2008-10-26

"方法序説" René Descartes 著

科学者の本を読んでいると、デカルトの解釈について語っているものをよく見かける。それも、科学や数学の根底に哲学があることの証であろう。その解釈とは、デカルトの言葉をめぐってのものである。デカルトの名前を見かけるごとに、なにやら懐かしい風を感じる。ちょいと、昔読んだ本を読み返してみることにした。本書を読んだのは、おそらく20年ぐらい前であろう。デカルト曰く、「我思う、故に我在り」そして、自己の存在を証明し、神の存在までも証明してしまう。ちなみに、アル中ハイマー曰く、「我時々思う、故に我時々存在するような気がする」そして、自己の酔っ払いを証明し、俗世間では皆が泥酔していることを証明してしまう。

古代ギリシャやローマ時代から営まれた奴隷制を核とする伝統主義は、ゲルマン人によってヨーロッパの隅々にまで浸透させた。中世ヨーロッパには、伝統的慣習は絶対であるという思想を元に、ローマ教会の権威によって統一された世界がある。しかし、その時代に思想の大変革が起こる。宗教改革やルネサンスである。宗教改革は伝統主義を打ち破り、奴隷に強制された労働の価値が見直される。奴隷は農奴という地位を獲得し、労働そのものが神聖なものへと変貌する。この思想の流れは、いずれ資本主義や民主主義といった思想を加速させることになる。その一方で、ルネサンスは昔の時代を懐かしんだ文化の再発見をする。そこには秩序を重んじる思想がある。そして、宗教改革による人間の解放と、それを秩序立てる文化思想が融合し、政治思想的なものが誕生する。従来のローマ教会を中心としたヨーロッパ集合体のようなものが、いずれ国家単位による政治体制を形成することになる。デカルトはそうした変革の流れで生きた偉人の一人であるが、変革気運が一気に高まり近代社会の基礎とも言える時代を生きたのも、単なる偶然ではないのかもしれない。

デカルトの言葉は揶揄されることも多い。ただ、そう簡単に片付けられるような内容だったっけ?高尚な哲学者や文学者というものは、物事をストレートに表現しないことも多い。そこに、照れ隠しのように暗喩めいたものを匂わせ、どことなく芸術性を高める。逆に、一つ二つの言葉から、とんでもない解釈を生み、それが流布されることもある。哲学や思想の解釈では、どれが正しいかというのが重要であるが、どの解釈を好むかも重要な要素としたい。それにしても、哲学という世界には、なんと無意味な命題が氾濫していることか。人間の存在すら無意味であるという証なのかもしれない。多くの哲学者や数学者は人間の精神を論理的に解明しようとしてきた。はたして、論理的思考がどこまで真理に近づけるだろうか?ウィトゲンシュタイン曰く、「示すことができても語ったことにはならない。」まさしく、デカルトの言葉は、とらえどころのない命題である。

「方法序説」は、デカルトが初めて公刊した著作であるが、1637年に著名者なしで出版されたという。正確なタイトルは、こんな感じで長ったらしい。「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」これは、500ページを越える大著で、最初の序文78ページが「方法序説」に当たるらしい。デカルトは、精神と身体、主体と客体の二元論、精神と神の形而上学、数学をモデルとする方法論、自然や宇宙の探求など、新しい学問を提示する。ただ、デカルトの生きた時代は、ガリレオの断罪事件でも見られるように、新しい思想を唱えると弾劾された時代でもある。コペルニクスの書が法王庁の禁書目録に加えられ、宇宙の無限を構想したジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられるなど、アリストテレスやスコラ哲学に反する説は、死に処せられた。こうした時代背景で、異端審問に怯えつつ「方法序説」の発刊をためらう様がうかがえる。自然学全体を秩序立てて調べようとした著書「世界論」は、刊行を中止したという。なんとなく愚痴っぽい文章には社会への反感が表れる。だが、普遍的な価値を信じ、使命感により後世に残すことを決意した旨を語ってくれる。本書は、真理を探究するための方法を万人向けに示すものではなく、デカルト自身が真理探究をした体験談である。

1. 学問の探求
冒頭から「良識は、この世でもっとも公平に与えられるもの。」と始まる。デカルトは、良識は誰もが十分に具わっていると主張する。真偽を区別する能力は、本来、良識や理性と呼ばれるもので平等に具わっているという。よって、意見が分かれるのは、ある人が他の人よりも理性が具わっているということではなく、異なる道筋で導き、同一のことを考察していないことから生じるというのである。また、大きな魂ほど、最大の美徳とともに最大の悪徳をも生み出す力があると語る。デカルトは、次のように学問の探求へと誘う。
「雄弁術には、比べるもののない力と美がある。詩には、うっとりするような繊細さと優しさがある。数学には、精緻を極めた考案力がある。神学は、天国に至る道を教えてくれる。歴史や寓話は、世紀を渡って人々と交わる旅へ導く。哲学は、どんなことでも、もっともらしく語り、学識の劣る人に自分を賞賛させる手だてを授ける。法学、医学は、それを修める人に名誉と富をもたらす。」
学問するということは、どんなに迷信めいたことや怪しげなものにも、欺かれないように気をつけるために良いものであると語る。たとえ、修辞学などを習っていなくても、強い思考力を持ち、自らの思考を秩序よく明晰で分かりやすくする人ほど、主張を納得させることができるという。そして、その着想は人の意にかない、しかも、それを文飾と優美の限りをつくして表現できる人は、詩法など知らなくても最良の詩人であると語る。
デカルトは数学を愛した。それは論証の確実性と明証性に惹かれたからである。これとは反対に、習俗を論じたストア派の書物は、壮麗で豪華ではあるが、酷く美徳を持ち上げ、この世の何よりも尊重すべきものと見せかけるので、砂上の楼閣であると酷評する。ストア派が語る美徳は、無感動、傲慢、絶望、親族殺しになることが多いと皮肉る。また医学への思いも熱く語る。健康はまぎれもなくこの世で最上の善であると考えた。精神でさえも健康に依存するものだ。人間を賢明で有能にする共通な手段があるとすれば、それは間違いなく医学の中にあると信じているという。その中で、機械的な人体論、心臓と血液循環、動物と人間の差異などが哲学的に語られる。
デカルトは言う。
「生きるために残った時間を、自然についての一定の知識を得ようと努める以外には使うまいと決心した。」

