2011-02-27

"ソシュール一般言語学講義 - コンスタンタンのノート" Ferdinand de Saussure 著

近代言語学の父と言われるフェルディナン・ド ソシュールは、構造主義に多大な影響を与えたとされる。彼は、人間の思考の根源的な媒体である記号の本質的なあり方を問うた。その影響は言語学にとどまらず、芸術論、情報科学など幅広い分野に与えたという。ソシュールの構想はあまりにも壮大で畏れ多いが、前記事の丸山圭三郎氏のおかげで、この大作を読む勇気が湧いた。
「一般言語学講義」は、小林英夫訳版もあるが、ここでは影浦峡 & 田中久美子訳版を選んでんみた。それは、翻訳者の二人が情報科学にも精通しているらしく、理系の人間にとって同じような視点から眺められると考えたからである。ちなみに、言語学は一般的には文系扱いされるが、情報伝達の観点からあらゆる学問において避けられないと考えている。...などという理由はこじつけで、実はこちらの方がずっと安い!

ソシュールは、1907年から1911年にかけてジュネーブ大学で三度の一般言語学の講義を行った。そして彼の死後、「一般言語学講義」が弟子たちのノートをもとに編集された。それは全17冊あって、本書はそのうちの10冊に相当するそうな。残されたノートにはセシュエやバイイといった高弟のものもあるが、エミール・コンスタンタンのものが格段に優れているらしい。本書は、単なるコンスタンタンのノートの翻訳版であるが、ソシュール自身が語った生きた言葉が残されていて、その思考がほぼ忠実に再現されているという。
まず、言語の歴史性や地域性、あるいはコミュニティといった言語学の多様性を語り、続いて言語機能の段になると、言葉の概念と脳内イメージとの結合、発話の仕組みなどを語り、ついに言語の本質の段になると、言語記号の概念とその恣意性、心的に構成される実体と単位、意味と価値の関係などを語ってくれる。なによりも本質的なことは、言語機能と精神の結びつきに対する多様な思索の試みが体感できることではなかろうか。音節や文節の区分、母音や子音の区別などの外的な現象を追いかけることは、無意味とは言わないまでも、言語学にとってあまり本質的なことではないように思われる。
ちなみに、日本語には「物事」という都合のよい言葉がある。形相を脳内で意識した時にはじめて言葉となりうる。語と概念と発音が要素として分離されている段階では、まだ「モノ」的な思考しか働いていない。だが、それらが結合した時に「コト」化する。つまり、「モノ」に働きかけて「コト」化した時に言葉に意味を与える。言語表記と精神の結びつきがあってはじめて言語となりうる。これが言語の本質といったところであろうか。言葉そのものに実体らしきものはないように思える。言語は記号と実体を結びつける表記法に過ぎないのだろう。だから、言葉によっていかようにも欺くことができ、仮想化を促進することもできる。言語能力とは、思考を具体化する能力と言おうか、あるいは言葉に実体を結びつけて言葉に力を与える能力と言おうか...
この書は、ソシュール自身によるソシュール入門書といった感がある。これでソシュールが理解できたとは到底思えないが、この書に出会えたことに感謝したい。

言葉の多様性は凄まじい。一人として同じ言葉を話す者はいない。それでもなんとなく意思疎通ができているから、人間社会とは不思議な世界である。いや、意思疎通ができていると信じているだけのことかもしれん。それは、地域的な空間的多様性と、経験的な時間的多様性の組み合わせによって生じる現象である。言語とは実に奇妙なもので、同一の言葉でも個人によって微妙に解釈が違う。客観性を帯びたはずの専門用語ですら、専門家たちによって微妙にニュアンスが違う。言葉は、時代とともに生き物のようにうごめき、像を微妙に変えていく。しかし、現代社会は知識優位性社会であり、辞典通りの知識をより多く蓄える者が賢いとされ、有識者などと呼ばれる。
人間が一般的に崇拝している客観とは、どこまで客観性なのか?主観性を完全に排除すれば思考の深さが失われる。もはや、真の客観性は数学の中にしか見当たらない。いや数学ですら不完全性に満ちている。言葉の最も重要な機能は伝達機能であって、その意味では真の客観性とは言い難いものの、多数決的な性質がある。言葉で真意を完璧に伝えることは難しい。外国語の翻訳では、完璧に単語をあてがうことは不可能であろう。結局、どのように解釈するかは受け手に委ねられる。それでも、ある程度の共通認識はある。そうでなければ、世界的に感動を与える音楽や詩が生まれることもない。言葉の音律と意味が見事に融合した時、そこに精神を動かす何かが生じる。
人間は生を受けた瞬間から、言葉に見舞われる。なんと騒がしいことか!生を受けた瞬間から、他人や社会との関係を認識せざるを得ない。なんと鬱陶しいことか!生まれながらにして騒がしさや鬱陶しさに感化されるから、孤独に対して特別な感情を抱くのか?異常に恐れたり憧れたりと...
あらゆる感覚は多数決に支配され、人間社会は自ら流布した世論に洗脳されるという自己循環に陥り、思考を正帰還で増幅させながら発散する。人間は、自らの精神を操る道具として言語を用いる。
しかし、精神を人間の発明した言語で完璧に表現できるとなれば、人間は精神の正体を解明したことになる。人類は、いまだ人間自身が何者なのかも分からないというのに。人間が思考を深めるという行為は、言語表現の限界領域で必死に言葉を探しているようなものなのだろう。精神の限界への挑戦とは、言語の限界への挑戦なのかもしれない。だが、言語を巧みに操れば操るほど、精神を欺き真理から遠ざかる可能性も否めない。したがって、人間は言語能力を獲得した瞬間から疎外に苛むことになろう。そして、酔っ払ってろれつが回らない状態こそ、精神は神聖な領域へと導かれるであろう。

1. 言語の多様性
言語の多様性には様々なレベルがある。各国語があるかと思えば、一つの国でも方言が入り混じる。世代間の言葉の変化もあれば、固有の集団でしか通じない合言葉のような現象まである。多様性はコミュニティの単位で存在し、言葉の縄張りを築きながら、ある種の自己存在論を主張しているかのようだ。そこには、人間の普遍性や一般性なるものが、ある程度存在するのだろう。
文明社会で共通しているのは、異なる話し方をすると話すことができないとみなすという誤った考えが働くという。知識がないと人間性が劣っていると言わんばかりに、仕事の能力で人間性を測るような思考が働くのも事実であろう。多くの民族や社会集団で、自分たちが操る言語が最も優れていると考えるだろうし、その意味では宗教的ですらある。自己存在優位性というのは誰でも夢見るもので、ここに差別の根源があるのかもしれない。絶対的な価値観が見いだせないならば、比較論に陥るしかない。それは、相対的な価値観しか見いだせない知的生命体の宿命であろうか。そして、同時に人間の多様性の原理でもあろうか。言語は、人間が意識した時にはじめて機能し、対比、対称、相対など、物事のあらゆる差異や同一性を認めた時に生じる。
本書は、印欧語族、アフロ・アジア語族、ウラル・アルタイ語族などの分類を紹介してくれるだけでも興味深いのだが、特に興味深い考察は、各国語の中間的な、あるいは過渡的な言語を発見することは難しいということである。方言には過渡的な言葉が入り混じり地域的な境界を見つけることはできないが、国語は比較的境界線がはっきりしている。フランスの文献学者ポール・メイエは、「方言の諸特徴は存在するが、方言は存在しない」と言ったそうな。方言の特徴の境界を辿ることはできても、方言が使われる地域の境界を辿ることはできないというわけか。こうした現象は地域だけではなく、時系列においても生じる。
ちなみに、日本では、島国で境界線がはっきりしているにもかかわらず、日本語自体の変化は凄まじい。明治の文献を読むと、嫌気がさすほど現代語に馴染まない。旧仮名遣い...旧漢字...大和言葉ともなればもう外国語だ。言語の変化は、社会の合理性に則っているのだろう。少なくとも法律が公用語でなければ国家として機能しにくい。一つの共同体における許容範囲内では、様々な多様性を見せるということか。言語は社会的産物というわけか。実はごく稀なケースとして、ベルギーのランブール地方にはドイツ語とオランダ語の過渡的な言語が残っているらしいが...
言語の相違を引き起こす原因は地理的な面が多いようだが、それは民族の移動性と関わりがありそうだ。では、現在のように移動手段が豊富となれば、言語圏の移動や言語そのものの変化は、ますます激しくなるだろう。ましてやネット社会で結ばれれば、わざわざ移動する必要もない。言語の境界が曖昧になれば、そのうち政治的境界も曖昧になるのかもしれない。ということは、政治屋の存在意義とはまったく余計な境界線をつくる連中ということか?未来社会では、民衆が政治システムを自由に選択でき、思想レベルで国籍が選べるような時代が来るのかもしれない。

