2020-10-25

"獄中からの手紙" Mohandas Karamchand Gandhi 著

実際主義の流れを汲む中に、ガンディーを嫌う人は思いのほか多い。歴史を振り返れば、理想主義が現実社会を破壊した事例はわんさとあるし、平和主義者の理念が国家主義者の横暴を許し、戦争を招き入れた事例も少なくない。
「マハートマ(偉大なる魂)」の称号を持つこの人物はというと、確かに理想高すぎ感はある。が、夢想家と呼ぶ気にはなれない。「塩の行進」や「糸車で紡ぐ」などの日常生活に根ざした民衆運動は、近年の市民運動にも通ずるものがある。宗派や人種を超えた象徴として...
ただ、非暴力運動の実践となると、人類はまだまだ若すぎると見える。おいらは、この人物が好きでも嫌いでもない。ただ、尊敬はできても、生き方が合わないという人はいる。それも、まったく敵わないと、心の中で白旗を上げている。そして、ガンディーのものとされる、この言葉が好きなだけだ。

"Live as if you were to die tomorrow.
 Learn as if you were to live forever."
「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」

実は、この言葉を拾うために本書を手に取ったのだが、合致するものに巡り合うことはできなかった。邦訳版だからなんとも言えないけど。それでも、この言葉の哲学は充分に味わえる。
ちなみに、おいらは言葉を追い求める夢想家だ。その証拠に、未だハーレムという言葉に救いを求めている。未練は男の甲斐性よ...

1930年、ガンディーはヤラヴァーダー中央刑務所に収監された。彼は、アーシュラム(修道場)の弟子たちに宛てて一週間ごとに手紙を送ったという。厳粛なる道徳的観点からの戒律を。牢獄の時間は、哲学原理を沈黙思考するには貴重な時間だったと見える。
おいらは、戒律ってやつが大の苦手ときた。抑圧的で説教じみていて、なにより息苦しい。だがここに、そんな感覚はない。それは、真理を第一のものと位置づけているからであろう。真理は実在に由来するという。神は真理なり、というよりは、真理こそが神。真理を探求し続けることこそ、修行の道というわけである。
しかしながら、真理ってやつが本当に存在するのかも、よう分からん。この酔いどれ天の邪鬼には、単なる認識の産物ではないかとさえ思える。それでも、宗教が唱える神の存在を信じるよりは、真理の存在を信じる方がはるかにましか...
尚、森本達雄訳版(岩波文庫)を手に取る。
「最高の真理は、それ自体で存在するのです。真理は目的であり、愛はそこに至る手段(みち)です。わたしたちは、愛の法(のり)に従うのは容易ではないことを承知していますが、愛すなわち非暴力とは何か、については知っています。しかし真理については、その断片を知るのみです。完全に真理について知ることは、完全に非暴力を実践するのと同様、人間には成しがたい業です。」

1. 宗教家か、政治家か...
ガンディーは、宗教家であったのか、政治家であったのか。真理の探求者が、なにゆえ政治なんぞに深く関わったのか。彼の生きた時代は、イギリス帝国主義からの独立を経て、インドとパキスタンが分離独立に至った激動期。時代が使命感を駆り立て、政治へと向かわせたのか。プラトンは、哲学者による統治という理想国家像を描いて魅せたが、これに通ずるものを感じる。
力なき者が巨大な国家を相手取るには、ゲリラ戦の様相を呈する。民衆運動という集団戦術によって。ガンディーは、弱者の非暴力ではなく勇者の非暴力を唱え、不服従運動を人間の誇りの運動に位置づける。そのために、真理の哲学を用いたというわけか。
しかしながら、真理ってやつは意外と脆い。なにしろ、真理めいたものはすぐに見えても、本当の真理はなかなか姿を見せてくれないのだから。
なるほど、真理は神に似ている。ただ人間ってやつは、神の存在を強烈に意識し、それを恐れても、真理の存在はあまり意識せず、恐れることもあまりない。
古来、宗教と政治は両立しうるかという問題がある。今日、政教分離の原則が声高に唱えられるが、ガンディーは、宗教なくして政治はありえないという立場で、道徳性や精神性の欠いた政治は避けるべきだとしている。
彼の言う宗教とは、互いにいがみ合うような盲目的な信仰ではなく、寛容の精神に基づくような普遍宗教のこと。その意味で、真理の探求者もまた宗教家ということになろうか。いや、信念を持ち続けることができれば、誰もが宗教家なのやもしれん。ガンディーは、世界宗教なるものを夢見ていたのだろうか...
「すべての宗教は、聖なる霊に触発されて生まれたものですが、それらは人間の精神の所産であり、人間によって説かれたものですから、不完全です。一なる完全な宗教は、いっさいの言語を超えたものです。ところが不完全な人間が、それを自分に駆使できる言語で語り、その言葉がまた、同じ不完全な他の人びとによって解釈されるのです。いずれの人の解釈が正当だと主張できましょうか...」

