2009-02-22

"日本人のための憲法原論" 小室直樹 著

アメリカの金融危機を引金に世界経済が大混乱の中にある。日本は比較的被害が小さいと発言する評論家も多い。にもかかわらず、震源地よりも経済混乱を拡大しようとしているのはどういうわけか?なるほど、日本人には世界の動きに乗り遅れると不安に駆られる国民性がある。日本は災害の多い国でもある。今まさに政治災害によって世界に追従する。麻生総理は3年後の消費税引き上げを示唆した。これは案外鋭い見通しかもしれない。つまり、彼は政局の混乱が鎮静化するのに3年かかると明言したかったに違いない。日本人には恥じらいの文化がある。こうした性格が政策を後手にするのだろうか?だが、文化に反するかのように醜態を曝け出す政治家は後を絶たない。最近のドタバタ劇にはもう笑うしかない。そりゃ官僚体制も強固になろうというものだ。日本の国家権力は霞ヶ関によってまさしくリヴァイアサンになろうとしている。

愚痴はさておき、本書は歴史事象を多く扱ってくれるところが無知なおいらにとってありがたい。タイトルに「日本人のために...」とあるところに著者の思いが伝わる。それは、民主主義とは何か?資本主義とは何か?という根本的な問題を疎かにしている日本社会の風潮を批判してのことだろう。日本国憲法は機能していないと考える人も少なくないだろう。機能していると信じたいが、日本政府は国民の生命と財産を守らず拉致被害者を見捨ててきた。今でこそ、公に報道されるようになったが、20年前は相手にもされなかった。その見捨ててきた連中が平和憲法を叫んでいる。憲法の定める「国民の生命と財産を守る」というのは、いわば国家権力と国民の契約である。にもかかわらず、これに契約違反をした政治家が憲法違反で裁かれるところを見たことがない。「憲法よ!お前は既に死んでいる!」
西洋には、聖書の時代から神との契約条項を策定したきた文化がある。対して、日本人は契約条項に慣れていないのだろう。ビジネス業界で条文による契約が定着しているものの、日本人の慣習として定着しているとは思えない。それは、契約条項をろくに読まずに保険契約を結ぶような姿にも現れる。国民の義務である納税にしても、税金の管理はすべて組織に任せるお国柄である。どこぞの政党は「公約」という言葉を捨てて「マニフェスト」と叫ぶ。なるほど、「公約」には約束を破っても構わないという意味があるらしい。

本書で注目したいのは「誰のために憲法はあるのか?」と議論しているところである。一般的な答えは「国民のため」となるのだろうが、本書は違った角度からの視点を与えてくれる。法律は、誰かが誰かに対して書かれた強制的な命令である。そして、命令するのは国家権力である。では、誰に命令するのか?それは法律によって異なるが、その法律を違反できるものは誰かを考察すれば答えが分かるという。例えば、銀行法を破れるのは銀行そのものである。預金者が何をしたところで銀行法に触れることはない。民法は国民に命令したものである。では刑法は?そういえば、刑罰があっても犯罪を禁じているわけではない。つまり脅し文句か?本書は、刑法を違反できるのは裁判官だけだという。刑法が規定しているのは犯罪者に対する刑の範囲である。したがって、その範囲外で裁判官が勝手に刑罰を下すことはできない。また、刑事裁判で裁かれるのは、被告ではなく検察官であり行政権力を裁くものだという。被告は有罪が確定するまで無罪として扱われ、検察官の主張を検証することになる。なるほど、検察官は行政権力の代理人ということか。裁判というと真相を暴く所でなければならないと考える人も多いだろう。だが、現実には真相などどうでもよく、検察官と弁護人の弁論大会となる。本書は「遠山の金さん」を暗黒裁判であると語る。言われてみれば、自ら証拠集めをし自ら判決を下すのは神を自覚しているようなものだ。これを民衆がヒーロー扱いするところに裁判の公平性に疑いを持っている証でもあろう。現実に、有罪率99%という話は多くの書籍で取り上げられる。検察の主張は国家権力の面子にかかるので、裁判官が国家権力寄りと感じる人も少なくないだろう。本書は、憲法は国民のために書かれたものではなく、あらゆる国家権力を縛るために書かれている語る。なるほど、裁判の意義は公平性を保つことであろう。そこで裁きをつける裁判所を監視する役割を担うのが法律であると解釈すれば、この論理は良さそうだ。そこで、「国家権力はなんのために行使されるのか?」と問い直せば、民主主義では国民への公平性を保つためとなろう。そして、法律には公平性に客観性を持たせる役割もあろう。ものの言い方は人それぞれであり、対象への抽象度によっても言葉が変わる。精神の根源を遡れば、結局、国民のためと言っても不都合はないようにも思える。
もはや三権分立が機能しているとは思えない。となると、国家権力を監視する最後の砦が憲法ということか。そして、アル中ハイマーはドスの利いた声で、いかにもダーティハリーが吐きそうな台詞で返すのであった。
「法律なんてものは、都合が悪くなった人間が利用するためにあるのさ!」

憲法を議論する時に必ず登場するのが改憲論である。本書は、こんな状況に憲法議論を持ち込んでも意味がないと指摘している。まったく同感である。おいらが護憲派か改憲派かと問われれば、おそらく改憲派に近いのだろう。問題は現行憲法が現実と乖離しているところにある。ただ、護憲派の意見も理解できる。今の政治能力からして、まともな改憲案が見出せるかと問えば、それは大きな疑問である。そもそも、理念を条文によって完璧に制御できるのか?という問題がある。アメリカ合衆国憲法は、あらゆる独裁者の出現を拒むように考慮されている。だが、その弱点を偉大な数学者ゲーデルが指摘した。条文を完全な論理で表すことはできない。これは、規格の策定、組織の規定、契約書の作成などに携わったことのある人なら理解できるだろう。あらゆる文書で人間の理念を完璧に表し尽くしたものなどありえない。広範にカバーすれば極めて抽象的なものとなる。抽象的な表現は異なる解釈を生む。あらゆる条文はこのジレンマに嵌る。イデオロギーや条文を完璧だと信じると思考停止状態に陥る。人間の創造物である憲法を普遍原理とすることは、人間を神に崇めるのと同じではなかろうか。したがって、理念や条文を生きたものにするために常に検証され続けなければならない。いくら改憲派であっても、とんでもない改憲案が提示されれば反対するだろう。いくら護憲派であっても、より優れた改憲案が提示されれば賛成するだろう。マスコミは話題性を強調するために、なんでも対立構図で煽る。日本人はこの論調に乗せられて、つい結論に飛びつく傾向があるようだ。日本人は忙し過ぎるのだろう。構造改革の法律が可決したところで名目だけ変わっても意味がない。どんなに立派な憲法を得たところで、その根底にある理念で運営されなければ条文は死ぬ。

1. 民主主義と資本主義
本書は、民主主義や資本主義の思想はキリスト教独特のものである語る。それは「救済」によって労働が奨励されるメカニズムである。これは、ルターに始まりカルヴァン派によって確立された「予定説」の思想から導かれたと主張している。職は神からの授かりもので天職として全うするという思想が生まれた。そして、「神の下での平等」の概念が、「法の下での平等」へ変化することになる。職の自由、経済上の対等関係といった流れが資本主義として発展した。それは、イギリスのピューリタン革命へと受け継がれる。そして、民主主義と資本主義は双子の関係にあると語る。なるほど、ここまでは酔っ払いでも理解できる。ローマ教会が堕落した時代に、宗教改革やルネサンスが民主主義や資本主義を加速させたことに異論を唱えるつもりはない。だが、民主主義や資本主義が、キリスト教が無ければ発生しなかったという考えには抵抗を感じる。人間社会を形成する中で、外敵から自衛するために仲間意識が芽生える。この仲間意識には、対等とか平等といった概念があるはずだ。古代ギリシアにおいても民主主義の兆候がある。ただ、そこには奴隷制があって人間の範囲は極めて狭い。あらゆる身分差別や人種差別は、どこまでを仲間とするか、どこまでを人間として扱うかの違いである。つまり、人間の差別意識は「人間」という身分をめぐった抽象化の歴史と言ってもいい。紀元前の哲学が現在でも通用するように、適用範囲を変えれば違和感がなくなる。人間の意識が変わる速度は非常に遅い。そして、先進諸国では人種差別や民族差別が発生し、現在では能力差別や移民差別も現れ、いずれ遺伝子差別も現れるだろう。西洋の「救済」に対して、東洋には「悟り」という概念がある。物事の本質とは何か?という永遠に見つからない真理を探求してきた歴史は、多くの地域で見られる。これは歴史現象であり、人間の精神には本質を探究する願望が潜在する。本書の指摘のように、民主主義や資本主義が西欧諸国を中心に発達してきたのは事実である。キリスト教的な考えにその原点を求めるのも悪くはない。だからと言って、人間の本質として何かが欠けてはいないか?と、おいらの直感が訴えている。西洋の学者の中には、民主主義や資本主義を西洋独自のものと考えるのは傲慢であるといった意見も少なくない。西洋人の立場からするとその通りであろう。しかも、科学者や数学者にそうした意見が見られるところにおもしろさがある。彼らはキリスト教を始めとする聖書に基づいた宗教に懐疑的である。何もキリスト教がなくても、自然法則のような絶対的な何かが宇宙を支配し、その下で人間が存在すると考えれば、平等の概念は生まれる。そして、支配権力という一部の人間に私有財産までも管理されることに疑問を抱くだろう。民主主義が普遍原理なのか?という疑問も多く見られる。また、自由意志は存在するのか、あるいは自由意志ですら自然法則に従うのかといった論争は古くからあり、宗教、倫理、科学などの絡み合いの中で続く。ただ、日本人の立場からすれば、憲法の発達してきた経緯を、西洋文化と重ねて理解するべきだとする視点を、本書が与えていることは意義深い。これらの見地を合わせて双方の見解に接するとバランスされそうだ。

