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2022-12-25

"ホモ・デウス(上/下) - テクノロジーとサピエンスの未来" Yuval Noah Harari 著

かつて捕食され、他の動物に怯えて生きていた人類が、いまや地上を支配し、高度な文明を築くに至ったのはなぜか...
歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、「サピエンス全史」と題して人類史全体を巡り、その答えは「虚構」にあると言い放った(前記事)。国家や国民、企業や法律、さらには人権や平等といった考えまでもが虚構であり、虚構こそが見知らぬ人同士が協力することを可能にすると。中でも究極の虚構は、最も効率的な相互信頼の制度として機能する貨幣であると。そして、虚構に邁進した挙げ句、「超ホモ・サピエンス」という種を超越した存在になるであろうと...
なるほど!国家や法律も、自由や平等も、愛やお金も... すべては人類が言語化し、都合よく意味を与えたもの。実際、貨幣は国家間を無条件で結びつけ、頭がコチコチの宗教やイデオロギーの間までも取り持つ。
そして、三千年紀が幕を開けた今、人類は次々と仮想価値を編み出し、ますます仮想的な交換システムへのめり込んでいくかに見える。そりゃ、夢と現実の区別もつかんよ...

本書は、その続編である...
サピエンスは賢いの意で、デウスは神の意。人類は、自らを「ホモ・サピエンス」から「ホモ・デウス」へアップグレードするという。その道筋は、生物科学、サイボーク工学、非有機的な生命工学といったテクノロジーを用いて、この世界を思い通りに作り替え、さらには自分自身までも作り替え、創造主になることを目指すと。神にでもなろうってかぁ。神という概念も人類が創り出したものだけど...
神といっても、一神教が崇めるような宇宙の創造主たる絶対的な神というイメージではなく、ギリシア神話に出てくるような多彩な神々といったイメージか。どうやら神にも格付けがあるらしい。
ヘシオドスは、人間の世代を黄金、白銀、青銅、英雄、鉄の五つで分類した。彼の説によると、現代は最も退廃した鉄の時代ということになるが、ホモ・デウスへの昇華は、まだ穢れを知らず、神々と共に純粋に生きていた黄金の時代へ回帰するってことか。それは、人間性までもアップグレードするってことか。いや、神になるも、悪魔になるも、紙一重!
あるいは、現代社会の思想や信仰が両極化していく様を鑑みて、H.G.ウェルズが八十万年後の世界を描いた「タイムマシン」のように、ユートピアを夢見るあまりに平和ボケしちまったエロイ族と、獰猛な欲望に取り憑かれてエロイ族を捕食するに至ったモーロック族という構図と重ねてみるのもいいかも...

未来を悲観的に、しかも滑稽に予測することはいいことかもしれん...
実際、人類は滑稽を演じてきたし、直面している様々のジレンマを考察して導かれた予測はあくまでも可能性であって、気に入らなければ、そうならぬよう行動すればいいだけのこと。歴史を学ぶとは、そういうことなのだろう。
しかしながら、人類の意志は、個人個人の意志ではなく、集団の意志として働くから手に負えない...
尚、柴田裕之訳版(河出書房新社)を手に取る。

「この予測は、予言というよりも現在の選択肢を考察する方便という色合いが濃い。この考察によって私たちの選択が変わり、その結果、予測が外れたなら、考察した甲斐があったというものだ。予測を立てても、それで何一つ変えられないとしたら、どんな意味があるというのか...」

旧人類とされるネアンデルタール人は、新種のホモ・サピエンスに追いやられて絶滅した。ホモ・サピエンスもまた、新たな進化種によって追いやられる運命にあるのだろうか。
とはいえ、他の動物たちから見れば、すでに人類は神のような存在なのかもしれん。文明やテクノロジーが神へ導くのかは知らんが、例えば、古代宇宙飛行士説が唱えるように、遠い過去に古代人が宇宙人と遭遇し、宇宙船のような高度なテクノロジーを引っさげて飛来したとすれば、やはり、神の降臨と信じてしまうのではあるまいか。それが神話となって語り継がれてきたということは考えられる。想像を絶するレベルのテクノロジーを纏えば、神を装うことができそうだ。人間にも、芸術家や科学者、あるいはアスリートなど、神業と思えるような才能を魅せつける天才たちがいるし...

一方で、進化の過程を認めない人々がいる。教壇では進化論を教えることを激しく拒絶したり。なにゆえダーウィンを恐れる。変化を求めてやまない人類が変身願望エネルギーを蓄積させ、ある日、生態系を突然変異させることは十分に考えられる。ホモ・デウスとは、そうした進化種であろうか。となれば、誰もがホモ・デウスになれるわけではあるまい。おいらのように未だネアンデルタール人のまま、という輩も多くいるはず。存分に情報や知識が手に入る時代では、自発的に生きる人と受け身で生きる人の意識は明らかに違い、認識格差をますます拡大させていくかに見える。
爆発的な人口増殖に対応するには、仮想価値の経済的な循環運動のみが頼みの綱であり、人類はさらなる仮想空間に避難所を求めていくほかはあるまい。
知的生命体が進化をすればするほど、自己というものがどんな存在かを知ろうとするのは自然な欲求であろう。人類は、精神や意識の正体を知りたくてしょうがないはず。しかし、こうしたものも仮想的な存在なのやもしれん。つまりは、虚構...

「人間は至福と不死を追い求めることで、じつは自らを神にアップグレードしようとしている。それは、至福と不死が神の特性だからであるばかりでなく、人間は老化と悲惨な状態を克服するためにはまず、自らの生化学的な基盤を神のように制御できるようになる必要があるからでもある。もし私たちが自分の体から死と苦痛を首尾良く追い出す力を得ることがあったなら、その力を使えばおそらく、私たちの体をほとんど意のままに作り変えたり、臓器や情動や知能を無数の形で操作したりできるだろう。」

本書は、「データ教」という新たな宗教を提示する...
データ至上主義では、森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象や価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるらしい。こうした考えは、ダーウィンの進化論とチューリングマシンの発想がぶつかりあって生じた潮流で、科学界で概ね受け容れられているという。
「生物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理である。」

こうした見方によると、株式市場は、これまで人間が編み出した中で最も効率的なデータ処理システムということになろうか。参加は自由。直接的にも、間接的にも参加可能。とはいえ、無理やり、いや、知らず知らずに参加させられている人も多く、たまーに暴走もする。
生物がアルゴリズムであるなら、数学的に記述できることになる。まさにチューリングは、計算機が心を持ちうるかを問うた。コンピュータ工学にも、人間の知識や知恵を限界とする見方があり、ビッグデータや人工知能に信頼を置く風潮がある。
ウィキペディアを覗けば、すべての知識がデータ化されることを魅せつける。
アマゾンを放浪すれば、すべての商品がデータ化されることを魅せつける。
ソーシャルメディアを眺めれば、すべての意見や見解がデータ化されることを魅せつける。
そして、ネット民は呪文を唱える。すべてを記録しよう!すべてをアップロードしよう!すべてをシェアしよう!と。繋がろうとしない人間には、時代遅れ!のレッテルを貼り、危機感を煽る。
自由意志は、もはやデータに成り下がっちしまったか。自由主義や資本主義も、社会主義や共産主義も、もはやイデオロギーでもなければ政治制度でもなく、競合するデータ処理システムに成り下がっちまったか。資本主義は分散型データとして生き、共産主義は集中型データとして生きる、ただそれだけのことか...

「現代というものは取り決めだ。私たちはみな、生まれた日にこの取り決めを結び、死を迎える日までそれに人生を統制される。この取り決めを撤回したり、その法(のり)を越えたりできる人はほとんどいない。この取り決めが私たちの食べ物や仕事や夢を定め、住む場所や愛する相手や死に方を決める。一見すると現代とは極端なまでに複雑な取り決めのように見える。だから、自分がどんな取り決めに同意したのかを理解しようとする人は、まずいない... ところが実際には、現代とは驚くほど単純な取り決めなのだ。契約全体を一文にまとめることができる。すなわち、人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する、というものだ。」

いずれ、データ自身が意志を持ち始めるのやもしれん...
人の意志を物理学で説明すれば、脳内でニューロンが信号を発し、あるパターンに則ってデータを処理しているだけのこと。精神や心の正体が、物理的には無数の自由電子の集合体で説明できるとすれば、無数のデータ群が意志を持っても不思議はあるまい。
人間自身が人間を知るよりもデータが人間をよく知るようになるとしたら、ソクラテス以前の時代から提起されてきた、汝自身を知れ!という哲学的問題もあっさりと解決しそうな。
しかし、自分自身を知る必要のなくなった人間とは、いったいどんな存在であろう...

「今やテクノロジーは急速に進歩し、議会も独裁者もとうてい処理が追いつかないデータに圧倒されている。まさにそのために、今日の政治家は一世紀前の先人よりもはるかに小さなスケールで物事を考えている。結果として、二十一世紀初頭の政治は壮大なビジョンを失っている。政府はたんなる管理者になった。国を管理するが、もう導きはしない... これは、見ようによってはとても良いことだ。二十世紀の大きな政治的ビジョンのいくつかがアウシュヴィッツや広島や大躍進政策へとつながったことを考えると、私たちは狭量な官僚の管理下にあったほうがいいのかもしれない。神のようなテクノロジーと誇大妄想的な政治という取り合わせは、災難の処方箋となる。多くの新自由主義の経済学者や政治学者は、重要な決定はすべて自由市場の手に委ねるのが最善だと主張する。それによって政治家は、無為や無知であることの完璧な口実が得られ、無為と無知は深淵な知恵として再解釈される。政治家にとっては、理解する必要がないからこの世界を理解しないのだと思うのが好都合なのだ。」

2022-12-18

"サピエンス全史(上/下) - 文明の構造と人類の幸福" Yuval Noah Harari 著

すべては空想か... すべては虚構か...
現代人は、ますます仮想空間にのめり込み、恐ろしく柔軟で変化に富んだ社会を生きている。クラウドコンピューティングに、デジタル通貨に、メタバースに... すると、国家や法律も、自由や平等も、愛やお金も... すべては概念化したものにすぎないのではないか、と思えてくる。概念とは、人間が勝手に意味を与え、言語化したもの、自由気ままに定義したもの。概念にこだわり、概念に振り回され、概念に支配されて生きている、ただそれだけのこと。それは、人間が人間自身を支配しようという試みの一貫であろうか...

概念は、虚構と実体を区別しない。どちらも認識の産物にすぎないということか。宇宙空間も、精神空間も、大した違いはないということか。どうりで夢を見ている間は、現実との区別もつかないわけだ。魂や精神を虚構と認めた上で、虚構をもって自己を制す。それは、毒を以て毒を制すの類いか...
とはいえ、虚構も悪くない。なにしろ無限の可能性を秘めているのだから。現実にはすぐに幻滅させられるというのに。どうやらホモ・サピエンスという種は、虚構に依存するという究極の依存症を患っているようだ。そんな依存遺伝子が組み込まれた人間とは、いったいどのような存在であろうか。その答えを求めて、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは人類史全体を巡る旅へいざなう...
尚、柴田裕之訳版(河出書房新社)を手に取る。

「アフリカでほそぼそと暮らしていたホモ・サピエンスが、食物連鎖の頂点に立ち、文明を築いたのはなぜか。その答えを解く鍵は『虚構』にある。我々が当たり前のように信じている国家や国民、企業や法律、さらには人権や平等といった考えまでもが虚構であり、虚構こそが見知らぬ人同士が協力することを可能にしたのだ。やがて人類は農耕を始めたが、農業革命は狩猟採集社会よりも苛酷な生活を人類に強いた、史上最大の詐欺だった。そして歴史は統一へと向かう。その原動力の一つが、究極の虚構であり、最も効率的な相互信頼の制度である貨幣だった...」

人間社会には、生まれると半ば強制的に、どこかの国に所属させられるという奇跡的なシステムがある。たいていの人は生まれる地を選べないばかりか、生まれる場所すら与えられない人もいる。つまり人間は、生まれ出ると、まず不自由を経験することになる。だから、本能的に自由に焦がれるのか。
おまけに、租税の義務まで自動的に背負わされる。慣習とは恐ろしいものだ。そこに疑問すら持てないのだから。
しかしそれは、薬物依存症と何が違うのだろう...

「近代に至って、なぜ文明は爆発的な進歩を遂げ、ヨーロッパは世界の覇権を握ったのか?その答えは『帝国、科学、資本』のフィードバック・ループにあった。帝国に支援された科学技術の発展にともなって、『未来は現在より豊かになる』という、将来への信頼が生まれ、起業や投資を加速させる『拡大するパイ』という、資本主義の魔法がもたらされた...」

人間社会で、最も信頼の置けるものとは何であろう...
古代人は、神話や占いの類いに救いを求め、やがて宗教が発明された。占星術は科学の種を蒔いたが、やがて科学と宗教は反目するようになる。
本書は、宗教の歴史的な役割に、秩序やヒエラルキーといった概念に超人間的な正統性を与えたことを指摘している。この正統性が、人々を統一へ向かわせたと...
秩序やヒエラルキーは、想像上の産物だけに脆い。表向きでは、宗教は神を仲介して人々を救済する、ありがたい存在ということになっている。だが実は、こうした想像上の概念を絶対的な存在に昇華させたことに大きな意味があったのやもしれん。
多神教の時代には、まだ神との対話に親和性があった。各々の神は、得意技とともに欠点を曝け出し、雷オヤジのゼウスですら女神では飽き足らず、人間の美女に手を出す始末。やがて全能者となった神は、一神教となって不要な神をばっさりと切り捨て、絶対的な存在となった。絶対的であるからには、よほどの威信が伴わなければ。その威信はどこからくるのか。それは、信者の数か。宗派の優劣は、多数決の原理に支配されるのか。神の世界も生存競争はすこぶる厳しいと見える。なるほど、これが民主主義ってやつか...

「多神教は本来、度量が広く、異端者や異教徒を迫害することはめったにない。多神教信者は、巨大な帝国を征服したときにさえ、被支配民を改宗させようとはしなかった。エジプト人も、ローマ人も、アステカ族も、異郷に宣教師を送って、オシリスやユピテル、ウィツィロポチトリ(アステカ族の主神)の礼拝を広めようとはしなかったし、その目的で軍を派遣することは断じてなかった。」

本書は、秩序やヒエラルキーといった概念に、「共同主観的」という用語を当てる。それは、主観的とも、客観的とも違う。
現代社会では、共有という用語が乱用され、どんなに偏重しようが、どんなに偏狭になろうが、集団意識が強調される。しかも、その意識は両極端に振れ、そのまま基準とされる危険な時代でもある。共同主観的とは、これに近いものがありそうだ。
21世紀の今、宗教はそれほど必要ではなくなり、むしろ差別や偏見を助長する根源と見なされることが多い。そして、自由主義や人道主義といったイデオロギー的な概念が台頭してきた。普遍的な価値観や宇宙論的な世界観を信仰するという意味では、イデオロギーもまた宗教と呼べなくもない。伝統的な宗教は、世界における重要な知識はすべて分かっていると主張してきたが、科学はその逆の立場を主張してきた。科学革命は、無知を知ることを重要視したとも言えよう。信仰体系という意味では、啓蒙思想も立派な宣教活動であり、科学もまた立派な宗教と言えよう...

「過去三百年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として描かれることが多い。もし、有神論の宗教のことを言っているのなら、それはおおむね正しい。だが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的情熱や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代ということになる。近代には、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾にすぎない。もし宗教が、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。」

世界を統一する概念といえば、宗教やイデオロギーを遥かに凌ぐツールがある。そう、貨幣ってやつが。宗教やイデオロギーは、共通意識を持った者同士を結びつけるが、同時に異なる意識を持った者同士を反目させる。しかも、きわめて政治的であったり、何らかの先入観を助長したり、攻撃的な性格までも帯びている。
その点、貨幣は世界観を超えた価値として社会に合理性をもたらしてきた。なんでも貨幣換算すれば、すべての取引が成立する。人の命ですら。無味乾燥的という意味では、数学的ですらある。
しかし、貨幣は万能ではない。すべての価値観を網羅できるものでもない。それでも折り合いをつけることはできる。つまりは、妥協である。人間の意識が時間の矢に幽閉され、どんな状況にあっても前に進まなければならないとすれば、妥協の仕方が重要となる。人間社会に富をもたらしたのは、宗教でもなければ、イデオロギーでもなく、やはりお金であろうか。いや、お金を主体にしたイデオロギーもある。そう、資本主義ってやつが。
しかしながら、哲学者や道徳家たちは何千年も前から、お金に汚名を着せてきた。お金は未来に対して利息という概念を生み、こいつが悪用されてきた歴史は長い。あるいは、人権に反する人身売買も横行すれば、遺産相続で演じる骨肉の争いは、実に醜い。
お金ってうやつは、人をえげつなくする。しかし、お金がないと、精神不安に陥る。人間社会において信頼の置けるものには、必ず邪悪な面が備わっているようである。それは、人間自身に善と悪が共存していることの証であろう...

さらに本書は、最終章で「超ホモ・サピエンスの時代へ」と題して、種を超越した存在に警鐘を鳴らす。いまや科学技術は、生命の法則や自然選択の法則を変えようとしていると。
そして、自然選択に取って代わりうる三つの知的設計について言及している。それは、生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学である。
近年、「インテリジェント・デザイン」という用語を見かける。これを唱える連中は、学校でダーウィンの進化論を教えることに反対し、創造主の存在を主張する。だが、その主張を否定できるほどの科学的な根拠はない。ひょっとしたら、どこぞの地球外生命体が、一つの惑星をアクアリウムに見立て、生物を飼育したのが始まりだったかもしれないし...
また、機械の知性については、チューリングの時代から問題提起されてきた。コンピュータは心を持ちうるかという問題である。そもそも、心とは何か?魂とは何か?精神とは何か?物理的には、素粒子の集合体ということになろうか。無数の自由電子がある法則に従って群がると、自由意志なるものが創出されるのか?大多数の群衆で形成される社会が、個人とはまったく別の集団的な意志を持って独り歩きを始めるように。
デジタル生物に、バイオニック生命体とくれば、有機体と無機体の区別も覚束ない。生命体という概念までも、ぶっ飛びそうな。人類という種は、想像上の概念を勝手に生み出しておきながら、その概念をぶっ壊すのがお好きと見える。
汝自身を知れ!とは、ソクラテスの時代から問われてきたが、いまだ人類は、自分自身がなんであるか、どこへ向かっているのかも分からずにいる。宇宙法則を凌駕して、神にでもなろうというのか...

「私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか...」

2022-12-11

"モチベーション 3.0" Daniel H. Pink 著

TED カンファレンスで、"The puzzle of motivation" と題した講演を見かけたのは、もう十年ぐらい前になろうか。以来、ダニエル・ピンクが ToDo リストに居座ってやがる。そんな奴らが、おいらの ToDo リストに屯しているわけだが、M な性分には嬉しい悩みでもあった...

さて、原題に、"Drive: The Surprising Truth About What Motivates Us" とある。ドライブという語感は自動車の運転といったイメージだが、本書は「ヤル気!」という訳語をあてている。辞書を引くと、「運転」のほかに「前進」や「駆動」といった意味が見つかる。何かに駆り立てられる動機と解せば、「ヤル気!」とするのもなかなか!
ただ、ヤル気!ってやつは、一時的に発揮する分には大したもんでもないが、こいつを持続させるとなると、なかなか手ごわい。やがて、自己への問い掛けが押し寄せてくる。何のために... と。そして、人生の意味までも問うことに...
人を動かす根本的なものとは、なんであろう。ワクワクするような動機だけでは、何か足りない。自発的な意志が湧いて出てくるような、そんな環境も欲しい...
尚、大前研一訳版(講談社)を手に取る。

本書は、動機づけの基本型を三つ提示している。
まず、生存を目的とした人間本能に根ざした第一の動機づけがある。それは、飢餓動因、渇動因、性的動因などの生物的、生理的な欲求に発するもので、これをモチベーション 1.0 と呼ぶ。
次に、報酬や罰則などによる第二の動機づけがある。ここでは「アメとムチ」と表現されるが、見返りの原理とでもしておこうか、これをモチベーション 2.0 と呼ぶ。原始の時代には、腹が減れば喰い、生殖本能のままに性交がなされたが、工業化の時代になるとサラリーマン社会が形成され、アメとムチで扱き使われる。給料がもらえるから働く意欲が出て、法律で罰せられるから抑止が効くとすれば、それは本当に自分の意志であろうか。
そして、第三の動機づけが、自己の内から湧いて出てくるような「ヤル気!」で、これをモチベーション 3.0 と呼ぶ。人間には元来、新しいことを求めたり、やり甲斐を求めたり、あるいは、自分の能力を高め、発揮し、探究し、学ぶといった傾向が備わっているという。こうした性質が第三の動機づけの原動力となる。とはいえ、自己実現や自己啓発を大層に掲げたところで、自己陶酔や自己肥大となるか紙一重。第三の動機づけは他の二つの動機づけよりも脆弱で、それ相応の環境が必要である。

そして、本物のモチベーションを構成する要素に、「自律性、マスタリー(熟達)、目的」の三つを挙げている。真の動機づけを促すものに、自律性と自立性、あるいは、健全な目的の設定が鍵になるのは言うまでもあるまい。そして、交換条件付きの報酬は、自律性を失わせる。給料が高いに越したことはないが、それに依存するようでは真の動機は望めまい。
それゆえ、報酬で釣るような仕組みでは倫理に反する目標を設定したり、ノルマ達成のための水増し請求や、押し売りまがいの不必要な施工といった行為が横行し、社会問題を引き起こすという。メンバーの愚痴が、他者との報酬の差に向きはじめたら、チームの健全さが失われつつあると見ていい...

「第三の動機づけというあべこべの世界では、報酬は往々にして、奨励しようとしている事柄の足を引っ張る役割を果たす。だが、話はこれで終わりではない。外的動機づけが誤って用いられると、これに付随して意図せぬ結果がもたらされる。望まないことをさらに大きくしてしまうのだ。ここでも再び、ビジネスの現場は科学の後塵を拝している。科学的には、アメとムチは悪しき行為を助長し、依存を生み出し、長期的視点をないがしろにした短絡的思考を促すおそれがある、とすでに証明されているからだ。」

そこで、報酬の在り方が問われる。報酬体系で最も問題になるのは、その評価と公平性であろう。能力に見合った報酬が得られるならば、大した問題にはなるまい。社内で能力に応じた給料が得られなければ、ヤル気が失せるし、他社の給料が格段に高ければ、そちらに転職するまでのこと。
逆に言えば、最低限の公平性が担保されれば、健全な動機づけが促せるというわけである。では、促すのは誰か?もちろん自分自身であるが、社風や組織風土といった環境が整わなければ。人間ってやつは、環境に影響されやすい動物である。

三つの構成要素の中で、特に注目したいのは「マスタリー」という用語である。本書は「熟達」という訳語をあてているが、人生のビジョンや生き方といったものを視野に入れた高いレベルでの修練を言うのであろう。それは、目標設定とも大きく関わるが、実際は、現実とのギャップを埋めるプロセスになろう。凡庸な人がやれば、自己啓発から自己実現へのプロセスが、妥協から自己満足、そして、自己陶酔と化す。おいらがやれば、自己泥酔よ。熟達した人であれば、現実とのギャップを自己実現に向けた推進力とするのであろうけど...
そして今、「マスタリー」という用語に、論語を重ねて眺めている。論語には、いい言葉がある... 吾、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず... と。
なるほど、モチベーション 3.0 とは、ある種の人生論の提示であったか...

「それが天職かどうか、その人の仕事ぶりを観察する必要はない。ただその目を見るだけでよい。ソースを調合するシェフ、難しい手術にあたる外科医、船荷の送り状を作成する事務員、みな同じように熱中した面持ちを浮かべ、その仕事に没頭している。対象物を見つめる眼差しの、なんと美しいことか...」
... W・H・オーデン

モチベーション 3.0 のメカニズムを促進的とするなら、モチベーション 2.0 は抑圧的。組織社会では、自由にやらせれば怠ける... 独断でやらせれば責任を逃れる... 期限やノルマを与えなければサボる... といった考えを持つマネージャをよく見かける。おいらは、ず~っと前から、「マネジメント」という用語に「管理」という訳語を当てることに違和感を持ってきた。日本では、管理職は偉い!ということになっている。肩書社会の象徴か。マネージャも技術職も営業職も役割が違うだけのことで、目標は同じはず。ある程度経験を積んだ人がマネジメントをやるのは理にかなっているとはいえ、向き不向きもある。管理職を欲する人は、いったい何を管理するというのか。いや、管理したいから欲するのであろう。自己を支配できぬ者は、他人を支配しようとする。独裁的な性格が強いほど、周囲には抑圧的な空気を漂わせておきたいらしい...

一方で、自由精神に飢えたボランティア的な活動を方々で見かける。実際、社会福祉の分野だけでなく、無償でコードを書くエンジニアがわんさといる。知識への渇望や能力の向上は、心をワクワクさせる。情報交換しながら、互いに高めようと。そこに上下関係はない。たいていの技術は、そうした自由な活動から生まれてきたし、どんなに優れた技術でも最初は金にならぬもの。それでも、根気よくやってきた無名の人たちがいる。動機づけのレベルで哲学的な意識のすり合わせができれば、上司と部下という概念も崩壊するやもしれん。人生は短い!仕事の動機づけは、シンプルな好奇心で共有したいものである...

