2010-07-25

"民間防衛" スイス政府 編

本屋を散歩していると、ちょいと風変わりな本を見つけた。編著がスイス政府???
スイス政府が全家庭に一冊ずつ配ったものだそうな。そこには、美しいアルプスの穏やかな農村イメージとは程遠い、スイス国民の自由と平和への執念とも言うべき姿がある。スイス国家の歴史的背景を踏まえれば充分納得できるが、日本人にとっては衝撃的であろう。それは、日本社会でよく見かける非武装思想の平和論とは、真逆な発想だからである。単なるスローガンで空想的平和主義を叫ぶのとは大違いで、民主国家が自由と平和を尊重するには、国民一人一人に勇気と覚悟が必要だと訴えている。国土防衛に専念するあまりに少々過激なところもあるが、決して国粋主義を煽ろうとするものではない。「民間防衛」と名付けてはいるが、国防は言うまでもなく、テロ、自然災害、放射能汚染など、日常生活で瀕するあらゆる危機から身を守るための指針が記される。
「われわれは、脅威に、いま、直面しているわけではありません。この本は危急を告げるものではありません。しかしながら、国民に対して、責任を持つ政府当局の義務は、最悪の事態を予測し、準備することです。軍は、背後の国民の士気がぐらついては頑張ることができません。」
このフレーズは、「十年先の公約を掲げてどうする?」といった、どこぞの先見性のない言い分とは根本的に違う。この書には、国家が存続する意味とは何か?それは、基本的人権という人間の普遍原理を前提とした価値観と言おうか、そういうものを問い掛けているような気がする。このスイス政府の英断には感服せざるを得ない。彼らの独立精神の根源にウィリアム・テル伝説があるのかは知らん。
ちなみに、イギリスの民間防衛研究所の機関紙は、本書を次のように評したという。
「第三次世界大戦が勃発しても生き残る国民はスイスだけであろうし、彼らはまたそれに値する。」

本書を読めば、ぬるま湯の平和論がくすぶる日本社会では、即刻スイスを見習い中立を宣言しろ!などという意見が聞こえてきそうだ。だが、他国の猿真似をしたところで、歴史的な経験から育まれた国民意識と比べるべくもない。それは政府と国民の信頼関係が前提される。つまり、国家をうまく機能させるために「良心の自由の尊重」という基本精神に則っとられる。
対して、日本政府にどれほどの信頼が置けるのか?拉致問題にしても、数万人規模の被害者が存在すれば、さすがに政府も重い腰を上げるかもしれないが、犠牲者が少数ならば基本的人権すら放棄することを認識させられた。おまけに、政府はその国と国交正常化を求める。民主国家が独裁国家を容認できるはずもなかろう。長期間放置してきた結果が今である。この点では、スイス国民は祖先たちに恵まれたと言えるかもしれない。国際的に中立国として認められてきたのは、過去の戦争において中立を維持してきた覚悟への恩賞と言っていい。
はたして、現在の日本国民がその祖先になり得るのか?スイスを見習うのであれば、国家百年計画のビジョンを打ち出す必要があろう。しかし、日本は、どの戦争においても、優勢な方に与するという発想で生きてきた。第二次大戦ではナチスと組んだ。冷戦構造の中でアメリカに依存してきたのは、歴史の流れからすると仕方がない。お陰で経済的に豊かな国になった。日本には、どこかの陣営に所属していないと不安になる性格が伝統的に強いのかもしれない。それが島国だからか?組織でも個人でもその傾向が強い。国家は歴史を背負いながら生きている。理想論だけですぐに方針転換はできない。
本書は、スイス経済が海外貿易と外国人労働者に依存していることを認めている。食糧自給も外国に依存している。国際的緊張が発生すれば、すぐに労働力不足や食糧不足に陥る可能性をを想定している。その上で、突然、国家的緊張が生じたとしても、国民が動じないような方策を具体的に示している。最も訴えているものは、国家の安全保障は国民意識に左右されるということであろう。自由と独立は断じて与えられるものではなく、絶えず守らなければならない権利だという。このあたりの思考の違いが、日本では真の意味での改革は、自力ではできないなどと揶揄されるのだろう。根源的な哲学的思考を疎かにすれば、どんなに巧みな手段を持ち出したところで、まやかしで終わる。基本的人権に対する認識の甘さでは、反省させられる思いである。

スイスは、ヨーロッパの中央に位置し、大国に挟まれながら民族間の侵入や征服を経験してきた国である。永世中立国として200年近くの伝統があるが、そこに至るまでの苦難は日本人には想像し難いものがある。フランス王国からの圧力、神聖ローマ帝国から独立したとはいえハプスブルク家からの圧力、そして第二次大戦では中立を宣言したばかりに強国に封鎖される経験をした。一部の領空権が奪われ、爆撃の経験もした。しかし、あのヒトラーにしてスイス侵攻を断念させた決意は、スイス国民の誇りとして根付いているようだ。彼らは、具体的な危機に直面してから準備するのでは遅すぎるということを経験的に知っているのだろう。「やむにやまれぬ」と言って戦争に突入した国家とは大違いだ。自由と平和を望む者は、その努力を惜しむな!というわけか。
また、中立であるがために、多くの難民が洪水のように押し寄せる可能性を指摘している。人道的見地から宿泊施設や食糧を提供する義務があるが、中には監視を必要とする怪しい輩も紛れ込むだろう。難民を受け入れるには、治安維持のための警察能力が必要であると説く。人間の尊厳を守るには、美しいことばかり言っても実践できないというわけか。人間の徳が善悪の両方に存在することを、尊重しているとも言えよう。
「もしも国民が、自分の国を守るに値しないという気持ちを持っているならば、国民に対して祖国防衛の決意を要求したところで、とても無理なことは明らかである。国防とはまず精神の問題である。」
自由と人権のためでなければ、戦う理由などないというわけか。対して、日本は幸いなことに民族抗争や亡国の歴史的経験がない。せいぜい戦後に占領された時期が一瞬あるぐらいなもの。その意味で、危機感に大きな違いがあるのも当然と言えば、当然である。その分、地震などの自然災害に対する日本人の意識は、世界的にも高いと評価される。スイスでは、自然災害も国防のレベルにまで押し上げられるようだ。

どんな人間でも、目の前に危機が迫らなければ、意識は高められないだろう。常に倒産の危機を背負っている企業では、従業員たちも革新的な精神が欠けることを恐れる。失業の心配がなければ、無駄な予算を計上するのも仕方があるまい。労働組合は相変わらず高度成長期の幻想に憑かれて、派遣労働者や下請け業者を犠牲にしてまで賃上げ要求をする。大企業は、高額な企業年金に固執しながら現役労働者を犠牲にし、経営不振ともなると国の補助金を当てにする。そして、アル中ハイマーは、酒に溺れながらブツブツとグチる毎日を送る。こうしたことは、平和ボケでもなければ、成り立たない論理であろう。日本は自力で平和を勝ち取ったわけではない。だから余計に、アメリカの軍事力を後ろ盾に幻想の平和論で盛り上がるのかもしれない。平和国家であることを自慢しながら、ますます自己イメージを膨らませる。まだしも、冷戦構造では大国による圧力が暗黙の監視役となっていた。だが、現在ではテロがどこで起こるか分からない。核兵器は拡散し、偶発的に核戦争を招く可能性を拡大した。状況は過去にもまして脅威になったと言えよう。たとえ小規模な組織の紛争であっても、大規模な悲劇を招く可能性がある。脅威は戦争だけではない。むしろ経済的な人為的脅威の方が大きいかもしれない。