2. ワイマール憲法の死
当時、世界で最も進んだ憲法と言われたワイマール憲法は一人の独裁者によって廃れた。しかも、ヒトラーはワイマール憲法に従って政権についている。つまり、合法的に独裁者を生んでしまった。歴史的には「全権委任法」を議会で可決させたことでワイマール憲法は死んだとされる。論理学には、一つの全否定によって全ての論理を否定するという恐ろしい技がある。ここで注目したいのは、本書が憲法の本質は慣習法であると語っているところである。立派な人権規定があっても現実に無視している国がある。重要なのは法の文面ではなく慣習である。これは、憲法に限らず、どんな組織においても事実上無視されるような規定はごろごろしている。本書は、憲法学者が憲法の条文に詳しくても、それを慣習として定着させる努力をしてないことを嘆いている。

3. 平和憲法
本書は、平和を規定した憲法なんて世界に掃いて捨てるほどあると指摘している。憲法学者である西修氏によれば、戦争の放棄を定めた最初の憲法は1791年のフランス憲法だという。アンゴラやモンゴルでは「外国の軍事基地を設置しない」という決まりがあるらしい。カンボジアやリトアニアには核兵器の禁止条項があるらしい。アゼルバイジャン、エクアドル、ハンガリー、イタリア、ウズベキスタン、カザフスタン、フィリピンでは、「国際紛争解決の手段としての戦争放棄」を謳っているという。あらゆる国が戦争による悲惨な過去を背負っている。民主主義では、大儀名分を謳わなければ大衆を誘導できない。国際連盟で採択された「ジュネーブ議定書」の前文には、「すべての侵略戦争は犯罪である」とあり、この流れの総決算と言えるのがケロッグ=プリアン条約だという。憲法9条もこれを手本にしたと見るのが自然であろう。おもしろいのは、アメリカ人のケロッグが提唱したにもかかわらず、アメリカで問題になったという。それは、自衛戦争を否定するかという問題である。ケロッグは、他国からの不当な戦争ならば、その反撃を「国際紛争の手段」とはしないと述べたという。一方、日本では自衛戦争の賛否についての論争は絶えない。ケロッグ=プリアン条約ですら戦争を防ぐことはできなかったという事実は見逃せない。

4. 議会と多数決と民主主義
本書は、議会制度も多数決も民主主義とは無関係だと語る。近代国家の定義は「国境」「国民」「国土」の要素が揃ったときに成立するという。これが日本人に理解し辛いのは、島国で自然に文化が保護されているところであろう。マグナ・カルタは一般的に民主主義の原点のように言われる。しかし、本書はイギリスのジョン王があまりにも慣習法を無視したために作られたもので、むしろ、伝統主義を守るための法律だと指摘している。一部の特権階級の既得権を守るためのもので、この頃の「自由」とは「特権」のことだったという。この発想は現在の官僚政治と同じである。「国民のため」という発言は、既得権益を持った輩という意味だ。ただ、マグナ・カルタが民主主義とは無関係といってもイギリスの議会政治を発展させた貢献はある。やがて、議会は国王を凌ぐ権力を持つことになる。
ゲルマン社会では、何かを決める時、全員一致が原則だったという。だが、これは非効率なシステムである。最初に多数決を用いたのは誰だか知らないが、おそらく国王の後継者選びといったところだろう。本書は、多数決が行われるようになったのはローマ教会だという。法王の任期は終身までだが、その継承者は血筋ではない。学校教育では議会や多数決は民主主義の基本であると教える。しかし、多数決が正当ならば、なぜ強行採決に目くじらを立てるのか?多数決の裏には、少数の人々に犠牲を強いることにもなる。だからといって、少数派の政党が少数の意見を代弁しているとは到底思えないところに現行議会の矛盾がある。少数派の政党が少数派の意見を殺す事実もある。
「憲法や議会と民主主義は何の関係もない」と指摘したのは、政治思想史学者の福田歓一氏だという。その著書「近代の政治思想」にも是非挑戦してみたい。

5. ロックとホッブス
ジョン・ロックはアメリカの独立とフランス革命に大きな影響を与えた。ロックの思想は科学的だったという。そこには、人間社会を抽象化した考えがあるという。抽象化の概念は複雑な現象を解明するために段階的に分析する方法として有効であり、理系の分野でよく用いられる。数学の歴史は抽象化の歴史でもあり、コンピュータ構造にも抽象化の概念が現れる。ちなみに、昔おいらは政治家は理系出身者でなければならないと主張していた時期がある。それも、社会システムや経済システムを構築する上で、理系的な思考が必要だと考えたからだ。しかし、その考えはあっさりと崩れ去った。それも、知人から未納三兄弟で一世風靡した某元党首は、理系出身者だと指摘されたからである。人間の思考は文系とか理系とかいう枠組みになんの関係もないようだ。
ロックは、自由で平等な人間を「自然人」と呼んで、あらゆる人間階級を抽象化したという。そして、自然人同士の関係は対等であり、これを「自然状態」とする。ロックの「自然状態」では、最初人々は社会など持たずに暮らす。やがて、人々は国家や社会の必要性を感じる。そこで、平等な人間同士が契約を結んで政治権力を作る。つまり、国家は人間相互契約の下に成り立つというのが「社会契約説」である。ロックの説では社会は国家権力と平民が契約の中で成り立つ。しかし、国家権力は肥大化しやがて暴走する。それを抑制するために議会が必要となる。今日でも、官僚主導で政治がなされた結果、財政破綻に陥った自治体で、議会が知事を責め立てる光景がある。これも議会自ら行政への監視能力がないことを証明しているようなものだが。
ロックの思想に反対の立場をとったのがトマス・ホッブスである。ホッブスも「自然状態」という概念を持ちだすが、人間の欲望は限りが無く闘争が始まるとした。「人間は人間に対して狼である」そこで、闘争を抑えるには権力が必要である。規則を守らない人間がいれば国家権力によって罰する。権力が弱いと社会は成り立たない。そして、ホッブスの世界では、国家はやがてリヴァイアサンになっていく。国家権力が弱ければ内乱が起こるという発想は共産党国家に似ている。そして、不満の矛先を避けるために共通の外敵を自らこしらえるのであった。ホッブスは、内乱よりは国家権力で縛る方がましだと考えた。ホッブスの説は絶対王権を擁護しているようだ。ロックとホッブスの違いには、人間は生まれつき善人か?悪人か?という出発点の違いに思えてくる。

