2012-06-24

"破戒" 島崎藤村 著

谷崎潤一郎は、東京生まれの作家で藤村を毛嫌いする人が少なくないと書いた。漱石も露骨ではないが嫌っていたとか。滅多に悪口を言わない芥川までも「新生」という作品を露骨に貶したそうな。坂口安吾も不誠実な作家と書いていた。
しかし、そんな評判に怯むことはない。ここは天邪鬼への宣伝文句と受け取っておこう。俗世間の泥酔者に文学作品に対する目利きがあろうはずもないが、この作品は一読の価値があるのではなかろうか。小説という手段を用いて、古くからある日本社会のタブーを大衆化しようとした試みは称賛したい。藤村は、乞食よりも下等扱いされてきた穢多の境地を暴く。しかし、幸せになるために現実逃避に縋るしかないという結末は...これが小説の限界であろうか?平等が人類の最高の価値だとは思わない。すべての人間がどうして対等でありえようか。能力差もあれば人格差もある。だが、優劣を決める要因が、それ以外のところで決定されるのは、理不尽としか言いようがない。人類の歴史とは、まったくもって「人間」という身分をめぐっての抽象化の歴史ということができよう。

明治維新の時代、「四民平等」のスローガンのもと、封建時代の身分制度「士農工商」が廃止された。そして、穢多や非人と呼ばれた人々も解放され、みな同じ平民となる...はずだった。法で定めたからといって、伝統によって培われてきた慣習を簡単に捨て去ることはできない。日本社会には伝統的に家柄や身分を重んじる風習があり、華族や士族を鼻にかければ平民との区別が強調される。平民にしても、自分より下の階層がないと落ち着かない。穢多にしても、差別から逃れる者を見れば、僻み、妬む。人間ってやつは、自分よりも劣等な人種を見つけて安住したがるものらしい。結局、身分の世襲からは逃れられず、「新平民」という新たな差別用語を蔓延させることになる。
「病のある身ほど、人の情の真と偽とを烈しく感ずるものはない。心にもないことを言って慰めてくれる健康(たっしゃ)な幸福者(しあわせもの)の多い中に...」
農村部に封建制の余波を残しつつ、あれは穢多だ!放逐してしまえ!と平気で言う時代、居住、職業、進学、結婚などで市民権を保証すると唱えたところで、行政措置は上辺だけでしかない。裏社会で売買される穢多の娘たち、人並みに学問を志すことも許されない人々...美人で金持ちの目に留まるのは、まだしも幸せというものか。
しかし、こういう時代も経験する必要があったのだろう。残酷な行為はその時代には分からないもの。現在だって数十年もすれば、あんな理不尽な時代があったと言われるかもしれない。昭和の時代にも、その名残りはあった。高校時代、同和教育を受けた記憶が蘇る。当時はまったく現実味がなく、無神経に冗談を飛ばして先生に怒られたものだが、後で身近に同和地区があったことを知る。
ところで、部落問題は西側に多く存在すると聞く。その発祥は分からないが、平氏の怨霊かそのあたりの時代に遡るのだろう。武士の時代、多くの落ち武者が西側に流れたという歴史的背景がある。いくら武家社会が源氏を中心に固められたとはいえ、平氏が完全に絶滅したとは考えにくい。平氏以外にも歴史的に滅亡したとされる名門の子孫たちもいただろうし、権力の主流派であっても陰謀から逃れた落とし子のような人たちもいただろう。そういう人々が忠実な家臣とともに生きながらえ、目立たない地に集落を形成したことは想像できる。他にも犯罪者など素性を隠したい人は多くいるだろうし、世間の目から逃れた社会が形成されてきたことも想像できる。もちろん偽名を名乗る。
本書は信州を舞台にしているが、東側にも点在する現象なのだろうか?ずっと政治、経済、文化の中心できた東京人には、分かりにくい感覚なのかもしれない。役所も部落民などと差別するつもりはないのだろうが、行政的に保護が必要となれば区別する用語が必要になる。政治屋は友愛やら博愛やらという言葉がお好きだけど、「同和」と呼べばそれ自体が差別用語と化す。
更に厄介なのが、同和問題となんら縁のない連中が部落民を名乗り、社会保障や生活保護を脅したり、たかったりする。いわゆるエセ同和というやつだ。弱者や善人を装う輩の背後には、裏社会や宗教団体が寄生する。弱みや憐れみのあるところに政治団体が忍び寄り、福祉は選挙運動の道具と化す。報道屋は表面的な弱者の味方をするが、本当に保護を受けるべき人々が放置されるのは世の常。
現在では、穢多、非人、かたわ、気違い... などといった言葉が禁止用語とされる。そういう考え方も必要かもしれないが、そんな言葉が使われた時代があったということも認識しておきたい。近代化の過程で、「新平民」などと新語が用いられ、いじめの手口も裏で巧妙化していく。堂々と悪行をなすのと、陰で悪行をなすのとでは、どちらが悪いのかさっぱり分からん!人は、憐れみを感じながらも、つい余計なことを言ってしまう。真意が違っても、つい傷つけたりする。その反省を繰り返せば無口にもなろう。だが、無言ですら何かを物語る。お喋りなこの世から差別を無くすことは不可能なのかもしれん。

1. 「破戒」と「破壊」
「破戒」という題名は、戒めを破ると書く。戒めとは、素性を隠そうとすることが慣習として根付いたもので、先祖代々受け継がれてきた生き延びるための知恵である。破るとは、素性を世間に告白することで、社会からの迫害を覚悟することである。その意味では、自己の「破壊」という気持ちも込められているのかもしれない。
しかし、その告白はけして積極的なものではなく、噂が広がる中で仕方なく追い込まれた結果なのだ。告白した後は、逃げるように自由の国アメリカを目指す。ただ、その結末は少々腑に落ちない。現実には、様々な事情で逃げられないケースがほとんどであろう。経済的な負担も大きい。まだしも逃げる場所があるだけ幸せというもの。だからといって、この物語を夢も希望もないまま終わらせるのも...このあたりが小説の限界であろうか?
そういえば、日本政府がブラジルへの移民を募集した時代とも重なる。新天地への夢に乗せられ、苦労したという話も聞く。その中にも部落出身者がいたのかもしれない。本作品は、移民との関係も匂わせているのかもしれない、というのは考えすぎか?
また、解説の野間宏は初版本を読むべきだとしている。訂正本はまったく生ぬるいと。「穢多」という言葉を避けて「部落民」という言葉にすり替えられているそうな。

2. あらすじ
穢多出身の瀬川丑松(せがわうしまつ)は、生い立ちと身分を隠して生きよ!という父からの戒めを守って生きてきた。そして、小学校教員となり、解放運動家で部落出身の猪子蓮太郎を慕うようになる。
ある日、旅先で代議士になろうという人物と美女の一行を見かける。世間とは狭いもので、この女性が丑松の知り合いの穢多の娘であった。同僚の勝野文平は、その議員あたりから丑松の素性を嗅ぎつける。そして、町中で噂になり擁護派と蹂躙派で二分される。
しかし、擁護派も残酷な面を見せる。丑松が穢多ではないと主張するだけで、穢多そのものは差別しているのだから。穢多には、こういう特徴があるという。一種の臭いがある、皮膚の色が普通の人と違う、顔つきで分かる、そして、性格が異常に僻んでいる。ひたすら素性を隠す習慣から性格が陰気になり、病的な境遇が哲学をさせるんだとか。こうした特徴から、丑松を穢多であるか判定しようという話まである。憐れみが怖れに変わるのも道理というものか。時代の価値観によっては、どちらが病気扱いされるか分かったもんじゃない。
隠そうとすればするほど、世間はやかましく追求してくる。騒ぎが大きくなれば、素性を明かさないわけにもいかない。ついに丑松は告白する決心をする。
「我は穢多を恥とせず!」
それにしても、素性を隠していたことを、あまりに卑屈に謝る態度は、時代を反映しているのだろうか?
普段優しい人たちでも、一旦身分が明らかになると残酷な動物へと豹変する。人間は、群衆化すると野蛮になるところがある。陰の噂や陰の罵声といった陰湿な方法によって。まさに、いじめの原理がここにある。
そんな悲愴感の漂う中にあっても、読者を救ってくれるものが一つだけある。それは、最も純粋な擁護者である生徒たちの存在だ。教師として新平民であることに何の不都合があろうか、と校長に詰め寄る。教師冥利に尽きるというやつか。校長は、進退伺いを提出すればどうしようもないと言い訳するが、実は若くて活力ある教師が目障りだった。ここには、丑松の人間主義的な教育と、校長の封建主義的な教育との対立構図を匂わせる。おまけに、出世主義の勝野はライバルの脱落を意味ありげに微笑む。校長や勝野は、規則!規則!と生徒たちを封じ込める。
この物語が子供たちの純粋な感覚に救いを求めたのは、未来へ希望を託したのか、あるいは腐った大人どもに絶望したのかは知らん。
「ああ、教育者は教育者を忌む。同僚としての嫉妬、人種としての軽蔑...」
そして、丑松はテキサスの日本村で新たな事業を起こす夢を持って旅立つことに。学校を去る淋しさか、社会への悔しさか、目から涙が溢れ出る。

