2016-03-27

Pastime ページ追加... Toto's Page 閉鎖にともない

J:COMさんから、WebSpaceサービス終了のお知らせがあった。
終了予定日は、2017年1月31日 とのこと。
てなわけで、本年中(2016年)に、Toto's Page を閉鎖する予定。
廃墟同然のサイトですが、ごく、ごく一部の方にご愛顧頂き、ありがとうございました...

尚、Pastimeページは、ほんのわずかながら訪問者があるようなので、本ブログへお引っ越し。
http://drunkard-diogenes.blogspot.com/p/pastime_10.html
Profileページと他は、ブログネタとかなり重複するので、そのまま永眠させることに...


さて、何事も閉鎖となると、思い入れのようなものが蘇る...
ホームページを初めて公開したのは、1995年頃であろうか。Windows 95 が出回った頃だったように記憶している。HTML のバージョンでいえば、 2.0 あたりであろうか...
おいらのネットとの関わりは、「インターネット」という用語のなかった時代から。その前身は、ARPANET だが、日本では JUNET が研究機関で拡がり、これに参加していた。
接続手段は、専用回線なんて高嶺の花で、電話回線しか選択肢がなかった。転送レートは、1200ボーか、2400ボー。そういえば、ボーなんて単位があった。厳密に言えば、bps と違うのだが、巷ではごっちゃにされていた。やがて 14.4 kbps が登場して、その速さに感動したものである。今とは桁が違いすぎて、歳を感じずにはいられない...
初めてインターネットに繋がった瞬間、職場で歓声が上がったのを覚えている。そういえば、Mosaic ってのがあった。Netscape の前身 NCSA が開発したブラウザで、アダルト画像のモザイクを解除する画期的な技術だと勘違いしたものだ。いや、結果的に勘違いではなかった。ゴホゴホ!
そんな時代に、 100KB を超える Shockwave データを公開したものだから顰蹙を買ったのであった。この動画データの作成には、Director というソフトウェアが必要で、20万円もしたのでボーナスをはたいたのを覚えている。当時は、Macromedia で、今は Adobe。まだ、Flash はなかった。
ところで、Netscapeが登場した当時、ここまでIEが普及するとは誰も想像できなかっただろう。ただ周りには、Chrome派 や FireFox派ばかり、あるいは、Opera派までは見かけるが、IE派をまったく見かけない。ましてや Edge派なんぞ...

ホームページを作るという文化も廃れていくのかもしれない。とはいえ、ブログだって痒いところに手を届かせようと思えば、HTML や JavaScript などのコードを書かざるをえないのだけど...
そろそろ過去を整理せよ!というお告げであろうか...

2016-03-20

"ヨーロッパ文化と日本文化" Luís Fróis 著

実は、「フロイス日本史」に手を出したいのだが、あまりにも大作!このあたりでお茶を濁してみよう...

イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、三十五年もの間、日本で布教活動をし、長崎で生涯を終えた。彼は、信長に謁見して保護を受け、秀吉の伴天連追放令に遭遇して「二十六聖人殉教」の記録を残す。本書は、フロイスが残した「日欧文化比較」の記録であり、その筆は、衣食住、宗教、武具、馬術、演劇など多方面に及ぶ。
西洋人が書いた最古の日本史では、他にもアビラ・ヒロンの「日本王国記」やジョアン・ロドリゲスの「日本教会史」といったものがある。なぜ彼らは、こうも極東の国に興味を持ったのだろうか?宗教的、精神的制圧を目指したのか?いずれ到来する植民地政策への布石か?それとも自民族の優越を知らしめたかったのか?通商的、政治的、宗教的目的があったのは確かであろう。
しかし、人間ってやつは、あまりにも異なる文化を目の当たりにすれば、自然に邪念が払われ、ひたすら興味を持つところがある。英語に、"topsy-turvydom" という言葉があると聞く。さかさま、あべこべ、あるいは混乱といった意味だそうな。幕末明治の頃、日本を訪れた西洋人は、よくこの言葉を使ったという。そもそも喋る言葉からしてさかさま。英語と日本語の文法では目的語と動詞の順番が逆、おまけに日本人は主語を曖昧にする。フロイスの記述にも、西洋人は明瞭な言葉を重んじ、日本人は曖昧な言葉を重んじるとある。四百年以上経った今日でも、意志がまったく正反対に伝わることがよくある。空気が読めない!と馬鹿にして村八分にする風習も、言語と深い関係がありそうだ。
また、感情表現でよく指摘されることがある。西洋人は素直に喜怒哀楽を顔に出すが、日本人は感情を殺して微笑すると。フロイスは、これを「偽りの微笑」と呼び、極めて中庸を得、思慮深いとしている。敵対する相手にすら礼節を重んじ、落ち着いた面持ちで厳粛に振る舞うことに、背筋が凍る思いであったのか。「短慮を特異な方法で抑える」と記しているが、無気味な魔術にでも映ったのか。敬語が複雑に発達すると、当たり障りのないよう間接的な表現が巧みに用いられる。自分で悟らせるように仕向け、それに気づかなければ、あんたが悪い!と言わんばかりに。どうせ気づかないとすれば、明瞭な言葉で指摘する方が合理的であるが、角が立つ!とはよく言われる。こうした感覚は伝統や慣習に根付いたものであって、日本人から見れば、やはりさかさまなのである。

とはいえ、このような古典に触れると、感覚が随分と西洋化していることに気づかされる。実際、昔の日本人が、こんなことを?ほんまかいな?と思わせる記述が随所に見られる。西洋人たちの言行に見慣れていけば、伝統や慣習を打ち破る力が徐々に蓄えられ、そこに合理性を感じれば、無意識に取り入れられる。人類の歴史は、文化の交流と融合から新たな価値観や世界観を構築してきた。ただし、それが真理へ向かっているのかは知らん。
また、異文化人の口から語られることにも意味がある。よく知りもしないくせに!と憤慨する人をよく見かけるが、当人が一番見えていないということは実に多い。しかしながら、人間ってやつは、感情の色メガネを通して物事を見る性癖を持っている。本書にも、いびつな見解が随所に見受けられる。まったく異質な言動は野蛮に見えるもので、日本人の側からも紅毛人や南蛮人と呼んだ。
本書が、安土桃山時代の社会風俗を明らかにする重要な史料であることは間違いあるまい。そして、現代の日本人を見つめなおす上でも、よい機会を与えてくれるだろう。
「彼らの習慣はわれわれの習慣ときわめてかけはなれ、異様で、縁遠いもので、このような文化の開けた、創造力の旺盛な、天賦の知性を備える人々の間に、こんな極端な対照があるとは信じられない。」

1. 容姿風貌と礼儀
西洋人と日本人の体格の違いは、マッカーサーと昭和天皇の会見写真が象徴的であろう。美人の感覚も、歌麿の浮世絵を眺めれば、現代感覚と随分違うことが見て取れる。フロイスは、西洋では大きな目を美しいとするが、日本ではそれを恐ろしいものと考えるとしている。
また、痘痕(あばた)は西洋人には珍しく、日本人には普通のことで、痘瘡で失明する人が多いという。逆に、西洋では瘰癧、結石、痛風、ペストが起こりやすいが、日本ではこの種の病は稀だという。食生活が違えば、病気の傾向も違ってくる。現在では食生活の西洋化が進み、体格も随分よくなった。糖尿病が増加したのも、栄養の摂り過ぎであろうか...
主君に対する礼儀については、西洋人は帽子をとることによって慇懃を示すが、日本人は靴を脱ぐことによって示すという。たとえ戸外であっても、主君の前では草履を脱ぐことが礼儀とされたと。
また、西洋では主君が座ると召使は立ったままでいるが、日本では召使も座るのが礼儀とされる。日本では、目上の人に対して頭の高さや向きが問題視され、現在でも、足を向けて寝られない!と言ったりする。

2. 女性の観念と自由
時代劇では、着物を洗濯する時、足で擦る場面を見かける。フロイスの目にも手を使わないことが滑稽に映ったようである。
さて、日本の女性は処女の純潔を、まったく重んじないという。フリーセックスの時代だったのだろうか?誰が貞操観念を広めたかは知らんが、キリシタンの信仰によって風俗矯正されたとでもいうのか?堕胎は普通で、二十回も堕ろした女性があるほどだとか。更に、生活苦で、嬰児の喉に足をのせて殺してしまうとか。この時代、堕胎や嬰児殺害が盛んだったようである。
また、上流階級の女性については識字率の高さに感服し、女性の自由については意外にも日本の方が解放的だとしている。西洋では夫の許可がないと妻は外出できないが、日本の妻は自由奔放に出かけるとか。抑圧された女性像は、後の江戸時代に形成されていったのだろうか?若い女性でも、混浴に平気に入ってくるような記述がある。映画「将軍 SHOGUN」では、浴場で西洋人に女性がお供する時、裸は見せても心を見せぬのが日本の女性、簡単に心を許してはならぬ、といった場面があり、したたかな女性像を想像してしまう。
化粧法については、西洋の女性は美しく整った眉毛を大事にするが、日本の女性は全部抜いてしまうという。現代感覚でも、おでこに眉毛を書いたり、お歯黒なんてものは気持ち悪く映る。ただ、化粧をするのが女性というのは、西洋も日本も同じ。女性という生き物には変身願望でもあるのか?いや、化け物願望か?どうりで、男性諸君は小悪魔にイチコロよ!
酒の飲み方については、西洋の女性が人前で葡萄酒を飲むことは失礼とされるが、日本の女性はごく普通に酔払うという。ちなみに、おいらの知人では、ほんの少しなら飲めます!と発言する女性で酒が弱かったためしがない。やはり、したたかさは女性の方が上手か...

