2018-07-29

"モーツァルト その人間と作品" Alfred Einstein 著

アインシュタインの名でもアルフレートの方。あの物理学者アルベルトの親戚という説もあるらしいが、真相は知らない。この音楽学者はモーツァルトと結びついて伝えられるそうな。シュヴァイツァーがバッハと結びついて伝えられるように。彼の著作「音楽と音楽家」を読んだ時、モーツァルトに関する記述がおざなりな印象を与えていたが、実はそうではなく、別格に取り上げていることを知って本書を手に取る。おまけに、A5判に 5cm と厚い。表題 "MOZART" の印字も風格を帯び、翻訳者浅井真男氏も熱くなると見える...

モーツァルトほど多種多様な作品を遺せば、どのように整理すればいいか悩ましい。時系列に並べてみるのも、彼の心変わりが追え、学術的にも合理性に適っていそうである。実際、ケッヘル番号には広大なモニュメントが刻まれる。それでも、彼の全生涯に渡る前進や後退、あるいは空白のすべてが保存されているわけではないし、叙述があまりにも伝記的なものに規定されてしまう恐れがある。
そこで本書は、ジャンル別の考察を試みる。とはいえ、この方法でも別の危険を冒すことになろう。声楽曲が器楽曲に影響されたり、その逆もあったりで、同質のものがジャンルの壁で引き離されるかもしれない。シンフォニーと室内楽曲を区別しても若干混乱をきたすし、室内楽曲と野外楽曲を分断しても同じこと。
ただ、これほどジャンル別の完成度が高いと、その危険性も低いということのようである。おまけに、クラシックのド素人には馴染みやすい構成で、本書がモーツァルトの作品目録になってくれる。
そもそも、モーツァルト自身にジャンルという意識があったのだろうか?いや、明確に意識していた形跡があるらしい。というより、意外にも形式主義的な側面を覗かせる。彼にとってアリアはアリアであり、ソナタはソナタであり、それぞれに彼なりの法則を見い出し、それを決して打ち破ることはなかったという。音楽精神では自由を信条としながら、音楽形式では伝統を保持していたということか。革命家らしく形にこだわらない独創性を備えているようで、実のところ、彼の中の形式主義が一般的な音楽論では計れなかっただけのことかもしれん...
「モーツァルトのような偉大な人間は、すべての偉大な人間と同じく、われわれが一般に肉体と精神、動物と神の混合物と名づけることができるような、人間という異常な種類の生物の高められた実例であり、見本である。この見本が偉大であればあるほど、二元性はますます明らかに現れ、二つの反対力のあいだの闘争はますますきわだち、調停はますます立派になり、調和、つまり不協和音の和音のなかへの解決は、ますます輝かしくなる。」

ところで、読書には BGM が絶対に欠かせない。仕事でもそうだ。BGM に用いるものでは、おそらくモーツァルトが一番多い。昔は、四大シンフォニー(K.504, 543, 550, 551)をよく用いていたが、今では声楽曲でも、協奏曲でも、なんでもあり。BGM ってやつは、あまり好きな曲でも困る。脇役の方に気を取られては本末転倒。あくまでも控え目な存在でなければ。
ところが、モーツァルトときたら、音楽を中心に置こうが、円周上に置こうが、同心円上でうまく調和してくれる。ただ、気分によって、モーツァルトが合わない日もあるにはある。そんな日は、チャイコフスキーでもショパンでも選択肢はいくらでもある。
もちろん今宵の BGM は、モーツァルトだ!と、いきたいところだが、モーツァルトについてこれほど熱く語られる書を前に、どちらが主役なんだか。まるで BGM の共食い!てなわけで、今宵の BGM は、ブランデーといこう...

