2015-02-22

もしも、負け組のアル中ハイマーが「負け惜しみ論」を語ったら...

もしものコーナー... だめだこりゃ!

自称「時代の敗北者」、人間以下、いや未満の人生... そして、人間が苦手になる。苦手というからには、人間の何かを恐れている。優位性を求めるとは、ある種の自慰行為であろうか。人類は、いまだ絶対的な価値を知らない。つまり、相対的な価値判断しかできないということだ。自己満足に浸るために、他よりも優位な要素をあら探しをしてまで求める。幸せの正体も知らない。だから無限に幸せを願う。真の豊かさを知らない。だから底なしに銭を欲する。
世間には、勝ち組やら、負け組やらで区別したがる連中で溢れている。勝ち組とは、ある基準に照らして、自分よりも下等の立場を無理やり作り出す自慰行為の類いであろうか。負け組に属すことを素直に認められる余裕のある者は、ごく少数派であろう。そもそも負け方を知らぬ者が、勝ち方を知るはずもない。もし失敗したことがないと主張する者がいれば、失敗の定義がどこか間違っているか、失敗を認識することすらできないのだろう。惰性的な平和、惰性的な幸せに縋って生きていれば、それほど失敗を感じなくて済む。真の勝者は、敗者を知るが故に敗者をいたわる余裕がある。あるいは、勝者と敗者の概念すら持ち合わせないのかもしれん。
同情は快い。悩む人の立場に自分を置き、しかも、自分は苦しんでいないことを確認できるのだから。羨望は辛い。幸福な人を見ることは、自分の不幸を確認することだから。すべては人と人との相対的な関係から生じる情念に支配されている。ならば、真の幸福は孤独の中にあるということはないだろうか。とはいえ、孤独を真に味わえるのは、人間関係を謳歌した者かもしれん。恋愛や友情を飽きるほど体験した者かもしれん。人間関係を謳歌できる者もまた、孤独を知らなければできまい。結局、同時に知ることになるとすれば、やはり孤独もまた人間関係の中にありそうだ...

苦しむ人を憐れむことができるのは、苦しい目に遭った経験があるか、苦しい目に遭うことを恐れているからであろう。そして、現実に苦しんでいる人は自分を憐れむだけである。軽蔑している人の幸福を軽んじるのは、いわば人間の本性。古来、奴隷は虐待され、貧乏人はますます貧乏へ、弱者はますます弱々しく生きることを強要されてきた。どんなに平等を崇めたところで、目に見えない階級制度が生じる。これも、相対的な情念に支配される社会の宿命か。
政治屋ってやつは相手を罵ることしか知らない、まったくネガティブキャンペーンのお好きな連中だ。おまけに、メディアがその選挙運動を後押しする。政治の世界で、純粋な観念の持ち主が決定的な役割を演じることは稀である。歴史を振り返れば、思想観念がはるかに劣っていても、巧妙に振舞うことの得意な人物が決定的な仕事をしてきた。政治使命は、理性と責任から生じるのではなく、疑念や不徳によって動かされてきた。すべては、いかがわしい性格と不十分な悟性によって運営されている。権力者が無慈悲でいられるのは、一般人になるつもりがないからに違いない。金持ちが貧乏人に苛酷なのは、貧乏になるつもりがないからに違いない。エリートが庶民を馬鹿にするのは、庶民になるつもりがないからに違いない。
人が死んだり苦しんだりするのを毎日見て生きている医師は、そうした運命に鈍感になっていくのかは知らん。法律の網をくぐりながら生きている政治家は、悪徳が見えなくなっていくのかは知らん。道徳を強制しながら生きている教育者は、理性がなんたるかが見えなくなっていくのかは知らん。そして、嫉妬心や虚栄心という自分の狂気沙汰を治す術を、負け組の酔いどれにはとんと分からん...

