2016-12-25

"自然界の秘められたデザイン - 雪の結晶はなぜ六角形なのか?" Ian Stewart 著

原題に、"What Shape is a Snow Flake? : Magic Numbers in Nature..." とあるように、この物語の主役は雪である。イアン・スチュアートは、雪薄片ができる過程に根源的な自然法則を追い求める。副次的なモチーフでは、砂丘や波、貝殻の構造、植物の成長パターン、動物の模様などを持ち出し、さらに、DNA、素粒子、ビックバンにまで及ぶ。科学を外観していく道標は、螺旋の渦に引き込まれるがごとく... それは、単純化からカオスへ、さらにはフラクタルな世界へいざなう数学の旅としておこうか...
規則性と不規則性、秩序と無秩序、意味ある単純さと無意味な乱雑さ... こうした関係は相性が悪そうだ。しかし、ちょいと見方を変えると、こいつらが調和しているように見えてくるから自然ってやつは偉大である。それは、二つの対称性を暗示している。普遍性と多様性という名の...
「降りしきる雪の結晶を顕微鏡で覗いてみると、みな同じようでありながら、それでいてどれとして同じものはない。正六角形のようにも見えるが、よく眺めると木の枝のように複雑だ。単純な規則に支配されているように思えるのに、無限の多様性と複雑さを秘めた雪の結晶の美しさは、どうして生まれるのだろうか?」

科学には、一つの宗教原理がある。それは、どんな複雑な現象にも必ず根本的な法則が潜んでいるはずだ!という信念だ。ポール・ディラックは言った...神は数学者である... と。単純化された物理法則は、数学の美を醸し出す。その美は、対称性が内包されてはじめて感じられるものだ。
しかしながら、物理学者たちは言う... 宇宙は対称性の破れから生まれた... と。だとすると、宇宙の住人が対称性の失われた物理現象に度々出くわすのは、むしろ道理であろうか。ある物理現象に対して厳密な方程式が提示できれば、明解な予測パターンが決定できる、と誰でも考える。だが、カオスが提起する問いかけは予測過程そのものにあり、現実に、規則が単純でも予測の難しいものがある。例えば、サイコロがそれだ。ある大科学者は言った... 神はサイコロを振らない... と。酔いどれ天邪鬼には、神ほどギャンブル好きはいないように見える。実際、あらゆる選択は確率で決定されているではないか。歴史にせよ、進化にせよ、人生にせよ。人間の存在目的は何か?それは神の意志か?などと問うても答えられるはずもない。そもそも自分自身が、どこへ向かっているのかも分からないでいる...
「今日でさえ、自然法則の最新版が真実だと思いこんでいる物理学者は多い。過去の試みはおおよそのことしかとらえられなかったけど、今あるものは何の誤りもないのだと。彼らのいうとおりなのかもしれない。だが、歴史を振り返ればそうではないことが垣間見えてくる。」

人間は、何かの存在を認めた時、そこに合目的なるものを求めてやまない。神は無駄が大っ嫌いなはずだ!と。そして、自分自身を意味ある存在だと信じずにはいられない。それは、自己存在に自信が持てないことの裏返しであろうか...
人間がある存在を認めるには、空間の存在を前提する。まず、宇宙がそれだ。では、宇宙空間に物質が配置される方法には、なんらかの合理性があるのだろうか?天体間の距離はどうか?宇宙空間に対して、天体の数は適当であろうか?人間関係の距離はどうか?地球の表面積に対して、人間をはじめとする生物の数は適当であろうか?
空間合理性を問うた数学の難題に、「ケプラー予想」がある。ケプラーは、三次元空間に球を最も効率よく詰め込む方法は面心立方格子構造であると主張した。二次元空間で言えば、六方配置が最密充填になると。この偉大な科学者は、「六角形の雪片について」という本を書き、太陽系の惑星の数も六つあると主張した。まさに雪の結晶は六方配置をとる。
ただ、三次元空間では、1つの球に12個の球が接吻する形になるわけだが、球同士でわずかに動ける余地がある。このわずかな隙間が、無限空間のどこかに、13人目とキスできる運のいいヤツがいるのではないか?と問われた。そして四百年もの間、こんな小学生でも知ってそうな答えを証明できないのか!と数学界の汚点とされてきたのである。四百年前といえば、科学はまだガリレオの望遠鏡に宿るかすかな光でしかなかった。結局、そんな運のいいヤツがいないことを、コンピュータが答えることに...
現実に、自然界はわずかな柔軟性をもっている。ダーウィン風に言えば、生物は一つの種から実に多彩な分岐によって進化を遂げた。プラトン風に言えば、かつて純粋な精神の原型なるものがあって、それぞれに無知の知を覚醒させて今に至った。カオスとは、単純法則にわずかな融通性という調味料が加味された結果であろうか。無数の原子が集まって人体を形成すると、一つの人格を生じさせる。無数の人間が集まって社会を形成すると、個人ではどうにもならない独立した集団的意思を生じさせる。雪の結晶にしても、H2O という単純な分子の集まりでありながら、実に多彩な自然美を魅せつける。自然界のデザインには、「単純な基本法則 + わずかな柔軟性」という法則が満ちているようである。
但し、人間社会の合理性が、自然合理性に適っているかは知らん...

1. マジックナンバー "6"
二次元空間を同じパターンで埋める基本的な図形といえば、すぐに正三角形、正方形、正六角形を思い浮かべる。ここには、幾何学的な法則がある。それは、内角の角度が、360度の約数になること。正三角形は、60度(= 360/6), 正方形は、90度(= 360/4), 正六角形は、120度(= 360/3)。正五角形では、108度で隙間ができ、結局この三つのパターンに収まる。
中でも、"6(= 1 + 2 + 3)" は、三角数であり完全数。ピュタゴラス学派は、この数を崇めた。真円(360度)と相性のいい回転対称性には、何かが宿っているのだろうか。画家マウリッツ・エッシャーの「天使と悪魔」の図形にも、何かが取り憑いているような...
ゲーテは「色彩論」の中で、赤、菫、青、緑、黄、橙の六色からなる色相環を唱えた。光現象をプリズムによる波長で観察するだけでは、色の循環性という発想にはなかなか至らない。
さらに、昆虫の世界に目を向ければ、蜂の巣が六角柱を形成し、幼虫や蜜の保管庫になっている。六角柱は、密集住宅を効率的に埋め尽くす最適な形である。蜂たちはどの場所からも一斉に共同作業が始められ、それぞれの担当場所で適当につなぎ合わせることができるという点でも、分業効率性を具えている。人間の住宅のように設計者も現場監督も不要で、人間社会のように政治家も不要というわけだ。蜂は社交性の高い昆虫と見える。この隙間のない空間合理性は、本能的に組み込まれているのだろうか?
では、雪の結晶ではどうだろう。ここでも、いたるところに、60度と120度が顔を出す。水の分子が周囲の冷たい気団に触れると、あらゆる方向に満遍なくエネルギーが分散した結果として、離散的に枝分かれするというのか...
「雪の結晶には6回の回転対称性があり、60度ずつ回転させても形が変わらない。また、6方向に対して鏡映対称性も示す。万華鏡は鏡映対称性を利用して対称性の高い模様をつくりだす。2枚の鏡を60度の角度に固定して万華鏡に入れると、6回ではなく3回対称に、また6方向ではなく3方向の鏡映対称になる。」

2. 最小エネルギーの法則
結晶学にとっても、"6" は、魔法の数字だそうな。二次元か三次元で格子となりうる回転対称形のうち、回転できる回数の最も多いのが六回対称だという。
三次元空間では、すべての面が同じ正多角形で構成される形は、正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の五つしかない。そう、プラトン立体だ。これらの図形は、何回回転させれば、元の図形に戻るか?正四面体は、二、三回の回転対称をもち、正六面体と正八面体は、二、三、四回の回転対称をもち、正十二面体と正二十面体は、二、三、五回の回転対称を持つ。
ただ、結晶学における有名な制約に、「五回対称を禁ずる」というものがあるそうな。正十二面体と正二十面体の結晶構造は、絶対になりえないというのである。
しかしながら、正十二面体と正二十面体の方にこそ、なんとも言えない数学の美を醸し出す。例えば、柘榴石の結晶は、菱型十二面体の構造をとる。同じ十二面体でも、正十二面体ではなく菱型十二面体ならば、自然界のデザインに適うのだろうか?自然界は、人間の目には規則的に見える正多面体よりも、やや偏っている偏方多面体の方に目を向けるのだろうか?いや、人間の精神が偏っているとすれば、人間の目に見える正多面体の方が偏っているのかもしれない。
もし仮に、あらゆる方向にエネルギーが等価に分散されるとしたら、なるべく球に近い多面体を選ぼうとするだろう。球では純粋すぎて安定感に乏しい。物質は自己存在の確証を欲しがっているのだろうか?
一方で、雨粒は表面張力に引っ張られて、エネルギーが最小になるような球体を好む。天体の世界でも球体が主流だ。ただし、真円ではなく、これまたわずかに歪んだ楕円を選ぶ。真空などの環境で直接接触しなければ、多面体よりも丸まっている方が居心地がよさそうだ。社会という限られた空間にあまりにも多くの人間をぎっしりと詰め込むから、ぎくしゃくする。周囲のことをあまり気にしなければ、無理に角張る必要もなかろうに。鍛錬を積めば、人間の心も丸くなるらしい。
おさまりのいい関係を求めるという意味では、自然は倹約家のようである。宇宙には、最小エネルギーの法則でも働いているのだろうか?無駄な努力を削り落とすような...

3. 自然界のわずかな偏り
自然界には、重力、電磁気力、強い力、弱い力という四つの基本的な力がある。重力はエネルギーを持つものの間で働く力、電磁気力は電荷のあるものの間で働く力、強い力はクォーク間で働く力、弱い力は中性子のベータ崩壊などを起こす力。物理学者たちは、この四つの力における統一理論を構築しようと夢見てきた。
しかし、弱い力だけは、どういうわけか例外的な作用をする。量子力学におけるスピン構造には、非対称性が宿る。人体にも、表面的な左右対称性に対して、脳機能や臓器配置に非対称性が見られる。
地球上の生物においても、DNA の螺旋構造は一般的に右巻きだと言われる。一つの種に、右巻きと左巻きが混在するのは望ましいことではないだろう。少なくとも有性生殖の生物にとっては。DNA の巻き方向が同じでなければ、遺伝子複製が極めて起こりにくく、子孫を残すことも難しくなる。
気象現象においても、コリオリの力が働き、北半球と南半球で台風やハリケーンの渦巻く方向が反対になる。
自然界を取り巻く弱い力によるほんのわずかな非対称性が、柔軟性や多様性をもたらしている。自然美には、均衡と不均衡の微妙なバランスが欠かせない。天体軌道のほとんどは、真円よりも楕円を好むし。完全ってやつは、自己存在を主張するものにとって居心地が悪いものらしい。だから、完全な神は自己主張もせず、ひたすら沈黙を守っておられるのか。ヴォルフガング・パウリは、こう言ったそうな。
「神は軽い左利きである。」

4. 近くの強化と遠くの抑制
時間的成長と空間的成長を見事に再現する物語に、貝殻の成長過程がある。軟体動物の身体を保護しながら、なおかつ成長に合わせて合理的に貝殻を建設していくとしたら、どういう形が適切だろうか。アンモナイトなどが「対数螺旋」の形をしているのは、どうやらそのためのようだ。カタツムリの殻には右巻きと左巻きがあるらしく、遺伝子で決まるという。しかも、この螺旋構造にフィボナッチ数が現れる。そう、黄金比ってやつだ。ヒマワリや松ぼっくりにも、種子の成長に合わせてフィボナッチ数が現れる。数学的にも、スケールの連続変化を相似変換すれば、黄金比で描くのがやりやすい。成長過程に見られる黄金比は、等間隔に無駄なく詰め込もうと意図されたものであろうか...
しかしながら、中心点から遠ざかるほど、物理的な歪、すなわち誤差を拡大させる。数理生物学者ハンス・マインハルトは、貝殻の図式をこう説明したという。
「近くを強化して遠くを抑制する。」
彼の理論によると、抑制因子は活性因子の七倍の速度で広がらなくてはならないという。近くを活性化する因子と、遠くを抑制する因子のせめぎあいは、空間的に、時間的に遠いほど後者が優勢になっていく。
人間社会でも、領土が拡大して多民族性が増すほど支配力を強めたがるもので、民主主義の機能しやすい規模というものがあるのだろう。あらゆる組織の発足当初は、おそらく純粋で志の高い動機から始まったに違いない。だが、時間が経つに連れ、徐々に脂ぎった動機が混入してゆき、やがて官僚化や硬直化の道を辿る。だから、常に改革の目という抑止力を求める。
あらゆる成長過程を説明する際、時間と空間という物理量の組み合わせは非常に都合がよい。ア・プリオリな概念に時間と空間を位置づけたカントと、時空の概念を持ちだしたアインシュタインは、やはり天才と言わねばなるまい...
「軟体動物のオウムガイの殻... いくつものカーブした小部屋に仕切られていて、その小部屋は貝殻が渦を巻くにつれてサイズが大きくなっていく。殻全体は完璧な対数らせんを描く。なかの生物がどうやって殻をつくるか、また殻がどのように成長するかを理解するうえで、この数学的なパターンが手がかりになる。」

5. セル・オートマトン
新たな数学体系の一つに「セル・オートマトン」というものを紹介してくれる。ある種のコンピュータゲームである。最初は、色のついた一個の格子(セル)からスタートし、ゲームの一手が進められる度に、決められた規則によってセルの色が変化していく。例えば、一個の赤いセルが、三個の緑のセルと五個の黄色のセルに囲まれたら青に変える... といった具合に。
プログラムを走らせて結果を得ることは容易だが、その結果に納得のいく説明を与えることは極めて難しい。初期条件が違うだけでも、まったく様変わりする。そのために、生態系のモデルとしてよく利用される。複数の色に動物種をあてはめてみるといった具合に...
そういえば、同じような原理に「ライフゲーム」がある。数学者ジョン・ホートン・コンウェイが考案したやつだ。こいつも、黒と白のたった二色と短い三つの法則のみで成り立っている。こうした事例は、たとえどんなに規則が単純で明解であっても、結果予測が不可能なことを示している。

6. 平均特性の統計的な対称性
数学においても、「複雑適応系」という、いかにも社会学的な用語を目にする。複雑さがある臨界点に達すると、想像もつかない状態になりうる。連続的エネルギーの蓄積が、突然爆発して離散的現象として現れるような。大洪水、火山の大噴火、建造物の倒壊、市場のパニックなど、あるいは突然変異や新種の出現もこの類いであろうか。臆病な動物が恐怖心から突然攻撃的になったり、あるいは、開き直り、覚悟、開眼といった現象も...
「カタストロフィー理論」という用語も耳にするが、あまり好まれないらしい。カタストロフィーは大災害や破滅を意味するので、最近は「分岐」という用語を使うという。もはや複雑系を扱うには、確率論や統計力学に縋るしかないようである。
ただ、対称性の破れを説明しようとすれば、安定性という要素も考慮しなければならない。それは、そもそも物質はどこへ向かおうとしているのか?と哲学的に問うているようでもある。対称性を破るから不安定になるのであって、やはり矛盾しているようでもあるのだが、成長や変化の過程がある限り、この矛盾からは逃れられない。仕事中の気分転換もまた、適当な不安定に身を委ねることを意味するのかもしれない。
さて、H2O という分子には、重要な分岐点が二つある。凝固点と沸点は、固体、液体、気体の三状態に遷移させる。相転移ってやつだ。雪の結晶もまた、環境条件による一種の分岐によって生じる。相転移を解析するモデルに、統計力学には「イジングモデル」というものがあるそうな。物理学者エルンスト・イジングに因む。平面上の四角い格子を用いて、それぞれの頂点は上か下の状態をとる。この選択肢は電子のスピンの向きを表すという。隣り合った二個の頂点は互いに影響し合い、各電子のスピンの向きは隣の電子のスピンの向きに左右される。スピンのパターンは、臨界温度に達すると唐突に変化する。一つが決まれば、他の向きも決まるわけだが、一斉に決まるとすれば、それは全体的な分岐である。
本書は、こうした一斉に分岐する現象を、「平均特性の統計的な対称性」と呼んでいる。現実に、同じ炭素原子でありながら、最も硬いダイヤモンドから最も柔らかい部類のグラファイトまで、実に多種多様な同素体が存在する。結晶構造では、対称性の種類が異なるとエネルギーも異なり、そのエネルギーは圧力と温度に左右される。そして、重要な変化は離散的な分岐として現れ、主要な性質の変化が突如として起こる。
ある環境条件を境界に、集団的に、しかも一斉に性質が変わるとは、情報によって社会全体が扇動されるがごとく。カオス理論では、途轍もない影響を発揮する可能性について「バタフライ効果」という用語もよく耳にする。昔の人はよく言ったものだ... 風が吹けば桶屋が儲かる... と。
あらゆる現象は、もはや個々の性質だけでは説明できそうにない。個の対称性から集団の対称性へと目を向けなければ...

2016-12-18

"地球の歴史を読みとく - ライエル「地質学原理」抄訳" 大久保雅弘 著

学ぼうとすれば誰にでも、入門の段階で古典の恩恵にあずかった経験があろう。後継者は、大なり小なり先人たちの遺産を学ぶ機会が与えられる。地質学の場合は、チャールズ・ライエルであろうか...
原題 "Principles of Geology." は、「地質家の書いた最初の地質学史」とも言われ、ここに紹介される文献の量は夥しい。地質時代とは有史以前の時代であり、現在では地球年齢が約46億年とされ、99.99... % を占めることになる。人間の知的能力からすると、ほぼ無限に近い世界。本書は、空間的無限に天文学を、時間的無限に地質学を位置づける。そして、ア・プリオリな思考において、互いの学問分野が相補関係となるのは想像に易い。
尚、原書は三巻からなり、千二百ページにも及ぶ大著だそうな。この抄録は約 1/4 の縮小版で、ライエルの思考原理である斉一主義を中心に、地質家の科学者たる執念を物語ってくれる。

地質学には「現在は過去の鍵である」という名言があるそうな。地球の歴史を読み解くには、現在から遡るしか道はない。とはいえ、過去に遡るほど情報が極端に少なくなり、お粗末な抽象論に陥るのは人間の歴史と同じ。抽象化という言葉の捉え方も立場によって様々で、科学者や数学者、あるいは芸術家は真理に近づけるという意味で用いるが、政治屋や金融屋は、曖昧やら空論やらで片付けがち。いつの時代も、人間社会には、目先の利益に結びつかない知識は意味がないとする風潮があり、実益との関連性が見えてくると、途端にもてはやされ、そこに人々が群がる。実際、地質学の発展は、産業革命で高度化した鉱山開発や土木事業から派生した。
一方で、科学の基本的な立場に、「条件が変わらなければ現象は繰り返されると仮定してみる」というのがある。そう、斉一性原理ってやつだ。
当時、天地創造やノアの方舟、あるいはモーゼ物語といった宗教的伝説がヨーロッパ社会を席巻していた。科学の使命は、中世の神秘主義を打倒すること。ライエルは、まずもってドグマの排除にかかる。そして、あのピュタゴラスの言葉からとっかかるのであった...
「この世で死滅するものはなにもなく、ただ万物は変化し、姿を変えるだけである。生まれるということは、以前にあったものとは違った何かになり始めるということにすぎず、死というものは同じ状態であることを止めることである。さらに、同じ姿を長い間保つものは何もないが、全体の総和は不変である。」

しかしながら、あまりに斉一的すぎると、時代の流れに緩急があることを見落とすばかりか、画一的な思考に陥りやすい。それも致し方ないかもしれない。まだ造山運動論や大陸移動説などの理論体系の確立していない時代で、プレートテクトニクスといった概念もずっと後のことだ。
人間社会には、空間的に言えばブラックホールのような、力学的に言えばアトラクターのような、社会的機能を失うような状態が突然訪れる。それは地球規模とて同じで、数学的な特異点のような状態が現実に生じる。生物種が爆発的に発生した時代を、ライエルはどう説明してくれるのか?種は、ただ一つの祖先から派生したのか?原子論まで遡れば、そういうことになろう。生物もまた機械的な分子構造を持っているのだから。
では、精神という存在をどう説明するのか?古来、自然哲学者を悩ませてきた難題を。本書は、ラマルクの進化学説を引用しながら、曲解されていることが残念だと指摘している。ただ、斉一主義といっても、単なる繰り返し現象を重んじるだけでなく、なんらかの定向的な変化をも含みにしている。それは、生物種が環境に適応する能力についてである。
概して生物には、生きたいという強い意志のようなものを感じる。人間だって思考を重ねるうちに、突然、理解したり、悟ったりする。そう、開眼ってやつだ。持続的な生存願望が進化を生み出すのか?と問えば、ダーウィンの自然淘汰説にも通ずるものがある。そして、永劫回帰には、なんらかの意志をともなうのか?その意志の根源とは?と問えば、結局、神に帰するというのか...
「われわれが星空を調べても、顕微鏡でやっと分かる微小動物の世界を調べても、空間における創造の仕事に限界を決めようとしているが、それは無駄である。したがって、時間についても、われわれは、宇宙の果ては人知のおよばない彼方にあることを認める用意はある。しかし、時間にせよ空間にせよ、どの方向へわれわれの探求が進んでも、どこにおいても創造の英知、および、神の先見性、分別、および威光の明白な証拠をみいだすのである。」

客観的、論理的に説明できない事柄に対して、人間ができることと言えば、崇めるか、信じることぐらい。ここに科学の限界がある。そして、得体の知れぬ存在に対しては、恐れつつも興味を抱かずにはいられない。接触してくるものに対しては、無視できない性分なのだ。おまけに刺激はエスカレートする一方で、この方面でエントロピーの法則は絶大ときた。そして、自我をますますカオスへ導く。生物種の適応力と柔軟性、あるいは自然の復元力と調和力、こうした自然の力対して、地上の生命体は地球依存症にならざるをえない。
だが近代社会は、その偉大な自然を排除した価値観に邁進し、いまだ神を人間だけのための存在だと信じている。偉大な知識ってやつは、学校で教われば常識とされるが、すべては偉い学者たちが論じたに過ぎない。地球は丸い!なんていうのも、誰かがこしらえた映像で見ることができるぐらいなもの。しかも、それを知らないと、常識がない!などと言われ、馬鹿にされるのだ。何一つ自分で確認した知識はなく、確かめようがないとすれば、専門家の言葉を信じるしかない。となれば、科学と迷信の違いとは何であろう...

1. 三枚の巻頭図は物語る...
第一巻の口絵「セラピス寺院の円柱」...
ライエルの根本思想を象徴する有名な図だそうな。ナポリ西方のポッツォーリ海岸に面した寺院の円柱に刻まれた海水の浸食跡が、地盤の上下変動を物語る。この巻では、地質学時代の気候変化と、その原因に関連して水陸分布が変化したこと、あるいは河川や海流の作用、火山作用と地震現象を中心に地質学概論が語られる。

第二巻の口絵「エトナ火山とバル・デル・ボヴ」...
生物に関する議論が展開されるが、なぜか火山?半円形の大きな凹地をボブ渓谷といい、単なる浸食谷だが、人によっては噴火口とも言うらしい。この巻では、生物界に踏み込み、地層と火山との関係から堆積作用と化石化作用との関連性を考察し、ラマルクの「動物哲学」を引き合いに出しながら生物界の変化を論じている。ついで、種の分布や生息区の変化、無機界の生物への影響、さらに珊瑚礁の成因にも触れられる。

第三巻の口絵「スペイン・カタロニア地方の火山」...
またもや火山?遠景のピレネー山脈と手前の第二紀層、さらに近景の火山岩を色分ける。この巻では、地殻構成要素の配置や、第一紀、第二紀、第三紀の区分について考察され、特に第三紀に注目する。動植物の化石が第三紀層に集中しているからである。
ライエルは、年代区分の尺度に貝化石を用いて、第三紀を現世から近い順に、後期鮮新層、前期鮮新層、中新世、始新世の四つに区分している。尚、始新世は、現代式の区分では、ほぼ古第三紀に相当する。
当初、「地質学原理」は二巻で構成する予定だったらしく、第三紀層を詳しく知るために追加した要旨が語られる。そして、「百分率法」を提唱し、現生種と絶滅種の比率から生物界の傾向を読み取り、時代によっては脊髄動物の方が腕足動物よりも絶滅種が高いことから、環境依存性を論じている。また、最古の第一紀という用語は適切ではないとして、代わる用語に内成岩という概念を提案している。尚、第三巻は、現代では層位学や地史学に相当する。

2. 学者たちのドグマ放棄宣言
1680年、数学者ライプニッツは「プロトガイア(地球生成論)」を著したという。彼は、かつて地表は火の海に見舞われていたが、徐々に冷却の道を辿り水蒸気に包まれ、さらに外核が冷えて海になった、と考えたと。
18世紀になると、イタリアの地質学者ジョヴァンニ・アルドゥイノは、地質時代を第一紀、第二紀、第三紀で区分したという。後に第四紀が加わることになるが。
さらに、アブラハム・ゴットロープ・ヴェルナーやジェームズ・ハットンらが、ライプニッツの意志を継ぐ。ヴェルナーは、鉱物分類法の基礎を築き、構造地質学の分野を開拓したという。彼は、地球の知識という意味の「geognosy(ゲオグノジー)」という言葉を用いたとか。
1788年、ハットンは「地球の理論」を著したという。この論文は、地殻の変化をすべて自然要因で説明を試みた最初の書であったとか。そして、こう語ったという。
「古い世界の名残は地球の現在の構造にみられるし、いまわれわれの大陸をつくっている地層は、かつては海の下にあって、既存の陸地の削剥物からつくられたものである。おなじ営力は、化学的分解とか機械的破壊力によって最も固い石でさえも破壊しつつあり、そしてその分解物は海に運ばれて広がり、ずっと古い時代の地層と類似した地層を形成している。それらは、海底では締まりなく堆積したが、あとから火山熱のために変質して固化し、ついで上昇し、断裂をうけてひどくもめたのである。」
ライプニッツからの流れは、過去のドグマを全面放棄することを宣言したもので、「地理学原理」にも彼らの意志を受け継いでいることが語られる。

3. すべては火成作用が原因か?
地質学は、生物界や無生物界に起きた変化の要因を研究する科学である。ライエルは、火成作用を自然現象の根源的要因とし、地震は不発の火山活動として捉えている。以前は水成説と火成説で論争があったようである。水成説とは、すべての岩石が海水から沈殿してできたという説で、現在ではほとんど聞かれない。
尚、ヴェルナーは花崗岩や玄武岩を水成岩としたようで、ハットンは火成岩と認めたようである。
また、人口論的な議論も見られる。人口増加が自然に悪影響を与えることが。地上のすべての現象を熱機関として捉えれば、生命の進化も熱エネルギーを原因とすることができるだろうか?意志の力も、思考の力も、集団の力も。このまま人口増加を許すならば、外的エネルギーへの転換に迫られ、人間は地球外生命に進化するしかないのか?人類の歩みとは、空間移動の歴史でもあった。大陸を移動し、海を渡り、新天地に夢を託す。そして、地球という天体から追い出される羽目になるのか?
すると、無重力空間を生活圏とする生命体にとって、二足歩行は合理的な体型なのか?酸素吸気の構造は?身体組織の改良から求められそうだ。四足獣を下等動物としてきた人間が、今度は宇宙生命体に二足獣と馬鹿にされ、人間もまた絶滅種に追いやられるのか?宇宙空間ではゾウリムシのような単純構造の方が適応しそうだし、ひょっとしたら、こちらの方が高等なのかもしれない。人間社会でも、Simpe is the best. といった単純化思想が崇められるし、宇宙法則でも単純な数式ほど高級とされるし...

