2009-11-29

"判断力批判(上/下)" Immanuel Kant 著

さて、前記事、前々記事に続いて、カントの第三批判書を記事にする。三大批判書はあまりにも大作なので、全部読むのが面倒である。実は、この第三批判書だけを読んでお茶を濁そうと考えた。
ところが、だ!一歩踏み入れたが最後、精神は蟻地獄へと引き摺られ、第二批判書、第一批判書と遡ってしまった。順番に読んでいたら、はたして第三批判書まで辿り着いていただろうか?結果的に、理解を深める意味でも、悪い読み方ではない。ただ、一貫した難解な文章に、酔っ払いの脳は飽和状態にある。したがって、本記事がカントの意図したものかどうかは知らん!
下巻の表紙には、ゲーテの言葉が綴られる。
「たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えているのだ...君がいつか彼の著書を読みたければ、判断力批判をお勧めする。」
なるほど、アル中ハイマーは三大批判書に出会うずーっと前から、カントの影響を受けてきたような気がする。久々に、鳥肌の立つような哲学書に出会ったような気分だ。

読んでいるうちに気づいたのだが、三大批判書は併せて一つの体系を成している。カントは、第一批判書「純粋理性批判」で悟性認識に則った自然の法則を論じ、第二批判書「実践理性批判」で理性認識に則った道徳と自由の法則を論じた。第三批判書では、認識能力の根源である心的能力から精神の究極目的へと迫る。いずれの批判書も、ア・プリオリな認識を相手取った認識能力の可能性と限界を論じたものである。また、本書では、哲学ばかりでなく美や芸術にも言及している。なるほど、多くの芸術家や科学者に影響を与えたと言われるだけのことはある。前の二つの批判書で認識能力の限界を認めるならば、認識を基にした判断力もまた限界を認めることになろう。率直に「何のために認識能力を働かせるのか?」と問えば、それは判断力を働かせるためとなろう。いや、認識そのものが判断の結果であるとも言える。カントは、思考の統合的立場として、第三批判書を完成させようと試みたのであろう。したがって、三大批判書の中で本書がもっとも興味深い。
ところで、人間認識の限界を規定することはできるだろうか?そこには、なんとなく境界なるものが存在しそうだ。だが、有限と無限の境界線を明示するようなもので、数学で規定できるからといって、精神を規定できるはずもない。それが規定できるならば、「人間とはなんぞや?」という素朴な疑問にも答えられるであろう。ここで断っておくが、理性認識とは、理性の欠いたアル中ハイマーのもっとも避けていた領域にある。だが、誰にだって気まぐれはあろう。アル中ハイマーの認識力にとって、「気まぐれ」ほど崇高な地位を占めるものはない。そして、判断力もまた「気まぐれ」によって実践している。したがって、アル中ハイマーは「ア・プリオリな判断力」を「崇高なる気まぐれ」と解釈するのであった。

哲学は理論哲学と実践哲学に区分できる。純粋哲学も自然の形而上学と道徳の形而上学で区分できるだろう。そして、それぞれの立場を調和しながら精神の解明を試みるのが、この学問の特徴だと考えている。平たく言えば、主観と客観の調和である。カントの体系にもその流れがあり、第一批判書で純粋領域を扱い、第二批判書で実践領域を扱う。そして、第三批判書がその調和をとる。本質に近づこうとしても、けして到達できないという意味では、哲学は微分学にも通ずるものがある。実は、真理なんてものは存在せず、人間の精神を永遠に退屈させないように、怠惰にさせないように、神が創出した虚空の概念なのかもしれない。ここで、かかる概念は二つしかない。自然の概念と自由の概念である。自然の前では人間はひれ伏すしかなく、自由の実践には道徳的理性能力が働く。ここには「宇宙原理」対「道徳原理」の構図がある。カントは一貫してア・プリオリな原理について言及する。おそらく哲学一般が、このア・プリオリな概念と対峙することになろう。「哲学する」とは、精神の崇高な領域に迫ろうと試みることである。古代、数学は哲学の領域にあった。その中で論理的解決策を見出すことができたものが、数学へ分離していったと思っている。人間精神は、なおも哲学の領域を脱することはできない。下手をすると、安易に宗教の領域に入り込もうとさえする。個人は、自らア・プリオリな認識の中で立法を構築し独自の理念を形成するだろう。となると、人間社会でつくられる法律は、個人の中にある立法を厳守する最後の砦ということになる。なるほど、法律を楯に言い訳するということは、自らの理念を形成できないと主張しているようなものか。法は経験的に積み重ねてきた現実的な手段であるが、もはやア・プリオリな認識を超えてノイズに惑わされる。となると、法律に詳しい人間ほど、理性構築が難しいということになりはしないか?なるほど、規制したがる政治家や法律家ほど、道徳観から縁遠いように映る。これらの論理的帰着は、専門家ほど自らの専門を理解できていないことに気づかないということになる。物事とは、解明が進むほど分からなくなるものである。
「浅はかとは、理解したと自負することである。信じるとは、思考を停止させることである。おまけに、哲学するとは、酒を飲むことである。したがって、酔っ払いはいつも理解した気分になる。あぁ愉快々々!」
...「アル中ハイマーの哲学とは」より...

本書は、上巻「美学的判断力の批判」と下巻「目的論的判断力の批判」で構成される。そして、判断力もまた、それ自体がア・プリオリな原理を持つのか?という問題を論究している。上巻では、認識能力と欲求能力の仲介役として、快や不快の感情をア・プリオリに規定できるか?という問題を考察しながら、崇高な芸術的感性から理性と結びつく美学に迫る。下巻では、主観的合目的と客観的合目的を考察しながら、自律的判断力とは何か?あるいは、精神の究極目的とは何か?という問題を論じている。ただ、ア・プリオリな認識を説明するにしても証明根拠を得るものではない。自然や慣習を引き合いに出すのも、その偶然性を都合よく説明するための手段に過ぎない。では、真の客観的な論議は成り立つのか?数学の公理や定理は客観的な考察である。だが、公理や定理を導くまでの思考プロセスには主観的直観が関与する。となると、世間で客観的な考察と呼ばれるほとんどのものは、同意見の者同士で慰め合っているだけのことか?人間社会で実践される客観性とは、個々の主観性の多数決に支配されることも否定できない。人間は、ご都合主義によって矛盾の概念をも凌駕する。その想像力たるや、神も感服するであろう。本書は、主観の領域でありながら、崇高な宇宙原理のようなものを存分に堪能させてくれる。
「判断力は、自然や自由に法則を与えるのではなくて、もっぱら自分自身に法則を与える。」

1. 美学的認識
心的能力には、三つあるという。認識能力、快や不快の感情、欲求能力である。自然概念では認識能力における悟性だけが立法的で、自由概念では欲求能力における理性だけが立法的であるという。そして、この認識能力と欲求能力の間で快や不快の感情が複雑に絡み合って判断力が形成されることになる。つまり、理性はこの三つの心的能力の調和によって構築されるというわけだ。個人は、自らの精神の立法の過程で独自の美学を見出すであろう。美的感覚は快や不快の感情と直接結びつく。美的感覚は欲求と混在しそうだが、ア・プリオリな認識では欲求は抑制と背中合わせにあるという。つまり、理念の中で美的自由を理性に訴えるというわけだ。とはいっても、美的感覚は主観的であって、人間の判断力は快い感情を求める方向にバイアスをかける。快い感情は享楽と結びつき、享楽が善をもたらすとも言い難い。快い感情は理性を持たない動物にも妥当する。
しかし、本書は、美的感覚は快い感情を求める関心と結びつき、善に対しても関心と結びつくという。関心を持つという意味では、美的感覚も善も同じというわけか。確かに、関心が無ければ、善などどうでもよくなる。人間は善と快い感情を区別するだろう。善だからといって必ずしも快いものではない。健康に良いからといって美味いとは限らない。ここに通常の認識とア・プリオリな認識の違いがあるのだろう。主観的な領域にある美学的判断であっても、ア・プリオリな認識では自然合理性があるのかもしれない。その判断力を形成する心的能力とは、創造力と悟性が自由に遊びまわる調和した状態ということであろう。
「美は、概念にかかわりなく普遍的に快いところのものである。」
美について議論するのは楽しい。明確な論理があるわけではないので無責任に語り合える。論理的なこじつけはできるにしても、とりとめのない談話が心地良いのだ。

2. 崇高な認識
本書は、美的認識が自然法則から自由法則に従う究極目的へと移行し、ついには欲求能力を道徳によって規定するという。精神のすべての崇高な認識は、美学的認識から始まるのかもしれない。数学の幾何学的法則や、建築物の線描的輪郭に美を感じることがある。音楽で鳥肌が立つこともあれば、色彩心理学では、部屋の色によって心拍数を変える何かがある。科学には、プラトン哲学から継承された単純化の真理といった思想がある。いずれも、人類の美学と言えよう。こうした感覚には、好みという多数決で支持されるような共通意識的なところもあるが、その分野の住人にしか理解できない美が現れる。だが、これらの認識が経験的というだけでは説明できない。主観的直観とは不思議なもので、誰に教わったわけでもなく本能的に崇高な感覚を呼び起こす。美は快く感じさせ、崇高は更に自然の本質のようなものを感じさせる。どちらも快いという感情から想起するという意味では似ている。美は、芸術家によって感情を誘惑されるので、形式的で受動的感覚のように思える。対して、崇高は、その形式を超越した能動的感覚のように思える。本書は、理念を言葉通りに解釈して論理的な考察のみに頼るならば、理念そのものを形成することはできないと指摘している。物事の解釈に自然的直観が介在して、経験的考察と調和した時に理念なるものが想起するのだろう。したがって、自由とは、自らの理念に支えられた美学に他ならない。
「威力とは、大きな障害を克服する能力のことである。この威力は、これまた威力を具えているところのものからの抵抗を克服する場合には強制力と呼ばれる。そして自然が、美学的判断において威力と見なされながら、その威力が我々に対してまったく強制力をもたない場合には、かかる自然は力学的崇高と言われるのである。」
力学的崇高では、自然は恐怖の念に喚起するという。なるほど、人間は人工的な社会に対して無力を知った時に疎外を感じるが、自然に対して無力を知っても心地良さを感じるだけだ。したがって、自然をも凌駕しようとする有徳者は、強靭な勇気の持ち主と言えよう。

