ソクラテスの饗宴」の中で、アテナイの民衆の暴政をごく自然に叙述しているという。
「かつて富をもっていたときよりも、貧乏な現在のほうが私ははるかに幸福である。それはちょうど恐怖よりも安心な状態にあるほうが、奴隷よりも自由人が、機嫌をとるより取られるほうが、疑われるより信頼されるほうが、幸福であるのと同じである。以前は、私はあらゆる密告者に気を使わざるをえず、いくばくかの賦課金がいつもかけられ、また都市を留守にすることはけっして許されなかった。ところが、貧乏な今では、私は偉そうな顔つきをし、他人を脅している。金持ちは私を恐れ、あらゆる種類の礼儀と尊敬の念を示してくれる。だから私はこの都市で一種の僭主になっている。」

4. 老齢と成熟
宇宙を永遠ないし不滅と断定できる根拠は、何一つ見当たらない。いつか宇宙が滅亡するならば、幼年期、青年期、壮年期、老年期といった段階があるのだろう。人間社会にも。
しかしながら、幼年期よりも青年期が、壮年期よりも老年期が、成熟していると言えるだろうか?人間社会は、若年であれ、青年であれ、壮年であれ、老年であれ、文句を垂れる量で存在感を強調する力学の世界である。寿命が延びれば、新たな世代層が生まれる。かつて人間50年という時代があったが、いまや60代ですら老齢と見なされない。高齢化社会や少子化社会と言われながら、世界全体では人口増加に歯止めがきかない。地球資源は限られているというのに。自発的に人口を抑制する傾向が生じるのは、悪いことなのだろうか?日本の人口がたった半世紀で、8千万人が1億2千万人にも膨れ上がったことは自然現象で片付け、ちょっとぐらいの人口減少を民族滅亡説のように目くじらを立てる。現在の世代バランスの歪は、過去の人口増加率に問題があるとは考えず、現在の繁殖意欲や養育制度の問題だとする。
はたまた、歳を重ねれば、決まって過去を懐かしみ、現在の有り様を嘆く。自己存在に自信が持てなくなるからか?そして経験を積めば、寛容性が増すと言えるだろうか?短気になり、イライラを募らせ、文句を垂れるようになるのは、人生の終焉に焦りを感じるからか?組織に隷属してきた連中が高度成長時代を謳歌し、今度は老後を謳歌する権利を要求するどころか、年金をご褒美だと考えている。惰性的な制度によって企業年金をたかり、現役社員の収入をたかる。歳を重ねると、若者以上に欲望をむき出しにし、パイの争いは世代間闘争となる。社会制度が崩壊するのも時間の問題か。尤も、褒美をあげるべき者ほど、そんなものに期待せず、自発的に生きようとするのだろうけど。
いずれ、社会制度や年金、国家の支配までも、グローバル企業に委ねる時代がくるのかもしれん。国防産業がアウトソーシングされるように。政治に哲学が期待できなければ、国会議員も、国家元首も、スポーツの代表監督のように、海外で実績を積んだ政治哲学者が雇われる日が来るのかもしれん...

5. 王位と中立性
人間社会では、しばしば集団性の気紛れによって論争が巻き起こる。権力者を巻き込みながら偏見に満ちた応酬となり、嫉妬が嫉妬を呼び、憎悪が憎悪を呼び、公共の自由は興奮のるつぼと化す。民主主義社会では、支持するのも批判するのも自由。だが、その基準が好き嫌いで判断されるとすれば、それは議論に参加する資格があるのだろうか?後援会だから、地元出身だから、ライバル政党だからという動機では、ただの応援団に過ぎない。すると、冷静に議論できる立場は、どの党派にも依存しない哲学者のみということになりそうだが、そんな人はこの世にいるのか?人間は誰しも群れるのがお好き!自分の意思で考えているつもりになって洗脳されることが、いかに心地よいかを潜在的に知っている。それは、催眠療法が示している。
政治において中立の立場に置くことがいかに難しいことか、これをヒュームは匂わせる。そこで、国家を統一する上で、都合のよい立場にイギリスには王室の役割がある。英国王のスピーチが、歴史的な窮地でいかに励みとなってきたことか。パパラッチの餌食にされるのは、なんとも気の毒である。我が国にも、似たような立場に象徴天皇がある。どんな政治的意見にも肩入れしないことが、唯一、国民の統一的立場に立てるという原理を成立させる。安直に言葉にできないという窮屈な立場であるが、一旦言葉を発すると首相のそれとは重みがまるで違う。それは、大震災で発せられた言葉を見れば、一目瞭然であろう。政治や世論が悪しき方向に向かった時、唯一歯止めとなる可能性を秘めた立場である。政治利用しようなどとは言語道断!だが、戦後においても、天皇の存在を政治利用しようとする目論見がいくつも見られる。したがって、皇居は永田町とは距離を置き、京の都あたりに設置する方が相応しい気がする。

2014-04-20

"功利主義論集" John Stuart Mill 著

功利主義という用語は、掴みどころがなく手強い。古くから道徳哲学を信奉する人々に批判されてきたのも、ジェレミ・ベンサムの唱えた最大幸福原理が、快楽の総和として計算されるからである。いわば、GDPのような経済指数として。現在でも、経済人の価値観に偏っていると叩かれる一方で、その批判者たちもまた客観性を欠くと反撃を食らう。この用語を曖昧にしているのは、正義と幸福の観念を支柱にしているからであろう。人間社会はこの二つの観念なくしては成り立たず、共通の合言葉として君臨している。
しかしながら、厄介なことに、正義にしても、幸福にしても、個人によって求めるものが違う。人間は本性的に利己的で、この性質を完全に排除しようとすれば、今度は別の本性が暴走を始める。多様性もまた人間本性的で、これを軽視すると、正義の観念は、すぐさま宣伝やバフォーマンスの類いで扇動され、幸福の観念は、幸福の使者を自負する者によって有難迷惑を撒き散らす。
人間の本性の一部を、単純に悪だと片付けて抹殺すれば、そこに残されるのは人間なのであろうか?功利性にしても、正義にしても、道徳にしても... こうした用語は、真の自由人にとっては強力な武器となろうが、群衆心理や自己欲望に隷属する俗人には危険な道具となる。自由人ってやつは、真理の探求という険しい道ですら、快楽の美酒に変えてしまうようである。本書は、まさに高次の快楽とは何かを問うている。
「満足した豚よりも不満を抱えた人間の方がよく、満足した愚か者よりも不満を抱えたソクラテスの方がよい。」

