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2019-12-29

"スイスの凄い競争力" R. James Breiding 著

原題 "SWISS MADE: The untold story behind Switzerland's success."
そこには、アメリカンドリームに遜色ない成功物語の数々。いや、気質においては、むしろ地道な勤勉性を武器に... 流行技術に惑わされない千里眼を自然に身にまとっているかのように...
スイスも、日本も、天然資源の乏しい国。険しい山々に囲まれながらも優れた輸送システムや鉄道システムを構築し、なによりも几帳面さを誇る国民性に親しみを感じずにはいられない。多くのニッチな部門で世界的な地位を獲得してきたのはギルド魂の顕れか、日本のモノづくりを支える金型産業などに垣間見る職人魂に通ずるものがある。

しかしながら、決定的な違いは自立性であろうか。つまりは生き方である。スイス株式会社と日本株式会社とでは、性格も随分と違うようだ。行政だけでなく企業体も、なにかと中央の意向を伺うムラ社会に対して、大きな政府を嫌い、中央集権化を嫌い、連邦国家として自治独立の道を歩んできた。結束力によって西欧列強国と渡り合った日本に対し、自立中立を誇示して大国を撥ね付けたスイス。小国でありながら自立性が堅持できたのも、アルプスという地形的要素がある。とはいえ、小国は大国より弱い立場にあり、結束力を欠いてはサクセスストーリーも長続きしない。
本書は、地政学的な視点からスイス国民に育まれてきた自立性と開放性、これに起業家精神を結びつけて、スイス経済の強み、すなわち、Swiss Made の強さを物語ってくれる。ここには、文化的使命感もなければ、スイス流イデオロギーも見当たらない。あるのは人権尊重ぐらいなもの。それだけで充分ということか...
尚、北川和子訳版(日経BP社)を手に取る。
「同規模の国で、スイスのように比較的平等に報酬を分配する一方で、高水準の可処分所得を達成している国はない。スイスに近い規模の国でさえ、これほど多くの産業で主要な地位を維持してはいない。先進国のどの国も、多額の債務によって未来の世代に負担を負わせ、年金や医療費に対する幻想を抱かせている。国民一人ひとりがこれほど力を持ち、その声の重みを確信している国はない。ほとんどの西側の民主主義国において、政治家や公共部門に対する世論がこれ以上ないほど厳しい時代にあって、スイスの統治制度の有効性は、成功のための強力な指標である。」

中世の貧しい山国の最初の輸出品は傭兵だったという。勤勉で忠誠心の強いスイス人は、ヨーロッパ各地の戦争に引き出された。ちなみに、バチカン市国の衛兵も伝統的にスイス傭兵が務めているらしい。それが現在では、スウォッチ、オメガ、ロレックスといった時計ブランド、ネスレ、リンツといった食品ブランド、UBS、クレディ・スイス、チューリッヒ・インシュアランスといった金融ブランド、エフ・ホフマン・ラ・ロシュ、ノバルティス、ロンザといった医療品ブランドなど、世界的なブランドを多く生み出している。
これらのブランドの発明者の多くが、迫害から逃れてきた移民や亡命者、そして、その子孫だという。つまりは、もともと培われてきた自立性と外国籍に対する開放性の融合が、この国の原動力というわけである。スイス人にも気づかない気質が移民たちに受け継がれ、富の創造者としての開かれた道を提供する。土着の文化はどっしりと居座り、むしろ外国籍の人々によって強化されていく。これは日本人が最も見習うべき気質かもしれない。少子化問題で騒いでいる昨今、片言の日本語しか喋れない日本人がいてなんの不都合があろう。押しつけなければ守れない文化なら廃れるしかあるまい...

ハンニバルのアルプス越えは英雄伝説として語り継がれるが、この自然の要砦が各地の交流を妨げ、自立性を育んできた。とはいえ、ヨーロッパのド真ん中に位置し、政治野望のためにここを通らないわけにはいかない。軍隊や商人が、この中間点に荷物や財産をちょいと預けるだけで利子が稼げる。古代ローマ時代から資産管理が資産を生み、金融業を発達させてきた。
注目したいのは、政治や宗教によって迫害された人々の避難場所として機能してきたことである。ユダヤ人やユグノーなどがヨーロッパ中から押し寄せ、自立性を保ちながらも彼らを受け入れる土地柄は、グローバリズムの先駆者を見る思い。グローバリズムとは、全体的な画一化を言うのではなく、多様なローカルの調和を言うのであろう。その根底に人権尊重がある。
レーニンなどの政治亡命者が、この地を活動拠点としたことは周知の通り。ヒトラーの野望にも屈せず、独立精神を堅持してきたスイス国民は、二十世紀にはすでに EU 懐疑論をくすぶらせ、EFTA(欧州自由貿易連合)を選択した。今、ポンドを保有するイギリスがブレグジットで騒いでいるさなか、スイスフランに威厳を感じずにはいられない。
一方で、金融システムの守秘義務が各国からの干渉を退け、王侯や独裁者たちの財産の隠れ蓑になったり、マネーロンダリングといった闇取引の恩恵にもなってきた。国際色豊かな人材、文化、政治の通路は、自立と自律のバランスが問われてきたお国柄とも言えよう...

ところで、スイス連邦国家は、古代ギリシア時代の個性ある都市国家群を彷彿させる。世界経済フォーラムではダボスが存在感を示し、国際決済銀行ではバーゼルが金融の目を光らせ、国際連合の多くの専門機関がジュネーヴに置かれ、多くのスポーツや芸術団体がチューリッヒを拠点とする。
ただ、バーゼルの住人を一つとっても、チューリヒやベルンやジュネーブに対してあまり一体感を見せない。それぞれの連邦で法人税率の安さを競えば、多国籍企業の呼び水となる。だが、法人税率だけが魅力ではあるまい。
スイスは中立国だが、無抵抗主義ではない。しっかりと国民軍を保有し、政府は「民間防衛」の書を国民に配布している、と聞く。戦争の放棄と国防軍の放棄では意味するものがまったく違う。自立と自由の精神という気質こそが、この国の強みであり、もはや、スイスという国そのものがブランドなのである...

2019-12-22

"現代ファイナンス論" Zvi Bodie & Robert C. Merton 著

なにを血迷ったか!こんなものを手にして...
ツヴィ・ボディとロバート・C・マートンは、MIT大学院時代から優れたチームとして讃えられたという。1997年、マートンはマイロン・ショールズとともにノーベル経済学賞を受賞。あのオプション評価モデルとして名高いブラック・ショールズ方程式によって...
しかしながら、このノーベル賞のスターらが結成した LTCM は、自らの破綻によって悪名を留めてしまう。世界規模の金融危機の裏舞台では、いつもデリバティブの評価理論がウォール街を席巻してきた。先物、オプション、スワップと... 要するに、経済学の理論は、価値評価と価値交換の方法論で、だいたい説明がつくというわけか。経済という用語は、「経世済民... 世を經(おさ)め、民を済(すく)う」という意味に発すると、聞いていたが...
そしてそれは、比較にならないほどの大規模なリーマンショックによって再現されることになる。おかげで、この酔いどれ天の邪鬼にとっての経済学は、最も敬遠すべき学問分野となったのだった...
とはいえ、世界がお金で動いていることは、紛れもない事実。現在、年金運営や資産運用を自己管理する必要があり、ファイナンス理論に無知でいるわけにはいかない。本書を懐疑的に眺めながらも、教科書として参考にしてみる分には悪くない。教科書ってやつは、万能な処方箋ではないのだから。それに、サミュエルソン学派がそんなに悪いとも思えないし、それどころか大作「サムエルソン経済学」には幾分世話になっている。
ここでは、こう定義される。
「ファイナンスとは、時間軸上において、希少資源をどのように分配するかを研究する学問である。」

おそらく、人間社会のようなカオス系において万能な方法論なんてものは存在しまい。仮に存在したとしても、人間の能力でそれを見極めることはできまい。AI なら見極めるかもしれんが...
どんなに優れた方法論をもってしても、同じ考え方を持つ者ばかりが集まると全く機能しなくなる。ゼロサムゲームでは尚更。ことお金となると、人間には一つの成功例に群がる習性がある。光に集まってくる昆虫や、太陽に向かって伸びる草木のように...
しかも、当分は儲けることができるため、群衆はそれを崇めるようになる。経済学で決まって唱えられるのが「利益の最大化」ってやつだ。本書にも登場する。では、利益ってなんだ?ダーウィンは、なにも弱肉強食を唱えたわけではあるまい。種が共存するためには、多様性こそが鍵だとしたのではあるまいか。種の分岐とは、いわば生き残る智慧である。市場でも、多種多様な欲望が集まれば機能するのであろうが...
その処方箋として、客観性を強めるための数学的方法論が悪いとは思わない。イールドカーブを眺めるにしても、社会学的な視点から興味深いものがある。実際、福利厚生、年金、生命保険など、あらゆる社会的制度が数理統計学によって成り立っている。ただし、万能薬として崇められた時、非常に危険となる。
偏微分方程式の基本的な思考法に、想定しうる変数を微分形式の総和で構成するという考え方がある。ブラック・ショールズ方程式もその一つで、ここでは五つの変数で構成される様子と、そのうち四つの変数が直接観察できる形で解説してくれる。株価、行使価格、無リスク金利、オプション満期などがその変数である。こうした思考法には連続関数が前提されているために、アトラクタのような現象に陥るとまったく機能しなくなる。物理学風に言えば、ブラックホールに遭遇すればあらゆる力学系が無力化するってことだ。これは、微分方程式が抱えいてる根本的な性質である。同じ方法論に取り憑かれた人間が市場に群れるということは、まさにそうした状況にある。
したがって、問題は、数学的方法論にあるのではなく、これを用いる人間の側にあるということになろう。デリバティブに限らず、価値評価の問題は価値観の多様化とともに永遠につきまとうであろう...

ファイナンシャルプランニングで資産運用の話題になると、必然的にリスク分散や分散投資といった考えに及ぶ。税金、投資、不動産、教育、相続、老後など、こうした話でファイナンシャルプランナーの言葉を鵜呑みにするような生き方は避けたいものである。
さて、分散投資における戦略は、個人的にはポートフォリオ理論に落ち着いている。おいらには、最も保守的なインデックス戦略で充分。ただし本書は、ポートフォリオ選択の戦略で万人に通用するものはない!と警告している。現実的には、数学的な方法論を用いながらも、手探りで経験的に構築することになろう。いずれにせよバランスシートが読めないようでは話にならない。
ちなみに、西欧の会計システムは宗教との結びつきが強く、神への貸し借り報告書としてバランスシートを書くことに義務の意識が働くようである。先進国と呼ばれる国々で、自分自身のバランスシートも書けないのは日本のサラリーマンぐらいなものであろうか...

