2010-12-29

"Beautiful Architecture" Diomidis Spinellis & Georgios Gousios 編

本書を購入したのは一年前であろうか。買ったはいいが積み上げたままの専門書が数十冊にのぼるのには頭が痛い。とりあえず、こいつは本年中に片づけておこう。
「ビューティフルアーキテクチャ」は、オライリー君の「ビューティフルコード」に続くシリーズ第2弾。アーキテクチャといえば個人的にはハードウェアの印象を与えるが、ここではソフトウェアアーキテクチャを題材にしている。

近年、マシン性能の向上やネットインフラが高度に整備される中で、ソフトウェアが巨大化し社会の仮想化を加速させる。そして、社会に利便性をもたらす影で、OS、Webアプリ、プログラミング言語など、あらゆるソフトウェアの脆弱性が問題視される。Web開発環境では、この言語を用いればセキュアなコードが書けるといった優位性を強調しあう。だが、どんな開発手段を用いたところで、安全性の高いソフトウェアを開発するのは難しい。そもそもハードウェアを動作させるためのプリミティブな言語が存在し、言語の脆弱性を言語でカバーするといったことを繰り返しても、いずれ自己矛盾に陥るであろう。となれば、開発プロセスへの取り組み方などの慣習が重要となる。それは開発者の哲学的思想に拠るところが大きく、その思想と深く結び付くのがソフトウェアアーキテクチャであろう。そして、プログラム思想からマネジメント思想に至る開発プロセス全般に関わることになる。
古くからソフトウェア工学では、信頼性、移植性、再利用性といった問題が議論されてきた。プログラムが巨大化すれば、多くの技術者が携わることになり、開発思想の一貫性を保つことも難しい。そこで、コードを超えたレベルでの抽象化や構造化の手法が求められる。システムが複雑化するからこそ、設計思想はできるだけシンプルでありたいものだ。

一つのソフトウェアとして完成させるためには、設計思想から逸脱したコードが一つでも紛れ込むと不具合の原因になりやすい。せっかく良い思想に統合されたシステムであっても、安易な機能追加や修正によって本来の思想を破壊してしまうことがある。応急措置やその場しのぎの対策は、後に技術的負債となって返ってくるものだ。しばしば目先の開発日程を優先するあまりに、ソフトウェア資産の流用を政治的に強要されることがある。それは「ブラックボックス」と名付けられ、あたりに異臭がたちこめる。上層部は、その資産が対象システムに調和するかなど構っちゃいない。彼らは黒箱に潜む黒幕と仲良くしたいらしい。
悪い設計には、その上に更に悪い設計が覆いかぶさるようにできている。腐りはじめたモジュールは次々と伝播し、開発プロセスやスケジュールに影響を及ぼし、ついには人間関係にも波及する。おまけに、メンバーのモラル低下や意欲低下を招き、技術魂をも失わせるであろう。どこぞの政治システムのように。したがって、マネージャには、簡潔な思想を損なうような安易な思考の流れに抵抗する資質が求められる。
「良いシステムアーキテクチャは、概念の統合を体現しています。つまり、複雑さを減じるのに役立つと同時に、詳細な設計やシステム検証の手引きとしても使い得るような、設計規則一式を備えるのが、良いシステムアーキテクチャです。」
アーキテクチャとプロジェクトチームには相関関係があり、相乗効果によって好転させるであろう。アーキテクチャは、設計仕様や図面といったもので表現できる単純なものではない。レビューや会議、検証工程や修正プロセス、あるいは意思決定プロセスに関わり、いわば組織文化の設計に関わると言っていい。ちなみに、プロジェクトマネジメントで最も重要なことはメンバーの哲学的認識の共有だと思っている。それは技術者魂に則ったもので、その認識が一致していれば問題が発生した場合でも少々無理がきく。
オープンソースのような形態では、開発者たちに自由という崇高な哲学思想が根付いている。自由とは、相手の思考を尊重することを意味し、けしてわがままを許さないだろう。好転したプロジェクトの影では、あらゆる意思決定の権限を持つマネージャが、慈悲深い独裁者として振る舞っているものだ。
本書には、オブジェクト指向提唱者のバートランド・メイヤーをはじめ19人もの開発者によってソフトウェア哲学への思いが込められる。彼らは、仮想化やスケーラビリティ、データ構造の美、エンドユーザによる拡張性、言語の原理と構造などから眺めたアーキテクチャを議論し、最後の章では古典の再読を勧めている。思想というものは歴史的に育まれるものであり、その根本思想を古典に求めるのは大切であろう。
そして、アインシュタインの言葉「すべてをできるかぎり簡潔に、ただし簡潔すぎないようにしなさい。」をアレンジして、「美しいアーキテクチャとは、最大限に簡潔であり、そして簡潔すぎないようなものだ。」と語る。

1. スケーラブルのためのアーキテクチャ設計
不特定多数に仮想世界を提供するようなサービスでは、スケーラビリティの問題が重要となる。実際に、突然数百万人がアクセスして破綻したサイトやサーバを見かける。マシン性能やネット環境が充実すれば、オンラインアプリケーションに求められる機能も複雑化する。オンラインゲームでは、急激に人気を博して負荷が増大する場合もあれば、急激に需要が減って撤退する場合もあり、システムの増設や削減に対して柔軟に対応しなければならない。そこで、分散かつ並列システムは必然となる。オンラインゲームは、マルチコアチップと分散システムの検証には、うってつけの分野かもしれない。
しかし、ゲームプログラマたちに、並列プログラミングや分散システムといった高度な専門知識を要求するのは難しいという。そこで、メイン機能は単一スレッドを実行する単一マシンを想定しておき、ジョブを複数マシンや複数スレッドに配置する機構は別に管理する例を紹介している。つまり、プログラマから並列性や分散性を隠蔽する仕掛けで、ロックのプロトコルや同期やセマフォなどを、ゲームプログラムのコードに一切含めないというわけだ。だが、並列性を完全に隠蔽することはできなかったという。プラグラマたちに、並列アクセスを念頭に置いた設計が必要であるという意識を持たせる努力もしたという。
定義するオブジェクトは自己完結し、依存性を極力避ける構成にするのは望ましい設計原理ではあるのだけど。その範疇に収まらないケースでは、システムの特性を意識させるような指針のようなものを提示する必要があるだろう。

2. リソース指向アーキテクチャ
企業システムの情報集中型アーキテクチャは、スケーラビリティ、フレキシビリティ、アーキテクチャのマイグレーション戦略、情報駆動のアクセス制御など、多くの特徴においてWebと類似しているという。
にもかかわらず、Web上のデータ管理と、企業内の情報管理の仕組みが原理的に異なるケースが多いのはどういうわけか?それは技術選択よりも企業ポリシーに縛られるからであろうか。従来のレガシーなシステムがボトルネックになることもあろう。インフラ技術の進化した組織でさえ、管理者と消費者の間で領分の争奪戦が起こるのが人間社会というものである。情報管理部門が自らの存在感を無理やり強調するために、奇妙な規定をシステムに盛り込むことすらある。こうなると、技術的な問題は政治的な問題にすり替えられる。
そこで、Web技術が政治的問題を迂回するという。Webの成功はまさしく情報の共有にあるから。リソース指向の形式では、リソースに対して論理リクエストを発行するというプロセスが特徴にある。リクエストはエンジンによって解釈され、対象リソースの物理表現、例えばhtmlやxmlの形式、あるいはJSONなどに変換される。そして、データ駆動型によって、ビジネスインテリジェンスや知識マネジメントなど新たな統合戦略が導入できるという。

3. Facebook プラットフォーム
「私にフローチャートだけを見せて、テーブルは見せないとしたら、私はずっと煙に巻かれたままになるだろう。逆に、テーブルが見せてもらえるなら、フローチャートはたいてい必要なくなる。それだけで、みんな明白にわかってしまうからだ。」
...フレデリック・ブルックス著「人月の神話」より。
高度な情報化社会では、ユーザに対するサービスの価値よりも、データそのものの価値が高まった。となれば、コンテンツの見せ方や可視化規則といったポリシーが重要となろう。高速にデータを取り出すための仕掛けでは、データ構造は重要な役割を占めるだろう。
Facebookは、データ周辺に構築されたアーキテクチャの良い例として紹介される。そして、プラットフォームとして構築される過程で、データ構造が成長する様子を物語る。
SNSの世界では、周辺アプリを一般ユーザによって整備されてきた例は多い。サービス開始当初は思いっきり使い勝手が悪かったりするが...
Facebookでは、外部システムと連携しながら統合的なシステムへと進化し、ユーザのソーシャルデータがアーキテクチャの中核になったという。プラットフォームは、Webサービス(Facebook API)から、クエリ言語(FQL)やデータ駆動型マークアップ言語(FBML)へと進化し、アプリケーション開発者がこれらを使って自分のシステムとFacebookを統合できるようになったという。
ただ、Facebookは個人情報の扱いでいろいろと物議をかもす。「Like」ボタンは大手新聞社などが取り入れたらしい。ユーザの趣味や好みを把握しながらターゲットマーケティングを強化するということは、個人情報の公開とも解釈できそうだし...

