2016-06-26

ポータルサイト変更... MなYaさんから愛あるGさんへ回帰!

2012年下旬、iGoogle のサービス終了にとまない、My Yahoo! に宗旨替えした。
今度は突然、My Yahoo! から2016年9月29日をもって終了!との通知を受け、目が点になる。せめて半年ぐらい猶予が欲しいところ。ちなみに、i(愛)ある G さんは一年以上の猶予をくれた。
OS業界にせよ、通信業界にせよ、よくこうも雑用を増やしてくれるものだ。MS教(= SM狂)の十字架バージョンでがようやく落ち着いたと思ったら。便利やら、新しいやら、散々勧誘しておきながら、変わり身の早さは政治屋のごとく。世間に酔わされながら生きていくユーザは奴隷になるしかない。どうせ、おいらはドMよ!.

おかげで、自分にとってのポータルサイトの位置づけを改めて考えさせられる。
そもそも、My Yaさんがなくなると、なぜ痛いのか?実際、Neちゃんとバイブこと Netvibes をヘルプ役に指名している。Neちゃんは柔軟性の高さと設計思想が気に入っているものの、体が重いので No.1 にはなれない。
一方、My Yaさんは比較的軽いとはいえ、コードも埋められず、テーマもしょぼい!
そこで前々から、愛ある Chrome に目をつけていたが、Gさん依存症は避けたく、いまいち踏み切れないでいた。
ところで、iChrome は語呂がいまいちで、愛称するのが難しい。愛あるGさんの後継ぎで、愛の苦労人とでも呼んでおこうか。こいつを使い始めて、一週間になるが、大した問題もなく、癖も見えてきたし、なかなか快適!

● Yaさんと縁が切れると、本当に痛いのか?
特に、Yaさんファイナンスを埋め込むポートフォリオ機能は、ルーティンワークに馴染んでいる。そもそも、Yaさんファイナンスを、ポータルサイト経由で閲覧しなければならない理由とは何か?ブラウザ起動時に複数のサイトを開いて、ブラウザ側のタブに配置してもいいし、起動時でなくても、複数タブを同時に開く Seesion Manager という拡張機能を愛用している。あるいは、愛の苦労人にリンクを埋め込んでもいい。
では、直接サイトを閲覧するとなると、Yaさんファイナンスである必要があるのか?Yaさんの株式情報はどうせ数十分ほどディレイしているし、証券会社や他のサイトにリアルタイムでもっと充実したサービスがわんさとある。
結局、痛い!と思ったのは、急に告げられてムッとしただけで、冷静に考えれば見直しの機会が与えられ、むしろありがたいのではないか。Yaさんとも、あっさり手が切れそうだし。ただし、Neちゃんと切れるのはまずい!

● 愛の苦労人を試すも、愛あるGさんに戻った感がある...




1. まぁまぁ軽い!なんといっても目障りな広告がない!

2. 表示形式の柔軟性がイマイチ!
表示の融通が利かないのは、愛あるGさんの時代と似たようなもの。例えば、天気ウィジェットの文字がバカでかい。せめて列ごとに幅調整ができるとありがたい。せめてタブ毎に設定できるとありがたい。作りがシンプルだから、軽くてストレスを感じなくて済むのだろうけど。尚、Pro版ではもう少しいじることができそう...

3. ホームボタンに勝手にマッピングされ、余計なお世話!
ホームボタンに愛の苦労人が設定されるのは結果的に不満はないが、試行段階では余計である。尚、起動アドレスは、"ichro.me/redirect"
ちなみに、「iChrome 新しいタブ」という補助的な拡張機能もあって、新しいタブから起動させることもできるが、そこまでやらんでもええや。

4. ツールバーのスタイルをボタンにするとスッキリ!
スタイル設定で [ボタン] を選択すると、最上部の検索スペースが消えてシンプルになる。タブレットでは僅かな表示スペースでも気になってしょうがないので、意外と重宝する。

5. ファイルレベルでバックアップができ、移植も簡単!
ファイルにバックアップできるので、Gさんアカウントにログインしなくても設定が保存できる。環境ごとの移植も簡単!
ただし、Google Now などログインしていないと使い勝手の悪いウィジェットも多々あるので、アカウントと連動する方が安心はできそうだけど...

6. タブ操作も簡単!
タブへ飛ぶ時は、画面左右に表示される矢印ボタンか、カーソルキーでもOK。所定のタブに飛びたい時は、右上ボタンの一覧から選択できる。

7. RSSリーダとしてもまあまあ!
ただし、Neちゃんは未読記事をハイライトしたり、未読数も表示してくれて、彼女の尽くしようは捨てがたい。さすがに愛の苦労人だけあって、彼女と縁が切れないよう按配が絶妙だ!

8. htmlコードが埋め込める!
この機能は、愛あるGさんの時代から装備されている。
あれ?昔、動いていたコードが動かない。どうやら、外部参照の JavaScript コードがうまく動いてくれないようだ。Neちゃんの上では激しく動いているので、ブラウザの問題ではなく、愛の苦労人の問題か。ウィジェット内は、HTML と JavaScript のコードを置く場所が別々にあって、スクリプト自体は所定の場所に書けば動く。とりあえず、簡単なコードでいくつか確認した。Hollow world! の表示やブラウザの判別など。セキュリティ上、外部参照のコードがデフォルトで許可されてない可能性は考えられる。PHPなら動くなぁ... うん~、要研究!
こいつが解決すれば、小悪魔とも縁が切れてスッキリするんだけどなぁ...
尚、iframe 内にwebページを埋め込むウィジェットも装備されるが、そこまでやらんでもええや。