また、投機の心理学も避けるわけにはいくまい。投機家は、自らリスク・エクスポージャーを増やして利益の最大化を目指す。逆にヘッジングは、リスク・エクスポージャーを減らすことによって利益を守ろうとする。本来はそうした役割分担があるが、現実には、同一人物や同一機関が投機家とヘッジングの両方を演じる。ヘッジングは、インシュアリングとも違う。インシュアリングでは、前もってプレミアムを支払って損失を回避する。プレミア'とは、保険や信用保証やオプション契約など。
リスクをヘッジすれば、損失を被る可能性を軽減できるが、同時に利益を得る機会を犠牲にする。逆にインシュアリングは、プレミアを支払っているために利益を得る機会を犠牲にしない。こうしたリスク分散や分散投資といった保守的な戦略は、しばしば利益の最大化と相反する。
そして、LTCM の行動パターンが透けてくる。なるほど、本書は反省の書であったか...
ところで、この手の書にきまって登場するのが「サヤ取り」の話だが、本書には、なぜか用語すら見当たらない。ただ、うまい表現を見つけた...
「一物一価の法則とは、競争的市場においては、2つの資産が同じであれば、価格も同じになることをいう。一物一価の法則は裁定(arbitrage)によって実現される。裁定とは、同一の資産間の価格差を発見し利益を得ようとする動きをいう。」

2019-12-15

"境界を生きた女たち" Natalie Zemon Davis 著

歴史学者ナタリー・ゼーモン・デーヴィスは、16 - 17世紀のフランスの宗教生活、民衆文化、ジェンダー研究が専門だそうな。おいらは、彼女にちょっぴり首っ丈...
まず、著作「贈与の文化史」では、贈与行為の心理学といった側面から人間社会の根本原理のようなものを語ってくれた(前々記事)。
次に、著作「歴史叙述としての映画」では、存在の記録すら残されない奴隷という身分を通して、それを描写する映画の可能性、いや、歴史における映画の役割というものを問い掛けた(前記事)。
贈与に限らず言葉や財の交換という手段をもって社会的な存在位置を確認しようという行為も、映画に限らず詩作や芸術活動という手段をもって感情的に印象づけようとする行為も、古代から集団社会に馴染んできた。こうした当たり前の行動パターンを新たな概念として掘り起こす彼女のセンスは、文化史の考古学者とでも言おうか。そして、こいつで三冊目...

原題 "Women on the Margins: Three Seventeenth-Century Lives."
ここでは、17世紀を生きた三人の女性が主役。その名は、ユダヤ商人グリックル、修道女受肉のマリ、博物画家メーリアン。記録によると、彼女らの関係にまったく接点はないらしい。共通点は生きた時代と、三人とも専門的な知識を有したこと、熟練した会計士でもあり財の行き来を念入りに記録したこと、難事を乗り切るために迅速に決断して持てる技能を遺憾なく発揮したこと、そして、自身の教訓を自伝に遺したことである。
男社会にあって男勝りの生き様、彼女らのジェンダーの域を超えた生涯はフェミニストなんて安っぽい表現では足りない。印象的なのは、三人がそれぞれにユダヤ教徒、カトリック教徒、プロテスタントだということである。ヨーロッパのキリスト教世界を生き抜いたユダヤ商人、アメリカンインディアンを改宗させるために苦悩した英雄的修道女、植物や昆虫と対話した風変わりな自然主義画家という構図は、ユダヤ教とキリスト教の対立に未開人を加え、異文化を受け止めるための途方もない寛容さといったものを突きつける。
そして物語は、接点がまったくないはずの三人が、それぞれに自分自身に思いをめぐらせながら会話する形で始まる。場所は、理想の地。時代は、1994年。登場人物は、六十過ぎの四人の女。四人目はデーヴィスそのひとである。似たような三人の人間像に対して第四の目を配置することで、純粋に宗教的立場の違いを観察できるという寸法よ。このような設定はプラトンの対話篇を観る思いである...
尚、長谷川まゆ帆 + 北原恵 + 坂本宏訳版(平凡社)を手に取る。

ところで、西欧の会計システムは宗教との結びつきが強い。それは、神への貸し借り報告書として。このような文化圏では、自分自身のバランスシートを書くことに、義務という意識が働くようである。無神論者を蔑視する伝統的な態度も、こうした意識との関係がありそうか。先進国と呼ばれる国々で、自分自身のバランスシートも書けないのは日本のサラリーマンぐらいなものであろうか。だから、消費税のような目先の税金に目くじらを立てることぐらいしか思いが寄らないのだろうか...
三人とも、道徳的な教訓を残そうと自伝の書き手になったことも、神への義務を果たそうとする意識からであろうか。
とはいえ、会計スキャンダルは西欧にも横行する。道徳をひたすら神の意志に委ねるのは危険であろう。そもそも、人間ごときに神の意志を解することができると考えることが、神を冒涜していることにならないのか。神との問答とは、自己との問答にほかならない。それ以上のことを人間に何ができよう。それでも、生身の人間に超自然的な自己を求め、成熟度を図ろうという変人ぶりにも共感できる。
そして、神から与えられた受肉は、宗派が違うというだけで骨肉の争いへ。神に看取られていると信じることができれば、人はなんでもやる。やはりパスカルが言ったように、人間とは狂うものらしい。彼はこうも言った... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。

2019-12-08

"歴史叙述としての映画 - 描かれた奴隷たち" Natalie Zemon Davis 著

歴史家ナタリー・ゼーモン・デーヴィスは、贈与行為の心理学といった側面から人間社会の原理のようなものを語ってくれた(前記事)。アリストテレス風に... 人間は社会的動物... と表現するならば、そこにはなんらかの交換行為が育まれる。言葉の交換しかり、 財の交換しかり... 贈与とは実に古くからある慣習で、当たり前過ぎるほど集団社会に馴染んできた。しかし、これを新たな概念として掘り起こす彼女のセンスは、おいらに新たな視点を与えてくれる。贈与の経済学という視点を...
ここでは、五つの映画作品「スパルタカス」,「ケマダの戦い」,「天国の晩餐」,「アミスタッド」,「ビラヴド」を題材とし、歴史上言葉を発する機会を与えられなかった奴隷という身分に焦点を当てる。そして、こう問いかけるのである。
「過去を有意義かつ正確に描こうとするとき、映画にはどのような可能性があるだろうか...」
尚、中條献訳版(岩波書店)を手に取る。

世界を語る... という行為は数千年前から受け継がれ、さまざまな手段が編み出されてきた。詩、小説、新聞のコラム、ネット配信など。今や映画はその一手段として君臨しているが、その歴史はすこぶる浅い。デーヴィスは、これを感情的なジャンルとしてホメロスの時代から受け継がれる詩作と重ねて魅せる。
ヘロドトスやトゥキュディデスは叙述文体を詩文から散文へと移行させ、歴史をいかに厳密に記述するかを問うた。ホメロスのような偉大な詩人には、聞く者を喜ばせ引きつけるための誇張や創作が許されていたが、こうした風潮に警鐘を鳴らしたのである。
アリストテレスは、もう少し突っ込んで、詩文や散文といった形式の違いよりも叙述の内容と目的を重視した。そして、こんな言葉を残した...
「歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語る。... 詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語る。」

歴史学という学問は、その性格上客観性を重視する。否、あらゆる学問が主観性から距離を置き、あらゆる事象を遠くから眺める立場にある。
とはいえ、人間の思考の原動力は主観性の側にある。人間は感情の動物であり、この本質からは逃れられない。プレゼンテーションなどでは視聴覚的な演出がよく用いられるが、実は人間にとって、淡々と語るということほど難しい方法論はないのかもしれない。
さらに言うなら、客観性という用語の解釈もなかなか手強い。学問分野によってもレベルが違い、最も客観性を帯びた数学ですら、定理への道筋には感動的なドラマで満ち満ちている。ちなみに、客観的に語ると宣言された政治屋の演説で、そうだったためしがない。
デーヴィスは言う、「歴史映画は過去についての思考実験だ...」と。事実を語ることは難しい。こと歴史事象では、時間的な距離を置かないと見えてこない部分があまりに多い。当事者だって、それぞれの立場で言い分があろう。ましてや奴隷という身分となると、当事者たちの記録はほとんど皆無。これを、感動的に映像化してしまえば、ただちにイメージが固定化され、固定観念までも植え付けてしまう。まぁ、人間にとって思い込んでいる状態は、幸せな状態でもあるのだけど...
映画界においても、人物像を描くシナリオや手法が形式化や慣習化しているところがある。それでも近年、歴史の再解釈を試みる映画監督やプロデューサたちが、ちらほら現れてきたのは救いであろう。一方で、事実に基づく... と触れ込むだけで興行的に成功が見込めると考える映画監督もいるようだ。
デーヴィスは、もう少し突っ込んで、歴史的事実に対して、たとえ簡単であれ、どのように演出を施したかを観客に伝えるべきだと主張する。時代背景を映像の中に組み込めれば尚いい、と。
しかし、映画制作には商業的な性格があり、時間的にも制限される。上映時間については、黒澤明が ...どうしても切ると言うなら、フィルムを縦に切ってくれ!... と言い放った逸話が有名だ。似たような愚痴は、作家たちにも見かける。あとがきで、ページ数の制限や省略した項目などで出版社とひと悶着あったことを匂わせたり。分厚い本は売れないというわけだ。芸術家たちのこだわりは、しばしば商業的に反発する。それは、自由人の宿命であろう。
映画監督が本質を描こうとすればするほど、大衆に受け入れさせるのに苦難がつきまとう。なんといっても、映像と音楽がタッグを組めば、激的に感情移入を仕掛けることができるのだから、これほど手っ取り早い方法はあるまい。この時代になっても尚、映画作りにご執心な政治屋たちが暗躍するのもそのためだ。観客動員数なんてものを気にせず、才能ある方々には自由に創造力を解放していただきたい。凡人は、それを拾う機会を与えてくれるだけで幸せになれる...

ところで、映画というメディアに、どこまで歴史の重荷を背負わせるか、という問題がある。そもそも、歴史書の執筆と映画の制作とでは、性格があまりに違う。デーヴィス自身、映画「マルタン・ゲールの帰還」の制作顧問を担当し、この違う二つの分野のあり方について、改めて考えさせられるものがあったと見える。
近年、歴史文献では、歴史家の解釈の大勢が、これこれになっている... といった表現を見かけるようになった。歴史の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。科学においても、宇宙論などで、現時点ではこれこれが有力である... といった表現をよく見かける。真理の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。人類が学術面において少しばかり控え目になったのは良い傾向であろう。ヒルベルトの時代には、すべての問題は科学で解明できると、豪語されたものだが...
それはさておき、映画が完全に伝えようとしなくても、軽く匂わせるだけで、その情報の欠片から歴史事象に興味を持ち、小説や文献を手に取って理解を深めようとする観客も少なからずいる。その意味で、ディーヴィスは、映画監督、役者、観客は、過去についての思考実験の共同参加者と見ている。
やはり映画は娯楽だ。忠実すぎても肩がこる。いくら事実に忠実であろうとしても、やはり限界がある。解釈をめぐる限界が。ここでは、フランチェスコ・ロージ監督の言葉がなんとも印象的である...
「もし、実在した人物の物語を作るならば、... 私の考えでは、解釈することは許されても、創作は許されてはいけないと思う。二つのあいだには、大きな違いがある。観客の注目を集める容易な手段として、より壮大な映画に仕立てようという理由で、わざわざ何かを創り出す必要があるのだろうか。そのようなことはない。私にとっては、真実を解釈するために必要なだけの猶予が、作品の中で充分に与えられていることが肝心だ。なぜなら、その事実の解釈こそが、私にとって重要であるからだ...」

2019-12-01

"贈与の文化史 - 16世紀フランスにおける" Natalie Zemon Davis 著

アリストテレスは人間を定義した... ポリス的な動物である... と。ポリスとは共同体のこと。人間は一人では生きられない。人と関係を持ちながらでしか生きられない。いわば人間社会の掟である。それは、集団社会の奴隷という見方もできるわけで、生まれつき奴隷説もあながち否定はできまい。
贈与とは、まさに人と人の関係において成り立つ概念。いわば日常の行為である。贈る者とそれを受け取る者の関係は、美談として語られる。しかし、その動機となると、あまりに多種多様。贈与という行為は集団社会を活性化させるところがあり、感謝の念をこめた無償性こそが基本的な動機となろう。
しかし、人間は自己存在を無意味とすることを忌み嫌い、その先に、自分の行為が無駄であることを極端に嫌う性癖が見えてくる。いわば見返りの原理というやつだ。よく見かける行為に社交辞令ってやつがある。そこには慣習化された常識とやらに囚われ、脂ぎった思惑も見え隠れする。存在感を示すために、集団の一員であることを確認するために、虚栄心のために、あるいは、人間関係を清算するための贈り物、恩を売るのを嫌った返礼品、悪名高いものでは贈収賄の類い... 中には、純粋な感情から発する贈り物もある。その動機の歴史となると、キリスト教が成立するずっと前から...