4. 珊瑚礁が意味するものとは...
地上の各営力の相互作用の中で、生物が地殻に積極的に作用する好例として、珊瑚礁の形成を紹介してくれる。珊瑚礁が形成されるのは、地殻が再構築されつつある場所、あるいは新たな岩石形成が進行中の場所だという。ふつうはラグーンを形成している場所で、太平洋におけるラグーンの形態に言及される。それは、鉱泉からの無機塩類供給による現象だという。そして、海洋中の植虫類の作業を、植物が泥炭をつくりながら地上に生命を見せる様子と比較しながら説明してくれる。
例えば、ミズコケの場合、上部は生育しているのに下部は岩層中にあり、水面下で有機組織の痕が残ったまま、生活はまったく停止している。同じように珊瑚礁では、過去の世代の丈夫な物質が基礎固めとなって、現在の世代の生息に役立っている。太平洋の調査に同行したシャミッソという博物学者は、干潮時に礁がほぼ干上がった高さの時には、珊瑚は造営をやめる、と言ったとか。そして、調査隊のビーチィ船長は、こう言ったとか。
「波のとどかないところにある帯状部は、それをきずいた動物がもはや住めなくて、それらの細胞には固い石灰質がつまって、褐色でざらざらの外観を呈している。まだ水中にある部分、あるいは干潮時だけ干上がる部分には、小さな水路が切られているし、また凹地が多いので潮がひくとそこに小さい湖水をのこす。われわれが観察した島では、平地の幅、すなわち死んだ珊瑚の帯状部の幅は、波打ちぎわからラグーンの端まで半マイルをこえる例はなく、ふつうはわずか 300 ヤードないし 400 ヤードぐらいしかなかった。」
知識の土台と叡智の継承という意味では、珊瑚礁が人間に教えるものは大きい。尚、この文献の出版の11年後、ダーウィンは珊瑚礁の研究についての文献を残したそうな。彼もまたライエルの影響を受けているようである...

2016-12-11

"人間機械論 サイバネティックスと社会" Norbert Wiener 著

人間とはなんであるか... 数千年に渡って自然哲学者たちは、この難題に立ち向かってきたが、いまだ答えが見つからない。プラトンは、人間は羽根のない二本脚の動物である!と定義した。ディオゲネスは羽根をむしり取った鶏を携えて、これがプラトンの言う人間だ!と応じた。魂を持つ存在だとしても不十分だし、ましてや崇めるほどの存在でもあるまい。魂がなんであるかも説明できないのだから。いや、説明できないから、崇めることぐらいしかできないのかもしれん...
数学者ノーバート・ウィーナーは、高度なコミュニケーション能力を有する存在であると定義を試み、通信工学を中心に据えた学問分野を提唱した。そう、サイバネティックスってやつだ。人間の本質に迫るには、数学や統計力学に生理学や心理学をも巻き込んだ学際的研究が必要だというわけである。彼は、文芸家と科学者の目的が一致しているにもかかわらず、二つの宗派に分裂している様を嘆く。それは第二次大戦前後の話だが、21世紀の今日でも理系と文系で区別され、知識の縦割り風潮は健在だ。
人間には縄張り意識という性癖がある。かつて学問は総合的な知識の世界とされ、科学は自然哲学と呼ばれ、自然との調和から人間というものを問うた。その流れは、いつの間にか自然物に対して人工物で区別され、人間社会だけの合理性を問うようになった。人口が爆発的に増殖すれば、最も依存している自然との関わり方が見えなくなるのか。もちろん個人であらゆる学問を究めることは不可能だし、何か一つの専門を選択せざるをえない。しかしながら、他の学問分野についてなんらかの理解がなければ、自分の専門にも暗くなるだろう。真理を探求する場に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。間違いなく夜の社交場では、セクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も必須だ!

原題 "The Human Use of Human Beings... Cybernetics and Society" には、一つの使命が託される。それは、「人間の人間的な使い方にある」ということ。ウィーナーの発想が、ライプニッツのモナドロジーや予定調和説、シャノンの情報理論、マクスウェルやギブズの統計力学、あるいは記号論理学や計算機科学などの複合的な立場から発し、サイバネティックスという学問が、本質的に通信理論の統計的研究であることが伺える。論議の骨格に「状態の感知、記憶、フィードバック」の三つの要素を据え、通信モデルを脊髄動物の構造、シナプス系の情報経路、酸素を運搬する血液で構築して見せる。認知のために神経系と栄養分を運ぶ経路こそが、情報の本質というわけである。中でもフィードバックを重視し、これが主観的に働くか、客観的に働くかは別にして、情報を適格に解釈できさえすれば補正機能が働く。いわば、反省や学習の機能である。
「主観的には感情として記録されるような種類の現象は、神経活動の無用な随伴現象にすぎないものではなく、学習及び他の類似の過程における或る本質的な段階を制御するものであるかもしれないことを認識することは重要である。」

1. 人間と機械、代替品はどっち?
人類のこしらえた機械文明は、自動化へと邁進してきた。機械の存在意義は人間行為の代替から発しており、非力な人力に対しては莫大なエネルギーを発生させ、鈍い頭脳に対しては驚異的な計算力を提供し、機械化は利便性の代名詞とされてきた。それは通信システムとて例外ではなく、いまや意思の交換まで代替してくれる。すると改めて、人間とはなんであるか?が問われる。代替品の存在意義から、元の存在意義を顧みるのである。なるほど、人間とは、機械が故障した時の代替品か。そのうちオートマトンと人間の区別もなくなりそうだ。
人体そのものが電気的な機械仕掛けだし、そこに意志があると主張したところで、その原因は説明できそうにない。実際、感情を持ってなさそうな人間がわんさといるし。社会全体にとっては、人間精神が進化しなくても、その分、機械が進化すれば同じことか。
人間が機械の奴隷になるとは、なんとも物騒な社会!なぁーに心配はいらない。今だって人間は人間の奴隷であり続ける。すべての人間が人間以外の奴隷となれば、夢にまで見た平等社会が実現できるではないか...

2. 有機体の本性とは?
ウィーナーは、コミュニケーションを営む有機体としての人間を考察する。人はコミュニケーションを完全に遮断して孤立すれば、精神を破綻させる。それは、ボルツマンの唱えた熱的死を意味するのか?熱力学の第二法則は、閉じた系においてエントロピーが減少する確率はゼロだと主張している。では、系が閉じていなければどうだろう。宇宙は本当に閉じているのか?膨張したり収縮したり見えるのは人間認識の産物とうことはないのか。社会という外的要因の中で、熱病的な集団的狂気に気づかなければ同じことかもしれん...
有機体ってやつは、周囲になんらかの影響を与えようとやまない。なるほど人間は、一人では生きてはいけない。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体にとって、自己存在を確認するためには他の存在を必要とする。
では、高度なコミュニケーション能力が本当に人間社会を高度化させているだろうか?確かに、いじめや誹謗中傷の類いは陰湿かつ巧妙化し、排他原理は高度化しているようだ。なんらかの関係を求めずにはいられないとすれば、友好や差別も、博愛や偏愛も、正義感や敵対心も、依存症の類いか。
孤独愛好家ですら完全に社会から離脱することまでは望まず、集団から適当に距離を置きながら、遠近法で自己を見つめる。自尊心もまた自己愛に飲み込まれ、自惚れと自己陶酔の内に沈潜していく。人間社会は、嫉妬心に満ちた愛憎劇で渦巻いている。そして、その帰結は... 人間の本性は、寂しがり屋というだけのことか...
「生きているということは外界からの影響と外界に対する働きかけの絶えざる流れの中に参加しているということであって、この流れの中で我々は過渡的段階にあるにすぎない。世界で生起している事態に対して、比喩的な意味で生きているということは、知識とその自由な交換の連続的発展の中に参加していることを意味する。」

3. 情報と知識、そして言語
ウィーナーは、人間を最も特徴づけるものに、言語機能を取り上げる。言語によって社会ルールが規定され、通信手続きではプロトコルがその役割を果たす。だが、言語の柔軟性がセマンティックを不安定にさせ、語義の曖昧さが様々な解釈を生み、混乱の元となっている。実際、客観的であるはずの専門用語ですら、その解釈を巡って、あちこちで論争を見かける。
では、言語の合理性とはなんでろう。情報合理性は精神合理性と合致しているだろうか?情報量の観点から、通信システムではコンパクトで単純な通信文が好まれる。これが情報合理性である。文芸作品が非効率に比喩的な文章を用いるのは、魂に訴えようとするものがあるからである。これが精神合理性である。こうした言語の合理性の問題は機械論において大きな障害となる。それは、人間と機械の境界を暗示しているようでもある。
「情報(知識)というものは蓄積の問題ではなく過程の問題である。最大の安全保障を持っている国とは、情報と科学に関することがらが国家に対し課せられた要求に適当に対処できる状態にある国のことであり、我々が外界を観察し、外界に対する行動を有効にする連続的過程の一つの段階として、情報が重要なものであることが十分認識されている国のことである。」

4. 自動化の是非
人間社会の幸福を確率論に照らせば、最大多数の最大幸福といった功利主義的な思考も覗かせる。確かに、全体的な平和や幸福には経済的合理性というものがある。それは、少数派の犠牲によって成り立つものなのか?ここに、大数の法則が暗躍しているかは知らない。
ウィーナーはマルサス流人口論にも言及し、人口調節の深刻な問題に対して、自動式工場のようなオートメーション技術が重要な役割を演じるとして、問題を補完しようと試みる。それは、現代の問題である高齢化社会を補う存在となりうるか?と問い掛けているようでもある。ただし、自動化崇拝が偉大な文明を抹殺しかねないとも指摘している。産業革命以来の悲劇とならぬよう希望すると。
自然に適合しない技術は危険であろう。今日、あらゆる分野において利便性の追求から自動化システムが進化しつつある。面倒くさがり屋の性分が人間自身を自然の産物から遠ざけようとしているのか。あるいは、人間が本来やるべき仕事を見つけようと、雑用を減らそうとしているのか...
「科学的発見の本質は、我々の便宜とは全く無関係に作られた一個の存在を我々自身の便宜のために解釈することにある。従って、世界の中で秘密とやっかいな符号体系によって護られている最後のものは自然の法則である。」

2016-12-04

"サイバネティックスはいかにして生まれたか" Norbert Wiener 著

"Cybernetics" という言葉に出会ったのは、三十年ぐらい前であろうか。通信工学や制御工学を学べば、どこかで見かけるだろう。今日では仮想社会と結びついて、Cyber という語が一人歩きを始めた感がある。そう、サイバー空間やサイバー攻撃の類いだ。
計算機工学の先駆者フォン・ノイマンが自動増殖オートマトンの理論を提唱した頃、ノーバート・ウィーナーは情報工学に生理学や心理学を融合したシステム工学の新たな分野を切り開いた。原題 "I Am a Mathematician." は、数学者の自叙伝という性格を帯びる。ここに「ウィーナー過程」という用語は登場しないが、ブラウン運動の好奇心から発した確率過程に至る思考経路を披露し、数学や統計力学と電気工学の相性の良さを物語ってくれる。
「私に課せられた問題は、概して科学に対してあまり深い関心を抱いておらず、もちろん専門的な科学知識を持ってはいない大衆に対して、或る根本的に科学的な観念の発展過程を説明することであった。できるだけ科学上の専門用語を避け、私の考えを日常語に直して言い表わさねばならなかった。これは著者たるものにとってすばらしい訓練であるが、それはまた完全な成功には至らないという危険を冒す訓練でもある。科学用語を使うと、とかく話がちんぷんかんぷんになるが、科学の歴史が用語に与えた緻密な意味内容を利用せずに、科学的な観念の重要部分をいくらかなりとも表現することは極めて困難であり、完全な成功を得る見込は文芸評論家が考えるよりはるかに少ない。」

数学という学問は、風変わりなところがある。他の学問分野が、社会における具体的な問題解決を目的としているのに対して、これといったものがない。ひたすら数の法則を求め、不可思議な性質を持った数式を探求し、そのために無味乾燥と蔑まれることもしばしば。だからといって、純粋な好奇心から発しているかといえば、そうでもなく、賞金稼ぎのごとく有名な未解決問題に群がるような脂ぎった動機も覗かせる。
数学の定理が社会的地位を獲得するには、数千年の月日を要すことも珍しくない。例えば、素数の歴史は紀元前の数千年に遡り、ユークリッドの「原論」にも素数に関する証明を見つけることができる。まさか素数の発見者が、今日の暗号システムで大活躍するなどとは思いもしなかっただろう。真理が役に立たないということが、人間社会にとって本当にありうるのか。もしあるとすれば、人間社会は真理から外れた存在ということになろうか。
社会システムを根底から支えている技術は、数学という客観性に頼っている部分が大きい。感情や感覚に流されやすい社会では尚更だ。市場原理しかり、社会制度しかり、戦争またしかり。数学には、定理を導いた者の意に反して利用されてきた歴史がある。新兵器が開発される背景には、必ず天才数学者たちがいる。数学の実用性に注目した古代数学者にアルキメデスがいるが、彼の発明した投石機の原理はまさに戦争のための道具だ。そして、二つの大戦をまたいで、チューリング、ノイマン、シャノン、ウィーナーなどの天才数学者を輩出し、彼らのおかげで計算機工学を開花させたのである。こうした技術が、核兵器や化学兵器といった大量破壊兵器を生み出したことも事実で、天才たちの功績が、まずもって悪魔の手先とされてきた。本書にもその苦悩が伺える。
工学という学問分野は、実用性をもって評価される。無味乾燥な法則を意味あるものにするということは、解釈を施すことに他ならない。それが自然に適った解釈であるかを常に自問すれば、数学は哲学となり、数学者は真理の探求者となるであろう...

1. 無秩序な世界におけるルベーグ積分の役割
ライプニッツは、物理的世界の連続性を主張し、原子論に正面から反対した。時間と空間が無限に分割可能とすれば、時間と空間に分布する量もまた、あらゆる次元に渡って変化率を持っていることになる。実際、時間と空間に関係して分布する物理量は、工学的に意味をなすものが多い。
そこで、存在の概念では、離散的な個を対象とするのではなく、連続的なエネルギースペクトルを対象としてみてはどうだろう。そのスペクトルを微分方程式の群として眺め、一つの偏微分方程式として再構築する。エネルギー準位が離散的に存在するのは、連続で働く意志に対して、落ち着きの場を求めた結果であろうか。実は、離散性と連続性は、意志のもとで調和した存在なのかもしれない。尚、意志とは誰の意志かは知らん...
思えば、電気回路技術者は、電子の個々を制御できているわけではない。電流や電圧といった値は統計的な物理量であって、極めて確率的である。トランジスタがある条件下で多数決的にスイッチング制御されるという意味では、民主主義的ですらある。それは、市場原理、社会現象、気象現象などと似た状況にあり、製造工程における半導体素子の歩留まり率が顕著に示している。
こうした不確定性の渦巻く世界を、統計力学なしに説明できそうにない。ウィーナーは、このような複雑で曲線的な過程を記述する道具としてルベーグ積分に役割を与えた。ルベーグ積分の概念をつかむことは、数学オンチのおいらにとって容易ではないが、これを知ることが本書の基本となりそうだ。積分とは、まさに精度の高い近似法と言えよう。測度の概念を、長さや大きさを拡張して抽象化し、さらに極限に近づける。極めて不規則な領域を測ろうとすれば、確率論や統計力学を拝借したい。この二つの理論学問は、物理学と数学の間に位置し、この中間領域こそがウィーナーの仕事場であった。
本書には、コルモゴロフの確率論、ギッブスの統計力学、シャノンの情報理論、バーコフのエルゴード定理、マクスウェルの電磁ポテンシャル、プランクの輻射理論、あるいは、当初「バナッハ = ウィーナー空間」と呼ばれたベクトル空間論などが登場する。これらの理論の融合によって無秩序の離散性が、ある種の系列を持った連続性にも見えてくる。なるほど、概念の調和こそが、異次元に配置されるものまでも同一空間に魅せてくれるというわけか...
「線に沿ったある区間の長さや円その他の滑らかな閉じた曲線内の面積を測ることは実に容易である。だが、無数の線分とか曲線でかこまれた無数の領域とかにまき散らされた点の集合、または、この複雑な表現でもまだ十分でないほどに不規則に分布している点の集合の大きさを測ろうとすれば、面積とか体積とかいう極めて単純な概念でさえも、それを定義するためには程度の高い思考を必要とする。ルベーグ積分はこのような複雑な現象を測る一つの道具である。」

2. サイバネティクスな世界
サイバネティクスは、主としてコミュニケーションの科学だという。それ故に、社会学、人類学、言語学もこの分野に属すと。この用語は、「舵手」を意味するギリシア語「キュベルネテス」から思いついたそうな。制御の技術と学理という意味をこめた言葉だとか。そして、神経生理学者や心理学者が用いる「記憶」「フィードバック」という言葉を借用するに至った経緯を語ってくれる。いまや、コンピュータ工学で欠かせない用語である。
チューリングマシンを具現化したノイマン型アーキテクチャは、読み書きできる記憶空間と制御系の内部状態で構成され、電子計算機は人体の神経系モデルとして見ることができる。こうした世界では、知識はその本質において知る過程であるという。そして、生命とは、永遠の形相のもとでの存在ではなく、むしろ個体とその環境との相互作用であると。知識とは、生命のある一面ということか。生命とは、説明されるべきものではもなく、少なくとも、人間が生きている間に説明できるものではなさそうだ。未来の結果よりも現在の過程が重要だとすれば、宇宙の終局に関する知識を求めても無益なのかもしれん。終局の状態は、おそらく時間を持たず、知識も持たず、意味もまったく持たない状態であろうから...
「サイバネティクスの立場からみれば、世界は一種の有機体(organism)であり、そのある面を変化させるためには、あらゆる面の同一性をすっかり破ってしまわなければならないというほどぴっちり結合されたものでもなければ、任意の一つのことが他のどんなこととも同じくらいやすやすと起るというほどゆるく結ばれたものでもない。それは、ニュートン的物理学像の剛性を欠くとともに、真に新しいものは何も起こり得ない熱の死滅、すなわちエントロピー極大状態の全く筋目のない流動性をも欠く世界である。それは過程の世界である。しかも、過程が到達する終局の死の平衡のそれでもなく、ライプニッツのそれのような予め定められた調和によってあらゆることが前もって決定された過程の世界でもない。」

2016-11-27

宗旨替え... 愛の電話 + セブン教

酔いどれ天の邪鬼は、セブンという数に看取られているような気がする。ミレニアムの呪いを払ったのも Win 7 であったが、今では、SM狂の十字架バージョンに翻弄される。
さらに、愛の電話に憑かれると、七つの大罪がプラスされる恐れが。惚れっぽい酔いどれ天の邪鬼に、煉獄の山は酷だ!
それでも懲りず、黒い林檎とにらめっこした挙句にアップップ教へ宗旨替え。実は、黒い林檎を喰わず嫌いできた。だが、始めて食してみると、これがなかなか。やはり一度は試してみないと、それが毒入り林檎であっても...

モノは、iPhone7 Plus 128GB Black(model A1785)...
愛の電話を選択する上で、SDカードに対応していないことが、一つの懸念材料であった。というのも、携帯用電子機器や自動車のナビでは、音楽データをSDカードで配布できるようなファイル構造で管理している。SDカードなら、壊れてもリスクが小さいし...
これが使えないとなると、本体にある程度のメモリ容量が欲しい。32GB モデルではちと寂しいし、6s のラインナップにあった 64GB モデルがなくなったのは痛い!
てなわけで、128GB モデルを選択。今どき外付けメモリもないだろうってか。いや、大容量モデルを買わせるアップップ戦略にしてやられたか...
本体の色はあまり気にならない。どうせ手帳型ケースに入れるし。好みは、つやなしのブラックか。
ちなみに、ジェット・ブラックに、なぜこんなにも人が群がるのか?と不思議に思っていると、伝統的なアップップ教徒は、新しいと銘打ったデザインに殺到する傾向があると、ある信者がもらしていた。ただ、ボディが黒なのに EarPods が白であることには、こだわりがないらしい...

さあ、モデルは決まった...
とはいえ、おいらは初期ロットから逃げる保守的なネアンデルタール人だ。そして、予約状況はどうなっているかなぁ... と軽い気持ちでショップに足を踏み入れたのが、三週間ほど前。すかさず店員が寄って来て、ブラックでよければ 128GB モデルが一台だけございます!というではないか。これは運命の出会いに違いない!いや、セブン教の教祖様と称すメフィストフェレスのお導きやもしれん...




1. バッテリーを持たせよう..
この手の電子機器で、一番気になるのはバッテリーの持ち時間であろうか。いくらリチウムイオン電池にメモリ効果がないとされても、物理構造からして完全にゼロってことはないだろう。バッテリーを傷めないためにも、なるべく使いきって、フル充電を繰り返す、といったことを心掛けてはいるが、なかなかそうもいかない。
また、バッテリー容量が物理的に大きくても、OS やアプリが浪費すれば同じこと。減り具合は、ブラウジングをやるだけならほとんど気にならないが、音楽をずっと再生しながら使っていると思ったより速く、一日持つか微妙。そんな使い方は滅多にしないだろうが、長距離出張の時はやるかもしれない。
まず、バックグランドや通知、位置情報や機能制限、あるいはアクセシビリティなどの設定を見直し、さらに不要アプリを削除。そして、ソフトウェアの無駄な常駐を避けるために、確実にアプリを終了する方法を知っておくことが肝要であろう。そこで、マルチタスク画面は重宝できる。ホームボタンをダブルクリックすると起動中アプリがサムネイル表示され、上にスワイプすると終了。おぉ~、同時に三本指までいける!

2. テザリングに病みつき...
モバイル機器では、Surface Pro3 に頼りっきりで、常に WiFi スポットを意識して行動していた。気分屋のおいらは設計の仕事で温泉宿に篭もることもあり、前々から自動車を WiFi ステーションにできるといいなぁ... と思ってきた。
しかし、携帯機器でテザリングする方がはるかに現実的だ。iPhone7 における具体的な手段は、WiFi 以外にも USB と Bluetooth が用意されている。3台も繋がれば御の字だが、仕様では5台まで。大手キャリアも大容量プラン(20GB)が出揃ったことだし、これで心置きなく使える。
おぉ~、場末の自宅でも 4G と表示される。実際は、LTE だろうけど。速度は、iPhone7 経由 Surface Pro3 で、30Mbps ぐらいはコンスタントに出てくれる。十分仕事に使えるレベルだ。さっそく露天風呂へ速度計測に行かねば...

3. Safari vs. Chrome
最も用途の多いブラウザの選択は、ちと気を使う。ブックマークなどのデータ移植性を考慮すれば、断然 Chrome だろう... と思っていたが、iOS 10 に限って言えば、Safari の方が良さげ。タブ表示のアニメーションも分かりやすいし、複数のタブを一括で閉じる時も、タブアイコンを長押しすることで簡単。Web サイトのスクロール中にメニュータブを表示する時も、サイトアドレスをタップしたり、軽く下にスワイプするだけでいい。
とりあえず、Safari をメインに使ってみよう...

4. iTunes も悪くない...
愛の電話を選択する懸念材料の一つに、音楽データの移植で iTunes を経由することがあった。昔からアップップ教は、他社との競合で特殊なアプリケーションを流行らせようとするところがある。SM狂も似たようなものか。
伝統的にアップアップ教とSM狂の相性の悪さは周知の通り。今まで CD から落としたデータフォーマットは、WMA 形式をメインにしてきたが、愛の電話は受け付けてくれない。iTunes は、WMA を AAC に変換してくれるが、どうせなら AAC 形式で直接落とした方が音質もいいだろう。使い勝手も、Windows Media Player より、データの属性を整理する上では良さげだし...
ちなみに、つい最近購入した自動車(クラウン Hybrid アスリートS の標準ナビ)における音楽再生は、USB 経由の iPhone7 と相性はよさそうで、それだけに Apple の CarPlay 対応車種でないことが惜しまれる。

5. コントロールセンターは便利!
画面外部の下から上にスワイプするだけで、コントロールセンターが出現。機内モード, WiFi, Bluetooth, おやすみモード, 画面縦向きのロックがエントリされ、on/off が簡単に切り替えられる。実は、機内モードは、飛行機に乗る時だけでなく、会議中でも重宝している。
また、Night Shift 機能もあって、なんとなく眠りを誘ってくる。この機能はブルーライトを軽減してくれるらしいが、どれほどの効果があるかは知らん。
AirPlay や AirDrop、あるいは、LEDライト(懐中電灯)やカメラなどもエントリ。横にスワイプすると、音楽再生用のカードも出現。しかも、ロック画面でアクセス可に設定できる。

6. 音声コントロールが目障り...
ロック状態でも、何かの拍子に突然ダイヤルしだすからビックリ!こいつをオフする方法が悩ましい。Siri をオンにすれば音声コントロールは抑制できるが、Siri と音声コントロールの両方をオフすることはできないようだ。機能制限で、[Siriと音声入力]をオフしても、音声コントロールは生きてやがる。なんじゃ、この仕様は?
Siri の方はロック画面でオフすることができるので、とりあえず Siri をオンにしておくしかなさそうだ。ただですら騒がしくてしょうがない世間にあって、電子機器までも喋りだしたら収拾がつかない。自動車にも Siri に似た機能が搭載され、不協和音の大合唱!ガミガミと尻(Siri)に敷かれながら生きていくのは辛い...

7. おまけ
  • 指紋認証の使い勝手はなかなか。ロックまでの時間が短くても問題なし。設定の[ホームボタン]って何かと思えば、クリック感が三段階で調節できる。
  • 内蔵辞書が意外と使いやすい。キーボードにカーソルキーを表示させているが、所定の場所を長押しすると、拡大鏡が出現してカーソル位置の移動がやりやすいので無用かもしれない。
  • model A1785 には、クアルコム・モデムが搭載され、インテル・モデムより 30% ほど速いらしい。比較しようがないけど...

ちと気になる点...
  • イヤホンジャックが消えたのが痛い!Bluetooth イヤホンを検討中。Lightning Dock も検討中たが、手帳型ケースとマッチしないかも。
  • サイレントモードをマナーモードと思っていると痛い目に会いそう。着信音、メールの送受信音、クリック音はオフになるが、カメラのシャッター音、アラーム、音楽、ブラウジング中の音声などは消音してくれない。特に、シャッター音はなんでこんなに大きいの?また、モード状態を画面に表示してくれると助かる。暗い場所ではサイレントスイッチがどっちになっているか分かりにくいし、手帳型ケースでは尚更。
  • 通話時、こちらの声が聞こえづらいらしい。手帳型ケースでは、表カバーを裏に折り返すと、背面のノイズキャンセリング用マイクを塞いでしまう。これに注意すれば、改善されるみたい。相手の声も遠くから聴こえてくる感じで、マイクとスピーカの位置に注意する必要がある。
  • ロック画面でカメラ機能を抑制したいが、できないようだ。今のところ?
  • Android Wear と相性が悪いという噂が... 実は、Moto 360(2nd Gen.)とセットで検討していたが、そのうち解決されるだろう。きっと!

2016-11-20

婆(ばぁ)カーに王冠を...

