2012-08-26

"音楽嗜好症" Oliver Sacks 著

三冊連続!オリヴァー・サックスに嵌ってもうた。ここでは音楽に憑かれた人たちのお話。同じ脳神経障害でも、こちらの方がはるかに本質的かもしれん。サックス博士は言う。音楽は、神経学や生理学の新しい教科書を手にした時、索引で真っ先に調べる項目の一つだと。音楽は、聴覚だけで感知できるものでもなければ、脳で解釈するだけのものでもない。身体全体で感じ取るもの。人は皆、心の中で独自の拍子やリズムなるものを奏でているのだろう。心臓の鼓動とともに...

生きる上で最も大切なものは、やはりリズムであろう。道を歩けば何気なく歩幅やテンポが生じ、思考に耽れば自然に身体が揺れ、日常の繰り返しが精神に秩序をもたらす。仕事においては、検討から成果が出るまでの周期、あるいは達成感を得るタイミング、こうしたものが意欲を持続させる。音楽に特定のものを表す力などないのだが、完全に抽象的でありながら、具象的な心象イメージを作る手助けをしてくれる。哀歌に心を動かされたり、胸をえぐるような悲愴をもたらすかと思えば、気分を高揚させたり、はたまた忘我の境をさまよったりと、奇妙な力までも持ち合わせる。音楽は物理的には音素の羅列でしかなく、ノイズと区別がないはず。なのに、一旦、主情的に反応すると芸術へと昇華させる。人は音楽に合わせて拍子をとり、メロディーの奏でる物語に思考や感情を重ねる。誰にでも人生のテーマソングのような存在があろう。自己存在の後ろ盾になってくれるような...
一般的に、音楽は心や生活を豊かにするものとされる。だが、音楽に祝福されず、神の恵みが悪魔の呪いと化す人たちがいる。ナポリ民謡を聴くと痙攣と意識喪失を伴う発作に襲われたり、エンジン音や摩擦音を引き金に日夜音楽幻聴が鳴り続けたり、生命維持装置のように音楽なしでは生きられないなど、音楽に人生を乗っ取られた人たちが...
音楽の夢や幻聴は、他の夢や幻覚と違って正確だという。記憶喪失や認知症の破壊力にも耐えうるほどの力があると。脳の損傷や障害によって他の能力は失われても、音楽の能力だけは保たれる症例も珍しくないようだ。大脳皮質には、音楽にまつわる知性と感性を助長する特定の部位があるのは間違いなかろう。実際、そこが損傷を受けて失音楽症になることがあると聞く。
しかし、音楽に対する感情反応は、皮質だけでなく皮質下や脳全体に広がるという。アルツハイマー病のような瀰漫性皮質疾患にかかっても、音楽を感じ、楽しむことができるのだそうな。音楽と精神が深く結びつくとなれば、あらゆる病に対して音楽療法なるものが効果を発揮する可能性がある。音楽の知識がなくても、音楽好きでなくても、深いレベルで反応するかもしれない。人類の音楽を嗜好する性向は、潜在的な自律システムとして働く普遍的な機能なのかもしれん。
ショーペンハウアーは、こう書いているという。
「とてもわかりやすく、それでいて何とも不可解な、言いようのない音楽の深みは、音楽が私たちの最も内側にある感情をすべて再現しているのに、リアリティがまったくなく、痛みからはかけ離れている...という事実に起因する。音楽は人生とそこで起こる出来事の真髄のみを表現し、決してそれ自体を表現するのではない」

昨年(2011年)の秋頃だろうか、英国の研究所が世界で最もリラックスできる音楽を発表したと報じられた。Marconi Union の「Weightless」という曲。曲の底に流れるベース音がリラックスさせ、トランス効果があり、深い静寂をもたらすとのこと。血圧の低下や、ストレスホルモンであるコルチゾールの低下も認められるそうな。実際に聴いてみると退屈しそうで、作業のためのBGMにするにはいまいち。無意識の領域で作用させるから、真の意味でリラックスさせるのかもしれないけど。
脳への刺激を物理学的に説明することは、ある程度は可能であろう。だが、それだけだろうか?やはりアル中ハイマー病患者には、モーツァルトやショパンの方が心地良い。そして、瞑想に耽け、思考が迷走するのさ。

聞こえる旋律は甘美だが、聞こえない旋律はもっと甘美だ。
... ジョン・キーツ「ギリシャの壺のオード」

1. 音楽と心象イメージ
サックス博士の患者で音楽幻聴のある人の大半は難聴を抱えているという。聴覚に対する欲求がそうさせるのだろうか?音楽には、耳から入る外部的なものだけでなく、頭の中で奏でられる内面的なものもある。失音楽症は俗に言う音痴という形で現れるが、それでも頭の中では完璧なメロディーが流れるものらしい。音楽家ともなれば、オーケストラをまるごと頭に抱えたり、楽器を使わず頭の中だけで作曲したりする。ベートーヴェンは、まったく耳が聞こえなかったにもかかわらず、音楽家として更に高みに昇った。余計な外部音が聞こえないだけに、内面で理想化された純粋な曲が聞こえるのだろうか?
音楽の心象は視覚的なものと同じくらい多様で、おまけに情景を刻むところがある。何十年も思い出すことのない音楽が、突然、湧いてくるかと思えば、学生時代によく聴いた曲がラジオから流れるだけでノスタルジーに浸れる。音楽には、倦怠感を緩和したり、運動をリズミカルにしたり、疲労を軽減する効果がある。
その一方で、耳にしつこく残り、病的にまとわりつき、メロディーが拷問となるケースがあるという。短くはっきりした楽節や旋律が何時間も何日間も続き、心の平穏や睡眠までも阻害する。耳栓をしても無駄だ。脳の虫として住み着き占拠するのだから。チャイコフスキーも、子供の頃「この音楽!僕の頭のなかにあるんだ。こんなのいらないよ!」と叫んだと伝えられるそうな。映画やテレビ番組のコマーシャルソングが引き金になることも珍しくないという。それも偶然ではあるまい。コマーシャルは聞き手を釣るために、耳に残るように仕掛けてくるものだから。
また、音楽や詩のリズムには暗記力を刺激する効果がある。あらゆる民俗文化において、文字体系や物事を覚える時に役立つ歌や詩がある。古代人が、ホメロスの大叙事詩を長々と暗唱できたのは、そこにリズムと韻があるからであろう。記憶力が音楽を発達させたのか、音楽が記憶力を発達させたのかは知らんが。