2. 言語の本質と実体
言語を操るからこそ、あらゆる能力が実践でき、精神の高まりへと導くことができるのだろう。言語活動は、科学から心理学、個人から社会など様々な領域にまたがっており、統一性はどこにも見えない。
本書は、言語能力と言語を対比させながら、言語学を有機的組織として整理しようとする。そして、言語は概念と聴覚イメージが結合して成り立つとしている。
「聴覚イメージは物理的な音ではなく、心理的な音の刻印です。」
言語は目的や手段として作用し、言語能力によって脳内イメージと融合させる。それは受動性と能動性が連動する現象であり、もはや「言語シンボル」などでは表現できない領域にあるようだ。脳科学者が言語能力を左脳にあるとするのは生物学的普遍性であろうか。そして、慣習的合理性によって言語が変化してきたのは経験的能力でもある。言語は人間の普遍性と経験性が融合した結晶といったところであろうか。
「最初の原理あるいは最重要の事実: 言語記号は恣意的である。」
言語の要素を音節などで細かく区切れば、なんとなく単位なるものが見えてくる。しかし、それは言語上の単位ではないという。内的に結びつかないものを単位としても表面的な現象に惑わされるだけで、真の対象が見えなくなると指摘している。確かに、文字表記が言語の実体とは言い難い。言語の現象が内的なものだとすれば、その実体は極めて主体的で抽象的にならざるを得ないだろう。だが、実体を表すからには、何か物理的な要素が必要である。つまり、心的なものと結びつく前の状態のようなモノ。精神を実体で表現するという問題は、古代からある哲学上の問題であって、それを言語学が解決できるとは思えない。言葉の概念と聴覚イメージの結合のあるところに実体があるとしているようだが、心的領域にある実体を表現するには、これが限界であろうか。
実際に、文法に従って単語を羅列するだけでは精神的なものは現れない。だが、文豪たちの文章を冷静に眺めると、きちんとした文法に則っている。文法には内的に伝える経験的な規定があるが、文豪たちは文法を超越した何かまでも仕掛けてくる。それが心的結びつきというやつかは知らんが、実体として説明することは難しい。少なくとも、音や文節の区分などで説明できるものではなさそうだ。

3. 言語の構成と価値の原理
本書は、記号を構成する要素を、「シニフィアン(聴覚的なもの)」「シニフィエ(概念的なもの)」を結合して定式化する。そこには論理的な思考と心理的な思考の双方が介在するとしている。ちなみに、丸山圭三郎著「ソシュールの思想」では、前者は「意味するもの(表すもの)」(現在分詞)で、後者は「意味されるもの」(過去分詞)としていた。この二つの要素を明確に説明することは難しい。区別するというよりは、対称性から類似性と相補性のようなものとしているのだろう。けして分離できない精神単位のモナドを構成するようなもので、アリストテレス的な精神構造を思い浮かべてしまう。ここには、ソシュールが精神の内にあるものの実体を苦慮しながら言葉を選んだことがうかがえる。研究対象を精神とした時点から、それを実体として説明すること自体に無理があり、哲学の領域に踏み込むことになる。言語学とは哲学だったのか...などと発言すれば、あらゆる学問は哲学に帰するであろう。
更に、言語の心的な結びつきとして価値概念を適用している。意味や意義と価値は同義語にも見えるが、言葉の意味が言葉に価値を与え、力を与えるという関係もある。将棋は、駒に表記される文字の意味を価値に置き換えるゲームで、駒の能力という価値を奪い合いながら互いに優位に立とうとする。単純な道路標識は見事に法律を示す。ビジネス界では、人材の持つ意味から潜在能力という価値を最大限引き出そうとする。精神の介在する領域では、あらゆる表記の持つ意味を、価値に変化させようと企てる。これが、言語表記の原理というものであろうか。
言語システムから価値が導かれるのは、そこに精神が深く結びつくからであろう。したがって、最初にシニフィアンとシニフィエが結びつく枠組みがあるわけではなく、価値との結びつきや心的な結びつきの方がはるかに本質的なのかもしれない。

4. 言語学の二重性、共時態と通時態
言語学がとるべき合理的な形とは何か?価値のシステムでは、時間に沿った価値の原因性と、現在の価値の原因性を分けて分析するのが理論的必然性だという。ここでは経済学が経済史と区分する例と重ねているが、経済学はあまりにも歴史を無視するために奇妙な価値観を創出しているとしか思えん。まぁ言語学は歴史に囚われ過ぎるという傾向があるので、そのことを指摘しているのだろう。そもそも人間は現在という瞬間だけで価値観を構築できないのだから、あらゆる学問において歴史をスライスしてみることは必要であろう。
本書も、静的な事象が生まれるためには、様々な進化的、通時的な事象が必要だとし、静態言語学と歴史言語学の二重性を唱えている。しかし、通時的な要因を疎かにしているきらいがある。一般の言語学に含まれるものの多くは、静態言語学に含まれるとまで言っている。歴史をあまり重視していないあたりが、文学との違いであろうか。
確かに、簿価よりも時価の方がはるかに重要なんだけど...んー、らしくない。

2011-02-20

"ソシュールの思想" 丸山圭三郎 著

ずーっと前に、ソシュールの入門書らしき本を読んでモヤモヤしたまま。現代言語学の方向を決定付け、記号論の祖とされるこの人物の構想は、あまりにも壮大に映るので断念していた。
しかし、気になってしょうがない。言語は精神を写しだす鏡であり、ここをインターフェースにしなければ伝達能力を機能させることも難しい。あらゆる学問においても言語という手段は避けられないはず...という思いが頭のどこかにある。
そしてある日、本屋でぼんやり散歩していると、ソシュールについて熱く(厚く)語った書に出会えた。だからといってモヤモヤ感が解消されるわけではないが、考え方の方向性のようなものを見せてくれる。そろそろ「一般言語学講義」に挑んでみるか?もはや泥酔者の衝動は止まらない。

「ソシュールの学問において、広く浅い総花的知識と、深く狭い専門馬鹿的知識が対立することはない。」
学問を深く掘り下げると、広い視野が求められ、自然に道も拡がるということか。逆に言えば、広い視野が求められなければ、研究レベルが浅いということか。実に羨ましい見解である。
「一切の文化的営為や社会的諸制度の根底をなすものとして捉えたコトバの本質を探ることが目的とされるが故に、これはひとり言語学にとどまらずすべての文化現象を対象とする人間科学にほかならぬ。」
言語学をどの学問に分類するかは難しい。表現の方法論という観点から文学に関わり、民族の固有性から文化人類学にも関わる。コミュニティでは自分たちの操る言葉が最も優れていると思うだろうし、その意味では宗教的ですらある。ただ、伝達機能としての役割が大きいので、社会学に属すとするのが一般的であろうか。
この学問は、理系や技術系とあまり関係がないように思われがちだが、あらゆる学問において専門に特化した合理的な表記法が考案されている。数学で用いられる記号文化は、言語学の典型的な抽象概念の一つの実践例と言えよう。また、近年欠かせないコンピュータではプログラミング言語という観点から深い関わりを持っている。現実に文系出身のプログラマーは多い。
言語学は現実を直視する学問であり、純粋科学というよりは経験科学の領域にある。したがって、その分析方法では、公理から出発して定理を演繹するというよりは、現実から出発して帰納法的に定理らしきものを発見していことになろう。言語体系の原理を言語で示そうとするところに、自己矛盾に陥る可能性を匂わせる。そこには、プログラミング言語が、その言語自身の処理系を書けるほどの表現力を持つような、いわゆる自己ホスティングのような関係がある。
ところで、言語に対する根本的な考え方は、大きく二派に分かれるであろう。教説的で道徳を厳しく説く人は、国語辞典を聖書のように崇め、言語の変化を国語の乱れとして嘆く。一方、自由で芸術的な思考の強い人は、国語辞典の束縛を厄介に感じ、言語が生き物のように変化するのは自然だと考える。どちらも一理ある。法律の条文に様々な解釈がなされれば社会秩序は乱れるだろうし、だからといって言語の変化を認めなければ精神の解放を妨げるだろう。どちらを好むかといえば、泥酔者は自由精神的な後者である。だって道徳的抑制がきかないのだから...