2. インド的な戒律
身分制度の歴史は、どこの地域にも見られるが、現在でも色濃く残るものとしては、カースト制度が挙げられる。法律でいくら規定しても、慣習の力は強すぎるほどに強い。ガンディーは、不可触民制の撤廃を強く唱える。特定の身分や家柄の生まれというだけで、その人々に触れると穢れるなどと考えることは理不尽きわまる、このような制度は、社会の癌!宗教を装いながら宗教を堕落させている!と...
また、スワデシーという国産品愛用の呼びかけも、インド的。暑いインドでは、塩は特に重要。海岸線や山中からも採取できる自然の贈り物に対して、外国政府が管理し、課税するとはどういうわけか。
さらに、伝統的な紡績産業に目を向け、国産品に愛着を持つという運動で「塩」や「糸」がシンボルとなる。
但し、こうした運動は、外国人に悪意を抱くことでも、憎悪崇拝でもないとしている。
しかしながら、凡人は、こうしたことで愛国主義を旺盛にしていくもので、海外製品のボイコット運動を引き金に、外国人排斥運動を激化させていく。製造品が、そのまま人種や民族と結びついて...
それは、21世紀の現在とて同じ。ただ現在は、まだ救われているかもしれない。自国製品や自国企業が、もはや自国のものではないことを多くの人が知っている。外国製品をボイコットすれば、自分の首を絞めてしまうことを。
とはいえ、グローバリズムを旺盛にすれば、同時にナショナリズムを旺盛にさせ、社会はますます二極化していく。人間社会で中庸を生きることは、よほどの修行がいると見える...

3. 人間は生まれつき盗っ人か...
不服従運動に執心するガンディーの姿は、みすぼらしい。彼は、不盗の戒律を唱えているが、それは、人の持ち物を盗んではならないという社会常識を説いているような、ちっぽけな話ではない。まず、地上で生存するためには、衣食住のすべてが何らかの形で自然の恩恵を受けている、と考える。
そして、生活に必要以上の広大な土地を所有しているとしたら、その日の糧を得なければならない人から自然の恵みを略奪していることに... 食べきれないほどのご馳走をテーブルに並べ、食べ残して捨てているとしたら、飢えている人から食べ物を横領していることに... といった論理を働かせて、不盗の戒律を無所有の精神と結びつける。必要以上を求めない、パンのための労働を、と。必要以上に所有しない、自己放擲と犠牲の精神を、と。
しかしながら、必要以上とは、どの程度をいうのであろう。ここが凡人の解釈と分かれるところ。自己放擲や犠牲にしても、凡人は自己満足で終わる。事業で大成功し大金持ちになった人が、私的な慈善団体を設立するのも、必要以上に儲けてきたことへの償いであろうか。いや、貧乏人にだって、憐れみの情念はある。
人間はみな幸福を願って生きている。しかし、幸福が誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら、豊かさが誰かの犠牲の上に成り立っているとしたら、そんなことを素直に願うことができようか... これが、ガンディーの問い掛けである。
さて、自分の欲望とどう向き合うか。主犯格は嗜欲か。死を運命づけられた人間にとって、人間目的がはっきりしないのは実にありがたい。謙虚な人ほど自らの謙虚さを意識せず、大層な目的を知らないことも素直に認め、自然に振る舞えるものなのかもしれん...