高度な情報社会がグローバリズムを急速に拡大させ、情報や知識が思うまま手に入るようになった。ならば、人間は知性を進化させ、精神を成熟させそうなものだが、実際は、情報格差、知識格差、所得格差、世代間格差など様々な認識格差を生じさせ、いっそう勝者と敗者の意識を区別する。能動的に生きる者はより能動的に、受動的に生きる者はそれなりに... 機会均等という一見美しい理念も、格差社会の餌食と化す。できる者は静かに実行し、できない者は能書きを垂れるしかない。そして、おいらはジャンク長文を書き続ける。
グローバル競争を、弱肉強食と同一視する者も少なくない。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したものではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真意だと思う。
ネット社会には、国際感覚に旺盛な集団がある一方で、国粋主義に邁進する集団がある。自己存在を意識せざるを得ない社会では、似たもの同士で集まり、卑屈がより卑屈にさせ、優越がより優越にさせ、集団の持つ性癖をより際立たせる。今日の勝者が、明日には敗者になる時代、どこの国でも国民意識の二極化が進み、世論は激しく右往左往している。
だが、おいらは、中庸の原理を唱えない偉大な哲学者を知らない...

2015-02-15

もしも、泥酔した反社会分子が「おもてなし論」を語ったら...

もしものコーナー... だめだこりゃ!

文化とは、どこの国でも押し付けがましいところがある。特に日本文化は、型や様式に嵌める傾向が強い。ある外人さんが、こんな指摘をしてくれた。欧米式は働きかける文化で、日本式は恵む文化であると。恵むというよりは、与えると言った方がいいだろう。西洋レストランでは、メニューに書き出して選択肢を与えるよう配慮され、懐石料理では、出されたものをそのまま楽しめるよう配慮される。能動的な意志と受動的な意志の違いは、意外と大きい。サービスを受ける側にとって、選択の自由が束縛されるとすれば、息苦しくも感じよう。おもてなし!は、能動的な文化に慣れ親しんだ人々にとっては、余計なおせっかいになりかねない。幸せの押し売りの類いか。
一方で、郷に入っては郷に従え、と言うように、まずは相手の出方をじっくりと見聞する態度は、積極的に文化を受け入れるという見方もできる。自由に対する意識の違いとでも言おうか。
そもそも、お客人をもてなす風土のない地域が、どこにあろう。あまり日本固有の文化だと強調すれば、自惚れが酷いと思われるのがオチだ。

たまーに、外国人お断り!という旅館を見かける。外国語が喋れる従業員が一人もいなくて対応できず、迷惑をかけるという善意からの発言であるが、異民族で交流するのが当たり前の国では、差別意識が強い国と勘違いされる。
お客さんを迎えるために、完璧な対応や準備が必要だという考え方は、プロ意識として確かにある。だが、あまりにも閉鎖的な態度は、交流以前に摩擦を招くだろう。もてなす側がすべてを抱え込むか、あるいは、お客が自発的に溶け込むかの違いもある。わざわざ遠くから日本文化を嗜みに来た連中が、欧米式のおもてなしを期待するはずもあるまい。

こうした感覚は、言語に対する態度にも見て取れる。外国語を話す時、あまりにも文法を気にし、完璧に喋ろうとするために、日本人は完全主義者か?と指摘されることがある。いや、そんなことはない。面倒なことは、ついイエスと答えてしまう。
ただ、いい加減な事でも自信満々に喋ってくれば、萎縮してしまいがち。それは相手が日本人であっても同じ。外人さんが皆そういうタイプというわけではないし、意思表示やコミュニケーションの苦手な人もいる。ダーティハリーがお喋りじゃ、様にならんよ。
とはいえ、わざわざ極東の異文化を求めるほどのツワモノたちが機関銃のように喋ってくれば、圧倒されるのも仕方あるまい。もともと日本の慣習では、傲慢な態度は好まれないし、自信満々な態度に照れくささも感じる。だが、控え目に見せながらも、心の底では反対の意志を燃やしているところがある。プレゼンテーションやアピールが苦手と指摘されるのも、そうした慣習からであろう。
しかし、だ。客に有無も言わさず、隙を見せないという意味では、おもてなし!こそ、完全主義の象徴かもしれん。達人ともなれば、お客人に自由を与えていると思い込ませながら、選択肢を完全に支配し、おもてなしの奴隷とさせる。
ちなみに、行付けのバーに行けば、オーダーもしていないのに、これを飲んでみてください!と、極上の酒が出される。おかげで、おいらはオーダーの仕方がすっかり分からなくなってしまった。これも、M性の定めなのさ!