9. [カスタム CSS] で愛の苦労人を手なずけられるか?
CSS を直接記述できる領域があって、大抵のことはカスタマイズできそうだが、構造を解析するのに苦労しそう... 要研究!とりあえず、背景画像をスクロールしないようにした。

10. Pro 版の背景動画に誘惑されそう!
Pro版の背景画像には動画も用意されていて、フリー版でもプレビューのみ可。草木や葉っぱが風に揺れる様、川や滝の流れ、海岸の波打ち際、小鳥の飛ぶ光景など和めるテーマもあって、いい感じ。尚、背景画像のダウンロードは、フリー版のデータも含めて、Proユーザのみ可。
ちなみに、CCleaner(フリーのお掃除ソフト: : ver 5.19.5633-64bit)で、Google Chrome の [インターネット一時ファイル] にチェックを入れて掃除をやると、なんと設定した背景画像が消えちまった!Pro版では、こういうこともなくなるのかなぁ?復帰には、愛の苦労人を再インストールする羽目に。
とはいえ、環境のバックアップと復元は簡単だし、たかだか拡張機能の再インストールに大して手間はかからない。

2016-06-19

"絶対音感" 最相葉月 著

「音楽は言葉で説明するものではない。表現がすべてであり、わかる人にはわかる、わからなければそれもやむをえない。だが、そう突き放されることでどれだけの音楽が私たちの手を離れていっただろう。言葉で説明することを邪道とする固定観念は、鑑賞者よりもむしろ音楽家自身を不自由にしてきたのではないだろうか。それが彼らのストイシズムである一方で、呪縛となっていたことは否めない。」

人間が「絶対」と呼ぶものは、本当に絶対なのか?崇めるほどのものなのか?絶対音感は、音楽家には、特に指揮者には必要な能力だとも聞く。その能力が、カリスマ性を後押しするのも確かであろう。絶対音感のない音楽家には劣等感のために口を閉ざす人もいて、能力の有無を質問することすらタブー化してしまう。確かに、心の拠り所となるものが絶対的な存在となれば、楽になれる。だがそれは、ある種の宗教にも似たり。なによりも芸術心は自由精神に支えられ、社会の画一化された常識や絶対的な観念から、一瞬でも解放してくれるところに芸術の意義がある。既成の価値観の破壊活動ということもできるわけで、あらゆる学問がそうした性格を持っているはずだ。
ピアノはこう弾きなさい!小説はこう書きなさい!絵画はこう描きなさい!と強制することが良いことなのか、はたまた英才教育が正しいのかは分からない。そういう時期も必要なのかもしれない。もちろん基礎を学ぶことは大切で、感情を表現する技巧を追求することが間違っているとは思はない。技術や知識があるからこそ、そのレベルに応じた自己表現が可能になるのだから。
ただ、手段が目的化することはよくある。哲学をともなわない芸術や技術は、それ自体が色褪せてしまう。特殊能力を獲得することに執着し、強迫観念にまで高められた時、もはや真の目的を見失うであろう。
一方で、鑑賞者の側もぼんやりとしているわけにはいかない。芸術家とともに高みに登っていかなければ。鑑賞者が最低な感想をもらす場合もある。作者はいったい何が言いたいのか?と... もはや目的が目先の利益へと偏重し、自然に裏打ちされた芸術作品が語りかけてくれる声も耳には届かない。せめて子供たちの才能や個性は、大人どもの脂ぎった欲望から遠ざけてあげたいものだ...
「全身の奥深く眠り、容易には取り出せない幼い頃の記憶。私たちはそれを往々にして天性と呼ぶ。そして、そう呼んだときから何かが半分くらい見えなくなる。それを手にした人も、手にすることができなかった人も...」