2. 「我思う、故に我在り」
形而上学的では、まず自らが何ものかを定義でなければならない。しかし、目の前の実体が、何もかも夢を見ているかのように感じることはよくある。人生そのものが夢のようでもある。身体もなく、世界もなく、自分のいる場所など無いと想像するのは案外簡単である。だからといって、自分が存在しないと想像するのは難しい。この精神の存在を説明するのは難しいものだ。デカルトの言葉は、思考することこそ、自分自身の実体を認識できるというものである。逆に言えば、思考をやめるだけで、自分自身が存在する理由もなくなる。自己という実体の本質は、考えるということだけであって、存在するためにどんな場所も必要なく、いかなる物質的なものにも依存しないということである。ここでは、魂は身体という物体と完全に区別される。そして、精神は身体よりも認識しやすく、たとえ身体がなかったとしても認識できるものだと語る。人間が実体を意識する時、だいたいはその形やら色やら五感で感じられるものをイメージするだろう。しかし、デカルトは、何かをイメージできないと考えられない人は、神を認識することも、魂が何であるかを認識することもできないという。デカルトは、神や魂の存在が信じられない人々に語りかける。身体や天体や地球が存在するというのだって不確かであると。神の存在を前提としなければ、三角形の角の和がニ直角に等しいなどの幾何学の問題も、夢の思考も、人の想像力も、説明できないではないかと。よって、全て実在であり、神に由来することは真であると。
そうなると、天邪鬼のアル中ハイマーは思いっきり疑問を投げつけてやるのだ。人間の観念に虚偽や不完全性が含まれるのはなぜか?人間は完全無欠ではないことをどう説明するのか?神は完全でまったく真であるはずではないのか?神に由来するということは、真理や完全性が無に由来するのと、同じくらい矛盾するではないか?ちなみに、デカルトもこうした疑問があることも認めているようだ。

2008-10-19

"ソクラテスの弁明・クリトン" プラトン 著

学生時代から、それほど感性が変わっているとは思えないのだが、昔読んだ本が新鮮に感じられるのは、自分自身に多少の変化があるのだろうか?いや!単に記憶領域が破壊され、精神が泥酔したに過ぎない。アル中ハイマーが、本書に出会ったのは、おそらく20年ぐらい前であろう。本棚を整理していると、なんとなく読み返したくなった。なぜか?ブログを始めてから、こういう心情になることが多い。それも悪くない。書籍代も節約できてありがたい。

奴隷制度の盛んな古代ギリシャ時代にあって、現在においても全く違和感なく読めるのも不思議である。それだけ「人間」の範囲が進化したという証であろうか?人類の歴史は、「人間」という身分を巡っての抽象化の歴史と言ってもいい。アリストテレスの世界観には「生まれつき奴隷」という概念がある。対して、ディオゲネスの逸話には、こんなものがある。「人間どもよ!と叫ぶと人々が集まった。おれが呼んだのは人間であって、がらくたなんぞではない。」労働は奴隷に強制し、哲学できる身分と言えば「人間」という特権階級に与えられた時代。哲学は多忙過ぎる労働者には馴染まない。そこには素朴な精神の解放が求められるからである。哲学は暇人の学問であると思う所以である。

プラトンの対話篇の中でも、「ソクラテスの弁明」、「クリトン」、「ファイドン」の三つの作品は、ソクラテスを登場させる不朽の名作と言えるだろう。プラトンは、ソクラテスの生き様に影響を受け、真の哲学を会得しようとした。ソクラテスがいかに生きたかは、彼自身書き残したものがないため、弟子たちの描いたものに頼るしかない。これらは、おそらく創作的なものが多く、神聖化あるいは理想化したところもあるだろう。どこまで、ソクラテスの精神に近づいているかは、歴史的には解明する術がないようだ。ただ、プラトンという詩人を通して、一つの芸術に達しているのは間違いない。プラトンは、ソクラテスの行動を正しいものとして証明しようとする。師と仰いだソクラテスが、不信心にして、新しき神を導入し、青年を腐敗せしむる者として死刑を宣告されたことに我慢がならなかったのだろう。ソクラテスの弁明というよりは、プラトンの代弁と言った方がいい。

