2018-12-30

"舟を編む" 三浦しをん 著

映画で観たのは何年前であろうか。映像には見たまんまの分かりやすさがある。とはいえ、原作も読んでみたい。やはり原作はいい。文字は作家の哲学を露わにする。そして、このフレーズに出会いたいがために...
「私は十代から板前修業の道に入りましたが、馬締と会ってようやく、言葉の重要性に気づきました。馬締が言うには、記憶とは言葉なのだそうです。香りや味や音をきっかけに、古い記憶が呼び起こされることがありますが、それはすなわち、曖昧なまま眠っていたものを言語化するということです。... おいしい料理を食べたとき、いかに味を言語化して記憶しておけるか。板前にとって大事な能力とは、そういうことなのだと、辞書づくりに没頭する馬締を見て気づかされました...」

主人公は、真面目と渾名されそうな馬締(まじめ)君。考えることが得意でも、何を考えたかを人に説明するのが苦手。心を開いて会話しているつもりでも、どうもうまくいかない。それが辛くて本を読むようになったとさ...
学校で本を読んでいれば、迂闊に話しかけられずに済む。辞書は知識を伝えるための道具、なによりも正確さを旨とする。言葉好きで人間嫌いにとっての辞書づくりは、都合のいい世間との媒体物となる。人は不安でしょうがないから必死に努力する。人とどう付き合っていいか分からないから必死にアプローチする。不器用だからこそ、真面目にならざるをえない。言葉にまつわる不安と希望を実感できるからこそ、言葉のいっぱい詰まった辞書に惹かれる。何かに本気で心を傾けたら、様々なやり方を試し、自ずと目標値が高まっていくだろう。物事の本質を見る目を養おうと思えば、ちょっと不器用なくらいの方が多くの機会に恵まれるのやもしれん...
「どんなに少しずつでも進みつづければ、いつかは光が見える。玄奘三蔵がはるばる天竺まで旅をし、持ち帰った大部の経典を中国語訳するという偉業を成し遂げたように。禅海和尚がこつこつと岩を掘り抜き、三十年かけて断崖にトンネルを通したように。辞書もまた、言葉の集積した書物であるという意味だけでなく、長年にわたる不屈の精神のみが真の希望をもたらすと体現する書物であるがゆえに、ひとの叡智の結晶と呼ばれるにふさわしい。」

辞書の主役は、なんといっても語釈。万人に受け入れられる語釈となると、客観性が重視される。
しかしながら、語釈とは語の解釈。それは編む者の解釈であり、すなわち主観である。辞書の個性は、まさに語釈に現れる。誰にでも受け入れられる説明文というやつは、味気ないものばかり。おまけに、形式張っていて、分かったようで分からぬ文章のオンパレード。監修者や執筆者一覧ではネームバリューがものをいい、辞書編纂者は批判を恐れて縮こまる。
そういえば、好きな辞書なんて考えたことがない。どれも似たようなものだろうとの思い込みがある。知識の核は自由精神によって支えられ、柔軟性によって担保される。知識の宝庫である辞書には、もっと自由で柔軟な物の言い方を提供してもらいたい。まずは、辞書を権威主義から解放しよう。
辞書はチームワークの結晶だという。人間の多様性は計り知れない。編纂チームには、キモい奴がいても、チャラい奴がいても、ダサい奴がいても構わないし、女子高生が引くようなオヤジギャグが登場しても構わない。語釈といえば、酔いどれ天の邪鬼ときたら、ついアンブローズ・ビアスばりの悪魔の辞典を思い浮かべてしまう。
ちなみに、「ぬめり感」とは... 「情けが深いが去り際のきれいな女」みたいな紙の質感を言うそうな。
「指に吸いつくようにページがめくれているでしょう!にもかかわらず、紙同士がくっついて、複数のページが同時にめくれてしまう、ということがない。これが、ぬめり感なのです!これこそが、辞書に使用される紙が目指すべき境地です。辞書は、ただでさえ分厚い書物です。ページをめくるひとに無用なストレスを与えるようではいけません。」

もちろん万能な辞書はない。万能な言語はない。言語が人間精神を体現するものだとすれば、人間精神を科学的に完全に解明できない限り、完全な言語システムを構築することはできまい。辞書は完成してからが本番。より精度と確度を上げ、改訂に改訂を重ね、次の世代を生き延びようとする。永遠に持続する満足などありはしない。言葉ってやつは、捉えても、捉えても、まるで実体が見えてこない。言葉の終わりなき運動は、無限宇宙を体現するがごとき...
「辞書は言葉の海を渡る舟だ...
ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう...
海を渡るにふさわしい舟を編む...」

2018-12-23

"ほろ酔い文学事典 - 作家が描いた酒の情景" 重金敦之 著

なにゆえ、腐った飲み物に... なにゆえ、腐らせる技術に... 著作権先進国の原産へのこだわりときたら... しかも、長く置くほど味わい深いときた。人間の魂も腐ったぐらいの方が味がでるのやもしれん...
こいつに酔うの簡単だ。しかし、ほろ酔うとなると侮れない。上品に格調高く酔うには修行がいる。作家どもは、自ら仕掛けた文章で自己陶酔に浸る。この世界では、酒と女について書けるようになったら一人前らしい。美酒に酔うのも、美女に酔うのも、同じ道というわけか。ただ、どちらに身を委ねるにしも危険がつきまとう。酔うのも溺れるのも紙一重。薬草系のリキュールでも身を滅ぼすことがあり、アブサンともなれば人間失格へまっしぐら。酒はよく口説きの道具とされるが、どちらが道具にされているのやら...
もはや清酒で心を清めても無駄だ。蒸留して不純物を取り除いても無駄だ。文壇では高貴な感受性を持った連中が、グラス越しにエクスタシーを語り合ってやがる。言葉を巧みに操る達人ともなれば、ぶらっと酔いどれ紀行の中に、下品きわまりない隠語をさりげなく盛り込むのもお手の物。どうやら文学の原酒は官能小説にありそうだ。
ちなみに、あるバーテンダーが能書きを垂れていた... 「酒に落ちる」と書いて「お洒落」と... 棒が一本足らんよ。

「どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。何でも命のあるうちにして置く事だ。死んでからああ残念だと墓場の影から悔やんでも追付かない。思い切って飲んで見ろと、勢よく舌を入れてぴちゃぴちゃやって見ると驚いた。何だか舌の先を針でさされたようにぴりりとした。人間は何の酔興でこんな腐ったものを飲むのかわからないが、猫にはとても飲み切れない。」
... 漱石「吾輩は猫である」より

1. 食事の序曲
アペリティフにまつわるイベントは各地で見られる。フランス農水省は、2004年から6月の第一木曜日を「アペリティフの日」と定めたそうな。ワインを世界各地に広めようと。京都市では、2012年に「乾杯は清酒で」という条例が制定されたという。日本文化を促進しようと。鹿児島や宮崎や熊本の町でも、焼酎での乾杯を推進する条例があると聞く。焼酎も忘れてもらっちゃ困るとばかりに。
日本のサラリーマン文化には、とりあえずビール!という慣習がある。「とりあえず」という枕詞は、食前酒の地位を確立している証拠。それにしても、接待ビールのお酌は苦い!
ちなみに、酔いどれ天の邪鬼は、食前酒から純米系か、モルト系に走る。アルコール許容量が小さいので、最初から全力投球せざるをえない。前戯も、本ちゃんも、後戯も、いつもヘロヘロよ。そして、ピロートークに走るのさ...

2. 政界にまつわる隠語
酒といえば、アングラなイメージがあり、どこの国でも法律で厳しく規制される。禁酒法の時代には密輸が横行し、戦後の日本では闇市で売買された。高度成長時代には、洋酒を「舶来品」などと呼んで高級なイメージを与えていたが、おいらの世代には、気取っているようで嫌味に聞こえる。今ではジャパニーズ・ウイスキーにも高級なものを見かけ、若い人たちに舶来品なんて言葉は通じないだろう。
さて、1964年、自民党総裁選挙を巡ってのお話...
三選を目指す池田勇人と対抗馬の佐藤栄作は、事実上の一騎打ち。激しい選挙運動のさなか、実弾(現金)が乱れ飛び、様々な隠語が生まれたという。うまいことを言って二派から金を貰うのが「ニッカ」、三派から頂くのが「サントリー」、調子よく各派から貰うのが「オールドパー」と言うそうな。オールド(old)とオール(all)を混同したのか、あるいは、洒落たのかは知らん。パーは白票やチャラを意味するという説もある。もらうだけもらって、いざ投票となると洞ヶ峠を決め込むという寸法よ。オールドパーは当時の最高級ウィスキー、まさに舶来品である。政界を生き抜くには、勝ち馬に乗るのが最も賢明という構図は、いつの時代も変わらない。こと政界においては、人間の腐らせ方は難しいと見える...

2018-12-16

"新板 バブルの物語 - 人々はなぜ「熱狂」を繰り返すのか" John Kenneth Galbraith 著

原題 "A Short History Of Financial Euphoria."
Euphoria... こいつをどう訳すかは微妙。その名は楽曲やプログラミング言語にも見かけ、なにやら薬物の香りがする。どうやら幸福感のようなものを表す語のようである。幸福感ってやつは、ある種の熱狂であり、その最高峰に自己陶酔がある。自己陶酔ってやつは、自惚れの最高位にあり、おまけに現実逃避からくる健忘症を患い、財産を失うほどのこっぴどい損害を受けながらも、そのとき培った警戒感は二十年もすればすっかり忘れられるときた。それどころか、バブルで大敗を喫しても、リベンジとばかりに次の機会を虎視眈々と狙ってやがる。金融の機会に恵まれると自らの才能に酔いしれ、自我を肥大化させてしまう。金が人を狂わせるのか、そもそも人が狂っているのか。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ... とはよく言ったものである。
尚、鈴木哲太郎訳版(ダイヤモンド社)を手に取る...
「私はこの小著を警告の書とするよう特に配慮した。頭脳に極度の変調をきたすほどの陶酔的熱病(ユーフォリア)は繰り返し起こる現象であり、それにとりつかれた個人、企業、経済界全体を危険にさらすものだ。のみならず、本書で述べるとおり、予防の働きをする規制は明らかな形では全く存在しないのであって、個人的、公的な警戒心を強く持つこと以外に予防策はありえないのである。」