老人に運転免許の自主返納を促すのは難しい。ちょっとボケが入ってくるとヤバい。うちの婆(ばぁ)やは八十近いが、しっかりアクセルを踏んでスピードに乗れるし、まだまだ乗る気十分って感じ。活動的なクソババアなだけに厄介だ!
そして、どう切り出そうかと思案していたところ、向こうから... そろそろやめようかなぁ... と言ってくれた。ちょうど書き換え時期を迎え、最初から更新するつもりはなかったようである。ただ条件に、おいらも一緒にバイクをやめろ!というのだ。まあ、こちらはいつでも復活できるし、しばらくバイク屋に預けることに...

さて、次の車は...
婆ちゃんカーは小ぢんまりとしたアクア。これをおいらの車と集約する。MR2(SW20)を18年間乗り、涙ながら手放したのが二年前。いまだスポーツカー熱はおさまりそうにない。実はロードスターが欲しいのだが、介護や障碍者用となると、そうもいかない。ミニバンやワゴンあたりが適しているが、間をとってセダンが落とし所か。てなわけで、クラウン Hybrid アスリートS に...





かつて、「いつかはクラウン」なんてキャッチコピーもあったが、レクサスブランドのおかげで庶民カーに近づいた感がある。とはいえ、おいらにとって贅沢品であることに変わりはない。王冠のエンブレムが仰々しく、成金時代の臭いも残っていそうで、なによりも爺さんカーのイメージが強い。半世紀も生きてきた野郎が今更なにを、いつも仕事仲間から年寄り扱いされているではないか。アスリートの顔ヅラなら悪くない。そして、納車までのウキウキ感は、いくつになっても同じ...

1. 安全装備は有り難いやら、有り難迷惑やら...
納車時の説明は、1時間以上もかかった。それだけ機能が多いってことか。それだけ故障リスクが高いってことか。
まず、「Toyota Safety Sence P(衝突回避支援パッケージ)」とやらの留意事項にサインを求められる。いくら安全システムを装備しているとはいえ、過信するな!ってか。事故は、やはり自己責任ってか。そりゃ、その通りだが、自動車業界で競って安全性を誇張するのもいかがなものか...
このパッケージは標準で、衝突回避支援、車線逸脱の回避支援、オートマチックハイビーム、レーダークルーズコントロールが装備される。
車線逸脱の回避支援は、50km/h 以上でウィンカーを出さずに車線変更すると警告音が鳴り、ステアリング操作をサポートしてくれる機能。おかげで、路肩に停車中の車を避けるのにちょっと車線をまたぐだけでブザーが鳴ってうるさいし、微妙にステアリングの跳ね返りを感じる。ちゃんとウィンカーを出すか、減速しろってか。
レーダークルーズコントロールは、前の車の速度に追従するシステムだが、渋滞が現れても、きちんとブレーキ制御が働くらしい。怖くて試す気にはなれないけど。
さらに、オプションで、インテリジェンスクリアランスソナーってやつを勧められた。障害物の接近を検知して警告音を鳴らしたり、衝突を緩和したりする機能である。狭い路地などでは非常にありがたいのだが、駐車場ではピーピーうるさい。バックの時はバックモニタでも確認できるが、警告音が鳴ればやはり気持ち悪い。
こうした安全システムは、有り難い面もあれば、有り難迷惑な面もある。もし故障したら... 機能が働かなくなるだけならいいが、誤動作でもされたら却って怖い!慣らされると、危険感知能力も麻痺しそう。技術の進化とは、人間が進化した結果として人間自身を退化させようとしているのか?もう他の車には乗れそうにない。
ただ、運転が上品になったような気がする。急発進や急ハンドルは愚の骨頂と言わんばかりに。なるほど、これがメーカの戦略であったか...

2. スマートキーに遊ばれる!
いきなり駐車場でエンジンを切り忘れる。ハイブリッドはエンジン音がしないから尚更。スマートキーを持って車から離れても、エンジンをかけたままだったら持っていかれる可能性がある。なんと無防備な!そして、一度エンジンを切れば、スマートキーが近くにないと再始動できない。この状態で車道でエンストでもしたら... イレギュラーな行動を想像すると切りがない。
ドアロックは、ドアハンドルの隅っこにあるロックセンサーに触れるだけで施錠できる。センサーは四つのドアについていて、これはなかなか便利!しかし、年寄りが、施錠を確認するためにドアハンドルに触れると、解錠されて大騒ぎ!いくら仕組みを説明しても無駄だ。はたから見ると施錠したようには見えないらしく、心配性なだけに厄介。したがって、運転手は施錠したら、すぐにスマートキーを持って車から退避せよ!
では、施錠したかどうかを確認するにはどうすればいいのか?ロックセンサーに触れて、ドアミラーが閉じるまで、二、三秒間は施錠されていることが確認できる。これに気づくまで、スマートキーの入った鞄を数メートル離して確認したり。スマートキーだけで、こんなに遊べるとは。いや、遊ばれるとは...
ちなみに、洗車時は、スマートキーを車から 2m 以上離すか、節電モードにして下さい!といった注意書きもある。ロック機能が誤動作する可能性があるんだってさ...

3. 標準ナビに異物感!
クラウンを二年前から検討してきたが、最も悩ましいのが標準ナビであった。販売店オプションナビのラインナップとは別に、標準ナビにだけ異物感がある。一年以上前のモデルには、G-BOOK なんて余計なものが装備された上に、おいらにとって必須の SD カードオーディオが装備されていなかった。CD などの音楽は、狭い車内でハードディスクに録音するような仕様になっている。いや、CD を持ち歩け!ってか。なので、もし買うなら販売店オプションナビを選択したいと思っていたが、下取りを考えると標準ナビの方が有利らしい。
そして今回、G-BOOK は廃止され(代わりに T-Connect なんてものになったが)、SDカードオーディオも装備された。必要な機能はほぼ装備され、これなら標準ナビで OK!
... と思っていたら、今度は音楽の操作性に異物感が。表示はグラフィカルで高級感を演出しているものの、微妙に苛立つ。

例えば...
SD カードにはアルバムをジャンル毎にフォルダを階層化して保存し、他の電子機器にすぐに持ち込めるよう構えている。しかし、この標準ナビときたら、すべてのアルバムが並列に表示され、アルバムが100個以上あるため収拾がつかない。おまけに、アルバムの一覧を見ようとしてカーソルをアップダウンさせるだけで、カーソルの位置が合ったアルバムに、その都度切り替わって再生される。
ちなみに、アクアの販売店オプションナビ(NSCP-W62)では、階層表示してくれたし、一覧を見るのに勝手に切り替わることはなかった。表示の仕方はショボいけど、操作性で苛立つことはなかった。
音楽データにはジャンル情報などの属性も保存しているので、せめてジャンル別に表示できればいいのだが、標準ナビの説明書には「本機で SD メモリカードに録音した音楽再生時のみ」という箇所に、「ジャンル別」の表示がある。つまり、外部で録音した SD カードでは、ジャンル別表示ができないと書いてあるのだ。クラウンで録音しなおせってか?そもそも、SD カードを「本機で...」と「外部で...」とで区別する仕様が理解不能。おそらく販売店オプションナビを選択すれば、こんな孤立感はないだろう。結局、USB経由のスマホで操作すればスッキリ!
ちなみに、T-Connect には、Apps とかいうやつがあって、スマホのようにアプリをダウンロードしてナビをカスタマイズすることもできるが、ショボい。
さらに、Apple の CarPlay や Google の Android Auto にも対応していないし、中途半端感は否めない。電子機器と連携すれば、通話や音楽などを一元管理できるし、マップも随時更新され、常に最新状態が保てるのだが、対応車種を検索しても出てこない。というより、日本車メーカーは全般的に対応が遅れている模様。特にトヨタはヤル気がないようで、他のメーカーが対応予定とあるのに、なーんも出てこない。もともと日本車のナビシステムが先行していたという経緯もあるが、つまらん意地を張っていないことを祈る。
但し、たった一つのつまらん苛立ち感のために、他の些細な点まで愚痴に昇格することはよくある...

そもそも...
自動車にナビは必要なのだろうか?前々から自動車を WiFi ステーションにと考えてきたが、スマホでテザリングする方が現実的だし、実際そうしている。となると、自動車は電子機器の充電ステーションか。いよいよ、USB や Bluetooth などの外部接続だけあればいいんじゃないの!と思う今日このごろであった...

4.AT vs. CVT
この手の車のトランスミッションは、AT のイメージが強いが、クラウン・アスリートのラインナップではハイブリット車だけが CVT である。厳密には、ECVT(電気式無断変速機) + 6速シーケンシャルシフト。当初、CVT だけだと思って侮っていたが、マニュアル感覚で6速のシフトチェンジができ、思ったよりもパワー感がある。ただ、前がシフトダウン、後ろがシフトアップだと思っていたら、やってみると逆だった。市販車では、これが一般的だとか。へぇー!これならパドルシフトが欲しいところだが、3.5L ガソリン車とターボ車に装備されるようだ。
ところで、オートマチックには、いまだに抵抗感がある。人間工学的に疑問を感じてきたのだ。ブレーキは本能的に減速のためのものであって、ブレーキを緩めると動力が伝わるという感覚が、どうも馴染めない。半クラッチなんて用語は、ほとんど死語であろうか。
オートマチック限定免許を持っている人の中には、平気で左足ブレーキをやる習慣のある人もいると聞く。確かに、坂道発進などでは有効だ。しかし、パニックに陥って両方踏んだりすると、右利きの人が多いから、アクセルが勝ることもあろう。クラッチが装備されていれば、左足はクラッチ側に固定されるので、とりあえず動力を切断することはできるだろうに。この際、クラッチミートで失敗してエンストが恥ずかしい、なんてことは些細なことだ。
やはり、ブレーキは減速... アクセルは加速... といったマニュアル的な概念の方が安心できそうな気がする。ネアンデルタール人の愚痴だけど...
尚、アクアは、ブレーキを強く踏み込むと、ランプが点灯して坂道発進モードに切り替わり、クラウンは、そんなモードを意識させず、心持ち強めに踏むだけで後ろに下がらない。
ちなみに、カートをやるので左足ブレーキに違和感はないはずだが、公道となると、ちと怖い。ヒール・アンド・トウの方が馴染んでたりして...

2016-11-13

"世界の指揮者" 吉田秀和 著

「音楽についてというのでなく、演奏と演奏家について書くということが、とかく、やりきれないほど皮相的で、あわれなことになりやすいのも、その理由は、演奏の本質によるというより、むしろ人間の心の深いところに潜在しているのであろう。」

「私の好きな曲」(前記事)の文章に魅せられ、吉田秀和氏をもう一冊。ここには、演奏史上に輝く名指揮者たちが紹介される。十九世紀後半から二十世紀にかけて、ちょうど二つの大戦をまたいで生きた芸術家たち。エジソン式録音装置の発明からステレオ録音をはじめ、マルチトラックや多重録音といった音響技術の進化は、兵器技術の近代化と共に歩んできた。彼らが政治利用され、権力との軋轢から亡命を強いられてきたのも、偶然ではあるまい。芸術と政治は実に相性が悪いように映るが、あまりにも対極的な性格だからこそ、逆に引き寄せ合うのであろうか。殺戮の世紀では、聴衆の受動的な態度が受難曲へと誘なう。自己のレクイエムを求めるかのように...

一方で、時代の流れに反発するかのように、レコード録音を好まなかった演奏家も少なくない。録音のために、何度も繰り返して完璧さを求めるなどはナンセンスと言わんばかりに...
ライブ演奏へのこだわりは、機械的完璧より精神的放射を重視した結果であり、即興性こそ音楽の本質というわけか。本書は、このタイプの指揮者にクナッパーツブッシュとフルトヴェングラーを挙げ、特に熱狂的な信者を獲得しているという。
「フルトヴェングラーという音楽家で特徴的なのは、濃厚な官能性と、それから高い精神性と、その両方が一つにとけあった魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだという点にあるのではないだろうか...」
演奏する気分は、その時々において違うはず。その場の気分を尊重するという意味では、崇高な気まぐれ!とでもいおうか。ずいぶん自由気儘に生きているようで、実は辛抱強く、苦しみにじっと耐えるだけの豊かさを具えているのであろう。自由と苦難は背中合わせにある。即興性とは、まさに一期一会...
「僕のこの時のフルトヴェングラー体験の絶頂は、アンコールでやられた『トリスタンとイゾルデの前奏曲』と『イゾルデの愛の死』だった。オーケストラの楽員の一人一人が、これこそ音楽の中の音楽だという確信と感動に波打って、演奏している。いや確信なんてものではなく、もうそういうふうに生まれついてきているみたいだった。フルトヴェングラーが指揮棒をもった右手を腰のあたりに低く構えて高く左手を挙げると、全オーケストラは陶酔の中にすすり泣く...」

ところで、ポップスやロックなどの音楽ジャンルでは、オリジナルとカバーの境界が明確にあるのに、クラシックとなると、どの演奏家も正当性を主張してやがる。指揮者とオーケストラの組み合わせだけでも個性はほぼ無限だ。機械的な正確さや融通の利かなさは、芸術性における欠点となるはずだが、演奏家たちはそれを逆に特徴づけている。彼らは彼らなりに余計な演出を削り落とす。作曲家の要請に指揮者はどう向き合うか?どう解釈するか?そこには普遍性と多様性の対立、いや調和がある。音譜や記号だけでは表現しきれない精神領域が、確かにある。自由との葛藤の中から、薄っすらと見える共存性のようなものが。音楽はどこまでも美しくなければならない... と言ったモーツァルト風の立場と、真実を行なうために破ってはならない美の法則などない... と言ったベートヴェン風の立場の共存とでもいおうか。おそらくクラシックファンを魅了する最大の要因は、ここにあるのではなかろうか...

1. ローリン・マゼール論
ここに紹介される指揮者の中で、おいらが実際に演奏を耳にしたのはマゼールだけ。そのために印象に残るのか?マゼールを論じた文章に魅せられるのであった。マゼールの中に、芸術家の宿命づけられた孤独論を見るような...
「マゼールの音楽も、もちろん、これからだっていろいろ変わることもあるだろう。しかし、あすこには一人の人間がいるのである。あすこには、何かをどこかからとってきて、つけたしたり、削ったりすれば、よくなったり悪くなったりするといった、そういう意味での技術としての音楽は、もう十歳になるかならないかで卒業してしまった、卒業しないではいられなかった一人の人間の音楽があるのである。それが好きか嫌いか。それはまた別の話だ。」
彼は、寡黙なだけに、気難しく自意識の強い、冷たい芸術家と見られがちだと指摘している。ただ、言葉よりも説得力のある世界観を提供してくれるのが音楽家というもの...
「彼は自分が何かの中に閉じこめられてしまっているのを感じているうえに、幸か不幸か、あまり言葉というものをもっていない男なのだ。言葉による自己表現というものについて、慣れてもいなければ、自信もない男なのだ。彼は話をしても、他人には自分のことをなかなかわからせることができない。そういう彼にとって、バッハの器楽は、過度に神経質でも、感傷的でもなければ、衝動的でも情動的でもなく、均整と明確さを失わず、しかも、表面的に流れたり、感覚的なものに没入したりすることのない、安心してつきあえる最高の世界を提供してくれる...」

2. トスカニーニ vs. フルトヴェングラー
フルトヴェングラーを崇拝している人は、おいらの周りにも少なからずいる。個人的には崇拝するほどではないが、むかーし名声につられて、レコードではベートヴェンの九つの交響曲をフルトヴェングラーで揃えたものだ。CDでは頓挫中だけど、いや、ハイレゾ音源で復活させたい!したがって、おいらの中のベートヴェン交響曲は、フルトヴェングラーが基準になっている。
本書は、運命交響曲の感想をこうもらす、「怪物がこちらに向かって歩いてくるような感じ...」と。苦悩に満ちたファウスト的な物語を欲する狂人的な酔いどれ天の邪鬼には、フルトヴェングラーは間違いなくいい。
ところが、本書は少しだけトスカニーニの気分にさせてくれる。評価の難しい指揮者の一人として紹介されるが、ラテン系ということもあって希薄なイメージがつきまとう。だが、実はそうではないことを証拠だてるものが、ベートヴェンやブラームスの中にではなく、ヴァーグナーの指揮に見いだせるのだという。トスカニーニの第五は、フルトヴェングラーの怪獣が咆哮しているような不気味で重苦しい緊張とは正反対の、軽快な光明の力強さ、壮大な勝利の歌、凱旋の行進であるという。トスカニーニと言えば、NBC交響楽団。金に糸目をつけずに粒よりの名手を集めて、トスカニーニという一人の指揮者のために提供されたオーケストラの存在は、まさにアメリカンドリーム!感化されやすい泥酔者は、さっそくNBC交響楽団のベートーヴェンを、ショッピングカートへクリックするのであった...

3. カラヤン評
指揮者というより、ディレクターのイメージが強いカラヤン。音響技術に映像技術を結びつけた企画運営は、技術面と経済面の双方において総合監督を務めた。おいらが学生時代、権威あるクラシック音楽に余計な演出を... といった批判も耳にしたものだが、カラヤンの発案はディジタル時代にいっそう開花したと言えよう。今では、CLASSICA JAPAN といった専門チャンネルでも放映され、つくづく幸せな時代だと思う。酒をやりながら即興性を体感できるのだから。本書は、こう評している。
「カラヤンの演奏には、モーツァルトを、こういじる、ああいじるという作為の跡が少しもなく、むしろ、モーツァルトの音楽に導かれて、それに忠実に演奏するよう心がけているとでもいった趣があった...」

尚、本書には、28人が紹介される。
・ヴァルター
・セル
・ライナー
・サバタ
・クリュイタンス
・クレンペラー
・ベーム
・バーンスタイン
・ムラヴィンスキー
・クナッパーツブッシュ
・トスカニーニ
・ブッシュ
・マゼール
・モントゥ
・ショルティ
・クラウス
・ブレーズ
・ミュンシュ
・フルトヴェングラー
・ジュリーニ
・バルビローリ
・クーベック
・ターリッヒ
・アンチェルル
・ロジェストヴェンスキー
・フリッチャイ
・アバド
・カラヤン

2016-11-06

"私の好きな曲" 吉田秀和 著

古本屋を散歩していると、音楽を文章で魅了する書に出くわした。四、五ページも読み進めると、こんな文面に出くわす...

「あの第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンがリレーしながら奏する旋律をもって出発した主題の上に、つぎつぎと書き加えられてゆく変奏。どれもが全くちがった性格を与えられていて、しかもいずれ劣らず、微妙と力強さの破綻のない均衡の上で、よく歌い、よく流れてきた上で、そのクライマックスとして、アダージョ・マ・ノン・トロッポ・エ・センプリーチェが忽然として出現してくる時のすばらしさ。それは、芸術の最高のものには、荘厳さがつきものであること、それも、単純さ、動きの少なさと不可分であることを教えているみたいである。やがて、和音の柱だけでできていたような変奏に、チェロが奇妙なトレモロを刻むようになり、旋律も凍りついたような姿勢から徐々にやわらかく動きをましてくる。この部分の与える感動については、何といったらよいだろう...
残念ながら、私たちの言語には、こういう音楽の動いている霊妙な領域について書きしるす能力が与えられていない。」

これは、ベートーヴェン「弦楽四重奏曲嬰ハ短調 作品131」の第三楽章についての記述。丸谷才一が、この音楽評論家を称賛したのも頷ける。

言葉にできない音楽があれば、音楽にできない言葉がある。双方とも補完しあうかのように、魂を表象する記号として君臨することに変わりはない。心に響く周波数は人それぞれ。自分にとっての最高の芸術を、世間の評判や専門家の見識などで決められるものではない。
とはいえ、不朽の名作というものは確実に存在する。それは、人間の普遍性なるものを体現しているからに違いない。はたして、多様性と普遍性はどちらが真理であろうか。おそらく、どちらも真理なのであろう。真理は一つとは限るまい。音楽に何を求めるか?音楽にどこまで求めてよいものか?芸術家は愚痴るだろう... 私にそこまで求められても... と。天才芸術家は自分で創造し、自己完結できるが、凡庸な鑑賞者の感性は贅沢になるだけで、自慰行為もままならない。そして、永遠に受難曲に縋るという寸法よ。なんと無情な...

専門家でも、ありきたりではあるが、やはりバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三巨匠は外せないと見える。バッハの「マタイ受難曲」を西洋音楽で一番偉大だといい、ベートーヴェンの大フーガを桁外れの巨大な存在だといい、モーツァルトには、こんな賛辞を贈る。
「クラリネット協奏曲の両端楽章は、ほとんどモーツァルト自身をさえ越えている。ただ、こういう音楽を書いたものが、ほかにいないので、私たちはその作者をモーツァルトと呼ぶほかないのだといっても、さしつかえないだろう。」
そして、ヴァグナーを抜きにして「私の好きな曲」は完成しないと熱く語る。ヴァグナーはバッハに劣らず、自分の仕事を完全に支配する絶対的な至上権のような存在、Souveraineté... であると。
ややオーストリア = ドイツ色が強い気もするが、本書の題名からして思いっきり主観で語ることを宣言しているようなもので、それが個性というものだろう。
ただ、バッハとモーツァルトだけで、もう満腹!作曲家を選出するだけでも大変だというのに、一人の音楽家からどの曲を選ぶかは更に難しい。例えば、ベートーヴェンの九つの交響曲だけでも、エロイカ、運命、田園、第九とすぐに思い浮かぶ。本書は、第九を挙げながら、ベートーヴェン交響曲の偉大さを語るという形をとっているが、個人的には第七番を推したい。ドヴォルジャークについて言えば、「第八番」を挙げているが、これは同感である。個人的には第九番「新世界より」も捨てがたいが、あまりにも好きな曲というものは少々聴き飽きた感がある。ただ子供の頃、初めてレコード屋で買ってもらった曲がこれで、深い思い入れもある。幼児期体験とは恐ろしいもので、第四楽章で鳥肌が立つあの感触は、いまだに残っている。
奇妙な事に好きな曲ってやつは、一旦コレクションしてしまうと、いつでも聴けるという安心感から、聴く機会が減るところがある。それは音楽に限らず、映画でも書籍でも同じ。コレクションとは、ある種の贅沢病か...

ところで、単に「好きな曲」というのと「好きな曲について書く」というのとでは、少々違うようである。文章にするからには論理的に記述することになり、好きな理由も求められる。そして、自己形成において影響を与えた領域にまで踏み込むことになり、「好きな」という定義もなかなか手強い。
例えば、好きな曲に属さないものの... と断りながら、ラヴェルのバイオリン・ソナタを紹介してくれる。とげとげしながら、不快な快感のようなものを与えると。
同じような観点から、個人的にはシューベルトの「エルケーニヒ(魔王)」を挙げたい。ついでに、未完成交響曲とザ・グレートも。シューベルトは31歳の若さで死んだ。それ故に、人生の未完成を強烈に印象づける。経験を積むことで自由と純粋さを忘却の彼方にほっぽり出すなら、なにも長生きをしてまで悟る必要もあるまい... と言わんばかりに。
また、BGM でよく用いる曲は、圧倒的にモーツァルトで、次にショパンといったところだろうか。チャイコフスキーも外せない。BGMってやつは適度に集中力を促す存在なので、絶妙な脇役を演じてもらいたい。仕事中に音楽に神経が傾いては本末転倒。ただし、酒の BGM となると別で、どちらが脇役やら?人生の BGM で魔王に憑かれても、焼酎「魔王」をやれば相殺できるという寸法よ。
酔いどれ天の邪鬼は、ファウスト的な物語に憑かれやすい。熱病的な悲愴や狂信的な荘厳に。長調系よりも短調系を好むのは、心の底まで凍りつくような感動を渇望しているのか、それとも、退屈病に蝕まれているのかは知らん。おいらの背景耳には、ピアノの周波数がよく合う。それも協奏曲に。オーケストラとの掛け合いの中で互いの素材を融合させながら、ピアノの詩人は即興的な論理展開をもって、気まぐれを爆発させる。聴衆の方はというと、休止している間も息を殺して、独奏者の狂人ぶりを待ちわびる。そう、カデンツァだ!協奏曲とは、ある種の狂葬曲を意味するのかもしれん...

尚、本書には、26曲が紹介される。
・ベートーヴェン「弦楽四重奏曲嬰ハ短調作品131」
・ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ ハ短調作品111」
・モーツァルト「クラリネット協奏曲 K.622」
・シューベルト「ハ長調交響曲D.944」
・ストラヴィンスキー「春の祭典」
・ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」
・ドビュッシー「前奏曲集」
・ヤナーチェク「利口な女狐の物語」
・R. シュトラウス「ばらの騎士」
・ブルックナー「第九交響曲」
・J. S. バッハ「ロ短調ミサ曲」
・ハイドン「弦楽四重奏曲 作品64の5」
・D.スカルラッティ「ソナタ」群
・シューマン「はじめての緑」
・ヴェーベルン「弦楽四重奏のための五つの楽章作品5」
・フォレ「ピアノと弦のための五重奏曲第二番」
・ドヴォルジャーク「交響曲第八番」
・ショパン「マズルカ作品59」
・ヴァーグナー「ジークフリート牧歌」
・バルトーク「夜の音楽」
・ヴォルフ「アナクレオンの墓」
・ベートーヴェン「第九交響曲」
・ベートーヴェン「弦楽四重奏曲 作品59の1」
・モーツァルト「ピアノ協奏曲変ホ長調 K.271」
・ラヴェル「ヴァイオリン・ソナタ」
・ベルク「ヴァイオリン協奏曲」

2016-10-30

WUuu... 十字架バージョンよ、記念日の呪いは解けたか?

WUuu.... (Windows Update の略: うぅぅ... と唸りながら発声する。)

Anniversary Update よ、お前もか!
こいつにしばらく呪われ、記事「Win 10 にアップして、あっぷっぷ!... そして半年後」のコメント欄に愚痴ってきた。累積的な更新プログラム KB3194496 と KB3197356 で立て続けに呪われ、KB3194798 でようやく落ち着いた模様。
そして半月が過ぎ、平和が戻ったような気がするので、その経緯をまとめておく。いや、気のせいかも。おかげでアップデートの度にビグビクする有り様。パブロフの犬の遠吠えか!WUuu....

もともと、そういう癖のある OS なのか?メジャーアップデートの度に、これではかなわん!呪われた期間は13日ほどだが、これが意外と短く感じられた。ユーザの飼い馴らしはお見事。呪われた期間が徐々に短くなれば、そのうち有り難く感じたりして... さすが、MS教(= SM狂)!
ちなみに、この「魔の13日」が我慢できず、宗旨替えをした人もいる。七つの大罪を背負ってセブン教に戻ったり、黒い林檎とにらめっこして、あっぷっぷ教に改宗したり...

1. Anniversary Update の通知があり素直に応じた ...2016.9.14
ver.1607: OSビルド 14393.187

環境設定がチャラにされるのは、相変わらず。カスタマイズを施しているほど被害は大きい。
・キーバインがチャラ。
・システムの保護が無効になる。意味がないってか?
・他にも設定が...

ただ、この時点では大きな問題はなかった。
ところで、32bit版は、当初、メモリ容量が 1GB だったが、新しい要件では、2GB に変更されたんじゃなかったっけ?事務員さんのマシンは、1GB しかないのだが、メッセージに従ってアップデートしちゃったみたい。しかも、動いてるっぽい。ちと重くはなったようだが。ただ、システム要件が変わるものを、アップデートと呼べるのかは知らん...