「ことによると『マネジメント』という言葉そのものを、『アイスボックス(icebox)』や『ホースレスキャリッジ(horseless carriage)』と一緒に、累々たる死語の山に投げ捨てる時期かもしれない。21世紀は、『優れたマネジメント』など求めていない。マネジメントするのではなく、子供の頃にはあった人間の先天的な能力、すなわち『自己決定』の復活が必要なのである。」

2022-12-04

"エッセンシャル思考" Greg McKeown 著

仕事を断るのは、意外と難しい。独立した動機の一つに仕事を選ぶということがあるが、それでも難しい。村社会には、NO! と言えない空気が淀んでいる。人生において重要なことは?最優先すべきことは?などと思いを巡らせつつ...

「"NO" は完成された文章である。」... アン・ラモット

高度な情報化社会では、情報検索の手段が豊富で、その気になれば大抵の知識が手に入る。学ぼうと思えば、いくらでも学べる時代である。言い換えれば、受け身な人は置いてけぼりを喰らい、意識格差をどんどん拡大させていく時代でもある。

では、何を学ぶか?学習意欲が旺盛なのはいい。生き甲斐にもできる。
しかし、人生は短い。あらゆることを吸収しようとすれば、消化不良で吐き気を催す。学ぶことによって馬鹿になるのでは、何をやっているのやら。優秀な人ほど、こうした類いのパラドックスに陥りやすいという。
頭がいいと、いろんなことが認識でき、多くのことを学べそうだが、学び方にも不相応というものがある。まずは、楽しむこと!これを人生の基本方針としたい。重要なことに集中するということは、重要でないことを切り捨てるということ。そして、捨てる能力が問われる。これが、「エッセンシャル思考」というものか...

そして、三つの呪文を、あっさりと上書きする。
「やらなくては」ではなく「やると決める」
「どれも大事」ではなく「大事なものはめったにない」
「全部できる」ではなく「何でもできるが全部はやらない」

尚、高橋璃子訳版(かんき出版)を手に取る。

「向上心はときに絶えざるプレッシャーとなってあなたを襲う。あれもこれも試したい、いいことは全部自分の生活に取り入れたい。だが、そんなやり方で人は進歩できない。何事も中途半端に終わるのがオチだ。この苦境から抜け出すための鍵は、人生を本質的要素だけに絞り込むこと...」
... ダニエル・ピンク

基本的人権の一つに自由権とやらがある。信仰の自由に、思想の自由に、職業選択の自由に... 社会には自由が溢れている。少なくとも建て前では...
それで、自分は自由に生きているだろうか。組織にどっぷりと浸かり、義務という名の強迫観念に囚われる日々。心理学には、学習性無力感という用語を見かけるが、諦めの境地にも似た感覚に見舞われ、惰性的にやっていることばかり。選択肢があるにもかかわらず、選択肢を否定することによって消極的な選択を引き受けている。本当に自分の足で歩いているのやら...

「選ぶ能力は誰にも奪えない。ただ、本人が手放してしまうだけだ。」

トレードオフを直視せよ!
グレッグ・マキューンは、何かを取るために何かを捨てるというタフな決断を要請してくる。
「エッセンシャル思考は、より多くのことをやりとげる技術ではない。正しいことをやりとげる技術だ。もちろん、少なければいいというものでもない。自分の時間とエネルギーをもっとも効率的に配分し、重要な仕事で最大の成果を上げるのが、エッセンシャル思考の狙いである。」

そして、重要な選択を見極めるために、五つの助言を与えてくれる。
「じっくりと考える余裕、情報を集める時間、遊び心、十分な睡眠、そして何を選ぶかという厳密な基準」
あればありがたい贅沢品ばかり。遊び心なんて、ふざけた事を言う前にさっさと働け!などと怒鳴られそうな。しかし、これらを避けていては袋小路に入ってしまう。まるでアドレナリンジャンキー!
エッセンシャル思考の人は、時間をかけて調査し、じっくりと検討することを大切にするという。逆説的に、忙しい時ほど考える時間を確保することが合理的な行動につながると考えるようである。
一度立ち止まる時間を作るというのは、重要だと分かっていながら、実践するのは難しい。日々の仕事を思えば、勇気もいる。それが現実的でない!というなら、一度人生をリセットするぐらいの覚悟がいるやもしれん...
「本質を見失うことの代償は大きい。自分で優先順位を決めなければ、他人の言いなりになってしまう。」

さらに、自分の能力を最大限に引き出すためのシステマティックな方法として、習慣づくりを少しばかり伝授してくれる。良い習慣によって、本質的な行動を無意識化するというわけである。そして、マインドフルネスを身につけよ!と...
スポーツ選手が試合に集中するために、練習などでルーティンというものを重要視する傾向がある。日々の思考法にも、そうした儀式的な所作が結構役に立つ。ジャンクフードを断ち切るのにも...
正しい習慣は、妨害に打ち克つための最強の武器になるという。本質的な目標に向かう行動を習慣づけてしまえば、あとは自然に振る舞うだけ。習慣づけにちょいとばかり努力がいるけど...

「決まりきった行動は、賢い人の場合、高い志のあらわれである。」
... W・H・オーデン

2022-11-27

"アジール - その歴史と諸形態" Ortwin Henssler 著

歴史学者伊藤正敏は、アジールの視点から中世日本の寺社勢力論を熱く語ってくれた(前記事)。アジールに、民主主義や自由精神、あるいは、基本的人権の源泉を見る思い。そして、オルトヴィン・ヘンスラーという人の「アジール論」が紹介され、その成り行きで本書を手に取った次第。おいらは、暗示にかかりやすいのだ。
しかしながら、品切れときた。古本屋でも見つけられず、市立図書館に縋って...
尚、舟木徹男訳版 + 解題(国書刊行会)を手に取る。

注目したいのは、「アジール法」という表現である。法といっても、実定法というよりは、それを超えた平和秩序に属すものらしい。
そもそも法制度というものは、文化の投影であり、共同体の在り方の表明であり、社会に対する態度でもある。集団社会には、慣習のうちに暗黙の掟のようなものが湧いて出る。人間ってやつは、なにかと決まり事をこしらえ、それを周りに守らせるのが、お好きと見える。
そして、自分自身が法となり、独占欲を旺盛にし、独裁欲を露骨にする。自分だけの決まり事にしておけばいいものを...
ちなみに、国権の最高機関と謳われる国会には立法権とやらがある。それで、政治家自身が決めた法律のストレステストをやってりゃ、世話ない。形骸化していく法を量産して...
実定法を超越した掟となると、自己存在に基づく普遍性のようなものが感じられ、自己防衛本能に根ざした自然法のようなものが見て取れる。
ヘンスラーは、「アジール法」という用語に、「不可触性」「不可侵性」という二重の意味を込め、血讐を抑止するような考えを植え付けることが重要だとしている。そして、こう定義する。

「一人の人間が、特定の空間、人間ないし時間と関係することによって、持続的あるいは一時的に不可侵になる、その拘束力をそなえた形態」

これに対して、解題では舟木徹男が、庇護だけでなく、庇護を提供する場所それ自体をも含めて、こう再定義する。

「平和聖性にもとづく庇護、およびその庇護を提供する特定の時間・空間・人物」

どちらの定義も、なかなか...
例えば、刑法は、犯罪者に対する被害者の復讐心を肩代わりする役割もあろう。復讐の連鎖は、社会秩序において重要な問題であり、目には目を... では循環論に陥ってしまう。法の加減は難しい。被害者を犯罪に走らせる社会では、法治国家とは言えまい。
しかし、だ。犯罪者に限らず、どんな集団社会にも、馴染めない人々がいる。周りにうまく溶け込めず、自然体でいることの困難な人々が少なからずいる。異端者やアウトロー、家庭環境や経済状態の過酷な者、ハラスメントやドメスティック・バイオレンスに苦しむ者など、その境遇は様々。アジールだって集団社会の一形態であって、誰もが安堵して暮らせる理想郷というわけにはいくまい。集団社会から逃れた先が、これまた集団社会とは。世間で忌み嫌われる孤独死こそが、理想的な死という考えも成り立ちそうな...

「危険で恐ろしい森は人を容易に近づけない。ということは逆に、土地に縛り付けられていた農奴や領主に反抗したり不正に犠牲になった人々には、森とは人気のない静寂さに自由な空気が流れる解放の場だと夢想させたし、社会から追放されたアウトローには追っ手のかからぬなによりのアジールだったはずである。」
... 伊藤進

さて、本書はアジール法の形成過程を三段階で物語ってくれる。最初に「宗教的・魔術的段階」、次に「実利主義的段階」、そして最後に「退化と終末の段階」と...

まず、人を動かす原始的な心理状態に、不安と恐怖がある。聖霊や神への畏敬は原初的な動機でありながら、21世紀の現在でもなお生き続けている。その仲介役を演じる魔術師や妖術師、あるいは聖職者に神秘的な力を信じつつ。
ここでは、霊力のようなものを「オレンダ」という用語で説明している。強い効力を持つ有形無形の霊的な存在を信仰する観念状態を「オレンディスムス」というそうな。
そして、オレンダ化に不可侵のタブーが結びついた退避場所が、神秘的な聖域と化す。あるいは、その聖域に一般人を寄せ付けない不可触のタブーが働く。これが、宗教的・魔術的段階である。

次に、法が宗教から距離を置くようになり、やがて離脱していく。国家が組織として確固たるものとなり、国家権力を拡大させていくが、まだ、信仰的な法が大きな適用力を持つ。政治の行事にも宗教的な祭祀が設けられ、アジールの存在を暗黙に承認しつつ、国家権力との共存を図る。これが、実利主義的段階である。

そして遂に、国家が宗教から独立し、国家がすべての強制力や法を独占することで、アジールの終結を見る。法の細分化、専門家が進み、合理的な秩序が構築され、宗教的・魔術的アジールは不要であるばかりか、国家にとって敵対する存在となる。かくして中央集権化が推し進められることに...

近代国家は、アジールのような多様な世界の抹殺に貢献したということであろうか。21世紀の現在でも、愛国心の下で世界観の一元化を図ろうとする輩が勢いづく。ただ、こうした動きに反発するかのように、仮想社会では多様化が進む。現在の社会構図は、一元化と多様化の二極化という見方もできよう。
国家の概念も、プラトンの国家から随分と変質したようである。近代国家の概念からも、そろそろ脱皮してもよさそうな。
となると、こう問わずにはいられない。本当にアジールは終わっちまったのだろうか?21世紀版のアジールが存在するとしたら、それはどんな形であろうか?と。そして、国民である前に、市民でありたいものである...

いまや国家の概念は、領土だけで説明がつくものではない。むしろ、イデオロギーや世界観、あるいは哲学的な共通観念による枠組みの方が大きな意味を持つ。アジールもまた地域や領域で説明がつくものではあるまい。
誰とでもつながれる社会では、孤独愛好家を増殖させる。グローバリズムが浸透するほど、民族意識やナショナリズムを旺盛にさせる。これだけ人間が溢れているというのに、なにゆえ小じんまりとした関係に縛られなければならんのか。
やはり人間社会には、駆込み場、退避所、聖域といったものが必要である。世間に惑わされずに生きることは難しい。誹謗中傷の嵐が吹き荒れる社会では尚更である。まずは、じっくりと自分という人間を知ること。アジールとは、そうした思考を促す場であったり、時間であったり、それらを取り巻くあらゆる関係を言うのであろう。だとすれば、現代社会にこそ必要な概念に見えてくる...

2022-11-20

"アジールと国家 - 中世日本の政治と宗教" 伊藤正敏 著

政治が歴史の表舞台だとすれば、こちらは裏舞台。だが、人間の本質を突いているのは、こちらの方やもしれん。
歴史書に触れれば、輝かしい政治指導者や華々しい権力争奪戦に目を奪われがちだが、その陰で真に社会を支え、静かに生きてきた無名の人々がいる。表通りは、なにかと騒がしい。SNS で無理やり繋がろうとする絆社会は、なにかと鬱陶しい。ならば、あえて静かな裏路地を歩いてみるのも悪くない...

どんな集団社会にも馴染めない人々がいる。周りにうまく溶け込めず、自然体でいることの困難な人々がいる。異端者やアウトロー、家庭環境や経済状態の過酷な者、ハラスメントやドメスティック・バイオレンスに苦しむ者、あるいは、犯罪に走ってしまう者や極道に身を投じる者など、その境遇は様々。中世武家社会には、戦に敗れ、身分を追われ、家柄や家系を隠して放浪した者も多くいたはず。誰もが安堵して暮らせる理想郷なんぞ、この世に存在しまい...

人は窮地に追い込まれると神に縋る。だが、神は消極的な人間がお嫌いと見える。神と交信できそうな寺院や神社が最初の駆込み場となるものの、そこも集団社会であることに変わりはない。平和と安住を求めて集まった人々が、突如として武装集団に変貌することもしばしば。
そうなると、集団の掟は却ってタチが悪い。息苦しい集団にしがみつくぐらいなら、孤独の方が合理的という見方もできよう。
とはいえ、面倒な縁をすべて断ち切り、自立して生きてゆくには勇気がいる。覚悟がいる。そうしないと生きてゆけないとすれば、社会から隔離した領域が生じ、世間からタブー視される。無縁所のような場は、人間社会には必要なのだろう。つまりは、個人にとっての聖域が...

伊藤正敏は、著作「寺社勢力の中世」の中でアジール的な性格を見い出しながら、「無縁所」という語を使っていた(前記事)。その理由は、寺社勢力が巨大な経済センターとしての機能を持ちながらも、権力や武力と無縁とは言えず、平和秩序の追求を目的とするアジールとするには、あまりに多くの不純物が含まれていると感じたためだという。
おそらく純粋なアジールなんて、この世には存在しまい。不完全な知的生命体が思い描いた理想郷なんぞに。本書は、中世の日本史をアジール論から再解釈を試みる...

さて、「アジール」とはなんであろう。この用語はギリシア語に由来し、「神聖な場所」、「統治権力の及ばない領域」といった意味があるらしい。オルトヴィン・ヘンスラーという人が、こんな定義をしたそうな。

「一人の人間が、特定の空間、人間、ないし時間と関係することによって、持続的あるいは一時的に不可侵なものとなる。その拘束力をそなえた形態」

このフレーズだけでも、ヘンスラーの書に興味が湧く。おいらは暗示にかかりやすい。但し、品切れで入手は難しそう...

まず、国家と一線を画す場とすることはできよう。そこには、不可触と不可侵という二重の意味が込められる。消極的な意味では、社会からの駆込み場、世間からの退避所といった暗いイメージもあるが、積極的な意味では、政治体制に束縛されない自由活動の場というようなワクワク感もある。その生命線は、暗黙の不入権ということになろうか。
アジール法は、実定法による秩序よりも、それを超えた平和秩序に属すという。法を制定する目的は、平和と人権を第一とするであろうが、法の精神だけを説いたところで現実感に乏しい。平和秩序のための武力保持は、自然に発する自己防衛意識の顕れであり、現代法でもその正統性が認められる。
法治国家という形態がたとえ表向きであれ、中世の時代にこんな領域が自然発生するとは、なんとも魔術的で呪術的ですらある。
中世日本の主役は、封建制を確立した武士階級というのが建て前とされるが、公家、武家、寺社勢力の三つ巴の時代という見方もできそうだ。そして、各々が対立しつつ補完しあって統治していたと。俗世間を逃れ、身分を超えた移民や難民の集合体が、第三勢力となって日本の経済センターを担っていたと。
いつの時代でも、経済ってやつは、あまり政府や官僚が口を出さない方が、自由にアイデアを創出し、活発にもなるようである。
本書が提示する「アジール ≒ 無縁所 ≒ 寺社勢力」という図式もイメージしやすい。そして、この領域に、民主主義の源泉と経済活動を背景にした自由精神の体現を見る思い...

「アジールは人々を魅了してきた。網野善彦『増補 無縁・公界・楽』(平凡社選書、1987年、初版『無縁・公界・楽』1978年)は、原始以来、人々の生活の中に脈々と生きつづけ、権力や武力と異質な自由と平和『無縁、公界、楽』、アジール的な世界を叙事詩さながらに描いた。現代人はどこかにこんな世界への憧憬を持っている。またこういう場が現代社会にもどこかにあると信じたい。」

2022-11-13

"寺社勢力の中世 - 無縁・有縁・移民" 伊藤正敏 著

日本の文明や思想の源流は、その大半が中世の寺社にあるという。中世の寺社は、古代の寺社とも近世の寺社とも似ても似つかぬものだとか。それ故、学会では特に「中世寺社勢力」と呼ぶそうな...

古代に創建された東大寺、興福寺、延暦寺、高野山などが中世には変貌を遂げ、最先端技術、軍事力、経済力などを背景に、その勢力は幕府や朝廷を凌駕していたという。
信長の叡山焼き討ちの例を一つ挙げても、政治権力者たちは、何故、そこまでの惨殺行為に及んだのか、ずっと疑問に思ってきたところ。神や仏を後ろ盾にした思想が、しばしば権力とぶつかり、それが目障りだったことは確かであろう。だが、それだけか。別の何かを恐れてのことか...
寺社といえば、僧侶を中心とした仏教団体をイメージしてしまうが、ここでは宗教的な意味合いを超えた、もっと合理的な組織としての様子が伺える。

中世の自治都市といえば、堺の町を思い浮かべる。執政官により治められる自由都市として、イエズス会宣教師によって西欧に紹介され「東洋のベニス」と呼ばれた町である。そこには勝者も敗者もなく、堀によって他勢力を寄せ付けず、人々は平和に暮らしていると。しかも、当時の最新兵器である鉄砲の最大流通路でもあった。堺の町は、代わる代わる時の権力者が支配にかかったが、あらゆる政治的駆け引きをもって屈せずにきた。堺焼き討ちの日まで...
これに似た自治都市が日本には無数に点在したという。自由精神ってやつは、抑圧するほど反発する性質がある。21世紀の今でも、抑圧的な政治権力ほど、常に民衆を監視せねばならないという奇妙な理屈がつきまとう。独裁的な人物ほど民主的な風土を恐れると見える...
尚、伊藤正敏は、この寺社勢力を「境内都市」と呼んでいるが、どうも気に入らないらしい...

「境内都市というのはどうも語感が悪い。よい言葉を思いつかないので使っているが、自分でも気に入っていない。学会では境内町と呼ぶ人がいるが、門前町と似た小さな町のイメージがあり、日本の経済センターを呼ぶ言葉としては弱い感じがする。最後になるが読者にお願いがある、よいネームを考えていただきたい。よろしくお願いします。」

近代国家という枠組みが出来て以来、たいていの人は生まれてすぐ様、この枠組みに編入される。そこに自由はない。おまけに、疑問すら持たない。まさに奇跡的な自動化システムである。その裏で、社会に馴染めず孤立していく人々が少なからずいる。どんな集団社会にも、退避する場がいる。距離を置く場がいる。無闇に絆を煽る社会では、尚更。孤独ってやつは、集団の中にこそある...

中世にも、幕府や領主の元で主従関係を結ぶという枠組みがあり、同時に、はみ出し者の避難所も自然発生した。寺社の役割は、信仰的な救済だけでなく、村社会から追いやられた者、犯罪を犯して逃げ惑う者、政権争いに敗れて流人となった武士などの駆込み場ともなっていた。この場には、農民、職人、商工業者、武士など身分を超えた人材が集まってくる。大袈裟な見方をすれば、移民たちで活気づくアメリカ合衆国のような雰囲気さえ感じる。
避難民たちは過去を断ち切りたい。身分を捨て、生まれ変わって出直したい。国家に属す社会を有縁所だとすれば、社会を拒絶した無縁所。そこには夢と希望が溢れ、中には過去の栄光を取り戻さんがために、一時的に退避した武士もいる。
身分や家柄に囚われなければ、自然に能力主義が育まれ、才ある者が指導者となる。様々な書物に明るい僧侶の教えに導かれ、智慧が智慧を呼ぶ。自由な経済活動に自由精神の源泉を見れば、身分に囚われない組織構造に民主主義の源泉を見る思い...

しかしながら、自由放任ってやつは、やがて弱肉強食の性格を露わにする。議会制にも似た決議方式は、平等を建て前にすれば、難なく運営できよう。寺社ともなれば、神の前で平等が前提され、尚更。だが、集会や議会といった類いには派閥が蔓延り、事実上、派閥のボスが決定権を持つことに。まさに現代の縮図を見る思い...

「境内都市は、民主主義というより大衆社会の特徴が目立つのだ。外見上の議会制度をもち、民主主義的約束がありながら、議論を尽くした結果とはいいがたい決定が出る。皮肉なことにこれも現代大衆社会に酷似する。」

本書は、「国家 = 社会全体」という図式は、陥りやすい思い込みであると指摘している。では、現在の国家の概念はどうであろう。国家主義や愛国心と距離を置く人は多い。グローバル社会ともなれば、尚更。それは、他国を蔑むことによって自国を美化する連中の集まりにも映り、郷土愛のような自然に発する思いとはまったく別物に感じる。
そして、ネット社会にも、誹謗中傷の荒れ狂う裏で、無縁の仮想空間が拡がる。エンジニアの世界にも、企業や組織に所属せず、在野に生きる人たちがいる。オープンソースの世界には、ボランティア的な活動に励む人たちが多い。ひたすら自らの技術を磨こうと。ギークにも、ホワイトハッカーにも、そうした傾向を見つける。こうした世界も、ある種の無縁所に映る。
そして、21世紀の今、組織に所属する意味が問われる時代へ回帰するかに見えるのは気のせいであろうか。現在と中世とでは、無縁の概念も随分と違うであろうが、いつの時代でも無縁所の役割は大きいと見える。誰もが馴染める理想郷は、おそらくこの世には存在しまい...

ところで、日本の中世とは、いつ頃を言うのであろう。学校の教科書には、鎌倉幕府の成立(1185年)から室町幕府の滅亡、すなわち信長が将軍足利義昭を追放した時点(1573年)、とあったような。そう簡単に何年なんて割り切れるものではあるまい。学会でも、様々な論説があるようだ。
例えば、始まりの一つに、院政の開始とする説。すなわち、平安時代の摂関政治が衰え、白河上皇が実権を握った頃(1086年)。
終わりの一つに、信長が入京し、すでに将軍が死に体となった頃(1568年)とする説など。
しかし本書は、いずれのパターンとも相容れない。こと歴史では、政治権力者が主役を演じる表舞台に注目しがちだが、ここでは庶民に着目した裏舞台に注目している。
まず、始まりは... 1070年2月20日。祇園社が鴨川西岸の広大な地域を「境内」とし、朝廷から不入権を認められた日。これが京における無縁所の第一号というわけである。
そして、終わりは... 1588年7月8日。秀吉が刀狩令を布告した日。農村の武装解除として知られる法令は、全国レベルでの兵農分離を意味するが、同時に寺社に対しても適応されたという。つまり、無縁所の武装解除をもって終焉というわけである。

「人間には、縁などより先に、生の生活、生の感情、自然の尊厳がある。これを積極的価値として位置づけられたのが自然権思想である。縁切りとは、縁のために損なわれた人間の自然権を回復しようとする試みの、第一歩としての逃避である。その人々の思いが作り出した、非制度的制度こそが無縁所なのだ。中世とは、無縁所の時代だ。無縁所が息づいていた時代、これこそが中世である。開始は一〇七〇年、終了は一五八八年だ。」

2022-11-06

"読書論" 小泉信三 著

読書スタイルは、十人十色。読書を論じ始めると、独り善がりにもなる。そして、体験談となるは必定。読書家が論じれば、それに興味を持つ人もまた読書家であろうし、類は友を呼ぶ... とは、よく言ったものである。今更、読書の有用性を説いても詮無きこと。読書の悦楽なんぞ語るまでもあるまい。個々の思い入れに委ねるばかり。とはいえ、何を読むかとなると、達人の意見も聞いてみたい。クチコミやオススメの嵐が吹き荒れる社会では、特に...

たいていの読書家は精読を勧める。本書も例に漏れない。但し、ある程度多く読むことも勧めている。本当は、精読が正論なのであろう。しかし、人生は短い。速読術を会得したいところだが、それには鍛錬がいる。
合理的に生きるために、まずは良書を読むこと。良書を読むには、悪書を読まぬこと。とはいえ、悪書を知らずして、良書を知ることも叶うまい。有意義に生きるためには、無駄な生き方も学ばねば。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体の、いわば宿命。対義的な表現では、論語読みの論語知らず... ってのもあるし、マルクス読みのマルクス知らず... ってのも耳にする。
ちなみに、おいらはマルクス知らずのマルクス嫌いで、本書が高く評価している「資本論」は、いまだ手が出せないでいる。その第一巻第一篇が要約される「経済学批判」を読んだ時は感銘を受け、少し近づけそうな気がしたが、「共産党宣言」を読んで思いっきり引いてしまった。ToDo リストには未練がましく居座ってやがるけど...