それにしても、これほど古くから馴染んできた行為でありながら、新たな概念として掘り起こすナタリー・ゼーモン・デーヴィスという人は、文化史の考古学者とでも言おうか。経済学は、限界効用論やポートフォリオ理論などを持ち出すよりも、贈与の経済学を論じた方がまともに映る。現代社会では、市場経済と贈与行為とが根深く共存し、しかも相互作用を及ぼしている。こうした視点は、彼女にとっては自然な思考なのであろう。この方面の権威では、マルセル・モースという文化人類学者を紹介してくれる。彼の社会モデルは、「自発的 = 義務的な贈与と返礼」という形だとか。
しかし、だ。自発的と義務的とは少々対立するところがあって、返礼の型を規定できるはずもあるまい。現実に、ポジティブな互酬性とネガティブな互酬性とが共存する。親切ってやつは、言葉の響きがいいだけに、押し売りと化すと余計に厄介。そこで本書では、贈る者は見返りを求めず、受け取る者は御礼の心を忘れないという、バランスのとれた互酬性が問われる。とはいえ、モースの「贈与論」も、いずれ挑戦してみたい。
尚、宮下志朗訳版(みすず書房)を手に取る。
「贈与とは、理屈としては、自発的なものとはいえ、実際は、義務としておこなわれ、また返礼されるのであって、外見上は、自由で、感謝の念にみちていても、実は、強制的にして、利己的なふるまいにほかならない。どの贈与も、多くのことを同時に完了させる、一連のできごとの連鎖のなかで、返礼なるものを生み出すのである。明確な商業マーケットを有さない社会においては、財は交換され、再分配される。こうして平和が、ときには連帯感やら友情までもが維持されていく。そして社会的なステイタスが、北アメリカの北西海岸のインディアンのあいだのポトラッチのように、確認ないし獲得される。(略)はたしてだれがもっとも多くの財をふるまえるかを誇示しようとして、競ったのであった...」

1. 16世紀という時代
本書は、16世紀のフランスを題材にしているが、それはどんな時代だったのであろうか。キケロの「義務について」とセネカの「恩恵について」という古代ローマの偉大なガイドブックが刷られた時代。カトリックとカルヴァンとが、人間は神に何を与えることができるかを巡って激しく論争した時代。それは、濃密な感謝と義務の文化に由来する贈与システムに、重荷を背をわせた時代であったという。
大航海時代から植民地時代へと流れていく中、原住民の中に贈与の動機を探る。奴隷という言葉は悪いイメージを与えるが、悪い主人ばかりではあるまい。原住民が自発的に贈り物をするのも、けして珍しいことではなかったようである。
だが、文明レベルの違いが物品価値の格差を明るみにし、もらっても馬鹿にしたりする民族的な優越感が蔓延る。フランスでは、贈与品の価値をけなしたり、からかったりするのは、侮辱よりも酷い振る舞いとする伝統があったという。16世紀の贈与の特徴は、同じ身分の人々だけでなく、異なる身分の人々の間でも人間関係を和らげるのに寄与したようである。贈与行為が読み書き能力の垣根を取り払い、コミュニケーション回路を開く。これこそが互酬性というものであろうか。
しかしそれも、市場経済が勢いを増すとともに影をひそめていく。そうした時代の流れを敏感に感じたからこそ、モースは「贈与論」というものを書いたのかもしれない。そこには、こう書かれているそうな...
「われわれのモラルや生活のかなりの部分は、依然として、贈与と、義務と、自由とが混じり合った環境のなかに立ち止まっている。さいわいなことに、まだまだ、すべてが、売ったり買ったりといった言い方で整理・分類されてしまっているわけではない。モノには、いまだに、市場価値に加えて、感情的な価値が存在するのである。(中略)返礼なき贈与は、これを受け取った人間を、さらに低い存在とする。返礼する気持ちもなしに、そのモノが受けとられた時には、特にそうである。(中略)慈善は、これを受けた者にとっては、さらに感情を傷つけるものとなる...」

2. 贈与の信仰
贈与の動機は、ヨーロッパでは、キリスト教的な施しと結びついてきた歴史があり、倫理観や道徳観とも深く関わる。しかし、キリスト教が成立するずっと前から古代ギリシア風の動機がすでに発達していた。アリストテレスは、贈与の動機を互酬性と結びつけて説明したという。社会的市民には、お互い様という感覚が自然に働く。第一の動機として、神の恵みと結びつける信仰が未開人や部族にも見られる。ただ、強者への返礼よりも弱者への施しを重んじるという感覚は、キリスト教的であろうか。仲間内の儀礼はちっぽけな事で、より貧しい人を救おうと。人に対して非対称性でも、神との契約で対称性をなせば、チャラ!
しかしながら、個人に感謝しないで、神にのみ感謝するというのも利己的である。弱者にも格付がある。文句の言える弱者が救われ、文句を言う機会もなく、ただ沈黙するしかない弱者が救われないのであれば、十字磔刑の時代からあまり変わっていない。
しきたりと義務はすこぶる相性がいい。意味の分からないものを常識と定義づければ、何も考えずに済む。面倒くさがり屋には実に都合のいい思考アルゴリズムである。贈った者が、返礼がないから奴は無礼だとするなら、もはや贈った者が無礼極まりない。返礼する者が、悪口を言われたくないからというなら、もはや儀礼の奴隷。冠婚葬祭では、包む金額をいくらにするか駆け引きをやる有り様。協調性や絆までも強制される。
一方で、入院病棟でよく見かけるのが返礼品のお断りといった張り紙で、実に合理的である。気持ちだけで十分というは本音であろう。真に仕事をしている人たちは、形式的な儀礼に付き合っている暇もあるまい。
贈与という行為を、信仰との結びつきから論じるのもいいが、贈与行為そのものが信仰になっていることがある。人間の慣習や行動パターンなんてものは、どこか信仰的なところがある。信念めいたものがなければ学問もできない。宗教から遠ざかるには、合理性という信仰も必要だ。人間ってやつは、信仰なしに生きるのが難しい動物である。
但し、宗教に頼らなくても信仰は構築できる。実際、まったくのキリスト教徒でありながら、その伝統にこだわらず、独自の宇宙論的な信仰を構築している人たちがいる。キリスト教は秘密主義として育まれた経緯があり、おそらく点在したグループの多種多様な解釈の下で広まってきたのであろう。けして限られた数の聖書で規定できるような代物ではなさそうである。疑問を持ち、見直し、応用をともなってこその信仰とするなら、科学もなかなかの信仰である...

2019-11-24

"道徳の系譜" Friedrich Nietzsche 著

おいらは、「道徳」という言葉が大っ嫌い。「理性」という言葉も大の苦手ときた。道徳の書を読むのは、ある種の拷問だ!道徳を云々するということは、怖じ気もなく自己の傷を曝け出すことにほかならない。いわば、羞恥心との戦い。
では、なにゆえこんなものを。天の邪鬼の性癖が、こいつに向かう衝動を掻き立てやがる。怖いもの見たさってやつか。パスカルは言った... 哲学をばかにすることこそ真に哲学することである... と。書き手が書き手なら読み手も読み手。ニーチェの皮肉ぶりを皮肉って読むのがええ。類は友を呼ぶ... と言うが、負けじと病理に付き合うのがたまらない...
尚、木場深定訳版(岩波文庫)を手に取る。
「人間は余りにも久しく自分の自然的性癖を悪い眼附きで見てきたために、その性癖は人間のうちでついに良心の疚しさと姉妹になってしまった...」

副題には「一つの論駁書」とある。誰を論駁しようというのか。道徳の起源についてはショーペンハウアーと対決し、無価値や虚無といったものに意味を与えたプラトン、スピノザ、ラ・ロシュフーコーを攻撃し、カントの定言命法に至っては見返り命法とも言うべきものを呈示して魅せる。ダンテは恐るべき創意をもって、地獄の門に「われをしもまた永遠の愛は創れり」と刻んだが、ニーチェは大胆な辛辣をもって、キリスト教の天国の門に「われをしもまた永遠の憎悪は創れり」と刻むのである。
ただ、正しく批判できなければ反駁書もつまらない。それは、批判対象者たちの書物を精読していることを意味する。実は、彼らのファンなんじゃないの...
「進め!われらの旧道徳もまた喜劇に属する!」

反感ってやつは、力の余ったところに生じる。反感道徳またしかり。ニーチェはよほど力が有り余っていたと見える。生きようとする意志では満足できず、より高く生きようとする意志。自己保存の衝動から脱皮した自己増大の意図。愛憎の葛藤から卒業した高貴性。こうしたものが力への意志と言わんばかりに...
人間の健忘症は甚だしい。いまだ古代哲学の呪縛に囚われたまま。善と悪の関係は借方と貸方の関係のごとく。道徳上の負債は先送りされ、バランスシートは赤字の一途。ただ、道徳の系譜もさることながら、責任の系譜も歴史は長い。道徳上の責任を誰に押し付けようというのか。ナーダ!ナーダ!
「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲する...」

本書の扉の裏に「最近公にした『善悪の彼岸』を補説し解説するために」とある。「善悪の彼岸」では、善悪の判断能力を持つための高貴性というものが強調されていた(前記事)。賢明な少数派、すなわち高貴な人々にその他大勢の支配を委ねるという形は、哲学者を統治者にするという理想を掲げたプラトンに通ずるものがある。ここでは、人間の高級な型と低級な型の種別がより鮮明となり、支配する側の指導者道徳と従う側の隷属者道徳なるものを説く。
だが、支配欲は人間の本質であり、これから逃れることはできまい。いったい何を支配しようというのか。自己の支配に失敗すれば、他人を支配にかかる。それだけのことかもしれん...