1. 救世主モーツァルト
アルフレートの著作「音楽と音楽家」には、バッハやヘンデルが世を去った十八世紀中頃、音楽界がガラントなものと学問的なものとに分裂し、かつてない危機に見舞われたと綴られていた。本書には、その分裂的危機を融合した救世主が描かれる。そして、この記述がどの場面かを想像せずにはいられない...
「プラーハ=シンフォニーの緩徐楽章のなかには、モーツァルトがその生涯の終わりに到達した、ガラントと学問的との驚嘆すべき融合を示す一つの例が含まれている。そこではすでに提示部のなかにウニソノの動機が現われる。これはただちにヴァイオリンと低音のあいだのカノン的な対話によって進行し、他の弦楽器とホルンの単純な和声的充填をも伴っている。しかし展開部においてこのカノンは、それ自体も半音階をもっていっそう際立って来るばかりでなく、充填も、ことに第二ヴァイオリンにおいていっそう激しくなる。」

2. 偉大な模倣者
モーツァルトほどの人物でも、ベートヴェンのような主題を案出していないと非難を受けたようである。それも、楽曲のほとんどが注文依頼によって創作されたという経緯がある。
この世のあらゆる偉人たちが、過去の偉業に敬意を表して模倣者であったことも忘れてはなるまい。ラファエロしかり、シェイクスピアしかり、これぞ人類の叡智。モーツァルトの場合、それが父レーオポルトであり、シューベルトであり、ハイドンとアードルガッサーであり、ヘンデルであり、そしてバッハであったとさ。対位法で絶頂に導いたのも、大バッハを知ってからのようである。
バッハを研究する機会を与えたのは、音楽ディレッタントのファン・スヴィーテン男爵と出会ったことだという。彼はフリードリッヒ大王の近くにあって、大王がファン・スヴィーテンの興味をバッハへ向けさせ、さらにモーツァルトへ伝授されたという流れ。偉大な歴史事象には、しばしば偶然がともなう。導き、導かれる者同士というのは、どこか共感できるものがあると見える。
「平均律クラヴィーア曲集」と「フーガの技法」を知ったモーツァルトは、さらに超自然的な内的強制に目覚めていく。何かに取り憑かれたかのように悪魔じみていき、もはや注文作曲家の域を超えていた。モーツァルトにとって、間違った音は世界秩序の毀損であった。バッハがそうであったように。ゲーテがメフィストフェレスに執心したように、偉大な芸術家は自分の作品に取り憑かれ、自己の模倣者となっていく。「魔笛」(K.620)が訴えるものも、やはりメフィストのような存在であろうか...
「彼の倫理的な危険について言われたことは、あらゆる想像力豊かな人間、なかんずく劇的天才にあてはまる。ゲーテも、自分のなかにはあらゆる犯罪を犯す素質がある、と言った。無道者シェイクスピアの物語は真実ではなく、それ自体としてあまりにも無邪気ではあるが、とにかくうまく作られている。なぜなら、巨大な想像力と暗示敏感症を持つ人々が、彼らの危険な性向を芸術に変容させ、マクベス夫人、メフィスト、ドン・ジョヴァンニのような形姿を創造するのである。」

3. 芸術の犠牲者となったザルツブルク人
モーツァルトは、どこにも安住できなかったという。彼が生まれたザルツブルクにも、彼が死んだウィーンにも。旅こそ、彼の生涯のほとんどを占めている。
ところで、ザルツブルク人というのは、当時のドイツにおいて、真面目さ、賢明、合理的などの点で、あまり評判がよくなかったそうな。反対に、肉体的享楽に極度に耽溺するが、精神的享楽を嫌い、粗野的と見られていたという。南ドイツの道化喜劇の中で、滑稽な主人公に与えられるあらゆる性質の代表者であったとか。
モーツァルト自身も、そんな故郷を幼き頃から愚弄していたという。周りには、ミュンヘンがあり、ウィーンがあり、ヴェネツィアがあり、その三角網の中心にザルツブルクがある。彼は救いを求めて、あらゆる方向に旅をする。
また、この天才児は、父レーオポルトに温室植物のように育てられたという。芸術家としては成熟していても、人間としては子供のまま。いや、永遠に子供だったのか。彼は純真すぎた。あまりにも激しすぎた。私生活においては中庸というものがまるでない。音楽では、これほどの調和を見せておきながら。
旅先では後見人を必要とし、いつも母親が同行したという。地位獲得における失敗の連続、女性関係における失敗の連続。天才とは、ある種の障碍的な要素なのか。モーツァルトの最も相応しい居場所は、歴史の世界、すなわち死後の世界だったのやもしれん...
「このかぎりで、われわれは言うことができよう、人間モーツァルトは彼の芸術の地上的な器だったと... のみならず人間モーツァルトは音楽家モーツァルトの犠牲だったとさえ。しかし自分の芸術に取り憑かれた偉大な芸術家は誰でも、個人としてはその芸術の犠牲である。」