言語の発達は、歴史的で慣習的で社会的な背景から育まれてきたと考えるのが一般的なように思われる。言葉の起源は、極めて自然的な発声から始まったに違いない。そして、言語学の分析論では、まず言葉を最小単位で区分し、カテゴリー化して言葉の構造を体系化していくといった方法を想像してしまう。
ところが、だ!ソシュールは歴史言語学を批判する立場にあるという。もっとも伝統的な経験主義や主知主義に偏った風潮に対する批判のようだが。まったく過去との結びつきがないというのではなく、現在との結びつきの方がはるかに強いというニュアンスであろうか。
また、言語を数学的な最小単位で区分できると考えるのは幻想だとしている。最小単位を合成して体系化されるのではなく、単位そのものが内面を持ち体系を形成しているという。言語の単位系では科学のような単純な元素構造はありえないということか。必ず精神と結びついて対をなすということか。
「言語を思考と表現の道具と見做す考え方は、言語を自らに外在する意味や概念を表現する外的標識として捉える主知主義に陥る危険性をはらんでいる。」
ここには、言語と精神の不分離性のようなものが語られていて、なんとなくモナドロジーにおけるモナド自体が体系を成すような、アリストテレス的な精神体系を思い浮かべてしまう。確かに、どんな言葉でも意味を持つであろうが、そこに自立性のようなものを感じることがある。言語が精神と深く結びつくとすれば、言語体系が精神体系に近い状態にあっても不思議ではないのだけど...
「コトバは観念の表現ではなく、観念の方がコトバの産物である。」
ソシュールの言う言語の体系化とは、精神の体系化という構想を見据えているのか?少なくともカテゴリー分析論で語れるほど単純な学問ではなさそうだ。

1. 恣意性の原理
最も重要な概念は、あらゆる場面に登場する「恣意性の原理」であろうか。言語学を科学すると宣言しながら「恣意性」が重要とは、なんとも奇妙な話である。ここでは「自然的必然性」に対して「文化的必然性」という言葉で説明している。
言葉は自然な発声から生じたとしても、集団社会の中で恣意的な規定によって発達してきた。言語は共通認識を育んできた。動物の鳴き声を表現するにしても民族によって多様性が生じ、そこに自然法則なるものがあるかは疑わしい。ちなみに、ここで言う「恣意性」とは、「自分勝手な、気ままな」という意味ではない。社会集団が実践的に用いる法則としての必然性であって、自然の中に見出す必然性ではないということだ。人間自体が自然的存在ではあるが、あえて区別しなければ精神を相手取る学問は成り立たないのかもしれない。
言葉の理解は人と人の間の契約であり、もやは言語は社会制度の一つとして機能している。その一方で、言葉を操ることによって新たな境地へと導き、自由な精神を解放してきた。「恣意性」は精神と言語の深い関連性を示す用語として用いられているが、これこそが言語学の本質なのかもしれない。

2. 言葉の意味と価値概念
言語研究のアプローチでは、「共時的研究」「通時的研究」の二つの方法を唱えている。それは、言葉の意味や意義は価値概念と深く結びつくとし、価値体系を扱う学問分野であれば必然だとしている。この学問のあり方を、比喩的に経済学が経済史と区分する状況と重ねている。しかし、経済学はそれを完全に分離したために、奇妙な価値概念を生み出しているように映る。というより、歴史をあまりにも疎かにしてきたからであろう。対して、言語学は歴史に囚われ過ぎる傾向があるのかもしれない。
ここで注目したいのは、言葉の意味や意義に価値概念を適用していることである。ソシュールの体系は、何よりもまず価値の体系だという。その価値は、言葉の相対的な意義によって決定される。経済学の価値概念では、資本や労働などを間接的に算出して、貨幣価値で測定する。言語学の価値概念では、精神の内にあるものを言葉で間接的に表現して言葉に価値を与えている。言葉を伝達手段とした場合、言葉の意義はそのまま情報の価値となり、情報量という意味合いを持つことになる。なんとなく情報理論にも通ずる。まさしく、精神の内にあるものと言葉の意義が結びついた時、言葉に力を与える。
実際に外国語を翻訳する時、単純に単語と単語を変換するだけでは、的確な意味は形成されない。全体像を眺めながら、恣意的な解釈をしながら、記号や語を体系の中で考察する必要がある。もっと言うならば、文化的背景までも考慮する必要がある。ソシュールは、言葉の意味と価値は同義語ではないという立場をとるという。
「価値は、概念の角度からみると、うたがいもなく意義の一要素であるが、後者は、前者に依存しておりながら、どうしてそれと区別がつくかを知ることは、すこぶるむずかしい。」
価値は意義に含まれながら、意義は価値に依存する?既に自己矛盾に陥っているような...「価値が見いだせるから意義がある」とも言えそうだが、ほとんど言葉遊びにも見える。言語の本質とは、言葉遊びなのかもしれない。

3. ランガージュとラング
「言葉」という表現は実に多義的である。それは多国語から詩に至るまで。だが、人間はそれを即座に直観的に分類して認識できる能力を持っている。
ソシュールは、人間のもつ普遍的な言語能力、抽象能力、分類能力、およびその諸活動を「ランガージュ」と呼び、個別共同体で用いられる多種多様な国語体を「ラング」と呼んで峻別したという。一般的には、ランガージュは「言語能力」、ラングは「言語」と訳されるようだが、そう単純でもなさそうだ。ラングには、時代とともに微妙に変化する性格があり、ランガージュには、精神の普遍性とラングの微妙な変化に追従できるような性格があるとでも言おうか。ランガージュは集団社会が存在してはじめて機能するもので、顕在的社会制度としてのラングが対比的に位置付けられる。つまり、ランガージュの潜在的能力に対して、ラングは社会的産物であり記号的制度ということのようだ。ランガージュは、人間のもつ生得的な潜在能力であって、一切の文化的営為を可能にするという。