初版は1991年、日本経済がまさに泡となろうとしていた時代。この時の副題は「暴落の前に天才がいる」としている。長らく絶版となり、この復刻版では「人々はなぜ熱狂を繰り返すのか」としているものの、前の副題も捨てがたい。金融危機の前触れに登場するノーベル賞級のスターたち。彼らの金儲けの方法が公的機関のお墨付きとなると、誰もが群がる。人間社会では、それがどんなに良い事であっても、同じことをする人が多過ぎると何かと問題が起こるものである。
ジョン・ケネス・ガルブレイスは、市場原理主義や規制緩和政策に批判的な立場をとり、経済学公認の立場から距離を置く。宗教でいうなら、既存の教会とは一線を画す立場。彼は、経済学を心理学的な、社会学的な側面から観察して魅せる。まさに本書は、代替価値をめぐる心理学の書と言えよう...
「あらゆる投機的エピソードには、金融の手段または投機機会について一見新奇で大いに儲かりそうなことを発見して得意になるという面が常にある。そうした発見をする個人や機関は、大衆よりもすばらしく先へ進んでいるものと見なされる。そして、やや遅れて他の人々もそれなりの思いで追随するようになると、先駆者の洞察が正しかったことが確証されるというわけだ。何か類まれな新奇なものがここにあるという認識が、投機へ参加する人のエゴを満足させ、また同時に金儲けにつながると期待される。そして、少なくとも暫くの間は、儲けることができる。」

人間が心理的に虜になる原理とは...
本書には、「てこ」という用語がちりばめられる。それは、レバレッジの源泉だ。経済学用語には、違和感のあるものが多い。他人が提供した資本でも、法的に返済義務が発生しなければ、「自己資本」という名の元に繰り入れてしまうような業界。「信用」という言葉と「空売り」という言葉が同義となる業界では、あらゆるカラクリがレバレッジの温床となる。「てこの原理」といえば、物理学では小さな力で大きな力を与えようというものだが、こと金融界においては、無を有に装う原理として働く。アルキメデスはあの世で呟いているだろう。一緒にすな!と...
交換の利便性とやらが面倒くさがり屋の性癖をくすぐると、価値の仮想化が始まった。価値の尺度として登場した貨幣の歴史は古く、大量生産を目論む紙幣から便利すぎるほど便利な電子マネーに至るまで、仮想通貨の出現には限りがないと見える。
いまや金融のプロにも予測不可能なほどに複雑化し、餌食となる交換財は、証券であれ、美術品であれ、土地であれ、住宅であれ、ゴルフ場であれ、人が群がるモノならなんでもあり。かつてはチューリップまでも...
人間ってやつは、自分だけ損することは絶対に許せないにしても、みんなで損する分には諦めがつくものらしい。それでいて、誰かが儲けていると聞くと、それに乗れ遅れまいと躍起になり、狼が狼を呼ぶ。
新たな投機法を次から次に編み出す天才たちの出現は後を絶たない。彼らは大衆に投機の機会を与え、しばらくはみんなで儲けることができるゆえに、金融のスターなのである。これに疑問や異論を唱えようものなら、高名なアナリストたちに非難されるのが常で、金融界の既得利益を擁護することに...
投機のブームは後を絶たず、また、それを正当化する言い訳もまた後を絶たない。それは、いつもレバレッジによって価値尺度を複雑化することから始まり、これに公認の格付会社がお墨付きを与え、そこに大衆が群がってたちまち価値の欺瞞が増殖し、ついに誰にも制御できなくなるところまで行ってしまうという構図。そして、賢明な人々がブームから少しずつ離脱を始め、世間が気づいた時には既にパニックに陥っているという寸法よ。
但し、この価値の欺瞞は、大衆の後ろ盾によって生じた結果であるということを強調しておこう。陶酔的熱狂に浸っていると、自分の意思を正当化して、目の前の利益が既得のもののように錯覚してしまう。大衆の幻想が絶対的な価値にまで押し上げてしまうのである。そんな状況で警戒心を持つチャンスは、そうはない。高度な金融テクニックを編み出した天才たちは、なにも最初から欺瞞しようと企んでいたわけではあるまい。それでもいつも非難の的とされる運命にあり、これに便乗して儲けようと企んだ大衆の軽信や貪欲が非難されることはない。ヒトラーは言った、「私を選んだのは大衆だ!」と。金にまつわる特徴的な構図はいつも同じで、そこには群衆心理学が透けて見える。それにしても、ジャンクボンドの歴史は長い。レベレッジってやつは、いわば虚栄心を担保にしているようなものか...

「あらゆる人は、最も幸福なときに最もだまされやすいものだ。」... ウォルター・バジョット

1. チューリップ狂!... 希少価値の虜
投機の歴史は、少なくともフィレンツェやヴェネツィアが栄えた時代に遡るようである。当時から、活発な証券市場が存在し、現在の価値だけでなく、将来の予想に基づいて価値の取引がなされていたとか。すでにサヤ取りの原理が見て取れる。ただ、近代的な株式市場となると、17世紀初頭のアムステルダムに現れたという。
歴史に名をとどめる投機の大爆発としての最初のものは、やはり、1630年代のチューリップ狂であろうか。コンスタンティノープルからアントワープに着いた球根の所有と栽培は、大きな名声を獲得する。美しく、色も多種多様。最も凝った品種を所有して展示することが、金持ちのステータスとなる。チューリップ価格の上昇が始まると、貴族、市民、農民、職人、水夫、従僕、女中までもが群がり、希少価値の概念が大衆を幻想へと導く。小さな球根が巨額の貸付の「てこ」となり、財産を担保に借金してまで...
但し、チューリップを別の対象物に置き換えるだけで、後の投機エピソードはほぼ語り尽くせるだろう。

2. 金融の天才登場!... スコットランド人ジョン・ロー
フランス王国は、太陽王の絶え間ない戦争と贅沢のおかげで財政難に陥り、汚職が蔓延る。これに輪をかけて、ルイ15世の摂政オルレアン候フィリップ2世は放縦極まりない男ときた。フランスに渡ったジョン・ローが考えだした計画は、フランス政府の債務をルイジアナの金で支払うというもの。彼は銀行設立の権利を得て、ロワイアル銀行を設立。これが中央銀行となり、銀行券を発行する機能まで与えられる。その収入源は貿易特権のあるミシシッピ会社で、表向きはフランス領ルイジアナに存在するとされた金鉱である。だが、その資金は金鉱探査にあてられることはなく、政府の負債の返済にあてられたとさ。近年、よく耳にする金融破綻の構図がここに...