4. 控え目な万能者
音楽家の得意な楽器、あるいは、贔屓の楽器があれば、それを神格化する作風となるのも道理である。ベートーヴェンの場合はピアノに明確な意思が込められるが、モーツァルトもやはりピアノであろうか。ただ、ベートーヴェンほどの明確さは見えない。多彩な技術や自己の意思を控え目にするのが、モーツァルト流というわけか。モーツァルトは、マンハイムのヴァイオリニスト、フレンツルについてこう記したという。
「... 彼はむずかしいものを演奏する。しかし聴き手はそれがむずかしいことに気づかないで、自分もすぐに真似ができるように思う。これこそ真の技術である...」
まさに、この言葉を自分の中で実践しようと、対位法という技術を出来る限り隠そうとする。骨の折れる仕事は作曲家自身が引き受け、その努力を聴衆には気づかれないように楽しませてくれる。こうした控えめを信条とした調和の作風が、主役に置いても、BGM に置いても、違和感のないものにしているのやもしれん...
「声楽作曲家としてのモーツァルトと器楽作曲家としてのモーツァルトといずれが偉大であったか、『フィガロの結婚』(K.492)や『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)と、ハ長調シンフォニー(K.551)やハ短調ピアノコンチェルト(K.491)やハ長調弦楽五重奏曲(K.515)とはどちらが上位にあるか、という問題を自分に提出してみると、モーツァルトの万能性ということが明白になる。」

5. カトリックを超越したカトリック者
モーツァルトがフリーメイソンであったことは広く知られる。フリーメイソンには、カトリックとプロテスタントの双方から非難されてきた歴史があるが、キリスト教的であることは同じ。ルターにしたって、最初からプロテスタントを唱えていたわけではあるまい。カトリックが集団暴走を始めれば、一旦福音に立ち返り、教会が暴走すれば、そこから距離を置く。国に苦言を呈す者だって愛国心が足らないと非難を受けるが、国を愛するからこそ政権や支配者を批判するのではないか。国に忠誠を誓うとは、権力者に忠誠を誓うことではない。ましてや独裁者に。
カトリック教会に懐疑的だからといって、プロテスタントの急進的な態度に接すれば、これまた懐疑的となる。十分にカトリック的でもなければ、十分にイエス的でもないと。フリーメイソンとは、真のキリスト教徒の避難場所だったのだろうか。
モーツァルトの世界観は、普遍的で超国民的であったという。彼には、国に属すということにあまり興味がなかったと見える。憎悪や嫉妬で歪んだ愛国心なんぞ、どこ吹く風よ!ひたすらアリアとの和解を求め、自我との和解を求め。モーツァルトは、他ならぬモーツァルトであったのだろう。彼の無頓着な態度は、宗教観に限らず芸術観においてもよく現れている。モーツァルトは、カトリックよりもカトリック的だったのやもしれん...
ちなみに、リヒャルト・ヴァーグナーは、こんな記述を遺したそうな。
「素朴な、真の霊感をうけた芸術家は有頂天の無分別さで自分の芸術作品に飛びこむが、これが完成し、現実となって自分のまえに姿を現わすときにはじめて、自分の経験から本当の反省の力をかちうる。そしてこの反省の力が一般には彼を錯覚から守るのだが、特別な場合、つまり彼が再び霊感を受けて芸術作品へと駆り立てられるのを感ずる場合には、反省の力は彼を支配する力を再び全く失ってしまうのである。オペラ作曲家としての経歴に関してモーツァルトの性格を最もよく現わしているのは、彼が仕事にとりかかる時ののんきな無選択ぶりである。彼はオペラの基礎となっている美学的疑惑に思いを致すことなどは思いもよらないので、むしろ最大の無頓着さをもって自分に与えられたあらゆるオペラのテクストの作曲に取りかかったのである。そればかりでなく、このテクストが、純粋な音楽家としての自分にとってありがたいものであるかどうかにさえ無頓着であった。あちこちに保存されている彼の美学上の覚書や意見を全部とりまとめてみても、彼の反省のすべてが、あの有名な自分の鼻の定義以上に達しえないことはたしかである。」

2018-07-22

"自伝と書簡" Albrecht Dürer 著

先週、馬車旅の車窓を彩る絵画を BGM に「ネーデルラント旅日記」を嗜んだ。今宵、旅の余韻に浸って、虎の子のフィーヌブルゴーニュをやっている。本書は、その姉妹編に位置づけられる遺文集で、ここでも肖像画や風景画、あるいは宗教画が足りない言葉を補っている。飾らない文面の数々、尤も文学作品としての意図は微塵も感じられない。言葉ってやつは、余計なことを喋らない方が重みを与えるものらしい。酔いどれ天の邪鬼には、到底到達しえない境地か。ここには、ルネサンス画家の福音が刻まれる...