功利主義が唱えられたのは18世紀頃、最初はペイリーらによって神学的功利主義として提示され、後にベンサムやミルらによって理論体系化がなされた。
しかしながら、功利主義的な発想は、既に古代ギリシア哲学に見つけることができる。プラトンは著書「国家」の中で、政治の役割は国家全体ができるだけ幸福になるよう仕向けることだとし、アリストテレスは著書「政治学」の中で、私有財産の観点から政治算術のような考え方を匂わせている。ミルは、こうした古代哲学に立ち返ってベンサム主義と一線を画し、改良した功利主義を唱えている。
本書の特徴は、ミルの思考過程を辿るかのように論説集が組み立てられていることにある。まずセジウィックの論説を批判し、次にベンサムの功利主義を語り、ヒューウェルの道徳哲学を批判した後に、ミルが再構築した功利主義を論じている。ベンサムへの批判は、だいたいにおいて道徳感情や倫理観が欠けているというもの。確かに、功利性ってやつは、経済的な損得勘定や利害関係と相性がよさそうに映る。ミルも、ベンサムの人間観察が浅はかであることを指摘している。快楽の所在についてはあまり論じていないと。ベンサムは、人間の道徳判断が結局は利己的であり、道徳感情にあまり期待しないという立場のようである。それでも、ミルは積極的な評価を与えている。宗教的な道徳感情の強い時代に、科学的な観点からの思考習慣を政治学に取り入れたとして。そして、ベンサム主義を足がかりに、人間の多様な価値観を認めつつ、多面的な功利主義を構築しようと試みる。
「徳は望まれるべきだけでなく、利害関心を離れてそれ自体として望まれるべきものである。」

ところで、建設的な批判とは、こういうものを言うのであろうか...
ミルは、相手の主張を否定するのではなく、うまくいなしている感がある。批判的論争ってやつは、互いに言葉の揚げ足をとり、本質的な問答から乖離して泥沼化しやすく、聴衆者はどちらにも加担したくない、といった構図になりがちである。
「すでに社会的感情を発達させている人は、自分以外の同胞を幸福の手段をめぐって相争う競争相手と考えたり、自らの目的を達成するために同胞たちの目的が挫折するのを望んだりすることはありえない。」
例えば、キリスト教の根源的な営みにしても、多様性に満ちている。ローマ教会に頼らず独自に修正したキリスト教を唱える者もいれば、神の定義を宇宙法則に求めるようなキリスト教徒もいる。そもそも宗教原理ってやつは、寛容性を伴うから救われるのであろうに...
「キリスト教を批判する人がその真理や好ましい傾向をイエズス会士あるいはシェーカー教徒が抱いている見解に基づいて判断するとしたら、その批判者はどのように思われるだろうか。」
批判や議論のあり方とて、同じようなもの。どんなに優れた哲学書でも、まったく隙のない記述などありえようか。すべての状況を想定して記述することが不可能となれば、偉人の残した書は言葉足らずに欠席裁判を強いられる宿命を背負う。後出しジャンケンの餌食よ!そして、不合理な批判が別種の不合理な批判を呼び、批判の堂々巡りを始める。人間ってやつは、なにかと揉め事がお好き!人生とは、よほど退屈なものらしい...
「ロックが用いなければならなかった以外の議論が彼の結論のいくつかを立証するために不可欠であるという理由で彼を攻撃することは、証験論を書かなかったという理由で福音主義者を非難するようなものである。問題は、ロックがどのようなことを述べていたかではなく、彼が現在に至るまでの自分に対する反論すべてを聞いたとしたらどのようなことを述べるかということである。」

1. セジウィックの論説
地質学者で聖職者でもあるアダム・セジウィックは、直観主義の立場からジョン・ロックの経験論と、ウィリアム・ペイリーの神学的功利主義を批判したそうな。セジウィックは、正義をなすための道徳判断を下す能力、いわば道徳感情は生得的であると唱え、道徳感情を経験的とすれば、計算高い思惑と結びつくとしているらしい。
だからといって、直観的な道徳感情を、神聖視するのは行き過ぎであろう。確かに、閃きやア・プリオリな認識を与えてくれる直観は、偉大である。おいらには、気まぐれこそ崇高な精神に映る。しかし、その直観から生じた観念を、科学的、論理的に検証してこそ、より確信へと導くことができよう。ミルは、なにも直観的思考を批判しているわけではない。なによりも芸術心が拠り所にする思考法であることは、誰もが認めるところである。本書は、不可解な先天的能力を学術的に説明できるまで理解し、後天的能力として道徳観念を導くべきだとしている。直観学派に対して、功利主義を帰納学派としているところにも、その意識が見える。

2. ヒューウェルの道徳哲学
ウィリアム・ヒューウェルは、セジウィックと似た立場で、直観主義的な立場からベンサムを批判したそうな。ミルは、残念ながらイングランドの大学は、正統とされる思想以外は受け入れない宗教的組織だと指摘している。真理よりも、宗教、保守主義、平和といったものが重要視されると。言うまでもなく、後ろ盾はイングランド国教会であるが、その傾向がヒューウェルの哲学思想にも顕れているらしい。キリスト教に限らず、宗教的な道徳観念では、苦痛を美徳とする傾向がある。それは、精神修行や苦行といった形に顕れる。逆に言えば、快楽は悪徳の象徴とされる。ミルは、ヒューウェルが功利主義を利己主義と取り違えていると指摘している。
ベンサム主義の原理では、快を増大させ、苦痛を予防することが、道徳への道と考える。それゆえに、快を悪とする主張に対して、すべて反対者と見なす。宗教的禁欲主義とは、まさにこの類いであろう。宗教的道徳観では、苦痛こそ追求するもので快は避けるものと考え、自虐行為ですら賞賛する。そのために報酬や将来の恩恵を期待したりはしないかと言えば、そうでもない。ベンサムは、こうした考えを一般化して禁欲主義としているそうな。ベンサム主義者は盲目的に忠誠を誓ったりはしないという。
だが現実社会は、宗教思想や会社組織の創始者というだけで崇められる。その功績や考え方を理解するのではなく、人物を盲目的に崇め、いわば神格化させてしまう。批判する側もまた盲目的に人物を攻撃する。ベンサムは、このような流動的な見識に、道徳の基礎を置いたのではないという。最大多数の最大幸福とは、普遍的価値観を前提にしているのであって、単純な多数決に委ねたわけではないということか。有徳者や有識者たちにありがちなのが、正義がなんであるかを説明できず、感覚で正義を押し付け、義務がなんであるかを説明できず、感覚で義務を押し付ける。彼らは、直感を直観へ昇華させることができないでいる。有徳者や有識者ですらこんな有り様なのに、酔いどれごときがどうして理性なんぞ理解できようか...

