2016-09-25

"元朝秘史(上/下)" 小澤重男 訳

マルコ・ポーロに触発されて、これを手に取る。というのも、「東方見聞録」はあまりにもモンゴル帝国の視点から書かれたものであった(前記事)。それは、タタール人、イスラム教徒、キリスト教徒の三つの世界観が混在する物語で、大カハンが征服地に対して宗教的、文化的にある程度寛容であったことが綴られる。アレキサンダー大王が大帝国を統治するために多くの異国人を登用したように。こうした記述がやや贔屓目に感じるのは、クビライ・カハンに厚遇されたこともあろう。そこで、モンゴル帝国の祖チンギス・カハンの一代記として名高い「元朝秘史」というわけである...

モンゴル帝国は、第五代クビライの時代に最盛期を迎え、人類史上最大の帝国となった。しかし、その礎となると、偶発的な、いや運命的な力を必要とする。ハプスブルグ家しかり、ブルボン家しかり、ロマノフ家しかり、徳川家またしかり...
戦は、なるほどやってみなきゃ分からん。石橋を叩いても渡らない!とまで言われた家康とて、万万勝てるとは思っていなかっただろう。戦の敗者は姦雄とされるのが世の常。後の回想録は大袈裟に改変される傾向があり、英雄伝にもしたたかさが滲み出る。それが歴史書というものか。善玉と悪党の対立構図は分かりやすく、水戸黄門のような物語が長く愛される。
いつの時代でも、成功者が崇められる。成功と失敗は紙一重と承知しながらも。現実社会では、しばしば正義が負けるのを目撃する。それでもなお、正義が勝つ!と信じられる根拠とは何であろう。判官贔屓という情念も少なからずある。英雄伝の類いを読む時は、こうした性癖を差し引いて臨む必要があろう。
本物語では、ケレイド族のトオリル・カン(後のオン・カン)と同盟しながらも、裏切りによって窮地に陥り、これを撃退。この時、トオリルの背信を責めながらも、節度ある言辞によって寛容な態度を示す場面は、まさに英雄伝!寛容さを演出するからこそ正義が際立つというもの。
チンギスには好敵手がいた。幼き頃から盟友であったヂャムカは、両雄並び立たず!のごとく敵対していき、ついに「十三翼の戦い」で激突。勝利者はヂャムカであったが、チンギスは人望厚く、逆にヂャムカには梟雄というレッテルを貼る。そして再三の激突の末、チンギスが勝利し、ヂャムカは囚われの身となる。最後に、互いに幼き頃を懐かしみ、自ら死を望むヂャムカにチンギスが心を打たれる場面は、最高の盛り上がりを見せる。なるほど、好敵手のいない英雄伝は、この上なく締まらない。ライバル、友情、敵対... こうした自己を投影する存在がなければ、偉大な仕事は成し遂げられないのかもしれん。そこには、尊大な自己陶酔がつきもの。となれば実は、敗者の方に、あるいは歴史の外の方に、真理が隠されているということはないだろうか。だから、歴史が繰り返されるのかは知らん...

尚、モンゴル族の最古の古典は、「永楽大典」に収録される形と「元朝秘史」単体のニ形式が残されるそうな。前者は明の永楽六年(1408年)に成立し、後者は1228年から1252年にかけて書かれ、それ以降も加筆されて成立したらしい。そして、様々な流伝を経て、今日、十二巻本と十五巻本の二種類に至るという。
書かれた時期に諸説があれば、著者も特定できない。専門家の間では十二巻本の方が優れていると評されるそうだが、翻訳者小澤重男氏は両方とも同じ価値があるとしている。本書は、本編の十巻と続集の二巻の十二巻で構成されるが、続集と呼ぶからには書かれた時期も違うのだろう。そして、十五巻本を参考にしている部分も見受けられる...

1. 族祖伝説「蒼き狼」と「白黄色の牝鹿」
チンギス合罕の祖先は、「蒼き狼(ボルテ・チノ)」と、その妻「淡紅色(うすべにいろ)の牝鹿」だという。狼と牝鹿の落とし子から11代目ドブン・メルゲンは、コリ・トゥマド族のコリラルタイ・メルゲンの娘アラン・ゴアを娶る。夫は先に死に、アラン・ゴアが日月の精を得て、チンギス一族の祖を含む三子を生むという感光出生の説話が語られる。その際、「五本の矢」の教訓が伝承されたという。それは、毛利元就伝の「三本の矢」と同じで、五人で力を合わせよ!というもの。
「汝等、五人の我が子達は唯一の腹より生まれたり。汝等は、さきの五本の矢柄の如く、ひとりひとりにてあらば、あの一本ずつの矢柄の如く誰にもたやすく折られなん汝等。かの束になりし矢柄の如く共に一つの和をもちてあらば、誰にもたやすくいかで折られるべきや...」
五人とは、先にドブン・メルゲンとの間に生まれたベルグヌテイ、ブグヌテイの二人と、日月の精を得て生まれたブク・カタギ、ブカトゥ・サルヂ、ボドンチャル・ムンカクの三人。だが母の死後、上の兄弟四人で財産を分けあい、ボドンチャルは愚弱として親族に数えられなかったという。孤高に生きた末子ボドンチャルから更に11代目イェスゲイを父とし、ホエルンを母とし、モンゴル族の英雄テムヂン、すなわち、後のチンギスが生まれたとさ。その時、テムヂンは右手に髀石(シアー)のような血塊を握って生まれたという。
「日月は望み見らるるなり。今、この海青の掴みもち来たりて、わが手にとまれり。白きもの降りたり。何かよきことをば示すや...」

2. チンギス合罕の誕生秘話
テムヂンは、兄弟族のタイチウド族に嫉まれ、若くして勇士の器と目されていたことが語られる。一旦はタイチウド族に捕らわれるが、スルドゥス部族のソルカン・シラの義侠に救われる。
また、メルキド族の領袖トクトア・ベキに妻ボルテを奪われ、ケレイド族の王トオリル・カンやヂャムカと同盟して撃退。
さらに、バリアン族のシャーマンのコルチ・ウスン翁の力を借りて、モンゴル族の族長にのし上がっていく。シャーマンとは祈祷師か。シャーマニズムという言葉も耳にするが...
コルチが言うに「テムヂン、国の主たれ!」。これは、神のお告げか!ここに「チンギス合罕」と名付けとさ。
だが、同盟していた大部族ケレイドも、ヂャムカも、いずれ敵対することになる。