1. ソクラテスの弁明
ソクラテスは、裁判によって弾劾される。そして獄中からアテナイ市民に語りかける。その弁明は、ソクラテスが最高の賢者であるという「デルフォイの神託」が下ったところから始まる。ソクラテスは、神託に対する反証をあげるために、賢者たちを尋問してまわる。そして、政治家がほとんど知見を欠いていることを暴いてしまう。詩人にいたっては、作者以上に鑑賞者の方が優れた芸術性を理解していることを見破る。彼は、賢者と言われる人々が虚偽を言いふらしていることを公表したために、多くの敵を作り、多くの誹謗が起こる。賢者の無知を論証するごとに、ソクラテスが賢者であるという評判も高まる。
「人間達よ、汝らのうち最大の賢者は、例えばソクラテスの如く、自分の知恵は実際何の価値もないものと悟った者である。」
ソクラテスが国家の信じる神々を信じないで他の新しき神霊を信じるが故に、青年を腐敗させるとして悪評が広まる。だが、ソクラテスは反論する。国民議会の議員や、裁判官たちに青年を教育したり、善導する力があるのかと。そして、彼らが、青年たちのことを心配などしていないことを論証する。ソクラテス自身は、青年たちを腐敗する者ではない。あるいは、もし腐敗させる者としても故意ではない。ある神々の信仰を教えているところからしても、無神論者ではない。ちなみに、無神論者を罪とする風潮があった時代であるから、そのあたりはしっかりと反論する。ソクラテスは、おそらく、裁判官に媚を売り、罰金も払えば、無罪になったであろうと言われている。友人や弟子たちに説得もされたであろう。だが、自身の信念を変えようとはしなかった。
「死とは、人間にとって幸福の最上なるものかと問えば、知っている者はいない。では、最悪のものかと問えば、人々は覚知しているかのごとく、死を恐れる。」
ソクラテスは、自ら善か悪かも分からないものを恐れたり避けたりはしない。死を恐れて、正義に反して譲歩などするはずもない。死を禍とは思わない。彼は、他の不正裁判によって殺された昔の人々に逢えるとしたら、愉快なことであるとも語る。そして、死を課した人々へ予言する。ソクラテスに課した死刑よりも、遥かに重い罰が諸君に下るであろうと。今よりも多くの問責者が出現し、彼らによって深く悩まされるであろうと。不正裁判で人々を殺すことによって非議を阻止するならば、それは間違いであると。死期に迫った人間には、最も強い予言力を発揮できるとして警告を発する。

2. クリトン
獄舎に面会に来た友人クリトンとソクラテスが対話する。クリトンは、なんとかソクラテスを救おうと思っている。そして脱獄するように説得する。真の賢人の死は世のためにならないと。青年たちを教育できる者が死を望むなど裏切り行為であると。息子達を見棄ててはならない。死は一番楽な道である。徳があって勇敢な人が選ぶ道ではない。一生を徳の涵養に捧げると公言する者なら、なおさらである。不名誉なことであるから熟考してくれと訴える。そして、クリトンの主張するソクラテスの命を救うための論理と、ソクラテスの主張する生き様という論理の問答が始まる。ここで描かれるテーマは、国家の意志に服すべきか、それとも矛盾する正義に従うべきかである。法の決定が個人の意志によって左右されるような国家は存続できない。人々は、法に教育されて、市民権を行使する能力と資格とを獲得している。国民が存続できるのは国法のお陰である。国民は生まれながらにして国民たる義務を果たす契約をしている。ソクラテスはそうした立場を通した。そこには、ソクラテスの愛国心が強かった様が描かれる。しかし、国家こそが不正を行い、正当な判決を下さなかったのだ。これは両者の意見とも一致する。ソクラテスは続ける。死ぬ恐れのある戦場へ送られるだけのことで、戦場でも法廷でも、同じことではないのかと。気に入ることには服従し、気に入らないことには服従しないのでは、もはや国家は成り立たない。国法を無視して、これを滅ぼそうとする行動はできない。これも神のお導きだとする論理が展開される。ソクラテスは自らを死へ導いているかのようである。クリトンは最後に言う。もう何も言うことはないと。