2020-10-18

"タゴール詩集 ギーターンジャリ" Rabindranath Tagore 著

こいつには、救われる...
BGM のように流れ去っていく文学作品とは、こういうものを言うのであろうか。フレーズそのものは頭に残らなくても、心地よさだけは確実に残る。読書に BGM は絶対に欠かせないが、だとしても、これほど BGM を引き立て、自らバックグラウンドを演じきる書があろうか。この控えめな汎神論的自然観には、悲愴感が漂う。ここは、チャイコの六番に乗せて。いや、ショパンの調べも捨てがたい...
尚、渡辺照宏訳版(岩波文庫)を手に取る。

ラビンドラナート・タゴール...
このインドの詩人は、1913年、詩集「ギーターンジャリ(歌の捧げもの)」でノーベル文学賞を受賞し、アジア人初のノーベル賞受賞者となった。ガンディーとも親交があり、マハートマの称号を贈ったのもタゴールだったという。ガンディーといえば、彼のものとされるこの言葉を思い浮かべる。

"Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever."
「明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ。」

本書には、ガンディー哲学が乗り移ったような感がある...

ギーターンジャリ...
この大作には、本家本元のベンガル語版と、タゴール自ら翻訳した英語版の二つがあるそうな。本書は、あえて「ベンガル語本による韻文訳」と「英語本による散文訳」の両方を掲載しくれる。というのも、各々まったく違う形式をとっているのである。
ベンガル語版は、定形詩 157 篇を収め、すべて吟誦に適しているという。
一方、英語版は、散文詩 103 篇を収め、うちベンガル語版からの採用は 53 篇のみで、他は別の詩集から持ってきたものだとか。定型詩と散文詩というだけでも違った印象を与えるが、内容もまったく別物。ノーベル文学賞の対象となったのは、英語版の方らしい。
タゴールは、ロンドン大学で英文学を学び、西洋思想や西洋哲学を熟知していたと見える。採用に漏れた詩群は、西洋人の感覚に合わないと見たかは知らんが、なんと惜しいことを...
ここには、邦訳ではあるが、ベンガル語版の方が壮大な景観が見て取れる。とはいえ、英語版の散文形式もええ、まるでシェイクスピア劇場を見ているような...

詩を味わうには原語で読むべきだ!と、よく言われるが、タゴールの詩は特にそうらしい。思想や哲学、あるいは内容だけでは味わえない領域が確かにある。やはり、詩で最も重要なのはリズムであろう。それは形式ばった調子ではなく、自然に奏でる調べ...
日々の習慣もまたリズム。
道を歩けば何気なく歩幅にテンポが生じ、思考に耽れば自然に頭が揺れ、日常の繰り返しが精神に秩序をもたらす。
仕事にもリズムは欠かせない。検討から成果が出るまでの周期、あるいは達成感を得るタイミング、こうしたものが気持ちに減り張りをつけ、意欲を持続させる。
これら日常のリズムが詩の奏でるリズムと同期した時、耳障りで調子外れのものは量子エネルギーの対消滅のように消え去り、心地よい韻律だけが残る。やはり、人生で最も重要なのはリズムであろう...

さて、ここでは、詩篇を拾うことは難しい。が、言葉の欠けらを拾うことは容易い。それでお茶を濁すとするか。引用しやすいのが散文の方というのも奇妙。芸術ってやつは、壮大なほど鑑賞者を沈黙させるらしい。自我を支配する無力感!無力感て、こんなに心地よいものなのかぁ。もう、どうにでもして!おいら、M だし...

