2015-09-27

"魚道(さかなどう) 海の四季" 水谷修 + 鈴木一人 著

本屋を散歩していると、奇妙な組み合わせを見つけた。夜回り先生(水谷修) + 葉山「稲穂」の大将(鈴木一人)。二人は、海から命をいただく気持ちを大切にしたいと熱く語る。なるほど、鮨で語る人生論であったか...
「旬にきちんと食すことは、食されるいのちへの最低限の敬意!」
養殖や空輸など食の保存技術が進歩し、一年を通して好きなものが食べられるとは、なんと贅沢な時代であろう。その分、食材が回転寿司のように年中回り、季節を感じられなくなる。便利な世の中が、旬を味わうという贅沢な食感までも鈍らせるとは。おまけに、クロマグロがレッドリストに指定され、乱獲、乱食に警鐘を鳴らす。自然と向き合った食の在り方とは、いかなるものであろうか...

海の季節を感じたければ、寿司屋がうってつけであろう。寿司屋やバーに行付けの店をつくるのは、そこに技術屋魂を感じるからである。哲学をともなわない技術は、陳腐なものとなろう。彼らのこだわりは、同じ技術者として学ぶべきものが多い。寿司職人は、新鮮さと天然もので自然の味わい方を教え、バーテンダーは、カクテルを作る技よりも、酒の本来の姿を見極める目を養わせる。
どちらの職人も、食材の発酵や腐敗と戦っている。物理現象として眺めれば、微生物の作用で有機化合物を酸化させることでは同じだ。しかしながら、身体にとって有害か無害かの見極めは至難の業。ひらたく言えば、ほどよく腐らせる技術である。発酵技術をうまく利用すれば、野菜は漬物になり、身が柔らかくなり甘みが出るのも道理である。鮨ネタでは、少し寝かせることによって甘みを醸し出し、酒では、熟成の仕方によって酔い方を演出する。
「寿司屋と板前を作るのは、客だよ。江戸前の本当の鮨を知っている客が、カウンターに座れば、こっちも勝負したくなる。... でもな、鮨のことを何もわからず、ましてや勉強したいと思っていない客では、ただ、腹を一杯にするためだけに、酒のつまみにしたいだけに来る客では、こっちも気合も何も入らない。寿司屋と板前を、活かすも殺すも、客次第だよ!」

寿司屋に入ると、まずネタケースを見聞し、大将のお薦めに従って本日の戦略を練る。淡泊な白身から始まって、徐々に味の濃いものへ移り、そして、湯引きした穴子のタレと塩の両方を頂いて、お吸い物で締める。お吸い物の代わりに、茶碗蒸もなかなか。これがおいらのパターンだ。寿司屋だからといって、握りばかりを食べる場所だとは思わない。土瓶蒸し、アワビのバター焼き、アゲマキ焼き、白子をボイルしてポン酢、トロのあぶりなどがお気に入り。たまーに、天ぷら会食もいい。季節やその日のタイミングで作れないこともあるので、行く時は前もって宣言する。
ほとんどお任せだが、いつも言いなりになるのも癪だ。こんなもの作れるの?と挑発すると、なんでも作れるわい!と大将も負けん気が強いから思う壺よ。逆に、これ食ってみな!と、勝手に作り始めることもしばしば。在庫処分か?向こうも思う壺よ、と思っているかもしれん。ちなみに、行付けの寿司屋の大将のポリシーは、心を握ります!だそうな。聞いてるこっちの方が恥ずかしくなる...