3. 技術と芸術
芸術は自然と深く結びつき、技術は一般的に自然と区別されるという。とはいえ、技術にも芸術性を感じることがある。技術は学問とも区別されることが多い。学問は知識を学ぶところで、技術はその知識を実践するところと解釈される。知識は創造力や構想力の蓄積である。だが、十分な知識を得たからといって、そこに技術が現れるとは限らない。例えば、科学実験は、科学的知識を試す場である。そこには理論的現象を見出すための現実的な工夫が施される。その工夫は創造力と構想力に支えられる。ゲーテ曰く、「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる。」理想論を語る評論家が、いざ実践となると無力になるのも、そこに創造力と構想力を欠いているからであろう。
「芸術は天才の技術である。」
芸術は、自然から自由を感じさせるための人工的なものであり、その意味で技術と言えよう。芸術的才能は自然に与えられるものであろうが、その才能にも限界があって、天才の芸術はいつかは停止する。いわゆる人間の限界というやつで、その限界を覗けるのも天才の特権と言えよう。本書は、機械的技術は勉強と習得から得られ、美的技術は天才だけのものであるという。天才は、自然美と芸術美を明確に嗅ぎ分ける能力を持っているのだろう。だとすると、美の真理は天才にしか見えないことになり、大衆は芸術作品の一部しか理解できないことになる。天才は、芸術美を一般大衆に強制しようと、完全に天才の宇宙の中に閉じ込めようと企む。にもかかわらず、教育者や道徳家の強制とは違って快く感じられるのはなぜか?実は、強制しているのではなく、「勝手に覗けば!」と自由を与えているだけのことかもしれない。一般大衆を感動させるからには、天才には精神を曝け出す心的能力があるのだろう。そして、鑑賞者に自由と遊びを味あわせる。芸術の力は、美学的理念が現れるところに発揮される。そこには、技法や流派といったものに影響されたとしても、あくまでも芸術家独自の自由の中にある一定の概念に支配された主観的合目的がある。したがって、芸術の技術を習得したところで、芸術や独創性を生み出すことはできないだろう。流派があるとすれば、芸術家の数だけあると言ってもいい。芸術が人を惑わせるという意味では、人を欺く行為と似た事情がある。芸術家は詐欺師か?詐欺に会っても心地良ければええ!となると、宗教にも通ずるものがある。それは思考停止に陥れるかどうかの違いか?人間の精神とは、実に際どい認識でうごめいている。

4. 目的論的判断力
客観的判断を与えるために、法律や戒律などを制定しても、そこには自律性はない。こうした手段は、実践的ではあるが、法則や概念を包摂するだけであろう。本書は、他律的思考から判断力自身のアンチノミーが生じる危険性もなければ、判断力の原理が矛盾に陥ることもないという。法律に頼る言い訳は、自らの思考を放棄したということか?反省によって得られる判断力は自らの法則に包摂されるだけで、ここには客観的規準はないと言っているのか?いずれにせよ、判断力の原理は自ら編み出すしかないのだろう。合理的判断は、主観的原理によって、必然的格律が構築されることになろう。しかし、主観的原理に従えば、必然的格律の間に矛盾が生じ、アンチノミーが成立する。判断力もまた弁証法で、もがく運命にあるのか?
ところが、本書は、ア・プリオリな判断力は悟性によって客観的原理が与えれるという。そうかもしれないが、経験的に得られる認識でさえ、個人の法則に従って多種多様である。そこに純粋な客観性などというものを見出すことができるのだろうか?やはり、悟性と反省的経験の調和を求めるしかなさそうに思える。少なくとも、悟性を欠くところに客観的な判断を見出すことはできそうにない。
また、本書は、自然目的の実存論、あるいは、あらゆる実存を説明しようとする原因性、作用する原因の原因性といったものを批判する。そもそも、自然目的を説明できる人間などいるのか?人間の存在意義すら説明できないのに。そこで、神学は、神を持ち出して、あらゆる自然目的を説明できる点では優れている。有神論は悟性による自然目的性の観念を手際よく奪いやがる。そして、ご都合主義によって神の姿をも歪める。結果的に、有神論者は神を冒涜するという矛盾を犯すことになろう。客観的実存性を説明しようとするならば、一旦自らの存在意義を否定してみることだろう。すると、人間は概してニヒリズムに陥ることになる。思考の浅いところに芸術は生まれない。すべてのものに存在意義があるとする欲望的な思考のあるところに、芸術性を感じない。
「純粋な客観的根拠に基づいて(残念ながらかかる根拠は我々の能力を超越している)証明し得ないからといって、そのために我々が何を失うのだろうか、もし失うものがあるというなら、それがなんであるかを知りたいものである。」

5. 精神の究極目的
宇宙の最終目的とは何か?人間の存在意義を自然目的論的に答えがあるとしても、いまだ人間の価値観では説明できない。本書は、もし人間精神に究極目的が存在するとすれば、おそらく幸福であろうと語る。所詮、悟性や理性にしても、人間の価値観で判断されるに過ぎない。などと投げ遣りになれば、あらゆる犯罪も正当化できるわけだが、少なくとも人間社会という範疇で自己保存の原理は働く。では、自己保存の目的とは何か?その最高位なものが自らの幸福ということになろう。では、究極な幸福とは何か?本書が、それを具体的に答えてくれるわけではない。それもそのはず、幸福という価値観は個人の中にあり多種多様であるから。人によっては、麻薬付けにされて意識が朦朧とした状態に幸福を感じるかもしれない。あらゆる現実から逃避する瞬間が幸福かもしれない。キェルケゴール風に言えば、そもそも精神を獲得した時点で絶望となり不幸なのかもしれない。自らの精神を飼い馴らすことができれば、幸福になれるのだろう。いずれにせよ、幸福の正体は、絶対的ではなく相対的な価値でしかない。そして、戦争とは幸福の争奪戦であり、憐れみとは自らの幸福の優位性を確認するためのものとなろう。周りの人々も幸福であってほしいと願うのも、あまり極端に不幸な人を目の前にすれば、自分が不快に思うだけのことかもしれない。皆そこそこ幸福であってほしいが、自分がその幸福を最高に享受したいと願う。生命体である以上、利己心を捨てることはできないのかもしれない。生きるという目的そのものが利己心で成り立っているのだから。偉大な生物史からすると、一匹のプランクトンよりも、価値のある人間などいないのかもしれない。そうした悲観論を呟きつつも、人間社会の保存原理として、平均的な価値観を見出すことはできそうな気がする。一般的な幸福といえば、家族の健康や平和な社会といったところであろうか。しかし、不健康や戦争や経済不況があるから、希望的価値を認識することができる。希望が叶うことが幸福だとしたら、希望が叶わない状態を実感しなければ、幸福を認識できるはずもない。これは人間の悲しい性である。家族の構成や社会環境では、恵まれた境遇もあれば、恵まれない境遇もある。自然的偶然性による災いに対して、なぜ自分だけ不幸に見舞われるのかと考えるのは、自然法則をも凌駕する究極の利己心なのかもしれない。となると、相対的な価値観を求めることが、精神の究極目的とは到底思えない。そこで、精神の高まりのような、精神が崇高な意識を獲得するような、そんな価値観に幸福を求めることはできるだろう。それは、自らの精神を解放して、精神の真理を探究する欲求と言おうか。精神の芸術的領域、あるいは匠の境地への到達を目指すといったところであろうか。少なくとも脂ぎった欲求との差別化はできそうだ。こうしたものを究極目的とすれば、どんな境遇にあろうとも、共通目的とすることができるかもしれない。それは、日常生活や仕事などでも実践できるだろう。一般的に知識を求め判断能力を身に付けようと努力するのも、そうした意識が潜在的にあるのかもしれない。道を究めるとか、何かを悟るとかいったものを、人間は本能的に意識しているのかもしれない。こうした知的生命体の究極目的のようなものがあってもいい。それが「哲学する」ということであろうか。

6. 認識能力の実践
神学は道徳を規定する手段である。法学は法律によって道徳を実践する手段である。人間社会は、実践的に道徳を規定するが、いずれも強制力によって方向性を示しているに過ぎない。自律を欠いたところに、真の価値観を得ることはできないだろう。あらゆる抗争には排他論理がある。平和的な抗争が議論だとすれば、非平和的な抗争が戦争ということになる。もし、相手の存在を認め、共存の原理が働くとしたら、もはや沈黙するしかなくなるであろう。それでは、教育そのものが成り立たなくなりそうだ。では、理性が構築されるまで、大人が子供に思考を押し付けることになるのか?では、いつ理性が構築されたと判断するのか?それが一人前というやつか?人間は永遠に一人前になれそうにない。物事の存在意義は、なんらかの目的を見出せた時に、その価値があると認識される。もし、人間の幸福が宇宙の目的だとすれば、人間の存在を宇宙創造の究極目的として前提されなければなるまい。宇宙原理に絶対的な価値があるとしても、それが人間の幸福とは到底思えない。もしかしたら、ア・プリオリな認識によって、人間の存在価値を認めることができるのかもしれない。天才たちに自殺する例が多いというのも、彼らがその価値観に到達した証であろうか?

2009-11-22

"実践理性批判" Immanuel Kant 著

前記事に続いて、カントの第二批判書を記事にする。相変わらず難解な文章に、酔っ払いの脳は飽和状態にある。したがって、この記事がカントの意図したものかどうかは知らん!断っておくが、理性認識とは、理性の欠いたアル中ハイマーにとってまったく縁のない領域にある。だが、誰にでも気まぐれはあろう。

カントは、第一の批判で時間と空間のみをア・プリオリな認識であると主張した。アインシュタインは双方の概念を統合した時空の概念を持ち出したが、これは本質に迫っているかもしれない。宇宙物理学では、時間と空間を純粋スケールとして扱う。一人の人間は若い時期と老いた時期を同時に体現することはできない。ところが、時間軸を加えることによって、その双方を体現している。つまり、一人の人間の中に同時に体現できない理性が、時系列では多重人格性を見せる。時間と空間は人間の意識の産物であるとも言えよう。無学な人間と侮っていても、数年後には変貌することだってある。一年前に借金した一つの理性は、現在では違った理性に変わっているかもしれない。したがって、借金の取り立てに会えば、「今の俺は、昔の俺とは別人なんだ!帰ってくれ!」と追い返すこともできるわけだ。これを「時系列における別人論」あるいは「借金揉み消しの原理」と言う。自己破産法はこの認識論に則ったものであり、法の裁きには人間の反省の原理が内包される。
すべての事象は、時間と空間の変化とともに、変化しながら存在する。過去の時間は自由にはできない。では、未来の時間は自由にできるのか?少なくとも、存在を実感できるのは現在のこの瞬間だけでしかない。いや!その瞬間ですら自由なのかも疑わしい。自由の概念は実存論とも絡みそうだ。経験によって事象を意識するにしても時系列の中で認識される。したがって、歴史の解釈が時代によって変化するのも道理というものである。