1. 三篇の論文
本書は、三篇の論文で構成される。
第一論文「善と悪、よいとわるい」では、キリスト教的な心理学を論じ、善悪という道徳的判断の起源を暴こうとする。その起源の正体とは、奴隷人間の怨みっぽく悪賢い、反感の精神から生まれた奇形児で、伝統的な支配階級に対する抵抗運動であり、キリスト教的な暴動であったとさ...
「人間に対する恐怖とともに、われわれは人間に対する愛、人間に対する畏敬、人間に対する希望、否、人間に対する意志をさえ失ってしまった。人間を見ることは今ではもう倦怠を感じさせる... これがニヒリスムスでないとすれば、今日のニヒリスムスとは何であるか... われわれは人間に倦み果てているのだ...」

第二論文「負い目、良心の疚しさ、その他」では、良心の心理学を呈示する。世間で良心と呼ばれているものは、人間の内なる神の声なんぞではないという。もはや外に向かって放出することもできない、行き場を失った内向的な、いや、内攻的な残忍性であると。この残忍性の本能を認めようとしないのは、近代社会の軟弱化のためだと断じる。真理への愛のみが、この事実を発見し確信できると...
「残忍なくして祝祭なし。人間の最も古く、かつ最も長い歴史はそう教えている... そして、刑罰にもまたあんなに多くの祝祭的なものが含まれているのだ!... 却って残忍をまだ恥じなかったあの当時の方が、厭世家たちの現れた今日よりも地上の生活は一層明朗であったということを証拠立てようと思う。人間の頭上を覆う天空の暗雲は、人間の人間に対する羞恥の増大に比例してますます拡がってきた。」

第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するか」では、禁欲者の心理学が論じられる。禁欲主義的とは、僧職者的ということである。そして、彼らの理想は、何にもまして有害であり、終末への意志であり、無への意志であると断じる。
とはいえ、僧職者の背後で神が命じているなどと信じられてきた歴史は長い。その由来は、これまでは他に理想がなかったからと、一言で片付ける。競争相手もなく、反対の理想が欠けていただけと。しかし、その反対の理想に対しても、嘆きを憚らない。
「科学は今日あらゆる不平・不信・悔恨・自己蔑視・良心の疚しさの隠れ場所である。...それは無理想そのものの不安であり、大きな愛の欠如に基づく苦しみであり、強いられた満足に対する不満である。おお、今日では科学は何とすべてを蔽い隠していることか!何と多くのものを少なくとも蔽い隠さなくてはならないことか!」

2. 結婚という人生戦略
結婚に関する名言は、枚挙にいとまがない。ソクラテスは言葉を残した... とにかく結婚しなさい。良妻を得れば幸せになれるし、悪妻を得れば哲学者になれる... と。キェルケゴールも負けじと言葉を残した... 結婚。君は結婚しなかったことを悔やむだろう。そして結婚すればやはり悔やむだろう... と。ヘンリー・ルイス・メンケンは断じた... 真の幸せ者は結婚した女と独身の男だけ... と。シリル・コナリーはつぶやいた... 孤独に対する恐怖は、結婚による束縛に対する恐怖よりもはるかに大きいので、俺達はつい結婚しちまうんだ... と。そして、バルザックは指摘した... あらゆる人智の中で結婚に関する知識が一番遅れている... と。
結婚ほど所有の概念と強く結びつくものはないらしい。所有とは支配欲の源か。結婚(けっこん)と血痕(けっこん)が同じ音律なのは、偶然ではなさそうだ。運命の糸が血の色というのも道理か。
さて、ニーチェは、この人生戦略について何を語ってくれるだろう...
「これまで偉大な哲学者たちの誰が結婚したか。ヘーラクレイトス、プラトーン、デカルト、スピノーザ、ライプニッツ、カント、ショーペンハウアー... 彼らは結婚しなかった。のみならず、彼らが結婚する場合を考えることすらできない。結婚した哲学者は喜劇ものだ... これは私の教条である。そして、ソークラテースのあの例外はどうかと言えば... 意地の悪いソークラテースは、わざわざこの教条を証明するために、反語的に結婚したものらしいのだ。」

2019-11-17

"善悪の彼岸" Friedrich Nietzsche 著

古本屋を散歩しながら一冊の扉をちょいと開けてみると、こんな文句が飛び込んできた。酔いどれ天の邪鬼は、こいつにイチコロよ...

「真理が女である、と仮定すれば...、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女(あま)っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠絡されなかったのは確かなことだ...」

善悪の彼岸に立とうとすれば、道徳論と向かい合うことになる。おいらは、道徳ってやつが大の苦手ときた。道徳哲学なんてクソ喰らえ!むしろ、メフィストフェレスに肩入れしたい... などと心の奥で呟いてやがる。しかしながら、ニーチェが語るとなると話は別。天の邪鬼な性分がそうさせるのか...
伝統的な道徳哲学は利己心を退ける。では、啓発された利己心となるとどうであろう。伝統的な宗教は懐疑心を忌み嫌う。では、健全な懐疑心となるとどうであろう。いずれの立場も、愛ってやつを最上級の情念として崇める。ならば、正妻と愛人ではどちらが格上かと問われれば、素直に愛人と答えるさ...
愛の暴走ほど手に負えないものはない。愛は憎しみを生む。肥大化した愛国心が国家を危険に晒してきた。愛情劇が愛憎劇に変貌するのに大して手間はかからない。これが人間社会の掟というものか。ニーチェは利己心を人間の本性として受け入れ、「自分の徳を信じる = 疚しからぬ良心」といったものを定式化して魅せる。愛とは利己心の象徴のようなものか...

副題には、「未来の哲学の序曲」とある。哲学が真理を探求する学問であるなら、善悪のいずれにも立場をとる。そして、その立場は、健全な懐疑心と啓発された利己心によって支えられるであろう。ただし、ニーチェが健全かどうかは知らん。
そもそも健全ってなんだ?常識とやらに囚われた人間で溢れている社会で、健全さをまともに問えば、狂うしかあるまい。
では啓発ってなんだ?自己陶酔の類いか。そもそも私利私欲を知らなくて、道徳が行えるのか。道徳哲学ってやつは、病理学に属すものらしい...
尚、木場深定訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 反対物の信仰
ニーチェは、偉大な形而上学者たちの先入観は、様々な価値の反対物を信仰することにあると攻撃する。攻撃対象は、カント、スピノザ、デカルトたち。真理が誤謬から生じるとすれば、誤謬の能力にも価値が認められよう。真理への意志が迷妄への意志から生じるとすれば、あるいは、無私の行為が私欲から生じるとすれば、それらの行為にも価値が認められよう。だが、ニーチェは、そんなことを夢見るのは阿呆だと吐き捨てる。老カントの定言命法に対しては、見返り命法とでも言いたげに...
また、ニーチェの女性蔑視は周知の通りだが、ここではイギリス人嫌いを披露する。ベーコン、ホッブズ、ヒューム、ロックらを、何ら哲学的な種族ではなく、機械論的な愚劣化であると。彼らに反抗して立ち上がったのがカントだったとさ...
しかしながら、ニーチェの懐疑心こそ、見事に反対物の信仰から編み出されているではないか。その反対物とは、皮肉である。哲学は哲学によって喰い物にされる。そこには共喰いの原理が働く...
「古代の最も立派な奴、プラトーンに、どこからあんな病気が取り憑いたのか。やはりあの悪いソークラテースが彼を堕落させたのか。ソークラテースはやはり青年を堕落に導いたのではあるまいか。だから自ら毒杯を飲まされるに値したのではなかろうか。」

2. 人間畜群
ニーチェが生きた時代は、世界が急速な近代化によって大量生産へ邁進していき、やがて工業力が国力の指標と結びつき、ファシズムや国粋主義を旺盛にしていく時代である。特にドイツでは、リヒャルト・ワーグナーの解釈をめぐっての論争が巻き起こり、歌劇「マイスタージンガー」と民族主義が結びついていく。
ニーチェは、フランス革命以来の民主主義社会の弱点を明るみにする。民主主義運動は、政治機構の頽廃形式だけでなく、人間の頽廃形式であり、集団的退化であると。凡庸人を黙らせよ!と。
民主主義社会の理想は、賢明な少数派がその他大勢を支配する形式であり、結局は畜群本能に帰着するというのか。そうかもしれん。賢明な主人と愚昧な奴隷という構図は、アリストテレスが唱えた「生まれつき奴隷」とやらを彷彿させる。ただ、この主従関係は、従来の封建的な地位や身分の序列や、世襲的な序列などではない。あくまでも賢明な人が支配する形式が望ましいということである。
しかしながら、賢明な人ほど謙遜の意を表明するもので、こと人間社会においては理想と現実があまりに乖離し、理想が高ければ高いほど逆の現象へ引きずり込まれる。実際、政治屋が社会制度を崩壊させ、金融屋が国際規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が国家を危機に陥れ、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。おまけに、彼らを批判する道徳屋はいつも憤慨してやがるし、道徳では心は鎮められないと見える。
そして今、グローバリズムに邁進し、共有という概念が崇められる時代にあって、大衆社会に問われているのは、大衆がいかに賢明な大衆になりうるか、ということであろうが、そう問えば問うほど... 個々で静かに問うしかなさそうか...

3. 高貴な人間
ニーチェは、畜群本能に対して、高貴な人間モデルを提示する。彼に言わせると、自己否定や控え目な謙遜は徳ではなく、むしろ徳の浪費ということである。この手の人種は、自己を価値規定できる能力を持ち、他人から是認されることを必要としないという。
大抵の人は他人に誤解されることを嫌うものだが、それは虚栄心の強さを示している。自己に対して畏敬を持つことができれば、他人の目など気にしないはず。真理の道は遠く、愚鈍な評判なんぞにかまっている暇はあるまい。高貴な人間とは、自己を克服する能力の持ち主ということになろうか。そうした人間を支配階級に据えるという考え方は、プラトンが理想とした哲学者を統治者に据えるという考えに通ずる。プラトンは哲学者を愛智者とした。過去の偉大な哲学者たちを散々こき下ろしておきながら、結局は古典回帰か...

4. 言語のるつぼ
哲学には、伝統的に根本的な問題を抱えいてる。無知を知るという問題が、それである。哲学が表現するものには、形容矛盾が多分に含まれる。いわば、言葉の遊び、いや、言葉のるつぼ。それは、真理ってやつを人間が編み出した言葉で記述するには、限界があるということだろう。
しかしながら、この状況を克服するために、人間の言葉には高等テクニックがある。ある抽象的な存在を、一つの用語で定義しちまうという。そして、その用語を理解した者は誰もいない。実際、人間社会には人間自身が理解できていない用語で溢れている。おそらく、「道徳」という言葉もその類いであろう。「理性」という言葉も、「正義」という言葉も、「愛」という言葉はその最たるもの... だから感情的になれる。なぁーに、心配はいらない。無知、無学、虚偽を知った上で学問の道が開けるというもの。
そして、言葉の呪縛から解放されようと、形而上学が位置づける最上級の意志を覚醒させればいい。それが、ニーチェの言う「自由の意志」ってやつか。やはり「自由」という言葉ほど定義の難しいものはあるまい...

5. 箴言集
本書には、間奏のために、箴言を集めた章がド真ん中に配置される。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この章をメインに読んでいる。ちょいと気に入ったものを拾っておこう...

「認識それ自身のための認識... これは道徳が仕掛ける窮極の陥穽である。これによって人々はもう一度、全く道徳に巻き込まれる。」

「ただ一人の者への愛は一種の野蛮である。それはすべての爾余の者を犠牲にして行なわれるからである。神への愛もまた然り。

「平和な状態にあるとき、好戦的な人間は自己自らに襲いかかる。」

「自分自身を軽蔑する者も、やはり常にその際なお軽蔑者として自分を尊敬する。」

「どうだって?偉人だと?私が見るのは常にただ自分自身の理想を演じる俳優ばかりだ。」

「道徳的現象などというものは全く存在しない、むしろ、ただ現象の道徳的解釈のみが存在する。」

「人間が自分をそう容易に神だと思わないのは、下腹部にその理由がある。」

「賢明な人間にも愚行があることを人々は信じない。何という人権の侵害であろう!」

「悪意のように見える不遜な善意もある。」

2019-11-10

"大衆の反逆" José Ortega y Gasset 著

大衆は臭い!
いくら平等になっても、差別癖は治らない。いくら自由になっても、人のやる事に寛容ではいられない。これはもう人間の本質である。王侯貴族の時代、その他大勢や雑多な輩などと呼ばれてきた人々が意識を共有するようになると、群れをなし、ある種の社会的地位を獲得してきた。世間では大衆と呼ばれ、いまや支配階級の無視できない存在に...
群れるからには、質より量がモノを言う。封建的な残留物を処分しようと人民が蜂起すると、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパ各地に連鎖していった。フランス革命はその象徴的な出来事だが、共和国を掲げながら直ぐさま恐怖政治と化し、ナポレオンの呼び水となった。この事例は、独裁制が危険なことは周知であったが、民主制の暴走も同じくらい危険だということを世に知らしめた。どんなに良い事でも、同じことをやる人間が集まり過ぎると、何かと問題になるのが人間社会。大衆社会は、大衆がいかに賢明な大衆になりうるかという問題を突きつける...