1. ベンガル語本による韻文訳より...
天界の光が、眩しすぎて見えないのは幸せかもしれない。光の正体は、一種の電磁波。そのうち人間の眼に見える波長を、物理学で可視光線と呼ばれ、巷では光と呼ばれる。この宇宙空間に電磁波の存在しない領域はない。おそらく精神空間にも。すべての電磁波が眼に見えるとしたら、この世は眩しすぎる。むしろ盲目の方が楽であろうに...
さて、言葉の欠けらを拾ってみよう...

わが頭(こうべ)、垂れさせたまえ... わが高慢は、残りなく、沈めよ、涙に...
遍く満つる天界地界(あめつち)に... 生命逞し、神酒なみなみと...
後方(しりへ)に騒ぐ波の音、高鳴る大空、面(おも)にさし来る朝日影、雲の絶え間より... 物思ひ、心絶えなむ...
門毎(かどごと)に森の女神の、法螺、響(とよ)みて聞こゆ、天の琴の調べに合わせ...
闇の夜の時の間を、何の調べに、今、過ごすべき、何過ちてか今みな忘れ、思ひ煩ふ、絶間なく雨濯ぎ、降りしき止まず...
蒼天の声なき語り、露けき悩ましさ...
この虚空に遍く... 語るを許せ、許しませ...
黄昏の勤行(つとめ)、徒ならざれ、... ひれ伏さしめよ... 足許に...
夢に奏でぬ、相聞の深き調べを...
天地(あめつち)の沈黙(しじま)を、汝が家に来させよ...
黄昏ときに君とわれ、そこに打解けばやと、暗闇にただ一人...
高慢の及ばぬところ... 誇りの満つところにて...
佯りて戯れに戯る、この戯れをわれ好む...
われは旅人、生命(いのち)の限り、道行き歌ふ... われは旅人、荷はみなすべて、捨てて行かむ... われは旅人、瞬きせず、ただ目凝らして、暗闇に覚醒めてありき...
恐怖(おそれ)おこさせ、懶惰(ものぐさ)ほろぼし、睡眠(ねむり)やぶりて、恐怖をやぶる...


汝、嬰児(おさなご)の如く、力なきとき、内重(うちのへ)の奥、深く留まれ、時至るまで
 いささかの痛みによろめき
 いささかの火に焦がれ
 いささかの塵身につかば
 汚れなむ
 内重(うちのへ)の奥、深く留まれ、時至るまで...


君、わが生命を満たしたまへば、悔残るまじ、今死して
 夜昼、苦楽あまたに
 胸に響きし調べあまた..
.

2. 英語本による散文訳より...
この世の存在は、みな囚人か。自らの財で縛り、自らの権力で縛り... 自己を縛るは欲望。精神空間に自由の王国を築くには、よほどの修行がいる。荒れ狂うこの世で心を静めるには、我が死を思うこと。自我を救う道は、それしか残されていないのか...
さて、言葉を拾ってみよう...

「愚か者よ、自分を自分で担いで歩こうというのか。乞食よ、自分のうちの門口(かどぐち)に立って物乞いをするのか。その荷物をみな、何でも背負うことのできるあの方の手に、委ねるがよい。そして、未練がましく振り向くな。おまえの欲望の息が触れると、燈火の光はたちまち消えてしまう。汚らわしい...」

「光は、おお、光はどこだ。欲望の燃える火で光を点そう。燈火はあっても、焔ひとつ燃え上がらない。これがおまえの運命なのか、私の心よ。おお、おまえには死の方がずっとましだ...」

「私をしばる束縛はきつい。しかし断ち切ろうとすると、私の心は痛む。自由さえあればよい。だが、それを望むのは恥ずかしい... その暗い蔭の中に、自分の真の存在を見失う...
囚人よ、いったい誰がおまえを縛ったのか...
富と権力で誰にも負けないつもりだった... 世界を奴隷にし、自分だけが勝手気儘でいられるつもりだった...
囚人よ、この頑丈な鎖をいったい誰がこしらえたのか。
私がこしらえた...」