3. サウスシー・バブル!... 株式会社という仮面
1711年、ロバート・ハーレーが設立したサウスシー会社。イギリスは、スペイン継承戦争で生じた政府債務が滞り、サウスシー会社は設立免許と引き換えに、負債を引き受けたという。これにジョン・ブラントが加わる。彼は代書屋で、法律文書の複写の達人だったとか。会計監査のカラクリ技術の発見か。彼らにはアメリカ大陸東岸との貿易独占権が与えられ、後に西岸やスペイン領までも追加されたとか。さらに、南アメリカのブラジルを除く領域がサウスシー会社の商圏と主張したという。当然ながらスペインも黙ってない。貿易独占権がイギリス政府のお墨付きとなれば、ロンドン市場に投機の機会を与え、株式の存在感が急激に増大する。
ちなみに、あのニュートンは「私は物体の運動を測定することはできるが、人間の愚行を測定することはできない。」と言ったものの、この大科学者にして自分自身の愚行も測定することができなかったようである。

4. 華麗なる「てこ」のショーの始まり!... 世界恐慌
歴史的に最もインパクトのあったのは、やはり1929年のものであろう。陶酔的熱病のエピソードに共通するあらゆる要素が明白に備わっていたという点で、これほど勉強になる題材はあるまい。天才ともてはやされた連中が続出し、「てこ」の驚異が再発見され、楽観論の上に楽観論が積み重なって株価は青天井。暴落に転ずるや、天才と目された人々は精神的にも、道徳的にも酷い欠陥が明るみになり、誹謗中傷、投獄、自殺...
しかし、この陶酔的機運が最初に現れたのはウォール街ではなく、フロリダであったという。その火付け役は不動産ブーム。魅力的な温暖な風土が一役買う。ニューヨークやシカゴのゴミゴミした大都市とは違い、開放感のある気候が地価の高騰を招くのである。そこに猛烈な二つのハリケーンが到来し、ニューヨーク市場は反落。これに同情した救済の手が、資金貸付ブームを焚きつける。ゴールドマン・サックスの華麗なる「てこ」のショーの始まり...
まだ恐慌を知らない資本主義は、株価は永遠に上昇するものと考えられていた。当時、最も著名で革新的な経済学者と目されていたアーヴィング・フィッシャーもまた、投機の衝動に負けてしまう。
とはいえ、ガルブレイスは、ケインズの登場で、これほど大規模なダメージを受ける時代は来ないかもしれない、とも言っている。ある程度の抑制を期待している点では彼もまた楽観的ではあるが、リーマンショックを経験することに。やはり、陶酔的熱病を規制によってなくしてしまうことは、事実上不可能なようである...
「金融上の記憶というものは、せいぜいのところ二十年しか続かないと想定すべきだ...」

5. アメリカ人と日本人の性向
アメリカには、西部開拓史から受け継がれる投機ブームの歴史がある。大陸横断鉄道の夢を乗せた鉄道株ブームがそれだ。行き過ぎた鉄道融資で倒産する会社に、大銀行が連鎖反応を起こす現象は、既に経験済み。ガルブレイスは、アメリカ人は投機痴呆症にかかりやすいと指摘している。神から特別な金融的洞察力を賦与されたかのように信じる傾向が強いと。
対して、日本人はアメリカ人に比べて興奮の度合いが小さいという。自分の才能を過信したり、冒険にはやる度合いが少ないようだと。言い換えれば、金融的な発想力が乏しいとも言える。日本では、グループ会社や系列会社でなくても、ダメージを受けた会社に同情的な融資を施して救済することがよく見られる。そのために、「日本株式会社」などと揶揄される。ガルプレイスは、そうした寛容的な態度が情報隠蔽の体質を呼び込み、自己回復能力の阻害になることを指摘している。もっといえば、官僚的な体質に陥りやすいってことだ。
情報が明るみになりやすいアメリカの企業体質の方が、確かにダメージは大きいのだけど、自己回復能力が優れているという見方もできる。実際、この指摘のすぐ後に東京市場でバブルが崩壊して失われた20年を経験し、おまけに、リーマンショックでは震源地よりも大きな後遺症を抱えている...