3. 結婚観と財産分与
キリスト教的な観念では離婚を不名誉とされる。神の前で誓った二人だから、なおさらだ。日本ではそんなことで名誉を失うことはなく、再婚も容易いという。三行半の離縁状を書くのは夫の権利であった。しかし、世間体を気にする男性社会において体裁を人質にとれば、女性の方が強い立場という見方もできるかもしれない。その名残かは知らんが、現在では男の方が三行半を突きつけられた、なんてことを言う。実家に帰らせて頂きます!とは、まさにそれだ。慰謝料を支払うケースも、男性の方が圧倒的に多いようだし。
注目したいのは、夫婦間の財産についての記述である。西洋では夫婦で共有されるが、日本では別々に所有するという。「時には妻が夫に高利で貸付ける。」とまで書いている。鎌倉時代、武家の女性は婚姻の際、化粧料や装束料という名目で所領を与えられたそうな。死後は実家に返すのが通例だったらしい。その頃の夫婦間で財産を別にする慣習が残り、妻の持参田畑は粧田、持参金は敷金、敷銀、敷銭などと言われたそうである。
恋愛といい、財産といい、したたかさは女性の方が一枚も二枚も上手ということであろうか。男性社会などと浮かれている男どもを尻目に、実は、裏で糸を引いていたのは、どちらであったのか...

4. 坊主丸儲け
カトリックの立場から、坊主どもの腐敗堕落ぶりを指摘し、権力者と癒着し、世俗的な利権を求める様子が語られる。財産を私有化し、領主と結んで戦闘員になり、美食や贅沢品を漁り、淫逸に耽り、酒に溺れ、威厳を誇示するために金箔の扇を携行するなどの狂喜沙汰。キリスト教の修道士は医術を心得て、ゼウスへの愛から無料で治療を施すが、坊主らは民衆から金儲けをしているという。しかも権威たっぷりに。信長は、僧侶の堕落ぶりに呆れて、比叡山焼き討ちの暴挙に出たと言われる。
現在では、葬式仏教などと揶揄される。お祈りの価値もお布施の額で決まり、戒名料で死後の世界まで格付けされる。こうした下地は、この時代から受け継がれたものであろうか?
また、悪魔を崇めるような記述まである。「われわれはどんなことにも増して悪魔を嫌い憎んでいるが、坊主らは悪魔を尊敬し崇拝し、悪魔のために寺院を建て、多くの供物を捧げる...」とまで書いている。確かに、闇魔や天狗、風神、雷神など多くの怒りの神が祀られるのだけど。密教の寺院で本尊とされる五大尊明王、すなわち、不動、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉などは、フロイスの目には悪魔の聖像にでも映ったか...

5. 食事と飲酒
西洋人はよく唾を吐き出すが、日本人はよく痰を呑み込むという。内のものを外に出さないのが礼儀。しかし、食事をする時は逆に音を出す。蕎麦やスープを啜る音を豪快に...
さて、西洋の食卓ではテーブルに料理が並べられるが、日本の食卓では畳の上に料理を置くので、お膳という概念がある。
西洋ではパンを手で触れるので、食事の前後で手を洗うが、日本では箸を使うので、手を洗う必要がないという。食事前に手を洗うのが西洋式とは、知らなんだ。日本の貴人夫婦は、一緒に食事をすることは稀で、食卓も別々だという。そして、西洋では片付けは従僕の仕事だが、日本では貴人自ら食卓を片付けるという。
味では、西洋では甘みが好まれ、日本では塩辛さが好まれるとか。特に、日本人は乳製品を嫌うとか。チーズ、バター、骨の髄などは臭いものとされると。確かに、ハンバーガーなどは匂うが、慣れちまったらどうってことはない。
話は脱線するが... マクドナルドが日本に進出してきた頃、ファーストフードの意味を解せず、水も出さないと愚痴る人がいた。日本の食堂では、まずお茶や水を出すのが当たり前。「お通し」の文化も、お節介なおもてなしと言えば、そうかもしれない。しかも代金に入っているし... おっと、話を戻そう。
西洋人は牛を食べるが、日本人は見事に犬を食べるという。まだ肉食の習慣がないと思っていたが、しかも犬???一方で、刺し身などの生魚を食べる習慣を外国人が驚くのは、現在も同じか。
歯を磨くタイミングも違うらしい。西洋では食事の後に磨くが、日本では朝に磨くのが普通だという。どちらが合理的かは一目瞭然。そういえば、朝起きたら顔を洗い、歯を磨く... と子供の頃に言われたものである。
食事中の談話がないことも指摘している。家族団欒という雰囲気も、西洋式なのだろうか?
また、西洋では招待客が礼を述べるが、日本では招待した方が礼を述べるという。訪問客が土産を持参して、つまらないものですが... と挨拶するのも奇妙に映るのだろう。お宅は目が高く、私が見立てたものなどつまらないものでしょうが... という謙遜の意味を込めているが、つまらんものなら、いらんよ!となるのも道理である。言葉ってやつは、受け取る側の気持ちで発するか、差し出す側の気持ちで発するかで、随分とニュアンスが違ってくる。
酒の飲み方にも違いを見せる。西洋では自分の欲する以上に飲まないが、日本ではしつこく勧め合うという。なので、泥酔したり、ゲロしたり... 飲み会に受け継がれる伝統であろうか。

6. 死生観と人命軽視
キリスト教的な観念では自殺が最も重い罪とされるが、日本では切腹が潔い美徳とされ、日本人は死刑執行人になることを誇りにするという。しかも、西洋人は人を殺すことは恐ろしく、牛や犬を殺すことは平気だが、日本人は動物を殺すのを見ると仰天し、人を殺すことは普通である... とまで書いている。下人から無礼を受ければ、斬捨御免!武家社会では、主人が下人を斬ることが認められた。夫が密通の妻妾や、その密夫を殺すことも。門塀を越え、無断で屋内に侵入した者を殺すことも。些細な盗みでも、事由のいかんを問わず殺される。
裁判制度の遅れも指摘している。西洋では、死刑執行の権限や司法権を持っていなければ、人を殺すことができない。そして、人殺しに及んでも正当な理由があれば命は助けられるという。日本には正当防衛という概念すらないというわけだが、んー...
また、剣の切れ具合を試す時でも風習の違いを見せる。西洋人は材木や動物で試すが、日本人は死体で試すという。試斬(ためしぎり)や据物切(すえものぎり)といった言葉を聞くが、当時は死罪人の屍体で試したそうな。江戸時代、将軍の佩刀を試みる時などに厳正な据物切の儀式が行われたという。辻斬ってのもあるが、これも試斬の類いか...

7. 児童教育
日本では、書から技術や知識を学ぶのではなく、全生涯をかけて文字を理解することに費やすと指摘している。まず子供は書くことから始め、後で読むことを習うという。西洋では、喋ることができても、書くことができないということをよく聞くが、日本では珍しい現象かもしれない。
一方で、子供の立居振舞に落ち着きがあり、優雅さを備えることを賞讃している。三歳で箸を使って、自分で食べる様子に感服している。西洋では、青年ですら口上ひとつ伝えられないのに、日本では十歳で、伝える判断と思慮において、五十歳にも見えると。その分、親からの寵愛と温情が薄く、快楽もなく育てられるという。態度を表に出さないことを美徳とする風習が、そう映るのか...