「わが神よ、この私の生命の溢れる盃から、どのような神酒をお飲みになるのか。わが詩人よ、私の眼を通してご自分の創造物を見、私の耳の戸口に立ってご自分の永遠の調和にじっと耳を傾ける、それがあなたの歓喜であるのか。あなたの世界は私の心の中で言葉を織りなし、あなたの喜びはその言葉に旋律を添える...」

「世界中に広がって、無限の空に無数の形相を生み出すのは孤独の苦悩である。夜もすがら星から星を見つめて沈黙し、雨降る七月の闇の中でざわめく木の葉のうちに詩を喚びおこすのは孤独のこの悲しみである...」

2020-10-11

"現象学的心理学の系譜 人間科学としての心理学" Amedeo Giorgi 著

心理学は、科学であろうか。アメディオ・ジオルジは明言する。科学であると...
原題 "Psychology as a Human Science" は、1970年刊行とある。ジオルジの生きた時代は、科学といえば自然科学を意味し、人間性と科学は矛盾するという立場が優勢だったようである。彼は、「人間科学」という用語を持ち出す。これは自然科学という意味では、科学ではない。が、科学の定義の仕方によっては科学になりうる。それは、現象学に基づくアプローチによって... これが、ジオルジの主張である。
尚、早坂泰次郎訳版(勁草書房)を手に取る。
「心理学は科学である。なぜならば、科学の目的に関与するから、すなわち、関心のある現象に対して批判的態度をとったり、方法論的、系統的なしかたでそうした現象を研究しようとするからである。しかしながら、その主題には人格としての人間が含まれているので、自然科学がその目的を求めていくのとはちがったやり方で、目的を達成しなければならない。」

ところで、科学とはなんであろう。科学たるには、どうあるべきであろう。
まず、「客観性」という観点がある。この用語ほど、基準が曖昧でありながら権威ある言葉もあるまい。あらゆる学問が理論武装のために、この言葉にあやかって科学する。
但し、この用語には水準や度合いといったものがある。客観性のレベルでは、数学の定理は他を寄せ付けない。この方面では、古来、もてはやされてきた方法論に演繹法ってやつがある。
だが、現実世界を記述するのに演繹的な視点だけでは心許なく、帰納的な視点も必要である。人間を相手取れば、尚更。研究対象が人間自身に向けられると、自然科学から乖離していき、人文科学や社会科学などの学問分野が編み出されてきた。それで人間が自然的な存在かどうかは知らんが、少なくとも学問は自然的な存在であってほしい。
デカルト風に言えば、人間は思惟する存在である。つまり、人間が意識する過程では、主観が介在するってことだ。意識なくして学問は成立するだろうか。客観とは、主観に支配された人間の憧れか。
ちなみに、政治屋や有識者たちが客観的に主張すると宣言して、そうだったためしがない。それで、自らの語り口に権威を持たせられるかは知らんが...

一方で、芸術家たちが体現する精神に、無我の境地なるものがある。無我とは、意識を放棄したわけではなく、むしろ自意識を存分に解き放った末に達しうる何か。彼らは、なにかに取り憑かれたように自我に籠もって熱狂できる資質を持っている。無我とは、自己否定の過程で生じるのであろうか。あるいは、高みにのぼるために、主観と客観を対立させるのではなく、調和させるということであろうか。いや、客観性というより普遍性といった方がいい...

ジオルジは、現象学を心理学に応用する立場である。現象といえば、まず観ること。科学には、その精神を根本から支える信条に、古代から受け継がれる観察哲学がある。それは、先入観や形而上学的な判断を排除する態度であり、21世紀の科学者とて、その境地に達したとは言えまい。正しく観察できなければ、適格な判断ができない。正しいとは、何を基準に正しいとするか。この態度には、誤りを適格に観ることも含まれるが、健全な懐疑心が持ち続けるのは至難の業。現象を正しく観ることの難しさは、客観性の水準の高い学問ほどよく理解していると見える。ましてや、人間現象を相手取るのに主観は避けられない。主観を客観的に観察しようにも、観察者の側にも主観がある。
となれば、観察サンプルを増やし、統計学的に、確率論的に分析するのが現実的であろう。心理学が、臨床医学と結びついて発達してきたのも分かる気がする。但し、医学は病を相手取る。いわば、精神状態の例外処理であるが、心理学では例外処理とはなるまい。

