2022-09-25

"愛犬たちが見たリヒャルト・ワーグナー" Kerstin Decker 著

穏やかな秋風に誘われて古本屋を散歩していると、ちょいと風変わりな伝記小説に出会った。ケルスティン・デッカーは、愛犬の目線から偉大な音楽家の人物像を物語ってくれる。吾輩は猫である... じゃないが、おいらは犬である... といった様相で...

孤独を恐れ、人を裏切り、借金まみれに、人格破綻とくれば、そんな嫌なヤツも、犬が語れば、いいヤツに見えてくる。ワーグナーは、作曲したものすべてを愛犬たちに向かって歌い、演奏して聞かせたという。ホ長調なら全身をピンと伸ばし、変ホ長調だとちょっと眠そうに尻尾を揺らす。犬が教えてくれるそうな。ホ長調は官能的な愛を表し、変ホ長調は聖なる愛を表すことを...
そして、孤独に苛む自己を犬に同情され、犬に弁明されれば、人間嫌いを加速させ、あとは、犬の生き様に縋る。こいつは、犬の哲学か。犬儒学の実践か。
愛犬たちは、御主人様に授かった愛の洗礼を歌う。タンホイザーに、ローエングリンに、トリスタンに... それは、愛の独占か。ラインの黄金に、ヴァルキューレに、ジークフリートに... それは、愛の支配か。そして、愛は神々の黄昏に帰するのか。本書には、品の良いアイロニーに満ち満ちている...
尚、小山田豊訳版(白水社)を手に取る。

「愛犬たちがいなければ、リヒャルト・ワーグナーはリヒャルト・ワーグナーたりえなかった...」

犬好きに悪い人はいない... と言われるが、それは本当だろうか。警戒心の強い犬は、怪しいヤツを見ると、すぐに吠える。
では、尻尾を振ってくれば、いいヤツってことになるのだろうか。いや、人間だって、見えない尻尾を振ってくる。
自己を支配できないから、他人を支配しようとするのか。人を支配できないから、犬を支配しようとするのか。犬畜生とは、人間の代名詞だ。
ドイツやオーストリアには、愛犬家が多いようだ。フリードリヒ大王に、ショーペンハウアーに、ビスマルクに、あの愛しい皇妃エリーザベトも犬を愛した。ヒトラーまでも...

人間嫌いなワーグナーは、教会へも行かなかったらしい。それは、神の存在を本当に信じていたからだとか。真の芸術家なら、じかに神と接することができるという。
それでも、なんらかの仲立ちがなければ神を信じられない人々のために、定期的に指揮する。夕べの祈りの音楽を。人間嫌いが人間を相手に、不安に満ちた音調を大量生産!
絶望のどん底にある御主人様は、日記をつけ始める。最も強く支配する心の状態と、その中で生じた省察を書き留めるために。
メロディの在庫が尽きれば、リヒャルト・ワーグナーであることの苦痛を思い知る。自分のやりたいことが何一つできなくなったら、自分への追悼文でも書くさ。故人を最もよく知るのは、亡くなった本人である、と自負しながら...
犬は自分を舐めることができる。だが、人間にはそれができない。我が身を慰めることが、こんなにも大変なことだとは。
そして、こんな言葉が紙面を踊るのを想像しながら、恐れおののく...

「リヒャルト・ワーグナー、未来の音楽の担い手、書いても書いても完結しない、おそらくは未完の連作オペラをはじめ、上演不可能な作品多数を残し、債務者監獄へ!」

犬は飼い主に似るというが、犬が自己投影なら、良き精神科医となろう。人間がワン公と呼ぶのは悪気があってのことではなく、むしろ親しみを込めてのこと。
ただ、飼い主と言うからには、犬を所有物だと思っている自分がどこかにいる。人間には、所有の幻想が欠かせないと見える。それは弱さの証か。
何かを理解するということは、それを明確に言葉にできることだと思っている。知識にも所有の意識が働き、知性にも、徳性にも、倫理観にも、世界観にも... 人間の意識そのものが、自身の所有物だと思っている。そして、あらゆることを表現できる言葉は、絶対に欠かせない所有物となる。
しかしながら、人が自分自身を言葉で語ることは、すこぶる難しい。言葉を操り、言葉を費やし、言葉の限りを尽くしたところで、結局は同じ意味の言葉を繰り返し、表現を変えて自己を偽る。人間が言葉を編み出したのは、孤独を紛らわすためか。
独り言は尽きない。言葉に疲れ、黒い壁に向かって、君って黒ずんでるね... なんて話しかければ、沈黙する存在すべてが仲間に見えてくる。沈黙の苦手な人間が、沈黙に救いを求めようとは... 言葉を喋らない犬が、救世主とは...