1. 永世中立国の民間防衛意識
永久平和が無条件に保障されるならば、なにも軍事的防衛や民間防衛の意識を高める必要はない。スイスでは、民衆が平和を望めば、それで戦争に備える義務から解放されると感じる人はいないという。他国を侵略しないことはもちろん!他国にも侵略させない!という決意が表れる。国際的に永世中立国と認められているからといって盲人であってはならないという。単に戦争を放棄したり、中立を宣言するだけでは、世界から認められるわけではない。スイス国民の祖先は、18世紀から平等と自由を訴え続けてきたという。しかし、最初から平和愛好国であったわけではなく、征服や侵略の経験もある。封建体制に反発し、連邦を構成する個人の相互尊重を与えることに苦悩してきた。こうした経験が世代間で受け継がれ、ようやく理解されて侵略戦争を放棄するに至ったという。まさしく、国家は世代間の伝統と積み重ねによって建設されるというわけか。民間防衛の意識が高まっていれば、あえて敵国を名指する必要もなければ名指しする理由もないという。
また、民主主義の真価は、絶えず必要な改革を促すことであるということが強調される。健全な民主主義を発展させるためには、建設的な反対派による批判や審査が必要だと指摘している。ここには、すべてのシステムは、欠陥と不完全性に見舞われるという前提がある。なるほど、憲法論議にしても、論理的に完璧な条文なんてあり得ないにもかかわらず、検証を怠る国とは違う。民主主義を実践するための現実的な手段である選挙制度にしても、欠陥の見直しもなされず、何十年も亡霊のようにつきまとう。一党独裁が黒幕を暗躍させ、高級官僚と癒着を深め、巨大官僚体制を築いてしまった。そして今、改革してるんだか、更に悪化してるんだか...
こうした硬直化した状況を作り出したのは、国民の責任と言われているようで頭が痛い。民主主義に対する意識は、百年ぐらいの差を感じる。

2. 自由と寛容の精神
ヨーロッパといえば、どこの国でも宗教戦争の余韻が残る。本書は、宗教や信仰に対する寛容さを強調し、キリスト教上の異説も良心の自由の証拠として大目に見ようと語る。そして、カトリック司教と新教の牧師との関係も良好で、反ユダヤ主義も過去のものとなり、いまや宗教上の闘争はなくなったという。自由主義が宗教に無関心にさせることも認めている。現代的な合理的感覚が、信仰心を弱めたのも事実である。宗教に頼らなくても、隣人愛と公民としての義務は実践できるだろう。ただし、他人に対する良心の自由が侵害された時は、寛容さを享受できないとしている。
近代戦ともなれば、軍事行動だけではなく、心理的に揺さぶりをかけてくる。近年の民族紛争では、世界世論を味方に付けようとする巧みなメディア戦争の色が濃い。どこの国にも売国行為はあるもので、それにジャーナリストや識者たち自身が気づかないことも多い。情報社会では、マスコミの扇動に負けずに自分で考えることの難しさがある。本書は、自ら守る決意を持っていれば、扇動に惑わされることはないと呼びかける。

3. 最悪の事態
危機に備えて、家庭における生活用品や食糧の貯蔵のやり方など、細々と記される。地域防災システムでは、自警団、国防軍の地域防衛隊、避難所の建設といった防災組織が徹底される。第二次大戦では一時的に避難所へ退避すればよかったが、核被害ともなれば長期間避難所で暮らさなければならない。その心得や物資の確保、あるいは防災組織としての地方自治体の役割などが解説される。スイスには、充分に整備された監視警報組織があるという。人口が少ないことも、目が届きやすい利点だ。
本書には、たとえ核攻撃であっても自国で身が守れる!という自信の裏付けのようなものを感じる。原爆に対しては、熱線、火傷、火災、圧力波、放射線などの対処方法までも細々と記される。その救助姿勢には、応急手当が生死を決めることが徹底される。生物兵器や化学兵器への対処、あるいは防災活動の方法などが、すべての避難所建設と同期している。
ただ、そこまで疑い深くなるのはいかがなものかと思わせる箇所もある。スイスが戦場となり、落下傘部隊が随所に降下してくれば、裏切り者が出る可能性まで言及している。
また、国土が占領下に置かれたことまで想定している。レジスタンスの意義まで唱えているところは、少々行き過ぎを感じないわけではない。大戦の中を中立国として生き残ってきた経験がそうさせているのだろう。

2010-07-18

"国家学のすすめ" 坂本多加雄 著

一般的に、国家の存在が民衆の心の拠り所となっているのは確かであろう。ごく稀に、国家という枠組みから外れた人たちもいるわけだが...考えてみれば、この世に生を受けて自動的に所属させられるというのも、奇跡的な仕組みのような気がする。しかも、運命的に出会った国家から無条件に納税を義務付けられるとは...なんとなく理不尽を感じないわけではない。そうした当たり前という意識が、政府の仕事に対して受動的にさせるのかもしれない。
本書は国家学の必要性を唱えながら、日常意識としての国家や国民の意義を問い直そうとする。それは、国家学を体系的に語ろうとするものではない。主権国家としての自立と、それなりの民衆の覚悟を促している。
「国家とは、私たちの外側にあって、他の誰かが適当に面倒を見てくれているような存在ではなく、私たち一人一人の心のなかの問題である。」
ところで、国家学という言葉を持ち出すとちょっと構えてしまう。ナショナリズム的なニュアンスがあるからか?戦時中、軍国主義のナショナリズムと国家とが混同されたために、国家学という言葉を遠ざけてきたのかもしれない。日本の教育では自国の国旗や国歌を尊重することを教えない。それが教育方針ならば仕方がないが、そのお陰で外国で国旗掲揚の際に日本人が無礼な態度をとったとして物議を醸すのも頭が痛い。
政治学は、肝心な「国家とは何か?」という基本的な議論を疎かにして、法律や制度といった政治手法に目が奪われる。経済学は、肝心な価値判断を疎かにして、もっぱら流通量に目が奪われる。本書は、けしてナショナリズムを高揚しようとするものではない。「国家とは何か?」あるいは「国民とは何か?」という素朴な疑問に立ち返ろうとするものである。

人間社会とはおもしろいもので、「民族の誇り」を掲げた独裁者が異文化を迫害する一方で、「世界は一つ」と提唱する平和主義者が多数決的な価値観を押し付ける風潮がある。すべて平等という人権だけで共存を唱えても、往々にして文化や生活様式を差別してしまう。マスコミにも独特な価値観があって、その論調から外れた人々は、あたかも社会の害虫のように叩かれる。まるで人間の多様性を否定するかのように...グローバリズムの流れから、国家の枠組みを排除しようとする理想平和主義を唱える人も少なくない。しかし、現実には経済人的な独特の価値観が優勢のようだ。BIS規制にしても、品質管理の国際基準であるISOにしても、国際会計基準にしても、産業界の利害関係から生じた。かつて軍事力によって植民地化されたが、現在ではマネー力によって植民地化される感覚さえある。自由競争を崇めれば独占形態に行き着く。民主主義の暴走は、独裁政権と同じくらい質ちが悪いと肝に銘ずるべきであろう。
本書は、経済が意味するグローバリズムとは、物、金、人のすべてが地球上を自在に移動することを意味するという。つまり、万人が出身地によるハンディを背負わないということである。現実に、物品と貨幣に関してはグローバル化が進んでいる。だが、人は本当に自在に移動しているのか?どこの地域にも、文化や慣習や言語などの優位性がある。真の意味で自在に世界を移動できるのは、一部の才能豊かな人たちだけであろう。ほとんどの人は、日系企業や、外資系であっても日本に拠点を持つ企業など、日本分化を後ろ盾にしている。はたして、文化の多様性を無視したグローバリズムなんてものが、成り立つのだろうか?そして、本当に国家という枠組みを超えた存在というものがあり得るのだろうか?本書は、こうした疑問を投げかけているような気がする。