こうして眺めていると、心理学が量子論に見えてくる。量子力学が唱える不確定性原理は、位置と運動量を同時に正確に観測することは不可能だと告げている。それは、観測対象である物理系に観測系が加わっては、もはや純粋な物理現象ではなくなるということである。量子ほどの純粋な存在を観測するには、ほんの少しでも不純物が交じると正確性を欠く。となると、主観を観察するには、若干なりとも主観を含んだ客観性の眼では、やはり正確性を欠くのだろうか。いや、精神ってやつが、それほど純粋な存在とも思えん。自由精神は、物理的には純粋な自由電子の集合体なんだろうけど。
いずれにせよ、純粋客観なる精神状態を人間が会得するには、よほどの修行がいる。それには、人類がまだ若すぎるのやもしれん...

そこで、手っ取り早く分析する方法に、条件を限定するやり方がある。条件を絞りながら因果関係を紐解き、徐々に条件を広げていく、といった考え方は、解析学でもよく用いるし、経済学や社会学でもよく見かける。
例えば、金銭欲や物欲、あるいは、名声欲や権力欲といったものに限定すれば、行動パターンがある程度読める。市場原理は、様々な価値観を持った人間が集まれば、欲望が相殺しあって適格な価値判断ができるのだろうが、あまりにも欲望が偏っているために、しばしば市場価値を歪ませる。政治屋や報道屋が仕掛ける扇動は、大衆心理を巧みに利用した者の勝ち。文学作品ともなれば、心理学以上に心理学的だ。リア王やマクベスの狂乱に触れれば、それだけで精神分析学が成り立つ。
心理学の学術的な地位がいまいちなのは、こうした背景もあろうか...

問題解決のためのプロセスでは、現象を整理、分析し、本質的な内容や意味を探り当て、その方法や手段を編み出す。本書は、心理学が内容や手段に目を奪われ、方法論に特権的地位を置こうとする、と苦言を呈す。
ただ、あらゆる学問がそうした傾向にある。方法論が編み出せるということは、それが条件付きとはいえ、ある種の結論に達していることを意味している。
しかし、心理現象を結論づけることは至難の業。多義的な上に、これといった答えが見つからない分野である心理学では特に、整理や分析といった前工程、すなわちアプローチが重要だというわけである。メタ心理学は、精神をメタ的な地位に押し上げたために、現実世界でメタメタになるのかは知らんが...
ジオルジは、アプローチを一つのカテゴリとして確立することを提案している。方法論と一線を画する視点として。人間のタイプは、知力、武力、政治力、カリスマ性、徳性など、能力の数値化によってある程度の種別はできる。シミュレーションゲームのように。実際、企業の人事部などでも数値データが人材評価に用いられる。そうした数値化は、ゲームに勝つため、企業戦略を機能させるため、といった目的が明確な場合では有効となろう。
では、もっと普遍的なレベルでの人間性となるとどうであろう。人間目的なんてものをまともに答えられる人が、この世にどれほどいるのだろう。精神の正体も、人間の正体も分からずにいるというのに。人間精神の多様性は、果てしない宇宙に見えてくる。無理やり結論を出すぐらいなら、分析過程を大切にする方がよさそうである...

2020-10-04

"小説神髄" 坪内逍遙 著

 そういえば、おいらは「小説」という言葉に疑問を持ったことがない。今日、novel の訳語として定着している、この言葉に...
小説家たちは、ノベルで何を述べようというのか。小さな説と書くからには、大きな説というものがあるのだろう。元は中国に発し、取るに足らないつまらない議論、あるいは民間の俗話の記録などを意味したという。国家の思惑を物語るのに対して、大衆の本音を物語る。どちらが取るに足らないのやら。上っ面の教説や良識めいた美談を綴るのに対して、悪徳や愚行に看取られた人間の本性を暴く。どちらが大きな説なのやら。
小説家に、人類を救え!などとふっかけても詮無きこと。人間の本性に迫るからには、精神を自由に解き放たなければ...