「人間は不幸な動物なのだ、でなかったら芸術を生み出すことも、求めることもないだろう。芸術の存在、それは人間の本質に重大な欠陥があることの証明ではないだろうか。やがて観察力の鋭い、人情の機微に通じた詩人が現れて、この調査結果を別の言葉で表現するだろう。
『心臓(こころ)が思考を始めたら、鼓動をやめてしまうだろう』
わたしのご主人はこのころからすぐに、頭で考えた理屈よりも心が感じたことに従う人だった。」

ワーグナーは、ショーペンハウアーを崇拝する。そんな御主人様を愛犬が愚痴る。おバカな犬には理解不能な言葉ばかり。じっくり考えても、意味すら汲み取れない。だが、中身は簡単!犬も人間も同じだって言っているだけよ。個の存在を放棄しなければ、自らを没落させるとさ。逆に、ニーチェ風の永劫を思えば個の存在を超越でき、それが救済の第一歩だとさ。
個からの脱皮を試みなければ、御主人様を救えないってか。犬派は、アンチ・ショーペンハウアー党か。人間は、不安に駆られて生きている。ぼんやりとしたものに怯えて生きている。自由なんぞ、この世にあるものか。なのに、その幻想を追い求めてやまない。

人間は犬より、毛が三本足らないらしい。もっと洒落っ気(毛)があれば、気楽に生きられるであろうに。人間とは、なんと、はかない動物であろう。せめて毒舌ぐらい、はくとしよう。いや、せめてパンツぐらい、はくとしよう...

「しかしわたしは知っている。もったいぶって、まるで神聖なことのように、細かなことをあげつらう連中が多いけれども、そんなことに血道を上げるのは、真の人間らしさに対する感覚が欠けている者、人の心を知らない輩だけだ... こんな世間一般に対してわたしがどれほど敬意を抱いているか、ひとことで言おう。
三歩下がってわたしに寄るな!」

2022-09-18

"アッタ・トロル - 夏の夜の夢" Heinrich Heine 著

諷刺文学ってヤツに、おいらは目がない。天の邪鬼な性癖がそうさせるのか...
時代を彩り、時代を炙り出し、時代に演じられた滑稽を芸術の域にまで昇華させ、ここに批判哲学の実践を見る。芸術心ってやつは、道化を演じることに始まるのやもしれん。猿楽を深化させ、「風姿花伝」を記した世阿弥のように...
ハインリヒ・ハイネの作品では、詩文と散文の入り乱れた「精霊物語」と「流刑の神々」の二篇にしてやられた(前記事)。ここでは、純粋な詩文に心を委ねるとしよう...
尚、井上正蔵訳版(岩波文庫)を手に取る。

「アッタ・トロル」とは、熊の名。これは熊の物語である。かつて百獣の王として自由に生きたアッタ・トロルも、谷間の町で見世物となり、くだらぬ人間どもの前で踊り、笑い物として生きていた。そんな一匹の熊が、檻を破って森へ逃げ帰り、人間に対抗するために動物たちに一致団結を呼びかける。毒舌を捲し立てる様子は、まるで革命家気取り!

 人間はすべてこの世の
 財宝を取りっこしている、
 それも、果てしない掴み合いだ、
 どいつもこいつも泥棒だ!

 そうだ、全部のものの遺産が
 めいめいの掠奪物になっている、
 そのくせ、所有権とか
 私有財産とかぬかしてやがる!

 私有財産!所有権!
 おお、盗む権利!嘘つく権利!
 こんな怪しからん滅茶苦茶の悪企みは
 人間でなけりゃ考え出せない。

この長編叙事詩が誕生したのは、1841年の晩秋。当時、政治詩が流行し、「反政府派がその皮を買って文学となった」と皮肉る。時代は、まだフランス革命の血生臭さが色濃く残り、ナポレオン戦争を経てウィーン体制を崩壊させた諸国民の春へと向かう、いわば革命の時代。ハイネは祖国を追われ、自由都市パリへ逃れ、ドイツの革命家ベルネ派と知り合う。だが、主義主張を相い容れず、臆病者背信者とみなされ、こう罵られたという。
「才能はあるが、節操がない!」
そして、物語では言葉を裏返して、こう唄い上げる...

 アッタ・トロル、傾向的熊なり、
 道徳的宗教的、妻に対して肉欲旺ん、
 時流の思想に誘惑されし
 山出しのサンキュロット。

 踊りは、すこぶる拙劣なれど
 毛深き胸に高邁なる信念を抱く。
 またしばしば悪臭を放つことあり、
 才能はなけれど、節操あり!