1. 海の四季
海の中の四季は、地上の四季よりだいたい一ヶ月程度遅れて来るそうな。地上で春一番が吹き荒れ、三寒四温を繰り返し、桜の開花で春爛漫となる頃、海ではちょうど春が始まるという。ワカメ、カジメ、ヒジキなどの多くの海藻が温かい海水で一斉に成長を始め、鯛や鮃などが岸辺に集まって産卵を始める。季節風のごとく黒潮が日本列島沿岸を北上すると、それに乗って鰹がやってくる。磯では栄螺や鮑が成長し、海のギャングこと蛸が貝類を漁る。
梅雨から夏は、魚たちの成長期。雨が山からたくさんの有機物を川から海へ運ぶ。それを餌とする植物性プランクトンが増え、これを食べる動物性プランクトンが増え、それを餌とする小さな魚が増え、その魚を餌とする大きな魚が増え... などと食の連鎖。
秋風が立つ頃、黒潮の北上が止まり、魚たちは一斉に南へ戻り始める。冬の季節風のごとく親潮や千島海流が南下し、冷たい海で生きる鮭が海流に乗って、産卵のために河川へ向かう。これにともなって鱈や鰊、そして秋といえば秋刀魚、彼らも群れをなして南下する。
冬は地上同様、魚たちにとっても我慢の季節。温かい時期に脂肪を蓄え、じっと春を待つ。
海の幸は、島国にとって宝だ。縄文時代のゴミ捨て場は貝塚と呼ばれ、その地名は日本列島に点在する。昔は、家庭で魚を捌くのをよく見かけたものだが、今ではスーパーで切り身や刺し身がそのまま手に入る。きれいに切り揃え、骨抜きまでしてくれるのは、独身貴族にはありがたい。
それにしても、連鎖の下部にいる弱い生き物ほど数が多いとは、うまいことできている。自然界のバランス感覚に驚嘆せずにはいられない。このバランスの最大の破壊者として君臨するのが人間だ。彼らは食すだけでなく、海洋汚染まで仕掛けてくる。鯛、鮃、魬、鰤、鯵などがほとんど養殖されれば、天然モノがもてはやされる。人工的な社会は、ますます自然を懐かしくさせる。いや、懐かしもうにも、もはや自然の姿が思い出せない。いずれ遺伝子工学の発達によって、天然モノの人間が馬鹿にされるようになるのだろうか...

2. 鯛は本当に旨いのか?
鮨の世界では、王様が鮪なら、女王は鯛とされるそうな。腐っても鯛... 海老で鯛を釣る... などと言うし、めでたい... などと語呂合わせで縁起物にされる。桜鯛などと風流な名前をつければ、春の贅沢品の座を欲しいまま。しかし、鯛をそれほど旨いと思ったことがない。
本書も、真鯛は3月から6月に産卵の季節を迎え、産卵を終えた魚はガリガリに痩せていて、美味しいわけがないという。産卵の時期に乱獲することに問題があるらしい。鯛の旬は、厳しい冬を乗り切るために、たくさんの脂肪をつけた秋口から冬にかけてだという。

3. 夏の風物
京都では、夏の鱧(はも)が珍重されるそうな。梅雨の終わり、祗園で祭り囃子が街角に響き渡るころ、魚屋、寿司屋、割烹、料亭に鱧が並ぶという。鱧の湯引き、天ぷら、照り焼き、さらに、鱧しゃぶなんて聞くと、ヨダレがでてくる。
しかし、鱧もまた夏が産卵期で、味が落ちるのでは?鱧は生命力が強く、海から揚げても、相当長い時間生きているという。内陸部の京都で、魚の傷みやすい夏に、淡泊な魚を味わうには、鱧ぐらいしかなかったようである。
また、夏の白身は板前泣かせだそうな。くそ暑い夏はあっさりした物を欲し、白身が好まれる。なにしろ冷凍、冷蔵がきかない。鯛、鮃、鰈などは鮪や鰹と違って、冷凍したものは刺し身として使い物にならないという。しかも、活け締めで、きちんと血抜きをしないと、すぐに身に血が回ってしまい、身が緩み、血の匂いがついてしまうとか。
季節によって美味い不味いが、白身魚ほどはっきりするものはないという。特に春から夏、産卵前後の白身魚は、とても寿司屋では扱えるものではないらしい。この時期に、いかに美味い白身魚を出すかが、板前の腕の見せどころだそうな。
ただ、この時期にも、白身で淡泊な魚はきちんとある。鱚(キス)がその代表で、青物とか光物と呼ばれる。真子鰈も、夏の最高のネタの一つだという。鰶(このしろ)の子供の小鰭(こはだ)や新子は、まさにこの時期が旬だとか。んー... この時期の酢締めもたまらん。