第一の批判では純粋理性と先験的弁証法の限界が語られた。純粋理性とは、思弁的認識から生じるものであり、一切の経験的なものにかかわらない論理的直観のみで意志を規定するものである。それは、純粋悟性のみで到達した恒久普遍的な理性と言おうか、宇宙論的なア・プリオリな認識によって獲得できる理性である。したがって、純粋理性はすべての理性の持ち主においてまったく異なるものではないはず。対して、実践理性とは、経験によって獲得する価値観である。だが、経験的であってもア・プリオリな認識がなければ普遍的価値観には到達できないという。ここでいう経験とは、個人的な経験もあれば、歴史から学ぶような他人の経験も含む。その経験の中から直観的な崇高なる認識が生起すれば、それを実践理性とすることができるというわけである。法律や宗教の戒律といった道徳規定は、歴史的な経験によって形成されてきた。こうした規定も、原点を辿れば崇高な認識のもとで形成されたに違いない。しかし、現実社会では、規定が拡張していく過程の中で、奇妙な規定が氾濫する。積み重ねられた規定の複雑化が自己矛盾に陥っているとも言えよう。
純粋理性も実践理性も客観的な理性構築を目指すものであるが、第一批判では主観的方法論から迫り、第二批判では客観的方法論から迫ったと言えるかもしれない。いずれにせよ、ア・プリオリな認識の範疇で構築しようと試みるのであって、ノイズには目もくれない。本書は、実践理性を道徳的に獲得する理性として位置付け、道徳的法則と自由意志とのかかわりを論じている。そして、自由の概念は道徳的法則の原因性として存在すると語る。これは、実践理性が純粋理性を補完して、理性構築に完全性を見出すことを目指しているのだろうか?理性構築が不完全ならば、自由の概念も理性によって規定したところで完全であるはずもない。現実に、社会で形成される道徳観が多数決の原理に従っているのは否定できない。法律も裁判も多数決に支配され、人間社会は規定という消極的な意志によって支配される。
自由の概念は人口論ともかかわりそうだ。莫大な人口増加は自由の範囲も狭めるであろう。そこで、道徳的法則は自律から得られるか?という疑問がわく。人間の自律とはまさしく理性の獲得であろう。ただ、自律さえも法律といった他律に頼らざるを得ない。自由意志には衝動が共存するからである。義務の概念を確立する一方で、魔が差すことがある。となれば、人間は永遠に自律できないということか?所詮、人間は不完全性の中でしか生きられないのだろう。実践理性によって客観的完全性を見出すにしても、すぐに限界に到達する。そもそも、認識そのものが主観性の強いものである。法律は客観的であるが、人間が解釈した時点で主観的となる。いや!法律も主観に汚されているように映る。もし、純粋理性と実践理性の双方を統制する更なる高尚な理性なるものが構築できるとしたら、そこには誰もが納得する客観性が得られるはずだが、はたして、経験的な道徳的法則から真の最高善という価値観を獲得することができるだろうか?本書はこうした難題を突きつける。そこには、強制力をともなわなければならない理性構築への批判があるようだ。

自然法則には、実に多くの対称性を見出すことができる。ポーは、その著書「ユリイカ」で物質の本質を引力と斥力の対称性のみで説明した。物理学者は、物質に対して反物質を登場させて、エネルギー保存則になんら矛盾することなく宇宙の起源を説明する。現実世界には仮想世界を対抗させ、社会は創造と破壊の原理を繰り返す。宇宙や神という絶対的存在者があるとすれば、その対称に悪魔を登場させないと説明がつかない。では、悪魔に対応する存在とは何か?それが人間なのか?理性が幻ならば、道徳もまた幻であり、ついに人間の存在も幻となろう。そして、人間の持つ合理性そのものが宇宙原理に反するということにはならないのか?はたして、人間を超越した宇宙論的な超理性なるものが存在するのか?これは永遠に見つからない問題であろう。だが、道徳家は、平気でそれを自らの道徳観で説明するから滑稽と言わざるを得ない。もし、人間が恒久普遍的理性を説明できるならば、人間の存在意義も説明できるはず。そんなことできるのは神だけであろう。いや!神にすら説明ができないかもしれない。神が宇宙を創造した時に、偶然にも悪魔も一緒にできちゃった?と言い訳するかもしれない。となると、理性どころか道徳性も人間の持つ合理性も、その意義を疑わなければならなくなる。

1. 道徳的法則
道徳的法則は実践理性の根拠であり、二つの原則から成り立つという。それは格律と道徳規定である。格律は、意志を規定する主観的原理であり、善悪の規準は個人の中にある。一方、道徳規定は、道徳家や法律家などの理性の持ち主が例外なく妥当する客観的、普遍的原則である。ここで格律と道徳規定がなぜ区別して議論されるかというと、理性の持ち主が不完全者だからである。もし、完全無欠の理性の持ち主が存在すれば、格律は無用となろう。道徳の基本原理は善悪の規準で定められる。しかし、善悪の規準は個人によって違うから厄介なのだ。社会で発生する抗争では、侮辱や復讐といったものを個人の格律によって処理される。そこで、客観的な規準を必要とする。法は経験的によって積み上げられた客観的規準であり、法律や裁判は、第三者による客観性を求めた制度である。ただ、法は共存の概念から必然的に生まれた秩序で、強制的に押し付ける。これは骨肉の争いといった感情的争いが伝播するのを避けるための経験的手段である。法律や裁判が、ア・プリオリな原則から生じたのでなければ、そこに欠陥があるのも当然であろう。
宗教もまた、神という崇高な第三者の意志を命令として義務付ける経験的手段と言える。ただ、これも客観的かどうかは疑わしい。宗教家は普遍的原理として崇めるが、時代とともに価値観が変化するならば、そこに思考停止という現象が見られる。人間社会に現れる規律は明らかに自然法則とは異質である。それは、規定の根拠が人間の行動様式を対象としているからであろう。普遍的立法という形式で行動様式を規定することができないとすれば、人間の意志は宇宙原理にかかわりがないということか?道徳的法則による人間の意志と社会形成には依存関係がある。この依存性から責務や義務といった行動様式が現れる。いずれにせよ、道徳に尊厳がなければ、道徳的義務など当てにはできない。

2. 自由意志と理性の範囲
意志の自由には二通りの意味があるという。それは消極的な自由と積極的な自由である。意志が一切の経験にかかわらなければ、それは消極的な自由だという。もし、恒久普遍的原理の中に意志が存在するならば、人間の価値観は共通となり、積極的な自由を求める必要もなかろう。だが、人間は消極的な自由だけで、普遍的な価値観を見出すことはできない。
一方、意志が自発的に自分自身に道徳的法則を与えるならば、それは積極的な自由だという。一般的には、こちらを自由意志と解釈するだろう。したがって、自発的な道徳的法則に従った意志は自律をもたらすことになる。対して、法律や宗教的な神といった絶対的な教義によって半強制的に与えられるならば、意志は他律をもたらすことになる。そして、そこに生じる義務は個人の行動規範となる。ただ、強制的あるいは強迫観念に捕らわれた道徳観から、真の理性は構築できないだろう。人間の欲求には、快楽の追求と、高い志の追求がある。脂ぎった利潤を求める一方で、才能を成熟させる意志にも快感がある。知識の蓄積が自由度を高めるのも確かであろう。洗練された喜びと言おうか、そうした喜びを得る意志にこそ、自由の概念を生起させるような気がする。理性は消極的にも積極的にも働くだろうが、その按配は個人の経験や主観によって違いを見せる。
古来、哲学的問題に「自由意志は存在するのか?」という論争がある。もし、自由意志が自然法則に従うならば、そもそも実践的理性を必要としないだろう。しかし、いまだに精神に自然法則性を見出すことができない。必死に客観性を主張したところで、客観性であったためしがない。しかも、主張した本人が気づかないでいる。理性の議論は、その根本に自由意志の存在を認めるかどうかという問題と深くかかわりそうだ。少なくとも、自由を意識できるのは人間社会という限られた空間の中だけである。つまり、本人が自由と信じれば、それで幸せということであろう。人間社会は一種の麻薬のようにも思える。人間は、あらゆる制約の中で自由を模索しながら、妥協点を見つけて生きている。人生とは妥協の連続である。自由とは実に美しい言葉だ!だから、民衆は惑わされ、自由の概念を自由な欲望と錯覚するのであろう。欲望にも本能的欲望と理性的欲望がある。となれば、真の理性をともなわないところに真の自由はありえないことになりそうだ。自律から得られた義務にこそ、真の理性が宿るというわけか。その帰結は、人間は永遠に自由を獲得できないということか?

3. 人間が道徳に求めるもの
道徳は幸福という最高善を求めるという。人間にとって最高の価値は幸福であろう。そこで必要となる理性は、実践的必然性というよりは、自然的必然性と言うべきかもしれない。本書は、徳と幸福の結びつきを考察する。徳は義務を履行するのに道徳的な力を与えるという。人間は道徳的法則に従おうと努力する傾向がある。自由意志は最高善である幸福を求めて行動する。したがって、自由は最終的に理性と結びついて存在し、道徳性と幸福が必然的に連結することになるという。だが、その道徳的法則も妥協の中で存在し、その方法論として法律や宗教へ到達した。しかも、幸福は相対的な価値観であって、絶対的な幸福を認識することができないでいる。人間が快感や不快を感じるのも感情であって主観の領域にある。幸福を最上の意志と位置付けたところで、それは自己愛の原理に基づく。幸福に至らなければ道理に背き、人情に反する行為も現れる。そもそも、人間社会の存続自体が、人間が勝手に信じている正義であって、宇宙原理に反するのかもしれない。人間が意識する理性概念は幻想であって、勝手に崇高な意識として崇めているだけなのかもしれない。したがって、幸福もまた都合の悪いことを一瞬だけ忘れさせてくれる錯覚に違いない。「隣人を愛せ!」と命令したところで、命令形の道徳観から理性が生起するとも思えない。厄介なのは道徳的狂熱であり、宗教的熱狂である。よく、宗教なしで道徳観は植え付けられないといった無宗教批判が聞かれる。そして、「なぜ悪行を働かないのか?」と問えば、「いつも神が見ておられるから」と答える連中がいる。逆に言えば、神が見ていなければ、盗みも働くということか?そこには、罰が当たるという強制力が働く。狂信的な宗教力のある地域ほど紛争が多いというのもうなずけるわけだ。道徳家の主張には、徳を意識できることが幸福であるとする教義がある。それも間違いではなかろう。だが、自らの徳が最善であると信じた時に、徳の思考が停止する。そして、洗脳された連中は狂暴化する。歴史的に見ても、あらゆる残虐行為を正当化するところには、宗教的狂乱がなければ説明がつかない。強制された意識がなくても、無条件に信じるところには、受動的な意志となって強制力が発揮される。
自己意識を主観の領域から解放することは、訓練を重ねた人間ですら難しいだろう。自由意志で能動的に意識できる道徳観は、自らの探求欲がなければ難しい。何々学校を頼って、教官と教材が自動的に用意された受動的な学習よりも、独学の方がはるかに効果が大きいのと同じように。独学は、教材を選んだり、情報を嗅ぎ分けるという思考プロセスを大事にする。そこに、試行錯誤によって思考が洗練されるプロセスを味わうことができる。これこそが、学問の醍醐味というものであろう。