2. 音楽夢
偉大な作曲家の多くは、音楽の夢について語り、しばしば夢の中でインスピレーションを受けているという。ヘンデル、モーツァルト、ショパン、ブラームス、ベルリオーズなど。夢の中まで攻め続ける、一種の職業病か。ポール・マッカトニーは曲ができるまでの過程を、目覚めると頭の中で美しい音楽が流れていたと語ったという。音楽夢の記憶は、はっきり残るという説があるらしい。アーヴィン・J・マッセイは、こう書いているという。
「夢のなかの音楽は、崩壊することも、混乱することも、支離滅裂になることもなく、夢のほかの要素のように目覚めたとたん消えることもない」
数学や科学の理論、小説や絵の構想なども、夢の中で思いつくことがあろう。アル中ハイマーにだって、技術問題の解決が、夢の中で突然浮かぶことがよくある。しかし、目が覚めるとすっかり消えていて、思い出そうとして二度寝すると、今度はすっかり熟睡してしまう始末よ。
そういえば、音楽の夢は、目覚めてもしっかりとハミングできていて、たいてい懐かしい気分になる。音楽の場合、他の心象イメージと違って、要素の羅列がシーケンシャルで時間的連続性を保つ必要がある。だから、心の中のリズムやテンポが情報の欠落を補完できるのかもしれない。音楽は眠らない!そして精神は眠らない!ついでに魂は不死!なんてどこぞの論法を無理やりこじつけておくか。

3. 絶対音感と進化論
人は視覚となると、青や赤といった色素を反射的に言い当てることができるのに、聴覚となると、ソのシャープといった音素を言い当てることができない。光波も音波も、同じ波長という物理量なのに。絶対音感が万人の能力にならないのはなぜだろうか?音素の方が、精神の曖昧さに適合するのだろうか?
絶対音感は音楽家によく見られる。精度は様々だが、70以上の音を特定できるそうな。もちろん、絶対音感がないからといって音楽的才能が劣っているわけではない。音楽的才能に恵まれながら、音楽に無関心な人も大勢いる。音楽に敏感過ぎるために、ある種の防衛本能が働くのかもしれない。自閉症患者は、音楽的な感動が少なくても、絶対音感を持つ人が比較的多いと聞く。日常の物音が、すべて音階に変換されたら気になってしょうがないだろう。鼻をかむ音は、ソのシャープとか、耳鳴りは、ファのフラットとか。周波数で言い当てる人もいると聞く。演奏中の音楽家は、楽器の調律がちょっとでも狂っていたら、たいてい苛立ちや不安になるという。繊細な認識能力の持ち主ほど、自閉症になりやすく精神病を患いやすいのかもしれない。
また、興味深い相関関係に、絶対音感と言語的背景があるという。ダイアナ・ドイチェたちの論文(2006年)には、こう書かれているという。
「ヴェトナム語と北京語を母語として話す人たちは、単語のリストを読むときに非常に正確な絶対音感を示す」
絶対音感のある人は、音高差を正確に知覚できるだけでなく、音階や音符のラベルをつけて並べられるという。記号を羅列するという意味では、言語感覚と似ているのかもしれない。スティーヴン・ミズンは、構成言語と構文規則が発達したことで、膨大な意味を表現することができるようになり、大部分の人間が絶対音感を必要としなくなった、という仮説を立てているそうな。言語の発達によって、音高による絶対的な模倣能力が必要なくなったということか。では、仮想的にビジュアル化していく社会では、視覚も曖昧になっていくのか?現実社会が仮想化いう空虚を求めるのも、精神の曖昧さによく調和するからか?そして、あらゆる知覚が精神の曖昧さに吸収されていくのか?これが抽象化の正体かもしれん。

4. 音楽サヴァン
2000曲以上のオペラを、ほぼ完璧に記憶する知的障害者の事例が紹介される。彼はオペラ歌手を父に持つ。音楽の才能は、バッハ一族の七世代のように遺伝すると言われるが、その典型であろうか。サヴァンの能力で高まるのは例外なく具象的な力で、弱いのは抽象的な力で大抵は言語能力だという。
ほとんど先天性のものだが、似たような症状が人生の後半に現れることもある。脳損傷、脳卒中、腫瘍、前頭側頭認知症などの後に。特に左側頭葉の損傷と関係があるとされる。左側頭葉が、右脳半球の機能に対して抑圧や抑制を解放した結果、計算能力や論理的思考が超人的に高められると聞く。理性や知性が、感性にとって邪魔になることもあろう。理性が強すぎれば融通がきかなくなり、知性が強すぎれば頭でっかちになる。子供の創造力を、大人の権威主義が邪魔をするように。才能豊かな子は、そんな障壁すら簡単に乗り越える。抑えられない衝動とは、気概のある才能の裏返しであろうか。

5. ウィリアムズ症候群
ウィリアムズ症候群は、認知障害で、知能の強さと弱さが奇妙に入り混じっているという。ほとんどがIQ60未満だそうな。見た目の特徴は、大きな口、上を向いた鼻、小さい顎、丸くて好奇心に輝く目。性格の特徴は、異常なほどの社交性を示し、並外れて饒舌で、興奮気味で話し好き、親しげで懐っこい、そして、なによりも音楽好きだという。よちよち歩きの幼児ですら音楽に極めて敏感だそうな。IQが低いにもかかわらず、豊富な語彙と著しい言語運用力を持ち、コミュニケーション能力が高い。その一方で、単純な幾何学図形を描くことができない。動物について奇抜な説明ができるのに、その絵を描くと幼稚になる。人を傷つけることもいろいろと喋るというから、一種の精神遅滞であろうか?自閉症の反対パターンという見方もできそうだ。
しかし、音楽となると、三カ国語や四カ国語の歌詞を憶えたり、驚異的な音楽能力を発揮する人もいるという。ただ、音楽サヴァンとは少々違っていて、生まれつきではなく経験的に開花される能力ということらしい。複雑な音楽を学んで覚えられることでは、とても精神遅滞とは思えない。重度の知的障害者が、突然、音楽の才能と流暢な発話力を開花した例もあるという。音楽療法によって脳を活性化させる場所がちょいと違うだけで、何かに目覚める可能性があるということか。開眼や悟りを解剖学的に説明すると、そういうことであろうか。自我の進化論的な突然変異を信じるならば、日々の形式的な生活からは生じない現象であろう。自我を破壊するような刺激でもなければ...

2012-08-19

"火星の人類学者" Oliver Sacks 著

惚れっぽい酔っ払いは、オリヴァー・サックスに嵌りつつあるか...
「妻を帽子とまちがえた男」では、脳や神経の障害によってもたらされる自我の喪失について綴られた。ここでは、自我の獲得や再構築について綴られる。
「一般的な指針とか制約、助言というものはあります。だが、具体的なことは自分で見つけなければならないんですよ」
障害者たちは自己の欠陥を率直に認め、それを自己の一部とし、自我やアイデンティティというものを見事に作り上げ、創造力を魅せつける。確かに、発達障害や疾病の破壊力は恐ろしい。だが、潜在能力を呼び起こすこともある。何かに目覚めたり、開眼したりするのも、ある種の突然変異であろうか?進化論的観点から、人間の多様性は人間の想像力をはるかに超越していると言わざるを得ない。彼らは皆一様に言う。たとえ病気が治せるとしても、治したいとは思わないと。ただ、障害を神からの贈り物とできるのは、ごく稀なケースであろう。盲人が手術を受けて視力を獲得しても、ほとんどのケースで空間認識ができず精神危機に陥ると聞く。そして、神からの贈り物は呪いと化し、ほどなく亡くなる。自分の存在を否定するような境地を乗り越えてこそ、見えてくる境地があるのだろう。無に転じて有を知るとでも言おうか。生き方を知るとは、そういうことかもしれん。
明らかに普通と違えば、開き直るしかないのかもしれない。しかし、自己の欠陥を認めることは最も難しい。認めたとしても、社会や運命のせいにする。おそらく潜在的には、自分のことは自分が一番よく知っているのだろう。だが、自我はけして悪性を認めようとはしない。それは、自己存在を否定することになるからであろう。欠陥を第三者に指摘されると、不快になったり攻撃的になったりするのは、ある種の防衛本能が働いているからであろう。自己の欠陥に対して、自我に少しでも素直さがあれば、新たな境地が開けるのかもしれない。それが精神の開眼というものかは知らん。

