2022-12-25

"ホモ・デウス(上/下) - テクノロジーとサピエンスの未来" Yuval Noah Harari 著

かつて捕食され、他の動物に怯えて生きていた人類が、いまや地上を支配し、高度な文明を築くに至ったのはなぜか...
歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、「サピエンス全史」と題して人類史全体を巡り、その答えは「虚構」にあると言い放った(前記事)。国家や国民、企業や法律、さらには人権や平等といった考えまでもが虚構であり、虚構こそが見知らぬ人同士が協力することを可能にすると。中でも究極の虚構は、最も効率的な相互信頼の制度として機能する貨幣であると。そして、虚構に邁進した挙げ句、「超ホモ・サピエンス」という種を超越した存在になるであろうと...
なるほど!国家や法律も、自由や平等も、愛やお金も... すべては人類が言語化し、都合よく意味を与えたもの。実際、貨幣は国家間を無条件で結びつけ、頭がコチコチの宗教やイデオロギーの間までも取り持つ。
そして、三千年紀が幕を開けた今、人類は次々と仮想価値を編み出し、ますます仮想的な交換システムへのめり込んでいくかに見える。そりゃ、夢と現実の区別もつかんよ...

本書は、その続編である...
サピエンスは賢いの意で、デウスは神の意。人類は、自らを「ホモ・サピエンス」から「ホモ・デウス」へアップグレードするという。その道筋は、生物科学、サイボーク工学、非有機的な生命工学といったテクノロジーを用いて、この世界を思い通りに作り替え、さらには自分自身までも作り替え、創造主になることを目指すと。神にでもなろうってかぁ。神という概念も人類が創り出したものだけど...
神といっても、一神教が崇めるような宇宙の創造主たる絶対的な神というイメージではなく、ギリシア神話に出てくるような多彩な神々といったイメージか。どうやら神にも格付けがあるらしい。
ヘシオドスは、人間の世代を黄金、白銀、青銅、英雄、鉄の五つで分類した。彼の説によると、現代は最も退廃した鉄の時代ということになるが、ホモ・デウスへの昇華は、まだ穢れを知らず、神々と共に純粋に生きていた黄金の時代へ回帰するってことか。それは、人間性までもアップグレードするってことか。いや、神になるも、悪魔になるも、紙一重!
あるいは、現代社会の思想や信仰が両極化していく様を鑑みて、H.G.ウェルズが八十万年後の世界を描いた「タイムマシン」のように、ユートピアを夢見るあまりに平和ボケしちまったエロイ族と、獰猛な欲望に取り憑かれてエロイ族を捕食するに至ったモーロック族という構図と重ねてみるのもいいかも...

未来を悲観的に、しかも滑稽に予測することはいいことかもしれん...
実際、人類は滑稽を演じてきたし、直面している様々のジレンマを考察して導かれた予測はあくまでも可能性であって、気に入らなければ、そうならぬよう行動すればいいだけのこと。歴史を学ぶとは、そういうことなのだろう。
しかしながら、人類の意志は、個人個人の意志ではなく、集団の意志として働くから手に負えない...
尚、柴田裕之訳版(河出書房新社)を手に取る。

「この予測は、予言というよりも現在の選択肢を考察する方便という色合いが濃い。この考察によって私たちの選択が変わり、その結果、予測が外れたなら、考察した甲斐があったというものだ。予測を立てても、それで何一つ変えられないとしたら、どんな意味があるというのか...」

旧人類とされるネアンデルタール人は、新種のホモ・サピエンスに追いやられて絶滅した。ホモ・サピエンスもまた、新たな進化種によって追いやられる運命にあるのだろうか。
とはいえ、他の動物たちから見れば、すでに人類は神のような存在なのかもしれん。文明やテクノロジーが神へ導くのかは知らんが、例えば、古代宇宙飛行士説が唱えるように、遠い過去に古代人が宇宙人と遭遇し、宇宙船のような高度なテクノロジーを引っさげて飛来したとすれば、やはり、神の降臨と信じてしまうのではあるまいか。それが神話となって語り継がれてきたということは考えられる。想像を絶するレベルのテクノロジーを纏えば、神を装うことができそうだ。人間にも、芸術家や科学者、あるいはアスリートなど、神業と思えるような才能を魅せつける天才たちがいるし...