アルブレヒト・デューラーは五十を過ぎて、自伝という自画像で何を語ろうというのか。1498年の自画像では派手な服装をまとい、やや斜めにポーズをとる。その歳の充実ぶりを誇らしげに語るように。
とはいえ、若き日に残した尊厳ある容貌が、年老いた自己を慰めるためのものとなっては惨め。過去の栄光に縋るなんぞ御免!後世、自画像に宗教批判のレッテルを貼られてはかなわん。絵画に人類を救え!などとふっかけられてもかなわん。製造者責任を問うなら、鑑賞者責任も問いたい。そんな愚痴も聞こえてきそうな...

ところで、この手の古書を読むと、いつも思うことがある。五百年も前のものを現代語に訳す翻訳者のセンスというものを。当時の光景を完全に再現することは、ほぼ不可能だろう。ましてや外国語だ。翻訳者前川誠郎氏は、デューラーの旅への思いを感じ取るために、この原文を読者に音読してみることを勧めてくれる。

"Dornoch wurd ich gen Polonia reiten vnder kunst willen jn heimlicher perspectiua, dy mich einer leren will. Do wurt ich vngefer jn 8 oder 10 dagen awff sein gen Fenedig wider zw reitten, Dornoch will ich mit dem negsten potten kumen. O wy wirt mich noch der sunen friren. Hy pin jch ein her, doheim ein schmarotzer."

O wy ... からはほとんど鼻歌だとか。デューラーは九月下旬のヴェネツィア書簡で、あと一ヶ月ほどしたらと帰国を仄めかす。だが、なかなか腰を上げる気にはなれず、ニュルンベルクへ帰郷したのは翌年の二月。イタリア・ルネサンスの虜になったか。「ネーデルラント旅日記」にしても、目的が皇帝カルロス5世への請願であったにせよ、芸術家の性癖は隠しようがない。本能の赴くままに...
しかしながら、この自由人の晩年は、宗教改革の機運が高まり、新旧諸派の抗争や農民戦争を経て、17世紀には三十年戦争に至り、欧州が荒廃していく暗い時代の幕開け。自由精神を信条とするルネサンスが呼び水となったことは否めない...

1. 自伝的な点鬼簿
本書には、まず家譜と覚書が綴られる。そのきっかけは、岳父ハンス・フライの死だったという。すべての人間模様をキリスト降臨祭の元で語る点鬼簿は、神に祝福された家系を強く意識していたことが伝わる。戦慄的な臨終記では、自分自身が父の臨終に立ち会うに値しなかったとぼやき、家族の肖像画で物語を補う。
ところで、画家がしばしば企てる鳥瞰図という形式は、自分の作品に天からの祝福を求めてのことか...

2. ピルクハイマー宛とヤーコプ・ヘラー宛の対照的な書簡
ピルクハイマー宛書簡では、ヴェネツィア滞在費を賄うなど、大才を認めて援助を惜しまなかった彼への感謝の念は、気が狂いそうなほどに... と綴り、その息遣いが伝わる。
しかしながら、ヴェネツィア書簡で見せる人間性とは逆に、ヤーコプ・ヘラー宛書簡では絵画製作の経緯を時日を追って綴り、狡猾な商人ぶりを披露する。芸術家だって一人の人間、裏の顔のない人間なんて皆無。別段違和感なし...

