2019-11-24

"道徳の系譜" Friedrich Nietzsche 著

おいらは、「道徳」という言葉が大っ嫌い。「理性」という言葉も大の苦手ときた。道徳の書を読むのは、ある種の拷問だ!道徳を云々するということは、怖じ気もなく自己の傷を曝け出すことにほかならない。いわば、羞恥心との戦い。
では、なにゆえこんなものを。天の邪鬼の性癖が、こいつに向かう衝動を掻き立てやがる。怖いもの見たさってやつか。パスカルは言った... 哲学をばかにすることこそ真に哲学することである... と。書き手が書き手なら読み手も読み手。ニーチェの皮肉ぶりを皮肉って読むのがええ。類は友を呼ぶ... と言うが、負けじと病理に付き合うのがたまらない...
尚、木場深定訳版(岩波文庫)を手に取る。
「人間は余りにも久しく自分の自然的性癖を悪い眼附きで見てきたために、その性癖は人間のうちでついに良心の疚しさと姉妹になってしまった...」

副題には「一つの論駁書」とある。誰を論駁しようというのか。道徳の起源についてはショーペンハウアーと対決し、無価値や虚無といったものに意味を与えたプラトン、スピノザ、ラ・ロシュフーコーを攻撃し、カントの定言命法に至っては見返り命法とも言うべきものを呈示して魅せる。ダンテは恐るべき創意をもって、地獄の門に「われをしもまた永遠の愛は創れり」と刻んだが、ニーチェは大胆な辛辣をもって、キリスト教の天国の門に「われをしもまた永遠の憎悪は創れり」と刻むのである。
ただ、正しく批判できなければ反駁書もつまらない。それは、批判対象者たちの書物を精読していることを意味する。実は、彼らのファンなんじゃないの...
「進め!われらの旧道徳もまた喜劇に属する!」

反感ってやつは、力の余ったところに生じる。反感道徳またしかり。ニーチェはよほど力が有り余っていたと見える。生きようとする意志では満足できず、より高く生きようとする意志。自己保存の衝動から脱皮した自己増大の意図。愛憎の葛藤から卒業した高貴性。こうしたものが力への意志と言わんばかりに...
人間の健忘症は甚だしい。いまだ古代哲学の呪縛に囚われたまま。善と悪の関係は借方と貸方の関係のごとく。道徳上の負債は先送りされ、バランスシートは赤字の一途。ただ、道徳の系譜もさることながら、責任の系譜も歴史は長い。道徳上の責任を誰に押し付けようというのか。ナーダ!ナーダ!
「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲する...」

本書の扉の裏に「最近公にした『善悪の彼岸』を補説し解説するために」とある。「善悪の彼岸」では、善悪の判断能力を持つための高貴性というものが強調されていた(前記事)。賢明な少数派、すなわち高貴な人々にその他大勢の支配を委ねるという形は、哲学者を統治者にするという理想を掲げたプラトンに通ずるものがある。ここでは、人間の高級な型と低級な型の種別がより鮮明となり、支配する側の指導者道徳と従う側の隷属者道徳なるものを説く。
だが、支配欲は人間の本質であり、これから逃れることはできまい。いったい何を支配しようというのか。自己の支配に失敗すれば、他人を支配にかかる。それだけのことかもしれん...

1. 三篇の論文
本書は、三篇の論文で構成される。
第一論文「善と悪、よいとわるい」では、キリスト教的な心理学を論じ、善悪という道徳的判断の起源を暴こうとする。その起源の正体とは、奴隷人間の怨みっぽく悪賢い、反感の精神から生まれた奇形児で、伝統的な支配階級に対する抵抗運動であり、キリスト教的な暴動であったとさ...
「人間に対する恐怖とともに、われわれは人間に対する愛、人間に対する畏敬、人間に対する希望、否、人間に対する意志をさえ失ってしまった。人間を見ることは今ではもう倦怠を感じさせる... これがニヒリスムスでないとすれば、今日のニヒリスムスとは何であるか... われわれは人間に倦み果てているのだ...」