6. 天皇の戦争責任論
本書は、太平洋戦争当時の日本は既に立派な立憲君主国であると語る。そして、天皇の戦争責任論は憲法を理解していない暴論だと批判する。天皇の意見が政治に直接反映されることがないという意味では、法的には天皇に戦争責任はないだろう。実際に戦争責任を負われたわけでもない。ただ、人情的には全く責任がないということに少々抵抗を感じる。実際に多くの国民が「天皇万歳!」と叫んで死んでいった。また、御前会議は単なる報告会だったというのか?統帥権の微妙な位置付けが軍部の暴走を助長したとも言える。いくら外交権限が外務省にあっても、天皇を後ろ盾にした軍部の権限の方がはるかに上である。天皇本人にしたって、法的に責任がないと言われたところで、おそらく慰めにもならなかっただろう。明治憲法は「法の前の平等」ではなく「天皇の前の平等」として始まった。イデオロギーや宗教で団結できない国民性を世界の列強国に対抗するために、一致団結できる独特の信仰システムを構築した明治維新当時の政治家の眼力は鋭い。ただ、天皇を神とし日本国を神格化してしまった時点で、徹底的に負けるまで戦い続ける運命を背負わされたのかもしれない。大正デモクラシーへと時代が変化しても二・二六事件の頃に急速にデモクラシーは失われる。農村部では馬や牛が売られる前に娘が売られる時代である。腐敗した政治を嘆いて軍部が決起する気持ちも分からなくはない。おまけに、全戦全勝の驕りに加えて神の国と崇めれば、どんな戦争も正義となる。世論も煽られ、平和論を唱えようものなら国賊扱いされる。軍部は天皇を崇める思想を巧みに利用して軍部独裁への道を進んだ。マスコミも軍部の権力を恐れただろう。そして、権力に屈した人間ほど出世し結果的に加担したことになる。こうした構図は現在と大して変わらない。

7. アイルランド人がイギリス人を憎む理由
プロテスタントのイギリスに対してカトリックのアイルランド、これだけで充分に対立する理由はある。アイルランドの本来の住民はゲール人、イギリスはアングロ・サクソン、言葉も民族も宗教も違い、長年の抗争の結果、アイルランドはイギリスの属国となった。この時代にイギリスはアイルランドの小作農から徹底的に絞り取ったという。アイルランド人が食べるものと言ったら、ジャガイモぐらいしかなかったそうな。そこに馬鈴薯病が発生しアイルランドでは大飢饉となる。通常の地主であれば、小作人を見殺しにすると収穫もなくなるので、少しは食料を残すであろう。しかし、もともとアイルランド人を人間と思っておらず微塵の同情もかけなかったという。この大飢饉の恨みは半端なものではないらしい。この時期多くのアイルランド人が北アメリカなどに移住したという。

2009-02-15

"経済学をめぐる巨匠たち" 小室直樹 著

本屋で立ち読みしていると、興味深いフレーズに出くわした。
「経済学は不思議な学問である。他の学問に比べ、対象となる範囲が酷く限られている。」
おいらが、経済学に触れた時に思った最初の印象そのものである。天動説が地動説によって駆逐されたように、多くの学問で新しい説が生まれると古い説は捨て去られる。だが、経済学に限っては何度も思想がゾンビのように蘇る。本書は、経済学者と称する偉い人は、経済学が何を対象とした学問かを理解していないと嘆いている。そして、経済学が扱う対象はズバリ「近代資本主義」であると指摘する。経済史は歴史学の範疇であり、経済学の中では研究がなされないのだそうだ。なんとも不思議な世界である。そもそも歴史を無視した学問なんてあるのか?更に、近代資本主義とは、まさしく社会主義経済の研究にほかならないというからおもしろい。本書をパラパラっと捲っていると、それに反するかのように資本主義の哲学的な考察と、歴史を紐解く展開がなされる。

ところで、経済大国とまで呼ばれる日本で、なぜノーベル経済学賞級の巨匠が生まれないのか?といった疑問がある。本書は、この理由を経済学の教育システムに求めている。そして、歴史的考察がないことと、数学を必須としていないことを指摘している。まったく同感である。
アル中ハイマー曰く、「経済学者と称する者で、社会学的観点のない者は単なる統計調査員である。おまけに、数学的観点のない者は単なる占い師である。」
経済学者は最近の出来事の予想が当たると思いっきり自慢する。だが、まったくと言っていいほど経済予測を継続的に当ててきた者はいない。教育システムといえば、大学の学部で経済学部と商学部が分離されていることに疑問を持ったことがある。経済学部は社会学部経済科ぐらいでええんでないかい、商学部は社会学部経済科の中にある一教科ぐらいでええんでないかい、などと思ったものだ。ちなみに、哲学部なんて聞いたことがない、文学部哲学科ぐらいだろう。電磁気学部なんてものも聞いたことがない、工学部電子工学科には一教科としてある。これも、エントロピー増大の法則にしたがって学問の専門化が進んでいるということだろうか?経済学は他の学問よりも形式だけは進化が早いようだ。

身近な経済学といえば、最近、会社に果たす資本の役割について疑問に思うことがある。資本が重要な要素であることは間違いない。ただ、やたらと外部資本を注入することが良いのか?よく見かけるエンジニア会社について言うならば、ベンチャーキャピタルに、日本の場合は銀行系であるが、安易に資本注入してもらって経営が安定したと喜んでいる経営者がいる。そして、資本家の口出しには逆らえなくなる。従業員の方を向いていた経営者は、徐々に資本家の方を向くようになる。資本家の中には、金勘定ばかりに長けていてエンジニアの体質を理解していない人も多い。そもそも、金融系とエンジニア系の神経ベクトルは真逆にある。エンジニア出身の社長は経済学の素人という引け目からか?金融系の意見を素直に受け入れるところがある。彼らは金のプロであってエンジニア会社の経営プロではないのだが。社長も経営責任がある以上、経済学を勉強するべきだが、面倒なことは事務方に任せる傾向がある。側近の中に信頼できる事務方のパートナーがいれば良いが。したがって、目先の売上に囚われるあまり、人材派遣のような仕事に追われるケースを見かける。そうなると、優秀な人材が逃げていき人材の入れ替わりの激しい会社へと変貌する。人材の質も低下する。また、株式を公開した途端におかしなことになる会社も見かける。そもそも売却目当ての経営者もいる。経営者はなぜ目先が曇るのだろうか?そもそも、なぜ会社を起こそうと考えたのだろうか?人間は金が絡むと変貌するようだ。ところで、将来変貌する未公開株があるんだけど、いつでも簿価でお譲りしますよ!時価で換算すると...あれ?減価償却されてるのか?

本書は、経済学のイデオロギーを整合しようとする。そして、古典派とケインズ派の弱点を議論し、現在では崩壊したとされるマルクス主義の誤解を解いている。かつて、社会主義は資本主義の枯渇によって始まったという意見があった。世界恐慌はその証であると。しかし、資本主義の行き詰まりで生じたならば、なぜ資本主義先進国であるイギリスやアメリカで起こらないのか?なぜ資本主義後進国のロシアで起こったのか?これは昔から持っている疑問である。本当の意味での社会主義は未だ出現していない可能性がある。こうした議論は、歴史に立ち返り、経済学の哲学的意義を考察する必要がある。本書は、驚くことに経済学でも名著と呼ばれるものが多くあることを教えてくれる。それにもまして驚くのは、絶版になっている本も多いことであるが。新しい経済学者の本を読むよりも、こうした名著を読みあさった方が、まともな解釈が得られそうだ。経済学の本を読む時は、いかにも論理的な考察がなされているようでも疑ってかかる癖がある。どこか条件が抜けていることが多い。どんな学者でも論理的な議論を好むのは理解できる。そうでなければ学問ではない。経済学者は数学的関数やチャートを用いて格好良く見せようとする傾向が強いように思える。しかし、こうした印象は本書のおかげで少しイメージが変わった。

