2022-02-27

"語録 要録" エピクテトス 著

ストイックに生きるとは、どういうことであろう...
辞書を引くと、「禁欲的、克己的...」とある。スコラ哲学には、克己禁欲主義や厳粛主義といった息苦しさを感じる。悲観主義を忌み嫌い、自己肯定感を求めてやまない現代社会の風潮には、不向きな哲学やもしれん。
しかしながら、悲観するからこそ危険を察知する感性が磨かれる。混沌とした現代社会では、重要な観点にリスク管理能力ってやつがある。無知な楽観主義では、リスクを増幅させてしまう。自己否定を試みずに、真の自己肯定感は得られまい。ストア学派は自殺を肯定したと言われるが、寿命の伸びきった現代社会では尊厳死や安楽死といった問題が表面化する。死や苦難もまた人生の一部。これを否定することは、人生そのものを否定することになろう。ウィリアム・ヘイズリットは、こんな言葉を遺してくれた... 死に対する嫌悪感は、人生を無駄に過ごした諦めがたい失望感に比例して増大する... と。
「語録 要録」は、弟子アリアノスが師の言葉を記したものだそうで、これによると、哲学者とは愛叡者のことを言うらしい。はたして、叡智で人を救えるだろうか...
尚、鹿野治助訳版(中公クラシックス)を手に取る。


「ひとの気に入りたいという気持ちから、外部に心惹かれるということが、もしきみに、いちどでもあるならば、きみの計画は、ご破算だと知るがいい。それで、すべてのばあい、哲学者であることで満足したまえ。だが、ひとからもそう思われたいのならば、きみ自身にそう思われるようにするがいい、そうすれば、それで十分であろう。」


時代は、暴君で名を馳せる皇帝ネロの時代。弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、残るは恩師を殺すのみ。家庭教師セネカは自殺を命じられた。ストア派哲学者には、生きづらい時代であったであろう。いや、自分で考えようとするすべての者が...
奴隷出自のエピクテトスは、人間社会の底辺を生きながら哲学者となった。皇帝ネロの臣エパロディトスに仕え、ルフスに哲学を学ぶことを許される。ルフスは、何度かローマを追放された人物。皇帝ドミティアヌスの時代には、ユダヤ人やキリスト教徒が迫害され、哲学者も追放された。この時、エパロディトスが処刑され、エピクテトスも追放されたという。
「ギリシア詞華集」には、こんな碑銘詩が載っているそうな。作者不明で...


「エピクテトス、奴隷の身に生まれ、身体は不自由、イロスのごとき貧しかりしが、神々の友なりき」


イロスとは、ホメロスの作品に出てくる乞食の名。生まれつきの苦難から生まれた悲観哲学、いや、やせ我慢の哲学とでも言おうか。しかしながら、自分の力ではどうしようもない境遇に置かれても、ひたすら耐えるだけの忍従の哲学ではない。むしろ、逆境に動じない、不動心の哲学と言うべきか。後に、「自省録」を遺した皇帝マルクス・アウレリウスは、宇宙論的な道徳を探求し、ひたすら不動心を求めた。真の自由人になろうと...
ちなみに、ラテン語に "nil admirari" という言葉があると聞く。「何事にも動じない」といった意味である。この言葉の域に達するには、よほどの修行がいる。ストイックに生きるとは、そういうことなのであろう...


どん底を生きれば、あとは這い上がっていくだけ。しかし、這い上がれない現実とどう向き合うか。金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏に... これが現代社会の縮図。哲学ってやつは、用い方を誤ればむしろ害になる。それは哲学に限ったことではないけれど...
自己の弱さを知るから強くなれる。悩み続けるから賢くもなれる。真理を見るにも勇気がいる。自己を知ろうものなら覚悟がいる。勇気も覚悟もなければ、哲学には近づかぬこと。真理は知らぬ方が身のため。そして、無知の哲学を実践するさ...


人間社会は矛盾に溢れている。慎重でありながら大胆に... とは、なかなかの難題をつきつける。調和させるよりも、対立させたままの方が楽なことが多い。あまりに多い。なのに...
自己主張に明け暮れれば、他人の目を気にしながら生きていることになる。無視されても愉快に生きるのは難しい。空気のように生きるのは難しい。自己を支配できなければ、他人を支配しようとする。幸福に隷属し、知識に隷属し、そうやって生きてゆくのが関の山。哲学に人類を救え!などと吹っかける気にはなれんよ。宗教だって救ってくれないではないか。それどころか、受難を与えてやがる。救いを求めるなら、音楽に、芸術に... そして自然の偉大さに縋るほかはあるまい...