一方で、絶対音感は、音楽の本質ではないと言う人も少なくない。モーツァルトやベートーヴェンには絶対音感があったと言われるが、おいらの好きなチャイコフスキーにはなかったと言われる。音楽家にとっては絶大な道具となるのだから、あるに越したことはない。だが、あまりに研ぎ澄まされすぎた能力は、精神に弊害をもたらすこともしばしば。そもそも、絶対音感の定義が難しい。ニューグローブ音楽事典によると、こう記されるという。
「ランダムに提示された音の名前、つまり音名が言える能力。あるいは音名を提示されたときにその高さで正確に歌える、楽器を奏でることができる能力。」
耳から入ってくる音が即座にドレミで言い当てられるということは、感覚的に捉える音の世界を、言語脳を働かせて論理的に捉えることができるわけで、いわば、デジタル記法で表現できる能力と言えよう。つまり、言語解釈を左脳の機能と決めつけず、右脳と柔軟かつ絶妙に協調することで、音楽の意志を言葉で感じることができるということだ。
しかしながら、現実の音は、すっきりと音名に収まるものではない。すべての音を周波数で言い当てるという方法もあるが、真の自由を求めれば無理数に頼ることになる。魂がデジタルに幽閉された世界とは、いかなるものであろうか。ただでさえ騒がしい社会にあって、耳から入ってくる情報がすべて言語と結びつけば、やかましくてしょうがない。
デジタル信号の優位性は、情報伝達の正確な復元性にある。心に思い描いたメロディを、その場で書き写すとは、まさに作曲家に求められる能力。近代化社会では、便宜上デジタルを用いることが多く、シャノン的な二項対立の思考を要請してくる。
しかしながら、精神にとっては、どこか曖昧なアナログの方が居心地がよいと見える。聴覚が歪んでいれば、少々音程のずれた音楽でも心地良く聴こえ、精神が歪んでいれば、歪んだ社会を生きるのに都合がいい。
「絶対音感 = 万能というイメージが、さまざまな幻想と誤解を生み出していった。それは、創造性を左右する魔法の杖でもなければ、音楽家への道を約束する手形でもなかった。」

1. 音響心理学と共感覚
本書は、絶対音感が実に多様な精神現象であることを教えてくれる。
絶対音感が災いして街に溢れる音という音に無関心ではいられない人々がいる。会話の声、電話の音、照明や空調の音、車のクラクション、救急車のサイレン... こうした音がすべて調和するとは考えにくい。読書をしながら BGM が聴けないという人、音楽が周りの音と調和しないと気持ちが悪いという人、ホールの雑音までも音譜として浮かび上がり、気になって演奏に支障をきたすという音楽家など。
一方で、なんなく絶対音感を受け入れられる人々がいる。1Hz ずれた音をしっかりと認識しながらも、周りの調律と合わせて音名と関連づけることができる音楽家など。相対音感に絶対音感を調和させることが自然にでき、音感の抽象レベルが高いということか。絶対音感そのものが害になるのではなく、これを絶対化することの方が、はるかに害になるようである。
また、音楽を聴くと、色彩が見えてくる人々もいるという。ある楽器の音色から赤色が見えたり、ある旋律を聴くと金色が見えたりと。「色聴」という視覚と聴覚が連携する共感覚である。
そういえば、特定の能力を発揮するサヴァン症候群にも、数字から形や色が見えたり、匂いを感じたりする人がいると聞く。色と感情にも相関性がある。赤は情熱、青はクールなど、色彩が明るいか暗いかだけでも気分が変わる。ちなみに、風俗店の壁はピンク系で演出している場合が多い、とバーで聞いた。
共感覚の持ち主は、多感性に恵まれた感性豊かな人で、生まれつき芸術センスを持ち合わせているのかもしれん...

2. ミッシングファンダメンタルと音の死角
音響心理学に、「ミッシングファンダメンタル」という概念があるそうな。心理的印象をもたらす音の要素に、音の高さ、大きさ、音色がある。人間は声や楽器から聴こえる音を、基本周波数を下に感じ取る。純音であれば、単純に基本周波数が耳に入ってくる。だが、実際の音の周波数スペクトルには基本周波数以外の周波数成分が多く含まれている。
そこで、周波数の合成によって、物理的に存在しない周波数を複合音として聴かすこともできる。例えば、片耳に 1000Hz と 1400Hz、反対耳に 1200Hz と 1600Hz を呈示すると、200Hz が聴こえるらしい。脳の幻想によって生じる音というわけだ。ただ誰でも、ミッシングファンダメンタルが感じ取れるわけではない。
また、絶対音感の持ち主でも聴音できない音があるという証言を紹介してくれる。ジャズのテンションと呼ばれるコードトーンを聴いた時、その音名が分からないというピアノ教師。テンションは、音と音がぶつかるので汚く聴こえるという。クラッシックの場合は非和声音だが、ジャズでは緊張感を生むために和声音として使用されているものだったという。絶対音感が先天的なものなのか後天的なものかは分からないが、おそらく双方と関係があるのだろうが、絶対的な能力にも死角があるようである。

3. 「固定ド唱法」と「移動ド唱法」
日本人には絶対音感を持つ人が多く、また欲しがる人も多いという。それは早期教育の影響のようである。そのためかは知らんが、技術偏重で、演奏者に教養の欠片もないと酷評されることも多いようである。
教育の場では、ドレミのダブルバインドがさらに混乱を招いているという。義務教育では「移動ド唱法」が用いられるが、専門教育では「固定ド唱法」が用いられるそうな。
1939年、ロンドンの国際会議で定められた基準音によれば、A(ラ) = 440Hz、C(ド) = 約261Hz に固定された。ところが、義務教育ではドレミは音名ではなく階名であり、何調であっても、長調の主音は「ド」、短調の主音は「ラ」となる。そのために、絶対音感で訓練してきた子供たちは、移動ド唱法に馴染めないらしい。文部省の言い分によると、相対的なドレミの規定は、まったくの素人でも音楽に馴染めるにように考慮されているんだとか。
音の表現法は、イタリア語であったり、フランス語であったり、国によって様々。固定ド唱法を採用しているフランス、イタリア、ロシアなどは、階名は、J. J. ルソーが提唱した数字譜を用いるという。
音名も階名も同じ名前を用いるところに、日本固有の問題があるようである。太平洋戦争時代にはイロハ音名を用い、音感教育も盛んだったという。来襲した飛行機の型を識別したり、B29 の高度を計測したり、スクリュー音で敵船の型や進行方向を感知したりと。交流したヒトラーユーゲントに高度な音感を持つ子供が多かったらしく、その影響もあるようだ。イロハ音名は国粋主義の現れかは知らんが、音名と階名を区別するチャンスはあったようである。

