2016-01-31

老衰の道と無知の道

老衰とは、自分の生き方に疑問を感じることができなくなった状態を言うのだろうか。しかも、言い訳に努めようと必死ときた。自分自身をも欺瞞して。そして、人のせいにし、社会のせいにし、そこに生き甲斐を求める。馬鹿は死ななきゃ治らない... と言うが、酔いどれ天の邪鬼は、死んでも、はたまた生まれ変わっても、治りそうにない。
もちろん、若いうちは自信を持ち、野望を抱くことも大切だ。しかし、歳を重ね、充分に経験を積んでもなお、自信や野望に縋らなければ生きられないとすれば、それは辛い。そして、怒りと苛立ちの奴隷となる。自信に頼って生きれば、自信を失った時の失意も大きい。失うものがなければ、それが強みとなろう。成功者は信念に縋ろうとするだろうが、失敗者は信念をば検証対象とすることができ、それが強みとなろう。無理やり楽観的に考え、ポジティブに考えなければならないと強迫観念に駆られるよりは、自然体でいることだ。
「人生の目的は、目的ある人生を生きることである。」とは、誰の言葉であったか。悲観論に陥ってもなお、笑い飛ばして生きられるとすれば、真理の力は偉大となろう。生きることに情熱さえ失わなければ、なんとかなる。ただし、信念を欠けば仕事が成し遂げられないのも、これまた事実。この按配は、生涯のテーマとなろう...
「苦難を笑う術を身につけなければ、齢を重ねるうちに笑うネタがなくなる。」... エドガー・W・ハウ

物事を知れば知るほど自信を失っていく。知識を得れば得るほど物事が分からなくなっていく。自信とは、無知の度合いによって生じるものなのか...
「学問」とは、学んで問うと書く。学べば新たな疑問がわき、疑問を解決しようとしては学ぼうとする。その精神は、健全な懐疑心と啓発された利己心によって支えられる。問い方を知らなければ、進化の道は閉ざされるであろう。
一旦、あらゆる常識や慣習を否定し、あらゆる存在を否定してみることだ。自己存在でさえも。自己を真に理解しようとすれば、自己批判が第一歩となる。そして、自己否定に陥り、自己嫌悪となる。まさに自滅への道だ。それでもなお、魂が平静でいられるならば、真理の力は偉大となろう。過去の栄光に縋っても仕方がない。現在の肩書に縋ったところで虚しいだけ。人間は時間を抹殺しながら生きるしかない。けして後戻りのできない道を...
「死に対する嫌悪感は、人生を無駄に過ごした諦めがたい失望感に比例して増大する。」... ウィリアム・ヘイズリット

1. 常識嫌悪論
孤独愛好家の中には、明るい自閉症、社交的な人間嫌いといった人々がいる。歴史の偉人たちにも、多少なりと自閉症を患ったとされる人物は少なくない。アンデルセン、ジェーン・オースティン、エミリー・ディキンソン、ニーチェ、あるいは、ミケランジェロ、ベートーヴェン、モーツァルト、さらには、ニュートン、アインシュタイン、アラン・チューリング... 他にもたくさんいるはずだ。彼らが人類の進歩に貢献し、未来の道筋を示してくれた。サヴァン症候群もこの系列に位置づけられる病の一つで、知的障害を抱えながらも限られた分野で驚異的な才能を持つと言われる。ずば抜けた計算能力や記憶力、機械操作力、空間認識力、臭覚や味覚や聴覚の識別能力、音楽や絵画の才能など... こうした事例は、自我と正面から対峙した結果生まれる才能であろうし、彼らが陽気な楽観主義者だったとは考えにくい。真の楽観主義者とは、解決の糸口を見つけようと努力する人のことを言うのであろうか。
ある大科学者は言った... 常識とは、十八までに身につけた偏見の塊である... と。自分の才能を極限にまで高められる人たちにとって、社会常識ってやつは、凡人のための防波堤ぐらいにしか映らないのかもしれない。そして、常識人ほど、それを自負する者ほど、狂気を見下す。多数派に属すという安住を拠り所にして、自分自身が集団的狂気に憑かれていることにも気づかないのである。ある確率で遺伝子異常や奇形児を生み出すのは、人類が進化するための必要なリスクであろう。リスクを背負いたくなければ、単細胞生物のままでいることだ。
「人類に与えられた最高の祝福は、狂気によりもたらされた。狂気は神からの贈り物である。」... ソクラテス