2022-02-20

"西田幾多郎哲学論集 I - 場所・私と汝 他六篇" 上田閑照 編

この大作を II だけでお茶を濁そうとしたが、いつのまにか III に触れ、仕舞に I へ振り出し。最初から順に追えばいいものを。人生行き当たりばったり...


おいらには、難解な書に悶々とそそられる性癖があると見える。
煮え切らない述語の群れ... 「純粋経験」に、「行為的直観」に、「非連続の連続」に、「弁証法的一般者」に、「絶対矛盾的自己同一」に... もうええっちゅうの。
しかし、慣れとは恐ろしいものだ。「自己自身を限定する...」といった言葉を繰り返し読んでいると、やがて呪文に聞こえ、違和感が薄れていく。節度や節制、あるいは、広大な宇宙空間におけるちっぽけな有限性... などと勝手な語釈を与えて理解した気分にもなれる。そして、読破した瞬間のクタクタ感がたまらん!ときた...


ここでは、処女作「善の研究」に発する「純粋経験」の立場を経て、「私と汝」といった自己投影を通して「場所」という概念を提示する。
そして、論集 II の「論理と生命」などで論じる弁証法的な立場に、論集 III の「自覚について」などから導かれる直観の立場を加え、最晩年に見る「絶対矛盾的自己同一」という概念への布石を垣間見る。
まさか!この振り出しで、西田哲学の思考プロセスに出会えようとは...
まさか!この振り出しで、悶々とした言葉の群れがクリアになっていこうとは...
この順で手を出したのは単なる偶然だけど、それが功を奏したか。いや、お茶を濁そうとした副次的効果か。いやいや、最初から順番に追っても、それはそれで違った景色が見えたであろう。何はともあれ、この難物の一群に手を出した偉大なる気まぐれに感謝したい...


尚、本書には、「種々の世界」、「働くものから見るものへ(序)」、「直接に与えられるもの」、「場所」、「左右田博士に答う」、「叡智的世界」、「無の自覚的限定(序)」、「私と汝」の八篇が収録される。


ところで、ここで言う「場所」とは、なんぞや?
キェルケゴールは、こんな言葉を遺した... 人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身が関係するところの関係。すなわち、この関係には自己自身に関係するものすべてが含まれる... と。関係の... 関係の... 関係の...と、まるで無限循環。いや、無間地獄。狂ったか?キェルケゴール!
相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体が自己を確認しようとすれば、他との関係から導くしかあるまい。そして自己は、関係の中で安住の場を求める。つまりは、居場所を求めて。場所とは、自己を映し出す鏡のようなものか。自分探しの旅とは、単なる居場所を求める旅、すなわち関係を求める旅ということになろうか。いや、関係を清算する旅も捨てたもんじゃない。
この場所を求める旅で、西田幾多郎は純粋経験の立場から、弁証法的な立場や自覚の立場を経て、ついには、「絶対矛盾的自己同一」などという支離滅裂な言葉を発する。
自我と対峙すれば、やはり狂うほかはあるまい。西田哲学の純粋経験に、プラトンのイデアが香り、カントのア・プリオリを見るのも、こうした用語を編み出した彼らが、時代を越えて狂気を共感していたからに違いない。しかも、彼らは狂い方をよく心得ていたと見える。哲学するとは、そういうことなのだろう。狂わなきゃ、理性なんてものも見えてこない。しかも、それを自覚できなければ。そして、自我を支配できなければ、他人の支配にかかる...


「自己に対するものは単なる存在ではなくして自己自身を表現するものでなければならない、広義においてそれは汝というものでなければならない。而して私は私の行為によって汝を限定し、汝は汝の行為によって私を限定する。」


哲学者たちときたら、互いに微妙なニュアンスの違いを新語を編み出して穴埋めをする。それで、議論は成り立っているだろうか。いや、彼らは自由気ままに言葉を発してるだけで、そもそも、そこに議論なんてものは存在しないのかもしれない。
キェルケゴールは関係の中に絶望を見た。カントは理性までも批判に晒した。西田幾多郎は自己否定をも厭わない。いずれも、M でなければ、できない芸当だ。死を拒否しては真の生は見えてこない。死への嫌悪感は、有意義な人生に反比例して増すものらしい。自己否定に陥ってもなお愉快でいられるなら、真理の力は偉大となろう。
それにしても、西田幾多郎哲学論集の三冊を見渡しても、これだけ中庸の哲学を匂わせながら、節度や節制といった用語は見当たらない。ましてや、ちっぽけな有限性などは。おいらの解釈は、著者の意図からはかなりズレていそうだ。それで、ちっぽけな幸せでも感じられれば、ええんでないかい。おいらも M だし...