3. ベンサム主義
ベンサムの格言にこういうものがあるそうな。
「すべての人が一人として数えられ、誰も一人以上として数えられない。」
多数決の原理は民主主義と相性が良さそうに映るが、そこには落とし穴がある。実際、多数決を民主主義の象徴として崇める政治屋は多い。そのために多数派工作に余年がなく、選挙屋になりさがる。正義ってやつは、道徳を基準として実践されるわけではない。法と道徳は一致すべきなのだろうが、現実にそうなっていない。幸福にしても道徳観念から構築されるべきなのだろうが、道徳観念もまた普遍性に達していない。人類は、いまだ善悪すらきちんと規定できないでいる。正義がこれほど脆弱にもかかわらず、政治屋どもは堂々と正義を主張する。なんと厚かましいことか。
デヴィット・ヒュームの言葉に、こんなものがあるそうな。
「世界は政治哲学をもつにはまだ若すぎる!」
正義や幸福や道徳という用語は、心地よく響くだけに、民衆を欺瞞する道具とされる。義務という用語も怪しい。自分で判断できず、ただ組織の命令に従うことが義務なのか?義務の正体をきちんと説明できずに、義務が果たせるのか?そして、権利とは、義務をともなうもののはずだが。平等という用語も危険である。公平とは似ても似つかぬ。ベンサムの唱える個人目的にしても、少々経済的動機が優勢のようである。
「最大幸福が道徳の原理であってもそうでなくても、現に人々は自分自身の幸福を望んでおり、したがって自分たちの幸福を増進してくれる他者の行為を好み、自分たちの幸福を明らかに脅かすような行為を嫌悪する。ベンサムが前提に置いたのはこのことだけである。」

4. 功利主義
功利主義とは、功利性を究極的な価値の原理とする理論であるという。倫理的な観点では、正義は善悪という道徳基準によって決定されるとし、社会的な観点では、個人の功利性に結びついた社会的功利性の向上が社会目的とされる。本書は、その特徴を四つ挙げている。
  • 帰結主義... 正義は結果的に社会的な善で規定される。結果主義とも言えそうか。
  • 福利主義... 共同体全体の幸福を考慮する。
  • 総和主義... 人員に優劣をつけることがなく、全体幸福量の総和を志向する公平性。
  • 最大化主義... 幸福の総量を最大化するとは、まさに経済原理か。
ミルの主張する功利主義には、道徳権利が前提される。しかしながら、多様な価値観を総合的に解決するには、最低基準を規定する方が実践的であろう。これが、基本的人権というものであろうか。法律の役割にしても、正義をなすことではなく、なるべく不正義をなさないようにする。推定無罪にも、功利性が働いていると言えよう。
... などと言えば、なんとも消極的な動機にも映る。神に縋るのと大して変わらないような。しかし、真の自由人は、法律や神も、理性や道徳も、意識せずとも自然に振る舞い、自然に義務を果たせるのであろう。逆説的ではあるが、高次な快楽を求めるには、最低限の規定を与えるだけで、なるべく自由の余地を与えた方がいい、とすれば積極的な動機となろうか。
「人生における個人的な楽しみを放棄することによって世界の幸福の総量を増大させることができるとき、楽しみを自ら放棄することのできる人々は本当に賞賛されるべき人々である。しかし、何らかの他の目的のためにそうしていたり、他の目的のためにそうしていると公言したりしている人は、自分が念頭においているような禁欲主義者と同じ程度にしか賞賛に値しない。」
功利主義を端的に言えば... 一般的な価値観の基準では最低限の道徳性を規定することぐらいしかできない、そして、社会全体では高次の快楽を求めるように意識を向けることで集団的な利益をもたらす... といったところであろうか...

2014-04-13

"新賢明なる投資家(上/下)" Benjamin Graham, Jason Zweig 共著

この書に出会ったのは十年ぐらい前になろうか。いま読み返すと、いっそう輝きを増してやがる。泥酔投資家にとっての自戒の書だ。
ベンジャミン・グレアムは、投資と投機の違いを明確にし、バリュー投資理論を確立した。「賢明なる投資家」の初版は1949年に遡るが、改版を重ね、今日もなお読み継がれている。市場理論は、あまり進化していないということか。進化したのは、価値を歪ませる技術と、その上に乗っかるサヤ取り技術の方であろうか...

十年前を振り返ると...
2002年頃から始まった景気拡大期間は、いざなぎ景気を超える勢いで、市場は楽観ムードに包まれていた。だいたい素人が参入しやすい時期というのは、市場が楽観的な時で、株で儲ける!といった類いの書が大量に出回る。取引手数料を欲する証券会社の後ろ盾で。グレアムに言わせれば、市場参入時期としては間違っていることになろうか。少々無謀な取引に手を出しても大した損をすることもなく、実験するには手頃な時期である。おかげで投機的な行動にのめり込む。デイトレードを一年ほど試して何度か大損すると、センスのなさを悟るものの、トータルではプラスだったので、楽観的であったことに変わりはない。
やがて、精神的な苦痛が襲ってくる。不安が不安を呼び、市場を常にモニタしていないと落ち着かず、取引せずにはいられない。まるで麻薬だ。本職の集中力までも緩慢とさせ、廃人になりそうな気がした。とっくに廃人なのかもしれんが...
人間ってやつは、皆が儲けていると、それに乗り遅れまいという意識が強烈に働く。おまけに、損失を抱えても皆で損をすれば、自分に言い訳ができるという特質を持っている。赤信号、みんなで渡れば怖くない!
「人間のあらゆる不幸の原因は、ただひとつ、部屋でじっとしているすべを知らないことである。」... ブレーズ・パスカル