2018-12-09

"マネー その歴史と展開" John Kenneth Galbraith 著

「ゆたかな社会」、「不確実性の時代」に続いて三冊目... 経済学において歴史の観点を重要視し、思想史や哲学史に照らし合わせて魅せたジョン・ケネス・ガルブレイス。彼に言わせると、こうした見方は正統派経済学では邪道とされるらしい。ましてや、お金の歴史となると...
ケインズは、「一般理論」の序文で、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい、といったことを綴り、素人読者を励ましてくれた。お金は万人にとって身近な問題。経済学の専門家よりは、むしろスーパーの買い物客の方が実践的な知恵をもっているかもしれない。ガルブレイスも、これに通ずるようなことを書いてくれる。もっと皮肉った形で...
「本書のような書物に読者がどのような心構えで近づいてほしいかについて一言しておかねばならない。貨幣にかんする多くの議論には坊主くさい呪文がたっぷりと塗りこめられている。そのうちのいくつかは意図的なものである。貨幣について語り、それについて教え、それによって生計を立てている人びとは、医者、あるいは祈祷師がやっているのと同じように、彼らは神秘的なものと特権的な結びつきがある。つまり彼らは普通の人間には決してそなわっていない洞察力をもっているという信頼の念を世間に流布させることによって、威信、尊厳および金銭的収入を得ているのだ。それは、職業として役に立ち、個人的には金もうけになることであるけれども、このようなやり方もまた一つの定着した形の欺瞞行為である。貨幣にかんする事柄で、通常の好奇心、勤勉さ、および知性をもっている人が理解できないようなことは、いっさいない。同様に、以下のページにかかれていることでも、理解を超えるような事柄は何もないはずである... 経済学の他の分野のいかなるものにも増して、貨幣の研究は、真実を明らかにするためではなく、真実を偽装し、あるいは真実を回避するために、複雑さが利用される分野なのだ...」

第一次大戦は、金を軸に打ち立てられた通貨機構がいかに脆いものであるかを示した。1920年代は、金融政策が抑制手段としていかに役に立たないかを示した。金融政策の行き詰まりを市場が察知すると、たちまち相場が崩壊。財政政策のみが有効であり得た時代にヒトラーの第三帝国が出現した。財政政策は、貨幣を借り入れる機会を直接設けて支出を保証し、いかに生産や雇用を拡大し、不況を克服するのに有効であるかを示した。これが、ケインズの教えであろうか...
ニューディール政策もまたケインズ革命に先駆けた実証例であったかどうかは別にして、第二次大戦がアメリカ経済の躍進に寄与した。だが、財政政策は万能薬ではなかったし、インフレを阻止しえなかった。これが、戦争の教訓であろうか...
尚、TBSブリタニカ版(都留重人監訳)を手に取る。

人間ってやつは、お金を前にすると近視眼になる。お金が人を狂わせるのか、そもそも人が狂っているのか。経済学がお金の流れを追いかける研究分野であるからには、金融工学やファイナンス理論を旺盛にしていくのも、その性癖の顕れか。資本主義という貨幣を自然増殖させる奇跡的なシステムを支えているのは、投資という行動原理である。
しかしながら、投資の哲学的意義なんぞを問うても上の空。浪費家は主張するだろう... 金は天下の回り物... と。金融屋は主張するだろう... 金融商品を買おうという客で溢れているのに売らない理由がどこにあろうか... と。それを尻目に投機屋はサヤ取りに明け暮れ、元の鞘に収まるのかは知らん。
貨幣流通の最大の役割は、金欲の平等化であろうか。人類は価値の概念に弄ばれてきた。価値の尺度を探し求め、その挙げ句に貨幣を発明し、価値の概念を自由に解放してしまったがために仮想化へとまっしぐら。パンドラの箱を開けちまったか。精神ってやつが得たいの知れない実体だけに、仮想的な存在とすこぶる相性がいいと見える。つまり人間は、この長い歴史経験をもってしても、真の価値を知らずにいるということか。いや、まだまだ経験が浅く、経済哲学を身にまとうには若すぎるというのか。いまや仮想化の波は現金を抹殺にかかる。時代はリアル貨幣の最期を迎えようとしているのか。あるいは、一連の金融危機によって、紙幣や硬貨を絶滅の危機から救おうとしているのか。お金はお構いなしに自由に振る舞い、人間は永遠にお金の奴隷というわけか。金に目がくらみ、金で遊んでいるつもりが、金に弄ばれ、堕ちていく。天国と地獄の区別もつかんと。いま、テンポのいい文脈に乗せられて、ラジオからあの懐かしい ABBA の曲が流れてくる。Money... Money... Money...