第二論文「負い目、良心の疚しさ、その他」では、良心の心理学を呈示する。世間で良心と呼ばれているものは、人間の内なる神の声なんぞではないという。もはや外に向かって放出することもできない、行き場を失った内向的な、いや、内攻的な残忍性であると。この残忍性の本能を認めようとしないのは、近代社会の軟弱化のためだと断じる。真理への愛のみが、この事実を発見し確信できると...
「残忍なくして祝祭なし。人間の最も古く、かつ最も長い歴史はそう教えている... そして、刑罰にもまたあんなに多くの祝祭的なものが含まれているのだ!... 却って残忍をまだ恥じなかったあの当時の方が、厭世家たちの現れた今日よりも地上の生活は一層明朗であったということを証拠立てようと思う。人間の頭上を覆う天空の暗雲は、人間の人間に対する羞恥の増大に比例してますます拡がってきた。」

第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するか」では、禁欲者の心理学が論じられる。禁欲主義的とは、僧職者的ということである。そして、彼らの理想は、何にもまして有害であり、終末への意志であり、無への意志であると断じる。
とはいえ、僧職者の背後で神が命じているなどと信じられてきた歴史は長い。その由来は、これまでは他に理想がなかったからと、一言で片付ける。競争相手もなく、反対の理想が欠けていただけと。しかし、その反対の理想に対しても、嘆きを憚らない。
「科学は今日あらゆる不平・不信・悔恨・自己蔑視・良心の疚しさの隠れ場所である。...それは無理想そのものの不安であり、大きな愛の欠如に基づく苦しみであり、強いられた満足に対する不満である。おお、今日では科学は何とすべてを蔽い隠していることか!何と多くのものを少なくとも蔽い隠さなくてはならないことか!」

2. 結婚という人生戦略
結婚に関する名言は、枚挙にいとまがない。ソクラテスは言葉を残した... とにかく結婚しなさい。良妻を得れば幸せになれるし、悪妻を得れば哲学者になれる... と。キェルケゴールも負けじと言葉を残した... 結婚。君は結婚しなかったことを悔やむだろう。そして結婚すればやはり悔やむだろう... と。ヘンリー・ルイス・メンケンは断じた... 真の幸せ者は結婚した女と独身の男だけ... と。シリル・コナリーはつぶやいた... 孤独に対する恐怖は、結婚による束縛に対する恐怖よりもはるかに大きいので、俺達はつい結婚しちまうんだ... と。そして、バルザックは指摘した... あらゆる人智の中で結婚に関する知識が一番遅れている... と。
結婚ほど所有の概念と強く結びつくものはないらしい。所有とは支配欲の源か。結婚(けっこん)と血痕(けっこん)が同じ音律なのは、偶然ではなさそうだ。運命の糸が血の色というのも道理か。
さて、ニーチェは、この人生戦略について何を語ってくれるだろう...
「これまで偉大な哲学者たちの誰が結婚したか。ヘーラクレイトス、プラトーン、デカルト、スピノーザ、ライプニッツ、カント、ショーペンハウアー... 彼らは結婚しなかった。のみならず、彼らが結婚する場合を考えることすらできない。結婚した哲学者は喜劇ものだ... これは私の教条である。そして、ソークラテースのあの例外はどうかと言えば... 意地の悪いソークラテースは、わざわざこの教条を証明するために、反語的に結婚したものらしいのだ。」

2019-11-17

"善悪の彼岸" Friedrich Nietzsche 著

古本屋を散歩しながら一冊の扉をちょいと開けてみると、こんな文句が飛び込んできた。酔いどれ天の邪鬼は、こいつにイチコロよ...

「真理が女である、と仮定すれば...、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女(あま)っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠絡されなかったのは確かなことだ...」

善悪の彼岸に立とうとすれば、道徳論と向かい合うことになる。おいらは、道徳ってやつが大の苦手ときた。道徳哲学なんてクソ喰らえ!むしろ、メフィストフェレスに肩入れしたい... などと心の奥で呟いてやがる。しかしながら、ニーチェが語るとなると話は別。天の邪鬼な性分がそうさせるのか...
伝統的な道徳哲学は利己心を退ける。では、啓発された利己心となるとどうであろう。伝統的な宗教は懐疑心を忌み嫌う。では、健全な懐疑心となるとどうであろう。いずれの立場も、愛ってやつを最上級の情念として崇める。ならば、正妻と愛人ではどちらが格上かと問われれば、素直に愛人と答えるさ...
愛の暴走ほど手に負えないものはない。愛は憎しみを生む。肥大化した愛国心が国家を危険に晒してきた。愛情劇が愛憎劇に変貌するのに大して手間はかからない。これが人間社会の掟というものか。ニーチェは利己心を人間の本性として受け入れ、「自分の徳を信じる = 疚しからぬ良心」といったものを定式化して魅せる。愛とは利己心の象徴のようなものか...