4. 東西の食感の違い
河豚の出し方は、関西と関東で違うそうな。西では、活けからすぐに捌き、締めたばかりのコリコリ感を料理する。東では、捌いた後、甘みを引き出すために、一日から二日寝かせるという。江戸前職人のこだわりは、そのまま手をかけずに出すことはあまりないようである。鯵は塩で締めて、鮃は昆布で締めて、鯛は湯引きなど、何かと手間をかけるという。河豚に限らず、あらゆる魚で、なんらかの手を加えるのが関東風というわけか。西側の薄味と、東側の濃い味の違いも、このあたりからきているのかもしれん。
昔々、獲れたての魚を出すことができなかった地域では、食材を寝かせる技術を発達させてきたのだろう。とはいえ、地元の隣町、下関が河豚の名産であり、獲れたての感覚に慣れていると、寝かせるのはもったいない気もする。
また、肝を食べるなら河豚よりも、生なら皮剥の肝、煮付けなら鰈や鮟鱇の肝の方がはるかに旨いという。河豚の肝は命をかけるほどのものではないらしい。
鮃や鰈などの白身魚を、ポン酢に紅葉おろしで食べる。これもなかなかだと思うが、白身魚の味を殺しているという。新鮮な白身魚、特に河豚は、本山葵とむらさきで、是非楽しんでください!と。なるほど...
ちなみに、むらさきとは寿司用語で醤油のこと。行付けの店の名も「紫」だが、通称ディープ・パープルで親しんでいる。
醤油の味にも東西で好みが分かれ、時々出張で来る人と議論する。関西は甘め。著者のお二方も関東人で、特に九州の甘みが苦手だと語る。いずれにせよ、幼い頃が慣れ親しんできた地元の味というものは、忘れられるものではあるまい。それは、ラーメンやうどんのスープの味にも反映される。食感に限らず、五感には精神の落ち着く場所というものがありそうだ。

5. 巻物のこだわり
干瓢巻きは、板前にとって一番むずかしい巻物だという。そして、二通りの食べ方があるとか。きちんと簀巻きで巻いてもらって、まずは半分そのまま海苔のパリッとした食感を味わう。そして、もう半分は20分ぐらい置いて食べる。すると、海苔がしゃりと溶け合って、違った風味が出るとか。板前は、この二つの食べ方を考えながら作っているという。
そういえば、干瓢巻きではないが、行付けの寿司屋で手巻きを出す時、寿司下駄に置いてくれればいいものを、直接手渡される。すぐ食べろ!と言わんばかりに。何かこだわりでもあるのか?今度、干瓢巻きと合わせて、大将を挑発してみよう...

6. 玉子焼きのこだわり
玉子焼きには二種類あるという。一つは本焼きと呼ばれ、卵に芝海老や白身のすり身を入れて、砂糖や塩、酒で味付けして焼き上げる。厚さが薄くなることから薄焼きとも呼ばれる。もう一つは、卵に出汁を入れ、味をつけてやきあげた、だし巻き。ほとんどの寿司屋で、だし巻きが出されるようだ。本焼きが廃れたのは、手間がかかりすぎるからだそうな。
行付けの寿司屋も、だし巻きがあるが、これがなかなか旨く、家庭では出せない味である。薦められることはないのだが、ちょっと一服のタイミングで、つまみに頂くのが習慣になっている。