2009-11-15

"純粋理性批判(上/中/下)" Immanuel Kant 著

アル中ハイマーの購入予定リストには、昔から亡霊のように付き纏う奴らがいる。そろそろ亡霊退治に乗り出すとしよう。ただ、「カントの三大批判書」という亡霊は一筋縄ではいかない。科学書や歴史書などに触れていると、あちこちでカントの影響を感じることがある。一度読んで見る価値がありそうだと薄々感じてはいたが、その大作を目の前にすれば尻込みするというものだ。実は、全部読むのが億劫なので、第三批判書の「判断力批判」だけを読もうと試みた。ところが、一歩踏み入れたがために精神は蟻地獄へと引き摺られ、第二批判書「実践理性批判」、第一批判書「純粋理性批判」と遡ってしまった。通常の読み方からすると逆順であろうが、そこは天の邪鬼!結果的に理解を深めるためにも悪くない読み方である。というのも、読んでいるうちに気づいたのだが、三大批判書は併せて一つの体系を成している。「純粋理性批判」では、悟性認識に則った数学や自然科学の原理を論じ、「実践理性批判」では、理性認識に則った道徳と自由の原理を論じている。いずれも、認識能力の可能性と限界を考察したものである。前の二つの批判書で認識能力の限界を認めるならば、それに基づいた判断力もまた限界を認めることになろう。率直に「何のために認識能力を働かせるのか?」と問えば、それは「判断力を働かせるため」となろう。いや、認識そのものが判断の結果であるとも言える。カントは、思考の統合的立場としての判断力の不完全性を論じようとしたのではないか?おいらには、そう思えてならない。いずれの批判書も、ア・プリオリな認識を相手取った、人間認識の基本原理に迫ったものである。やはり一番おもしろいのは「判断力批判」であろう。したがって、おいらにとっては、前の二つの批判書は第三批判書のための序章の位置付けにある。いや!引き立て役と言ってもいい。ただ、記事にするのは通常の順番としよう。なぜかって?それは、純米酒を呷ると、天の邪鬼も素直になれるから。それにしても、引き立て役にしては大作過ぎるなぁ。なぁーに、アル中ハイマーは前戯が大好きだからまったく問題はない。もちろん本番も!

偉大な哲学書というものは、難解な論理の羅列がBGMとともに流れ去るような、不思議な錯覚に陥れる。しかも、一つの言葉に違った意味をめぐらせながら混乱させやがる。一語多義的な世界とでも言おうか、一貫性さえ疑いたくなる。もっとも、人間精神は矛盾律で成り立っているので違和感はない。そして、いろんな思考を錯綜させながら自らの哲学を覚醒させる。これが哲学書の極意というものか?世界には実に多くのどうにでも解釈できる抽象的な概念が氾濫する。
カント曰く、「多くの書物は、これほどに明晰にしようとしなかったら、もっとずっと明晰になったろうに」
人間は、その概念が奥深いものであっても、皮相的な結論に安易に飛びつく習性がある。それも人生が短いので仕方がないのだろう。だが、真理の探究で結論を急ぐこともあるまい。未解決な問題があって結構!「哲学する」とは人生の暇つぶしであるから。

理性認識は、理性の欠いたアル中ハイマーのもっとも避けていた領域である。カントは、本書を哲学における「コペルニクス的展開」と述べたという。なるほど、ここに記される純粋理性認識は、数学的理性認識と言ってもいい。ただ、数学のような成功をおさめるかは別である。数学の公理は永遠である。はたして哲学に公理なるものを見出すことができるのか?哲学と数学は同じ論理学を扱う意味で非常に似通っている。おいらは、数学は哲学の中で普遍性を見出したものが独立したものだと考えている。逆に言うと、人間精神に関わるものだけが、哲学にとどまったままとも言えよう。不完全性定理は、まさしく数学を哲学の領域に引き戻した感がある。ただ、数学と哲学では扱う対象が違う。数学は物理量や時間スケールといった「空間の量」を対象とする。一方、哲学は人間の認識や理性といった「精神の質」を対象とする。論理学は常に客観性に基づく形式化を求める。ところが、精神ってやつは主観の領域に深くかかわるから厄介なのだ。数学の証明には直観的確実性や自明性なるものが現れるが、哲学の証明には弁証法なるものが現れる。あらゆる学問が人間にかかわる現象に対して体系化を試みたが、ことごとく失敗してきた。だが、体系化できるかできないかの境界をさまよいながら、人間精神の限界を知ろうとする試みは無駄ではない。物事を深く掘り下げれば哲学的思考に辿り着くはず。あらゆる学問で、偉大な学者が、同時に偉大な哲学者であったのもうなずける。哲学的思考では、物事は本当に存在するのか?と疑えば実存論と争い、存在意義はあるのか?と疑えば無意味論と対峙する。そして、哲学とは何か?と自己言及の罠へと導かれる。そもそも、人間精神の解明に人間精神がどこまで迫れるかという問題自体が、自己矛盾に陥っている。そして、「おいらは誰なんだ?」と問い続ければ、「飲むしかないではないか」となる。もはや、酒を飲んでいるのか?酒に飲まれているのか?自己認識の存在すら疑わしい。つまり、「哲学する」とは、酒を飲むことである。したがって、多くの哲学者はアル中に違いない。

本書のテーマは哲学的問題の中でも、理性というとてつもない領域へと踏み込む。理性を観察するには、理性よりも高次の宇宙原理的な価値観から眺めなければならないだろう。数学は、自然数を解明するために整数や有理数の概念を登場させた。物理学界は、空間を解明するために、より高度な次元への移行を求める。つまり、一つの系を観察するためには、より抽象度の高い系を必要としてきた。純粋理性とは、宇宙原理に近い恒久普遍的な理性とも言えよう。そして、純粋理性の中で根幹を成すものが、純粋悟性である。その認識能力は、直観的で単純な論理の組み立てだけでは到達しえない崇高なもののように映る。本書は「ア・プリオリ」という言葉を登場させる。そして、理性構築に人間のア・プリオリな認識能力から演繹できるのか?という問題と対峙する。
ところで、「ア・プリオリ」とはなんぞや?辞書で調べると先験的や先天的となるようだが、いまいちしっくりとしない。主観を働かせることによって得られる客観的帰結とでも言おうか。例えば、数学の定理は客観的な考察と言えるが、定理を導くまでの思考プロセスには直観的な考察が関与する。人間は物事を認識する時、論理の組み立てだけでは深い思考が得られない。そこで、本能的に自然原理のようなものに照らしながら、直観を働かせるだろう。つまり、直観と論理的思考の調和のようなものと解釈できそうだ。したがって、数学の公理は、ア・プリオリな総合的判断の演繹によって積み重ねらてきたと言えよう。そもそも論理学は、悟性によって形式的規則を成立させることを求め、客観的に構築するものである。その論理学を主観的領域に持ち込んで客観的に構築するとはどういうことか?問題は既に自己矛盾に嵌っている感がある。だが、論理学の先験的弁証法は主観的と言ってもいい。直観の原理による認識が、結果的に客観的認識として見出すことができれば、それをア・プリオリな認識として受け入れることはできそうだ。そこで問題となるのが「はたしてア・プリオリな悟性認識だけで理性構築は可能なのか?」ということになる。本書は、この問題を通じて、思弁的な理性認識を否定しているのではなく、おそらく理性能力の限界を示したかったに違いない。これは、アリストテレス的な形而上学の限界を指摘しているのか?唯物論よりも唯心論の方がましだと言っているのか?その批判の意図はよく分からん。酔っ払った精神では、勝手な解釈によって御託を並べてみることぐらいしかできないのだから。

本書で注目したいのは、理性認識の重要な意義に自由の概念が内包されていることである。古くから自由意志の存在をめぐった哲学的論争がある。自由意志を主張したところで自然法則に支配されるような気もする。ただ、理性認識の範疇で自由意志が規定される可能性を匂わせている。なるほど、自由の概念は理性の原因性によって生じると考えることができるかもしれない。理性構築では、どうしても経験的観念に頼らざるを得ない。では、経験を重ねれば理性は進化するのかと言えば、それも疑わしい。先験的認識と経験的認識が調和した時、更なる高次な統制能力を持った理性認識が生起するとでも言っているのだろうか?

1. ア・プリオリ
人間の意識はすべて経験に頼っているわけではない。生まれたばかりの赤ん坊が「おぎゃー」と泣くのも生まれながらに持った意識があるからであろう。ただ、人間は歳を重ねるとあらゆる現象が経験的に見えてくるところがある。ここで言う経験とは、自らの経験だけでなく歴史事象や他人の経験も含む。
また、経験を基に直観的認識が浮かび上がることもある。経験によって生じた認識であっても、結果的に純粋な宇宙原理のようなものを感じることがある。道徳的観念において抑制力が働くのは、すべてが経験的というのでは説明ができない。こうしてみると、「経験的認識」と「直観的認識」の境界を明確にすることが難しいことに気づかされる。大人になれば、純粋な心を失っていくのもうなずけるわけだ。
数学の公理は宇宙原理のような純粋な認識を求める。これは偶然存在するのではなく、もっと崇高な認識といったところだろうか。本書は、こうした純粋領域にあるものをア・プリオリと呼び、更にア・プリオリな認識は「時間」と「空間」だけであると主張している。なるほど、アインシュタインが時空の概念を持ち出したのも、本質をついていそうだ。不思議なことに、時間や空間は客観的でありながら、人間認識では主観的である。日常生活では、相対認識の中で時間を短く感じたり長く感じたりする。空間も広く感じたり狭く感じたりする。自殺する意識も、自らの存在感に悩んだ末に現れる空間的な相対意識かもしれない。人間は、時間や空間が絶えず変化することに、はかなさを感じる。しかし、時間と空間が変化するのは客観的事実である。こうなると、純粋直観と経験的直観、あるいは主観と客観の境界も曖昧になってくる。少なくとも、時間と空間の概念を精神の世界のみに限定する必要はないという意味では客観的ではあるのだが。
ちなみに、「ア・プリオリ」の対義語で「ア・ポステリオリ」という言葉もあるそうな。
ところで、ア・プリオリな純粋理性を規定することはできるのだろうか?人生経験の積み重ねの中で理性に目覚めることはあるだろう。しかし、人間の前に現れる問題はいつになっても尽きることがない。それは時間が途絶えることがないからか?人間は、理性が経験的な領域を超越していて、いつまでも不完全であることに、なんとなく気づいているのだろう。にもかかわらず、常識としての共通の価値観を持ち出す。その代表が法律や宗教の戒律といった道徳観である。あたかも完全であるかのような原則として用いて、そこに逃避せざるを得ない。人間はこうした一時避難所である実践的道徳を規定している。