4. ラングとパロール
ラングの顕在性は物質性ではないという。確かに、言葉は意味と結びついて精神の内に認識されるのであって、物理的実体とは言い難い。音声の組み合わせ、語と語の結びつき、語の持つ意味などには、一定の規則があり、ラングはその規則の総体として存在する。人の解釈は、言語を中心に思考が組み立てられ体験的に構築される。その意味で超個人的とも言えよう。となると、研究対象としてのラングと、個人の言語行為とを同一視するわけにもいくまい。
ソシュールは、能動的な個人的意思を「パロール」と呼び、受動的な社会的行動としての「ラング」と区別しているという。それは、社会的言語能力としてのランガージュを組織しながら、社会的コードであるラングで実践するといったところか。
フランスの言語学者マルティネは、「メッセージ」と「コード」の概念を用いているという。コンピュータプログラムを書く人には、こちらの用語の方が親しみやすいかもしれない。
情報が送り手から受け手に渡るためには互いに解読できる共通コードが必要であり、日本人にとっては日本語がラングということになる。更に、言葉に含まれる深い意図まで解釈しようとすれば、文化的な共通認識が必要となる。
ただ、ラングとパロールを社会的と個人的で区別したとしても、その境界は曖昧にならざらるをえないだろう。個人的な主観性が入りこまないと深い解釈は得られないし、社会的な客観性が共通認識になるとは限らず、ほとんど多数決的に処理される。よって、ラングとパロールは相互依存関係ということになりそうだ。
本書は、すべての言語上の革新は、パロールにおいてのみ可能になるという。パロールによって変革され、ラングによって規制されるといった関係か。あらゆる発展的現象の源泉は、個人の領域にあるというわけか。
ところで、ソシュールは、パロールの重要性を指摘しながら、「一般言語学講義」ではほとんど扱っていないという。また、「共時言語学」と「通時言語学」の双方の重要性を唱えながら、通時態を言語学の対象から外しているという。いずれも、らしくない。パロールは感情的でもあり衝動的でもあるので、科学的分析では避けたいのは分かるが。精神的なものと物理的なものの関係が、必ずしも潜在的なものと顕在的なものになるとは言えないだろう。こうしてみると、ランガージュとラング、ラングとパロールの境界も微妙だ。それは、主観と客観の境界を模索しているようなもので、古代から未解決のままの哲学の問題に踏み込むことになろう。

5. 記号理論とシーニュ
ソシュールの言語学で最も特徴づけられるのが、独創的な記号理論にあるという。「シーニュ」とは、言語の最小単位のようなもので、一般的には「記号」と訳されるようだ。その性質は、「表現(シニフィアン)」「意味(シニフィエ)」が一体化したもので、その不分離性を唱えている。
古来、哲学は言葉の定義から始める。すなわち事物の名称目録という考え方が根底にある。
ところが、ソシュールは伝統的な言語名称目録観を否定しているという。確かに、百の記号が百の意味を表しているわけではなく、複数の語から文章としての意味的体系が形成される。語と語には相互関連性や、一つの語が他の語の意味に取り囲まれて構成されたり、一つの総体として成り立っている。言葉は明確に区分されたり、分類されているわけでもない。
ということは、概念があって言葉が結びつくのか?言葉があって概念が生まれるのか?あるいはその両方なのか?知識至上主義に陥れば、あらゆる知識に言葉が結びつくと考えるだろう。だが、言葉が生まれて、初めて概念に結びつく場合もある。現実に、高度化した仮想化社会では、専門家ですらまともに説明できない新語が続々と生まれ、後から概念が結びつくという現象がある。しかも、誰もがなんとなく分かった気になって流行語を追い、意思疎通ができていると思い込んでいる。人間社会とは、実に不思議な世界だ。
自明な名詞に、動詞や形容詞や副詞などが取り巻いて、総合的に意味や概念を形成する。名詞と名詞が結びつくだけでも、別の意味や概念を形成する。そこに、客観的で普遍的な物理現象のようなものがあるとも言えない。しかし、社会で共通認識が生じるということは、なんらかの概念化や構造化があるはず。少なくとも、同一言語を操るコミュニティごとに一つの世界観を形成しているだろう。そして、合言葉や暗号のように仲間内でしか理解できない語を用いて、自己の存在を確認していることだろう。
言葉は、認識の後にくるのか?認識の前にくるのか?あるいは同時に起こるのか?ソシュールの考えでは、「主体の言語意識に純粋な観念なるものは存在しない」という。ここには、言語の創造性の原理と人間の本質的自由をめぐる考察がありそうだ。シーニュをうまく理解できれば、普遍文法などと言うものを追いかけることが馬鹿馬鹿しく思えるのかもしれない。

6. シニフィアンとシニフィエ
「言語記号は、表現と意味を同時に備えた二重の存在である。」
二重とは、「シニフィアン」「シニフィエ」である。前者は「意味するもの(表すもの)」(現在分詞)で、後者は「意味されるもの」(過去分詞)としている。この似通った言葉を使ったことで、相互依存性を強調したかったようだ。シニフィアンは物理音でもなければ既成の意味の鋳型でもなく、シニフィエはその鋳型に流し込まれる中身ではないという。ちなみに、シニフィアンを単純な物理音や表記とする誤謬があると指摘している。
更に、シニフィアンとシニフィエのそれぞれに「形相」「実質」の性質があるとしている。言語としてのシーニュが誕生する時は、相対的に差異を認識するような主体の活動が、歴史的に慣習的に容認する恣意性の原理によって、シニフィアンとシニフィエの合体したものが形成されるという。そして、シニフィアンとシニフィエの不分離性を唱え、その双方には実体がないとしている。シーニュは、シニフィアンとシニフィエから構成されるというより、シーニュは同時にシニフィアンでありシニフィエであると言った方がいいのかもしれない。そして、シーニュが基本単位ということになろうか。シニフィアンとシニフィエは魂と肉体のような関係であろうか。

7. 形相と実質
「形相(フォルム)」は形式と混同されがちだが、「実質(シュブスタンス)」の対立概念であるという。他の語との関連から、共存や緊張関係とはまったく関わりのない実体であれば、その語だけで定義することができるだろう。しかし、ソシュールは、無関係に存在することはありえないという立場をとる。ここでは、表現と意味が対比されるように、形相と実質もまた対比される。シニフィエに意味的優位性を抱いているわけでもなければ、シニフィアンに物質的幻想を抱いているわけでもない。双方に形相と実質がともない、いずれも相対的な価値のうちに存在するとしている。言語記号は、形相と実質という異なった側面の間で精神が樹立する連合のようなものというわけか。
例えば、「イヌ」と「イス」、あるいは「犬」と「大」は、まったく違った意味で認識できるのはなぜか?この差異の問題は、言語の本質に関わるという。人間は、物事を形相と実質の両面から、同一性と差異を認識している。その現象は、どちらも心的であり主体の中にある。この認識概念を「聴覚映像」という言葉を使って説明している。「聴覚映像」は物質音ではなく、心的な音のイメージとでも言おうか。同時に文字や記号の形から、視覚映像のようなものを思い描くだろう。形相の視点は、言語主体において実質の差異との対立として意識されるという。それは、言葉は相対的な価値において存在するのであって、そこに実質的な価値はないということであろうか。
貨幣は、材料によって価値が決定されるのではなく、社会的認識によって価値が与えられる。言語も同様に、音声的実質ではなく、心的に結びついた価値で認識されるといった感じであろうか。厳密にはシーニュが存在するのではなく、シーニュの間に差異があるだけ、すなわち「言語には差異しかない」ということのようだ。それは、言語は人間の認識の産物に過ぎないと言っているのか?

8. 外示性と共示性
外示性と共示性の関係で分かりやすい例を紹介してくれる。刺されそうな例題ではあるが...
アメリカの意味論者ハヤカワは、ドイツのナチス全盛時代によく口にされた「ユダヤ人はユダヤ人さ」という文章で内包的意味、つまりは、共示を説明したという。「ユダヤ人」という言葉が二度使われ同じ意味で用いるのであれば、これほどつまらない文章はない。「AはAである」と述べているに過ぎないのだから。
しかし、一つ目は「ユダヤ民族に所属する国民」という外示という意味で使い。二つ目は「けちで、ずるく、不正直な人間」という共示の意味で使っていた。つまり、「AはBである」と述べいてる。この文章は、共通の価値観が介在しないと成立しない。これこそ恣意性の原理であろうか。