3. 十三翼の戦い
両雄並び立たず!の言葉のごとく、やがて敵対していくテムヂンとヂャムカ。直接の対立原因は、ヂャムカの弟タイチャルがテムヂン側のヂョチ・ダルマラの馬を盗み、ダルマラがタイチャルを追って射り殺したこと。
ヂャムカには反テムジン派が集結し、十三の部族と結びついて三万もの勢力になる。これに対抗して、テムヂンは十三群団を編成。ヂャムカ陣営の十三の部族連合とチンギス陣営の十三群団との激突は、「十三翼の戦い」として伝えられる。この最初の対決でテムジンは敗れはするものの、人望を失うことなく、これを教訓として、以降の相次ぐ戦闘で敗れることなく、大帝国を築いていったとさ。
ヂャムカの運命はというと、後にメルキド族とナイマン族の大連合軍がチンギス軍に撃退された時、僚友に裏切られてチンギスに捕らえられ、自ら死を選ぶことになる。

4. 四勇士と四賢者
この物語には、チンギスを支える四勇士と四賢者の名が挙げられる。四勇士は「四狗(ドルベン・ノカイ)」と呼ばれ、クビライ、ヂェルメ、ヂェベ、スベゲテイ。四賢者は「四俊馬(ドルベン・クルグ)」と呼ばれ、ボオルチュ、ムカリ、ボログル、チウラン。さらに、ヂュルチェデイ、クイルダルを加えて、彼ら英傑に対する篤い信頼が語られる。いずれも一大遊牧帝国を築く上で欠かせない人物だ。

5. 軍法「千戸の制」と「近衛輪番兵の制」
軍制は、帝国の規模とともに大掛かりな組織になっていく様子がうかがえる。
まず、千家戸の家戸(アイル)という単位の基本組織が語られる。遊牧生活の最小単位であった家戸(アイル)をそのまま軍制に取り入れたものらしい。次に、十戸(アルバン)、百戸(ジャウーン)、千戸(ミンガン)の単位で編成し、各戸ごとに長(ノヤン)を配置。諸部族の首長をノヤンと呼び、千戸長、百戸長、十戸長とする。侍従(チエルビ)は、チンギスの傍らにあって政務や軍務を補佐する側近の臣で、六人の侍従官を配置。
1206年、メルキド族とナイマン族の連合軍を破って大帝国となった時、チンギス合罕は行政官に「罕」の称号を与えたという。そして、95人の千戸長を任命したことが語られる。
さらに、「千戸の制」「近衛輪番兵(ケシグテン)の制」という拡大編成について語られる。近衛輪番兵には、八千人の当直兵(トウルガウド)に加えて、箭筒士(コルチン)を含んだ二千人の宿衛兵(ケプテウル)を擁する一万人体制となる。チンギスは、この輪番集団を「大中軍(イエケ・ゴル)」と呼ぶべし!としたとさ。

6. シャーマン僧の陰謀
神を後ろ盾にすれば、精神的に大帝国の乗っ取りを図る者が現れる。テムヂンは、シャーマンによって「チンギス合罕」の称号を得て大帝国の礎を築いたが、今度はそのシャーマンによって謀反の兆しあり。コンコタン氏のムンリグ父の子は七人で、その真中のココチュは「テブ・テンゲリ(天なる天神)」と呼ばれる。ココチュはシャーマンの特権を行使し、王位を脅かしたとか。奴は霊媒師か。
そして、チンギスの弟カサルをそそのかしたのか?それとも単なる流言か?英雄伝は一転して小説風の展開を見せる。だが、自称神の代理人は葬られて終わる。

7. 大遠征と後継者争い
1211年、チンギスは闘将ヂェベと共に居庸関を破り、金国の首都、中都を包囲して帰順させる。次いで、西夏(カシン)に出陣し、王ブルカンも帰順。先に帰順した金皇帝は再び謀反するが、1214年に討伐軍を派遣して北京城壁を降し、金皇帝は中都から南京に逃亡し、ついに投降したという。
また、帝国が巨大化すればするほど、後継者争いも熾烈となる。長子ヂョチと次子チャアダイの諍いに、その仲をとりもつ重臣ボオルチュとムカリ。権威を欲する当人たちと、組織の安泰を図る重鎮たちというお馴染みの構図である。
最終的に、三子オゴデイを後継者に選定。そして1227年、「チンギス合罕、天に上りぬ」

2016-09-18

"マルコ・ポーロ東方見聞録" Marco Polo 著

東方見聞録は、二つの偶然が重なった時、その成立を見る...
一つは、父ニコロ・ポーロと叔父マフェオ・ポーロが商売のために南ロシアへ行き、さらに砂漠を越えてタタール人の王クビライ・カーンの宮殿へ赴いた経緯。二人は、大カーンからローマ教皇への使者の役目を託されるほどの信頼を得た。そして、カンバルク(北京)へ復命に戻る二度目の旅に、息子マルコ(17歳)を帯同する。ただ、三人ともヴェネツイア商人であって、宣教師でもなければ、誰に対しても記述の義務も負っていない。
二つは、1298年、ジェノヴァの牢獄に虜囚となったマルコは、同房のルスタピザン(ピサのルスティケッロ)という著作家に出会ったこと。本書の冒頭には、マルコの口述を書き留めることが宣言されるので、むしろ「ルスティケッロ著」とするところであろう。
つまり、ヴェネツイア商人の冒険心とピサ人著作家の好奇心という偶然の出会いがなければ、このような歴史叙述は残されなかったということである。そのために歴史の殉教者として崇められるのか、いや踊らされるのか。おそらく偶然が重ならなかったために、無言のまま闇に葬られた歴史の方がはるかに多いことだろう。真理は沈黙の側にあるのかもしれん...
尚、月村辰雄・久保田勝一訳版(岩波書店)を手に取る。