かつて小説を書くためには、まず小説とは何かを知らねばならぬ時代があったとさ。小説ごときを、けしからん!などと、有識者たちが憤慨した時代である。江戸戯作に親しみ、西洋文学を渉猟した若き文学士が、明治の世に物申す...
「我が小説の改良進歩を今より次第に企図(くわだ)てつつ、竟には欧土のノベルを凌駕し、絵画、音楽、詩歌と共に美術の壇頭に煥然たる我が物語を見まくほりす。」

何事も、文化として居座る仮定では低俗扱いされるもの。ざっと時間軸を追うと、近くに漫画やアニメ、遠くに能や歌舞伎を見つける。芸能文化は、人間社会への批判を間接的に皮肉る形で根付いてきた。つまりは、諷刺や滑稽の類いである。世阿弥らが編んだ「花伝書」は、滑稽演芸を理論化し、芸術の域にまで高めた。何事も本質を観るには、遊び心がいる。憤慨していては、見えるものも見えてこない。哲学するには、自ら滑稽を演じてみることだ...

「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是れなり。」

人間は情欲の動物であり、いかなる賢人も、いかなる善人も、これを避けるのは至難の業。百八を数える煩悩を避けるには、よほどの修行がいる。自分の煩悩を克服できなければ、他人の煩悩を目の敵にし、他人の欠点を攻撃する。人情の解放と煩悩の克服は、まさに表裏一体。自己を克服するには、もはや自分の煩悩を味方につけるしかあるまい。なるほど、まず情ありて、人の心を動かさぬものは小説にあらず... というわけか。
しかしながら、心を動かす者もいれば、動かさぬ者もいる。芸術とはそうしたもの。分かりやすいものは重みを欠く。寓意ってやつは、チラリズムとすこぶる相性がいいときた。心が動かされなければ、作者はいったい何がいいたいのか?などと最低な感想をもらす。芸術ってやつは、芸術家のみならず、鑑賞者をも高みに登ってこい、と要請してくる。暗示にかかった鑑賞者は、刺激がますます貪欲になり、もっと深い、もっと凄い表現を求めるようになる。情欲を相手取ると、まったく底なしよ。ここに、小説の無限の可能性を見る。

ところで、小説の意義とはなんであろう...
それは、単なる勧懲の道具ではないという。人情に共感したり、反面教師にしたりして、人間性を磨く。となれば、人情の描写こそが小説の意義というのは、尤もらしい。
そして、ノベルを凌駕し、絵画、音楽、詩歌と共に... 小説は美術なり!というわけである。逍遙は、小説の四大裨益を挙げている。

第一に、人の気格(きぐらい)を高尚になす事。
第二に、人を勧奨懲戒なす事。
第三に、正史の補遺となる事。
第四に、文学の師表となる事。

拙筆なおいらにとっては、第四の裨益が一番大きい。優雅な文章を魅せつけられると、惚れ惚れする。言葉に惚れ、フレーズに惚れ、しかも、皮肉たっぷりに。それが、生きる指針になり、座右の銘となる。道徳家や教育家の安っぽい教説よりも心に響くのは、そこにチラリズムがあるから...
寓意や教訓の類いは、ここに発する。それは自省へと導く。他人の行いをも自省と解するよう。相対的な認識能力しか持ち合わせない精神の持ち主が、悪を知らずして善を知ることはできまい。他人の欠点が目につくのは、自分自身にもあるってこと。自分自身に欠点がなければ、そんなものが目についても、さほど興味を持つこともあるまい。
それゆえ、偉大な哲学者たちは、自省論なるものを様々な形で遺してきた。小説の主脳は人情なり... とするなら、小説はまさに自省の語り草となろう...