4. Xenと仮想化の美
Xenは、一つの物理マシン上で複数のOSを実行させるための仮想化プラットフォームである。これは、ケンブリッジ大学の研究から始まったが、GNU GPLライセンスでオープンソース化によって発展した例である。
オープン化によって純粋な議論の中で育まれた技術は、純粋な技術者魂を呼び覚ますような空気がある。ある種ボランティア的で、組織の垣根を越えた共通精神のようなものが育まれる。客観的な自由を求めるならば、組織の主観的呪縛から解放されたいと願うだろう。
また、仮想化の概念が、ソフトウェア技術に大幅な進化をもたらしたことは間違いない。CPUやデバイスなどの仮想化が限られたハードウェア資源の共有をもたらし、メモリの仮想化がソフトウェアの可能性を拡げてきた。MMUは、ページテーブルがメモリの拡張性やメモリ保護機能を与え、物理アドレスから仮想アドレスを扱えるようにした。
Xenは、IntelとAMDのCPU拡張をサポートする最初のハイパーバイザーになったという。
他にもBochsやQEMUやVMWareなどの仮想化があるが、マシン資源の限られた貧乏人にはありがたい機構だ。

5. Guardian: フォルトトレラントなOS環境
1970年代のお話。Guardianは、Tandem社のフォルトトレラント(無停止型)なコンピュータ「NonStopシリーズ」のためのOSで、単一障害点が生じないように設計されているという。つまり、システムの構成要素のどの一つが故障しても、全体としては故障しないように考慮されているというわけだ。そのターゲットは銀行システムやATMなど、自己診断と自己修復が必要な業界である。
最初の実装は、バックアップのために各コンポーネントが少なくとも二つずつ用意されたという。CPUにしても二つ以上実装される。ファイルの対構造や、メモリ上で動作するプロセスが対になって動作させることが、フォルトトレラントの基本的思想である。となれば、対になって動作させるための調停機構が必要となろう。その基本概念が、診断、修復、同期ということになろうか。
いずれにせよ、修復能力は確率論に持ち込まれるわけだが、自然界の実践的な解に二重構造があるのかもしれない。などと思うのも、遺伝子コピーの不完全性に対するバックアップ機能として、DNAの二重螺旋構造があるからである。ディスク上でファイルを管理するFATも、テーブルを二重に持って読み出しエラーを抑制する。RAIDなどのバックアップシステムにしても、その基本思想は二重化である。Tandemコンピュータは、その先駆けだったのかもしれない。
しかし、その革命的なシステムであるにもかかわらず、業界への影響は少なかったそうな。ディスクのミラーリング、ネットワークファイルシステム、クライアントサーバモデル、ホットプラグ可能なハードウェアなど、その根源をTandemに見出すことはできないという。歴史に登場するのが早すぎたということであろうか。

6. Jikes RVM: メタサーキュラーな仮想マシン
Jikes RVMは、Javaアプリケーションを実行するための仮想マシンで、Javaで書かれているという。最適化コンパイラ、スレッド機能、例外処理、ガベージコレクションなどもJavaで書かれているらしい。コンパイラを自己ホスティングするのは当たり前だが、実行環境の多くは実行する言語で書かれていない。例えば、CやC++で書かれた実行環境が、Javaアプリケーションを実行したりする。Java言語がいくらメモリ安全性を主張したところで、実行環境のシステムに問題があれば意味がない。したがって、実行環境においても自己ホスティングするのは重要な意味があるという。ちなみに、自己ホスティングな実行環境のことを「メタサーキュラー」という。
マネージド実行環境は、特定のOSやCPUアーキテクチャに依存しない抽象化された環境を提供する。そして、マネージド環境のための言語は、アプリケーション設計の間違いを犯しにくくする。ユーザは、開発モデルを単純化し、ただ言語の提供する機能に従えばいいのだから。ただ、開発ツール自体がアプリケーションであるから、最良のアプリケーションを作成するということは自己言及的でもある。今日では、スクリプト言語や数値演算言語など、状況に応じて最適な実行環境を選択できるようになった。多くのマネージド環境の恩恵を受け、ネイティブコードに触れることもなくなった。
そういえば、10年以上前に何かとネイティブコードと連呼するオヤジがいた。当時、雑誌ではコンパイラの性能比較やらでネイティブコードで盛り上がっていたような気がする。対象システムは、製造ラインで制御するマイコン群の動作状況をモニタするだけで、大したリアルタイム性もない。逆にネイティブコードの方が恐ろしいように感じたが、どうやって管理するんだろう?と不思議に思ったものだ。ちなみに、彼を「ネイティブおじさん」と呼んでいた。

7. GNU Emacs: 漸進的機能追加方式が持つ力
Emacsが、Lispによって拡張性が高いのは広く知られる。ただ、その使い勝手では意見が分かれるだろう。単なるエディタの域を超えて、多様なプラットフォームもどきにもなっている。telnetやsshの端末やメーラなど。なによりも、拡張性はユーザ任せという特徴がある。そのアーキテクチャは、対話的アプリケーションで普及するMVC(モデル, ビュー, コントローラ)パターンに従うという。モデルの中心はバッファ型で、ちょいと操作してみれば、画面の表示切替がバッファと連動して重要な役割を果たしていることが分かる。バッファがオブジェクトという意味合いを持っていて、表示される場面に応じて使えるコマンドも決まり、Lispで操作できる変数も決まる。バッファ毎にundoなどのロギング機能を持ち、マーカで操作位置を保持する。
再表示エンジンであるビューは、二つの特徴があるという。それは、表示の自動更新と、ユーザが入力待ちの時だけ表示を更新すること。表示を更新するべき時に、累積変更点を効率的な集合体として渡す。こうした機構が、Lispから画面を管理する負担を除き、連続コマンドによるマクロ機能やバッチ処理的な拡張性をより高めているという。また、コントローラは、ほぼ全面的にEmacs Lispのコードである。

8. オブジェクト指向 vs. 関数型
バートランド・メイヤーは、オブジェクト指向と関数型の比較から、その優位性を論じている。そして、サンプル数が少ないとしながらもオブジェクト指向に軍配を上げている。まぁ、Eiffel開発者としては当然かも。しかし、オブジェクト指向言語の中にも関数型の特徴が多く含まれるので、対立関係にあるというわけでもなかろう。拡張性や再利用性の観点から抽象レベルではオブジェクト指向が優勢であろうが、場面によっては関数型言語の方が軽い。関数型言語はLispで代表されるように歴史は古いが、今ではScheme, Haskell, OCaml, F# などの新言語により復活を見る。
関数型言語の魅力は表記が簡潔なところにあるが、その特徴をオブジェクト指向言語に取り入れているものも多い。いずれにせよ、万能な言語は存在しないだろう。オブジェクト指向で特徴づけられる継承の概念も、実践するとなると難しい。どのレベルで継承するか、その抽象レベルは慎重に検討しないと逆に混乱を招く。だいたい設計した後に継承構造の弱点が目立ち、いつも修正したいという衝動が付きまとう。したがって、忘れることが精神的に健全であり、続けるコツである。そして、次回も同じ失敗を繰り返す羽目になる。アル中ハイマー病とは、永遠に学習能力が身につかない病であった。