2. KB3194496 が提供され、呪われる ...2016.10.1
ver.1607: OSビルド 14393.222

こいつの不具合は世間を騒がしているようだが、噂どおりだった。アップデートには、マシンによってはえらい時間がかかるものもあったが、無事終了!
... と思いきや、時々ブルースクリーンに切り替わり、システムエラーを吐いて再起動がかかる。まったく気分はブルー!
そういえば、アップデートに時間のかかったマシンが、ブルーな気がする。再起動のタイミングは、マシンを起動して数分後。なので、最初の10分ぐらい、怖くて触れない。呪われたマシンは、10台中、2台!大会社のシステム管理部門ともなると、こりゃ大変だろう...

3. KB3197356 が提供されたが、呪われたまま ...2016.10.6
ver.1607: OSビルド 14393.223

イベントログには、例のごとく、いや霊のごとく、Kernel-Power 41 が刻まれる。今のところ、作業中にぶっ飛んだことはなないが、KP41 病原菌が潜伏しているとすれば、いつ何が起こるやら?作業中もビクビクしながら十数分ごとに保存している有り様。なんてスリリングなシステムだ!

4. KB3194798 が提供され、呪いは解けたか? ...2016.10.12
ver.1607: OSビルド 14393.321

以来、KP41 病原菌をとんと見かけない。恐る恐るディスククリーンアップをかけると、重さも改善された。ただ、スリリングな感覚は、更新プログラムが実行される度に条件反射と化す。

また、nVidia GeForce GTS 240 の最新ドライバがリリースされたので、手動でアップデートすると、wu のヤツが新しいドライバを見つけたといって勝手に前バージョンに戻しやがる。

・GeForce GTS 240 ver. 341.98(64bit版) : 最新版
・GeForce GTS 240 ver. 341.92(64bit版) : 現行版

前にも同じ現象があったが、ここでも最新版のドライバは 1607 と相性が悪いとでも言っているのだろうか?余計なことをして呪いが復活するのも怖いので、ここは素直に wu に従っておこう...

5. KB3197954 が提供され、問題なし! ...2016.10.28
ver.1607: OSビルド 14393.351

2016-10-23

"ロシア皇帝の密約" Jeffrey H. Archer 著

本棚の奥底から出土された考古学的発見から、さらにもう一冊。読んだ記憶がまったくないということが、いかに幸せであるか!なんでも新鮮に感じられることこそ、アル中ハイマー病患者の真骨頂!それは、学生時代から進歩がない証でもある...

この物語は、「ケインとアベル」や「めざせダウニング街10番地」といった財界や政界のサクセスストーリーから一転し、むしろ処女作「百万ドルをとり返せ!」に近い冒険活劇。平凡な一市民がふとした事から陰謀に巻き込まれ、次々に迫る偶発的な危機に翻弄される。なぜ俺が?そう、巻き込まれ型スパイ小説ってやつだ。素人の行動パターンがプロを撹乱するが、単純なミスによって結局はチャラ... これもよくあるシナリオ。
ジェフリー・アーチャーは、スキャンダル沙汰で一旦政界を退くが、1985年、サッチャー首相によって保守党副幹事長に抜擢された。この作品は浪人中に執筆されたものであり、いわば原点に立ち返った作品と言えよう。
陰謀の渦巻く世界では、知りすぎたために命を縮める。無知でいることが、いかに幸せであるか!推理小説ってやつは、そんな無知な酔っぱらいを退屈病から救済し、おまけに、麻薬のごとく病みつきにさせやがる...

1. 帝政ロシアとアメリカの条約とは...
1867年、帝政ロシア外相エドワルド・デ・シュテックルとアメリカ国務長官ウィリアム・シュワードとの間で協定が結ばれた。アラスカ購入と噂される条約である。やがて訪れる革命の機運。ボリシェヴィキの台頭によって皇帝一家の運命は決まった... ここまでは歴史的事実である。
さて、物語は...
皇帝ニコライ2世は条約書をある名画の裏に隠して西側へ送り、家族と自身の安全を図ろうとした。実は、条約には買い戻しの条項があったとさ。ニコライ2世は、命乞いのために、あらゆるハッタリをかましたという説があるが、真相は知らん。
「皇帝が命とひきかえにレーニンになにを約束したか知っているかね...」
ある名画とは、聖ジョージの竜退治を描いた「皇帝のイコン」。この美術品は、数日間宮廷から消えたという召使の証言がある。それは、1915年、ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒの訪問後のこと。ちょうどドイツとロシアは戦争の最中、そんな時期にヘッセン大公がわざわざロシアへ何をしに来たのか?巧妙な推理小説には、しつこいほどの前戯が欠かせない...

2. 「皇帝のイコン」の行方は...
1966年、元英陸軍スコット大尉は、死んだ父から名画「皇帝のイコン」をスイス銀行に遺された。なぜ、スコットの父親がこの名画を受け継いだのか?スコットの父親も軍人で、第二次大戦後のニュルンベルク裁判でナチス上級戦犯の警護隊の指揮官に任じられた。息子への手紙には、ヘス、デーニッツ、シュペーアらを寛大に扱う一方で、ゲーリングには反感を覚えたことが綴られる。処刑前夜、ゲーリングは私的な面会を申し入れ、手紙を託したという。手紙には絵画を贈与する旨が...
ヨーロッパ中の美術品を漁りまくったことで悪名高いゲーリング。彼は青酸カリのカプセルを飲んで自殺した。絞首刑に処せられるべき人物が、人前でその死を晒すべき人物が...
毒物の入手経路は?最後に面会したスコットの父親が疑われ、無実の汚名を背負って生きてきた。この絵画にどんな重大な意味が隠されているかを、スコットは知らない。おそらくゲーリングも知らなかっただろう。知っていれば、身の安全を図るために西側と交渉する武器となるのだから...

3. KGB と CIA の追跡
ソ連では、ブレジネフ書記長が「皇帝のイコン」が偽物であることを見つけ、本物には重大な条文が隠されていた可能性に気づく。そして、KGB に奪還を命じる。本物の流れた経路は、ヘッセン大公からナチスか...
戦後、発見された多くの絵画は本来の所有者に返還されたが、まだ行方不明のものが相当数ある。国家が危機にあれば、事態をいち早く知る政治家が資金を海外に逃避させるのは常套手段。そして、人目に晒したくない財産は中立国にあるスイス銀行を経由する。おそらく、ここに世界中の大多数の国家が頼みにできるほどの個人資産が眠っていることだろう。
尚、現在スイス当局は、マネーロンダリング防止法により、疑わしいと思われる資産すべてに報告の義務を課すなどして、取り締まりを強化している。それは、あらゆる国家でも同様に、出入りする資金を厳重に監視しているはずだ。とはいえ、いまだ隠れ蓑としての中立国の存在は大きい。
KGB情報部のロマノフ少佐は、スイス銀行に眠ったままの可能性を探った。しかし、一足先に絵画はスコットが回収していた。そして、スイスからイギリスへ帰還するまでのスコットの逃亡劇が始まるわけだが、なぜかこの事態にアメリカが気づく。誰かが情報をリークしているに違いない。KGB と CIA にスイス警察やフランス警察が介入し、誰が敵で誰が味方やら?
頼みは、RPO(ロイヤル・フィルハーモニー オーケストラ)のコントラバス奏者の女性ロビン・ベレズフォードが、ひょんなことから手助けしてくれること。スコットは、RPOのチャータするバスに乗り込んで国境を目指すのだった...

4. 重要なキーワードとは?
スコットは「皇帝のイコン」という絵画ごときで、なぜ二大大国に追われるのか納得がいかない。絵画をよく調べてみると、フランス語で書かれた機密文書らしきものが隠されている。フランス語に疎いスコットだが、単語を一つ一つ丹念に調べると、どうやら 1867年の条約書らしい。目につく文字は... 1966年6月20日... 720万ドル... 7億1280万ドル... そして重要なキーワードは...
「やがてフランス語でも英語でも綴りが同じ一つの単語のところで目の動きが止まった。」
その頃、ホワイトハウスでは、ジョンソン大統領がつぶやく。
「アメリカ合衆国の一州を返還する史上初の呪われた大統領になるのはまっぴらだな。」
今日は、1966年6月17日。この文書が、三日後に効力を失うとしたら。しかも、同じジョンソンが絡んでやがる。1867年にアンドリュー・ジョンソンがロシアから買った土地を、1966年にリンドン・ジョンソンが売って返さなければならない。
ところで、なぜこんな馬鹿げた条件に同意したのか?土地購入価格が720万ドルで、インフレは事実上まだ知られていなかった。当時の政治家は、売った価格の99倍、すなわち、7億1280万ドルで買い戻すことができるとは微塵も考えていない。インフレにかかれば、百年の価値をも覆すのだ。
ソ連にしてみれば血を流さずに、アメリカの早期警戒システムを無力化できるばかりか、ソ連の短距離ミサイル基地に変えるチャンスが転がってきたのだ。二大大国が目の色を変えるのも頷ける。
尚、本物語には、肝心なキーワードがどこにも見当たらない。まぁ、仏語でも英語でも綴りが同じというだけで、それが地名であろうことは、すぐに察しがつくのだけど、はっきり言ってくれないと眠れそうにない...

5. ロマノフの運命とスコットの気晴らし...
スコットは、ルーブル美術館に絵画を隠した直後に、フランス警察に保護される。そして、ユニオンジャックのはためく大使館のジャガーに乗せられ安堵するが、よく見ると愕然!1801年、グレートブリテン及びアイルランド連合王国となってからのユニオンジャックは左右対称ではない。イギリス政府の車なら間違った向きにつけるわけがない。スコットは理解した。KGBに捕らえられたことを。
ロマノフは、父親の名誉を回復するための証拠がソ連側にあると言って、取引を持ち出すが、スコットは拒否。そして、十分に恐怖を匂わせながら、激しく拷問にかける。
「拷問は大昔からの名誉ある職業だ... 性行為と同じく拷問においても前戯は最も重要な要素だ...」
だが、スコットは隙を見て脱出に成功。絵画を回収してダンケルク経由でドーヴァー海峡を渡り、無事イギリスへ帰還する。それを知ったブレジネフは、KGB議長に対してあからさまな不興を示す。
そもそも「皇帝のイコン」が偽物だということをレーニンが気づいてさえいたら。都合の悪いことは、すべて死者のせいにするのがロシアの伝統芸か。だが、レーニンは批評を超越した存在で、生きている者の中からスケープゴートを見つけることになる。
ただ、物語はこれでは終われない。スコットは、ついにロマノフを葬る方法を思いつく。ソ連大使館に連絡し、取引を持ち出す。本物と偽物を交換したいと。父の潔白を証明する文書も一緒に。そして、取引は成立し、ロマノフは本物の回収に成功。だが、彼は「皇帝のイコン」の持つ本当の意味を知らなかった。真相を知った途端に命が危うくなるのが、スパイの宿命!
一方、スコットは、ゲーリングの独房に毒薬を持ち込んだのが父親ではなかったことを知って御満悦!とはいえ、世間に公表できる代物ではない。内閣文書が解禁となる1996年まで待てば、真相は明らかにされるだろうか?

2016-10-16

"めざせダウニング街10番地" Jeffrey H. Archer 著

本棚の奥底から埃をかぶった書の群れが出土された。引っ越し貧乏だったので、その都度、処分してきたはずだが。「ケインとアベル」に魅せられ、ジェフリー・アーチャー狂になったことだけは、かすかに覚えているものの、内容となるとまるで覚えなく。まさか学生時代に読んだ本で、もう一度、幸せにあやかろうとは... 進歩していない証拠というわけか。この考古学的な発見に感動を禁じ得ない...

ダウニング街10番地とは、イギリス首相官邸の所在地であり、政治の中心街。日本でいえば永田町である。1964年、貴族、中流、労働者出身の三人の新人議員が下院入り。陰謀、スキャンダル、国際紛争に揺れる政界にあって、首相の椅子を巡ってしのぎをけずる野郎ども。周りには... 女でしくじる者あり、破産して辞職する者あり、ライバルを蹴落とすために策を弄する者あり、見返りを求めてやまないタカリ屋あり... 卑劣な小悪党どもが寄生虫のごとく群がる。
「きみたち政治家はどんどん鈍くなってゆくようだな。きみに一株提供するとしたら、わたしがどれだけの見返りを要求すると思う?... 会社の1パーセントが1ポンドできみのものになるんだよ。... もう一度くりかえすが、わたしは会社の1パーセントを1ポンドとひきかえにきみに提供しようといっているんだよ。」
見事なほどの紳士の台詞!権力欲、名声欲、金銭欲を剥き出しにするからこそ人間味に溢れている。
一方で、ご婦人の冷ややかな台詞が象徴的に響く... まったく政治というのは騙し合いなのね!まさにゲーム!ゲームに勝利すれば世界は俺のもの?... おまけに、総選挙や党首選までも賭けの対象にしてしまうイギリスの国民性が絡み、報道屋もヒートアップ!
この皮肉に満ちた政治道は、しょうのない人間の性癖を観察するには、絶好の場というわけか。そして1991年、サッチャー首相退陣。エリザベス女王退位後の新国王チャールズが決定した首相は?
アーチャー自身が、政界に身を置きながらスキャンダル沙汰で何度か辞職した経験を持ち、いわば、お庭ネタ。
尚、彼が副幹事長に任命されて政界に復帰できたのは、保守党人気の低迷に苦慮するサッチャー首相が、総選挙に向けて世界的作家のタレント性に目をつけた、という見方が一般的なようである。そして、冒頭には、こう綴られる...
「この小説はフィクションである。登場人物の名前、性格、場所、事件などはすべて作者の想像力の産物か、フィクションとして使われたものである。現在の事件、場所、現在または過去の人物に似ているとしても、それはまったくの偶然である。」

この物語は、貴族、中流、労働者の階級闘争という三つ巴の構図を呈する。だが実は、米版と英版で大きく違うそうな。英版では、もう一人、スコットランド選出の議員が加わって四つ巴になるとか。首相レースで勝利する者も違うらしい。イギリスの複雑な政治事情を分り易くしたものが、米版ということのようだ。そして、本書は米版ということになる。それでも、イギリス政党政治の複雑な事情を浮彫にする。
「イギリス憲法は、北海に浮かぶあの小さな島に生まれなかったほとんどすべての人間にとって、また一度もその岸をはなれたことがない多くの人間にとっても、大きな謎のままにとどまっている。これはひとつには、アメリカ人と違って、イギリス人が1215年のマグナ・カルタ以降いかなる成文憲法も持たず、あらゆる点で前例を踏襲してきたことにもよる...」

1. 政権交代の事情
一般的に、イギリス議会は貴族院(上院)と庶民院(下院)の両院制とされる。ここに国王の決定が絡むと、国王を含めた三院制とする古い学説も頷ける。
まず注目したいのは、保守党と労働党で比較的頻繁に政権交代が行われていることである。この点はアメリカ議会も同じで、民主主義のあるべき姿と言えば、そうかもしれない。イギリスの場合、これを根本的に支えている原理に「影の内閣」の存在がある。議員内閣制であるからには、不信任決議がいつ成立するか分からない。イギリス首相は5年の任期があるが、いつでも解散総選挙にうってでて国民の総意を問い、野に下る危機感を持っている。そのために、与野党ともに、次期政権を担うための準備を怠らず、常に本格的な内閣組織をちらつかせる。
ちなみに、この影の存在は、かつての日本のそれとは意味が違うようだ。日本では、本当に影で操っていた派閥のドンが存在した。今はどうかは知らんが。おまけに、政権交代の方が目的化し、巨大与党の残党や脱退の寄せ集めとなるケースが横行する。実際、二大政党制という形ばかりを崇める政治家も少なくない。ほとんどが与党の失策で野党第一党が担がれる事例ばかりで、本格的に民意が反映されることは、ごく稀。仮に優れた政策を立案したとしても、自分が関与できなければ反対派に回るような露出狂ぶり。政権交代によって、さらに悲惨な状況を露呈すれば、元の鞘に収まり、より傲慢にさせる。結局、破壊屋の餌食となって終わるのは、どこの国の事情もあまり違いはないようだ...
政治屋というのは奇妙な思考の持ち主で、支持率を足し算することばかりに執着し、合併によって新たな不支持者が生じるなどとは考えないものらしい。この足し算の思考は、報道屋にも働くようで、視聴率がまさにそれ。スポーツ中継にバラエティー要素を混在させれば、純粋にスポーツも楽しめない。彼らには引き算という概念がないのか?
政治哲学がないということが、国民にとっていかに不幸であろう。それを選出しているのが国民自身だから仕方がないのだけど、あまりにも選択肢がなさすぎる。ほとんど消去法で選出されているにもかかわらず、政治屋どもの勝利宣言は目に余る...

2. 議会制度の事情
イギリス議会、特に下院の運営の仕組みがややこしい。選挙で影響力を持つ「境界委員会」というものが登場する。1944年に設置された委員会で、人口の増減に合わせて選挙区の新設、廃止、統合を行い、議席を適正に再配分するという。
ちなみに、日本では一票の格差で違憲が指摘されて久しいが、そもそも現行の選挙制度で当選してきた連中に改正ができるのか?
さらに、「1922年委員会」というものが登場する。文字通り1922年に設置された委員会で、保守党下院のバック・ベンチャー(役職を持たない平議員)全員で構成される。政策決定の権限はないが、保守党の意見の反響板の役目を果たし、党首選出に大きな影響力を持つという。
日本にも「国会対策委員会」という分かりにくい組織がある。尤もこちらの場合は平議員ではなく、議長よりも事実上の権限を持ち、しかも非公式ときた。そのために「国対族」などと呼ばれ、暗躍組織と揶揄される。どうせなら、こいつを正式な委員会に昇格させて、他の国会議員をリストラしてはどうだろう...
いずれにせよ、権力闘争に明け暮れれば、幼稚な発言しかできなくなるという議会現象は、どこの国も同じようである。三権分立などを持ち出せば、いかにも政治機構の美しさを物語っているようにも映るが、実際のところ、毒を以て毒を制す!の原理に縋るしかない。
尚、政治屋とは、政治家の専売特許ではない。あらゆる集団において、人と人との駆け引きにおいて湧いて出る、いわば人間の性癖である...

2016-10-09

"無罪と無実の間" Jeffrey H. Archer 著

仕事が手につかず、気分転換に本棚を整理していると、埃をかぶった数冊が目に入る。ジェフリー・アーチャー...
「ケインとアベル」が話題になったのは、三十年くらい前であろうか。どんでん返しの結末に魅せられ、十作品ほど読み漁った記憶がかすかに甦る。酔いどれ天の邪鬼は、むかしっから惚れっぽいのだ。引っ越し貧乏だったので、その都度、処分してきたはずだが、目の前に現れたのはまさに奇跡!いや運命に違いない!ただ、一番印象に残っている「ケインとアベル」が見当たらないのは、なんで?
そして、つくづく思う。内容をまったく覚えていないということが、いかに幸せであるか!ミステリーな運命とサスペンスな作風が遭遇すると、ますます仕事が手につかないのであった...

「無罪と無実の間」は、ジェフリー・アーチャーの初の戯曲である。29歳で国会議員になるが、破産して議員辞職。その後ベストセラー作家へ転身するも、保守党副幹事長に抜擢され、コールガールとのスキャンダル沙汰に巻き込まれ、またもや辞職。めまぐるしい浮き沈みの中で、今度は劇作家として甦る。この法廷を舞台にした作品は、世間に渦巻く噂への反感から生まれたのだろうか。原題 "Beyond Reasonable Doubt" は法律用語だそうで、合理的な疑いの余地なく... 合理的な疑問を越えて... といった意味がある。
「正義の泉は無知からではなく、知識から湧きいでるもの...」

物語は、二幕で構成される...

第一幕、法廷シーン
勅選弁護士サー・デーヴィッド・メトカーフは、妻殺害の容疑で起訴された。彼は自らを弁護し、無罪を主張する。妻はリンパ腺の癌を患い、頻繁に激痛に襲われていた。週一回しか服んではいけない劇薬を手渡したのは、故意だったのか?家政婦は証言する... 旦那様は酒を飲んで暴力を揮っていました... 奥様を殺すのをこの目でしかと見ました!
おまけに、株式投資の失敗で膨らんだ借金を、夫人の多額な遺産によって清算した事実が暴かれる。数々の不利な証言で追いつめられていく中、いよいよ陪審員に評決が求められる。
「怒り、同情、その他もろもろの人間感情を頭からしめだしてください。しかしその反面、正当なる疑問の余地がない場合は、いかに気が進まなくとも、評決は有罪でなければなりません。」

第二幕、居間のシーン
「夫人が生きる意志を持ちつづけられたのは、並々ならぬ勇気があったればこそです。」
苦痛をこらえて夫に尽くす妻と、悲しみを隠して陽気に振る舞う夫の姿は、周りにはどう見えるだろう。夫婦仲とは、優しそうで評判のよい人物が DV の張本人であったり、仮面夫婦もあればその逆の場合もあったりと、外から見ると想像のつかぬ謎めいた人間関係なのかもしれない。結婚が人生の賭け、と言われる所以だ。ましてや真の愛など当人以外に分かるはずもない。ちなみに、真の幸せ者は結婚した女と独身の男だけ... と言ったの誰であったか...
「彼女がそれを望み、わたしは断れなかった。それほど妻を愛していた...」
デーヴィッドは、まさに人生の賭けに立たされた。そして、真実を友人に語り、その運命に自ら決着をつけるのであった...

「変りはてた夏の少年たちはわれを見る
もはや死の支配を許すまじ
光の臨終に憤怒(ふんぬ)を、憤怒を
おやすみの夜へとわれは静かにはいりゆかん」

この物語は、イギリスらしい称号が対決構図をより鮮明にしている。それは、女王の弁護士と呼ばれる勅選弁護士(QC = Queen's Counsel)で、国王の治世では KC = King's Counsel となる。もともとは、国王を弁護して功績のあった者に与えられた称号だそうな。近年では、実績を積んだ優れたバリスター(法廷弁護士)に大法官から与えられる名誉の資格だとか。QC になるためには、15年から20年ぐらいの経験を積んだバリスターが大法官に申請するらしい。報酬もぐっとよくなるんだとか。"Silks" と通称されるのは絹のガウンを着ることが許されるからで、下級弁護士(Junior Counsel)を従えて出廷する。
サー・デーヴィッド・メトカーフがその勅選弁護士で、自らを弁護する立場にある。検察側もまた勅選弁護士のアンソニー・ブレア=ブースで、今まで敗北してきた因縁を露わにするのであった...
「挙証義務は検察側にあります。彼らは合理的な疑問の余地なく罪を立証しなければなりません。人間は合法的な理由なしに故意に他者を死にいたらしめたときにのみ、殺人で有罪であります。これが法律であり...」

2016-10-02

"蒼き狼" 井上靖 著

「東方見聞録」に触発されて「元朝秘史」を。その余韻に浸っていると、いつの間にか小説版を手に取っている。「東方見聞録」がモンゴル帝国の支配を贔屓目に伝えているのは、マルコ・ポーロがクビライ・カンに厚遇されたこともあろう。チンギス・カンの一代記として名高い「元朝秘史」もまた、英雄伝にありがちな正義の征服物語といった性格を覗かせる。双方とも主観の濃い歴史書という印象を拭えないが、そもそも歴史とは、解釈で成り立つもの。
だからといって、思いっきり主観の強い小説の領域に踏み入るとは、これいかに?他人の主観と主観を戦わせ、さらに深く自己の主観を彷徨い、主観をくたくたに疲れさせた挙句、その中から客観を見出そうとでもいうのか?もちろん鵜呑みにはできないし、だから小説なのだ。それでもなお、このくらい面白くないと、歴史の理解、いや誤解は深まらない。もはや酔いどれ天の邪鬼の衝動は、とどまるところを知らない...

本物語には、「元朝秘史」の冒頭を飾る発祥伝説が挿入される。
「上天より命(みこと)ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる惨白(なまじろ)き牝鹿ありき。大いなる湖を渡りて来ぬ。オノン河の源なるブルカン岳に営盤(いえい)して生まれたるバタチカンありき...」
ブルカンとは、仏陀のモンゴル語化した形で、仏や神を意味するそうな。初代バタチカンの後、狼と牝鹿の血は長い歳月をかけて受け継がれてきた。そして、十一代目ドブン・メルゲンと妻アラン・ゴアとの間に二人の男子を授かり、間もなく夫は死ぬ。その後も、アランは子を産み続けた。彼女が妊娠する時は、いつも天の一角から光が射し、白い肌に触れたという。そう、感光出生伝説だ。親はなくとも子は育つというが、夫はなくとも子はできるってか。蒙古高原の支配者は、蒼き狼の血筋で、しかも神から使命を授かった者でなければならないというわけである。
しかしながら、正統継承者の長子として生まれた鉄木真(テムジン) = 成吉思汗(チンギス・カン)には、消すことのできないコンプレックスを抱えていた。母ホエルンはメルキト部族に拉致され、男どもに犯された経緯があり、父親が誰かはっきりしなかったのである。出産の時、父エスガイはタタル部族との戦の最中、捕虜とした首領の一人の首を刎ねた。父が与えた「テムジン」の名は、その首領の名だ。チンギス・カンの飽くなき征服欲は、自分が正統継承者であることを証明するためのものであったのか?人間離れした大偉業がなされるところに、神がかった信念が宿り、信念が使命を駆り立て、宿命と化す。そして、息子ジュチの血統もまた...

ところで、分かりやすさという点では、歴史書よりも小説の方が断然優っている。だが、分かりやすさと理解は別の問題だ。例えば、軍制についてこんな記述がある。
「成吉思汗は二十万の金国攻略軍には、独特の編成を施していた。一番の末端は十人ずつを一組にして、それらを次々に集めて百人、千人、万人の部隊を作り、それぞれにそれらを統轄する長を置いた。一万人の指揮官には百戦錬磨の将軍が配せられ、成吉思汗の命令はいかなる時でも幕僚に依ってこれら将軍たちに伝えられ、将軍たちからまたたく間にそれぞれの集団の下部組織へと浸透して行った。」
千戸の制を語ったくだりで、確かに分かりやすい。だが、独特の編成を施していた... というわりには、チンギスの独創性がいまいち伝わらず、物足りなさを感じる。こうした点は、「元朝秘史」の方が優っているだろう。このあたりが小説の限界であろうか。まぁ、そう感じるのも、「元朝秘史」を読んだ後だからであって、本書を先に読めば何も感じないのかもしれない。いずれにせよ酔いどれ読者ごときに真相が分かるはずもない...