その人物がどんな病気であるかと問うのではなく、その病気にどんな人たちがかかっているかを問うがよい。... ウィリアム・オスラー

副題には「脳神経科医と7人の奇妙な患者」とある。彼らは皆、自閉症的な資質を抱えることになる。無理に矯正しようとすれば、さらに自我の殻に閉じこもる。だが、自閉症的な資質は、誰にでも潜在的にあるのではないだろうか。少しでも個性があるならば。これだけ世間が騒がしいと、人間が鬱陶しい、社会が鬱陶しいと思うこともあろう。安易につながりを煽れば、却って孤独愛好家を増殖させる。そうした傾向が一旦、病気と見なされると、世間から特別な眼で見られ、人生が萎縮してしまう。人は誰しも自分の居場所を求めて生きている。ただそれだけのことよ。彼らほど自己存在という問題と正面から立ち向かう人間はいないのかもしれない。
一方で、障害というマイナスをプラスに転じる驚異的な補完作用が働くことがある。自閉症のために緻密な集中力を発揮したり、知的障害のために純真な芸術心を発揮したりと。集中力や芸術心は孤独の空間から生じるもので、自閉症と言われた天才も少なくない。芸術とは、本質的に個人的なヴィジョンである。おそらく自閉症的資質と芸術心は相性がいいのだろう。
普通の人にだって能力に偏りがあり、どこかおかしな性癖がある。はたして、正気と狂気の境界はどこにあるのか?それが精神病棟の鉄格子だとしても...異常者を隔離するためのものか?それとも、純真な心を保護するためのものか?そして、自分はどちらの側にいるのか?...やはり、最も厄介な病は自覚できないことであろうか。
五感に異常をきたし、知覚に変化が生じた時、自分という存在はどうなるのだろうか?自己存在とは、脳の中にだけ構築される幻想でしかないのかもしれん。自己とは、それほど危うい状況に常にある。健康や普通なんて言葉は、単なる抽象概念に過ぎない。そういう言葉を編み出して、多数派に属して安住したいだけのことかもしれん。

宇宙は、われわれが想像するよりも奇妙どころか、想像も及ばないほど奇妙である。... J・B・S・ホールデン

特に注目したい事例は、タイトルにもなっている「火星の人類学者」と称する女性動物学者である。彼女には人の感情がまったく分からないという。地球に住む人類が、異種の生物に見えるというわけだ。その分、純真な心が深い。そして、感情を知識によって克服してきた様子を語ってくれる。感性と知性とは、調和と協調によって成り立つものだと思ってきたが、感性というものは知性で補えるものなのか?チューリングマシンによる感情の代替も可能ということか?サヴァン症候群では、左脳が障害を受けて右脳がその埋め合わせをした結果、計算能力や論理思考が超人的に高められると聞く。盲人は、視覚を補うために聴覚や触覚を研ぎ澄ます。生命体の補完作用とは恐るべきものがある。となれば、感性を知性で補い、主観を客観で補い、またその逆もありうるのかもしれん。
そして、これが本当に感情の抜けた人間の言葉なのか?
「わたしは宇宙には善に向かう究極的な秩序の力があると信じています...ブッダやイエスといった人格的な神ではなくて、無秩序から生まれる秩序といったものです。人格的な来世の存在はないとしても、エネルギーの痕跡が宇宙に残ると考えたいのです...たいていひとは、遺伝子を残しますけれど...わたしは、思想や書いたものを残せます...図書館には不死が存在すると読んだことがあります...自分とともに、わたしの考えも消えてしまうとは思いたくない...なにかを成し遂げたい...権力や大金には興味はありません。なにかを残したいのです。貢献をしたい...自分の人生に意味があったと納得したい。いま、わたしは自分の存在の根本的なことをお話ししているのです。」