3. 年金関係書簡
1512年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、ニュルンベルク行幸を機に、自己の治績を記念する製作を依嘱したという。「凱旋(トリウンフ)」と総称される厖大な版画作品は、木版画192枚を貼り合わせる「凱旋門」と137枚の「凱旋車」からなるとか。「凱旋門」は、1517年末に完成したそうだが、「凱旋車」は未完に終わったという。
マクシミリアン1世は、画家への報酬をニュルンベルク市税の免除という形で市側に負担を求めたが、市参事会がこれを拒否。デューラーは要人に書簡し、皇帝の説得工作をすすめる。皇帝マクシミリアン1世は、ニュルンベルク市からの年金支給は、国庫の上納金から差し引くよう指示する特権状を発行した。
だが、これもまた延滞し、新皇帝カルロス5世に嘆願することに。それが、「ネーデルラント旅日記」へとつながる。

4. 数学への招待状と理論書への招待
ほとんどおまけにような存在だが、ヨーハン・チェルッテ宛の書簡が興味深い。なにしろ幾何学の命題へ招待しているのだから。
ちなみに、デューラーは、ガスパール・モンジュの画法幾何学にも影響を与えたという話を何かで読んだ覚えがある。あのケプラーの充填問題でも、彼の功績を挙げる人もいる。当時から数学者としても知られていたようで、ユークリッドの幾何学原理をドイツ語に訳したいという人のためのコメントも見られる。
また、著作「人体均衡論」の刊行は、デューラーの死後であったが、出版に至る非難への葛藤が見て取れる。人間五十を過ぎると、理論家になりがち。いや、屁理屈屋になりがち。ただ、デューラーが唱えているのは理論と実践の両方である。そして、理論の書を書いた動機を語ってくれる。
「双方に通じた人、則ち学問を学ぶとともに自ら作品を製作する人たちだけが、彼らの望む完全な目標に到達することができる...」

2018-07-15

"ネーデルラント旅日記" Albrecht Dürer 著

1520年夏、五十に差しかかろうとする画家は、妻を伴ってニュルンベルクから遠くネーデルラントへ長旅に出たそうな。年金支給が滞り、神聖ローマ皇帝へ請願するためだという。ちょうど新皇帝となったカルロス5世が、アーヘンで戴冠式を行うことになっていたのである。
しかしながら、アーヘンを通り過ぎてアントウェルペンまで足を伸ばし、ここを滞在拠点として文字通りネーデルラントをめぐる大旅行記を展開する。一年もの月日をかけて。
人間五十になれば、理論的になる。人の生き死にに意味を求め、屁理屈にもなる。そして、哲学は暇人の学問となる。デューラーは自分探しの旅を求めたのやもしれん...

とはいえ、とはいえ...
こいつは、ほとんど収支報告書ではないか。飛脚にいくら払ったとか、賭けでいくら負けたとか、食事代、洗濯代、入湯代、理髪代... なんとケチ臭いことを。プロテスタントらしく、借方と貸方で構成される西洋式バランスシートの源泉を見る思いである。そういえば、マックス・ヴェーバーはプロテスタンティズムの禁欲精神が資本主義を開花させたと論じたが、それに通ずるものがある。
文学作品として眺めると、嘆願状を起草してくれたデジデリウス・エラスムスの登場や、マルティン・ルターの逮捕劇が盛り込まれるものの、どうも物足らない。いや、余計なことを語らないから、文章に重みが出るのやもしれん...
尚、エラスムスは、ルターに影響を与えた人物ではあるが、論争相手としても知られる。カトリック教会批判という立場は共有するものの、中道派エラスムス、改革派ルター、急進派カルヴァンといった位置づけであろうか。
ルターが破門されると福音主義が加速し、逮捕されたことが広まれば宗教改革の機運を高めていく。ゴリアテとは、人間社会という巨大生物を言うのか。実は、この逮捕劇はルターを匿ったザクセン選帝侯フリードリッヒ賢公の書いた芝居であったが、デューラーはそれを知らない。そして、エラスムスへ哀悼文を書き、万事を放擲して蹶起するよう懇願するのである。

帳簿にして帳簿文学たらしめるものとは、なんであろう。やり残したことがあれば、人生の収支はいつも赤字。未練という名の赤字を背負い...
さすが、アルブレヒト・デューラー!馬車旅の車窓にはスケッチ風の風景画がよく合う。アントウェルペン港やアーヘン大聖堂がブランデーのごとく演出され、文字を補う静止画群が動画を十分に物語っているではないか。明暗画法が人生の明と暗を見事に物語っているではないか。年金暮らしとなれば節約を強いられ、教会や修道院、諸侯や市の要人、画家仲間から援助を受け、肖像画を描いてパンを得る。ドイツ・ルネサンスの代表的な人物ともなれば、大きな栄誉と寵遇を受けるのも自然の流れ。それは、寄付金で作られた聖道の旅であったというわけか...
そういえば、デューラーは、ガスパール・モンジュの画法幾何学にも影響を与えたという話を何かで読んだ覚えがある。偉人の産物には収集家が群がり、切り売りされる運命にある。ラファエロのものは、死後すべて散逸した。しかし、晩年の作品群で彩る旅行記として遺されれば、それを免れるのかも...