4. 基準音 A = 440Hz の呪縛
1939年、国際規約において気温20℃で、A音は、440Hz と制定された。オーケストラに安定した基準音を提供できる人がいるとありがたい。本書は、「人間音叉」と呼んでいる。
ところが、世界各国でオーケストラの基準音が上昇する傾向にあるという。アメリカでは、カーネギーホールをはじめ主要なホールのスタインウェイピアノの基準音は、442Hz だとか。深刻なのは、ベルリン・フィルやウィーン・フィルの基準音の上昇で、絶対音感だけの問題ではなく、オーケストラ全体の音質にまで影響する事態だという。古楽ブームの影響もあるようで、バッハやモーツァルトの時代は、現在より半音から全音低く調律されていたとされるらしい。
特に、バイオリンなどの弦楽器の音色に影響を与え、オーケストラ全体の緊張感が高まり、音程や音色を均質化するとの批判もあるようである。フルトヴェングラーやカラヤンのもとで打楽器の首席奏者を務めた作曲家ヴェルナー・テーリヒェンは、ベルリン・フィルをバベルの塔に喩えて、こう語ったという。
「コミュニケーション手段としての言語の混乱は、多くの現代曲が理解できないことと対応している。音楽は魂の言語だ。だが、魂は高々と積み上げる嵩上げを必要としない。魂が求めているものは内面への道なのだ。」

5. 妥協の調律「十二平均律」
音階における人間の生得的な性質は、ピュタゴラスの時代から知られている。周波数比率が整数比となる 2:1 のオクターブ、3:2 の完全五度、4:3 の完全四度など、耳に心地よく完全に協和する音の関係が完全音程である。十二音階でいえば、オクターブは「ド」と「ド」の八度の関係、完全五度は「ド」と「ソ」、完全四度は「ド」と「ファ」となり、オクターブが最も協和する。音律は、この音程関係を周波数で相対的に規定したもので、平均律は、1オクターブを12等分した西洋音楽で最も一般的に用いられる音律である。
この音律が成立するまでの歴史は長い。ピュタゴラス音律は、オクターブ、四度、五度のみを用いて音階を構成しようというもの。
12世紀には音楽が複雑化して、三度(ドとミ)の関係が多用されたという。だが、三度音程は周波数比が、64:81 と複雑なため、響きが粗く、同時に2音を奏でると音がワンワン唸るとか。
そこで、響きを美しくするために、三度音程の周波数比を、4:5 にし、これが純正律だという。主要三和音、「ド・ミ・ソ」、「ソ・シ・レ」、「ファ・ラ・ド」の周波数比がすべて 4:5 となり、唸りや粗さがなく、グレゴリオ聖歌のように透明感があるのが特徴だとか。
しかし、純正律で演奏できるのは、ハ長調、ヘ長調、ト長調しかなく、一曲の中に様々な転調のある場合、唸りが生じてウルフトーンと呼ばれる汚い音が響いてしまうという。
そこで、この転調の問題を解決したのが、「十二平均律」というわけである。18世紀末からドイツで普及し、19世紀後半に世界中に広まったとされる。平均律は、純正律に比べると、三度や五度の音程は少し汚く濁って響くが、どの調にも均等なために転調が可能である。そのために、「妥協の調律」とも言われるそうな。
ピアノによって絶対音感を身につけた人たちの大半は、この十二平均律をラベリングした人ということか。テレビから流れる音楽から街角で流れるBGMの群れなど、耳から無理やり入ってくる音楽すべてが平均律で則っているとすれば、聴覚が離散化していることは否めない。そして、木々のざわめき、滝の音、川のせせらぎなど、自然の音を聴く能力は退化するのだろうか?それは、絶対音感の持ち主だけの問題ではなさそうである。

2016-06-12

"音さがしの本 リトル・サウンド・エデュケーション" R. Murray Schafer 著

土砂降りで雨音のやかましい梅雨の日、古本屋を散歩していると、音のオアシスのような書を見つけた。論理的な記述から解放してくれるような... 惚れっぽい酔いどれは今、ドビュッシーの「野を渡る風」と「西風の見たもの」を聴きながら記事を書いている...