副題には、「未来の哲学の序曲」とある。哲学が真理を探求する学問であるなら、善悪のいずれにも立場をとる。そして、その立場は、健全な懐疑心と啓発された利己心によって支えられるであろう。ただし、ニーチェが健全かどうかは知らん。
そもそも健全ってなんだ?常識とやらに囚われた人間で溢れている社会で、健全さをまともに問えば、狂うしかあるまい。
では啓発ってなんだ?自己陶酔の類いか。そもそも私利私欲を知らなくて、道徳が行えるのか。道徳哲学ってやつは、病理学に属すものらしい...
尚、木場深定訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 反対物の信仰
ニーチェは、偉大な形而上学者たちの先入観は、様々な価値の反対物を信仰することにあると攻撃する。攻撃対象は、カント、スピノザ、デカルトたち。真理が誤謬から生じるとすれば、誤謬の能力にも価値が認められよう。真理への意志が迷妄への意志から生じるとすれば、あるいは、無私の行為が私欲から生じるとすれば、それらの行為にも価値が認められよう。だが、ニーチェは、そんなことを夢見るのは阿呆だと吐き捨てる。老カントの定言命法に対しては、見返り命法とでも言いたげに...
また、ニーチェの女性蔑視は周知の通りだが、ここではイギリス人嫌いを披露する。ベーコン、ホッブズ、ヒューム、ロックらを、何ら哲学的な種族ではなく、機械論的な愚劣化であると。彼らに反抗して立ち上がったのがカントだったとさ...
しかしながら、ニーチェの懐疑心こそ、見事に反対物の信仰から編み出されているではないか。その反対物とは、皮肉である。哲学は哲学によって喰い物にされる。そこには共喰いの原理が働く...
「古代の最も立派な奴、プラトーンに、どこからあんな病気が取り憑いたのか。やはりあの悪いソークラテースが彼を堕落させたのか。ソークラテースはやはり青年を堕落に導いたのではあるまいか。だから自ら毒杯を飲まされるに値したのではなかろうか。」

2. 人間畜群
ニーチェが生きた時代は、世界が急速な近代化によって大量生産へ邁進していき、やがて工業力が国力の指標と結びつき、ファシズムや国粋主義を旺盛にしていく時代である。特にドイツでは、リヒャルト・ワーグナーの解釈をめぐっての論争が巻き起こり、歌劇「マイスタージンガー」と民族主義が結びついていく。
ニーチェは、フランス革命以来の民主主義社会の弱点を明るみにする。民主主義運動は、政治機構の頽廃形式だけでなく、人間の頽廃形式であり、集団的退化であると。凡庸人を黙らせよ!と。
民主主義社会の理想は、賢明な少数派がその他大勢を支配する形式であり、結局は畜群本能に帰着するというのか。そうかもしれん。賢明な主人と愚昧な奴隷という構図は、アリストテレスが唱えた「生まれつき奴隷」とやらを彷彿させる。ただ、この主従関係は、従来の封建的な地位や身分の序列や、世襲的な序列などではない。あくまでも賢明な人が支配する形式が望ましいということである。
しかしながら、賢明な人ほど謙遜の意を表明するもので、こと人間社会においては理想と現実があまりに乖離し、理想が高ければ高いほど逆の現象へ引きずり込まれる。実際、政治屋が社会制度を崩壊させ、金融屋が国際規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が国家を危機に陥れ、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。おまけに、彼らを批判する道徳屋はいつも憤慨してやがるし、道徳では心は鎮められないと見える。
そして今、グローバリズムに邁進し、共有という概念が崇められる時代にあって、大衆社会に問われているのは、大衆がいかに賢明な大衆になりうるか、ということであろうが、そう問えば問うほど... 個々で静かに問うしかなさそうか...