そんな精神状態から救ってくれたのが本書である。そもそもの目的はなんだったのか?独立のために経済学を学ぶことと、ついでに将来の年金の足しにすることであって、けして大儲けを目論むことではなかったはず。そして、何よりも大切にしたい意志は、社会を生きているのか?それとも、社会に生かされているのか?これを問い続けることだったはず。群衆心理や自己欲望に隷属するのでは話にならん。いくら足掻いたところで、酔いどれごときはアリストテレスの言う生まれつき奴隷よ...
「有名になりたがる者の幸福は他人次第である。快楽を追求する者の幸福は自分ではどうしようもないその場の雰囲気によって変わる。しかし、賢き者の幸福は自分の自由な行動によって大きくなる。」... マルクス・アウレリウス

この書は、グレアム自身が財産を失うという苦悩を体験し、長年に渡って市場心理を観察した反省から成立している。そして、投資戦略は投資家の性格で決まるとしている。投資スタイルは人の数だけあり、自分で見つけるしかないということだ。ポートフォリオの構築では、市場に合わせるのではなく、自分の性格に合わせる方が持続的で、精神的ストレスもなくなる。どうすれば儲かりますか?という質問自体がナンセンス!金融商品ほど他人の意見を当てにする世界は珍しいかもしれない。それだけ、透明性が低いということであろう。なによりも心強いのは、売買のタイミングは本質ではないと語ってくれることである。その根拠は、この言葉でほぼ言い尽くしている。
「賢明な投資家は、株安のときだけ株を保有し、高くなってきたら売却し、再び買える程度に株価が下がってくるまでは債権と現金で身を守る。」
今日では世界中の市場がリアルタイムでつながり、売買のタイミングをあまり気にしなくていいという助言は、時代遅れに映るかもしれない。いかんせん、巧妙なデリバティブ手法を高度な数学モデルで装いながら、バリュー投資とモメンタム投資を統合させようと躍起なのだ。
しかしながら、本来の市場の役割は、正当な価値評価を与えることにあるはず。投資は企業価値を高めることを目的とし、投資家はその配当金を受け取ることで経済循環を促すのが本筋であろう。だが、誰一人として正当な価値を知らないことが、群衆を暗示にかける。
市場が、金融屋の価値観に偏らず、多様な価値観の集合体となれば、人類の普遍性を発揮できるのかもしれない。だが、人間には、大金を前にすると盲目になるという性癖がある。好況であろうが、不況であろうが、その動向に応じて儲かりそうな方向に群がるか、安全そうな方向に群がるか、いずれにせよ資金は右往左往を続ける。相対的な認識能力しか発揮できない人間にとってできることといえば、欲望と恐怖の狭間を彷徨うことぐらいかもしれん。
「相場とは持続不可能な楽観主義と根拠のない悲観主義との間を永遠に行ったり来たりする振り子である。賢明な投資家とは、楽観主義者に売り、悲観主義者から買う現実主義者である。」

さて、基本的な投資戦略は、ポートフォリオにおける優良債権と優良株式の割合の検討から始まる。つまり、安全資産の比重をどうするかという防衛的戦略である。債権が本当に安全なのかは、時代感覚の違いもあろう。生命保険のように生涯付き合わされる金融商品ともなれば、保険会社の株式を生涯保有するに等しい。安心を買って、安心の奴隷になっては本末転倒だ!
グレアムは、投資家たる者、経営に参加するぐらいの気構えを要請する。判断材料の基本は、ファンダメンタルズ、すなわち国家や企業の財務状況の分析である。だが、人気が集中すれば、すぐに予測水準を上回り、たちまち危険域へ突入する。やはり、補助的にテクニカル分析を組み合わせる必要がある。
幸か不幸か?今のところ、金融危機は市場が楽観的な局面から生じてきた。不調な局面で生じれば、公的資金を投入する余裕もなく、それこそ人間社会の崩壊となるかもしれない。危険域のサインは報道屋が出してくれる。まさに市場の好調振りを報じている時が、それだ。証券アナリストが、買いを煽っている時ほど危険な状況はないだろう。投資家たちがパニックになった時期は、黙っていても売りが殺到し、自動的に手数料が入ってくるという寸法よ。
バリュー投資では、集団心理の洞察と、企業の財務状況の比較が鍵となり、世間の逆を行く忍耐力を養うことになる。プラトンは、統治したいと思わない者が理想的な支配者であるとした。グレアムは、資金を望まないかのように振る舞う者が最高の投資家であるとしている。