2010-12-26

"道具としてのベイズ統計" 涌井良幸 著

統計学と言えば、一般的には数学に分類されるのであろう。確率論とも深くかかわるし。ただ、数学の中でも少々異質に思えるので、いまいち好きになれない。応用数学を学べば、解析学と結び付いて正規分布や誤差評価などに触れなければならないが、少々拒否反応を起こす。その源泉を遡れば人口分布や死亡統計などがあり、むしろ社会学や経済学に近い印象がある。しかも、結果を正規分布やポアソン分布などに無理やり当て嵌めようとする。モデリングに失敗すればまったく役に立たないのに...ド素人感覚で言えば、関数の直交性や対称性から地道に解析すればいいと思うのだが、おそらく複雑系を扱うような分野では、なんらかの法則や型に嵌め込んで近似する方が現実的なのだろう。つまり、いかに分布モデルに当て嵌めるかといったことに囚われ過ぎるあたりに、肌が合わない理由がある。
そんな統計学嫌いでも、ベイズ統計にはなんとなく興味がある。数年前から日常でお世話になっているからだ。お気に入りのツールの一つに、スパムメールのフィルタリングで活用しているPOPFileがある。これが、ナイーブ・ベイズ法というアルゴリズムの凄さを実感させてくれる。まず驚いたのが、2、3日でほぼ収束したことだ。一週間もすれば、誤り率は0.01%にも満たないだろう。このサンプル数の少なさで、これほどの実力が示せるのは、それなりの学習機能が具わっているに違いないと想像していた。
ところが、本書を読むとそれほど難しいアルゴリズムでもなさそうだ。確かに、POPFile自体は軽いツールである。ナイーブというからには単純化されているのかもしれない。あるいは個人で扱うメールのキーワードなんて、それだけ偏っているということか?ちなみに、このツールに一発で惚れた最大の理由は、嫌な奴からのメールをいきなりスパムと認識したことである。

本書は、ベイズ統計の入門書である。その名は18世紀後半のスコットランドの牧師トーマス・ベイズに由来するらしい。統計学は客観的な分析を主眼に置く世界だと思っていたら、いきなりベイズ統計は主観確率を支柱に据えているという。当時、数学的思考に主観性を持ちこむというだけで見下されたであろう。現在でもその風潮がある。統計データにも個性はあろうが、人間を取り巻く世界はますます複雑化し個性を抽出するのも難しくなってきた。しかも、社会学や経済学の現象では主観的要素が強いので、そういう分野を扱う方向性としては自然なのかもしれない。
その思考では、母集団全体の情報を必要とせず、不完全情報下での確率を求めるという従来の統計学とは真逆の発想がある。ちなみに、ベイズ統計は推測統計学に分類されるという。機械学習やデータマイニングなどと組み合わせると、推論の分野で強力な道具になりそうだということは想像している。
解析学で微分方程式や確率論が役立つのに対して、統計学では積分が重要な役割を果たす。確率分布は確率密度関数で表現され、その関数は平均値や分散などの形で積分的に表現される。本書にもその傾向が随所に現れる。ただ、例題でExcelを用いているところに少々抵抗がある。Excelが悪いツールとは思わないが、厄数2007に憑かれてから嫌いになった。まぁ、数値演算言語に置き換えて読むことは簡単なので、それほど目くじらをたてることもないかぁ。
しかーし、アル中ハイマーの理解力では肝心な事がウヤムヤで終わってしまった。入門書とはそうしたものであろうか。書かれていること自体に難しいところはないのだけど...もう一冊探してみるかぁ。ちなみに、ベイズ統計学派を「ベイジアン」と呼ぶそうな。こういういかにも経済学風の発想が嫌いなのだが...

1. ベイズの基本定理
本書は、乗法定理をちょいと変形しただけでシンプルな定理を説明している。その基本の考えは「条件付き確率」にあるという。
「ベイズ統計の基本公式: 事後分布は尤度と事前分布の積に比例する。」
まず、分布モデルに当て嵌める方法を紹介している。そして、その重要な概念に「自然な共役分布」があるという。事前分布を尤度と掛け合わせると、同形の分布、例えばベータ分布、正規分布、ガンマ分布などに事後分布が変換される時、その事前分布を尤度の「自然な共役分布」と呼ぶそうな。
また、尤度は、二項分布や正規分布やポアソン分布といった形に従う場合を扱っている。それぞれの分布モデルの組み合わせは、用途に応じて使い分けるようだが、その判断基準にベイズファクター(ベイズ因子)というものがある。それは「モデルの説明力」というものを尤度の総和で測るという。「モデルの説明力」とは、分布情報における個性の強さといったものであろうか、事後確率の母数についての確率の総和で示される。ちなみに、ベイズ統計における尤度とは、最尤推定法の尤度関数に相当するものらしい。「条件付き確率」の重ね合わせによって尤度関数の精度を上げていくようなイメージであろうか???

2. MCMC法
ベイズ統計は、推定の難しい複雑なモデルに対して強力な道具になるという。その鍵となるのが「マルコフ連鎖モンテカルロ法」という技術だそうな。これは、複雑な事後分布をそのまま計算するらしい。「マルコフ連鎖」とは、ランダムウォークを一般化した確率過程だという。完全なランダムウォークを記述することは不可能であろうが、もし記述するとすれば、すべての母数を対象にすることぐらいしか思いつかない。
ところが、マルコフ連鎖は一歩手前までの記憶情報を元にするだけでいいという。互いに隣の母数とのかかわりを持つだけで、二つ以上の母数の過去や未来に囚われない効率の良い関数のサンプリングが実現できるのだそうな。ちなみに、「モンテカルロ法」は、カジノで有名な地に由来する。
計算例では、サンプリングした点によって表れる関数の積分を、点列の総和で近似している。ただ、結局サンプリング数を多く取ることで精度を上げているようだ。サンプリング数を多くとれば複雑な関数になるが、コンピュータの性能に依存するところが大ということか。
また、「メトロポリス法」というものがあるという。分布の大きさに比例してサンプリング密度を変えるようだ。
サンプリング間隔を見極めながら、より効率的な演算量を模索するといった感じであろうが...

3. 階層ベイズ法
個性の見つけにくいデータ群を扱うには、多くの母数を駆使した複雑な統計モデルが必要となろう。モデルが収束しなければ母数を多く必要とするというような発想は現実的ではないのだろう。伝統的な統計学では、できるだけ単純なモデルに当て嵌めることを考える。母数が少なければ計算量も少なくできる。例えば、正規分布を仮定して、平均値と分散だけで統計モデルを決定できればありがたい。
その逆に、十分多くの母数を用意する考え方が、「階層ベイズ法」だという。コンピュータの性能が高まったことで、なせる技というわけか。とはいっても、例題では、事前分布を二項分布や正規分布などのモデルを仮定し、すべての母数で共通の特徴を数値化したものと、各母数の特有性を数値化したものを組み合わている。なんらかのモデルを仮定して、共通と個性の二面から解析し、差分を分析するような感じである。集団としての傾向が弱いということは個性が強過ぎるわけで、単に母数を増やすだけでは発散してしまいそうだ。結局、なんらかの統計モデルを仮定するしかないのかもしれない。
一方でモデルを仮定しながら、一方で個性の母数を増やすといった手法を組み合わせながら解析するイメージであろうか???