3. 高貴な人間
ニーチェは、畜群本能に対して、高貴な人間モデルを提示する。彼に言わせると、自己否定や控え目な謙遜は徳ではなく、むしろ徳の浪費ということである。この手の人種は、自己を価値規定できる能力を持ち、他人から是認されることを必要としないという。
大抵の人は他人に誤解されることを嫌うものだが、それは虚栄心の強さを示している。自己に対して畏敬を持つことができれば、他人の目など気にしないはず。真理の道は遠く、愚鈍な評判なんぞにかまっている暇はあるまい。高貴な人間とは、自己を克服する能力の持ち主ということになろうか。そうした人間を支配階級に据えるという考え方は、プラトンが理想とした哲学者を統治者に据えるという考えに通ずる。プラトンは哲学者を愛智者とした。過去の偉大な哲学者たちを散々こき下ろしておきながら、結局は古典回帰か...

4. 言語のるつぼ
哲学には、伝統的に根本的な問題を抱えいてる。無知を知るという問題が、それである。哲学が表現するものには、形容矛盾が多分に含まれる。いわば、言葉の遊び、いや、言葉のるつぼ。それは、真理ってやつを人間が編み出した言葉で記述するには、限界があるということだろう。
しかしながら、この状況を克服するために、人間の言葉には高等テクニックがある。ある抽象的な存在を、一つの用語で定義しちまうという。そして、その用語を理解した者は誰もいない。実際、人間社会には人間自身が理解できていない用語で溢れている。おそらく、「道徳」という言葉もその類いであろう。「理性」という言葉も、「正義」という言葉も、「愛」という言葉はその最たるもの... だから感情的になれる。なぁーに、心配はいらない。無知、無学、虚偽を知った上で学問の道が開けるというもの。
そして、言葉の呪縛から解放されようと、形而上学が位置づける最上級の意志を覚醒させればいい。それが、ニーチェの言う「自由の意志」ってやつか。やはり「自由」という言葉ほど定義の難しいものはあるまい...

5. 箴言集
本書には、間奏のために、箴言を集めた章がド真ん中に配置される。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この章をメインに読んでいる。ちょいと気に入ったものを拾っておこう...

「認識それ自身のための認識... これは道徳が仕掛ける窮極の陥穽である。これによって人々はもう一度、全く道徳に巻き込まれる。」

「ただ一人の者への愛は一種の野蛮である。それはすべての爾余の者を犠牲にして行なわれるからである。神への愛もまた然り。

「平和な状態にあるとき、好戦的な人間は自己自らに襲いかかる。」

「自分自身を軽蔑する者も、やはり常にその際なお軽蔑者として自分を尊敬する。」

「どうだって?偉人だと?私が見るのは常にただ自分自身の理想を演じる俳優ばかりだ。」

「道徳的現象などというものは全く存在しない、むしろ、ただ現象の道徳的解釈のみが存在する。」

「人間が自分をそう容易に神だと思わないのは、下腹部にその理由がある。」

「賢明な人間にも愚行があることを人々は信じない。何という人権の侵害であろう!」

「悪意のように見える不遜な善意もある。」

2019-11-10

"大衆の反逆" José Ortega y Gasset 著

大衆は臭い!
いくら平等になっても、差別癖は治らない。いくら自由になっても、人のやる事に寛容ではいられない。これはもう人間の本質である。王侯貴族の時代、その他大勢や雑多な輩などと呼ばれてきた人々が意識を共有するようになると、群れをなし、ある種の社会的地位を獲得してきた。世間では大衆と呼ばれ、いまや支配階級の無視できない存在に...
群れるからには、質より量がモノを言う。封建的な残留物を処分しようと人民が蜂起すると、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパ各地に連鎖していった。フランス革命はその象徴的な出来事だが、共和国を掲げながら直ぐさま恐怖政治と化し、ナポレオンの呼び水となった。この事例は、独裁制が危険なことは周知であったが、民主制の暴走も同じくらい危険だということを世に知らしめた。どんなに良い事でも、同じことをやる人間が集まり過ぎると、何かと問題になるのが人間社会。大衆社会は、大衆がいかに賢明な大衆になりうるかという問題を突きつける...

ところで、大衆とは、どのくらいの人が集まると、大衆となるのだろう。この問い掛けは人口問題を暗示している。産業革命に発する技術革新は、人類史上例を見ない人口増殖をもたらした。この増え方は自然に適っているだろうか。なんだかんだいって科学技術が、多くの問題を解決してきたものの。この異常な、いや異様な増殖に対抗するには、人類が地球外生命体へ進化するしかなさそうである。いま、人口減少に転じているのは、人間社会に防衛本能が自然に働いているのかもしれない。そもそも人間が多すぎるのだ。寿命が延びれば、それも自然であろう。
エリートの政策立案者たちは相も変わらず、経済が枯渇すれば消費を煽ることに奔走し、少子化問題に直面すれば子供を産むように働きかけ、もはや目の前の現象をそのままひっくり返すだけの対策しか打ち出せないでいる。どこぞの組織の戦略会議でもよく見かける光景だ。そして、かつて経済学が古臭いとして葬り去ったマルサスの人口論が、今になって再認識させられるのも皮肉である...

ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、大衆と呼ばれる圧倒的多数が奮起してきた現象を、自由主義的デモクラシーと技術進歩という二つの側面から論じる。資本力によって産業が拡大し、豊かさがもたらされると、ブルジョア階級が牽引して情報や知識、そして意識が民衆に浸透していく。封建的な支配者階級が打倒され、次の対立構図は資本家階級と労働者階級ということに。そして、よく論じられる形が、マルクスをはじめとする階級闘争の理論である。
しかし、オルテガは、社会階級という論点に一線を画し、「優れた少数者」「大衆」という二つの人間の型で論じる。優れた少数者とは、自己に多くを要求し、自己啓発に励むタイプをいい、大衆とは、自己に対して特別な要求を持たず、自己実現の努力をなそうとしないタイプをいうらしい。とりあえず、哲学する者と哲学なき者の区別としておこうか。どちらの型に属すにせよ、人間が排除好きな動物であることに変わりはない。大衆は理解の及ばない異物の排除にかかり、小グループは大衆と一緒にすな!と言葉を荒らげる。
こうした論点は、なにも真新しいものではないが、オルテガが生きた時代にいち早く着眼したことに注目したい。彼に言わせると、大衆とは「最大の善と最大の悪をなしうる力にほかならない」という...
尚、桑名一博訳版(白水社)を手に取る。
「現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。...(略)... すべての人と同じでない者、すべての人と同じように考えない者は、締め出される危険にさらされている。」

本書が書かれた時代には、大衆の意志が一気にファシズムに向かった背景がある。我を忘れさせるのにもってこいの方法論が熱狂的な政治と言わんばかりに、扇動者たちが大々的なプロパガンダに励んだ時代。
しかし、言葉を乱用すれば言葉の権威を失い、政治家たちの言葉を安っぽくさせるのは、いつの時代も同じ。人間社会には、どんなに勢いのある流行り事に対しても、そこから距離を置き、沈黙する少数派がいる。その時代には、時流に乗れないとして馬鹿にされながらも、後世、賢明な人々と呼ばれる人たちが。彼らは自己観念が強すぎるから、大衆に馴染めないのかもしれない。偉大な科学者に多いタイプで、コペルニクスやガリレオもそうした人間だったのだろう。
少数派が点在する現象は、まさに21世紀の社会が、そうしした傾向を強めているように見える。ただ、ソーシャルメディアなどのツールを活用して少数派の間でグループを形成し、沈黙せずに済むという特徴も同居している。小グループの成員たちは、それぞれに共通の哲学を育んでいるようである。
インターネットは、情報が誰にでも手に入るという点で、見事に機会均等を実現しているかに見える。しかしながら、情報は向こうからはやってこない。向こうからやってくるのは、テレビ放送のような従来型メディアぐらいなもの。そして、自発的に情報を入手する習慣を身につける者と、向こうからやってくる情報をそのまま受け取るだけの者とに分かれる。この二つの習慣の違いは大きい。大衆の中で意識格差をもたらし、人間社会は、あらゆる思想、思考、意識において二極化していく。放送とは送りっ放しと書く。送りっぱなしであるからには、平均人を扇動するには最も効果的なメディアとなる。
とはいえ、平均人というのが大衆の中にどれぐらいの割合を占めるのだろう。小グループへの分散化が進めば、それぞれに多様化が進み、そのうち大衆よりも少数派の寄せ集めの方が圧倒的多数ということになりそうである。実際、テレビ番組のような従来型の大衆娯楽から視聴者が離れつつある。それでも完全に無くなることはないだろう。受動的なメディアに縋って生きている人たちも少なからずいる。だから多様化なのである。
一方で、これだけ流行っている SNS を嫌う人も珍しくない。ツールを活用する場面の多い技術業界にあっても、共有を嫌う技術者は意外と多い。極端な立場では、コメントは不要!とする人たちもいる。読みたいヤツには読ませ、読みたくないヤツは黙らせろ!と。コメンテータという存在は、視聴率を煽るには最高の俗物となる。
また、情報だけでなく、情報収集の手段も多様化が進み、大勢で群がる手段に固執すれば、やはり大衆に飲み込まれてしまう。大衆に飲み込まれてしまえば、自己の中で健全な懐疑論を唱えるのも難しい。ただ、それに気づかなければ、それが一番幸せ。大衆って臭いわりに、臭さに慣れちまえば、結構居心地がよかったりする。臭いフェチか...
確かに、大衆から距離を置き、炎上騒ぎに巻き込まれないようにする賢明な人々が静かに存在しているのを感じる。人生の意義を日々考えながら生きていれば、大衆に付き合っているほど暇じゃない!と。自己の存在に意味があると考えること自体が人間の思い上がりであろうが、そうでも考えないと苦難を乗り越えることは難しい...
「近代思想が犯している最も重大な誤謬の一つは、社会と協同体を混同することであったが、後者はほぼ前者の逆に位置するものである。社会は、意志の同意によって形成されるものでない。」