ところで、大衆とは、どのくらいの人が集まると、大衆となるのだろう。この問い掛けは人口問題を暗示している。産業革命に発する技術革新は、人類史上例を見ない人口増殖をもたらした。この増え方は自然に適っているだろうか。なんだかんだいって科学技術が、多くの問題を解決してきたものの。この異常な、いや異様な増殖に対抗するには、人類が地球外生命体へ進化するしかなさそうである。いま、人口減少に転じているのは、人間社会に防衛本能が自然に働いているのかもしれない。そもそも人間が多すぎるのだ。寿命が延びれば、それも自然であろう。
エリートの政策立案者たちは相も変わらず、経済が枯渇すれば消費を煽ることに奔走し、少子化問題に直面すれば子供を産むように働きかけ、もはや目の前の現象をそのままひっくり返すだけの対策しか打ち出せないでいる。どこぞの組織の戦略会議でもよく見かける光景だ。そして、かつて経済学が古臭いとして葬り去ったマルサスの人口論が、今になって再認識させられるのも皮肉である...

ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、大衆と呼ばれる圧倒的多数が奮起してきた現象を、自由主義的デモクラシーと技術進歩という二つの側面から論じる。資本力によって産業が拡大し、豊かさがもたらされると、ブルジョア階級が牽引して情報や知識、そして意識が民衆に浸透していく。封建的な支配者階級が打倒され、次の対立構図は資本家階級と労働者階級ということに。そして、よく論じられる形が、マルクスをはじめとする階級闘争の理論である。
しかし、オルテガは、社会階級という論点に一線を画し、「優れた少数者」「大衆」という二つの人間の型で論じる。優れた少数者とは、自己に多くを要求し、自己啓発に励むタイプをいい、大衆とは、自己に対して特別な要求を持たず、自己実現の努力をなそうとしないタイプをいうらしい。とりあえず、哲学する者と哲学なき者の区別としておこうか。どちらの型に属すにせよ、人間が排除好きな動物であることに変わりはない。大衆は理解の及ばない異物の排除にかかり、小グループは大衆と一緒にすな!と言葉を荒らげる。
こうした論点は、なにも真新しいものではないが、オルテガが生きた時代にいち早く着眼したことに注目したい。彼に言わせると、大衆とは「最大の善と最大の悪をなしうる力にほかならない」という...
尚、桑名一博訳版(白水社)を手に取る。
「現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。...(略)... すべての人と同じでない者、すべての人と同じように考えない者は、締め出される危険にさらされている。」

本書が書かれた時代には、大衆の意志が一気にファシズムに向かった背景がある。我を忘れさせるのにもってこいの方法論が熱狂的な政治と言わんばかりに、扇動者たちが大々的なプロパガンダに励んだ時代。
しかし、言葉を乱用すれば言葉の権威を失い、政治家たちの言葉を安っぽくさせるのは、いつの時代も同じ。人間社会には、どんなに勢いのある流行り事に対しても、そこから距離を置き、沈黙する少数派がいる。その時代には、時流に乗れないとして馬鹿にされながらも、後世、賢明な人々と呼ばれる人たちが。彼らは自己観念が強すぎるから、大衆に馴染めないのかもしれない。偉大な科学者に多いタイプで、コペルニクスやガリレオもそうした人間だったのだろう。
少数派が点在する現象は、まさに21世紀の社会が、そうしした傾向を強めているように見える。ただ、ソーシャルメディアなどのツールを活用して少数派の間でグループを形成し、沈黙せずに済むという特徴も同居している。小グループの成員たちは、それぞれに共通の哲学を育んでいるようである。
インターネットは、情報が誰にでも手に入るという点で、見事に機会均等を実現しているかに見える。しかしながら、情報は向こうからはやってこない。向こうからやってくるのは、テレビ放送のような従来型メディアぐらいなもの。そして、自発的に情報を入手する習慣を身につける者と、向こうからやってくる情報をそのまま受け取るだけの者とに分かれる。この二つの習慣の違いは大きい。大衆の中で意識格差をもたらし、人間社会は、あらゆる思想、思考、意識において二極化していく。放送とは送りっ放しと書く。送りっぱなしであるからには、平均人を扇動するには最も効果的なメディアとなる。
とはいえ、平均人というのが大衆の中にどれぐらいの割合を占めるのだろう。小グループへの分散化が進めば、それぞれに多様化が進み、そのうち大衆よりも少数派の寄せ集めの方が圧倒的多数ということになりそうである。実際、テレビ番組のような従来型の大衆娯楽から視聴者が離れつつある。それでも完全に無くなることはないだろう。受動的なメディアに縋って生きている人たちも少なからずいる。だから多様化なのである。
一方で、これだけ流行っている SNS を嫌う人も珍しくない。ツールを活用する場面の多い技術業界にあっても、共有を嫌う技術者は意外と多い。極端な立場では、コメントは不要!とする人たちもいる。読みたいヤツには読ませ、読みたくないヤツは黙らせろ!と。コメンテータという存在は、視聴率を煽るには最高の俗物となる。
また、情報だけでなく、情報収集の手段も多様化が進み、大勢で群がる手段に固執すれば、やはり大衆に飲み込まれてしまう。大衆に飲み込まれてしまえば、自己の中で健全な懐疑論を唱えるのも難しい。ただ、それに気づかなければ、それが一番幸せ。大衆って臭いわりに、臭さに慣れちまえば、結構居心地がよかったりする。臭いフェチか...
確かに、大衆から距離を置き、炎上騒ぎに巻き込まれないようにする賢明な人々が静かに存在しているのを感じる。人生の意義を日々考えながら生きていれば、大衆に付き合っているほど暇じゃない!と。自己の存在に意味があると考えること自体が人間の思い上がりであろうが、そうでも考えないと苦難を乗り越えることは難しい...
「近代思想が犯している最も重大な誤謬の一つは、社会と協同体を混同することであったが、後者はほぼ前者の逆に位置するものである。社会は、意志の同意によって形成されるものでない。」

では、社会を真に支配する者とは...
支配力といえば、つい権力や武力を思い浮かべてしまうが、オルテガは、ちと違った見方をしている。支配とは、他の力を奪い取ろうとする態度ではなく、力を静かに行使することだという。つまるところ、支配力とは精神力にほかならない、というわけである。
そこで、暗黙の支配力として「世論」という用語が浮き彫りになる。この用語がいつ登場したかは知らんが、これに似た概念は古くからあり、古代の王ですら民衆の心を重視したことが神話となって伝えられる。人間ってやつは、結局は人目を気にしながら生きているということだろう。現在の政治指導者たちは、世論を無視して権力を行使するわけにはいかない。オルテガは、世論が理念や思想といった形而上学的なものを身にまとうことができれば、大衆も捨てたもんじゃない、とかすかに希望を抱く...
「哲学が支配するためには、プラトンが初めに望んだように、哲学者が支配する必要はないし、次に、プラトンがより控え目に望んだように、皇帝が哲学することさえ必要ではない。厳密に言えば、いずれもきわめていまわしいことである。哲学が支配するためには、哲学があればじゅうぶんである。」

2019-11-03

"大学の使命" José Ortega y Gasset 著

古くから、行いの悪さを教育のせいにしたり、行儀の悪さを育ちの悪さとしたりする考えがある。そうした傾向があるのも確かであろう。国民が偉大であるということは、その国の教育制度もまた偉大なのであろう。
しかし、それだけだろうか。どんなに立派な条文を謳ったところで、どんなに立派なスローガンを掲げたところで、形骸化する事例はわんさとある。制度や契約といった取り決めは慣習と結びついて効力を発揮するもので、慣習法の意義がここにある。どんな集団社会にも暗黙の了解といった、なかなか手強い社会規範がある。「空気を読む」という特徴は、なにも日本人固有のものではあるまい。表現の仕方は日本人らしいにしても、集団社会によって読み方が違うだけのことで、主張すべき時に主張しなければ、やはり空気が読めないのである。こうした感覚は、価値観、世界観、人生観の違いとして現れ、長い年月をかけて無意識に慣習化していき、やがて文化として居座る。
「生きた思想、生きた文化は、自己を取り巻く自然的・精神的・歴史的・社会的諸環境との対話においてのみ形成されるとはオルテガの根本思想である。」

注目したいのは、大学の機能の一つとして挙げられる「教養」を文化として捉えている点である。ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、大学を三つの機能で結論づける。一つは、教養(文化)。二つは、専門教育。三つは、科学研究と研究者の養成。近代教育の特徴は、その大部分が科学に発するとし、まず科学の在り方にメスを入れる。だが、危機に瀕しているのは科学ではなく、人間である。専門化が進み、分裂した人間を生きた統一体へと蘇生させること。これが、オルテガの意図するところである。
ここには、当時のスペインの教育事情が透けて見える。ワーテルローで勝利したイギリスや普仏戦争で勝利したドイツを見て、即座にイギリスの中等教育とドイツの高等教育の制度を導入せよ!そうすれば、スペインも偉大な国民性が身につけられる、といった教育論で盛り上がっていく様子が。オルテガは、これに苦言を呈す形で教育論、いや、文化論を展開する。いやいや、酔いどれ天の邪鬼の眼には、古臭い国粋主義的教育論を皮肉っているように映る。まずもって、他国の制度を真似ればいいなどと安易な教育論を持ち出す有識者どもを再教育しろってか...
尚、本書には「大学の使命」、「『人文学研究所』趣意書」の二篇が収録され、井上正訳版(玉川大学出版部)を手に取る。

どこの国でも、社会を先導する大半が大卒や大学院卒の知識層。オルテガは、彼らを「平均人」「近代の野蛮人」などと呼び、以前よりもいっそう博識ではあるが、同時に無教養な専門家に成り下がっていると指摘する。
学問が研究を深めるほど専門性を強めるのは自然の流れであろう。そのために、総合的、統合的な視点を疎かにしがち。ジェネラリストとスペシャリストはどちらが重要かという議論は、現在でもお盛んだ。どちらを目指すかは個人の問題だとしても、偏狭な知識によって社会が先導されるとすれば、やはり問題である。現代社会では、総合的な知識も一つの研究分野として成立しており、その意味では、誰もがスペシャリストということになるのかもしれないが...
教養というものは、人間性とセットで育まれる。そのために、オルテガは一般教養の意義を再認識させようとする。近代の教養が科学的観点を基調とし、その傾向をますます強めているのは確かであろう。主観性の強い人間にとって、学問に客観性を求めなければ、学問の意味そのものを失ってしまう。オルテガは、この傾向を少しばかり弱めて人文学的観点を取り戻そうとしているだけで、科学を蔑んでいるわけではない。それどころか、大学は科学によって生きる!科学は大学の尊厳である!科学は大学の魂である!... とまで言っている。
「もし教養と専門が、たえまなく発酵している科学、つまり探求と接触せずして、大学内で孤立するならば、両者はまもなく麻痺状態に陥り硬直したスコラ学になり終わるであろう。」

そして、五つの教養科目を提示する。
1. 物理学的世界像(物理学)
2. 有機的生命の根本問題(生物学)
3. 人類の歴史的過程(歴史学)
4. 社会生活の構造と機能(社会学)
5. 宇宙のプラン(哲学)。