2011-02-13

"文章読本" 谷崎潤一郎 著

日本文学に「文章読本」という系譜があるのを知ったのは、十年ぐらい前であろうか。
明治から大正デモクラシーに渡って、富国強兵の下で欧米文化が急速に流入し、日本語の口語体までもが欧文かぶれしていったと聞く。小説家たちは文章の乱れに危機感を募らせ、この時代に集中して一つの系譜を築き上げた。そこには、谷崎潤一郎、菊池寛、川端康成、三島由紀夫、丸谷才一などの錚々たる名が連なる。まず、自ら小説を書くことはありえないので、読者の視点に立つと言われる「三島版」を手に取った。次に、正統派と言われる「丸谷版」を手に取ると、「谷崎版」が格段に力を持った傑作であると絶賛していた。こうして本書に辿り着いたのであった。
ところで、おいらは義務教育の時代に文章のセンスがまったくないことを徹底的に叩き込まれた。したがって、文章を書くことに無神経で、精神を解放する手段ぐらいにしか考えていない。そんな文章オンチでも、ちょっとはうまく書きたいと思うものだ。そして、つい題目に釣られてしまい、自分の文章が悪文の典型と説教されて自己嫌悪に陥るわけさ。無駄な言葉が多い!などと指摘されると頭が痛いが、美味い酒をやりながら気持ちよく相殺されるという寸法よ。前戯の大好きなアル中ハイマーに改める能力があろうはずもない。ちなみに、達人でさえも書き過ぎてしまう傾向があるそうな。なーんだ、酔っ払いのお喋りメカニズムと同じではないか。

本書は、文章の要素を、用語、調子、文体、体裁、品格、含蓄の六つに種別している。ただし、厳格な分け方ではないという。言語学的にいえば、文章体、口語体、和文体といった文体で分類するのだろうが、ここでは感覚を重視している。また、それぞれの要素は互いに密接に拘わるため、完全に切り離して論じることは不可能だという。六つの要素を、並列的、立体的に思考するのであろう。中でも、含蓄を強調し「饒舌を慎むこと」としている。
「この読本は始めから終わりまで、ほとんど含蓄の一事を説いているのだと申してもよいのであります。」
小説では、精神を露出することを主眼にするであろう。だが、どんなに巧みに表現しても必ず論理的な隙ができる。厳密に表現すれば、言葉も多くなり、芸術性が失われ、せっかくの文章が色褪せる。どんなに誘導しようと企てたところで、読者の解釈に委ねるしかない。精神を表わすには、思わせ振りの方が合理的なのかもしれない。
本書は、文章道で大切なのは理屈ではなく実践であると励ましてくれる。なるべく多くを読み、多くを書き、感覚を研くことだと。これはプログラムを書く心得にも通ずるものがある。プログラミング言語に馴染もうと思えば、優秀なプログラマのコードを読み、まず真似てみることであろう。昔はメモリ使用量という合理性があったが、今では分かりやすさという合理性の方が強調される。
ところで、心に思うことを他人に伝えようとすれば、いろんな方法がある。原始的な身振りや手真似から、溜息や咳き込んだりと。それでも、明瞭に伝えようとすれば言語であろうか。だが、言語は万能ではない。言葉をくどくどと費やすよりも、泣いたり笑ったりする方が説得力があり、沈黙ですら何かを語る。言語は、物事を論理立てて説明するには威力を発揮するが、精神を説明するとなると意外と不自由なものである。精神の奥底にある芸術性や美的感覚を表すには、言葉の達人でもなければできない。酔っ払いが語れば、言葉足らずで誤解を招き、言葉多くて不快にさせる。
ちなみに、独り言にも様々な癖がある。鏡に話し掛けるのも奇妙な癖であろうが、バーに若い女性が一人でやってきて、氷を指で回しながらグラスに話し掛ける姿には感動するぜ。

1. 話術と文章術
文章は、「話すとおりに書く」という意見をよく耳にする。だが、話す言葉と文章の言葉とでは感じ方が違う。話す言葉には、目や顔の表情、身振りなどが加わり、与えられる情報量が多い。対して、文章の言葉は、付加的情報がない分、読者の想像力で補うことになる。どちらが、結果的に情報量が多くなるかは、受け止める側の感覚に委ねられる。
「口で話す方は、その場で感動させることを主眼としますが、文章の方はなるたけその感銘が長く記憶されるように書きます。」
話術と文章術は別の才能に属すという。必ずしも話し上手が文章上手とはならないと。文章の上達法では、「文法に囚われないこと」「感覚を研くこと」が重要だという。
また、言葉を重ねるほど効果がなく、かえって不明瞭になると指摘している。
「口語体の大いになる欠点は、表現法の自由に釣られて長たらしくなり、放漫に陥り易いこと」
まさしくアル中ハイマーはこの呪縛に嵌る。ただ、同じ言葉を繰り返すことが必ずしも無駄とはならない。違った表現を使って同じ意味を繰り返すことも無駄とは限らない。こうした方法で感情を効果的に揺さぶることができれば技となる。凡人が書くと無駄な言葉も、達人が書くと必要な言葉に変身するから摩訶不思議!

2. 実用的と芸術的
文章には、実用的と芸術的の区別はないという。自分の心にあることを出来るだけ素直に表現すること、余計な飾り気を除いて必要な言葉だけで書くことが大切だという。なるほど!
ただ、最も実用的な文章が優れた文章になり、そこに芸術性が顕れるとも言っているが、これはにわかに信じ難い。詩や歌、あるいは綺麗な文字を連ねたり、語調の良い文章が必ずしも実用に近いとは思えない。しかし、ゲーテの韻文のように語調が整っていれば精神に入り込みやすいのも事実だ。ゲーテの言葉がよく引用されるのは、芸術的でありながら実用的というわけか。なるほど、精神の領域で、最も素朴なところに芸術性が現れると解釈すれば納得できる。言葉を操れる境地とは、精神との一体化ということであろうか。達人たちは、キーとなる言葉を掌握するための論理的思考に優れ、考えを構造的に眺めることが得意なのだろう。少なくとも、多くの言葉を知らなければできない芸当ある。
古き時代では、芸術性を意識しながら、わざと実用から遠ざかる言葉を使っていたようだが、口語体が発達した時代では、凝った文章よりも実用的な文章の方が説得力を感じることがある。ましてや、新語や造語、おまけに外来語までも入り乱れる時代だ。本書は、現代の世相はますます複雑となり、分かるように、理解させるように書くことで精一杯であると語る。
「分からせるように書く秘訣は、言葉や文字で表現できることと出来ないこととの限界を知り、その限界内に止まること」

3. 音楽的効果と視覚的効果
文字の体裁では、字面(じづら)という要素が重要だという。形象文字の威力は独特の視覚的美感を与え、欧米語には真似できないところだろう。達人たちは、漢字や仮名を巧みに混ぜながら、視覚的効果で仕掛けてくる。現在では、フォントや強調太字など多彩なレタリングで、重要事項を視覚的に表現することは容易い。本書は、現代の口語文で最も欠けているのは、「音調の美」であると指摘している。読書では黙読するのが常で、朗読する習慣がなくなったからだという。
「文章道において、最も人に教え難いもの、その人の天性に依るところの多いものは、調子であろう」
文章は、目で理解するばかりではなく、耳で理解するとこもあるので、文章を綴る時は朗読してみるのが良いという。音調から頭に入りにくい悪文が検証できるからである。とはいえ、文章の間合いやアクセントの付け方は読者によって様々で、作者がリズムを意図したところで違った調子で読まれる。
そこで、「音調効果を誘導する方法」を紹介してくれる。様々な読み方がある場合は単純にルビを振ればいいが、多用し過ぎると理智的効果を損なうと指摘している。技法としては、わざと漢字の宛て字を使うと視覚効果が得られるという。例えば、「威嚇す(オドス)、強要る(ユスル)」といった具合に。特に、森鴎外の漢字の宛て方は優れていて、言葉の由来に遡って語源の上から正しい文字を宛てるという。博学でなければできない芸当だ。一方、わざと理解に苦しむ宛て字を使うのが夏目漱石だそうな。例えば、「ゾンザイ」を「存在」と宛てたり、「ヤカマシイ」を「矢釜しい」などと書き、おまけにルビも振らない。無頓着で出鱈目にも見えるが、これが内容にしっくり嵌り俳味と禅味を補うという。もはや論理を超越している。
また、「送り仮名の効果」を紹介してくれる。例えば、「酷い」を「酷ごい」と書くことで、「ヒドイ」ではなく「ムゴイ」と読ませる。「泡を食って」を「泡を食らって」と書くことで、「アワヲクッテ」ではなく「アワヲクラッテ」と読ませる。なるほど、国語辞典に囚われては、できない発想だ。
「日本の文章は読み方がまちまちになることをいかにしても防ぎ切れない」
ところで、いつも悩まされるのが、句読点の付け方である。本書には句読点がほとんど使われない例も紹介されるが、こういう感覚は宇宙人だ。
「句読点と云うものも宛て字や仮名使いと同じく、到底合理的には扱い切れないのであります。」
文章のテンポも重要であろう。達人たちは、わざと思考を立ち止まらせるために、テンポを変えたり、読み辛い調子を交えたりする。音調に限らず文字の形によって変化を加えることもある。作家たちの想像力には脱帽するしかない。とはいっても、すべての読者がその効果を感じられるわけではあるまい。それでも彼らはこだわりを見せる。これぞプロ意識というものか!