1. 脳神経科医と7人の奇妙な患者
まず一人目は、交通事故で全色覚異常に見舞われ、白黒の世界に幽閉された画家。画家にとって色彩は命である。その世界はモノクロ映像とも違うらしい。視力は鷲なみに鋭く、異常にコントラストが強く、一ブロック先を這っている毛虫が見えるという。濃淡は大雑把で、目を閉じても頭の中でトマトが真っ黒!白黒画像であっても輪郭がぼけるから、背景に溶け込んで微妙な陰翳の愉悦が味わえる。だが、食べ物や女性の肉体までも不気味な鉛色に見えれば、食欲や性欲も萎える。不快な気分が続いたせいか?やがて色の記憶や知識までも失われ、色の概念そのものが失われる。ある日、真っ黒な太陽が昇るのを見て衝撃を受け、特別な才能を見出す。彼は巨大な核爆弾のようだと語る。そして、白黒の世界を描き始めた。彼の色彩健忘症を知らない人たちは、芸術家として白と黒の新たな段階に入ったと評す。
二人目は、脳腫瘍のために視覚と記憶力を失った青年グレッグ。「最後のヒッピー」と題される彼は、その場の会話が覚えられなくても、昔の記憶だけはしっかりと残っている。60年代に幽閉されたかのように。ヒッピーは60年代後半に若者の間で広まった社会現象で、多くのロックバンドが参加した。彼は、グレイトフル・デッドのコンサートに連れられ、今日のことは決して忘れないよ!と人生最高の日を喜ぶ。だが、翌日にはすっかり忘れている。何かを悟ったような陽気な姿は、診療所の暗い雰囲気を吹き飛ばす人気者。精神的豊かさで盲人を開眼させたのか?「もし盲目なら、真っ先にぼく自身が気づくはずじゃないか」
三人目は、跳ね上がったり、何かに触れずにはいられない奇妙なチックを起こすトゥレット症候群の外科医ベネット。しかし、手術中は病状がすっかり姿を消す。障害者の目から見る彼の往診は、患者たちに優しく評判がいい。仲間内からも優秀な外科医として信頼される。そして、自動車の運転や自家用機を操縦し、「世界でただひとりのトゥレット症候群の空飛ぶ外科医」と自慢げに話す。
四人目は、婚約者の説得で手術を受け、40年ぶりに視力を取り戻したヴァージル。だが、行動様式は盲人からは離れられない。やがて溢れる視覚情報を処理できなくて、昏睡状態から危篤状態となり、ついには完全に失明してしまう。手術前は光の認識はできたが、それまでも奪われた。周囲を認識するということは自己の存在を確認していることにもなろうが、過剰な認識負担が続くと自己のアイデンティティまでも変貌させる。しかし、再び盲人になったことで安住の地を取り戻す。外面の情報を必要としないということは、内面が十分に豊かだという証しであろうか。
五人目は、驚異的な記憶力で故郷の村を描き続ける画家フランコ・マニャーニ。それは、イタリアのトスカーナ州にあるポンティトという小さな村で、戦時中ナチスに略奪された。自由の国に夢を抱きつつサンフランシスコに腰を落ち着けるが、奇病にかかり、高熱で痩せ衰え、錯乱状態になる。その後遺症か?日々、異常に鮮明なポンティトの夢を見続ける。そして、死の村の荒廃前の様子を描き続けるのだった。初老になったフランコは帰郷を決意する。だが、荒廃の現実と思い出とのギャップに衝撃を受ける。その後、何度も招待を受けるが帰郷せず、狂ったように描き続ける。もういちど母さんに、ポンティトをつくってあげると。
六人目は、風景や建物の細部までを記憶し、見事に絵に再現する自閉症の少年スティーヴン・ウィルトシャー。典型的な自閉症のうち、50%は唖者で一度も言葉を発せず、95%は非常に限られた人生しか送れないという。だが、芸術のおかげで熱心に支援する人々が集まり、幸運な例外となる。彼は、知的障害があるが視覚的なこだわりと才能を持つ、いわゆるイディオ・サバン。サックス博士は、スティーヴンの本心を覗くためにロシア旅行やアリゾナ旅行に同行するが...自閉症の個人を真の意味で理解しようとすれば、その全生涯と付き合わなければ足りないということか。
最後は、アスペルガー型自閉症の女性動物学者テンプル・グランディン。恋という言葉の概念は知っていても、そんな気持ちを抱いたことがないという。夜空の星を見上げると、荘厳な気持ちになるはずだということは知っていても、そうはならないと。複雑な感情や騙し合いとなるとまったくのお手上げ。その代わり動物の心が手に取るように分かるという。家畜は自閉症の人と同じ種類の物音に怯えるという。彼女は家畜の処理に関する理論を展開する。専門は、農場、飼養場、家畜用囲い、食肉プラントの設計など、様々な種類の動物管理システム。彼女は、人の感情が理解できないことを知識で補ってきたと説明する。やがて各地で講演活動をこなし、ユーモラスな余談を交えたり、当意即妙の話題を加えたりできるようになる。そして、40代になって友情が何たるかを分かるようになってきたようだと。

2. 思い出と記憶は別物か?
過去の記憶が脳に貯えられるというイメージには、偉人たちの間でも多少ニュアンスの違いがあるようだ。
「フロイトが好んだ心のイメージは、何層にもわたって過去が埋もれている(だが、いつ古い地層が意識の上にまで上昇してくるかわからない)考古学調査の現場だった。プルーストの人生のイメージは『瞬間の集積』だった。『その後に起こったすべてのことと無関係』で、心のなかの食料庫にしまわれたジャムの壜のような『密封された』思い出である(記憶について考えた偉人はプルーストだけではない。記憶の不思議さを考えながら、結局、記憶とは『何なのか』わからずじまいになった思想家は、少なくともアウグスティヌスにまでさかのぼる)。」
フレデリック・バートレットは著書「想起の心理学」の中で、こう書いているという。
「思い出すということは、生命のない固定された無数の断片的な痕跡を再活性化することではない。それは想像的な再構築、あるいは構築であって、過去の反応や経験の活動的な総体に対する自分の姿勢をもとに、ふつうはイメージや言葉というかたちで現われる際立った細部をつくりあげていくことだ。したがって、どれほど機械的な反復であっても、ほんとうに正確であるはずはないし、たいして重要でもない。」
記憶とは、自己存在の確認、自己の再構築を図っているということか。現在に不安を感じれば、過去に頼るしかない。思い出というものは、微妙な修正を加えながら、加工され、蓄積され、聖なるものに昇華する。そして、老人は、昔は良かった!と懐かしみ、現在を嘆く。現実逃避するかのように。これがノスタルジーの正体か?その逆パターンが、デジャヴってやつか?思い出に一種の理想像を重なるところがある。正確な記憶なんぞどうでもええ。理想像には、精神を癒す何かがある。思い出とは、理想に崇められた永遠空間に残る記憶ということになろうか。

3. 自閉症と社交性
視覚的、音楽的、言語的に、個々の部分を不思議なほどよく覚えているのは、イディオ・サヴァンの特徴だという。些細なことも重大なことも差別なく、前景も背景も区別しないと。個々の部分から普遍化するとか、因果関係や時間的関係をまとめるとか、自己の中に取り込むということはほとんどせず、情景から脈絡を読んだりもしないらしい。通常、記憶する時、目的や印象を場面と時間に関連づけながら、物語や筋を組み立てたりして覚えるものであろう。主観的で抽象的思考が介在するはずだが、彼らには客観的視点が優れているということか?個々の重要性を抽出したり、意味付けができないとなれば、驚異的な能力を発揮しても、それを社会的に活かすことはできない。自閉症患者は、音楽的な感動が少なくても、絶対音感を持つ人が比較的多いそうな。
ところで、社会にひたすら仲間を求めるのと、自ら孤独の殻に入るのとでは、どちら精神的に豊かなのだろうか?しかしながら、自閉症は障害者というレッテルを貼られ、その反対は社交的という好意的な言葉が当てられる。自閉症の人々は、嘘をつくことに苦痛を伴うという。そして、人間関係や社会的な概念に比べ、幾何学的概念や用語の把握に優れているという。ある自閉症の少年の言葉は印象的だ。母親が亡くなった時、こう答えたという。
「ああ、だいじょうぶです。ぼくは自閉症だから、愛するひとを失っても、ふつうのひとほど傷つかないんですよ」
自分に嘘がつけない、誤魔化せないというのは、芸術家や職人には絶対に欠かせない気質であろう。嘘も方便と言うが、それは社会的関係において成り立つ思考である。自分に嘘をつく必要がなくなれば、それだけで精神が解放されるのかもしれない。何もかも精神的に周囲に依存し、無理やり仲間という偶像を作り上げる社交性にも、障害が認められそうな気がする。

4. 感情を失った裁判官
ある神経学の論文に紹介される元判事の症例は興味深い。その判事は、砲弾の破片が頭にあたって前頭葉が傷ついたために、感情というものをまったく喪失したという。感情がなければ、偏見も生じないわけだから、公正な判断ができそうなもの。判事として特別な資質ではないのか?しかし、その判事は思案した挙句、辞職したという。関係者の動機に共感することができないし、正義とは単なる論理ではなく感情にもかかわるものだからと。法律は客観性に支配されると言われるが、その運営となるとそれだけではない。余計な感情論を排除できるからこそ、権威を放棄できるのかもしれん。