本物語には、三つの世界観が交錯する。一つは、タタール人が支配する地域、二つは、マホメットを崇拝するサラセン人の地域、そして、ネストリウス派キリスト教徒が混在する三つ巴の構図である。クビライの時代、モンゴル帝国は最盛期にあり、中国をも呑み込んでいた。さらに東南アジア方面でも貢ぎ物を捧げるなど、ほぼ属国的な関係にあったことが伺える。大カーンは、征服地に対して宗教的、文化的にある程度寛容であったようである。アレキサンダー大王も大帝国を統治するために現地の異国人を多く登用した。地域事情に最も精通する者を。そのために古参の将軍たちから疎まれることにもなるが、広大な領土を治めるには最も現実的な政策であろう。
キリスト教徒であるポーロの一行も、大カーンに厚遇された。そのためか?中国に関する記述がぞんざいな感がある。万里の長城などの歴史建造物や宗教慣習の記述が見当たらないのは、方々で指摘を受けるところ。それほどモンゴル帝国が偉大で、大カーンに敬服していたということであろうか。
マルコの注目点は二つの経済システムに向けられる。
一つは、交通網における飛脚システム。主要道路は並木道で整備され、旅行者は遠くからでも暗闇でも道に迷わないようになっており、飛脚は昼夜を問わず駆け抜ける。中継点が、3マイルごとに設置され、鈴を鳴らすことで飛脚が近づくことを知らせ、引き継ぐ馬や人が常に準備されている。まさに駅伝システム!
二つは、商取引における証書システム。紙幣と呼ぶほどの利便性はないものの、既に証券や約束手形のような合理的な取引の仕組みがある。証書はカンバルク(北京)の造幣所で造られ、支配義務は法で規定され、拒否する者は死刑に処せられるという。
他にも、町の来訪者に目的や滞在期間を登録させたり、家族構成や家畜の数を申告させる国勢調査風の制度にも言及され、大カーンは人口の変化までも把握していたと記述される。
こうした経済的観点は、古代ローマにも通ずるプラグマティズムを感じずにはいられない。おそらく宣教師や修道士には、こうした実用的な制度に感じ入ることはできなかったであろう。まさに経済人ならでは視点である。マルコの眼力は大カーンに認められ、行政官としても重用される。イデオロギー色の強い統治者では、多様な民族や宗教を束ねることは難しいということか...

ところで、異民族や異文化との出会い... それは人間の本能において、どのように働くものであろうか?交流か、敵対か、あるいは、好奇心か、恐怖心か。自信に満ちた社会は前者を選択し、不安に満ちた社会は後者を選択する、という傾向はあるかもしれない。
信仰心なくして人間は生きられない。宗教ってやつは、この心理に巧みに入り込む。本書には、心の隙間に巧みに入り込む「山の老人伝説」が語られる。それは、テロリズムの原点のようなもの。結局、宗教原理とは、見返りの原理であろうか。
ただ、テロリズムを複雑な宗教心の側から分析するよりも、ある種の機械論で解釈してみるのもいいかもしれない。多くの敵に包囲されると、自爆するようにプログラムされているオートマトン... 魂に宿る絶対的な存在、すなわち無条件に服従できる心の安穏... こうした心理状態が、そうさせるのか?脳の原始的な恐怖心を麻痺させるという意味では、フィアレスのようなものであろうか?そして、酔いどれ自身がそのようにプログラムされていないと、どうして言い切れようか...

1. 稀有の時代が生んだ書
12世紀は、古代ローマ帝国の衰亡以来、実に千年ぶりに東方への衝動に突き動かされた出来事がある。そう、十字軍だ。シリア沿岸部のアンティオキア、トリポリ、エルサレムには封建諸侯の領国が並び、イスラム諸邦と対峙していた。
ちょうどその頃、ビザンツ皇帝やローマ教皇のもとに、「プレスター・ジョン」と名乗る東方のキリスト教君主から怪しげな書簡が相次いで届けられたという。それはイスラム諸邦の挟撃を目的とした同盟を仄めかすもので、中央アジアでネストリウス派キリスト教を奉ずる小君主の存在を過大に伝える偽文書であったとか。この噂が、東方に君臨する強大なキリスト教国という伝説となり、西洋人の冒険心を煽ることに。
さらに1204年、第四回十字軍が騙し討ちの形でコンスタンティノープルを陥落させると、ボスポラス海峡の門戸が開かれ、商人たちは東方へ旅立つ機会を得る。
一方、東方では、13世紀初頭、チンギス・カーンが中央アジアに進出し、モンゴル帝国の礎を築いていた。ウイグル王国、西遼、サマルカンド、カスピ海南岸のコラズム帝国、黒海北岸を次々に呑み込み、第二代オゴタイ・カーンの時代には、ポーランドにまで侵攻。だが、ここが終末点で、以降は足固めのためキプチャク汗国とイル汗国の建設に向かう。歴代のカーンたちは、仏教とイスラム教とネストリウス派キリスト教の三つ巴の中で、絶妙なバランスを保っていたようである。そして、ポーロの一行が厚遇されたクビライの時代に最盛期を迎える。
カーンの子孫は、アルタイと呼ばれる山に埋葬される習わしとなっており、亡骸を運ぶ一行は、あの世でお前たちの君主に仕えるようにと、途中で出会った人々を殺したという。馬も同様に、あの世で乗馬できるようにと。モンケが死んだ時、道の途中で出会った二万人以上が殺されたとか。
しかしながら、こうした活発な東西交流の時代も、マルコの帰国後、急速に閉ざされることになる。シリア沿岸の西ヨーロッパ封建諸侯領は次々と滅ぼされ、最後の拠点アッカは1291年に陥落し、シリア一帯はマムルーク朝のスルタンに牛耳られる。ビザンツ帝国もオスマントルコの勢いに押され、黒海やカスピ海を経て中央アジアに向かうルートも困難となる。モンゴル帝国もまた14世紀半ばには勢いを失い、イデオロギー色の強いティムール朝や明にとって代わる。
... こうして眺めると、13世紀後半から50年間という絶好の時代に、東方見聞録が生まれたことになる。歴史ってやつは、偶然の積み重ねの結果というだけのことかもしれん...

2. 山の老人伝説
中東のムレットという地方に、山の老人が住んでいたそうな。ムレットはフランス語で「地上の神」を意味し、その語源はアラビア語のムラヒド(異端者)で、イスラム教イスマーイール派を指すらしい。老人は、アロアディン(アラー・ウッ・ディーン・マホメット)と呼ばれ、あらゆる果物が実る美しい庭園を作り、金で飾りたてた宮殿を建て、それをマホメットが唱えた楽園であると信じこませたという。葡萄酒、ミルク、蜜、水の豊かに流れる水路を設け、美しい娘を大勢集める。彼女らは楽器を奏で、素晴らしい声で歌い、上手に踊る。しかも、周囲を堅固に要塞化していたとか。
老人は、戦士になる少年たちを宮殿に連れて来ては、マホメットが唱えた楽園について話して聞かせる。少年たちは、飲み物で眠らせて連れ込まれ、目を覚ますと、豪華さと壮麗さに圧倒され、美女たちに慰められ、まさに楽園だ!と信じこむ。そして、気に入らない君主を抹殺するための暗殺者に仕立てあげるという寸法よ。... 奴を殺せ!もし戻って来られたら天使に頼んでお前を楽園へ導こう!もし死んだとしても天使に頼んでお前を楽園に戻してやろう!... と。
少年たちは、楽園に戻りたいという強い欲求に誘われて、どんな危険にも怯まず、老人の命令を忠実に実行する。老人は、命じた通りにあらゆる人物を殺害してきた。王侯たちは老人を恐れ、友好を求めては貢ぎ物をする。
1252年、レヴァント(イル汗国)の王アラウ(フラーグ)が、老人の悪行を聞きつけ、滅ぼそうとする。三年間の包囲で落とすことができなかったものの、やがて食糧が尽き、ついに落城。老人は殺され、それ以降、いかなる暗殺者も出現しなかったとさ...
しかしながら、原理主義はマホメットを崇拝する者だけのものではい。十字軍もそうであったように、宗教と原理主義はすこぶる相性がいい。それは人間の潜在意識として受け止めておくべきであろう。そして、彼らは必ず「聖戦」という言葉を口にする。