4. 語彙の少ない日本語の特色
「われわれの国語には一つの見逃すことの出来ない特色があります。それは何かと申しますと、日本語は言葉の数が少く、語彙が貧弱であると云う欠点を有するにも拘らず、己れを卑下し、人を敬う云い方だけは、実に驚くほど種類が豊富でありまして、どこの国の国語に比べましても、遥かに複雑な発達を遂げております。」
日本語の語彙が乏しいかどうかは分からないが、それは文化的に劣っているのではなく、お喋りでない国民性にあると指摘している。外交交渉が苦手なのもそのせいだと。単一民族というのもあろうが、「以心伝心」、「肝胆相照らす」という伝統がある。現代ではそうでもないが、寡黙を美徳とし、能弁家を蔑むところがある。内気の性格や控えめで謙遜することは、日本では美徳であっても、西洋では卑怯や因循になるという。言葉足らずが執着心がない、短気で簡単に見切りをつけるという印象を与えるのだろうか。日本人は論理的に論じるのが苦手だとよく指摘される。
語彙が少ないと曖昧になりがちだが、その分、漢語や西欧語を容易に取り入れるだけの柔軟性を備えている。とはいえ、政治では奇妙な現象を見る。日本語には「公約」という立派な言葉があるにもかかわらず、「マニフェスト」などと舌のまわりにくい言葉を持ち出す。約束事として説得力がない単語というわけか。そして新語を必要とし、更に政治屋の説得力を失うわけか。高齢化社会で老人を新語で欺瞞しようというわけか。
日本語は和漢混交で発達し、明治時代から西欧語と融合しながら発達してきた。現代人が古典を読むには、同じ日本語でありながら翻訳を必要とするが、こうした現象は西欧ではあまり見られないそうな。日本語は外国語に比べて、流行語の移り変りが激しいらしい。
ところで、翻訳のために、原作の精神を貫き、リズム感のある作品に仕立て上げることもあるという。「源氏物語」は日本人にも分かりにくいと聞く。名文と評する作家も多いが、森鴎外は名文とは言い難いと評したという。しかし、アーサー・ウエーレーの英訳は、原作よりも精密で名訳と評されるらしい。
日本語と西欧語には性格的に相容れぬところがあって、西欧では意味を細かく明瞭に書く傾向がある。ただ、明確に分かりやすく書くということは、想像の余地を奪うことにもなろう。科学、哲学、法律などは誤解を招かないように書く分野で、西欧語の方が向いているのかもしれない。日本語は主語を省略することが多く、時制も適当だが、その点、西欧語はしつこい。ちなみに、特許の文章は主語がしつこい。むかーし、特許の締切に追われると、しばらくその調子から離れられなくなり、会話がぎこちなくなったりしたものだ。
「語彙が貧弱で構造が不完全な国語には、一方においてその欠陥を補うに足る充分な長所があることを知り、それを生かすようにしなければなりません。」

2011-02-06

"なぜ古典を読むのか" Italo Calvino 著

オライリー君の「ビューティフルアーキテクチャ」に、興味深い古典の意義が紹介されていた。その元ネタが本書である。ただ、絶版中なので図書館をあさってみた。この世には、絶版となってそのまま埋もれてしまった名著と呼べるほどの古典が数多くあろう。それが、なんとも惜しい!電子書籍の話題で盛り上がる昨今、古典パワーこそ見せつけてほしいものである。

「古典とは、ふつう、人がそれについて、『いま、読み返しているのですが』とはいっても、『いま、読んでいるところです』とはあまりいわない本である。
古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。
しかし、これをよりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資産だ。古典とは、忘れられないものとしてはっきり記憶に残るときも、記憶の襞のなかで、集団に属する無意識、あるいは個人の無意識などという擬態をよそおって潜んでいるときも、これを読むものにとくべつな影響をおよぼす書物をいう。」
古典に新鮮さが感じられるのは、酔っ払いの幸せというものであろう。ただ、そのほとんどが直接的に読む機会に恵まれるのではなく、間接的にそれについて語られたものを読んでいる。おまけに、語学力がないので原書に触れることもできず、翻訳者の主観に身を委ねるしかない。そんな制約があっても、古典と呼ばれるものを読む意義は大きい。ベストセラーやロングセラーでさえ、古典の影響を受けているものばかりなのだから。古典に触れる機会が増えれば、現在の書物が系譜のどのあたりに位置付けられるか、イメージできるようになるだろう。

あらゆるものの出会いには、時宜というものがある。たとえ本は昔のままでも、読む側は確実に変化している。歴史の遠近法が変われば、本自体も相対的に変化しているとも言えるのだが...
若き日の読書は、忍耐を欠き、読み方も分からないものだ。重要な事象に出会っても、それを受け入れるだけの心の準備ができていなければ、目の前を通り過ぎる。ならば、昔読んだ本を読み返してみれば、新たな発見があるかもしれない。体験して初めて、その本の偉大さを感じることもある。歳を重ねたからといって、実りあるものにするのは難しいのだけど...
本書は、学校教育が本文が言わんとしていることを覆い隠し、むしろ反対を教える場合があると指摘している。人生経験が少なければ、教える者の主観に影響され、奇妙なイメージを押し付けられることもあろう。作品の評価は、批判的言説という形で伝えられ、評判によって形成されることも多い。だが、実際に読んでみると、そのイメージが壊れることはよくある。
「時事問題の騒音をBGMにしてしまうのが古典である。同時に、このBGMの喧噪はあくまでも必要なのだ。」
情報化社会では、多くの雑音が氾濫し、情報を集める能力よりも情報を捨てる能力が求められる。古典には、雑音フィルタの役割があるというわけか。ただし、古典を崇めて、期待し過ぎるのも危険である。
「私たちが古典を読むのは、それがなにかに役立つからではない、ということ。私たちが古典を読まなければならない理由は、ただひとつしかない。それは読まないより、読んだほうがいいから、だ。」

本書には、「なぜ古典を読むのか」の他にイタロ・カルヴィーノのエッセイ30篇が収録される。そして、これらの評論が古典の手引きにもなっている。ちょいと読んでみたいところをメモっておこう。

1. オウィディウス著「変身譚」
「変身譚は速さの詩だ。すべてが急テンポのリズムで進行して、読み手の空想力を圧倒し、ひとつのイメージが他のイメージに重ねられたり、ふいにきわだつかと思えば、かき消える。まるで映画の原理そのものだ。」
オウィディウスの詩のテーマには、あらゆる事物における対称性の原理が隠されているという。それは、動物界、植物界、鉱物界、あるいは肉体的、心理的、倫理的な集合体といった世界で見られるそうな。宇宙空間には、様々な特性や形態が閉じ込められている。この不規則極まりない複雑系において無理やり規則性を見出すとすれば、対称性であろうか。仮想と現実、絶対と相対、衝突と均衡、自由と平等、主観と客観、そしてDNAの二重螺旋構造...あらゆるものが表裏一体となって存在する。「変身譚」が詩である所以は、互いに異なった二つの性質の境界がぼやけているところにあるという。