「私はカント哲学の如き立場において始めて真に自己自身の中に他を見るという自覚的自己というものを考えることができると思う。自然というものが唯一の実在としてすべてのものの底に考えられた時、我々は自覚的自己という如きものを考えることができない。自覚的自己の実在性というものが考えられるには、自然は純我の綜合統一によって構成せられるという如き立場がなければならない、客観性というものが単に自己の外に見られるのでなく内に見られるという意味がなければならない。」

2022-02-13

"西田幾多郎哲学論集 III - 自覚について 他四篇" 上田閑照 編

この大作を II だけでお茶を濁そうとしたが、いつのまにか III を手にしている。アマゾンでは、I も手招きしてやがるし。最初から順番に追えばいいものを。人生行き当りばったり。おいらには、難解な書に悶々とそそられる性癖があるときた。読破した瞬間の脱力感に便乗して自我からの脱皮を試みるものの、ますます自我に縛られていく。もっと縛って!M だし...


II では、西田哲学独特の述語の群れにしてやられた。「行為的直観」、「非連続の連続」、「弁証法的一般者」、「自己同一的に自己自身を限定」といった用語に、身勝手な語釈を与えてなんとか乗り切る。外国語を翻訳するが如く。それで、著者の意図に適っているかは知らんよ...


ここでも似たような述語が鏤められ、「絶対矛盾的自己同一」という用語に翻弄されっぱなし。相対的な認識能力しか持ち合わせていない人間に、「絶対」とはどういうわけか。すでに自己矛盾を孕んでいる。だから、精神は矛盾からは絶対に逃れられないってか。
まず、人間の知覚器官が外部環境から何かを感じ取ると、それを脳がなんとなく処理する。それが自己にとって善いか悪いか、差異を感じながら少しずつ情報を蓄積していく。経験を積み重ねていくと、善と悪の振幅が徐々に大きくなり、やがて道徳観念なるものが浮かび上がる。善悪などという対称的な価値観は、精神の内で同時に目覚めさせていくのだろう。この振幅が大きくなりすぎて極端な道徳で抑圧しようとすれば、同時に極端な背徳が解放され、自我はますます肥大化する。善も悪も自我の本性。これを自己が統一するのは至難の業。つまりは、自己同一とは、自我を支配するってことか。あるいは、自己を超越した自己を求めよ!とでも。だとすれば、「絶対矛盾的自己同一」とは、なんと大きな問題を課すことか...


尚、本書には、最晩年の六年間に書かれた論文より、「絶対矛盾的自己同一」、「歴史的形成作用としての芸術的創作」、「自覚について」、「デカルト哲学について」、「場所的論理と宗教的世界観」の五篇が収録される。


まず、自己に何を求めるか。そこには自覚の問題がある。自己を知るには勇気がいる。覚悟がいる。だから、「自覚」と書く。自覚とは、自己の投影。自己を欺いて、自己同一は覚束ない。自己を暴くには、主観的な目と客観的な目が向けられる。
外から観察するには、一旦、自己否定してみるのも必要であろう。健全な懐疑心を離れて、科学はありえない。悲観主義に陥ることを恐れることもあるまい。自己は意識的であり、自律的であり、理性的な面を持ち合わせ、定言的命令風でもある。むしろ、無知な楽観主義よりはましであろう。
カントは理性までも批判の対象とした。理性を崇めれば、理性に奢り溺れる。自己を超越した人間は、神を見るのか、それとも悪魔を見るのか。天の邪鬼な魂には、メフィストフェレスがほくそ笑む...


しかしながら、巷では自己肯定感を煽ってばかり。そのためのハウツー本も大盛況ときた。デカルト風に、ひたすら思惟すれば、自己の存在を確認することはできるが、それだけでは足りない。カント風に、ひたすら主観の声に耳を澄まして自己を探求するのもいいが、それでも何か足りない。ヘーゲル風に、自己存在を弁証法という論理の天秤にかけてみるのもいいが、どうも踏み込みが甘い。
そこで、西田幾多郎は、あえて自己否定を試みる。絶対矛盾的自己同一という世界観は、自己否定から導かれるものらしい。自己否定に陥ってもなお愉快でいられるなら、それこそ真の自己肯定と言わんばかりに...