一方で、進化の過程を認めない人々がいる。教壇では進化論を教えることを激しく拒絶したり。なにゆえダーウィンを恐れる。変化を求めてやまない人類が変身願望エネルギーを蓄積させ、ある日、生態系を突然変異させることは十分に考えられる。ホモ・デウスとは、そうした進化種であろうか。となれば、誰もがホモ・デウスになれるわけではあるまい。おいらのように未だネアンデルタール人のまま、という輩も多くいるはず。存分に情報や知識が手に入る時代では、自発的に生きる人と受け身で生きる人の意識は明らかに違い、認識格差をますます拡大させていくかに見える。
爆発的な人口増殖に対応するには、仮想価値の経済的な循環運動のみが頼みの綱であり、人類はさらなる仮想空間に避難所を求めていくほかはあるまい。
知的生命体が進化をすればするほど、自己というものがどんな存在かを知ろうとするのは自然な欲求であろう。人類は、精神や意識の正体を知りたくてしょうがないはず。しかし、こうしたものも仮想的な存在なのやもしれん。つまりは、虚構...

「人間は至福と不死を追い求めることで、じつは自らを神にアップグレードしようとしている。それは、至福と不死が神の特性だからであるばかりでなく、人間は老化と悲惨な状態を克服するためにはまず、自らの生化学的な基盤を神のように制御できるようになる必要があるからでもある。もし私たちが自分の体から死と苦痛を首尾良く追い出す力を得ることがあったなら、その力を使えばおそらく、私たちの体をほとんど意のままに作り変えたり、臓器や情動や知能を無数の形で操作したりできるだろう。」

本書は、「データ教」という新たな宗教を提示する...
データ至上主義では、森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象や価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるらしい。こうした考えは、ダーウィンの進化論とチューリングマシンの発想がぶつかりあって生じた潮流で、科学界で概ね受け容れられているという。
「生物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理である。」

こうした見方によると、株式市場は、これまで人間が編み出した中で最も効率的なデータ処理システムということになろうか。参加は自由。直接的にも、間接的にも参加可能。とはいえ、無理やり、いや、知らず知らずに参加させられている人も多く、たまーに暴走もする。
生物がアルゴリズムであるなら、数学的に記述できることになる。まさにチューリングは、計算機が心を持ちうるかを問うた。コンピュータ工学にも、人間の知識や知恵を限界とする見方があり、ビッグデータや人工知能に信頼を置く風潮がある。
ウィキペディアを覗けば、すべての知識がデータ化されることを魅せつける。
アマゾンを放浪すれば、すべての商品がデータ化されることを魅せつける。
ソーシャルメディアを眺めれば、すべての意見や見解がデータ化されることを魅せつける。
そして、ネット民は呪文を唱える。すべてを記録しよう!すべてをアップロードしよう!すべてをシェアしよう!と。繋がろうとしない人間には、時代遅れ!のレッテルを貼り、危機感を煽る。
自由意志は、もはやデータに成り下がっちしまったか。自由主義や資本主義も、社会主義や共産主義も、もはやイデオロギーでもなければ政治制度でもなく、競合するデータ処理システムに成り下がっちまったか。資本主義は分散型データとして生き、共産主義は集中型データとして生きる、ただそれだけのことか...