近代の教育機関は、ガリレオやデカルトたちによって創始された新科学の下で生を授かった。ヒルベルトの時代には、どんな問題でも科学で解決できると信じられたが、20世紀になると行き詰まりを見せる。
おまけに、科学技術が工業生産や大量生産の呼び水となり、これに国力が結びついてファシズムやナショナリズムを旺盛にしていき、平均人の知的底上げが急務となる。
オルテガの大学論は、そんな時代に書かれた。彼の信念には、研究第一主義から教養第一主義への移行が伺える。
「科学者はあらためて人間化されなければならない。」
当時の人文主義者にも苦言を呈す。
「人文主義と呼ばれているものは、つまるところ、文法学者の独裁の謂であった。」

では、これらの知識を総合的な視点から調和させるものとはなんであろう。オルテガは、一つの解決策として理念を持ち出す。そして、真によき医師、よき裁判官、よき技師を育成せよ!社会はよき専門家を必要とする!と。賢明なエリートほど社会にとって有用な存在はないが、愚昧なエリートほど有害な存在もない、と言わんばかりに...
「理念なくしては、われわれは人間的に生きることができない。われわれのなすことは、常に諸理念に依存している。そして生きるとは、あれこれのことをなすということにほかならない。だからインド最古の書物でこういわれた -『あたかも牛車の車輪が牛の蹄に従うごとく、われらの所為はわれらの所信に従う』と。かくいわれる意味 - そのようなものとしてそこには、なんと主知主義的なものは含まれていない - において、われわれはわれわれの理念である。... 教養とは、各時代における諸理念の生きた体系である。」

ところで、理念ってなんだ???
教育機関に何を期待するかは個人の問題としても、そこまで重荷を背負わせるのもどうであろう。本当に重要なのは、大学や大学院を卒業してからの学び方である。実際、教育機関に頼らなくても独学で啓発する人たちがいる。彼らは、自分自身でありたいがために戦い、自己投資や自己実現に励むかに見える。
今、この難解な書を読み終え、疲れ果て、溜息をつき、結局、この言葉に救いを求める他はなさそうである...

「人にものを教えることはできない。できることは、相手のなかにすでにある力を見いだすこと、その手助けである。」
... ガリレオ・ガリレイ

2019-10-27

"芸術の非人間化" José Ortega y Gasset 著

「我は、自分自身が生きていることを自覚した時、これらの肉体的もしくは心理的事柄において、自分自身を所有する。」

19世紀から20世紀初頭にかけて、産業革命に発する近代化の波は、富や資本を再分配させ、思想観念を解放していった。イデオロギー時代の幕開けとでも言おうか。自由主義を旺盛にさせると、王侯貴族のものであった政治や経済がブルジョアジーを経由して市民の手に渡っていく。大衆時代の幕開けとでも言おうか。同じようなことが、芸術の世界でも起こった。いや、むしろ芸術が先導してきたと言うべきか...
芸術ほど思想観念との結びつきが強く、また、芸術的な創造意欲ほど自由精神と相性のいいものはあるまい。しかし、かつての宗派間の闘争がイデオロギー闘争にすり替わっただけで、伝統的な階級が廃止されてもなお、新たな階級を生み出すのが人間社会。いつの時代も、多数派は少数派を飲み込もうとし、あわよくば抹殺にかかる。そして今、多数派に属すことに命をかけることが民主主義の弱点として露わになる。
大衆は臭い!いくら自由になっても、人の多様な行動には寛容でいられない。いくら階級を崩壊させても、差別癖は治らない。こうした性癖こそが人間性というもの。
では、題目にある「非人間化」とはどういうことか。空想的な人間性ということか。皮肉まじりに言えば、理想的な人間ということか。確かに、理想的な人間ってやつは人間離れしてやがる。こうした解釈が、本書の意図したものかどうかは知らんが、おいらの天の邪鬼な性癖は治りそうにない...
尚、本書には芸術に関する論文「芸術の非人間化」、「小説についての覚え書」、「芸術における視点について」、「内側からのゲーテを求めて」、「自己と他者」の五篇が収録され、川口正秋訳版(荒地出版社)を手に取る。
「概念と世界とのあいだには、絶対的な距離がある。... ところが、人間には、現実とは心が考えるところのものそれ自体であると臆断し、現実と概念とを混同する傾向がある。現実に対するこの執念が、無邪気な現実の理想化をもたらすのである。これが人間の先天的素質なのである。しかし、もしこの自然の手続きを逆にしてみるなら、つまり、現実と断定したものに背を向け、概念を単なる主観的な模型 - をそのまま採り上げ、やせて骨張っているけれども純粋で透明なその状態において生命を与えてみたなら、つまり故意に概念を現実化してみたら、われわれは概念を非人間化 - いわば非現実化したことにはならないだろうか...」

いつの時代も、新しいものには抵抗勢力がつきまとう。伝統を頑なに守ろうとする派閥と、それをぶち壊そうとする派閥。これに世代間対立が加わるものの、両派とも歳を重ねて時間が経てば、ちょうど折り合いの良いところで落ち着く。かつて激しく対抗していた浪漫主義と自然主義も、近代化にともなって急速に距離を縮め、写実主義の下で融合をはじめる。写実主義とは、見たまんまを映し出そうとする主張で、つまりはリアリズムの追求。伝統的な画壇では、信仰的な崇高さや人間救済といったテーマが象徴的に描かれてきたが、近代の芸術家に、人類を救え!などとふっかけても仰天してしまうであろう。
科学が相対主義を立証すれば、相対的な人間性、すなわち多様性というものに焦点が移る。そして、誰もが分かる芸術から、分かる人にしか分からない芸術へ。それは、概念の解放と解することもできよう。分からない人には、芸術家が高みに登ってこいと暗示しても、相変わらず「作者は何が言いたいのか?」などと最低な感想をもらし、無力感をさらけ出す。そして、政治から芸術に至るまで、分かる人は優越者となり、その他大勢との差別化によって身分の再編成が始まる。こうした様相もまた新たな階級闘争なのかもしれない。ただ、分かる人だって、どういうふうに分かるのかが分からないでいる。言葉で説明できるからといって理解していることにはならない。ここが人間の理解力の奥深いところ、むしろ沈黙の方に真の理解があるのかもしれない。
実は、人間の認識能力では現実と非現実の区別が厳密にできないってことはないだろうか。夢の中にでてくるありえないシチュエーションに対しても、妙にリアリティを感じて必死にもがき、目を覚ましてやっと夢だったと安堵する始末。現実主義とは、言い換えれば、現実っぽく見せること。芸術家は、けして現実に忠実である必要はない。人間の感覚は真理よりも真理っぽいものを欲する。大衆は真実っぽいフェイクニュースに群がり、嘘もまた本当になってしまう。観客はますます刺激を求める。ますます感覚が贅沢になり、芸術家にとことん芸術性を求めてくる。空想的な世界に飽きるとリアリティを求め、神々に見守られた理想世界に飽き飽きすると、悪魔的な本性を剥き出しにした現実世界を覗こうとする。
フューチャリズム(未来派)は、社会諷刺を題材にしてファシズムに受け入れられた。風刺とは、ある意味、人間の悪魔性を投影している。
キュビスム(立体派)は、ルネサンス以来の単一焦点による遠近法を放棄し、構成要素の極端な解体、極端な単純化、極端な抽象化の流れをつくった。人間の素朴な叫びは、ピカソの作品「ゲルニカ」に体現される。それは、数学に着眼した観念論とでもいおうか。絵画芸術に立方体、円筒体、円錐体が現れ、プラトン風イデアへの回帰にも映る。主体性の強い芸術が、客観性を帯びると、こうなるのであろうか...
「芸術は自己を侮辱することにおいてほど、その本来の魔術性をあらわにしたことはなかった。この自殺的行為によって、芸術は芸術たり得ている。自己否定において、芸術はその存続と、そしてその勝利とを奇蹟的に自己にもたらしたのであった。... 芸術の使命は、その魔術によって想像の世界を出現させることにある。」

では、非人間化を指摘したホセ・オルテガ・イ・ガセット自身は、どちらの派閥に属すのであろう。彼は、世代的にも、分からない!側に属すとしながらも、なかなか物分りのいいオヤジぶりを披露する。近代芸術にけして否定的ではなく、自然の流れとして受け入れるというのだから。本音は運命論としての諦めの境地にあったのかもしれんが...
そして、オルテガが生きた時代の後、シュルレアリスム(超現実主義)が出現し、さらにポップアートなるものも出現することになるが、それでも彼は寛容でいられたであろうか...
「作品への嫌悪感が理解不能によるとき、人は何となく自尊心を傷つけられたように思い、この種の劣等感は胸中の憤懣をぶちまけることで鎮めるほかはない。若い人の作品はただそこに存在するだけで、平均人に、自分がまさに平均人であり、芸術の神秘に心を打たれることもなく、純粋美を知る目も耳も持たぬ者であることを痛感させる。」

ところで、「非人間化」というからには、人間的とはどういうことかを問わねばなるまい。人間はきわめて主観性の強い動物。それは、自己存在という根底意識に支えられている。人間社会は、主観性の強すぎる時代から、若干の客観性を加えながら発達してきた。客観的な視点が自己を解放してきたのである。
その行き着く果てが非人間化ということか。人間は、自己を解放することによって、自己を見失おうとしているのか。自己を知ることは至難の業。自己を知るということは、無知を知ること。それはソクラテスの時代から問題とされる難題中の難題。オルテガも人間を定義するなら、「無知な愚かな人」とするのが適切だと言い放つ。
しかしながら、無知ということにこそ人間性を見い出すことができよう。自己を知るために自己から距離を置く。これが客観的な視点。人間を忌み嫌い、厭うべき存在として眺めてみなければ、人間の神聖さも見えてこない。それは人間嫌いの傾向か。自我という偶像を破壊しなければ、到達しえない領域が確かにある。遠近法を放棄すれば逆遠近法へと導かれ、あまりにリアリズムを追求しすぎると、逆に現実逃避へ向かわせる...
「ワグナーにおいてメロドラマは一つの頂点に達した。さて、芸術形式は頂点までのぼりつめると、反対側へとのめり込むことが多い。ゆえにワグナーの楽劇では、人間の声は主役であることをやめて、壮重な管弦楽の中に埋没されている。だが、これ以上の変化がその後に続いた。音楽はプライベートな情緒の重荷から解放され、模範的な客観化の過程をへて浄化された。この仕事をしたのがドビュッシーである。ドビュッシーのおかげで、われわれは恍惚や涙の心配なしに、平静な気分で音楽に耳を傾けることができるようになった。ここ数十年の音楽の発展は、ドビュッシーという天才が開拓した新しい超世界的世界において進転している。主観主義から客観主義へのこの転向は、その後に起こる分化・派生がそれほど重要とは思われなくなるほど、決定的であった。ドビュッシーは音楽を非人間化し、これにより音楽に新時代をもたらしたのである。」

2019-10-20

"ドン・キホーテに関する思索" José Ortega y Gasset 著

人間は、あらゆる物事に意味を求めてやまない。単純な事柄にさえ深みがあると信じきる。演劇の登場人物がたとえ滑稽であっても、読み手は深く読み取る自己の能力に酔い痴れる。まさに道化!
人の一生とは、狂言のようなもの。猿の仮面をかぶれば猿に、騎士の仮面をかぶれば騎士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であればそれを糧とし、いかに達者を演じて生きてゆけるか。そもそも生というものが抽象的で不確かな実在であり、だからこそ、そこに意味を求めるのであろう。そんなものはありはしないと薄々気づきながらも、あると信じてないとやってられんよ...
では、書き手の方はどうであろう。単に物狂いをお笑いネタとして描いただけということはないだろうか。深い意味なんぞこれっぽっちもなく、気ままに筆を走らせた結果ということはないだろうか。もはや作者の手を離れ、作品が独り歩きを始める。セルバンテスは、あの世で嘲笑っているやもしれん。自ら仕掛けた人間喜劇にまんまと引っかかった深読みする読者たちを。まさに諷刺劇の達人!
ところで、深い!とはどういう意味であろう。ここでいう深みとは、きわめて複合的で曖昧なものらしい。互いの人間の性質が絡み合った環境の産物とでも言おうか。それは、五感を総動員しなければ、けして味わえないものらしい。てなわけで、今宵は、ボウモア蒸溜所の Deep & Complex で深酒に落ちるとしよう...