1. お金は手に余る...
貨幣は、国家の信用度を裏付ける存在として君臨してきた。では、貨幣の信用は、どこから発しているのか?造幣局は、なにゆえ信用に足るのか?その後ろ盾となる国家は、どれほど信用できるというのか?それは、単に慣習がそうさせるのか?
お金ってやつは、ますます神秘性をまとい、人類を迷信へと駆り立てる。貨幣が仮想的な存在であることを最初に世に知らしめたのは、おそらく貨幣偽造であろう。贋金で敵国の財力を削ごうとする策謀は、古代の記録にある。贋金の歴史は、賢い人間のことだから、おそらく貨幣の発明とともに始まったのだろう。犬のディオゲネスとあだ名された犬儒学派の哲学者は、価値の本質を問い、貨幣の真の意味を問うて偽造に及んだがために、国外追放をくらった。この御仁がお金の犬になったのかは知らんが、彼の武勇伝に陶酔する酔いどれ天の邪鬼が子猫ちゃんの犬であることは確かだ。
やがて科学の時代が到来し、それでもなお、仮説を嫌ったニュートンまでもが錬金術に嵌った。お金が人を変えるのか。人の本性を露わにするだけなのか...
人間には、お金は手に余る。自由に泳がせておくのが一番。そう考えてお金の哲学に奔走したアダム・スミスは、後に経済学者と呼ばれたことを、あの世で迷惑しているかもしれない。
とはいえ、彼に始まる経済学が、宗教心が旺盛で迷信の強烈な時代に、価値の概念に若干の客観性を与えた功績は大きい。お金が暴走を始め、国家の信用度が下落すれば、ただちに何らかの対策を講じなければと権力者は焦る。そのためには、まずお金の正体を知らねば。だが、その正体が一向に見えてこず、イデオロギー論争にすり替えられてきた。経済政策とは、対立的なイデオロギー選択の問題とも言えよう。しかも、持つ者と持たざる者の闘争という形で。そして、経済学の歴史とは、金融政策と財政政策の綱引きの歴史であったか...
金本位制の理念は、貨幣を通じてのグローバリズムの試みであった。だが、何を本位にしたところで... 現代でもその名残をとどめ、貨幣の信用度に疑いが広まると、すぐさま鉱山物へお金が流れる。変動相場制は、金融政策に強烈な存在感を与えた。だが、市場はしばしば政策立案の思惑とは真逆の反応を示す。やはり人間には、お金は手に余る...
「公開市場政策、公定歩合、再割引率という概念ほどに神秘性に包まれたものは、実はないくらいである。これは、経済学者や銀行家が、その他市民のうちのもっとも物識りとみなされる人たちでさえが自分の理解を超えると考えるような知識に対して、特別の理解をもっていることを誇りとしてきたからにほかならない。公開市場政策というのは... 中央銀行が証券類を売却することであって、こうした操作は、商業銀行または普通銀行から貸付用の資金源である現金ないしは準備金を吸上げることになる。公定歩合と再割引率とは同じことで、これは、一般の銀行が中央銀行からの借入れによって苦痛なしにその現金ポジションを取りもどすことを妨げる効果をもつ。これだけのことなのだ。こうした手法が前世紀を通じて発展してきた背景に照していうならば、そのいずれもが、状況に対するきわめて単純で自明でさえあるような対応策にほかならず、それが神秘的であるなどとは、とうてい言えそうもない。」

2. 歴史をお金の目で眺めると...
歴史をお金の面から観察すると、人間社会の醜態が見えてくる。奴隷解放運動として名高い南北戦争の真の目的とは。自由精神を信条としたルネサンスのもたらした真の結果とは。インフレ要因となるものすべてを毛嫌いするのは、経済学の伝統のようである。
南北戦争においては、リンカーンが発行した「グリーンバック紙幣」に対して歴史家の評価は厳しい。その考察では南部と北部の産業格差が浮き彫りになるが、農業経済と工業経済の対立構図は現代の構造的問題と同じ。そして、政府紙幣が、金が金を生み出すシステムを助長してきたという見方もできそうか。
ルネサンスにおいては、通商の復活が見て取れる。まず、造幣局の次に銀行が出現した。銀行業はローマ時代にはっきりとした形で存在したそうだが、中世に高利貸しに対して宗教的な反発が生じて衰退したらしい。ルネサンス時代、宗教的な配慮よりも金銭上の利益の方がまさっていく。自由精神は金儲けの欲望までも解放してしまったか。当時のヴェニスやジェノヴァの銀行は、現代の商業銀行の先駆者として認められているという。偉大さにおいては、どんな銀行家よりも、ロスチャイルド家や JP モルガンでさえも、メディチ家に及ぶべくもないと。
お金を自然増殖させるシステムでは、銀行券が大きな役割を果たす。なにしろ利息が自然発生するのだから。ガルブレイスは、銀行の基本的な問題を、こう書いている。
「銀行業の性質上 100% の用意のない貴金属を求めて預金者や銀行券保持者が殺到してくるような可能性に対し、どのようにして貸付を制限するべきか、その他の予防手段を講ずるべきか...」
まさに、自己資本比率の問題ではないか。おいらが経済学に抱き続けた懐疑的な概念の一つ。それは、金融危機の主役を演じてきたレバレッジの問題に通ずるものだ。どこまでの範囲を自己資本と定義するか、という問題もあるが、返済義務が法的に発生しなければ、すべて自分のものと考えるのが金融屋の感覚のようである。いずれにせよ、BIS規制ですら 8% 程度という低水準を知って、ド素人感覚で唖然としたのは昔のこと。いつ信用不安が広がり、いつ金融危機が起こっても不思議ではない、資本主義ってやつは実に紙一重で機能している、というのは歴史的観点からも本当のようである。資本主義は、お金を自然増殖し続けなければ持たない、自転車操業状態というわけだ。
しかしながら、これは資本主義だけの問題とは言い難い。お金にかかわる人間社会そのものの問題なのだろう...

3. 価値尺度と市場原理
人の価値観は極めて主観的に決定され、これを客観的に解決することは絶望的である。そこで市場原理は、価値の尺度を統計的に解決する方法論として、欲望の群れを相殺する形で機能させようとする。中には、金銭的な欲望よりも優先すべき欲望を知っている者もいるだろうし、金銭的な欲望しか知らない者でも、誰かが儲ける方法を編み出せば、その裏をかいて儲ける方法を編み出し、その無限循環を突いて価値が均衡する、といった具合に。ここに、自由放任主義の原点がある。
つまり、欲望の多様性こそが鍵というわけだが、市場参加者の価値観は偏りすぎるほどに偏っている。人間の価値観は、市場に参加した途端に一様性へ向かわせるのか。やはり金に対する人間の態度は本能的なもののようである。
さらに価値尺度の偽装は巧妙化し、「信用格付」なんて概念まで登場した。価値のない債権に最高格付を与える格付会社の出現が、数多の金融危機を招いてきた。おまけに、こいつは公的機関のお墨付きときた。価値の変動を餌にサヤ取り技術を進化させ、その技術が価値の変動を煽る。価格の安定を問題とする経済学は、その変動に魅せられて本来の目的を見失ってしまったか...