フランス革命に発した共和主義の思想原理は、自らの暴走によって国粋主義へと向かわせる。恐怖政治とテロリズムは、すこぶる相性がいいと見える。独裁政権は危険だが、民主政治の暴走もまた危険というわけか。どんな善も行き過ぎると悪と化す、人間社会とは、そうしたものらしい。
芸術が国家思想の後ろ盾となり、国家権力を後押しするようになると、ナショナリズムという集団的な悪魔が寄生する。愛国心と呼べば聞こえはいいが、国家に忠誠を誓うのと権力に服従するのとでは、しばしば矛盾する。独裁政権ともなれば尚更。国家を私物化しちまった政権に忠誠を誓うことが、本当の忠誠なのか。権力の正当性をどう担保するか、政治体制が永遠に問い続けなければならない問題であろう。それゆえ、政治屋は正義といった言葉にすこぶる敏感で、これを乱用しまくる。法を後ろ盾にして...

「傾向的...」という柔らかめの表現に物足りなさを感じ始めると、これを、偏狭な主義主張... 愛国心の暴走... などと大袈裟に解し、やがて訪れるイデオロギー戦争の時代を予感させる。思想観念なんてものが、そうなに大層なものなのかは知らんが、党派心に燃えない者を、目的がない!と罵れば、中庸の哲学はまさに目的がないということになり、痛快に唄い上げる...

 夏の夜の夢よ!私の歌は
 空想のように目的がない。
 たしかに恋のように命のように
 神と自然のように目的がない!

 わが愛する天馬(ペガサス)は
 自由自在に
 地を走り天を飛び
 物語(ファーベル)の世界を駆けまわる。

 わが天馬は市民社会に
 役立つ律儀な馬車馬ではない、
 悲壮に地を蹴っていななく
 党派心に燃える軍馬でもない!

そして、アッタ・トロルは、妻ムンマのそっくりな声におびき出され、奸計のうちに銃殺されたとさ...

 私はその時シラーの言葉を思い出した。
 「詩にうたわれて永遠(とこしえ)に生きるものは
 この世では滅びなければならぬ!」

2022-09-11

"流刑の神々 精霊物語" Heinrich Heine 著

どんな散文も、形式を整えれば、詩に見える。音調を整えれば、詩に聴こえる。寓意を込めれば、戒文となり、霊妙を匂わせば、呪文となる。巷に溢れるキャッチフレーズの類い。標語に、スローガンに、モットーに、殺し文句に... 心に響く言葉は、人を惑わす。天国の門と地獄の門は、隣り合わせ。神と悪魔は、仲良しこよし。マクベス王の魔女どもが口ずさむ。きれいは汚い、汚いはきれい... 人間どもも負けじと狂喜乱舞。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!

ニンフは、至る所を棲家とする。海の精、川の精、山の精、森の精... 美しい精霊たちは自然界を看取り、小悪魔たちは人間界を見下す。美酒でもてなし、死者の館へいざなう者どもよ。誇り高き白鳥の乙女は、ヴァルキューレか、それとも死神か...
タンホイザー君ときたら、享楽の奥義を会得しようとヴェヌス山に籠もり、美女を侍らすこと丸一年。偉大な享楽が手に負えないと知れば、誰はばかることなくローマ法王に懺悔する。懺悔で本当に人は救われるのだろうか...
盲目でいる方が幸せやもしれん。アポロン神の愛を受け入れる代わりに予言能力を授かった王女カッサンドラは、見える未来に翻弄されて人生を狂わせちまった。
そして、神々は流刑の身となり、精霊たちも人間の住む場所から追放されちまったとさ。一神教の神に葬られた古代ゲルマンの民族神たちが、古代ギリシアの神々の共感を呼ぶ...
尚、本書には、詩と散文の入り乱れた「精霊物語」と「流刑の神々」の二篇が収録され、小沢俊夫訳版(岩波文庫)を手に取る。

「喜ぶがいい、迷信の可哀想な生け贄として葬られたお前たちの先祖の血は報復されたぞ!だが根深い遺恨などに取り憑かれていない私たちは、偉大なる者の落ちぶれた姿を見ると心から感動し、敬虔なる同情の念を捧げるのだ。この情の脆さゆえに、私たちの物語には、歴史叙述者の誉である冷たい生真面目な調子がつかないで済んだのだろう。」