2010-12-22

"天文対話(上/下)" ガリレオ・ガリレイ 著

「天文対話」は、正しくは「二大世界体系についての対話」と呼ばれるそうな。二大体系とはプトレマイオスの天動説とコペルニクスの地動説で、いわば宇宙建築術の論争である。プトレマイオス説には、アリストテレスの弟子たち、すなわち逍遙学徒の伝統的思考が後押しをした。一方、コペルニクス説を支持したガリレオは異端審問にかけられた。しかし、地動説は真新しい世界観ではなかった。プラトンは、既に太陽を究極のイデアである善の象徴とし太陽中心説を唱えていた。太陽中心説を地動説とまったく同等に扱うことはできないが、反スコラ学思想として受け継がれるところがある。したがって、宇宙論の歴史を遡れば、アリストテレス対プラトンの代理戦争とすることができよう。
しかし考えてみれば、この世のあらゆる論争は、アリストテレスとプラトンの哲学的論争に帰着するような気がする。単純に抽象化すれば、主観対客観の構図に置き換えることもできよう。もっと言うならば、アリストテレスにしてもプラトンにしても記録として残されてきただけのことであって、ずーっと昔の記録媒体のない時代から続いている論争で、彼らもまた誰かの代理戦争をしていただけのことかもしれん。精神というやつは、数千年前から、数億年前から、ほどんど進化していないのかもしれん。
アリストテレスは、プラトンがあまりに幾何学を研究し過ぎると批判した。数学をやり過ぎると哲学できなくなると。だからこそ、プラトンの方が好きなんだけど...
とはいえ、スコラ学派を批判する気になれても、アリストテレスを批判する気にはなれない。弟子たちが師匠の名声をあまりに持ち上げようとして、かえって貶めることがある。その偉大さゆえに反論することにも臆病となる。だが、哲学者を崇めて反論しないのは哲学を蔑むことになる。ましてや、論理学の創始者とされるアリストテレスが、新事実に寛容さを見せないとは考えにくい。
ニーチェ曰く、「あのヘブライ人は、あまりに早く死んだ。彼がもっと長生きしていれば、おそらく彼自身の教えを撤回したであろう。撤回できるほど十分高貴な人物であった。」
偉大な思想は、その後の影響の仕方によって、言いがかりのような批判に曝されることがある。本書は、アリストテレス学説を鵜呑みにしてきた伝統的学派への批判と同時に、アリストテレスの偉大さを物語る。

ガリレオ・ガリレイとは、なんとも舌を噛みそうなネーミングであるが、長男の名に姓を重ねるというのがトスカーナ地方の古くからある風習だそうな。
ところで、ローマ教会の足元であるイタリア人が天動説に異論を唱えたのは運命のいたずらであろうか。ローマ教皇は、教義に反するとしてピタゴラス学派に沈黙を命じたり、1616年の異端審問で地動説を唱える者を譴責すると布告した。ガリレオは「真正の真理の証人」として黙ってはいられないと告白する。当時の科学論争は、イデオロギー色が濃く、科学をするにも命がけである。
本書は、地動説を完全に説明したわけではなく、どちらが収まりが良いかを示したに過ぎない。つまり、どちらが合理的に説明できるかという対話である。ここではスコラ学派の主張に疑問を抱かせるだけで十分であろう。だが、「天文対話」は発売禁止になり禁書目録に入れられたという。

さて、この対話をどこまで中立の立場で読むことができるだろうか?それを今宵のテーマとしたい。もし、今までの知識が何らかの方法で否定されたならば、今の自分の思考はどこへ向かうだろうか?知識とは実に脆いものである。そのほとんどが自分自身では実証できないのだから...ただ、哲学的で論理的な議論は、互いの意見に耳を傾けさせる効果があるように思う。論理的に組み立てられた意見は納得しやすい。そこに論理的な隙があれば、修正すればいいだけのこと。
本書にも論理的な隙があり、あのガリレオにして誤謬を犯すことになる。知識は歴史的に育まれてきた。前提説が否定されたからといって、最初に唱えた者を蔑む気にはなれない。だが、それを盲目的に崇めてきた有識者と呼ばれる人たちは蔑むに値するかもしれない。本書の主旨はこれではなかろうか。そして、中立の立場になることの難しさを思い知らされる。いや、精神が介入すれば、それは不可能なのかもしれない。偉大な人物ほど世間に振り回されずに、人生を有意義に過ごすことができるのだろう。羨ましい限りだ!

1. 三人の登場人物
プトレマイオス派のギリシャ哲学者シムプリキオスの名前は、イタリア風では「シムプリチオ」となる。彼は逍遙学徒で、スコラ学派や教会関係者の代表者を演じる。ちなみに、逍遙学徒とは、プラトンの学園アカデメイアに対抗してアリストテレスが創設した学園リュケイオンの学徒で、「逍遙しながら(散歩しながら)」議論するところからきている。
コペルニクス派の「サルヴィアチ」は、フィレンツェの紳士、パドヴァ大学でガリレオに学んだ人物で、ここではガリレオの代弁役を演じる。
中間派の「サグレド」は、ヴェネツィアの紳士、パドヴァ大学で学ぶガリレオの弟子。

2. 四日間に渡る論争
一日目は、世界の三次元性とそこから導かれる完全性について熱く語る。天空と地上の現象で統一的性質を示しながら、ガリレオ哲学が披露される。
二日目は、地上の現象について議論する。物体の運動における直線運動の一時性と円運動の永続性を示しながら、地上が永続的に存在しうるのは円運動のほかにはないとしている。この時代に「コリオリの力」という言葉が登場するはずもないが、自転の実証として弾道実験で見事に示される。ただ、地球が自転しているとしても、地球中心説からは脱皮できない。
三日目は、天空の現象について議論する。この時代には、太陽の黒点の形状の変化、月面の凸凹、内惑星と外惑星の軌道の相違、恒星の誕生や消滅などが観測される。太陽や月に不純物が存在することや、天体運動の秩序の乱れは、天空の完全性を唱える人々にとっては厄介である。それは、プラトンが太陽を理想イデアと崇めたことも否定されるのだが。天体観測の信頼はひとえに精度にかかっているので、果てしないスケールに対して感覚的に信じられないのも仕方がなかろう。天文器具の用い方ひとつで、容易に誤謬の入る余地を与えるのだから。ちなみに、プトレマイオスは、アルキメデスのつくった天文器具を信頼していなかったという。
さて、ここまでは天動説を否定するに至ってはおらず、地動説の可能性を示したに過ぎない。
注目すべきは、四日目である。潮汐現象が地動説の決定的証拠として結論付けているのだから。すなわち、地球の日周運動と年周運動の合成力によって、月周期で潮の満干現象が生じるとしている。万有引力の概念がまだ登場していない時代とはいえ、伝統的に重力なるものの存在は自明とされてきた。だからといって、地球と月、あるいはその他の天体との引力関係を考慮しなかったことが責められるものではない。ガリレオにして、頭のどこかで重力が地球固有のものであると仮定していたのかもしれない。それにしても、日周運動と年周運動の中間をとって月周期の現象を説明するとは、あまりにも安直である。現代科学の知識があるからそう思うだけのことかもしれないが。
あの天才にして誤謬を犯したというわけかぁ...そりゃ現代の有識者どもが平気で誤謬を犯し、しかもそれに気づかないのも仕方があるまい。

3. アリストテレスの世界観も捨てたもんじゃない!
万物は宇宙法則に従い、宇宙は単純で美しい構造をしているという根本的な思考は、プラトンもアリストテレスも同じで、現代科学にも伝統的に受け継がれる。
ただ、アリストテレスの天空と地上の関係は、不死なるものと死すべきものを完全に隔離し、純粋物と不純物を分離する。天空を完全なる存在とした時、地上のあらゆる不完全で可変的な現象は、地球を特異な存在としなければ説明できない。天は、まさしく神の住みかに相応しいというわけだ。死によって天に帰するとか、精神の安住の場が天にあるといった迷信的発想も、アリストテレス的思考に似ている。人間の直観は、生命の有限性に対して、天の無限性なるものに憧れを抱くものだ。宗教は、こういう心の隙間に巧みに入り込む術をよく心得ている。
また、アリストテレスは、世界の完全性を三次元においてのみ可能とし、宇宙空間を三次元空間であることを唱えたという。三つの次元を有したもののみが別の次元に移動することができ、それはピタゴラス学派の三つの数によって規定されるという。つまり、立体だけが、あらゆる方向に連続性があり、あらゆる方向に分割できるとしている。そして、物体の運動を、直線運動と円運動、その二つの混合運動で規定する。この考えは、人間の住む空間と非常に調和し、すべての運動は合成体として説明できる。故に、三次元空間は完璧というわけだ。
更に、直線運動をより不完全性、円運動をより完全性としている。天が不滅であるには、天界は円運動を必要とし、地上だけが静止したままでいずれ消滅するというわけだ。
だが、本書は、合成運動を定義するにしても速度の変化や力関係にふれていないと指摘している。速度の変化がなければ、地上は穏やかでいられる。つまり、ガリレオは慣性の法則を匂わせている。
無理やりアリストテレスの世界観を正当化するならば、太陽ですら、宇宙の天体ですら、天には到達していないということは言えるかもしれない。神は宇宙よりも天上にお住みになっているなどと言えば、宗教家も喜ぶだろう。なるほど、宗教の仮想化は、人間社会の仮想化よりも、はるかに先を行っているわけか...