1. タイチュウトをやっつけろ!タタルをやっつけろ!
モンゴル族が、いつ頃からこの地に移り住んだかは不明だが、八世紀前後には他の聚落とともに突厥の勢力下に、八世紀中頃には回鶻(ウイグル)に隷属し、九世紀以降は韃靼(だったん)の支配下にあった。韃靼の衰退後、各聚落で家畜や婦女や牧草の奪い合いに明け暮れ、テムジンが生まれた十二世紀中頃には、モンゴル、キルギス、オイラト、メルキト、タタル、ケレイト、ナイマン、オングートなどの部族が住民となっていた。中でも、モンゴルとタタルのニ部族が、指導権を握ろうと絶えず小戦闘を繰り返す。
さらに、モンゴル部族の中でも、数々の氏族に分裂し、主導権争いが絶えない。アラン・ゴアの感光出生伝説から生まれたブク・カタギ、ブカト・サルジ、ボドンチャル・モンカクの三人の男子は、それぞれ、カタギン氏族、サルジカット氏族、ボルジギン氏族の祖先となる。中でもボルジギン氏族は、最も多くの汗(カン)を輩出した名門。ボドンチャルから八代目カブルは、分裂したモンゴル部族を曲りなりにも一つにまとめ、初代汗となった。そして、アムバカイが二代目汗となった時、タイチュウト氏族を名乗って独立する。
三代目は、またボルジギン氏族に戻ってエスガイの叔父クトラが汗となり、エスガイが四代目汗となる。テムジンが生まれた時、ボルジギン氏族とタイチュウト氏族は反目しあっていた。いわば、主家と分家の争いである。タイチュウトの奴をやっつけ、タタルをやっつけ... とは、父エスガイの口癖であったという。テムジンは父の遺志を継ぎ、蒙古高原からタタル族を葬り、続いてタイチュウト氏族を叩くことになる。

2. 嫁探しの旅と異母兄弟との確執
テムジン九歳の時、母ホエルンの希望で、父とともに母の郷里オルクヌウト部族の聚落へ、嫁探しの旅に出た。だが途中、オンギラト部族の首領デイ・セチェンと出会い、彼はテムジンを気に入って我が聚落へ来るよう勧める。ボルテという娘があると。富裕なオンギラト部族と婚姻関係を結ぶことは損な取引ではない。
また、長城に近い地域にあって金国とも交流があり、武器や武具に優れ、蒙古高原で最も高い文化水準を持つと聞く。将来敵となろう金国を知る上でも重要な部族というわけだ。テムジンは父の命で、この地に留まる。
テムジン十三歳の時、父エスガイが死ぬ。タタル族との戦いで勝利したものの、タタル族が催す酒宴で毒殺されたのだ。テムジンは帰郷する。テムジンには、母ホエルンが産んだ兄弟の他に、異腹の弟ベクテルとベルグタイの二人がいた。その二人は反抗的で、お前は母が拉致された時に孕んだ子ではないか、父エスガイの血筋ではない!と罵られると、ベクテルを殺してしまう。テムジンは兄弟を葬った罪を生涯背負うことになる。本当に同じ狼の血が流れているのかと...

3. テムジン一家襲撃事件と客人「ジュチ」誕生秘話
タイチュウト氏族に聚落を襲われ、テムジン捕らわる。この時、ソルカン・シラが逃亡を手助けする。テムジンの手枷を外したのは、彼の息子たち。彼の家はかつてエスガイの配下だった。
また、逃亡の途上で、敏捷な少年ボオルチュと出会い、家に匿われる。テムジンは、タイチュウト氏族の聚落で、ボルジギン氏族に心を寄せる人々が少なくないことを知る。
そして、拉致されて殺されたと思われた不死身な男の下でモンゴル部族が結束を始め、反目していた異母兄弟ベルグタイも従順する。テムジンは恩返しに、ボオルチュとソルカン・シラの二人の子、チンベとチラウンを帳幕に迎えた。ボオルチュとチラウンは、後に四俊馬に数えられる重臣となる。母ホエルンが、老人ジャルチウダイから預かり養育してきたジェルメも、立派に成人して加わる。この老人は、かつて父の帳幕にあった人物だったという。
この時期、蒙古高原の一番の実力者はケレイト部族のトオリル・カン。一時期、彼は父エスガイと親交があり、その誼で同盟する。そして今度は、メルキト部族に幕営を襲撃され、妻ボルテが略奪される。まだ弱小であったテムジンは、同盟者トオリルに応援を頼む。トオリルはジャダラン部族の長ジャムカに伝令し、三連合軍となる。ジャムカは、モンゴル族の最初の汗であったカブル汗の兄弟の後裔でボルジギン氏族に属すが、独立してジャダラン氏族を称していた。そして、三連合軍は勝利する。
ところが、ボルテは妊娠していた。はたして自分の子か?テムジンは混乱しながら、「ジュチ」の名を与える。それは「客人」という意味だ。かつて父エスガイが、自分の子か疑いを持ちつつ、敵の首領の名を与えたように。俺は狼になる!お前も狼になれ!との励ましの名か?それとも、テムジン自身を奮い立たせるための名か?ジュチもまた、蒼き狼の血筋であることを証明しなければならない宿命を負う。

4. 盟友ジャムカとの確執... 血を流さずして殺し!
テムジンとジャムカは盟友を交わす。しかし、ジャムカ陣営では、怠け者は得をし、優秀な若者は損をしていたために、テムジン陣営に鞍替えしたいという者が増えていったという。テムジン陣営は、次第に今までとは違う統制が求められ、帳幕の規模も父エスガイの時代よりも大規模となる。箭筒士と帯刀士を組織し、伝令を作り、軍馬の官、車輌の官、食糧の官、馬を飼育する官、羊を養牧する官などを任命。そして、自分に次ぐ帳幕の最上位にボオルチュとジェルメを就けた。
ジャムカは、自分の帳幕から離脱してテムジン陣営に走った者があることに恨みを持ち、突如、十三部族、三万の兵を率いて進軍を始める。テムジンの臨んだ初の大会戦は、不幸な結果に終わるが、不幸中の幸いと言うべきか、敗走しただけで被害は小さかったという。テムジンに敗戦の実感がなかったように、ジャムカにも勝利感があまりなかったようである。その後、三年間、互いに対峙するも、大きな戦闘には至っていない。
テムジンはトオリルと連合してタタル族を葬り、蒙古高原は、テムジン、トオリル、ジャムカの三つ巴。タイチュウト氏族はジャムカの傘下となった。
ジャムカがトオリルを攻めた時、テムジンは援軍を送り、仇敵タイチュウトを包囲する。この包囲戦で、テムジンは敵の毒矢に当たって負傷し、ジェルメが口で毒を吸い上げ、一命を取り留める。その翌日、包囲されたタイチュウトの聚落から二人の者がテムジン陣営に移ってきた。ソルカン・シラと矢を射た若者である。早く首を落とせ!と潔い若者をテムジンは気に入り、「ジェベ(矢)」の名を与えて臣下に迎えた。
ジャムカはテムジンとトオリルの連合軍に敗れて遠く北方に逃れていたが、再び軍勢を率いて現れ、トオリル陣営に身を投じる。すると今度は、テムジンとトオリルとの対立が表面化する。トオリルが敗れると、ジャムカはその傘下にあったナイマン族に身を寄せた。
ナイマンが劣勢になると、テムジンの本陣にジャムカが自身の五人の部下に縛られて連行されてきた。実に17年ぶりの対面。テムジンは、己の主君に手をかけた者を赦せず、ジャムカの前で五人の首を斬らせた。テムジンにジャムカを斬る気はなかったが、ジャムカは敗れた天運から逃れることを嫌い、血を流さずして殺せ!と告げる。「血を流さずして殺し...」とは、 古代モンゴルの信仰にしたがって、高貴な人には血を流さず死罪を行う慣習があったそうな。

5. チンギス・カン誕生とシャーマンの呪い
1206年、テムジンはナイマン攻略を終え、蒙古高原を平定し、盛大なる大君という意味の「成吉思汗(チンギス・カン)」の名を宣言する。
モンゴル帝国建国当初、一番やっかいな問題は、ムンリクと彼の七人の子供だったという。ムンリクは既に六十の老人で最高長老会議に出席できる地位にあり、子供たちも重要な地位に就いていた。チンギスが、彼らを重く用いる理由は、ムンリクの父チャラカへの恩義のためだけだという。三十数年前、父エスガイが死んだ直後、全ての部衆が離れていったが、一家が悲惨などん底にあった時、忠誠を尽くしたのがチャラカである。
ムンリクの方はというと、チンギスはこの男を信用していない。窮地にあるチンギス一家を棄てた一人であり、チンギスが成人すると、臆面もなく七人の子を連れて戻ってきたのだ。最も忍び難いことは、ムンリクが母ホエルンと通じていること。それゆえ、ムンリクは隠然たる勢力を張っていたという。おまけに、七人の子供たちも、父親の地位を笠に着て、目に余る行為。特に甚だしいのは長男で、シャーマン教の僧テップ・テングリだという。チンギス・カンという名を選んだのも、この卜者だ。父ムンリクの政治的立場と祭政を仕切る神託者という特権を利用し、人を人と思わぬ振る舞い。己が一族の勢力を張ることだけに腐心していたという。チンギスは、ムンリク同様、テップ・テングリも信用していないが、彼の予言は不思議と当たるので、無下に退けるわけにはいかない。
やがて、一つの事件が起こる。テップ・テングリは、弟カサルがチンギスに代って王位に就こうと図っていると、謀反を告げた。幼き時から苦難を共にしてきた片腕カサルが?真相を知りたければ、カサルの幕舎へ今行けば分かるというのである。そして、酒気を帯びたカサルが、テムジンの愛妃である忽蘭(クラン)を追いかけている光景を目にする。激怒したテムジンは、殺すべきか?追放すべきか?を決めかねていた。すると、老いた母ホエルンが説く、「お前は曾て弟ベクテルを殺した。そしていまカサルを殺そうとするのか...」と。カサルを罰しない限り、神託によって謀反者を断定したテップ・テングリを処刑しなければならない。かくして神の代弁者は葬られ、ムンリク一族の権勢は弱まり、横暴な行為は跡を絶ったとさ。

6. 母の死が意味するもの
母ホエルンは、突如、三日病んで他界する。チンギスにとって母の死は、己が出生の秘密を知るただ一人の人間が、この世を去ったという思い。真相を知る者がいないとなれば、チンギスは大きな自由を得る。チンギスは、蒼き狼と惨白き牝鹿の末裔の正統であることを信じてきたが、同時に疑いもあった。母ホエルンが、弟を殺したチンギスに激しく当たったことを思えば、正統な血筋ではないかもしれないと。同じ狼の血統を斬殺した自分にも、疑いを持っていた。母の死によって、初めて蒼き狼の正統であることを自由に夢みることができ、自覚にまで高めたとさ。

7. 西夏と金国へ遠征
「モンゴルの民の上天より降された使命は、宿敵金を撃つことである。われらの祖アムバカイ汗はタタルの手で捕えられ、金国へ送られ、木の驢馬に釘打ちにされた上、生きながらにして皮を剥がされた。カブル汗も、クトラ汗も、みな金の謀略に依って殪れている。モンゴルの歴史の上に血塗られた汚辱を、われわれは忘れてはならぬ。」
金国への怨恨は根深いが、父エスガイの代では報復を諦めるほど強大であった。おまけに、南には宋国が控えている。いよいよ狼の野望は、チンギスの代で現実味を帯びる。
まずは、金国へ進軍する途上にある西夏。西夏を避ければ、万里の長城と興安嶺の険峻にぶつかり、行軍が難しい。そして、西夏を平定し、西夏の南から大軍を東へ進める。ここに本格的な異民族との交戦が始まるが、モンゴル族の騎馬群団にかかれば、西夏の駱駝も馬も兵もひとたまりもない。一気に首都、中興府へ攻め上った。
そして、1210年という年を、金国遠征のための準備に費やす。軍事力や経済力がいかに大きいか見当がつかないため遠征時期を決めかねていると、金国の方から使節がやって来た。金国皇帝の章宗(しょうそう)が崩じ、允済(ユンジ)が即位したことを告げ、これを機に長く絶えていた来賓を促す。だがチンギスは、金国が恐れていることを知り、却って自信を深め、遠征を決するのだった。
しかし、野戦では得意の騎馬軍団で圧倒しても、城塞戦となると思うようにいかない。中都(北京)と叫んで進軍していたはずが、いつしか大同府と目的地が変わったり、指揮系統にも混乱をきたす。落としても落としても城塞が現れ、勝っているのやら、誘い込まれているのやら...
そして、新たな戦術が求められる。やがて二十万の金国兵を吸収していき、九十もの城邑を血で塗り、それぞれにボルジギン氏の旗を掲げた。1214年、ついに金国と講和を結ぶが、事実上の金国の降伏だったという。チンギスの中国各地で得た美麗な女は夥しい数に上り、公主の哈敦(カトン)を妃とする。
しかし、凱旋して間もなく、金国に和平の意志がないことを知る。金帝が、都を中都から汴京(べんけい) = 開封(かいふう)に移転したという知らせが入ったのだ。講和はわずか三ヶ月ほどで敗れ、1215年、中都陥落。その勢いで、大宋国も征服しようと目論む。
この戦で、チンギスは捕虜の中に「耶律楚材(やりつそざい)」という名を持つ契丹人を見出した。人間離れした大男で、天文、地理、歴史、術数、医学、卜占に通ずる。チンギスは彼の予言を喜び、家臣に迎えて「ウト・サカル(長き髭)」の名を与えた。彼の予言はこうだ...
「西南の方角に新しき軍鼓の響きがある。可汗の軍が再びアルタイを越え、カラ・キタイの国に進入する時は迫りつつある。いまより三年の後に、必ずやその時は来るであろう。」

8. カラ・キタイ遠征
かつての仇敵、ナイマン王グチルクが、カラ・キタイ(西遼)国の王位を簒奪して、六年が経っていた。1218年、耶律楚材の占いどおり、ジェベを二万の軍勢の将として侵攻させた。そして、直ちに宗教の自由を宣言し、グチルクに迫害されていた回教徒を解放すると、回教徒は各地で反乱を起こして味方した。ここに、高い文化の国と噂されるホラズムと国境を接する。
チンギスは未知の大国との貿易を企図し、450人からなる隊商を派遣する。だが、守将ガイル・カンに捕縛され、450人の隊商はモンゴルの間諜として処刑された。チンギスは回教国に激怒し、1219年、自ら二十万の軍勢を率いて出陣する。民族興亡を賭けた戦と位置づけ、降伏する者は生かし、反抗する者は徹底的に殺戮。城塞を攻略すれば、白昼、女という女の貞操は奪われ、市民の大部分が殺害された。1220年、サマルカンドへ到達し、ガイル・カンは処刑された。チンギスは、ジェベとスブタイに国王ムハメットの追跡を命じ、モンゴル勢はカスピ海沿岸にまで達する。ムハメットは、カスピ海の小孤島に逃れ、病死したとさ。

9. インドへの夢とジュチの死
ヒマラヤの向こうには、まだ未征服の大国があると聞く。暑熱の国、巨大な象の住む国、仏陀の国。だが、夢はいつかは覚める...
1224年、チンギスは全軍にインド侵攻を宣言。モンゴル軍は、行軍月余にして、越えなければならぬヒンドゥークシュ山脈の鋸の刃のような高峰を遠くに見る。山中に入ってわずかの間に、人馬の消耗が甚だしい。そこに愛妃、忽蘭の死の知らせが。もともと忽蘭の願いによって企画された侵攻であり、ついに意味を失ってしまう。ある夜、チンギスは角端という動物の夢を見る。その動物は、前脚を折って座ると、こう言ったという。
「卿ら一日も早く軍をまとめて、国に帰るべし!」
この言葉は天意か?チンギスはサマルカンドまで軍勢をひく。そして、西方へ遠征中のジェベとスブタイ、キプチャク草原にある皇子ジュチへ伝令を送る。即刻帰還せよ!と。1225年、スブタイと合流するが、そこにジェベの姿はない。ジェベは命を使い果たしていた。
さらに、ジュチの死の知らせが。三年来病床にあり、カスピ海北方の聚落にて薨ぜり、遺命により遺骨を奉じて帰還の途につく、と。チンギスは、今こそ知った。誰よりもジュチを愛していたことを。自分と同じく掠奪された母の胎内に生を受け、自分と同じくモンゴルの蒼き狼の裔たることを、身を以って証明しなければならなかった運命を持つ若者を。
チンギスの勇士たちは、みな年老い、いまや昔の武勇伝を懐かしむあまり。過去の栄光に縋る軍勢は、敗走する哀れな軍隊と化す。

10. 最後の遠征
1226年、西夏侵攻を決定したのには、三つの理由があるという。一つは、ホラズムに侵入せんとした時、西夏王が援軍を拒否し、これに対する罰則を与えるため。二つは、まだ完遂していない金国征討には、西夏の完全制圧が先決。三つは、ジュチの死を癒やすことができるのは、もはや大作戦を決行することだけ。そして、狼は死に場を求めるかのように、敵地をさまよう。
1227年、首都、寧夏(ねいか)を落とし、続いて、金国の南京の朝廷に使者を送り、臣属を要求。寧夏にある西夏王、李睍(リヒエン)は降伏。開城のための猶予を一ヶ月乞うたので、チンギスはそれを許した。
次は、金国征討の完遂であるが、冷血な狼は和平の申し出を拒否する。しかし、西夏王は約束を破って、期限がきても開城しない。怒ったチンギスは全軍をもって城を落とし、李睍を斬り、住民の大部分を殺戮した。その後、金国へ向かわず蒙古高原へ。陣中でチンギスが死んだのである。彼の死は少数の重臣しか知らされず、静かに帰途についたとさ... 享年六十五。

2016-09-25

"元朝秘史(上/下)" 小澤重男 訳

マルコ・ポーロに触発されて、これを手に取る。というのも、「東方見聞録」はあまりにもモンゴル帝国の視点から書かれたものであった(前記事)。それは、タタール人、イスラム教徒、キリスト教徒の三つの世界観が混在する物語で、大カハンが征服地に対して宗教的、文化的にある程度寛容であったことが綴られる。アレキサンダー大王が大帝国を統治するために多くの異国人を登用したように。こうした記述がやや贔屓目に感じるのは、クビライ・カハンに厚遇されたこともあろう。そこで、モンゴル帝国の祖チンギス・カハンの一代記として名高い「元朝秘史」というわけである...

モンゴル帝国は、第五代クビライの時代に最盛期を迎え、人類史上最大の帝国となった。しかし、その礎となると、偶発的な、いや運命的な力を必要とする。ハプスブルグ家しかり、ブルボン家しかり、ロマノフ家しかり、徳川家またしかり...
戦は、なるほどやってみなきゃ分からん。石橋を叩いても渡らない!とまで言われた家康とて、万万勝てるとは思っていなかっただろう。戦の敗者は姦雄とされるのが世の常。後の回想録は大袈裟に改変される傾向があり、英雄伝にもしたたかさが滲み出る。それが歴史書というものか。善玉と悪党の対立構図は分かりやすく、水戸黄門のような物語が長く愛される。
いつの時代でも、成功者が崇められる。成功と失敗は紙一重と承知しながらも。現実社会では、しばしば正義が負けるのを目撃する。それでもなお、正義が勝つ!と信じられる根拠とは何であろう。判官贔屓という情念も少なからずある。英雄伝の類いを読む時は、こうした性癖を差し引いて臨む必要があろう。
本物語では、ケレイド族のトオリル・カン(後のオン・カン)と同盟しながらも、裏切りによって窮地に陥り、これを撃退。この時、トオリルの背信を責めながらも、節度ある言辞によって寛容な態度を示す場面は、まさに英雄伝!寛容さを演出するからこそ正義が際立つというもの。
チンギスには好敵手がいた。幼き頃から盟友であったヂャムカは、両雄並び立たず!のごとく敵対していき、ついに「十三翼の戦い」で激突。勝利者はヂャムカであったが、チンギスは人望厚く、逆にヂャムカには梟雄というレッテルを貼る。そして再三の激突の末、チンギスが勝利し、ヂャムカは囚われの身となる。最後に、互いに幼き頃を懐かしみ、自ら死を望むヂャムカにチンギスが心を打たれる場面は、最高の盛り上がりを見せる。なるほど、好敵手のいない英雄伝は、この上なく締まらない。ライバル、友情、敵対... こうした自己を投影する存在がなければ、偉大な仕事は成し遂げられないのかもしれん。そこには、尊大な自己陶酔がつきもの。となれば実は、敗者の方に、あるいは歴史の外の方に、真理が隠されているということはないだろうか。だから、歴史が繰り返されるのかは知らん...

尚、モンゴル族の最古の古典は、「永楽大典」に収録される形と「元朝秘史」単体のニ形式が残されるそうな。前者は明の永楽六年(1408年)に成立し、後者は1228年から1252年にかけて書かれ、それ以降も加筆されて成立したらしい。そして、様々な流伝を経て、今日、十二巻本と十五巻本の二種類に至るという。
書かれた時期に諸説があれば、著者も特定できない。専門家の間では十二巻本の方が優れていると評されるそうだが、翻訳者小澤重男氏は両方とも同じ価値があるとしている。本書は、本編の十巻と続集の二巻の十二巻で構成されるが、続集と呼ぶからには書かれた時期も違うのだろう。そして、十五巻本を参考にしている部分も見受けられる...

1. 族祖伝説「蒼き狼」と「白黄色の牝鹿」
チンギス合罕の祖先は、「蒼き狼(ボルテ・チノ)」と、その妻「淡紅色(うすべにいろ)の牝鹿」だという。狼と牝鹿の落とし子から11代目ドブン・メルゲンは、コリ・トゥマド族のコリラルタイ・メルゲンの娘アラン・ゴアを娶る。夫は先に死に、アラン・ゴアが日月の精を得て、チンギス一族の祖を含む三子を生むという感光出生の説話が語られる。その際、「五本の矢」の教訓が伝承されたという。それは、毛利元就伝の「三本の矢」と同じで、五人で力を合わせよ!というもの。
「汝等、五人の我が子達は唯一の腹より生まれたり。汝等は、さきの五本の矢柄の如く、ひとりひとりにてあらば、あの一本ずつの矢柄の如く誰にもたやすく折られなん汝等。かの束になりし矢柄の如く共に一つの和をもちてあらば、誰にもたやすくいかで折られるべきや...」
五人とは、先にドブン・メルゲンとの間に生まれたベルグヌテイ、ブグヌテイの二人と、日月の精を得て生まれたブク・カタギ、ブカトゥ・サルヂ、ボドンチャル・ムンカクの三人。だが母の死後、上の兄弟四人で財産を分けあい、ボドンチャルは愚弱として親族に数えられなかったという。孤高に生きた末子ボドンチャルから更に11代目イェスゲイを父とし、ホエルンを母とし、モンゴル族の英雄テムヂン、すなわち、後のチンギスが生まれたとさ。その時、テムヂンは右手に髀石(シアー)のような血塊を握って生まれたという。
「日月は望み見らるるなり。今、この海青の掴みもち来たりて、わが手にとまれり。白きもの降りたり。何かよきことをば示すや...」

2. チンギス合罕の誕生秘話
テムヂンは、兄弟族のタイチウド族に嫉まれ、若くして勇士の器と目されていたことが語られる。一旦はタイチウド族に捕らわれるが、スルドゥス部族のソルカン・シラの義侠に救われる。
また、メルキド族の領袖トクトア・ベキに妻ボルテを奪われ、ケレイド族の王トオリル・カンやヂャムカと同盟して撃退。
さらに、バリアン族のシャーマンのコルチ・ウスン翁の力を借りて、モンゴル族の族長にのし上がっていく。シャーマンとは祈祷師か。シャーマニズムという言葉も耳にするが...
コルチが言うに「テムヂン、国の主たれ!」。これは、神のお告げか!ここに「チンギス合罕」と名付けとさ。
だが、同盟していた大部族ケレイドも、ヂャムカも、いずれ敵対することになる。

3. 十三翼の戦い
両雄並び立たず!の言葉のごとく、やがて敵対していくテムヂンとヂャムカ。直接の対立原因は、ヂャムカの弟タイチャルがテムヂン側のヂョチ・ダルマラの馬を盗み、ダルマラがタイチャルを追って射り殺したこと。
ヂャムカには反テムジン派が集結し、十三の部族と結びついて三万もの勢力になる。これに対抗して、テムヂンは十三群団を編成。ヂャムカ陣営の十三の部族連合とチンギス陣営の十三群団との激突は、「十三翼の戦い」として伝えられる。この最初の対決でテムジンは敗れはするものの、人望を失うことなく、これを教訓として、以降の相次ぐ戦闘で敗れることなく、大帝国を築いていったとさ。
ヂャムカの運命はというと、後にメルキド族とナイマン族の大連合軍がチンギス軍に撃退された時、僚友に裏切られてチンギスに捕らえられ、自ら死を選ぶことになる。

4. 四勇士と四賢者
この物語には、チンギスを支える四勇士と四賢者の名が挙げられる。四勇士は「四狗(ドルベン・ノカイ)」と呼ばれ、クビライ、ヂェルメ、ヂェベ、スベゲテイ。四賢者は「四俊馬(ドルベン・クルグ)」と呼ばれ、ボオルチュ、ムカリ、ボログル、チウラン。さらに、ヂュルチェデイ、クイルダルを加えて、彼ら英傑に対する篤い信頼が語られる。いずれも一大遊牧帝国を築く上で欠かせない人物だ。

5. 軍法「千戸の制」と「近衛輪番兵の制」
軍制は、帝国の規模とともに大掛かりな組織になっていく様子がうかがえる。
まず、千家戸の家戸(アイル)という単位の基本組織が語られる。遊牧生活の最小単位であった家戸(アイル)をそのまま軍制に取り入れたものらしい。次に、十戸(アルバン)、百戸(ジャウーン)、千戸(ミンガン)の単位で編成し、各戸ごとに長(ノヤン)を配置。諸部族の首長をノヤンと呼び、千戸長、百戸長、十戸長とする。侍従(チエルビ)は、チンギスの傍らにあって政務や軍務を補佐する側近の臣で、六人の侍従官を配置。
1206年、メルキド族とナイマン族の連合軍を破って大帝国となった時、チンギス合罕は行政官に「罕」の称号を与えたという。そして、95人の千戸長を任命したことが語られる。
さらに、「千戸の制」「近衛輪番兵(ケシグテン)の制」という拡大編成について語られる。近衛輪番兵には、八千人の当直兵(トウルガウド)に加えて、箭筒士(コルチン)を含んだ二千人の宿衛兵(ケプテウル)を擁する一万人体制となる。チンギスは、この輪番集団を「大中軍(イエケ・ゴル)」と呼ぶべし!としたとさ。

6. シャーマン僧の陰謀
神を後ろ盾にすれば、精神的に大帝国の乗っ取りを図る者が現れる。テムヂンは、シャーマンによって「チンギス合罕」の称号を得て大帝国の礎を築いたが、今度はそのシャーマンによって謀反の兆しあり。コンコタン氏のムンリグ父の子は七人で、その真中のココチュは「テブ・テンゲリ(天なる天神)」と呼ばれる。ココチュはシャーマンの特権を行使し、王位を脅かしたとか。奴は霊媒師か。
そして、チンギスの弟カサルをそそのかしたのか?それとも単なる流言か?英雄伝は一転して小説風の展開を見せる。だが、自称神の代理人は葬られて終わる。

7. 大遠征と後継者争い
1211年、チンギスは闘将ヂェベと共に居庸関を破り、金国の首都、中都を包囲して帰順させる。次いで、西夏(カシン)に出陣し、王ブルカンも帰順。先に帰順した金皇帝は再び謀反するが、1214年に討伐軍を派遣して北京城壁を降し、金皇帝は中都から南京に逃亡し、ついに投降したという。
また、帝国が巨大化すればするほど、後継者争いも熾烈となる。長子ヂョチと次子チャアダイの諍いに、その仲をとりもつ重臣ボオルチュとムカリ。権威を欲する当人たちと、組織の安泰を図る重鎮たちというお馴染みの構図である。
最終的に、三子オゴデイを後継者に選定。そして1227年、「チンギス合罕、天に上りぬ」

2016-09-18

"マルコ・ポーロ東方見聞録" Marco Polo 著

東方見聞録は、二つの偶然が重なった時、その成立を見る...
一つは、父ニコロ・ポーロと叔父マフェオ・ポーロが商売のために南ロシアへ行き、さらに砂漠を越えてタタール人の王クビライ・カーンの宮殿へ赴いた経緯。二人は、大カーンからローマ教皇への使者の役目を託されるほどの信頼を得た。そして、カンバルク(北京)へ復命に戻る二度目の旅に、息子マルコ(17歳)を帯同する。ただ、三人ともヴェネツイア商人であって、宣教師でもなければ、誰に対しても記述の義務も負っていない。
二つは、1298年、ジェノヴァの牢獄に虜囚となったマルコは、同房のルスタピザン(ピサのルスティケッロ)という著作家に出会ったこと。本書の冒頭には、マルコの口述を書き留めることが宣言されるので、むしろ「ルスティケッロ著」とするところであろう。
つまり、ヴェネツイア商人の冒険心とピサ人著作家の好奇心という偶然の出会いがなければ、このような歴史叙述は残されなかったということである。そのために歴史の殉教者として崇められるのか、いや踊らされるのか。おそらく偶然が重ならなかったために、無言のまま闇に葬られた歴史の方がはるかに多いことだろう。真理は沈黙の側にあるのかもしれん...
尚、月村辰雄・久保田勝一訳版(岩波書店)を手に取る。

本物語には、三つの世界観が交錯する。一つは、タタール人が支配する地域、二つは、マホメットを崇拝するサラセン人の地域、そして、ネストリウス派キリスト教徒が混在する三つ巴の構図である。クビライの時代、モンゴル帝国は最盛期にあり、中国をも呑み込んでいた。さらに東南アジア方面でも貢ぎ物を捧げるなど、ほぼ属国的な関係にあったことが伺える。大カーンは、征服地に対して宗教的、文化的にある程度寛容であったようである。アレキサンダー大王も大帝国を統治するために現地の異国人を多く登用した。地域事情に最も精通する者を。そのために古参の将軍たちから疎まれることにもなるが、広大な領土を治めるには最も現実的な政策であろう。
キリスト教徒であるポーロの一行も、大カーンに厚遇された。そのためか?中国に関する記述がぞんざいな感がある。万里の長城などの歴史建造物や宗教慣習の記述が見当たらないのは、方々で指摘を受けるところ。それほどモンゴル帝国が偉大で、大カーンに敬服していたということであろうか。
マルコの注目点は二つの経済システムに向けられる。
一つは、交通網における飛脚システム。主要道路は並木道で整備され、旅行者は遠くからでも暗闇でも道に迷わないようになっており、飛脚は昼夜を問わず駆け抜ける。中継点が、3マイルごとに設置され、鈴を鳴らすことで飛脚が近づくことを知らせ、引き継ぐ馬や人が常に準備されている。まさに駅伝システム!
二つは、商取引における証書システム。紙幣と呼ぶほどの利便性はないものの、既に証券や約束手形のような合理的な取引の仕組みがある。証書はカンバルク(北京)の造幣所で造られ、支配義務は法で規定され、拒否する者は死刑に処せられるという。
他にも、町の来訪者に目的や滞在期間を登録させたり、家族構成や家畜の数を申告させる国勢調査風の制度にも言及され、大カーンは人口の変化までも把握していたと記述される。
こうした経済的観点は、古代ローマにも通ずるプラグマティズムを感じずにはいられない。おそらく宣教師や修道士には、こうした実用的な制度に感じ入ることはできなかったであろう。まさに経済人ならでは視点である。マルコの眼力は大カーンに認められ、行政官としても重用される。イデオロギー色の強い統治者では、多様な民族や宗教を束ねることは難しいということか...