2. アリオスト著「狂乱のオルランド」
この長詩は、書きはじめては迷い、終わろうとしては迷うかのような作品だそうな。それは、マッテオ・マリア・ボイアルドの著作「恋するオルランド」の続編のつもりで書いて、拡張し続けたせいだという。一つのエピソードを派生させては、その対称を編み出して構想を膨らませ、様々な事件を絡ませながら分裂を繰り返す。アリオストの詩の構想には、わざと結論から距離を保とうとするところがあらしい。これだけ独創的でありながら続編と称すのはないだろうと皮肉っているが、英国紳士的な控えめな表現ということらしい。
あらすじは...アンジェリカの恋に破れた不運なオルランドが、恐ろしいほどの錯乱状態に陥る。そして、彼を誇りにするキリスト教軍がフランスを失いそうになったのを目前にして、失いかけた分別を騎士アストルフォが月で見つけ、それを肉体に取り戻すという物語と...
サラセン軍の勇将ルッジェーロとキリスト教徒の女戦士ブラダマンテの運命付けられた恋がなかなか成就しない恋物語...
似つかわしくない二つの物語が同時進行するという、なんとも酔っ払いそうな作品のようだ。

3. シラノ・ド・ベルジュラック著「月と国家と帝国の愉快な物語」
シラノはSF小説の先駆者だという。彼の宇宙観は、無機物と有機物を区別せず、あらゆる物体の単一性を主張し、違いがあるのは密度の高低さだけ。乱雑で偶然に混ぜられた物質が構成されて人間が形成されるには、岩や花や彗星など、あらゆる物体の多様な形態が試みられた結果であるとしている。
月には楽園があるとし、エデンを追われたシラノはいくつかの月の都市を訪れる。ある都市では、可動で季節ごとに向きを変えられるように、家には車がついている。別のある都市では、地面に固定されて動かないので、冬の悪天候から守るために地上に潜ることができる。そして、地球に精通した案内人が登場し、この人物こそプルタルコスが言及した「ソクラテスの精霊(デーモン)」だという。
シラノは、自由奔放に夢想する自由思想家で、彼の月世界旅行は「ガリヴァー旅行記」を先取りしていると評している。

4. ダニエル・ディフォー著「ロビンソン・クルーソー」
難破船から一人だけ岸にうちあげられ、アメリカ大陸沿岸の無人島で28年間、孤独の人生を送った水夫の冒険物語。当初、難破した水夫の実話回想録として、著者の名は故意に伏せられたという。この作品には、商人が守るべき徳性が示されるという。規律を重んじる商人の詳述では、商取引の厳格さがある。幼い頃に絵本で読んだような気がするが、おそらく説教じみたものが語られ、児童教育にも用いやすいのだろう。
マルクスの「資本論」には、経済学者がロビンソン物語を好むことを揶揄している箇所があると聞く。アダム・スミス的な「経済人」を理解する方法として、この作品を薦める識者もいる。ディフォーは、産業革命で発達した資本主義を先取りしていたのかもしれない。ここに見られる冒険と実務的精神、あるいは倫理的悔恨の奇妙な混ざり合いが、後のアングロサクソン的資本主義の基本を形成することになると評している。

5. ヴォルテール著「カンディード」
この作品の魅力は、風刺とか倫理や世界観の提示などではなく、ひたすらリズムだという。スピードと軽妙さをもって、不運や責苦や殺戮が次々と駆け抜け、読者に陽気なバイタリティーを与えるのだそうな。虐殺と侵略がある一方で、すぐに救い出されるかと思えば、宗教裁判で火刑に処せられるなど、その場面の移り変わりは凄まじいものがあり、大惨事を続発させながら、コミック風に観客を笑わせる効果を発明したという。これでもか!という連続性と速度、これがブラックユーモアの原理、あるいは毒舌の原理というものかもしれない。
また、善悪を形而上学的に説明しても無駄なことで、善悪は主観的なものであり、これを定義することも計測することも不可能としている。つまり、人生観を楽観主義で語ろうが悲観主義で語ろうが無駄なことだということか?ここには、ライプニッツ哲学への批判もあるらしい。
「人間は、もはや個人と超越的な善悪との関係によって測られるべきではなく、大小にかかわらず個人にできることによって測られるべきだという思想。そこにこそ、厳密に資本主義的な意味での「生産性尊重主義的」な労働の倫理の源泉があり、また、それがなくては解決不可能な総合的な問題など存在しない、実務的で責任の所在を意識する義務についての倫理が生まれる。今日、人間にとっての真の選択は、つまり、ここに端を発しているのだ。」

6. ドニ・ディドロ著「運命論者ジャックとその主人」
ディドロは自分の事を語る物語から、読者とのせめぎ合いを起こさせるという。受け身がちな読者に問題提起するだけでなく、批判精神を眠らせない。そして、話が要にさしかかると、しばしば読者に可能な選択肢を与えるように弄ぶ。おまけに、小説らしい結論を没にして、読者をがっかりさせるそうな。
ヴォルテールがライプニッツを批判するのに対して、ディドロはどちらかというとライプニッツに味方するらしい。それ以上に、幾何学的に不可避な単一の世界の客観的合理性を唱えたスピノザに味方するという。ライプニッツにとって、この宇宙が多くの可能な世界の一つであるならば、ディドロにとって、人間の素行の善悪を問わず、その瞬間どのように行動できるかが価値を決めるという。自由意志による選択は、必然性をともなう時に効果を絶大にする。宇宙論的な神を持ち出せば、流れに逆らった自由意志の選択は、ことごとく打ちのめされることになろう。しかし、流れに逆らっているかどうかなどは、やってみないと分からない。そこに人間の虚しい運命性がある。

7. スタンダール著「パルムの僧院」
本名マリ=アンリ・ベイル。この作品を「戦争文学がはじめて用いた本物の屍体」と評している。ナポレオン占領下のミラノや、ワーテルローの戦場に参加するなど、著者の経験が主人公と重なるところ多いという。腕を硬直させたおびただしい死体の描写は、戦争とはどういうものかを教えてくれるのだそうな。
ナポレオンの栄光に目がくらんだ主人公ファブリスは、政治的陰謀の渦巻く中で、ファルネーゼ要塞の塔に幽閉される。彼は自分以外の人間を愛せない。だが、獄長の娘で天使のような思慮深いクレリアに命がけの恋をする。その結末がどうなるかは知らんが、軍隊の制服を脱いだ時、ついに聖職者になる誓いをたてるという物語。また、ローマの血なまぐさい陰謀と政治スキャンダルの歴史が描写されるらしい。
オノレ・ド・バルザックは、この小説を「新しいマキャヴェッリの君主論」と定義したという。

8. チャールズ・ディケンズ著「我らが共通の友」
小説の冒頭には、テムズ河のドス黒い描写が表れるという。それは死体探しのボート。テムズ河には、毎日にように残骸や死体が捨てられる光景があったという。死体収集家は、自殺者や殺害で放り込まれた人体を探し、死体運びのボートが読者を裏の世界に誘なう。
ところが、第二章では、一転して風俗と性格をめぐる喜劇が繰り広げられるという。晩餐会で、出席者同士がほとんど知らないのに、互いに知己ぶっている。そこに、水死体の話題が出て、冒頭との奇妙なつながりを見せる。名声欲に憑かれる様子は、貴族社会への風刺か?描写される友情が、本物か虚偽か、歪曲されたものかなど、友情のテーマが隅々にまで行き渡っているという。題名からは想像もつかない展開のようだ。それは、友情精神の裏を暴き出すという意味であろうか?
イギリスの作家チェスタートンは、この表題は言語学的には不適切と指摘しながら、まさにそのためにこの表題が好きだと述べたという。ちなみに、ディケンズの偉大さを世に知らしめたのがチェスタートンだそうな。