「現代というものは取り決めだ。私たちはみな、生まれた日にこの取り決めを結び、死を迎える日までそれに人生を統制される。この取り決めを撤回したり、その法(のり)を越えたりできる人はほとんどいない。この取り決めが私たちの食べ物や仕事や夢を定め、住む場所や愛する相手や死に方を決める。一見すると現代とは極端なまでに複雑な取り決めのように見える。だから、自分がどんな取り決めに同意したのかを理解しようとする人は、まずいない... ところが実際には、現代とは驚くほど単純な取り決めなのだ。契約全体を一文にまとめることができる。すなわち、人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する、というものだ。」

いずれ、データ自身が意志を持ち始めるのやもしれん...
人の意志を物理学で説明すれば、脳内でニューロンが信号を発し、あるパターンに則ってデータを処理しているだけのこと。精神や心の正体が、物理的には無数の自由電子の集合体で説明できるとすれば、無数のデータ群が意志を持っても不思議はあるまい。
人間自身が人間を知るよりもデータが人間をよく知るようになるとしたら、ソクラテス以前の時代から提起されてきた、汝自身を知れ!という哲学的問題もあっさりと解決しそうな。
しかし、自分自身を知る必要のなくなった人間とは、いったいどんな存在であろう...

「今やテクノロジーは急速に進歩し、議会も独裁者もとうてい処理が追いつかないデータに圧倒されている。まさにそのために、今日の政治家は一世紀前の先人よりもはるかに小さなスケールで物事を考えている。結果として、二十一世紀初頭の政治は壮大なビジョンを失っている。政府はたんなる管理者になった。国を管理するが、もう導きはしない... これは、見ようによってはとても良いことだ。二十世紀の大きな政治的ビジョンのいくつかがアウシュヴィッツや広島や大躍進政策へとつながったことを考えると、私たちは狭量な官僚の管理下にあったほうがいいのかもしれない。神のようなテクノロジーと誇大妄想的な政治という取り合わせは、災難の処方箋となる。多くの新自由主義の経済学者や政治学者は、重要な決定はすべて自由市場の手に委ねるのが最善だと主張する。それによって政治家は、無為や無知であることの完璧な口実が得られ、無為と無知は深淵な知恵として再解釈される。政治家にとっては、理解する必要がないからこの世界を理解しないのだと思うのが好都合なのだ。」

2022-12-18

"サピエンス全史(上/下) - 文明の構造と人類の幸福" Yuval Noah Harari 著

すべては空想か... すべては虚構か...
現代人は、ますます仮想空間にのめり込み、恐ろしく柔軟で変化に富んだ社会を生きている。クラウドコンピューティングに、デジタル通貨に、メタバースに... すると、国家や法律も、自由や平等も、愛やお金も... すべては概念化したものにすぎないのではないか、と思えてくる。概念とは、人間が勝手に意味を与え、言語化したもの、自由気ままに定義したもの。概念にこだわり、概念に振り回され、概念に支配されて生きている、ただそれだけのこと。それは、人間が人間自身を支配しようという試みの一貫であろうか...

概念は、虚構と実体を区別しない。どちらも認識の産物にすぎないということか。宇宙空間も、精神空間も、大した違いはないということか。どうりで夢を見ている間は、現実との区別もつかないわけだ。魂や精神を虚構と認めた上で、虚構をもって自己を制す。それは、毒を以て毒を制すの類いか...
とはいえ、虚構も悪くない。なにしろ無限の可能性を秘めているのだから。現実にはすぐに幻滅させられるというのに。どうやらホモ・サピエンスという種は、虚構に依存するという究極の依存症を患っているようだ。そんな依存遺伝子が組み込まれた人間とは、いったいどのような存在であろうか。その答えを求めて、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは人類史全体を巡る旅へいざなう...
尚、柴田裕之訳版(河出書房新社)を手に取る。

「アフリカでほそぼそと暮らしていたホモ・サピエンスが、食物連鎖の頂点に立ち、文明を築いたのはなぜか。その答えを解く鍵は『虚構』にある。我々が当たり前のように信じている国家や国民、企業や法律、さらには人権や平等といった考えまでもが虚構であり、虚構こそが見知らぬ人同士が協力することを可能にしたのだ。やがて人類は農耕を始めたが、農業革命は狩猟採集社会よりも苛酷な生活を人類に強いた、史上最大の詐欺だった。そして歴史は統一へと向かう。その原動力の一つが、究極の虚構であり、最も効率的な相互信頼の制度である貨幣だった...」