2. 選択しないという選択肢
ある人はすゝめる... 結婚する方がいいと。ある人はすゝめる... 結婚しない方がいいと。どちらも後悔するというわけか。「とにかく結婚しなさい。良妻を得れば幸せになれるし、悪妻を得れば哲学者になれる。」とは誰の言葉であったか。バルザックが言ったように、「あらゆる人智の中で結婚に関する知識が一番遅れている。」というのは本当かもしれん...
あらゆる選択肢は、危機感を煽ることによって誘導される。危機感が合理的に働けば、正しい行動へ誘導できるという考え方もある。行動経済学で、ナッジと呼ばれるやつだ。自己存在をちょいと刺激してやれば、人は誘導されやすい。流行に乗り遅れるぞ!などと、ちょいと焦らせるだけで新製品に乗り換える。コンピューティングの脆弱性は、完全には撲滅できないだろう。セキュリティ業界は、自らウィルスをばらまいて危機を煽れば、存在感を維持できる。それは、なにもコンピューティングの世界だけではないし、新しい概念でもない。大昔から、住居には鍵の概念が植え付けられてきた。それは自己の行動範囲を規定するものであって、自己存在に関わる問題である。ロビンソン物語が示す自然状態では、不毛な無人島でさえ、何かに怯えながら縄張りを確保するために柵をこしらえる。古来、生きるために自己の居場所を求めるのは、絶対的な動機であり続けてきた。「自分が何者かは、自分が何を為すかである」とは誰の言葉であったか。実存とは、選択に他ならないというのか。生きる証とは、選択に他ならないというのか。しかしながら、人には選べないものが一つある。選択しないという選択だ。
時間の矢は、いつも無情だ。希望は過剰な期待によって絶望へと招き入れ、過去は片時も休まず未来を抹殺し続ける。行いを悔いたところで、神は、おとといおいで!と嘲笑ってやがる。責任が持てなければ、未来を覗くのにも勇気がいる。運命を知り、一旦絶望したら取り返しがつかない。ただ、絶望よりもタチの悪いものがある。偽りの希望ってやつだ。「絶望とは、絶望的な無知である」とは誰の言葉であったか。もし、希望も絶望も選択しないという中庸の哲学があるとすれば、帰依したい...
「真理をみる必要のない人々にとっては、人生はなんと気楽だろう。」... ロマン・ロラン

2016-01-24

ネガティブ思考のすゝめ

大人どもは、悩んでいる人にもっともらしい事を言う。それは考えすぎだ!と。確かに、手っ取り早く苦痛から逃れ、目先の結果を求めるには、良い助言だろう。
しかし、だ。人間ってやつは、最終的に死へ臨む。その途上、知性の正体はいまだ見えてこない。知識を蓄積するだけでは不十分だというのか... 理性の正体も一向に見えてこない。道徳を学ぶだけでは不十分だというのか... ならば、思いっきり考え過ぎることに、なんの躊躇があろう。自分を正当化することは置いといて、まずは自己の馬鹿さ加減を素直に受け入れることだ。だが凡庸な、いや、凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼には、これがなかなかできないでいる。どう足掻いても、無知の原理からは逃れられないというのに。言葉で説明できるからといって、理解していることにはならない。無意識の領域にまで叩きこまなければ...

精神の持ち主に、悩みを永遠に消し去ることなどできはしない。ならば、積極的に悩みを抱え込んでみてはどうだろう。くだらない悩みを頭から追い払い、より高度な悩みを求める。精神力とは、鈍感力ではない。精神の弱さと正面から向かい合うことに、精神力の源泉がある。芸術家が鑑賞者を魅了できるのも、自己精神を曝け出すからであって、自我と正面から対決した結果であろう。おそらく彼らは、精神病すれすれの状況を生きている。精神病とは、魂のある到達点なのかもしれん...
大衆は排他原理がお好き... 多数派で安住したいがために、自己の優位性を確保したいがために... ならば、大衆から距離を置いてみてはどうだろう。集団から離れれば、変わり者、異端児、非常識、狂人などと馬鹿にされる。だが、パスカルが言ったように、やはり人間とは狂うものらしい。正気と狂気の境界は、精神病棟の鉄格子によって分けられる。それは、異常者を隔離するためのものか?それとも、純真な心の持ち主を保護するためのものか?そして、自分はどちらの側にいるのか?
人間には、自分よりも無知な者を見下す性癖がある。障害者の身体の不自由さには寛容でいられるのに、政治屋の精神の不自由さにムカつくのはなぜか?それは、前者が自分の欠陥を認めているのに対して、後者が自分の欠陥を認めないばかりか、人を蔑むからであろう。ならば、狂気を自覚できるぐらいでちょうどいい。自我の狂気を素直に受け入れ、無知を自覚できれば、楽になれそうだ。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!とは、この道か。なぁ~んだ、ポジティブじゃねぇかぁ...

1. 明かるい鬱病のすゝめ
人間社会には、ポジティブ思考を崇める人が多い。だが、健全な楽観主義は、ポジティブ思考だけでは実現できそうにない。陽気な楽観主義では思考停止に陥るばかり。ならば、最初から最悪の事態を想定しておくのも悪くない。何かあった時に冷静に対処できる心構えは、ネガティブ思考に発する。悲観的に考えるからといって、悲観して生きることにはなるまい。暗示をかけてポジティブ人格を形成するのも、催眠術にかかったようなもので、結局は同じではないか...
いまだ人類は、絶対的な認識能力に到達できないでいる。物事を相対的にしか判断できないのであれば、あらゆる観念は相対的に生じることになり、悲観的な思考を試さなければ、楽観的な思考も知らないことになる。深刻に物事が考えられなければ、ポジティブ思考は単なる浅はかとなり、自我を肥大化せずにはいられない。
したがって、失敗の経験と悲観的思考は、成功への意欲の活力となるはずだ。失敗を貴重な体験とするためには、失敗をとことん分析すること。結論が出ないというところまで徹底的に。物事の本質を見極めようとすれば、悲観論と楽観論の双方において思考すること。そして、失敗によって悲観論で沈むことも、成功によって楽観論で浮かれることも、避けられるだろう。
猛烈に情報が溢れ、分刻みで仕事をこなさなければならない時代では、能率は心の平穏が鍵となる。いいことばかり考え続けることは無理!というより、すぐに飽きる。ネガティブ思考を実践する勇気を持ちたいものだ。明かるい鬱病ってやつを究めるために...