どんな政治形態にせよ、そこには何らかの安全保障体制がある。それは国内外の圧力に向けられる。国内では行政サービスや警察行動によって秩序が維持され、国外に対しては国防力を保持する。君主が統治した時代では、権力者の保全のために国防軍を備え、秩序を維持するための掟が存在した。民主国家では、基本的人権を守るための安全保障の機能が働かなければ、税金を納める意味を失うだろう。しかし、平和主義を唱える中には、ことなかれ主義のもとで拉致被害者を黙認してきた輩がいる。おまけに、不景気からくる愚痴からか?救出された拉致被害者が優遇され過ぎるという風潮すらある。拉致被害者たちはずーっと基本的人権を侵害されてきた。だが、この件で国家反逆罪に問われた政治家を一人も知らない。拉致問題は、まさしく「国家とは何か?」を問い直すのにちょうどよい題材であろう。
世界には、いまだに独裁形態の国家が数多くある。しかも、民主国家たる先進国は、彼らを陰ながら援助してきた歴史がある。そもそも民主国家が独裁国家を容認できるのか?相手国の民衆運動と結び付く方が現実的であろう。ところで、日本と台湾は正式な国交がないにもかかわらず、国民レベルでは良好という不思議な関係がある。政治レベルの国際関係と、国民レベルの国際関係が、これだけ乖離している例も珍しいだろう。ならば、国家とは矛盾を創出するだけの無用な産物と思われても仕方があるまい。
本書は、日本は敵対国に対して知恵と勇気を持って共存に努める心構えが必要だと語る。それは、武力衝突はあり得ないと信じるのではなく、万が一にも可能性があることを前提にすべきだということである。安全保障制度とは、こうした覚悟の上で成り立つという。これは戦争の準備ではない。ただし、戦争という最悪な状況を想定しないような呑気な政府もないだろう。東アジアに脅威を残しているのも、アメリカの戦略と考えることもできるわけだが...国家は個人以上に利己的に振舞う可能性が高く、国家間の関係は個人相互間の関係よりも不安定であるという。

1. 国家の正統性
そもそも、国家という存在が人間社会にとって必要なのか?という議論もあるだろう。レヴィ=ストロースは、その著書「悲しき熱帯」でブラジル原住民の生態系から首長の存在意義を考察していた。彼は、政治リーダは集団形成に必要という観点から存在するのではなく、むしろ集団に先立って存在するように思えると語っていた。その説は、リーダ的存在は集団社会の必然性から生じたという一般的な見解に、別の視点を与えたという意味で興味深い。実際には、どちらが先だっているというのではなく、双方にとって必然性があるのだろうが...
本書は、国家が社会の他の諸団体に優越するわけではないと指摘している。しかし、政治家や政府高官たちは、歴史的に背負ってきた権力者による抑圧的態度を継承しているように映る。社会的には、法的な制限があるにせよ、国家が暴力の独占団体ということになるのだろう。警察行為は、犯罪行為に対して、敢然と撲滅する態度を取らなければ、国民からの信頼が得られない。だが、一部の既得権益者のために制度が活用されるのであれば、まさしく国家レベルの暴力と化すであろう。
昔々、国家が民衆の抑圧機関として存在した時代があった。君主制の時代から様々な規定が設けられ、官僚機構が発達すれば、官僚統治の基盤である法律の運用は欠かせない。次に、民衆が政治に参加できる仕組みが生まれると、政治家と民衆が癒着し、民衆は国家へ無限の期待をかけるようになる。そして、国家権力を制限するための監視機構が必要となる。その前提になるのが、情報の透明化と国民意識であろうか。立憲主義が民主主義と共存する必要を感じるのは、まさしくこの点であろう。
現代の風潮は、政府は国民を監視するために存在すると誤解し、国民はあらゆる自由が保障されると誤解しているように映る。過剰な国家権力を抑止するのは、裁判所の役割ということになろうか。だとしても、もはや三権分立が機能していると信じる人も少数派であろう。国家の正当性を認めているから無条件に法律に従う。警察行動には国家権力の代行者としての信頼が前提される。
「近代国家は、治安の維持という主権の原理、基本的人権の保護のために政府機能に制限が与えられる立憲主義の原理、民衆の意向が反映されるための民主主義の原理、この三つの正当性原理によって成り立つ。」

2. 日本固有の平和主義
本書は、理想化した、いや空想化した日本の平和主義者への批判書という様相を見せる。太平洋戦争における戦死者の多くは、戦場に向かう途中で輸送船が撃沈されての海没死であったり、劣悪な補給による餓死や戦病死であったりと、武勇による華々しい死とは程遠いものだったという。生活基盤も徹底的に破壊され、敗戦の体験は戦の悲劇ではなく、人間の尊厳そのものを失うような惨めなものだったと...
日本は民族抗争や亡国の歴史的経験がない。ほんの一瞬だけアメリカ軍に占領された経験があるだけだ。正義の戦争と信じた結果が惨禍と悲劇で終わるのであれば、非条理としか言いようがない。
本書は、戦後の実存を合理的に説明しようとすれば、反省にすがるしかないのではないか、と分析している。そして、憲法九条の平和主義を擁護することで、戦後を生きるための出発点にするしかなかったと...少なくとも、太平洋戦争は間違いだったという精神に立ち返らない限り、前には進めないほど徹底的に社会が破壊されていた。ただ、明治維新以降からの戦争で、太平洋戦争だけを悪とする風潮があるのには疑問が残る。当時の国民は、太平洋戦争も含めてすべての戦争を正義であると信じていただろう。どんな戦争だって、それぞれの国で言い分があり、正義だと信じられるから残虐行為もできる。自国の戦争が不正義だと思えば、そんな行為を世論が許すわけがない。当時の日本は、それほどの立憲国家であったはず。現在では、その反動からか?国際紛争から目を背け、日本だけ平和を謳歌する風潮が蔓延する。「平和国家日本」というスローガンは、アメリカの軍事力が後ろ盾になっているだけのことで、日本が自立して平和を維持しているわけではない。にもかかわらず、日本の平和論は、平和国家であることを自慢しながら、ますます自己イメージを膨らませる。確かに、「戦争のない国」という言葉には心地良い響きがある。だが、日本だけ理想主義を信じたところで幻想でしかない。目の前で戦火と対峙する国々とは違い、空想的な思考に憑かれるのも仕方がないのかもしれないが。日本の平和論は、「世界平和」と「自国平和」を混同しているように映る。これが、戦後から育まれてきた平和ボケと言われる日本固有の平和主義ということだろうか...

3. 非武装思想
憲法九条の非武装思想は、世界が平和であるという前提から成り立つという。その通りであろう。現実に、世界各地で紛争が続き、平和なのは日本をはじめとする特定の地域だけである。そもそも世界中が平和だった時期は、原始時代にでも遡らないと見当たらない。第二次大戦後、むしろ紛争の数は増している。その流れからすると、近い将来、日本においても平和の幻想が覆されることになるかもしれない。
本書は、憲法九条は日本国憲法の原案作成者である占領軍当局の国際認識に由来すると指摘している。第二次大戦は、全体主義と民主主義の戦いだった。ただ、ソ連や中国を民主主義と呼べるかは疑問であるが。憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義の信頼」というのは、民主主義の防衛を表しているという。つまり、「平和を愛する諸国民」というのは連合国を指しているのであって、その監視下にある日本を牽制するということらしい。その意味ではベルサイユ条約のような性格が強いのかもしれない。国連を創設したのも、枢軸国の復活を抑止するための連合国の機構であったことは想像できる。当初の国連の意義がどうであれ、現在ではその意義を多少は高めてきたのかもしれない。ただ、まともに機能しているとも思えんが...
戦後まもなく、アメリカは日本の非武装化思想を覆して、自衛隊の設置を要求した。要するに現実路線への転換である。冷戦構造において同盟国の中に完全に武力放棄した国があっては迷惑するだろう。しかも、日本は経済大国になった。無思考で金だけ出してくれる方が有難いかもしれないが...
冷戦構造が終結すると、アメリカは軍事力を後ろ盾に世界の警察官を自認してきた。そして、民主主義の旗を掲げながら、あらゆる紛争に介入してきた。その理想主義はある意味美しい。その反面、暴走とも言える戦争も多く引き起こしてきた。結局、一つの国家の意思による警察行動は国益に左右される。そこで、国連軍の役割が強調され、各国の国防軍が国連の傘下に入ることになろう。日本の国防は自衛隊が担う。となれば、今後、自衛隊の役割も世界的に拡大する方向なのだろう。しかし、日本では憲法上の解釈から、自衛隊の存在すら否定する風潮がある。基本的人権を守るという観点から、国防は政府の義務であるはず。中立や不戦という理想を掲げたところで、現実に大規模な犯罪組織もあれば、国家規模の侵略者も存在する。自衛隊すら認めない平和主義を自称する連中は、国防すら他国に委ねるということか?非武装が真の意味で平和を意味するのか?国内で警察を必要としないという論調がないのに、なぜ国防軍が必要ないという論調になるのか?どちらも、安全保障、ひいては基本的人権にかかわる問題ではないのか?自衛隊が国際的に活躍する機会を得れば、自衛官が銃撃戦で死亡する可能性も出てこよう。警察官が犯罪者の追跡中に殉職する可能性があるように。自衛隊を派遣する場合、非戦闘地域ならばOK!という理屈も奇妙である。安全ならば民間支援でええではないか。真に平和を願うならば、自国の犠牲を甘受できるかが問われるだろう。実際に政府が自衛隊へ防衛出動を発動できるのかも疑問である。
「仮に国際法上国家として認められた場合でも、その国が自主的な対応を行うだけの力量を備えていない場合は、その国は、強大な国家の様々な動きに弄ばれるだけになる。たとえば、中立を宣言しても、それに関する国際法に則した対処をしないと、各国からは中立国と見なされない。」