人間社会には、生まれると半ば強制的に、どこかの国に所属させられるという奇跡的なシステムがある。たいていの人は生まれる地を選べないばかりか、生まれる場所すら与えられない人もいる。つまり人間は、生まれ出ると、まず不自由を経験することになる。だから、本能的に自由に焦がれるのか。
おまけに、租税の義務まで自動的に背負わされる。慣習とは恐ろしいものだ。そこに疑問すら持てないのだから。
しかしそれは、薬物依存症と何が違うのだろう...

「近代に至って、なぜ文明は爆発的な進歩を遂げ、ヨーロッパは世界の覇権を握ったのか?その答えは『帝国、科学、資本』のフィードバック・ループにあった。帝国に支援された科学技術の発展にともなって、『未来は現在より豊かになる』という、将来への信頼が生まれ、起業や投資を加速させる『拡大するパイ』という、資本主義の魔法がもたらされた...」

人間社会で、最も信頼の置けるものとは何であろう...
古代人は、神話や占いの類いに救いを求め、やがて宗教が発明された。占星術は科学の種を蒔いたが、やがて科学と宗教は反目するようになる。
本書は、宗教の歴史的な役割に、秩序やヒエラルキーといった概念に超人間的な正統性を与えたことを指摘している。この正統性が、人々を統一へ向かわせたと...
秩序やヒエラルキーは、想像上の産物だけに脆い。表向きでは、宗教は神を仲介して人々を救済する、ありがたい存在ということになっている。だが実は、こうした想像上の概念を絶対的な存在に昇華させたことに大きな意味があったのやもしれん。
多神教の時代には、まだ神との対話に親和性があった。各々の神は、得意技とともに欠点を曝け出し、雷オヤジのゼウスですら女神では飽き足らず、人間の美女に手を出す始末。やがて全能者となった神は、一神教となって不要な神をばっさりと切り捨て、絶対的な存在となった。絶対的であるからには、よほどの威信が伴わなければ。その威信はどこからくるのか。それは、信者の数か。宗派の優劣は、多数決の原理に支配されるのか。神の世界も生存競争はすこぶる厳しいと見える。なるほど、これが民主主義ってやつか...

「多神教は本来、度量が広く、異端者や異教徒を迫害することはめったにない。多神教信者は、巨大な帝国を征服したときにさえ、被支配民を改宗させようとはしなかった。エジプト人も、ローマ人も、アステカ族も、異郷に宣教師を送って、オシリスやユピテル、ウィツィロポチトリ(アステカ族の主神)の礼拝を広めようとはしなかったし、その目的で軍を派遣することは断じてなかった。」

本書は、秩序やヒエラルキーといった概念に、「共同主観的」という用語を当てる。それは、主観的とも、客観的とも違う。
現代社会では、共有という用語が乱用され、どんなに偏重しようが、どんなに偏狭になろうが、集団意識が強調される。しかも、その意識は両極端に振れ、そのまま基準とされる危険な時代でもある。共同主観的とは、これに近いものがありそうだ。
21世紀の今、宗教はそれほど必要ではなくなり、むしろ差別や偏見を助長する根源と見なされることが多い。そして、自由主義や人道主義といったイデオロギー的な概念が台頭してきた。普遍的な価値観や宇宙論的な世界観を信仰するという意味では、イデオロギーもまた宗教と呼べなくもない。伝統的な宗教は、世界における重要な知識はすべて分かっていると主張してきたが、科学はその逆の立場を主張してきた。科学革命は、無知を知ることを重要視したとも言えよう。信仰体系という意味では、啓蒙思想も立派な宣教活動であり、科学もまた立派な宗教と言えよう...