4. 大地が静止しているというアリストテレスの根拠
アリストテレスは、地上の実体を地上の四元素の地、水、空気、火でできているとし、天界の実体を第五元素のエーテルでできているとした。そして、エーテルで充満しているからこそ、全天空が連動して運動することができると説明する。
地上のものはすべて大地の中心に向かって垂直に運動する。すべての恒星も、同じ場所から昇り、同じ場所に沈む。つまり、すべての運動は、大地の中心に向かう重力の影響を受けているように見える。潮汐現象や空気の移動を説明するにしても、地上には陸地もあれば海面もあり、陸地だけでも起伏があるからして、その凸凹から重力の不均衡が生じると説明しても、十分に信じられる範疇にあろう。また、大地が回転していれば、物体の落下運動は垂直ではなく回転方向の影響を受けると考え、大地が西から東に回転するならば、激しい東風にさらされるはずだと考えるのも不思議ではない。
なのに、大地の大気が穏やかなのはなぜか?その反駁では、運動が加速も減速もしなければ、表面上は穏やかであるとしている。これは、まさしく慣性の法則である。しかし、重い物体で形成される地球の表面自体は、中心から遠ざかりもしなければ近づきもしない特別な球面としている。地上の特異性という観点は、ガリレオにしてアリストテレスの世界観からは脱皮できていないようだ。それでも、現在の政治屋やエコノミストたちの論理よりは、はるかに説得力を感じるのだけど...

2010-12-19

"星界の報告 他一編" ガリレオ・ガリレイ 著

エラトステネスは、太陽からの光は地球のどの地点でも平行になると仮定し、異なる地点で棒の影の長さを測定して、ほぼ正確に地球の全周を割り出した。ミクロネシアの人々は、アメリカ大陸が発見される遥か昔から、日の出の方角と星座の位置という単純な天文知識を利用してハワイ諸島からニュージーランドに至る太平洋諸島の各地に移住した。しかもカヌーで。そして今、位置を特定する最新技術は古代の天文知識を基礎にしている。今後も古代の天文知識は科学技術を進化させるであろう。天文学には、なんとなく人類の知能の根源的なものを感じる。
ガリレオは、自らの手で完成させた望遠鏡で30倍に拡大された星界と初対面をはたす。「星界の報告」は、月面を観測し、銀河や星雲の正体を暴き、そして木星の4つの衛星を発見した観測記録である。尚、本書にはマルクス・ヴェルザー氏へ宛てた「太陽黒点にかんする第二書簡」が併収される。

ガリレオの望遠鏡による天文学的発見は、近代科学の序幕を飾るにふさわしい出来事と言っていいだろう。その精緻な観察力や想像力には感動させられる。まさしく「百聞は一見に如かず」を実践したわけだ。
ガリレオは、自ら綴るように望遠鏡の最初の発明者ではなかった。だが、屈折理論に基づいた工夫を熱く語り、自らの独創性を強調する。そして、観測対象が地上ではなく天空に向けられた時、それが科学の道具となった。「観測する」とは、「人間が知覚する」という哲学的意義を証明してみせたと言ってもいい。今日この型の望遠鏡がガリレオ式と呼ばれるのもうなずけるわけだ。
しかし、ガリレオは、古い世界像に新たな視点を与えたがために、後に宗教裁判へと導かれることになる。「星界の報告」は、世界を揺るがせた最初の報告であった。そして、「太陽黒点にかんする第二書簡」で伝統的論者を論駁する。
ガリレオは、まもなく土星はピッタリとくっついた三つの星であると主張した。当時の望遠鏡の性能では、土星の環は両側に小さな星がくっついているようにしか見えなかったようだ。
やがて禍をもたらすのは、イエズス会のローマ学院の数学者たちで、ガリレオの評判が高まるにつれ中傷と非難の攻撃を浴びせかける。だが、ガリレオにも少なからず味方がいた。ケプラーは「星界の報告論」を書いてその功績を讃えた。「星界の報告」は、第4代トスカーナ大公メディチ家のコジモ2世にささげられたことが序文に記される。

天動説が優勢であった時代、キリスト教的宇宙像やアリストテレス的世界観では、天空の物質は完全でなければならなかった。アリストテレスは、世界を月下界と月上界の二つの領域に分けた。月下界では、地、水、空気、火の四つの元素からなる不完全な地上の領域で、あらゆるものが生成しては消滅するとした。月上界では、完全な天空の領域で、第五の元素エーテルからできいて永遠に不変とした。地動説を受け入れれば、二つの世界は同質となり、天空の完全なる領域、すなわち神の領域を否定することになる。
しかし、ガリレオは、月の観測では地球と同じように地表に起伏がある不完全な球体であることを証明した。おまけに、明るい空でも月が薄らと白く光る現象を二次光で説明した。つまり、月には固有の光は存在せず、地球が太陽光を反射して月に浴びせた結果の反射光だとした。アリストテレス的世界観では、地球を中心に、地球だけが光を発しない受動的な天体に添える。だが、月もまた地球と同じように、太陽光に照らされるだけの存在でしかないことを示したわけだ。
更に、木星の衛星の発見は、地球と同じ衛星を持つ球体が、他にも存在することを意味する。太陽にいたっては、黒点などという不純物の存在は絶対に認められない。ガリレオは、こうした宇宙観を宗教的にも哲学的にも論駁したわけだ。
ここで注意したいのは、本書は地動説を唱えているわけではないということだ。それを匂わせるには十分な証拠であるが、宇宙の中の地球は特別な存在ではないことを示したに過ぎない。既にコペルニクスが地動説を唱えていたが、ガリレオは観測的事実によって地動説的思考を推し進めたことになる。
では現在、神の住む領域はどこへ行ったのか?異次元空間か?天文学とは、神の住みかを永遠に探し求める学問というわけか。

「星界の報告」
1. 望遠鏡の製作
「およそ10カ月ほど前、あるオランダ人が一種の眼鏡を製作した、という噂を耳にした。それを使えば、対象が観測者の眼からずっと離れているのに近くにあるようにはっきりみえる、ということだった。...そこで、ついに自分でも思いたって、同種の器械を発明できるように、原理をみつけだし手段を工夫することに没頭した。それからほどなく、屈折理論にもとづいてそれを発見したのである。」
あるオランダ人とは、ミッデルブルグの眼鏡屋ヤンセンとリッペルスハイという人だそうな。
本書は、望遠鏡の製作方法にも言及している。
...
まず、鉛の筒を用意し、その両端に2枚のレンズを取り付ける。レンズの片面は2枚とも平らで、他の面は1枚は凸、もう1枚は凹とする。そして、凹面に眼を近づけると、対象は9倍の大きさで3倍の近い距離に見える。更に改良を続け、1000倍の大きさで30倍以上も近い距離に見えるようになった。器械の倍率を簡単に決定するために、筒の長さと円の大きさを決め、誤差の少ない望遠鏡を製作した。
...
さっそく月を眺めると、地球半径のほとんど2倍しか離れていないように見えたと、その喜びを回想する。
ところが、おもしろいことにあらゆる星が、月と同じように拡大率が得られるわけではない。恒星では、はるかに拡大率が小さく4、5倍にしか拡大されない。それはなぜか?天体をなんの助けもかりずに自然の視力だけで見た場合、それは単純なむきだしの大きさにおいてではないという。夜がふけるといっそう輝いて見えるのは、視角は星の本体によるのではなく、それを取り囲む光彩の大きさによって決まることを示している。日没後まもない時に現れる星は、一等星であっても小さく見えたり、金星も最下等級の小さい星に見える。だが、月は真昼でも夜空でも同じ大きさに見える。それは、天体が放つ光が、真昼の光ですら凌駕するほど強く、それをもみ消すことができないからだという。
こうした現象は望遠鏡でも同じだという。天体が放つ光が、周辺の光彩を凌駕することができなければ、あらゆる光彩を取り去った上で拡大することになる。実際に、5、6等級の小星は望遠鏡で見ても1等級ぐらいにしか見えない。つまり、拡大率は、周辺の光彩と、天体自身が放つ光線との相対的な割合で決まることになる。これは、肉眼で見た時の集光力を暗示しているのかもしれない。