4. 公民としての国民
本書は国民が公民として自覚することを促している。そして、今日の政治不信の根底には、公的論理の貧困化があると指摘している。ちなみに、マックス・ヴェーバーの言葉に、「政治のために生きる人」ではなく、「政治によって生きる人」というのがあるらしい。
現実に、すべての政策や制度が利害関係だけで成り立っているわけではない。政策や制度の形成に関わる動機が私的なものであっても、それを実現するための論理は公的なものになるだろう。だが、公的な論理は、正義、公平、平等、自由、友好、人権、安定、平和といった癒し系の言葉を巧みに操り、宣伝の道具にされる。政策や制度を普及させる上で、マスコミの役割は大きいが、実際には世論操作の道具にされ、民衆は客観的に観察することが難しい。
また、国会が必ずしも公の議論の場とはなっていない。与野党が国会対策委員なるもので、談合によって議論が進められ、その結果を演じているかのように映る。ちなみに、欧米では、しばしば国会対策委員という例が、日本の民主主義の未熟さの象徴として取り上げられるらしい。ここで手腕を見せれば出世もする。いわゆる、国対族の暗躍である。長らく裏方の国対族が政府を牛耳ってきた。外国の首脳も、首相よりは黒幕と直接交渉する方が意義が大きいと考えてきた。現在はどうなんだろう?いまだに怪しい香りがプンプンするにもかかわらず、国会対策委員という形態そのものに、疑問を呈する議論をあまり聞かない。だからといって、欧米のシステムが健全というわけでもないだろうが...

5. 民族と国家の概念
他民族と接することによって、新たな価値観に目覚めることもあろう。こうした思考は、日本人が世界にどのように位置するかを確認する上でも重要である。民族という概念は厳密な定義が難しい。それでも、本書はなんとか定義してくれる。
「言語、宗教、習俗といった個別的に同定できる客観的属性に還元できるものではなく、それら諸々の要素を取り込みながら成立した共通の文化 = 生活様式を共有するところの、主観的な集団的同胞意識である」
民族的意識やアイデンティティーは、何らかの基盤がないところに突然沸いて出るような概念ではないという。そういえば、グローバリズムを煽ると、同時にナショナリズムが高揚されるという現象があるように思える。文化の破壊された歴史を持つ民族では、無理やり伝統的文化を創るケースもある。これは、民族固有の意識が消滅することへの恐れか?あるいは実存への願望か?移民を受け入れる国々では、民族間の摩擦が大きな社会問題となる。いずれ、日本も同じような経験をする時代が来よう。そうなると、日本人という民族的概念も拡大するのかもしれない。よく日本人は同胞意識が強いと言われるが、いずれ民族が共存する中で同化していくのかもしれない。だとしても、突然湧いて出る価値観ではなく、新たな日本人の民族概念が構築されるのだろう。簡単に伝統や文化的慣習を超えることはできそうにない。
本書は、異なった歴史的、地理的環境のなかに形成された外国の制度や文化の都合の良いところをつまみ食いして合成したところで、真の国家像を形成することはできないと指摘している。

2010-07-11

"悲しき熱帯(I/II)" Claude Lévi-Strauss 著

レヴィ=ストロースが亡くなったと大々的に報じられたのは、昨年の秋頃だろうか(2009年10月30日没)。彼の名は、社会学系の書ばかりでなく科学や数学の書でも時々見かけ、その都度「構造主義」という言葉に出くわし悩まされてきた。レヴィ=ストロースは構造主義の祖とされる。民俗学では、伝統的慣習や民族系統などに着目して社会構造を分析するのだろうが、一種の分析論といったところだろうか。
しかし、あらゆる事象を解析しようすれば、構成要素を抽出して構造的に分析しようと試みるであろう。そして、抽象化しながら分類したり系統立てたりするのは、古代から受け継がれる自然な方法に映る。物理学の法則を「質量主義」や「物理主義」などと呼ぶようなものか?何々主義などと高級な言葉を持ち出さなくても、レヴィ=ストロースの研究が色褪せることはない。
ちなみに、コンピュータ業界でも「構造化プログラミング」という言葉があるが、むかーし構造のないプログラムなんてあるの?と皮肉ったこともあったっけか...

本書は、ブラジル探検における調査記録である。そこには、原始的社会から眺めた文明社会への批判が込められる。とはいっても、流れるような文章に魅せられて、むしろ文学作品として楽しませてもらった。悲観主義に色彩描写や音律的表現が絶妙に絡む。痛烈な社会批判も幻想的な表現で包めば、癒しの空間を与えてくれるというわけか。訳者川田順造氏のテクかもしれない。
レヴィ=ストロースは、フランスの社会人類学者で、その名前からしてユダヤ系のようだ。ナチスから迫害された経験が、文明人に圧殺される原住民に共感したのだろうか?あちこちに、インディオ文化を侵略する連中への怒りや道義的感情が現れる。自然に隷従する原始的社会と人間に隷従する文明社会の対比と言おうか、野蛮人は獣のままでいるより奴隷になる方が望ましいという価値観の押し付けへの反感と言おうか。かつて開拓された残骸が考古学上の遺跡のように見える様子では、...再び植物が覆い茂っているものの、もはや原生林の高貴な面影はない...といった現代社会の未来に重苦しさを感じながら、原始的社会の破壊への嘆かわしい描写が連続する。これはヨーロッパ中心主義の批判書と言っていい。いや、思い上がった人間中心主義への批判書と言うべきかもしれない。
文化的水準が高まれば精神的欲求も高まる。芸術や科学は、まさしくそうした精神から発展してきた。だが、同時に脂ぎった欲望を呼び起こす。進化と退化は表裏一体であるかのように。文明は必要以上の狩りを推進してきた。自然原理からすると、人間の欲求は他の動物よりも劣るのかもしれない。現代の地球環境保護といった風潮も、人間が生き残るためのご都合主義に過ぎないのだろう。純粋に宇宙原理の観点から環境問題を意識している人間はいないのだろう。人類はいまだ宇宙原理の正体を知らないのだから。
本書は、原住民の新世界を発見し、それを調査し、挙句の果てに植民支配という醜態が現れるという大航海時代の負の遺産を見せつける。レヴィ=ストロースは言う、「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」と。

著者は親日家のようで、東京、大阪、京都や中国地方、四国地方、能登半島など、各地を訪れたエピソードを語ってくれる。そして、日本人の「はたらく」という意味をこんな風に捉えているそうな。
「西洋式の生命のない物質へのはたらきかけだけでなく、人間と自然のあいだにある親密な関係の具体化ということです。」
また、日常生活に詩的価値を付与して、芸術的意味を与えていると語ってくれる。日本には、豊かな季節があると同時に災害も多いので、西洋人よりは自然の偉大さを身近に感じているのかもしれない。日本文化の現代と伝統の共存から、その先に人間と自然の調和を眺めていたのだろうか?しかし、こう褒められるとくすぐったくもなる。いや!せっかくの環境を粗暴に扱う日本人を皮肉っているのか?ヴァレリーやガウディのように、地中海の自然を崇める態度の方に憧れてしまうが...