2. 先験的弁証法
理性には、論理的能力と先験的能力があるという。いずれにせよ、人間は自らの価値観よりも高い認識能力を発揮することはできないだろう。人間は、都合によって主観的必然性を客観的必然性と見なすところがある。本書は、これを「仮象」と呼ぶ。そして、先験的弁証法をもってしても、この仮象を避けることはできないという。なるほど、経験を積めば積むほど、その錯覚に陥りやすい。誰が見ても客観性というのは、実は主観性の多数決であったり、業界の慣習に従っているだけだったりする。そこで、主観的認識は悟性との一致を求めて客観的に調和しようとする。だが、純粋理性は、経験から得られるのではなく、推論によって得られる概念である。言い換えれば、ア・プリオリな原則に従い、ひたすら悟性によってのみ規定できる認識である。本書は、純粋理性の分析であっても、無意識のうちに虚偽が入り込むと指摘している。それが誤謬推理である。しかも、純粋理性の先験的証明はすべて弁証法的仮象の中で行われると断言している。数学で生じる矛盾は客観性に基づくが、哲学における矛盾は主観性の中でさまよう。となれば、哲学の基本として、弁証法的矛盾を単なる矛盾として片付けるわけにはいかないだろう。
「自信は見せかけの真実に過ぎない。」
本書は、悟性判断は客観と一致するはずなので、自信を確信の地位に押し上げる努力を求めている。確信に近づけるためには、「臆見」「信」「知識」の三段階を経由するという。「臆見」は空想の段階であり、「信」は主観的段階であり、「知識」が客観的な地位の段階だという。数学で「臆見」を立てることは不合理かもしれないが、難問と対峙する時には有効となる。理性の先験的考察でも有効で、ここが人間精神を相手取る哲学の醍醐味でもあろう。「臆見」や「信」の段階で「神の存在を信じる」と主張したところでなんの問題はないが、宗教はこれを「知識」として押し付けやがる。

3. アンチノミー
アンチノミーは、二律背反と訳されることが多い。本書は、アンチノミーは弁証的推理を行う際の理性の状態であり、純粋理性には自己矛盾が自然に出現するという。
本書はアンチノミーの命題を四つ挙げる。
(1) 時間と空間の限界説は有限か?無限か?
(2) 全ての物質は分解不可能な単純要素によって構成されるのか?
(3) 普遍的な自由は存在するか?全て自然法則に従うか?
(4) 宇宙の原因となる必然的存在者が実存するか?

時間と空間が科学的に有限であるにしても、人間の認識としては無限に等しい。数学的に無限と有限の境界を定義したところで、哲学的に解決できるものではない。人間の精神は自己矛盾からは永遠に逃れられない運命にあるのだろう。そして、精神の矛盾を否定すれば、人間の存在そのものを否定することにもなりそうだ。
アンチノミーは、時間と空間の条件下に支配された認識である。もし、こうした概念が自然的、必然的、絶対的な支配から解放された時、宇宙論に到達した純粋理性の存在を認めることができるのかもしれない。だが、人間の理性は、相対的であり、社会的であり、多数決的な性格を帯びている。純粋理性を求めたところで、人間の認識は実践的な関心にしか向かおうとはしない。人間の理性は建設的な意識を受け入れ、体系的に矛盾しないように認識しようとする習性がある。あるいは不都合な現象を見ぬ振りをすると言った方がいい。自由な認識の延長上には、ご都合主義がある。こうした自由は欺瞞なのかもしれない。先験的哲学において答えられる対象といえば、宇宙論的問題や自然科学の問題だけであることを、カントは認めていたのかもしれない。アンチノミーの存在は、哲学の死、もっと言うと純粋理性の安楽死を意味しているのか?

4. イデア論
認識論を語る上で、プラトンのイデア論を避けることはできまい。イデア論はアリストテレスが論じた悟性概念を遥かに超越しているように映る。イデアは、物の原型である最高の理性から流出して、人間理性に授かったものと考える。プラトンは、もともと理想的な理念を持った純粋イデアなるものがあったと考える。だが、人間理性はもはや本来の純粋な姿に戻ることはできない。プラトンのイデア論は、遺伝子コピーが完全ではないことを意味しているのだろうか?遺伝子コピーはある確率の低いところで障害者を生む。というより、どんな人間もなんらかの障害を持っていて、それが不完全性と言えよう。本来人間の持つ純粋理性というイデアは、だんだん悪徳を身に付けて悪魔へと変貌するのだろうか?法や宗教といった道徳規制の登場は、人間の悪徳を抑制するための手段として登場した。法の進化は、人間の悪徳の進化に比例するとも言えよう。知恵や知識とは、悪魔への道しるべなのか?人間は進化とともに認識を拡大してきた。だが、これは本当に進化なのか?退化ではないのか?イデアは生きていく個人の中でも変化していくように見える。泥酔者ともなれば記憶も薄れ、理念も薄れる。きっと、アル中ハイマーにも理想的な理念を持った時期があったに違いない。子供は早く大人になりたいと夢を見る、大人はいつまでも子供のままでいたいと夢を見る。

2009-11-08

"帝国主義論" レーニン 著

前記事の「菊と刀」が読みやすかったので、その訳者である角田安正氏に惹かれて本書も手に取ってみた。ましてや、ボリシェヴィキに惹かれたわけでも、共産主義に惹かれたわけでもない。
ちなみに、酔っ払いが解釈する共産主義とは、すべて平等で、すべての国民を幸せにしてくれる思想といったところだろうか。ひらたく言えば、「みんなの社会にする」ということである。そのためには、あらゆる私有財産を没収する。私的所有の概念をすべて取っ払う。つまり、欲望という人間の持つ本質までも拒絶する。下手すると、個性をも否定しかねない。この体制の矛盾は、欲望を捨てきれない脂ぎった人間が支配することである。最高の理性の持ち主と自負する輩が権力の中枢に居座り、巨大官僚体制の下で堂々と搾取が行われる。平和主義者が理想を崇め過ぎて戦争を招きいれるように、現実を直視しなければ悲劇となる。まだしも、人間の持つ本質を認めた資本主義の方が現実的と言えよう。そもそも、マルクス主義者たちはテキストの解釈権を党が独占したという経緯がある。それをマルクス自身が意図したかどうかは知らん。どこぞの教会のように、恣意的に解釈されることを拒むような思想がまともとは思えん。マルクスは、まさしくマルクス主義者たちによって悪者に仕立てられたと言ってもいいだろう。優れた思想にありがちな展開だ。創始者がどんなに天才であっても、自称継承者は凡人である。マルクス・レーニン主義と呼ばれることがあるが、マルクスとレーニンが同じことを主張していたのかも疑わしい。アル中ハイマーが解釈する共産主義とは、所詮この程度のものである。

本書は、「資本主義の最高の段階としての帝国主義」という論文からきているらしい。レーニンは、帝国主義を資本主義の最高段階として位置付け、その体制を猛烈に批判する。その思想の根底にはマルクス主義があるのは言うまでもない。だが、その解釈には昔から疑問がある。マルクスの言った「疎外」を解釈したければ、その著書「資本論」を読むのが一番だろうが、あまりにも大作でなかなか手の出せる領域にない。ただ、本書によって、マルクス自身の意図とは別にしても、マルクス主義者たちがどのように解釈していたかを垣間見ることはできそうだ。また、資本主義の弱点を指摘している点から、資本主義の理解にも役立つ。ただ、本書がここまで資本主義あるいは近代経済の欠点を暴露しながら、なぜボリシェヴィキのような思想に陥るのか?なぜ暴力的な社会主義革命運動を煽るのか?という疑問が残る。この疑問を探るには、時代背景を考察しないわけにはいかない。その根底には、ブルジョアジーとプロレタリアートの対立があり、そこにイデオロギー闘争へと発展した構図がある。本書は、資本主義批判書であるが、資本主義固有の問題ではなく、人間社会が抱える普遍的な問題を内包しているように思える。

本書とは少々ずれるが、ちょいとレーニン時代までの経済史を紐解いてみよう。
資本主義思想の根底には、宗教や伝統主義から脱皮した自由な経済活動がある。つまり、労働者の自立である。この自立をうながしたのが、キリスト教の予定説であるといった議論は、社会学者ヴェーバーをはじめ多くの専門家が支持している通りである。中世ヨーロッパの時代に、ローマ教会の堕落が宗教改革やルネサンスを呼び起したのは事実であろう。ただ、プロテスタンティズムが資本主義傾向を加速させたと解釈することに異論はないが、資本主義がキリスト教世界のみに生まれた独自の思想という行き過ぎた解釈があるのには抵抗がある。
ここでいう労働者は、商工業であって、農業だけが置き去りにされる。一般的に先進国では、農業組織の発展が遅れてきた経緯がある。食料は人間が生きる上での根本であり、農奴といった政治による支配的伝統が農民の自立を妨げてきたとも推察できよう。当初の商工業は資本を持った経営者と、そこで雇われる労働者によって構成される。当然、資本家側の権力が強い。したがって、経済活動は資本家階級相互間の自由競争によって活性化される。自由競争が激化すると、勝者と敗者に分かれ、勝者は敗者を吸収していく。巨大化した企業は、資本効率が高まり、ますます優位性を保つ。となると、一部の資本家階級が社会を仕切るようになり、労働者の奴隷化が進むことになる。優位に立った資本家階級は、政治と癒着して、その地位をますます強固なものにする。つまり、企業による独占や寡占といった状態が、政治への寄生や腐敗となっていく。巨大化企業体の中で労働者は「疎外」を感じざるを得ない。いや、資本家階級ですら巨大化し過ぎた組織の実体すら把握できなくなり、もはや何を所有しているのかも分からなくなる。これが、マルクスの言う「疎外」の正体なのかは知らん!
そもそも企業体には、資源資本と労働資本によって生産して、製品を売るという仕組みがある。その決済は銀行を介して行われる。そもそも銀行の役割は決済の仲介業務であったはず。やがて、資本の流通に目をつけた銀行は、金融資本と化し間接的に企業体を支配することになる。株式資本という形をとって、その保有率を増しながら巨大化した企業に役員を送り込む。持ち株会社によって独占や寡占という形態が現れるが、これは一般企業のみにとどまらず銀行自身にも及ぶ。レーニンが生きた第一次大戦前後では、資本家階級の中でも金融資本が台頭した時代であり、ロックフェラーやロスチャイルドといった金融組織が勢力を拡大し、欧米政府を震撼させた。その名残で、いまだにユダヤ系の金融支配という陰謀説の噂は絶えない。欧米列強国では、莫大な富を得た金利生活者を蔓延らせる。しかし、誰かが生産しなければ生活は豊かにならない。そこで、隷属国で生産された商品を先進国に流通させることによって富を得る海外政策が展開される。つまり、独占と寡占によって巨大化した企業体が政府と癒着して植民地政策へ乗り出した結果、帝国主義という形態が生まれた。植民地支配は原料争奪戦である。列強国が競って新たな土地を求めれば、やがて植民地が枯渇し、植民地の奪い合いとなる。そこには、一部の列強国による世界分割という構図がある。
第一次大戦の発端に目を向ければ、バルカン半島をめぐった陰謀が渦巻く。古くからバルカン危機は、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャといった民族問題を抱えていた。ハプスブルク家の謀略は、セルビアをオーストリア=ハンガリー帝国に従属させようとする。もはや、資本主義で培われた自由競争原理は、まったく正反対の独占の概念へと変貌した。そこで、労働者階級は自らの権力を復活させるために立ち上がらなければならないと叫ぶ。大方の流れはこんなところだろう。
そこで、レーニンが「バーゼル宣言」で弱い立場にある労働者の結束を呼びかけたのは意義深い。とはいっても、インターナショナルという組織は平和主義を唱えながら暴力革命を煽るのだが。あらゆる平等を謳った団体の結成当初のスローガンは美しい。しかし、平等を崇め過ぎて宗教的な洗脳力を発揮して政治団体と化す。そして、結果的に、弱者を利用して毟り取る権力者を育ててしまう。これが社会のタブーとなり聖域化すると、もはや手に追えない。