ゲーテは「ファウスト」の中で、聖書に記される「始めに言葉ありき」という文句を「始めに行動ありき」と改めた。神は言葉で善悪のすべてを掌握できるらしいが、人間は自ら行動してみないと、なかなか善悪の判断もできない。技芸の道には、習うより慣れよ!という格言があり、プログラミング言語の修得でもおまじないとされる。言い訳じみた言葉を探す前に、やってみよう!学ぶとは、そういうことなのだろう。
とはいえ、大著を前にすれば、やはり尻込みする。まずは一冊、じっくりと、一ヶ月ぐらいかけて。すると、その経験が基準になって読書体力がつき、恐怖心も薄れていく。興味のない本に手を出しても苦痛が残るだけ。読書空間には、常に自由な空気を充満させておきたい。ノルマなんて無用!抑圧的なものはすべて排除!それで、何のために読むか?って。そこに本があるから...

さて、本書は、何を読むべきか、如何に読むべきか、について助言し、何を如何に読んだかを物語ってくれる。読書範囲は好奇心とともに拡がっていく。好奇心は、まずは認識すること、まずは知ることに始まる。興味ある一冊を読み、心を動かされるものがあれば、そこから引用や参考文献を辿る。
貧乏性のおいらは、買った本の活字を隅々まで拾わないと気が済まない。そんな面倒臭い性分が大嫌い。一冊を読むのに思いっきり時間を浪費し、多くを読むのが大の苦手ときた。
しかしながら、活字を拾うのと精読とではレベルが違う。
そういえば、丸谷才一が書いていた... まとまった時間があったら本を読むな。本は原則として忙しい時に読むもの。まとまった時間があれば考えよ!... と。
本書の立場も、読書は目的ではなく、あくまでも思考のための手段の一つ。考えるために本を読む!といったところか...

「読書の良習慣はしばしば読書家の悪癖と相隣りする。よく読書するものに往々自ら見、自ら考えるに怠惰なものが少なくないのは惜しむべきことである。」

また、再三反復して読むことを勧めているが、これが一番の難題やもしれん。気に入った音楽なら何度聴いても飽きないし、映画だって感動すれば何度だって観ちまう。なのに、本となると。二度、三度と読み返していくうちに、新たな境地が開けるかもしれないのに...
学生時代に読んだ「論語」は、いつか読み返そうと思いつつ、三十年が過ぎた。自分のテーマ曲のような本といえば、プラトンの「饗宴」あたりになろうか。いや、キェルケゴールも捨てがたい。いやいや、カントも、ゲーテも、シェイクスピアも... うん~、一生悩んでなさい!しかし、こういう悩みは楽しくて、いかんわ!

「殊に複雑な構造を持つ交響曲の如きは、始めてただ一回それを聴いて、直ちにその美しさ或いは大さの全体を解し、味わうというごときことは到底あり得ない。名曲は反復して聴くべきものであり、それによって始めてその真価を知り、或いはいよいよその真価を知ることが出来る。そしてまた、斯く反復して聴くに堪えるか否かということが、その真価の最も確実なテストとなる。」

さらに、せっかく読んだ内容を忘れちまうのではもったいない!というので、理解を深める目的で、読書覚え書きを残すことを勧めている。自分で文章に起こすとなると、熟考しないわけにはいかない。
だが、そのために言語力が問われ、更に面倒な課題をつきつけられる。言語力をつける方法の一つとして翻訳を勧められたり、言葉を合理的に記述する難しさを思い知らされたりと。
まさか!読書論を読んで、文章論をつきつけられようとは...

「畢竟推敲がいかに大切であるかというに帰着する。推敲とは唐の一詩人が僧敲(ハク)月下門としようか僧推(ハス)月下門としようか迷って苦心したというところに由来するという、その語源も示しているように、いかに適当の場所に適当な言葉を用いるかの吟味選択を指していうのであるが、篩にかけて字句を捨てることは、その最も重要の部分をなすものと知るべきであろう。」

2022-10-30

"エリア随筆" Charles Lamb 著

書き手が名乗る時、なにも本名である必要はあるまい。作者不明の名作もあれば、匿名の名文も見かける。アリスを書いたルイス・キャロルのように、ペンネームというやり方もある。名を隠し、虚空の人物になりすまし、筆の走るままに書く。人間ってやつは、仮面をかぶると自由になれるらしい。自ら演じた醜態を遠近法で眺め、羞恥心と距離を置けば、どちらが本当の自分なのやら。自己責任論を免れ、めでたしめでたし!
トム・ソーヤーを書いたマーク・トウェインもペンネーム。彼は、こんな言葉を遺した。「人間は顔を赤らめる唯一の動物である。あるいは、顔を赤らめる必要のある唯一の動物である。」と。これが、書き手の定めか。そして、「エリア」とは、チャールズ・ラムのペンネームである...

尚、本書には、「人間の二種類」「除夜」「不完全な共感」「近代の女性崇拝」「夢の中の子供たち - ある幻想」「遠方の友へ」「夫婦者の態度について - ある独身者の不平」「退職者」「結婚式」「酔っぱらいの告白」「俗説 - 悪銭身につかずということ」の十一篇が収録され、平井正穂訳版(八潮出版社)を手に取る。

退屈な日常までも物語にしちまう文才。幸せな人間に、こんな芸当ができるはずもない。自由奔放な筆さばきに魅せられれば、不幸な人間という自覚もなさそうだ。不幸な自分を愛し、不幸な自分に酔い、自分の傷を舐めるように書く。狂人ゆえ書かずにはいられない。発狂を抑えるために。随筆家とは、人生の達人であろうか。自ら病的な性癖を認める能力、自身を知る能力があればこそ書けるのやもしれん...

1. 除夜に何を想う...
来る者を歓迎し、去る者は追わず。生きている時間が長くなるほど、流れゆく時間は相対的に短くなっていく。過去の時間が長くなるほど、新たなものに臆病になり、過去にしがみつく。如何ともし難い時間の流れに反感を覚える...
「一銭惜しみをする吝嗇家のように、一瞬一刻がついやされてゆくのに我慢ならないのである。歳月が細々と少なくなり、矢のように走り去ってゆくにつれて、私はその経過にいっそう大きな感心を寄せるようになったのである。」

2. 不完全な自我に何を想う...
ネット社会には、共感を求めてやまない輩で溢れている。類は友を呼ぶ... と言うが、哀れな自己に、くだらない個性を見つめては、共感できる者を探し求める。自我を克服するために、少しばかり強すぎる偏狭ぶりをほじくり返しては、自己否定に、自己欺瞞に、自己陶酔に、自己肥大に自我を追い詰めていく。不完全な完全主義者を装うのは至難の業だ...
「私という人間は偏見のかたまりなのである。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いという人間、いわば共感の奴隷、無感の奴隷、反感の奴隷なのである。」

3. 独り身の嫌味ごと...
結婚式に出席すれば、孤独を忘れるひとときの喜びを感じるものの、高砂がやがて惰性となる愛の生け贄の祭壇に見えてくる。ブーケトスに幸せをあやかろうと群がれば、地獄への道連れかい。生涯、一人を愛し抜く自信がなければ、独身の方が誠実というもの。この寂しがり屋め!
「結婚というのはいかにも立派なものであるかもしれないが要するに一種の専売権みたいなものであり、これくらい不愉快なものもめったにない。独占的な特権をもっている者ができるだけその特権を他人の眼からみえないようにしておくというのがその知恵というものである。」

4. 退職後に何を想う...
だらだらと勤め上げ、自由に生きる能力を削られ、退職した瞬間に生き方を忘れちまう人は少なくない。時間が重荷なら、散歩でもして払いのけるさ...
「あの昔のバスティユ牢獄に四十年も幽閉されていて突然青天白日の身になった囚人みたいなものであった。」

5. 大酒飲み告白す...
酒の害は誰もが認める。治療法も簡単だ。だが、誰でも依存するものがある。会社や組織に、人間関係や集団社会に... 人との付き合いには、至るところに臆病の気持ちがつきまとう。モラリストどもよ。誰にでも自制がきかず、自省できないものがあると知れ!
「全面的な禁酒と、生命を縮める大酒の間に中庸の道はないものであろうか。」

6. 二つの種族...
人間には二種類あるという。借りる人間と貸す人間である。ゴート民族やら、ケルト民族やら、白人やら、黒人やら、そうした分類は些細なものらしい。そして、借り手を偉大な種族と呼び、貸し手は生まれつき下劣をきわめているとさ。借り手の方がはるかに優秀で、その態度には威風を感じるとさ...
貸し借りといえば、まずお金の関係を思い浮かべる。バランスシートは日本語では貸借対照表と呼ばれ、借方と貸方で記載される。経済学の格言によると、銀行家とは資金を必要としない人たちに、無理やり貸したがる連中を言うらしい。利息をつけるのも、貸す側。この行為を完全自由化すれば、社会には経済破綻者で溢れ、確かに、えげつない。ただ、借り手の無計画性は如何ともし難い。
貸し借りは、なにもお金だけではあるまい。人に親切を施せば、見返りを求める。親切は押し売りもされる。自分のものは自分のもの、人のものも自分のもの。自分の人生も、人の人生も、すべては自分のもの。人間の所有意識は如何ともし難い。多くの書物を所蔵し、自分で図書室をまかなえば、本を借りる達人に書斎を乗っ取られ...
「ある書物の所有権は権利の主張者のその書物に対する理解力と鑑賞力に正比例する。もしこの説を実行する限り、われわれの書棚のうち一つとして掠奪を免れうるものはないといって過言ではないのだ。」

2022-10-23

"愚者の知恵" 福原麟太郎 著

霧曇る秋雨前線を振り切って古本屋で宿っていると、いつの間にやら手にしてやがる。福原麟太郎という書き手は、智慧足らずを焚きつける達人とお見受けする。無い物ねだりは、人間の本能めいたもの。愚者だって、それなりにでも知恵を持ちたいと思う。だから焚き付けられる。
しかしながら、知恵を得るには知識がいる。根気もいる。好奇心だけでは心許ない。知識を得る手段は千差万別で、どれを選ぶにせよ、これまた知識がいる。
まず、手段の一つに、本を読むという行為がある。幸い、この行為にあまり抵抗がない。面倒いところもあるけど... 読書体力もいるけど...

「買わなくても、本の並んでいるのを見るのは愉快なものだ。古本屋は、ことにそうである。... たなをずらりとひと目で見て、買う本が一度に目にとまるという早業までに達しなければ、ほんとうの古本屋党とはいえない。そのくらいになると、念力で本を見つけるようになる。上中下三冊本の上と下は持っているが中はないというような場合、中だけ一冊ぽかり見つかるなどいう経験は、たれでも本好きなら持っている。」

そこで、合理的に良書を選びたい!となるが、それを嗅ぎ分けるにも知恵がいる。良書を良書にできるか、それも読み手次第。賢者なら、悪書までも自省にしちまうだろう。愚者とは、目の前の幸せにも気づかない愚か者をいうらしい。
クチコミやオススメの旺盛な社会にあって、それを鵜呑みにするだけでは芸がない。天の邪鬼だから無条件で反発する。そして、場末の古本屋に癒される今日このごろであった...

「人の推薦や批評が何かと役に立つものであるが、すこし本を読みなれるとよい本と悪い本という区別は、見た瞬間にわかるものだ。直覚的である。人に初めて会ったときの印象と同じである。もちろん、見当違いをすることもあるが、だんだん経験を積むに従って、当たることが多くなるものだ。当りはじめると得意になる。するとまた当たらなくなる。虚心ということがたいせつである。」

本書は、個人主義の視点から知恵というものを物語ってくれる。イギリス留学の経験から最先端の個人主義を通して、個人主義後進国の日本を振り返りながら...
とはいえ、本書が刊行された 1957 年当時、イギリスという国には、個人は立派でも植民地国家としては横暴というイメージが定着していたようである。

イギリス思想を代表する言葉に、「われ愚人を愛す」"I love a fool." というのを挙げている。チャールズ・ラムの随筆「万愚節」 "All Fools' Day." の中に出てくる一句だ。それは、1821年4月1日号のロンドン雑誌に掲載されたもので、"April Fools' Day" に掛けたものらしい。つまり、冗談の許される日というエイプリルフール思想は、人間は愚かであるからこそ、可愛く、可笑しく、愛すべきものという考えに発するというわけである。嘘をつき、騙すような言葉を冗談で笑い飛ばすには、ユーモアのセンスが問われ、まさに高度な個人主義が問われよう。
しかしながら、高度な情報社会では、誹謗中傷の嵐が吹き荒れ、エイプリルフール禁止令が出される始末。個性の発達がついて行けず、自由主義や個人主義を無理やり知識として詰め込んで様々な無理が生じる。真に四月一日を謳歌できる日は、まだまだ遠そうだ...

また、日本人全体が夢やロマンスを失いつつ、あまりにリアリストであり過ぎと指摘している。いかに生きるか、を問うて生きるのがイギリス流だとすれば、学歴や肩書の路線に乗っかるのが日本流ってところか。
個人の在り方を問えば、エゴとの結びつきは避けられない。だが、エゴを否定するばかりでは能がない。エゴを中心とする自我を認める訓練も必要であろう。
21世紀の現在でも、個人主義を利己主義と履き違える人は多い。科学の進歩が迷信の類いを衰退させ、現実主義を旺盛にしてきたのも確か。その分、仮想社会へ邁進すりゃ、世話ねぇや...

2022-10-16

"人生十二の智慧" 福原麟太郎 著

霧曇る秋雨前線を振り切って古本屋で宿っていると、智慧足らずを焚きつける奴に出会った。うん~... 天の邪鬼の眼には、「十二の智慧」というより、当時の社会風潮を皮肉った「十二の苦言」に映る。
その背景に、日露戦争から太平洋戦争までの暗黒の時代から、一変して高度経済成長に勢いづく時代へ... 戦争をやりたがっていた国民の意識が、一変して平和ボケへ... そんな変貌ぶりにギャップを感じつつ、「十二の自省」を重ねずにはいられない...

では、21世紀の現代を背景に眺めると、どうであろう。時代は、あまり変っていないようだ。どんなに技術が進歩しようとも、どんなにコミュニケーション手段を拡大させようとも、人間の根本までは変えられないということか。そればかりか、左右両極端の人間性を培養しているかに見える。古来、偉人たちが唱えてきた中庸の哲学が、未だ輝きを失わないのも道理というものか。そして、あらゆる進歩に精神がついて行けず、いつの日か、最後の一線を越えちまうのであろうか。人類の文明は、その輝かしい成功ゆえに滅びゆくのであろうか...

しかしながら、こんな観点から眺めるのでは、著者の意図から大きく逸脱するであろう。福原麟太郎は、十二もの題材を関連づけ、おおらかに語ってくれるが、おいらの色眼鏡のせいか、対立関係に見えちまう。本当のところは、人生の志に根ざした、もっと建設的な書であるに違いないのだけど...

「人が志を立てるというのは、何歳の時のことであろうか。五歳か、十五歳か、二十五歳か。そのいつでもありそうに思われる。三十五歳でも良さそうだ。事実、ぎりぎり切羽つまって来るのは、三十五歳であるかも知れない。あるいは、本当に志がきまってしまうのは、いつのまにか三十五歳に成った頃だといえば言えなくもない。」

尚、本書には、「志を立てること」「愛国心」「金銭について」「偽善と偽悪」「魅力ということ」「失敗について」「顔について」「旅について」「義理と人情」「タイミングについて」「徒党について」「交友について」の十二篇が収録される。

1. 志 vs. 愛国心
まず、人生における「志」というものを、孔子風に... 十五にして学び、三十にして立ち、四十にして惑わず、六十にしてようやく耳を得たり... といった感じで語り、次に「愛国心」を配置するところに、少々違和感を覚えたが、読み進めていくと、そうでもない。
愛国心とは、読んで字の如く国に根ざした感情で、本来は郷愁を覚えたりするものであろう。著者も、自然に根ざした感覚で、郷土愛の如く、素朴でセンチメンタルなものだと語ってくれる。
ところが、この言葉には、戦争と結びついてきた暗いイメージがつきまとう。国家主義や国粋主義と相まって。国家という概念はプラトンの時代からあるにせよ、十八世紀頃、近代国家の枠組みが成立して以来、大きく変貌したかに見える。愛国心という言葉のニュアンスも、この頃に変貌したのであろう。愛国主義者どもは、この戦争は平和のための戦争だ!戦争を殺すための戦争だ!などと叫び、必ず正義を掲げる。そして、市民は殺され、兵士は死んでいく。正義の殺戮なんてものが存在しうるのか。民族主義でも持ち出さない限り説明がつくまい。おまけに、戦争を非難しようものなら、裏切り者呼ばわれ。祖国に忠誠を誓うのと、権力に服従するのとでは、違うであろうに。
したがって、この言葉に警戒感を示す人が、科学者や文芸家の中に多く見られるのも道理である。失敗から学ぶことが多いことも確か。ならば、戦争からも学ぶことが多いはず。うん~... 人間社会という奇妙な世界では、すべての戦争は無意味とするぐらいの方が合理的なのかもしれんが、自衛権までも無意味とするわけにはいくまい...

2. 偽善 vs. 偽悪
偽善や偽悪には、異なるを欺く... といった感覚を覚える。善人なおもて往生を逐ぐ、いわんや悪人をや... という言葉も、なかなか手ごわい。悪人が善人の顔をすると最悪である。とはいえ、陳腐な偽善も装えないようでは、政治家は勤まるまい。
偽善家に対して、偽悪家というのもいる。人間には、本能的に悪に惹かれるところがある。ちょいワル親父を演じたり、昔はワルだったと武勇伝を自慢したり。芸術作品においても、神の崇高さをダイレクトに描くより、悪魔の神秘性をグロテスクに描く方が、高い芸術性を露わにする。

「偽善は罪悪が徳行にはらう敬意である。」... ラ・ロシュフコー

3. 成功 vs. 失敗
失敗のリスクを恐れるより、やらないリスクを恐れよ... 実践に価値を見い出せ... そんな助言は聞き飽きた。失敗を選択肢の一つとするには、勇気がいる。人間とは臆病なもので、できれば苦労は避けたい。そして、成功のためのハウツー本は、いつの時代も活況ときた。それは、成功のアウトソーシングか。
古くは、成功者と失敗者の区分けに階級意識というものがあり、現在では、勝ち組と負け組に色分けされる。高い階級を望むより勝ち組に属す方が、チャンスがある。
しかし、意識そのものは、大して変わらないようだ。面子がそうさせるのか。外ヅラがそうさせるのか。他人の目を意識しているとすれば、自立性に欠ける。人生は失敗であったかもしれん、と思うことはある。そして感傷に襲われる。おそらく人生とは、そうしたものなのだろう。なぁ~に、失敗者の僻みよ。

「運命を改ざんしようとするところに、ストイシズムの倫理が生れた。失敗するごとに立ち直って、理想とか希望とかいうものの方向に一生をもってゆこうとする努力が、先は、人間世界の花である。けれども、それには、この世の中にも、モラルというべきものがなければいけないようだ。成功というのは、図太く、無礼講、破廉恥を極めても、大金持や大臣になることを言う場合もあるが、失敗の方は、金をなくしたにしても試験に落第したにしても、立ち直るときは倫理的なストイシズムが要求される。失敗が教訓を齎すという所以である。」

4. 義理 vs. 人情
今のご時世、義理も、人情も、流行らない。どこか封建的で古臭い。義理は人との間に生じる。金を借りれば、返す義務が生じる。しかも暗黙に。踏み倒してもいいが、そこは義理。きわめて受動的で、後ろめたさのようなものを背負う。そして、義務へと昇華し、やがて強迫観念へと変貌する。
対して、人情は、人間の本能的な感情で、理論や形式を越え、自然に湧き出るもの。普遍的という形容もできようか。その意味で、能動的である。しかしながら、情けは人の為ならず... というように、結局は、見返りの原理に収まる。
人間社会とは、実に奇妙なもので、利己主義を激しく非難しながら、ほとんどの人が自分の利益のために行動している。無私の立場を称賛しながら、自己を捨てられないでいる。しかも、義理も、人情も、村八分社会と相性がいい...

5. 徒党 vs. 交友
徒党とは、嫌な感じの言葉。正しいものを曲げて、無理を通すために団結する... そんなイメージ。
対して、交友は、響きの良い言葉。とはいえ、真の友人を持っているか?と問えば、一人もいないような気がする。なんでも相談できる人はいない。親ですら当てにならんというのに。親友と呼べる奴もいない。ちょいと飲みに行くぐらいの連中ならいる。悪友と呼べる奴らならいる。そして、我らは徒党である...

「現代の人間は、組織の中の個人と、独立した個人とに分れる。これは、現代の避け難き運命であるようだ。何らかの意志を行おうとすると、独立した個人では駄目である。組織の中の器械的なデクの棒、組織的個人でなければならない。その組織的個人が器械的に組織に盲従していると、その組織は、容易に徒党化し、少数の人々の支配下に、正を曲げても恥とせず、私利をはかっても当然と考えるようになる。現代民主主義の危険は、そのようなところにあるのではないか。」

2022-10-09

"読書と或る人生" 福原麟太郎 著

本を読むことに愉悦を覚える人は、我流の読書論といったものが心の中に湧き上がるであろう。おいらが「本を読む」といえば、熟読を意味するが、そんな読み方はあまり合理的とは言えまい。人生は短いのだ!
ただ、貧乏性のせいか、買った本は隅々まで字を拾わないと気が済まない。そして、週に一、ニ冊のペースで読む。
本の虫!という形容もあるが、どのくらいの量を読めば、その称号に相応しいのであろう。或る大学の先生は、月に四、五十冊も読むと聞くが、よほどの奥義を会得していると見える。しかし、速読術は速愛術のようにはいかんよ...

読書に限ったことではないが、やはり習慣がモノを言うのでろう。一人の読書家を育てるにも、かなりの好奇心がいる。習慣さえ身につけば、最初の十ページでその本の読み方がだいたい掴めるようになるし、文章のリズムから斜め読みでも、読み飛ばしでも、要点を拾うことができるようになる。
それでも、おいらには速読は難しい。カントの批判書を速読できる才能は尊敬に値するが、羨ましいとは思わないし、プラトンの饗宴は速読できそうだが、そんなもったいないことを...

「よく、速読が良いか精読が良いかと訊ねられることがあるが、必要に応じて、どちらでもすぐやれなければ、どちらも役に立たない。... 精読も速読も、習慣の問題で、いずれも一種の才能である。精読しようにも、その習慣を持たない人は、読み方を知らないものである。」

読書には、まず、目的は何か?どの本を選ぶか?という問題がある。それは、百人百様。知識を得るため... 視野を拡げるため... 実利のため... 人生の糧として... など様々な動機があろう。丸谷才一は、こんな助言をしてくれた。「大事なのは本を読むことではなく、考えること。本は原則として忙しい時に読むべきもので、まとまった時間があったら考えよ。」と...
おいらの場合、なによりも好奇心の解放がある。そして、そこに本があるから... というのも付け加えておこう。要するに、目的なんてものは、あまり考えてないってことだ。娯楽を、そんな大層なものにしたくはないよ...
「明窓浄机」という言葉もあるが、あえて部屋を暗くし、LED ライトでページにスポットを浴びせ、さらに、BGM で気分を盛り上げ、酒で気分をほぐし、お香を炊いて心を癒す。こうした空間演出に自由ってやつを感じる。おいらにとっての読書のひとときは、五感を総動員する場であり、リラクゼーションの時間なのである。
それで、感動できる本に出会えれば、儲けもの。その一冊から引用や参考文献を辿れば、好奇心は指数関数的に増幅する。なので、おいらの ToDo リストの書籍欄は、いつも溢れてやがる。おかげで、退屈病を患うことはなさそうだ...

「無目的に読むなどいう言い方で読書家を定義づけるのは理屈である。本好きはそんなことを思ってはいない。銀行家でも看護婦さんでも誰でもいい。何も自分の職務上の参考にするというわけでなく、ただ、歴史の本だとか、小説だとか、詩集だとか、本を読むのが好きだから、あるいは、どんな本でも良い、本を読むのが、とにかく好きだからというので、かけ出しには及びもつかぬほど多量に本を読んでいられる、それが読書家といわれる人種なのだ。読書家は定義で始まるのではない。実践に始まる。」

本選びにも、流行を追うという本能めいた感覚がある。誰もが知っていることを知らないということは、不安に駆られるもの。情報の性質からして、誰もが知らないことを知っているということの方が希少価値が高いはずだけど。クチコミやオススメの類いが流布し、瞬時に拡散する時代に、こうしたものから目を閉じることは難しい。
情報の自由化は、偽情報の自由化でもある。必読書百選!といった類いの宣伝文句までも目につき、つい目移りしちまう。
そこで、古典という選択肢がある。時代の篩にかけられ、それでもなお輝きを失わないのが古典というもの。不思議の国のアリスだって、人生哲学を物語ってくれるし...
流行に惑わされず、自分の目で評価を見極められるようになるのも、やはり習慣ということになろうか。となると、「読書 = 習慣」という図式が出来上がる。「読書と或る人生」とは、或る習慣を身につける方法論を説いた書であったか...

「読書は満ちた人をつくる。」... フランシス・ベーコン

2022-10-02

"眩暈" Elias Canetti 著

原題 "Die Blendung..."
「眩暈」というより、「盲目」とする方がよさそうな...
とはいえ、細密な描写に執着する著述姿勢は、どこか異様で奇怪な人間模様を炙り出し、推理小説風の香気をも醸し出し、この常軌を逸した文面ときたら、めまいにも似た感動を禁じえない...