2008-10-12

"人間の安全保障" Amartya Sen 著

今夜は、最近マスコミを賑わしている三大キーワード「ノーベル賞」、「株価暴落」、「事故米」で作文して遊んでみたが、ちょっと無理があるなあ。

ちょうどノーベル賞の受賞ラッシュで沸きあがる。それも、理系の分野で日本人が活躍しているのは喜ばしい。だからというわけではないが、立ち読みしながら物色しているとノーベル賞ネタを見つけた。ただ、ここで扱うのは分野が違う。著者アマルティア・センは、アジア初のノーベル経済学賞の受賞者。著者に興味を持ったのは、経済学を社会学の延長として捉えているところである。また、インド人の立場からの意見も興味深い。ちなみに、アル中ハイマーは、ノーベル賞で経済学賞と平和賞を懐疑的に思っている社会の反抗分子である。それも仕方がないだろう。経済学賞では、LTCMで代表されるように、国際経済危機に陥れた人物が受賞している。そもそも、経済学賞はノーベルの意志で継がれた部門ではない。平和賞では、極めて政治色が強く、共産主義体制から民主化への移行に貢献したと言われながら腐敗組織を温存したままの改革だったり、環境問題に貢献したと言われながら指導的立場にあるにも関わらず自国政治の環境意識はほったらかしだったりする。
連日、株価暴落がマスコミを賑わしているが、はたして実態経済はどうなっているのだろうか?最大の問題は、経済が金融システムの依存度の高いところにある。金融危機に陥いると、金融システムの体力がそのまま経済に悪影響を及ぼす仕組みとなっている。銀行の自己資本比率の低さには素人ながら唖然とさせられるが、BIS規制ですら8%の義務しか課していない。しかも、自己資本という定義も怪しい。株券で集めた資本は寄付金ぐらいにしか思っていない。確かに、金融システムからの資金提供が大きければ、それだけダイナミックな経済活動を誘導できるだろう。だが、無理やり資金を動かし不良債権化を拡大する結果を招いている現実は見逃せない。彼らは、リスクを複雑化して偽装するのが得意だ。まるで、将棋のような論理ゲームで不利と見るや、無理やり形勢を複雑化する手を打って、勝負の行方を難しくするかのように。おまけに、格付機関が、そのリスク評価に最高の信用度を与える。まるで、裏取引でもあるかのように。世の中が何かの拍子で社会不安に陥ると、群集意識は一斉に危機感を募らせ、行動もある方向へ一斉に向かわせる。しかも、こうした行動をマスコミの扇動が増幅させる。宇宙の持つ合理性は、群集の持つ不合理な行動によって相殺される。その一方で、常識では不合理とされる現象を、合理性と解釈する人々がいる。ヘッジファンド系の投機家連中は、そうしたイベントをいつも待ち構えている。彼らは、群集が向かう方向と逆ポジションで仕掛ければいい。そもそも、宇宙には合理性というものが存在するのか?人間の都合で解釈されるものではないのか?株価の暴落で資産が減った人々は、こういう危機を理解しているだろうが、それが原因で社会不安まで引き起こされては迷惑な話である。十年に一度、金融危機が起こるという現象からして、もはや、金融システムは社会の邪魔でしかない。一般企業では、金融の依存度を少しでも低減したいという防衛意識も芽生えるだろう。製造業などが、自らのグループ会社に金融部門を設けようとする動きも分からなくはない。資本主義が成熟すると、金融の役割も終わりを告げるのかもしれない。
そもそも、経済は何のために存在するのか?政治や経済が貢献するべきことは、社会安定を図ることではないのか?経済システムは、資産価値の評価を正当なもので安定させる必要がある。いまや、金融システムに依存しない体質を持った社会システムの構築が急務である。そのためにも、資本主義とは何か?民主主義とは何か?という素朴な疑問に立ち返ることであろうが、政治 + 金融 + マスコミという魔のトライアングルにはダース・ベイダーが潜み、人間社会の転覆を目論んでいる。今宵の純米酒は、やけに愚痴っぽくさせやがる。事故米でも入っているのかな?
さあ!遊びはこのぐらいにして、そろそろ本題に入ろう。

ちょうど株価暴落が伝えられることもあり、経済学をネタにするのも悪くないと思ったのだが、本書は社会学に属する。経済学を掘り下げると、どうしてもそうなるのだろう。世界銀行は貧困の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命とすると言われるが、それは本当だろうか?現在のグローバル化に警告を発する専門家も少なくない。彼らはグルーバル化を反対しているのではない。市場の意識や制度的な枠組みにバランスを欠くと訴えている。著者も、そうした中の一人であろう。本書は、市場システムや経済活動が、民主主義の確立や初等教育の拡充といった問題よりも、市場の拡大にばかりに関心を持ち、弱者の社会的機会を奪っていると主張する。題目の「人間の安全保障」とは、紛争や災害、人権侵害や貧困など、地球規模の問題から生命、身体、安全、財産を守ることである。あくまでも個々の人間生活に焦点を当てたもので、軍事的に解釈する「国家の安全保障」という官僚的な概念とは同列に扱ってもらいたくないと熱く語る。そして、人権には倫理的な力と政治的な認知を必要とすることを訴えている。

1. 基礎教育
教育格差を縮めることが、世の中をより安全にし、より公平な場所にできるだろう。これが社会で最重要なのかもしれない。作家H.G.ウェルズは、「世界文化史大系」の中で、「人類の歴史では、教育と破滅のどちらが先になるのか、ますます競争になる。」と述べたという。
本書は、最も基本的な問題は、識字力や計算能力がないことであるという。読み書きや計算、あるいは意思伝達ができないことは、とてつもなく困窮状態と言える。生きることに必要なものが欠乏しているのに、その運命を回避する機会をも奪っていることになる。健康問題においても、感染症の蔓延を教育によって遮断できる。女性の教育と識字力が子供の死亡率を下げる。その一方で、女性の地位向上と自立能力が出生率を下げる。ここでは、イギリス連邦諸国の教育格差を焦点に語られる。それも、著者がインド人だからであろう。植民地時代の過去は根深いものを感じる。著者は、市場システムの擁護派が、学校の授業料を市場原理に任せようとしている動きを牽制している。学校教育は、自己認識や他人を見る目を養うためにも、行われれなければならないだろう。原理主義の宗教学校など、寛容性に欠ける狭量な教育が、子供たちの視野を狭める。公共機関による教育施設がないことが、好戦的な政治活動家によって、宗教学校の人気を助長させる。宗教を中心とした文明で人間を分類することは、政治不安を引き起こす。イギリス政府ですら、宗教別の公立学校を拡大しているという。元々多民族国家でありながら、イスラム教、シク教、ヒンドゥー教学校の創設運動が進んでいるのだそうだ。著者は、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」のような分類は、いかにも西洋主義的で、世界に政情不安を煽るものだと批判する。特にインドを「ヒンドゥー文明」として描いているのは、歴史的配慮が足らないと主張する。おいらは、「文明の衝突」は、おもしろく読んだが、民族問題を抱える社会や多宗教社会では繊細な問題のようだ。日本のなぬるま湯で暮らす酔っ払いは鈍感である。ただ、文明の分類とナショナリズムの高揚を同列にすることもないだろう。