2015-02-08

肥大化する諜報化社会

おいらは、SNS が嫌いだ!

諜報システムは、それ自体が肥大化したモンスターとなった。2002年頃であろうか、DARPA(国防高等研究計画局)のTIA(全情報認知)プログラムが物議を醸した。このプログラムは国民と議会の反発を買い、頓挫したかに見えたが、NSAとAT&Tの関与が暴露され、当時の大統領ブッシュも認めた。次に大統領となったオバマは、通信業者による盗聴を強く批判した。そして2013年、スノーデン氏の暴露で騒ぎおる。今更なにを!
政府の教訓ってやつは、次はもっとうまくやる!ってことか...

プライバシーポリシーでは、心地良いフレーズが踊る。
"we may share your personal information..."
share を use と置き換えるとゾッとする。we ってのも怪しい。政府や企業、テロリストまでも含まれるということだ。国民のため!などという決まり文句ほど胡散臭いものはあるまい。自分も、家族も、政治団体も、みんな国民だということだ。
通信業者は、平然とこんなことを宣言する。
「当社は、利用目的の達成のために、利用者から個人情報をご提供いただくことがあります。」
サポートサービスでは、自宅にサービスマンが伺わなくても、遠隔操作でパソコンの設定をやってあげます!というのも見かける。なんと無防備な!
アンケートを求める団体を見かければ、時代遅れと思う反面、まだしも健全かもしれない。ちなみに、日本人がアンケートで平気に名前や住所を書き込む姿を見て、なんと無防備な!とある外人さんがつぶやいていた。
SNS を取り巻く世界には、個人情報の分析から利益を上げるビジネスモデルによって這い上がってきた企業が群がる。犯罪者は自己顕示欲が強い傾向にあり、過激な発言を追跡するだけで犯罪性との関連性を特定できるだろう。だが、冗談であることが一目瞭然であっても、コンピュータはお構いなし。みんなで盛り上がって飲もうぜ!を仲間内の言葉で、アルコールエネルギーを爆発させようぜ!なんてつぶやこうものなら、犯罪者リストに登録される。実際、ツィートによって爆弾魔と間違えられ、入国拒否を受けた人がいる。子供とプロレスごっこをしている父親の姿を、母親が面白半分でネットに投稿すると、ドメスティックバイオレンスで告発された事例もある。
いまや匿名の意味も薄れた。削除されたはずのデータにしても、本当に削除されたという保証はどこにもない。匿名の発言は誠実さに欠け、実名を出せば秩序を取り戻せるなどと主張する有識者どもは、そんなことを本当に信じているのか。普通の人は隠し事など持つはずがない!などと発言する有徳者どもは、マスコミ天国でも唱えているのか。きっとそういう聖人は、自宅の映像をネットに公開されても、目くじらを立てたりはしないだろう。

意欲さえあれば、情報は自然に得られる時代、くだらない意欲さえ持ち合わせなければ、くだらない情報は自然に遮断されるであろう。加熱する情報社会では、世間から距離を置くことが実践的な解となることが多い。そして、無気力とニヒリズムが旺盛となる。
いまやビッグデータは、漏洩経路を辿ることもできず、独り歩きを始めた。人類の叡智を共有する!とは、なんと美しい理念であろう。クラウド化すればすべて持たなくて済む、いや、持った気になれる。半導体の進化によって、本格的なウェアラブル時代が到来しつつあり、肉体にもビルトインされる。身体の一部となれば、落としたり、失くしたりする心配もない。めでたしめでたし!
そして、すべての位置情報が明るみになり、立ち寄った店も一目瞭然。営業マンもサボれない。自動車はネットでつながり、どこから遠隔操作されて事故を誘発されたか分からない。キャンペーン商品や贈り物など、どこにGPS発信器が仕込まれているか分からない。それでもなお最先端を生きている気分になれれば、めでたしめでたし!
SNS でつながっているだけで、友人になった気分になれる。政府も、有名人も、みんなお友達!めでたしめでたし!
あまりにもリアリティな映像が、自己補正能力を麻痺させ、乗り物酔いにさせる。逆に、慣れない現実社会に引き戻されれば、それだけで世間に酔う。そして、なんとなく夜の社交場に通うのも、脳に半導体チップが埋め込まれているからに違いない... やっと説明ができた。めでたしめでたし!