物語は、「世界なき頭脳」、「頭脳なき世界」、「頭脳の中の世界」の三部で構成される。タイトルも然ることながら、これほど中身と見出しの一致を試みながら読ませる書も珍しい。その珍味こそが推理小説風というわけだ。エリアス・カネッティという作家に、おいらはイチコロよ!
尚、池内紀訳版(法政大学出版局)を手に取る。

「世界は滅亡する!これが人間だ、悪党ばらが頭をもたげ、神様は眼をおつむりだ!」

主人公は、二万五千もの書巻を所蔵し、自前の図書室で研究することを生き甲斐とする孤高の学者。人間社会に息苦しさを感じ、書物の言葉を引く。孟子に、孔子に、ブッダに、プラトンに、アリストテレスに、カントに... 大人(たいじん)の風格と交わるうちに、小人(しょうじん)の知識欲が増していく。小人にだって自尊心ぐらいあるさ。
しかしながら、叡智は容赦しない。人間ってやつは、知らぬことはやらぬもの。それが盲目の原理であり、無知の原理。狂気した行動は漠然とし、矛盾ずくめ。それを語るに、同じ言葉を繰り返すことしか知らぬ。これを狂人というらしい。
ちなみに、正気とは、愚鈍の類いを言うらしい...

孟子曰く...
「かの者たちは行為しつつおのが行為の何たるかを知らぬ。習慣を続けながらその習慣を知らず、生涯、さまよいながらその道を知らぬ。しかるが故に群衆たるかれらは遂に群衆にとどまる。」

自らの狂気を認めるには、よほどの修行がいる。私が孤独だって?ならば、書物に囲まれた、この賑やかな空間はどうか?
そもそも、盲目に書物の意味はあるのか。いや、盲目だからこそ活字に飢える。高度な情報化社会では言葉が荒れ狂い、逆に言葉は貧素になる。皮肉なもんだ。貧素な言葉ばかりを目にすれば、心も貧素になる。皮肉なもんだ。これを盲人というらしい...

「盲目とは時間並びに空間に対する武器である... 宇宙の支配的な原則とは盲目にほかならない... 盲目があって初めて、もし互いに見交わすなら不可能なものが並び存在できる... 盲目を待ってようやく、元来なし得ないはずの時間切断の壮挙が可能になる... 自分は盲目を発明したわけではない。活用したまでだ。当然の権利だ。これにより見者(けんじゃ)は生きる...」

無言と沈黙は、まったくの別物。沈黙の意味を知るには、よほどの修行がいるらしい。因果応報の素朴な論理に立ち返るにも、よほどの修行がいるらしい。自己欺瞞を放棄するにも、よほどの修行がいるらしい。
孤独を生きる者にとって、人間関係ほど面倒なものはない。愛情と憎悪が、こんなにも近いものか。孤独への恐怖は、むしろ群衆の中にある。挙句、我が身を狂妄の焦土とする羽目に...

「気狂いとはおのれのことしか考えぬ者の謂である。して、狂気とは利己主義に下しおかれる刑罰だ。かくして精神病棟には国中の無頼の徒党が蝟集する。本来、これらを容れるに牢獄をもってすべきであるが、学問は研究素材として瘋癲院を必要とする。」

1. 世界なき頭脳
図書管理に雇った女性の丁重な書物の扱いぶりに惚れ、妻とするも、相続の権利を得るや、金の亡者に変貌する。蔵書は、総額でいくらになることやら。遺言書を書かされ、家からポイ!
蔵書をいくら溜め込んでも、知識をいくら溜め込んでも、活かされなければ宝の持ち腐れ。古本屋で売りさばく方が、よほど合理的であろう。下手に財産となるがために、乗っ取られようとは。図書室という聖域を侵され、生きる世界を失った孤高の学者の運命は...
「世界なき頭脳」というより「世界を失った頭脳」といったところか。いや、「世界を乗っ取られた頭脳」とでもしておこう...

2. 頭脳なき世界
家から追い出されると、今度は頭の中に図書室をこしらえ、理想郷を夢想する。せめて思い浮かべた蔵書一覧を満たすために書店を巡って買い漁ろうとすると、書籍商を名乗る人物に国営の質物取引所を紹介してもらう。しかも、その取引所は、「テレジアヌム」という奥ゆかしい名を掲げ、その名に惹かれて質入れされる書物を買い漁ることに生き甲斐を見い出す。すると、今度は偽客にカモられ、所持金を巻き上げられる始末。
ある日、書物を質入れに来た妻の姿を見つける。もみ合いになって守衛に引き立てられ、皮肉なことに、自宅?元自宅?の門番に引き取られようとは。頭脳までも失ってしまったか...

3. 頭脳の中の世界
門番に引き取られ、その住まいの覗き穴から人間観察という新たな生き甲斐を見い出す。そんな狂人ぶりを知った弟が、害となる兄の妻と門番を追い出し、かつての図書室を取り戻すも、今度は自ら聖域を焼き、蔵書もろとも燃え果てたとさ。
すべては頭の中で思い描いた世界、すべては妄想の世界、人生なんてものは、夢幻の如くなり...
「遂に炎が身体にとりついたとき、その生涯についぞなかったほどの大声で笑いころげた...」

2022-09-25

"愛犬たちが見たリヒャルト・ワーグナー" Kerstin Decker 著

穏やかな秋風に誘われて古本屋を散歩していると、ちょいと風変わりな伝記小説に出会った。ケルスティン・デッカーは、愛犬の目線から偉大な音楽家の人物像を物語ってくれる。吾輩は猫である... じゃないが、おいらは犬である... といった様相で...

孤独を恐れ、人を裏切り、借金まみれに、人格破綻とくれば、そんな嫌なヤツも、犬が語れば、いいヤツに見えてくる。ワーグナーは、作曲したものすべてを愛犬たちに向かって歌い、演奏して聞かせたという。ホ長調なら全身をピンと伸ばし、変ホ長調だとちょっと眠そうに尻尾を揺らす。犬が教えてくれるそうな。ホ長調は官能的な愛を表し、変ホ長調は聖なる愛を表すことを...
そして、孤独に苛む自己を犬に同情され、犬に弁明されれば、人間嫌いを加速させ、あとは、犬の生き様に縋る。こいつは、犬の哲学か。犬儒学の実践か。
愛犬たちは、御主人様に授かった愛の洗礼を歌う。タンホイザーに、ローエングリンに、トリスタンに... それは、愛の独占か。ラインの黄金に、ヴァルキューレに、ジークフリートに... それは、愛の支配か。そして、愛は神々の黄昏に帰するのか。本書には、品の良いアイロニーに満ち満ちている...
尚、小山田豊訳版(白水社)を手に取る。

「愛犬たちがいなければ、リヒャルト・ワーグナーはリヒャルト・ワーグナーたりえなかった...」

犬好きに悪い人はいない... と言われるが、それは本当だろうか。警戒心の強い犬は、怪しいヤツを見ると、すぐに吠える。
では、尻尾を振ってくれば、いいヤツってことになるのだろうか。いや、人間だって、見えない尻尾を振ってくる。
自己を支配できないから、他人を支配しようとするのか。人を支配できないから、犬を支配しようとするのか。犬畜生とは、人間の代名詞だ。
ドイツやオーストリアには、愛犬家が多いようだ。フリードリヒ大王に、ショーペンハウアーに、ビスマルクに、あの愛しい皇妃エリーザベトも犬を愛した。ヒトラーまでも...

人間嫌いなワーグナーは、教会へも行かなかったらしい。それは、神の存在を本当に信じていたからだとか。真の芸術家なら、じかに神と接することができるという。
それでも、なんらかの仲立ちがなければ神を信じられない人々のために、定期的に指揮する。夕べの祈りの音楽を。人間嫌いが人間を相手に、不安に満ちた音調を大量生産!
絶望のどん底にある御主人様は、日記をつけ始める。最も強く支配する心の状態と、その中で生じた省察を書き留めるために。
メロディの在庫が尽きれば、リヒャルト・ワーグナーであることの苦痛を思い知る。自分のやりたいことが何一つできなくなったら、自分への追悼文でも書くさ。故人を最もよく知るのは、亡くなった本人である、と自負しながら...
犬は自分を舐めることができる。だが、人間にはそれができない。我が身を慰めることが、こんなにも大変なことだとは。
そして、こんな言葉が紙面を踊るのを想像しながら、恐れおののく...

「リヒャルト・ワーグナー、未来の音楽の担い手、書いても書いても完結しない、おそらくは未完の連作オペラをはじめ、上演不可能な作品多数を残し、債務者監獄へ!」

犬は飼い主に似るというが、犬が自己投影なら、良き精神科医となろう。人間がワン公と呼ぶのは悪気があってのことではなく、むしろ親しみを込めてのこと。
ただ、飼い主と言うからには、犬を所有物だと思っている自分がどこかにいる。人間には、所有の幻想が欠かせないと見える。それは弱さの証か。
何かを理解するということは、それを明確に言葉にできることだと思っている。知識にも所有の意識が働き、知性にも、徳性にも、倫理観にも、世界観にも... 人間の意識そのものが、自身の所有物だと思っている。そして、あらゆることを表現できる言葉は、絶対に欠かせない所有物となる。
しかしながら、人が自分自身を言葉で語ることは、すこぶる難しい。言葉を操り、言葉を費やし、言葉の限りを尽くしたところで、結局は同じ意味の言葉を繰り返し、表現を変えて自己を偽る。人間が言葉を編み出したのは、孤独を紛らわすためか。
独り言は尽きない。言葉に疲れ、黒い壁に向かって、君って黒ずんでるね... なんて話しかければ、沈黙する存在すべてが仲間に見えてくる。沈黙の苦手な人間が、沈黙に救いを求めようとは... 言葉を喋らない犬が、救世主とは...

「人間は不幸な動物なのだ、でなかったら芸術を生み出すことも、求めることもないだろう。芸術の存在、それは人間の本質に重大な欠陥があることの証明ではないだろうか。やがて観察力の鋭い、人情の機微に通じた詩人が現れて、この調査結果を別の言葉で表現するだろう。
『心臓(こころ)が思考を始めたら、鼓動をやめてしまうだろう』
わたしのご主人はこのころからすぐに、頭で考えた理屈よりも心が感じたことに従う人だった。」

ワーグナーは、ショーペンハウアーを崇拝する。そんな御主人様を愛犬が愚痴る。おバカな犬には理解不能な言葉ばかり。じっくり考えても、意味すら汲み取れない。だが、中身は簡単!犬も人間も同じだって言っているだけよ。個の存在を放棄しなければ、自らを没落させるとさ。逆に、ニーチェ風の永劫を思えば個の存在を超越でき、それが救済の第一歩だとさ。
個からの脱皮を試みなければ、御主人様を救えないってか。犬派は、アンチ・ショーペンハウアー党か。人間は、不安に駆られて生きている。ぼんやりとしたものに怯えて生きている。自由なんぞ、この世にあるものか。なのに、その幻想を追い求めてやまない。

人間は犬より、毛が三本足らないらしい。もっと洒落っ気(毛)があれば、気楽に生きられるであろうに。人間とは、なんと、はかない動物であろう。せめて毒舌ぐらい、はくとしよう。いや、せめてパンツぐらい、はくとしよう...

「しかしわたしは知っている。もったいぶって、まるで神聖なことのように、細かなことをあげつらう連中が多いけれども、そんなことに血道を上げるのは、真の人間らしさに対する感覚が欠けている者、人の心を知らない輩だけだ... こんな世間一般に対してわたしがどれほど敬意を抱いているか、ひとことで言おう。
三歩下がってわたしに寄るな!」

2022-09-18

"アッタ・トロル - 夏の夜の夢" Heinrich Heine 著

諷刺文学ってヤツに、おいらは目がない。天の邪鬼な性癖がそうさせるのか...
時代を彩り、時代を炙り出し、時代に演じられた滑稽を芸術の域にまで昇華させ、ここに批判哲学の実践を見る。芸術心ってやつは、道化を演じることに始まるのやもしれん。猿楽を深化させ、「風姿花伝」を記した世阿弥のように...
ハインリヒ・ハイネの作品では、詩文と散文の入り乱れた「精霊物語」と「流刑の神々」の二篇にしてやられた(前記事)。ここでは、純粋な詩文に心を委ねるとしよう...
尚、井上正蔵訳版(岩波文庫)を手に取る。

「アッタ・トロル」とは、熊の名。これは熊の物語である。かつて百獣の王として自由に生きたアッタ・トロルも、谷間の町で見世物となり、くだらぬ人間どもの前で踊り、笑い物として生きていた。そんな一匹の熊が、檻を破って森へ逃げ帰り、人間に対抗するために動物たちに一致団結を呼びかける。毒舌を捲し立てる様子は、まるで革命家気取り!

 人間はすべてこの世の
 財宝を取りっこしている、
 それも、果てしない掴み合いだ、
 どいつもこいつも泥棒だ!

 そうだ、全部のものの遺産が
 めいめいの掠奪物になっている、
 そのくせ、所有権とか
 私有財産とかぬかしてやがる!

 私有財産!所有権!
 おお、盗む権利!嘘つく権利!
 こんな怪しからん滅茶苦茶の悪企みは
 人間でなけりゃ考え出せない。

この長編叙事詩が誕生したのは、1841年の晩秋。当時、政治詩が流行し、「反政府派がその皮を買って文学となった」と皮肉る。時代は、まだフランス革命の血生臭さが色濃く残り、ナポレオン戦争を経てウィーン体制を崩壊させた諸国民の春へと向かう、いわば革命の時代。ハイネは祖国を追われ、自由都市パリへ逃れ、ドイツの革命家ベルネ派と知り合う。だが、主義主張を相い容れず、臆病者背信者とみなされ、こう罵られたという。
「才能はあるが、節操がない!」
そして、物語では言葉を裏返して、こう唄い上げる...

 アッタ・トロル、傾向的熊なり、
 道徳的宗教的、妻に対して肉欲旺ん、
 時流の思想に誘惑されし
 山出しのサンキュロット。

 踊りは、すこぶる拙劣なれど
 毛深き胸に高邁なる信念を抱く。
 またしばしば悪臭を放つことあり、
 才能はなけれど、節操あり!

フランス革命に発した共和主義の思想原理は、自らの暴走によって国粋主義へと向かわせる。恐怖政治とテロリズムは、すこぶる相性がいいと見える。独裁政権は危険だが、民主政治の暴走もまた危険というわけか。どんな善も行き過ぎると悪と化す、人間社会とは、そうしたものらしい。
芸術が国家思想の後ろ盾となり、国家権力を後押しするようになると、ナショナリズムという集団的な悪魔が寄生する。愛国心と呼べば聞こえはいいが、国家に忠誠を誓うのと権力に服従するのとでは、しばしば矛盾する。独裁政権ともなれば尚更。国家を私物化しちまった政権に忠誠を誓うことが、本当の忠誠なのか。権力の正当性をどう担保するか、政治体制が永遠に問い続けなければならない問題であろう。それゆえ、政治屋は正義といった言葉にすこぶる敏感で、これを乱用しまくる。法を後ろ盾にして...

「傾向的...」という柔らかめの表現に物足りなさを感じ始めると、これを、偏狭な主義主張... 愛国心の暴走... などと大袈裟に解し、やがて訪れるイデオロギー戦争の時代を予感させる。思想観念なんてものが、そうなに大層なものなのかは知らんが、党派心に燃えない者を、目的がない!と罵れば、中庸の哲学はまさに目的がないということになり、痛快に唄い上げる...

 夏の夜の夢よ!私の歌は
 空想のように目的がない。
 たしかに恋のように命のように
 神と自然のように目的がない!

 わが愛する天馬(ペガサス)は
 自由自在に
 地を走り天を飛び
 物語(ファーベル)の世界を駆けまわる。

 わが天馬は市民社会に
 役立つ律儀な馬車馬ではない、
 悲壮に地を蹴っていななく
 党派心に燃える軍馬でもない!

そして、アッタ・トロルは、妻ムンマのそっくりな声におびき出され、奸計のうちに銃殺されたとさ...

 私はその時シラーの言葉を思い出した。
 「詩にうたわれて永遠(とこしえ)に生きるものは
 この世では滅びなければならぬ!」

2022-09-11

"流刑の神々 精霊物語" Heinrich Heine 著

どんな散文も、形式を整えれば、詩に見える。音調を整えれば、詩に聴こえる。寓意を込めれば、戒文となり、霊妙を匂わせば、呪文となる。巷に溢れるキャッチフレーズの類い。標語に、スローガンに、モットーに、殺し文句に... 心に響く言葉は、人を惑わす。天国の門と地獄の門は、隣り合わせ。神と悪魔は、仲良しこよし。マクベス王の魔女どもが口ずさむ。きれいは汚い、汚いはきれい... 人間どもも負けじと狂喜乱舞。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!

ニンフは、至る所を棲家とする。海の精、川の精、山の精、森の精... 美しい精霊たちは自然界を看取り、小悪魔たちは人間界を見下す。美酒でもてなし、死者の館へいざなう者どもよ。誇り高き白鳥の乙女は、ヴァルキューレか、それとも死神か...
タンホイザー君ときたら、享楽の奥義を会得しようとヴェヌス山に籠もり、美女を侍らすこと丸一年。偉大な享楽が手に負えないと知れば、誰はばかることなくローマ法王に懺悔する。懺悔で本当に人は救われるのだろうか...
盲目でいる方が幸せやもしれん。アポロン神の愛を受け入れる代わりに予言能力を授かった王女カッサンドラは、見える未来に翻弄されて人生を狂わせちまった。
そして、神々は流刑の身となり、精霊たちも人間の住む場所から追放されちまったとさ。一神教の神に葬られた古代ゲルマンの民族神たちが、古代ギリシアの神々の共感を呼ぶ...
尚、本書には、詩と散文の入り乱れた「精霊物語」と「流刑の神々」の二篇が収録され、小沢俊夫訳版(岩波文庫)を手に取る。

「喜ぶがいい、迷信の可哀想な生け贄として葬られたお前たちの先祖の血は報復されたぞ!だが根深い遺恨などに取り憑かれていない私たちは、偉大なる者の落ちぶれた姿を見ると心から感動し、敬虔なる同情の念を捧げるのだ。この情の脆さゆえに、私たちの物語には、歴史叙述者の誉である冷たい生真面目な調子がつかないで済んだのだろう。」

詩であれ、散文であれ、ハインリヒ・ハイネの字面には、ローマ・カトリック教会への皮肉が込められる。いや、形式を整え、音調を整えれば、皮肉も神聖化すると見える。
昔の詩人は、ローマ教会の権威という軛から抜けられなかったようだ。詩人たちは、キリスト教の慈悲の深さを思い知るように、懺悔があらゆる罪をお許しになるという救済の力を讃美することを強いられてきた。そのために、古代の自然信仰を悪魔(サタン)への奉仕とし、異教徒の勤行を魔術とし、個性的な神々を悪魔(トイフェル)と触れ込む。森の奥では、悪魔たちが毎晩バカ騒ぎをし、地の果てでは、魔女たちが淫らな行為をしている、といった具合に...
トイフェルの容姿はグロテスクに描かれる。イメージ化するのは人間の御家芸。悪魔は俗人っぽく、神は人間離れしたように。手の届かない存在だからこそ、崇高や魔力が強調される。そうなると、理性は誰の能力であろう。人間の能力ということになろうか。神は、理性をも必要としないほど完全なはず。理性ってやつは、悪に対して働くのだから。そして、理性家は、神よりも悪魔に極めて近いということになろう...

「トイフェルは論理家である。彼は世俗的栄光や官能的喜びや肉体の代表者であるばかりでなく、物質のあらゆる権利の返還を要求しているのだから人間理性の代表者でもあるわけだ。かくてトイフェルはキリストに対立するものである。すなわちキリストは精神と禁欲的非官能性、天国での救済を代表するばかりでなく、信仰をも代表しているからである。トイフェルは信じない。彼はむしろ自己独自の思考を信頼しようとする。彼は理性をはたらかせるのである!ところで自己独自の思考は、もちろんなにかおそろしいものをもっている。ゆえにローマ・カトリック・使徒教会が独自の思考を悪魔的だとして有罪と認め、理性の代表者たるトイフェルを虚偽の父であると宣言したのももっともなことではある。」

古代ギリシア時代には、人間味あふれた多種多様な神々が住んでいた。得意技もあれば、欠点も堂々と曝け出す。実に神らしくない。主神の地位を思いのままにする雷オヤジときたら、女神では飽き足らず、人間の美女にまで手を出す始末。実に神らしくない。神らしくないということは、息苦しくなくていい。
十九世紀初頭に生をうけた近代詩人たちは、いかなる権威の圧力にも屈せず、ファンタジーを自由に駆け巡り、自然に湧き出る感情を表出することができたという。自らの精神をひたすら追求することこそ、詩の原点。一神教のドグマは、多様化する現代社会には不向きやもしれん...

「魔女裁判の時代から保存されているトイフェルの契約書を読むことほどおもしろいものはない。その契約書には、契約者がすべての策略に対して用心深くただし書きで制限をつけているし、あらゆる申しあわせを、ひどく心配そうに書きなおしているのである。」

2022-09-04

"ハイネ" 一條正雄 著

詩ってヤツは、癒やされるためだけにあるのではない。幸福を感じるためだけにあるのでもない。美しい調べに乗せて歓喜に耽り、感傷に浸るのもいい。だが、それでは足りない。目を背けたくなるような苦難を叫び、皮肉まじりの風刺を効かせ、シニカルなブラックユーモアまでもぶちまける。詩の受容性は、自ら愚痴の捌け口となり、滑稽なほどの悲壮感を漂わせ、寓意を込めて惨憺たる時勢を唄い上げる。自ら怒りの矛先となり、心の奥底に棲み着く悪魔をも包み込む。そんな作風を試みた最初の詩人を、おいらは知らない。
ただ、ハインリヒ・ハイネの詩には、そんな空気を漂わせるフレーズがちらほら目に留まる。おいらの天の邪鬼な性癖が、そのような字面ばかりを追わせているのやもしれんが...
印象深い言葉といえば、これだ!本書には紹介されないけど...

"Dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man auch am Ende Menschen."
「本を焼く者は、やがて人間をも焼くようになる。」
... 戯曲「アルマンゾル」より

焚書は序章に過ぎない... というのは本当らしい。歴史文献にしても、当時の実力者たちが改竄や抹殺した可能性が多いにある。人間のやることだから...
一方、芸術の物語性には人の苦痛を治癒する力があると言われるが、晩年のハイネにとっては苦痛も幸福も一体化して捉えていたようである。「快く失血死する!」とまで言い切ったとか。同様の叫びが、詩文のあちこちに散りばめられる...

「耐えに耐えたわが心よ、裏切り故に恨むまいぞ!」
「エホバ!どこまでも怒らせるために告げるぞ、俺はバビロンの王だ。」
「友よ!なんの役にたつというのか、いつも昔の歌を掻き鳴らして...」
「気違いじみた子供のぼくは、いま暗闇でうたうのだ。その歌が楽しくなくても、ぼくを不安から解き放ってくれたのだ。」
「この本は、僕の恋の焼け殻のつまった骨壺だ。」
「そこにはまた一人男が立って虚空をじっと見ている、そして両手を揉み合わせている、苦痛のあまり。その男の表情を見てぞっとした、月光がぼくに見せたのはぼく自身の姿だ。」
「暗黒の海に神の声がお前に聞こえるか?その神は数知れぬ声で語りかけている。われらの頭上の数知れぬ神の光、それがお前には見えるか?」
「そうだ、立派な散文でぼくらは隷属のくびきを打ち破ろう!でも詩歌のなかではもうぼくらの最高の自由の花が咲いている。」

本書では、「光輝ある孤立を保った最後のロマン主義詩人にして、最初の現代詩人」と紹介され、抒情詩「歌の本」、「新詩集」、「ロマンツェーロ」と叙事詩「アッタ=トロル」、「ドイツ冬物語」を辿る。
そして、ヘーゲル哲学の洗礼を受け、マルクスやフランスの卓越した友人たちと交流し、若き日は、シュレーゲルに問い、ゲーテに挑みながらも、その相違に苦悩する様子などが描かれる。
また、ユダヤ人の家に生まれてキリスト教との狭間で苦闘し、政治や社会革命における著述活動の草分けでもあったという。
ハイネが生きた時代は、まだフランス革命後の血生臭さが色濃く残り、ナポレオン戦争を経てウィーン体制が崩壊していく政治動乱の時代。その象徴とも言うべきドラクロワの描いた「民衆を導く自由の女神」は、ジャコバン党の赤い帽子をかぶり、片手にフリント銃、他方の手に三色旗を持ち、腰まで肌を露わにし、屍を踏み越えて士気を鼓舞する。ハイネは、この女性を「娼婦、商い女、自由の女神のたぐいまれな混合」と捉えていたという...

「思想は行為を欲し、言葉は肉体とならんとする。」
「マクシミリアン・ロベスピエールは、ジャン=ジャック・ルソーの手以外の何物でもなかったのだ、血塗れの手。」

なりふり構わず覚醒させた偉大な政治思想へ向かい、誰もがそれを信じることのできた時代。知識人までもが愛国心を高揚させ、イデオロギー時代の幕開けを予感させる時代。それ故、政治的な批判精神を強めていったのか。芸術家であるがゆえに、言葉を操るがゆえに、余計に感じるものがあったのか。しかも、詩では収まらず、散文で捲し立てる...