2. グローバル化
グローバル化とは、世界を西洋化することではない。これは多くの経済学者が指摘していることだ。好意的な人は、世界に対して、すばらしい西洋文明の貢献だと考えるだろう。西洋文明が、良し悪しは別にして世界に大きな影響を与えてきたことは事実である。ルネッサンスに始まり、啓蒙思想が生まれ、産業革命へと発展し、西洋諸国の生活水準を上げてきた。その一方で、帝国主義のような支配が、問題の元凶となっているのも確かである。現在においても通商関係のルールは、世界の貧困層をより貧困へと導いている。本書は、こうした西洋化が、グローバル化の本質なのか?と疑問を投げかける。現在のグローバル化を、西洋的な一種の帝国主義と見るのは分からなくはないが、グローバル経済が、様々な地域に貢献している事実もあり、前向きに捉えるべきところもある。ただ、グローバル経済が、民主主義の確立や、初等教育の拡充、または、弱者の社会的機会といった問題に無関心なのも事実である。現在の制度的な枠組みは、全体のバランスを欠き、利益の配分を不公平にする。グローバル化の波は、今後も押し寄せるだろう。グローバル化そのものが悪いのではない。投資家ジョージ・ソロスは、「国際的な企業は、統制の取れていない民主主義国家よりも、秩序の整った組織的な独裁主義国家での活動を好む。」と指摘しているという。

3. 民主主義
民主主義は、歴史的にみても西洋文明だけのものではない。世界の至る所にその源泉を見ることができる。国際社会には、民主主義の本質を、公開選挙と主張する動きがある。しかし、権威主義社会では、独裁政権が驚くべき勝利をおさめた歴史がある。投票行為に圧力をかけられるだけでなく、検閲制度や反体制派の弾圧など、市民の基本的権利や政治的自由を侵害され、公の場で議論すらできなくなる。公開選挙は、一つの手段に過ぎない。これを主眼にすると独裁者を支援することにもなりかねない。公の場の自由な議論と相互の協議を保証することに主眼を置く必要がある。原則は、多様性を認め、多元主義に寛容であることであろう。著者は、民主主義の最重要課題は、公開選挙ではなく、基本的な権利と自由を認めることであり、重要なのは公共の論理であると語る。ところで、民主主義社会では飢餓は起こらないらしい。飢餓が起こるのは、帝国の植民地、軍事独裁政権、一党独裁国家であり、民主主義では、飢餓が起こる前に世論の批判に持ちこたえられないという。もし、飢餓が起こるとしたら、その国の民主主義に欠陥があるということか。著者は、西洋的主張が強い民主主義には、まず選挙という思考が働くことを嘆いている。
ところで、民主主義の基本は多数決と発言する人も多いが、それは本当だろうか?多数決の始まりは知らないが、おそらくローマ皇帝や国王の後継者を選出するあたりであろう。民主主義とは、本来、面倒な仕組みであり、議論の収束が難しい制度である。その効率化を図る一つの手段に過ぎないことを認識するべきであろう。多数決は、少数派に犠牲を強いていることにもなる。多数決の原理は、衆愚化させる可能性を否定できない。

4. インドの核兵器
核兵器や強大な軍事力は、本当に国力を高めるのだろうか?軍事費の圧迫によって、国家を弱体化している面もあるだろう。インドの周辺は、パキスタンや中国の核武装化もあり、ナショナリズムが高揚する地域でもある。日本では、今のところ、核武装の議論は世論によって阻止される。ただ、あまりにも拒否反応が強くて、核武装と原子力を同列に扱われるのはどうかと思う。核兵器は有益で、ただ威嚇のみに存在し、決して使うものではない、といった論調には説得力を感じない。これが、賢明な国家の自衛策なのか?と著者は疑念を抱く。インドやパキスタンだけを非難しても始まらない。そもそも、そうした非難をする国々は、ことごとく核を保有している。地球規模で不均衡な核の秩序が存在する。高度な武器を生産する大国は、軍事産業で自国産業を支えている。顧客を作らなければ、軍事産業は成り立たない。自国の安全のためなら、他国を大量虐殺しても構わないという論理、こうした政治家どもの横暴は、世論が監視するしかない。核を保持すれば、その維持費は税金で賄われることを自覚すべきであろう。核武装によって紛争が抑制できるという主張も怪しい。本書は、少なくともインドとパキスタンの間では、紛争を抑制できていないことを紹介してくれる。世界が冷戦時代に、核の危機から人類滅亡のシナリオを選択してこなかったのは、単なる偶然かもしれない。では、現在はその危機から脱しているのだろうか?更に、危険な領域に入り込んだと見ることもできる。インドでは、核の保有が常任理事国入りできる条件と考える動きもあったようだ。どこの国でもそう考える連中がいる。もし、核保有で常任理事国入りが認められれば、同様の国が増殖する。著者は、インドとパキスタンは、核保有で自ら墓穴を掘っていると嘆いている。