2. 月の観測
本書は、月面の暗い影のラインが微妙に凸凹に見えることから、月にも地球と同じように山脈や谷があることを示す。そして、太陽光の方向と影の長さから山の高さを算出する。ちなみに、今日の月面地図の作成に使われる方法は、原理的にはガリレオの観察と同じである。
また、明るい空でも薄らと見える月は、地球が太陽から受ける反射光によって写しだされることを説明している。光を放つのは恒星だけの特権ではなく、惑星ですら反射光を発するというわけだ。
更に、もう一つ興味深い発見がある。月のほぼ中央付近にある最も大きなくぼみは、ほぼ完全な球形を残している。ちなみに、クレータという言葉は登場しない。地球ですらほとんど原形をとどめているクレータを発見することは難しいのに、天体望遠鏡のレベルで月のクレータがはっきりと観測できる。これはいったい何を意味するのか?気候が安定しているということか?海のようなものは存在しないということか?生命体がいないということか?ここでは明確な結論が導き出されるわけではないが、少なくとも山脈や谷を削るような自然現象は存在しないように思えたであろう。

3. メディチ惑星の観測
ガリレオが木星の4つの衛星にメディチ惑星と名付けたところからも、メディチ家に対する敬意がうかがえる。伝統的に星や星座には、古代から伝えられる英雄たちの名が刻まれてきた。木星はローマ神話の主神ユピテル(Jupiter)で、ギリシャ神話ではゼウス。火星はローマ神話の神マルス(Mars)で、ギリシア神話では軍神アレス。水星はローマ神話の商業神メルクリウス(Mercury)。ヘルクレス座はギリシア神話の勇者ヘラクレスといった具合に...
ちなみに、あの敬虔なアウグストゥスも、ユリウス・カエサルを星座の英雄たちに加えようとして失敗に終わったという。当時出現した星にユリウス星と名付けようとしたが、ギリシャ人がそれを彗星と呼んで、まもなく消滅したそうな。そして、4つの惑星は、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストと呼ばる。それぞれ、ギリシア神話に登場する人物イーオー、ゼウスが恋に落ちたテュロスの王女エウローペー、オリュンポス十二神の給仕として近侍する美少年ガニュメデス、ニュンペー(女精)のカリストーに由来し、いずれもゼウスを取り囲む者たちである。ただ、メディチ惑星という名が普及しなかったのは、政治色を弱めたという意味で歓迎したい。
本書では、木星の衛星を発見するまでの物語が緻密に綴られる。木星の東に現れたり西に現れたり、あるいは木星の影に隠れたりする星があることが時刻とともに詳細に記される。東に二つ見えたり一つ見えたり、全部西に見えたり、あるいは等級が変わったり、星の配列が変わったり、黄道の方向に同一直線上に配列されたりと...
また、4つの星が、木星の順行運動や逆行運動に関係なく、すなわち地球から見える外惑星の動きにかかわらず、木星を中心に運動する。そして、これらの星が木星とともに12年の周期で太陽の周りを回転することから、木星の周りを回っていると結論付ける。この結果は、なにも惑星がすべて太陽の周りを回るというコペルニクス体系の崩壊とは言えないだろう。木星とともに太陽を回っているのだから。だが、当時は、月の動きですらコペルニクス体系に反すると攻撃されたそうな。

「太陽黒点にかんする第二書簡」
1. 慣性の法則のような...
本書には、後にデカルトによって体系化された慣性の法則のようなものが述べられる。
「わたしの観測するところでは、自然的物体は、重い物体が下方へ向うように、ある運動への自然的傾向をもっています。こうした運動は、なにか隠れた障害にさまたげられないかぎり、特殊な外的起動者を必要とせず、内在的原理にもとづき、自然的傾向によってなされます。自然的物体は、重い物体が上方への運動にたいしてもっているように、ほかのある運動にたいして反感をもっています。ですから、外的起動者から暴力的に一撃されないかぎり、そういうふうには決して運動しません。
また、自然的物体は、重い物体が水平運動にたいして示すように、ある種の運動にたいしては無関心を示します。地球の中心へ向わず、地球の中心から遠ざかりもしないから、重い物体には水平運動への傾向も反感もないのです。それゆえに、一切の外的障害をとりされば、地球にたいして同心的な球面上にある重い物体は、静止、および水平部分への運動にたいしては無関心なはずです。...」

2. 太陽の黒点観測
当時の宇宙像では、黒点は太陽の周りを回転する小さな星と考えられていた。神聖なる太陽の表面に不純物があっては都合が悪い。
しかし、ガリレオは、幾何学的な考察から黒点が太陽の表面に附着していると結論づけた。もし、離れているとしても、まったく感知できないほどわずかな間隔に過ぎないと。黒点の厚さもわずかだと。ガリレオは、太陽もまた地球と同じぐらい可変的な物体であることを主張したわけだ。
...
黒点の大部分は不規則な形をして連続的に変化する。すぐに変化するものもあれば、ゆっくりとほとんど変わらないものもある。暗さにも増減があり、時には濃密で、時には拡散し希薄になる。一つの黒点が三つや四つに分離し、また多くの黒点が一つに結合することもしばしば。その数たるや20個から30個にも達する。これらの現象は、太陽面の周辺よりも中心附近でよく起こる。
...
無秩序な個別運動のほかに、全体に共通する普遍的運動があるという。一様な運動によって、相互に平行線を描きながら、太陽の本体を通過していくという。
これらの現象から、...太陽の本体は球体である。太陽は自らその中心の周りを回転する。そのために黒点は平行な円にそって動く。...といったことが分かる。
太陽は、惑星の球体と同じように、西から東へ回転しながら、およそ一太陰月で一回自転する。黒点は多様な形をするが、細長い帯状の領域に出現する。それは赤緯の限界を示す円に対応する二つの円の間にあるという。その境界内を超えるところには一つも黒点を見つけることができない。その限界は、緯度にして南北に28度から29度だという。この帯状の領域とは、太陽の赤道近辺を流れるプラズマの動き、つまりは帯状流のことを暗示しているのかもしれない。少なくとも、黒点が太陽の自転に大きなかかわりがあることは明らかである。

3. けして肉眼では見ないでください!
太陽を直接見ずに観測する方法は、ガリレオの弟子でブレシアの貴族カステリ家のD.ベネデットという人が発明したという。望遠鏡の凹レンズの側に、4、5寸離して平らな白紙を置けば、太陽面が投影されるという極めて簡単な仕掛けである。紙を遠ざければ映像は大きくなり、極めて小さいものまで観測できる。明瞭な輪郭の黒点をみるには室内を暗くして、筒をと通ってくる光に外部の光が混ざらないように注意する。
本書は、太陽を直接見ると眼を傷つけると忠告しながら、黒点は肉眼でも見えるとも言っている。その大きさゆえに、水星が介在しているという誤った思考が生じるわけか。しかし、水星が太陽と6時間も重なって見えるはずがないと指摘している。6時間も見つめれば失明するかも...

2010-12-12

"新科学対話(上/下)" ガリレオ・ガリレイ 著

前記事でニュートンを扱っているうちに、なんとなくガリレオに立ち返りたくなった。それにしても「新科学対話」が絶版中なのは惜しい!「天文対話」の方は復刊したようなので注文中。ということで図書館を漁った。本書は岩波文庫から1937年に刊行されたものである。

ガリレイが、ニュートンに先だって近代力学を切り開いたのは誰もが認めるところであろう。彼は、天文学の先駆者としても知られ、望遠鏡で木星の4つの衛星を発見し、銀河の正体を暴き、あるいは、太陽の黒点、月の表面、金星の三日月、彗星などの観測で功績を上げた。土星については、三つの星で構成される三重性を説いた。しかし、当時の望遠鏡の性能では、土星の環は両側に小さな星がくっついているようにしか見えなかったそうな。
ガリレオは偉大な科学者で有名だが、同時に優れた教師でもあったという。教説的なものを嫌い、学者振らない性格が手伝って、このような親しみやすい対話形式を生んだのであろうか?あるいは、異端的な意見に対する厳しい社会風潮への皮肉的企画であろうか?後に宗教裁判に嵌められる予感でもあったのだろうか?などと思うのは、当時勢いのあったアリストテレス学派の批判書になっているからである。逆に言えば、アリストテレス哲学に精通した理解者でもあるのだが...