2012-08-12

"妻を帽子とまちがえた男" Oliver Sacks 著

自然科学者とちがって医者が問題にするのは、一個の生命体、すなわち、逆境のなかで自己のアイデンティティを守りぬこうとする個人としての人間である。...アイヴィ・マッケンジー

オリヴァー・サックスといえば、映画「レナードの朝」の原作者。本書は、脳神経科医サックス博士の不思議な臨床体験を綴ったエッセイ集で、妻の頭を帽子と間違えてかぼうろうとする音楽家、左という概念を失い顔の右側しか化粧できない老女、大統領演説の真意を見ぬいて大笑いする失語症患者、会話が覚えられず擬似物語を喋り続けるコルサコフ症候群の男、他人の真似ばかりして自分の人格を失ったトゥレット病患者、音楽癲癇によって懐かしい歌が聞こえ続ける老婦人、詩人の才能にあふれた純真な知的障害者...など24篇が収録される。
さて、臨床という概念がいつ始まったかは知らんが、医学の父ヒポクラテスには既に病歴という見方があったという。病気とは、幸せな結末か致命的な結末かのいずれかに終わるもので、病歴とは、まさに患者の物語となろう。生身の人間と向い合い、悩み、苦しみ、戦うからこそ、人間としての主体が見えてくる。それを綴ってこそ医者というわけか。
しかし、人間味あふれる臨床話を書く慣習は19世紀に頂点に達し、その後、神経科学の発達にともない衰えてきたという。実際、血液検査のデータを見、コンピュータと睨めっこしながら、診察するお医者さんを見かける。サックス博士は、患者との語りという原点回帰を試みる。あえて名づけるなら「アイデンティティの神経学」だそうな。そして、医者と患者は互いに対等で協力関係にあり、医者が患者を治してあげるという類いのものではないという。

精神病の根幹にあるのは、やはり自己存在との葛藤であろうか。病とうまく付き合って眠った潜在能力を引き出すケースが稀にあるにせよ、たいていの場合は自己を喪失するのであろう。無の境地を探求すれば、精神病との境界をさまようことになる。そもそも精神病を患わない人なんているのだろうか?いるかもしれない。精神がなければ精神病にもならずに済むだろう。
「病気こそは、人間の条件のうちの最たるものといえるだろう。なぜならば、動物でも疾病にはかかるけれど、病気におちいるのは人間だけなのだから」
一般的に、抽象化や分類化といった思考は高度なものと考えられている。大局を捉え人生の骨格を組み立てるためには役立つ思考で、学問を高みに登らせるためにも必然的な方法である。物事をできるだけ抽象的に語り、様々な解釈を思わせれば、 なんとなく高尚なものを感じる。これが哲学の極意というものよ。一方で、抽象論がいったい何を解決してくれるというのか?という疑問がある。具体的な方策は、問題に直面した者自ら導くしかあるまい。
ここに登場する患者たちは、現実逃避あるいは現実を見失った結果、抽象的な精神空間に幽閉された人々である。現実世界を見失えば、自己や自我をどうやって確認すればいいのか?実体のない空間で理性的自我と本能的自我とが葛藤を続け、無関心病に陥り、究極のエゴに苛み、やがてキェルケゴール風の「静かなる絶望」が訪れる。いくら抽象論で思考を進化させたところで、結局は現実を生きるしかない。医学とは、安らぎとともに幻想から現実に引き戻す手助けをする術とすることができそうか。
しかし、精神病患者とは、現実世界を見失った人たちだけであろうか?政界や財界には、権力欲や物欲に狂い、現実主義に憑かれた人々がわんさと居る。喪失も問題だが、過剰なのも問題か。他人の欠陥を強調する行為は、自分を慰めているのだろうか?最も危険な病は自覚症状がないことかもしれない。そうなると、精神的に危険でない人はいないことになりそうだ。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!...とは、そういうことかもしれん。

この手の書を避けてきたところがあるが、いつの間にか抵抗感がなくなっている。我が家にも重度の知的障害者がいる。せめて言葉が分かるとありがたいと思うこともあるが、症状が軽いと逆に往生することもあると聞く。中途半端に物事が分かるだけに、運転免許をとりに行くと言い出したり、なぜ結婚できないのかと駄々をこねたり、あるいは危険な行為に及ぶこともあるそうな。うちの場合はおとなしいだけで、そんなこと考えたこともないし、本人にはそういう概念すらないだろう。ひとことで知的障害者と言っても、症状は多種多様で症候群などという病名で一括りにできるものではない。この点、心理学者よりも障害者施設などで働く現場の人たちの方が、はるかに心得ているように思える。障害者一人一人を主体と捉え個別に対処しているのには感心させられる。
知的障害者は自閉症になるケースが多い。コミュニケーション能力が欠けると、自分の殻に籠もりがちとなる。無理に矯正しようとすれば、癇癪を起こしたりと、障害の上に精神不安に追い込むことになる。幼稚な感じがするだけに子供扱いしてしまいがちだが、専門家からは年齢なりに人格を尊重しなければならないと指摘されたことがある。馬鹿にできない能力もある。ジグソーパズルを組み立てるのが速く、1000ピースでも簡単に完成させやがる。おいらは夜景が好きだから、そうした風景画に誘導すると、暗い色ばかりで難しいはずだが、一旦始めると執着心は半端でない。
また、カレンダーや電卓が好きで、数字を眺めると落ち着きを見せる。発声はできるが、言葉がまったく分からず、自己主張するという行為に馴れない。だが、施設で他人と接する機会が増えると、あー、うー、となんとか自己主張するようになり、表情も豊かになった。反応は極めて純真で、素直に笑い、素直に怒る。機嫌が悪い時にでる鼻歌は、いつも決まっていて分かりやすい。それだけに頭にくることもあるが、こちら側の思惑のくだらなさに気付かされることも多い。人間観察にこれほど貴重な存在はないだろう。本書にも、どちらが矯正されるべきか考えさせられる事例が紹介される。

1. 左脳と右脳
脳神経学は、脳の左半球のある部分が損傷することによって失語症が起こることに気づいたことから始まったという。当初、高度な能力はほとんど左半球で生じる現象だったので、右半球は原始的と言われ、右半球の研究はなおざりにされてきたという。実際、右半球の現象は内側からも外側からも分かりにくく、研究が難しいのだそうな。
今でも、左脳は論理的思考をつかさどり、右脳は感覚的思考をつかさどると言われる。議論をしていても、論理と感覚では前者の方が説得力があるし、論理的思考に優れた人は賢く映る。だが、芸術的才能は感覚的なものが強く、左脳と右脳で優劣関係があるのも疑問だ。サヴァン症候群では、左脳が損傷を受けて右脳がその埋め合わせをした結果、計算能力が超人的に高められると聞く。左脳と右脳が連係するからこそ、うまいこと補完機能が働くのだろう。いくら優れた論理的知識を身につけたところで、やはり判断を誤る。結局、直観に頼って生きるしかないではないか。知識を知性に昇華させ、直感を直観に昇華させるには、理論と実践、論理と感覚、空想と現実、そして左脳と右脳を調和させることであろうか。