2015-02-01

メタ化社会か、メタメタ化社会か

主体を観察しようとすれば、客体の眼を要請し、互いに立場を交換しあうことになる。客観だけでは心許無い、ましてや主観だけでは危険だ。主体が魂となれば尚更。そこで、主体が主体を導くような仕掛けを欲する。こいつは、既に自己矛盾に陥ってやがる。魂の持ち主は、永遠に己を知ろうとし、また永遠に己を知り得ないということか...

あらゆる学問分野で、それ自体を研究対象とするための「メタ(meta)」という用語を見かける。メタ認知、メタ言語、メタマテリアル、メタ数学などなど。この用語には、高次の... 超... などの意味があるが、客観性や抽象化といった意味も含まれる。自己を見つめようとすれば、自分自身を超越した能力を自我に求め、自分自身が第三者になりきろうとする。この、なりきった第三者ってヤツが厄介なことが多い。人間の欲望は衰えを知らない。知性や理性を高めれば、さらに高次の理想像を求めるは必定。そして、神にでもなろうというのか。エリートたちが上から目線となるのも至極当然。ならば、知性を高めても、理性を高めても、それだけでは危険ということになる。では、他に何を求めればいいというのか。
メタ精神に惹かれるのは、現実逃避への願望でもある。哲学することが心地良いのは、現実世界が真理からあまりにも乖離しているからであろう。それ故に、自己の及ばない次元を夢想できる。そして魂だけが、風狂の言葉を求めて放浪の旅へ出かけていくという寸法よ。幽体離脱した後には、ぺんぺん草も生えやしない。メタ精神ってやつは、自ら精神をメタメタにしていくものらしい...

ところで、メタ哲学と言うべきものに「形而上学」という大層な代物がある。形而の上と書いて、形のない、時間や空間までも超越した、超自然的な、超理念的な... といった思想観念を持ち上げる。対して、形あるもの、時間や空間などの物理量で測れるもの、実形態... といったものを「形而下」と呼ぶ。要するに、人間の普遍性や理性といった精神現象でしか説明できないものを高度な学問に位置づけて、他を見下ろすわけだ。
しかしながら、精神が形而よりも上にあると、どうして言えよう。哲学が自問の原理に支えられている以上、哲学を愛する者は哲学にも疑いを持つことになる。対象は自己にも向けられ、自己存在にも疑いを持たずにはいられない。自己否定に陥ってもなお心が平穏でいられるならば、真理の力は偉大となろう。矛盾の原理こそが究極の暇つぶしとさせ、官能の喜びとさせるであろう。それだけに際どい学問となる。ときには、人間の掟に背き、自己に構築された原則を破り、あるいは、自分の人間性や人格までも否定し、自己愛の虚しさを知り、ついに精神を無に帰する。ヘタすると肉体までも連動させ、取り返しがつかない。精神が偶像となれば、肉体もまた偶像となり、肉体が自我に弄ばれるという寸法よ。抽象化の原理が自己と他の区別までも呑み込み、自己に対しても残虐行為に及ぶ。そうなると、形而より下等な存在となろう。哲学には、自発的で能動的な精神活動が要求される。真理の道は険しい。それを承知できぬ者は、哲学に近づかぬ方がよい。惰性的な幸せを求めるだけなら、むしろ宗教の方がうってつけだ。
そこで、哲学する時は、自我の原子構造をいつでも分解できる準備を整えておきたい。魂は常になんらかの泥酔状態にあるだけに、自己陶酔を中性に保てなければ、たちまち危険となる。そう、強烈なアルコール濃度ほど矛盾の緊張をほぐしてくれるものはあるまい。自己に幻滅しても、愉快な独り言が止まらなければ、それでええんでないかい...