2. 不安のすゝめ
創造という気まぐれは、いつも思いがけぬところからやってくる。最初から自分の創造性を当てにしても仕方がない。実際、創造性が編み出されるまで信じることもできない。始める前から創造性を発揮しなければ成功しないと分かっている仕事は、あまりない。創造性が編み出される瞬間は、仕事を見誤り、その難しさを知り、計画が頓挫した時に訪れる。要するに、やってみなきゃ分からん!ぐらいでちょうどいい。最初から困難な計画を完全に把握していれば、冒険心も不要となり、面白みがなくなる。キリスト教的な教義では、一度も道から外れたことのない正直者よりも、後悔している罪人の方を好むではないか。
人間は、不安を感じるからこそ、創造力を働かし、創意工夫をしようとする。失敗するからこそ別の角度から観察しようとする。成功よりも失敗から学ぶことが多いのも道理である。豊かで便利な社会で創造性を働かせることは、むしろ困難を強いることになろう。不安と逃避は、同じ道ではない。積極的に不安を感じるからこそ、新たな道が開ける。となれば、不安こそ最強の情念となろう。いや、恐怖の方がはるかに上だ!
大惨事や大事故を経験すると、脳の原始的な恐怖発生システムを崩壊させると聞く。フィアレスってやつだ。九死に一生を得るような体験が、恐怖を感じる脳神経系を麻痺させ、恐怖をまるで感じなくさせるという。死を恐れない、いや、死の概念が脳から抹殺されたと言うべきか。それは本当に勇気という類いのものなのか?限界を超えた恐怖の向こうに、いったい何があるというのか?
死を恐れるからこそ生へ執着できるのであって、恐怖だけが危険を遠ざける道となる。生を浪費する人々に死の概念を伝授した哲学者は誰であったか、確か彼はこう言った... 何にもまして有益なのは、死の定めを思うことである... と。
都市には高層ビルが立ち並び、人々はその中に収監される。まるで巨大な墓石群が立ち並ぶように。現代人は、生きながらにして埋葬されているようなものかもしれん...

2016-01-17

責任転嫁社会

女という未知の生命体は、不意打ちに恐ろしいことを言う... 責任とってね!
Facebook をチェックすれば、面識のない女性のステータスが「交際中」とはこれいかに?ハートマークのおまけ付きだ!確かに、コメントを交わした。なにかの拍子にチェックが入ったのか?それとも、わざとか?いずれにせよ、履歴が残れば、本命からの追求は避けられない。仮想化社会とは、実に恐ろしい!責任までも仮想化してしまのだから...
尚、これは、友達の友達から聞いた話である。

人はみな、苦痛、恐怖、不安といった情念を持っている。こうした感覚が麻痺すれば、おそらく進化しないだろう。心頭を滅却すれば火もまた涼し... と言うが、それは鈍感になることを唱えたものではあるまい。修行を積んだ者は、飛び込んできた一の矢を自然に受け入れられるように見える。感性を解放するかのごとく。
しかし、凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼は二の矢を返す。この苦痛はあいつのせいだ!この不安は社会のせいだ!と。この点、三役揃い踏みは責任の所在を曖昧にしながら、巧みに生き延びる術を熟知している。政治屋は権威を右から左へ序列をつけては地位を安泰せしめ、報道屋は情報を右から左へ煽っては存在感を強調し、金融屋は価値を右から左へ流してはサヤ取りに御執心。そして、酔いどれ天の邪鬼も負けじと無責任な文章を右から左へ、まったりと長ったらしく書き続ける...