本書で注目したいのは「私的所有の概念」である。最近、「会社は誰のものか?」という論争をよく見かける。それも、市場経済が本当に合理性に基づいているのか?と疑いの目が向けられている証でもあろう。本書は資本主義の根幹にある「私的所有」の概念を強調する。それは「所有」と「占有」という概念で分けられる。つまり、株主が「所有者」であり、従業員や管理者は「占有者」である。そもそも私的所有権は、処分や担保などのいかなる行為も許される権利が法律で定められている。つまり、形の上では株主が持っているものを、管理者や従業員が間借りして働いていることになる。いくら従業員や管理者が自分が所有者であると主張しても、彼らに会社を自由にさせてよいことにはならない。本書は「会社は資本家のものである」と断言している。そして、「私的所有の概念」が日本人には理解できていないと指摘している。なるほど、所有の概念はその通りであろう。論理的に反論するつもりはない。だが、アル中ハイマーの直感は何かひっかかると訴えている。そこで、「会社は誰によって成り立っているか?」と問い直すと、それは従業員であり管理者であろう。では、「会社は誰のために存在するのか?」と問い直すと、それは顧客であり社会的意義であろう。「経営責任を負うのは誰か?」と問えば、それは経営陣となる。従業員はいつでも辞められるし、顧客はいつでも他社に乗り換えられる。質問の角度を少し変えただけでも実に多くの要素が絡む。いずれにせよ会社を私物化できるものではない。社会への影響力が大きい企業ほどそうなる。果たして一方向からの問いかけを議論することに意味があるのか?経済学を胡散臭いと思う理由がここにある。永続的な企業を望めば、あらゆる要素がバランスした健全な状態を保つ必要がある。そして、「会社はなんのために存在するのか?」と問えば、アル中ハイマーは「少なくとも社会の害になるぐらいなら潰れた方がいい」と答えるのであった。所有の概念には人間のエゴイズムが潜む。愛というエゴは、相手を所有しているという錯覚から始まる。会社を誰が所有するかなど法律上の問題でしかない。法律とは、都合が悪くなった時の言い訳のために存在する。ところで、官僚の所有の概念は奇妙である。どうやら税金を所有していると思っているようだ。公務員の減給が議論されると、「私たちが何か悪いことした?」と反論する。財政赤字ということは、既に経営破綻に陥っていることを意味するのだが。そこには組織が潰れないという前提がある。やはり、官僚も潰さないといけないようだ。

1. 資本主義の精神
資本主義こそ宗教的影響を受け、キリスト教圏のみに発達する土壌があったと考察している。資本主義は宗教の関与がなく利潤主義が強いようにも見えるが、実は違うようだ。そこには、カトリックに逆らったプロテスタンティズムから受け継がれる「資本主義の精神」があるという。資本主義の原理では、技術の進歩、資金の蓄積、商業の発達といった条件が必要である。学校教育では、資本主義は産業革命時代から始まったと教える。しかし、歴史的に見ると条件が揃った時代が、ずっと以前からあると指摘している。古代エジプトや古代中国、大航海時代と大発見時代。いずれも資本主義には至っていないという。その原因は「資本主義の精神」が無かったからだと主張している。資本主義の精神とは、目的合理的精神、労働を救済と考えて尊重する精神、利子や利潤を倫理的正当化する精神であるという。その必要性はマックス・ヴェーバーが指摘している。中世ヨーロッパでは、利子を取って金を貸す事は犯罪とされていた。キリストの教えに反するからカトリック教会が禁止した。利子が存在しなければ返却の期限も定まらない。また、商売とは利潤の追求であり、そこに罪悪感があっては経済活動は成り立たない。ところが、カトリック教会は様々な抜け道を講じて財を蓄えた。そもそも宗教がなんで儲かるのか?ご都合主義は宗教の得意とするところである。そうした背景にプロテスタントが立ち上がる。中でも厳格なカルヴァン派の功績が大きいという。カルヴァン派は、宗教から合理性を見出し、利潤追求の正当性を認めたという。人々が本当に欲しがっているものを生産し、適正な価格で市場に供給する事によって得た利潤は、罪どころか隣人愛であると解釈される。ヴェーバーは、プロテスタントが宗教の呪術や魔術から解放し、合理化したところに着目しているらしい。なるほど、労働の精神を救済の精神と結びつけたのは画期的であろう。宗教改革が資本主義を加速させたことに異論を唱えるつもりもない。予定説が、神の御心に従って人間の精神を職業労働に励むことに向けたという議論は多く見られる。だが、資本主義がキリスト教だけの産物と考えるのは少々傲慢に思える。自制の精神から勤勉へと向かわせた土壌は、日本にも伝統的にある。職業労働が隣人愛を示すという考えは、「お客様は神様です」という考えにも通ずるものを感じる。人類には、本質を見極めようとしてきた歴史がある。人間で最も重要なのは「生き方」であろう。職の達人や匠の域に達しようとする願いには、人生の意義を求める精神がある。宗教は「生き方」を示す一つの手段に過ぎない。是非ヴェーバーを読んで自分の解釈を見つけてみたい。

2. 古典派と「セイの法則」
古典派の基本思想に「レッセ・フェール(自由放任)」というのがあるらしい。市場は完全に自由放任された時に最良な状態になるという思想である。アダム・スミスの概念「神の見えざる御手」は有名である。
「市場の自由に任せておけば、最大多数の最大幸福、パレート最適は自ずと達成される。」
スミスは重商主義を批判し市場原理を唱え、自由経済がもたらす効果を哲学的に表した。これを理論的に示したのがデヴィッド・リカードだという。「経済発展を求めるならば市場を開放せよ!」とは、現在でもそのまま使われる言葉である。だた、長期的に見ると、最後には企業の利潤はゼロになり労働者の賃金は最低レベルまで落ち込むと指摘している。シュンペーターは、資本主義が機能し発展し続けるためには、イノベーションが必要であると主張したという。資本主義には、破壊的創造という精神がある。破壊対象は、封建制の基礎となるイデオロギーや伝統主義である。古典派の主張に「セイの法則」がある。市場に供給されたモノは必ず売れるという傲慢な思想である。個々の市場では、売れ残りが生じるが、広範な国全体の市場を見渡せば、需要は必ず供給と等しくなると考える。おもしろいことに、この法則を多くの経済学者があっさりと前提としたために、あちこちで理論公害が見られる。これが今日まで及ぶ経済学の病原であろう。供給過剰は起こり得ない!失業などありえない!なんと心地よい世界であろう。人間は快楽には勝てない。経済人とはおもしろい人種である。この法則は世界恐慌によって完膚までに叩きのめされた。だが、マルクスやケインズから批判されながらも、些細な修正を加えながら今も生き続けている。

3. 比較優位説と絶対優位説
リカードの「比較優位説」は経済学における最大の発見だという。国内市場のみならず、国際貿易においても、自由主義を実現すれば、双方に利益となる事を理論的に証明したそうな。一方、アダム・スミスが説いたのは「絶対優位説」である。これは、自らの得意とする分野に特化して生産を拡大するメカニズムである。先進国の間では、あらゆる面で優位な産業を持ち、それぞれが相乗効果をもたらす。例えば、15世紀頃まで、ポルトガルはイギリスに対して葡萄酒も毛織物も生産コストを抑えることができた。ポルトガルはイギリスよりも先進国だったのである。こうなると、後進国は貿易をする材料がなくなって分業が成り立たない。対して比較優位では、絶対的な生産費ではなく、比率を比較し、双方が相対的に有利な財の生産に特化することによって、自由な貿易が双方に国益をもたらすと考える。サムエルソン博士はその著書「経済学」の中で「比較優位」の合理性を弁護士の例で説明しているという。それによると、弁護士として有能だがタイピストとしても有能な弁護士。はたして、この弁護士はタイピストを雇って分業するべきか?雇わずに自らタイピストの仕事もやった方が儲かるか?答えは雇うべき。敏腕弁護士の報酬はタイピストの給料よりもはるかに高いので、弁護士に専念した方がより多くの報酬を得ることができると説明している。

4. ケインズ理論
世界恐慌によって、ケインズ理論は必然的に生まれたと言っていいだろう。市場のメカニズムが機能不全に陥った場合、国家の経済介入も已む無しという風潮が生まれた。セイの法則を信奉する古典派が「供給」を主眼にしているのに対して、ケインズ理論では「需要」が主眼となる。つまり、需要がないところに供給しても商品が売れるはずがない。逆に言うと、無理やり需要を創出すれば、供給が増えるということである。これが有効需要の原理である。したがって、その主な政策は有効需要の創出となる。この理論で成功したのがヒトラーで、アウトバーンを造り軍事拡大を推し進め無理やり雇用を創出した。ケインズ理論では、ルーズベルトのニューディール政策を思い浮かべる人も多いだろう。この政策がどこまで機能したかは意見の分かれるところである。本書は、ニューディールを中途半端な政策で、むしろ第二次大戦が後押しした結果だと見ている。ちなみに、アル中ハイマーは第二次大戦に引き込んだのもニューディール政策の一環だと見ている。ここで注目すべきは、ケインズ自身が公共事業の中身はなんでも良いと述べたというのである。つまり、ピラミッドでもええのだ。ここにケインズ理論の弱点がある。ケインズ理論を最初に実践した政治家はピラミッド造りに励んだ古代エジプトの大王様ということか。ケインズ理論の落とし穴は、「クラウディング・アウト(締め出し)」であり、インフレであるという。貨幣価値は一定であると考えインフレを無視した結果、生産力不足だけでなく、資金不足も有効需要の原理が通用しない状況になる。人々が不景気で安定志向になると、貯蓄は証券に変えられず投資の効率性を失う。公共投資のために市場の資金を国が吸い上げると、民間企業への貸し出しが減る。公共投資にともなう資金需要増が利子率を上昇させ、民間の設備投資の意欲を削ぐ。そして、公共投資による民間締め出しが起こる。本書は、古典派は需要に対する研究が足らなかったが、ケインズ派は供給に対する分析が足りなかったと指摘している。政策で無理やり有効需要を創出しても、その規模が生産力を上回るインフレを引き起こすのであれば効果がない。ケインズ経済学は、完全雇用を達成する前に深刻なインフレに見舞われた。景気刺激策として国が有効需要を創出しても、それが元で価格上昇を招くのであれば、商品の国際競争力は失われる。そして、より安価な海外製品が市場に流入し輸入超過を招く。有効需要の増分は輸入増で相殺され国内生産は締め出しをくらう。そして古典派の勢力の復活を見る。いまだに、「自由放任主義」と「有効需要創出」の論争は決着を見ない。そもそも、対立しなければならないところに経済学の根深い病魔がるように見える。