7. しゃりのこだわり
目の前に座る客を見て、しゃりの握り方を変えるのが本物だそうな。客は、つい寿司ネタに目がいく。しかし、一番多く食べているのは、しゃりだ。いつも握る姿を見ては、その優しい手つきに感心するのだけど...
箸で食べる客には、むらさきにつけて口に運ぶときに壊れないように、少し強く握るという。手で食べる客には、その客の鮨の持ち方で握り方を変えるという。また、女性男性、年齢や入れ歯、出身や仕事、口の大きさや空腹かどうかでも、握り方を変えるのだとか。ネタを切る大きさも合わせて。
すべての握りは、しゃりで決まる!とはよく聞くが、しゃりに手を加えれば騙すこともできる。不味いネタを美味いと思わせるのが板前の技術だとすれば、バーテンダーが不味い酒をカクテルで誤魔化すようなものか。
所詮、しゃりは裏方。だが、米ほど一年を通じて、味が変わるものはないという。鮨には、水分が多い米質は合わない。新米が旨いとはいえ、やや水分が多く、鮨にはちと向かない。日本では、コシヒカリが米の王様のように言われるが、こうした含有水分の多い米では鮨に向かないそうな。含有水分の少ないササニシキが、鮨の王道だという。だが、ササニシキは背の高く成長する米で、すぐに台風で倒れてしまい、手に入れることが難しいらしい。
しゃりの味を安定させるために、いかに板前が苦労しているかを客は知らない。これも、大将の挑発ネタとして使えそうだ...

8. 店のこだわり
「あるお客様が、自慢そうに言っていたのですが、そのお客様が東京の有名な寿司屋に入ると、出される魚は、ネタケースの中のものではなくて、冷蔵庫の中のものを特別に引いてくれる。自分は、その寿司屋に大切にされているんだと言いたくて、このような話をされたのでしょうが、これは言語道断です。これをやってしまったら、その寿司屋の信用はなくなってしまいます。」
常連客を大切にしたい気持ちは分かるが、店の客は平等に扱うべきだという。客を大切にすることは難しい。客を選べる立場でもなかろうし。そのために、グルメ雑誌などに掲載されることを嫌う店も見かける。個人的には、行付けの店はいつまでも隠れ家のような存在であってほしい...

2015-09-20

"作家の食と酒と" 重金敦之 著

あらゆる文化は大衆化すると質の低下をもたらすが、飲食文化は違うらしい。芸術の材料がふんだんに鏤められると、作家たちは食卓の行儀作法よりも、美味く食すための段取りにうるさい。食通でもなく、美食家というほどではないにせよ、そこに独特の美学を抱く才は一流ときた。能書きを垂れるのも、一つの作法というわけだ。なるほど、文章術とは、食への執着、酒へのこだわりから生まれるものであったか。こだわりとは難癖をつけることであったか。含蓄とはウンチクの類いであったか...
「酒は百薬の長」というが、「酒は百毒の長」とも言う。大食短命を説く言葉を聞いても、大食漢を賛美する言葉はあまり聞かない。食や酒を満喫しながら、いかにおおらかに生きるか... これは、なかなかの難題だ!今宵は、芸術家たちの飲食哲学を堪能しつつ、濁り酒をやりながら茶化すとしよう...

魚料理に癖と臭みはつきもの。それは持って生まれた食材の個性であり、身体に害を及ぼさない限り、癖も味わいたい。しょうがや酢味噌の味ばかりが口に残り、何の魚だったか分からなくなることも、しばしばあるのだから...
人間にも癖がある。それが個性であり、持ち味であり、魅力でもある。ただ、才能豊かな人は、自分の個性が手に負えないということもあろう。世間の枠組みからはみ出すぐらいでなければ、芸術は生まれない。人格円満にして当たり障りのない聖人君子に、小説や随筆なんぞ書けるはずもない。ましてや、幸福な人間に。作家とは、自分の不幸を舐めるように愛しながら書く、そのような境地で生きている人種であろうか。
「嘘を書く」といえば聞こえが悪いが、「演出する」といえば聞こえがいい。食生活の中にもちょっとした演出を仕掛け、五感を総動員しながら食の愉悦を物語る。行間の隙間から粘性に満ちた心理描写、彼らの感受性は日常の何気ない出来事ですら敏感に、しかもディープに反応するだけに、精神を病むこともあろう。何を見ても面白がるという性癖は、ある種の職業病にも映る。
自我を狂わせるほどの執筆エネルギーは、どこからくるのか?小説というものは、恨みや反骨精神だけで書けるものなのか?彼らは、どこかに人間嫌いな側面と社会への反発心を覗かせる。社交的な人間嫌いでもなければ、世間の激流を生きては行けまい。凡人は目の前の幸せにも気づかないものだが、その分、不幸にも気づかなければ同じことかもしれん...