2. 六番目の感覚
五感は普通の人なら誰にでも認識できるだろうが、六番目の感覚となるとそうはいかない。それは第六感などではない。1890年、シェリントンが「人間にそなわるかくれた感覚」と呼んだものは、身体の可動部である筋肉、腱、関節から伝えられる連続的な感覚の流れのこと。彼は、これを外界感覚と内界感覚から区別するために「固有感覚」と名付けたそうな。身体の位置、緊張、動きは、この六番目の感覚によって絶えず感知され、無意識のうちに自動的に修正されるという。これは、自分が自分であるということ、すなわち自己のアイデンティティには欠かせない感覚だという。固有感覚があるからこそ、自己固有が認識できるというわけか。
ここでは、27歳の女性が突然この固有感覚を失った事例を紹介してくれる。起きても姿勢が保てず、顔は奇妙に無表情でたるんだ感じ、顎が垂れ下がり、口があいたまま。彼女は、身体がなくなった感じを訴える。リハビリをしているうちに、やがて固有感覚を視覚で補うことを覚えていく。鏡を見ながらポーズをとったり、姿勢の矯正などを意識的に訓練していくうちに、視覚反射が無意識に協調するようになる。感覚器官の麻痺を、別の感覚器官で代替するという人間の本能には、驚異的なものがある。ただ、見た目は身体障害者に見えないので、バスに乗る時のぎこちない動作に罵声を浴びたりする。自己存在との戦いを乗り越えても、社会との戦いが待っているとは...
また、身体感覚を失う事例で、心房細動で大きな塞栓が飛んだために、左半身不随になった患者を紹介してくれる。患者の話では、夜中に目をさますとベッドに並んで、死んだ、冷たい、毛深い足が一本いつもあるという。我慢できず右足で蹴飛ばすと、身体ごとベッドから落ちる。不随になった部分が、その存在すら認識できなくなるのだとか。これも、自己の一部を失った現象であろうか。
心頭滅却すれば火もまた涼し...と言うが、無念無想の境地に達すれば、六番目の感覚を自由に操り、どんな肉体的苦痛にも耐えられるのかは知らん。そして、本当に焼死するのか?

3. ファントム(幻影肢)
ファントムとは、身体の一部、通常四肢(両手両足)の一つがなくなったのに、何ヶ月もの間それが絶えず見える現象だという。幽霊のような怪しげで現実離れしているので、感覚的ゴーストとも言うらしい。危険なほど現実そっくりに見えたり、激痛をともなうこともあるという。身体イメージの障害というやつか。その要因は、中枢性要因と末梢性要因の二つが考えられるという。中枢性要因とは、感覚皮質、特に頭頂葉の感覚皮質が刺激されたり損なわれたりすること。末梢性要因とは、神経断端、断端神経腫、神経損傷、神経ブロック、神経の異常刺激、脊髄の感覚路や神経根の障害のこと。
映画「西部戦線異常なし」では、片足を切断した兵士が、失ったはずの足が酷く痛いと訴えるシーンがある。身体の実体が認識できなくなるのとは逆に、失ったはずの身体が幻想となってつきまとう場合もあるわけか。

4. 記憶喪失
記憶喪失に、ちょっぴり憧れるところがある。謎めいた過去に都合の良い夢を重ねるからであろう。実はすごい美女と結ばれ、大金持ちの御曹司ではないかと想像したり。そして、今の俺は俺じゃない!と心の中で叫ぶのだ。人間というものは、現実世界では悲観的でも、非現実世界では楽観的になれるのかもしれん。しかし、実際に記憶喪失になり、現実の過去が耐えられないほどの悪夢となれば、気が狂うかもしれない。実は身の毛もよだつ殺人者だとすれば、スーパーエゴによる自責に苛むことになろう。
ここでは、会話が数行しか覚えられないコルサコフ症候群の事例を紹介してくれる。記憶がなければ、自己の一貫性が保てない。いつも存在不安に苛まされ、陽気に振るまい、自己の物語を喋り続ける。だが、すぐに辻褄が合わなくなり、空想という名の蟻地獄へ落ちていく。記憶喪失とは、まさに自己喪失というわけか。

記憶をすこしでも失ってみたらわかるはずだ。記憶こそがわれわれの人生をつくりあげるものだということが。記憶というものがなかったら、人生はまったく存在しない...記憶があってはじめて、人格の統一が保てるのだし、われわれの理性、感情、行為もはじめて存在しうるのだ。記憶がなければ、われわれは無にひとしい...わたしが最後にたどり着くところ、それはいっさいの記憶の喪失だ。これによってわたしの全生涯が消し去られる。...ルイス・ブニュエル

5. 失語症患者と音感失認症の言葉を見抜く能力
感覚失語、あるいは全失語で言葉が理解できなくても、ほとんどの患者で話しかけらていることは分かるという。発話は、単語のみで成り立つのではなく、主題や内容だけで成り立つわけでもない。発話には、その人の存在を意味し、言葉を凌ぐ力をもった表情がつくという。
失語症患者は、表情、しぐさ、態度にあらわれる嘘や不自然さにとても敏感だという。盲目な失語症患者は、声の調子、リズム、拍子、音楽性、微妙な抑揚、音調の変化、イントネーションなどを聞き分けるのだそうな。
そこで、失語症病棟からどっと笑い声がするエピソードを紹介してくれる。元俳優の大統領のテレビ演説を見ながら。芝居がかった仕草、オーバーなジェスチャーに不自然な調子、患者たちには言葉の偽りがお笑い番組にでも見えるのか。なるほど、近年バラエティー番組に政治家どもが多く出演するようになったのも、やはりお笑いか。
では逆に、言葉は理解できるが、音感失認症ではどうだろうか?音感失認症は右側頭葉の障害によって起こり、声から喜怒哀楽や表情が読み取れないという。そこで、音感失認症だが、言語能力の高い英語教師の女性は、同じ大統領演説をこう評したという。文章がまるでダメ、言葉づかいが不適当、頭がおかしくなったか隠し事があるかだろうと。
失語症患者も音感失認症患者も自分の障害を自覚しているだけに、注意深く演説を読み取ろうとする。発話にはフィーリングトーン、情感的調子というものがあり、言葉にも人格が現れるらしい。そうなると、正常だと思っている人ほど微妙な言葉の表情が読み取れず、欺瞞されやすいということか?有識者と自称する者ほど、言葉が見えていないということか?そうかもしれん。