5. 誤解されたマルクス主義
マルクスの「疎外」とは何か?資本主義は巨大な機械と化し、そこに組み込まれた人間は、無力感に絶望して「疎外」感を味わう。そこで、資本主義を批判するマルキストや左翼は「疎外」という言葉を連呼した。しかし、マルクスが指摘した「疎外」とは、社会現象には法則性がある事を主張しただけだという。
「経済、社会、歴史には、それを動かす一般法則が存在し、人間にはこの法則を操作する力などない。」
なるほど、経済原理の法則性には人間は無力ということか。資本主義を批判したところで、社会主義にも経済法則がある。市場では、価格も需要と供給によって自然に決定される。これがマルクスの本質だという。おいらは「マルクス = 社会主義」という印象を持っていたが、経済学における「疎外」とは、市場原理の本質を語っているようで、むしろ資本主義に近いように思える。ただ、マルクスがこれほどの発見をしたにもかかわらず、マルキスト達はそれに気づいていないと指摘している。その証拠に、ソ連こそ非マルクス政策を進めたという。ソ連は、経済法則を無視して計画性のない計画経済で国を滅ぼした。しかも、経済活動の生命線であるゼロ金利によって追い討ちをかけ、利子が発生しないから未払いが蔓延する。ものは作られず、仮に作られたとしても流通しない。在庫が残ったところで、利子が減るわけでもなく給料が減るわけでもない。こうして見ると、日本の官僚はマルキストと同じに思えてくる。ただ、日本の経済力も捨てたもんじゃない。崩壊せずになんとか耐えている。経済政策をも経済力が凌駕しているということか。ただし今のところは。日本の企業は政治を信用せずに自ら防衛策を実施している。企業戦略で重要な情報戦略でさえも、自前でやってきた伝統がある。

6.官僚制は腐朽する
ヴェーバーは官僚制について鋭い考察をしているようだ。本書は、もしヴェーバーが生きていて、日本の官僚制を目の当たりにしたら、こんなに凄いサンプルはないと随喜するに違いないと語る。学校教育では、日本の官僚制は明治時代に、西洋の官僚制をモデルにしたと教わった。そのモデルはドイツであるが、当時のドイツの官僚制は手本にできるほどの段階ではなかったという。むしろ、日本の官僚制の手本は中国の科挙であろう。科挙の制度は、高級官僚をペーパーテストで募集する仕組みである。奈良時代に一度輸入され、風土に合わず平安時代に廃止された。儒学を重用した徳川幕府でさえ、科挙には見向きもしていない。ところが、明治時代になって突如導入した。科挙の弊害というのは恐ろしく根深いものがある。中国で科挙が生まれたのが隋代で600年頃。そして、制度として完成したのは宋代で960年頃。気が遠くなるほど時をかけて築いたにもかかわらず、手の施しようもないまま腐敗し、ついに廃止されたのが1905年。その間、実に1300年もかかっている。それに引き換え日本では100年で見事に科挙を再現してしまった。科挙の求めるところは、身分に関係なく誰でも公平に官僚への道が開かれる仕組みである。ただ、公平性の美しさには罠が潜む。貴族制度が蔓延る社会で有用であっても、貴族が一掃された平民社会では逆に弊害となる。つまり、ペーパーテストでしか官僚を補充できない。アメリカでは、大統領が変われば一斉に高級官僚も総入れ替えとなる。そして、民間で叩き上げられ、功績が認められると登用もされる。日本では一度ペーパーテストに合格すれば生涯保証される。そして出世にしか興味のない集団と化し、志も良識もない官僚を大量生産してしまった。そう言えば、日本の高級官僚は宦官のようになってしまったと発言した某都知事がいた。決まったレールを走るように飼い馴らされた人間は、現実適応能力がなく危機に対処できない。絶対主義時代ヨーロッパにも家産官僚制があった。国家のものは王のもの、王のものは私のものと思っている家産官僚は、賄賂と給料の区別もつかない。日本の官僚は、国家の財産は納税者のものという意識すらない。本書は次のように語る。
「残念ながら、日本には、やれ「ケインズは死んだ」だの、「古典派は古い」だのと聞く耳を持たない輩が多い。実際、どちらの処方箋も日本では上手く作動しないが、その原因は「理論」にある訳ではない。両派が研究の対象としている資本主義と、その精神がないからである。」
役人が無能で汚職ばかりしている国ではケインズ政策は作用しない。ましてや、役人が勝手気ままに市場に干渉するようでは古典派の理論も作用しない。経済理論以前に、まず腐朽した官僚と家産官僚制を駆逐することであろう。官僚の仕事はただ一つ、不公平のない社会システムの構築である。しかし、人間がつくるものは自らを優遇する。日本で三権分立が機能していると信じている人は少ないだろう。官僚が唱える中立独立は自ら運営するシステムを言う。官僚が保護した産業ほど競争力を失い廃れていくとはどういうことか?人間は社会からの存在意義を失うことを恐れる。それ故に権威を誇示する。だが、権威の誇示は皮肉にも自らの存在意義を失う結果を招く。

7. 資本主義は何によって没落するか?
シュンペーターは、資本主義はその成功ゆえに没落すると述べたという。資本主義を維持するためには革新が必要である。しかし、小企業は大企業に吸収され、更に巨大企業となり、英雄的企業はいずれなくなるだろうと予測する論者も多い。やがて、巨大企業内でできる官僚的な経営者によって革新が止まる。巨大化した企業は、工場や従業員を把握することができなくなり、実体すらつかめなくなる。巨大企業の所有者も、何を所有しているのかを実感できなくなる。かつては、私有財産に愛着を持ち、企業や仕事に情熱を持って資本主義は発展してきた。巨大企業の下では、所有そのものに魅力がなくなり、私有財産も崩壊していくのだろうか?

2009-02-08

"アジャイル プラクティス" Venkat Subramaniam & Andy Hunt 著

本屋で、前記事の「アジャイル レトロスペクティブズ」の隣に陳列されていたので、ついでに買った。「Practices of an Agile Developer」という言葉になんとなく惹かれる。優秀な方々の習慣は気になるものだ。本書は、人生にリズムとバランスの大切さを改めて教えてくれる。その証拠に、各章には気分とバランス感覚という文字が鏤められる。酔っ払いにとって気分とリズムほど大切なものはない。

アジャイルとは、より良いソフトウェア開発方法を解明しようとするものであり、その重視する項目は以下のようなものだという。
・プロセスやツールよりも、- 人と人との交流を
・包括的なドキュメントよりも、- 動作するソフトウェアを
・契約上の交渉よりも、- 顧客との協調を
・計画に従うことよりも、- 変化に適応することを

ここで注意すべきは、左側の項目の価値を認めていることである。それを前提として右側の項目の価値をより重視する。アジャイルの本質は、適応力と協調を重んじる人々が、きちんと動作するソフトウェアを開発することであり、結果を出すことに専念するプロの集団を前提としている。そして、チームにとってモチベーションを保つには、計画を絶対視するよりも、自然で継続的なスタイルへと変化させることが肝要であるという。なるほど、こうした本は頭の整理ができておもしろそうだ。アル中ハイマーの主な仕事は、デジタル回路のアルゴリズム開発やLSI設計である。この分野は、言語による手法が進み随分とソフトウェア化が進んでいる。また、機能検証では、実装のモデリングやテストの自動化などで、プログラム開発を要求される。したがって、本書のようなソフトウェアの分野であっても、その思想は参考にできる。