1. 松本清張伝
著者は、ジャーナリズムの基本は知的好奇心にあるとジャーナリズム論を講義したところ、なかなか理解されないと嘆く。
「いささか不謹慎ではあるが、ジャーナリストは戦争でも災害でも、ある意味で面白がっているところがある。」
面白がる対象は、それこそ森羅万象。作家とは、面白がる部分を書き終えると、その作品には興味がなくなってしまい、すぐに次の題材に気移りするものらしい。凡庸な酔いどれですら、仕事の終盤が見えてくると、ホッとして次の興味へ向かう。
その意味で、清張作品の結末は「技巧的な突き放し」であるとか、「判断を読者に委ねている」といった感があるという。あるいは、「新たな迷宮を作り出す」一方で「豊かな余韻を楽しめる」といった読後感もあると。
また、小説にはリアリティが重要だと、しつこく言っていたそうな。小説のリアリティとは生活感のことか。
「人間の内面の思索をあれこれ書くよりも、ちょっとした運命のいたずらによって逆境に立たされる苦悩や冷酷な組織の論理に翻弄される人間の恨みを好んで書いた。現実味のある動機を重視した結果、登場人物の存在を身近なものにした、とは多くの人が指摘するところだ。」
その反面、他人の栄誉や栄達には冷たく、納税額でもライバル意識を燃やしたという。82歳を過ぎても現役で、週刊誌に小説を二本も連載するとは前代未聞。嫉妬心が飽くなき挑戦意欲を掻き立て、生涯を通して小説家の緊張感を持続させたようである。芸術とは、個性を存分に体現する場であり、こだわりとは、ある種のわがままである。そして、嫉妬心をロマンティシズムに変えるのも、小説家の資質であろうか...
「他人の幸福を、自分の幸福に置きかえる余裕や度量よりも、そねみとひがみが伏流し、安穏とか愉悦とかいうことと生涯、無縁であった。そういう意味では人生をきわめて不器用、訥直(とっちょく)に送られたのだと思う。」

2. 長寿の秘訣???
日本画家、横山大観は日本酒好きで有名だそうな。広島県三原市の名酒「醉心」を好み、91歳まで飲み続けたという。「絵を描くのも、酒を造るのも芸術だ!」と熱弁をふるう酒豪ぶり。
一方、まったく酒が飲めずに長生きした文人が、小島政二郎だという。その分、食通だったらしい。老舗菓子屋「鶴屋八幡」のPR誌「あまカラ」に連載したエッセイ「食いしん坊」には、自分の下戸ぶりを書いているとか。
「悲しいことを言うようだが、私くらいの年配になると、もうあと幾度晩飯をおいしく食べる機会があるか知れたものだ。だから、日に一回の晩飯だけは、何かうまいものが食べたい。」
これは60歳頃の文章だそうだが、それから十年後、30歳も若い伴侶を得て、百歳の長寿をまっとうする。文豪ゲーテも、70代で二十歳前の娘に求婚した。やはり長寿の秘訣は、恋でしょうか!
内田百閒は、小学校に入る前から煙草を吸い、好きなビールとなると半ダースは飲み、それでいて83歳まで生きたという。漱石を敬愛し、芥川とも交流があったようで、その評価は様々で、大文章家から大酒豪、吝嗇漢、借金魔、大変人など毀誉褒貶が著しいとか。そして、この記述こそ酒道というものか。
「強い酒を飲んで酔ふのは外道である。清酒や麦酒なら酔つてもそれ程の事はない。しかしお酒にしろ麦酒にしろ、飲めば矢張り酔ふ。酔ふのはいい心持だが、酔つてしまつた後はつまらない。飲んでゐて次第に酔つて来るその移り変はりが一番大切な味はひである。」
このように長寿をまっとうする作家がいる一方で、「全日記 小津安二郎」には、こんな記述がある。
「酒はほどほど 仕事もほどほど 余命いくばくもなしと知るべし 酒ハ緩慢なる自殺と知るべし」