2012-06-17

"谷崎潤一郎随筆集" 篠田一士 編

小説もいいが、随筆もなかなかいい。随筆の魅力は、文章の達人たちの自己主張が存分に披露されるところであろう。物語の制約を受けることなく、自己矛盾が生じるのもお構いなし...とまでは言い過ぎか。ただ、これについて行くには、読者の側にも心構えがいる。筆が伸び伸びとする様は、もはや無力感に身を委ねるしかない。文学が精神と対峙する学問である以上、インド哲学にせよ、中国哲学にせよ、ギリシア哲学にせよ、いずれ古代哲学に帰着するものと考えていた時期があった。ところが、日本文学もなかなかの庶民的な哲学を魅せつける。つまりは、生き方というやつよ。

時代は大正デモクラシーに至る頃、急速な西洋化とともに自由の機運が高まる。この時代に随筆が多く書かれたのは偶然ではなかろう。西洋文学が輸入されると、男女の性や恋愛物があからさまに書かれるようになる。恋愛小説が高級な扱いを受けるとなれば、次は官能小説の番か?キラリ!オヤジの眼も輝く。ついでに、関東大震災の追い打ちで日本式建築様式も失われつつある。
谷崎は、「陰翳礼讃」で伝統文化の回帰を仄めかしながら、「いわゆる痴呆の芸術について」で歌舞伎や浄瑠璃の不合理性と不自然性を斬って捨てる。そして、日本文化を国粋芸術として崇めたり、世界に広めようなどという軍閥政策を皮肉る。
「どうか歌舞伎や文楽などは、間違っても世界的なんぞになってもらいたくない。それよりわれわれ日本人だけで、つつましやかにしんみりと享楽したい。」
芸術はあくまでも個性の領域であり、なにも民族の誇りだとか国粋などと崇めるほどのものではないということか。いくら教育の場で芸術を強制したところで、現代感覚ではハリウッド映画と比べられて退屈するのがオチか。
また、徳川時代の弊害を指摘している。...平安朝の時代には、紫式部のような女性作家がいた。にもかかわらず、江戸時代になって不合理で不自然な芸術が育まれたのはなぜか?そして、開国とともに芸術が解放され、その進化を取り戻す。...といった流れが語られる。
国の在り様には大きく二つのものがあろう。国の形というやつだ。一つは、民が伸び伸びと生きることで国を富ませようとする形。もう一つは、政を司る者が法によって民を厳しく縛り、組織として国を発展させようとする形。どちらが善い世かは知らん。まぁ好みもあろうが、徳川時代は後者になろうか。権力が禁じる思想を広めるには、こうすればよかろう。まず、思想論争の必要性を論じながら、反体制思想を紹介する。そして、権力思想を引用しながら、できるだけ説得力のない論理で批判する。聴衆の側も皮肉のツボをよく心得ているので、効果は必定。
そういえば、何の歴史書かは思い出せないが、徳川家を直接批判するとお咎めを受けるので、先代の足利家をネタにして間接的に批判する文化が育ったという話を聞いたことがある。天皇家を南北に割った張本人としても攻撃対象に相応しい。粛清の時代では、回りくどく不合理で不自然な文芸が発達しやすいのは、本当かもしれない。なるほど、江戸から距離を置いた西の都で、お笑いや毒舌の文化が発達したのも分かるような気がする。寺小屋のような教育文化も、幕府主導というよりは庶民的な運動から始まったのだろう。真の教育が国家教育から育まれないのは、いつの時代も同じか。新渡戸稲造は、武士道精神は徳川泰平の世に衰えたと指摘した。忠臣蔵で、播州という西の地で権力に抗議するエネルギーが発生したのも偶然ではないのかもしれない。徳川倒幕のエネルギーも西方から起こった。となると、現在においても、政治改革は西から蜂起するということであろうか?京が中心の時代には東から蜂起した。平将門の乱しかり、鎌倉幕府しかり。政治の中心、経済の中心、文化の中心が一箇所に集中すると何かと弊害があるのだろう。
「それにつけても凡ての作家が郷土を捨てて東京へ志すのは、大きくいえば日本文学の損失であると考えられる。」

当時の文壇事情も暴露される。文豪たちの論争は激しい。いわゆる喧嘩を売る!というやつか。中央公論の編集長、滝田樗陰が作家たちに、出来が悪い!と喧嘩を吹っかける話や、生田長江が、誌上で白樺派というよりは武者小路実篤に、オメデタイ!と凄まじい攻撃をした話など。さすがに文章の達人たちだけあって議論の吹っかけ方も巧みだ。文学の基盤は、もともと論争や口論にあることが見えてくる。まさに皮肉屋文化か。人間とは、喧嘩しながら精神を高めてきた生き物なのかもしれない。戦争もその類いなのか?
また、鏡花、里見、芥川、谷崎は、鍋を囲む仲だったという。互いの食い意地にもライバル関係が現れる。
東京生まれの作家で、島崎藤村を毛嫌いする人が少なくなかったという。荷風も、辰野隆も、みなそうだと。漱石も露骨ではないが嫌っていたとか。最もあからさまに罵ったのが芥川だそうな。特に「新生」という作品に関するものらしいが、滅多に悪口を言わない男だけにインパクトがある。谷崎も遠まわしにチクリと書いたとか。ちなみに、坂口安吾も不誠実な作家と評していた。しかしながら、藤村にも神の如く崇めるファンがいる。そこまで悪口を言われると...次は藤村でも漁ってみるかぁ。天邪鬼精神健在!

本書には、「『門』を評す」「懶惰の説」「恋愛及び色情」「『つゆのあとさき』を読む」 「私の見た大阪及び大阪人」「陰翳礼讃」 「いわゆる痴呆の芸術について」 「ふるさと」 「文壇昔ばなし」「幼少時代の食べ物の思い出」「『越前竹人形』を読む」の十一篇が収録される。
さて、純米酒に合いそうなところを摘んでおこうか。

1.『門』を評す
「『門』は『それから』よりも一層露骨に多くのうそを描いている。そのうそは、一方においては作者の抱懐する上品になる ― しかし我々には縁の遠い理想である。一方においては先生の老獪なる技巧である。」
谷崎は、漱石を当代ずば抜けた作家だと評している。なのに、この物言いは谷崎流の自然主義文学への挑戦状か?当時、文学界には自然主義なる風潮があり、漱石は自然主義に近づいていると評されたらしい。もともと小説とは、空想の世界を描くものである。だが、現実社会で生きる読者に共感を与えるものがなければ説得力を欠く。あまりにも理想郷へと旅立たれると、作家の独りよがりと言わざるを得ないというわけか。
「それから」は姦通する小説で、「門」は、姦通した二人が夫婦になる小説だそうな。道義上許されない姦通によって成就した恋、世間の冷たい目に晒されながら生きる様、罪が祟って三度も妊娠した胎児がことごとく闇へ葬られる...といった物語だとか。ここには、恋はかくあるべし!という漱石流の道徳観が描かれているという。人間社会というものは、もっと複雑で皮肉な事実に満ちていて、もっとドロドロとしたもので、このような夫婦関係を真の世間だとする見方は甘いということらしい。小説が真実よりも嘘に価値があるとすれば、その意味で「それから」は成功した作品であり、「門」は失敗した作品だと評している。