「詩がこれ以上どうにもならないことを知って久しかったので、私は新たな立派な散文をめざした。けれども散文では、美しい天気、春の日差し、五月の喜び、ニオイアラセイトウ、名もなき樹々で間に合わせることができないので、新しい形式のために新しい素材を求めなければならなかった。そのことによって私はいろいろ理念と取り組むという不運なことを考えついてしまった...」

「共和主義的な視点から、不平等批判がパロディ化される。自由・友愛・民族統一のための闘争が、政治史的視点から、モラルの視点からの真剣さが、美的視点の文化事業としての芸術の理念が、宗教的視点から理神論が、それぞれパロディ化される。社会革命的視点からは結局共有財産がパロディ化される。私的所有は泥棒だ!」

「ワルシャワが陥落した!われらの前衛が斃れた!このような喧嘩の中では、思想や形象のすべてが混乱し、脇へ追いやられてしまう。ドゥラクロワの自由の女神がすっかり顔つきを変えて、私のほうへ歩いてくる。激しい目に不安の色をたたえてといってよいくらいにして。... 死せるチャールズの顔もすっかり変わっった。一挙に変わって、よく見ると黒い柩の中には、王ではなく殺害されたポーランドが横たわっている。柩の前には、クロムウェルはすでに見えず、ロシアの皇帝がいた。」

「サン=ジュストが述べたあの革命の偉大な標語 - パンは人民の権利 - というのは、われわれ汎神論者から言えば、- パンは人間である神の権利である - ということになる。われわれは人民の人権のために戦うのではなくて、神としての人間の権利のために戦う。... われわれは幸福な神々の民主主義国家を建設しようとするのだ。... われわれドイツ人は神の飲む酒、神の食物、緋のマント、尊い香料、肉の歓び... などを求めているのだ。... 私はシェイクスピアの戯曲の中のある道化の言葉を借りて答えよう。- おぬしは自分の行いがまっすぐだからというので、この世に美味い菓子やぶどう酒がないと思うとるのか?」

2022-08-28

"日本の酒" 坂口謹一郎 著

この書を前に、純米酒やらずして無礼であろう。今宵は酒の精にあやかり、老子の言葉を引く、上善!水の如し...

酒の発祥は知らない。「猿酒」と言うぐらいだから、人類の発明ではあるまい。まさか猿でもあるまい。果実などの養分が地面に落ちて腐り、それが雨水などと混ざって樹木の窪みなどに溜まり、偶然できちまったものを通りかかった人が口にした... などと想像する。
とはいえ、麹菌を発見したのは、やはり人間であろう。これを繁殖させる技術を編み出したのも、やはり人間であろう。自然界の化学反応に看取られた酒造りの世界は、伝統によって近代科学を凌駕した酒の化け学とでもしておこうか。
本書は、醗酵学者の目で日本酒造りの世界を熱く語ってくれる。酒造家魂には、なにやら技術屋魂に通ずるものがある...

「日本の酒は、日本人が古い大昔から育てあげてきた一大芸術的創作であり、またこれを作る技術の方から見れば、古い社会における最大の化学工業の一つであるといえる。」

日本酒造りは、「一麹、二酛、三造り」と言われる。良い麹なくしては始まらぬ。
麹とは、蒸した米に麹菌というカビを生やしたもの。カビってヤツは、腐った物や毒物といったものを連想させる。人や組織が古臭く、時代にまったくついていけないような状況でも形容され、カビの生えた野郎!といった表現があるぐらい、巷ではケチョンケチョンな言われよう。そんなカビの胞子を混ぜて造る飲み物とは、いったいどんな飲み物か...
一方で、清酒と呼ばれるヤツがある。腐ったものを混ぜて清いとは、これいかに。御神酒ってヤツもある。半ば腐った物を神様にお供えするとは、これいかに...

カビといっても、善玉と悪玉がある。麹カビは日本酒や焼酎だけでなく醤油や味噌を造る時にも使われ、青カビはチーズを造る時に使われる。
ちなみに、青カビの周りにバクテリアが生えない性質から、ペニシリンが発見された。ペニシリンという名はアオカビの属名に因んだものらしい。対して、食パンやお餅に生えるカビなどは有害とされ、小学校の理科の実験で繁殖させた記憶がかすかに蘇る。

そもそも「腐る」とは、どういう現象を言うのであろう。物質は一定時間を置くと化学反応を起こす。だから、「化け学」と言う。腐るとは、それが人間にとって有害となる場合に、そう言うだけのことか。つまりは、人間のご都合主義か。口にすれば健康を害し、近寄れば悪臭たちこめ不快にさせる。そんな腐り物が、動植物にとっては養分になる。
とはいえ、清酒だって、やりすぎれば身体に悪い。
酒造りとは、腐らせずに名酒にする技術を言うのか。あるいは、腐らせ方の奥義を言うのか。程よく腐らせれば、「熟成」と呼ばれる。人間然り、ちょいと腐らせた方が、人格もまろやかになると見える...

古くから、「名酒はよい水から生まれる」と言われる。理屈の上では、麹の力を引き出すのによい性質の水もあれば、酵母の醗酵に好都合なミネラルを含む水もある。
例えば、宮水は、昔から日本酒に適しているとして知られる。西宮神社の南東側から湧き出る「西宮の水」のことで、三方からの影響を受けいてるという。一つは、夙川の伏流水。二つは、六甲山から流れ出る炭酸塩を含んだ水。三つは、海からの塩分を含んだ水。これらが合流して燐酸や加里を多く含んだ水となり、酵母の養分に具合がいいらしい。自然界が創り出した偶然の賜物というわけか...

また、麹菌の純粋性を保つために「灰」を使うという。蒸米に灰をかけて麹を造ると、麹菌はよく生えるが、アルカリに弱い他の雑菌は生えることができないそうな。灰には害菌を防ぐ作用があるばかりか、灰に含まれる燐酸や加里が麹菌を育てる養分になるとか。しかも、灰の中の微量な銅や亜鉛などや、その他のミネラルが胞子を多くつけ、色もよくさせるそうな。灰の力、恐るべし!そりゃ、ピート香に誘われるのも無理はない...

さらに、日本酒造りで特徴的な方法に、「火入り」というものがあるという。50 度から 60 度くらの低温で殺菌する方法で、フランスでは「低温殺菌法」がパスツールによって発表されたが、それよりもずっと前からの伝統手法として日本酒造りに用いられているらしい。
そういえば、現在でもパスチャライゼーションという殺菌法を耳にする。低温殺菌牛乳といった商品も目にする。
科学的根拠とは別に、職人の勘と技で磨いてきた方法論は、まさに技術国の片鱗を見る思い。火入りの主な目的は殺菌だが、それとともに熟成の効果も狙っているようである。

こうして酒造りの工程を見渡すと、偶然というか、自然というか、うまいこと化学反応が寄与していることが見て取れる。
古くから、人類には火を崇めてきた歴史がある。屍体を焼くのは素朴な土に戻すためとも言われ、着ていた物や使用していた布団も焼いたりする。
しかしながら、バクテリアの中には、そんな風習を物ともせず、焼かれて灰になってもなお生き残る連中がいる。これが純粋性というヤツかは知らんが、このしぶとい奴らのお陰で、腐ったものにも価値を与えてくれる。
例えば、100 度ぐらいの沸騰水の中でも短時間なら平気なバクテリアがいる。こんな奴らを殺すには、缶詰のように高圧蒸気で 100 度以上に加熱する必要がある。

ところが、だ!
幸いなことに、酒のような酸性の強いものの中では繁殖できない性質を持っていて、それ故、カビや酵母を殺すことのできる 50 度から 60 度ぐらいの低温でも、5 分から 10 分ぐらいで殺菌効果が得られるという。
さらに、「火落菌」という酒好きの菌があるらしい。他のバクテリアは、牛乳、肉汁、野菜スープなどの中で喜んで生えてくるのに、こいつだけは一向に生えてこない。
ところが、だ!
わずかの清酒を入れると、盛んに生えてくるという。おまけに、こいつが清酒ではなく、葡萄酒やビールを入れたのでは決して生えてこないというから、摩訶不思議!
こうした醸造技術は、論文になることもなく、研究発表されることもなく、むしろ極秘とされてきた。ひたすら味の極意を会得しようとしてきた化学技術の結晶を見る思い。
本書の冒頭には、日本酒づくりの光景を思い浮かべる歌が紹介される。喜びは、味と香りの出来栄え、それと喉越しに尽きるというわけか...

「夜のうちに湧きつきにけりフラスコの液のおもてに泡ぞみなぎる
 つつしみて護りし種ゆまさしくもたふときいのち生(あ)れいでにけり
 うたかたの消えては浮ぶフラスコはほのぬくもりて命こもれり
 見入りたる接眼鏡(オクラル)のはての薄明にこの世のほかのいのちひしめく
 たまゆらに視野を横切るものありて待ちはてにつる心ときめく

 かぐはしき香り流るる酒庫(くら)のうち静かに湧けりこれのもろみは
 留うちて後は静かやあけくれにうつろふ泡のゆくへをぞ守(も)る
 冷え冷えと寒さ身にしむ庫のうち泡の消えゆく音かすかなり
 湧きやみて桶にあふれし高泡もはだれの雪と消え落ちにけり
 泡蓋を掻けばさやけきうま酒の澄みとほりてぞ現はれにける
 泡分けてすくひとりたる猪口(ちょく)のうちふくめばあまし若きもろみは
 待ちえたる奇しき香りのたちそめて吟醸の酒いま成らむとす

 うまさけはうましともなく飲むうちに酔ひての後も口のさやけき」
... 「歌集 醗酵」より

2022-08-21

"書物の破壊の世界史 シュメールの粘土板からデジタル時代まで" Fernando Báez 著

破壊された書物を紹介する本が、ある種の目録になっている。過去に灰になった本に泊がつくのも、皮肉な話である。
破壊がすべて悪とは言えまい。創造あるところに破壊あり。人類の歴史は、創造と破壊の繰り返しであった。創造主は同時に破壊者でもある。大地を揺るがす地震は神の怒りか。一瞬にして暗闇にしてしまう日食は神のお告げか。破壊の神話は救済の神話にもなってきた...
尚、八重樫克彦 + 八重樫由貴子訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。

「人間が創り出したさまざまな道具のなかでも、最も驚異的なものは紛れもなく書物である。それ以外の道具は身体の延長にすぎない。たとえば望遠鏡や顕微鏡は目の延長でしかないし、電話は声の、鋤や剣は腕の延長でしかない。しかしながら書物はそれらとは違う。書物は記憶と想像力の延長なのである。」
... ホルヘ・ルイス・ボルヘス

破壊者たちは、なにゆえ書物を恐れるのか...
書物の破壊は、自身の愚かさや無知に気づかぬ者の所業と思われがちだが、それはまったくの見当違いだという。
ビブリオクラスタ(書物破壊者)とは、むしろ用意周到な人間を言うらしい。頭脳明晰で世情に敏感、完全主義者で注意深く、並外れた知識の持ち主、抑圧的で批判を受け入れることが苦手、利己主義で誇大妄想癖あり、比較的恵まれた家の出で幼少期にトラウマを抱え、権力機関に属していることが多く、カリスマ性すら持ち合わせているとか。
確かに、無教養な人間が書物を恐れる理由は見当たらない。哲学者や作家が、書物の破壊行為を公言した例も多い。ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」によると、プラトンですら論敵デモクリトスの著作を燃き、自作の詩も焼いたという。書物は、迫害の目的だけで焼かれるわけではない。自身の落胆や失望までも絡む。作家が、自らの作品の不完全さを嘆き、処分を遺言する事例も見かける。ウェルギリウスは、未完に終わった長編叙事詩「アエネーイス」の焼却を遺言したと伝えられる。

図書館戦争ともなると、血なまぐさい歴史が浮かび上がる...
アレクサンドリア図書館の変遷には、黒い噂がつきまとう。真の創始者とされるデメトリオスは、エジプトコブラの犠牲になったと伝えられるが、それは事故か、自殺か、それとも他殺か。検死をした医師たちは沈黙を守ったとされるが、それは保身のためか。女性天文学者ヒュパティアの悲劇は、映画「アレクサンドリア」にも描かれる。ギリシアとローマの伝統を併せ持つコンスタンティノープルでも、図書館は焼かれた。プラトン、アリストテレス、ヘロドトス、トゥキュディデス、アルキメデスらの功績が灰に...

「コンスタンティノープルの略奪は歴史上でも類を見ぬ性質のものだ... 第四回十字軍以上に、人類に対する最大の犯罪はないと思う。」
... 歴史家スティーヴン・ランシマン

イスラム世界には、「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」という学術機関があったそうな。コンスタンティノープルから難を逃れた人類の叡智を、フナイン・イブン・イスハークやサービト・イブン・クッラといった翻訳家たちが辛うじて救った。それでも、ほんのわずかであろうが...
イスラムの科学者たちは、古代ギリシア、インド、ペルシア、バビロニア、中国の知的遺産をアラビア語に翻訳することで、自らの文化に取り入れたという。そして、継承した遺産に独自の思索と研究を加え、昇華させた上で西洋社会へ引き継いだ。アッバース朝の時代には、個人図書館を有する者も多かったとか。彼らの意思を継ぎ、翻訳や写本の絶え間ない努力によって、今日まで叡智が生き残ってきたことはありがたいことである。コンピュータ工学に欠かせないアルゴリズムの語源になったフワーリズミーの功績も...
そして、知恵の館もまたモンゴル帝国の侵略によって灰燼に帰す...

「本を燃やす人間は、やがて人間をも燃やすようになる。」
... ハインリッヒ・ハイネの戯曲「アルマンゾル」より

戦争や迫害が書物を焼いてきた例は目にあまる。異端審問にかけられた書物の群れ。パスカルは警告した、「人は宗教的確信に促されて行なうときほど、完全に、また喜んで悪事を働くことはない」と...
ダンテの作品は幾度も焚書とされ、その生涯は受難ばかり。永久追放に、焚刑に、放浪中に何度も殺されかけ、そして客死。だから、「神曲」で最初に遭遇するのが地獄ってか...
自由主義者が自由な執筆を妨げ、平等主義者が書物が平等に行き渡ることを拒み、モンテスキューやルソーも焚書とされた。
大衆もこれに呼応し、本を焼くだけでは不十分!書いた奴も燃くべきだ!と叫ぶ。人間の優越主義には呆れるばかり、書物のゲルニカはビブリオコーストに投影される。それは政治思想や宗教思想に留まらない。数学や科学でさえ、劣等民族の功績とされるものは抹殺されてきた。グノーシス文書の消滅にしても、よく推理小説の題材にされ、なにやら陰謀の臭いがする。人間は陰謀論に目がないときた。
ただ、過去の記録がすべて正確とは限らない。どんなに優れた叙述家でも、当時の時代背景から都合よく改竄した可能性もある。時には、自らの主義主張のために。時には、保身のために。人類の歴史は、改竄の歴史でもあり、改竄の応酬の歴史でもある。

では、21世紀の今はどうであろう。検閲主義から解放されているだろうか...
誹謗中傷の嵐は荒れ狂い、改竄の手口は巧妙化し、集団的抹殺はますます旺盛に。書物の媒体も電子化が進み、その記述も半永久的な存在となった。そして、その破壊の歴史は、まだ序章なのやもしれん...

「ここでひとつ引用させてもらおう。『芸術家の個性は、本来妨げられることなく発展させるべきものだ。われわれが要求するのはただひとつ、われわれの主義主張を公言することだ。』これはナチス・ドイツの大物、ローゼンベルクの言葉だ。それからもうひとつ。『どの芸術家にも自由を創作する権利がある。しかしわれわれ共産主義者はひとつの計画に適合することを余儀なくされている。』こちらはレーニンの言葉。あまりに似かよっていて、仮にこれが悲劇でなかったとしたら、実に笑える話なのだが...」
... ウラジーミル・ナボコフ

2022-08-14

"非常民の民俗文化 - 生活民俗と差別昔話" 赤松啓介 著

人間は、表と裏のある動物である。建前と本音を使い分ける動物である。
アリストテレスは言った、人間はポリス的な動物である... と。ポリス的とは、単に社会的という意味ではない。精神的に最高善を求める共同体、その一員としての合目的的な存在といった高尚な意味が含まれている。
しかしながら、善を知れば、悪をも知ることになる。最高善を求めれば、その対極にある悪魔的な意識をも相手取ることになる。善悪ってやつは、表裏一体で迫ってくる。それは、相対的な認識能力しか持ち合わぜていない知的生命体の宿命であろう。
そして、人間社会にも表と裏がある。陽な側面と陰な側面とが。いつの時代も、力ある者が力なき者を足蹴りし、才ある者が才なき者の鼻面を引き回す。堂々と正義を掲げる輩の陰に、権利の主張もできず、ひたすら耐え抜く人々が。これが人間力学というものか。本書は、陰の側面から人間社会を直視する、いわば、本音の社会学とでもしておこうか...

「これは一人の男の、敗北と挫折の記録である。いまから金儲けしようとか、立身出世したいという希望をもっているような人間が読んで、ためになるような本では断じてないだろう。また労働運動、反差別運動、平和運動など、いわゆる社会運動のなかで、あるいは加わって、民衆を指導し、指揮しようという大志をもつ連中も、読まない方がよい。社会変革を達成するために、民衆、あるいは市民を鼓舞激励する手法などは、なに一つ発見できないからである。むしろ、民衆とは、、市民とは、こんなつまらないものであるかと、失望するだろう。いや、そう見せかけて、実は、民衆の、あるいは市民の、かくされた大きな潜在力を暗示し、その発掘を示唆しているのだ、などと買いかぶるのはやめてもらいたい...」

民俗学の用語に、柳田國男が提唱した「常民」という概念がある。本書は、これに疑問を投げかけ、「非常民」の側面から人間社会というものを物語ってくれる。柳田民俗学を陽とするなら、赤松民俗学は陰ということになろうか。
そして、人間の本質は陰の部分にこそ露わになる。人が正直に生きることは難しく、自己までも欺瞞してかかる。しかも、無意識に。無意識の領域は意識の領域よりも遥かに広大で、これを相手取るにはよほどの修行がいる。
古来、哲学者たちは問い掛けてきた、人間は生まれつき善か、それとも悪か、と。悪とするぐらいが控え目でよかろう。それで謙虚になれる。いや、本当に悪魔になりきるやもしれん。自分の理性に自信を持てば、理性が暴走を始める。理性ってやつは、脆弱である。実に脆弱である。しかし人間社会は、これに縋るほかはない。ならば、自問する力こそが問われよう...

いまや学問は、大学や研究機関だけで営まれる時代ではない。優れた研究者がアカデミズムの外にも溢れ、魂のこもった仕事をしている多くに在野の研究者を見かける。そして、彼らは反主流派に位置づけられる。著者の赤松啓介も独学で取り組んだ一人。
確かに、人間社会には必要悪というものがある。例えば、人類最古の商売とされる売春が、売春防止法なんぞでなくなると信じるお人好しは、そうはいまい。いじめのない世界なんて信じるおめでたい人は、そうはいまい。差別のない世界なんて信じるおめでたい人は、そうはいまい。村八分社会や階層社会なんてものは、日本社会のあらゆるところに蔓延る。その証拠に、世間には勝ち組と負け組で区別することのお好きな輩に溢れ、自分自信を勝ち組の側にいると信じて安心を買おうと必死だ。
おまけに、理性屋どもは、人間社会に蔓延る悪癖にこぞって目くじらを立てる。おそらく、彼らは清廉潔白なのだろう。清廉潔白な人間?それは本当に人間なのだろうか。人間の皮をかぶった悪魔にも見えてくる。正義依存症や道徳依存症といったものは、アルコール依存症や麻薬依存症と何が違うのだろう。幻想を追いかける点で同類項にも見えてくる。天の邪鬼の眼には...

「柳田民俗学には、日本人は太古の昔から優秀な民族で、これからも繁栄して行くという空疎な前提がある。だから差別や階層、性、犯罪、革命などという醜悪なことは、日本の民俗や精神生活にはあり得ないと信じようと苦心していた。したがって、そうした視角からより民俗や精神文化、経済社会、生活環境を見ることができなかったので、その調査も、研究も、表面を撫でさすっただけのキレイゴトに終わっている...」

2022-08-07

"奇想の図譜 - からくり・若冲・かざり" 辻惟雄 著

「文化は遊びの形をとって生まれた、つまり、文化はその初めから遊ばれた...」
... ヨハン・ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」より

時系列では「奇想の系譜」から隔てて刊行された「奇想の図譜」だが、姉妹書として意図されていることが伺える。「奇想の系譜」では、近代絵画史で長らく傍系とされてきた達人たち... 岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳らを主流の前衛として紹介してくれた(前記事)。江戸の時代を生きたアバンギャルド!として...
ただ、奇想キテレツ流で欠かせない葛飾北斎については末尾で軽く触れるに留まっていたが、ここでは挨拶代わりに、いきなり北斎のワニザメで度肝を抜かれる。自由自在なる趣向といえば、やはり北斎か。日本画に見る装飾やかざりの極意。すべてのものに魂が宿ると信じるアニミズム。その影響力は、現代のアニメ作品にも見てとれる。
本書は、日本の美を貫くモチーフに遊び心と飾りを配置しながら、人間は生まれながらにしてお洒落であること、飾るという美意識は本能的欲求であることが論じられる。日本は個人主義後進国と揶揄されがちだが、こと日本美術における個性では一目置かれるらしい...

「日本の装飾の魅力をなすもの、それは、いつもその装飾の与え方に現れるファンタジーと奇想である。」
... フランスの美術評論家エルネスト・シェノー

ところで、ワニザメって、どんな生き物?
おいらは、こういうウンチクに目がない。「世界大百科事典」の「ワニ」の項によると、もとは山陰地方における鱶(ふか)の方言で、中国南部に棲む「鰐」に日本語のワニをあてたのは、古代日本における中央文人の誤りだったという。だとすれば、ワニとサメの重ね言葉ということになり、凶暴さと獰猛さのコラボで強烈なイメージを与える。
しかし、架空の動物だ。人間が架空の存在に思いを寄せるのは、精神そのものが仮想的な存在だからであろうか。得体の知れないもの同士で引き合うものがあるのだろうか。臆病であるが故に、怖いもの見たさという衝動が抑えられず、悪魔的なイメージを駆り立てるのやもしれん。
鑑賞者が飽きっぽいなら、作者も負けじと刺激を求めてやまない。そして今、ジュラ紀の映画などでは、ますます強烈な怪物を生み出す。いずれ人類は、仮想的な存在に飽き足らず、遺伝子技術によって本当に恐ろしいものを作り出すであろう...

1. 「をこ絵」と「絵難房」
「今昔物語集」の巻二十八には、比叡山無動寺の義清阿闍梨という僧の説話があるそうな。変わった人柄ゆえ世人には受け入れられず、ただ「をこ絵(嗚呼絵)」の名手として知られていたという。「をこ」とは、笑いをさそう馬鹿げた行為を意味し、義清は「をこ者」として描かれているとか。風刺や滑稽を描いた戯画の先駆者であろうか。柳田國男は、こんなことを指摘したという。「をこ」とは、思慮の足りない愚行のみを意味するのではなく、むしろ逆に、並より鋭い人物が、わざと「をこ」を演じる部分もある... と。
狂言や歌舞伎にしても、風刺や滑稽が芸術の域に達した結果であり、それは、正気よりも狂気の方に人間の本質が内包されているからであろう。芸術ってやつが、自然物ではなく、人為的産物であるがゆえに、達人たちは悪魔的な要素を描かずにはいられない。こうした絵画の傾向は、12世紀頃に出現したらしい。「鳥獣人物戯画」などは、人間どもをおちょくった感がいい。水木しげるを思わせるような動物の擬人化は、まさに現代漫画の先駆け。
また、時代を同じくして、「絵難房」と呼ばれる人物がいたそうな。どんな絵にも難癖をつけては批判することから、そう呼ばれるのだけど、こちらも、まさに現代的キャラクター。本書は、リアリズム評論家として紹介してくれる。新たな試みには批判がつきもの、抑圧には反抗がつきもの、これが人間社会の力学というものだが、いずれも自由精神の体現であり、芸術精神の根源的なもの。12世紀頃、平安から鎌倉にかけての時代に、近代芸術の先駆的意義を探ろうとする本書の試みは、実に興味深い...

2. 白隠慧鶴の禅画
白隠の絵は、「禅画」と呼ばれるそうな。但し、禅画という呼び名はもっと古くからあり、狭い意味で、白隠や仙厓ら江戸時代の禅僧の余技としての意味らしい。本書は、この禅画に、巧みなアマチュア的趣向を紹介してくれる。
禅の精神を伝える題材として、よく用いられるものに、寒山拾得や布袋がある。寒山拾得は小説にもなり、布袋は七福神の一人。こうした題材を率直でユーモアに伝える絵画論は、部分的には、一見しまりなく下手くそに見えながら、全体像では、技巧を超えた徳のようなものを滲ませる。あえて技工を捨てる素人観。それは、熟練工にしかできない芸当であろう。純真な精神を解放するには、高度な知識を捨てねばならぬことがある。神聖な精神が滑稽を演じるようにプロがアマチュアを演じて魅せるのは、厳格化された専門知識に対する、彼らなりの反抗であろうか...