1. 責任のアウトソーシング
文明社会が高度化すればするほど、利便性という怠惰の代償を払う。社会の利便性が犯罪の利便性を助長すれば、人間は悪知恵をますます高度化させる。そして、悪魔になろうとしているのか?
生物界には、自然環境から育まれてきた危険回避能力というものがある。危険を察知できるからこそ、創意工夫が生まれる。安全で便利すぎる社会が、人間を退化させるのか?これは、シュンペーターが唱えた創造的破壊への道か?彼は、資本主義はその成功によって自滅すると語った。労働効率が高まれば、単位成長当たりの雇用創出は減っていく。これが経済原理というものだ。経済効率が高まれば、人間そのものが不要となり、余剰人口が増殖する。人々は存在の場を失い、精神病棟は活況となる。
高度な情報化社会ともなれば、仮想空間になんでも質問を投げれば、誰かが答えてくれる。そのうち機械が答えてくれるだろう。自分で考えずに済むとは、なんと便利な!そのうち質問の仕方も分からなくなるだろう。知識の豊富な人はそれなりに失敗も経験してきたはず。だから、対応力も応用力も柔軟で、その行動は多彩となる。しかし、そのプロセスを見ようとはせず、結果ばかりを当てにすれば、知識を与えた者のせいにできる。人を当てにする者ほど、人のせいにしながら生きられるという寸法よ。贅沢病が、知らず知らずのうちに人生を不幸に導くゲームを続けさせてしまうのか?まるで麻薬だ。たかがスポーツであっても、アスリートに多大な期待をかけ、ゲームに負けると大罪人のごとく攻め立てる。すべては、あいつが悪い!あいつとは誰だ?誰でもいい。ストレス解消さえできれば...

2. 自動責任
道具は機械にとどまらず、便利に利用できるものすべてが道具とされる。サービスを提供する人が便利な存在ならば、やはり道具とされる。だから、なんでも平然とアウトソーシングできる。育児、教育、介護などすべてを、あるいは道徳観や価値観を、はたまた理性や知性までも、そして文句だけ垂れていればいい。
安全認識もまたアウトソーシングされる。安全に対して普通、公共の交通機関はその運用組織が責任を負い、自家用車は所有者や運転者が責任を負う。しかし、自動車の自動ブレーキシステムってやつは、衝突が回避できると大々的に宣伝される。誰が事故の責任を負うのか?製造者責任は拡散する一方。自動の車なのだから、人間が余計な配慮をすべきではない、といえばそうかもしれない。そして、自動車が危険物だという認識を麻痺させ、運転免許証の意味もなくなり、自家用という所有の概念までも崩壊させる。将来、人間による車の運転は危険すぎる!として禁止されるのかは知らんよ。
これは、依存症社会の始まりか?自己責任、自己管理、自己防衛までもアウトソーシングすれば、自立や自律の精神までも放棄することになる。人間は社会を生きているのか?それとも生かされているのか?と問えば、アリストテレスの「生まれつき奴隷説」も輝いて映る。
とはいえ、自立などと片意地を張らなくてもええじゃないか。幸せになれるなら奴隷も悪くない。そして、責任転嫁の渦と化しても心配はいらない。どうせ誰も責任をとらない。そもそも責任がなんであるかも分からない。究極の責任転嫁は、神のせいにすること。それで人々が救われるならば、神も本望であろう...

3. 専門家崇拝
人のせいにしながら生きている人ほど、プロが運営しているから安心!専門家の意見だから間違いない!などと根拠のない言葉に縋ろうとするものらしい。その根底には、自分だけ楽をしたい!自分だけ損をしたくない!といった願いが込められる。プロが本当に信用できるのか?専門家が本当に当てになるのか?どんな学問分野でも、専門家の間で意見が違うではないか。
そこで、自分自身の専門について、どれほど理解しているかを自問してみればいい。そして、すっかり理解した!と自負する者ほど、他の専門家、すなわち他人を当てにすることになろう。理解することが不可能なほど難しいから専門分野なのであって、もし本当に理解していると言うなら、大した専門性がないということだろう。知識とは奇妙なもので、知れば知るほど、次々に疑問が湧いて出てくる。自分に分からないものは、すべて向こうが悪いと考えて済ませられるのであれば、この世に怖いものはない。夜郎自大とは、この道か...

4. 大衆神話
人間社会には、これといった特徴もなく、社会性もなく、ばらばらな集まりの大衆を金科玉条のように賛美する神話がある。大衆ってやつは、社会的腐敗への反抗の結果生じたものであろう。しかしながら、大衆もまた体臭を放つ。おそらく大衆の危険性は、反抗にあるのではない。反抗は単なる抗議であり、社会参加の一形態と見ることができるからだ。むしろ危険性は、参加能力の欠如の方にありそうである。地位や権威などとは無縁の大衆にとって、社会構造そのものが不合理で不可解な存在であり、時には悪魔にも映る。どんなに合理的な政府であっても、専制独裁政権に映るものだ。要するに、単なる批判対象として、愚痴の矛先として、ストレスの捌け口としての存在である。
したがって、大衆を動かすためには非合理的な言動に訴えることになる。しかも、権力者が変革を約束しさえすれば、意外と素直に従おうとする。既成の社会構造さえ変革してくれるなら、どんなことでも受け入れようと。それ故、権力のために権力を求める煽動政治家の餌食になりやすいという傾向は、民主主義が興盛となった古代ギリシアの時代からあまり変わっていない...