1. 防衛的戦略に輪をかけた保守的戦略
健全なポートフォリオをどのように構築するか?まずもって直面する課題がこれだ。本書は、優良債権と優良株式の保有割合を大雑把に提示してくれる。債権の比重を25%から75%にし、残りを株式にせよと。大きな幅を持たせているのは経済市況を睨んでのことで、市場が弱含みでそれを魅力だと判断すれば、最大75%まで増やし、市場が危機水準にあると判断すれば、株式の保有率を25%以下に減らす方針も検討すべきだとしている。だが、この方針は、債権が安全であるという時代認識からきている。
さて、グレアムに言わせると、おいらは思いっきり保守的な投資家ということになろう。本書に提示されるPER(株価収益率)やPBR(株価純資産倍率)の基準からすると、かなり安全な方向に行動しているからである。ただ、市場が好調な時には、どれも水準を越えており、買える銘柄が一つもない。したがって、株式を買い増すのは、ほとんど金融危機後ということになる。そして、普段から保有する銘柄は、配当金を主軸に置く。ヘッジのための信用取引も研究したが、リーマンショックを経験してもなお、その必要性を感じていない。
投資姿勢では、バランスシートの観察に10年ぐらい遡るのは必須で、ポートフォリオの見直しで月に1度、マイナー組み替えで年に1度ぐらいといったところか。落ち着くまで2, 3年ほど苦労したが、できれば生涯放ったらかしにしたい...
「保守的な見方からすれば、信用取引をする素人は、そのこと自体が投機であることを認識すべきであり、彼らにそのことを指摘するのは証券会社の義務である。」
ところで、債権は、古くから株式よりも安全とされるが、それは本当だろうか?近年、政府の社会制度におけるギャンブル性が顕著化してきた。国債や地方債には、本来、災害などの支援的な意味も含まれるはず。だが、巨大なグローバル企業が存在する今日では、国家の枠組みが曖昧になり、国家財政が先に破綻しても不思議はない。
では、不動産はどうだろうか?保険証券はどうだろうか?高度成長期のような右肩上がりの経済状況ならば、少々の浪費は相殺される。だが、年金や信託基金などの運用責任者たちが素直で人が良いだけに、デリバティブ勧誘の餌食にされる。国債や地方債を、年金資金運用機関や預金金融機関などが消化すれば、無意識のうちに間接的に保有させられ、自己のポートフォリオまでも曖昧となる。
では、現金はどうだろうか?為替の役割はますます複雑化する。ユーロのような共通貨幣が、一国の財政リスクによって共倒れしかねない。
... などと眺めていると、安全資産なんてものが存在するのか疑問だ。安全なんてものは相対的なものでしかない。企業倫理や経営哲学の見えやすい株式の方がマシかもしれない。証券取引所の上場基準も当てにはできないが...
いずれにせよ、一般投資家は情報の非対称性からは逃れらない。最初は分散投資のために、業界を満遍なく物色し、保険会社や銀行などの金融株を約20%保有していた。だが、財務報告がどうも肌に合わない。特に自己資本の考え方が嫌いで、株式融資を自己資本と呼ぶことに抵抗がある。返済義務がないと言えばそうなのだが。そこに目をつぶったとしても、自己資本比率では、BIS規定ですら8%程度。素人目で見ればレバレッジ率10倍以上ではないか。日本国債ですら対GDP比で2倍(200%)。尤も、LTCMの破綻やリーマンショックで演じたレバレッジ率は30倍にも膨れた。自己資本と主張するなら、自己責任において処理してもらいたいものだ。
ちなみに、おいらのポートフォリオは、普通株の保有率が90%で、残りはかんぽ保険や社債など。実は、普通株で100%にしたいと思っているぐらい。割合だけ見ればギャンブル性が強く映るかもしれないが、少し視点を変えて、株式の中で配当金用の銘柄と、短期取引用の銘柄で分け、配当金用を50%から90%で幅を持たせている。グレアム流に言えば、前者が優良債権で、後者が株式という位置づけだ。短期取引とは5年未満を想定しているが、実際にはそれを超える銘柄が半分以上あるので、長期と言った方がいいかもしれない。尚、本書は、長期の目安を、7年以上としている。
ちなみに、微妙なのが、今年(2014年)から始まったNISA(少額投資非課税制度)。投資金額は年間100万円ずつ上乗せして、期限5年で最大500万円の元手に対して非課税となる。さっそく戦略を練ってみたものの、長期戦略において、5年間というのが悩ましい。それだけでなく、売買を繰り返すと、すぐに非課税枠を消化してしまうため、よほどの計画性の必要を感じる。まさか!売買を煽るための罠ではあるまいな...

2. 転換証券とワラント
信用状態が芳しくない企業は、市場で普通社債、すなわち、非転換社債を発行することがほぼ不可能であろう。ベンチャー企業と称したところで、その有望性を評価することは難しい。そこで、転換社債やワラント付社債を発行して資金調達をすることが考えられる。ストックオプションのワラントは、普通株を行使価格で購入する長期的な権利として、夢を買わせることができる。経営アドバイスで銀行屋が勧めるケースが往々にあり、新興(信仰)企業の経営者はワラント債を発行する誘惑に駆られ、上場前に経営幹部や従業員に夢を与えようとする。
しかし、グレアムは、当時発達してきたワラント債は大惨事の温床だとしている。ペーパーマネーという怪物を作り出し、投資を投機へ変貌させるというわけだ。バブル時代、ワラントを行使したら、すぐに売り逃げするような行為がよく見られた。上場した瞬間は株価が跳ね上がる傾向があり、IPOの噂を嗅ぎつけるだけで群がる。IT系を称せば尚更だ。
しかし、謎のベールに包まれた実質価値は、上場とともに紙くずとなる。ストック・オプションを公明正大に設定することができるのかは知らんが、一部の人間に特権を与えるということは、一般投資家を馬鹿にするようなものかもしれない。ちなみに、おいらもワラント債を持っていた時期があった...
一方、転換社債は、所定の期間内で普通株に交換することができる権利であり、これまた魅力がある。発行会社にとっては、普通社債より安く資金調達できる上に、株式に転換すれば自己資本となって財務状況を改善する。投資家にとっては、株価が上昇すれば株式に転換し、キャピタルゲインが期待できる。社債として保持しても、利子が確実に受け取れるので安全性が高い。転換債権は、企業側にとっても、投資家にとっても、ワラントより有利そうに見えるが、一概には言えないだろう。言うまでもないが、メリットとデメリットは会社の財務状況にもよる。転換証券が、合併や買収にともなって発行されるケースもある。それは、普通株の事実上の希薄化であり、物理的には1株当たりの企業価値を下げるかに見える。だが、株価は、収益による増加だけでなく、合併や買収で経営改善のアピールができるだけでも上がる場合がある。だからといって、そのタイミングで買うのがいいかどうかは、別の思慮が必要であろう...

3. 安全域の概念
投資には、「安全域」の概念が必要であると指摘している。だが、完全な安全域など存在しないだろう。人生そのものが安全域にはなく、災害や事故は確率論でしか語れない。だから保険というものが機能する。現在では、グレアム流の安全株を選ぼうにも、基準が厳しすぎて、そんなものは見当たらない。リスク分散にしても、昔ほどは機能しないだろう。世界中の市場がリアルタイムで結び付けられ、金融機関の間ではアルゴリズムを使った自動売買を行う高頻度取引(HFT)が盛んとなり、いまやコンマ何秒で差益を決する。複雑な投機行為が絡むと、瞬時に波動エネルギーが蓄積され、市場変動の振幅は拡大しつつある。知らず知らずにデリバティブで強烈に結び付けられ、投資と投機の境界すら曖昧だ。大衆が大挙して押し寄せれば、リスク分散だけでは対処できない。実際、金融危機の規模は拡大しており、今の時代だからこそ、微分的な思考よりも積分的な思考の方が役立つだろう。
高度成長時代であれば、少々無謀な投資も機能した。その影で賢明な主婦たちの行動が、巨大な預貯金をもたらした。7%という夢のような金利は、10年の複利計算でほぼ倍になる。その一方で、ギャンブラー亭主どもが金は天下の回り物などとほざいては、財形貯蓄まですっからかんにする。金利といえば借金の事しか考えず、貸出金利と預入金利の差など構っちゃいない。そういう輩に限って保険が必要だと騒ぎよる。これが、当時の一般的な家庭像であろうか。いや、我が家の構図よ。人間ってやつは、安全な時に危険を犯し、危険な時に安全の幻想に縋るらしい...
「知恵の神オーディンがトロールの王を訪ね、王の腕をつかみながら、どうすれば混沌に打ち勝つことができるのだ、と尋ねた。そなたの左目をいただきたい。そうすれば教えて差し上げよう、とトロールの王は言った。オーディンはためらうことなく左目を差し出して、教えてくれ!と縋る。するとトロールの王はこう言った。両目を見開いてよく見ることだ!」... ジョン・ガードナー