本書は資本主義の暴走による独占権益が官僚体質と結びつき寄生と腐敗を発生させたと指摘している。だが、社会主義の暴走が寄生と腐敗で巨大官僚体制を築き、共産主義国を崩壊させたことは見逃せない。これはどんな体制や組織においても起こり得る現象で、ヴェーバーが指摘した官僚化の法則とも言うべき理論が的を得ている。いずれにせよ、イデオロギーの暴走は社会に害をなすことの証であろう。どんな社会システムであれ、常に検証され続けなければ健全な状態を保つことは難しい。
第二次大戦後、植民地解放運動が広まり、資本主義国は帝国主義を捨てた。これも、ソ連という巨大な社会主義国が経済的に成功するかに思えたからであろう。ソ連の計画経済は、1960年代までは福祉向上に貢献しているように見えた。西側で左翼政党が一定の勢力を保てたのも、ソ連の存在が大きい。資本主義の暴走を抑止するという意味では、ごく少数派で共産党が存在するのも意味があるかもしれない。となると、ソ連崩壊とともに抑止力を失ったと見ることもできるわけだが、現在ではその暴走が市場原理主義という形で現れているのだろうか?当時と似通った状況に映るのは、巨大な金融資本が蔓延るところである。資本主義が健全に機能するためには、本当の意味での投資が定着する必要がある。だが、実際は投機が煽られる。帝国主義熱は、現在の投機屋による金融資本熱にも通ずるものがある。経済システムが特定の金融組織に依存度を高めるということは、事実上、金融植民地化を意味する。資本主義国を代表するアメリカは、総収入90%以上を20%の富裕層が独占すると言われる。これが健全な資本主義の姿だとは到底思えない。対して、日本は一般的に資本主義と言われるが、高度成長期からの日本型社会主義といった側面がある。それは、「一億総中流」という言葉からもうかがえる。現在では、小さな政府が唱えられ、なんでも民営化の方向へと進む。この流れが間違っているとも言えない。少なくとも現在の政府は大き過ぎる。いや、政府は機能せず、官僚が巨大化し過ぎたと言った方がいい。日本が資本主義と信じていても、むしろ旧ソ連体制に似ていると疑っている人も少なくないだろう。

なんとなく、植民地の資本の流動が現在の途上国の資本の流動と重なって映るのは気のせいか?例えば、先進国よりも途上国の方が、賃金が安く労働資本は効率的に運用できる。大企業が生産拠点を途上国に移すのも理解できるが、やがて途上国も労働者の生活水準は上がる。そして、新たな途上国を求めることを繰り返せば、いずれ地球上の労働資本は限界点に達するだろう。これは急激な人口増加を無視して議論することはできない。つまり、地球資源の枯渇と似た状況にある。経済発展がこのままムーアの法則で加速するとしたら、資本の枯渇もそう遠い未来ではなさそうだ。となると、資本主義は拡張経済から分配経済へと移行するだろう。20世紀までは、国家間や企業間の格差が、資本の流れを円滑にしてきた。だからといって、わざわざ格差を拡大する政策をとれば暴動が起こるだろう。先進国では付加価値の高い製品が輸出され、後進国では資源資本や労働資本を供給するという関係は、後進国が豊かになれば資本の流れが均等化するだろう。では、最終的に資源資本を持った国が優位になるのか?いや、技術革新は資源や資本の概念をも変えるだろう。化石燃料に頼らないエネルギー政策を取ることが優位性を保つ鍵となるかもしれない。20世紀までは世界経済を自由の概念によって牽引してきたが、21世紀は平等の概念に少し重きを変えるのかもしれない。いずれにせよ資本主義の改良版が求められるだろう。極端に理想論へ移行するのは実践的ではない。人類には、皮肉にも理想を追いかけることによって、逆に社会を暴走させてきた歴史がある。本書は、資本主義の本質には私有財産の神聖化があるという。その通りであろう。しかし、社会主義が強すぎて国家が私有財産を取り上げれば、巨大官僚支配となる。この点では、資本主義よりもむしろ共産主義の方が質が悪い。もし、完璧な政治体制があるとすれば、それは神による独裁であろう。ただ、政治指導者たちが神になろうとするから困ったものだ。人間社会とはおもしろいもので、支配階級が自らの道徳観が最も優れていると自負した時に、最も醜い政治体制が完成する。

1. カウツキー主義批判
レーニンのドイツ社会民主党の理論家カール・カウツキーに対する攻撃は尋常ではない。その性癖はスターリンさながらである。ボリシェヴィキとは、そうした性癖をもった連中ばかりなのか?本書は、ほとんどカウツキー主義の批判書と言ってもいい。そして、第二インターナショナルを堕落と腐敗の産物と蔑む。第二インターナショナルとは、第一インターナショナル(国際労働者協会)の後継組織で、ヨーロッパ各国の労働組合と社会主義政党が結成した労働団体である。この団体は、マルクス主義に基づくプロレタリアートの組織として発展した。そして、指導者エンゲルスが亡くなると日和見主義者が指導者になったという。ちなみに、第三インターナショナルは、別名、共産主義インターナショナルなのだそうな。カウツキーは資本主義の崩壊を唱えている点でマルクス主義的であるが、プロレタリアートを軽視した点で、マルクス主義の理論的誤謬を犯していると批難している。そして、言葉の上では社会主義を唱えながら実は社会主義的排外主義であって、彼らが唱える社会平和主義や世界民主主義は欺瞞であるという。ここには、真のマルクス主義こそが共産主義であり、ボリシェヴィキだと主張しているところに、レーニンの傲慢さがうかがえる。実際に、ドイツではビスマルク首相の時代に社会保障政策を唱えている。こうした流れが、ドイツの労働者を資本主義の改良主義へ導いたとも言えよう。だが、帝国主義を目の当たりにすれば、資本主義の暴走に歯止めがかけられないと考えて、革命を煽るのも分からなくはない。そして、ボリシェヴィキが活躍したのが資本主義の後進国ロシアであったのも、まだロシアなら救済できると信じたからかもしれない。

2. 帝国主義批判
第一次大戦当時、帝国主義によって狂気の沙汰となった軍拡熱が高まり、物価の高騰を招いた。そして、列強国の国民は互いに反目しあうようになる。本書は、鉄道建設、石炭産業、鉄鋼業といった資本主義を牽引した工業を、ブルジョア民主主義文明の象徴と蔑む。そこには、カルテル、シンジケート、トラストといった資本家による独占形態が現れ、国内市場を分割して占有した様子が語られる。そして、必然的に独占団体同士が世界的に結びつき、国際カルテルを結成する事態になったという。更に、資本主義では農業は育たないと主張している。確かに、工業が資本主義を牽引してきた。だが、ボリシェヴィキの指導下で農業組織が進化したとも思えない。植民地支配もまた、資本主義が生み出した産物だと主張している。まさに、鉄道建設は資本主義的奴隷制によって支えられながら、私的所有と結びついてきた。しかし、強制労働という意味では、共産主義も負けていない。資本主義でなくても、支配階層の欲望に寄生と腐敗が結びつくのは人間の本性であろう。領土の奪い合いで見られる世界分割、植民地争奪戦、経済的勢力圏を求める闘争、これが資本主義の最終段階であるという。帝国主義は資本主義の振り子が極端に振れた結果とも言えよう。では、社会主義が極端に振れた結果が共産主義で、その最たるものがスターリンというわけか。ボリシェヴィキによってスターリンが登場したわけだが、レーニンがこの人物の危険性に気づいていたことは明白である。スターリンの失脚を企てて失敗したが、こうした行動はレーニンが社会主義の暴走にも危険性を感じていたからかもしれない。

3. 帝国主義における銀行の役割
いつの時代でも、銀行の役割が議論される。社会で最も道徳的な立場が要求される業種の一つでもあるが、伝統的に暴走する性格を持っているようだ。人間はお金が絡むと目の色を変える。それも、お金には実体がないという意識から不安に駆られるのだろう。だから、大金を持ち過ぎても欲望に憑かれる。現在では、銀行に依存しない経済システムの構築が囁かれるのも皮肉である。銀行は、決済の仲介業務から離れると常に批判の対象となる。まったく生産性のない業種が、資本主義の中枢を握るという経済構造があり続ける。本書は、銀行の独占化が帝国主義を強化したと指摘している。そこには、銀行は投資の仲介ではなく、投機を煽る巨大組織となった様子が語られる。旧来の資本主義では、銀行は自由競争の調整機関である証券取引所として機能していたという。証券取引所の役割は、企業価値や貨幣価値といった物質的評価を正常に安定させることにある。この仕掛けは、人間のできない価値評価を自然原理に委ねたと言ってもいいだろう。ところが、銀行が優位性を保つために巨大な資本を集めた結果、資金流入を独占し、資金を頼みにする企業を事実上傘下に置くことになる。株式保有率を高めれば、そこに役員を送り込み、そこに政府高官が癒着する。ドイツでは、巨大銀行の取締役に、国会議員や市会議員を見かけるのは珍しくなかったという。また、経営能力を超えた資本の流入によって、経営者がギャンブル的な事業に乗り出す光景がある。そこには、貸借対照表に現れない一般投資家を欺いた工作行為がある。おまけに、新規事業に失敗しても、機を逸することなく株式を売り抜ける。当時、貸借対照表の実態を読みにくくする手法が横行したという。本来、銀行は産業界の裏方のはずだが、資本主義では金融資本の強化が事実上国家を支配したと指摘している。「株式所有の民主化」と言ってしまえば聞こえはいいが、資本の民主化は金融寡占制の威力を増幅する便法になっているという。経済危機で、政府が救済するのは破産に追い込まれた富裕層であることは、いつの時代も同じようだ。