2. 懶惰の説
怠け者と言われて名誉に思う者はいないだろう。しかし、室町時代の「御伽草子」には「物臭太郎」という物語がある。怠け者で近所から爪弾きされる厄介者の話だが、乞食かと思えば権威に怖れないほどの気骨があり、馬鹿かと思えば和歌の才能があり、しまいには御多賀の大明神に祭られる。こうした物語が作られるのは、もともと人には怠惰への憧れがあるからであろう。だから、博奕に憑かれる。博奕打とは、楽をしながら金儲けをする人種である。そのために情報収集に努め、己の技を磨く奇妙な人種でもある。怠惰を求めて勤勉になるというわけさ。経済活動や学問に励むのも、ほとんどその類型であろう。
三国志には、諸葛亮が劉備の三顧の礼に従って世に出た話があるが、ようやく重い腰を上げたのは怠け者の証しかもしれない。もし、三顧の礼に従わず、才能が埋もれたままだとしても、品位が変わるべくもなく、偉大であることに変わりはないのだろう。老荘の無為の思想も、ディオゲネスの犬儒学も、その類型であろう。つまりは、人間の欲望の裏返しである。怠け者の哲学とは、自然風狂の哲学というわけよ。

3. 恋愛及び色情
平安朝の時代には、紫式部のような女性作家がおり、恋愛文学が旺盛を極めた。「今昔物語」の「不被知人女盗人(ひとにしられざるおんなぬすびとのこと)」は、珍しく女のサディズムを描いた作品だという。「枕草子」には、清少納言が宮廷で男をへこます話があるという。日記や物語や和歌などの文学的能力では、女性は多くの男から尊敬されていた様子がある。
恋愛物は、儒学者が淫蕩の書とした時代もあれば、国学者が神聖視し教訓とした時代もあった。徳川時代では、徹底的に低俗扱いされた。武士社会では、女性に優しいことが武士らしいということと一致しない。むしろ惰弱に見られ女々しいと言われる。こういうお国柄では、高尚な恋愛文学が発達するはずもないか。
一方、西洋の騎士道においては、武士道で言う忠誠や崇拝を女性に求めたという。西洋文学では、恋愛を題材にしない方が珍しい。キリスト教的に言えば、聖母マリアのような女性を崇める発想がある。西洋には、「聖なる妊婦」や「みだらなる貞婦」という概念があるという。日本では、卑しいで片付けられてしまうけど。男女身分の優劣から、竹取物語のように、かぐや姫が昇天するような想像は難しいだろう。しかし、現実に古くからある物語だ。となると、自由恋愛の伝統は古くからあり、徳川時代の頃に虐げられたということか?性欲の抑圧を美徳とする価値観は、この時代に育まれたのか?茶の文化などは、女性禁制の文化である。自然美だけが唯一不変とし、詩人や歌人たちはひたすら自然を描写した。高嶺の女よりも、高嶺の月を目指したというわけか。
ところで、昔は、家庭に舅や姑がいてくれた方が、嫁に色気が出ると言われたそうな。嫁が親に遠慮して、陰で夫に縋りつき、愛撫を求めるからだそうな。その遠慮がちな言葉や態度が夫をそそるという。現代社会では別居が当たり前だから、本性まるだしで...それで興醒めするかは知らん。ちなみに、「色気」という言葉は、西洋語で翻訳しようがないという。セックスアピールと言ってしまうと、興醒めか。

4. 「つゆのあとさき」を読む
荷風の小説「つゆのあとさき」は、純客観的描写をもって一貫され、何の目的もなく、何の主張もなく、それ自身の内に含むものがなく、冷たい写実的作品だという。どんな客観的な作品にも自我の描写というものが現れ、創作熱というもが感じられるのだが、そんなものがまるでないそうな。
「うそを楽しむ人でなければ手の込んだうそは吐けないと同様に、虚無を楽しむ人でなければああまで空中楼閣は築けない。」
感情やら創作熱などどうでもよく、あくびをしようが、酔っ払ってようが、そんなものが書ければ結構というわけか。荷風は、妻もなく、子もなく、友人もなく、時折気の合った茶飲み相手を拵えるぐらいだったという。こういう人物でなければ、創作に耽ることもできないのかもしれない。長い間、孤独地獄の泥沼に落ち込んで、苦しく味気のない暮らしを送りながら夢や覇気や情熱を擦り減らした挙句、次第に人生を冷眼で見るようになるのであろうか。享楽主義者が、享楽を尽くし、享楽に疲れ果てるまで...
「とにかく私は、この作者が最も肉慾的な婬蕩な物語を、最も脱俗超世間的な態度で書いているところに、― そして、何もむずかしい理屈をいわずに素直に平凡に書き流しているところに、― いかにも東洋の文人らしい面目を認める。」

5. 私の見た大阪及び大阪人
関東大震災の頃、避難場所として大阪へ流れた人は数知れず。その中に、谷崎や志賀などの小説家たちもいたという。東京生まれには、関西という地は肌の合わないことも多い。谷崎は、大阪ほどの大都市に文士がいないことを嘆いている。金の計算ばかりしていると、文士など育ちにくいのかもしれないけど。芸者で賑わい、三味線につれて地唄を唄い、人情味に溢れ、この多様な風俗の町では、経済競争の中で落伍者も多く、商売人から型破りまで多様な人種が集まる。それだけに金融屋やヤクザの入り込みやすい町なのかもしれん。
大阪弁といえば、下品でエゲツない印象があるが、女性の大阪弁は悪くない。個人的には京都美人と聞いただけでイチコロだが、谷崎は大阪の女性に惹かれるという。猥談などをしても、上方の女性はそれを品よく仄めかす術を知っているという。東京の女性は露骨過ぎるのだとか。変に色気があり、愛想よく歯の浮いた台詞も出るが、東京の女性は人見知りが強く、あまり巧いことが言えないらしい。じゃ、ズルいのか?というとそうではなく、正直なのだそうな。
「関西の婦人の言葉には昔ながらの日本語の特質、― 十のことを三っつしか口へ出さないで残りは沈黙のうちに仄かにただよわせる、― あの美しさが今も伝わっているのは愉快だ。」
男がエゲツないと、逆に女は上品になるのだろうか?となると、草食系の男子が増えれば...ゴホゴホ!

6. 陰翳礼讃
まず、臭い話から...
純日本風の厠は、閑寂な壁と清楚な木目に囲まれ、青空や青葉を見ることができるという。用を足すにも風流というわけか。
「総てのものを詩化してしまう我らの祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、かえって、雅致のある場所に変え、花鳥風月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むようにした。」
ただ、母屋から離れていて夜中に行くには便利が悪い。斎藤緑雨は、「風流は寒きものなり」と言ったとか。漱石は、便通いを「生理的快感である」と言ったとか。しかし、便器が木製というのは...やはり水洗でないと...便器の文化を一つとっても、西洋では光り輝くものを芸術とし、日本では陰翳なるものを芸術にするという。
次は、出す方から口に入れる方へ...
日本料理は、食うものではなく見るものだと言われる。谷崎は見るもの以上に迷想するものだと言い、「闇にまたたく蝋燭の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用」と語る。赤味噌汁にしても、薄暗い家の中で発達したものであることが分かると。
さて、住まいは...
建築様式は、日本人だって暗い部屋より明るい部屋の方が便利に違いない。だが、固有の風土によって、自然と暴風雨を防ぐために部屋が暗くなったという。
「暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。」
太陽光線の入りにくい座敷の外に土庇を出したり、縁側を付けたりして、一層日光を遠のける。庭からの反射が障子を透して、ほの明るく忍び込ませるように演出したりする。掛け軸や生花も飾るが、あくまでも脇役であって、陰翳の深みが主役であり、陰翳こそが装飾であるという。日本座敷の美は、陰翳の濃淡によって構築され、間接的な光線の演出に他ならないというわけか。
しかし、西洋人が見ると、その簡素さに驚き、ただ灰色の壁があるばかりで、なんの装飾もないと感じるらしい。陰翳を解せなければ、質素に見えるのも当然か。これもチラリズムの類いであろうか?そういえば、日本の幽霊には足がないのに、西洋の幽霊には足がある。これも陰翳感覚の違いか?現代人は、昼夜の明かりに馴れて闇の時代を忘れている。夜の世界地図を眺めても、この国は異常に明るい。おそらく暗い土地の方が正常なのだろう。先進国はどんどん人間離れしているのかもしれん。アインシュタインが訪日した時、大層不経済なものがあると、電灯を指さしたという。この時代から、ヨーロッパよりも惜しみなく電燈を使う癖があったらしい。資源がない国と言われながら...
「私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の櫓(のき)を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとはいわない、一軒ぐらいそういう家があってもよかろう。まあどういう工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。」
ちなみに、行付けのバーでは、酒を演出するために照明にこだわっている。それがたまらなくいい。