3. 聖トマス伝説
大インドと呼ばれるマアバール地方(インド東岸南部のコロマンデル海岸地方)では、この地に埋葬される聖トマスの伝承があるという。この地域では牛を崇拝し、けして牛を殺さず、食べもしないと。
そこには、ゴヴィという人々がいるそうな。サンスクリット語ガヴァ「牡牛に捧げられた」の転訛で、下層カーストを指す言葉だとか。彼らとて、けして牛を殺さず、自然死や事故死した時に食べるくらい。
さて、ゴヴィには、聖トマスの亡骸のある場所に留まることのできない魔術がかけられているという。二十人や三十人もの人々が力づくで押さえつけても。というのも、聖トマスはゴヴィの先祖たちに殺されたとされるからである。聖トマスの亡骸は、マアバール地方のほとんど人の住んでいない町マドラス近郊のマイラプールに置かれるという。不便な場所だが、改宗したサラセン人がしきりに巡礼に訪れるらしい。彼らは信仰が厚く、聖トマスを大預言者として崇め、アヴァリアン(アラビア語で聖者の意)と呼ぶ。聖トマスは、この地で様々な奇蹟を行い、多くの人々をキリスト教に改宗させたと伝えられる。
また、アルバシー地方(アビシニア、すなわちエチオピア地方)でもキリスト教を広め、多くの人々を改宗させた後、マアバールに赴いて亡くなったとさ...

4. 出版者に黒幕でもいるのか?
ところで、本物語から三つの疑問点に遭遇する。
一つは、東方見聞録の最初の記述がフランス語でなされたこと...
これは定説だそうだが、証拠もあるらしい。なぜ、ヴェネツイア人とピサ人がフランス語で?ルネサンスの口火が切られる14世紀半ば以前において、まだイタリア文化は後塵を拝し、特に北イタリアではフランス語が広く用いられたという。フランス語の写本は、二つの系統に分かれるとか。「イタリア訛りのフランス語写本」と紹介されるフランス国立図書館 fr.1116 と、ティボー・ド・シュポワがフランスに持ち帰った写本に端を発するフランス国立図書館 fr.2810 写本で、本書では後者を中心に訳出される。「イタリア訛り」の方が説得力がありそうな気もするが...
二つは、淡々と綴られる文面の中に、時折見せる異教を貶す記述...
中国の思想観念に興味を示さないのに、仏教を偶像崇拝と蔑み、特にイスラム教への敵対心を露わにする。これが、商人の言葉なのか?時代からして、マルコがキリスト教中心主義であったことは考えられる。とはいえ、大カーンの異教徒への寛容な態度を賞讃し、しかも厚遇された身で?出版にあたっては、ルスティケッロの採録編纂した形で残されるので、多少の脚色はあるだろう。また別の視点から、出版時期がアヴィニョン捕囚に至る事件と重なるのは偶然であろうか?十字軍が下火になった時代、十字軍の再興を夢見た一派の影響でもあったのか?さらに、マルコとルスティケッロの他に介在者がいた可能性は?尚、マルコは牢獄を出て、ヴェネツイア市民の生活に復帰しているらしい...
三つは、旅の犠牲者に関する記述が見当たらないこと...
プロローグには、帰路において、大カーンは14隻の船と600人の船員を随行させたことが記述される。1286年、レヴァント(イル汗国)の王アルゴンの妃ボルガラが死去。彼女は自分の血筋に王妃の座を譲ることを遺言したとか。そこで、大カーンは十七歳の血筋の婦人コガトラ(コカチン)を派遣する。その大勢の家来に、ポーロの一行が随行した。しかしながら、生き延びたのはわずか8人(イタリア訛りのフランス語写本では18人)だったという。三ヶ月あまりの航海でジャヴァ島に着き(実はスマトラ島だったらしい)、この島で多くの不思議な出来事があり、後で詳細を語るとしながら、その記述が見当たらない。インドの海を十八ヶ月あまり航海した後に目的地に着くが、アルゴン王は既に亡く(1291年)、かの婦人は王の息子カザンに与えられたという。そして、ポーロの一行は1295年にヴェネツイアに帰国したとさ。陸路にせよ、海路にせよ、異教徒や異民族の国を横断するのだから、過酷の旅であったことは間違いあるまい。疫病も襲ってくる。だからといって、これだけの犠牲者を出しながら、その記述がないとはどういうわけだ?どこかの島に、そっくり置いてきたというのか?王女の護衛だから、そっくりイル汗国に残り、うち8人か18人を召使として貰い受けたというなら、筋は通る。ならば、そう書けばいい。不思議な出来事については、マルコ自身が口を封じたのか?あるいは、ルスティケッロが筆を封じたのか?それとも... などと思いをめぐらすと、最終的に出版を許可した影の存在を想像せずにはいられない。
... などと考えてしまうのは、ジェームズ・ロリンズの影響であろうか。実は、ロリンズ小説「ユダの覚醒」のおかげで、本書を手にとったのだった。それにしても、この旅行記は実に中途半端のうちに終わりやがる。

2016-09-11

"天の鏡 失われた文明を求めて" Graham Hancock 著/Santha Faiia 写真

オカルト的な作家として知られるグラハム・ハンコック。だが、考古学では再評価される部分も多い。定説では、有史前の人類は有史以来の人類よりも、知識や知能が劣るとされる。では、巨大遺跡群に示される途方もない天文学的知識に裏付けされた遠大な建造物の痕跡は、単なる偶然であろうか?権威ある学説に疑問をぶつける態度は、酔いどれ天の邪鬼には、たまらない。おまけに、掲載される数々の写真が、地上を鏡としながら天空の偉大さを再現している。尚、写真家サンサ・ファイーアは、ハンコックの一連の著作のすべてで撮影を担当しているそうな...

いつの時代でも、人はお星様に願い事をしてやまない。生の儚さを知れば、永遠に輝き続ける星座に縋る。死は誰にでも訪れるが、その意味を知る者はいない。死はすべての終わりなのか?それとも、何か続くものがあるのか?魂ってやつは、単なる物質の塊か?それとも、単なる想像の産物か?いや、宗教のでっちあげか?
冷徹なほどに虚無をまとった形而上学と、崇高なほどに成熟した科学は、相性が良いと見える。暗さが最も増す時、人々は星を見る... とは誰の言葉であったか。人間の生き様なんてものは、天の模倣でしかないのかもしれん...