3. 写楽別人説
江戸時代末期の浮世絵師「東洲斎写楽」という人物は、いまだ正体が掴めないらしい。やはり本命は、斎藤十郎兵衛説か。だが、一度はこれの否定説が有力視されたり、写楽北斎同一人説が飛び出したり、はたまた、外国人説が飛び出したり、様々な新説、珍説が後を絶たない。時期によって作風が変われば、独りの人物のしわざかも疑わしい。
現在では、斎藤十郎兵衛説に再び戻って落ち着いたようだけど、歴史なんてものは、新たな古文書の発見でどんでん返しを喰らう。しかし、真に歴史を動かしてきた人物というものは、歴史に名を残してこなかったのやもしれん。ましてや、政治的に目をつけられるほどの奇抜な創造力を持った人物ともなれば... なんらかの形で正体を隠し、世間を欺かなければ、自由精神が体現できない時代ともなれば... そして、現代も...

4. 風流の総括
風流という言葉には、なんとなく惹かれるものがある。風流に、粋に、生きたいものだと。日本的風流といえば、わび、さび、といった質素な感覚があるが、本書が題材とする装飾や飾りは、むしろ逆の立場。しかし、明るい装飾が存在するからこそ、質素な優雅さが際立つ。辻惟雄は、風流という言葉を、陽と陰の両面から、こう総括する...

「風流はきわめて多義である。風狂、好色もまた風流である。みやび、みさお、幽玄、風雅、すきなど、風流に関連する言葉は多い。風流の共通項をあげるなら、松田修氏のいわれるように虚構性ということしかないだろう。私の自己流な分類によれば、風流は陰と陽との両面にわたっている。陰の風流とは、隠遁趣味に結びついた高踏的風流、『かざり』との関連でいえば、あまり飾り立てない風流である。『わび』『さび』はおそらくこれらの風流に結びつくだろう。それに対し、陽の風流とは、賑やかに飾り立てるハレの風流である。いまたどってきたのは、大体この陽の風流の系譜であり、それは『かざり』と『奇』に焦点をしぼった風流の部分象かもしれないが、風流の本質がそこに含まれていることは確かだと思う。口はばったいことを申せば、『わび』『さび』や『ひえかれる』美意識は、この『陽の風流』のはなやかな装飾世界を前提として成り立ったものである。」

2022-07-31

"奇想の系譜 - 又兵衛-国芳" 辻惟雄 著

意表を突く構図、強烈な色彩、グロテスクなフォルム...
江戸の時代、奇矯(エキセントリック)で幻想的(ファンタスティック)な表出を特徴とする絵師たちがいたそうな。近代絵画史で長らく傍系とされてきた達人たちに、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳らの名が連なる。辻惟雄は、彼らを異端派とするのではなく、主流派の前衛として掘り下げてくれる。奇想キテレツ派とでもいおうか、その表現主義的な傾向は、むしろ現代感覚にマッチしそうな...

芸術の要素には遊び心が欲しい。アニミズムにも、美意識にも遊び心が欲しい。悪魔が皮肉をぶちまけ、これを神の微笑みで味付けすれば、主題がより際立つ。ユーモラスな悪戯ぶりは、型苦しい様式からの解放と庶民感覚に近づけた感がある。地獄をも、狂気をも、手玉に取れば、まさに近代芸術のアバンギャルド。今、八面モニタをバックグランドに、純米酒をやりながら美術館気分に浸る...




この系統では、まず、葛飾北斎の名が聞こえてきそうだが、ここでは、あえて軽く触れるに留めている。彼を扱うには、よほど腰を据えてかからねばならないようである。

「北斎の場合にしても、彼を単なる風景画の開拓者として扱うのはもとより一面的であって、動物、植物、人物から妖怪にいたる森羅万象ことごとく自己の画嚢に収めようとする描写の驚くべき多様さと、どの画題にも発揮されている斬新な機知とドラマティックな想像力、つまりは『奇想』に、彼の作画の本質的意義があることはいうまでもない...」

本書で紹介される絵師たちは、時代を先取りしすぎていたのかもしれない。表現性に馴染んだ現代人の眼には、それほど違和感はないだろうし、むしろド迫力な描写に魅了される。
例えば、「山中常盤物語絵巻」は、義経伝説を描写した御伽草子系の物語で、盗賊どもに小衣を剥がされる常盤と侍従に、常盤殺しに、その復讐劇で首を刎ねるなど、どぎつい場面で彩られている。
但し、作者の名が作品のどこにも記されていないそうな。岩佐又兵衛筆という伝称がついているだけだとか。そのため、岩佐又兵衛という人物の実在すら疑われたという。後に、その子孫の家から伝記資料や自筆の文書が発見され、おぼろげながら正体が浮かび上がってきているのが現状だとか。
この作品が世に出るいきさつでは、ドイツへ売られるところを、当時、第一書房の代表であった長谷川巳之吉が、国外へ持ち出されるのを防ごうと、家を抵当に入れ、他のコレクションを売り払って、手に入れたという。生々しい表現性の評価では西欧のコレクターの方が目が肥えているようで、辻惟雄はこう励ます...
「日本のコレクター諸氏よ、今からでも遅くはない、奮起して下さい!」

いつの時代も、社会への不満や政治への批判が風刺芸術として現れ、えげつなく描写すれば批判の的となる。その先陣を切るのが、自由を標榜する芸術家の役割というものか。当時、自由な表現は危険すぎるほど危険で、覚悟のいる仕事であったことだろう。寛政の歌麿が投獄された事例などが、それである。幕藩体制崩壊も目前に迫り、武家政治への不満が日増しに高まる中、庶民の代弁者という使命を買って出ることも。
例えば、歌川国芳の「源頼光公舘土蜘作妖怪図」は、権力の風刺画として威光を放つ。源頼光と四天王がくつろぐ中、闇から悍ましい土蜘蛛と無数の妖怪が押し寄せる。病床の頼光に、夢まくらで騒ぎ立てる化け物ども。表向きは土蜘蛛退治を描写しながら、酷政に苦しむ庶民の亡霊を描写したような、実にきわどい作品である。国芳は、捕らえられて詰問にあったが、そのような含みはないと言い張って罪を免れたという。自由精神の旺盛な人間が政治犯とされるのは、人間社会の宿命か...

2022-07-24

"自殺論" Émile Durkheim 著

生きる権利を主張するなら、死ぬ権利を主張してもよさそうなもの。死を運命づけられた知的生命体が、どうせいつかは... という気分になるのも道理である。自分の生に終止符を打つというのは、究極の自由論という解釈もできよう。生き方を問うということは、死に方を考えているのと同じことやもしれん。
自殺という行為が人間の本能に根ざしたものかは知らんが、これを抑止する良策があるとすれば、中庸の哲学と精神の均衡こそが鍵となるであろう。自殺を狂気とするなら、狂気のないところに才気は生まれない。芸術家や哲学者に自殺者を見かけるのは偶然ではなさそうだ。狂気を謳歌するところに真の正気があるのやもしれん...
尚、宮島喬訳版(中央公論社)を手に取る。

「生の世界においては、過度におよぶものはすべてよくない。生物の能力にしても、一定限界をこえないという条件のもとで、はじめて決められた目的を果たすことができる。社会現象についても同じことである。過度に個人化がすすめば自殺が引き起こされるが、個人化が十分でないと、これまた同じ結果が生まれる。人は社会から切り離されるとき自殺をしやくなるが、あまりに強く社会のなかに統合されていると、おなじく自殺をはかるものである。」

社会が多様化すれば、死生観もまた多様化していく。しかし、自ら命を絶つ権利をあからさまに認めた社会は見当たらず、むしろ大罪とする宗派が大手を振る。
近代医学は、延命治療をますます進歩させるが、そうすることによって苦悶を長引かせるだけに終わるケースも少なくない。医学生たちは、死に向かう心理よりも、肉体に対する物理的な措置の方を多く学ぶ。医師が少しでも死期を早める措置をとろうものなら、メディアはこぞって理性の検閲官を自認し、本人が求める積極的な死ですら殺人と見なし袋叩き...
寿命がのび切った社会では、尊厳死というものを考えずにはいられない。欧米社会には安楽死ビジネスなるものがあると聞く。悪魔のビジネスマンと呼ぶ者もいるが、死への誘惑はどこにでも転がっている。その衝動に負けた時、死を処方する闇のプロフェッショナルが、少しばかり自然死のお手伝いをしてくれる。もう充分に生きたからと自らを納得させて。だがそれは、いいことがあるなら、もうちょっと生きていたいという心の裏返し。人間が合理的に生きることは難しい。死と向き合えば、尚更である。
だが、死がなければ詩は生まれないだろうし、芸術心や論理的思考を育むこともできまい。そして、生に意義を求めることも...

本書は、「自己本位的自殺」「集団本位的自殺」「アノミー的自殺」の三つに分類して論じている。とはいっても、それぞれの社会的要因や社会的タイプは、三つの類型が相互に絡み合った様相を呈する。エミール・デュルケームは、自殺をこう定式化する...

「当の受難者自身によってなされた積極的・消極的行為から直接、間接に生じるいっさいの死を、自殺と名づける。しかし、この定義も完璧ではない。というのは、これでは、まったく異なる二種類の死が弁別されないからである。高い窓を地面と同じ高さにあるとおもいこんで、そこから飛び降りる幻覚者の死と、自分がなにをしているかを知りながらみずからに一撃をくわえる正気な人間の死を、いっしょくたにし、同列に扱うことはできないだろう。」

注目したいのは、統計データを元に考察しながらも、数字をそのまま鵜呑みにせず、データ収集の仕方や数字には現れない状況までも想定している点である。
「自殺論」が刊行されたのは、1897年。社会学の論文としては斬新な試みだったことだろう。今日、社会分析で当たり前のように用いられる統計データだが、その信憑性を裏付けるのは難しい。それゆえ、いかようにも解釈できるという弱点がつきまとう。巷には、デュルケーム論法の変質で溢れている。社会現象において統計的な平均人を論じることに、どれだけの意味があるかは知らんが、ベンジャミン・ディズレーリは、こんな言葉を遺した。「嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である。」と...
なにも統計が嘘をつくわけではない。論者がデータを改竄しているわけでもない。都合のよい数字を拾い、より重要な数字を無視すれば、それだけで欺瞞できる。それは、些細なニュースを大袈裟に持ち上げ、重要なニュースをささやかに報じれば、世論を扇動できる報道屋原理と同じ。超一流の扇動者は、けして嘘をつかないものだ。
統計データの扱いは、結局は解釈の問題ということになろうか。数字を鵜呑みにしない時点で、既に主観の眼が向けられている。客観的な眼を向けるということは健全な懐疑心を保ち続けることであり、これを実践するにはよほどの修練がいると見える。デュルケームの試みは、主観と客観の相互で限界点を模索しているかのように映る...

自殺といっても、様々な動機に様々な状況が絡み合い、一筋縄ではいかない。ゴルディオンの結び目のごとく...
まず、何をもって自殺と定義するか。生活苦や病苦を背負って命を絶つ者、世間の眼に追われて命を絶つ者、社会的義務を背負って命を絶つ者、殉教の栄誉に浸る者、餓死を自然の力として受け入れる者、自ら人間失格を悟って命を絶つ者... あるいは、消防士や警察官のように自ら犠牲となる人たちもいれば、戦争では自ら捨て石となる人たちもいる。怒りは絶望に優るとも言われるが、その怒りが自らの命に向けられることも。
例えば、自説を曲げず、追放までも頑なに拒み、公開裁判で死刑を受け入れたソクラテスはどうか。征服者に屈服せず、誇り高く自刃した小カトーはどうか。後に、ダンテによって煉獄山の門番にされて...
デュルケームは日本人についても考察し、「まったくつまらない理由のために、簡単に切腹するのは有名である。」と断じる。
西洋人には、公に自殺を求めずとも、暗黙に強いられる社会が奇妙に映ったことだろう。いわゆる、空気を読むってやつか。武士の時代、恥を偲ぶぐらいなら死を選び、生に執着しないことが美徳とされた。「潔し」という言葉は重い。実に重い。それが現在では、死んじまったらお終い!とまったくの正反対、死を論じることすら忌み嫌う。その移り気を思えば、現代の価値観にも問い掛けねばなるまい。現在でも尚、集団が暗黙に命ずるものが根深くあると...

自殺とは、自らの命を絶つことであり、積極的な行為にも映る。だが、デュルケームは、内的要因よりも、むしろ外的要因であることが、ほとんどだとしている。
アリストテレスは、人間をポリス的動物と定義した。つまり、最高善を意図した共同体の中で生きる存在であると。悪く言えば、集団依存性からは逃れられない存在とも解せる。そして、利己主義もまた社会の所産である。
高度な文明ほど自殺者が増加するとも言われる。未開社会でも自己本位的自殺はあったようだけど、少なくとも、近代的な自殺が社会的要因によって増殖させているのは確かであろう。富裕層でも貧困層に負けず劣らず自殺する。知性や理性が自殺の呼び水になることもあり、教育も当てにならない。
自殺の抑止力では、宗教も一定の効果があろう。452年、キリスト教はアルルの教会会議で、自殺を一つの犯罪と規定し、悪魔的狂気のなせる結果であると宣言したという。すべての命が神からの賜物だとすれば、自らの命を葬ることも大罪ということになる。それでも、論理的には隙だらけ。異教徒の命はどうか。宗教戦争は犯罪行為では...
結局は、中庸の哲学と精神の均衡に縋るほかはあるまい。憂鬱ってやつは都会の病とも言われるが、田舎にも伝染する。自殺はある種の伝染病であろうか...

また、人間の無意識の領域は、意識の領域よりもはるかに広大である。自己本位的自殺とアノミー的自殺とでは、その要因において類縁性が深いという。アノミー的とは、社会規範が弛緩になったり、崩壊したりする時に生じる感情や情熱に左右されるような状態。確かに自己本位的でもあるが、本当に自分の意志がそうさせているだろうか。
例えば、著名人や影響力のある人の死が殉死を呼び込んだり、ゲーテのウェルテルの悩みが社会現象になったり。
自己本位的自殺と集団本位的自殺とでは相反し、両極にあるように見えるが、これらが結びつくと、それは誰の意志であろうか。もはや自由意志の存在すら疑わしくなり、宿命的な意志を感じずにはいらない。デュルケームも、「宿命的自殺」のような感覚を匂わせている。
しかしながら、こうした感覚は自殺に限ったことではなく、日常に渦巻いている。突き詰めれば、誰かに扇動されているのではないか、どこかに暗躍する奴らがいるのではないか、と。人間は陰謀論がお好き!というのは、集団依存症という性癖を持つ人間の本質やもしれん。つまり、人間とは目に見えぬ存在に怯えながら生きている存在、ただそれだけのことやもしれん。目に見えぬ存在が本当に存在するかは別にしても、そんな存在がないと落ち着かない、ただそれだけのことやもしれん。だから、自らの生を仮想世界に投じようと必死にもがく。死もまたある種の仮想世界、ただそれだけのことやもしれん。精神そのものが仮想的産物ってことか...

2022-07-17

"差異と欲望 ブルデュー「ディスタンクシオン」を読む" 石井洋二郎 著

生涯に一度は読んでみたい...
そう思いつつ、ToDo リストに何十年も居座ってるヤツらがいる。大作ってやつは、分かりやすさに群がる風潮にあっては、近寄りがたい存在に成り下がる。そんな時、天の邪鬼な性分が救ってくれる。気まぐれは偉大だ。難解さを理解への渇望に変えちまうんだから。まずは知識の下地が欲しい。前置きとなる歴史背景が欲しい。ピュアな情熱に触れるには、前戯を丹念に...
ピエール・ブルデューの著作「ディスタンクシオン」も、そうした一冊である。解説書の類いが多く出回るのは難解な証拠であるが、それだけではあるまい。解説書や翻訳書が原作の本質を暴けば、それが原本にフィードバックされ、重厚な改版に生まれ変わる事例も少なくない。これが、知の世界というものか。知識や教養は、私有、独占できるものではないし、共有こそが本来の姿なのであろう。共有すれば、悪意に晒すことにもなるのだけど...

フランス語の "distinction" を辞書で引くと、動詞 "distinguer" の名詞形で、区別、弁別、識別といった意味が出てくる。これの過去分詞 "distingué" が形容詞として用いられると、上品な、気品のある、といった意味になるらしい。したがって、「ディスタンクシオン」とは、「差別化」「卓越した品位」の両方の意味を含んだ用語だという。
人間は、比較においてのみ自己を自覚し、他を認識できる。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体の宿命。経験を積めば、自己を時間軸にマッピングしながら、自己と自己とを比較することもできよう。となれば、人間は絶えず差異の確認作業に追われて生きているとも言える。その場合、過去の自己は、すでに自己ではないかもしれんが...
差異は欲望を生み、欲望はさらなる差異を生み、そこにアイデンティティとやらを結びつける。それが単なる差別意識に終わるか、そこに卓越性なるものを見い出すかは、かなりの隔たりがあり、その隔たりを乗り越えるために、自由や自律といった洗練した欲望がともなう。「ディスタンクシオン」という言葉に込めたブルデューの思いに、人間の本質を垣間見る思い...

「人間は、他人と異なっていることにも、他人と同じであることにも、ともに耐えられない存在である。他人と異なっていれば、他人と同じになろうとする。他人と同じであれば、他人と異なろうとする。要するに人間は、相反する二つの欲望に引き裂かれた存在である。他人と同一化したいという欲望と、他人と差異化したいという欲望と...」

著者の石井洋二郎氏は、「ディスタンクシオン」の翻訳者として知られる。翻訳者が最も理解した立場とは言い切れないが、最もピュアな情熱をもって触れているということは言えそうか。本書は、この難物に立ち向かう術(すべ)として、「資本概念の拡大」「社会空間とライフスタイルの結びつき」「ハビトゥスとプラティックの概念」という三つのアプローチからヒントを与えてくれる。

「資本概念の拡大」とは、何を持って資本とするか、それは解釈の問題でもある。資本ってやつは、なにも金銭だけで測れるものではない。自己実現や自己啓発といった動機は独善的な自問を繰り返しながら、どんな情報も、どんな経験も、自己資本として捉えることができる。文化資本に、社会資本に、環境資本に... 精神的土壌を整える糧として...
経済学的には、資本は投資と結びついて合理的となる、いわば両輪。なんでも貪欲に自己投資しちまうのが、哲学する!ということかもしれん...

「社会空間とライフスタイルの結びつき」については、支配階級、中間階級、庶民階級といった分類に始まり、経済的格差や身分的差別に人種差別的意識、選好空間の分散やライフスタイルの多様化といった側面から人間認識の根源を追う。
フランス社会では、支配者階級と労働者階級で明らかな区別があり、ブルジョワやプロレタリアといった用語も輝きを放つが、日本社会ではどうであろう。階級なき社会などと形容されることもあり、プチブルや小ブルジョアといった用語の方がしっくりいくであろうか。戦時中の一億総玉砕の意識は、戦後に一億総中流の意識へ移行し、集団意識の強さは変わらないようである。経済的格差や身分的差別はヨーロッパ社会に比べると小さそうだが、その分、集団的な排他意識が強そうな。村社会、いや、村八分社会と言われる所以である。ライフスタイルは多様化しているものの、それを影で否定し、陰湿な攻撃を仕掛ける集団性が蔓延り、顔の見えぬ仮想空間となれば、誹謗中傷の嵐が渦巻く...

「中学校から大学にいたるまで、ほとんど露骨と言ってもいいような学校同士のランク付けがなされている。学校とは個々の生徒を差別化する制度であると同時に、みずから集団的に差別化される対象でもあるからだ。そして個人の偏差値と学校の偏差値のあいだには、きわめて緊密な共犯関係が成立する。」

「ハビトゥスとプラティック」は、両輪をなす概念だという。
"habitus" という用語は、habitude(習慣)からも想像できるように、後天的に獲得されたもろもろの性向であり、思考や行動様式そのもの。わざわざ「ハビトゥス」という言い方を持ち出して習慣と微妙に区別した理由は、「強力な生成母胎」というニュアンスを強調するためだとか。それは、ほとんど無意識化されたルーティンのような感覚であろうか。人間の本性は、無意識の領域に広大な部分があるということであろうか。
そこで、"pratique" という用語が補足してくれる。このフランス語の単語には、大抵「実践」という訳語が当てられるらしいが、英語の "practice" と重なり、意欲的な行動をイメージさせる。ただ、フランス語の文脈では、マルクス = サルトル的なイメージで用いられることが多いという。ここでは、「慣習行動」という用語を当て、無意識の領域をも含んだもっと広い意味を与えている。
となると、慣習行動はいかに惰性化を免れ、主体なき実践となりうるか?と問わずにはいられない。慣習は恐ろしい。実に恐ろしい。日々の繰り返しが、いつのまにか義務のような感覚に囚われ、疑問すら感じなくなる。それだけで行動規範と化し、自分自身の行動パターンを縛っちまう。常識ってやつも、この類い。
だがその反面、規範ってやつは、逆らいたいという意識をどこかに忍ばせ、突然爆発するパワーを誘発させることがある。それが、自由意志ってやつかは知らんが、アリストテレスは、こんな言葉を遺してくれた。「人は繰り返し行うことの集大成である。それゆえ優秀さとは、行為ではなく、習慣である。」と...

... こうして眺めていると、「ディスタンクシオン」という用語に、卓越した差別化といったものをイメージしてしまう。人間は、本質的に差別好きな動物である。ならば、差別するという性癖を率直に受け止め、これを卓越したものに化学変化させるにはどうするか、などと問えば、なんと酷な要請であろう。卓越性とは、それ自体が他との区別であり、優越意識でもある。
その意識がネット社会に晒されると、たちどころに大衆化し、弁別機能を失う。差異を意識するあまりに、それに属すグループが異様なまでに似通ってしまうのである。
卓越性がさらなる卓越性を求めれば、大衆というグループに属すことを極端に嫌うようになる。自己が存在を意識するということは、わたしはあなたではない!ということを強烈に意識することだ。それは、自由意志によって裏付けられるのであろうが、自由意志ってやつは必ずしも意識的に働いているとは限るまい。むしろ無意識の領域に本性が隠されているのやもしれん。無意識の領域にまで卓越性を求めるとは、なんと酷な!意識の領域ですら、みすぼらしいというのに。哲学者という人種が、金銭や名誉なんぞではけして満たされない、最も貪欲な存在に見えてくる...

「社会がその健全なダイナミズムを維持することができるとすれば、それはただ、私たちがみずからの欲望を励起しながら、ざわめく差異の群れを次々に差別化のプロセスへと送り出し、社会というテクストを絶えず新たに織りなおすことによってのみである。いかなる絶対化からも自由な場所で、あらゆる停滞と硬直に抗しつつ、みずからを熾烈な差別化 = 卓越化の運動にさらすこと。差異のフェティシズムを周到に回避しながら、しかし執拗なまでに差異を生産しつづけること。『ディスタンクシオン』とは結局のところ、社会に生命を与える最も根源的な集合的欲望の別名にほかならない。」

2022-07-10

"アルファベットの事典" Laurent Pflughaupt 著

おいらは、大の辞書嫌い。かつては、そうだった。義務教育時代に国語アレルギーを摺り込まれ、事典と名のつくものを避けてきたところがある。
しかしながら、知の宝庫を放棄するのは、あまりにもったいない。合理的に生きるためにも。ましてや今の時代、辞書を引くのも随分と手軽になった。引くというより検索!仮想空間には専門や雑多な知識に溢れ、ウィキウィキ百科に、ウェブリオ・シソーラスに、グー国語辞典に、グルグル翻訳に... おまけに新旧漢字対照表や手書きサイトまで...
多角的な知識は多様な解釈やアイデアの種となり、なにも辞書通りに生きることはあるまい。辞書の視点に奥行きや柔軟性という感覚が加わると、言葉の視界がぐっと拡がる。いや、そんな気分になれる。人生の合理性に、気分は重要である...

言葉は、時代とともに変化してきた。言葉は精神の表れとも言われるが、精神という実体を完全に解明できない限り、これからも変化し続けるだろう。
言葉の柔軟性こそが言葉そのものを豊かにし、記述の仕方や使い方などで、そのセンスが問われる。言葉が変化すれば、その構成要素をなす文字そのものも変化してきた。ただ、人間は変化を嫌う動物でもあるのだけど...
ここでは、アルファベット 26 文字に焦点を当てる。事典ってやつは、なにも読むだけのものではあるまい。文字の形を歴史年表上にマッピングすれば、風景のように眺められ、まるでフォント事典!
猫も杓子もデジタル化を叫ぶ昨今、杓子定規的なシステムフォントを押し付けられて、うんざりしているところに、アナログ風フォントや手書き文字に癒やされようとは。グラフィックアートの真髄は文字にあるのやもしれん。著者ローラン・プリューゴープトの紹介には、グラフィックデザイナー、書家、画家とある。なるほど...
尚、南條郁子訳版(創元社)を手に取る。

「文字にオマージュを捧げること、それが本書の目的である。」

人類最古の文字といえば、古代メソポタミアの楔形文字や古代エジプトのヒエログリフに遡る。楔形文字はシュメール人が使った絵文字の発展形とされ、有名な記述に「ギルガメシュ叙事詩」がある。
ヒエログリフは、ギリシア語の "hieros(神聖な)" と "gluphein(彫る)" からつくられた名称だそうな。いわゆる象形文字のことだが、これを解読する出発点になったのが、あのロゼッタ・ストーンである。"gluphein" という言葉は、グラフィックの語源にも通じそうな。グラフィックの源泉は、線を彫ることにあろうか...