7. いわゆる痴呆の芸術について
辰野隆(たつのゆたか)が義太夫を悪く言ったという。歌舞伎を痴呆の芸術と言い出したのは、正宗白鳥だったとか。西洋かぶれになった時代、西洋音楽の何たるかを解さずに。辰野隆はいわゆる洋楽党だったとか。
しかし、西洋音楽を学んだ女性ピアニストは、邦楽では義太夫の三味線を聞くという話が紹介される。パリで娘時代を過ごし、フランス教育をうけた近代人でも、あの音色の中には日本人の血に訴える宿命的な魅力が籠もっているという。伝統芸術が軽んじられるのは、いつの時代も同じか。それも必要な過程なのだろう。芸術は、新旧を問わず、揉まれるうちに真の芸術に回帰していくのだろう。今では、リバイバル作品をよく見かける。ちなみに、義太夫通に言わせれば、文楽は見るものではなく聞くものだそうで、悪魔的な美を奏でる旋律だそうな。
「波立つ海面、渦巻く水勢、一つ所を船がくるくる行ったり来たりする運動、懸命に櫓を漕ぐ水夫たちの努力...」
こうしたものが思い浮かぶのだそうな。琴だの、三味線だの、地唄だの、俗世間の酔っ払いには退屈してしまうのだけど。旧劇や浄瑠璃には、滑稽なほど不合理や不自然が満ちていて、大袈裟でどことなく胡散臭い感は否めない。おまけに、軍閥政治が時代物や浄瑠璃を推奨したために、義太夫の残忍な場面は、軍閥の野蛮性と重なるとしている。国家が教育や文化を押し付けると、国民感情はだいたい逆の方向に働くものだが。

8. 『越前竹人形』を読む
水上勉の小説「越前竹人形」は、最初はそれほど名文があるわけでもなく平凡な書き出しだが、次第に生彩を帯びてくるという。娼妓の玉枝という女性の描写、その書き方を絶賛している。

...
家内でございます。と、喜助はひくい声で鮫島に紹介した。鮫島は、(中略)瞬間息をのんだ。美貌だったからだ。すらりと背の高い玉枝は、肉づきのいい固太りの躯(からだ)をしていた。白い肌が、青みどりの竹の林を背景にして、ぬけ出てきたようにみえる。それに切長(きれなが)の心もちつり上った眼は、妖しい光をたたえて鮫島をみつめていた。(この男に、こんな美しい妻がいたのか...)
鮫島はわれを忘れてみとれた。あいさつの声も出なかった。櫛の歯のように生えている竹林にさし込んでいる陽は、苔のはえた地面に雨のようにそそぐかにみえた。玉枝は黄金色の光の糸を背にして、竹の精のように佇んでいた。
...

「私は近頃これほど深い興味を以て読み終わったものはなかった。.....『楢山節考』を読んで以来の感激である。...何か古典を読んだような後味が残る。玉枝を竹の精に喩えてあるせいか、何の関係もない『竹取物語』の世界までが連想に浮んで来るのである。」
「竹の精」とは、うまいこと言う。是非、挑戦してみたい。

2012-06-10

"堕落論・日本文化私観 他二十二篇" 坂口安吾 著

「善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。」

小説家の鎮魂歌とは、こういうものを言うのであろうか。魂のこもらない一句が見当たらない。独特のリズムは修羅の妄執がごとく。毒舌とストレートな表現で、一見荒々しくも見える文章群が、妙に調和していて心地よい。繊細な感受性の持ち主でなければ、できない技であろう。なによりも、生への執念が込められる。
「私はただ、私自身として、生きたいだけだ。私は風景の中で安息したいとは思はない。又、安息し得ない人間である。私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。」
生きるとは人間の最大の欲望であり、生き方とは精神の最大のテーマである。善は悪との関係から生じ、生は死との関係から生じる。その真理に迫ろうとすれば、すべてを曝け出すしかあるまい。自己の醜行をも避けるわけにはいかない。
そこで、安吾は精神の堕落を求める。すべてを投げ捨てる心は、自暴自棄などとは違う。権威を嘲笑い、死をも笑い飛ばす。恋愛を人生の最高の花とし、女体に溺れる。
「小説の母胎は、我々の如何ともしがたい喜劇悲劇をもって永劫に貫かれた宿命の奥底にあるのだ。笑いたくない笑いもあり、泣きたくない泪もある。奇天烈な人の世では、死も喜びとなるではないか。知らないことだって、うっかりすると知っているかもしれないし、よく知っていても、知りやしないこともあろうよ。小説は、このような奇々怪々な運行に支配された悲しき遊星、宿命人間へ向っての、広大無遍、極まるところもない肯定から生れ、同時に、宿命人間の矛盾も当然も混沌も全てを含んだ広大無遍の感動に由って終るものであろう。」

自己を破壊してみなければ、自己を創造することもできない。ましてや自己の発見などおぼつくまい。しかしながら、自己の醜行までも受け入れる寛容さを身につけるのは、至難の業である。小説家が精神と正面から対峙する職業となれば、自己の醜行に耐えられない作家は自ら死に追い込むことになる。
安吾は、自殺を無意味だと吐き捨てる。芥川や太宰の自殺を不良少年の死だとし、不良青年にも不良老年にもなりきれなかったと蔑む。芥川にしても、太宰にしても、元来孤独の文学。なのに現世とつながり、ファンとつながったがために自ら死へ追いやったと。しかし、彼らへの思いは強い。
「本当の自殺よりも、狂言自殺をたくらむだけのイタズラができたら、太宰の文学はもっと傑れたものになったろうと私は思っている。」
安吾流の悔みの言葉であろうか。まるで太宰に「自殺論」でも書いて欲しかったかのように。人には様々な生き様があるように様々な死に様がある。自殺にも様々な事情があろうし、肯定する気にも否定する気にもなれん。俗世間の酔っ払いには、そんな度胸もないのだから。ただ、生きている限りは自分に正直でありたい。安吾はわざわざ死期を早めるのは人生の敗北者だとしている。だがそれは、生きる意欲を奮い立たせるための裏返しかもしれん。
「人間は生きることが、全部である。... 然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。」
キェルケゴールは、死んで墓に安住できるならば、それは絶望ではないとした。絶対的な存在感を示す孤独とぎりぎりまで戦い、現世を突っぱね、その生き地獄を生き抜いてこそ小説家というわけか。そこまでしてこそ、芸術というわけか。芸術ってやつは、狂人にしか見えないのかもしれん。
「生きている奴は何をしでかすか分らない。何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリギリのところを這いまわっている罰当りには、物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。」

本書には、「ピエロ伝道者」「FARCEに就て」「ドストエフスキーとバルザック」「意欲的創作文章の形式と方法」「枯淡の風格を排す」「文章の一形式」「茶番に寄せて」「文字と速力と文学」「文学のふるさと」「日本文化私観」「青春論」「愕堂小論」「堕落論」「続堕落論」「武者ぶるい論」「デカダン文学論」「インチキ文学ボクメツ雑談」「戯作者文学論」「余はベンメイす」「恋愛論」「悪妻論」「教祖の文学」「不良少年とキリスト」「百万人の文学」の二十四篇が収録される。
安吾の生涯に渡る代表的エッセイ集ということだが、これ一冊で人生論が語られる。生涯に渡って一貫性を保つのは難しいはずだが、小説家としての信念はぶれないということであろうか。

1. ファルス論
ファルスとは笑劇や道化のこと。一般的に笑いよりも涙の方が高尚とされるが、人間の情念は涙を誘うよりも笑いを誘う方がはるかに難しい。悲しみには人類の共通観念があり、死や命の儚さを匂わせればたいてい涙を誘う。対して、笑いほど文化や慣習や言語に影響されるものはない。笑いは否定をも肯定する。おまけに、笑いは涙をも乗り越える。故に、戯作をもって笑劇を演じることが、文学の高尚なテクニックということになろうか。笑いは不合理を母胎にするという。芸術心とは、まさに不合理の内にあるのだろう。
「ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。」