4. 財政政策とケインズ信仰
一世紀以上も経済学を支配してきた「セイの法則」は、総供給と総需要が常に一致するという考えを中心に据える。失業は一時的な失敗現象で、放っておけば、いずれ完全雇用に落ち着くとする楽観的な考えである。この宗教的信仰に終止符を打ったのがケインズで、彼は深刻な失業状態でも均衡しうることを示した。身体が血液循環を頼みとするように、経済は資本循環を頼みとする。浪費家の自転車操業では、資本主義はすぐに息切れする。いくら貯蓄しても、それがまっとうな投資に向かわなければ、やはり息切れする。その投資刺激を市場原理に任せるだけでは不十分とする考えは、いまでは広く受け入れられている。
ただ、ケインズが論じたのは不均衡状態である。ケインズ体系の実証例として、よく持ち出されるものにヒトラーの経済政策がある。一貫して公共支出のための大規模な借入れを主体とし、アウトバーン、鉄道、運河などの建設、そして軍備拡張で、大失業問題をあっさりと解決してしまった。しかし、ガルブレイスの見方はちと違う。当時の超ハイパーインフレが、他に方法がないという事態にまで追い込まれていたからであって、ましてや第三帝国の面々が書物に親しむような連中ではなく、彼らの頭に金融政策という概念すらなく、偶然にも財政政策を実施したに過ぎないと。その証拠に、後の数年でナチス経済を絶滅させてしまったと。
金融政策が支配的な時代に、財政政策の重要性を指摘したのがケインズである。ケインズ体系の中心に、経済の生産物に対する総需要が経済の総生産を決定するという考えがある。まさに数学者らしく、産出量の水準と雇用の水準の関係において、かつて独立変数であったものを従属変数にしてみせた。ニューディール政策にしても、ファラオ時代のピラミッド建設にしても、公共事業の経済効果が絶大であることは確かである。クラウゼヴィッツ風に、戦争もまた政治や経済の手段だとすれば、第二次大戦後のアメリカがそれを実証してみせた。戦争ってやつは、見事に人手不足を体現してやがる。大不況で遊んでいた施設や労働者を、すべて戦備物資の生産に向けることができたのである。実は、第二次大戦こそがニューディール政策の根幹だったのでは、と解するのは行き過ぎであろうか。
しかしながら、ここにケインズの弱点が同居する。まず、何をもって不均衡とするか。はたして、完全雇用状態はありうるか。平時であれば、どんなに好況であっても不況で喘ぐ人々が少なからずいるし、好調の産業もあれば、衰退していく産業もある。労働賃金はベースアップすると下げにくい。支出が増大すると削減しにくい。欲望エントロピーは、軽いインフレを求めているようである。
ケインズの理論は、財政政策を裁量的に実施する... と言えば聞こえがいい。だがそれは、誰の裁量?いつ誰が発動する?予算はすべて消化しないと翌年度の予算が確保できないとなれば、官僚的思考に陥ってしまい、投資はたちまち浪費の餌食。箱モノづくりをちらつかせて地元の土建屋を喜ばせ、それが票につながるとなれば、政治屋はケインズがお好き...

2018-12-02

"不確実性の時代" John Kenneth Galbraith 著

世界を不確実にしているものとは何であろう。それは人間が関与するからにほかなるまい。神は嘲笑っているだろう。目の前に迫る危機にも気づかず、ひたすら邁進する人間どもを。だが、時間の矢に幽閉された精神の持ち主にできることは、それしかない。信仰や迷信に縋り続けるしか...
スミスの唱えた「見えざる手」は、いつのまにか「神の御手」に昇華させ、無慈悲な自由競争を旺盛にさせてきた。自由放任主義が行き詰まると、マルクスやケインズに攻撃され、今度は政府に希望を託した。経済学者が呪文のように唱えてきた、見えざる手、自由放任主義、金本位制、労働価値説、社会ダーウィン主義、マルクス主義、ケインズ革命... いずれも自足を満たせずにいる。経済思想ってやつは、常に移ろいやすく、しかも極端に触れ、おまけに過去の思想はゾンビのように蘇り、中庸の哲学とは無縁と見える。
優秀な政策立案者が施してきた経済政策にしても、しばしば的を外し、むしろ逆効果を生む。おせっかいな政府よ、なにゆえ、こうも社会をいじりたがる。おかげで、収奪的で適切さを欠く国家の手に委ねるより、見えざる手に委ねる方がまだまし、という考えはしぶとく残る。
異端者として登場したケインズは正統派の預言者となった。だがそれも、特別なケースにおける処方箋であった。よく見かける景気政策に、金持ちを優遇すると貧乏人が牽引される、といったものがある。だが、貧乏人が潤う前に景気は後退し、格差を助長してしまう。これが経済サイクルというものか。神は自責の念にかられているだろう。かくも多くの貧しき者をつくり給うたことを。だから、貧しき者を愛すというのか。なるほど、神の存在意義を強調するためにも、世界は不確実なままにしておくのがいい。そうでなければ、宗教の存在感も目立たなくなるだろう...
「一般理論は... 聖書や資本論と同様、それは、おそろしく曖昧であり、また聖書やマルクスの場合のように、その曖昧さが改宗者を獲得するのに非常に役立った。私は、あえて逆説を楽しもうとしているのではない。読書というのは、多くの努力を重ねたうえで理解に達した時には、その信念に強く執着するようになるものなのだ。」