 天は上にあり、天は下にある
 星は上にあり、星は下にある
 上にあるものは、すべて下にも現れる
 謎を解く者は幸いかな
 ... ヘルメス、エメラルドの銘板より

ギザのピラミッド群、カンボジアのアンコール遺跡、ポナペ島の海上遺跡ナン・マドール、イースター島のモアイ像、マヤのチチェンイッツァ、ナスカの地上絵など、世界各地に残される謎の古代遺跡群は一つの暗号で結び付けられているという。それは、72 という数に支配された世界。地球は歳差運動によって自転軸の慣性系を形成している。地球の自転軸は、72年に約1度のずれを生じさせながら、2万6千年(= 72年 x 360度)にも及ぶ壮大な周期運動を繰り返している。コマの回転軸が円を描きながら、ジャイロ効果によって軌道を安定させるかのように。そこで、重要な年代が浮かび上がってくる。
なんと!世界各地の古代遺跡群は、紀元前10500年の天体配置を正確に映し出しているというのだ。天体配置とは、黄道十二宮である。黄道十二宮の知識はシュメール文明に遡るとされ、せいぜい紀元前3500年。対して紀元前10500年は、ちょうど最後の氷河期が終わる頃で、多くの種族が大洪水に呑み込まれたとされる。世界各地で伝承される大洪水神話は、この時代を投影したものなのか?
そして、その半周期(180度)の1万3千年後、すなわち、天体配置が天と地で反転する時代が、ちょう21世紀頃に当たる。これは、現代人に何かを学ばせようとする機会を与えているのだろうか?

人は自分の死の訪れを感じると、なにか生きた証を残したいと考える。それは、生ある者の本能めいたもの。人類滅亡の危機を感じれば、なんらかのメッセージを残したいという社会的意識が働くのも道理である。そして、太古を引き継いだ時代、メッセージの欠片に気づいた者が、知識を再構築したということは考えられる。
歴史では、歳差運動によって星の位置が移動することと、その移動速度を発見したのは、紀元前150年頃で古代ギリシアの天文学者ヒッパルコスとされる。だが、太古の人類は、既に近現代を凌駕するほどの高度な知識に達していたという可能性はないだろうか?その知識が、普遍性や真理と呼ばれるものかは分からない。もしかしたら、地球を棲家とする知的生命体が、いずれ到達する知識なのかもしれない。ゲーデルは語った... 不完全性定理は自分が発見しなくても、いずれ誰かが発見しただろう... と。
有史以来、偉大とされてきた知識はすべて太古の模倣、あるいは、繰り返しであったということはないだろうか?地球上に住む知的生命体は、地球の自転軸周期に支配された遺伝子が組み込まれているということはないだろうか?もちろん、一つの時代に急速に推進された大建築計画は全て偶然の産物で、そんな考えは誇大妄想だとする現代の歴史家の見方が正しい可能性だってあるし、ハンコック自身もそう語っている。本書に語られる説が、最先端の科学をもってしても迷信や仮説の域を脱していないのも事実だ。
すでに古代人は、星の運動から地球が球体であることを知り、自転軸が歳差運動をすることまでも知っていたのか?それとも、単なる天体現象として星座を観察し、迷信によって天空を地上に複写しただけなのか?偉大な宇宙の前では、科学も迷信も大して違いはないというのか。あるいは、十分に成熟した科学は魔術と見分けがつかないとでもいうのか。そうかもしれん。
いずれにせよ、歳差運動を観測するには、気の遠くなるほどの世代を超えた叡智の伝承が必要となる。魂の不死とは、叡智を伝承する意志を言うのかもしれん...

ところで、叡智とはなんであろう?奥義を授けられた者には、いったい何が見えるのだろう?少なくとも、奥義を会得した者がメディアを通じて露出狂になることはなさそうだ。崇高な知識は、俗人の目に触れさせてはならないというのか?だから、秘密主義は必然だというのか?彼らにしか解釈できない聖なる知識は、暗号化された碑文によって天文学的計算の正確さを保証している。静かなる礼拝者が石像を刻めば、石工を起源とするフリーメイソンの影までも匂い立つ。ちなみに、グノーシス派の教義にこういうものがあるそうな...
「暗黒と無知に従う人を、多くの偽りによって堕落させ、おおいなる苦しみに巻き込む。彼らは楽しむことなく老い、真実を見つけることができず、真の神を知ることなく死ぬ。このようにして、すべての創造物は永遠に奴隷化された。それは世界が創造されたときから今日にまで至る...
目に見える創造物が存在する理由は、教育と指導と形成を必要とする人々がいるからだ。小さき者が、少しずつ成長できるように。この理由により、神は人類を創造されたのだ...」

1. 歳差運動と遠大な建築計画
太陽が東から昇る位置は一年をかけてゆっくりと移動し、必然的に重要な時点が四つ生じる。最も昼間が短くなる冬至。昼と夜の長さが同じになる春分と秋分。最も昼間が長くなる夏至。この重大な時点は太陽を周る地球の軌道を示しており、古代人が黄道十二宮としてまとめた星の帯は、地球軌道の平面に沿って存在する。それは、地軸を約23.5度傾けて1年間で公転することによって生じる天体現象である。しかも、地軸は、72年に約1度移動しながら、約2万6千年の周期でぐらついている。太陽が昇る真東にある星座が神の安住の地とされ、星座の帯を辿って移り住む。そして、一つの星座に神が宿る期間は、約2160年となる。

  72年 x 360度 = 2万5920年
  72年 x 360度/12星座 = 2160年

したがって、太古の建造物がどの星座を崇めるかで、いつの時代のものかが分かるという寸法よ。すると、歴史学者が唱える古代遺跡の建設時期が怪しいことになる。例えば、獅子座を崇めるギザの大スフィンクスの建設時期が、紀元前2500年頃とされることも。
世界各地に残される古代遺跡に、72 という数を意識した建築計画が多く見られるという。本書は、72にまつわる 144(= 72 x 2), 108(= 72 + 72/2), 54(= 108/2),... といった数が、実に多く出現する様子を物語ってくれる。
実際、神聖な日の出を拝んだり、生の儚さを星座に願いを込めるといった慣習が、世界各地で共通して見られる。壮大な宇宙サイクルに対する無力感がそうさせるのか?壮大な宇宙サイクルが暗示するものとは何であろう?永劫回帰や輪廻転生の意味を悟らせようという神の魂胆か?あるいは、霊的観念の持ち主に課せられた使命か?もし、壮大な天体周期が、地球上の生命体に何らかの危機的状況をもたらすとすれば、人類の叡智の継承は困難となる。悟りの道は、あまりにも遠い...