文字の変化は形だけでなく、それを表記する手段までも変化してきた。まず彫る作業に始まり、ペンを走らせる作業へと変化し、今では、キーボード入力やフリック入力。手段がどんなに進化しようとも、一次元の情報を二次元にマッピングする行為に変わりはない。一次元の行為ならば、書き順までも規定される。
ただ、キーボード入力に慣れちまうと、「漢字」の記憶がおぼろげになり、いざ手で書こうとすると、書き順も忘れ、形がこんな「感じ」ってな具合...
写真技術が発明された時代は絵画の衰退が叫ばれたらしいが、そうはならなかった。印字技術がどんなに進化しようとも、手書きがなくなることはなさそうである...
また、直線や曲線を空間に解き放てば、線と線で挟まれた空白の膨らみが存在感を強調する。線を描くということは、いかに空白を彩るか。文字のアイデンティティってやつは、線そのものよりも空白の方に大きな意味があるのかもしれん。存在とは、無の引き立て役に過ぎないのかもしれん...

本書は、「手で書く」という行為を通して、文字の在り方を熱く語ってくれる。
「まず『手(main)』についていうと、この単語は『人間(humain)』という単語の第 2 音節をなし、ラテン語の manus(手)に由来している。manus は印欧語根 m-n からつくられているが、ラテン語の mens(知性、精神)や、英語の man(人)も同じ語源をもっている...。こうしてみると、どうやら『手』という単語においては、それが本来あらわしているもの以上に、その本質ともいうべき肉体と精神の基本的な相互作用こそが重要であるらしい。
  ... <略> ...
それでは『書く(écrire)』という単語はどうだろうか。この単語はラテン語の scribere に由来し、scribereは<切り目><刻み目>などに関係する印欧語根の ker や sker からつくられている。それなら『書く』とは、記号を刻みつけて概念をそこに固定することであって、かならずしも多くの辞書が示唆しているように、『それを使う人たちの間で取り決められた文字記号によって言葉を表すこと』とは限らないだろう。」

文明社会では、文字は誰もが理解できる通信プロトコルとなっている。文字が文字たるための重要な要素は、形を規定することと、音を固定すること。線で形作るパターンは無限にあり、音声にしても、母音と子音が基本要素としながら、歯音、歯茎音、舌背音、口蓋音、軟口蓋音、咽頭音、喉頭音、唇音など、その組み合わせは無限にある。
通信プロトコルとなりうるには、形や音声が合理的に単純化されてきたはず。文字そのものにも、慣習によって刻まれてきたイメージがあろう。デジタル社会では絵文字が流行り、意味を知らないネアンデルタール人は馬鹿にされる。おまけに、プレーンテキストだけで視覚効果を与えるアスキーアートまで出現する。こうした風潮は、古代回帰にも映る。

グラフィックの世界では、これに色が加わる。色は電磁波の物理特性であり、白色光をプリズムに通すと、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫に分散できる。たいていの場合、トゥルーカラーの 24bit で十分であろうが、達人ともなると、48bit や浮動小数点カラーまで持ち出し、そこには無限色が渦巻く。ただ、Web で多用される透明色の Transparent 属性は、特別な輝きを放っていると見える。どんなに高精細な表示システムも、無色の引き立て役なのやもしれん...

「美術作品の要素のうちで色ほど魔術的なものはない。主題やフォルムや線はまず思考力に働きかけるのに、色は知性にとっては何の意味もなく、ひたすら感性に訴え、感情を揺さぶる。」
... ウジェーヌ・ドラクロワ

本書は、アルファベット 26 文字が、それぞれ象形となったいきさつを物語ってくれる。ややこじつけ感があるものの、着想は愉快!実に愉快!
例えば...

A は、アルファベットの最初の文字にして、最初の母音字。フェニキア文字の先頭を飾るアレフに当たり、雄牛を表す絵文字に由来するという。クロスバーをやや低めに配置して安定感や重量感を与え、ピュタゴラス学派が愛した三角形をイメージさせる。
ただ、クロスバーのない書体もある。例えば、おいらが愛用するマザーボードメーカ ASRock のロゴには、A にクロスバーがない。クロスバーがなければ、二本の線が二項対立を表す、という解釈も成り立ちそうか。そして、その結び目の頂点に、高次の実在を夢見たかは知らんが、文字を発明した人は最初の文字に強い思い入れがあったと見える...

N は、否定や内面性を意味するという。斜め線には、右上がりに上昇を、右下がりに下降をイメージさせるのは、経済指標の見すぎであろうか。そして、A, M, W, V, W は、右上がり線と右下がり線が結びついているが、右下がり線だけの文字は、N のほかに見当たらない。
それで、H は安定ってか。柵がハシゴになってできた文字?うん~...
ならば、おいらは、S に、波乱万丈か行き当たりばったりを、X に人生の行き違いを、Y に人生の分岐点を、終いには、Z に S が角張って人生の行止りをイメージしちまう。ちなみに、XYZ というカクテルは味わい深い...

U & V には、器、土、母体をイメージして、老子の言葉まで飛び出す...
「埏埴以為器。當其無、有器之用。」
(粘土をこねて器をつくる。その中が空であるところに器の有用性がある。)

2022-07-03

"モノここに始まる" John Beckmann 著

ここに収集された知識の群れは、分類すれば雑学ということになろう。いや、ウンチクのオンパレード!誰かからの又聞きの又聞きに、その又聞きの又聞きといった推定文体が押し寄せてくれば、まるで伝言ゲーム。
しかし、知識なんてものは、総じてそうしたものかもしれん。例えば、地球は丸く、自転しながら太陽の周りを公転している... なんて当たり前のことも、義務教育で叩き込まれただけのこと。自分の目で確かめたわけでもなければ、巷で馬鹿にされぬよう用心するばかり。疑うこともできなければ、宗教と何が違うのだろう。まるで、逆ガリレオ心理学、異端審問にでもかけてくれ!
そこで、ウンチクなら安心して疑ってかかれるし、なによりも好奇心を焚きつける。すべての物事に始まりがある。その根本にある動機は、やはり好奇心か。健全な懐疑心を保ちつつ知識を豊かに調和させるには、ウンチクあってこそ。好奇心が後押しすれば、どんな突飛な発想も受け入れられる...
尚、今井幹晴訳版(地球人ライブラリー)を手に取る。

本書が扱う題材は、あまりに多種多彩で目が回る。日用品では洗濯石鹸や黒鉛の鉛筆... 経済観念では複式簿記や錬金術... 発明技術では蒸気機関や携帯時計... 自然物ではチューリップや電気石... 嗜好品では手品や機械人形... 制度では公衆衛生や金融... と、仕込まれたネタは実に四十数個にのぼる。
博物学とやらが、いつの時代に始まったかは知らんが、古代ギリシア時代にその源泉を辿ることはできよう。万学の祖と称されるアリストテレスは、形而上学、倫理学、論理学、自然学、政治学など、多岐に渡って学問の道を切り開いてくれた。叡智とは、総合的な知識を得、それらを調和させることにあると言わんばかりに...
しかしながら、知識を深めれば、高度に専門化していくは必定。学問分野は多岐に渡って細分化され、時代とともに総合的な調和を求めることが難しくなっていく。
そして、ヨハン・ベックマンの試みに、学問の始まりに立ち返って博物学の始原を見る思い。なにごとも、その本質を知りたければ、事の始まりを探求すること、という考えは一理ある...

ベックマンが生きた時代は、18世紀後半。ヨーロッパでは実験科学が脚光を浴び、理論的な仮説から脱皮して実証的な見解が重要視されていく。彼は、ヨーロッパ圏の十ヶ国語を修得して暗黙の言語パスポートを手に入れ、実際に各地で見聞したものと古代文献とを比較しながら見識を広げていったという。
例えば、スウェーデンでは、鉱山での作業を通じて、鉱石や地質についての研究に没頭したとか。当時、石炭を始めとする鉱石が物事を動かしたり、変化させたりする原動力とされ、科学者たちが化け学に群がった。かのニュートン卿までも錬金術に執着したことは広く知られる。
本書では、天文学で惑星の名と金属の名の関連性に執着し、物質の根源を金属原子に求めるあたりは、周期表でエネルギーの根源を探っているようにも映る。時代の象徴を元素で表すならば、現在はシリコンといったところか。その視点は、唯物論的であり、機械論的であり、これを構造主義の始まりと見るのは行き過ぎであろうか...
また、経済学では、一般的なものと違い、民族学的であり、生態学的であり、さらに宗教的慣習までも含んでいる。これを厚生経済学の始まりと見るのは行き過ぎであろうか...
ベッグマンの思考回路には、物質面では原子論に立ち返り、社会面では人間の本性に立ち返る、といったパターンがあるようだ。そして、すべての始まりが人類の叡智によってもたらされ、すべての物事が自由と欲望に看取られていたとさ...

1. 文明人とは、文明の重荷を背負う人種か...
人口が溢れていくと、多種多様な職業が生まれる。技術で収入を得る者、人を楽しませて収入を得る者、人の苦しみを和らげて収入を得る者、そして、人を騙して収入を得る者など。
手品のように、太陽によってできる影、不思議な力をもつ電気、身体を映し出す鏡、金属を引きつける磁石など、自然現象を利用して大袈裟に演出して魅せれば、根拠のない迷信や秘跡、呪いや魔術といったものにのめり込む。火を使って感動を呼ぶ芸も多く編み出され、口から火を吹き出したり、花火職人もその類い。現在ではイルミネーションなどとお洒落に呼称される。
こうした芸は神をも恐れさせ、聖職者たちが実験科学に目くじらを立てるのも頷ける。そして、伝統あるメディチ家に枢機卿という特権を与え、科学の進歩を抑え込もうとした。人口密度が過剰になれば、娯楽が多様化する反面、働く機会を失う者も増え、犯罪も巧みになる。すべては人口論に看取られているのであろうか...
「文明社会は、子孫の繁栄という本能的な強い衝動を、どのように幸福に結びつけていったらよいかを教えてはくれず、結婚を苦しみに満ちたものにしたり、重荷にさせてしまう。文明から遠くへだたった未開の地に住んでいる人々は、このような悩みがないようだ。」

2. 価値あるブツには偽物が出回る...
価値が本当にあるかどうかは別にして、価値があると認められたものには偽物が出回る。添加物という発明品は、もともとはワインの味を台無しにする酸味を抑えるためのものであったが、やがて食品添加や食品保存などの本来の目的を見失い、俗悪な味を誤魔化すために用いる悪質業者が出現した。
庭を飾る優雅なチューリップは、貴族階級の象徴とされて価値が高まると、やがて市場で投機の対象となり、チューリップなんぞに興味のない連中までも先物相場に群がった。チューリップ狂は、経済学で忌まわしい記録として語り継がれ、市場価値の脆弱性を物語ってくれるが、今も尚、対象物を変えながら受け継がれている。
社交界で貴婦人たちが真珠の美しさを競えば、人造真珠を発明する者が出現した。ところで、真珠って本当に酢に溶けるの?クレオパトラ伝説が本当かどうかは知らんが、彼女は恋人と賭けをし、酢に漬けた真珠を自ら飲み込んで見せ、見事に賭けに勝ったとさ...
すべては価値の欺瞞か。現代風に言えば、価値の仮想化!うん~... 実にうまい言い方である。
錬金術もその類いか。古くから、物品を高価に見せるために金メッキという技がある。これに使用するアマルガムの性質を、古代人はよく知っていたそうな。多量の水銀を金属に練り合わせるとペースト状になり、これがアマルガムってヤツ。水銀は、金属と簡単に混じり合うが、土と混じり合わない性質があり、加熱すると蒸発するので、金や銀を含む鉱石などの物質から貴金属を分離するのに利用できる。金メッキの場合、アマルガムを塗って水銀が蒸発するまで加熱すれば、表面に金だけが残るって寸法よ。
現在では、水銀が有毒であることが知られ、歯科医院では歯の詰め物にも使われてきたので健康被害も囁かれる。
また、超伝導体としても知られ、最先端技術への応用が期待されるばかりか、古代遺跡でも発見され、考古学的にも意味深い存在となっている。
いずれにせよ、人類の叡智は、善にも悪にも作用する。どんなに優れた技術も、悪用は避けられそうにない...

3. なぜ記録をつけるのか...
記録をつける行為が、歴史の礎となっているのは確かである。日記をつける習慣は古くからあり、現在でも思い出を写真や動画に残したりと。それで生きた証しを残そうってか。死を運命づけられた知的生命体は、未練がましいってか。
ただ、記録が正確だとは限らず、欺瞞や誤謬がつきもの。忌まわしい過去に至っては抹殺されてきた。
古代ギリシアでは、病気にかかって健康が回復すると、その症状や治療法について書き記し、医術の神アスクレピオスの神殿に納めたという。この記録は、医学の父ヒポクラテスも利用したと言われる。
一方で、伝染病に関する検疫制度や防疫制度の記録はお粗末らしい。そんな記録を残せば、忌まわしい病の発祥地が、わざわざ自分の土地だと宣言するようなもので、国家の思惑が絡んできたことも想像に易い。
例えば、ペストについては、トルコ人はエジプトからきたと信じ、エジプト人はエチオピアから持ち込まれたと断言する。もちろんエチオピア人だって...
地理的には、レヴェント近郊のトルコと、トルコと頻繁に交易した地域で何度も発生しており、これらの国々で検疫制度が確立されたと言われる。それで、新型コロナの震源地はどこかって?そんなことは知らんが、政治的駆け引きは相変わらずのようである。
人間社会では、善であろうが、悪であろうが、情報は操作される運命にある。陰謀や謀略で用いられる医薬品に、秘毒というものがある。飲んだ人に気づかれぬよう軽い持病のような感覚を植え付け、徐々に生命を弱らせていく毒薬である。
十七世紀のイタリヤとフランスほど頻繁に造られ、巧みに使用された時代はないだろうって。いや、病気がなくなれば医者は儲からないし、秘毒だけにいつどこで仕込まれるやら。国家が関与すれば、隠蔽工作や文書改竄なんぞお茶の子さいさい。
ちなみに、あぶりだしインクの歴史は古く、古代ローマの詩人オヴィティウスは、親の目を忍んで恋人に手紙を書く手法を述べているという。恋文に暗号文の始まりを見る思い。セキュリティシステムだって適当に穴を仕込んでないと、誰もアップデートしなくなり、経済的に立ちゆくまい...

4. 人間の心理学には損得勘定が働く...
金銭感覚に貸し借りのバランスシートが根付いたところで、心理的には見返りの原理が働き、利息は膨れ上がるばかり。これが、イタリア式簿記、すなわち複式簿記の本性か。
そもそも宗教には施しの原理が働く。そして、貸し借りといった行為も、そうした慣習から始まったのであろう。ただ、孤児養育所などに入所する子供を集めるのはそれほど難しくないが、親代わりとなって面倒を見る人を集めるのは極めて難しい。
宗教では悪書は禁書とされるが、悪書が戒めとなったり、反省を促すところがある。善行が社会に必ず良い影響を与えるとは言えないし、盲目を奨励するところがある。貸し借りも、善悪も、そして、様々な知識にもバランスシートが必要やもしれん...
「キリスト教は慈愛や慈悲を人にほどこすことを信仰の中心にかかげているため、じつは血も涙もない残虐行為であるのに、それとは気づかずに善行であると思って押し付けることがある。かと思えば、貧困な人々に対してはいたって寛容で、あまりにも寛容すぎるために、かえって貧困者を増やしてしまう事実は否定できない...」

2022-06-26

"貨幣改革論 若き日の信条" John Maynard Keynes 著

おいらは、経済学が大っ嫌いだ!義務教育時代に思いっきり劣等感を押し付けられた国語よりも。だがそれも、天の邪鬼な性癖が救ってくれる。
どんな学問であれ、專門知識の前では誰もが素人... そんなことを言ってくれた学者は誰であったか。元々数学者であったケインズも、一般理論の序文で、これを読むのは経済学の専門家であろうが、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい... といったことを書いてくれた。天の邪鬼でも、こうした言葉には素直に耳を傾け、勇気づけられるのであった...

さて、論語読みの論語知らず... という格言があるが、ケインズ知らずのケインジアン... というのも見かける。どんな理論にも的外れな批判はつきものだが、これに負けじと的外れな擁護派も湧いて出る。どんな学問分野にも、哲学を引き継がず、手段だけを持ち出す事例はわんさとあるが、特に経済学は顕著に現れる。この分野が人間学に根ざしているのを置き去りにして。いや、人間集団工学がそうさせるのか。
ケインズが指摘したように、マクロ的な視点とミクロ的な視点でまるで景色が違うのも、この分野の特徴である。彼が「貨幣改革論」を発表したのは四十の頃。経済学者としては遅咲きであったことも興味を惹く。経済学という分野は、專門に特化した高度な知識よりも、総合的な視野に立った知識のバランスこそが鍵となりそうな...
尚、本書には、「若き日の信条」、「自由放任の終焉」、「貨幣改革論」、「繁栄への道」、「戦費調達論」の五篇が収録され、宮崎義一、中内恒夫訳版(中公クラシックス)を手に取る。

「経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するものはそれ以外にはないのである。どのような知的影響とも無縁であるとみずから信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である。経済哲学および政治哲学の分野では、二十五歳ないし三十歳以後になって新しい理論の影響を受ける人は多くなく、したがって官僚や政治家やさらに煽動家さえも、現在の事態に適用する思想はおそらく最新のものではないからである。しかし、遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ危険なものは、既得権益ではなく思想である。」
... 「一般理論」より

本書の流れは、こんな感じ...
まず、「若き日の信条」では、G.E. ムーアの「倫理学原理」とラッセルの「数学原理」に没頭した熱き日を振り返り、ベンサム主義嫌いを露わにする。若き日のケインズの眼には、功利主義が弱者切り捨ての論理に映ったようである。
そして、「自由放任の終焉」では、マクロ的な貯蓄や投資の調整、あるいは、適切な人口政策を説き、「貨幣改革論」では、金本位制を猛烈に批判し、物価安定のための管理通貨制度の導入を提言している。当時、大蔵大臣だったチャーチルは、真面目に金本位制への回帰を唱えていたらしい。

「保守主義と懐疑主義はしばしば結託するものであるが、おそらくは、そのうえに迷信まで加わって、金はなお色香衰えず魅力を保っているのである。十九世紀の変動のはげしい世界にあって、金がその価値の安定の維持に成功したことは、確かにすばらしいことであった... だが、将来の状況は過去の状況とは異なる。戦前に均衡を保たせた特殊条件が継続すると期待する十分な根拠はないのである。」

また、アメリカ政府のドル本位制には皮肉を交える。金本位制を維持すると宣言しておきながら、実のところ、金の価値にドルの価値を一致させるのではなく、ドルの価値に金の価値を一致させるために巨額を投じていたという。現在でも、世界通貨という地位をめぐって様々な駆引きがあるが、大国の論理というヤツか...

「口先だけで金本位制を維持していた最後の国で金の非貨幣化が行われたのであり、黄金の仔牛に代わってドル本位制が祭壇に安置された... これは、新しい叡智と古い偏見とを結びつけることが可能な富裕な国のやり方である。」

「繁栄への道」では、公共投資による需要創出の効果と、さらに、各国政府が協調できる世界経済会議の開催を提案している。
五篇に渡って、総じて論じている点は、経済状況に応じて、政府がなすべき基準を定めよ!といったところであろうか。経済政策を論じる場面というのは、たいてい不況局面であろうし、政府の役割が大きくなるのも頷ける。言い換えれば、経済循環がある程度機能している時は、政府は口出しすな!とも解せる。
しかしながら、政治家ってやつは、いつも存在感を強調したがる連中で、好況な局面では地元選挙民へ予算を捻出したり、同調できる政策であっても他人がやると反対する立場をとったりと、なんでも自分の手柄にしないと気が済まないと見える。政治ってやつは、本来は裏方の仕事であり、やたらと政治家が目立つ社会は、あまり健全とは言えまい...

ところで、ケインズは、大きな政府論者の代表のように言われるが、それは本当だろうか。公共事業の推進者、あるいは、バラマキ政治の代弁者のような言われよう。
確かに、大きな政府は累積する財政赤字の元凶となるが、経済危機や大恐慌のような局面では、強力な指導力を持つ政府が必要となる。景気には波があり、どんなに好況であっても不況の業種が必ず生じる。一時的な傾向に無理やりケインズ理論を適応し、特定の業種に助成金をバラ撒いたりすれば、経済全体を歪めてしまう。「戦費調達論」では、彼自身も愚痴をもらす...

「私は、自由社会に全体主義的方法を適用しようとするものだという攻撃を受けてきた。だが、これほど見当違いの批判はありえない。全体主義国家にあっては、犠牲の分配という問題は存在しない。それは全体主義国家が戦争の際に有する本来の利点である。政府の任務が社会的正義の要求によって複雑になるのは、自由社会においてのみである。奴隷国家にあっては、生産のみを問題とすればよいのである。貧困層や老年層は運を天にまかせるほかない。支配階級が特権をほしいままにするうえに、これほど都合のよい制度はない。したがって、本書の目的は、自由社会の分配制度を戦争の制約に適合させる方法を探すことである。」

ケインズが、戦争経済という概念を唱え、経済的に犠牲の再分配を論じていたというのは興味深い。結果的に、「戦費調達論」はヒトラーの手で実現されたとの評価もあるが、そう単純ではあるまい。
ちなみに、当時の日本には、戦争経済なんて概念すらなかったであろうし、情報に疎い体質、または、情報が希望的観測に利用される様は、現在でも伝統的に受け継がれているように見える...

ケインズ理論は万能ではない。というより、人間学において万能薬というものは、おそらく存在しないだろう。
例えば、日本では、バブル崩壊後、長期不況の中で金利が低下しても、物価水準は低迷したまま。ゼロ金利政策を打ち出したところで、デフレと不況の同居という難病を抱えている。その処方箋は、より大規模な財政政策を発動すべきか?それとも、日銀がインフレ率に大胆な数値目標を掲げ、なんでもありの金融政策によって実質金利をマイナスまで引き下げるか?あるいは、まったく別の視点から、構造改革を地道に推し進めて潜在能力を引き出すか?
こうした現象は、ケインズが想定した恐慌や失業とは別物のように映る。実際、金利がマイナスにまで低下しても、民間投資や個人消費が停滞を続けるなんて、誰も想像できなかったであろう。右肩上がりで邁進してきたツケのような。豊かな社会が引き起こした反動のような。あるいは、戦後、八千万に満たなかった日本の人口が、一億二千万まで増幅したことへの警鐘のような...
人間ってやつは、金銭的な欲望がある程度満たされると、別の欲望が芽生えはじめる。それが、より高度な欲望への移行か、低欲望への回帰かは知らんが...

2022-06-19

"経済分析の基礎" Paul A. Samuelson 著

「数学は言語なり」... J. ウィラード・ギィブス

これは、おいらが信奉している格言の一つ。まさか経済学の書で出くわそうとは。しかも、表紙をめくったら、いきなり掲げてやがる。
米国大学院では、一年目に理論とそれに付随する数学の修得に向けられ、「経済分析の基礎」は、第一に読むべし!とされるものらしい。ポール・サミュエルソンといえば、「経済学」という教科書的な大著があるが、これと並び評されるとか。
しかし、こいつぁ、本当に経済学の書であろうか。ルシャトリエの原理、オイラーの定理、ヤコービ行列、クロネッカーのデルタ、ラグランジュの乗数... と並べ立てられ、おいらの眼には解析学の書に見えてならない...
尚、佐藤隆三訳版(勁草書房)を手に取る。

数学には、連続性を保つ物理現象を扱う強力な道具に、微積分とやらがある。微分は、その時点における方向性や傾向を察知するのに役立ち、積分は、大きな流れや長期的な展望を掴むのに役立つ。経済現象は、ある種の社会現象で、そのほとんどが連続性に看取られている。たまーに、天災や人災によって、大恐慌やハイパーインフレなどの不連続な現象があるとはいえ...
景気には、必ず波が生じる。好況であっても、不況の業種が必ず生じる。一時的な流れに無理やり政策を施したり、特定の業種に助成金をバラ撒いたりすれば、経済全体を歪めてしまう。重要なのは、経済危機のような状況を未然に防ぐこと。そのために健康状態を常にモニタし、経済分析を怠るわけにはいかない。

本書は、この積分と微分の特徴に対応させて、静学と動学の観点を導入し、これらを協調させる様子を物語ってくれる。静学的観点では均衡状態を基底にし、動学的観点では、ある均衡状態から別の均衡状態への移行と見なし、比較静学と動学とが矛盾しないばかりか、相性の良さが論じられる。均衡状態からの移行を察知するには、数学的には、基準となる均衡状態から乖離する条件とパラメータを模作することになる。そして、「線型動学的体系」という用語の元で、重畳定理を基本に据えている。
経済理論ってやつは、人間の行動パターンに関して、合理的な経済人とやらを想定しがちだが、ここでは厚生経済学の立場から、その意義をアダム・スミスの道徳哲学に求めたり、均衡状態としてマルサスの人口論に触れながら、最適人口にも言及される。

また、ケインズ体系を単純化して、三つの変数、利子率 x1, 所得 x2, 投資 x3 に対して、三つの方程式、流動性選好 f1, 資本の限界効率 f2, 消費性向 f3 を配置し、符号だけで行列式を記述するだけでも、かなり経済動向が見て取れる。状態移行サインモデルとでも言おうか...