ソフトウェアの開発は、そのライフサイクルが継続する限り続く。ユーザが使い続ける限り、本当の意味での完成はないのだろう。継続的なフィードバックは、もはやプロジェクト期間など意味をなさないように見える。技術習得、要求変更、製品展開、ユーザのトレーニングなど、すべてにおいて活動は継続される。これがアジャイルな開発スタイルだという。開発のプロセスは複雑で、些細な問題を放置すると、やがて状況は悪化し手に負えなくなる。問題にうまく対処する方法はただ一つ、システムに対してエネルギーを継続的に注入するしかないという。これがソフトウェア開発のエントロピーというわけか。人間社会にも多くの類似したケースを見つけることができる。混乱と危機に陥る前に継続的に監視し問題が小さなうちから対処するのが、アジャイルの本質のようだ。ここで注目したいのは、アジャイル開発で最も信頼を置くのは人であることを強調しているところである。

おいらがプロジェクトを担当する時、リーダをさせられることが多い。単に年齢によるものであろう。そこでは、必ず自ら設計するモジュールを持つことにしている。それがどんなに小さくても。それも設計者の気持ちを忘れないためと言い訳しているが、実は設計も楽しいのだ。最近では、検証環境を作る方がおもしろいので、立場を利用して環境構築を担当する。回路設計を言語で行うといっても、その記述方法は実装の制限に見舞われる。その点、検証モジュールは機能のモデリングや環境の自動化など、その手段において制限に見舞われることはあまりない。顧客によっては使う言語を指定してくる場合もあるが、手抜きをする方向でなければ、交渉でだいたい誤魔化せる。
ドナルド E. クヌース曰く。
「新しい分野のシステムを担当する設計者は、実装にも全面的に関わらなければならない。」
ある経営者に、プロジェクトリーダは、コーディングしてはならないと言われたことがある。おいらはこの意見に否定的である。リーダも少しは設計の醍醐味を味わいたいものである。

プロセスの遵守の度合いを評価の重点に置いている組織がある。そこには、定められたプロセスに従ってさえいれば、この世は全てうまくいくという宗教じみた理屈がある。失敗した時の責任逃れに絶好の言い訳にもなる。ISO9001を取得して喜んでいる組織のお偉いさんは、それで全てうまくいくと狂信している。定められたプロセスがチームに禍をもたらすケースは意外と多いのだが。プロジェクトは生き物のように絶えず変化する。体系化できるならば悩みも減るだろうが、できないのが人間社会というものである。応急処置が泥沼の原因になることは、多くのエンジニアが初期の段階で経験しているだろう。応急処置は悪魔のように誘惑してくる。だが、長期的視野に立てば自ら地雷を埋め込むようなものである。常に物事の本質を解き明かそうとすることが、プロ意識というものであろう。計画段階で、流用モジュールを使えばスケジュールが短縮できるといった意見は必ず飛び出す。流用できるかどうかの検討は慎重でなければ危険だ。そこには、政治的な思惑が絡むことが多い。既に流用モジュール設計者が辞めていて、問題が発覚しても原因すら追求できないといった事態も珍しくない。そんな事は新人君でさえ理解できそうなものだが、なぜか部長クラスのお偉いさんは政治力で捻じ伏せる。彼らには、開発の結果よりも重要なことがあるに違いない。窮地に追い込まれたプロジェクトを救うために、アジャイル プラクティスを導入することは良いかもしれない。ただし、一気に導入することは危険であろう。本書も、改革する上で、何もかも一気に変えてしまうのはプロジェクトを潰すことになるので、その導入方法は段階的でなければならないと警告している。ただ、潰れた方がためになるプロジェクトが存在するの事実である。

1. 設計は指針であって指図ではない!
設計がなくては、きちんとした開発はできないだろう。しかし、設計に縛れら過ぎてもいけないという。新しいソースの統合に伴う混乱を最小限に抑えるために、早めにビルド、こまめにビルド、定期的にリリースすることが重要だと主張している。設計には二つのレベルがあるという。戦略的設計と戦術的設計である。事前に行う設計が戦略的設計で、通常この段階では要件を深く理解できていないだろう。よって、大まかな戦略を示すことになる。早い段階で綿密な詳細に深入りすれば、本質を見失う恐れがある。一方、メソッド、パラメータ、オブジェクト間の相互作用のシーケンスなどは、戦術的設計の段階となる。設計は、正しい方向を示す道しるべにならなければならないという。また、優れた設計は正確であっても精密ではないという。そうだろう、最初から綿密に練られた計画が、その通り実行された例を見たことがない。設計とは、目的や意図を示したもので、具体的な手順を記したものではないと語られる。

2. ドキュメントの位置付け
ドキュメントの位置付けをどうするかは悩ましい。最初から詳細に明確に書ければ悩みも減る。しかし、コーディングしてみて、後からドキュメントに記載するといった手順を踏むこともある。この時、設計書というよりコード説明書という位置付けになる。いずれにせよ必要な説明書を省くべきではないだろう。ある程度の設計指針を記載できても、詳細まではなかなか固まらない。抽象レベルを下げていくうちに、逆に抽象レベルの高いところに変更が入る場合も起こる。上をいじったり下をいじったりして固めていくのが設計の醍醐味でもある。ただ、本書は早い段階からコーディングすることを推奨している。ここで注意すべきは、設計が不要と言っているわけではない。設計が、設計書によって行き詰まることのないように、という程度の意味である。設計をともなわないで、コーディングに突入することは危険である。あくまでもバランス感覚が重要で、設計者のセンスが最も現れるところでもある。また、設計書を渡せば、後はタイピストがコーディングするという方法は好ましくないと指摘している。
「まともな設計は、積極的にコードを書くプログラマから生まれる。」
おいらも自らコーディングしたい。コーディングは気分転換にもなるから。

3. フレームワークの有害
プロジェクトでやみくもにフレームワークを選ぶのは危険であろう。新しい技術やフレームワークの検討には、その採用根拠を明確にし、慎重であるべきである。職務経歴書の見映えを良くするために選択しても成功するわけがない。だからといって、避けていては技術習得の機会を失う。その按配は悩ましい。経営陣には、安易にツールコンサルタントの雄弁さに乗せられて、採用すると天国にでも行けると信じてしまう人がいる。そうしたツールはだいたいオーバースペックである。フレームワークも一種の布教活動であの世へ導かれる。フレームワークやツールは、あくまでも手段であって、それ自体が本質ではない。アル中ハイマーがツール至上主義に陥ることはありえない。酔っ払いはツールを使いこなすことすらできないから。

4. 早いうちにデプロイを自動化する
ターゲットマシンへのデプロイは、再現可能な方法で行わなければならないという。ほとんどの開発者は、最終段階になるまでデプロイの問題に目を向けたがらないらしい。しかし、依存するコンポーネントやデータファイルが足りなかったり、ディレクトリ構造が不適切だったりすると後戻りすることになる。おいらは、ディレクトリ構造やファイル名で最初に思いっきり悩む。夜のテクニシャンは前戯に夢中になるのだ。そして、最初からリリース状態を構築することをイメージする。後から、徐々に膨れ上がるのが見えているから、リリースプロセスは、最初から軌道に乗せておきたい。最初にリリース構造を見せておくと顧客を安心させられ、信頼を得ることもできる。また、顧客に仕様変更が容易かどうかを早めに判断させるのは、有効な戦略ともなる。もし顧客側の水面下で仕様について揉めている場合、その可能性を早めに表明してくれる。ちなみに、仕様変更が起こらない仕事を経験したことがない。相手に気を使わせるのも戦略である。どうせ顧客と揉めるなら早い方がいい。後になればなるほど殺気立つ。