2. 不条理な文学
グリム童話で有名な「赤ずきん」に「文学のふるさと」を探る。シャルル・ペロー版に遡ると、ただ少女が狼に喰われるだけの物語で、そこに教訓や道徳はないという。暗黒の運命と冷酷な現実を叙述するのみ。これが客観性と言うかは知らんが、実に童話らしくない。ただ、その不条理を受け入れるだけの無力な世界、これが文学の本来の姿だということであろうか。

3. 文豪批判
安吾は文豪たちに厳しい。というより、文学界に厳しいと言った方がいいか。藤村や漱石らを血祭りに上げる。「新生」という作品において、藤村は世間的処世において糞マジメだが、文学的には不誠実であるという。漱石は、知と理で痒いところに手が届くものの、人間の本質が欠けているという。ただ、自らインチキ文学と称し、撲滅すべきは安吾小説とも言っている。安吾自身が糞真面目な文章家であることは言うまでもない。そうでなければ、こんなに緻密に計算された文章は書けまい。小説家の正体は戯作者ということであろうか。
「言論の自由などと称しても人間の頭の方が限定されているのであるから、俄に新鮮な言論が現れてくる筈もなく、之を日本文化の低さと見るのも当らない。あらゆる自由が許された時に、人は始めて自らの限定とその不自由さに気付くであらう。」
それにしても、文学の神様と呼ばれた志賀直哉への攻撃は半端ではない。これは本物か。志賀は、特攻隊の生き残りを再教育せよ!とほざいたとか、太宰もその態度を批判したらしい。志賀文学を思想観念などない皮相的だとしているが、その気持ちも分かるような気がする。現代でも、国のために命を賭けている人たちに敬意を払わず、その存在すら認めない輩がいる。
「日本に必要なのは制度や政治の確立よりも先ず自我の確立だ。本当に愛したり欲したり悲んだり憎んだり、自分自身の偽らぬ本心を見つめ、魂の慟哭によく耳を傾けることが必要なだけだ。自我の確立のないところに、真実の道義や義務や責任の自覚は生れない。」

4. 堕落論
安吾は人間の本質に迫るために一貫して堕落を求める。
「人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」
しかし、人間が堕ち抜くほど強くはないことも認めている。
「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。」
安吾は、宮本武蔵の凄まじい生への執念を称賛しながらも、その執念が薄れたために晩年の著書「五輪書」をつまらなくしたと嘆いている。対して、戯作的な低さがあるものの勝海舟の父勝夢酔(むすい)の「夢酔独言」を高く評価している。勝夢酔は、生涯を不良で通した武芸者だそうな。道学的な高さよりも、必死の生き様の方に芸術性が生じるというわけか。とことん醜態を曝け出して生きなければ、人間の本質は見えてこないし、真の芸術もありえないというわけか。
「良く見える目、そして良く人間が見え、見えすぎたという兼好法師はどんな人間を見たというのだ。自分という人間が見えなければ、人間がどんなに見えすぎたって何も見ていやしないのだ。自分の人生への理想と悲願と努力というものが見えなければ。」

5. すけべぇオヤジの恋愛論
戦争未亡人の多い時代、安吾は何度も恋愛をやり直すことを奨励する。そして、愛を宗教的なものとし、恋を狂人的なものとして区別している。狂うほど好きにならないと、人間の本性は見えてこないというわけか。まったく友愛型人間ってやつが愛を安っぽくしやがる。俗世間では、愛は最高の善とされる。ならば、愛を金で買うことこそ、最も有意義な金の使い方ということになろう。
そういえば、あるバーテンダーが能書きを垂れていた。下心があるのが「恋」、心を下に書くから、真心があるのが「愛」、心を真中に書くからと。なるほど、下心こそ人間の本性というわけか。
また、女房と女とどこが違うのか?と問いながら、知識があっても知性がなければ最低な女だとし、良妻などというものを偽物とし、知性ある悪妻を求める。そして、何度でも結婚すりゃええと主張する。ただし、安吾自身は二十の美女を好むと宣言しているけど。
すけべぇオヤジまるだしの自由恋愛論にはまったく同感だ。しかし、なんでわざわざ再婚を奨励するのか?そんなに実体のない法律なんてものに縛られたいか?どうせなら確実に実感できる縄で縛ってほしい!と、M君は言っていた。

2012-06-03

"桜の森の満開の下・白痴 他十二篇" 坂口安吾 著

およそ鳥肌が立つような小説とは、こういうものを言うのであろうか。男と女のドロドロ哲学を語らせたら、この作家の右に出る者を知らない。各々の物語は、二つの二元論において展開される。それは精神と肉体、そして夢想と現実。これらの狭間で揺れ動く情念の微妙なタッチを、男女の性を絡ませながら対称美で魅せるところに、この小説家の凄みがある。
古来、精神と肉体は一体か?という哲学的な問いがある。人間の実体は精神にあるとし、固体である肉体になんの意味もなさないとする立場と、どんな物質にも精神が宿るとする立場の論争は、いまだ決着を見ない。本書は、大体において後者の立場をとりつつ、結果的に前者に引き戻される感がある。純愛を夢想したところで結局は肉体を貪り、理性を求めたところで結局は衝動の虜になる。いくら理想を追いかけようが、いくら現実を直視しようが、そこにあるのは虚しさだけというのは変えようがない。

本書には、「風博士」「傲慢な眼」「姦淫に寄す」「不可解な失恋に就て」「南風譜」「白痴」「女体」「恋をしに行く」「戦争と一人の女」「続戦争と一人の女」「桜の森の満開の下」「青鬼の褌を洗う女」「アンゴウ」「夜長姫と耳男」の十四篇が収録される。
作品の順番もうまいこと演出され、一つの体系をなしている。いきなり「風博士」が無力な男の復讐劇を喜劇で演じれば、文学なんて楽しけりゃいいじゃん!という解放感を与えてくれる。そして、無垢な少年が年上の女性へ向ける「傲慢な眼」で純愛を語り、なにやら忘れかけているものを思い出させてくれる。
しかーし、こうして油断させておいて、いつのまにか(小)悪魔への殉教が始まっているのだ。美麗な女どもは...「白痴」な女は純真な肉体を晒し...戦争好きな女は空襲の度に男の優しさを快感にし...もはや男なしでは生きられない。脂ぎったオヤジども、すなわち「青鬼赤鬼」でもええからひとりぼっちにしないでと。男どもは男どもで...戦争に生き残った野郎どもはハーレム気分...美女の微笑みに憑かれた男は「桜の満開の下」で狂い...もはや自分の命を守るには妖女の媚態を断ち斬るしかないと気づく。
さて、美女をモチーフにした小説が、愛憎劇や官能小説風に展開されるのはよくあること。性に解放された自由闊達な娼婦や気高い女王様が登場すれば、男どもは命を磨り減らす。愛という幻想が仕事の原動力となり、美麗の虜になり、残虐な行為も命じるがまま。安吾は、天性の娼婦を奉仕する人として崇めているところがある。自己犠牲を払って相手を喜ばすのだから、そうかもしれん。ある種のエゴイズムであろうが、もともと小説とはエゴいもの。退屈は、エゴイストにとって虚しさを感じるだけだが、エゴを放棄した天性の娼婦は幸せを感じるというのか?天性の娼婦は自己を見つめることなどないのか?だから、いつでも楽しめるというのか?そして、とことん憑かれ(疲れ)、気がついたらポイよ!そのリスクを背負ってこそ、理想観念に近づくことができる。理想の女性像を求めるということは、まさに精神の完成を求めるに等しい。これが安吾小説の真髄であろうか。
しかし、だ。仕舞いに、女性自身が命を奪われる瞬間でさえ微笑みで見つめられると、殺人鬼となった男はどう狂うというのか?美女がそれを穏やかに受け入れるのは、悪魔を自覚しているからか?かくして悪魔は神となり、男は救われる。美麗な女性が残虐であればあるほど、無垢な聖人と化すとは。ある種の宗教的救済なのか?宗教とは姦淫のようなものなのか?盲目となって惚れ込むところは、まったく同じよ。よって、男性諸君がこぞって夜の社交場へ通うのも道理というものよ。そう、教会へ行くのと同様、ある種の宗教儀式なのだ。さぁ、聖地へ赴くとしよう。ただし、美人と美麗ではまったく違う概念なので注意されたし!
...「夜長姫」に憑かれた男より。