(sign fji) = + - 0
- + -
0 - +

ところで、微分と積分は、見事な対称性をなす。数学的対称性は、直交性として現れ、解析学には欠かせない性質である。
尚、直交性とは、幾何学で言うところの直角を、代数学的に抽象化した概念である。
本書にも、ちょいと顔を出すフーリエ解析にしても、正弦波と余弦波が美しい対称性をなす。数学的対称性があらゆる分析に有効なのは、物理現象を成分で分解し、互いの成分で打ち消す作用があるからである。ある現象を微分したものは積分すれば元に戻るし、積分したものは微分すれば元に戻る。物理現象を記述するのに、微分方程式ほど便利な道具もあるまい。便利だからといって使いやすいわけではないけど。そればかりか、使い方を間違えると大変なことになるけど。
こいつの組み立て方は簡単で、すべての変数を抽出し、各々偏微分した項の総和で記述できる。組み立て方が簡単だからといって、解くのも簡単というわけではないけど。
金融屋が群がるデリバティブ評価で有名なブラック・ショールズ方程式にしても、微分方程式である。

しかしながら、方程式には魔物が棲む。そう呼ばれるだけで、明確な答えが得られると錯覚しちまう。やはり微分には、方向性や傾向を嗅ぎ取るぐらいの役割にとどめておく方が合理的であろう。大局的に眺めるには積分で...
微分方程式の厄介なところは、初期条件と境界条件の見極めの難しさにある。経済理論では、多くの場合、均衡方程式に対して極大値や極小値を仮定する。企業戦略で利潤の最大化を想定したり、生産コストを最小で見積もったり。
その瞬間、瞬間に、最高な解を求めようとするから見誤るリスクも高くなる。幸福度ってやつは、ちょいと幸せぐらいがいい。幸せ過ぎるとツケを払わされることに。均衡状態において、軽いインフレが望ましいのは、そういうことではあるまいか。
金融市場にしても、大きく儲けようとはせず、損しなきゃええや... ぐらいの気持ちで参加する分には、そんなに居心地の悪い場所ではない。
但し、分析では、その瞬間、瞬間で最適化を試みるべし。この機会に自ら構築したポートフォリオと... にらめっこしましょ、笑うと負けよ!

2022-06-12

"法の原理 人間の本性と政治体(コモンウェルス)" Thomas Hobbes 著

トマス・ホッブズは、権威主義や絶対君主制の擁護派とも言われるが、はたしてそうだろうか。政治体制は、アリストテレスがやったように君主制、貴族制、民主制の三つに分類できるが、どれも根本原理は同じはず。つまりは、人間の本性に則ったシステムでなければ機能しないってことだ。ホッブズが生きた時代は、清教徒革命、国王と議会の抗争から共和制の成立、クロムウェルの独裁、そして、王政復古に至る激動期。国王が狼なら、民衆も狼ってか...
歴史を振り返れば、君主制は専制政治や独裁政治へ、貴族制は寡頭政治へ、民主制は衆愚政治へと変容してきた。ただ言えることは、民主制は貴族制よりマシだった、君主制より遥かにマシだったということぐらい。いまだ人類は、崇めるほどの政治体制を手に入れられずにいる。ならば、政治体制を問うより、統治そのものの在り方を問う方が合理的やもしれん。それは、人間とは何かを問うことになろう...
尚、田中浩, 重森臣広, 新井明訳版(岩波文庫)を手に取る。

本書には、「自由」という言葉が散りばめられる。それは、人間が人間たるに最も必要な要素ということらしい。アリストテレスは、民主制の原理を自由精神に求めたが、ホッブズもこれを継承していると思われる。
但し、自由には制約がある。他人の自由を侵害しない程度に自由。この限りにおいて、平等と両立しうる。
そのための指針として、本書では自由精神と自然状態の考察に半分以上が割かれる。理性が命じる自然法が生起する様、あるいは、自然的人格によって生じる信約といったものを政治的人格に対応づけながら。自由といっても、個人の抱く自由は実に多種多様で、一筋縄ではいかない。だからこそ、人間の本性から論ずるべき、というわけか...
そして、その自然法から導かれ、それを補完するための市民法の在り方を考察する様を、前記事で触れた「市民論」の姉妹書として眺めている。コモンウェルスの成員相互の安全だけでなく、共通の敵に対する安全保障までも視野にいれるあたりは、やがて訪れる近代国家への布石か。いや、怪物リヴァイアサンへの布石か...

法の原理を問うにしても、対象のほとんどは愚人であり、戒律というより刑罰によって機能する側面が大きい。そもそも法とは、命令であり、自由とは対極にある。
それでも、市民法が自然法に適って制定されていれば、自由と矛盾しないばかりか、うまく適合できるという。自然法とは、道徳哲学を総括したようなものか。
本書は、自然法を聖書の言葉で確証しているが、宗教に頼るところに法の限界を見る。自由は自発的な情念に発するが、宗教は自発性としばしば対立するばかりか、盲信を歓迎する。
古来、知識は宗教と反目し、迫害の対象とされてきた。異端書とされたグノーシス文書、コンスタンティノープルで焼かれた多くの書物、知の女性ヒュパティアの虐殺など、枚挙にいとまがない。キリスト教の迫害を受けなければ、科学の進歩は千年早まったとも言われる。ホッブズは、異端審問にかけられたガリレオとも交流があったようで、当時、公にされなかったらしい。繰り返される記憶と知識の抹殺。これも人間の定めというものか...

ホッブズは、人間の弱さを指摘しながら、自発的に生きることを奨励する。評判に頼るのは、成功を遂げても自分自身の力によるものではない、と。術策や虚偽に頼るのは他人の無知に依拠している証である、と。怒りっぽいのも、祖先を自慢するのも自律性に欠ける、と。自分より劣った人と反目したり争うことも、戦争を終わらせる力が欠如している、と。つまりは、これらは自分の意志で生きていない証というわけである。
民主制を機能させるための重要な要素に、統治者の説明能力というものがある。ただ、雄弁とは、話を信じ込ませる能力にほかならず、宗教と似たところがある。現在でも、プレゼンテーションなどとスマートに呼ばれ、絶大な評価を受ける。自分の意志で生きていれば言葉に惑わされることもなかろうが、よほどの修行がいる。扇動者にとって、意志を持たない者が意志を持ったつもりで同意している状態ほど、都合のよいものはない。

ホッブズは断じる、「民主政は、実際には演説者から成る貴族政である」と。そして、統治者の力を強力なものにせよ!権力を集中させよ!承認された統治者の行為が罰せられることもない!と。このあたりの言葉を拾えば、絶対君主制の支持者と言われても仕方があるまい。
しかしながら、統治の正当性においては、国家は人民の合意によって構成されることを大前提とし、人民の生命の安全を保障することを最重要事項に掲げている。「統治の信約は、強制力が与えられていなければ安全を保障できない...」と。「安全の保障がなければ、いかなる私的権利も譲渡できない...」と。「民衆の福祉は至高の法という一語に尽きる。そしてこの言葉の意味するところは、民衆の生命の保存というだけではなく、一般的には民衆の便益と福利であると理解されるべき...」と。
結局、法の制定においては、政治体制を見るより、人間を見よ!ということか。これぞ、法の合理性というものか...

ところで、伝統的に哲学者たちが唱えてきたものに、徳治主義ってやつがある。そりゃ、清廉潔白で公明正大な統治者が居れば、それに越したことはない。この世にそんな人物が居たとしても、それを引き継ぐ者は愚人。理想郷は現実世界を歪め、却って厄介となる。
人間社会は、実に多くのパラドックスに看取られている。政治屋が不公平な社会制度を乱発すれば、金融屋が世界規模の経済危機に陥れる。愛国主義者が敵国をでっち上げれば、平和主義者もまた戦争や紛争を黙認する。教育屋は教養を偏重させ、友愛者は愛を安っぽくさせ、有識者は知識を振りかざし、理性者までも批判の言葉を浴びせかけ、大衆はというと誹謗中傷の嵐に煽られる。言葉ってやつは、学問を可能ならしめるが、その効用は、相互の情念を扇動することも、鎮静することもできる。
また、人間ってやつは、大きな権力を手にすると、必ずと言っていいほど傲慢になる。しかも当人が、それに気づかない。こうした性質は、人間らしさでもある。
感情を持ち、情念を持つことが、長所であり短所あるからには、理性や知性では解決できない領域がある。その領域では、理性や知性は却って論争の道具とされる。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとっては、長所と短所、善と悪、正と邪といったものが、協調し、調和してこそ精神的合理性が得られるというもの。人間にとって自己評価ほど当てにならないものはないが、だからといって、それを怠るわけにもいくまい。この行為のみが自省へと導くであろうから...

2022-06-05

"市民論" Thomas Hobbes 著

人間どもは、人間にとって神か、それとも悪魔か...
人と人とが交流すると、互いに共感し合い、共同体なるものが形成される。だが同時に、互いに似た者同士が集まると、種族と種族とを比べ、国家と国家とを比べ、そこに優越主義が棲み着き、たちまち狼に変貌する。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体には、何かと比べなければ意識すら働かせることができないのだから、それも致し方あるまい。
それにしても、人間どもの帰属意識は如何ともし難い。どんな善人でも、協調意識を煽り、同族意識を煽り、これに宗教心が絡むと、寄ってたかって自由と平等を奪い合い、残虐行為ですら平然とやってのける。どんな賢者でも、感情を理性と思い違いし、憎悪を判断力と履き違える。孤独を必要以上に恐れ、集団の中で自己存在を肥大化させる人間どもの性癖は、如何ともし難い。
そして、人間どもとは距離を置く方が合理的に見えてきますが、いかがでしょう... ホッブズ先生!

アリストテレスは、「人間はポリス的動物である」と定義した。ポリスとは、自由市民が形成する共同体のようなもの。この集団社会で問われるべきは、自由市民に適った法の在り方と、それが自由市民たちによって制定されるプロセスである。自由市民というからには、奴隷ではない。単なる奴隷の管理人でもない。自由ってやつは、なかなか手ごわい。誰もが権利として主張するだけに、余計に手ごわい。卓越した個人によって、ようやく見えてくる観念だけに、さらに手ごわい。市民全体に卓越性を求めるとは、アリストテレスも酷なことを...

トマス・ホッブズは、もう少し現実的に、自由、命令権、宗教という観点から「市民論」とやらを語ってくれる。それは、共同体の在り方を問うているようなもの。自由権の観点から、自然状態や自然法、あるいは契約の役割を論じ、命令権の観点から、国家の条件や自己存在とその防衛、あるいは、権力や権利が生じる原理を論じ、これらの正当性を、宗教、すなわち、キリスト教の教義に求めている。
まず、人間というものを問い、次に市民というものを問い、最後にキリスト教徒としてなすべき務めが叙述される。権利や正義の由来は、キリスト教の本質に基づいていると...
尚、本田裕志訳版(京都大学学術出版会)を手に取る。

ホッブズは、絶対君主権の擁護派とも言われるが、はたしてそうだろうか。確かに、権力者に強い力を与えよ... 権力を分割すべてきではない... といった記述を散見する。臣民はその権利によって暴君を殺すことができる... という誤謬から、どれだけの善人だった王の命を奪ったことかと嘆き、君主権の正当性をキリスト教の法に求め、証明までやってのける。やや強引に...
ホッブズが生きた時代は、清教徒革命、国王と議会の抗争から共和制の成立、クロムウェルの独裁、そして、王政復古に至る激動期。国王が狼とはよく言われることだが、ホッブズの眼には民衆も狼に映ったことだろう。
まず、人間社会には名誉や体面をめぐる争いがあり、内紛や戦争の種には憎悪や嫉妬が絡む。すべては、自己存在とその防衛に動機づけられる情念。理性があれば欠陥も見えてくるが、欠陥は非難の種となり、理性者の猛攻撃を受ける。彼らは、本当に理性者なのか。理性は抑圧とも相性がよく、強制執行にもつながる。
となれば、理性こそが揉め事の種か。いや、それだけではあるまい。知性もまた、相手を蔑む情念を駆り立てる。進化するためには疑問をもつことも必要だが、疑問を持てば不満も生じる。
となれば、無知の方がましか。いや、無知は無知で扇動の種となる。結局、どんな情念をもってしても、人間は揉め事がお好き!群がる習性は如何ともし難い...

「人間の心を苦悩によってさいなむことの最たるものは、あらゆる事物の不足、もしくは生存と品位を保つために必要な事物の欠乏である。そして、富というものは勤労によって調達され倹約によって守られなければならない、ということを知らぬ者はないにもかかわらず、窮乏した人々はみな、まるで私財をすり減らしたのは国の取り立てのせいであるかのように、自分の怠惰と贅沢から国家の統治へと過失を転嫁するのが常である。」

しかしながら、キリスト教の法は自然法であり、市民社会で平和を保つには自然法だけでは不十分である。無論ホッブズもそれを心得ているから、法の制定とその運営を論じている。ただ、市民論のようなものを語れば、共和制の機能性を唱えることになり、晩年は、王党派から裏切り者呼ばわれもしたようである。
国家形態は、君主制、貴族制、民主制の三つに分類できるが、権力と権利の在り方を問えば、どれも大して変わらない。仮に公明正大な君主がいれば、まったく問題なし。むしろ、民主制より機能するだろう。だが、権力ってやつは、一旦手に入れちまうと人を狂わせるもので、君主はことごとく僭主と化す。たった一人の君主でも不十分、周りが追従できる体制でなければ。となれば、理想高過ぎ感は否めない。
自然法は、民衆の合意事項ではなく理性の命令であり、なによりも自己に命令する。したがって、悪魔とは約定しないだろうし、啓示がなければ神とも約定しないだろう。こと集団社会では、理想が高すぎると暴走するもので、毒を以て毒を制すの原理が最も機能しやすい。これが権力分立の本音であろう...

道徳哲学者たちは、法の原理を倫理や道徳と結びつけて唱えてきた。自発的で自然な行為として、理性のないところに法の実践なし!と。
しかしながら、現実の法律は罰則によって機能している。自発的というよりは、受動的で、強制的で、威圧的ですらある。これに巻き込まれて、義務までも半強迫観念となる。
奴隷にも二種類あるらしい。信用されて多少の自由を享受する奴隷と、獄舎や足枷に縛られて労働を強いられる奴隷と。前者は主人に対して義務を負い、後者は義務なんぞ負う必要がないばかりか、義務なんて概念すら生じないだろう。自由市民はというと、やはり前者で、義務を負って自然法を遵守する立場。では、主人は誰だ?
自然法ってやつは、道徳法則のようなもので、これを機能させるには自分自身の持つ理性に頼ることになる。ただ、理性ってやつは脆い。実に脆い。自分の理性に自信を持った時点で、すでに理性は暴走を始めている。
しかも、理性は言葉と結びついて機能するだけに、言葉の道具にされやすい。似た用語に正義ってやつもあるが、これも扇動者の言葉の道具として悪名高い。ネット社会ともなれば、こうした言葉は気晴らしの道具とされ、言葉の嵐が吹き荒れる。
結局、神の言葉に縋るしかないってことか。しかし、神の言葉を耳にするには、資格がいるらしい。というより、神という概念を編み出したのは、人間の弱さの証しであろう...

「自然状態、すなわち統治することもされることもない人々の状態がそうであるような絶対的自由の状態とは、無政府状態であり敵対的状態であること、そのような状態を避けるための規制が自然の法であること、国家は最高命令権なしには存在することができないこと、最高命令権を保持している人々には、端的に、言いかえれば神の命令に反しないすべてのことに関して、服従しなければならないこと、これらのことは本書のここまでの部分において、合理的根拠と聖書の証言によって立証された。市民の義務の完全な認識のために欠けていることは、神の法ないし命令とは何かを知るという、この一事である。」

2022-05-29

"私の酒 「酒」と作家たち II" 浦西和彦 編

「酒と作家たち」の第一弾(前記事)では、酒にまつわる作家たちの逸話を、息子が語り、娘が語り、夫人が語り、先生と慕う人が語り、仕事仲間たちが語ってくれた。武勇伝ってやつは、なにも酒豪だけのものではない。酒に弱くても酒の勧め方の妙技が飛び出せば、一滴も飲めない下戸が酒宴に同化しちまうのも名人芸。酒の場で飲めない存在は無に等しいが、飲まずに飲み、人を飲み、場まで飲んでかかる。無を実在に変えちまう空間能力ときたら、呆気にとられるばかり...

そして、第二弾!
今度は、作家たち自身が酒哲学とやらを熱弁してやがる。酒は飲むべし、飲まれるべからず... という古びた言葉も、俗悪極まるアフォリズムとして語り継がれてきたが、真理であることに違いはあるまい。これに輪をかけて、酒は暇潰しに飲むもの... 酒について語ることは自己精神を語ること... などと能書きを垂れてやがる。
ちなみに、酒に落ちると書いて、お洒落... と能書きを垂れるバーテンダーがいる。棒が一本足らんよ...

この「酒と作家たち」シリーズは、四十年に渡って、たった一人の女性編集者の手で刊行された雑誌「酒」に掲載されたエッセイ集で、本書には 49 篇が収録される。佐々木久子の孤軍奮闘ぶりは、事務所もなく、電話もなく、文房具も机もないところから始まったとさ。西宮酒造(日本盛醸造元)の伊藤保平会長から、イキな言葉をかけられ...
「お金が無いなら、倉庫があいているから、家賃はいらないから使いなさい。そして家賃が払えるようになったら出て行きなさい...」

総合雑誌に掲載される論説などは、時代とともに色褪せてしまうものだが、こと酒の話題となると、逆に時代色が引き立ち、味わい深くなる。文章も、熟成させる方がよさそうだ。
とかくこの世は色と酒というが、酒を飲みながら仕事をやると悪行のような言われよう。罪悪感まで植えつけやがる。
しかしながら、思考を活性化させるための適量は、刺激剤になる。ブログを書く時は、きまってやる。それで筆の走りも滑らかに。筆が滑らかになるのだから、思考だって滑らかになるはず。無論、撃沈しちまっては本末転倒。ソースコードを書く時は、さすがにやらないにしても、着想の段階ではやっちまう。この手の書は、純米酒をやりながら読むと、書き手と対話しているような気分になり、独り酒の持ちがいい。文豪たちに、酔悼!

さて、落穂拾いならぬ、酔文(名文)拾いといこう...

「天地開闢以来、人智を以って考えだしたもの、古くは火から、新らしくは原水爆の儔(たぐい)に至るまで、数えきれないほど数多いなかに、自分でこしらえて置きながら、自分がとッちめられて、醜態を演ずる現象の最も著しいのが、金と酒とだ。あれば、これほど便利重宝なもののない金とはいえ、一旦ないとなったが最後、これほどまた人困らせなものもなく、一人で、二人で、家族づれの大勢で、この世におさらば、という結末へも、往々にして導かれる。... ところで酒だが、こいつもまた厄介な代物をこしらえて了ったもので、飲まれる奴ならそこらじゅうにウジョウジョいるけれど、さて飲む人間となると、めったに見かけられない。」
... 里見弴

「もう一つアタマがほしい二日酔い」
... 川上三太郎

「その薬の効用は、即ち、酔うこと。酔うことで大方の人間は疎外されていた自分をとり戻すことが出来る。忘れていた歌がよみがえり、薄れかかった郷愁が戻っても来る。まっとうな人間らしい感情で素直に人を恨んだり、殺そうと思ったり、手前を嘲けったり出来るのも酒が入れば尚だ。甚だ礼儀正しい人間でも酒をのんだらばこそ、気にくわない奴をぶんなぐりも出来ると言うものだ。」
... 石原慎太郎

「小説を書くものにとって、酒は欠かすことのできないものだという、私の主張の根拠は、酒は忘却をもたらしてくれるというところにある。」
... 野間宏

「ひと歌書き上げたあとの、反芻のときに呑む、孤独な、暗い酒ほどに美味いものを、私は知らない。歌一曲を太刀のごとく畳につきさして、世の中と対決しているような、ちょっとした緊迫感があるのだ。」
... なかにし礼

2022-05-22

"「酒」と作家たち" 浦西和彦 編

昭和の文学運動は、プロレタリア文学にしても、新興芸術派にしても、機関紙などの雑誌に結集するところから展開されたという。その風潮は戦後も続き、雑誌には何か社会を動かす力があると信じることのできた、そんな時代である。平成、令和と続くグローバルなネット社会から眺めれば、なにゆえこんな媒体に... という感は否めない。しかしながら、昭和を生きた酔いどれ天の邪鬼の眼で大正から明治へ遡ると、骨董品のような古臭さを感じながらも文豪たる生き様に魅せられちまう。令和を生きる人も、昭和の文豪たちに文学たる何かを求めたりするのではあるまいか。酒は年月が経つほど味わい深くなるというが、文豪たちが放つ色彩にもそうしたものを感じる、今日このごろであった...


1955年、株式新聞社から「酒」という雑誌が創刊されたそうな。その頃、佐々木久子が入社したが、赤字のため一年で廃刊となり、彼女も解雇されたという。まだ戦争の余韻が冷めやまぬ時代、国民生活も貧しく、酒の雑誌なんぞを読む余裕のある人が少なかったと見える。
そこに、火野葦平の言葉「死ぬまで原稿を書いてあげるから」。このひと言に奮起した佐々木久子は、1997年まで独力で刊行し続けたという。
本書には、この雑誌に掲載された作家たちの酒縁(酒宴)が、三十八篇も収録される。


私小説がもてはやされた時代、小説家というのは、酒にだらしなく、性にだらしなく、金にだらしなく... そんな芸術家像を思い浮かべる。それも、身を削る思いで自己を曝け出した結果であり、小説家が特別というわけではあるまい。巷には、酒に逃げずにはいられない人生や酒に溺れる人生に溢れ、酒に命を奪われる人生だってある。
ただ、言葉を生きる糧にする芸術家だからこそ、余計に感じ入るものがあるのだろう。入水心中があれば、ピロポン中かアル中かも見分けられない死に様あり、陽気な酒豪が睡眠薬自殺をしたり、文壇には破滅型人間で溢れている。遺書には「将来に対する唯ぼんやりした不安」やら、「漠然とある不安のため」といったものも見かける。自我の征服に失敗すれば、その存在すら許せなくなるのだろうか...


「酒は人間と同じやうに、醜悪で動物的である。酒は人間と同じやうに、無邪気で天真爛漫である。すべてに於て『酒は人間そのものに外ならぬ』(ボードレール)それ故にこそ、人間性の本然を嫌ふ基督教が、酒を悪魔の贈物だと言ふのである。」
... 萩原朔太郎


一方で、執念で酒人生を全うした小説家たち...
酒の上で決して矩を超えない亀井勝一郎に、じっくり延々と飲み続ける横綱級の井上靖に、酒鬼!梅崎春生に... と。彼らは酒が好きなのか、酔うのが好きなのか。銀座のクラブで知的な話術でホステスたちを惹きつける高見順がローソク病を熱弁すれば、君に酔うのが好きなんだよ!なんて台詞も聞こえてきそうな...


「俺が酒を呑むのは、経済的スリラーを忘れるためや。寝るときも大コップ一杯のウィスキーを呑む。それで寝られんなんだら朝まで起きてな、しゃあない」
... 富士正晴


雑誌のタイトルからして、酒豪の武勇伝ばかりかと思いきや、まったく逆の下戸の逸話も...
川端康成は、一滴も酒が飲めないのに、酒席を楽しむ様は名人芸であったとか。大宅壮一も大変な下戸だったらしいが、夫人の方はイケる口らしい。漱石の芸ともなると、体質的にアルコールを受け付けなかっただけではモノ足らず、「吾輩は猫である」の猫がビールに酔って水甕に落ちてお陀仏ときた。彼の筆の酔いっぷりときたら...
酒を飲むとインスピレーションが湧くかもしれんが、それで文章が光彩を放つわけではあるまい。とはいえ、酒が飲めなくても、酒に関わることで筆の走りがよくなるということは、ありそうな話である。


ちなみに、亀井家の新年会では、太宰一派が猛威を振るったそうな...
「まだ日の暮れないうちから酒宴がはじまったが、いち早く集まってくるのが、太宰さんのまわりにいた人たち。つまり太宰の残党である。この一派は、酒が滅法強い。そして酔うほどに、話題はきまって太宰治である。太宰以外に、文学もなければ文学者もいない、といった勢いである。これでは、まるで太宰家の新年宴会である。... そしてたがいに酔うほどに、喧嘩口論がしばしば起こる。喧嘩をしかけるのは、きまって太宰一派。なにしろこの人たちは、太宰を自分の占有物と心得ているから、一派でもない評論家や作家の口から、太宰、という言葉が出るやいなや、きっとなって気色ばんでくる。ましてや、彼らが信奉している太宰論、太宰像と少しでも違った意見が出ると、猛烈に襲いかかる。こういうとき、亀井さんは決して止め男や裁き役にはならない。なるがままに委せて、ご自分はふだんどおりニコニコしているだけである。」