4. グレアムからの四つのアドバイス
  • 第一原則... 自分が何をしているのかを知れ。己の事業を知れ。
  • 第二原則... 決して自分の事業を他人任せにしてはならない。他人に任せるのであれば、彼のやることに対して注意を怠らず、かつ十分に理解することができ、その人の誠実さと能力に絶対の信頼が置けるという並々ならぬ確証が持てなければならない。
  • 第三原則... 信頼の置ける計算の結果、相応の利益を得るチャンスが十分にあると考えられる場合を除いて、その事業(投資)に踏み出してはならない。特に、利益よりも損失のほうが多いであろう投機的行為には手を出してはならない。
  • 第四原則... 自分の知識や技術に勇気をもって従え。事実に基づく結論を自ら下し、その判断が正しいと確信したのなら、たとえ他人がそれに対して躊躇したり異なった考えを持っていようが、自分の判断に従って行動せよ。

5. テキサス州の古いジョークだそうな...
学校の先生がビリー・ボブに問題を出す。
「君は12匹の羊を飼っていたが、1匹が柵を越えて逃げてしまった。後に残っている羊は何匹かね?」
「一匹も残っていません」と、ビリーは答えた。
「よろしい。君は引き算が分かっていないようだね。」
「たぶん分かっていません。でも、うちの羊のことなら何でも知っています!」

2014-04-06

"訣別 ゴールドマン・サックス" Greg Smith 著

... 麻雀教室をやるんだ。そこらの闇市のおっさんたちに麻雀の面白さを教える。カモ教育だ。今までの博奕打ちは、猟師が海で魚捕るみてぇにボッタクるばかりで、客の養成をしなかった。だからカモがどんどんいなくなる。百姓みてぇに、種を蒔いて、育てて、それを戴くようにするんだ。
... 映画「麻雀放浪記」より

信用という言葉の意味を解する時、経済学におけるものほど違和感を持つことはない。信用取引は、けしてデリバティブと切り離せない。デリバティブってやつは、債権、株式、為替、コモディティなど市場で取引される資産から価値を派生させたもので、巨額な担保、すなわち借金の上に成り立っている。中には評価不能なほど複雑なものまである。例えば、ある債権からリスク部分を切り離して証券化すれば、債権の委譲なしに信用リスクのみを委譲することができる。こんな証券を結合したり、スワップしたりなどで金融テクニックを駆使すれば、現物そっちのけで信用だけが独り歩きを始める。まさに、価値の幽体離脱!
2008年に勃発したリーマンショックでは、投資銀行の無謀なデリバティブ商品に、保険業界のスワップ商法が安全性を装い、おまけに、格付業界の保証つきときた。どんな業界であれ、調査や格付といった統計情報は、業界や大企業が裏から手を回すだけでいくらでも装える。そして、金融のプロですら価値評価のできない水準に膨らませてしまう。金融屋の言い分は、いつもこうだ。
「みんな大人でしょう。私どもは洗練をきわめた機関投資家です。自分たちが何をやっているか、きちんとわかっています。」
アンドリュー・ロス・ソーキンは著書「リーマン・ショック・コンフィデンシャル(TOO BIG TO FAIL)」で、金融界に欠けているものはただ一つ、純粋な人間性だと語った。ここでは、倫理性の欠如が指摘される。こうした苦言を呈する人たちの存在が復元作用をもたらすというのも、アメリカ経済の強みではあろうけど...

著者グレッグ・スミスは、2000年ゴールドマン・サックスに入社し、わずか3年目で20億ドルもの先物取引をこなす。20代後半にはヴァイス・プレジデントとなってデリバティブ・デスクで活躍するものの、やがて社風の変化に疑問を持つようになり、12年後に退職。著者が嘆く社風の変化とは、長期戦略から短期戦略へ、投資から投機へ、そして、目先の収益を上げる者が出世する体質へと変貌する様である。
そもそも、投資銀行とヘッジファンドが共存できるのか?という疑問がある。投資と投機は似て非なるもの。投資戦略とは、投資先の企業価値を高めることであり、そのために長期的な視野が求められるのであって、瞬間的なサヤ取りゲームとは相容れない。もちろんリスクヘッジも必要だが、なぜこちら方が主業務になりえたのか?それは、部門間の縦割り構造にあるようだ。
本書は内部告発の類いとは、ちと違う。ウォール街の内側から業界体質を語った回想録である。今日の金融業界を手っ取り早く知りたければ、ゴールドマン・サックスを観察すればいいと聞くが、まさにその類い。ここには、企業組織が経営哲学を見失えば、短期的な収益主義に走るという典型的な事例がある。哲学を失った能力主義ほど危険なものはなく、エリートづらをしているだけにタチが悪い。
「長期志向のビジネス・モデルが主流の経済では、企業の収益はより安定的で、しかもどうやって収益が上げられているかには、透明性が生じる。これは株主にとっても、よりよい結果だ。株主は、仕事が安定的に入っていくる、収益の流れが予測可能な企業を好むものだからである。今日の"金を掴んで、走れ!"式のビジネスモデルは、無責任だし、持続可能でもない。」