1. 風博士
偉大なる風博士が自殺した。遺書には、憎むべき蛸博士のことが記されていた。かつて友人だったこの男は黒髪明眸の美青年であったが、やがて禿頭となり蛸博士と呼ばれる。彼は風博士の妻を寝とった。この憎むべき論敵は、いつも鬘で禿頭を隠している。風博士は、蛸博士を抹殺するために邸宅に忍び入り、証拠品である鬘を手中に収めた。しかし敗北した。蛸博士は密かに鬘の予備を持っていたのだ。そして、蛸博士を地上から抹殺することを諦め、自己を抹殺したとのこと。かくして博士は失踪した。偉大なる博士は風になったのである。その証拠とは。
「この日、かの憎むべき博士は、恰もこの同じ瞬間に於て、インフルエンザに犯されたのである。」
風となった博士は、風邪の伝道師となったとさ。

2. 傲慢な眼
ある辺鄙な町に、都会風の派手な県知事が赴任した。夏休みになると、東京の学校に残した美しい一人娘がやってきた。町中の眼が注がれる中、ただ一人の傲慢な眼が向けられる。大男の中学生。令嬢が問い詰めると、少年は顔を赤らめ、うつむく。
ある日、令嬢が散歩していると、少年は写生帳に描き始める。令嬢はモデルになってくれた。夏休みが終わると令嬢は東京へ戻り、冬休みになっても再びこの町に来ることはなかった。令嬢は友人に呟く。
「わたし、別れた恋人があるの。六尺もある大男だけど、まだ中学生で、絵の天才よ...」
彼女は「天才」という言葉を発した時、言いたいことを言い尽くしたような満足感に浸る。静かな感傷の中に、玲瓏と思い浮かべることができるのだからと。

3. 姦淫に寄す
九段坂下の裏通りの汚い下宿屋の一室で、勤め人が自殺した。そんな部屋に借り手はつかないだろうというので、それならと隣に住んでいた大学生の村山玄二郎が借りることに。彼は、顔立ちが良く品位もあるが、どことなく自殺の香りがする。滅多に外出しないが、水曜日になると決まって教会の聖書講義会へ通う。ただ、一度も神を信じたことがない。
「孤独を激しく憎悪しているが、憎み疲れて孤独に溺れ孤独に縋りついている。」
聖書研究会に、四十にとどく永川澄江という女性がいた。熟女の感覚で、玄二郎の内に秘める多感な心情を見抜いていたのか。玄二郎は澄江に穏やかな安らぎを求める。澄江は玄二郎を大磯の別荘へ誘い、近所の住人を交えてトランプに興じる。そして、嵐の夜、二人は興奮し姦淫に寄す。その後、玄二郎は教会へ行かなくなった。おそらく澄江も。
「杞憂を懐いた玄二郎こそ、詩も花もない一野獣の姦淫に盲(めし)いた野人であったのだろう。」

4. 不可解な失恋に就て
50を越えた絵の先生。30名近い弟子の中から、いつも5,6人の少女を連れて散歩する。天来稀なフェミニストで、特定の一人に態度が向けられることはなかった。しかし、その中の一人の美少女に恋をする。散歩のメンバーに彼女を加え、男女区別なく美青年も加えた。すると、嫉妬するのは先生自身であった。美少女は、ある青年と恋をはじめ、そして結婚した。先生は散歩をやめた。丸々と太っていた身体が痩せ衰え、眼はくぼみ、見る影もない老衰病者のようになっていく。
「不幸な恋は深刻そうであるが、必ずしもそういう理屈はなりたたないだろう。最大の愚、不幸な恋をみならうこと。」

5. 南風譜 (牧野信一へ)
紀伊への旅で友人宅に泊まる。熊野灘の眺めのいい所。浴室を出ようとすると、夕陽を浴びた廊下の隅から女の鋭い視線がある。可愛らしい魔物の眼。それは木彫り地蔵であった。鎌倉時代の作で、情感と秘密に富んだ肢体。ひたすら妄想に身を焼き焦がした者のみが、仏像の汲めども尽きぬ快楽と秘密を備えた微妙な肉体を創り出すことができる。
ところが、木像の脾腹に刃物でえぐったような生々しい傷痕を認めた。住民の話によると、それは混血(あいのこ)の父(てて)なし娘で、白痴で唖でつんぼだという。そして、友人の妻が白痴であったことを知る。木像への嫉妬が刃物を揮わせたのか?男の憧れが、実存する女性よりも、木像の妖しい様子に心を奪われたのか?もともと木像は書斎に置いてあったという。妻を失った今、木像は廊下の隅に置かれている。

6. 白痴
27歳の伊沢は、文化映画の演出家をやったことのある新聞記者で、徳川時代から受け継がれる年功序列制に反感を持っている。凡庸さを擁護し、芸術の個性と天才による競争意識を罪悪視するとして。
「要するに如何なる時代にもこの連中には内容がなく空虚な自我があるだけだ。流行次第で右から左へどうにでもなり、通俗小説の表現などからお手本を学んで時代の表現だと思いこんでいる。...最も内省の希薄な意志と衆愚の盲動だけによって一国の運命が動いている。」
しかし現実は、芸術を夢見ながらも会社員として安定した給料にすがる毎日。硬直した社会の破壊を戦争に期待している。
さて、伊沢の隣には気違いが住んでいた。その女房は四国遍路の旅で連れ帰った25、6の白痴の女、古風で瓜実顔の美しい顔立ち。気違いには、笑いたい時にゲタゲタ笑い、演説したい時に演説をし、アヒルに石をぶつけたり、豚の尻を突いたりする性癖がある。人目をはばかることもない。おまけに、母親が病的なほどのヒステリックで女房はいつも怯えている。
ある晩、遅く帰ると白痴の女が隠れていた。伊沢は問わずに事情を悟る。そして、同棲することに。白痴の女は、米を炊くことも、味噌汁をつくることも知らない。喋ることも不自由で、配給の行列に立つのが精一杯。喜怒哀楽の微風に反応するだけで、放心と怯えの狭間で他人の意志を通過させるだけ。まるで人形のような存在。伊沢は白痴の女を抱きたいが、世間体を恐れる。
やがて毎日、空襲警報。焼夷弾が降りそそぎ、辺りは焼鳥のように人が焼け死ぬ。ただ、戦争ってやつが不思議と健全な健忘症にさせる。白痴の女はただ待ち受ける肉体に過ぎない。
「ああ人間には理知がある。如何なる時にも尚いくらかの抑制や抵抗は影をとどめているものだ。その影ほどの理知も抑制も抵抗もないということが、これほどあさましいものだとは!」
女を捨てることもできない。殺す度胸もない。戦争が女を始末してくれるだろう。伊沢は冷静に空襲を待っている。それでも、ある瞬間、人間らしさを見せる。死ぬ時は、こうして、二人一緒だよ!としっかり抱きしめる。ほんの一瞬にせよ、人間の誇りというやつが、まだどこかに...意志を持たない白痴の女の空虚が、戦争の空虚と重なる。
「戦争の破壊の巨大の愛情が、すべてを裁いてくれるだろう」

7. 女体
岡本は谷村夫妻の絵の先生。年とともに放埒のつのる一方で、五十を過ぎても狂態。生活費で谷村に頼るが、生活苦は芸術家の宿命であるかのような態度。己を蔑むことは芸術を蔑むと言わんばかりに。谷村の生命の火は、妻の素子を貪ることによって燃え上がる。だが、その過淫が衰弱を招いていた。
ある日、ほとんど言いなりに金を貸していた谷村は、胸にしまいこんだものを吐き出してしまう。岡本は、あさましいほど狼狽した。しかし、素子は岡本を弁護し、狼狽に追い込んだことを避難する。金が欲しくてたまらなければ、あさましくもなる。なけなしの肩書きでも、消えそうな名声でも、なんでも利用する。それが人間というものではないかと。弱点を暴いて何になる?それは卑怯というものだと。素子は、岡本に頼まれて女の世話をしたこともあり、女のだらしなさを、むしろ魅力であるかのように受け止めている。人間は惨めな恥辱を受けると、その復讐に立派になって見返すか、やけになって思いっきり惨めになって困らせるか、のどちらかになるのだろう。岡本は後者のタイプか。性格破綻、破廉恥、こうした男の弱点が逆に武器になるとは、母性本能恐るべし。
「金銭は愛憎の境界線で、金銭を要求しないということは未練があるという意味だ」
岡本は、素子に露骨に話しかけ、媚びる卑しさを見せつける。だが、谷村が老けこむのに、素子は若々しくなる。谷村は、自分が死んだら好色無恥な老人の餌食になるのではと嫉妬する。そして、肉体とは関係ない、魂だけの純粋な恋がしたいと願う。