ジョン・ケネス・ガルブレイスは、著作「ゆたかな社会」の中で、有閑階級の何が悪い... というようなことを書いた。経済学を学ぶと自己中心的になるという説を聞いたことがあるが、その大前提に自分だけは損をしない方法論という見方がある。保守的な意味では良い面もあるが、経済政策では露骨に国益を正当化してしまう。ただ、利己心にも称える言葉がある。教化された利己心... 啓発された利己心... といった形容の仕方で。まさにガルブレイスは、本格的な自己啓発、自己実現、そして自己投資の時代が到来したと言っているように映る。この酔いどれ天の邪鬼の解釈に、ちと行き過ぎ感は否めないにしても、生産や消費を煽る経済理論に行き詰まり感があるのは確かである。
ここでは、経済学界から逃避するかのように、テレビ界に救いを求める。原題 "THE AGE OF UNCERTAINTY." は、BBC 放送の連続番組の台本を作るために書き下ろした原稿を一冊にまとめたものだそうな。経済思想史を重要視している点に感銘を受けるが、なぜか経済学では異端とされるらしい。飽き飽きした学者連と議論するよりも、不特定多数の聴衆に訴えた方が合理的というわけか...
「経済学の分野で筆がたつということは、怪しまれるもとである。しかも、それには十分の根拠がある。名文は、人を説得する力をもっているし、また、頭脳が明晰でなければ、良い文章は書けぬ。自分自身が理解していないことを、うまく表現するということはできない。だから、わかりやすい文章というのは、一種の脅威とみなされる。つまり、頭の悪さを文章の難解さで隠す数多くの学者にとっては、何かおそろしく打撃を与えるもののように感じられるのだ。ケインズは、その気になれば、名文の書ける人だった。このことが、彼が疑いの目でみられた理由の一斑をなしていたのである。」

ところで、ガルブレイスの文脈は、独特の歯切れのよい名文だという。特徴的な分かりやすさを具えているとか。「ガルブレイスは、薬の処方を、読みそうもないラテン語で書く代りに、明快な英語で綴る医者みたいで、経済学者の常套手段である難渋さの陰にかくれるようなことをしないのは、ずるい」と言われたくらいだそうな。しかも、なぜか好んで男女間の交渉を皮肉をこめて話題にすることが多いという。女性とのかかわり合いを、予想もしない箇所に品を落とさぬよう持ち込むのがガルプレイス流なんだとか。この書は、彼の武勇伝だったのか。そのあたりは軽く読み流してしまったではないか。そういうことは先に教えといてくれないと。暗示にかかりやすい酔いどれ天の邪鬼は、この分厚い大作を最初から読み返さずにはいられないのであった...
尚、TBSブリタニカ版(都留重人監訳)を手に取る。

1. 主義や思想よりも既得利益か...
日常の政治議論では、その人が右か左か、リベラルか保守か、自由主義か社会主義か、といったことを気にかける。議論する側も、聴衆の側も。ただ、既得利益に対する態度は、どんな主義であれ、どんな思想であれ、あまり変わりがない。本書は、思想が既得利益にまさる場合もあるにはあるが、思想が既得利益の申し子である場合も極めて多いと指摘している。
産業革命や技術革新で経済思想の様相も随分と変わった。古代から盛んだった利息と高利貸しといった経済活動は生産へと向かい、食うための生産から付加価値を求める生産へと移行してきた。そしてさらに、人生にとって意義ある生産へと向かうのかは知らんが、金融屋の行動パターンは相も変わらずサヤ取りにご執心と見える。資本家と労働者の関係にしても、かつての地主と小作人、もっと古い飼い主と奴隷を言い換えただけで、労働市場が拡大するとともに、その仲立ちをする奴隷商人も多忙と見える。持つ者と持たざる者が生じるのは、人間社会の掟であろうか。人間と人間の間に所有関係が生じるのも、既得利益の賜物であろうか...

2. 労働運動の首謀者は...
「労働者の国家」とは、なんと心地のよい響きであろう。だが、マルクス的な労働運動にしても、階級の存在が前提される。植民地に、ブルジョアジーもプロレタリアートもあるまい。結局、既得利益や既得権益にしがみつくのであれば、労働者の間にも階級が生じる。階級闘争を煽るためには階級の存在が不可欠。資本主義の理念は平等社会を助長しない。
だからといって、平等主義に邁進すれば、個人の努力や創造力を損ない、文化を一様で単調なものとする。教育や芸術を活発にするには金持ちも必要。野心を罰っすれば、投資意欲を失わせ、リスクを冒す企業家を腰抜けにする。
政府のできることといえば、必要最低限の生活保障以外に何があろう。だが、これにも既得利益や既得権益が蔓延り、下手すると社会保障制度はタカリ屋を助長させる。階級ってやつは、貧乏人の世界にも生じ、人の不幸を見て救われるのである。それは、差別好きな人間の性癖であろう。
革命をもたらす思想は、大衆からは発しない。最も不満を持ち、最も反抗する者からは発しない。資本主義を恐慌から救った思想も、実務家や銀行家、あるいは株式所有者からは発しない。思想ってやつは知識人から生まれるのであって、これに踊らされる庶民という構図は変わらないようである。労働者の解放は実にいい。だが、それが自己の解放でなければ、いったい何を解放したというのか...