「何をお考えですか。人間は考えるべきではありませんや、考えると老けこみますからね。ひとつごとにこだわっちゃいけません、そうでないと気違いになってしまいます。千の考えを入れて、頭を混乱させておく必要ありです。」
... イタリア旅行中、ゲーテの道連れとなったある大尉の忠告より

文学百選で間違いなく上位に顔を出す「ドン・キホーテ」。17世紀初頭に書かれたこの小説は、当初、滑稽本として受け入れられた。騎士道物語を読み耽け、妄想に駆られた初老の紳士が、古ぼけた甲冑に身を固め、痩せ馬にまたがって旅をする。ひどい時代錯誤に騎士振りと老衰振りのギャップが行く先々で物笑いの種となる、まさに道化物語。当時のスペイン情勢を映し出す、なかなか諷刺のきいた作品である。
しかし、諷刺とは、時代への批判を間接的に表現したもの。おそらく芸術精神は、人間社会への批判や皮肉といった感情から沸き起こるのであろう。疑問を感じなければ、なにも描けない。芸術とすこぶる相性の良い自由精神にしたって、現実社会の束縛から逃れようとする反抗心に発する。滑稽文化が長い時間を経て形式化し、伝統を帯びていくうちに、諷刺芸術として威厳の光を放ち始める。世阿弥の「風姿花伝」にしても、人間の滑稽を自然に演じきる奥義が論じられる。芸の道は人の道であると。
19世紀になると、この道化物語にも新たな読み方が提示され、その流れはドストエフスキーあたりから発しているようである。老紳士が妄想に駆られるのも、ある種の現実逃避。これは、人間の本質を描いた物語である。人間の本性を暴露すれば、ホセ・オルテガ・イ・ガセットのような哲学者たちの餌食となる。
ここに題されるように、「思索」というからには試論である。試論であるからには証明のしようがない。それゆえ、思考を自由に解き放ち、想像を存分に膨らませられる。酔いどれ天の邪鬼は、哲学者たちの評論にいつもイチコロよ。
ところで、狂っているのはドン・キホーテだけであろうか。キホティズムという用語は、良い意味でも悪い意味でも使われる。いつの時代も、大衆は自分の側が正常だと思い込んでいるもの。情報に翻弄される現代社会においても、有識者や道徳者たちの憤慨したコメントほど気違いじみていると感じることはない。いや、そう感じることが狂っている証なのやもしれん...
尚、アンセルモ・マタイス, 佐々木孝共訳版(現代思潮社)を手に取る。

1. 観念の密林
オルテガに言わせれば、「ドン・キホーテ」という作品は「観念の密林」だそうな。木を見て森を見ず... というが、いったい何本の木が集まれば森になるのだろう。読み手の目には、いつも上辺と深さの対立がある。目の前に立ちはだかる木々は、森という総体を覆い隠す。森は、読み手の立ち位置よりちょいと先にあって、一つの可能性を示す。それでも読み手は、本当の森が目に見えぬ木々によって構成されていることを知っている。それは、言葉によって知っているだけであろうか。そうした集合体がなんとなく存在するという感覚が、森の中にいることを確実に意識させる。中心がどこにあるかも知らずに...
「不可見性、隠れてあること、これは単に否定的な性質ではなく、かえって積極的な性質、すなわちある物に注ぎ込まれると、その物を変容させ、それから新しい物を作り出す性質なのだ。... 文字通りに森を見ようとすることは馬鹿げている。森は、それ自身としては隠れたものである。世界が内包する様々な運命 - 尊敬すべきもの、必然的なものも同様 - の多様性を見ない人々に対する、とっておきの教訓がここにある。つまり、明らさまにするなら、亡びてしまうか、あるいはその価値を失ってしまい、反対に隠され看過されることによってその充満性に到達するものがあるということだ。」

2. 環境の摂取
人間の使命として環境を摂取せよ!という。人間は、自己の置かれる環境を十分に意識した時、その環境に溶け込んだ時、自己の能力をフルに発揮できると。環境を通してのみ世界とかかわることができると。環境という寡黙なものたちを、よく観察せよと。神的な力が通っていないようなものは、この世界にはないというが、それは本当だろうか。難しいのは、この力に到達すること。凡庸な読み手は、目の前の幸せにも気づかない。それが幸か不幸か...
「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない。Benefac loco illi quo natus es(生れし場所に祝福あれ)と聖書も言っている。プラトン学派でも、すべての文化のモットーとして次の言葉をうたっている。『外観を救え』。すなわち現象を救えという意味である。われわれの周囲にあるものの意味をさぐれということだ。」

3. リアリズムとイデアリズム
人間ってやつは奇妙なもので、フィクションの中にリアリズムを求める。映画にせよ、芸術にせよ、作り話だと承知しながら。小説もまた、虚構の中に事実を発見しようとする。虚構を現実に仕立て上げるという意味では、偶像崇拝の類いか。いや、人間精神そのものが得体の知れない存在なのだから、さして騒ぎ立てることもあるまい。
小説が仕掛けるものの一つに、現実逃避がある。現実と非現実の狭間で葛藤するのは、結構楽しい。そして、自分が発見したものを神のように崇めることができれば、幸せになれるという寸法よ。
一方、純粋な目でしか見えない概念、けして脂ぎった目では見えない概念、といった意味で「イデア」という用語がある。プラトンは数学的な概念を、そう呼んだが、オルテガは、本来、イデアリズムをリアリズムと呼ぶべきものだとしている。
しかし、原型としてのイデアはどこにも見当たらない。それは、ホメロスのような盲人にしか見えないのだろうか。現実を正しく見ることは至難の業。大量の情報に埋もれる現代人には、もはや見えぬ概念であろうか。いや、見えると信じ込めれば、幸せよ...
「芸術は、リアリズムとイデアリズムという二つの無害の言葉をでたらめに使うことによって、ひどい混乱におちいっている。普通一般には、リアリズムは - 物に由来する - ある物の模写あるいは虚構と解されている。だから、現実は模写されたものに相当し、幻想あるいは見せかけが、芸術に相当する。しかしわれわれは、このように仮定された事物の現実を前にして、どのような手を打つべきかを承知しているし、物はわれわれが肉眼で見る通りのものでないことも知っている。人の眼はそれぞれ、異なったものを見るし、時には同一人の中で、両眼が互いに反対しあう... 実現するということは、だから、ひとつの物を写すことではなく、さまざまな物の総体を写すことなのである。そして、この総体は、われわれの意識の中に観念として存在するしかないのであるから、真のリアリストは観念だけを模写する。つまり、この見地からするなら、リアリズムをさらに正確にイデアリズムと呼んでもさしつかえないわけである。」

2019-10-13

"ガレー船徒刑囚の回想" Jean Marteilhe 著

なにゆえ信仰に頼るのか。それは弱さの証。人間ってやつは、自分の願っていることを簡単に信じてしまう。それが希望ってやつか。
人の心は、何かに強制されれば反発心を焚きつける。死刑よりも苛酷な終身刑が、生き地獄を生きよと命ずると、囚人たちの心理は不思議な反応を示す。死ねと言えば生に執着し、希望を持てと言えば絶望に身を委ねる。心の自由が奪われるということは、自己存在が脅かされているに等しい。そう意識した時、人は怯え、攻撃的にもなる。
宗教は、それぞれに良心の在り方を説く。だが、絶対的な良心なんぞ、この世にありはしない。少なくとも人間の世界には。神が人間を選ぶのか。いや、人間が神を選ぶのだ。ならば、選ばないという選択肢もあっていい...

この物語は、ガレー船徒刑囚として、12年間を過ごした回想録である。プロテスタントであるがゆえに受け入れざるを得なかった運命とは。ただ、回想録が書ける機会があっただけでも運がいい。
信仰に取り憑かれた人間は恐ろしい。実に恐ろしい。彼らが自らの道徳を多数派の道徳として主張しだすと、異なる宗教観や道徳観を持った人々の排斥が始まる。集団化の過程で、自らの価値観を客観的に意識できなくなり、それを他人に力ずくで押し付けようとする。これが、政教一致の脅威というものか。人間ってやつは、神の事を知らなくても、神を信じることができる。この脅威が多数派の心理に飲み込まれた時、民主主義社会の弱点が浮き彫りになる。
本書が、一個人の、一キリスト者の回想録であることは間違いないが、政教分離という現在でもなお未解決な問題をつきつけ、ユグノーの歴史の一端を垣間見る思い。ここに綴られる、きわめて異様な状況!きわめて特異な経験!きわめて生々しい描写!は... ヘタな歴史書で知識をまとうより、当時の光景を恐ろしく目に浮かばせる。
尚、木崎喜代治訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 徒刑囚から解放への旅
「イエス・キリストやその弟子たちや多くの忠実なキリスト教徒たちが、この聖なる救世主の預言に従って迫害されたことを考えるとき、わたしは、かれらのように迫害されている以上、真の救済の道を歩んでいるのだと信じないわけにはいかない...」
時代は、ルイ14世治下のフランス。ジャン・マルテーユは、17歳でガレー船送りの刑に処せられた。そこには、国王とカトリック教会がプロテスタントを侵食していく背景がある。
次々と教会を閉鎖し撤去、牧師の活動を制限し、声高に聖歌を歌うことを禁ずる... プロテスタントの学校を閉鎖し、子供にカトリック教育を強制する... 職業も制限され、社会的地位も奪われ、国王の許可なしに国外へ出ることもできない... おまけに、臨終に際しては、カトリックの聖職者を枕辺に呼んで、カトリックに改宗しないか否かを訊ねてもらわなければならない... 国王の竜騎兵には殺人と婦女暴行以外の行為はすべて許されたそうだが、この二つの条件だけが尊重されるはずもなく、官吏は黙認。カトリックへの改宗を宣言するまで家に居座り、家具を破壊し、衣服を破り、食べ物を喰い尽くし、拷問にかける。そして、略奪するものがなくなるや、別のプロテスタントの家を襲う。狙われる家は、ブルジョア階級のプロテスタント。貧家には奪うものがないから... 等々。
このような光景を見せつけられては、あのパスカルの言葉をつぶやかずにはいられない... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。
マルテーユは、典型的なベルジュラックの裕福な商人の家の出。ベルジュラックは、フランス南西部のボルドーに近い小さな町で、古くからプロテスタント信仰の拠点の一つであったという。ガレー船の動力にプロテスタントの奴隷を使い、それでプロテスタント国イギリスと戦争をやるとは、なんとも皮肉な話。フランス軍は味方の監視も怠れない。プロテスタントのガレー船徒刑囚の存在は広く知られ、国際的に避難の的となった。
ユトレヒト講和条約の際、イギリスのアン女王の介入で一部のプロテスタントが解放され、マルテーユもその一人。解放後、プロテスタントの都市で歓迎を受けながら、スイスやドイツを経由してオランダへ旅をする。目的地はプロテスタントの亡命拠点として有名なアムステルダム。マルテーユは、アン女王に感謝し、なおガレー船に残る人々の解放を嘆願するために、代表団の一員としてイギリスに渡り、女王に謁見したとさ...