2016-01-10

自動化の罠

人には、分かりやすく、便利なものに群がる性癖がある。新たな知識に出会っては、皮相的に掻い摘み、一人の人物に出会っては、あの人はこういう人だ!と一言で片付ける。そして、いつの時代もハウツー本は盛況ときた。物事を理解するために手っ取り早く抽象化を試みるものの、この抽象化は普遍性には程遠い。人々は、忙しい!と言葉を交す。まるで合言葉のように。「多忙とは、威厳をまとった怠惰に他ならない。」とは、誰の言葉であったか。人はみな、面倒臭がり屋というわけか...
分かりやすい言葉で操る方法論はソフィストの時代から旺盛で、古来、弁論術と呼ばれ、今ではちょいと洒落て、プレゼンテーションなどと呼ばれる。露出狂の政治屋どもは、演説で大衆を酔わせようとしては自己陶酔に浸る。雄弁術ってやつが、自我を肥大化させるのか。それとも、論理の力で相手を打ち負かす詭弁術ってやつが、そうさせるのか。いずれにせよ、大衆を説得する力が民主主義の基調であることは確かである。
やがて、説得する力は人々の使う道具にまで及び、文明ってやつが使い方の分かりやすい道具を追い求めてきた。そして、ことごとく面倒な行為を代替してくれる存在が増殖し、自動化の信仰が始まった。
単純化よ... 凡人がお前に焦がれるのは、面倒臭いからか。天才がお前を徹底的に追求するのは、普遍性に焦がれるからか。なにもかも面倒に感じれば、やがて生きることも面倒になるだろう。人間が人間らしく生きるためには、適度な不便性が必要なのかもしれん...
ソクラテス曰く、「満足は自然の与える富である。贅沢は人間の与える貧困である。」

1. 全自動に翻弄されるオヤジ
トイレは便利...
前に立つだけで、ようこそいらっしゃいませ!ってな具合に便蓋が開き、便座から立つと勝手に流してくれて、おまけに、お尻まで洗ってくれる。オフィスのペーパーレス化が進めば、トイレもペーパーレスになるのか。おかげで、よそで用を足そうとすると、流し忘れるという大罪を犯してしまう。
停電時は大騒ぎ!バケツに水を汲んで流すしか術がない。
健康診断で大便検査の時も悩ましい。せっかく出たものを勝手に流しやがる。
定期的に洗浄までやってくれれば、夜な夜な奇妙な機械音がして、年寄りが騒ぎおる。勘弁してくれ!

風呂も便利...
ボタン一つで沸かしてくれるし、タイマ設定しておけば、毎日同じ時間に沸いている。しかも、温度設定で、いつも快適。だが、栓をし忘れると、たちまちアラームが鳴って、やかましい!年寄りは、ちょっとした不具合に遭遇するとパニックに陥り、警告音が鳴る度にサービスセンターに電話しようとする!システムをリセットする、などという発想があるはずもない。ただ、頭はイニシャライズされるようだ。お湯が足らなかったり、ぬるいと思えば、蛇口をひねればいいだけなのに、もうすっかり昔のやり方までも忘れている。たかがお湯を沸かす機械で、何をそんなに悩まなければならないのか?

エアコンも便利...
自動洗浄機能のおかげで、電源を切ろうにも運転ランプが点滅し、切れない!と年寄りが騒ぎおる。季節の変わり目に霜除自動運転が機能し、運転ランプが数時間続き、これまた壊れたと騒ぐ。勘弁してくれ!

蛇口も便利...
自動水栓ってやつは、蛇口に触れず、手を出すと勝手に水が出る。おかげでガキのオモチャとなり、水道代も馬鹿にならない。

はたまた...
キッチンに行けば、あらゆるものが電子音で共鳴しあっている。ご飯が炊けたら、ぴぃ~ぴぃ~。魚が焼けたら、ぴぃ~ぴぃ~。冷蔵庫を開けっ放しにすれば、ぴぃ~ぴぃ~。やっかましい!
尚、焜炉は、IHクッキングヒーターなどと呼ばれ、ネーミングがちょいと洒落ただけで、年寄りにとっては、もう異次元空間。たかが調理器なのに、難しい顔をして悩んでやがる。

ところで、生物界には、厳しい自然環境から育まれてきた危険回避能力というものがある。安全で、便利で、自動化の蔓延した社会が、人間の応用力を奪い、危険察知能力までも奪うのか...

2. 憧れのロボット社会
労働社会には、人は余っても、必要な人材は不足しているという奇妙な現象がある。そりゃ、富も集中し、格差も生じるだろう。社会は人材の活用法が分からないでいる。大学院卒の優秀な人材が、居酒屋でアルバイトしながら食いつなぐ一方で、就職先がないから大学院に逃げ、学歴だけが量産される。
スペシャリストでは物足りない。ゼネラリストでも物足りない。便利な社会が、ますます高度な人材を要求してくる。もはや安定した職能なんてものは幻想であろうか。この矛盾に対抗するには、自己啓発とスキルアップしかなさそうだ。人間社会は、人の歩みを止めさせようとはしない。常に自己破壊と自己創造を繰り返すよう仕掛けてくる。
機械化が進めば労働手法も変わり、技術進歩が仕事の質を変える。そして、ロボットにとって変わる日も近い。文句一つ言わなければ、労働争議も生じない。理想的な寡黙の労働環境!熟練工などという用語は死語になるのだろうか?
考えるだけでロボットが仕事をしてくれるし、そのうちロボットが考えてくれるだろう。そして、ロボットが支配する奴隷社会となるのだろうか。なぁーに、心配はいらない。支配者がロボットになれば、人間はすべて平等となる。おまけに、人間の労働者が不要となれば、まるでパラダイス!これが、人間の目指す理想社会ってやつか。そして、毎日、朝から酒に溺れるアル中人生。それなら、もう実践してるよ...
やがて人間は、才能溢れるロボットに憧れるだろう。異性ロボットとの不倫問題も法整備する必要がありそうだ。マイクロチップを脳に埋め込み、理想的な身体をプログラムする。自分自身をアップグレードするのも簡単だ。知性も理性もアップグレード。しかも、自動アップデートで常に最高状態が保てるという寸法よ。
しかし、このリスクは大きすぎる。なにしろ巷では、システムを一斉にダウンさせちまうのだから。それは、すでにMS教(= SM狂)によって実証済みだ...