詩であれ、散文であれ、ハインリヒ・ハイネの字面には、ローマ・カトリック教会への皮肉が込められる。いや、形式を整え、音調を整えれば、皮肉も神聖化すると見える。
昔の詩人は、ローマ教会の権威という軛から抜けられなかったようだ。詩人たちは、キリスト教の慈悲の深さを思い知るように、懺悔があらゆる罪をお許しになるという救済の力を讃美することを強いられてきた。そのために、古代の自然信仰を悪魔(サタン)への奉仕とし、異教徒の勤行を魔術とし、個性的な神々を悪魔(トイフェル)と触れ込む。森の奥では、悪魔たちが毎晩バカ騒ぎをし、地の果てでは、魔女たちが淫らな行為をしている、といった具合に...
トイフェルの容姿はグロテスクに描かれる。イメージ化するのは人間の御家芸。悪魔は俗人っぽく、神は人間離れしたように。手の届かない存在だからこそ、崇高や魔力が強調される。そうなると、理性は誰の能力であろう。人間の能力ということになろうか。神は、理性をも必要としないほど完全なはず。理性ってやつは、悪に対して働くのだから。そして、理性家は、神よりも悪魔に極めて近いということになろう...

「トイフェルは論理家である。彼は世俗的栄光や官能的喜びや肉体の代表者であるばかりでなく、物質のあらゆる権利の返還を要求しているのだから人間理性の代表者でもあるわけだ。かくてトイフェルはキリストに対立するものである。すなわちキリストは精神と禁欲的非官能性、天国での救済を代表するばかりでなく、信仰をも代表しているからである。トイフェルは信じない。彼はむしろ自己独自の思考を信頼しようとする。彼は理性をはたらかせるのである!ところで自己独自の思考は、もちろんなにかおそろしいものをもっている。ゆえにローマ・カトリック・使徒教会が独自の思考を悪魔的だとして有罪と認め、理性の代表者たるトイフェルを虚偽の父であると宣言したのももっともなことではある。」

古代ギリシア時代には、人間味あふれた多種多様な神々が住んでいた。得意技もあれば、欠点も堂々と曝け出す。実に神らしくない。主神の地位を思いのままにする雷オヤジときたら、女神では飽き足らず、人間の美女にまで手を出す始末。実に神らしくない。神らしくないということは、息苦しくなくていい。
十九世紀初頭に生をうけた近代詩人たちは、いかなる権威の圧力にも屈せず、ファンタジーを自由に駆け巡り、自然に湧き出る感情を表出することができたという。自らの精神をひたすら追求することこそ、詩の原点。一神教のドグマは、多様化する現代社会には不向きやもしれん...

「魔女裁判の時代から保存されているトイフェルの契約書を読むことほどおもしろいものはない。その契約書には、契約者がすべての策略に対して用心深くただし書きで制限をつけているし、あらゆる申しあわせを、ひどく心配そうに書きなおしているのである。」

2022-09-04

"ハイネ" 一條正雄 著

詩ってヤツは、癒やされるためだけにあるのではない。幸福を感じるためだけにあるのでもない。美しい調べに乗せて歓喜に耽り、感傷に浸るのもいい。だが、それでは足りない。目を背けたくなるような苦難を叫び、皮肉まじりの風刺を効かせ、シニカルなブラックユーモアまでもぶちまける。詩の受容性は、自ら愚痴の捌け口となり、滑稽なほどの悲壮感を漂わせ、寓意を込めて惨憺たる時勢を唄い上げる。自ら怒りの矛先となり、心の奥底に棲み着く悪魔をも包み込む。そんな作風を試みた最初の詩人を、おいらは知らない。
ただ、ハインリヒ・ハイネの詩には、そんな空気を漂わせるフレーズがちらほら目に留まる。おいらの天の邪鬼な性癖が、そのような字面ばかりを追わせているのやもしれんが...
印象深い言葉といえば、これだ!本書には紹介されないけど...

"Dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man auch am Ende Menschen."
「本を焼く者は、やがて人間をも焼くようになる。」
... 戯曲「アルマンゾル」より

焚書は序章に過ぎない... というのは本当らしい。歴史文献にしても、当時の実力者たちが改竄や抹殺した可能性が多いにある。人間のやることだから...
一方、芸術の物語性には人の苦痛を治癒する力があると言われるが、晩年のハイネにとっては苦痛も幸福も一体化して捉えていたようである。「快く失血死する!」とまで言い切ったとか。同様の叫びが、詩文のあちこちに散りばめられる...