2. オリオン座と獅子座をモデルにしたギザの都市計画
ボストン大学の地質学者ロバート・ショック教授は、ギザの大スフィンクスの最低年齢を7000歳以上とし、大論争を巻き起こしたという。定説では、紀元前2500年頃に建設されたとされる。ショック教授の調査は、、ひたすら地質学の側面から迫ったものだという。降雨や風化の浸食の痕跡から。古代気象学者は、雨の降った時期を正確に指摘できるようになった。紀元前2500年のエジプトは現在のように乾燥しきっていて、浸食するほどの大量の雨が最後に東サハラに降ったのは、紀元前7000年から前5000年の間であると。保守的に計算した結果が、7000歳ということらしい。さらに、彼の同僚ジョン・アンソニー・ウエストは、紀元前10000年より古い、あるいは、紀元前15000年より古いかもしれない、との見解を示したとか。
本書は、黄道十二宮との関係から「オリオン相関論」を唱えている。ナイル川とピラミッドの配置が、天の川とオリオン座の配置を正確に再現しているというわけだ。三大ピラミッドは見事なほどオリオンベルトの三つの星に重なり、その北方にあるダハシュールのピラミッドもヒヤデス星団と重なるという。
では、ピラミッドの機能とは何であろう?巨大な日時計か?古代ギリシア人が崇めてきた幾何学に、グノーモーンというL字型の影のできる図形がある。それは、ユークリッド原論にも記され、ピュタゴラスやアルキメデスの思考原理にも垣間見ることができる。やはり人間ってやつは、自らの影を引きずりながら生きる運命にあるようだ。
しかしながら、ただの日時計ならば、これほど巨大である必要があるのか?そこで、奇妙な縮尺率が呈示される。ピラミッドと地球の比は、1 : 43200(= 72 x 600)。ピラミッドは北半球の縮尺モデルなのか?
また、コンピュータ・シミュレーションによると、紀元前10500年の春分の日の出には、獅子座があったという。太陽神は獅子座に宿り、大スフィンクスというライオンの巨大彫像は、その方角を見つめていたことになる。スフィンクスは、何かの番犬であったのか?ギザの都市計画が天文学的な性質を持っているという説は、もっともらしい。
しかしながら、定説の方が正しいとされる証拠もある。ギザのピラミッドの王の間と女王の間には、スター・シャフトと呼ばれる四つのシャフト(通気孔)がある。それぞれのシャフトは、紀元前2500年頃のシリウス、オリオン座のζ星、小熊座のβ星、竜座α星を正確に捕捉するという。太陽神ホルスは、エジプト神話の女神イシス(シリウス)と神オシリス(オリコン)を両親に持つとされ、女王の間はイシスを捕捉し、王の間はオシリスを捕捉するとか。ファラオは、自分の死後、神々に祝福されるように建設させたということか。
そうなると、基本的な建築物は紀元前10500年に造られ、シャフトは、クフ王、カフラー王、メンカウラー王の第4王朝の時代に増築されたとも考えられる。建造物の伝統に、新たな価値観を上書きするような建築行為があっても不思議ではない。伝統継承の難しさは、その過程で一人でも伝統の意味を解さずに歪めてしまうことであろうか。人間社会には、一旦、聖域を決定してしまえば、盲目に伝統を尊ぶ性質がある。

3. 竜座をモデルにしたアンコールの都市計画
アンコール(ANGKOR)とは、サンスクリット語の言葉(nagara = 町)が崩れたものと言われるそうな。古代エジプト語では、アンク・ホル(Ankh - Hor)で「神ホルスが生きている」を意味するとか。そして、ギザのピラミッドは東経31.15度、古代ヘリオポリスは東経31.20度にあり、アンコールの寺院群は東経103.50度に位置する(103度 - 31度 = 72度)。
アンコール・トムは、「偉大なアンコール」の意で、アンコールワットよりもはるかに壮大な規模で、三つの寺院がある。ピミヤナカス、バプーオン、バイヨン。ここでは、アンコールの寺院群の配置が竜座の星々の恐るべき模倣を見せてくれる。しかも、紀元前10500年の春分の日に太陽が昇る瞬間、竜座が真北の空高く子午線に横たわっているという。竜座に見守られた都市というわけか。古代エジプト同様、ここにも異常なまでに方位や天空の配置へのこだわりが見える。定説では文明の交流はまったくなかったとされるが、単なる偶然か?
ギザの起源は謎に包まれ、紀元前2500年頃に大規模な発展があり、とりわけ第4王朝のファラオたちと深くかかわっている。アンコールの起源も謎めいているが、大規模な発展は西暦9世紀から13世紀とかなり新しく、ジャヤヴァルマン2世、ヤショヴァルマン1世、スールヤヴァルマン2世、ジャヤヴァルマン7世など、クメール王朝と深くかかわっている。そして、ギザにも、アンコールにも、前の時代の建築層が見つかっているという。
なぜ、双方の建造物が紀元前10500年を捕捉しているのか?アンコールで最も多く出現する歳差運動の数は、54 だという。バイヨンには 54 の塔があり、アンコール・トムに至る参道の両側には54体の神々と、54体の阿修羅が並ぶ。
そして、アンコールから経度にして東54度の太平洋上に位置するものが、ポナペ島の海上遺跡ナン・マドールだという。玄武岩と珊瑚礁でつくった100個ほどの人工島から構成される遺跡だ。寺院と人工島のほどんとは、西暦800年から1250年の間に完成したとされ、ちょうどアンコールの繁栄期と重なる。しかも、それよりも前の時代の建築層があることも発見されているという。
さらに、起源不明の遺跡が、アンコールの72度東のキリバス、アンコールの108度東のタヒチで見つかっているとか。こうした地に都市を作れ!というお告げでもあったのだろうか?
ちなみに、日本の南西端にある与那国島にも、少なくとも1万年前のものと考えられる海底遺跡があるそうな。ただ、アンコール遺跡の東19.5度という関係なさそうな位置だけど。