8. 馬術と交通
アラビア馬に比べて、日本の馬は矮小で見劣りするという。身体の体型に合っているとも言える。飼い慣らし方も随分と違うようだ。西洋では、走らせるのに馬の手綱を弛め、留めるのに締め付けるが、日本では、留めるのに弛め、走らせるのに締めるという。そして、西洋の馬は走っていてもピタリと止まるが、日本の馬はひどく暴れるという。西洋では一頭が他の一頭と並んで行くが、日本では一頭が他の馬に後からついていくと。飼い主に似るってか?
さて、街道の整備はわりと進み、左側通行が徹底されていたようである。左側通行の習慣は、刀の鞘がぶつからないようにするためという説があるが、欧米の多くで右側通行で、イギリスだけが左側通行なのは、どういうわけだ?
話は脱線するが.. むかーし、英国車ジャガーが日本で売れないのはなぜか?という調査報告を聞いたことがある。右ハンドルで日本に適合しやすいはずなのに。そして、左ハンドルにした途端に売れるようになったと。要するに、外車というステータスが欲しいのだ。合理性よりも虚栄心が強いのかは知らん... おっと、話を戻そう。
騎士がサーベルを持つ手も、武士の刀と理屈は同じはずである。人口の10%程度が左利きで、この割合は有史以来、一定だと聞く。心臓が左にあるというのも、脳の発達具合がそのような偏りを形成するのか?偏見を持つことの方が自然なのかもしれない。機械など、人間工学に基いて設計されるものすべてが、右利き用に設計されている。マウス、キーボード、電話機など。左利きの人は日常で苦労していると聞く。わざわざ右利きに矯正している人もいる。箸を持つ手など。その点、スポーツなど制約を受けない分野で、身体能力を存分に開放するようである。だから、左利きに天才的なアスリートが多いのだろうか?ちなみに、夜のクラブ活動には、両刀使いというツワモノがいるらしい...

9. 火事と火消し
家を焼き、財産を失えば、大きな悲しみを背負うのが普通であるが、日本人は極めて軽く過ごすという。表情を見せない習慣が、そう映るだけだろう。西洋では、水を持ってかけつけ、隣の家を破壊して被害を最小限に抑えるという。纏なんぞの旗印を振って、火の粉を振り払う様子は不合理に映ったことだろう。はしゃいでいるようにも見えるし、今の日本人にも分かりにくい。フロイスは「風が立ち去るように絶叫する」と記している。

2016-03-13

"名画で読み解く ロマノフ家12の物語" 中野京子 著

名画で読み解く... シリーズ第三弾。相変わらず文章のリズムが肌に合い、ヘタな歴史教科書よりもはるかにイケる!

「絶対君主制はおそらく滅びるべくして滅んだ。」
ハプスブルク家650年、ブルボン家250年に続いて、ロマノフ家300年もまた血塗られた謀略が渦巻く。徳川家250年もまた、全国の大名の力を削ぎ落としながら維持されてきた。難癖をつけてはお家断絶に追い込むというやり方で。政治権力とは、虚栄心、嫉妬心、羞恥心といった人間の最も醜い情念を曝け出しながら、自尊心を傷つけあう世界。愛されるより恐れられる方が、はるかに安全だ... とは誰の言葉であったか。マキャヴェリズムの真髄がここにある。
しかしそれは、絶対君主制固有の問題ではない。人間ってやつは、つくづく歴史に学ばないものらしい。最も高い道徳観念を持つとされる政治屋どもは、自分のことを棚に上げては、ライバルを蹴落とそうと必死。正義漢たっぷりに。ヤジが飛び交う様子は、生徒会や児童会でそっくり再現される。政治討論会こそ、R-18指定すべきかもしれん...

この物語は、ロシア的な特徴を一つ見せてくれる。それは、気味が悪いほどの秘密主義である。水面下で事を運び、公式発表が当てにならないのは、どこの国も似たようなものだが、実は生きている!と亡霊のごとく出現する偽者伝説や、殺しても死なない!といった怪物伝説がすぐに生まれる。アナスターシャ伝説やラスプーチン伝説がそれだ。
しかも、権力者が引きずり降ろされた運命は、罷免や財産没収、国外追放では終わらない。苛烈な拷問、シベリア送り、四肢切断は、妻子や一族にまで及ぶ。誰もが疑心暗鬼に囚われ、寝首を掻かれる前にやっちまえ!
当時のヨーロッパ社会は、科学的知識を中心に据えた啓蒙主義の段階に入っていた。ピョートル大帝は、積極的にヨーロッパ文化や科学を持ち込んだことで知られる。新たな首都サンクト・ペテルブルグでアカデミーを設立し、外国から多くの学者を迎え、その中に数学の巨匠オイラーやベルヌーイ兄弟がいた。
しかしながら、思想面では時代を逆行するかのように、キリスト教的秘密主義よりも怪しい魔術主義を開花させていく。そこには、ロシア固有の事情がある。広大な領土の上に多民族国家で、教育格差や知識格差が大きすぎるほど大きい。民衆を束ねるために、ロシア正教を中心とする思想改革が断行されてきた。いつの時代も、思想弾圧を受けてきた民衆は妙に賢くなるところがあり、本音とは正反対の言葉で表現する術を身につける。反体制を批判するためには、それがどんなものかも語らなければならない。知識人たちは、禁じられた思想を広めるために、まずそれを紹介し、できるだけ説得力のない言葉で貶してみせる。しかも、聴衆がその反対の意図をちゃんと心得ている。こうした構図では、芸術を用いるのが常套手段。ロシア文学、ロシア絵画、ロシア音楽には、皮肉に満ちた絶妙な表現力が溢れている...

1. ロマノフ王朝の開祖
ハプスブルク家の源流がオーストリアではなく、スイスの一豪族であったように、ロマノフ家の始祖もまたロシアの生まれではなかったという。リューリク朝イワン雷帝の時代、移住してきたドイツ貴族コブイラ家が息子の代でコーシュキン家と改め、さらに五代目のロマン・ユーリエヴィチがロマンからロマノフ家に改姓したとか。
イワン雷帝はロシアで正式に戴冠した初めてのツァーリで、王妃にロマン・ユーリエヴィチの娘アナスターシャを迎える。二人の間に三男三女をもうけ、成人したのは次男イワンと三男フョードル。イワン雷帝は、気に入らぬことがあれば長い王杖で殴打する性癖の持ち主。息子イワンの妻が妊娠して略装で現れると、腹を立て杖で殴った。これに息子が怒って直談判すると、父は息子を殺めてしまう。その様子は、「イワン雷帝と息子イワン」イリヤ・レーピン画に描かれる。
三男フョードルは甚だしく知能が低い人物だったそうだが、ツァーリに担がれ、フョードル1世を名乗る。すると、アナスターシャの実家ロマノフ家と、フョードル一世の妃の実家ゴドゥノフ家の権力闘争が始まる。一旦は後者が勝利するが、深刻な飢饉を招き、農民暴動が頻発。その混乱に乗じてポーランドが侵攻してきた。国家の危機に直面した代議士たちは、権力闘争で敗れて修道院に隠棲していたミハイル・ロマノフをツァーリに就ける(1613年)。まだ16歳のミハイルは、何度も固辞したという。野心もカリスマ性もなく、暗殺を恐れたようだ。有力者にしてみれば、無能な王ほど都合がいい。だが、臆病ゆえに賢明に政治を学び、したたかさを身につけ、治世は32年続く。

2. 「フョードシヤ・モロゾワ」ワシーリー・スリコフ画
1672年に起きたフョードシヤ・モロゾワ公爵夫人の逮捕劇の一幕... 一台の馬橇が人混みの中を進む。荷台には高貴な夫人が鉄鎖でつながれているが、青ざめながらも意気軒昂の様子。多くの民衆が悲しみに沈むのに対して、聖職者たちは嘲笑う。
夫人が右手を高らかに掲げ、人差し指と中指を立てると、座った浮浪者風の男が二本指を立てて呼応する。この男は、ユロージヴィ(聖愚者)だという。二代目アレクセイ・ミハイロヴィチは農奴制を法制化し、農民の移動を禁止。そんな中でユロージヴィが増えていったそうな。
アレクセイは権力を拡大し、絶対主義への道を突き進む。宗教界のトップには野心家ニコンを就ける。ロシア正教は、ローマ・カトリックから分裂したギリシャ正教の流れを汲むが、地域教会は土着の信仰や因習と強く結びつき、聖書解釈も儀式もばらばらで、国家宗教としての統一性を欠いていた。総主教ニコンは、宗教改革を断行する。最初は、儀式のやり方を強制するような柔らかいものだったが、徐々に激化し、火炙り刑まで実施される。反対者の多くは下層農民を中心とした素朴な人々で、教会が悪魔に乗っ取られたと信じこみ、集団焼身自殺まで起こったという。フョードシヤ・モロゾワ公爵夫人こそ、下層農民の代弁者というわけである。
アレクセイはニコンを解任。教会権力が増長し、政治にまで介入するようになったからだ。前年1671年には、「ステンカ・ラージンの反乱」勃発。コサックを主導したラージンは、反ツァーリズムと反農奴制を呼びかけ、モスクワへ進軍する。尚、コサックの語源は、トルコ語のカザールだという。ただし、異説もあるらしく、「自由の人」という意味もあるらしい。14世紀以降、下層農民や逃亡奴隷などがロシア南東部に定住したのが始まりとされる。コサックダンスは、勇猛な兵士としての身体能力の高さを誇示する。
ラージンは、ヴォルガ河畔のシンビルスク(現ウリヤノフスク)の要塞で大敗し、赤の広場で四肢切断、斬首。その二百年後、この地にレーニンが生まれる。本名ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ。レーニンは、ラージンの恨みを継いでいたのかは知らん...