2018-07-08

鞄作りの心(HERZ)に魅せられて...

HERZ はドイツ語でハート(心)...
クビをなが~くして待っていた HERZ の鞄が届いた。ここに辿り着くのに半年もかかってしまう。何を買うにせよ慎重すぎるほどに考え込むのは、酔いどれ天の邪鬼の悪い癖だ。いや、考えている時間がたまらない。東京本店と博多店の工房を見学させてもらい、同じ技術屋として職人魂を共感せずにはいられない。恋は成就した瞬間に冷めるというが、こいつはそうはならないだろう...
ところで、心といえば、行付けの寿司屋の大将が意味ありげな笑みを浮かべて、心をにぎります... なんて気色の悪いことを言うもんだから、そのイメージがどうにも頭にこびりついて離れない。ここではドスの利いた声で、心をえぐります... とでも言っておこうか...




ENJOY THE AGING...
店内に年季の入った鞄が展示され、その重厚感がなかなか。新品と並べて、三年後にはこうなりますよ!ってな具合に。そして、古びた方が欲しいと思ってしまう始末。長く使えば愛着もわき、共に過ごしてきた時が刻まれる。経年変化を楽しむのも、コンセプトの一つというわけである。自然な仕上がりで、自然な変色感を味わう趣向(酒肴)。
ただ、余計な施しをしていない分、アフターケアがちと気になる。当初、革が固い感じがしたが、一週間もすれば馴染んでくる。箱から取り出す時に少し爪でひっかいてしまい、いきなりブルーになったが、その傷もオイルで馴染ませていくうちに、違和感がなくなっている。雨に濡れるとシミになりそうで慌てて拭いたりもしたが、そこまで神経質になる必要はなさそうか。傷やシミをあえて隠さず、模様のように自然に同化させていく感じであろうか。メンテナンスの頻度は、二ヶ月に一度くらいでいいとのことだが、手に入れてまだ一ヶ月だというのに毎週磨いている有り様。二、三度オイルを塗ると微妙に変化しはじめ、ええ感じ...
革の色は、キャメル、チョコ、ブラック、グリーン、レッドがラインナップ。変色具合は色によっても差がでるが、キャメルが一番変化に富んでいそうである。レッドは、ちと派手かなぁ... と思っていたが、実物の変色具合はなかなか。ブラックは、あまり変化が目立たないが、それでもいい味がでている。
尚、ロゴ入りのコップ置きをおまけしてもらった(写真中央下)。黒革の変色具合いをお確かめてください... と。

そして、ビジネスに新たな相棒が二つ加わった...
一つは、ダレスタイプのセカンドバック(写真右: キャメル)。
コンパクトで取っ手のついたものは、ありそうでなかなか見つからない。夜の社交場で絶対に欠かせない相棒だ。
二つは、グラッドストン風ボストンバッグ(写真左: チョコ)。
レトロなトランクケースが欲しかったのだが、こちらの方がイメージに合う。使い勝手は少々犠牲にしてもよかったのだが、そんなに悪くない。二本のベルトが面倒臭そうに見えたが、実は差し込み式金具になっていて簡単に外せる。あとは、タブレット端末用にインナーバッグも欲しい(レッド or グリーンで検討中)... といったところであろうか。実は、着物で出かけることが多いので、和服に合う出張用の鞄が欲しかったのである。大割鞄のパンタフレームが、まだファスナーのない19世紀の旅を思わせる。さっそくノスタルジックな出張計画を練るとしよう。いざ温泉へ!