ところで、異民族や異文化との出会い... それは人間の本能において、どのように働くものであろうか?交流か、敵対か、あるいは、好奇心か、恐怖心か。自信に満ちた社会は前者を選択し、不安に満ちた社会は後者を選択する、という傾向はあるかもしれない。
信仰心なくして人間は生きられない。宗教ってやつは、この心理に巧みに入り込む。本書には、心の隙間に巧みに入り込む「山の老人伝説」が語られる。それは、テロリズムの原点のようなもの。結局、宗教原理とは、見返りの原理であろうか。
ただ、テロリズムを複雑な宗教心の側から分析するよりも、ある種の機械論で解釈してみるのもいいかもしれない。多くの敵に包囲されると、自爆するようにプログラムされているオートマトン... 魂に宿る絶対的な存在、すなわち無条件に服従できる心の安穏... こうした心理状態が、そうさせるのか?脳の原始的な恐怖心を麻痺させるという意味では、フィアレスのようなものであろうか?そして、酔いどれ自身がそのようにプログラムされていないと、どうして言い切れようか...

1. 稀有の時代が生んだ書
12世紀は、古代ローマ帝国の衰亡以来、実に千年ぶりに東方への衝動に突き動かされた出来事がある。そう、十字軍だ。シリア沿岸部のアンティオキア、トリポリ、エルサレムには封建諸侯の領国が並び、イスラム諸邦と対峙していた。
ちょうどその頃、ビザンツ皇帝やローマ教皇のもとに、「プレスター・ジョン」と名乗る東方のキリスト教君主から怪しげな書簡が相次いで届けられたという。それはイスラム諸邦の挟撃を目的とした同盟を仄めかすもので、中央アジアでネストリウス派キリスト教を奉ずる小君主の存在を過大に伝える偽文書であったとか。この噂が、東方に君臨する強大なキリスト教国という伝説となり、西洋人の冒険心を煽ることに。
さらに1204年、第四回十字軍が騙し討ちの形でコンスタンティノープルを陥落させると、ボスポラス海峡の門戸が開かれ、商人たちは東方へ旅立つ機会を得る。
一方、東方では、13世紀初頭、チンギス・カーンが中央アジアに進出し、モンゴル帝国の礎を築いていた。ウイグル王国、西遼、サマルカンド、カスピ海南岸のコラズム帝国、黒海北岸を次々に呑み込み、第二代オゴタイ・カーンの時代には、ポーランドにまで侵攻。だが、ここが終末点で、以降は足固めのためキプチャク汗国とイル汗国の建設に向かう。歴代のカーンたちは、仏教とイスラム教とネストリウス派キリスト教の三つ巴の中で、絶妙なバランスを保っていたようである。そして、ポーロの一行が厚遇されたクビライの時代に最盛期を迎える。
カーンの子孫は、アルタイと呼ばれる山に埋葬される習わしとなっており、亡骸を運ぶ一行は、あの世でお前たちの君主に仕えるようにと、途中で出会った人々を殺したという。馬も同様に、あの世で乗馬できるようにと。モンケが死んだ時、道の途中で出会った二万人以上が殺されたとか。
しかしながら、こうした活発な東西交流の時代も、マルコの帰国後、急速に閉ざされることになる。シリア沿岸の西ヨーロッパ封建諸侯領は次々と滅ぼされ、最後の拠点アッカは1291年に陥落し、シリア一帯はマムルーク朝のスルタンに牛耳られる。ビザンツ帝国もオスマントルコの勢いに押され、黒海やカスピ海を経て中央アジアに向かうルートも困難となる。モンゴル帝国もまた14世紀半ばには勢いを失い、イデオロギー色の強いティムール朝や明にとって代わる。
... こうして眺めると、13世紀後半から50年間という絶好の時代に、東方見聞録が生まれたことになる。歴史ってやつは、偶然の積み重ねの結果というだけのことかもしれん...

2. 山の老人伝説
中東のムレットという地方に、山の老人が住んでいたそうな。ムレットはフランス語で「地上の神」を意味し、その語源はアラビア語のムラヒド(異端者)で、イスラム教イスマーイール派を指すらしい。老人は、アロアディン(アラー・ウッ・ディーン・マホメット)と呼ばれ、あらゆる果物が実る美しい庭園を作り、金で飾りたてた宮殿を建て、それをマホメットが唱えた楽園であると信じこませたという。葡萄酒、ミルク、蜜、水の豊かに流れる水路を設け、美しい娘を大勢集める。彼女らは楽器を奏で、素晴らしい声で歌い、上手に踊る。しかも、周囲を堅固に要塞化していたとか。
老人は、戦士になる少年たちを宮殿に連れて来ては、マホメットが唱えた楽園について話して聞かせる。少年たちは、飲み物で眠らせて連れ込まれ、目を覚ますと、豪華さと壮麗さに圧倒され、美女たちに慰められ、まさに楽園だ!と信じこむ。そして、気に入らない君主を抹殺するための暗殺者に仕立てあげるという寸法よ。... 奴を殺せ!もし戻って来られたら天使に頼んでお前を楽園へ導こう!もし死んだとしても天使に頼んでお前を楽園に戻してやろう!... と。
少年たちは、楽園に戻りたいという強い欲求に誘われて、どんな危険にも怯まず、老人の命令を忠実に実行する。老人は、命じた通りにあらゆる人物を殺害してきた。王侯たちは老人を恐れ、友好を求めては貢ぎ物をする。
1252年、レヴァント(イル汗国)の王アラウ(フラーグ)が、老人の悪行を聞きつけ、滅ぼそうとする。三年間の包囲で落とすことができなかったものの、やがて食糧が尽き、ついに落城。老人は殺され、それ以降、いかなる暗殺者も出現しなかったとさ...
しかしながら、原理主義はマホメットを崇拝する者だけのものではい。十字軍もそうであったように、宗教と原理主義はすこぶる相性がいい。それは人間の潜在意識として受け止めておくべきであろう。そして、彼らは必ず「聖戦」という言葉を口にする。

3. 聖トマス伝説
大インドと呼ばれるマアバール地方(インド東岸南部のコロマンデル海岸地方)では、この地に埋葬される聖トマスの伝承があるという。この地域では牛を崇拝し、けして牛を殺さず、食べもしないと。
そこには、ゴヴィという人々がいるそうな。サンスクリット語ガヴァ「牡牛に捧げられた」の転訛で、下層カーストを指す言葉だとか。彼らとて、けして牛を殺さず、自然死や事故死した時に食べるくらい。
さて、ゴヴィには、聖トマスの亡骸のある場所に留まることのできない魔術がかけられているという。二十人や三十人もの人々が力づくで押さえつけても。というのも、聖トマスはゴヴィの先祖たちに殺されたとされるからである。聖トマスの亡骸は、マアバール地方のほとんど人の住んでいない町マドラス近郊のマイラプールに置かれるという。不便な場所だが、改宗したサラセン人がしきりに巡礼に訪れるらしい。彼らは信仰が厚く、聖トマスを大預言者として崇め、アヴァリアン(アラビア語で聖者の意)と呼ぶ。聖トマスは、この地で様々な奇蹟を行い、多くの人々をキリスト教に改宗させたと伝えられる。
また、アルバシー地方(アビシニア、すなわちエチオピア地方)でもキリスト教を広め、多くの人々を改宗させた後、マアバールに赴いて亡くなったとさ...

4. 出版者に黒幕でもいるのか?
ところで、本物語から三つの疑問点に遭遇する。
一つは、東方見聞録の最初の記述がフランス語でなされたこと...
これは定説だそうだが、証拠もあるらしい。なぜ、ヴェネツイア人とピサ人がフランス語で?ルネサンスの口火が切られる14世紀半ば以前において、まだイタリア文化は後塵を拝し、特に北イタリアではフランス語が広く用いられたという。フランス語の写本は、二つの系統に分かれるとか。「イタリア訛りのフランス語写本」と紹介されるフランス国立図書館 fr.1116 と、ティボー・ド・シュポワがフランスに持ち帰った写本に端を発するフランス国立図書館 fr.2810 写本で、本書では後者を中心に訳出される。「イタリア訛り」の方が説得力がありそうな気もするが...
二つは、淡々と綴られる文面の中に、時折見せる異教を貶す記述...
中国の思想観念に興味を示さないのに、仏教を偶像崇拝と蔑み、特にイスラム教への敵対心を露わにする。これが、商人の言葉なのか?時代からして、マルコがキリスト教中心主義であったことは考えられる。とはいえ、大カーンの異教徒への寛容な態度を賞讃し、しかも厚遇された身で?出版にあたっては、ルスティケッロの採録編纂した形で残されるので、多少の脚色はあるだろう。また別の視点から、出版時期がアヴィニョン捕囚に至る事件と重なるのは偶然であろうか?十字軍が下火になった時代、十字軍の再興を夢見た一派の影響でもあったのか?さらに、マルコとルスティケッロの他に介在者がいた可能性は?尚、マルコは牢獄を出て、ヴェネツイア市民の生活に復帰しているらしい...
三つは、旅の犠牲者に関する記述が見当たらないこと...
プロローグには、帰路において、大カーンは14隻の船と600人の船員を随行させたことが記述される。1286年、レヴァント(イル汗国)の王アルゴンの妃ボルガラが死去。彼女は自分の血筋に王妃の座を譲ることを遺言したとか。そこで、大カーンは十七歳の血筋の婦人コガトラ(コカチン)を派遣する。その大勢の家来に、ポーロの一行が随行した。しかしながら、生き延びたのはわずか8人(イタリア訛りのフランス語写本では18人)だったという。三ヶ月あまりの航海でジャヴァ島に着き(実はスマトラ島だったらしい)、この島で多くの不思議な出来事があり、後で詳細を語るとしながら、その記述が見当たらない。インドの海を十八ヶ月あまり航海した後に目的地に着くが、アルゴン王は既に亡く(1291年)、かの婦人は王の息子カザンに与えられたという。そして、ポーロの一行は1295年にヴェネツイアに帰国したとさ。陸路にせよ、海路にせよ、異教徒や異民族の国を横断するのだから、過酷の旅であったことは間違いあるまい。疫病も襲ってくる。だからといって、これだけの犠牲者を出しながら、その記述がないとはどういうわけだ?どこかの島に、そっくり置いてきたというのか?王女の護衛だから、そっくりイル汗国に残り、うち8人か18人を召使として貰い受けたというなら、筋は通る。ならば、そう書けばいい。不思議な出来事については、マルコ自身が口を封じたのか?あるいは、ルスティケッロが筆を封じたのか?それとも... などと思いをめぐらすと、最終的に出版を許可した影の存在を想像せずにはいられない。
... などと考えてしまうのは、ジェームズ・ロリンズの影響であろうか。実は、ロリンズ小説「ユダの覚醒」のおかげで、本書を手にとったのだった。それにしても、この旅行記は実に中途半端のうちに終わりやがる。

2016-09-11

"天の鏡 失われた文明を求めて" Graham Hancock 著/Santha Faiia 写真

オカルト的な作家として知られるグラハム・ハンコック。だが、考古学では再評価される部分も多い。定説では、有史前の人類は有史以来の人類よりも、知識や知能が劣るとされる。では、巨大遺跡群に示される途方もない天文学的知識に裏付けされた遠大な建造物の痕跡は、単なる偶然であろうか?権威ある学説に疑問をぶつける態度は、酔いどれ天の邪鬼には、たまらない。おまけに、掲載される数々の写真が、地上を鏡としながら天空の偉大さを再現している。尚、写真家サンサ・ファイーアは、ハンコックの一連の著作のすべてで撮影を担当しているそうな...

いつの時代でも、人はお星様に願い事をしてやまない。生の儚さを知れば、永遠に輝き続ける星座に縋る。死は誰にでも訪れるが、その意味を知る者はいない。死はすべての終わりなのか?それとも、何か続くものがあるのか?魂ってやつは、単なる物質の塊か?それとも、単なる想像の産物か?いや、宗教のでっちあげか?
冷徹なほどに虚無をまとった形而上学と、崇高なほどに成熟した科学は、相性が良いと見える。暗さが最も増す時、人々は星を見る... とは誰の言葉であったか。人間の生き様なんてものは、天の模倣でしかないのかもしれん...

 天は上にあり、天は下にある
 星は上にあり、星は下にある
 上にあるものは、すべて下にも現れる
 謎を解く者は幸いかな
 ... ヘルメス、エメラルドの銘板より

ギザのピラミッド群、カンボジアのアンコール遺跡、ポナペ島の海上遺跡ナン・マドール、イースター島のモアイ像、マヤのチチェンイッツァ、ナスカの地上絵など、世界各地に残される謎の古代遺跡群は一つの暗号で結び付けられているという。それは、72 という数に支配された世界。地球は歳差運動によって自転軸の慣性系を形成している。地球の自転軸は、72年に約1度のずれを生じさせながら、2万6千年(= 72年 x 360度)にも及ぶ壮大な周期運動を繰り返している。コマの回転軸が円を描きながら、ジャイロ効果によって軌道を安定させるかのように。そこで、重要な年代が浮かび上がってくる。
なんと!世界各地の古代遺跡群は、紀元前10500年の天体配置を正確に映し出しているというのだ。天体配置とは、黄道十二宮である。黄道十二宮の知識はシュメール文明に遡るとされ、せいぜい紀元前3500年。対して紀元前10500年は、ちょうど最後の氷河期が終わる頃で、多くの種族が大洪水に呑み込まれたとされる。世界各地で伝承される大洪水神話は、この時代を投影したものなのか?
そして、その半周期(180度)の1万3千年後、すなわち、天体配置が天と地で反転する時代が、ちょう21世紀頃に当たる。これは、現代人に何かを学ばせようとする機会を与えているのだろうか?

人は自分の死の訪れを感じると、なにか生きた証を残したいと考える。それは、生ある者の本能めいたもの。人類滅亡の危機を感じれば、なんらかのメッセージを残したいという社会的意識が働くのも道理である。そして、太古を引き継いだ時代、メッセージの欠片に気づいた者が、知識を再構築したということは考えられる。
歴史では、歳差運動によって星の位置が移動することと、その移動速度を発見したのは、紀元前150年頃で古代ギリシアの天文学者ヒッパルコスとされる。だが、太古の人類は、既に近現代を凌駕するほどの高度な知識に達していたという可能性はないだろうか?その知識が、普遍性や真理と呼ばれるものかは分からない。もしかしたら、地球を棲家とする知的生命体が、いずれ到達する知識なのかもしれない。ゲーデルは語った... 不完全性定理は自分が発見しなくても、いずれ誰かが発見しただろう... と。
有史以来、偉大とされてきた知識はすべて太古の模倣、あるいは、繰り返しであったということはないだろうか?地球上に住む知的生命体は、地球の自転軸周期に支配された遺伝子が組み込まれているということはないだろうか?もちろん、一つの時代に急速に推進された大建築計画は全て偶然の産物で、そんな考えは誇大妄想だとする現代の歴史家の見方が正しい可能性だってあるし、ハンコック自身もそう語っている。本書に語られる説が、最先端の科学をもってしても迷信や仮説の域を脱していないのも事実だ。
すでに古代人は、星の運動から地球が球体であることを知り、自転軸が歳差運動をすることまでも知っていたのか?それとも、単なる天体現象として星座を観察し、迷信によって天空を地上に複写しただけなのか?偉大な宇宙の前では、科学も迷信も大して違いはないというのか。あるいは、十分に成熟した科学は魔術と見分けがつかないとでもいうのか。そうかもしれん。
いずれにせよ、歳差運動を観測するには、気の遠くなるほどの世代を超えた叡智の伝承が必要となる。魂の不死とは、叡智を伝承する意志を言うのかもしれん...

ところで、叡智とはなんであろう?奥義を授けられた者には、いったい何が見えるのだろう?少なくとも、奥義を会得した者がメディアを通じて露出狂になることはなさそうだ。崇高な知識は、俗人の目に触れさせてはならないというのか?だから、秘密主義は必然だというのか?彼らにしか解釈できない聖なる知識は、暗号化された碑文によって天文学的計算の正確さを保証している。静かなる礼拝者が石像を刻めば、石工を起源とするフリーメイソンの影までも匂い立つ。ちなみに、グノーシス派の教義にこういうものがあるそうな...
「暗黒と無知に従う人を、多くの偽りによって堕落させ、おおいなる苦しみに巻き込む。彼らは楽しむことなく老い、真実を見つけることができず、真の神を知ることなく死ぬ。このようにして、すべての創造物は永遠に奴隷化された。それは世界が創造されたときから今日にまで至る...
目に見える創造物が存在する理由は、教育と指導と形成を必要とする人々がいるからだ。小さき者が、少しずつ成長できるように。この理由により、神は人類を創造されたのだ...」

1. 歳差運動と遠大な建築計画
太陽が東から昇る位置は一年をかけてゆっくりと移動し、必然的に重要な時点が四つ生じる。最も昼間が短くなる冬至。昼と夜の長さが同じになる春分と秋分。最も昼間が長くなる夏至。この重大な時点は太陽を周る地球の軌道を示しており、古代人が黄道十二宮としてまとめた星の帯は、地球軌道の平面に沿って存在する。それは、地軸を約23.5度傾けて1年間で公転することによって生じる天体現象である。しかも、地軸は、72年に約1度移動しながら、約2万6千年の周期でぐらついている。太陽が昇る真東にある星座が神の安住の地とされ、星座の帯を辿って移り住む。そして、一つの星座に神が宿る期間は、約2160年となる。

  72年 x 360度 = 2万5920年
  72年 x 360度/12星座 = 2160年

したがって、太古の建造物がどの星座を崇めるかで、いつの時代のものかが分かるという寸法よ。すると、歴史学者が唱える古代遺跡の建設時期が怪しいことになる。例えば、獅子座を崇めるギザの大スフィンクスの建設時期が、紀元前2500年頃とされることも。
世界各地に残される古代遺跡に、72 という数を意識した建築計画が多く見られるという。本書は、72にまつわる 144(= 72 x 2), 108(= 72 + 72/2), 54(= 108/2),... といった数が、実に多く出現する様子を物語ってくれる。
実際、神聖な日の出を拝んだり、生の儚さを星座に願いを込めるといった慣習が、世界各地で共通して見られる。壮大な宇宙サイクルに対する無力感がそうさせるのか?壮大な宇宙サイクルが暗示するものとは何であろう?永劫回帰や輪廻転生の意味を悟らせようという神の魂胆か?あるいは、霊的観念の持ち主に課せられた使命か?もし、壮大な天体周期が、地球上の生命体に何らかの危機的状況をもたらすとすれば、人類の叡智の継承は困難となる。悟りの道は、あまりにも遠い...

2. オリオン座と獅子座をモデルにしたギザの都市計画
ボストン大学の地質学者ロバート・ショック教授は、ギザの大スフィンクスの最低年齢を7000歳以上とし、大論争を巻き起こしたという。定説では、紀元前2500年頃に建設されたとされる。ショック教授の調査は、、ひたすら地質学の側面から迫ったものだという。降雨や風化の浸食の痕跡から。古代気象学者は、雨の降った時期を正確に指摘できるようになった。紀元前2500年のエジプトは現在のように乾燥しきっていて、浸食するほどの大量の雨が最後に東サハラに降ったのは、紀元前7000年から前5000年の間であると。保守的に計算した結果が、7000歳ということらしい。さらに、彼の同僚ジョン・アンソニー・ウエストは、紀元前10000年より古い、あるいは、紀元前15000年より古いかもしれない、との見解を示したとか。
本書は、黄道十二宮との関係から「オリオン相関論」を唱えている。ナイル川とピラミッドの配置が、天の川とオリオン座の配置を正確に再現しているというわけだ。三大ピラミッドは見事なほどオリオンベルトの三つの星に重なり、その北方にあるダハシュールのピラミッドもヒヤデス星団と重なるという。
では、ピラミッドの機能とは何であろう?巨大な日時計か?古代ギリシア人が崇めてきた幾何学に、グノーモーンというL字型の影のできる図形がある。それは、ユークリッド原論にも記され、ピュタゴラスやアルキメデスの思考原理にも垣間見ることができる。やはり人間ってやつは、自らの影を引きずりながら生きる運命にあるようだ。
しかしながら、ただの日時計ならば、これほど巨大である必要があるのか?そこで、奇妙な縮尺率が呈示される。ピラミッドと地球の比は、1 : 43200(= 72 x 600)。ピラミッドは北半球の縮尺モデルなのか?
また、コンピュータ・シミュレーションによると、紀元前10500年の春分の日の出には、獅子座があったという。太陽神は獅子座に宿り、大スフィンクスというライオンの巨大彫像は、その方角を見つめていたことになる。スフィンクスは、何かの番犬であったのか?ギザの都市計画が天文学的な性質を持っているという説は、もっともらしい。
しかしながら、定説の方が正しいとされる証拠もある。ギザのピラミッドの王の間と女王の間には、スター・シャフトと呼ばれる四つのシャフト(通気孔)がある。それぞれのシャフトは、紀元前2500年頃のシリウス、オリオン座のζ星、小熊座のβ星、竜座α星を正確に捕捉するという。太陽神ホルスは、エジプト神話の女神イシス(シリウス)と神オシリス(オリコン)を両親に持つとされ、女王の間はイシスを捕捉し、王の間はオシリスを捕捉するとか。ファラオは、自分の死後、神々に祝福されるように建設させたということか。
そうなると、基本的な建築物は紀元前10500年に造られ、シャフトは、クフ王、カフラー王、メンカウラー王の第4王朝の時代に増築されたとも考えられる。建造物の伝統に、新たな価値観を上書きするような建築行為があっても不思議ではない。伝統継承の難しさは、その過程で一人でも伝統の意味を解さずに歪めてしまうことであろうか。人間社会には、一旦、聖域を決定してしまえば、盲目に伝統を尊ぶ性質がある。

3. 竜座をモデルにしたアンコールの都市計画
アンコール(ANGKOR)とは、サンスクリット語の言葉(nagara = 町)が崩れたものと言われるそうな。古代エジプト語では、アンク・ホル(Ankh - Hor)で「神ホルスが生きている」を意味するとか。そして、ギザのピラミッドは東経31.15度、古代ヘリオポリスは東経31.20度にあり、アンコールの寺院群は東経103.50度に位置する(103度 - 31度 = 72度)。
アンコール・トムは、「偉大なアンコール」の意で、アンコールワットよりもはるかに壮大な規模で、三つの寺院がある。ピミヤナカス、バプーオン、バイヨン。ここでは、アンコールの寺院群の配置が竜座の星々の恐るべき模倣を見せてくれる。しかも、紀元前10500年の春分の日に太陽が昇る瞬間、竜座が真北の空高く子午線に横たわっているという。竜座に見守られた都市というわけか。古代エジプト同様、ここにも異常なまでに方位や天空の配置へのこだわりが見える。定説では文明の交流はまったくなかったとされるが、単なる偶然か?
ギザの起源は謎に包まれ、紀元前2500年頃に大規模な発展があり、とりわけ第4王朝のファラオたちと深くかかわっている。アンコールの起源も謎めいているが、大規模な発展は西暦9世紀から13世紀とかなり新しく、ジャヤヴァルマン2世、ヤショヴァルマン1世、スールヤヴァルマン2世、ジャヤヴァルマン7世など、クメール王朝と深くかかわっている。そして、ギザにも、アンコールにも、前の時代の建築層が見つかっているという。
なぜ、双方の建造物が紀元前10500年を捕捉しているのか?アンコールで最も多く出現する歳差運動の数は、54 だという。バイヨンには 54 の塔があり、アンコール・トムに至る参道の両側には54体の神々と、54体の阿修羅が並ぶ。
そして、アンコールから経度にして東54度の太平洋上に位置するものが、ポナペ島の海上遺跡ナン・マドールだという。玄武岩と珊瑚礁でつくった100個ほどの人工島から構成される遺跡だ。寺院と人工島のほどんとは、西暦800年から1250年の間に完成したとされ、ちょうどアンコールの繁栄期と重なる。しかも、それよりも前の時代の建築層があることも発見されているという。
さらに、起源不明の遺跡が、アンコールの72度東のキリバス、アンコールの108度東のタヒチで見つかっているとか。こうした地に都市を作れ!というお告げでもあったのだろうか?
ちなみに、日本の南西端にある与那国島にも、少なくとも1万年前のものと考えられる海底遺跡があるそうな。ただ、アンコール遺跡の東19.5度という関係なさそうな位置だけど。