3. 「ピョートル大帝の少年時代の逸話」シャルル・フォン・ステュイベン画
母ナタリヤ・ナルイシキナ(故アレクセイ・ミハイロヴィチの後妻)が、息子ピョートルを命がけで守ろうとする一幕... 護衛官の死体や、槍や剣を交える戦士がある中で、十歳の少年は乱入者を敢然と睨みつける。
後に大帝と呼ばれるピョートル1世は、十歳でツァーリの座に就き、すぐに暗殺未遂事件にまきこまれた。順当にフョードル3世が即位したものの、世継ぎを残さぬまま21歳で病死したからである。裏で糸を引いていたのは、フョードル3世の姉ソフィア。男に生まれなかった不運を、摂政になる野望で満たそうと。まだロシアに女帝を容認する下地はないが、自分の肖像入り貨幣を発行するという豪腕の持ち主。ソフィアは、フョードルは病死ではなく、ナルイシキン家の陰謀だと偽り、ピョートルはロマノフ家の血筋ではないと触れ回る。そして、フョードル3世の弟イワン5世を帝位に就かせた。知能に難があり、父帝から「馬鹿のイワン」と呼ばれた人物を。
ピョートルは支持者もろとも田舎に追放されるが、成人すると立場が逆転する。信長が「うつけ」を装ったごとく、私的軍隊を密かに組織していたらしい。反ソフィア派を吸収し、今度はソフィアがノヴォジェーヴィチ女子修道院へ押し込まれる羽目に。ソフィアは、少年の時に殺しておけばよかった!ともらしたとか、もらさなかったとか。
ソフィアを無力化して安心したピョートルは、大使節団を組織してヨーロッパ旅行へ出かけるが、その隙に謀反。ピョートルは、黒幕はソフィアに違いないと、ノヴォジェーヴィチ女子修道院前の広場で首謀者たちを処刑し、彼女の部屋の窓にぶら下げたという。「皇女ソフィア」イリヤ・レーピン画には、彼女の怒りが凄まじい迫力で描かれ、女性には似つかわしくない、豪腕政治家の風格を漂わせる。

4. 「ピョートルと息子」ニコライ・ゲー画
ピョートル大帝は、ヨーロッパに憧れ、技術や文化を積極的に取り入れ、近代化を促進した。だが一方で、容赦しない残酷さを併せ持ち、自分の手で拷問、処刑も平気でやる。それが身内であろうと。十代で政略結婚した妻エヴドキヤも、気に食わぬと離縁しただけでは済まず、修道院へ幽閉。エヴドキヤとの間に生まれたアレクセイは、母親似で、信仰にかたまり、保守派に担がれて近代化に反対する。
そして、1716年、戦地へ赴くと偽り、遁走!激怒したピョートルは、ナポリ潜伏中の彼を捕らえて連れ戻し、尋問する。大男で圧倒的なカリスマ性と抜け目ない政治力を持つピョートル大帝が睨みつければ、アレクセイは目が合わせられない。ひ弱な息子に期待はずれのレッテルを貼り、アレクセイは軍法会議にかけられ、拷問の末、国家反逆罪で死刑判決を受ける。そして、父親の恩赦もなく、ペトロパブロフスク要塞に収容され、まもなく謎の死を遂げた。
ピョートル大帝は、少年期の政権闘争に巻き込まれた苦い記憶や、保守派色の強いモスクワを嫌い、新たな首都建設を計画する。サンクトは「聖」、ペテルは使徒ペテロを意味し、ペテロは英語でピーター、ロシア語でピョートル。サンクト・ペテルブルグは、聖ピョートルの町というわけだ。
尚、この町には、改名の歴史がある。第一次大戦後には、ブルグのドイツ語が問題視され、ロシア語のグラードに改められ、ペトログラードとなる。レーニン時代には、レニングラード。ソ連崩壊後には、再びサンクト・ペテルブルグとなる。
能力重視の官吏登用、都市商人の優遇、製造業による富国強兵、徴兵と秘密警察の制度化など、いっそう中央集権化を進め、農奴制を経済基盤としたロシア絶対主義は、ここに完成する。
さて、ピョートル大帝は、二重人格性を指摘されることが多い。大男なのに小さな部屋で過ごすことを好んだり、お家柄や血筋にこだわらないといった先進的な面を見せたり。また、リヴォニアの貧しい小作人の生まれで、娼婦あがりの娘マルタを、憚ることなく王妃に据えた。寵臣メンシコフの目に止まり、その愛人となった女性で、ピョートルがメンシコフ邸を訪れた時に夢中になったという。しかも、エカテリーナの名を与えた。そう、ロシア初の女帝となる人物だ。
1724年、ペテルブルグ郊外を視察中、増水した川の中洲で船が座礁したのに出くわし、ツァーリ自ら川に入って救出作業を陣頭指揮。このために体調を壊し、世を去る。人命軽視の罪滅ぼしであったのか?いや、わざわざ新品のワイシャツを着て、農作業を手伝って見せるのが政治家の行いというもの。ピョートル大帝の死後、メンシコフはすぐに元愛人を帝位に就けた。女性が国王になることへの抵抗感は、すでに皇女ソフィアが薄めていたようである。

5. 「エリザヴェータ女帝」カルル・ヴァン・ロー画
ロシアっぽさがない、まるでフランス女帝... ヴェルサイユの貴婦人風に美化した肖像画は、さすがルイ15世の首席宮廷画家。1727年、母帝エカテリーナが病死した時、エリザヴェータは18歳。愛らしさと優雅な立ち居振る舞い、流暢なフランス語をあやつる彼女を、両親はヨーロッパ大国の王妃にと考えていたという。ヴェルサイユ・デヴューを果たし、人々から喝采を浴びると、ルイ15世の王妃にと秘密裏に打診するも、音沙汰なし。ルイ15世の結婚相手は元ポーランド王の娘マリー・レクザンスカ。フランスはロシアよりもポーランドを選んだ。ロシアはまだ成り上がりの二流国にすぎないというわけか。
野心家メンシコフは、娘をピョートル2世と婚約させるが、正式に結婚にありつく前に病で寝こむ。その隙に、政敵ドルゴルーコフの策謀によって財産没収、一家シベリア送り。ドルゴルーコフ家は、ミハイル・ロマノフの最初の皇妃を出した家柄で、今度はドルゴルーコフが姪をピョートル2世と婚約させる。だが、これまた結婚式の前に、14歳のツァーリが病死。ドルゴルーコフもまた政敵に捕らえられ、財産没収の上に拷問処刑。
次に帝位に就いたのはアンナ。馬鹿のイワンことイワン5世の娘は、既にクールラント公国(バルト海沿岸部)へ嫁いだ未亡人で、ロシアと縁が切れている。有力者たちは、お飾りが欲しいだけ。だが、馬鹿のイワンの娘は、馬鹿ではなかった。目障りな貴族連をシベリアへ送り、ロシア人は信用ならぬと、多くのドイツ人を重用したという。「アンナの野卑な宮廷」ヴァレリー・ヤコビ画には、彼女の堕落生活を、当時の証言をもとに描いているという。ベッドに横たわって酒を浴び、おべんちゃら連中に囲まれて喜んている様子。アンナが誰よりも嫌ったのはエリザヴェータ。
一方、したたかなエリザヴェータは、皇女ソフィアのように修道院に幽閉されぬよう、静かに機を待っていた。彼女は、独身で三十路を過ぎていたが、ますます美と愛嬌に磨きがかかり、民衆と軍隊に人気を博したという。
帝位はアンナの姪の息子イワン6世が継ぐが、1741年、ついにエリザヴェータを崇拝する近衛軍がクーデターを起こす。ドイツ人を重用したことに反感を持つロシア派も後押し。エリザヴェータは慈悲深さを演じるために、一旦はイワン6世に四肢切断刑を言い渡すが、減刑してシベリア送り。ヨーロッパ風に振るまい、いかに中世風ロシアが腐っているかを世に知らしめる。外交では親仏路線をとり、ポンパドゥール夫人とマリア・テレジアと共にフリードリヒ大王を包囲した。ペチコート作戦である。他には、ロシア大学の開設、本格的な人口調査、銀行開設、拷問禁止など、父帝ピョートルの改革路線を敢行したという。結果的に、フランス王妃になるより、ロシア女帝になって幸せだったかもしれない。