騒がしい社会に慣らされれば、沈黙して周りの音に耳を傾けることを忘れる。つい周りに負けじと声高に捲し立て、自分の心に耳を澄ますことまで怠ってしまう。日常、耳にする音から、どれだけ音の風景を感じながら生きているだろうか...
Soundscape の提唱者マリー・シェーファーは、普段の生活の中から音の素材を探すエクササイズを紹介してくれる。少しの間、静かに座って耳を澄ましてみよう... 聞こえた音を紙に書き出してみよう... 書きだした音を大きな音から小さな音まで並び替えてみよう... 一番綺麗だった音は?一番嫌いな音は?こうしたことを家や公園や学校で試してみよう... 街角で目を閉じたまま試してみよう... 外へ出てリスニング・ウォークをやってみよう... 音の日記をつけてみよう... といった具合に。尚、Soundscape とは、音の風景といった意味で、Landsacpe(景観)に対比する造語である。
本書の対象は、十才から十二才の子供に相応しく、中高校生にとっても刺激的だとしている。しかし、だ。むしろ耳の腐った大人のための書ではあるまいか。そこに皮肉を感じるのは、おいらの魂が腐っている証であろうか...
「おしゃべりをしながら、何かを聞くのはむずかしいことだ。一日のわずかな時間でいいから、みんながおしゃべりをやめて、世界に耳を傾けるようになったら良いのに、と思うことがある。世界はきっともっと住みやすい場所になるだろう。」

音とは何かを探求すれば、必然的に沈黙とは何かを問うことになる。しかしながら、自然界に完全な沈黙は見当たらない。風のざわめき、木々の擦れる音、小川のせせらぎ、滝の音、鳥のさえずり、虫の鳴き声... 人間が一人いるだけで、息遣い、足音、関節の音、心臓の音... おまけに生活空間には、コンピュータ、エアコン、冷蔵庫などの機械音が散乱し、静まった部屋ですら時計の音がカチカチと...
それでいて、自動車のエンジン音やバイクの単気筒音に心が踊らされる一方で、軍事基地周辺でヘリコプターやジェット機の音を聞かされれば気が狂いそうになる。
様々な音環境において、真に聴覚が欲するものとは何であろう?ハイパーソニック・エフェクトを唱えた大橋力氏は、著作「音と文明 音の環境学ことはじめ」の中で、必須音という概念を持ち出していた。物質の世界にビタミンのような必須栄養素があるように、音の世界にも生きるために欠かせない音素があると。しかも、可聴域を超える音域にも、善かれ悪しかれ生理的に影響を与えるものがある。ひと昔前は、鉛筆が紙の上を走る音が心地よかったものだが、今では、キーボードを叩く音が静かな空間を支配し、これまた心地良い。無響音室に入ると居心地の悪さを感じるのは、やはり何か音素を求めているのだろうか?情熱的な夜でピロートークに心の拠り所を求めるのも、やはり何かの囁きを欲しているからに違いない...

1. 心に奏でる懐かしい音
長らく人間の耳の可聴域は、20Hz から 20kHz とされてきた。CD が登場した時代、アナログレコードの方が耳に優しい!などと感想をもらすと馬鹿にされたものだ。そして今、巷で騒がれるハイレゾ音源には、可聴域の上限をはるかに超える周波数成分が含まれる。わざわざ自然の環境音を求めて CD を買い求めたところで、サンプリング周波数 44.1kHz、すなわち、再生周波数の上限 22kHz の壁に阻まれる。
確かに、オーケストラやバンドの演奏を聴くとワクワクする。だが、大き過ぎる音に気をつけなければ、鼓膜を傷つける。自然界の音は、人間の聴覚をあまり傷つけたりはしない。いくら土砂降りの音がうるさくても、嵐や雷の音が轟こうとも、耳を傷つけたりはしない。真夏に発情期のごとくアブラゼミのやつらが鳴き狂えば、精神までも狂わされるけど。情報が洪水のように溢れる社会では、人を盲目にさせるだけでなく、耳までも難聴にさせるものらしい...
「サウンドスケープは、いつだって変化している。古い音は、いつも消えていく。いったいそういう音は、どこにいってしまうのだろう?前に聞いたことがあるのに、もうぜったいに聞くことができない音を、いくつくらい知っているかな?」

2. 音楽と論理性
音楽を記号によって表現すれば、より複雑になっていく。それは、知性や理性では収拾のつかない言葉以前の混沌を記述しようとするからであろう。とはいえ、音楽そのものがメソッド化し、洗練されていくこと自体は悪いことではない。問題なのは、そこに音楽そのものへ向かう求心力があるかどうか...
「数字を含む言語は、巷の事象を合理的に写し取るための最も効率のよい道具である。論理に裏づけされたそのようなマナーを、西洋人たちはロゴスと呼んだ。知性や理性は、ことばを基盤としたロゴスによって成り立っている。では、音楽はこのロゴスによって隅々まで解明されるのだろうか。十九世紀、西洋音楽の修辞学の伝統も、ことばと完全に一致するわけではない。音響を数値化してみても、われわれは数に心を動かされるわけではないようだ。」