2016-01-03

"7つの習慣" Stephen R. Covey 著

人の言葉に耳を傾けることは難しい。歳を重ねれば、さらに難しくなる。成功者ともなれば尚更だろう。今まで培ってきた習慣を一旦白紙に戻し、再論考に乗り出すような冒険心を持つことは至難の業。
しかし、だ。自分の思考回路を見直す事自体を習慣にしてしまえば、どうであろう。信念をば常に検証の対象としてしまえば。ある大科学者は言った... 常識とは十八までに身につけた偏見の塊である... と。自己を欺瞞していては、自己を形成することができないばかりか、欺瞞している自分にすら気づかない。健全な懐疑心と啓発された利己主義こそが、自立と自律をもたらすであろう。最高の人生哲学を学ぶために、見直しの心得とその継続こそが、死ぬ瞬間まで人格と尊厳を保ちうる道かもしれん。尚、昔の格言に、こんなものがあるそうな。
「思いの種を蒔き、行動を刈り取り、行動の種を蒔いて習慣を刈り取る。習慣の種を蒔き、人格を刈り取り、人格の種を蒔いて人生を刈り取る。」

スティーブン・R・コヴィーが唱える人生の扉を開く習慣とは...
  • 第一の習慣「主体性を発揮する」... 自己責任の原則
  • 第二の習慣「目的を持って始める」... 自己リーダーシップの原則
  • 第三の習慣「重要事項を優先する」... 自己管理の原則
  • 第四の習慣「Win Win を考える」... 人間関係におけるリーダーシップの原則
  • 第五の習慣「理解してから理解される」... 感情移入のコミュニケーションの原則
  • 第六の習慣「相乗効果を発揮する」... 創造的な協力の原則
  • 第七の習慣「刃を研ぐ」... バランスのとれた自己再新再生の原則
大雑把に言えば、人格主義を中心に据えて、最初の三つの習慣で主体性の原則を唱え、次の三つの習慣で相互依存の原則へ昇華させる道筋を示し、最後の習慣ですべての原則を研ぎ澄まし調和を図るというもの。それは、人生を支配する原則が必ず存在するという考えに基づいている。万有引力が自然界を支配するように、人格もまた普遍原則に支配されるというわけだ。
相互依存とは、単なる依存症とは真逆の状態で、主体性や自立性が大前提される。理解、学習、成長を促す信念こそが、相乗効果をもたらすプロセスの始まりであって、単に自由や権利を訴えたり、自己主張を繰り返すだけの行為は、実は依存症に他ならないというわけだ。
まず、自覚の能力があるからこそ、次に想像力、さらに良心、そして自由意志といった能力が連動し、そこに主体性の原則が育まれるという。自分に問いかける能力がなければ、学ぶプロセスも始まらない。そう、質問力ってやつだ。なによりも己を知ろうとする意志に、ソクラテス流の無知の原理が内包される。選択の自由とは、人生の責任を引き受けること。自制を知らぬ者に、依存症と相互依存の違いが分かるはずもない。依存症には攻撃性をともなう。人間には、恐怖に対しては攻撃的に反応し、得体の知れぬものに対しては必要以上に怯える性癖がある。
ところが、互いに自立した者同士が、相互理解によって依存しあえば、建設的な相乗効果が生まれるという。そして、すべての習慣において、P/PC バランスを中心的な概念に据える。それは、「Performance(目標達成)」「Performance Capability(目標達成能力またはそれを可能にする資源)」のバランスのこと。7つの習慣の本当の力は、個々の習慣にあるのではなく、その相互関係にあるという。

「人間は道徳的な真理について考えることができる。感じることもできる。実行しようと決心することさえできる。しかし、そこまで真理を知り、かつ持っていながらも、全く悟っていないということがある。それは意識よりも深いレベルに、私たちの存在、私たちの本質そのものがあるからである。この最後の領域に入り込んでいる真理だけが、私たちの本質の一部分になる。意識のレベルを超えて自然に無意識にできるものだけが、私たちの人生の一部分になる。こうした真理を、単なる所有物として持つことはできない。真理と私たちの間にいささかでも隔たりがあれば、私たちは真理の外にいると言わざるを得ない。命についての思い、感情、あるいは意識的な望みを持つことは、本当の命を持つことではない。本当の命の目的は、神聖になることである。そうなってはじめて、本当の意味で真理を持つことができる。真理は、私たちの外にあらず、中にあらず、私たちが真理であり、真理が私たちなのである。」
... アンリ・フレデリック・アミエル