8. 恋をしに行く (「女体」につづく)
「女体」の続編。かねてから肉体と無関係の恋がしたいと願っている谷村は、信子に恋の告白をしに行く。信子も岡本の弟子で、恋仲とも言われた。贅沢な暮らしぶりから、男どもが相当な金をつぎこんでいるに違いない。それでも、谷村は処女のようなものと想像している。いくら現実主義者でも、媚態に惹かれた途端に幻想家となる。これが男の悲しい性よ。貞淑高潔な女体と信じるのは勝手や。でも結局、谷村は信子の肉体を貪る。
「人は誰しも孤独だけれども、肉体の場に於て、女は必ずしも孤独ではない。女体の秘密は、孤立を拒否しているものだ。孤立せざるものに天来の犯罪などは有り得ない。」

9. 戦争と一人の女 (無削除版)
戦争中、野村は女と同棲していた。最初から内縁の約束で。戦争で負ければ、どうせ全てが滅茶苦茶になる。二人は家庭的な愛情などに期待していない。女は酒場の妾、淫奔で気に入った客とすぐに関係を持つ。取柄といえば、金にがめつくないこと。女は戦争を愛していた。食料や遊び場の欠乏では呪っていたが、爆撃はむしろ歓迎していた。平凡や退屈に満足できない気質。防空壕では震えながらも恐怖に満足し、お陰で浮気をしなくなる。浮気虫の正体は、退屈虫であったか。まさに空襲国家の女!
野村は戦争が続くのを願う。唯一生きたいという希望をつなげるかのように。終戦のラジオ放送が流れると、なぜか寂しい。敗戦の悔しさなんかではない。苦しみから逃れられるという安堵感でもない。女に未練などないはず。なのに、いざ別れとなると躊躇する。野村は女体を貪りながら呟く。
「戦争なんて、オモチャじゃないか...どの人間だって、戦争をオモチャにしていたのさ...もっと戦争をしゃぶってやればよかったな。もっとへとへとになるまで戦争にからみついてやればよかったな。血へどを吐いて、くたばってもよかったんだ。...すると、もう、戦争は、可愛いい小さな肢体になっていた。」
尚、「無削除版」とは、GHQ検閲前を意味する。そして、これが削除されたラストの台詞である。

10. 続戦争と一人の女
続編は女の立場からの描写。60ぐらいのカマキリ親爺とデブ親爺。この二人と野村と女でよく博打をやった。四人とも戦争は負けると信じていたが、カマキリ親爺は喜んでいる。大勢の男が死ねば、女が群がってくると。空襲での二人の親爺の恐怖ぶりは酷く、生命の露骨な執着に溢れている。そのくせ他人の死となると好奇心旺盛で、空襲のたびに見物に行く。
ところで、男が本当に女に迷いだすのは四十ぐらいからだという。精神など考えずに肉体に迷うのだそうな。女の気質も知り抜き、女のしぐさに憎しみを持ち、肉欲に執着する。だから、覚めることもないと。
女郎だった女は結婚願望をとうに捨てている。それでも野村をだんだん好きになる。野村も女房にしてもいいと思いはじめる。野村は、空襲のたびに伏せろ!と叫ぶ。砂をかぶって伏せていると、必ず野村が起こしに来てくれる。死んだふりをしていたら、優しく抱き起こす。それがたまらなく快感なのだ。夜の暗さを憎べば、焼夷弾が明かりを灯す。人生の暗さと調和させるように。高射砲の中を泳いでいく銀色に光るB29が美しい。ついでに嫌な性格も、嫌な過去も、燃え尽くしてくれればいいものを。女は、生きることに不安がない。家を焼かれても、野村が死んでも、誰かの妾になればいいのだから。戦争に負ければ、ほとんどの男が殺され、女だけが生き残り、アイノコが生まれ別の国家が誕生すると思っている。国の変わりゆく様を開き直って眺めれば、もはや絶望なのか希望なのかも分からない。戦争が終わると、カマキリ親爺は怒った。ここでやめるとは何事だ!日本中が焼き尽くされるまでやらんかい!こんな中途半端なら、東京が焼ける前に止めんかい!
「私はどうして人間が戦争をにくみ、平和を愛さねばならないのだか、疑った。」

11. 桜の森の満開の下
昔々、鈴鹿峠では、桜の森の花の下を通る旅人は必ず気が変になったという。しばらくして山賊が住み始めた。情け容赦なく着物を剥ぎ命を奪う。こんな男でも桜の森の花の下へ来るとやはり狂う。女を攫いまくり、女房は七人になる。
八人目を攫い、その亭主を殺した。だが、いつもと勝手が違う。女が美し過ぎるのだ。女は歩けないからおぶってくれと言う。家に帰り着くと七人の女房の汚さに嫌気がさす。
「お前は私の亭主を殺したくせに、自分の女房が殺せないのかえ。お前はそれでも私を女房にするつもりなのかえ」
えらい女を拾ったもんだ。男は女の命じるがままに次々と斬殺。ビッコの女が腰を抜かしていると、この女だけは女中にするから助けろと命じる。かくして最も醜い女だけが助けられた。
やがて花の季節が訪れる。我儘女は都に焦がれ、都へ連れて行けと言う。男は造作もないことと都へ行く決心をする。しかし、一つだけ気がかりがあった。今年こそ、桜の森の花の下で、じっと居座ってみせると決心していたのだ。三日後、桜の森は満開になった。そこに一歩踏み入れようとすると、冷たい風が押し寄せ、無気味な感覚が襲う。四方の轟々という音に、泣き、祈り、もがき、逃げ去った。今年も、桜の森の花の下に居座ることができなかった。
さて、男は女とビッコの女を連れて都に住み始めた。毎晩、女の命じるままに邸宅へ忍び入り、着物や宝石や装身具を盗む。女はそれだけでは満足しない。何よりも欲したのは、その家の住人の首。そして、何十もの邸宅の首が集められた。女は毎日首遊びをする。お人形ごっこのように、それぞれの首に役柄を与えながら、カラカラ笑う。もっと太った憎らしい首が欲しい!白拍子の首を持ってきておくれ!などと種類まで要求する始末。男は都を嫌った。そして、退屈に苛む。山から眺める無限の明暗を思い出そうとするが、都の明るさに思い出せない。これまで女が生き甲斐できた。その女を殺すとどうなるだろうか?俺自身も殺してしまうのだろうか?
ある日、山へ帰ることを決心する。女はお前と一緒でないと生きられないから一緒に山へ行くと涙する。女を背負い、桜の森の下を通りかかると、ちょうど満開であった。男は、幸福を噛み締め、花の下を恐れていない。だが、一歩踏み入れると、突然冷たい風が押し寄せ、女の手が冷たくなる。背負っていたのは全身が紫色をした老婆だった。男は振り落とそうとしたが、鬼の手が喉にくいこみ、だんだん意識が薄れていく。必死になっているうちに、今度は鬼の首を絞めていた。鬼は息絶えた。しかし、そこにある屍体は女であった。男は泣き崩れる。ちょうど白い花びらが散り積もる。かくして男は桜の森の花の下にいつまでも居座ることができたのだった。
「桜の森の満開の下の秘密は誰にも分かりません。あるいは孤独というものであったのかもしれません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。」