6. 「皇女タラカーノヴァ」コンスタンチン・フラヴィツキー画
薄暗く寒々とした牢獄で、窓は割れて水がなだれこみ、足元にドブネズミが這いまわる。その中で壁によりかかり、絶望する一人のうら若き乙女... その名はタラカーノヴァ、皇女を名乗ってヨーロッパを渡り歩く。ここは、かつてピョートル大帝の息子も放り込まれたペトロパブロフスク要塞監獄。
1777年、ペテルブルグを襲った大洪水で多くの死者を出し、その中に、皇女タラカーノヴァが含まれていたかは分からない。公式発表では、洪水よりも二年も前に病死したことになっている。だが、夫を殺して女帝となったエカテリーナ2世のこと。
タラカーノヴァが忽然とパリに現れたのは、洪水の5年ほど前で、素性をこう明かしたという。亡きエリザヴェータ女帝と愛人ラズモーフスキー伯爵との間の娘である、と。自称皇女はヨーロッパを渡り歩き、その噂は宮廷にまで届く。素性が怪しいとはいえ、皇女という噂は聞き捨てならない。
ところで、エリザヴェータ女帝は、後継者ピョートル3世に幻滅していたという。ドイツ人として育てられ、ロシアを後進国として馬鹿にし、啓蒙君主フリードリヒ大王に心酔する有り様。後にエリザヴェータが急死すると、ペチコート作戦でプロイセンを包囲していたロシア軍を即刻撤退させた。おまけに、天敵フリードリヒ大王から「陛下は我が救世主です」との謝辞をもらう。
それを予感してか、子供の方に期待して王妃選びが始まる。エリザヴェータは父譲りの大柄で、パリのファンションに身をつつむ美貌と貫禄の持ち主。後にエカテリーナの名をもらうことになる少女ゾフィは、正反対に小柄で野暮ったい。エリザヴェータは美女にあからさまに嫉妬するタイプで、むしろ好感を持ったという。しかも、プロテスタントからロシア正教に改宗することにも抵抗しない、忠実な皇太子妃を演じる。
尚、エリザヴェータの母エカテリーナ1世もロシア人ではなかった。エリザヴェータが死ぬと、ピョートル3世は嫌いな王妃を排除しようとするが、エカテリーナの方もこれを察して、長い年月をかけて軍隊を中心に味方を募っていた。そして、わずか半年で王冠を奪う。
18世紀のロシアは女帝の時代。エカテリーナ2世はロマノフ王朝における最後にして最大の女帝であった。彼女自身が異国の女帝であり、片時も出自を忘れず、であればこそ、皇女を名乗る存在が許せなかったのか...

7. 「エカテリーナ2世肖像」ウィギリウス・エリクセン画
世界三大美術館の一つに数えられるエルミタージュ美術館。その基となる所蔵品は、ピョートル大帝がヨーロッパ視察旅行で得た収集品で、更なる拡充はエカテリーナ2世の功績だという。彼女は、ドイツの画商ゴツゴウスキーが売り出した絵画225点を一括購入したとか。フリードリヒ大王のためのコレクションだが、資金ぐりがつかず、横取りした形で。
大量の名画が非文明国ロシアへ運ばれることに、ヨーロッパでは抗議運動が起こったという。ロシアの財力を見せつけた一幕。各地のオークションに目を配り、彫刻、陶器、工芸品など精力的に収集したという。だが、その財力も農奴制に支えられている。エカテリーナ2世の在位は34年の長期に渡り、トルコ戦に勝利して領土を拡大、ソ連時代とほぼ同じ領土を保有した。
一方、ヨーロッパでは啓蒙主義の時代へ突入。女帝には、啓蒙だの、自由だの、国家を弱体化するものに映ったようである。この時代、上流階級と下層階級では、日常使われる言語も生活様式も違い、顔つきまで違う。身分の違う相手を理解することは、不可能なほど隔たりがあり、むしろ他国の王侯たちの方がよく理解できたことだろう。フランス王を守るために、ロシアは、オーストリア、スウェーデン、スペインなどとともに反革命派を支援する。だが、ルイ16世と妃アントワネットはギロチン刑にかけられ、衝撃を受ける。
ところで、エカテリーナ2世の私生活は伝説化しているそうな。「王冠をかぶった娼婦」。愛人は数百人?最新の研究では、21人という噂。そして、こんなジョークが生まれたという。
「1961年、ソ連共産党第二十二回大会は、スターリンの遺体をレーニン廟から叩き出すことにした。スターリンは新たな安息所を求めてさまよう。だが、イワン雷帝はスターリンと並んで寝ることをいやがり、ピョートル大帝もことわった。やっと、だれかが呼んでくれた。"お髭さん、私の横へいらっしゃい"エカテリーナ2世だった。」... 平井吉夫編「スターリン・ジョーク」より

8. 「ロシアからの撤退」ニコラ=トゥサン・シャルレ画
1777年、ネヴァ川の大洪水の年、アレクサンドル1世が誕生し、息子パーヴェル1世に失望していたエカテリーナ2世は狂喜する。かつて自分がエリザヴェータ女帝にされたように、両親のもとから切り離し、自らの監視下で帝王教育を施す。アレクサンドル1世は、目の前の相手を喜ばせ、祖母も父も敬愛していると思い込ませ、政治的に振る舞う術を会得したという。彼が優柔不断と見做されるのは、主義主張の異なる連中を信じこませ、中庸路線をとったからのようである。後年ナポレオンは、自分より8歳年下のロシア皇帝を、こう評したとか。
「才知あふれる性格に何か欠落したところがある... 魅力的だが信用ならぬ偽善者...」
エカテリーナ2世が崩御し、パーヴェル1世が即位すると、アレクサンドルは18歳。父に恭順の意を示す。パーヴェルは母親憎しから二度と女帝が誕生できなくし、プロイセン式厳罰主義を持ち込む。これは軍隊や宮廷から不評を買い、王座に就いて5年で孤立無援。アレクサンドルはクーデターに担がれ、パーヴェルは近衛兵に殺害される。公式発表は、卒中発作。タレーランはこう皮肉ったとか。
「ロシア人というのは、皇帝の死に他の病名をつけられないのかね。」
アレクサンドル1世は、イギリスやプロイセンの対ナポレオン同盟に参加。1805年、ついにアウステルリッツで仏軍と衝突。援軍到着まで静観するようにとのクトゥーゾフの忠告を聞き入れず、初戦で完敗。尚、クトゥーゾフは、トルストイが小説「戦争と平和」で賢者と評価した人物。
翌々年、フリートラントでも惨敗。やむなくナポレオンの講和条約締結の要求に応じる。ティルジット講話条約では、ナポレオンはプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世には興味がなく、ロシアを味方につけたかったという。アレクサンドルはナポレオンと対面し、和気藹々と会談を進めたとか。しかし、平民から成り上がった皇帝と、正統な血筋を誇る皇帝とでは、共通点がない。母宛の手紙には、こう書いたという。
「ナポレオンは天才だが弱点が一つあります。それは虚栄心です。わたしはロシアを救うため自尊心を捨てました。」
一方で、フランス側の交渉人タレーランが水面下で接触してきたという。王政復古を画策して。
「ナポレオンを倒してヨーロッパを救えるのはあなたしかいません。」
1812年、ナポレオンはティルジット条約を破棄し、65万の仏軍が押し寄せてきた。自国を焦土化しながら、じりじりと広大な領土へ引きずり込む戦略に、やがて冬将軍の到来。仏軍は11万にまで減り、クレムリンに入城した時、ロシア軍はもぬけの殻。食料のない厳寒のモスクワで、ナポレオンは降伏文書を携えてくるのを待つが、ついに退去命令を下す。すると、ロシア軍の反撃が始まる。かつての二度の惨敗が、良い教訓になったというわけか。