2009-11-01

"菊と刀" Ruth Benedict 著

アル中ハイマーの購入予定リストには、ずーっと前から亡霊のように居座る奴らがいる。本書もその中の一つ、これがどういう経緯でリストに挙がったかは記憶にない。

「菊と刀」は、いろんな訳版があるようだ。本書は訳者角田安正氏による光文社版である。第二次大戦中、文化人類学者ルース・ベネディクトは、アメリカ情報局の依頼を受け日本人の気質を研究した。そこには、戦時中でもあり、研究者として現地調査ができないことを悔しく思っている旨が語られる。参考としたのは、在米日系人と日本文学や歴史文献などだという。こうした制限の中で、これだけの分析がなされるのには感服せざるを得ない。本書は、あくまでもアメリカ人向けに記されたアメリカ人による日本人文化論である。
当時、日本に住んだことのある欧米人が書き残したものは、一般的に貧弱かつ皮相的だったという。したがって、欧米人の文献を参考にすると、むしろ誤った知識を展開すると警戒している。本書の分析は、時折ドイツ人やフランス人やロシア人との比較を交えながら、主にアメリカ人との対比の中で展開される。こうした比較分析の難しいところは、観察者が観察される側を見下ろしていると誤解されるところであろう。相対的な関係からは、文化の優劣が強調される感がある。こうしたわけで、ベネディクトへの批判が少なからずあるのも理解できる。鋭い指摘も多いが、事実誤認という欠点も見られるのは仕方があるまい。C・ダグラス・スミスによると、アメリカ人が大人であるのに対して、日本人は子供で成長過程にあると解釈しているという。日本の評論家にも似たような発言をする人がいるが、それは少々浅はかであろう。本書には、アメリカ人の自国民中心主義と、それを他国に押し付ける有難迷惑な態度を批判する様子もうかがえる。日本を命令によって自由で民主主義的に創造することは、アメリカの手には余ると述べている。そして、フランスのド・トクヴィルの言葉を紹介している。
「アメリカはさまざまな長所があるにもかかわらず、真の風格を欠いている。」
トクヴィルによると、アメリカ人よりも日本人の価値観の方が納得できるかもしれないと語っているそうな。法の力を借りたところで慣習として根付かなければ意味をなさない。ベネディクトはそれを理解しているように思える。人間が自らを客観的に評価することは難しい。身近過ぎて見えないものも多くある。日本文化に見られる行動様式を外国人の目で見た考察は、重要な手掛かりを与えてくれるだろう。そして、比較の中で相対的に語ることの難しさを改めて感じさせてくれる。なるほど、日米両国でロングセラーを続けているのもうなずけるわけだ。ちなみに、アメリカでは、ベネディクトの主著は「文化の型」と見なされているらしい。

ところで、「菊と刀」というタイトルに込められる意味とは何か?当初、菊の花に自然の美を求める心と、刀には好戦的な性格を表している印象を持っていた。時折、欧米人が口にする日本人の二重人格性である。だが、読み続けていくと、そう簡単には片付けられないように思えてくる。「菊」の美しさには、名誉や恥や自制心が象徴され、「刀」には、輝きを放つ武士の義務を全うする強い意志が現れる。本書は、日本人の自己責任の解釈は徹底的で、アメリカ人には遠く及ばないと語っている。したがって、「菊」と「刀」を対立関係として見るのではなく、なんら矛盾しない関係に映る。また、日本人の文化的倫理観は、アメリカよりもヨーロッパに類似したところがあるように思えてくる。本書も、日本人の価値観をドイツ人の名誉やスペイン人の勇気、あるいはナポレオン軍の誇りと重ねて論じている。ただ、最も性格の反するアメリカによって占領政策がなされたのも、歴史の皮肉というものか。確かに、本書には欠点も目立つ。だが、戦争相手の研究という意味では、アメリカは最低限の情報収集に取り組んだとも言えよう。対して当時の日本政府が、戦争相手の文化をどこまで研究していたのかは疑問である。日本には情報を疎かにする伝統がある。既に情報戦で負けていた証とも言えよう。
日本では、太平洋戦争を軍部の暴走と解釈する人が多いだろう。だが、そう簡単には片付けられないような気がする。軍部を含めた政治家たちが、アメリカの工業力に勝てると真面目に考えていたのか?当時の政治家はそれほど馬鹿だったのか?ポーツマス条約や海軍軍縮条約といった不公平条約への不満も見逃せない。敗戦を覚悟して国の威信を賭けたとも言えよう。また、国民感情が教育を含めて扇動されたのも事実であろう。平和論を唱えようものなら国賊と罵られる時代である。明治維新から急激な近代化にともない、天皇を中心とした神の国というスローガンの元に絶対に戦争に負けないと洗脳された。となれば、徹底的な敗北を喫するまで戦争を続ける運命を背負わされたのかもしれない、などと発言すると批難もされようが、酔っ払いにはそう思えてならない。そもそも、自国を神の国と崇める時点で、他国を蔑んでいる。現代風に言えば、アメリカが自らの理念の崇高さに酔いしれて強大な軍事力を後ろ盾に世界の警察官を自認し、国連を無視するといったところだろうか。しかも、その軍事行動は世論操作によって扇動され、おまけに、それを無条件で支持する無責任な国が取り巻く。こうしてみると政治手法は、現在も昔も大して変わっていないように映る。

欧米人は、イデオロギーの鞍替えや思想の転換を見ると、その人の人格の変化を再評価するという。まさしく、日本は太平洋戦争の敵国に対して、占領下では友好的な態度に変貌した。民族滅亡に瀕するまで戦い抜くという意志は、天皇の終戦宣言であっさりと方向転換してしまう。そこには西洋式レジスタンスのような態度は現れない。これにはアメリカも驚いたであろう。本書は、こうした一変した態度のできる国民の文化的倫理観を考察する上で、宗教的考察はもちろん、子育ての方法といった慣習にまで踏み込む。表面的には仏教国だが、その中身は仏教的でも儒教的でもない。煩悩を遠ざける一方で、五感の愉悦を楽しむ享楽の解放がある。極東に位置する日本は、あらゆる宗教を最も冷静な目で眺めることができると解釈することもできよう。無宗教と批難されることもあるが、これはむしろ良いことではないだろうか。無宗教でも信仰がないわけではない。一定の信仰に凝り固まらず、柔軟に思考が変えられる特長がある。悪く言えば優柔不断でもある。政治家の言葉はころころと変わり、もはや威厳も保てないでいる。
日本人は子育ての段階から、周囲の目を意識するように教育される。そこには、泣き虫がよその子と比較されて説教されるといった恥じらいの様子が再現される。そして、世間体を意識する風潮が、嘲笑われたり仲間外れにされることを極端に嫌うと分析している。こうした土壌は陰湿ないじめを助長するのかもしれない。
その一方で、日本には武士道精神に代表される義理、恩、礼節、誇りといった倫理観がある。これは武士階級に限ったことではなく、全ての階級に渡って恩返しのできない人間は非人格者と見なされ、社会から軽蔑される風習がある。世界的に見ても「義理」ほど稀な道徳観はないという。日本人は秩序と階層的な上下関係に信頼を置くが、アメリカ人は自由と平等に信頼を置く。自己犠牲を強いてまで組織の維持あるいは一員になろうと努力する姿は、自由を信奉するアメリカ人にとっては理解に苦しむだろう。
戦後の日本の方針転換は、なにも人格が変わったわけではない。その国民気質は、良く言えばバランス感覚、悪く言えば多重人格性のようにも映るだろう。そもそも、人間を雁字搦めにする宗教的な規律を必要としない。本書は、日本の強みは失敗した事実を一蹴して方針転換できる気質にあると語る。そして、世界の尊敬を得ようとする国民性があり、感情を押し殺し、欲求を戒め、不文律の求める自己規律を受け入れる能力があるという。また、義理と人情、忠と孝、義理と義務の板挟み、日本人はこの徳目と徳目の板挟みの中で生きていると指摘している。こうした性格は、良きにも悪しきにも受け継がれているのだろう。まさしく、現在の官僚政治がこの呪縛に嵌る。仕事仲間の義理を貫き、国民への正義を犠牲にする。賛同しない者を不誠実と蔑み、自らの斡旋を中立独立と叫ぶ。正義にかられて偽証できない者に自重しろと圧力をかけ、明らかに一般社会とは違った価値観の中で議論が繰り返される。彼らの論理は、日本人の慣習の悪しき解釈だけを大事に継承しているかのように映る。

本書は、日本の家庭が家族を社会から守る砦になっていないと指摘している。それだけに、競争の原理が働くと日本人は無防備に曝されるという。日本では、競争の原理が合理性となる可能性が低いだろうと。自由を崇めると自由競争が激化する。アメリカ社会は、まさしくその自由競争主義によって支配される。その結果、何が生じたか?未曾有の金融危機は何を意味するのか?本当の意味での合理性とは何か?一部の階級層に国民の資産が集中する社会が合理性に基づいているとは到底思えない。自由とはやっかいなもので、自己管理や自制のきかない社会では合理性を発揮できない。国民の慣習の違いによっても合理的手段が違ってくるだろう。経済危機に陥っても、他国の実施する政策の意味を理解せずに、真似するだけでは効果は望めない。日本には、皆がやることに追従していないと不安にかられる風潮があり、組織依存度も異常に高い。自己責任と叫びながら、組織の指示を仰がないと動けない。こうした気質は、あらゆる組織において官僚体質を強固にする。そうした反省を踏まえて、本書は現在にこそ存在意義があるように思える。

1. 民族分析としての社会学
多くの東洋人と違って日本人は文章を綴って自らを曝け出す衝動があるという。その文章も、恐るべき率直であると評している。伝統的に日本文学は欧米でも評価が高いようだ。社会学で民族を分析する時、重要なことは一定の冷徹さと寛容さが必要だという。つまり、善意の人々からの批難を浴びるような冷徹さと、同じ人間であるという寛容さの両面である。人間には、固有の理念と共通の理念が共存する。ただ、イデオロギーってやつは、振り子がどちらかに思いっきり振れないと気がすまないようだ。日本人やアメリカ人といった枠組みだけで、画一的な世界を想像することは無理であろう。よく日本人の意識が欧米意識と違っていると慌てふためく評論家を見かけるが、欧米意識だって一つであるはずがない。社会学者や心理学者は意見と行動を統計的に捉える傾向があり、経済学者はもっぱら分布図に気を取られる。アンケートや世論調査には、ある程度の傾向が現れるだろうが、それが絶対ではない。微妙な質問の仕方によっては方向性も変わるだろう。政治手法はもっぱらプロパガンダ手法に頼る。国民性を分析すれば有効な宣伝文句も発明できる。そして、歴史の解釈も巧みに国家間の政治戦略として使われる。人間社会とはおもしろいもので、「民族の誇り」を掲げた独裁者が異民族を迫害する一方で、「世界は一つ」と提唱する平和主義者が固有の民族意識を無視して平均化した価値観を押し付ける。