「過去三百年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として描かれることが多い。もし、有神論の宗教のことを言っているのなら、それはおおむね正しい。だが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的情熱や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代ということになる。近代には、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾にすぎない。もし宗教が、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。」

世界を統一する概念といえば、宗教やイデオロギーを遥かに凌ぐツールがある。そう、貨幣ってやつが。宗教やイデオロギーは、共通意識を持った者同士を結びつけるが、同時に異なる意識を持った者同士を反目させる。しかも、きわめて政治的であったり、何らかの先入観を助長したり、攻撃的な性格までも帯びている。
その点、貨幣は世界観を超えた価値として社会に合理性をもたらしてきた。なんでも貨幣換算すれば、すべての取引が成立する。人の命ですら。無味乾燥的という意味では、数学的ですらある。
しかし、貨幣は万能ではない。すべての価値観を網羅できるものでもない。それでも折り合いをつけることはできる。つまりは、妥協である。人間の意識が時間の矢に幽閉され、どんな状況にあっても前に進まなければならないとすれば、妥協の仕方が重要となる。人間社会に富をもたらしたのは、宗教でもなければ、イデオロギーでもなく、やはりお金であろうか。いや、お金を主体にしたイデオロギーもある。そう、資本主義ってやつが。
しかしながら、哲学者や道徳家たちは何千年も前から、お金に汚名を着せてきた。お金は未来に対して利息という概念を生み、こいつが悪用されてきた歴史は長い。あるいは、人権に反する人身売買も横行すれば、遺産相続で演じる骨肉の争いは、実に醜い。
お金ってうやつは、人をえげつなくする。しかし、お金がないと、精神不安に陥る。人間社会において信頼の置けるものには、必ず邪悪な面が備わっているようである。それは、人間自身に善と悪が共存していることの証であろう...

さらに本書は、最終章で「超ホモ・サピエンスの時代へ」と題して、種を超越した存在に警鐘を鳴らす。いまや科学技術は、生命の法則や自然選択の法則を変えようとしていると。
そして、自然選択に取って代わりうる三つの知的設計について言及している。それは、生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学である。
近年、「インテリジェント・デザイン」という用語を見かける。これを唱える連中は、学校でダーウィンの進化論を教えることに反対し、創造主の存在を主張する。だが、その主張を否定できるほどの科学的な根拠はない。ひょっとしたら、どこぞの地球外生命体が、一つの惑星をアクアリウムに見立て、生物を飼育したのが始まりだったかもしれないし...
また、機械の知性については、チューリングの時代から問題提起されてきた。コンピュータは心を持ちうるかという問題である。そもそも、心とは何か?魂とは何か?精神とは何か?物理的には、素粒子の集合体ということになろうか。無数の自由電子がある法則に従って群がると、自由意志なるものが創出されるのか?大多数の群衆で形成される社会が、個人とはまったく別の集団的な意志を持って独り歩きを始めるように。
デジタル生物に、バイオニック生命体とくれば、有機体と無機体の区別も覚束ない。生命体という概念までも、ぶっ飛びそうな。人類という種は、想像上の概念を勝手に生み出しておきながら、その概念をぶっ壊すのがお好きと見える。
汝自身を知れ!とは、ソクラテスの時代から問われてきたが、いまだ人類は、自分自身がなんであるか、どこへ向かっているのかも分からずにいる。宇宙法則を凌駕して、神にでもなろうというのか...

「私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか...」

2022-12-11

"モチベーション 3.0" Daniel H. Pink 著

TED カンファレンスで、"The puzzle of motivation" と題した講演を見かけたのは、もう十年ぐらい前になろうか。以来、ダニエル・ピンクが ToDo リストに居座ってやがる。そんな奴らが、おいらの ToDo リストに屯しているわけだが、M な性分には嬉しい悩みでもあった...