5. 人権と自由
人権を定義づける理論というものがあるのだろうか?人権とは、とらえどころのない概念である。国籍やその国の法律とは関係なく持っていて、誰もが尊重しなければならない基本的な権利、人間が生まれながらに持っている自然権という概念には、説得力が欠けると主張する人も多いようだ。アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言で語る歴史家も多い。日本の憲法にも、基本的人権は謳われる。自然権など戯言に過ぎないという有識者や法理論学者は案外多いらしい。その一方で、過剰な人権を主張する人々がいる。本書は、人権の宣言とは、本質的には倫理的な表明であって、法的な主張ではないと語る。人権が認められれば、その一方で大きな責任を負うことになる。倫理的な義務が生じる。人権を立法化する必要があるのかどうかは分からない。意味がないことなのかもしれない。地球規模で基本的な人権の範囲を規定することも難しい。規定すれば、法的な違反への罰則も必要だろう。著者は、公平に福祉が受けられないからといって人権を侵害していることになるのだろうか?と疑問を投げかける。そもそも経済が貧困で、福祉が成り立たない国があることを訴えている。自由が氾濫すると、人間は自由の概念を拡大する傾向にある。イギリスの経済学者ジェレミー・ベンサムは、法的な立場から自然権を攻撃したという。そして、功利主義が公然と主張される。いかにも経済学者が好みそうな世界である。権利の範囲を議論するならば、義務の範囲も議論されるべきであろう。人権の立法化、制度化の必要はあるのだろうか?制度化されなければ権利は認められないと主張する人もいる。確かに、制度化されないと不安ではある。制度化されない領域で人権を尊重できるほど人類は成熟していないかもしれない。しかし、法律は厳密さを要求するものであり、自然権や人権の自由といったものは厳密性とは相反する概念である。法律は万能ではない。法律とは、所詮、都合が悪くなった人のための言い訳の道具である。国連が主唱した世界人権宣言があるにも関わらず、人権が守られていない国でも公然と軍事援助がなされる。

2008-10-05

"スピノザの世界" 上野修 著

久しぶりにアマゾンを放浪していると、お薦めにスピノザの名前があった。以前から、彼の大作「エチカ」を読んでみたいと思っているが、なかなか手を出す勇気が持てないでいる。とりあえず、本書を手に取ってみよう。
スピノザは、17世紀の偉大な哲学者の一人であり、汎神論を説いた。それは、神(自然)が唯一絶対の実体であるとする考えである。彼は、アムステルダムのユダヤ商人の家庭に生まれ、幼少の頃からユダヤ教団の学校で学ぶが、自由思想家の影響で懐疑的となり、異端のかどで教団を破門となる。匿名で出版した「神学政治論」は無神論との批判を受け禁書ともなっている。その人物像は、批判者からでさえも「有徳なる無神論者」と呼ばれるほど高潔だったという。ちなみに、この形容は無気味な雰囲気を漂わせていたという。そもそも、無神論者を異様な人物とされた時代でもある。質素な暮らしぶりや、ハイデルベルク大学からの招聘を辞退するなどの有名な話も残っているが、決して社交的でなかったわけではなく、知的交流も多かったという。

スピノザになんとなく興味を持つのは、宗教が主張する神とは一線を画し、極めて科学的に捉えようとしているところである。それは、神というより宇宙法則という意味合いが強い。彼は、全ての事物や現象を神と呼び、そこには全て実体があると主張する。そこには、気象現象で雨や風や気圧といった様々な物理現象を組み合わせて「台風」と呼ぶように、神はあらゆる事物の属性から成り立つ唯一の実体、他を絶する実体といった考えがある。人間の精神も、一つの属性で一つの自然現象と捉える。名著「エチカ」は、正確には「幾何学的秩序で証明されたエチカ(倫理学)」というらしい。そして、ユークリッドを引き合いに出し、神や人間の自由について、幾何学的に考察されているという。はたして、ユークリッド的な幾何学原論のような主張が、哲学をどこまで掘り下げられることができるのだろうか?公理系のような書き方で、どこまで語ることができるのだろうか?幾何学仕様の倫理学というのも、なんとなく謎めいている。「エチカ」の訳書は、岩波文庫から出ているので、いずれ挑戦してみたい。本書は、スピノザがどんな事を語ったのか?どんなものを見たのか?を紹介してくれる入門書である。

スピノザは、世界そのものが真理でできており、人間はその真理の一部であると語る。そして、人間の精神も真理の一部であり、思考が真ならば、思考されている事柄と一致しなければならないという。また、現実にある事柄で、それを対象とする真なる思考に一致しないようなものはないと語る。だが、ばらばらに存在する人間が、知性において全員一致する真理に到達しようとしているとは、なんとも信じ難い。人間の真なる思考も、真理空間の一部に過ぎないというなら、なんとなく分からなくはない。そもそも真なる思考とは何か?そういうものが存在するとしても、未だに人類は到達できていない。いや、永遠に到達できないかもしれない。ただ、アル中ハイマーの思考が真だとすると、宇宙はハーレムになってしまう。多数決が正義だとすれば、多くの男性諸君に支持される真理であろう。