「生命の世界というのは、物質の世界と異なり、自己自身の中に自己表現を含み、自己の内に自己を映すことによって、内と外とを整合的に、作られたものから作るものへと動き行く世界... 即ち自己自身によってあり、自己自身によって動く世界である。自己自身の中に自己否定を含み、自己において自己を映すことによって、否定の否定、即ち自己肯定的に、無限の自己自身を形成する。此の如き方向が時の方向である。矛盾的自己同一世界は、自己の中に自己焦点を含み、動的焦点を中軸として、無限に自己自身を限定して行くのである。」

2022-02-06

"西田幾多郎哲学論集 II - 論理と生命 他四篇" 上田閑照 編

哲学書ってやつは、なかなかの難物である。アリストテレスの形而上学にせよ、ヘーゲルの弁証法にせよ、カントの批判哲学にせよ、体系的に書かれたものを読むのに、プラトンの饗宴のようにはいかない。しかしながら、なにやら悶々とそそるものがある。怖いもの見たさのような。おまけに、読破した瞬間のクタクタ感がたまらん。M だし...


なにゆえ、これほど難解なのか。なにゆえ、これほど難解にする必要があるのか...
その理由の一つに、用語の扱いや独特な表現の仕方がある。真理に立ち向かうには、まず、思惟・思考する自己と対峙することになる。なにごとも、自分自身で感じとれなければ始まらない。だが、あらゆる矛盾が自己言及に発する。不完全性定理は告げる。形式的体系の中から、その体系の無矛盾性を証明することは不可能である... と。
そもそも、精神の持ち主が精神の正体を知らずにいることが問題である。自己にとって自我ほど手に負えないものはない。人間にとって得体の知れない精神ってやつを、人間自身が編み出した言語で記述しようとするところに無理がある。真理を探求し、それに言及するということは、言語機能の限界に挑むということ。
但し、この広大な宇宙に、真理というものが本当に存在するのかは知らん。その空間の住民が、どう認識するか、どう感じるか、どう解釈するか、ただそれだけのことやもしれん。その心理過程において、物理的合理性と精神的合理性との間で折り合いをつけようと、もがいているだけのことやもしれん...


さて、難解な書を読むコツとして、おいらはよく用語や表現の置換を試みる。なにも哲学書に限ったことではない。自分の言葉に置き換えてみる行為は、外国語の翻訳に似ている。それで、作者の意図に沿っているかは知らん。が、少なくとも分かった気になれる。分かった気になれることが幸せの第一歩。凡庸な読み手が、それ以上に何ができよう。
とはいえ、「ア・プリオリ」という語を置き換える気にはなれない。「先天的」や「先験的」とするのではイマイチ。無理やり置き換えるぐらいなら、そのままにしておいた方がいい。このような語を編みだす哲学者たちの文学センスには感服する。彼らが表現主義的になるのは理に適っているのかもしれん...
本書には、「行為的直観」「非連続の連続」「弁証法的一般者」「自己同一的に自己自身を限定」といった述語が鏤められ、「行為的自己の立場」、「弁証法的一般者としての世界」、「論理と生命」、「行為的直観」、「人間的存在」の五篇が収録される。


尚、以下は、酔いどれ天の邪鬼が勝手気ままに翻訳したものであり、西田先生が意図したものかは知らん。おそらく、まったくの的外れ。勝手な解釈を加えることによって、この難物が格段と読みやすくなる、ただそれだけのこと...


「行為的直観」とは、なんぞや?
直観ってやつは極めて主観的な領域にある。だが同時に、様々な経験の積み重ねから自己の中で知識が再構築された感がある。主観と客観の協調によって生じるような...
これに、「行為的」という語をくっつけると、能動的な意思が印象づけられる。自由意思にも、能動的な意思と受動的な意思があろう。能動的な意思は、自立的や自己組織的、あるいは、自己実現や自己啓発といったものを駆り立てる。
一方で、受動的な意思は、諦めにも近いものがあるが、運命論に身を委ねるのとも、ちと違う。自然に身を委ねるとすれば、それはむしろ能動的に状態を受け入れるという態度にもなろう。
こうしてみると、能動的と受動的の境界もなかなか微妙である。主観と客観の境界もしかり。そして、自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大、おまけに、自己嫌悪に自己否定とくれば、自我を失う危険をともなう。自己を知るには勇気がいる。巷では「自己責任」という語が渦巻いているが、自我に責任を持てる人間がどれほどいるというのか。こんな語は、既にお前が悪いという意味で使われているし...