3. 美の気品とは
挿絵画家、風間完の人物画には、美の気品のようなものを感じ、なんとなく癒やされる。本書は、彼の印象を漢字にすると「飄」の字を選ぶと語り、さわやかな気風の持ち主であったと評している。画家ではなく、挿絵画家と称されることにまったく屈託がなかったといえば嘘になろうか。実際、清潔感と美意識は挿絵の域を超え、日本画という言うべき気品を漂わせている。瀬戸内寂聴は、風景画からは「街角の匂いが漂い、立ち話している人の会話が聞こえてくる」といい、人物画については、こう語ったという。
「女性の体臭や肌のぬくもり、手足の冷えまで伝わってくるけど、清潔だからいいのよ。それが本当のエロティズムなの。」

4. 祗園に夢をはせて
日本の料亭文化は、色町の伎芸とともに発展してきた、世界でも稀有な特徴を持っているという。色町といえば京の祗園、「お茶屋」という上品な響きにイチコロよ。生涯で一度、お座敷遊びをしてみたいと夢見ている。
「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」とは、山口素堂の句。目には青葉が広がり、耳には山ほととぎすの声、口には新鮮な鰹を味わう... とは、まさに五感の愉悦を堪能する贅沢。目の前に淑やかな女性がいて、気品ある談笑付きとなれば、食のエロティズムを堪能できるであろう。
一介のサラリーマンでも身元さえはっきりしていれば、気楽にお茶屋に上がれるのが祗園の一筋縄ではいかない魅力だそうな。その寛容さは、どこからくるのだろうか?祗園町は女系家族で、夫以外の子供を産んでも是認する風土があるという。乱暴に言えば、父親の存在はどうでもいい。それは、性道徳や家族意識が乱脈だという意味ではなく、伝統的に女性中心の社会だということ。父親の名前をあからさまにできない女性がいるのも珍しくない。また分かったからといって吹聴するようなこともしない。これが、祗園の仕来りだそうな。早くから女性の自立が植え付けられ、むしろ進んだ社会とうわけか。世間の常識や道徳の規範から多少ずれていても、それを許容する寛大な空気が漂っているのが祗園という町だそうな。
渡辺淳一の小説「化粧」に登場する頼子と里子のイメージは、まさに祗園。性愛文学の原点は京にあったか。彼の持論では、結婚、出産、離婚を経験するのが、女のフルコースだという。世間で負け組と呼ばれる人も、祗園ではカテゴリーが逆転する。
では、男のフルコースはなんであろうか?破産、失業、三行半を喰らう... やはり男は役立たず。そりゃ男性社会でもなければ、生きてはいけんよ...

5. カレーライスとライスカレー
カレーライスとライスカレーの違いとは何か?こんな話題が小学校時代にあったような気がする。古典的な説では、ご飯とカレーが別々に出されるものがカレーライス、ご飯の上にカレーをかけて出されるものがライスカレーとされる。対して、向田邦子は、金を払って外で食べるのがカレーライス、自分の家で食べるのがライスカレーと定義したという。なるほど、生活感が出ている。向田説に一票入れとこう...