1. 人格主義と個性主義
現代では、コミュニケーション、プレゼンテーション、自己PR... といったテクニックがもてはやされる。その風潮は、弁論術がもてはやされたソフィストたちの時代からあまり変わらない。もう一つの方法論に、積極かつ前向きに!笑顔が友達をつくる!念ずれば道は開ける!... といった標語めいたものがある。ある種の精神論と言えよう。
こうした応急処置的な態度を、本書は「個性主義」と呼んでいる。対して、誠意、謙虚、誠実、勇気、正義、忍耐、勤勉、節制、黄金律などを求める態度を、「人格主義」と呼んでいる。なにも個性主義のような技術論や方法論が、不要だと言っているのではない。あくまでも二次的なものであって、人格主義こそが一次的なものだということ。そして、もう一つの原則に「人間の尊厳」を加えている。表面的な成功ではなく、真の成功を見つめよ!と。
テクニックだけに集中するということは、学校で詰め込み式の勉強を繰り返し、丸暗記をするようなもの。知識を多く獲得しても知性が得られるわけではない。道徳をどんなに詰め込んでも理性が得られるわけではない。短期的な人間関係では、個性主義を巧みに利用し、相手の趣味にあたかも興味があるふりをしたり、殺し文句や流行り言葉を用いたりすれば、とりあえず良い印象を与えることはできる。だが、長期的な人間関係となると、どうであろう。社会心理学者エーリッヒ・フロムは、個性主義が招いた結果について、こう語ったという。
「現代社会で出会う多くの人々は、まるでロボットのように機械的に振るまい、自分のことを知りもせず理解することもない。唯一知っているのは、社会が要求しているイメージだけである。真のコミュニケーションをもたらす語らいの代わりに意味のないおしゃべりを繰り返し、心からの笑いの代わりに見せかけだけの笑顔をつくり、心底からの痛みの代わりに絶望感しか味わっていない。こうした人間について言えることが二つある。ひとつは、彼らが治療の施しようがないほど自発性と自分らしさの欠乏に悩んでいるということであり、もうひとつは、実質的にほとんど私たちと変わりがないということだ。」

2. 自己リーダーシップと自己マネジメント
リーダーシップとマネジメントは、意外と混同されやすい。前者は成功のために梯子の掛け違いがないかを判断し、後者はその成功を信じていかに梯子を能率よく登るかを問う。いわば、目的論と方法論の違い。
リーダーシップでは、主に右脳を活用するという。それは、技術というより芸術であり、科学というより哲学であると。対して、マネジメントは、主に左脳にかかわるという。それは、効率的な管理と行動の問題である。しかるべき哲学が伴わなければ、行動はそっぽを向く。右でリードし、左で管理せよ!というわけだ。
確かに、チームにおけるリーダーシップの欠如は深刻な問題である。しかし、個人の行動における自己リーダーシップの欠如は、もっと深刻だ。自分自身の価値観や人生の目的を疎かにして、手段としての自己管理や目標達成ばかりを気にするのでは、社会を生きているのか?それとも社会に生かされているのか?
そこで本書は、「ミッション・ステートメントを書け!」と助言してくれる。つまりは、個人の憲法や信条といったものを。激しく変化する社会の中で、自分だけの不変の信念を持ち続けることは難しい。だが、ミッションが明確であれば、主体性を発揮する行動基盤ができるかもしれない。価値観や原則が明らかになれば、自己の可能性や能力を問い、真の選択肢が見えてくるかもしれない。
「人は変わらざる中心がなければ、変化に耐えることができない。変化に対応する能力を高める鍵は、自分は誰なのか、何を大切にしているのかを明確に意識することである。」

3. 依存症と原則中心
依存とは、無意識に何かを中心に考えることであり、様々な形で現れる。家族中心、お金中心、仕事中心、地位や肩書中心、所有物中心、享楽中心、友達や敵中心、宗教中心、そして最も一般的な形が自己中心であろうか。いずれも自己満足に支えられる。不安定な自尊心を守るために、結局は自己正当化に行き着き、単なる自己愛と真の自尊心の違いも区別できない。相手に依存すれば、相手との衝突がすべてとなる。過剰反応、攻撃性、憎悪、嫉妬、逃避... こうした態度すべてがその結果として現れる。強い依存症は、内面の弱さをひたすら隠し、傷つくことを極度に恐れ、自己を守ることに執着する。
本書は、こうした生活態度を、反応中心の生活であると断じ、原則中心の生活を薦めている。原則は死なず!というわけか。災害や犯罪に遭遇しても破壊されることもなければ、流行りや周囲に惑わされることもないという。原則を中心に据えることによって、家族、お金、仕事、所有物、享楽、友達、敵、宗教、自己、配偶者など周りのすべてが、バランスよく見えるようになると。心の垣根を作るのは、相手ではなく、己にあるというわけである。そして、成功者の共通点は、嫌がる感情を目的意識の強さに服従させる力を備えているという。