本書は、「自然界において、運動より古い根源的なものはない」と主張する。そして、自由落下運動が、連続的に加速されるといった表面的なことは観察されていても、その加速度がいかなる大きさのものかについては誰も言及していないと指摘している。ここには、古くから哲学者たちが運動の原理を実験で確かめることを怠ってきたことへの批判が込められる。
科学者たちは、根本原理を明らかにする最も重要な実験を「アルファ実験」と呼ぶ。ガリレオの試みは、まさしく「アルファ実験」と呼ぶに相応しい。本書は、現象に対する仮説を立てながら、数学的演繹法によって理論を構築し、実験的帰納法によって実証して見せる。その流れは芸術の域に達していると言っていい。これぞ物理学の原点というものではなかろうか。

登場人物は、ベネチア市民サグレド、新興科学者サルヴィヤチ、アリストテレス学派の学者シムプリチオの三人。対話は四日に渡って行われる。前半の二日では、構造力学や材料工学の面から問題が提示され、アリストテレスの機械学に対する疑問が議論される。後半の二日では、物体の運動の幾何学的原理に踏み込み、等速直線運動、等加速度運動、放物線運動について考察される。

1. 機械学
最初の題材として、材料の強度や密度といった構造的原理を扱っている点に注目したい。客観的な世界観では幾何学が最高位にあった時代、物体の運動はほとんど表面的な軌道が考察されてきたが、ここでは物体そのものへの構造的観点を与えている。まず材質の抵抗力について語られるのは、後述される自由落下運動で空間における媒体、つまりは空気や水といった物体に対する比重を持ち出すための布石であろうか。構造力学や材料工学という分野がまだ登場していない時代では、科学者の数学的客観性よりも職人たちの経験的直観の方が優っていたのであろう。科学的知識は理論に実践が結びつかなければものの役には立たない。それは、思想観念と似たような事情にあって、あまりに理想に偏り過ぎると、とんでもない事態を引き起こすであろう。
現実に、小さな船がうまく製造できたからといって、大きな船を製造するとなると単純にはいかない。生物の構造にも似たような事情がある。昆虫が体の何十倍もの高さから落ちても平気なのに(多分?)、人間は体の数倍の高さから落ちると骨折したりする。幾何学的には大小で相似形なのに、同じように設計してもうまくいかないのは、材料の選別や具体的な補強が必要となるからである。逆に、大きいほど製造誤差を相対的に小さくできるというメリットがあり、時計などの精密機械は小さく製造することの方が難しい。当時は、不完全な材料を微妙に感じ取る職人の方が、理論家よりも合理的だったのだろう。
また、同じように機械を設計して製造しても微妙に違いが生じる。同じ造船所で作られた同型船といえども完全に同じものはなく、同型の潜水艦でも音紋の違いが生じる。必ず機械には癖があって壊れ方に傾向があっても微妙に違う。その原因は、加工誤差の蓄積から生じると簡単に片づけられるのか?それとも物体の本質的な何かがあるのか?全く同じ物体なんてものは数学上の抽象概念であって、厳密には存在しないのかもしれない。

2. 自由落下運動と真空
アリストテレスは、落下速度は物体の質量に比例すると考えた。金の球は銀の球よりも二倍速く落下するということである。その根底には、真空の存在を否定する思想がある。アリストテレス学説では、あらゆる物体の運動はなんらかの媒体が相互に干渉して連動すると考える。だから、真空状態では互いに干渉する要素がないことになり、エーテル説を登場させることになる。
本書は、物体の運動を落下するものだけで論じるから、こうした誤謬を犯すと指摘している。空間になんらかの媒体が存在すると比重が問題になる。現実に、空気中で落下しても、水中では浮かび上がるものがある。重力に対して空気抵抗が問題となり、純粋な落下運動を観測することはできない。アリストテレスの時代、水に重さがあると分かっていても、よもや空気に重さがあるなどとは考えもしなかっただろう。
本書は、重さの異なる物体が真空中では同じ速度で落下することを説明する。その実験ではピサの斜塔伝説が有名であるが、それはヴィヴィアーニによる宣伝であって、実際には行われなかったというのが通説となっている。本書には大砲と銃の弾を使った実験が語られる。最も空気抵抗を受けにくいものとして火器を用いるのが適切だと語られるが、時代からしてマスケット銃が手っ取り早かったということであろう。そして、重力の概念を加速度という概念に発展させる。
そういえば、むかーし理科の先生が、真空ポンプで情熱的にデモンストレーションをやっていたのを思い出す。先生には悪いが、おいらは懐疑的に眺めていた。ガリレオが正しいと分かっていても、酔っ払いの感覚はアリストテレスの世界で生活している。したがって、アルコール濃度の高い方が沈むのも速い。

3. 運動の法則と斜面実験
基本運動として等速直線運動、等加速度運動、放物線運動について言及している。等速運動は、運動の始まりを無視すれば永続的でなんの変哲もない。だが、等加速度運動となるとなんらかの外的な要因が必要となる。まさしく自由落下運動は重力の存在があって初めて説明がつく。等加速度運動は、速度のモーメントが時間に比例して増加するという単純な法則に従う。放物線運動は、等速運動と等加速度運動の合成と考えることができる。
水平方向の等速運動と垂直方向の加速度運動が合成されると、大砲の弾道のような放物線を描くわけだが、重力の正体が分からないとしても、重力によって及ぼされる運動の変化をドラマティックに綴っている。特に、あの有名な斜面実験で自然加速度運動の性質を述べるあたりは圧巻だ!実際に物体の落下運動を観察するには人間の目では速すぎる。水中を使えば現象を複雑化してしまう。そこで、斜面で自由落下を近似するというわけだ。
今日、物体の運動を時間の関数で扱うのは当り前であるが、改めて時間の観点が加わる様子に感動してしまう。斜面を三角形で図示すれば視覚的に分かりやすく、移動距離と辺や角度の関係から数学的に証明される。放物線の軌道を考察する時は、放物線求積法なるものを仮定して幾何学的に図示される。なるほど、ピタゴラス風の定理が満載され、運動法則の源泉はまさしく幾何学にあることを味あわせてくれる。

2010-12-05

"光学" アイザック・ニュートン 著

「光学」は、「プリンキピア」と並び評される。ニュートンは、光の分野でも前人未踏の功績を上げたことで知られる。ただ、「プリンキピア」がユークリッド風の公理や定理で展開されるのに対して、「光学」では公理化しようとする意図が感じられない。数学的に説明するのではなく、ひたすら観測に頼り、理論家というよりは実験家や職人という印象を与える。ニュートンの色彩科学とでも言おうか、プリズムを用いながら、天然色、透明薄膜の色、虹、あるいは気象現象から生じる色といったものを扱い、なんとなく小学生の頃に夢中になった「学習と科学」を思い出させる。理論だけでなく実験する遊び心にこそ、科学精神の源泉があるというわけか。
ところで、科学が知覚できる瞬間とは、どんな時だろうか?量子論を唱えたところで、素粒子が直接見られるわけではない。実験室はそうしたものを少しだけ体験の場として見せてくれる。実験のプロセスにこそ想像力や独創力を顕わにし、伝記と呼べるほどの物語が生まれる。真の物理法則を体験するには極限の観測環境を構築しなければならない。それには熟練した技が要求される。科学者の人間性にも左右され、資源、予算、人員といった制約の中で発揮される。
ゲーテ曰く、「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる」
科学者たちの情熱と執念が成功へと導かれた時、そこに一種の芸術を見せてくれる。