6. スローフードとファーストフード
「ミスター円」こと榊原英資の著書「食がわかれば世界経済がわかる」には、こう書かれているそうな。
「世界主要国の食の形態を見ると、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどは食を資源と捉え、日本、中国、フランス、イタリアなどは文化と考えてきた。前者は食の工業化を推進し、ファーストフードを生み出した。」
世界に広まるスローフードとは、ファーストフードのような合理的なものに対抗して、地方の食文化や食材を見直す運動である。日本では「食育」という用語があって、明治時代に村井弦斎が既に用いているという。だが、こうした耳障りのよい運動も、すぐに企業や政治と結託して逞しい商魂を見せる。本書は、その貪欲さを見直すのも、スローフード運動の精神ではないか、と疑問を呈する。
ちなみに、宮本徳蔵の著書「たべもの快楽帖」には、ボストン名物のロブスターを食した体験から、「アメリカ人は胃袋で味わい、日本人は舌先で味わう」と説いているという。なかなかの達識だ。

7. 秋の季語「ボジョレー・ヌーボー」
毎年11月になると、夜の社交場方面から「ワインと紅葉の夕べ」と題して案内状が届く。そう、ボジョレー・ヌーボー解禁日だ。だが、おいらには場違いなイベントである。なにしろワインの味がわからない。一杯何万円もするワインを飲ませてもらったことがあるが、確かに風味も上品で美味い!しかし、どうしても値段ほどの価値がわからない。その代わり、夏の季語「浴衣祭」の出席は欠かさぬよう釘を刺されている。

8. 行付けと隠れ家
誰にでも、行付けの店や馴染みの店が一つや二つはあろう。なんとなく波長の合う場所と言った方がいい。飲み食いする店だけでなく、本屋、食料品店、薬局、病院など。
場所に限らず道順にも癖が現れ、どこに行こうかと考えているうちに、いつの間にか同じ店へと足が向く。注文する品まで一緒だったりして... いつものやつ!こうした行動パターンにも、ある種の美学が隠れている。慣習とは、ある種のこだわりであったか。
そこで、贔屓の店にはあまり有名になってもらいたくない。いつまでも隠れ家のままでいてほしい。大衆の眼に晒すことで、店のコンセプトが壊れることもあろう。常連さんを大切にするために、わざと宣伝しない店も少なくなく、ミシュランガイドへの掲載を断る店もあると聞く。

2015-09-13

項目の開閉を HTML タグだけで制御、ついでに onmouse ハンドラを試す

これは備忘録である。お歳ですねぇ... と、からかわれ始めて久しい今日この頃であった。はぁ...
さて、全記事数が、500 に達し、Site Map の見た目が鬱陶しい!そこで、ラベル毎に開いたり、閉じたりできるようにした。

方針は...
  1. JavaScript などを使わず、HTML だけで記述し、一つの投稿内で完結する。
  2. テンプレートを変更したくないので、css はインラインに置く。
  3. 具体的には、onclick イベントハンドラで項目内の表示/非表示を切り替える。
    尚、onmouseover/onmouseout という属性を知り、これがなかなかいい!勧告バージョンが、HTML4.01 というのもありがたい。

コードの流れは...
  1. onclick で、id="xxx" で指定した部分を取得し、オブジェクトの display 状態を判定して、block/none を切り替える。
  2. マウスカーソルのスタイルを、pointer に指定し、イベントハンドラを記述する。
    尚、イベントは over -> out の順に発生するので、onmouseover/onmouseout をセットで記述する必要有り。
  3. 開閉部分 id="xxx" を指定する。
    尚、表示/非表示の最初の状態は、display で指定。
    表示の場合、display:block; 非表示の場合、display:none;

<div onclick="obj=document.getElementById('xxx').style;
obj.display=(obj.display=='none')?'block':'none';">

<span style="cursor:pointer;
margin:5px; padding:3px; display:block; width:240px; text-align:left;
background-color:#eee; box-shadow:2px 2px 2px 2px #555;"
onmouseover="this.style.backgroundColor='#ccc'"
onmouseout="this.style.backgroundColor='#eee'"
>項目</span>
</div>

<div id="xxx" style="display:none; clear:both;">
<p>リストの内容</p>
</div>

そして、これがサンプル...