2. 占領政策と天皇
占領政策において天皇の処分をどうするかは、頭を悩ませたであろう。憲法上、天皇が直接支配していたわけではない。だが、統帥権が微妙な位置付けにある。外務省に交渉権があるといっても、はるかに軍部の権限の方が強い。天皇と政府の二重構造は、その源泉を鎌倉時代から南北朝時代あたりの中世日本に遡って考察がなされる。それも当然であるが、この二重構造体制をまともに説明できる人は少ないだろう。天皇に対する尊敬の念は、ヒトラーへの崇拝と同列にはできない。ドイツ人がヒトラーを戦争責任者として扱うのに対して、当時の日本人にとっては天皇と戦争は別次元にある。天皇を神と崇めたところでキリスト教的な神とは意味合いがまったく違う。だから、天皇の人間宣言をあっさりと承諾できたのだろう。当時、天皇が戦争を続行しろと命令すれば、民族が亡びるまで抵抗を続けたかもしれない。だが、天皇が敗戦を受け入れれば、国民があっさりと受け入れる脆さもある。となれば、アメリカの軍事戦略は天皇が戦争を止めると発言するように仕向ければいいはず。ただ、それではアメリカの世論が納得しないだろう。アメリカが、天皇に戦争責任を追及しなかったのは、日本文化を研究していた成果とも言えよう。結局、総合的な戦略研究や分析がなされた国や組織が、最終的に競争に勝利するということであろうか。
徳川幕府末期、世界の列強国に対抗するために国家の団結が迫られていた。幕府の攘夷派も倒幕派も、この点では一致している。宗教で団結できない日本は何か拠り所にする象徴が必要となる。天皇制の下での国家体制を築いた明治維新当時の政治家たちの眼力は鋭い。大日本帝国憲法が天皇の神聖不可侵を定めている点は注目すべきであろう。
中世日本において、律令制が天命思想を前提としているのに対して、日本では独特の解釈がなされた。天皇は律令制の皇帝としての役割と神聖な王としての役割がある。中国との交易を継続するために、象徴的な天皇家を絶やすことができなかったと考える歴史家もいる。中国の制度を取り入れて失敗したものに、後醍醐天皇の「建武の新政」がある。中国式の官僚制は日本の封建社会には馴染まなかった。ところで、現在では、日本古来の封建制から受け継がれた世襲制に加えて、古代中国式官僚制が蔓延り、それが欧州風議会政治の元で運営されるところに訳の分からんシステムがある。日本人は、何もかもミックスして新しい風潮を生み出す性質があると言われるが、それで硬直化してしまっては頭が痛い。これも世界で類を見ない日本独特の政治体制というわけか。

3. 戦時中の慣習
一般的に死傷者と投降者の比率には一定の規則があると言われる。これが当時の日本人に当てはまらないことは想像に易い。学業優秀な若者達が、自らの思考を放棄して宗教的に洗脳されたわけではない。民衆を含めた集団自決などは軍の強制も多少は影響しただろうが、もともと集団意識に個人犠牲という国民性がある。こうした行動を欧米人には理解できないだろう。どの国も戦争を正当化する。どこの国にも言い分があるから戦争状態となる。日本が、侵略国に倫理観を押し付けたのも確かであろう。愛国心とは実に微妙な位置にある。自己愛が強すぎると他人を認めないことにもなる。「大東亜共栄圏」という言葉を用いなければ、果たして日本の世論を動かせただろうか?欧米では、日本人の過度の精神主義は、貧しさからくる言い訳、あるいは、欺かれた感情の幼稚さと解釈する風潮があったという。古くから日本には質素で勤勉を美徳とする文化があり、これに精神論が加われば煽りやすくもなろう。
また、病気に対する心情にも文化的違いが現れるという。アメリカ人ほど医者に頼る習慣があるのも珍しいのだそうな。アメリカでは、病人に対する思いやりが、恵まれない人に対する救済措置よりも優先されるという。こうした傾向は元ブッシュ政権に代表されるだろう。日本兵の中に異常な精神主義が蔓延っていたのは否定しない。負傷者が手榴弾などで自決する姿も現れる。これを同胞に対する残虐行為と解釈する欧米人も少なくないが、これには抵抗を感じる。足手まといになりたくないという責任の表れでもあるから。日本兵には降伏の恥があった。その立場は家族にも及び、面目を失うと社会的な負い目がある。したがって、アメリカ人捕虜を恥知らずと軽蔑する。ところが、その慣習も徐々に崩れていったという。アメリカ人に対する疑念を忘れ、日本人捕虜の中には誠意ある者も現れ情報収集が円滑になったという。このような豹変振りは、欧米人には理解しがたいものがあるようだ。軍部に騙されていたという意識があったのかもしれない。人間は、信じていたことと逆のことが真実だと知ると簡単に意識改革できるということか。

4. 汚名をそそぐ
日本が日露戦争で勝利した時の写真を見ても、どちらが戦勝国なのか区別がつかないという。ロシア軍人は武器を剥奪されていない。乃木将軍とステッセル将軍は握手して、ともに勇敢さを称えたと伝えられる。そうした武士道とも言える礼儀を持ちながら、日露戦争から太平洋戦争までに日本人は豹変したと言われる。しかし、これは何も矛盾したことではないと指摘している。太平洋戦争では「鬼畜米英」と叫んで猛烈な反米思想を唱えた。こうした例は日露戦争や日中戦争には現れないという。これは、ポーツマス条約と海軍軍縮条約に果たしたアメリカの役割に恨みをもったことからきていると分析している。日本人の倫理観には、汚名をそそぐという概念が根強くあったのかもしれない。その例を「忠臣蔵」を持ち出して、お家断絶の不名誉を被った復讐と公儀への抵抗で分析している。討ち入りを眺めれば、奇襲攻撃と重ねることもできよう。だが、アメリカ人には卑劣な行為としか見えない。そして、普段礼儀正しい日本人が、一旦不名誉を被った相手には、手段を選ばす攻撃的になる性格があると指摘している。仇討ちを成し遂げた武士が華やかに切腹した一方で、影では家族や親戚は辛い運命を背負わされる。名誉のためならば家族の犠牲も惜しまないという習慣は伝統的にあったのかもしれない。借りを返すといった意識は日本人は強いということか?こうした倫理観を真珠湾攻撃と結び付けている。

5. 応分の場
日独伊三国同盟の前文には、次のような一節があるという。
「日独伊三国の政府は、政界各国に応分の場が与えられることこそ恒久平和の前提条件であると考える。」
また、真珠湾攻撃に際しても、ハル国務長官宛ての文書には、次のような一節があるという。
「各国が世界の中で応分の場を得られるように取り計らうことは、日本政府の不変の方針である。」
ここには「応分の場」を与えられなかった日本人の憤慨する性格が現れていると分析している。ただ、それは欧米と同等の権利を要求しただけのことで、現代ではアメリカ人の持つアメリカ中心主義の方が強烈である。また、階級制を基盤とした民主主義が日本流であって、欧米流のイデオロギーを基盤とした解釈は通用しないと指摘している。階級制と言っても、あからさまに階級差別があるわけではない。それは「応分の場」という概念であって、身の程をわきまえるといった感覚だという。日本人には敬語や謙譲語を相手によって使い分ける習慣がある。性別や世代、家族や組織の上下関係に道徳律がある。これを階級制と表現するところに少々違和感がある。また、大東亜共栄圏の、日本は兄で他国は弟であるとした思想を、長子相続制度と重ねている。

6. 戦後の政策
戦後、明らかにドイツやイタリアと違った政策をとった。それも日本の官僚機構を活用している。占領政策では、日本流の民主主義を土台にした方が、国民の自由を拡大しながら福祉を確立するのに都合がよいということだろうか。現在では、戦後政策が官僚体制を強固にしたと批判する評論家も少なくない。日本社会では、階層的秩序によって高い地位を占めた人間が傲慢な態度を顕にして、自らの恣意で権力を行使することはないという。最高責任者が実権をふるうのではなく、顧問団や黒幕が舞台裏で暗躍するというのだ。なるほど、一昔前まで総理大臣は黒幕に操られていた。各国代表は黒幕と直接交渉する動きがあった。今もか?その一方で、権力を行使する黒幕が明るみになると、世論から厳しい目が向けられる。私利私欲の追及に走る高利貸しや成金といった利益主義は顰蹙を買う。また、詐取や不公正に対して厳しい反応を示す。だが、そうした場合でも決して革命家と化すことはないという。西洋の論者は、日本人の大衆にイデオロギー的な大衆運動を期待したという。戦時中は日本の地下組織を過大評価して、降伏時に主導権が移るのを期待し、終戦後の選挙で急進的な勢力が勝利するだろうと予言したという。しかし、「応分の場」をわきまえた国民からは西洋的な革命運動は起こらないと指摘している。なるほど、社会保険庁の問題などは暴動が起こっても不思議ではない。日本人の感覚も西洋化が進んだので、今後、暴動が起こる可能性は否定できないだろう。ただ、高齢化が進むと性格が温和になって、意識は相殺されるかもしれないが。

7. 自己鍛錬
文化における自己鍛錬の方法は民族の特徴を表すもので、外国人にはとかく愚行に思えるものである。昔の日本は、自己鍛錬の場が日常生活に浸透していた。精神修行の根底には自制心や克己心がある。これは大和魂といったところだろうか。伝統的に個人的欲求を犠牲にすることに美徳を求めるところがある。ただ、アメリカ人には自虐に映るだけだろう。妻は夫のために人生を犠牲にし、夫は一家のために自由を捨てる。本人はそれを犠牲とは思わない。アメリカ人にだって、子供に対する愛情は無条件にあり、家庭の幸せを願うはず。ただ、日本の倫理観は、その枠組みが大きな組織にまで広がる。雑念を取り払い、ひたすら物事の本質を見極めるために鍛錬する。現在においても、仕事で努力するのはその能力を伸ばそうとするだけではなく、人生の本質を見極めるためと考える人も少なくないだろう。柔道を学ぶのは、強くなりたいという願望だけではない。柔道から人間の本質を学ぼうとする。達人や匠の世界には、そうした別次元に達する何かがあるように思える。こうした意識は、キリスト教でいう予定説にも通ずるものを感じる。与えられた職業は神によって運命付けられ、それを全うしようとする。人間に神の定めたものを知る術はない。したがって、ひたすら勤勉に励むしかない。神の信仰から悟りのような境地を求めるといった感性にも似ているような。