5. PIEの原則
PIE(Program Intently and Expressively)とは、意図を明確に表現するコードを書くことだという。コードは開発が進むにつれ徐々に巨大な怪物へと変貌し炎上することもある。そこには、時間を惜しむために、問題の先送りという悪魔のささやきがある。適度なプレッシャーを保ちながら開発をするには、コードをいつも健康状態に保つことであろう。本書はコードの巧妙さよりも明瞭さを強調する。そして、プロジェクト期間中に留まらず、開発後においても拡張性を維持するべきだと語る。コメントを多く残すように指示する人も多いが、逆に混乱を招くこともある。これはドキュメントも同じである。ドキュメントには思想を残して、コードとセットで考えたい。あまり詳しすぎると、二重にコーディングしているようなものである。
昔、コード = ドキュメントという思想に何度もトライした記憶が蘇る。言葉をマクロ化して分かりやすい表現に置換したりと。あまり膨らみ過ぎて、特殊言語の開発をしているような気分になった。分かりやすさを追求するあまり、性能も犠牲にする。確かに、コードが分かりやすくドキュメントの地位に引き上げることができれば一石二鳥である。しかし、プログラム言語はあまり読みやすいものではない。言語仕様を知らない人間には、チンプンカンプンで議論の題材にはできない。また、いくら分かりやすく書いたつもりでも、一年後にコードを読み返すとがっかりさせられる。そこにはセンスの無さ醜さが散乱する。万能なコードを書くのは難しく、いつもトレードオフがつきまとう。適切な言葉を選ぶだけでもコードの読みやすさは格段に上がる。すべてはエンジニアのバランス感覚に支配され、継承の深さや階層の深さといった構造的センスにもバランス感覚が現れる。優秀なプログラマはネーミングのセンスが良い。こうした感覚は習慣からきているのだろう。普段から読書したりと情報収集に抜け目がない。繊細な気配りをする彼らには学ぶべきところが多い。

6. デバッグ
デバッグがスケジュール的に難しいのは、所要時間が読み辛いところである。問題もランダムに発生する。本書は、ソリューションログをつけることによって、問題と解決策を再利用することを推奨している。例外処理にはいつも悩まされる。プログラム構造には、あらゆる例外を報告させるべきであるという。そして、発生した例外は、すべて対処するか、あるいは伝播させないことだという。エラーメッセージを埋め込むにしても、そのセンスは難しい。役立つログはバグの対処に有効である。それがプログラムの欠陥なのか、環境に依存するのか、ユーザ側のミスなのか、エラーの種類が識別できる工夫も大切である。
バージョン管理システムを導入するのは一つの管理手法であろう。ただ、神のように崇めて強制する人もいる。
「バージョン管理システムを使わないことよりも悪いことは、管理システムを間違って運用することだ」
そもそも、コードの健康状態を公開することが目的であり、それを共有することに価値がある。テストが通らないものを公開しても意味がない。チーム内に一人として認識のずれた人がいると機能しない。
コードレビューは欠陥除去率が80%を超える方法であるという。おいらはチームの技術共有という意味で実施している。新メンバーの認識違いを感知するのにも有効である。ただ、スケジュール上、十分な時間を確保することは難しい。エンジニアの中には恥ずかしがり屋も多く拒む人もいる。ただ、優秀なプログラマのコードを見るのは勉強になるので、他人のコードを見ることを拒む人は少ない。説明がスムーズになされるコードは読みやすく、ドキュメントと突き合わせれば表現のチェックもできる。

2009-02-01

"アジャイル レトロスペクティブズ" Esther Derby & Diana Larsen 著

本屋を散歩していると、ある言葉が目に留まった。Agile Retrospectives...副題には「ふりかえりの手引き」とある。つまり、プロジェクトの事後分析である。全ての道筋は過去を振り返り、自らを評価することから始まるといったところだろうか。不況時に、自らを省みて立ち止まって読んでみるのも悪くない。
最近なぜか?教育係の依頼が多い。教えられることなんて何も無いのに。年寄り扱いされてるってことか?失敬な!ちなみに、夜の社交場では、娘のようなお姉様方にお子ちゃま扱いされている。
今宵は、本書に乗せられて自らの体験談を語ってみたくなった。人生は短い。アル中ハイマーと出会ったがために、無駄な時間を過ごした人も多いことだろう。この場をかりて「深くお詫び申し上げます!」

著者のEstherとDianaは、Norm Kerthとともに、Retrospectivesのファシリテーションにおける世界的な権威者なのだそうだ。ただ、その思想は極めて日本人的であることに驚かされる。組織運営の本質的な思想に国境はないということだろう。プロジェクトは刻々と変化し、チームは生き物のように常にうごめく。どんなにうまくいったチームだからといって、次もうまくいくとは限らない。状況をいち早く掌握するためには日々の観察が大切であり、それを整理するために時々振り返る必要がある。著者たちは「Retrospectives」のことを、仕事が一段落した後にメンバーが集まり、やり方やチームワークを点検し、改善する特別なミーティングに位置付けている。
「チームの問題は、技術的な問題と同じくらい、時にはそれ以上に、手ごわいものだ。」
本書は、具体的な訓練方法まで紹介してくれるので、どこから手を付けてよいか分からない人には参考になるだろう。ただ、それが絶対というわけではない。メンバーや環境など、まったく同じ条件で仕事ができるはずもないので、最適な方法はいつも異なるだろう。重要なのはその根底に潜んだ思想である。くだらないプロジェクトに時間を浪費するほど人生は長くない。目的はただ一つ、人生を楽しもうとしているだけなのだ。
ところで、ベンチャーと称する会社と関わると、いろんな経歴を持った人間が入社してくる。それでも、多くが大企業を経験している。そして、おもしろいことに出身会社によって文化傾向が現れる。自分の哲学に走る傾向や、責任範囲を決めてひたすら自己防衛に走る傾向などなど。こうした傾向が出身会社の文化に反発したものなのか、そのまま継承しているのかは知らない。そこで、まずメンバーの認識合わせから始める必要がある。文化の融合とはおもしろいものだ。

プロジェクトの状態を見るには、本音を言わせることが重要であろう。それには愚痴らせるのが良いと思っている。それも冗談で言える段階から。愚痴が出るということは反発するパワーが残されている証でもある。体制の維持が目的ならばイイ子ちゃんほど都合の良いものはない。だが、改善が目的ならば、むしろ弊害となる。完璧な体制などありえない。もし満足しているならば、宗教化が進み思考停止になっていると見る方が正しいだろう。沈黙の抗議が始まれば手遅れである。そうならないように、笑いながら愚痴れる環境を作ることに専念する。おいらのプロジェクト手法は、これに尽きる。技術的な問題は比較的対応しやすい。もし、メンバーが技術問題を抱えていれば、人前で喋らせればいい。すると、メンバーは自分で喋っているうちに自らの思考を整理して、いつのまにか自ら解決策を見出す。周りはそれを聞いてやるだけでいい。悩み事を相談していたはずが、いつのまにか解決方法を自ら自信満々に語っている。こうした光景がしばしば見られるからおもしろい。ただ、リーダの存在感が薄れてちょっと寂しい。挙句に飲まずにはいられず、場所を変えてそのまま宴会となる。したがって、プロジェクトリーダはアル中ハイマー病患者が多いはずだ。

人の評価は難しい。好き嫌いという感情も介入する。客観的な評価を求めるために、数字で段階評価する光景をよく見かける。これがまったく意味がないとは言わないが、どれほどの効果があるのだろうか?カリスマ性5、技術力3、発想力4、協調性1、まるでシミュレーションゲームだ。評価項目に当てはまらない事象や表現できない事象も多い。評価される側も、売上などの数字で部署や人の評価を求める人がいる。しかし、経営の立場から考えると奇妙な話である。誰が担当してもそれなりに成果の出る仕事と、失敗する可能性は高いが将来を睨んで挑戦したい仕事とでは、どちらに優秀な人材を投入するだろうか?困難な仕事ほど優秀な人材を配置するのが合理性というものである。おいらの評価基準は単純だ。その人が組織にとって居なくなったらどれだけ困るかである。ただ、居なくなって初めて、その人の価値が認識できるから困ったものである。恋愛は別れた時に、その人の良さが見える。

プロジェクト改善のアプローチで全ての問題を列挙して、解決策を見出すべきだと主張する人がいる。そして、一つの問題に一つの解決策を対応つける光景をよく見かける。それも手法の一つであろうが、分析すれば一つの問題から派生していることが多い。何もかも列挙するといきなり挫折が見えてくる。長続きするためには高い可能性を維持することであろう。ただ、目標を視覚化できるチャートは、メンバーの意識合わせに役立つ。少なくとも計測可能で達成可能なものでなければ、メンバーの共通目標にはできない。最初にプロジェクトの方向性を明白にすることが重要で、ここで時間をかけることを面倒だとは思わない。むしろ、ここで時間をかけた分、後で時間が短縮でき、時間的にもエネルギー的にも十分見合うものとなる。また、メンバーの意識が合えば、重要な問題が発生した場面でも少々無理がきく。問題発生は常に想定しておくべきである。チーム内を円滑にするために、笑いネタにできる人間が一人いるとありがたい。馬鹿を演じられる人間は貴重である。実は賢いと認められた人間の成せる技である。リーダ自身の馬鹿げた行動を暴露するのもいい。チーム内には常に笑いを起こせる共通のネタを仕込んでおきたい。おいらのプロジェクトは運良くメンバーに恵まれてきた。それなりに楽しくやれてきたからである。失敗もあるが今では笑い話にできる。