さて、デリバティブの代表的なものに先物取引がある。大阪商人が始めた先物取引は、自然災害などで不安定になりがちな米価を安定させ、社会不安を抑制することが目的であった。農作物を生産すること自体が未来への賭けであり、将来価値を経済法則によって予め決定することができれば、保険として機能させることができる。現在でも、信用取引を理解し、うまく利用すれば、リスクヘッジとして機能する。派生的な存在というものは、脇役を演じてこそ輝く。
ところが、今日のデリバティブは、むしろ主役を演じながら信用不安を拡大している。オマハの賢人バフェットは、デリバティブを大量破壊兵器と呼んだ。銀行業務にしても、証券業務にしても、保険業務にしても、生産社会における補佐役であり、その主な役割は正当な価値評価にあるはず。しかし、自ら価値評価を複雑化し、サヤ取りに執着すれば、なーんの生産性もないことを目立たせるばかりか、破壊屋の本性までも曝け出す。それは、人間社会の補佐役である政治屋が目立ちたがるのと原理は同じだ。結局、市場に参加していない普通の人々の年金や資産が、市場のボラティリティとともにボラれるという寸法よ。
「金融界に関しては、実は大いなる誤解が存在する。ウォール街が扱うのはエリート層の金持ちばかりで、そういった連中は金を失っても当然だという見方だ。それは裏返せば、普通の人々は、金融界の問題だらけの仕事の進め方や奇妙な悪習からは、影響を受けないという見方でもある。だが、これほど誤った認識はない。」

1. 投資銀行からヘッジファンドへ
そもそもゴールドマン・サックスでは、自己資金を投じて投機的な取引を行うことは、規制上許されていないという。長期戦略のために取引先との信用を第一にし、けして目先の儲けに走るような社風ではないと。その理念を、9.11多発テロ事件直後の職場の空気で物語ってくれる。
「今こそ、他社とは違うということを見せつけなくては。ゴールドマン・サックスがゴールドマン・サックスであると、世間に知らせるのだ。顧客の無理な要求にも、できるだけ応えるようにしよう。すぐに利益がでなくてもかまわないから、みんなが立ち直るのを助けるのだ。今、そういう態度をとれば、必ず記憶しておいてもらえる。」
なのになぜ???
ゴールドマン・サックスの傘下に「グローバル・アルファ」という旗艦ヘッジファンドがある。いわゆる、クオンツ・ファンドの類い。その戦略は、高度な数学を用いて定量分析を行い、リスク管理のための金融モデルをつくったり、複雑怪奇なデリバティブの価格モデルを構築するなどして、バリュー投資とモメンタム投資を効果的に統合するというもの。
ちょうど2006年頃、市場は9.11から続いた長い不況から脱し、さらに住宅ローンの条件が緩和され、FRBが金融システムに低利資金をどんどん注入したおかげで、新たなバブルが到来していた。人々はサブプライム住宅ローンに群がる。このようなトレンドが楽観的な状態では、彼らの数学モデルは非常に機能する。
しかし、どんなに優れた公式を編み出したところで、サヤ取りがゼロサムゲームである以上、みんなが同じ数式に群がって、いずれ行き詰まる。数学モデルの弱点は、特異点に陥ると突然機能しなくなることだ。空間的に言えばブラックホール、力学的に言えばアトラクターのような状態だ。バブルの難点は、それが終わってみないとバブルだったことに気づかないこと。
また、企業組織というものは、稼ぎ頭となった部署の発言権が強まり、その部門の出身者が出世する傾向がある。全収益に占める比重が高くなれば、誰も口出しできなくなり、ますます縦割り構造を強める。ある種の官僚化だ。
ゴールドマン・サックスでは、百万ドルを超える収益をもたらす大型取引を「エレファント級売買」と呼ぶそうな。多くの社員がエレファント狩りに乗り出せば、ますます短期的な自己勘定取引にのめり込んでいく。金融機関にとって、デリバティブが一番儲かるのは市場が激変する時である。黙っていても手数料が入ってくるのだから。2008年から2009年初頭、ゴールドマン・サックスのいくつもあるデリバティブ・デスクは、どこもボロ儲け。その巨額の利益は、身を挺して顧客の投資を守ることで得たものではなく、顧客がパニックに陥ってデリバティブ商品を売る際に多額の手数料で儲けたものだという。
ちなみに、18世紀のイギリスの金融家ネイサン・ロスチャイルドの格言に、こんなものがあるそうな。
「路上に血が流れる時こそが、買い時なのだ。」
金融屋の報酬には驚くべきものがある。2006年、ゴールドマン・サックスの社長となっていたゲーリー・コーンの報酬は5000万ドルに達していたとか。天文学的な収入を得たことで、精神は摩訶不思議な次元へ突入したかに見える。近衛兵に囲まれ、VIP待遇漬けとなれば目も曇る。肥大する自意識の前では、人間の理性なんて簡単にぶっ飛ぶであろう。2009年の金融危機の年ですら、ゴールドマン・サックスの社員報酬総額は160億ドルであったという。それも前年実績の47%も上回るのだとか。尚、著者の報酬も50万ドルだったという。世間の資本市場の活力を維持することが主目的の仕事にしては、馬鹿馬鹿しいほど良い報酬だったと回想している。
報酬制度の悪習(悪臭)が指摘されて久しいが、いまだ健在のようだ。はたして今日の経済システムは、本来支払われるべき給料がその業界に支払われているだろうか?ある経済学者は語っていた。基礎物理学者はトレーダーなみに給料をもらうべきであると。もっとも、真理を探求しようという者が、あまり報酬にこだわることもないだろうけど...