4. 世界のへそ、イースター
島民たちに「世界のへそ」を意味する「テ・ピト・オ・ヘヌア」、あるいは「天を見る目」を意味する「マタ・キ・テ・ラニ」という言葉が伝承される島がある。その名はイースター島、アンコール・ワットから147度あまり東に位置する。半径3000キロに居住可能な島はなく、アンコールが通る子午線から東144度(72 x 2)に最も近い島。1万3000年前、最後の氷河期の巨大な氷冠がほとんど溶けていなかった時代、海面が現在よりも100メートル低く、海膨は急斜面を持つ細長い島々として、アンデス山脈ほどの距離にわたって連なっていたという。ちょうど144度に位置する場所は、現在では海の底。太古の神々は、大洪水で溺れてしまったのか?
アフ・アキビの7体のモアイ像は、太古に海を渡ってやってきた七賢人を表しているという説がある。古代エジプトにも七人の賢人伝説がある。ツタンカーメンの第2神殿に表される壁画の人物像が、すこぶる似ている。エジプトの太陽神ラーの名は、イースター島の遺跡群にも頻繁に登場し、この場所にも像で作ったマンダラがあって、天文学的遺産を示唆するものがあちこちに残されているようである。ちなみに、「ラア」という語は、イースター島の言語で「太陽」を表すとか。
ではなぜ、こんな孤島に賢人たちはやってきたのか?人類の起源は科学的に実証されているわけではないし、遺伝子が地球外から隕石によって運ばれてきたという説も否定はできない。そして、人類の最初の一歩が「世界のへそ」であったことも。この地に限らず、「神聖な石」という思想は世界各地で見られる。人類の共通感覚として、星を眺めて崇高な気分になれるのは、ある種のノスタルジーであろうか?
「聖なる者は世界を胎児のように創造した。胎児がへそから大きくなっていくように、神はへそから世界を創造し、そこから四方八方に広かっていった。」

5. 第四の星座と第四の使命?
歳差運動において、紀元前10500年から半周期(180度)の時代が、西暦二千年あたりになる。これは何を意味するのか?本書は、巨大な遺跡群が紀元前10500年の春分の夜明けにおける四つの特別な星座、すなわち、獅子座、オリオン座、竜座、水瓶座をモデルにしていることを物語っている。獅子座が真東に昇り、水瓶座が真西に沈み、オリオン座は真南の子午線上にあり、竜座は真北の子午線上にあった時代を。しかも、壮大な周期時間に追従して、都を時代ごとに移動させていることを。ギザの都市計画はオリオン座をモデルとし、大スフィンクスは獅子座に祝福され、アンコールの都市計画は竜座をモデルとしている。
では、水瓶座をモデルとした大建造物が、地球上のどこかに存在するのだろうか?大洪水で海の底に眠っているのか?いや、第四の星座をモデルにした神殿を建設せよ!という現代人に課せられたメッセージか?
21世紀の今、紀元前10500年からちょうど180度回転した状態に突入し、太陽神が宿るのは水瓶座である。約1万3000年前の天文学的、地質学的な現象が、半周期して現代と重なるのは何かを学べるチャンスであろうか?
地球の磁力が、ここ数百年で10%ほど減衰しているという研究報告も耳にする。地球の磁界エネルギーがゼロになって南北の磁極反転が起こるのは、西暦2300年より前と予測する科学者もいる。そう、ポールシフトだ。地殻にエネルギーが蓄積され、突然、地殻の大移動が生じることも、ありえない話ではない。磁界エネルギーがゼロになると地球が無防備になり、周辺の彗星を呼びこむような力が働くかもしれない。それが氷河期と重なると、大洪水の引き金になるのかもしれない。
さらに、近年の異常気象や火山活動、そして地球温暖化などと結びつけるのは、オカルトの域を脱していないのかもしれない。磁界ってやつは、謎めいた力だ。それは、地球内部の外核と内核の摩擦によって生じるのかは知らんが、現実に、地球内部はマントルのような流動性物質による遠心力の塊として存在している。
しかしながら、現代人には、まだ偉大なメッセージを解する資格がないのかもしれない。有史以来、人間は物欲、金銭欲、権威欲、名声欲に憑かれ、ついに20世紀、かつてない殺戮の世紀と化した。21世紀になってもなお、政策立案者は消費や生産を煽ることしか知らず、人口増加を煽る施策しか打ち出せないでいる。都市や国家を象徴するような超高層ビルや巨大建造物は計画されても、知性に満ちた普遍的で宇宙論的な建造物が計画されることはない。球体の自転軸が移動すれば、神が宿る方角も聖地も移動するはずだが、宗教的聖地をめぐっては何千年に渡って紛争が続く。それで、古代人が現代人よりも知性が劣ると言えようか...
「希望の持てないほど呪われ、踏みつけられた過去から、あと一度だけ、なんらかの復活が起こるかもしれない。そのとき、ある思想が再び息を吹き返す。私たちは、太古からの大切な遺産を受け取る最後のチャンスを、子孫から奪ってはならない。」

2016-09-04

"雨・赤毛" W. Somerset Maugham 著

サマセット・モームに嵌ったところで、とどめの一冊...
本書には「雨」、「赤毛」、「ホノルル」の三篇が収録され、南海の浪漫を調合した癒しの文面にしてやられる。いずれの結末も一見歯切れが悪そうで、それでいて心を妙にくすぐりやがる。絶妙な中途半端とでも言おうか、ついニヤリとしてしまうのだ。これぞ皮肉屋の真骨頂!おまけに、まったりとした前フリが南海のじめっとした空気を漂わせ、前戯が大好きな酔いどれには、たまらない。
三篇の組み合わせもなかなかで、そこにストーリー性を感じる。鬱陶しい雨がこれまた鬱陶しい説教好きの聖職者の生殖者たる本性を暴けば、ロマンチックな恋愛物語に意地悪などんでん返しを喰らわせ、仕舞いには、魅惑な女性像を散々想像させておきながら、今までの話はなんだったんだよ?とツッコミたくなるような脱力感と衝撃(笑劇)のうちに終わる。中途半端な要素が集まって互いに調和すると、こうも完成度の高いシニカルな作品になるものであろうか。いや、夢から現実に引き戻されれば、大概のことは喜劇で終わるってことか...
尚、「月と六ペンス」で行方昭夫訳(岩波文庫版)を、「人間の絆」で中野好夫訳(新潮文庫版)を、そして「サミング・アップ」で再び行方昭夫訳を手にし、ここでは再び中野好夫訳に戻る。翻訳者の間をさまようのも乙である。