では、社会を真に支配する者とは...
支配力といえば、つい権力や武力を思い浮かべてしまうが、オルテガは、ちと違った見方をしている。支配とは、他の力を奪い取ろうとする態度ではなく、力を静かに行使することだという。つまるところ、支配力とは精神力にほかならない、というわけである。
そこで、暗黙の支配力として「世論」という用語が浮き彫りになる。この用語がいつ登場したかは知らんが、これに似た概念は古くからあり、古代の王ですら民衆の心を重視したことが神話となって伝えられる。人間ってやつは、結局は人目を気にしながら生きているということだろう。現在の政治指導者たちは、世論を無視して権力を行使するわけにはいかない。オルテガは、世論が理念や思想といった形而上学的なものを身にまとうことができれば、大衆も捨てたもんじゃない、とかすかに希望を抱く...
「哲学が支配するためには、プラトンが初めに望んだように、哲学者が支配する必要はないし、次に、プラトンがより控え目に望んだように、皇帝が哲学することさえ必要ではない。厳密に言えば、いずれもきわめていまわしいことである。哲学が支配するためには、哲学があればじゅうぶんである。」

2019-11-03

"大学の使命" José Ortega y Gasset 著

古くから、行いの悪さを教育のせいにしたり、行儀の悪さを育ちの悪さとしたりする考えがある。そうした傾向があるのも確かであろう。国民が偉大であるということは、その国の教育制度もまた偉大なのであろう。
しかし、それだけだろうか。どんなに立派な条文を謳ったところで、どんなに立派なスローガンを掲げたところで、形骸化する事例はわんさとある。制度や契約といった取り決めは慣習と結びついて効力を発揮するもので、慣習法の意義がここにある。どんな集団社会にも暗黙の了解といった、なかなか手強い社会規範がある。「空気を読む」という特徴は、なにも日本人固有のものではあるまい。表現の仕方は日本人らしいにしても、集団社会によって読み方が違うだけのことで、主張すべき時に主張しなければ、やはり空気が読めないのである。こうした感覚は、価値観、世界観、人生観の違いとして現れ、長い年月をかけて無意識に慣習化していき、やがて文化として居座る。
「生きた思想、生きた文化は、自己を取り巻く自然的・精神的・歴史的・社会的諸環境との対話においてのみ形成されるとはオルテガの根本思想である。」

注目したいのは、大学の機能の一つとして挙げられる「教養」を文化として捉えている点である。ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、大学を三つの機能で結論づける。一つは、教養(文化)。二つは、専門教育。三つは、科学研究と研究者の養成。近代教育の特徴は、その大部分が科学に発するとし、まず科学の在り方にメスを入れる。だが、危機に瀕しているのは科学ではなく、人間である。専門化が進み、分裂した人間を生きた統一体へと蘇生させること。これが、オルテガの意図するところである。
ここには、当時のスペインの教育事情が透けて見える。ワーテルローで勝利したイギリスや普仏戦争で勝利したドイツを見て、即座にイギリスの中等教育とドイツの高等教育の制度を導入せよ!そうすれば、スペインも偉大な国民性が身につけられる、といった教育論で盛り上がっていく様子が。オルテガは、これに苦言を呈す形で教育論、いや、文化論を展開する。いやいや、酔いどれ天の邪鬼の眼には、古臭い国粋主義的教育論を皮肉っているように映る。まずもって、他国の制度を真似ればいいなどと安易な教育論を持ち出す有識者どもを再教育しろってか...
尚、本書には「大学の使命」、「『人文学研究所』趣意書」の二篇が収録され、井上正訳版(玉川大学出版部)を手に取る。