本書には、民族学の意義のようなものが、あちこちにちりばめられる。
「感性の領域を理性の領域に、前者の特性を少しも損なうことなしに統合することを企てる、一種の「超理性論」である。」
あらゆる学問でその根源を遡れば、人間の本質のようなものに出くわすであろう。そして、自己を自己のうちに求めながら精神疾患にもなる。哲学で議論される二律背反などは、無意味な言葉の遊戯に過ぎないという。対して、民族学は現実を直視する学問ということらしい。哲学は認識論を進化させてきた。カントからそれほど進化しているようにも思えないが...では、社会学のような現実を直視する学問が、人間認識を進化させているかと言えば、そうとも思えない。認識論にしても価値観にしても、多様性に向かう動きと、それを抑えつける動きの衝突が延々と繰り返される。民族学には、現実社会と人間認識を融和させる性質があるのかもしれない。古代遺跡や歴史建造物が時の流れを止めて人々を誘なうように、時空を超えた体系に自分自身を順応させてみようとする。そうした感傷の場面にこそ、芸術的精神が解放される。だが、本書はそうした芸術的精神への批判もあり、人間存在そのものに悲観的様相を見せる。物語の流れからしてそのように嘆くのも分からなくはない。だが、人間の存在も偉大な自然に従うのであって完全否定することもできまい。

ここで、ある映画のフレーズが思い浮かぶ。
「ジョージ・ウェールズだ。...お前らに敵うもんか。」
「わしはインディアンだが、文明族と言われている。文明化されているから簡単にやられちまうんだ。もう何年も白人にやられっぱなしさ。」
「チェロキー族か?」
「そうさ、白人はわしらに慰留地へ行けと言った。今より幸せになれると言って、わしらの土地を奪った。」
映画「アウトロー」より...

1. 民族学者の弁明
「民族学者が自分の集団に対してめったに中立の態度をとらないというのは、偶然ではない。」
研究対象がエキゾチックであればその価値も高い。魅せられた世界を依怙贔屓するのも仕方がない。民族学者の中に順応主義を主張する人も少なくない。本書は、そうした態度が野蛮人に対する軽蔑や反感といった意識から生じることを認めている。意識の根底には、西洋社会が優越しているという前提があると。また、現実社会への反抗心から、異民族社会への擁護という態度が現れるという。なるほど、好奇心の源泉とは一種の現実逃避なのかもしれない。原始的社会を覗けば、文明に潜む矛盾も目立つ。文明人のおこがましい改良が何の役にも立たず、現地人の工夫の方がはるかに役立つ例を紹介してくれる。文明人の理屈は、その種族が生きる自然の中で育まれる合理性には敵わないというわけか。科学が発達すれば合理性の手段として役立て、客観性の範囲が広がっていく。だが、必ずしも純粋な客観性の構築へ向かっているかは疑わしい。合理性や客観性は、単なるご都合主義の言い訳として利用されているケースも珍しくない。人間精神は、進化と退化の振り子の中で振動し、その振幅が大きくなるだけで、同じ所を揺れ動いているだけなのかもしれない。
民族学者は、自分の生きる社会に批判的でありながら、他の社会に適合する不思議な性質を持っているという。それは、異民族社会を破壊してきたことへの贖罪からきていると指摘している。人口増加にともない社会が複雑化する中で様々な多様化が生じる。だが、社会風潮は多様性を否定するかのようにうごめく。自由や平等あるいは寛容といった価値観を獲得したところで、異民族よりも優越すると認識した時点で、どんな優れた価値観も色褪せるだろう。価値観や宗教観が優れていると自覚すれば、教化がはじまり、文化の押し売りが始まる。

2. 冒険の意義
本書は冒険記であるが、冒頭から「私は旅や探検家が嫌いだ」と始まる。民族学者にとって、冒険は単なる仕事に付随するものであって、格別の意義を持たないということらしい。彼らは、研究対象に到達するために浪費を積み重ね、取るに足らない出来事の連続を体験する。研究者が、多くの距離を移動し、多くの地を訪れれば、それだけで説得力を感じる。しかし、旅行記や探検記、それに付随する写真集などが、読者に強い印象を与えるという意図が目立ち、客観的な検分がなされているかを検証することは難しい。知名度の高い学者という評判だけで、空虚な言葉でも民衆は耳を傾ける。
有識者たちは様々な都市を訪れないと、知識は蓄えられないと脅しやがる。確かに、世界各地を歩きまわった方が見識も深めれらるだろう。旅をすることで、新たな境地を開き、新たな価値観を覚醒させやすくもなろう。だが、そうとも言い切れない例もある。偉大な建築家ガウディは、バルセロナの地にだけ集中して作品を持つ。世界をかけめぐることなく世界を一転させた芸術家というところに凄みがある。中途半端に世界を知るぐらいなら、足元を徹底的に探求した方が得られるものが多いと言わんばかりに。となれば、精神の極みに達する瞬間は、どんな職業でも、どんな生活様式にも現れる可能性があるのではないか。昔の人々は、旅をするのも大変で、それほど移動距離も長くはなかっただろう。だからといって、飛行機で簡単に移動できる現在の芸術家の方が優れていると言えようか?現代人の方が寿命が長いからといって、昔の芸術家よりも精神が進化していると言えようか?近代社会が生産性を格段に向上させたことに疑いはない。だが、創造性が向上したかは疑わしい。経験とは新鮮さという相対認識から生まれる。芸術家は日常生活の平凡な出来事でさえ幸せを感じることができるのだろう。冒険の経験から、新たな精神の解放が見出せなければ、それは単なる経過に過ぎない。尚、これは貧乏人の僻みである。

3. 文明批判
「西洋の秩序と調和は、今日地上を汚している夥しい量にのぼる呪われた副産物の排泄を必要とする。」
原始的社会の方が、まだしも節度を保っていたという。西洋文明が、科学を発展させ近代工業をもたらし、人間社会を豊かにしてきた貢献は大きい。ただ、人間には、自分が良いと思う思想や手段を、他人に啓蒙したがる性質がある。これは一種の自慢であろうか?少なくとも、自分の優位性を意識している行為と言えそうだ。有難迷惑が行き過ぎると信仰的怨恨を残す。どんな社会を比較したところで、ある部分では優れていても、別の部分で劣っている部分があるだろう。そこには、自然から育まれる合理性が存在するのだから。説教される人は、いずれ説教する側に立つ。それは、人間社会の循環法則とでも言おうか。
現代では、グローバリズムによる西洋的市場価値が優勢だ。市場は、人間のできない価値判断を自然法則に委ねる形で創設された。だが、市場に参加するのは、特有な価値観を持った経済人たちである。原始的社会に西洋的価値観を押し付ける様子は、経済人の価値観を市場原理を通して民衆に押し付ける様子に似ている。産業革命期に確立された現代資本主義が招く失業と投機、そして、市場の餌食となった貧困層、この構図は昔から変わっていない。文明の恩恵で得られる優れた道具は、犯罪の利便性を高める。情報化社会が高度化するにつれ、利便性の背後に情報犯罪が巧妙化し、セキュリティ対策に無防備な人々を蔑むような風潮が現れ、自己責任という社会意識が強迫観念にまで高められる。人口増加で複雑化する社会では、人間は生き残るためにニッチな市場を求め、犯罪も社会の隙間に入り込む。まるで、文明の発達によって、人口増加を煽り、無理やり仕事をつくるかのように。人間社会は、自らの文明の利便性によって自殺するのだろうか?