9. 「アレクサンドル1世」ジョージ・ドウ画
「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたウィーン会議。ナポレオン追放後の、ヨーロッパ地図をどう塗り替えるか?国家の思惑がぶつかりあい、交渉は進まない。1814年の9月18日に開幕し、議定書の締結は翌年の6月9日。毎晩、舞踏会が催され、おまけに、1815年3月、ナポレオンがエルバ島を脱出する。
フランスは敗戦国にもかかわらず、策士タレーランによって悪いのはナポレオン個人だとし、認めさせた。議長を務めるオーストリア外相メッテルニヒは、タレーランに優るとも劣らぬ手強い交渉相手で、ロシアの勢力拡大を阻止せんとする。
対して、アレクサンドル1世は、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と結託し、ポーランドとザクセンを自領にすることを主張。結局、ロシア皇帝がポーランド王を兼ねることで同意する。
当初、ナポレオンを敗走させた立役者としてリーダシップをとったアレクサンドル1世だったが、ナポレオンの脱走劇と、ウェリントンのワーテルローでの勝利で、歴史の印象では存在感は薄い。
結局、ウィーン体制は、従来の王政を互いに尊重しあい、維持しようという談合のようなものであったのだろう。王侯貴族たちは、まだ時代の変化に気づいていない。すなわち、啓蒙主義から培われた自由の風潮と共和制の流れに。自国の安定よりも、他国との王侯関係を重視するとは滑稽である。
また、この時代、スイスが永世中立国になったことも注目したい。ヨーロッパは自らの器の中に、誰もが自由に発言できる場の必要性を痛感したということか。こうした性質の国は、歴史的に話し合いの場としても活用されてきた。ただし、中立を宣言すればいいというものではない。権威や自立性を具えていなければ。実際、宣言しても侵略される事例は少なくない。
アレクサンドル1世は啓蒙主義と科学の時代を受け入れたものの、神秘主義に心酔していく。国政は軍人アラクチェーエフに丸投げ。このアラクチェーエフの支配が最悪で、秘密警察は強化され、検閲制度は厳しさを増し、神の摂理を重んじないとして医学論文は焼かれ、大学の自治は奪われ、国民生活の隅々まで監視したという。プーシキンに言わせると、「悪念と復讐欲の塊で、知性も感情も高潔さもない... 全ロシアの迫害者...」
特筆すべきは、「屯田制度」だという。人間心理を無視した実験であったとか。屯田地に兵士を住まわせ、同じ形の家と軍服と食料が支給される。軍事訓練は農作業を兼ね、上官の命令で一斉に軍隊式歩行で畑まで行進し、全員同じ動きで鋤をふるう。家で休む時の椅子の座り方まで規定されたとか。近隣の女性が妻としてあてがわれ、一定の頻度で男児を産むよう命令される。子ができなければ罰金。このような強制好きな指導者は、いつの時代にもいるものだが、人間の隠された性癖なのだろう。
1825年、アレクサンドル1世は王妃をともなってアゾフ海北東岸のタガンロークを視察中、原因不明の高熱で逝去。遺体が二千キロも離れた僻地からペテルブルグに到着した時は傷みが酷く、公開されるべき棺の蓋は閉まったままだったという。そのために、実は生きている!という噂が。十年後、クジミーチと名乗る背の高い立派な老人が現れたという。だが、どこから来たか記憶がない。シベリアへ送られた老人は、歴史や聖書など知識が高く、どんな相談事にも適切な忠告を与え、尊敬を集めたという。やがてアレクサンドル1世の仮の姿という噂が広まり、聖人とされ、話を聞きに大勢の人が訪れる。そして、世を去ると、墓は巡礼地になったという。死後、人気を博す専制君主も珍しい。

10. 「ヴォルガの舟曳き」イリヤ・レーピン画
十人ぐらいの舟曳き人夫は幅広いベルトを体に巻きつけ、船を引っ張る。遠くに蒸気船が見え、既に帆船の時代は終わっているが、農奴も、逃亡奴隷も、貧民も、人間という動力源は捨てるほどある。これは、当時の諺だそうな。
「借金が払えなえればヴォルガ川へ行くはめになる。」
アレクサンドル1世の後継は弟ニコライ1世、徹底した専制君主と恐怖政治で最も暗い時代と言われる。1825年、「デカブリストの乱」は農奴制度や奴隷制度に対する蜂起。このためにニコライ1世はより硬化したようだ。さらに知識人の抑圧、自由思想の弾圧を強化、大学の自治を掠奪... 彼のサディスティックな一面として、ドストエフスキーのエピソードがある。
27歳の新進気鋭の作家ドストエフスキーは、社会主義サークルに入会したとの理由で逮捕され、死刑を言い渡された。銃殺隊を前にして死を覚悟した時、早馬に乗ってきた使者が恩赦を告げたという逸話は、シュテファン・ツヴァイクの「人類の星の時間」にも描写される。減刑でシベリア送りとなるが、実はニコライ1世が仕組んだ演出で、最初から流刑に決まっていたらしい。自由気ままな作家を懲らしめるためか?あるいは、温情のあるところを知らしめるためか?若い政治犯や、少しでも自由主義を標榜した学生が大量に流刑され、シベリア開発に従事させられた時代である。
また、国民全体の識字率の向上、知識レベルの向上も、この時代に見られるようだ。文学では、ツルゲーネフ、ゴーゴリー、ドストエフスキー、トルストイ... 音楽では、ムソルグスキー、ボロディン、チャイコフスキー... 絵画では、クラムスコイ、スリコフ、レービンと錚々たる名があがる。
ニコライ1世は、正教徒の保護を口実にトルコを攻める。ナイチンゲールが活躍したことでも知られるクリミア戦争は、マスコミが積極的に加担した最初の戦争とも言われる。ナショナリズムという思想概念が広まり始めたのも、この頃であろうか。世論を煽り立てるという手法が旺盛となっていくが、こうした社会現象が啓蒙主義の時代と重なるのも偶然ではあるまい。
ロシア皇帝がトルコを手始めに全ヨーロッパの専制君主になろうとしている、と大々的なキャンペーンを展開すれば、ヨーロッパ中で世論を味方に資金や志願兵を増やす。ロシア産業の遅れも露呈し、黒海の海戦では蒸気を動力とする連合艦隊の敵ではなく、フランス、イギリス、サルディニア王国がトルコに味方して敗北し、黒海を失う。敗戦の半年前、1855年、ニコライ1世は既に病死。
戦後処理は、嫡男アレクサンドル2世に委ねられ、父とは反対に「解放皇帝」と呼ばれたという。クリミア戦争の教訓は、産業を育成し工業化すること。そのために土地に縛りつけた農奴を解放して、工業生産に向かわせる。解放とはいっても、向かう先が土地から工場になるだけ。結局、地主から放り出されて大量の失業者を出し、発令から3年で農民一揆が起こり、軍隊に鎮圧されるたびに政府への憎しみが蓄積していく。
また、皇帝暗殺未遂も繰り返され、アレクサンドル2世は伯父アレクサンドル1世と同様、自閉していく。数々の改革が、専制君主制とは合致しえないことに、未だ気づかないでいる。いや、気づいていたから絶望し、閉じこもったのか。1881年、馬車に爆弾が投げ込まれて死去。アレクサンドル2世は、当時の国民には憎まれたが、司法制度や教育制度を改善し、女性に学問の道を開いたとか。警察機構の改革、産業の育成、農業から工業への転換を図り、息子アレクサンドル3世はその路線を継承したという。

11. 「ハリストス 復活」山下りん画
ロマノフ物語に、なぜ日本人が?そういえば、神田にニコライ堂ってのがある。建設当時、ニコライ皇太子が高額の寄付をしたそうな。山下りんは工部美術学校へ入学し、女性第一号の学生の一人だという。彼女は正教会の推薦で、ペテルブルグで修行させてもらう。女性に学問の道を開いたアレクサンドル2世のおかげか。
アレクサンドル2世の暗殺事件では、山下りんはホテルの部屋で爆発音を聞いたことを手紙に残しているという。そして、アレクサンドル2世の孫ニコライ皇太子のために、イコン(聖画像)を描くことに。イコンの語源は、イメージ、表象。ハリストは、キリストのロシア語読み。ヨーロッパでは、聖書を理解するための宗教画、ひいては芸術作品としての宗教画という意味合いがある。
ところが、正教では、まったく異なり、崇拝の対象で、時には奇蹟も起こすと信じられていたという。しかも、オリジナルであれ、コピーであれ、印刷物であれ、そこに差はないとされるとか。
当時、ロシアのイコン制作には二筋の対立する流れがあったという。もともとギリシア由来で、はじめビザンチン風の非リアルで平板な描法が続き、ピョートル大帝が多くのヨーロッパ絵画を購入して以来、遠近法や立体表現を駆使した近代的イコンへと変化する。しかし、19世紀後半、ロシア回帰とともに、古典的イコンの方が写実的イコンより崇高とされたようだ。山下りんが目指したのは写実的な方で、信仰心が薄いと指弾されたという。
さて、ニコライ皇太子が来日したのは、22歳の時。1890年秋にペテルブルグを出航し、地中海からインド、中国をまわり、長崎に入港しのは、1891年4月。鹿児島、神戸、京都、大津、東京をまわり、ウラジオストックでシベリア鉄道の起工式に出席する予定だったという。
そして、「大津事件」に遭遇。警察官の津田三蔵に斬りつけられた暗殺未遂事件である。なぜ津田は斬りつけたのか?アゾフ号という軍艦でやってきたことで、侵略のための偵察などと新聞はロシアの危険性を煽る。来日して、すぐに天皇に謁見しなかったことも、無礼だと憤慨したという。ロシアからどんな難題をつきつけられるか日本中が震撼するが、その対応は迅速で、天皇自ら京都のホテルへ見舞い、神戸まで同じ列車で見送ったという。津田は、死刑を免れ無期懲役を言い渡される。この裁判事例は、政府の要求を司法が阻んだ事例としても有名だそうな。
ニコライ皇太子は上京する予定だったが、事件のために早々に切り上げて帰国。イコン「ハリスト 復活」は、神田のニコライ堂に贈呈されるはずだったとか。イコンはアゾフ号へ郵送され、ニコライ2世は、山下りんのイコンを気に入り、居間に飾ったという。神田のニコライ堂にも山下りんの作品が飾られていたそうだが、残念ながら関東大震災で失われたそうな。