b.読書:数学
  1. 2014-08-10 "数学と論理をめぐる不思議な冒険" Joseph Mazur 著
  2. 2014-08-03 "連分数のふしぎ" 木村俊一 著
  3. 2014-06-29 "数について" Richard Dedekind 著
  4. 2014-06-22 "ピタゴラスの定理" Eli Maor 著
  5. 2014-06-15 "天秤の魔術師 アルキメデスの数学 " 林栄治, 斎藤憲 著
j.読書:文学
m.読書:政治

2015-09-06

ルータのグレードアップ RT107e から RTX810 へ

JCOM さんから増速のお知らせがきた。... 2015.7.31
下り 160Mbps から 320Mbps へ。上り 10Mbps は変更なし。利用料金の変更なし。
尚、うちの場合、モデム交換は不要とのこと。今どきの機器にしては熱を持ちすぎる感があるので、できれば交換してもらいたいが、まぁいいや...
てなわけで、我が家のルータ Yamaha RT107e では性能不足のため、こいつを購入した。

  Yamaha RTX810 : 43,260円




1. 構成は...

  NETGEAR CG3000D      : ISPモデム(ルータ), ブリッジモードで使用
  + Yamaha RTX810      : ルータ, DHCP, VPN
  + corega CO-BSW08GTX : Gigaスイッチングハブ
  + NEC Aterm WG300HP  : 無線アクセスポイント
# LANケーブルも CAT5e から、CAT6a(ELECOM LD-GFAT/BM*)に変更

2. 速度は... まぁまぁ!
コース名から、ウルトラ!という大袈裟なネーミングは消えたようである。しかし、品質はかなり改善されたようだ。160M の時は、80Mbps を上回る程度で、せいぜい 60% であった(ルータスルー測定時)。320M では、DLサイトによっては 約290Mbps の値を示し、90% に達する。ダウンロード時間に1時間以上要していたものが、30分未満になったことはありがたい。ただし、ネットサーフィンをやる分には、体感スピードはほとんど変わらない。
尚、RTX810 に付属されるケーブルは CAT5e で、CAT6a に換えても誤差程度の違い。
また、Win7(64bit) では素直に速度が出ないので、TCP Optimizer でカスタマイズすると改善された。
  http://www.speedguide.net/downloads.php

参考までに...
BNR Speed Test の結果を示す。尚、他の測定サイトでも同等の値が得られる。

------ BNRスピードテスト (ダウンロード速度) ------
測定サイト: http://www.musen-lan.com/speed/ Ver5.6001
測定日時: 2015/08/20 11:04:45
--------------------------------------------------
1.NTTPC(WebARENA)1: 218.83Mbps (27.35MB/sec)
2.NTTPC(WebARENA)2: 266.12Mbps (33.25MB/sec)
推定転送速度: 266.12Mbps (33.25MB/sec)
--------------------------------------------------

3. 余談...
思えば、随分と贅沢な環境に慣らされてきたものだ。おいらが初めて通信に触れたのは、1200ボーの時代。インターネットという用語すらなかった。ボーなんて変調レートから眺める単位は、もう死語であろうか。とはいえ、設計者の立場では、単純なビットレートだけでなく、変調レートという視点も必要な場合がある。
はじめて Web を閲覧したのは、二十年以上前になろうか。ディスプレイ上に一枚の絵が、ゆっくり上から下へスキャンするように出現する様に興奮したのを覚えている。Netscape の前身 NCSA が開発した Mosaic というブラウザは、アダルト向け画像のモザイクを解除してくれるものと勘違いしたものである。
さて、いくら技術が進歩したとはいえ、TCP/IP の基本技術があまり変わっていないのも事実。プロトコルの勉強を一からやり直すのも、乙かもしれない。... などと思いつつ、本棚で分厚い顔をした「マスタリングTCP/IP 応用編」と目が合うものの、どうも気分が乗らない。こいつに出会ってから二十年近くになるが、辞書代わりにするぐらいで、まだ一度も読み通したことがない。そんな気力も失せたとなれば、そろそろ引退するべきであろうか。なぁーに、心配はいらない。すでに引退勧告を暗示されているではないか...