「我々が知的自己の立場に立って考える時、主観と客観とは何処までも対立する、我の世界と物の世界とは何処までも対立する、ノエマとノエシスとは単に相反する方向と考えられる。しかし我々の行為ということは主観が客観を主観化することであり、逆に客観が主観を客観化することである。行為的自己の立場というのはいわゆる主観客観の対立を越えた立場でなければならない。」


「非連続の連続」とは、なんぞや?
自由意思ってやつは、個人が持っているものだが、歴史という時間軸で眺めると、なにか共通の伝承的な意思が働いているような気もしなくはない。それが、DNA や遺伝子によって受け継がれているのかは知らんが...
離散的に点在する個々の意思が歴史空間において連続性を保つような、人類の見えざる意思というものが働いているような。それが、人類の普遍性というものかは知らんが...
アリストテレスは言う、人間はポリス的動物である... と。ポリスってやつは、最高善を目的とした共同体のようなもので、素材因、形相因、作用因、目的因で構成されるらしい。つまりは、因果関係によって。それは、空間的にも時間的にも。空間的には社会の一員として、時間的には歴史の経過の中で。そして、西田は言う、自己は社会的・歴史的でなければならない... と。


「私が考える故に私があるのではなく、私が行為するが故に私があるのである。考えるということが既に行為の意義を有する故でなければならぬ。而して行為的自己と考えられるものは社会的・歴史的でなければならない。社会的・歴史的限定として私と汝というものが考えられるのである。」


「弁証法的一般者」とは、なんぞや?
人間の生きる意義というものを論じ始めたら、社会的意義とは?歴史的意義とは?などと大袈裟な問題になる。自分自身の存在意義を問えば、ちっぽけに感じ、自虐的にも、自暴自棄にもなろう。そして、心の中で矛盾との葛藤が始まる。論理的に物事を捉える眼を成熟させるほど、矛盾の渦に引き込まれていく。まさにブラックホール!
だが、矛盾という概念が存在しなければ、人類が弁証法なるものを編み出すことはなかったであろう。精神の持ち主が自己について思惟すれば、論理的に組み立てようとする。その論理体系が、なにもヘーゲルやマルクスが定式化したものである必要はない。むしろ、自分自身で定式化したものでなければ...
弁証法的一般者とは、個人が独自に論理体系を構築し、社会的に生きる意義を考え、それを求める意識の高い一般人... などと解すれば頷ける。だが、なんと高尚な社会であろう。むしろ、理想高すぎ感は危険である。矛盾を素直に受け入れて生きていくのは難しい。屁理屈でもなんでも理由付けして生きてゆかねば、やってられんよ。哲学に、人類を救え!などと吹っかける気にはなれんよ...


「自己同一的に自己自身を限定する」とは、なんぞや?
まず、自己同一とは、主体の統一を言うのであろうか。いや、主体だけでは心許ない。精神内に生じる矛盾を統一するには、主客が対立している場合ではない。だが、その意識的統一にはよほどの修行がいる。自己を取り巻く空間は、どこまでも矛盾がつきまとう。それは、精神を獲得した知的生命体の宿命であろう...
主体を外部から観察すれば、自己否定は避けられない。第三者の目は自己に容赦ない。自己が自己に容赦ない心境とは。自己は、自己矛盾と自己否定をともなって自己を形成していく。知が不完全であることを自覚させ、さらに無知を自覚させるのは、自己自身でしかない。
しかしながら、無知を知ることは、ソクラテスの時代から問われてきた難題中の難題である。自己の中に自己矛盾の存在を認めた時、そこには自己を超えたものが働いている。合理的に生きようとすれば、まず自己の内にある性癖、悪癖の類いを知らねばなるまい。自己の悪魔性を知らねばなるまい。そして、弁証法的に自己の内で統一的な見解を見い出し、妥協で終わるか、あるいは、答えが見つからないまま問い続けるか。この問い続ける行為が、歴史的に継承されてきたということか。自己自身を限定するとは、答えが見つからないことを謙虚に受け入れ、それでもなお問い続けるってことか。それを自覚した上で節度ある中庸の哲学を目指すってことか...
だとしても、自己を超越しなければ、自己同一なるものを発見することはできないであろう。主観と客観の調和だけで、自己を超越することができるのだろうか?哲学者という人種は凡庸な読み手に、随分と酷な要請をしてきやがる。そりゃ、素直に挫折感を喰らう方が幸せやもしれん。巷で忌み嫌われる悲観主義だって捨てたもんじゃない。悲観主義的な思考は、危機を敏感に察知できる能力でもあり、無知な楽観主義よりもはるかにましであろう。自己否定に陥ってもなお愉快でいられるなら、真理の力は偉大となろう...


「世界は何処まで行っても自己矛盾的である。...(略)... 理性とはかかる現実の自己媒介作用である。...(略)... 論理が生命の媒介となる時、それが弁証法的である。しかし生命は論理によって弁証法的となるのではない。生命は固(もと)、弁証法的なのである。論理が弁証法的であるのは、それは生命の媒介となるが故である。」