6. 知的障害者の純真さ
詩人的才能にあふれた少女の言葉は感動もの。いつも側にいた祖母が死ぬと彼女は泣く。だが、泣いているのは祖母のためではなく、自分のためだと語る。
「おばあさんは私の一部だった。私のなかのどこかが、おばあさんといっしょに死んでしまったの...いまは冬で、私は死んだような気がするけど、きっとまた春はめぐってくるわ」
祖母が死んだ後、少女は断固とした態度をとるようになったという。授業を拒み、作業も拒む。守ってくれた祖母を失ったことで、自立心が高まったのだろうか?
「なんの役にも立ちません。あんなことやったって、人間としての統一は生まれません...私は、生きている絨毯のようなものです。絨毯にあるような模様、デザインが必要なのです。デザインがなければバラバラで、それっきりです。...意味のあることが必要なんです...」
見事な比喩で真理をついている。デザインのない絨毯が存在するだろうか?逆に絨毯がなく、デザインだけで存在しうるだろうか?少女は、自分の能力という現実を頼りに生きるしかないことを知っている。不器用であらゆる能力が劣っていても、穏やかで成熟した感情をもち、充実した生き方を知っている。人生を楽しむということを具体的に知っているのは、彼女らの方かもしれん。

7. 超人的な計算能力
超人的な計算能力を持つ双子の診断は、自閉症、精神病、重度の精神遅滞など様々。双子は、何万年前でも何万年未来でも日付を言えば、瞬時に曜日が当てられる。また、300桁の数字がやすやすと記憶できる。数字を視覚的に捉える能力があるらしい。しかし、初歩的な計算はできない。掛け算とわり算の意味も分からない。マッチ箱を落として中身が散乱すると、二人は瞬時に111と答えた。それから37と。数えてみると、マッチが111本あったという。双子は、111という数字が見えると答えたそうな。37は何か?37 + 37 + 37 = 111、なんと素数で分解してやがる。
カレンダー計算の方はモジュロ計算(mod 7)で算出できる。理屈は単純な巡回計算だけど、それで説明がつくのか?素数の方はどうか?双子は素数を言い合って遊び、12桁の素数でも5分ほどで答え、一時間で20桁の素数まで達した。「エラトステネスの篩」なんてアルゴリズムを知っているわけでもなかろう。幾何学の合同の概念を使っているのではないか?という推測もある。数字が見えるとは、図形が見えるということか?純真な心の持ち主にしか見えない数字の風景というものがあるのだろうか?ダニエル・タメット氏のように。
確かに、ユークリッドの「原論」には無理数を幾何学で表現する苦悩が見られる。万物は数である!というのは真理かもしれない。いや、人間の脳は複雑な電磁波に支配される量子で構築される。双子の脳は量子コンピュータとして働いているのか?
しかし、精神異常を矯正しようとして失敗する。双子は合言葉のように数字で会話するが、それが原因だとして引き離される。そして、超人的な能力までも失われ、凡庸以下の能力にされてしまう。幸せの押し売りほど恐ろしい虐待はないのかもしれん。

2012-08-05

"46年目の光" Robert Kurson 著

勇気をもって挑戦すれば、一時的に足場を失う。だが挑戦しなければ、自分自身を失う。...キェルケゴール

こういう人生を目の当たりにすると、自分がいかに社会に安住し、保守的な生き方をしているかが見えてくる。はぁ...
主人公マイク・メイは、3歳の時に化学薬品の爆発で失明。好奇心旺盛な子は、物に衝突しては血を流し、サングラスを何度も壊す始末。だが、この大事な時期に体当たり人生の礎を築く。そして、実業家として成功し、美しい妻と二人の子に恵まれる。この類い稀なチャレンジ精神の持ち主は、視覚障害者のスピードスキー競技の世界記録を持つという。また、CIAで勤務した経験もあり、起業家として目の不自由な人のために史上初の携帯型GPSシステムの実用化を進めたそうな。
「視力のある人生は素晴らしい。けれど、視力のない人生も素晴らしいのです。」
幸せに暮らすある日、驚くべきニュースが飛び込む。幹細胞移植の手術で視力を取り戻せるかもしれない。しかし、成功率50%。かすかに残る光認識能力までも奪われるかもしれない。強烈な副作用をともなう薬に癌になる可能性もあり、命を危険に曝すことになる。しかも、成功したからといって、いつ盲目に戻るか分からない。メイは既に46歳、その決断に苦悩しながら妻にこうもらす。
「でもおもしろいのはね、あの子たちの姿を実際に見る日が来ても、いま見えている以外のものが見えるようになるとは思えないんだ。...そういう意味では、目が見えるようになってもなにも変わらないのかもしれない。」
そして、手術の先に見えたものは... これは実話である。

五感の中で最も重要なのは視覚である、と考える人も多いだろう。見たまんま!ということほど説得力のあるものはない。実際、視覚からの情報によって自己存在の空間を形成し、行動範囲の自由度が決まるように感じる。夢で見る映像も、目で見た経験によって作り出されるのであろう。視覚のない人は、自我の空間をどのようにイメージするのだろうか?
一方で研究によっては、視覚よりも聴覚の方が重要だとする意見を耳にする。指向性においては、視覚の探知できる角度が視界に限られるのに対して、聴覚が探知できるのは360度。暗闇では視覚よりも聴覚の方が役に立ち、潜水艦は音波を奪われた途端に航行不能となる。原理的には、音波は地球の裏側からも到達する。
しかしながら、ヘレン・ケラーは、三重苦でもなお活動的な人生を送った。となると、視覚や聴覚よりも重要な知覚があるのかもしれない。いずれにせよ、五感は生命体の防衛本能から進化してきたのだろう。だが、安全な社会では知覚神経も退化する。町の騒音が難聴にさせ、明るい夜が天の川を見る愉悦を奪う。味覚が衰えれば毒も平気で喉を通し、臭覚が衰えればガス漏れにも気づかない。贅沢な社会では、危険回避能力が確実に衰え、災いはすべて社会のせいにし、人類はますますモンスター化するのだろうか?テレビの登場以来、社会は視覚に訴える傾向が強く、大袈裟な映像に慣らされる。確かに分かりやすい!それだけに想像力は衰えるのかもしれない。
一方で、視覚を失った人は聴覚が研ぎ澄まされる。実際、メイの反響による空間認識能力と空間記憶能力は抜群で、移動のための杖と盲導犬という二つのツールを完璧に使いこなす。尚、目の不自由な人で両方を併用できる人は少ないらしい。人間の知覚神経を補う潜在能力には驚異的なものがある。どんな天才も、五感すべてを超人的に働かせることはできないだろう。なんでもできるということは、実は、なんにもできない、を意味するのかもしれん。