どこの国でも、社会を先導する大半が大卒や大学院卒の知識層。オルテガは、彼らを「平均人」「近代の野蛮人」などと呼び、以前よりもいっそう博識ではあるが、同時に無教養な専門家に成り下がっていると指摘する。
学問が研究を深めるほど専門性を強めるのは自然の流れであろう。そのために、総合的、統合的な視点を疎かにしがち。ジェネラリストとスペシャリストはどちらが重要かという議論は、現在でもお盛んだ。どちらを目指すかは個人の問題だとしても、偏狭な知識によって社会が先導されるとすれば、やはり問題である。現代社会では、総合的な知識も一つの研究分野として成立しており、その意味では、誰もがスペシャリストということになるのかもしれないが...
教養というものは、人間性とセットで育まれる。そのために、オルテガは一般教養の意義を再認識させようとする。近代の教養が科学的観点を基調とし、その傾向をますます強めているのは確かであろう。主観性の強い人間にとって、学問に客観性を求めなければ、学問の意味そのものを失ってしまう。オルテガは、この傾向を少しばかり弱めて人文学的観点を取り戻そうとしているだけで、科学を蔑んでいるわけではない。それどころか、大学は科学によって生きる!科学は大学の尊厳である!科学は大学の魂である!... とまで言っている。
「もし教養と専門が、たえまなく発酵している科学、つまり探求と接触せずして、大学内で孤立するならば、両者はまもなく麻痺状態に陥り硬直したスコラ学になり終わるであろう。」

そして、五つの教養科目を提示する。
1. 物理学的世界像(物理学)
2. 有機的生命の根本問題(生物学)
3. 人類の歴史的過程(歴史学)
4. 社会生活の構造と機能(社会学)
5. 宇宙のプラン(哲学)。

近代の教育機関は、ガリレオやデカルトたちによって創始された新科学の下で生を授かった。ヒルベルトの時代には、どんな問題でも科学で解決できると信じられたが、20世紀になると行き詰まりを見せる。
おまけに、科学技術が工業生産や大量生産の呼び水となり、これに国力が結びついてファシズムやナショナリズムを旺盛にしていき、平均人の知的底上げが急務となる。
オルテガの大学論は、そんな時代に書かれた。彼の信念には、研究第一主義から教養第一主義への移行が伺える。
「科学者はあらためて人間化されなければならない。」
当時の人文主義者にも苦言を呈す。
「人文主義と呼ばれているものは、つまるところ、文法学者の独裁の謂であった。」

では、これらの知識を総合的な視点から調和させるものとはなんであろう。オルテガは、一つの解決策として理念を持ち出す。そして、真によき医師、よき裁判官、よき技師を育成せよ!社会はよき専門家を必要とする!と。賢明なエリートほど社会にとって有用な存在はないが、愚昧なエリートほど有害な存在もない、と言わんばかりに...
「理念なくしては、われわれは人間的に生きることができない。われわれのなすことは、常に諸理念に依存している。そして生きるとは、あれこれのことをなすということにほかならない。だからインド最古の書物でこういわれた -『あたかも牛車の車輪が牛の蹄に従うごとく、われらの所為はわれらの所信に従う』と。かくいわれる意味 - そのようなものとしてそこには、なんと主知主義的なものは含まれていない - において、われわれはわれわれの理念である。... 教養とは、各時代における諸理念の生きた体系である。」

ところで、理念ってなんだ???
教育機関に何を期待するかは個人の問題としても、そこまで重荷を背負わせるのもどうであろう。本当に重要なのは、大学や大学院を卒業してからの学び方である。実際、教育機関に頼らなくても独学で啓発する人たちがいる。彼らは、自分自身でありたいがために戦い、自己投資や自己実現に励むかに見える。
今、この難解な書を読み終え、疲れ果て、溜息をつき、結局、この言葉に救いを求める他はなさそうである...

「人にものを教えることはできない。できることは、相手のなかにすでにある力を見いだすこと、その手助けである。」
... ガリレオ・ガリレイ