さて、原題に、"Drive: The Surprising Truth About What Motivates Us" とある。ドライブという語感は自動車の運転といったイメージだが、本書は「ヤル気!」という訳語をあてている。辞書を引くと、「運転」のほかに「前進」や「駆動」といった意味が見つかる。何かに駆り立てられる動機と解せば、「ヤル気!」とするのもなかなか!
ただ、ヤル気!ってやつは、一時的に発揮する分には大したもんでもないが、こいつを持続させるとなると、なかなか手ごわい。やがて、自己への問い掛けが押し寄せてくる。何のために... と。そして、人生の意味までも問うことに...
人を動かす根本的なものとは、なんであろう。ワクワクするような動機だけでは、何か足りない。自発的な意志が湧いて出てくるような、そんな環境も欲しい...
尚、大前研一訳版(講談社)を手に取る。

本書は、動機づけの基本型を三つ提示している。
まず、生存を目的とした人間本能に根ざした第一の動機づけがある。それは、飢餓動因、渇動因、性的動因などの生物的、生理的な欲求に発するもので、これをモチベーション 1.0 と呼ぶ。
次に、報酬や罰則などによる第二の動機づけがある。ここでは「アメとムチ」と表現されるが、見返りの原理とでもしておこうか、これをモチベーション 2.0 と呼ぶ。原始の時代には、腹が減れば喰い、生殖本能のままに性交がなされたが、工業化の時代になるとサラリーマン社会が形成され、アメとムチで扱き使われる。給料がもらえるから働く意欲が出て、法律で罰せられるから抑止が効くとすれば、それは本当に自分の意志であろうか。
そして、第三の動機づけが、自己の内から湧いて出てくるような「ヤル気!」で、これをモチベーション 3.0 と呼ぶ。人間には元来、新しいことを求めたり、やり甲斐を求めたり、あるいは、自分の能力を高め、発揮し、探究し、学ぶといった傾向が備わっているという。こうした性質が第三の動機づけの原動力となる。とはいえ、自己実現や自己啓発を大層に掲げたところで、自己陶酔や自己肥大となるか紙一重。第三の動機づけは他の二つの動機づけよりも脆弱で、それ相応の環境が必要である。

そして、本物のモチベーションを構成する要素に、「自律性、マスタリー(熟達)、目的」の三つを挙げている。真の動機づけを促すものに、自律性と自立性、あるいは、健全な目的の設定が鍵になるのは言うまでもあるまい。そして、交換条件付きの報酬は、自律性を失わせる。給料が高いに越したことはないが、それに依存するようでは真の動機は望めまい。
それゆえ、報酬で釣るような仕組みでは倫理に反する目標を設定したり、ノルマ達成のための水増し請求や、押し売りまがいの不必要な施工といった行為が横行し、社会問題を引き起こすという。メンバーの愚痴が、他者との報酬の差に向きはじめたら、チームの健全さが失われつつあると見ていい...

「第三の動機づけというあべこべの世界では、報酬は往々にして、奨励しようとしている事柄の足を引っ張る役割を果たす。だが、話はこれで終わりではない。外的動機づけが誤って用いられると、これに付随して意図せぬ結果がもたらされる。望まないことをさらに大きくしてしまうのだ。ここでも再び、ビジネスの現場は科学の後塵を拝している。科学的には、アメとムチは悪しき行為を助長し、依存を生み出し、長期的視点をないがしろにした短絡的思考を促すおそれがある、とすでに証明されているからだ。」

そこで、報酬の在り方が問われる。報酬体系で最も問題になるのは、その評価と公平性であろう。能力に見合った報酬が得られるならば、大した問題にはなるまい。社内で能力に応じた給料が得られなければ、ヤル気が失せるし、他社の給料が格段に高ければ、そちらに転職するまでのこと。
逆に言えば、最低限の公平性が担保されれば、健全な動機づけが促せるというわけである。では、促すのは誰か?もちろん自分自身であるが、社風や組織風土といった環境が整わなければ。人間ってやつは、環境に影響されやすい動物である。