3. BGM を心の拠り所に
音楽は、いろんな気持ちにさせてくれる。BGM をちょいと付け加えることによって、その場所がもっと楽しくなる。勉強や仕事をする場所は、静かな方が適していると言われる。共有の場所では、音楽の好みも違えば、個々の精神状態も違うので、その通りだろう。しかし、一人の環境ではどうだろうか?
十年以上前、ベンチャー企業と称するアドベンチャーな会社で働いていた頃、会話もなく静まり返った職場が心地よかった。電話の音は迷惑千万!メールやメッセンジャーは環境に良いツールだとつくづく感じたものである。ただ、キーボードを叩く音が気になってしょうがない。やがて従業員たちはヘッドホンを着用するようになった。あちこちの大企業から逃避してきた人の集まりでは、自然に自由な空気が漂い始める。それぞれに音楽を聴いて互いの領域を侵犯しないように心がける。もっとも独立しちゃえば、独りの空間を謳歌し、独り言も言いたい放題!しばしば仕事の気分を盛り上げるために音楽で誘導する。

4. 聴覚に発する想像力
聴覚に対する想像力は、視覚に対するそれとは広がりが違う。見たまんまという説得力では視覚の方が優るが、芸術心の根本には雰囲気ってやつがあり、感覚や感性が潜在意識を覚醒させる。感知能力の指向性においても、視覚は目で見通すことのできる範囲に限られ、聴覚は上下左右ほぼ全球面をカバーし、危険察知能力で聴覚に頼るところが大きい。

「ラジオドラマはやっぱりいいですねぇ。ぼくの持論なんですけど。ラジオドラマには、デレビドラマにはない良さがある。例えば、テレビで SF をやるとしますよね。アメリカ映画に負けない映像を作るためには SFX やら、コンピュータグラフィックスやら、やたらお金がかかるわけです。
ところがラジオなら、ナレーターがひとこと、ここは宇宙!と言うだけで、もう宇宙空間になっちゃうんですから。人間に想像する力がある限り、ラジオドラマには無限の可能性がある。ぼくはそう思うなぁ。ぼくは好きだなぁ、ラジオドラマ!」
... 映画「ラヂオの時間」より

2016-06-05

"新文章読本" 川端康成 著

立ち読みをしていると、吸い込まれるように手にとってしまう類いに、文章読本ってやつがある。小説家たちが名文を集めて解説を施した文章論である。
なぜ、こんなものに?文章をうまく書きたいという意識が、心のどこかに残っているのか?義務教育の時代、文章力の欠如は既にお札付き。作文の悪い例として皆の前で読まれ、以来、国語は大っ嫌いになり、成績は常に学年最下位。諦めの境地は、開き直りの境地にある。そんなおいらでも、文章を書くことは嫌いではない。まず、いかに読むかを問う三島由紀夫版を、次に、いかに書くかを問う丸谷才一版を、そして、本格派の誉れ高い谷崎潤一郎版を手にとってきた。
「文は人なり」とはビュフォンの言葉だが、川端は「文章は人間の命」と書いている。本書には、技巧や技術といったものが見当たらない。理論的文章論では語れない文章論があると言わんばかりに...
「文章の不可欠の要素について... すなわち、調子、体裁、品格、含蓄、余韻等についても、説明すべきことは多い。しかし一面また思えば、少なくとも小説の文章に於ては、くりかえしてのべ来った如く、凡百の理論も一つの実践に劣る。いずれを優とし、いずれを劣とする方則も、こと文章に関してはあり得ぬ。理論上の劣をとりあげて、名文となし得た作家も少なくないし、理論上の優をふみながら、遂に名文を書き得なかった例はまた頗る多いのである。」

逝ってしまった者は、少なからず生きる者を不安にする。それは、生きてある者もまた同じ運命にあることを、知らしめているからではない。死者が今もなお揺り動かしてやまないのは、この世に何かを残しているからだ。意志の痕跡なるものを... 忘却してしまうには後ろめたさを感じるようなものを...
文章とは、一つの生命体のごときもの。大袈裟に言えば、単語の選択ひとつにも、書き手の魂が宿る。川端は、文章とは作家にとって皮膚のようなものだという。確かに、文章と魂はけして切り離せないモナドロジー風な感覚を覚える。ただ、すべての文章がそうなるわけではない。ほとんどの文書は命が与えられる前に消え去っていき、鳥肌が立つようなものは達人の手によって命が吹き込まれる。真の文章か?誤魔化しの文章か?小説家にとって、命がけの問い掛けとなろう。本物と信じているものが実は誤魔化しであると知った時、彼らは地獄を見る。文体の破壊を試みては、魂の破壊を招いてきた作家たち。書けなくなることも珍しくない。表記法の合理化が進んでも、はたして精神の合理化は進んでいるのか。新たな境地を求めるとは、精神破綻を覚悟するということか。言葉の商業主義化が進む御時世、小説家にはいつまでも自由の砦を守っていってほしい...