12. 「皇帝ニコライ2世」ボリス・クストーディエフ画
ヨーロッパ美術は、何世紀もかけて、ルネサンス、バロック、ロココ、新古典主義、ロマン主義、写実主義、印象派と変化してきた。一方、ロシアではかなり遅れた上に突然押し寄せてきたために、流儀が混沌としていたようである。
19世紀後半、ロシア・アカデミーの主流を占めたのは写実主義だったそうだが、この肖像画はちと異質。平面的で、色彩がカラフルでありながら陽気に見えないのは、ラストエンペラーとなる運命を匂わせているのか?
父アレクサンドル3世は、暗殺を恐れ、王宮ではなく、ガッチナ離宮で半ば隠遁生活を送る。この時代は比較的平穏で、有能な側近ウィッテの経済政策が奏功し、ロマノフ家は世界有数の大富豪となる。アレクサンドル3世は、アルコール摂取過多による腎臓病を悪化させ、五十前に逝去。彼は歴代ツァーリと違い、愛妾を持たず、夫婦仲はよく、家族を人一倍大切にしたという。また、デンマーク王女だった母マリア・フョードロヴナも、子供たちをよく育て、家族の太陽のような存在だったという。
ニコライ2世は、大事に育てられたせいか、マザコンが抜けない様子。そんな彼が、母に逆らったのはただの一回、妃選び。ヘッセン大公の娘アリックスと反対を押し切って結婚し、アレクサンドラ王妃となる。彼女の母はヴィクトリア女王の次女で、問題はこの長命女王が血友病の遺伝子を保有していた。血友病は、男児にのみ発現する病で、ニコライの母はこれを危惧する。
ところで、ニコライ2世は、大津事件のために日露戦争を決めた、という説がある。それは、ウィッテの自伝にそう書いてあるためだそうだが、ニコライの日記には、むしろ日本贔屓のことが書かれているという。清潔で、事件後も親切に接してくれたことを。国家元首になろうかという人物の日記に、本音が書かかれるとは限らないが。日露協調路線のウィッテには、ニコライが説得に応じず、好戦派にひきずられていく様子がそう見えたのか?解任される愚挙に反感を持ったのか?いずれにせよ、戦争やむなしという機運は国内情勢の悪化のためであり、やがてロシア革命として噴出する。
宮廷では暗殺事件が続き、ゼネストやポブロム、すなわち、革命派による労働運動やユダヤ人に対する集団的迫害が頻発する。国内問題における政府の責任逃れで、国外へ意識を向けるのは政治家の常套手段。
一方、ウィッテの失脚は日本の親露派にも衝撃を与え、日本でも若い将校を中心に開戦派が勢いづいたという。好戦派ってやつは、よもや負けるとは考えない。ロシアの惨敗は、帝政打倒の声を大きくさせた。
終戦前から不満は高まり、1904年には内相が暗殺。1905年には叔父セルゲイ大公が暗殺。この年に「血の日曜日事件」。労働者による皇宮へのデモ行進は、十万もの群衆となり、軍隊と衝突して数百人もの死者を出す。「戦艦ポチョムキン事件」もこの年。前代未聞の水平の反乱である。ニコライ2世は、父に輪をかけたマイホーム主義。国事よりも家族を優先し、長期休暇に明け暮れる始末。待望のアレクセイ皇太子が生まれたのが1904年だが、母が心配したように血友病の遺伝子を受け継いでいた。この呪われた家族に、怪僧が忍び寄る...

13. 「ラスプーチン」クロカーチェヴァ・エレーナ・ニカンドロヴナ画
犯罪捜査では、写真よりも似顔絵の方が効果を発揮するという。怪しげな怪僧ぶりに、無気味な存在感。ロマノフ王朝物語のトリを飾るのが、怪僧伝説というのも、なんともロシア的である。
グリゴリー・ラスプーチンは、シベリアの寒村出身。無教養な農夫で、字もほとんど書けなかったという。苦行層となったのは30歳頃。初期はユロージヴィと見做され、やがて未来を予知し、大勢の病気を治し、霊能者として上流階級でもてはやされることに。
ニコライの日記には、神のごとく人間と書かれるという。だが、皇帝に謁見する前からアレクサンドラ妃の信頼を得ていた。医者が匙を投げた皇太子の病を、ラスプーチンは祈祷によって救ったのである。催眠術に長け、プラシーボ(擬薬)効果に似た治療を施したと伝えられる。
ニコライはラスプーチンに政治的な助言を求めるようになり、家族の一員のように休暇旅行にも同行する。政治に口を出せば、反ラスプーチン派が集う。秘密警察が、彼の淫蕩、酒乱、収賄の事実を暴いたが、皇帝夫妻は斥ける。かくして、怪僧がアレクサンドラ妃のベッドに潜り込みヒステリー治療を施すという噂が流れ、エクスタシーを与えることから巨根伝説も生まれた。
ラスプーチン暗殺未遂は何度も浮上する。青酸カリ入りの菓子を振る舞っても平気で食べ続けるやら、毒入り酒でも平気で飲み干すやら。挙句の果てに、銃弾が左胸に命中して、死後硬直を確認するも、しばらくすると死体は消えていて、這いずって逃げようとしていたやら。さらに銃乱射で、動かなくなったところを何度も棍棒で殴って、完全に殺して袋詰にしてネヴァ川へ投げ捨てたやら。それでも、遺骸が上がった翌日、袋の紐は解かれ、肺には水がたまっていたとか。つまり、川へ投げ捨てられた時にはまだ生きていたことになる。
さて、ニコライの意を受けた首相ストルイピンは、1906年から一年間だけで千人以上もの処刑を敢行したために、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれたそうな。ストルイピンもまた数年後に暗殺される。
1909年頃から、ニコライは、異常なまでの長期休暇をとり始める。家族総出で四ヶ月のクリミア旅行や、妃と二人で三ヶ月のドイツ旅行など。1914年にも贅沢な休暇、オーストリアがセルビアに宣戦布告した年に。ニコライ2世は新たな意欲に掻き立てられる。戦争こそが国内の敵から逃れる唯一の手段と言わんばかりに。バルカン半島におけるロシアの影響力を維持するために、セルビアを見捨てるわけにはいかない。これにドイツが意を唱え、参戦が連鎖。第一次大戦である。この戦争で、ハプスブルク家、ロマノフ家、ホーエンツォレルン家、オスマン家の四王朝が幕を引くことになる。
1917年、ついにロシア革命。王家は、生き残る限り、叩いても叩いても、亡霊のごとく復活する。ボルシェビキは皇帝一家を抹殺。地下室で銃殺した後、身元が分からぬよう顔に硫酸がかけられて森に埋められたという。公式発表では、皇帝だけを処刑し、妻子は安全な場所に移したとされるが、信じる者はほとんどいない。
そして、1920年頃、実は生きていた... 「アナスターシャ伝説」だ。ベルリンの精神病院で、記憶喪失者として収容された若い女は、自分は処刑を免れて脱走したアナスターシャだと言い出すと、騒がれ映画化もされる。ちなみに、アナスターシャは、ラテン語で再生を意味するそうな...

2016-03-06

"ルネサンス彫刻家建築家列伝" Giorgio Vasari 著

「ルネサンス画人伝」、「続 ルネサンス画人伝」に続いて、言葉で美術を語り尽くす手腕に魅せられる。厳密に言えば、翻訳者のテクニックにであろうが、原文が素晴らしいからこそ!と勝手に納得している。

1550年、ジョルジョ・ヴァザーリは、ルネサンス期の美術を伝える壮大なヴィジョンを遺した。それは「画家・彫刻家・建築家列伝」と題され、13世紀後半から、絵画ではチマブーエとジョットによって、彫刻ではニコラとジョヴァンニ・ピサーノ父子によって、建築ではアルノルフォ・ディ・カンビオによって、再生されたという認識に基づいている。トスカーナ地方、とりわけフィレンツェに芸術家たちが登場しはじめた時代、政治的、経済的に急成長を遂げたフィレンツェでは、画期的な都市計画が推進された。人口増加にともない、1173 - 75年、1258年の二度に渡って市壁の大幅な拡張工事を行い、さらに、1284 - 1333年に、従来の都市面積の七倍近くに当たる最後の市壁「第六市壁」を建設。政治的にはギルド主導の共和政権セコンド・ポーポロが成立し、文芸的にはダンテの時代。イタリア美術が都市建設と深く結びついていることが伺える。教会堂や公共建築物、彫刻モニュメントや壁画、あるいは家具や工芸品に至るまで...
芸術家の個人個人が、そのような共通の意識を持っていたかは分からない。ただ、都市という一つの芸術空間において、造形的な複合体を形成し、ある種の有機体組織の中に自然に組み込まれていった、ということは言えるかもしれない。芸術家たちが都市計画の一員となって、ルネサンスという歴史の記念碑を築き上げたと。
ちなみに、ガウディは自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画者になって、建築はあらゆる芸術の総合であり、建築家のみが総合的芸術作品を完成することができるとした...
「いつの時代であれ、彫刻家が優れた仕事をしなかったときに絵画芸術も栄えたことはなく、よく観察してみれば、あらゆる時代の作品がこのことを証明している。」