「終極において、人は人生の意味は何であるかを問うべきではない。むしろ自分が人生に問われていると理解すべきである。一言で言えば、すべての人は人生に問われている。自分の人生の責任を引き受けることによってしか、その問いかけに答えることはできない。」
... ビクター・フランクル

4. 相互依存と相乗効果
「私的成功が公的成功に先立つ!」
自立や主体性は、いわば相乗効果の前菜のようなものか。というのも、相乗効果こそが、原則中心のリーダーシップの本質であり、人生における最も崇高な活動としている。一般的な傾向として、人は自叙伝に照らしてみて、他人のニーズや欲求が分かっていると思い込むことが多いという。
確かに、人は、自分の知覚のレンズを通してしか見ることができない。人を理解するという行為そのものが、極めて主観的と言わねばなるまい。そこには、ぼんやりとした期待像が潜んでいる。誤解や失望の類いは、そうした思惑から生じる。日常に散乱する無意識に生じる期待は、ほとんど言わず語らず、暗黙のうちに芽生える。互いに見返りを求めるのが世の常で、揉め事の大半は互いの期待の相違に端を発する。それゆえ、自立を前提とした相互依存でなければ、信頼も築けないというわけだ。ましてや自己欺瞞では、誠実さの欠片もない。
「相乗効果の本質は、相違点、つまり知的、情緒的、心理的な相違点を尊ぶことである。相違点を尊ぶ鍵は、すべての人は世界をあるがままに見ているのではなく、自分のあるがままに見ているのだということを理解することである。」

5. 豊かさマインドと欠乏マインド
効果的なリーダーシップの習慣は、自分も勝ち、相手も勝つということ、そして、当事者全員が勝つということ。だが、マネージャの成功は、他のマネージャの失敗を意味するという仕組みをつくる組織がある。競争の原理を、協調の原理から遠ざける形で実践する組織が、現実にある。そして、損得勘定に走り、ゼロサムゲームと化す。そのような組織では、成功すれば自分の手柄にし、失敗すれば他人のせいにするような巧みな政治屋が出世する。成功の場面では、ヒーローを無理やりつくり、煽り立てる。
影で人柱となってきた人々が、縁の下の力持ちという存在が、いかに社会を支えていることか。だが、人間社会には、経済的な成功者や目立つ人物を称えるばかりでなく、同時に、一人に責任を押し付ける風潮が共存する。
競争原理が悪いわけではない。直面する問題によっては必要である。だが、持続性においてはどうであろう。長期的な成功を考慮するならば、相互依存において Win - Win が必要だという。それは、5つの柱で支えられるという。「人格」に始まり、「関係」に進み、「合意」がつくられ、さらにそれらを支える「システム」が育まれ、Win - Win の「プロセス」によって達成されると。Win - Win の実現に必要不可欠な人格は、豊かさマインド、すなわち人を満足させることだという。豊かさマインドは、深い内的価値や安定性に支えられた自尊心から生まれる。威信、名誉、利益、権限などを、容易に人と分かち合う奥行きがある人物というわけだ。
対して、欠乏マインドは、他人との比較から得られる反応的な自尊心を持ち、他人の成功は自分の失敗を意味するという。秘かに他人の不幸を望むような嫉妬心の塊というわけだ。そのようなリーダーは、イエスマンやご機嫌とりなど自分より弱い連中で周りを固め、意見の相違を反抗や反発と捉える。
しかし、公的成功とは、他人を負かすことを目的としない。豊かさマインドに富んだ人格者は、テクニックをはるかに超越する力を備えているという。意見の相違に向けられるマイナスのエネルギーを排除し、積極的かつ協力的なエネルギーを生み出し、有効なパートナシップを得ることに向けられると。しかも、Win - Win の実行協定には、人を解放する偉大な力があるという。

6. 内から外への解放
マネジメントの主要概念に、時間管理がある。生きる時間は限られており、重要事項を優先することは、まさに時間との戦いだ。目標を設定するということは、自己の中に義務を植え付けるようなもの。チェックリストや予定表など、ツールがいくら高度化しようとも、ToDo リストは溢れるばかり。惚れっぽい酔いどれは、刺激に対して瞬間的に反応してしまう。刺激と反応の間に、時間を見出せる余裕のある人間になりたいものだが...
では、豊かな感受性と、鋭い洞察力の持ち主であれば、時間を支配することができるだろうか。時間からの解放とは、内面からの解放に他ならない。ただ、言葉で説明できるからといって、本当に分かっていることにはならない。

「神様は心の内側から外側に向けて働きかけるが、この世は外側から内側に向けて働きかける。この世は貧民窟から人々を連れ出そうとするが、主は人々から邪悪や汚れた面を取り去り、自分自身で貧民窟から抜け出られるようにする。この世は環境を変えることによって人間を形成しようとするが、主は人間自体を変え、それによって人間みずからの手で環境を変えられるようにする。この世は人の行動を変えようとするが、主は人の人格を変えることができる。」
... エブラ・タフト・ベンソン