尚、これは、フローベールの有名な言葉だそうな。モーパッサンの「ピエールとジャン」の中にあるとか...
「われわれの言おうとする事が、例え何であっても、それを現わすためには一つの言葉しかない。それを生かすためには、一つの動詞しかない。それを形容するためには、一つの形容詞しかない。さればわれわれはその言葉を、その動詞を、その形容詞を見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるために良い加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならぬ。どんな微妙なことでも、ボワロオの『適所におかれた言葉の力を彼は教えぬ』という詩句の中に含まれた暗示を応用すれば、いいあらわすことが出来る。」

1. 文章のノスタルジー
川端は、文章を単なる小説の一技術とみなす風潮が、どれほど文学を貧しくしてきたか、と問いかける。
「つねに新しい文章を知ることは、それ自身小説の秘密を知ることである。同時にまた、新しい文章を知ることは、古い文章を正しく理解することであるかも知れぬ。」
言葉の変化は、思いのほか早い。平安時代には平安調の言葉があり、元禄時代には元禄調の言葉があり、現代には現代調の言葉がある。同時に時代を超えた文章の調子がある。鴎外調、夏目調、芥川調、鏡花調、荷風調... 等々。はたまた世界を股にかける文脈の力がある。ホメロス調、ダンテ調、ゲーテ調、ドストエフスキー調... 等々は翻訳語までも凌駕する。もはや名文は作者の元を離れ、独り歩きをはじめる。幽体離脱がごとく。かと思えば、名文は読者たちの魂と結びつき、それぞれの心の中で生き続ける。霊魂融合がごとく。
人類の叡智としての文体の普遍性と、個人の心の中で奏でるリズムの多様性は、こうも相性が良いものであったか。おいらの場合、読書にはその時々の気分に合った BGM が欠かせない。生命の宿る文章には、ある種のノスタルジアを覚える。
「少年時代、私は源氏物語や枕草子を読んだことがある。手あたり次第に、なんでも読んだのである。勿論、意味は分りはしなかった。ただ、言葉の響や文章の調を読んでいたのである。それらの音読が私を少年の甘い哀愁に誘い込んでくれたのだった。つまり意味のない歌を歌っていたようなものだった。しかし今思ってみると、そのことは私の文章に最も多く影響しているらしい。その少年の日の歌の調は、今も尚、ものを書く時の私の心に聞えて来る。私はその歌声にそむくことは出来ない。」

2. 文章の第一条件
世間では、芸術的文章と実用的文章を区別するようだが、川端はこの差別を認めない。文章とは、感動の発するままに、思うことを率直に簡潔に分り易く述べることを良しとするからであると。文章の第一条件は、簡潔と平明にあるという。いかなる美文も、理解を妨げるものは卑俗な拙文にも劣ると。
しかしながら、作家と読者の間で心理活動を一致させることは難しい。作家の複雑な心理過程を率直に描写したところで、誤解を招くこともしばしば。高尚な芸術を理解するには、読者もまた高みにのぼらなければならない。読者の目が肥えてくると、今度はより優れた芸術性を求めてくる。そうなると、どちらが牽引役なのやら。
かつて文章は、小説家のものであった。高度な情報化社会では、発言のためのツールが豊富になり、あらゆる専門知識が庶民化していく。言葉の理解は、人と人との間の契約によって成り立ち、完全な自由を求めたはずの文章が、今度は制約を受けることになる。
「言葉は人間に個性を与えたが同時に個性をうばった。一つの言葉が他人に理解されることで、複雑な生活様式は与えられたであろうが、文化を得た代りに、真実を失ったかもしれない。」

3. 独自の文体への夢
「作者の気魄と気品とが溌剌と躍動し超俗の風懐が飄々と天上に遊ぶ『気韻生動』の境地は、芸術の妙境には相違ないが、現代作家のうちでは僅かに徳田秋声、泉鏡花、葛西善蔵、志賀直哉、横光利一等の数氏にしか、これを見ることが出来ないのは残念である。」
年の功を経てくると、文章の癖は風格や心境の衣を纏うものらしい。細かい文章を書く作家は、だいたい話上手なのだとか。繊細で多感であるがゆえに、想像力を豊かにさせるのだろうが、同時に精神的リスクを抱えている。文章が精神の投影であるならば、精神の限界を攻めるは必定。おまけに、芸術は孤独と相性がいい。
一方、読者は気楽なもんだ。自分自身の文体を築き上げる必要もなければ、ただ好みの作家を嗅ぎ分けるだけでいい。作家たちの敏捷自在な心の働きが、読み手をふと文章の幻想世界へ導いてくれる。とはいえ、凡人は凡人で夢がある。独自の文体は、生涯をかけて獲得すればいい。いや、獲得できれば運がいい...
「文章でもつねに怠らぬ努力は、いつか作者の血となり肉となるのではあるまいか。才能豊かな作家は、その才能によって、自らの文章を作るであろうし、一方才能薄い作家は作家で、努力のはてに、己の文脈を発掘するであろう。すでに述べた先輩作家の中でも、泉鏡花、里見弴の両氏にくらべて、単に文章の生まれつき才能の点からいえば、徳田秋声、菊池寛の両氏のごときは、はるかに劣る。しかしながら、その作品を今日みれば、それぞれの特長の上に立派な文章の花は咲くといえようか。生まれつきの天分によって切り開いた、鏡花、弴両氏の文章の持たぬ世界を、秋声、寛両氏は、努力の涯に作り上げたといえるであろう。」