突っ走らないと気が済まない人がいる。全体の方針が決まらないのに、勝手に検証環境を作り始めたりといった行動をとる。自分の仕事が遅れることで、責任を負うのが嫌だと明るみに主張する人もいる。誰も責任を押し付けようなどと思っていないのだが、そのような政治的な体験をしてきた人は多い。部分的に進んでも、足並みが揃わないと、後戻りすることになると説得しても無駄である。あえて、そうした人の行動を止めたりはしない。それでストレスから回避できるのであればそれもいいだろう。こういう人は作業をしていないと落ち着かない。コードを書くことが精神安定剤になっている。無闇にコンピュータに向かっている時間が長い人の仕事量が多いとは限らないのだが。人間を言葉だけで啓蒙することは無理である。新たな思考方法を本に求めるにしても、どこかに興味や共感できる思考の欠片を持っているから、その本を選ぶことができる。むしろ言葉だけで簡単に操れる人間の方が怪しい。事前検討や上流工程を綿密にやれば、日程の精度が高まり、結果的に仕事が加速することを体験させなければならない。それまで我慢するしかない。何事も結果が付いて来ないと説得力はない。
また、仕事のパターンを形式化することを好む人がいる。形式化できるに越したことはないが、できないのが人間社会というものである。また、ワンパターンの仕事スタイルは硬直化の要因にもなる。それに人間であるからには、作業よりも思考することに価値を見出したい。優秀な人ほど事前検討を大切にし、無駄を排除しようと努力しているように思える。彼らは一番大きな無駄は後戻りすることだと知っている。逆に、無駄な努力を多く経験してきたとも言える。世の中は無駄に満ち満ちている。無駄から学ぶことも多い。こうなると無駄は無駄ではなくなる。プロジェクトリーダは、しばしば様々な形の人間関係で衝突することがある。ただ、不思議なのは、最初に苦労した人ほど後々うまくいくケースが多いことだ。また、人間的に合わないという直観は最初に働く。こうした現象を経験から学ぶが、その要因を論理的には説明できない。

本書が推奨するRetrospectivesの手順は、次のようなものである。
1. 場を設定する
2. データを収集する
3. アイデアを出す
4. 何をすべきかを決定する
5. レトロスペクティブズを終了する
おいらは「場を設定する」が一番重要だと思っている。以降の項目はプロジェクトを実施する上で必然だから、ほとんどの人が試行するだろう。それらを有効にするには、いかに場を設定するかにかっていると思っている。

1. 場を設定する
場を設定するとは、議論に適した雰囲気を作り出すことで、最も気を使うのは議論の所要時間であろう。忙しいメンバーにとって、だらだらとした議論はストレスとなる。本書は、最初に所要時間を明確にすることが大切だと述べている。会議の進め方がメンバーに浸透していれば、なおのこと良い。もう一つ気を使うことが、発言に遠慮がちな人が多いことである。エンジニアの中には気難しい人間も多い。実は、おいら自身が人見知りが強く気難しい人間で喋ることが苦手である。と言っても誰も信じてくれない。また、プライドなのか?問題を自分だけで抱え込む人がいる。追い詰められてから公表すると、責任問題にもなり、他のメンバーから批難される恐れがある。事前に問題を明るみにするためにも雰囲気は重要である。議論するからには、全員に喋ってもらはないと意味がない。いかに大人しい人に喋ってもらうかは苦労するが、チームの一員として自覚させるためには必要である。大人しい人を表に出すためには、その人の担当を表に出せば良い。インターフェースを話題にすれば、責任感さえ持っていれば、嫌でも発言せざるをえない。本書は、チームに約束が重要であると語る。約束は、メンバーに協調した振る舞いや、責任を持たせることができるという。ただ、経験的にはチーム内の約束事はいつのまにか暗黙の了解となっている。互いに成長したいという意識が一致していれば、自然とチーム内に規則が生まれるような気がする。

2. データを収集する
本書は、客観的な事実はデータの一部でしかなく、データの半分以上は感情であると語っている。確かに、感情は、事実やチームについて重要なことを教えてくれる。ストレス情報に敏感でなければリーダは務まらない。リーダにとって有用な情報は感情であり、メンバーにとって有用なのは客観的な情報である。所詮、人間は感情の動物だ。論理が万能と信じるのは危険である。論理に一瞬でも隙があると、メンバーは不快になる。それが、感情によって微妙に左右され、更に決断の段階で左右される。ならば、最初から感情の存在を認めた上で、対処する方が現実的である。ただ、エンジニアは感情を表に出したがらない傾向にある。無理に感情を煽るのも逆効果となる。

3. アイデアを出す
アイデアを出す段階では、場が設定できていれば、あまりリーダが積極的に発言する必要はないだろう。後は、自然の成り行きに任せる。ただ、プロジェクトから一歩下がった視点を与えることは重要である。おいらは哲学的な思考を重視する。それは、各メンバーに仕事で何か得るものがあるか、それを実感できているか、を問うことである。どんな仕事でも、その前提にはそれぞれの人生がある。今後も役立つ手法を使うか、一時的なもので誤魔化すかは、モチベーションにも影響を与える。ひょっとしたら、その人は、会社を辞めてもっと良い生き方を見つけるかもしれない。おいらは、組織の枠組みにとらわれない付き合いをしたいと願っている。その延長上に、チームの目指すべきものを見つけたい。

4. 何をすべきかを決定する
プロジェクトリーダの仕事は、何をすべきかを決定することが目的である。本書は、あまり多くの改善項目を試すのではなく、絞ることが重要だと語る。

5.. レトロスペクティブズを終了する
本書の流れで、この項目は少々気になる。文書化、フォローアップ、点検と改善、ここまでは想像がつく。ただ、本書は、最重要なものにこれを挙げている。
「メンバーの作業に感謝することを忘れない。」
プロジェクトリーダは、当然感謝の気持ちを持つだろう。しかし、その気持ちは伝わっているものと考え、しばしば態度に示すことを省く。それが照れくさいところもある。本書は、そうした態度を省いてはならないと主張する。ということで、この場を借りて皆様に感謝致します!
また、リリース後のRetrospectivesでは、チーム外にも招待状を出し、新しい参加者を募ることを薦めている。チーム外の付き合いは、政治的な思惑も絡むから難しい。それが社外となると尚更である。本書は、そうした啓蒙運動を積極的に行うように推奨している。ただ、あからさまに啓蒙して周るのは布教活動のようで肌に合わない。そもそも、それほど自信のあるやり方をしているわけでもない。

6. プロジェクトリーダの役割
リーダもつい議論に参加してしまいがちだ。しかし、リーダの仕事はプロセス管理にある。本書では、それをアクティビティ、集団ダイナミックス、時間の管理であると述べている。そして、自らの強い意見は避け、中立の立場に徹することと、メンバーの感情や反応を管理することで、議論の成果に貢献することが重要である語る。もし、リーダだけが重要な情報を知っている場合は、その役割を一時的に離れる旨を知らせて、議論に参加するのもいいだろう。その立場を明確することに注意を払うのは大切である。頻繁に立場を変えるのも混乱を招くだけである。本書は、一番やってはいけないことは、相手を批難することであるという。これは、場を設定するところで、メンバーの認識合わせができていれば、互いに批難するような場面を事前に回避できるだろう。やたら、技術や戦略を持ち込んで管理しようとするリーダをよく見かける。ただ、管理で一番神経を使うのは感情的なものである。ここが管理できなければ、どんなテクニックを持ち込んでも効果はない。そして、何よりも大事なのが、リーダ自身の自己管理である。これは孤独との闘いでもある。

7. 改善
継続中のプロジェクトを改善するよりも、新規でやり直す方が手っ取り早い。慣習化した行動を改めるよりも、新しい行動を加える方が楽である。チーム改革とは、そんなものだろう。本書は、新しいスキルを身に付けるのに、ミスをしても構わないことをメンバーに伝えることを薦める。改善の責任はメンバーで共有することであって、一人がチームの救世主になると、共同作業を台無しにする恐れがある。また、それに追従するだけで頼りない集団になってしまう。その人の肩にかかるというのは、それだけリスクを伴う。おいらがカリスマ性を信じないのは、このあたりに理由がある。