1. 騒がしい社会
主体が語り始めると、特権的な権利ばかりを主張し、そこに集団性が結びつくと、排他原理が働く。騒がしい社会では、自己の言葉ですら聞こえてこない。そして、理性者を自認する者の言葉がもてはやされる。もはや社会と距離を置き、自問の能力を取り戻さなければならない。だが、精神の限界に挑んだ者は、狂人扱いされ、社会から抹殺される。狂気を知らずして、どうして常識を知り得よう。
人間にとって、当たり前と思えることが、いかに心の拠り所となりうるか。なんの疑問もなく受け入れられることが、いかに幸せであるか。精神の存在自体が不確かなものなのだから、それも致し方あるまい。ある大科学者は、「常識とは18歳までに身につけた偏見の塊」と言ったとか言わなかったとか。ソクラテス風に言えば、無知を自覚できない者は永遠に無知であり続ける。つまり、人は誰もが無知だということだ。ならば知恵を身につけ、悪人になるしかないではないか。善人尚もて往生をとぐ、いわんや悪人をや... とはこの道か。そして、理性が暴走し、正義が暴走し、自己愛を強固にしながら一層手に負えない存在となっていく。
現代の天才は、古代の天才ほど神がかっている必要はない。現代の芸術家は、ルネサンス期の芸術家ほど偉大である必要はない。実際、劣っていそうだ。科学が進歩し、知識が広まれば、有徳者も有識者も昔ほど知的である必要はない。実際、最も騒ぎおる。知性の凡庸化、理性の凡庸化とは、人間社会に何をもたらそうとしているのだろうか...

2. 相互理解
世間には、なんでも対話で片付くという楽観論がくすぶる。だが、互いに冷静さを欠く状況では、却って感情論を助長するだけ。仮想社会で、強いつながりよりも弱いつながりを求めるのは、それなりに合理性がある。関係が近すぎるから、互いの存在を意識し過ぎる。社会で優位に立とうとすれば、互いに弱みを握ろうとする。これすべて自己防衛本能の裏返しだ。相手が心地良い存在であり続ければ問題ないが、人間関係にそんな理想像は描けない。少しでも機嫌を損なうと、それが溜まりに溜まり、やがて罵り合い、傷口に塩を塗るような発言を繰り返す羽目に。
関係とは、間合いをはかること。互いに意識しないこと、互いに距離を置くことが効用となる場合が多々ある。神の前で誓った二人ですら、法の調停を求める。個人には意思があるだけに、個人からも、社会からも影響される。そして、人間嫌いにもなれば、社会嫌いにもなり、挙句の果てに自己嫌悪に陥る。SNSを増殖させる社会では、SNS嫌いも増殖させる。相互関係で距離をはかることも、メタ思考としておこうか...

3. メタ言語
プログラミング言語には、自己ホスティングという概念がある。言語系自体が解析処理まで記述できる能力を持つということだ。古来、自然言語にもそうした試みがある。母国語の研究は、ひたすらそれ自体の言語で記述されてきた。客観的な観点を与えるために、外国語で記述すればいいというものではない。言語体系そのものが、精神を投影するという自己矛盾を孕んだ存在なのだから。すなわち、言語を語るとは、自分を語ることであり、ひいては人間を語ることになる。そして、人類の普遍性なるものを探求すれば、自然言語がどこまでメタ言語になりうるか?これが問われるであろう。
しかしながら、母国語に対しては、どうしても愛着と贔屓目で見がちだ。外国語との比較によって、母国語の特徴をより鮮明に映し出すことはできるだろう。いずれにせよ、万能な言語はこの世に存在しない。もし存在するとすれば、人間は精神の正体を知ったことになる。いや、ひょっとすると既に知っているのかもしれん。だから、躊躇なくメタメタ化社会へ邁進できるのかは知らんよ...