「光学」は、それまで信じられてきたアリストテレスの光の世界を急激に発展させた。無色透明の太陽光、すなわち白色光はデカルトをはじめ純粋な光だと考えられていたが、ニュートンは分光によって様々な波長が混じり合う複合光であるとことを解明した。彼が唱えた説は、伝統的な光の変改説に真っ向から対立するもので、その抵抗も大きかったようだ。その緻密な記述からは実験に対する細かな配慮が表れ、屈折の法則や色の合成についての公理や定理は、ほとんど実験によって証明される。ただし、中には要検討のものが含まれる。当初、曖昧な記述は避けたかったらしいが、疑問点が記載されるのは友人たちの説得によるものらしい。疑問をありのままの形で残すのは、後世の足掛かりになることを願ってのことだろう。
ニュートンは、光の色によって屈折率が違うと知るや、レンズで色収差は除去できないと屈折望遠鏡の限界を認め、反射望遠鏡を製作した。本書には、凹面レンズに反射させる望遠鏡の考察も詳細に記される。以前にも反射望遠鏡は考案されていたが、実用性をもたらしたのはニュートンが最初だそうな。
本書の流れからすると、まず実験ありきで、実際に現象を確かめた後に、数学の証明に着手したものと思われる。光の粒子説が優勢であった時代ではあるが、ところどころに波動性を示唆している。しかし、波動説を主張しているわけではない。波動性の推測が込められているのかもしれないが、なによりも思弁的なものを排除したのだろう。光の波動説を認めるならばエーテル充満説に対してなんらかの見解を示さなければならないし、仮説嫌いのニュートンには鬱陶しいことかもしれない。そして、歴史的にはヤングの干渉実験まで待つことになる。

本書は、光の正体を屈折性と反射性の二つの性質を主眼に置きながら説明しようと試みる。光が屈折するということは、光が物質を透過することを意味するだろう。だが、屈折の度合いを、物体の媒質にではなく光の色に依存するとなれば、光の粒子性だけでは説明できない。光が粒子であれば、透過する物体の粒子と衝突し、映し出される像がひずむであろう。しかも、透明な媒質という特異な関係がある。
では、透明とは、どういう状態なのか?物体と透過する光の間に作用が起こらない状態ということか?光の吸収や散乱が起こらないということか?現実に、雲や霧は光が散乱して透過できない。物体の色が綺麗に輝く状態は、汚れた状態よりも明らかに反射量が多い。不純物が付着すると光が散乱するからであろうか?技術革新が進めば、純度の高い透明材質のものが作られるが、単なる粒子の密度だけでは説明できそうにない。しかも、光の強度を変えずに透過しやがるし、周波数によっても屈折の度合いが変わりやがる。半透明という奇妙な状態までもありやがる。光は素直なようで素直でない。
光が宗教的にも信仰的にも崇められるのは、粒子性に波動性が加わるからであろうか?いや、光が特別扱いされるのは、人間の眼で知覚できるというだけに過ぎない。現在では、光は電磁波の一種とされる。電磁波は透明物質とは関係なく物質を透過する。人間の知覚できない領域では、あらゆる物体が見透かされているわけだ。夜の社交場でホットな女性が電磁波を放てば、男性諸君の心が見透かされるのも道理というものである。

1. 光の射線
「光が相継いで存在する粒子と、同時に存在する粒子の双方からなることは明らかである。」
本書は、光の最小粒子を「光の射線」と呼んでいる。屈折性とは、光の射線がある媒質から別の媒質を進む時、道筋を変える性向である。反射性とは、光の射線がある媒質から別の媒質の表面に衝突して、元の媒質に戻される性向である。
「任意の対象のあらゆる点からくる射線が、反射または屈折によって収束させられたのちに、再び同数の点で出会うところではどこでも、その射線が落ちる任意の白い物体の上に、その対象の画像を作る。」
これは、まさしく人間の眼の視神経構造と視覚の原理である。つまり、画像を再構築する点が、光が収束する眼底である。老齢になって眼の体液が減り、収縮のために角膜と水晶体の被膜が扁平になると、光は十分に屈折されず眼底の背後に収束することになる。これが老眼の原理というわけか。
屈折や反射は、物体が実際に存在する場所とは違った場所に映像を写す。それは、鏡の向こうの赤い顔をした住人が、こちらの世界の住人である可能性を示唆する。
また、二つの光源から発する光が重なるところでは、光源からは物体が見えなくなる現象がある。2台の車の間でヘッドライトが重なる点では物体が見えなくなる、いわゆるハレーションというやつだ。ちなみに、ゴルゴ13は、刑務所から脱獄する時、二つ監視塔のライトが重なる点を脱出ルートに選んだ(Target.9「檻の中の眠り」)。

2. 光速
物理法則では、あらゆる物体の運動は光速を超えられないことになっている。これは、子供の頃からなんとなく納得させられながら、なんとなく疑っているところでもある。そもそも、これ以上ありえない速度をどうやって計測できるのか、という自己矛盾は生じないのだろうか?
「均質光は、その射線が拡張されて分裂もしくは破壊されることなく、規則正しく屈折される。屈折物体を通して不均質光によって見られた対象の混乱した視覚像は、各種の射線の異なる屈折性から生じる。」
屈折性は光の色の周波数に関係するのだろうが、周波数の違う電磁波のすべてが同じ速度というのも奇妙な気がする。真空で障害物もなければ、屈折も起こらないので、周波数成分に意味がないのかもしれないが。いずれにせよ、これ以上ありえない速度という何かの基準がなければ、宇宙の形成が説明できないのかもしれない。光速とは、有限性でありながら無限性を感じる不思議な存在である。そりゃ小悪魔の視線に無限性を感じてイチコロになるのも仕方があるまい。

3. 屈折光と反射光
「屈折光または反射光における色の現象は、光と影のさまざまな境界に応じて、さまざまに加えられた光の新たな変改によってひきおこされるのではない。」
これは、光が通過する媒質によって色の変改が起こるとする考えへの論駁である。アリストテレスは、虹の現象を扱いながら光の変改説を論じ、色は白と黒の混合から生じるとした。デカルトもこの変改説の側にいたらしい。現実に、色を複合すれば様々な色を構成することができるし、コンピュータ画像はRGB三原色によって構成されるので、感覚的に分からなくはない。
しかし本書は、すべての均質光は屈折の度合いに応じて固有の色を持っており、その色は反射と屈折によって変化させることはできないとしている。

4. 天然色
本書は、色と屈折率の関係から、天然物と永久色を説明している。天然物が様々な色に見えるのは、本来持っている射線を最も多量に反射する性向があるからだという。
「不透明な有色物質を構成する粒子の間には多くの空間がある。それは空虚であるか、もしくは密度の異なる媒質で満たされている。」
例えば、着色した液体の間には水があり、雲や霧を構成する水滴の間には空気がある。そして、堅い物質の粒子の間には、完全にいかなる物質もないとはいえない空間があるという。この主張を拡張すると、エーテル説に辿り着く危険性もあるが...
また、物質が有色であるためには、物質の粒子とその隙間は、ある一定の大きさ以下であってはならないという。
「物質を構成する透明な粒子は、それぞれの大きさに応じて、ある色の射線を反射し、他の色の射線を透過する。それは、薄層や泡がこれらの射線を反射または透過するのと同じ理由による。私はこれこそ物質のすべての色の原因であると考えている。」
現実に、暗闇では物体は見えない。なんらかの光を浴びせないと見えない。そうなると、物体を構成する粒子と浴びせる光の衝突によって、色が見えると考えても不思議はなかろう。
しかし、ここでは、物体の色が見える現象を、屈折と反射の原理に媒質と粒子の密度の関係を加えて説明し、反射の原因は、物質中の固い粒子への光の衝突ではないとしている。そして、物質の色が依存している粒子は、その隙間に充満している媒質より密であるという。

5. 回折性
本書は、科学の教科書でお馴染みの小さな孔を用いた実験で回折現象を紹介している。光の方向が曲がる現象は、アインシュタインの時空説を用いて重力の正体を時空の曲りとすれば、天体レベルでは想像できる。しかし、小さい孔を通して生じる回折では、その近辺に重力的な要素はない。「光が漏れる」とでも言おうか、説明できないことは文学的にならざるをえない。ニュートンは暗に光の波動性を匂わせたのであろうか?