4. 世界のへそ、イースター
島民たちに「世界のへそ」を意味する「テ・ピト・オ・ヘヌア」、あるいは「天を見る目」を意味する「マタ・キ・テ・ラニ」という言葉が伝承される島がある。その名はイースター島、アンコール・ワットから147度あまり東に位置する。半径3000キロに居住可能な島はなく、アンコールが通る子午線から東144度(72 x 2)に最も近い島。1万3000年前、最後の氷河期の巨大な氷冠がほとんど溶けていなかった時代、海面が現在よりも100メートル低く、海膨は急斜面を持つ細長い島々として、アンデス山脈ほどの距離にわたって連なっていたという。ちょうど144度に位置する場所は、現在では海の底。太古の神々は、大洪水で溺れてしまったのか?
アフ・アキビの7体のモアイ像は、太古に海を渡ってやってきた七賢人を表しているという説がある。古代エジプトにも七人の賢人伝説がある。ツタンカーメンの第2神殿に表される壁画の人物像が、すこぶる似ている。エジプトの太陽神ラーの名は、イースター島の遺跡群にも頻繁に登場し、この場所にも像で作ったマンダラがあって、天文学的遺産を示唆するものがあちこちに残されているようである。ちなみに、「ラア」という語は、イースター島の言語で「太陽」を表すとか。
ではなぜ、こんな孤島に賢人たちはやってきたのか?人類の起源は科学的に実証されているわけではないし、遺伝子が地球外から隕石によって運ばれてきたという説も否定はできない。そして、人類の最初の一歩が「世界のへそ」であったことも。この地に限らず、「神聖な石」という思想は世界各地で見られる。人類の共通感覚として、星を眺めて崇高な気分になれるのは、ある種のノスタルジーであろうか?
「聖なる者は世界を胎児のように創造した。胎児がへそから大きくなっていくように、神はへそから世界を創造し、そこから四方八方に広かっていった。」

5. 第四の星座と第四の使命?
歳差運動において、紀元前10500年から半周期(180度)の時代が、西暦二千年あたりになる。これは何を意味するのか?本書は、巨大な遺跡群が紀元前10500年の春分の夜明けにおける四つの特別な星座、すなわち、獅子座、オリオン座、竜座、水瓶座をモデルにしていることを物語っている。獅子座が真東に昇り、水瓶座が真西に沈み、オリオン座は真南の子午線上にあり、竜座は真北の子午線上にあった時代を。しかも、壮大な周期時間に追従して、都を時代ごとに移動させていることを。ギザの都市計画はオリオン座をモデルとし、大スフィンクスは獅子座に祝福され、アンコールの都市計画は竜座をモデルとしている。
では、水瓶座をモデルとした大建造物が、地球上のどこかに存在するのだろうか?大洪水で海の底に眠っているのか?いや、第四の星座をモデルにした神殿を建設せよ!という現代人に課せられたメッセージか?
21世紀の今、紀元前10500年からちょうど180度回転した状態に突入し、太陽神が宿るのは水瓶座である。約1万3000年前の天文学的、地質学的な現象が、半周期して現代と重なるのは何かを学べるチャンスであろうか?
地球の磁力が、ここ数百年で10%ほど減衰しているという研究報告も耳にする。地球の磁界エネルギーがゼロになって南北の磁極反転が起こるのは、西暦2300年より前と予測する科学者もいる。そう、ポールシフトだ。地殻にエネルギーが蓄積され、突然、地殻の大移動が生じることも、ありえない話ではない。磁界エネルギーがゼロになると地球が無防備になり、周辺の彗星を呼びこむような力が働くかもしれない。それが氷河期と重なると、大洪水の引き金になるのかもしれない。
さらに、近年の異常気象や火山活動、そして地球温暖化などと結びつけるのは、オカルトの域を脱していないのかもしれない。磁界ってやつは、謎めいた力だ。それは、地球内部の外核と内核の摩擦によって生じるのかは知らんが、現実に、地球内部はマントルのような流動性物質による遠心力の塊として存在している。
しかしながら、現代人には、まだ偉大なメッセージを解する資格がないのかもしれない。有史以来、人間は物欲、金銭欲、権威欲、名声欲に憑かれ、ついに20世紀、かつてない殺戮の世紀と化した。21世紀になってもなお、政策立案者は消費や生産を煽ることしか知らず、人口増加を煽る施策しか打ち出せないでいる。都市や国家を象徴するような超高層ビルや巨大建造物は計画されても、知性に満ちた普遍的で宇宙論的な建造物が計画されることはない。球体の自転軸が移動すれば、神が宿る方角も聖地も移動するはずだが、宗教的聖地をめぐっては何千年に渡って紛争が続く。それで、古代人が現代人よりも知性が劣ると言えようか...
「希望の持てないほど呪われ、踏みつけられた過去から、あと一度だけ、なんらかの復活が起こるかもしれない。そのとき、ある思想が再び息を吹き返す。私たちは、太古からの大切な遺産を受け取る最後のチャンスを、子孫から奪ってはならない。」

2016-09-04

"雨・赤毛" W. Somerset Maugham 著

サマセット・モームに嵌ったところで、とどめの一冊...
本書には「雨」、「赤毛」、「ホノルル」の三篇が収録され、南海の浪漫を調合した癒しの文面にしてやられる。いずれの結末も一見歯切れが悪そうで、それでいて心を妙にくすぐりやがる。絶妙な中途半端とでも言おうか、ついニヤリとしてしまうのだ。これぞ皮肉屋の真骨頂!おまけに、まったりとした前フリが南海のじめっとした空気を漂わせ、前戯が大好きな酔いどれには、たまらない。
三篇の組み合わせもなかなかで、そこにストーリー性を感じる。鬱陶しい雨がこれまた鬱陶しい説教好きの聖職者の生殖者たる本性を暴けば、ロマンチックな恋愛物語に意地悪などんでん返しを喰らわせ、仕舞いには、魅惑な女性像を散々想像させておきながら、今までの話はなんだったんだよ?とツッコミたくなるような脱力感と衝撃(笑劇)のうちに終わる。中途半端な要素が集まって互いに調和すると、こうも完成度の高いシニカルな作品になるものであろうか。いや、夢から現実に引き戻されれば、大概のことは喜劇で終わるってことか...
尚、「月と六ペンス」で行方昭夫訳(岩波文庫版)を、「人間の絆」で中野好夫訳(新潮文庫版)を、そして「サミング・アップ」で再び行方昭夫訳を手にし、ここでは再び中野好夫訳に戻る。翻訳者の間をさまようのも乙である。

1. 「雨」...  完全なキリスト教化を望む宣教師の狂い様とは...
マクフェイル博士は、戦傷を癒やすためにサモアの島へ船旅の途中、宣教師のデイヴィドソン夫婦と出会う。そして、麻疹が流行して検疫のために小島に上陸。そこは太平洋でも一番雨の多いところ。旅行客は、不快な雨のために、しばらくちっぽけな町に閉じ込められるのであった...
上流階級を鼻にかけるデイヴィドソン夫人は、二等船客と一緒の部屋であることに我慢ならない。おまけに、相手は身持ちの悪いホノルルの娼婦ときた。
宣教師デイヴィドソンは何かに憑かれたように改心させようと情熱を注ぎ、やがて女も何かに憑かれたように恭順していく。二人は部屋に閉じこもり、お祈りを続ける。夫人は夫の布教活動に一切口を出さない。これが夫婦間の暗黙のルール。
「たとえ地獄の深淵よりも、もっと罪深い罪人であろうとも、主イエス・キリストは愛の御手を伸ばし給う。」
ところが、こういうお節介な人間にああいった女を近づけると、不吉な魔力が働く。女は、偶像礼拝の残忍な祭式に用意された生け贄か。
ようやく明日には女がサンフランシスコへ移送されることになり、皆が安堵していたところ、デイヴィドソンの死骸が発見される。右手には自ら喉を斬った剃刀を握っていた。
女の方はというと、もう昨日までの怯えた奴隷ではなくなっていた。厚化粧にケバケバしい服装で、傲岸極まるあばずれ女に戻ったのである。そして、嘲るように大声で笑い、デイヴィドソン夫人に向かって唾を吐いた。マクフェイルは女を部屋に連れ込んで叱ると、女は居直り、嘲笑の表情と侮蔑に満ちた憎悪を浮かべて答えた。
「男、男がなんだ。豚だ!汚らわしい豚!みんな同じ穴の貉だよ、お前さんたちは、豚!豚!... マクフェイル博士は息を呑んだ。一切がはっきりしたのだ。」

2. 「赤毛」... アダムとイブのような純愛の行方は...
船長は、蜘蛛の巣にかかったように、南海の浪漫的な島の入江に上陸した。南海ってやつは、奇怪な魅惑の虜にしてしまう。あのナジル人のサムソンが、デリラに髪を切られて力を奪われたように...
そこには白人の家があり、船長は家主に招かれた。家主の名はニールソン。船長は、彼が奇人だという噂を耳にしていた。ニールソンは、こっちに三十年もいるという。
そして、レッドという男の話を始めた。赤毛だからそう呼ばれていたが、会ったことはないという。アメリカ海軍の水兵で、歳は二十、背が高く、美しい顔立ちで、この世の美しさではないほどに。レッドは軍隊を脱走してこの入江に逃げ込み、十六の美しい娘サリーと出会って恋に落ちた。二人の愛は、アダムとイブのような純粋なもの。退屈でありながら、愛する人と一緒ならば充実できる日々。
「幸福な人間に歴史はないというが、確かに幸福な恋にはそんなものはない。」
やがてそこに捕鯨船が現れ、レッドは攫われた。サリーは子供を死産し、気が狂わんばかりに悲しみに暮れる。
そして三年後だったか、サリーは一人の白人と親しくなったという。その白人とは、ニールソン自身であった。彼はサリーの美しさの虜になり、レッドの帰りなどあてにできないと必死に口説いた。愛ってやつは、拒めば拒むほど燃えあがる。思い出と一緒に小屋を焼き払うが、頑な態度は変わらない。
疲れきったサリーは、ニールソンに身を委ねて妻となるが、思い出は消えず恋は苦痛となる。何十年も、ただ惰性的に夫婦として生きてきた二人。ただ、ニールソンは、憎しげにジロリと船長を睨みながら話を続ける。なぜ船長に、こうも反発心を抱くのか?こいつがレッドだと予感したのか?
話が終わる頃、食事の用意を済ませた妻サリーが部屋に入ってきて船長と対面する。神の悪戯か?船長は、蜘蛛の巣にかかったように、過去に引き寄せられたことに気づくと、すぐに家を出た。あれだけ燃え上がった二人が、三十年後に再会してみれば互いに気づきもしない。ニールソンには、それがおかしくもあるが、やがてヒステリカルな笑いに変わっていく。今までの嫉妬はなんだったのか?なんという浪費!サリーが、今の方は何の御用でしたの?と聞くと、ニールソンは、今の男がレッドだ!と言う気にもなれない。恋の悲劇は、死でも別離でもない。「愛の悲劇は無関心なのだ。」

3. 「ホノルル」... 醜い男の嫉妬深さとは...
ホノルルは、ヨーロッパから恐ろしく遠く、サンフランシスコからも長い長い船路の果て、西洋と東洋の出会いの場、様々な人種の陳列の場、信じる神も違えば使う言葉も違う。共通するものといえば、愛と飢えという二つの情熱だけか。どんなに文明が高度化しようとも、原始的な迷信物語が絶えることはない...
旅行者の私は、ガイドの滑稽で皮肉な案内に御満悦。ガイドは、現地の風俗を味合わせるために、馴染みの酒場へ案内する。そこでバトラー船長と出会い、彼の船に招かれた。そこには、魅力満点の美しい娘と、何かと彼女の身体を触っているバトラー... 活字にするには品がないほどに。
船には、醜男のコックが雇われている。そして、テーブルの上の壁にかかっている、大きなふくべを見つけた。バトラーは、それについて話はじめる...
バトラーは航海士バナナにある島へ連れられ、美しい娘を見つけたという。女癖の悪い彼は、さっそく言い寄る。人生は長い!と言わんばかりに、いつまでも居心地のよい島から出航しようとはしない。いっそ娘を連れて行ったらどうか、と持ちかけたのは娘の父親だった。娘も身体を擦り寄せ、その気十分。父親は金をせびる。娘の柔らかい頬がぴったりくっつくと、値切る気などぶっ飛び、おかげでスッカラカン!男の悲しい性よ。
バナナも娘に惚れた。無口で無愛想だが忠実な航海士を、バトラーは奴でも恋をするのかとからかう。やがてバトラーは原因不明の病に倒れる。娘は、バナナが呪い殺そうとしているのよ、と忠告する。だが、忠実な部下を首にはできない。病態はすっかり骨と皮になり、見るも恐ろしいくらい。娘は、あの人を救えるのは私だけ!と決心した。
そして、テーブルのところで髪をおろし、鏡の代わりにふくべを覗き込んで顔を映す。底に何か落ちていると、バナナにふくべの底を覗き込ませると、さっと水がはね、猛毒をあおったように床の上に崩れた。バナナは、ふぐの毒がまわって死んだとさ...
さて、そんな話よりも、いったいあんな平凡な小男のどこがよくて、あんな綺麗な娘さんが夢中になるのかねぇ?ガイドは言った、「でも、あの娘は違いますよ。別の娘ですよ。」... じゃ、今までの話は???
どうやら娘はコックと一緒に逃げちまったらしい。だから醜男を雇っているんだとさ。新しい女は二ヶ月ほど前に連れてきたばかりで、今のコックなら安心だとさ。嫉妬深い醜い男は、自分より醜い男しか近づけられないというお話であった。ネタふりが長い!

2016-08-28

"サミング・アップ" W. Somerset Maugham 著

これで三冊目!サマセット・モームに嵌ってもうた... 尚、再び行方昭夫訳(岩波文庫版)を手に取る。

「月と六ペンス」と「人間の絆」で、事実と虚構が調和した半伝記と半回想録に魅せられた。ゴーギャンを題材に選べば、伝記として独り歩きをはじめ、架空な人格を暴露すれば、作家の知人で迷惑する人もいる。小説とは、自惚れと虚栄心の渦巻く世界。既成事実でなんでも正当化しようとする衝動は、いわば人間の性癖。人間の自己中心癖は途方もなく大きい。
しかしながら、この性癖をユーモアと解すると、まるで別の世界が見えてくる。そして、こう問わずにはいられない。現実と夢の違いとは何か?と。記憶を曖昧にしてくれるということが、いかに心地よいものか。その区別がつかなくなることが、幸せの第一歩!そして、モームの達した帰結が... 人間の存在は無意味!人生に意味などない!... としたところでなんの不都合はなく、むしろ生きる活力とすることができる。これぞ皮肉屋の真骨頂というものか。経験を十分に積み、老齢になってもなお、人生に意味を見い出せなければ生きては行けないとすれば、それは辛かろう...

「私はまた、自分の先入観に影響されぬように用心してきたつもりである。私は生来ひとを信用しない。他人は私に好意的なことよりも悪意のあることをすると思う傾向がある。これはユーモアの感覚を持つ者が支払わねばならぬ代償である。ユーモアの感覚を持つ者は人間性の矛盾を発見するのを好み、他人がきれい事を言っても、信用せず、その裏に不純な動機があるだろうと探すのだ。外見と中身の違いを面白がり、違いが見付からないときには、でっち上げようとする傾向さえある。ユーモア感覚を発揮する余地がないというので、真・美・善に目を閉ざしがちである。ユーモア感覚のある者はインチキを見つける鋭敏な目を持ち、聖人などの存在は容易には認めない。
だが、人間を偏った目で見るのが、ユーモア感覚を持つために支払わねばならぬ高い代償であるとしても、価値ある埋め合わせもあるのだ。他人を笑っていれば、腹を立てないで済む。ユーモアは寛容を教えるから、ユーモア感覚があれば、ひとを非難するよりも、ニヤリとしたり、時に溜息をついたりしながら、肩をすくめるのを好む。説教するのは嫌いで、理解するだけで充分だと思う。理解するのは、憐れみ、赦すことであるのは確かだ。」

THE SUMMING UP... とは、「要約したもの」といった意味。モームは散歩するかのように、思いつくままに題材を抽出しては意見を綴っていく。人生でも要約しようってか。なるほど、「人生のしめくくり」というわけか。散文とは散歩の一種で、人生とは散歩であったか...
彼は、自己の再発見と、考え方の一貫性を見つけようとするが、なかなかうまくいかない。一貫性ってやつは、想像力を欠いた人間の最後の拠り所である... とは誰の言葉であったか。矛盾によって一貫性を崩壊させるよりも、矛盾をも調和の中に取り込んでしまう方がずっと幸せであろう...
ところで、人生の締めくくりに思いを馳せて書く資格とは、何歳ぐらいを言うのであろうか。五十になる前に、このようなものは書くべきではない... と、ある小説家は語った。いずれ自分の死について考える時期がやってくる。寿命が延びれば、人生の締めくくりも先送り。モームは、六十を過ぎると同年輩の連中が亡くなっていく様を横目に、このような本を書かずに死んでいくことはさぞかし口惜しい、と執筆を始めた旨を告白する。
「こんなありきたりの結論に達したことを私は恥じる。効果を狙うのが好きな私なので、本書を何かはっと思わせるような逆説的な宣言で締めくくりたかった。あるいは、読者がいかにも私らしいと笑いながら認めるような皮肉を締めくくりとしたかった。どうやら私の言いたいことは、どんな人生案内書ででも読めるような、どんな説教壇からでも聞けるようなことだったらしい。ずいぶん回り道をしたあげく、誰でも既に知っていたことを発見したのである。」

1. 美徳の偏見
こんなありきたりの結論!... といって嘆くことはあるまい。言葉を知っているからといって、理解したことにはらない。概念を言葉で説明できたからといって、実感することは難しい。真、善、美などと三大美徳を持ち出したところで、真理がどこにあるかも分からず、何が善なのかも分からず、普遍性などというものが人間にとってどういうものかも分からない。にもかかわらず、人間は美徳とやらに依存せずにはいられない。正体が分からないから、実体が見えないから、狂ったように憧れるのか。
まだしも、美はましな立場にある。美的感覚は極めて主観的で、自己満足の上にあり、言葉で無理やり定義する必要もない。美は信仰に似ており、殺伐とした社会では芸術の美が辛うじて憩いの場を提供してくれる。そして、現実逃避のために芸術を盾にしながら、平凡なものは何であれ軽蔑の目を向ける。自分の落ち度が、他人の落ち度よりも、ずっと許しやすいとは奇妙である。どんなに知性を高めようとしても、どんなに理性を高めようとしても、教養ってやつは往々にして自惚れを旺盛にさせる。人間ってやつが結局は独善的な存在で、何も悟れないとすれば、分かった気になれるということが、いかに幸せであるか...
「私が思うには、千冊の書物を読んだのと、千の畑を耕したのと、どちらが高級かというと、差などない。絵について正確な解説が出来るのと、動かない車の故障箇所を発見できるのと、どちらが高級かという差はない。いずれの場合も、特別な知識が使われる。証券マンもそれなりの知識を持ち、職人もそれなりの知識を持つ。知識人が自分の知識だけが高級だと考えるのは愚かな偏見である。」

2. 批評家の批評
モームは、現代批評が無益である理由の一つは、作家が副業でやるからだ、と苦言を呈す。だが同時に、今日ほど権威ある批評家を必要とする時代はないとも言っている。
あらゆる芸術が困難な状態にあるのも確か。実際、作家か?教育者か?区別がつかない人もいれば、有識者を名乗る人もいる。まるでストレス解消のために批判の対象を求めるかのように。孤独と相性のいい芸術に没頭している人が、そうやすやすと露出狂になれるはずもないか...
「偉大な批評家は、知識が広いと同時に、幅広い作風に共感できなければならない。その共感は、自分には興味がないものだから寛容になれるというような無関心に基づくのではなく、多様性への活発な喜びに基づくべきだ。偉大な批評家は心理学者と生理学者でなくてはならない。文学の基本的な要素がどのように人間の精神と肉体に関連しているかを認識すべきだからである。彼は哲学者でなくてはならない。澄んだ心、公平さ、人間のはかなさは、哲学から学べるからである。」

3. 芸術家の自己中心主義
芸術家の自己中心主義は酷いという。生来独我論者で、世の中は自分が創造力を行使するためにのみ存在すると思っていると。
なにも芸術家だけの性癖ではなかろうが、まず、それを自覚することが作家の第一歩となる。社会的義務を背負わされたところで重荷となるだけ。そのような重荷から自己を解放するためにのみ書くのが一番。世間に評価してもらいたい、専門家に評価してもらいたい、などという思惑は無用だ。人間を曝け出さなければ小説など書けやしない。羞恥心の渦巻く世界に身を置かなければ。これは、ある種の自殺行為か...
自己と葛藤すれば、自己に敗れ、自己を抹殺にかかる危険すらある。不安と惨めさから、自己をどう救えるというのか。賢明な作家であれば、心の平静のために書くよう配慮するだろう。独善的な世界に身を置けば、最大の危険は成功ということになる。
だが、成功ってやつは、自己を破滅させようと罠を仕掛けてくる。その罠に気づけば、成功は新たな創造力を刺激するだろう。そして、芸術家は、自惚れとの闘いを強いられ、成功することがより堅固な自信をもたらす。
しかしながら、年老いてもなお、自信に縋らなければ生きては行けないとすれば、それは辛かろう...
「芸術家は誰も自分の差し出すものを信じてほしいと望むけれど、受け入れられなくても怒りはしない。しかし、神はそのように物わかりがよくない。神は自分を信じるようにとあまりにも強く望むので、自分の存在を納得するために信者を求めるのかと勘ぐってしまう。神は神を信じる者に褒美を約し、不信心者を恐ろしい罰で脅す。私としては、私が信じないからというので腹を立てるような神は信じることが出来ない。私ほどの寛容ささえ持たぬような神など信じない。ユーモア感覚も常識も持たぬような神を信じるのは不可能だ。」

2016-08-21

"人間の絆(上/下)" W. Somerset Maugham 著

「絆」という言葉は、心地よく響く。だが、どんなに美しい言葉でも、肯定的に捉えるだけでは不十分である。政治屋どもに巧みに操られる「正義」しかり、宗教屋どもに催眠の術とされる「友愛」しかり、酔いどれ天の邪鬼には、こそばゆい。「きずな」から仲間の「な」を取れば、ただの「きず」。断ち切れない繋がりは、心を圧迫するばかりか、仲間意識ってやつを強迫観念にまで高める。義務という名の下で社会の生け贄に捧げるもの、それが良心ってやつか。身体や精神に障碍があったり、普通の人と違うというだけで虐げられれば、その運命を恨み、普通という言葉にどれだけの意味があるのかと自問せずにはいられない。おまけに自虐癖がしみつき、逃避先は哲学か、形而上学か。不器用な生き方しかできない人には、絆は苛酷な言葉となろう。だからといって、逃避先に義務や常識を選べば、同じことかもしれん...
一方で、孤独の試練が自立心を芽生えさせる。いずれにせよ、孤独に依存するか、集団に依存するかの違いでしかない。そして、ニヒリズムが到達した幸福観念とは...
成功も無意味、失敗も無意味とすれば、失敗を恐れる理由はなくなる。人間は、生まれて死んでいく存在でしかない。そして、生も無意味、死も無意味とすれば、死を恐れる理由もなくなる。ましてや孤独死など、自然死の一形態にすぎないではないか。自己存在を否定してもなお、心が平穏でいられるなら、真理の力は偉大となろう...
尚、「人間の絆」は、サマセット・モームの半自伝小説であり、訳者中野好夫(新潮文庫版)はこう書いている。
「少なくとも作家の名に値する作家というものは、なによりもまず自分自身のために書く強烈なエゴティストである。なまじ世道人心や良俗教育のために書かれた文学に碌なものがなく、ひたすら自我のカタルシスのために書かれた作品こそが、かえって人間を高め、浄める文学であるというのは、文学の一つの皮肉である。『人間の絆』もまた、実にそうした作品の一つであった。」

幸福の否定から到達した寂滅の幸福とは、いかなるものであろうか...
これは、絆に縛られた一人の男が、ついに絆を断ち切り、自由な人間観に目覚めていく物語である。主人公は、片足に先天性の障碍を持つために、生まれながらにして背負わされた運命という名の強い絆で結ばれる。彼は、幼き頃から自己存在の意味について問い続ける。
絶望の境地にある者が、人生を幸福の尺度で測れば、恐ろしく惨めなものとなる。もはや救いの道は、自意識の解放か。世間が勝手に描く幸福という幻影を追い払うには、数学や論理学に縋ってみるのもいい。主体に幸福を見いだせなければ、客体に見いだそうとするだけのこと。やがて信仰や義務から解放され、障碍意識から解放され、泥沼の人間関係から解放され、人生の重荷が除かれていく。
そして、なぜこれしきのことが分からなかったのか!と、およそ「絆」とは程遠い宇宙論に達するのであった...
「人生に意味などあるものか。空間を驀進している一つの太陽の衛星としてのこの地球上に、それもこの遊星の歴史の一部である一定条件の結果として、たまたま生物なるものが生れ出た。そうしてはじまった生命は、いつまた別の条件の下で、終りを告げてしまうかもわからない。人間もまた、その意義において、他の一切の生物と少しも変わりない以上、創造の頂点として生れたものなどというのでは、もちろんなく、単に環境に対する一つの物理的反応として、生じたものにすぎない。」

1. 半自伝小説
この作品は自伝小説という評判があるが、あえて半自伝と書いた。というのも、相違点が多いからである。
まず、モームは幼少期から、ひどい吃り癖があって極度の劣等感に悩んだという。一方、主人公フィリップは、生まれながらにして蝦足でびっこを引くという身体障碍者。
幼くして両親と死別し孤児であったこと、愚劣な牧師の伯父に養われる幼年期、内気で惨めな学校生活、宗教心を失っていく様、ドイツ生活での人生啓蒙、計理事務所や医学校の生活などは、モームの人生を投影している。
信仰心を失って自由精神を覚醒させると、芸術に心酔し画家を目指すが、才能の限界を知ると父親の辿った医学の道を志す。
そして、医学校を出てからの筋書きは、大きく乖離していく。フィリップは医者になるが、モームは作家に転身。
フィリップは、ミルドレッドの美貌に惹かれて財産を貢ぎ、人生を狂わせていく。けして交わってはならぬ!と分かっていても、男はみな小悪魔にイチコロよ!愛とは、何かを拠り所にすること、依存すること、そして、見返りを求めることか。利己主義の恩知らずめ!
ミルドレッドは別の男に気移りし、恋に敗れた男は虚栄心とプライドを崩壊させる。にもかかわらず、男に捨てられ舞い戻ってきた彼女を拒絶できない。無論、女に同情したわけではない。結婚前には両目を大きく開いて見よ!結婚してからは片目を閉じよ!... とは誰の言葉であったか...
やがて戦争が始まり、株の投機で全財産を失い、食べ物にも事欠く有り様。自殺の誘惑がちらつく。公衆浴場の入浴代が六ペンスとくれば、まさに「月と六ペンス」(前記事)...
愛ってやつは、実に恐ろしい。愛情で誤魔化している間は誰もが楽観主義になれるが、現実に目ざめた途端に誰もが悲観主義に陥る。愛の情念は両極端で、中庸の哲学というものがまったく通用しない。なるほど、男の悲しい性に加え、ドロドロな関係を演出しようとすれば、ミルドレッドは絶好の人物だ。ただ、小説のモデルとなった実在する女性がどこまで悪女だったのかは知らん。あながち空想でもなさそうだけど...
また、後に結婚相手となるサリーは、ミルドレッドとは対照的に妻の理想像を描いている。救いの女神に出会うと、かつて苦痛を与えた悪女さえも赦せるものらしい。ただ、実在のモーム夫人とは違うようで、夫婦仲は険悪だったという噂もある。
そして最後に、幻影の幸福を追求した結果、現実の幸福を手に入れた... というのは、おそらく本当だろう。フィリップは、自由で受容的な人生観を悟り、ついに本当の絆を獲得するのであった...