4. 野蛮人
人間は、自分の価値観では推し量れないものに対して不気味さを感じる。日本でも、西洋人を野蛮人と呼んだ時代があった。当時の西洋人が、原住民を野蛮人と呼ぶのも、異物に対する恐れや軽蔑があるからであろう。排泄の様子や恥じらいのなさを観察すれば、目を背けたくもなる。だが、それは生活水準から必然的に生じるのであって、むしろ自然と同化した姿と言える。となれば、自然から逸脱した姿を曝け出す文明人の方が野蛮と言えるのかもしれない。
イエズス会は、インディオたちを野蛮な生活から引き離し、自治体を形成した。その名残が、ブラジルの人口現象に奇妙な特徴を与えるという。そして、絵画や美術品の目利きができても、民族的な観察力の欠如は精神上の欠陥であると指摘している。自然の醸し出すどんな粗野な風景であっても、そこには人間の入り込む余地のない秩序がある。人間が土地を支配し他所へ移動すると、そこには自然を傷つけた痕跡だけが残る。
「人間が未知の土地に敢然と立ち向かったこの戦場に、次第に無秩序のうちに一つの単調な植物相が再生したが、その無秩序は、偽りの無垢の表情の下に戦いの記憶と経過を保っているだけに、なおのこと人を欺くのである。」
このフレーズには、人間の感傷が、いかに一方的な解釈で成り立つかが込めらているように思う。
人間社会は、多くの職業や生活様式といった分業体制によって成り立つ。だが、個人の役割は、人間社会における都合上の役割であって、自然法則で説明することができない。自分の居場所を追い求め、一旦居場所が見つかれば優位性を築こうと躍起になる。人間社会は、自分の役割を守る利害関係という異常な熱意に支配されるかのように映る。分業体制の根底にあるのは、他の知識を拒絶しながら独自の縄張りを形成することなのか?
かつて、人間は自然と戯れることによって、知恵を見出してきた。天文的知恵によって方角を知り、迷信めいたものが心の安らぎを与える。現地人たちが自然に実践していた知恵は、最小コストで知的調和を得る術を心得ていたという。科学が人間に客観的精神を呼び起こしたのも事実である。だが、逆に精神は暗黒の中をさまよい続けるのはなぜか?知識の高度化が、精神病を患わせ、空虚へと向かわせるのはなぜか?客観性を求める科学は、単純な体系にこそ崇高なものを感じる。となれば、単純な構造を持つ微生物から複雑な精神構造を持つ知的生物へと進化する過程は、退化しているのか?原始的社会の方が道義的には優れているのかもしれない。人間はその本性からして野蛮人であり続けるのかもしれない。

5. 種族の存続
本書は、カデュヴェオ族、ボロロ族、ナンビクワラ族、トゥピ=カワイブ族などの原始的社会を考察している。ボロロ族の円形集落では、宣教師たちが村落の形態を放棄させることが、改宗させるのに手っ取り早い方法だったと回想している。また、神話や夢想から現れる習俗は、一種の周期律表のようなもので描けるかもしれないという。
人間社会の体系には似通った様式があるのかもしれない。どの種族においても女性が重要な位置にある。子孫を残すことが種族存続となるから。逆に言えば、女性を支配することが主導権を握ることになろう。日常生活や住居に関することには女性に優先権が与えられ、宗教の奥義は男性だけに許される傾向があるという。子孫を生むという物理的優位性に対して、知的で精神的に支配しようとする本能が働くのだろうか?種族存続という意味では、人々を養わなければならない。だが、貧しく劣悪な生活環境では子供が多いのも問題となる。種族の中には、人口増加を抑制する慣習も見られるらしい。原始的社会は文明社会の未来像を提示しているような気がする。現実に、アフリカをはじめとする発展途上国で人口抑制政策がとられている。
そういえば、多くの民族において、化粧をして着飾る習慣があるのは女性の方であろう。女性には、他族に嫁入りすることから、特別に装飾されるという本能的感覚があるのだろうか?女性は、伝統的に道具として扱われる一方で、部族間の仲裁役のような役割がある。伝統的に我慢強いのは女性の方で、聞き役に徹するような遺伝子が組み込まれているのかもしれない。...などと発言すると、フェミニストから刺されそう。現在では、その現象も逆転しているようだが...
ところで、近親相姦が社会的罪悪となるのは、民族存続と何か関係があるのだろうか?近親の範囲も慣習や世界観によって違いがあるのだろう。まさか、遺伝子学的な知識があるとは思えない。本書は、ナンビクワラ族のおもしろい取り合わせを紹介している。民族学的には、「平行いとこ」「交叉いとこ」という言葉があるらしい。「平行いとこ」とは同性兄弟の子供同士で、「交叉いとこ」とは異性兄弟の子供同士。「平行いとこ」は兄弟や姉妹と同列に扱われ、婚姻は「交叉いとこ」同士で奨励されても、「平行いとこ」同士で禁止される慣習があるという。どちらも血筋レベルでは同じだが、女性は他家に嫁ぐので家系が違うことになる。血が少し離れていて信頼のおける関係となると、「交叉いとこ」という関係がちょうどよいなどと考えるのだろうか?

6. 首長の存在意義
原住民の生態系から、首長の存在意義を考察しているところは興味深い。
「首長の政治力は、共同体の必要から生まれたものではないように思われる。」
一般的には、政治的リーダは、集団の形成に必要という観点から登場したと考えるだろう。だが、本書は、そうではなく、むしろ集団に先立って存在し、集団の形や規模を決定しているという。これは、社会構成の歴史的必然性や発展といった論説への挑戦か?
原始的社会では、権力を握ることを勧めても、それを激しく拒絶することは珍しくないという。権力が熱烈な競争対象になっているのも間違いないようだが、その地位を自慢するというよりは、むしろ任務の重さから逃避する傾向があるという。多数によって支持されなければ、首長自体が存続できない自然の体系があったらしい。特権と同時に頑強な義務が生じることや、権威の運用が難しいことを、自然に認識しているわけか。原始的な社会では、法律が後ろ盾になった権威はないので、自然に民衆の監視機能が働いているのかもしれない。
しかし、権力が蔓延する現代社会では、特権ばかりが強調されるという皮肉な構図がある。大臣になりたがる脂ぎった連中は、神経がいかれているとしか思えない。ニーチェ風に言えば、政治家は余計な人々になりさがる。かつて自然に構築された社会秩序は、いまや法律を頼りにしなければ機能しないということか。民衆が、権力者を監視できない社会は、幼稚な社会と言えるのかもしれない。情報の透明性という意味では、原始的社会の方がはるかに優れた社会体制と言えそうだ。

2010-07-04

"タイムマシン" Herbert George Wells 著

「タイムマシン」という言葉が登場したのは、H.G.ウェルズの小説が最初だと言われるそうな。ちなみに、映画と原作はだいぶイメージが違うように思える。映像には明確なメッセージを与える力があるが、文章には読者の感性で勝手に想像を膨らませる力がある。それがいい...
本書はH.G.ウェルズの短編集で、「タイムマシン」、「盗まれた細菌」、「深海潜航」、「新神経促進剤」、「みにくい原始人」、「奇跡を起こせた男」、「くぐり戸」が収録される。H.G.ウェルズといえば、多くの科学者が絶賛するSF小説家で、数学と文学の境界線を曖昧にした作家とでも言おうか、そんな印象がある。「タイムマシン」は科学的な観点からの印象通りの作品であるが、他の作品では知識の広さや感情の豊かさを見せつけやがる。特に「くぐり戸」は、独特な人生観を披露する。ウェルズは、ロンドンの科学師範学校で、物理、化学、生物学、地質学を学び、恩師には進化論者トマス・ヘンリー・ハクスリーがいたという。ハクスリーが学校を去ると、政治や文芸にも興味を持ったそうな。なるほど、それぞれの作品に進化論的味わいがちりばめられる。この作品群で、小説家の見事な多重人格性に魅せられてしまう。