2. ポールソンとブランクファイン
2006年、市場が沸き、顧客の誰もが自信満々で売買に参加し、デリバティブ営業は収益を上げ続ける。その頃、CEOヘンリー・ポールソンが財務長官に任命され、ロイド・ブランクファインが会長兼CEOになる。政府高官に就任する際、利益相反を回避するために所有していた株式を売却しなければならない。ポールソンは、ゴールドマン・サックスの株をすべて売却するが、景気がピークの時期で、売却額も5億ドルにのぼるとか。公職に就くための強制的な売却となれば、キャピタル・ゲイン課税もなされない決まり。
もっとも社内におけるポールソンの命運は尽きていたようで、引退の花道として財務長官への転出を選んだという冷笑的な見方もある。というのも、ポールソンは投資銀行畑の人間で、後任のブランクファインはトレーダーだそうな。ブランクファイン率いるFICC部門と株式部門は、ゴールドマン・サックスの収益の半分以上を稼ぎ出していたという。ちょうど社風の変化に則った人事というわけか。
1990年末から2000年初頭にかけて、企業合併買収や企業金融といった投資銀行業務が収益の原動力であったが、2006年頃には、自己資金で投機を行うことで儲ける自己勘定取引が原動力となる。この戦略転換で、ゴールドマン・サックスは、他の投資銀行の二倍、三倍という収益を上げた。市場の流動性を無理やり煽り、自ら価値の歪を生じさせて、その差額で儲ける。サヤ取り効果の最大化を目指す戦略だ。予知能力を備えた天才というのがブランクファインの社内評価、対してポールソンは率直で保守的で古風な投資銀行家と評される。
利益を一番上げている者のところに権力が移るのはウォール街の論理、というより企業の論理であろう。ポールソン時代の初期は、まだ企業理念がしっかりしていたという。とはいえ、財務長官という看板が、ゴールドマン・サックスの安全性を後押ししたことは否定できない。ベア・スターンズやリーマン・ブラザーズが破綻し、信用崩壊が明るみになった時ですら、財務長官ポールソンも、ニューヨーク連邦準備銀行総裁ガイドナーも、まるで先を心配していない態度で、営業戦略でも投資銀行の中で特別な存在であるかのように触れ回る。
「世界経済は崩壊寸前です。ご自分をお守りになって、競争相手に比べて一頭地を抜くには、奇跡の解決策が必要です。わが社が御社のために作成した特注の仕組み金融商品を売買なさるべきです。」
この特注の金融商品こそが、悪性デリバティブそのものだった。そして2008年、リーマン・ショック...
ポールソンは、ビッグ9のトップをワシントンに呼び出し、数千億ドル規模の資金提供を提示する。TARP(不良資産救済プログラム)が議会を通過。ある意味、投資銀行の内情を知るポールソンが財務長官だったのは、幸運だったのかもしれない。多大な犠牲を払ったとはいえ、日本に比べればはるかに事態の収拾が早かった。リーマン・ブラザーズは、魔女狩りの類いの犠牲者だったのかもしれん。
しかし、だ。救済とは誰のための救済なのか?401kがすっからかんになる人も大勢いるというのに、ここが救済されることはまずない。あの世で煮えくり返っている中小企業の社長さんも少なくあるまい。エリート連中は、多額の教育費を投じて、いったい何を勉強してきたというのか...

3. 資金調達トレード
投資銀行ってやつは、一般の銀行とは違い、預金者というものを持たない。また、一般の銀行が非常時に命綱として使える連邦準備制度からの低利融資も受けられない。そこで、貸し倒れ引当金を積み増して財務体質を強化したり、経営陣の念頭にある事業に投入したりするために、「資金調達トレード」という手法を編み出したという。
その仕掛けは...
まず、ドイツやオランダ、あるいはアメリカの資金運用管理会社や年金基金、アジアや中東の国富ファンドなどの顧客が、投資銀行にかなりの金額の現金を一年契約で投じる。この投じた資金に対して、投資銀行は顧客が選んだ運用成績の指標、例えば、S&P500指数やラッセル2000小型株指数に、極めて大きなクーポンを上乗せした利回りを保証する。顧客は、よそでは得られない好条件を与えられ、ゴールドマン・サックスもまた、低い利回りで多額の資金が調達できる。
しかし、顧客には大きな不利な点がある。それは取引相手リスクが生じるということ。すなわち、情報の非対称性の罠だ。投資銀行が経営破綻に陥れば、顧客が投じた資金は雲散霧消となる。ゴールドマン・サックスは、サブプライム住宅ローンの焦げ付きが明るみになってもなお、資金調達トレードを勧めていたという。

4. 四種類の顧客タイプ
顧客のタイプには、賢い顧客、邪な顧客、単純な顧客、そして、質問の仕方を知らない顧客の四種類があるという。
「賢い顧客」は、大手ヘッジファンドや機関投資家のうちで、銀行やトレーダーが手を尽くして助けてくれるところを指す。調査レポートやIPO(新規株式公開)や増資などの市場最新情報も、正直で偏向のないデリバティブ価格モデルも、入手できるような。だが、賢い顧客が入手できる最も重要な財産は人材だという。優秀な人々が、彼らのために働いてくれると。彼らに利幅の大きな金融商品を押し付けたりはしないという。押し付けても、撥ねつけられ、却って疑われることになろう。本当の意味で信用を理解している顧客というわけか。
「邪な顧客」は、限度ぎりぎりまで利益を増やそうとするため、極めて頭がいいという。インサイダー情報によって儲ける人もいれば、わざと悪評を流して、空売りを仕掛けることもある。実際、ネット社会には、この手の情報が氾濫している。
「単純な顧客」は、肉食系揃いのウォール街では、捕食される小動物以外の何ものでもないという。感情の起伏が激しく、奇矯な発言をしたり、激昂するような女王様タイプが多いとか。
しかしながら、最も気の毒な結果になるのは、「質問の仕方を知らない顧客」だという。単純な上に、お人好しとなれば、エレファント級売買を仕掛ける絶好の標的というわけだ。公務員の年金基金や、慈善団体、財団、信託基金の運用責任者に多いタイプだそうな。ヘタすると、国家の年金制度まで喰い物にされる。
賢い顧客が増えれば増えるほど、市場が安定し、長期的な利益が保証されるだろう。だが、短期的に出し抜こうとする者が必ずいるし、周期的に訪れる金融危機は人間社会の法則に映ってならない。それは、強欲と恐怖心は表裏一体という法則である。どっちが表かは知らんが。人間ってやつは、自我の中のエゴイズムを呼び覚ましながら、自ら精神崩壊へと導き、その中でしがみつく相手を欲している、ただそれだけの存在なのかもしれん...

2014-04-01

大きな愛... 小さな気持ち...



I



1オクターブ低い声で... 君に酔ってんだよ!(小さな気持ち = 手抜き記事)
Copyright(C) 2014年4月1日限定 "ピロートークに翻弄される男" All Rights Reserved.

本日四月一日、某出版社から地域限定で「大きな愛の指南書」が発行されると聞いた。さっそく書店に行くも、既に売り切れ!この幻の指南書は永遠に手に入るまい...


男運のない女のことをカンガルーが笑う!って言うんですって。
「警部補・古畑任三郎スペシャル 笑うカンガルー」より...