1. 「雨」...  完全なキリスト教化を望む宣教師の狂い様とは...
マクフェイル博士は、戦傷を癒やすためにサモアの島へ船旅の途中、宣教師のデイヴィドソン夫婦と出会う。そして、麻疹が流行して検疫のために小島に上陸。そこは太平洋でも一番雨の多いところ。旅行客は、不快な雨のために、しばらくちっぽけな町に閉じ込められるのであった...
上流階級を鼻にかけるデイヴィドソン夫人は、二等船客と一緒の部屋であることに我慢ならない。おまけに、相手は身持ちの悪いホノルルの娼婦ときた。
宣教師デイヴィドソンは何かに憑かれたように改心させようと情熱を注ぎ、やがて女も何かに憑かれたように恭順していく。二人は部屋に閉じこもり、お祈りを続ける。夫人は夫の布教活動に一切口を出さない。これが夫婦間の暗黙のルール。
「たとえ地獄の深淵よりも、もっと罪深い罪人であろうとも、主イエス・キリストは愛の御手を伸ばし給う。」
ところが、こういうお節介な人間にああいった女を近づけると、不吉な魔力が働く。女は、偶像礼拝の残忍な祭式に用意された生け贄か。
ようやく明日には女がサンフランシスコへ移送されることになり、皆が安堵していたところ、デイヴィドソンの死骸が発見される。右手には自ら喉を斬った剃刀を握っていた。
女の方はというと、もう昨日までの怯えた奴隷ではなくなっていた。厚化粧にケバケバしい服装で、傲岸極まるあばずれ女に戻ったのである。そして、嘲るように大声で笑い、デイヴィドソン夫人に向かって唾を吐いた。マクフェイルは女を部屋に連れ込んで叱ると、女は居直り、嘲笑の表情と侮蔑に満ちた憎悪を浮かべて答えた。
「男、男がなんだ。豚だ!汚らわしい豚!みんな同じ穴の貉だよ、お前さんたちは、豚!豚!... マクフェイル博士は息を呑んだ。一切がはっきりしたのだ。」

2. 「赤毛」... アダムとイブのような純愛の行方は...
船長は、蜘蛛の巣にかかったように、南海の浪漫的な島の入江に上陸した。南海ってやつは、奇怪な魅惑の虜にしてしまう。あのナジル人のサムソンが、デリラに髪を切られて力を奪われたように...
そこには白人の家があり、船長は家主に招かれた。家主の名はニールソン。船長は、彼が奇人だという噂を耳にしていた。ニールソンは、こっちに三十年もいるという。
そして、レッドという男の話を始めた。赤毛だからそう呼ばれていたが、会ったことはないという。アメリカ海軍の水兵で、歳は二十、背が高く、美しい顔立ちで、この世の美しさではないほどに。レッドは軍隊を脱走してこの入江に逃げ込み、十六の美しい娘サリーと出会って恋に落ちた。二人の愛は、アダムとイブのような純粋なもの。退屈でありながら、愛する人と一緒ならば充実できる日々。
「幸福な人間に歴史はないというが、確かに幸福な恋にはそんなものはない。」
やがてそこに捕鯨船が現れ、レッドは攫われた。サリーは子供を死産し、気が狂わんばかりに悲しみに暮れる。
そして三年後だったか、サリーは一人の白人と親しくなったという。その白人とは、ニールソン自身であった。彼はサリーの美しさの虜になり、レッドの帰りなどあてにできないと必死に口説いた。愛ってやつは、拒めば拒むほど燃えあがる。思い出と一緒に小屋を焼き払うが、頑な態度は変わらない。
疲れきったサリーは、ニールソンに身を委ねて妻となるが、思い出は消えず恋は苦痛となる。何十年も、ただ惰性的に夫婦として生きてきた二人。ただ、ニールソンは、憎しげにジロリと船長を睨みながら話を続ける。なぜ船長に、こうも反発心を抱くのか?こいつがレッドだと予感したのか?
話が終わる頃、食事の用意を済ませた妻サリーが部屋に入ってきて船長と対面する。神の悪戯か?船長は、蜘蛛の巣にかかったように、過去に引き寄せられたことに気づくと、すぐに家を出た。あれだけ燃え上がった二人が、三十年後に再会してみれば互いに気づきもしない。ニールソンには、それがおかしくもあるが、やがてヒステリカルな笑いに変わっていく。今までの嫉妬はなんだったのか?なんという浪費!サリーが、今の方は何の御用でしたの?と聞くと、ニールソンは、今の男がレッドだ!と言う気にもなれない。恋の悲劇は、死でも別離でもない。「愛の悲劇は無関心なのだ。」

3. 「ホノルル」... 醜い男の嫉妬深さとは...
ホノルルは、ヨーロッパから恐ろしく遠く、サンフランシスコからも長い長い船路の果て、西洋と東洋の出会いの場、様々な人種の陳列の場、信じる神も違えば使う言葉も違う。共通するものといえば、愛と飢えという二つの情熱だけか。どんなに文明が高度化しようとも、原始的な迷信物語が絶えることはない...
旅行者の私は、ガイドの滑稽で皮肉な案内に御満悦。ガイドは、現地の風俗を味合わせるために、馴染みの酒場へ案内する。そこでバトラー船長と出会い、彼の船に招かれた。そこには、魅力満点の美しい娘と、何かと彼女の身体を触っているバトラー... 活字にするには品がないほどに。
船には、醜男のコックが雇われている。そして、テーブルの上の壁にかかっている、大きなふくべを見つけた。バトラーは、それについて話はじめる...
バトラーは航海士バナナにある島へ連れられ、美しい娘を見つけたという。女癖の悪い彼は、さっそく言い寄る。人生は長い!と言わんばかりに、いつまでも居心地のよい島から出航しようとはしない。いっそ娘を連れて行ったらどうか、と持ちかけたのは娘の父親だった。娘も身体を擦り寄せ、その気十分。父親は金をせびる。娘の柔らかい頬がぴったりくっつくと、値切る気などぶっ飛び、おかげでスッカラカン!男の悲しい性よ。
バナナも娘に惚れた。無口で無愛想だが忠実な航海士を、バトラーは奴でも恋をするのかとからかう。やがてバトラーは原因不明の病に倒れる。娘は、バナナが呪い殺そうとしているのよ、と忠告する。だが、忠実な部下を首にはできない。病態はすっかり骨と皮になり、見るも恐ろしいくらい。娘は、あの人を救えるのは私だけ!と決心した。
そして、テーブルのところで髪をおろし、鏡の代わりにふくべを覗き込んで顔を映す。底に何か落ちていると、バナナにふくべの底を覗き込ませると、さっと水がはね、猛毒をあおったように床の上に崩れた。バナナは、ふぐの毒がまわって死んだとさ...
さて、そんな話よりも、いったいあんな平凡な小男のどこがよくて、あんな綺麗な娘さんが夢中になるのかねぇ?ガイドは言った、「でも、あの娘は違いますよ。別の娘ですよ。」... じゃ、今までの話は???
どうやら娘はコックと一緒に逃げちまったらしい。だから醜男を雇っているんだとさ。新しい女は二ヶ月ほど前に連れてきたばかりで、今のコックなら安心だとさ。嫉妬深い醜い男は、自分より醜い男しか近づけられないというお話であった。ネタふりが長い!