「耐えに耐えたわが心よ、裏切り故に恨むまいぞ!」
「エホバ!どこまでも怒らせるために告げるぞ、俺はバビロンの王だ。」
「友よ!なんの役にたつというのか、いつも昔の歌を掻き鳴らして...」
「気違いじみた子供のぼくは、いま暗闇でうたうのだ。その歌が楽しくなくても、ぼくを不安から解き放ってくれたのだ。」
「この本は、僕の恋の焼け殻のつまった骨壺だ。」
「そこにはまた一人男が立って虚空をじっと見ている、そして両手を揉み合わせている、苦痛のあまり。その男の表情を見てぞっとした、月光がぼくに見せたのはぼく自身の姿だ。」
「暗黒の海に神の声がお前に聞こえるか?その神は数知れぬ声で語りかけている。われらの頭上の数知れぬ神の光、それがお前には見えるか?」
「そうだ、立派な散文でぼくらは隷属のくびきを打ち破ろう!でも詩歌のなかではもうぼくらの最高の自由の花が咲いている。」

本書では、「光輝ある孤立を保った最後のロマン主義詩人にして、最初の現代詩人」と紹介され、抒情詩「歌の本」、「新詩集」、「ロマンツェーロ」と叙事詩「アッタ=トロル」、「ドイツ冬物語」を辿る。
そして、ヘーゲル哲学の洗礼を受け、マルクスやフランスの卓越した友人たちと交流し、若き日は、シュレーゲルに問い、ゲーテに挑みながらも、その相違に苦悩する様子などが描かれる。
また、ユダヤ人の家に生まれてキリスト教との狭間で苦闘し、政治や社会革命における著述活動の草分けでもあったという。
ハイネが生きた時代は、まだフランス革命後の血生臭さが色濃く残り、ナポレオン戦争を経てウィーン体制が崩壊していく政治動乱の時代。その象徴とも言うべきドラクロワの描いた「民衆を導く自由の女神」は、ジャコバン党の赤い帽子をかぶり、片手にフリント銃、他方の手に三色旗を持ち、腰まで肌を露わにし、屍を踏み越えて士気を鼓舞する。ハイネは、この女性を「娼婦、商い女、自由の女神のたぐいまれな混合」と捉えていたという...

「思想は行為を欲し、言葉は肉体とならんとする。」
「マクシミリアン・ロベスピエールは、ジャン=ジャック・ルソーの手以外の何物でもなかったのだ、血塗れの手。」

なりふり構わず覚醒させた偉大な政治思想へ向かい、誰もがそれを信じることのできた時代。知識人までもが愛国心を高揚させ、イデオロギー時代の幕開けを予感させる時代。それ故、政治的な批判精神を強めていったのか。芸術家であるがゆえに、言葉を操るがゆえに、余計に感じるものがあったのか。しかも、詩では収まらず、散文で捲し立てる...

「詩がこれ以上どうにもならないことを知って久しかったので、私は新たな立派な散文をめざした。けれども散文では、美しい天気、春の日差し、五月の喜び、ニオイアラセイトウ、名もなき樹々で間に合わせることができないので、新しい形式のために新しい素材を求めなければならなかった。そのことによって私はいろいろ理念と取り組むという不運なことを考えついてしまった...」

「共和主義的な視点から、不平等批判がパロディ化される。自由・友愛・民族統一のための闘争が、政治史的視点から、モラルの視点からの真剣さが、美的視点の文化事業としての芸術の理念が、宗教的視点から理神論が、それぞれパロディ化される。社会革命的視点からは結局共有財産がパロディ化される。私的所有は泥棒だ!」

「ワルシャワが陥落した!われらの前衛が斃れた!このような喧嘩の中では、思想や形象のすべてが混乱し、脇へ追いやられてしまう。ドゥラクロワの自由の女神がすっかり顔つきを変えて、私のほうへ歩いてくる。激しい目に不安の色をたたえてといってよいくらいにして。... 死せるチャールズの顔もすっかり変わっった。一挙に変わって、よく見ると黒い柩の中には、王ではなく殺害されたポーランドが横たわっている。柩の前には、クロムウェルはすでに見えず、ロシアの皇帝がいた。」

「サン=ジュストが述べたあの革命の偉大な標語 - パンは人民の権利 - というのは、われわれ汎神論者から言えば、- パンは人間である神の権利である - ということになる。われわれは人民の人権のために戦うのではなくて、神としての人間の権利のために戦う。... われわれは幸福な神々の民主主義国家を建設しようとするのだ。... われわれドイツ人は神の飲む酒、神の食物、緋のマント、尊い香料、肉の歓び... などを求めているのだ。... 私はシェイクスピアの戯曲の中のある道化の言葉を借りて答えよう。- おぬしは自分の行いがまっすぐだからというので、この世に美味い菓子やぶどう酒がないと思うとるのか?」