数学は、あらゆる次元を平等に扱う。ただ、実際に幅のない線なんて存在しない。厚みのない平面なんて存在しない。おそらく、縦、横、高さだけで定義できる立方体なんて存在しないだろう。これらは、数学上の抽象概念に過ぎない。数学者は、時間を一つの次元に過ぎないことを心得ている。しかし、人間の認識は時間という次元を特別扱いする。実存を定義しようとすると、どうしても時間の概念を必要とする。人間は、三次元空間の中で、左右を自在に移動することができ、上下を重力に反発しながらもエレベータや航空機といった道具を使って移動できる。だが、時間を前後に移動することはできない。生から死へ流れる一方通行に、一定の間隔を刻むことぐらいしかできない。時間は、次元の中でも異質なのだ。人間は、「三次元 + 時間」という空間認識の中で生きている。おそらく、あらゆる次元を認識できる生命体は、「認識できる次元 + 時間」という概念からは逃れられないのだろう。
しかし、だ!実は、時間を自在に行き来している可能性はないのだろうか?時間の経過に対して、脳の記憶素子も状態遷移するはず。未来に進めば過去の記憶も残るだろうが、過去に戻れば現在までの記憶はすべて失われるだろう。だとすれば、移動していることすら認識できないだけではないのか?時間が戻ることによって消去されるはずの記憶の欠片が、わずかに残ることはあるかもしれない。磁気記憶装置のデータを消去したところで、わずかに磁界の痕跡が残るように。これが予感というやつの正体か?霊感というやつの正体か?実存の観念からすれば、物体の寿命よりも未来に進むことはできないだろう。となれば、物体が存在した時間の区間内であれば、移動できてもよさそうな気がする。人間は、物体の存在を時間の流れの中で、物体の移動や変化の状態を観察しながら認識する。となれば、時間を自在に移動することを認識するということは、時間を遠目から眺めることになり、認識自体の自己矛盾に陥ってしまうのかもしれない。自我の実存にいまいち自信が持てないのも、夢と現実の境界がいまいちはっきりしないのも、時間の流れを遠目から眺める視点が持てないだけのことかもしれない。
そして、アル中ハイマーは一つの帰結に至る。時間を自在に移動できても認識できないのであれば、タイムマシンを作っても意味がないではないかと...白けること言ってごめんなさい!ウェルズさん。

「タイムマシン」
タイムマシンを発明したタイム・トラベラーは80万年後の世界を旅する。そこで見た未来人は、地上に住む知力や体力の退化したエロイ族と、光に怯えながら地下に住むモーロック族の二つの種族であった。エロイ族は、ただ美しいだけで役に立たない存在になりさがり、辛うじて地上を独占する。モーロック族は、地下に住み慣れて、日光に絶えられない体質になっている。この二種族には、資本者階級と労働者階級の社会的差異の成れの果てが暗喩されているように映る。富裕層は排他的傾向が強く、教養を高め、貧困層との差別化を図る。利益のために土地を所有しながら独占欲を強める。まさしく経済人と言おうか。そして、この階層だけで分け合う平等を享受する。その一方で、労働者は、劣悪な環境に慣れながらますます地下へ潜り、それなりに幸せに生きる。賃貸料が払えなければ、地上に生きる権利も与えられないわけだ。そこには、地上には持てる者のみが住み、地下には持たざる者が追いやられるという構図がある。エロイ族は、所有独占の果てに安穏で快適な生活が保障されると、生存競争の中で培われる動物的本能が退化する。モーロック族は、地下の劣悪な環境で食糧不足に喘ぎ、人間が人間を食すというあってはならない人類の概念が失われる。そう、モーロック族は、エロイ族を捕食する体質へと変貌したのだ。地上で安穏と暮らしていた人々は、かつて地上から追い出した人々によって脅かされる。遠い未来には、人類の精神が自殺してしまった時代があったというわけか。
習慣と本能が役に立たなくなった時、はじめて動物は知能を動員する。変化も変化の必要もなければ知能は生まれない。また、人間は飢餓に追い込まれれば、理性的本能も簡単に放棄することができる。家族愛や子孫愛は、あらゆる外敵から身を守るためにすべて正当化されよう。生存競争の原理では、活動的で賢い者が生き残るようにできている。だから、社会を均衡させるためには、有能な人間が自己を抑制し、弱者に協力するようなことが必要となる。だが、弱者が強者にいつも保護されることが当たり前になってくると、強者の優位性は失われていき、ついに弱者と強者の立場は逆転する。人類は、一度は生活も財産も完全に保障される社会を構築することができるかもしれない。失業問題や社会問題もほとんど解決され、平穏な社会がもたらされるような。人口が均衡した豊かな社会では、子供を多く生むことは国家への功績どころか罪悪にもなろう。嫉妬や憎しみといった不愉快さをすべて放棄した洗練された精神の行き着く果てとは何か?社会の完全なる調和とは、すべての欲求を放棄することなのか?精神と肉体の均衡がとれれば、勇気や闘争心はかえって邪魔なものになるのかもしれない。芸術的衝動でさえ消滅してしまう。そして、成熟しきった挙句に、下等生物よりもはるかに劣った社会になり下がるのかもしれない。偉大な生物界において、一匹の微生物よりも貢献できる人間など一人もいないというわけか。

「盗まれた細菌」
細菌学者は、ちっぽけなコレラの病原菌で大都市を絶滅させることができるなどと大言壮語する。その話を聞いた男は、世間からつまらないと蔑まれた孤独な人間がどんなものかを思い知らせてやるために、細菌を盗んで自ら飲んでしまう。細菌が社会にばらまかれるのを楽しみにしながら。彼は無政府主義者だったのだ。しかし、細菌学者は、そんなことは知らずに、新種のバクテリアの培養したものを、冗談でコレラ菌と言ってからかっただけだった。そして、実は皮膚病の菌に過ぎないと笑った。

「深海潜航」
ほんまに潜航できるのか懐疑的な海軍中尉と、公平そうな口調で話す部下の二人が、潜水艇をめぐって論議している。まるで飲み屋の座談会のように。そして、泡を立てて潜航する様子を海上から眺めている。時間が経ってもなかなか浮上してこない。悪い想像をしていると、ようやく浮上してきた。搭乗員は大怪我をしていた。彼は奇妙な体験をしたらしく、再び潜りたいと言う。海底に新世界を見つけたというのだ。その体験談では、ガラス窓から擬似人類とも言うべき深海生物が見えたという。奇怪な住人どもが潜水艇の鉄壁を強くたたき、更に、群集によって深海へと引き摺りこまれる。ぼやけた建物が並んでいるように見えるのは、難破した船であろうか?窓越しに奇怪な幽霊の大群。ようやく潜航が止まると、連中は艦艇の前にひれ伏し、祭壇であるかのように跪いた。これが海底都市の姿だという。海底人たちは、地上の人間どもが大気中の奇怪な生物で、海上の神秘的な暗黒から降りて来て、やがて不慮の死を遂げると思っているのか?海底人にしてみれば、難破した船も潜水艇も、海上から降ってきた暗黒のかたまりに見えるだろう。それは、人間が、宇宙から流星のように落ちてくる火のかたまりを眺めるのと同じ感覚なのかもしれない。まるで宇宙人が到来したかのように。彼は海底都市に憑かれて、再び改良した潜水艇で潜航する。だが、二度と戻っては来なかった。海底都市の実証は、もう企てられることもなかろう。

「新神経促進剤」
無気力な人々を、進歩的な時代のテンポに合わせることができる総合神経興奮剤を発明した教授がいた。催眠剤や鎮静剤や麻酔剤の類いは、精神を麻痺させて中枢エネルギーを増強するか、神経の伝導力を低下させて適宜なエネルギーを増強するかでしかない。だが、教授が作り出したいのは、まさしく副作用もない全身くまなく効く純粋な興奮剤だという。その効き目は何百倍か何千倍か想像もつかない。そこで、教授と聞き手の二人で薬を試すことにした。薬を飲んだ二人が外出すると、落下する物体が止まっているように見え、自転車を忙しそうにこいでいる人が静止しているように見え、男女が向かい合って微笑んでいるのも永遠であるかのように見える。二人は、通常の千倍の時間感覚で物事を感じ取ることができるのだった。二人が普通の感覚で動くと、実際にはあまりにも速いために、空気との摩擦で周囲が燃えてしまう。そこで、ゆっくり行動するように心掛ける。やがて、薬の効き目がなくなった。今度は、テンポの速い社会でストレスを感じないような緩和剤を考える。
新促進剤を使えば仕事は速く片付くだろう。だが、その分仕事が増えるだけのことで精神の満足度は変わらない。また、緩和剤を使ったところで、時間を引き延ばすだけのことで、ストレスが解消されるわけではない。所詮、精神を促進しようが緩和しようが、時間感覚そのものは変わらないではないか。時計が速く回ったり、遅く回ったりするだけのことで、なにも人生が豊かになるわけでもなんでもない。人間は相対的な認識しか持てないのだから。にもかかわらず、懸命に薬の開発に取り組む滑稽な姿がある。