スピノザが、世間から無神論者とされるところは、ニヒリズムにも通ずるものがある。それも、宗教とは違って無条件に受け入れるのではなく、論理的解明を試みる世界があるからであろう。哲学は精神の論理的探求を求め、宗教は精神の絶対的服従を求める。人類が哲学を論理的に解明しようと試みるのは、宇宙の正体が単純な法則に従っているに違いないと信じるからであろう。そこには、真理には美しい何かがあると信じてきた偉大な哲学者や科学者の執念がある。だが、哲学的思考が人間の精神の領域に到達すると、ついに語れない境界があることを知らされる。哲学は、誰のためにも語ることはない。うんちくや説教も垂れない。ただ、闇雲に真理を探究し、永遠の旅を続けるだけである。スピノザは、永遠についても語る。ここでいう永遠とは、始まりも終わりもない無限の時間のことではない。今あるリアルな存在のこと。時間はリアルな瞬間の連続であるが、その瞬間が永遠の真理だという。真理は時間の影響を受けないと言ってくれれば、なんとなく分かった気になれるのだが、はたして、そう言っているのだろうか?
「人間精神は身体とともに完全には破壊されず、その中の永遠なる何ものかが残る。」
これは、魂は不滅と言っているのだろうか?少なくとも死後の魂とは違うようだ。また、何が残るというのか?記憶や名誉のようなものか?それだって、歴史上の人物以外は、ほとんど無名で残らない。歴史だって、いつまで残るかわからない。DNAのことか?物質の構成要素である原子ことか?ここで、はっきりした答えがあると、いんちき宗教になり下がるであろう。真理は、ベールのようなもので包むから崇高な地位に押し上げることができる。女性の持つチラリズムにこそ美的興奮を与える何かがある。その探求を永遠に求めることが男の美学というものだ。そこには、「意味があるのか?」といったくだらない疑問は存在しない。ただ愉快なだけ。答えの見つからない命題を思考し続けると、アルコール欠乏症で手が震えだす。

1. 知性改善論
スピノザの著書「知性改善論」は、「エチカ」の入門書に仕立てようとしたものであるが、解説書のようなものを期待してはならないという。幾何学的でわざと解説を拒んでいるようでもあると紹介される。「知性改善論」の冒頭で、スピノザが哲学を始めた理由が語られる。天才でも始まりは平凡なようだ。全ての事象が空虚で無価値であることが経験で分かってくると、真の善というものは存在するのだろうか?といった疑問がわく。スピノザは、他の全てを捨て去っても、それだけで心が刺激されるようなものが存在しないだろうか?そういうものが見つかれば、喜びを永遠に享楽できるのではないか?と考えたという。だが、人間の欲求は、富、名誉、快楽に帰着する。どんなに善や道徳を語ろうとも言い訳に見えてくる。道徳が自己目的化すると人を、ますますダメにする。スピノザ自身、所有欲、官能欲、名誉欲を捨てることができなかったと告白する。こうしたものを悪と呼んだところで、決して悪を捨て去ることなどできない。捨て去ろうと思っている間は、捨てられないことを証明しているようなものである。そして、善悪を語る道徳家は悪の塊ということになる。ところが、精神の探求を続けると、こんなものへの執着がなくなり、妨げにすらならないことが理解できるという。禁欲が探求を可能にするのではなく、探求が禁欲を不要とするというのだ。これが悟りの境地ということか?そもそも捨て去るべき欲望など存在しないということか?知性と欲望が対立するのではなく、知性そのものが欲望である。精神の探求そのものが欲望である。欲望を遠ざけては、真理へ近づくことなどできないということだろうか。

2. 目的と衝動
目的とは、何かを達成するものであり、そのために努力するものだろう。ここでは努力は義務となる。だが、スピノザは、目的とは衝動であると語る。自分が目的に向かっていると、勝手に信じているだけのことかもしれない。人間は、その目的が善と信じているから、努力し犠牲も強いる。そして、努力や犠牲といった行為そのものも善と信じる。だが、目的や義務を追求していくと、エゴや自己愛に辿り着く。結局、欲望のためであり、衝動からくることに気づかされる。こうなると、人間の意識は、すべてあべこべに表象している可能性がある。人間は自由意志を信じ、万事は目的のために為されると信じても、自由意志の存在すら示すことができない。「エチカ」の理論では、人間は意欲や衝動を意識できるが、心が動く原因までは解明できないという。おいらは、精神の本質は「気まぐれ」であると考えている。最も人間らしい感情が「気まぐれ」であると思っている。義務や目的のために精神を制御しているつもりでも、実は衝動に支配される。義務感が強い人ほど、実は、ちゃらんぽらんなのかもしれないと思うことがある。欲望や衝動を自由に放任できる人ほど、義務や努力に励むのかもしれない。それは、義務の本質を探究しようとせず、ただ従うことに命をかける人とは違う。スピノザは、欲望とは意識を伴った衝動であると語る。ここで、おもしろいのは、「目的とは衝動である」と語りながら、「衝動とは目的とは言えない」とも語る。この非対称性が重要であって、これが抜けるとスピノザは単なる欲望至上主義に陥る。本書は、ここを理解することがスピノザの理解への鍵であると語る。目的のために欲望を捨て去らなければならないという発想は間違いで、単に強い欲望が弱い欲望に勝っていると考えるべきだという。道徳家が意見するような、善なる目的のために欲望を断念するということではない。善には優先順位があるということである。では、最高の善とはなんだろうか?スピノザは、より強い存在になりたい、より完全になりたいという欲望が、最高の善であると考えている。人間の本性の探求、完全な人間とは?という問い、こうしたものへ近づくことが享楽へと導くという。スピノザは、欲望や自己愛を肯定している。人間は案外素直に自分を愛することが難しい。それは利己的でエゴな部分が共存するからである。それでも、人間の自己愛は寛大で、自分自身が一番可愛い。利己とエゴは人間の持つ本質であろう。自己肯定の衝動は精神の本質なのかもしれない。その本質を誤魔化し、自己愛を公然と言えるように武装したものが道徳というものの正体ではないだろうか。