12. 青鬼の褌を洗う女
母は戦争で焼け死んだ。母は妾で旦那の他に数人の男がいた。処女が高く売れる時代、娘は商品として見られた。娘は、窮屈な女房にはなれない、年寄りの妾が相応しいと言い聞かされてきた。そんな母に似てきた自分が気味悪い。娘は遊び好きで貧乏が大嫌い。妾が嫌というわけではない。束縛されず贅沢をさせてくれるなら、80の老人でもOK。女房となると別の人種で、これほど愚痴っぽく我利我利な人間はいないと思っている。男に従属なんて堪えられない。おまけに、夫が戦争にとられるなんて惨めは御免だ。ただ、肉欲を求めるだけでは、精神的に何かが低いと思っている。
空襲で一面焼け野原になると、新聞やラジオは祖国の危機を叫び、巷では日本滅亡が囁かれる。祖国だの、民族だの、という言葉は虚しいばかりで始末が悪い。だが、娘には自分の存在を信じることができるので困った様子がない。あるがままに受け入れ、誰にでも愛嬌よく笑う。娘は、久須美という56歳の専務から家を持たせてもらう。醜男だが気にならない。娘の本性を見抜いていて、浮気をするなら分からないようにしてくれ!と言うぐらい。娘は、久須美の愛撫のテクに、今まで知らなかった媚態を与えてくれたことを感謝している。天性のオメカケ性か。
ところで、愛する女が浮気をするのは、男にとって地獄であろうか?女にもリスクがある。若さは永遠ではない。より可愛い女が出現すれば捨てられるだろう。男と女のどちらが主導権を握り、どちらが残酷なのかは分からん。ただ、どちらも何かを恐れているのだろう。
「私は野たれ死をするだろうと考える。まぬかれがたい宿命のように考える。私は戦災のあとの国民学校の避難所風景を考え、あんな風な汚ならしい赤鬼青鬼のゴチャゴチャしたなかで野たれ死ぬなら、あれが死に場所というのなら、私はあそこでいつか野たれ死をしてもいい。私がムシロにくるまって死にかけているとき青鬼赤鬼が夜這いにきて鬼にだかれて死ぬかも知れない。私はしかし、人の誰もいないところ、曠野、くらやみの焼跡みたいなところ、人ッ子一人いない深夜に細々と死ぬのだったら、いったいどうしたらいいだろうか、私はとてもその寂寥には堪えられないのだ。私は青鬼赤鬼とでも一緒にいたい、どんな時にでも鬼でも化け物でも男でさえあれば誰でも私は勢いっぱい媚びて、そして私は媚びながら死にたい。」
鬼とは妾を囲う男ども。そして、鬼のフンドシを洗濯するとは、男を選択することか?それとも資金洗浄のことか?

13. アンゴウ
矢島は、古本屋で戦死した旧友の神尾の蔵書を見つけ、その懐かしさに買う。頁の間から、矢島と神尾が勤めていた出版社の用箋が現れた。紙面には数字だけが羅列されている。その組み合わせから項数と行数を追っていくと、ある語をなしている。
「いつもの処にいます七月五日午後三時」
矢島の出征は昭和19年3月で、神尾の出征は昭和20年2月。この七月五日は昭和19年に違いない。この本を蔵したのは、矢島の留守宅だけ。そこにこの用箋があったとなると、神尾と自分の妻の関係を疑う。矢島が復員すると、妻タカ子は失明していた。二人の子供は消息不明、おそらく焼死。タカ子が書いた暗号という証拠もなければ、神尾も戦死したのだから、いまさら過去をほじくることもない。戦争そのものが悪夢だったと言い聞けせ、買った本を片隅へ押し込んでも、その心労がかえって重荷になる。出征前の新婚生活では、タカ子は必ず矢島の左側に寄り添っていた。座っていても、寝室でも。だが、復員後は左に寄ったり右に寄ったりする。そして、恐ろしいことに気づく。神尾は左ギッチョだった。
ある日、矢島は出張で仙台へ行くことに。仙台には神尾夫人が疎開しているので、本を持参する。矢島は、神尾の蔵書のことを明かすと、この本は神尾夫人がこちらに持って来たという。確かに夫人が持っていたが、神尾の蔵書印がなかった。所々に朱線を引いた後があり、それは矢島の本であることが分かる。本を取り違えたのは、矢島自身であったことを思い出す。となると、ますますわけが分からない。今度は、タカ子に蔵書のことを明かす。タカ子は売るはずがないし、貸した覚えもないという。嘘を平然と語る時、目こそ表情の中心となるが、あいにくタカ子は失明した。更に、古本屋で蔵書の売り手を聞くと、焼け残ったものが盗まれたのだろうという。秘密の主役たちは、命を失い、目を失ったというのに、秘密の鍵だけが焼かれずに残り、秘密にされるべく自分の手にある。戦争という悪魔は、中途半端に傷痕を残しやがる。
そこに、かつての蔵書の所有者から電話があった。お宅が所蔵していたどの本にも、数字が並んだ紙が挟んであったという。暗号は、死んだ二人の子供が交わした手紙であった。子犬のこと、秘密の場所など、兄と妹は暗号で遊んでいた。これを妻の浮気と勘違いするとは。子供たちは天国で遊んでいるのだろう。それを父に話しかけたかったのだろう。矢島はそう信じた。
暗号が父親の元に戻ることを、悪魔の仕業ではなく、神の仕業で締めくくるとは...ちなみに、七北数人氏によると、この題名は「安吾」「暗号」「暗合」のトリプルミーニングになっているという。

14. 夜長姫と耳男
親方は飛騨随一の名人と言われた匠。夜長に招かれたのは、その親方が老病で死期の近づいた頃。まだ二十の若者だが、親方は身代わりに推薦した。確かに彼が彫れば寺や仏像に命が宿る。これが耳男。なるほど、大きな耳だ。そして、夜長姫のもとへ連れられる。姫は十三、その身体は生まれながらに光り輝き、黄金の香りがすると言われる。姫は大耳を見て、まるで馬顔だと笑った。耳男は耳のことを言われた時ほど逆上することはない。
長者は、姫が十六になるまでに、今生後生を守りたもう仏像を刻んでもらいたいと申し付ける。そして、姫の気に入った御仏を造った者には美しい娘を進ぜようと、機織りの奴隷娘エナコを紹介する。耳男が嘲けた眼でエナコを見ると、エナコは怒り、懐刀で耳男の耳を削ぎ落とした。
それから六日が過ぎた。耳男は籠って仕事をするために、一面雑草が生え繁り、蛇や蜘蛛がわんさといる場所に小屋を建てた。そこに使者が訪れ、斧だけを持って館へ来いという命令を伝えた。長者の館にはエナコが後ろ手に戒められていた。長者は言う。当家の女奴隷が耳男の片耳を削ぎ落したとなれば、飛騨の一同に申し訳がたたない。エナコを死罪に処すと。耳を削ぎ落とされた張本人に斧で首を打たせると。耳男は、虫ケラ同然の機織り女に、はなもひっかけやしねえや!と喚いた。すると、姫が笑顔で問いかける。エナコに耳を斬り落とされても、虫ケラに噛まれたようだって?ならばエナコよ!耳男のもう片方の耳も噛んでおやり!腹が立たないそうよ!姫は懐刀をエナコに差し出した。まさか命を助けたお返しに耳を斬り落とされるとは。可憐な姫は無邪気に悪戯を楽しむ。澄み切った目に、虫も殺さぬ笑顔。
ここから姫の微笑との戦いが始まる。蛇を天井から吊るし、その生き血を飲み、蛇の怨霊に乗り移りながらモノノケ像を彫る。天井いっぱいになった蛇の死骸にウジがたかり、悪臭がたちこめる。吊るした蛇がいっせいに襲いかかってくる幻を見ながらの仕事。こうでもしないと姫の透き通った笑顔と対抗できないのだ。
三年後、像を納めた後、小屋に姫が訪れる。三年のうちに姫は見違えるほどの大人の女になっていた。無数の蛇の死骸に目を輝かし耳男の造った弥勒に満足していた。着物を与え、褒美をやるからそれを着ておいで!と。姫が気に入った像を造った者にエナコを与える約束であったが、今ではそれができない。エナコは耳を斬り落とした懐刀で喉を斬って死んでいた。その血に染まった着物を男物に仕立て直した物が、今着ている物。耳男はこの姫にいずれ殺されると思った。ただ、今生の思い出に、この笑顔を刻み残してから殺されたいと願う。
その頃、山奥にまで疱瘡が流行り、死者が多く出た。家ごとに厄除けの護符を張り、白昼も戸を閉め、日夜神仏を祈る。一方、姫の館では雨戸を閉めさせない。耳男の造った化け物像が魔除けになるとして、門の外に飾った。姫は、蛇の生き血で呪いをかけたことまで知り抜いていた。毎日、死人がでる様子を姫は笑う。いまや耳男は、姫の笑顔を弥勒の像に写すことを生き甲斐にしている。はたして魔神を超越した笑顔など造れるのか?やがて耳男は悟る。すべての悪の根源は姫の微笑にあったことを。姫が生きていては、ちゃちな人間世界はもたないことを。ついにキリで姫の胸を刺した。だが、姫の笑顔が絶えることはない。そして、最期の台詞を吐いて微笑みながら死んでいく。
「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして...」