9. ギュスタヴ・フロベール著「三つの物語」
「聖ジュリアン伝」、「ヘロディア」、「純なこころ」の三作品。特に「純なこころ」と「聖ジュリアン伝」は絶品だそうな。
「純なこころ」は、すべて目に見えるものでつくられた話だという。簡素で軽やかな文章の中で絶えず何かが起こり、哀れな女中フェリシテの目を通して語られる。
「人生の悪も善も享受する自然な高貴さと純粋さを表現するための、ただひとつの手段は、物語の透明な文章なのである。」
「聖ジュリアン伝」は、残酷と憐憫の境界をさまよい、やがて動物の世界におびきよせられるという。猟をするジュリアンは血の好む天性の性格に導かれ、獣の目を通して光景が描かれるという。
「フェリシテの目、フクロウの目、フロベールの目。表面的にはあれほど自分のなかに閉じこもっているかに見える作家の真のテーマが、他者のなかに自分自身を確認することであったことに、私たちは気づく。...たぶん、「三つの物語」は、あらゆる宗教の外で達成されたもっとも非凡なたましいの道程を証明するものではないだろうか。」

10. レフ・トルストイ著「ふたりの軽騎兵」
トルストイの物語の構築方法を理解することは、あらゆる枠組みや構成などを隠しているから難しい。それでも、初期の作品「ふたりの軽騎兵」は、彼の仕事ぶりが比較的分かりやすいという。
主人公は、生命力さえあれば人々に好かれ、人々を支配できるように作られている。なにかと決闘をしたがる軽騎兵将校トゥルビン伯爵は、いかさま師、公金横領、たかり、放蕩者であるにもかかわらず、寛大さのおかげであらゆる軋轢が遊びとなり、祝祭に変える性格を持つ。伯爵は、暴力と軽さを合わせ持つ人物で、決闘で命を落とす。ロシアの貴族階級を蛮族とでも言いたそうな...
物語の後半は、息子が代わって軽騎兵将校となり、父の姿とは裏返しの様子が描かれるという。トゥルビン二世は、文明的で父の無作法を恥に思い、それを埋め合わせるかのように従僕たちと信頼を築く。だが、従僕の欠点をあげつらい、苛酷な点では父と同じ。おまけに、ケチ臭く、ルーズで不器用、横暴ながら寛大だった父親とは違って卑しい。
二世代に渡るロシア貴族の描写は、父はナポレオンを敗退させた世代に属し、息子はポーランドとハンガリーの革命を制した世代に属すという。この作品は、戦争における戦役や戦略ばかりが重要視される世評を皮肉って人間の本質を論じようとしたもので、その10年後に「戦争と平和」で開花することになったと評している。

11. ヘンリー・ジェイムズ著「デイジー・ミラー」
当時、新興国だったアメリカとヨーロッパを対比させながら描写するという。若いアメリカのあっけらかんとした性格や無邪気さといった象徴を、生命にあふれた少女を主人公にしたのは、ヘンリー・ジェイムズにしては分かりやすい小説だそうな。ちなみに、「ねじの回転」を読めば、ジェイムズが使用人の世界がどれほど無形の悪を体現するかを理解できるという。

12. ボリス・パステルナーク著「ドクトル・ジバゴ」
革命の情熱が未来へ及ぼす影響について疑問を呈した小説だそうな。むかーし映画で観たが、あまり印象は残っていない。ちなみに、革命批判としてソビエト連邦で発表が拒否され、イタリアで出版された作品としても知られる。政治的に暗い影のある国では、様々な思いを想起させるように暗喩的な叙述が発達するものである。そして、民衆の心は奥底に仕舞い込まれ、一つの逃避場として文学作品に向けられる。
本書は、逆説的にこれほどソビエト的な作品は他にはないとし、「政治用語としては大衆自発革命主義的な思想」と評している。これは、スターリン時代から継承される粛清への批判か?禁じられた思想を勉強するには、表向き批判するように見せかけるしかない。そして、ボリシェヴィキの熱狂的な思想を引用しながら、けしからんとできるだけ説得力の無いように語るぐらいなものか。虐げられるからこそ思考が進化するのであって、幸せな時代ほど名作は生まれにくいのかもしれない。

13. アーネスト・ヘミングウェイ
著者は、ヘミングウェイを神と呼んだ世代で、それは素敵な時代だったと回想している。この作家から悲観主義を教えられ、漠然と学んだものは、個人主義的な無関心、自己礼賛、自己憐憫の拒否、教訓や人間の価値を賛美する態度などだという。しかし、それがマンネリ思考に陥りやすいという欠点もあるという。その魅力は現実的な作風にあるようだ。ただし、抒情的な作品「キリマンジャロの雪」は最低だと評しているが。
行動派ヘミングウェイは、スペイン内戦や第一次大戦にも参加し、反ファシズムの象徴とされる。だが、戦争の生き証人でもなければ、大虐殺の告発者でもないようだ。任務を担いきれるかどうかの限界で、人間の存在を認めるといった実存主義的な方法で存在を理解するという。実際に機械を操作したり、技術を実践したりする中で、人間の存在といったものと対峙するそうな。機関銃を撃ったり、戦車に乗っている自分と向かい合うような...これが行動派の作家というわけか。

14. レーモン・クノー
この作家の特徴は、一つにまとめきれない要素があまりに多く、輪郭が複雑で多面的だという。晩年の25年間、表向きは百科事典編纂者でありながら、数学者、宇宙論者など様々な立場を見せるという。ピアジェの言うように「記号論理学は思考の公理化そのものである」とするならば、クノーは次のように付け加えるという。
「だが論理は芸術でもある、それは遊びの公理化なのだ、今世紀のはじめに科学者たちがそれぞれを構築した理想は、科学を認識としてではなく、規則と方法として紹介することだった。...要するに約束事を提示したのだった。だが、それはチェスとかブリッジなどと変わらないゲームの一種ではないか。科学はほんとうに認識なのだろうか、認識に役立つのか。...数学のなかに何を認識するのか...認識すべきことなど何もない。関数や微分方程式の世界は、具体的な現実を識っているほどには知らない。知っていることと言えば、科学者たちの共同体から真理であると受け入れられた方法であり、その方法は製造の技術につながる利点もある。だが、この方法はひとつのゲームでもある。科学全体が、完結した形態で、技術として、またゲームとして出現するのは、人間の行為であり、芸術の現れ方とほぼ似ている。」

15. チェーザレ・パヴェーゼ著「月とかがり火」
登場人物「わたし」は、アメリカで成功して故郷の葡萄畑に帰ってくる。彼が求めたものは、思い出でもなければ、もとの社会への回帰でもなく、若き頃の貧困の日々への意趣返しでもない。どうしてひとつの村は村であるのか、場所と名と多くの世代を結びつける秘密を探ることであった。彼が「わたし」と呼ばれるだけで、名前がないのは偶然ではない。貧民院で生を受けた捨て子だったのだ。しかし、アメリカには現在というものに深い根があるわけでもなく、誰もが通りすがりの人間で名前を気にすることもない。今、何も変わらない故郷に戻ってきて、現実と対峙しながら目の前に映る光景の本質を知りたがっている。美しい向こう見ずな地主の娘サンティーナは、どうなったのか?彼女はファシストのスパイだったのか?それともパルチザンと通じていたのか?それを答えられるのは誰もいない。彼女もまた意思とは関係なく、戦争の奔流に巻き込まれたのだった。彼女の墓を探しても無駄だ。銃殺後パルチザンたちは葡萄の蔓にくるんで亡骸を焼いてしまったのだから。
この作品は、歴史の象徴、すなわちパルチザンとファシストたちの死体、そして儀式の象徴、すなわち夏になると丘の枯草に放たれる火、という二つのアナロジーを辿るという。運命的な暗い思考とニヒリズムは文学作品にありがちな展開であるが、最も好まれる領域でもあろう。