3. 宇宙の真理
あらゆる宗教は「神」の存在を出発点とする。しかし、スピノザは「神」は出発点ではなく定理として導く。実体とは、唯一性、自己原因と永遠性、無限性などの属性を持ち、その正体を考察していくうちに、無限なる本質、無限の属性を持つ絶対的な実体が現れる。「神」は、これらを表現するのに都合の良い言葉ということである。自然は、目的のために働くものではない。なんだか分からないが、とにかく何かがある。そうした中で、神の存在は、公理から演繹されて、どうしても出現してしまうという。神の存在は、ある種の避けがたい論理的帰結なのかもしれない。多くの神の存在論というのは、胡散臭いものがある。だが、ここで現れる神は、むしろ、偉大な宇宙といった感がある。いくら無神論者であっても、絶対的に逆らえない実体かあるような気がするものだ。ところが、人間のご都合主義はおもしろいもので、幸福が訪れれば自分自身の努力のお陰だと喜び、災難に遭遇すれば神にすがる。神は万物を創造したという説はよく耳にするが、スピノザは神を創造者とは言わない。動物だの、地震だの、戦争だの、いろいろな有限な存在や出来事があり、これら全てを包括して無限に実体が存在する。これがスピノザのいう神である。人間の存在意義、宇宙の存在意義なんてものはありえないのかもしれない。それは、ただ存在するだけ。登山家は言う。「なぜ山に登るのか?そこに山があるから」アル中ハイマーは言う。「なぜビールを飲むのか?そこにビールがあるから」

4. 精神
デカルトは人間の精神を一つの実体と考えた。つまり、精神は物体的属性とは違った属性を持つ実体である。そうなると、思考の位置付けはどうなるのか?人間の内に現れる思考は、精神の実体と一致するというのか?また、思考と身体に共通点すら見えないので、精神と身体が一つである状態すら想像できない。酔っ払いには、ますます人間という実体が見えなくなる。デカルトが「心身合一の問題」を残したのも分かる。
スピノザは、精神も一つの事物と捉えた。というより、精神なんてものは無く、ただ思考のみが存在すると考える。いずれにせよ神や自然の属物である。これで問題が解決するとは思えない。ただ、デカルトのように精神の実体を求めるよりは想像しやすい。スピノザは、神にも人間にも自由意志など存在しないと主張する。そして、自由意志の否定が、安らぎと幸福を教え、運命に振り回されない力を与え、自らを許し、人間を許し、社会を許し、神と世界を許すという倫理観が得られると結論付けている。自由意志を信じたところで、酔っ払いは気まぐれに支配される。自由な決意が、物事を語り、全ての行為に及ぶと信じても、それは目をあけながら夢を見ているようなものかもしれない。スピノザは、精神の決意と身体の決定は、表現が違うだけで同じ行為であるという。それゆえに、身体を蔑視する闇雲な精神主義におさらばしたというわけだ。人間を許せないというのは、そもそも人間には自由意志があると信じているからである。不快に思うのは、相手の自由意志によって引き起こされると考えるからである。だからと言って、自然現象のように許すことなどできようか?台風から避難するように、不快から遠ざかるしかないということか。だから、酔っ払いはいつも酒に逃避するのか。スピノザの倫理は、徹底して自己肯定の原理に基づいているようだ。間違って解釈すると、利己的になりそうである。人間の歴史は理性よりも感情によって導かれてきた。人間は孤立の恐怖から逃れるために群がる。その代表が国家である。国家は政治を生んだ。もし、人間の本性が最も有益なものへ向かうならば、何の方策も必要としないはずである。だが、政治は、群れに共通の恐怖を与え、あたかも一つの精神によって結びついているかのように仕向ける。
賢人は、魂の平安を有しているというが、賢人の精神が乱れないというのは本当だろうか?そもそも、賢人は存在するのだろうか?そのように装うのが巧みな人はいる。アル中ハイマーは、感情的になりやすく、精神はしばしば乱れる。不快な感情を察知して、予め逃避するように努めるがうまくいかない。賢くありたいとは思うが、知識を得たところで賢人になれるわけでもない。