2. ペルシャ絨毯と人生無意味論
人生の絵模様をペルシャ絨毯の彩りに重ねる一幕は、圧巻!この挿話に触れられただけでも、この作品と出会ったことに感謝したい...
老詩人クロンショーは、ペルシャ絨毯を贈ってくれた。人生の意味とは何か?その答えがここにあると。ペルシャ絨毯は、精巧な模様を織り出していく時の目的が、ただその審美感を満足させようとする。人生もまた、その瞬間、瞬間を、色鮮やかに生きようとするだけのこと。そして、フィリップは「東方の王様」の話を思い出す...
東方の王様は人間の歴史を知ろうと願い、ある賢者に500巻の書を選ばせた。国事に忙しい王様は、要約するよう命じた。二十年後、賢者は50巻に絞り込んだが、王様はすでに老齢で、浩瀚な書物を読む時間がなく、もっと要約するよう命じた。さらに二十年後、1巻に盛った書物を持参したが、王様はすでに死の床に横たわっていた。最後に賢者は、人間の歴史をわずか一行にまとめて申し上げた。
「人は、生れ、苦しみ、そして死ぬ。人生の意味など、そんなものは、なにもない。そして人間の一生もまた、なんの役にも立たないのだ。生れて来ようと、来なかろうと、生きていようと、死んでしまおうと、そんなことは、一切なんの影響もない。生も無意味、死もまた無意味なのだ。」
クロンショーの死は、いずれくるフィリップ自身の死を思わせる。偉大な詩人は、妻に虐げられ、金を失い、みすぼらしい最期を遂げた。世間で忌み嫌われる孤独死ってやつだ。
芸術家の運命に、死後花開く!というものがある。死してなお、人々の記憶に残れば本望であろう。だが、その幸せを享受できるのはごく一部の天才。そもそも死んだ者に幸福の概念などあるのか。すべてを無意味と結論づけちまえば、人生もそう怖くはなくなるだろう。この思考原理は、自暴自棄とはまったく正反対で、積極的に受容する運命論としておこうか。その瞬間、瞬間を、ゆっくりと精一杯生きようという。そして、あの芸人の言葉が聞こえてくる... 生きてるだけで丸儲け!

2016-08-14

"月と六ペンス" W. Somerset Maugham 著

これは小説なのか?小説ならば、主人公の動機や行為の理由、突然変化する気持ちの経緯などの説明義務があっていいはず。だが、あえて不可解という言葉で片付け、こんな一文が鏤められる。
「当時の僕は、未経験で人間の理解が浅くて、そんなふうにしか解釈できなかった。」
傍観者の一人称小説とすることで、主人公についての理解が満足のいくものではない、と素直に言い訳できる。決して意見を変えないのは馬鹿と死人だけというが、一人の人間が首尾一貫して生涯を全うするなんてことは不可能であろう。同じ人格の中に、到底調和できない情念が共存しているのだから。不可解を不可解のまま、矛盾を矛盾のまま描くから、リアリズムを演出し、人間味あふれた人物像が描ける。人間不可解論とは、こういうものを言うのかもしれん...
尚、数ある翻訳版の中から行方昭夫訳(岩波文庫版)を手にとる。

本書は、ポール・ゴーギャンをモデルにした創作小説である。彼の伝記では、数々の正統派物語があるにもかかわらず、「月と六ペンス」を思い浮かべる人も多いようである。
サマセット・モーム自身は通俗作家を名乗っていたというが、彼は皮肉屋か?はたまた照れ屋か?芸術の魔力に憑かれた男のロマンに女性蔑視のエゴイズムを重ね、冷笑的に描いて魅せる。
尚、モームは妻との関係が険悪だったそうな。数々の女性蔑視の台詞は、憂さ晴らしのために非常識な主人公に代弁させたのかは知らんが、フェミニストの攻撃に曝されたことだろう。
芸術家は世間に羞恥を曝け出し、自分自身を生け贄に捧げながら作品に思いを込める。性的本能が自虐にさせるのか?いや、M性がそうさせるのだろう。
主人公は、ゴーギャンの生きた痕跡に、モームの自我を組み込んだような人物である。二人の人物像が重なれば、もはや精神分裂症は避けられない。その証拠に、登場人物がことごとく支離滅裂な言動をぶちまける。人間ってやつは、誰もが精神分裂症を抱えているとでも言いたいのか?精神病を患わない人間は、もはや精神がないとでも言いたいのか?そうかもしれん。その本性を誤魔化し、自分自身を欺くために、常識やら地位やらに縋るというわけか...

ところで近年、「低欲望社会」という用語をよく耳にする。金銭欲や物質欲といった尺度から眺めれば、そうかもしれない。金銭欲、物質欲、名声欲といった欲望に一貫性を保つことができれば、生きるための拠り所にすることはできるだろう。
しかし、高度成長時代に当たり前とされてきた賃金増加は、既に息切れしている。そんな状況にあって、知識欲までも低迷していると言えるだろうか?新たな価値観を別の方面で模索し、欲望が多様化しているだけではないのか?人間が欲望を、そう簡単に放棄できるとは考えにくい。凡人は小欲なり、聖人は大欲なり... とは誰の言葉であったか。金になる仕事が減っても、金にならない仕事はいくらでも見い出せる。
例えば、ボランティアで技術を開発するフリー経済の場に身を置く人々がいる。最低限の生活費が確保できれば、他のことに生き甲斐を求めるのである。インターネットにしても、今でこそ勝ち組などと称して金儲けをしている連中が幅を利かせているが、もとももとはボランティア的な研究者の集まりから生まれたものだ。一時期フリーミアムというビジネスモデルが流行したが、現在のフリー経済はもっと多様化しているように映る。貨幣経済から知識経済への移行とでも言おうか。
すべての依存から解放されたいという思いには、欲望そのものからも解放されたいという矛盾がつきまとう。証券マンだったゴーギャンがすべてを捨て、画家になって遠く離れたタヒチに身を委ねたのは、現実逃避の結果でもあろう。フリー経済へ身を委ねるのも、ある種の現実逃避と言えば、そうかもしれん。しかしながら、現実逃避してもなお生きて行けるのが、天才という人種である...

1. 「月と六ペンス」とは、まさに、月とスッポン!
タイムズの文芸付録に出たモーム著「人間の絆」についての書評には、こんな文句があったそうな。
「多くの他の若者と同じく、主人公のフィリップは月に憧れるのに夢中であったので、足もとにある六ペンスを見なかった。」
「月と六ペンス」という風変わりなタイトルは、ここから借用したものらしい。つまり、夢と現実を対置しているわけだ。夢を体現する人物として描かれるのは、主人公ストリックランド。ごく平凡な中産階級の証券マンは、四十にして突然家族や仕事を捨て、画家の道に身を投じ、タヒチで生涯を終える。物語は、社交界の評判や富に執着する人々と対比しながら夢と現実の狭間で展開され、そこに現実を生きる人々への痛烈な皮肉がこめられる。人間ってやつは、夢に縋ろうが、現実に縋ろうが、結局は何かを拠り所にしなければ生きては行けないというわけか...
「偉大さといっても、運に恵まれた政治家とか、成功した軍人のことではない。その種の偉大さは地位に付随するものであって、人間の価値とは無関係であり、事情が変われば、偉大でもなんでもなくなってしまう。退職した途端に、名宰相が屁理屈ばかりこねる尊大な男になりさがるとか、退役した将軍が都市の平凡な名士にすぎなくなるといったことは、誰もがよく見聞するところである。そこへゆくと、チャールズ・ストリックランドの偉大さは本物だった。」
ところで、夢と現実の違いとは、なんであろう。夢ってやつは、どんなにありえないストーリーであっても、見ている間は妙にリアリティを感じるものだ。一方、現実は、過去に追いやってしまえば、なんと馬鹿げたことかと笑いの種になるか、あるいは忘却の遥か彼方。それで、何が違うんだっけ?今、目の前で起こっている出来事が、夢か現実かは知らんよ...

2. ゴーギャンとの類似点と相違点
本書は、ゴーギャンとの類似点を多く見つけることができるが、相違点も多い。実際、ゴーギャン夫人が「月と六ペンス」を予見なしに読んで、自分の夫がモデルなどとは少しも思わなかったそうな。それはそれで、ちと鈍いような気もするが...

類似点は...
平凡な家庭の家長として証券関係の仕事に従事し、画家へ転向したこと。非社交的で社会常識を無視したこと。タヒチで現地人の妻を持ち、そこで死んだこと。死ぬ前に最高傑作を完成させたこと。後は、絵の手法や主題など...

相違点は...
ゴーギャンはフランス人で、主人公ストリックランドはイギリス人。物語では妻と完全に絶縁するが、ゴーギャンは家族をタヒチへ呼び寄せようとしたという。ストリックランドは絵画論を語らなかったが、ゴーギャンは自作についても他の画家の作品についても多弁に論じるなど、もう少し人間味があったようである。
また、友人のストルーヴ夫妻との関係がワイドショー風に展開される。ストリックランドは肉欲のために夫人に手を出し、彼のニヒリズムのために服毒自殺に追い込むが、ゴーギャンは友人の妻を誘惑したことはあっても深刻なものではなかったようである。
晩年のストリックランドはハンセン病を患わせて盲目となり、それでもなお壁面いっぱいに最後の傑作を残し、タヒチの妻に命じて焼却させる...

最後の傑作について、遺体を看取ったクートラ医師は、絵画知識がまったくないにもかかわらず、宇宙論的な感想をもらす。官能的な美しさは、むしろ恐怖を掻き立て、宇宙は無限で、時は永遠だという強烈な印象を与える絵であったと。それは、ゴーギャンの代表作「我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこへ行くのか」から、ヒントを得たものらしい。ほとんどの人間は物質主義者であり、この絵の前では物笑いの種にされるような...
「自然の隠れたる深淵にまで侵入し、美しくもあり、かつ恐ろしくもある秘密を発見した男の作品だ。人間が知るには罪深すぎる秘密を知った男の作品だ。どこか原始的で慄然たるものがあった。人間が描いたものとは思えなかった。彼は以前うわさに聞いた黒魔術を思い出していた。美しく、かつ淫らでもあった。やれやれ、まさに天才だ!」

3. 人間不可解論
ストリックランドは、安定した生活が保証されているにもかかわらず、突然すべてを捨てた。退屈病がそうさせるのか?マンネリという名の拷問がそうさせるのか?世間は言う。労働の尊さを知れ!と。彼も自問したに違いない。証券取引所で金儲けすることが真の労働なのか?と。
ストリックランド夫人の考えは、四十の男が突然蒸発するのは女ができたに違いない、ということ。知性が低ければ抽象的な議論を嫌悪し、人生とは何か?などと自問することもないと蔑む。結局、社交界の地位や富の尺度でしか価値が語れない世界にうんざりしたのだろう。こうした行動に不自然さを感じない。むしろ不可解なのは周囲の連中である。
三流画家ダーク・ストルーヴは、友人としてパリで貧乏生活を続けるストリックランドを援助し、重病を患うと自分の家に引き取る。妻ブランチを寝取られたにもかかわらず、ストリックランドを崇め続けるとはどういうわけだ?
妻ブランチは、もっと不可解!ストリックランドはエゴイストで世間の評判が悪く、ブランチも思いっきり嫌っていた。夫ダークが重病のストリックランドを引き取ると打ち明けた時も、絶対いや!と拒否。だが、体を丁寧に洗ってやったり、愛想笑みを浮かべたり、嫌った素振りを一切見せない。
やがてストリックランドの肉体に惹かれ、二人で家を出る。ストルーヴ夫妻が倦怠期にあったのかは知らん。ついに献身的な世話は報われず服毒自殺する。恋心ってやつが、見事に利己心を覆い隠してしまう。孤独愛好家には、自虐願望の性癖があるらしい。
その一方で、タヒチで結婚した妻アタは、超人的な愛の持ち主。神の寛容さでもなければ、これだけのエゴイストを包み込むことはできないだろう。
さて、ストリックランドの方はというと、まったく罪悪感がなく、見事なほどに男のエゴイズムを貫く。夜の社交場で、こんな台詞を吐くと袋叩きにされるだろう。とはいえ、小さな声で... 惚れ惚れする!
「俺は愛など要らぬ。そんな暇はない。愛は人間の弱点だ。俺は男だから、女が欲しいこともあるさ。だが欲望が満たされれば、他のことに向かう。性欲は克服できんが、そいつを憎んでもいるのだ。精神を虜にするからだ。あらゆる欲望から解放され、邪魔なしで仕事に没頭できるときを、いつだって待ち望んでいる。女は恋以外に何もできないから、滑稽なほど恋を重視するのだ。そして、恋こそ人生のすべてだなどと男にも思い込ませようとする。恋など人生の瑣末な部分にすぎん。情欲なら分かる。正常で健康的なものさ。だがな、恋は病だ。女は快楽の道具だ。伴侶だの、仲間だの、連れ合いだのという主張には我慢ならんよ。」

4. 良心という名のスパイ
世間に支持されたいという人間の願望はとても強い。世間の批判を恐れる気持ちも同じく強い。そこに良心ってやつが、心の隙間に入り込み、個人の幸せよりも社会の利益を優先させるという寸法よ。実は最も手に負えないのが、肥大化した良心なのかもしれん...
「およそ良心というものは、社会が自らを維持する目的でつくった規則が守られているかどうかを監視するために、個人の内部に置いている番人である。個人が法律を破らぬよう監視するために、個人の心の中に配置された警官だとも言えよう。自我なる要塞に潜むスパイなのだ。」

2016-08-07

"パロール・ドネ" Claude Lévi-Strauss 著

「主題とモノに突き動かされれば、人は、あとで自分が何を言ったのか思い返せないほどの激情と力強さをもって語るものである。」
... ルイ・ド・ルヴロワ・ド・サン=シモン「回想録」より

口頭で残せば、制約から解き放たれる。発言が検証されなければ、口の動きに任せて語ることができる。魂の奥底に潜む無意識の領域を覗こうとすれば、思考は手探りで進み、横道に逸れることもしばしば。春風に誘われて散歩するがごとく。もちろんボイスレコーダの持ち込みは禁止だ。
本書は、文化人類学者レヴィ=ストロースが高等研究院とコレージュ・ド・フランスで32年に渡って行った講義集である。そこには思考のスケッチが集められ、彼の著作群の道案内人となってくれる。「人類と歴史」、「悲しき熱帯」、「構造人類学」、「今日のトーテミスム」、「野生の思考」、「神話論理」、「親族の基本構造」、「はるかなる視線」、「遠近の回想」などの...
講義ですべてを語り尽くすことは不可能だ。せめて思考の道筋を辿ることのできる素材を残したい... あとは聴衆の理解力に委ねたい... との声が聞こえてきそうな。
「私の即興癖ゆえに、予想されなかった問題や謎がしょっちゅう立ち上がり、主題を追求する前に、それをまず解決するよう強いられることもあったが、あとで出てくる結果は同じであった...」

講義が行われた二つの研究機関は、フランス共和制の理念に沿って誕生した。学問精神は自由精神とすこぶる相性がいい。そこに、政治的思惑や経済的実益など無用だ。仮説やアイデアを存分に試すのに、王道も邪道もない。もし定式化に失敗したとしても、それが無意味ということにもならない。思考の過程が大切なのだから。天才とは、無意味を意味あるものに、無意識を意識あるものに、そして無駄を存分に謳歌できる人のことを言うのであろうか。なるほど、この酔いどれが、無意味、無意識、無駄を恐れるのも道理である...

ところで、文化の源泉とはなんであろう。文化は、民族や地域などの集団社会から育まれる。群れる習性がそうさせるのか?
では、人間はなぜ群れようとするのか?自己確認のための手段か?相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体は、他人との対比においてのみ自己を確認できる。その意識には排他的心理が働く。自分は特別なのだと...
おそらく、仲間意識や敵対心を人間の意識から根絶することはできないだろう。人間は、自分自身がなんであるかを求めてやまない。自己の居場所を求めてやまない。そこに答えが見つからなければ、信じるだけだ。救ってくれない宗教なんぞに居場所は与えられない。だから、無条件で信じこませようと必死だ。人がなんらかの罪を意識しているとすれば、まずもって罪人を救済しなければなるまい。さすがに宗教は、目のつけどころが鋭い。存在を確認する術がない事象ほど、存在中心主義を旺盛にさせるのであろうか。人間中心主義、民族中心主義、西欧中心主義、自己中心主義... すべては他との対比において出現してきた。人間社会は相も変わらず迷信や慣習に深く依存し、存在が脅かされない程度に科学的事実を認める用意がある。宗教に依存すれば、宗教観を否定する存在は絶対に認められない。存在にとって不都合なものには寛容ではいられないのだ。すべての存在原理は、自己存在、ひいては自己愛に発している。これが人間の性癖というものか...
いまだ人類は、精神の正体を知らない。正体を知らなければ、確実な存在証明ができない。もはや存在の証を過去の栄光に縋るしかない。忌々しい過去は抹殺にかかる。
しかしながら、人類学には、文化なり、人々なり、その対象や記憶が消滅していくという困難がつきまとう。純粋に自然と向き合ってきた先住民は減少する一方で、近現代人はますます文明の波に呑まれていく。過去が次々と忘却に追いやられる分、未来が過去に呑み込まれていけば、それが希望となるだろうか。人類は、存在の原点を失おうとしているのだろうか...

1. 言語学と人類学
レヴィ=ストロースは、言語学が示している道こそが人類学の取るべき道であると説く。そして、その構造概念は多くの場合、共時態と通時態を組み合わせた二つの次元からなるという。これは統計学的な観点からの発言のようだが、平均値と呼ぶには弱い、一般化と呼ぶのもいまいち、普遍性と呼ぶにはちと大袈裟な気もする。いずれにせよ、この分野は抽象化よりも多様化の方が相性が良さそうである。言語は、論理性だけでは説明ができない、慣習と深く結びついた側面を持ち、こんな時はこういう風に言うものだ!とった暗黙の法則に支えられている。
「ソシュールによれば、世界中のあらゆる言語は、言語が有縁性と恣意性に割り当てている場所にしたがって秩序づけることができる。一方には文法的言語があり、もう一方には語彙的言語があるが、その間にはさまざまな媒介の形式が組み入れられている。」

2. 多様性と不平等
こと人間社会に関して、例外のない法則はないだろう。人間個体に奇形があるように、人間社会にも奇形がある。時には、例外の方が多数派だったりする。権利の定義は、はたして多様性と普遍性のどちらを基軸にすべきであろうか。これは、自由と平等の共存に匹敵する難題である。
人間社会では、進化は二つの形態をとるという。一つは、長時間に渡る量的進化で、もう一つは、細かな観察が要求される多様化であると。地球資源に依存することでは、古代人も現代人も同じ。だが、文明が高度化するほど、根源的に依存している自然物の存在を覆い隠し、間接的に依存している人工物の存在を大きく見せる。集団に依存し、機械に依存し、仮想空間に依存し... ますます依存症を強めれば、自立性や自律性を失わせるのか。先住民の言語や文化は保護政策の対象とされるものの、彼らは既にアイデンティティを見出すことが難しいようである。それどころか先住民という概念すら曖昧になってしまい、貧困層と混同される。多様性という用語は、しばしば不平等と解釈されるようである。異色で理解の難しい風習に出会っては、未開人や野蛮人などとレッテルを貼る。俗進化論と結びつけば、猿の文化というわけだ。
一方で、どんなに善意をもって、文化や民族の特徴、男女の役割などを構造的に唱えても、宗教家やフェミニストの攻撃に曝される。人類学用語は、下手すると差別用語に仕立て上げられるのだ。レヴィ=ストロースが、ルソーの「不平等起源論」に執心するのも分かるような気がする。

3. 間接的表象と交換原理
神話の表すレトリックやモチーフには、何が意図されているのだろうか?わざと主題をぼかし、暗喩の類いを多用する裏に、いかなる精神メカニズムが隠されているのだろうか?間接的表象は、神話だけでなく、トーテミズムや仮面信仰、あるいは儀式や慣例にも現れる。人は何かに願いを込める時、仮想的な対象を欲する。実体に縋ることができなければ、自由に存在を定義できるのだから。偶像化とは、ご都合主義の現れか。儀式や慣例を常識とするのは、そこに心の拠り所でも求めているのか。
精神的な表象は論理性だけでは説明できない。言語は、そうした曖昧な領域までも内包している。言語を論理的な記号でしか解釈できなければ、神話に隠された論理を解読することもできないだろう。神を思い描くのは、叱ってくれる存在を欲する M性の現れであろうか?神の代理人を称するのは、S性の現れであろうか?人間にこのような性癖を与えた神もまた、チラリズムがお好きなようだ...
現在でも、物事を面白おかしく説明するために喩え話が用いられ、プレゼンテーション技法でもよく用いられる。分かりやすい言葉ばかりに触れていると、文学性を乏しくさせ、文章の奥行きが読めなくなる。やはり、心をくすぐるのは間接的な表現の方であろうか。いや、洗脳するには直接的な表現の方がいい。皮相的な表現に対してヒステリックにさせる性癖こそ、扇動者の望むところだ。無条件で信じこませるには、感情を直接操る方が合理的である。
じっくりと読書する暇もない現代人は、分かりやすいものに飛びつく性向がある。そこで、分りやすくもあり、間接的な表象でもあるハイブリッド型の社会が、仮想化社会であろうか?仮想化もまた、間接的表象であり、ある種の偶像化と言えよう。貨幣経済が価値指標を明確にし、名誉や肩書が存在を保証してくれれば、欲望の所在が分りやすくなる。溢れる情報に混乱させられれば、流行に身を委ねるだけで、心に落ち着きを取り戻せる。精神に何かを語りかけたければ、仮想化した存在に訴えるのも有効のようだ。
欲望の代替を求め、実体の代替を求め、そこに交換の原理が生まれる。おまけに、負債は常に交換の対象とされ、その中に妻や夫が含まれるケースも珍しくない。互いの保険金や性関係において。人間にはスワップ好きの性癖がありそうか...
「トーテム的表象が目的としているのは、社会的現実のあらゆる側面の一方から他方への可換性を保証すること、そして言語の面においては、自然と社会の次元における有意味な側面を同じ単語で表現し、片方からもう一方への絶え間ない移行を可能にすることである。」

4. 双系出自体系と平等関係
共系(双系)、すなわち、父母系の対等な認識に基づく出自体系は、例外としての親族構造ではなく、頻出するというから、なかなか興味深い。伝統的な親族関係では、妻の貰い手と贈り手の間において不平等な関係が生じる。政治的地位を獲得したり、武力的安全性を確保するために、女性が利用されてきた。そこで、集団的な対等関係を担保するために、女性と女性を交換しあうことになる。ただ、父系制か母系制かによって、交叉イトコ婚や平行イトコ婚などの意味も違ってきそうである。人間社会には、平等関係を求める資質を持っていながら、膨大な統計パターンから、結局は不平等関係に落ち着く性質でもあるのだろうか?多くの物理現象が、均等ではなく、カオスへ向かうように。圧倒的に父系制が多い事実も、数学的に説明できるのだろうか?
「共系体系と単系出自による社会との間の差異は、おおまかに言って、節足動物と脊椎動物との違いになぞらえることができよう。単系出自の場合、社会の骨格は内在的なものであり、それは人格的な地位の共時的かつ通時的な網の目からなり、そのなかで個人の地位は、ほかのあらゆる地位と固く結び付けられる。共系の場合、その骨格は外在的なものであり、それは領土的な地位の網の目からなり、つまり土地占有の体系だと言える。こうした領土的な地位は、個人にとっては外部のものであり、彼らは、このような外的な制約によって定められる範囲内で、一定の自由度をもって自己の身分を定めることができる。」

5. お家制度
世界の様々な地域には、家族、氏族、リネージなどでは説明のつかない社会集団があるという。家制度ってやつだ。ギルドにも似たような形態で、封建制を支えてきた制度でもある。これは、血縁による世襲というだけでは説明できない。家柄の格付けが政治的、経済的地位を保証する一方で、お家断絶や家督相続で問題となる。集団責任の意識も強い。伝統芸道では、家元が絶対者として君臨する。こうした権威的意識は、ある種の結束力をもたらすが、もともとは信仰的な意識から発しているのかもしれない。やがて、系統的、カースト的な意識が常識化され、封建社会の基盤となっていく。慣習とは恐ろしいものである。
現在ですら、夫婦別姓を認めることに拒否反応を示すのは、どこかに「お家」というものに執着があるのだろうか?血の絆から実益の絆へ。いずれの絆も、幻想といえばそうかもしれん...
「家制度を有するすべての社会では、対立しあう二つの原理の間で緊張や、またしばしば紛争が発生する。つまり本質的に相互に排他的な原理が並び立っているわけである。たとえば出自と居住、外婚と内婚、ここでもやはり正確に応用することのできる中世風の述語を用いれば、人種の権利と選択の権利が、それである。」

6. 儀礼メカニズムとゲーム理論
本書は、神話の論理を説明するために、神話の言説をある種のメタ言語として扱っている。一方で、儀礼のメカニズムを説明するために、「パラ言語」というものを提案している。神話も儀礼も意味作用を持っているが、程度の違いがある。というより、意識か無意識かの違いであろうか。儀礼の価値には、祭具や身振りのうちに含まれる形式的な意味合いが強い。現在でも、儀礼そのものが慣習に呑み込まれるケースをよく見かける。様式から外れると、非常識やら、無礼者やら、とお叱りを受けるわけだ。そして、意味を尋ねると、説明できないのである。
また、神話モデルの分析では、言語学との対話が最も良いやり方で、儀礼モデルの分析では、ゲーム理論を用いるのが良いとしている点は、なかなか興味深い。まずゲームを、無数の試合展開を可能にする規則の総体として定義し、次に、二つのチーム間でバランスが生じるような特別な試合展開を想像し、その試合展開の中から最も合理的なシナリオを選択しようとする... といった考察である。確率論的でありながら、量子進化論的とも言えようか。ゲームの目的は勝利することだが、チーム内には分離作用が生じる。うまく試合運びができれば、合理的な役割分担が生じ、うまくいかなければ、分裂の火種となる。
儀礼もまた人と人を結びつけたり、反目の種となったりする。ここで言う合理性が自然法則に適っっているかは知らんが、人間社会において区別と差別は紙一重のようである。人の好き嫌いも気まぐれといえば、そうかもしれない。親子や兄弟、あるいは神の前で誓った二人が、最も根深い憎悪を抱くのも道理であろうか...