三つの構成要素の中で、特に注目したいのは「マスタリー」という用語である。本書は「熟達」という訳語をあてているが、人生のビジョンや生き方といったものを視野に入れた高いレベルでの修練を言うのであろう。それは、目標設定とも大きく関わるが、実際は、現実とのギャップを埋めるプロセスになろう。凡庸な人がやれば、自己啓発から自己実現へのプロセスが、妥協から自己満足、そして、自己陶酔と化す。おいらがやれば、自己泥酔よ。熟達した人であれば、現実とのギャップを自己実現に向けた推進力とするのであろうけど...
そして今、「マスタリー」という用語に、論語を重ねて眺めている。論語には、いい言葉がある... 吾、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず... と。
なるほど、モチベーション 3.0 とは、ある種の人生論の提示であったか...

「それが天職かどうか、その人の仕事ぶりを観察する必要はない。ただその目を見るだけでよい。ソースを調合するシェフ、難しい手術にあたる外科医、船荷の送り状を作成する事務員、みな同じように熱中した面持ちを浮かべ、その仕事に没頭している。対象物を見つめる眼差しの、なんと美しいことか...」
... W・H・オーデン

モチベーション 3.0 のメカニズムを促進的とするなら、モチベーション 2.0 は抑圧的。組織社会では、自由にやらせれば怠ける... 独断でやらせれば責任を逃れる... 期限やノルマを与えなければサボる... といった考えを持つマネージャをよく見かける。おいらは、ず~っと前から、「マネジメント」という用語に「管理」という訳語を当てることに違和感を持ってきた。日本では、管理職は偉い!ということになっている。肩書社会の象徴か。マネージャも技術職も営業職も役割が違うだけのことで、目標は同じはず。ある程度経験を積んだ人がマネジメントをやるのは理にかなっているとはいえ、向き不向きもある。管理職を欲する人は、いったい何を管理するというのか。いや、管理したいから欲するのであろう。自己を支配できぬ者は、他人を支配しようとする。独裁的な性格が強いほど、周囲には抑圧的な空気を漂わせておきたいらしい...

一方で、自由精神に飢えたボランティア的な活動を方々で見かける。実際、社会福祉の分野だけでなく、無償でコードを書くエンジニアがわんさといる。知識への渇望や能力の向上は、心をワクワクさせる。情報交換しながら、互いに高めようと。そこに上下関係はない。たいていの技術は、そうした自由な活動から生まれてきたし、どんなに優れた技術でも最初は金にならぬもの。それでも、根気よくやってきた無名の人たちがいる。動機づけのレベルで哲学的な意識のすり合わせができれば、上司と部下という概念も崩壊するやもしれん。人生は短い!仕事の動機づけは、シンプルな好奇心で共有したいものである...

「ことによると『マネジメント』という言葉そのものを、『アイスボックス(icebox)』や『ホースレスキャリッジ(horseless carriage)』と一緒に、累々たる死語の山に投げ捨てる時期かもしれない。21世紀は、『優れたマネジメント』など求めていない。マネジメントするのではなく、子供の頃にはあった人間の先天的な能力、すなわち『自己決定』の復活が必要なのである。」

2022-12-04

"エッセンシャル思考" Greg McKeown 著

仕事を断るのは、意外と難しい。独立した動機の一つに仕事を選ぶということがあるが、それでも難しい。村社会には、NO! と言えない空気が淀んでいる。人生において重要なことは?最優先すべきことは?などと思いを巡らせつつ...

「"NO" は完成された文章である。」... アン・ラモット

高度な情報化社会では、情報検索の手段が豊富で、その気になれば大抵の知識が手に入る。学ぼうと思えば、いくらでも学べる時代である。言い換えれば、受け身な人は置いてけぼりを喰らい、意識格差をどんどん拡大させていく時代でもある。

では、何を学ぶか?学習意欲が旺盛なのはいい。生き甲斐にもできる。
しかし、人生は短い。あらゆることを吸収しようとすれば、消化不良で吐き気を催す。学ぶことによって馬鹿になるのでは、何をやっているのやら。優秀な人ほど、こうした類いのパラドックスに陥りやすいという。
頭がいいと、いろんなことが認識でき、多くのことを学べそうだが、学び方にも不相応というものがある。まずは、楽しむこと!これを人生の基本方針としたい。重要なことに集中するということは、重要でないことを切り捨てるということ。そして、捨てる能力が問われる。これが、「エッセンシャル思考」というものか...