2018-07-01

"確信する脳 - 「知っている」とはどういうことか" Robert A. Burton 著

神経科医ロバート・バートンは、大胆な仮説を提示する。
「確信とは、それがどう感じられようとも、意識的な選択ではなく、思考プロセスですらない。確信や、それに類似した『自分が知っている内容を知っている(knowing what we know)』という心の状態は、愛や怒りと同じように、理性とは別に働く、不随意的な脳のメカニズムから生じる。」

"knowing what we know..." というフレーズは、絶対に分かっている!という強いニュアンスを与える。確信の根底には、意志の力では変えられない神経学的要素があるというのである。人間ってヤツは本性的に頑固者らしい。経験を積み、歳を重ねていくごとに頑固オヤジとなっていくのは自然な姿というわけか。考えを新たにするということは、過去の考えを捨てること、すなわち、自分の過去を否定することになり、感情的になるのも道理である。
知っている事をどのように知っているのか?と自問すれば、確かに、論理的な思考よりも感覚的な思いの方が強いような気がする。感覚であるなら、錯覚や誤謬が生じる。感覚であるなら、意識的に操作することも難しい。思い込みってやつは、誰にでもある。学問は、そうした感覚を排除しようとするところに意義を求める。
そこで「客観性」という用語が重視されるが、こいつがなかなか手強い。そもそも思考している心理状態が極めて主観的であり、既に自己矛盾を孕んでいる。
実際、人間社会には感情論が溢れ、原理主義も花盛り、創造説や民族優越説などに盲信する人々が少なからずいる。政治家や有識者にしたって、客観的に語ると宣言してそうだったためしがなく、自己主張に説得力を与えようと数字を提示して客観性を演出する。ちなみに、ベンジャミン・ディズレーリはこんな言葉を残した... 嘘には三種類ある。嘘、大嘘、そして統計である... と。
人間の思考は主観に支配されているからこそ、客観性に焦がれるのか。同じく、「柔軟性」という用語にも、人々は焦がれる。そして、「頑固」という言葉には、「信念」という用語を当てて自己を欺く。
「知識の最も重要な産物は無知である。」... 理論物理学者デイビッド・グロス

本書は、確信と知識の対決の物語である。そして、ニューラルネットワークや深層心理学などでよく見かける「入力 - 隠れ層 - 出力」という思考モデルを提示する。
鍵を握るのは中間層。一般的な思考分析では、時系列や因果関係などの経路を追うが、それは結果論であって、実際の思考過程は並列的である。意図的に思考を促すことはできても、本当に求めているレベルでアイデアが出現する瞬間は無意識的である。逆に、手が付かない心理状態によく襲われ、酔いどれ天の邪鬼の思考回路は極めて気まぐれときた。なかなか仕事に集中できず、夜な夜な掃除を始めることだって珍しくない。こうして文章を書いている瞬間も、手が勝手にキーボードを叩いている。むしろ思考分析は、既に生じた思考を成熟させていく過程で重要となろう。思考するとは、脳が時間を再編成している過程を言うのであろうか...
理性も、知性も、人間の考えるという行為はどれも同格で、すべてが感覚的で生理的と言えばそうかもしれない。確信!とは、どういうことか?そんなものは幻想か?信じたいという単なる願望か?思い込みの強いという生理的な本性を踏まえた上で、確信の力を削ぐことができれば、嫌いな分野や他の学問にも多少なりと耳を傾けることができるやもしれん...
「無知ではなく、無知に無知なことが、知識の死である。」... アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド

1. 既知感 "feeling of knowing..."
本書には、「既知感」という用語が散りばめられるが、翻訳者岩坂彰氏が訳語として選んだ造語だそうな。この語には、既視感との類似性を感じさせる。知識のデジャブか。いや、感覚や情動のデジャブか。岩坂氏はこう書いている。
「翻訳に起因する弱点を超えた強さが、本書には確かに感じられる。それは、私の神経系の隠れ層の委員会で、理論面への不満票よりも、著者の真摯な問題意識への共感票が多かったからだろう。」
合理性には、人間を超えたレベルでの合理性と、個人における精神的な合理性とがある。物事を知っている!と感覚的に捉えることが、いかに安心感を与えてくれることか。逆に、知らない!ということが、いかに不安にさせることか。
人がモノを知っている時、それは知識と呼ばれる。何かを知っていると自覚できる状態とは、知識と既知感が合わさった状態で、知識と既知感は別物というわけか。実際、知識を持っていても、それに気づかないことがあれば、知識を持っていなくても、知っていると思い込むことがある。既知感なしに知識を有する場合の例では、盲視現象を挙げている。
生きていく上で、確実に判断できるものがなくても、時には確信して行動することも必要であろう。不確実性に不快感を覚えても、これに耐えることを学ぶことも...
とはいえ、無意識の領域に、自己の本性が内包されているとすれば、自己を知ることに対して絶望的である。無意識の自己に、どう自己責任を押し付けようというのか。意識的思考は、認知の氷山の一角なのかも。
神経心理学では、情動知能(EQ: Emotional Intelligence Quotient)という用語をよく耳にする。心の知能指数と呼ばれるやつだ。この指標が、どれほどの客観性を担保できるのかは知らない。
ただ、思考の性質が、理性ではなく感覚で認知するとすれば、おそらく理性も感覚で認知するのだろうが、心のどこかに歯止めとなる感覚が必要となる。そして、心のモニタシステムもまた感覚ということになろう。自分の限界を認知できることも自己の能力ではあるが、この能力もまた感覚ということになろう。知識を身にまとうだけでは不十分だということか...
「無神論を唱えるある知人に、実はかつてペンテコステ派の再生運動(情緒的、神秘的、超自然的な宗教経験を重視するキリスト教内部の宗教運動)のメンバーだったと、こっそり打ち明けられたことがある。彼の再生運動と無神論的な思考とが、同じような遺伝的要因から生じて、どのように正反対の結論に至ったかは、さほど想像力を働かせなくとも理解できる。」

2. 確信という依存症
本書は、人間の本能には、信仰感、目的感、意味感が必要だという。世間では、正確性よりも正確感が重んじられる。人生の意味や目的が本当に必要なのではない。意味感や目的感に浸りたいだけだ。真理を求めるのは、それがないと生きられないからではない。盲目感に耐えられないだけだ。本当に自己存在に意義を求めているのではない。存在感を噛み締めたいだけだ。正義感に燃えては批判癖がつき、高い倫理観を求めては意地悪癖がつき、理性や知性までもストレス解消の手先となる。人間ってやつは、まったく感覚依存症ときた。おまけに、これらの感覚は、いつも見返りをねだってやがる。
思考が感覚に支配されるからには、そこには必ずバイアスがかかる。自己存在を正当化しようという意志のバイアスが。このバイアスが無意識の領域から発しているとすれば、やはり制御不能ということか。確信するという心理状態は、これらの感覚を後ろ盾にしなければ、ありえないということか。
本当の自由なんぞ、この世にありはしない。あるのは自由感だけだ。あるのは自己満足感だけだ。そして、この感覚が精神的合理性となり、これに客観性がほんの少し加わった時、確信という強い心理状態へ導かれる。確信への自問は、自我を相手取るだけに手強い...
「自分が正しいと主張し続けることは、生理学的に見て依存症と似たところがあるのではないだろうか。遺伝的な要因も含めて。自分が正しいことを何としても証明してみせようと頑張る人を端から見ると、追求している問題よりも最終的な答えから多くの快感を得ているように思える。彼らは、複雑な社会問題にも、映画や小説のはっきりしない結末にも、これですべて決まり、という解決策を求める。常に決定的な結論を求めるあまり、最悪の依存症患者にも劣らないほど強迫的に追い立てられているように見えることも少なくない。おそらく、実際そうなのだろう。知ったかぶりという性格特性も、快い既知感への依存症とみることはできないだろうか。」

3. プラセボ効果とコタール症候群
プラセボ効果は、手術をしたことにしたり、効かない薬を与えたりで、治ったと思い込ませる偽りの治療法である。実際、絶望的な病状に対して何も施していないのに、患者は完全に治ったと信じて劇的に回復させる事例もあると聞く。すべては気の持ちよう... と言うが、そこまで確信できる根拠とは。信じる者は救われる!というのもあながち嘘ではなさそうだ。ちなみに、「信者」と書いて「儲かる!」となる。
コタール症候群は、何も現実的に感じられない死人も同然といった精神状態に陥る、ある種の否定妄想である。自分を死人も同然と定義付け、死んだ人間を治療しても意味がないとして、あらゆる治療を拒否する。心臓の鼓動を感じても、それだけでは生きた証にならないというわけである。そして、ある患者の言葉がなんとも印象的である。
「死んでいるということのほうが、生きていることを示すどんな反証よりも、現実的に感じられる...」