「みにくい原始人」
古い骨を発見したところで、素人から見れば単なる骨だ。だが、考古学者は、博物館に標本を飾って奇妙な名前を付ける。火や石器を使いマンモスに追いまわされた動物を、原始人やホモ・サピエンスなどと呼ぶ。原始人は人間に酷似している過去の動物というだけで人類の祖先ではない。ネアンデルタール人は、人間とは歯の並びも違えば、顔面が大きく額が小さい。脳の大きさは現代人と同じくらいだが、後脳が大きく前脳が小さく構成がまるで違う。となれば、思考方法も違うだろう。記憶力が強く、推理力が弱く、感情が強く、知性が低かったことが推察できる。類人獣の研究が進めば、血のつながりも認められず、人間とは似つかない動物に見えてくる。真の人間種は、南からヨーロッパに入ってきたとされる。そして、ヨーロッパで、真の人間種とネアンデルタールが出会って、互いに争ったのかもしれない。ライオンや熊と戦うように。
人間種とネアンデルタール人の違いは、集団社会を形成したかどうかの違いであろうか。集団化が生存競争の鍵になるのかもしれない。社会形成では女性の存在が大きい。多種族から嫁をもらい、兄弟の殺し合いを仲裁するという調停役にもなる。近親相姦というタブーは本能的に育まれたのだろうか?現代では、遺伝子的に悪影響を与えることが説明できるが、まさか原始時代にそんな知識はないだろう。人間には、集団社会を形成し、掟や自制心を持つ複雑な精神構造がある。奇妙なタブーという制約も慣習から形成される。迷信の役割は、悪事に対する罰として恐れさせる。そこに無条件に成立する秩序がなければ、集団社会は維持できない。非力な人類が生存競争で生き残ってこれたのも、この無条件に従う秩序によるものであろうか。自然界では、集団生活の苦手な種族ほど、生存競争に負けるようにできているのかもしれない。現代でも、集団から外れた感覚の持ち主は社会の害として差別されるのは、生存競争の名残りであろうか?
本作品は、原始人と人類の祖先が戦う様子を空想的に描く...なんとなく文明批判が隠されているような...

「奇跡を起こせた男」
とても奇跡の起こせるようには見えない男がいた。むしろ懐疑主義者で奇跡なんて信じない。ひどく議論好きの雄弁家。その男が酒場で奇跡について議論する。そして、奇跡を定義した。
「自然の成り行きに反するでき事で意志の力によって成し遂げられるものだよ。特別な意志の働きなしには起こり得ないものだよ」と...
ところが、「ランプにさか立ちになって、燃えつづけろ!」と男が命令すると、その通りに奇跡が起きた。集中力をきらすとランプが落下して壊れた。すると、店主が怒って店から追い出された。男は、自分の能力が信じられなくて自宅でいろいろと実験をすると、なんでも実現できることに驚く。そして、自分の意志力は、よほど珍しく強力なものに違いないと結論付ける。だが、この能力を使うにしても、用心深く人目を警戒しなければならない。男は奇跡を信じない人間としても知られていたので、「奇跡なんだ!」という言い訳も通用しないから。
そこで、牧師に相談する。牧師の目の前で、なんでも物が変えられることを見せる。これは奇跡か?魔術か?人を地獄へ送ろうと想像すれば、実現できてしまうのだ。牧師は奇跡を起こす男をおだてて教会堂で奇跡を行わせる。二人は奇跡の能力に自信を持って、空想と野望をみるみるうちに膨らます。議事堂地区の酔っ払いどもを片っぱしから正気に戻させ、鉄道交通を改善し、土地を耕し、教区牧師のこぶを取り除いたりと、あらゆる善行に酔いしれる。牧師は、月を指差してヨシュアと呟く。ちなみに、旧約ヨシュア記に、太陽と月に静止せよ!と命令する話があるらしい。男は、月を見上げて少し高過ぎると反論する。牧師は、ならば地球の自転を止めればいいとそそのかす。地球に自転を止めよ!と命令すると、男は猛烈なスピードで空中に飛び出した。服は摩擦熱で焦げ始めた。次に、安全無事に地上におろせ!と命令する。無事に地上へ着いたはいいが、辺りは猛烈な風が天地を吹き荒れる。暴風と雷が鳴り響き、穏やかな月夜はなくなり、町そのものがなくなってしまった。すべての生物や建物はぶつかりあってこなごなになってしまった。気象変動を起こせなどとは命令してないのに。男は、命令の何かが間違っていることは分かるが、それが何かが分からない。やがて、奇跡を起こせる能力自体が災いだったことに気づく。ついに、奇跡よ去れ!すべてを元に戻せ!と命令する。そして、目を開けると、記憶も精神もすべて元に戻り、酒場で奇跡について屁理屈を並べる自分の姿があったとさ。
結局、奇跡が起こせる、あるいはすべての欲望が満たせる能力とは、災いしかもたらさないというオチか。あらゆる物事や事象は、因果関係から成り立っている。くだらない勝手な欲望から奇跡を起こしても、世界の均衡が崩壊するだけというわけか。
また、人間は、欲求が満たされずに、夢を描き続けている瞬間が最も幸せでいられる。天才は、あらゆることに気づく能力があるので、余計な悩みを背負い込むのだろう。となれば、凡人の方がはるかに幸せであろう。そして、酔っ払いは凡庸な幸せを謳歌するのであった。

「くぐり戸」
ある男にくぐり戸が生活に入ってきたのは、幼児の頃からだという。緑のくぐり戸には、白い塀がついていて、真っ赤なツタが紅葉していて美しい。その男は、早熟な少年で素晴らしい頭脳を持ちながら自分の生活を味気ないものだと思っていたようだ。彼は、子供の頃から、そのくぐり戸を開けて入りたいという衝動があったが、その行為をずっと保留してきた。自由に入ることができることは分かっているのに、なぜ?くぐり戸に入ると、勉強に集中できず、父親から叱られるということらしい。くぐり戸にはなんとなく魔法の楽園のような雰囲気が漂う。彼は夢想する癖があったという。
ある日、そのくぐり戸の前で、幼い頃の楽団や楽しい仲間たちとの思い出に耽る。そこへ、本を持った女性が現れた。なんとその本には、男の生きてきた物語が綴られていた。忘れかけていた記憶も蘇る。読みすすめていくと、くぐり戸の前で、ためらいながらたたずむ自分の姿にぶつかる。次のページをめくると、楽しい思い出は何も記載されていなかった。思い出はすべて夢想だったのか?子供の頃、秘密にしていたくぐり戸の話を友人たちに打ち明けたことがあった。すると、友人たちを案内する羽目になる。だが、どうしても、くぐり戸が見つからず、友人たちにからかわれる。それでも、憂鬱を感じながら、ずっと魔法の楽園の夢を見続けている。
男は、勉強に集中して出世のために努力し、たくさんの苦しい仕事をしながら、高名な政治家となった。あれから何度かくぐり戸にぶつかったが、またもや衝動に従わなかった。やがて、男の死が新聞で報じられた。死体は駅近くの深い穴で見つかった。公衆が立ち入るのを防止するために柵で囲まれていたが、木戸口には鍵がかかっていない。男は、その木戸口を入って穴に落ちて死んだのだ。危険な木戸口が、くぐり戸に見えたのだろうか?緑のくぐり戸は、幻だったのか?幻覚が、醜い世の中からの脱出口を提供したのか?これは事故なのか自殺なのか?