4. 口語体と文語体
古典文学は、文語体で書かれた。そこには、土佐日記や源氏物語のような和文調と、保元物語や平治物語のような軍記物に見られる漢文調がある。和文調は早くから廃れたが、漢文調は意外にも簡素な音律が長持ちさせたようである。ホメロス調が生き残ってきたのは、その音律にあるのだろう。偉人たちの名言にも、どことなく音調が整っている。端的なリズムは、記憶に残りやすい。そこに口語体が結びつけば尚更。現在でも、分り易くインパクトのあるキャッチフレーズ戦略が重宝される。
とはいえ、文語体も捨てたもんじゃない。音感的効果と視覚的効果の双方に訴えることで、文章に高級感を演出する。いずれにせよ、文章がいかに書き手の魂を描写できるか、そして、いかに読者に訴えられるか、に尽きるのであろうけど。
「国民性を変えずして、言語の変化は困難である。ましてや国民性と俗にいわれるところのものは、単に精神的なことのみではなく、気候、風土、体格、習慣等に厚く裏打ちされていることを思えば、一層である。」
時代はいつも新たな文体を求め、いっそう喋るような表現を要請してくる。TED.com などに見るプレゼン手法は、この類いか。言語システムは、やはり自然で精神により近い形を求めるようである。
自然主義派の態度は「話すように書く」、対して、文藝時代派の態度は「書くようにして書く」であるという。新しい時代の新しい精神は、新しい文章によってしか表現できないと。そして、国語教育に苦言を呈す。
「最近の、新仮名遣いの問題、漢字制限の問題もその間に政治的な一種の強いるものがなければ、容易に否定も肯定も出来ないであろう。徒らな懐古趣味や保守主義は、生きている言葉を死滅させること、無理解な統制が言葉を枯死せしめると同様、罪は共通する。」

5. センテンスの長短
「センテンスの長短は、それぞれ特長と欠点を持って、その優劣は決すべきではないが、要は、用語と同様、このセンテンスの長短にそれぞれの作家の作風あり、と知るべきである。」
センテンスの長短にも作家の文学観が現れるようで、戦後、センテンスが長くなる傾向にあったという。西洋文学の影響か。
尚、川端自身は、センテンスの短い作家に分類されるそうで、だからといって、短いセンテンスの賛美者ではないと語る。心の中に奏でる音調は、人それぞれ。種々風趣を含ませてこそ、真の文章が生まれるという。一概には言えないが、短編小説には短いセンテンスが、長編小説には長いセンテンスが合うようである。
また、作家の健康状態の反映とする説もある。血気盛んな青年は、ダイナミックな文体を綴るのに短いセンテンスを用い、老年になると、センテンスも次第に内省的に緩やかな長い波を持つようになるとか。おいらの文章が長ったらしく、まったりしてくるのも、歳のせいであろうか。
長いセンテンスは、詳悉法の傾向を帯び、多分に修辞とも握手するという。もし、長いセンテンスが、修辞と握手せず常識と握手すれば、冗長で退屈極まる文章になるに違いないと。それゆえ詞姿の変化を好み、修辞を愛する作家は、長いセンテンスによる複合文を多く駆使すると。
短いセンテンスは、素朴で明快な感じがある。圧力感を与えることもあろうが、説得力があるとも言える。漱石の「吾輩は猫である」に見るピリオド越えの技には、溜め息しか出ない。
ちなみに、技術論文や研究論文では短いセンテンスが好まれる。だが、天の邪鬼な酔いどれは、センテンスだけでなく内容まで冗長ときた。おまけに、冗談の一つも忍ばせないと気が済まない。そういえば、むかーし、ある会社で悪い事例として紹介されたこともある。
川端は、文章の第一条件に簡潔と平明を挙げていた。短いセンテンスの方が、簡潔で分かりやすい。ただ警戒ずべきは、長所に酔って、うかと短所を見逃してしまう、とも言っている。
「短いセンテンスは、時として色も匂いもない。粗略単調な文章となる危険を持つ。性急で、無味乾燥な、文章となれば、そこに詩魂も枯れ、空想の翼も折れるであろう。反面、長いセンテンスは、徒らに冗長に失してその頂点を見失う事が多い。」

6. 描写万能論批判
新進作家時代に、小島政二郎が唱えた「描写万能論」というものもあるそうな。川端は、描写と説明の調和論を唱える。描写と説明は、車の両輪の如く、文章には欠かせないという。描写とは、事物を具象化すること、具体的に書き現すこと、感覚に訴える世界を言葉で築きあげること。説明とは、より客観的な視点を加えることになろうか。主観と客観の調和という見方もできそうで、ある種の対称性をなしている。
「描写も説明も、立派な文章の場合は、渾然一になるべきで、描写のための描写、説明のための説明ということは敢言すれば邪道であろう。描写すべきところは描写し、説明すべきところは説明する... 文章の要は、そこにつきる。」