しかしながら、このような輝かしい時代を築き上げるためには、下積みの時代を必要としたはず。大聖堂のファザードを飾るがごとく、輝かしい時代を迎え入れる無名の芸術家たちが人柱となって...
ヴァザーリは、時代を少し遡ると、数多くの重要建築物に建築家の名を見出すことができないと振り返る。シチリアのモンレアーレ修道院聖堂、ナポリ司教館、パヴィーアのカルトゥジオ会修道院、ミラノ大聖堂、ボローニャのサン・ピエトロ聖堂やサン・ペトロニオ聖堂など...
「この時代の人々の気のきかなさと栄誉欲の希薄さに驚きの念を禁じえない...」
だが、その後の展開は、より高尚な精神の持ち主たちが出現することに。まるで進化論的な突然変異のごとく、底辺を支えてきた持続的なエネルギーが、一気に万能人たちを開花させる。民衆たちの崇拝の結集と、天才たちの高尚な自由精神の融合... こうした総合力こそが、ルネサンスというものであろうか。けして皮相的な技術や上っ面の魂を、金儲けに結びつけた結果ではなさそうだ。
しかし、歴史ってやつは、いつの時代も経済的に、政治的に成功したものを讃え続ける。壮大なヴィジョンを創案した建築家その人よりも、権力の下でそれを建てるよう命じた者が脚光を浴びる。僭主によって芸術が見出されるとは、なんと皮肉であろう。僭主は民衆を支配しようとし、芸術は精神を支配しようとする。手段が違うだけで、やっていることは同じ!と言えばそうかもしれない。芸術は、死にゆく肉体の儚さと、永遠の魂の信仰の対比に支えられている。これと対置して、俗界には銅像になりたがる政治屋がなんと多いことか。やがて記憶の対象は人物から建造物へ移り、噂が噂を呼び、評判そのものが独り歩きを始める。まさに人類の遺産!遺産とは、人物そのものよりも、残された作品にこそ意味があるのであろう...

1. 万能者の資質
ヴァザーリが紹介する天才たちの中に、画家であり、彫刻家であり、建築家であり、詩人であり、音楽の才まで魅せつけれる事例は珍しくない。彼らの頭の中には分野やカテゴリーなどという概念はないようである。真理の探求という崇高な動機が、そうさせるのか?いや、精神を純粋なまま解放し、ひたすら興味あるものに邁進する... だたそれだけのことかもしれん。
「一芸に秀でた才能ある人物が他の芸をも容易に習得することは珍しくないし、それが本来の職業に近く、いわば同じ源泉に発するものであれば、とりわけ容易である。」

尚、本書には、27人の芸術家が紹介される...
アルノルフォ・ディ・カンビオ、ニコラおよびジョヴァンニ・ピサーノ、アンドレーア・ピサーノ、アンドレーア・オルカーニャ、ヤーコポ・デルラ・クエルチャ、ルーカ・デルラ・ロッピア、ロレンツォ・ギベルティ、ブルネルレスキ、ナンニ・ディ・バンコ、ドナテルロ、ミケロッツオ・ミケロッツィ、アントーニオおよびベルナルド・ロッセルリーノ、フィラレーテ、ベネデット・ダ・マイアーノ、アルベルティ、デジデーリオ・ダ・セッティニャーノ、ミーノ・ダ・フィエーゾレ、ヴェルロッキオ、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ、ブラマンテ、ジュリアーノおよびアントーニオ・ダ・サンガルロ、アントーニオ・ダ・サンガルロ・イル・ジョーヴァネ、ヤーコポ・サンソヴィーノ、レオーネ・レオーニ。

2. 建築論のはじまり
12世紀、フィレンツェで始まった建築ラッシュも、16世紀になると、都市建設の中心舞台は法王都市ローマへ移る。かつて栄華を誇った古代ローマ帝国の首都は、アヴィニョン捕囚などで著しく衰退し、人口減少で悩まされていたという。そこで、ヴァチカン主導の下、全キリスト世界の中心という立場を誇示した帝都復興事業が始まる。教皇ユリウス二世は、ジュリアーノ・ダ・サンガルロ、ブラマンテ、ミケランジェロ、ラファエロなどの芸術家を呼び集め、今度はローマが盛期ルネサンス芸術とバロック芸術の中心となる。中でも、最も重要な役割を担ったのがブラマンテだという。建築総監督の地位に就いた彼は、「コンスタンティヌス大帝のバシリカの上にパンテオンを建てる」という壮大な構想と、「ギリシア十字形プラン」に基いて工事に着手したとか。巨大建築複合体構想だ。
とはいえ、中世には建築家という概念は、まだなかったようである。建築活動は石工頭に統率された石工集団による仕事とされてきたが、15世紀になると、石工や建築職人の中から芸術と結びついた専門的な知識人が現れる。そして、画家や彫刻家が建築家として活動するためには、遠近法、数学、古代建築などの知識を身につける必要があった。都市計画では、建築景観を含めた総合的な美的センスが問われる。
やがて、数々の建築論が登場する。15世紀には、アントニオ・フィラレーテの「建築論」、ただし、ヴァザーリは、これを荒唐無稽な書と激しく非難している。他には、フランチェスコ・ディ・ジョルジョの「世俗および軍事建築論」、16世紀には、セバスティアーノ・セルリオの「建築論」、アンドレーア・パルラーディオの「建築四書」、ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラの「建築の五つのオーダー」などを挙げている。古典主義建築のボキャブラリーと文法が体系化されていった時代としても興味深く、「建築家 = 芸術家」の図式はルネサンス期の特徴と言えそうである。
そもそも建築物は、絵画芸術と違って、一人で達成しうる仕事ではない。設計と計画は一人でやったとしても、総合的な仕事、つまりはチームの仕事!建築家の意志に反して生前に完成しないものもあれば、建築家の遺言とともに後に完成を見るだけでも幸運で、構想が壮大すぎて未だ完成を見ないものまである。まさに世代を超えたチーム!
しかしながら、創始者の意志が後世に受け継がれるとは限らない。世界遺産といった看板に眼がくらみ、観光名所の餌食にされることもしばしば。真の遺産は、大衆の目に晒すべきではないのかもしれん。シャングリ・ラのような聖域を...

3. 芸術と学問の調和
天才たちの勉学の進め方は、まずもって優れた作品の模倣から始まる。赤子が母親の仕草を見よう見真似で始めるように。偉大な芸術作品こそが、福音書というわけだ。その徹底した模倣研究が、やがて余人にはけして真似できない個性を開花させる。となると、いかに多くの優れた作品に触れられるかが問われる。だが、中途半端な模倣では、猿マネに終わる。師匠と弟子の個性の競合と融合から次世代を担う個性を開花させる、とすれば、やはり人類の遺産なのである。
芸術は、学問の助けを借りて、より完全に、より豊かになる。おそらく幾何学や物理学を重んじない建築家はいないだろう。おそらく自然を重んじない芸術家はいないだろう。だからこそ、直観がものをいう芸術に身を置きながらも、遠近法、透視画法、建築学、物理学、幾何学などの理論研究に没頭できる。芸術と学問の調和は、まさに自然の姿に相応しい...
「学問はそれに親しむ芸術家たちに遍く大きな利益をもたらすが、とりわけそれは、制作されるあらゆる作品に着想の糸口を与えるゆえに、彫刻家、画家そして建築家にとってきわめて有益である。たとえ、芸術家がどれほど天与の資質をもっていても、良き学問を身につけることによってそれを補うことをしなければ、一人の人間が完璧な判断をもつことは不可能であろう。建物の立地を考える場合、疾病をもたらす風の危険や健康に悪い空気、不潔でむかつくような水から立ちのぼる蒸気や悪臭を、経験知に照らして避ける必要があることを知らない人がいるだろうか。また、いかなることを実行しようとするにせよ、実践が伴わなければ往々にして役に立たない他人の理論の恩恵をあてにせず、自らの熟慮にもとづき、独力でそれらを活用しうるか否かを判断できねばならないことを、知らない人がいるだろうか。しかし、もし理論と実践がうまくひとつに融合すれば、われわれの生活にとってこれ以上有益なことはない。」