視力が回復したからといって、視覚認識として機能させることは難しいらしい。3歳に失明したというのが問題のようだ。この時期に視覚情報と空間認識を結びつける神経系が形成される。あらゆる知覚情報からニューロンネットワークが形成されるが、失ったニューロンを取り戻すのはほぼ不可能だという。この現象を「ニューロンの可塑性」と言うそうな。日本人の多くが、英語のLとRの発音を聞き分けられないのと似たような状況か。
ところで、五感以外に新たな認知能力が授かるとしたらどうだろうか?第六感にせよ、超能力にせよ、胸がときめくだろう。だが、それは本当に幸せであろうか?奇妙な予知能力を身につけたり、心を読める水晶玉を手に入れたがために、余計な欲望が働き悪魔になりはしないか?その認知能力が想像したものとまったく違っていたら、むしろ危険かもしれない。実際、レーシック手術で視力が回復しても、人生が滅茶苦茶になったと医師に怒鳴りこんでくる事例があると聞く。同情されなくなったとか、障害者制度が利用できなくなったとか。突然、視力が回復したからといって、普通に生活しろというのも無理がある。そして、ほとんどの場合、鬱病になり、健康を害し、早死にする。人間は鈍感だから生きていけるところがある。
メイの場合は、物心ついた時には失明しており、視覚というものがどんなものか想像もつかない。服のしみ、壁の傷、床の汚れなど見えなくていいものばかりが目につき、この世の不完全さを思い知らされることになる。
だとしても、理屈からして... 新たな知覚能力が得られて損をするはずがない。もともと、空間記憶力に優れ、整理整頓が得意で、脳内マップを作る能力は抜群なのだ。そこに、機能が不完全とはいえ視覚という補助機能が追加されただけのこと。不幸になる要素など何もないはず ...などと割り切れるのは、とことん哲学的に思考した結果であろうか。真の活動家とは、生命の危険とその恐怖までも呑み込んでしまうほどの人を言うのか。メイには、絶望を見た者にしか見えないものが見えるのかもしれん。
「私は『見る』ために手術を受けたわけではないのです。『見る』とはどういうことかを知るために、手術を受けたのです」

1. 見るメカニズムと幹細胞移植
ものを見るプロセスは角膜から始まる。眼球に入ってきた光が最初に通過するのが角膜で、黒目の部分を覆う厚さは0.5ミリほどの透明な膜。目に光を取り込み、光を屈折させるという重要な役割を果たす。だが、角膜が濁ると、車のフロントガラスがくもったような状態となる。
では、角膜の透明はどうやって保たれるのか?ワイパーがあるわけではない。そのメカニズムの出発点が、角膜上皮幹細胞という細胞だという。これは、受精卵を破壊することで倫理上の論争を巻き起こしている胚性幹細胞(ES細胞)とは違うものらしい。角膜の外縁部分にある幹細胞が、膨大な数の娘細胞と呼ばれるものを生み、その娘細胞が眼球の中央に移動して角膜を透明な保護膜で覆う。娘細胞の保護膜は、埃や傷、細菌や感染症に対する防御だけでなく、結膜の細胞や血管が角膜に入るのも防ぐ。保護膜が汚れても、娘細胞は数日ごとにはがれて落ち、新しい細胞と入れ替わる。ちょうど、レーシングドライバーの捨てバイザーのようなものか。
メイの手術は二回。最初にドナーの幹細胞を移植し、幹細胞が自己複製し、角膜の表面に健康な細胞をつくり出すのを待つ。その期間がおよそ4ヶ月。次に別のドナーの角膜を移植する。最初の手術で視力は生まれないが、二度目の手術で視力が戻るという。
60年代は、まだ角膜上皮幹細胞の存在が解明されていなかったという。角膜が濁ると、ドナーの透明な角膜を移植する手術を行なっていたが、たいていうまくいかない。失敗の原因は、患者の体がドナーの角膜に拒絶反応を示すと考えられていたという。幹細胞が消失するせいで、せっかく移植した角膜がまたも濁ってしまうなんて考えもしなかったわけか。1999年の時点で、角膜上皮幹細胞移植手術の経験を持つ医師は全米で15人から20人ほど、世界の事例でも400件に満たなかったという。

2. 術後のメイ
メイは、色や形を認識することができても、立体感覚が完全に麻痺している。遠近法がまったく機能せず、写真や絵の二次元画像から三次元空間への投射ができない。ツェルナー錯視やポッゲンドルフ錯視を起こさず、ネッカーの立方体から奥行きが認識できない。立体を認識できるのは、物体が回転して角度がずれた時。そういえば、人が完全に静止した状態から物を見るなんて状況はほとんどないだろう。首がちょっとでも動けば、見る角度は微妙に変わる。自然な状態は動画の方で、静止画というのは特異な現象なのかもしれない。相対論は、相対的静止を定義できても、絶対的な完全静止を定義できない。これは人間認識の本質であろう。
メイは、さっそく美女がよく通るという道に出て視覚機能を試す。だが、笑っているのか、怒っているのか、表情が読み取れないばかりか、男女の区別もつかない。せいぜい周りの男性諸君の反応で想像するぐらいなもの。分からない対象は、触りたくなる衝動に駆られる。だが、今まで女性の体に触っても、ごめんなさい!で済むところを、パシッと平手打ちをくらう。なるほど、わざとか。
髪型、服装、胸のふくらみ、という属性を辿って情報処理を試みるが、大量な情報を論理的思考のみで瞬時に処理するのは、かなりの重労働。目から入ってくる溢れんばかりの情報に頭は混乱し、会話の注意力も散漫となる。視力という新たな認識力を得たことで、既存の認識力が疎かになるとは。
しかし、得意なものもある。凹凸面が逆に見えたり、矢印のつけ方で棒の長さが違って見えるなど、目の錯覚に関する事例は枚挙がないが、メイはまったく騙されない。余計な認識が働かず、純粋に映像を解釈できるわけか。近代社会では、情報が洪水のように押し寄せ、しばしば思考を混乱させる。客観的な思考を維持することは至難の業だ。老化現象で、近くのものが見えなくなり、耳が遠くなるのも、認識能力の抽象レベルが高められたと言えなくもないか。
注目したいのは、顔のパーツを上下逆さにした写真を見せるテストだ。顔の輪郭はそのままで、目と口だけ上下逆さにすると、鬼瓦のような顔つきになって気持ち悪い。だが、メイには違いが分からない。さらに不思議なことに、その目と口を上下逆さにした写真を、写真ごと上下逆さに見ると、普通の人でも違和感は和らぐ。もともと人の顔を上下逆さに見る習慣がないので、変化に対して鈍感なのだそうな。ブスも逆さに見れば、違和感を感じないのかも。美人は三日で飽きる、ブスは三日で慣れる...というのは真理(心理)かもしれない。いや三日ってことはない。三年なら...

3. 子猫の実験は興味深い!
子供の初期段階の発達過程を調べるのに、二匹の子猫を使って、ほとんどの時間、完全な暗闇で育てる実験が紹介される。光のある場所で過ごすのは、毎日だが、ごく短い時間。子猫を、回転木馬のような装置に取りつけた箱の中に入れる。そして、片方には箱に穴を開け足が床に届くようにしておき、木馬を動かせるのは足が床に届く子猫の方だけ。二匹の子猫は同じ視覚的経験をすることになる。
しばらく実験を繰り返し自由の身にすると、視覚を利用して動き回ることができたのは、主体的に木馬を動かすことのできる子猫の方だけだったという。受動的に見える視覚だけでは、十分ではないということらしい。学習態度が能動的か受動的かでも効果は全く違うだろう。やはり最も効果があるのは独学であろうか。