そして、三つの呪文を、あっさりと上書きする。
「やらなくては」ではなく「やると決める」
「どれも大事」ではなく「大事なものはめったにない」
「全部できる」ではなく「何でもできるが全部はやらない」

尚、高橋璃子訳版(かんき出版)を手に取る。

「向上心はときに絶えざるプレッシャーとなってあなたを襲う。あれもこれも試したい、いいことは全部自分の生活に取り入れたい。だが、そんなやり方で人は進歩できない。何事も中途半端に終わるのがオチだ。この苦境から抜け出すための鍵は、人生を本質的要素だけに絞り込むこと...」
... ダニエル・ピンク

基本的人権の一つに自由権とやらがある。信仰の自由に、思想の自由に、職業選択の自由に... 社会には自由が溢れている。少なくとも建て前では...
それで、自分は自由に生きているだろうか。組織にどっぷりと浸かり、義務という名の強迫観念に囚われる日々。心理学には、学習性無力感という用語を見かけるが、諦めの境地にも似た感覚に見舞われ、惰性的にやっていることばかり。選択肢があるにもかかわらず、選択肢を否定することによって消極的な選択を引き受けている。本当に自分の足で歩いているのやら...

「選ぶ能力は誰にも奪えない。ただ、本人が手放してしまうだけだ。」

トレードオフを直視せよ!
グレッグ・マキューンは、何かを取るために何かを捨てるというタフな決断を要請してくる。
「エッセンシャル思考は、より多くのことをやりとげる技術ではない。正しいことをやりとげる技術だ。もちろん、少なければいいというものでもない。自分の時間とエネルギーをもっとも効率的に配分し、重要な仕事で最大の成果を上げるのが、エッセンシャル思考の狙いである。」

そして、重要な選択を見極めるために、五つの助言を与えてくれる。
「じっくりと考える余裕、情報を集める時間、遊び心、十分な睡眠、そして何を選ぶかという厳密な基準」
あればありがたい贅沢品ばかり。遊び心なんて、ふざけた事を言う前にさっさと働け!などと怒鳴られそうな。しかし、これらを避けていては袋小路に入ってしまう。まるでアドレナリンジャンキー!
エッセンシャル思考の人は、時間をかけて調査し、じっくりと検討することを大切にするという。逆説的に、忙しい時ほど考える時間を確保することが合理的な行動につながると考えるようである。
一度立ち止まる時間を作るというのは、重要だと分かっていながら、実践するのは難しい。日々の仕事を思えば、勇気もいる。それが現実的でない!というなら、一度人生をリセットするぐらいの覚悟がいるやもしれん...
「本質を見失うことの代償は大きい。自分で優先順位を決めなければ、他人の言いなりになってしまう。」

さらに、自分の能力を最大限に引き出すためのシステマティックな方法として、習慣づくりを少しばかり伝授してくれる。良い習慣によって、本質的な行動を無意識化するというわけである。そして、マインドフルネスを身につけよ!と...
スポーツ選手が試合に集中するために、練習などでルーティンというものを重要視する傾向がある。日々の思考法にも、そうした儀式的な所作が結構役に立つ。ジャンクフードを断ち切るのにも...
正しい習慣は、妨害に打ち克つための最強の武器になるという。本質的な目標に向かう行動を習慣づけてしまえば、あとは自然に振る舞うだけ。習慣づけにちょいとばかり努力がいるけど...

「決まりきった行動は、賢い人の場合、高い志のあらわれである。」
... W・H・オーデン