2. ナント勅令の意味
歴史の教科書が教えていることは、ナントの勅令によって、カトリックとプロテスタントは和解し、プロテスタントにも信仰の自由が保障されたということ。しかし、こうした理解は適切ではないようである。
確かに、プロテスタントの信仰は国王によって承認されたが、そこには条件があったとか。特定の地域でのみ礼拝や結婚や教育活動が承認され、避難地帯や安全地帯が設置されたというから、ある種の隔離政策という見方もできよう。この勅令が、休戦状態に過ぎないという論評も的外れではなさそうだ。
また、プロテスタントの多くは、地方貴族、有力地主、裕福な商人で、独自の守備隊を持つほどの有力者であったといういから、国王にとって目障りな存在であったことだろう。太陽王がわざわざフォンテーヌブローの勅令で、プロテスタントの自由をチャラにすると宣言したところで同じことか。いや、略奪行為が国王のお墨付きとなれば、それは懲罰か、迫害か、と問うても詮無きこと。マルテーユは、「教皇至上主義の誤謬」と表現する。
だからといって、その場しのぎで改宗の意志を表明し、再びプロテスタントに戻ったとしても、今度はプロテスタントの側で裏切り者呼ばわれ。彼らにとって、「正義」という言葉ほど空虚なものはない。裁判などと名乗るのはやめて、国王命令の執行者とでも名乗れ!... といった台詞も飛び出す。
そして、プロテスタントの籠もった城砦都市が、一つの自由都市国家として国家安全保障の概念を目覚めさせ、ここに近代国家モデルの源泉を見る思い... などと解すのは、ちと行き過ぎであろうか...

3. ガレー船の有用性
読者を退屈させないように、ガレー船の構造や航行法、乗員組織までも詳細に解説してくれる。この記述は、まるで映画「ベン・ハー」の一場面。
「鎖でつながれた素裸の六人の男たちが腰掛に座り、櫂を握り、足置板に取り付けられた太い棒である足架に片足を乗せ、もう一方の足は前の腰掛の上に掛け、身体を長く伸ばし、腕に力を込め、同じ動作を夢中になってやっている前の席の者の身体の下まで櫂を押し出すのである。そして、こうして櫂を押し出すと、こんどは櫂が海を叩くように持ち上げ、同時に後方に身を投げ、というよりもむしろ、身を落とし、自分の腰掛の上に落ちるように座るのである。」
ちなみに、苛酷な労苦とか労働をする時、「ガレー船徒刑囚のように働く」という言い回しが、当時にはあったらしい。
また、ガレー船の有用性についても言及している。ガレー船の維持に要する出費は重い負担となる。戦時であろうと、平時であろうと、武装解除されている冬季であろうと、武装中の夏季であろうと、常に維持しなければならない。イタリアの共和国諸国が保有するガレー船とも事情が違う。イタリアでは、民間運営によって商売でも利用されていたようである。地理的な事情も違う。地中海は、潮の緩慢がないうえに凪の時間が比較にならないぐらい長いが、大西洋での航行は困難を要し、イギリスの軍船よりはるかに劣る... 等々。
要するに、フランスのガレー船は、軍用兵器というより、むしろ監獄の意味合いが強いということか。

2019-10-06

"職業としての学問" Max Weber 著

「職業としての政治」(前記事)では、1919年、第一次大戦後の混迷したドイツを浮き彫りにし、学生諸君にカツを入れるかのように現実的な政治論を説いて魅せた。ヴェーバーは、敗北の現実を前にし、自虐的な夢想に耽る知識人たちの論調に我慢ならなかったと見える。
ここでは少し遡って、1917年、まだ敗戦が決定的になっていないにせよ、その気配を感じ取った青年たちが、厳しい現実から救ってくれる世界観を欲し、教師よりも指導者を求めた様子が伺える。学生諸君は、宗教倫理や経済精神を論じてきたヴェーバー先生が、世界の意味を語り、どこかへ導いてくれると期待して集まったのだった。
しかし、ヴェーバーは逆に、教師が指導者であってはならず、ましてや扇動者になるのはもってのほかと冷たくあしらい、あらゆる政治思想や価値観から距離を置く立場を表明する。そして、さっさと日々の仕事に帰れ!と叱咤するのだった。世界観なんてものは科学的に説明できるようなものではなく、人それぞれ、人の努力いかんにある... 学問する者の心得は、学問が何かを教えてくれると期待するのではなく、学問することによって自分で自分を導け!と。この講演は、聴衆に脅かすような印象を与えたという...
尚、尾高邦雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 専門の意義とは...
教壇に立つ者の使命には、二重性があるという。一つは学者としての資格、二つは教師としての資格。実際、研究の感覚に優れた人と、教える感覚に優れた人がいる。一概には言えないが、後世に名を残すタイプが前者で、現在に熱気を帯びるタイプが後者ということになろうか。
例えば、学者として優れていながら教師としてまったく駄目なタイプに、ヘルムホルツやランケを挙げている。双方に優れた人は稀だが、ヴェーバーがそういうタイプということになろうか。彼は、専門に専念せよ!隣接領域の縄張りを荒すな!と説く。専門に閉じこもることによってのみ、成し遂げられる仕事があると。実に、耳の痛いご指摘である。
しかし、だ。そういうヴェーバー先生が、社会学、政治学、経済学、神学、哲学など幅広く手を出してきたではないか。いや、彼の目には、これらの学問が一つの分野に見えるのかもしれない。学問の真意は、真理を求めること。そのために視野を狭めるのでは本末転倒。専門化の過程はこれからますます続き、熱中する心構えのない人は学問には向かないという。それも研究が進み、知識が深まれば、自然の流れ。一つの研究に没頭すれば、学問上の霊感が自然にわいてくるという。それは、芸術家でも、技術者でも同じこと。自分の仕事に仕える人のみが味わえる領域が、確かにある。ある種のオタク的な感覚だが、現代風に言えば、geek といったところか。
ここで、ちょいと「専門」という表現にこだわってみよう。この時代と現代感覚とでは、抽象レベルが大分違うようである。専門とは、個性から生じるもので、自分で見つけるものと捉えるならば、自分がやれることこそが専門ということになろう。つまり、やるべきことをやれ!やれることをしっかりやれ!と説いているようにも映る。もっと言えば、やれることに専念しながら、けして専門馬鹿にはなるな!とも。こう解すのは、ちと行き過ぎであろうか...
ちなみに、老ミル(ジョン・スチュアート・ミルの父ジェームズ・ミル)は、こう言ったとか。
「もし純粋な経験から出発するなら、人は多神教に到達するだろう。」
知識ってやつは、その人の拠り所とする立場いかんによっては、神の知識となりうることも、悪魔の知識となりうることもある。知識が豊富になればなるほど、調和させる能力が求められ、発散させては元も子もない。老ミルの言葉を持ち出しているのは、学際的な態度を表明している。学問に熱中すれば、多くの神を見るであろう、と...
「学問上の達成はつねに新しい問題提出を意味する。それは他の仕事によって打ち破られ、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。」

2. 学問の意義とは...
人が学問を始めようとする時、知識を得ようとする時、それは何のためにやるのか?それが何の役に立つのか?と問う。その理由ときたら、高い地位に就きたいから、高い収入を得たいからなどと、たいてい脂ぎった欲望に支配される。最初から純粋に学問に励むことは難しい。ただ、学んでいくうちに、脂ぎった欲望も鎮まりを見せることがある。
確かに、科学は進歩してきた。それで、科学が正しい世界観を示してきただろうか。正しい価値観を教えてきただろうか。むしろ無意味さを教えているのではなかろうか。この無意味さが、脂ぎった欲望を鎮めてくれるというのか。
何をやるにしても、人間は意義を求めてやまない。何をもって意義ある学問とするか、何をもって意義ある知識とするか、それは学問に携わる人の心構えいかんにある。まさにここに、学問の意義があるのだろう。
ヴェーバーは、学問の意義を絶えまない進歩の過程そのものに求める。それは、人類が何千年にも渡って積み重ねてきた合理化の過程である。ソクラテスの時代から哲学者たちが試みてきた主知化によって、認識論一般に通用する手段を編み出そうと。
その手段とは概念である。概念によって抽象化の意義を自覚し、論理的思考を発展させてきた。弁証法もその過程の一部。自然科学は、主観的傾向の強い人間に、ちょいとばかり客観的な視点を与えてきた。人間の思考を魔法や呪術から解放してきた。そこには絶対的な方法論は見当たらない。だからこそ、学問する者には常に健全な懐疑心が要請される。
そして、最大の敵は自己欺瞞ということになろう。せっかく苦労して獲得した知識も、古みを帯びてくるは必定。これを喜びとするには修行がいる。学問上の幸せとは、自ら歳老いていくのを楽しむことができる、ってことだろうか。ガンジーの言葉に... 明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ... というのがあるが、まったくである。
「学問は自然の真相に到達するための道である。」

2019-09-29

"職業としての政治" Max Weber 著

「職業としての政治」は、1919年、ミュンヘンのある学生団体(自由学生同盟)のために行った公開講演をまとめたものだそうな。第一次大戦の敗北でドイツ全土が騒然たる革命の空気に包まれる中、帝政の崩壊とともに政治の意味するものも変貌していく。各地でレーテ運動が活発化し、どこよりも知識人革命の色彩を帯びていたのがミュンヘンだったという。プロイセンを中心としたドイツ帝国の中でも、ちょいと距離を置く南ドイツのバイエルンの首都。後に、ヒトラーの血なまぐさい運動を誘発した地でもある。
マックス・ヴェーバーにして、やりきれない気分に駆り立てたものとは... 敗戦の事実をあたかも神の審判のように捉える、知識階級の自虐的で独り善がりなロマンティシズムに苛立ったと見える。芸術界に波及したナショナル・ロマンティシズムが、いよいよ政治の世界で目覚める時が。愛は盲目と言うが、冷静な愛国心を身にまとうには修行がいる。ここでは、ヴェーバーのナショナリスト的な側面を垣間見る...
他にも、ヴェーバーが学生諸君に奮起を促した講演では「職業としての学問」という作品があると聞く。無論、こちらに向かう衝動も抑えられそうにない。実際、目の前に控えてやがるし...
尚、ここでは、脇圭平訳版(岩波文庫)を手に取る。

政治とは何か。国家とは何か。ヴェーバーは、そんな素朴な疑問を投げかける。彼は、国家を「正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体」と定義し、政治を権力の配分、維持、変動に対する利害関心としている。
「政治とは、国家相互の間であれ、あるいは国家の枠の中で、つまり国家に含まれた人間集団相互の間でおこなわれる場合であれ、要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である...」

「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている。... トロツキーはブレスト=リトフスクでこう喝破したが、この言葉は実際正しい。」
国家の正当性は国民主権を守ることに発し、統治権もまた正当性が担保されなければ、ただの暴力ということになる。
とはいえ、権利とは相手との関係から生じるもの。それが集団と集団の間であれ、個人と個人の間であれ、なんでもかんでも権利を主張すれば、当然ながら衝突することになり、権利にも相対的な制限が必要となる。この制限が、一般論で倫理や道徳と結びつけられるところ。有識者たちは、政治と倫理を結びつけて熱弁をふるう。
また、正当性が担保されるからといって安心もできない。正当性ってやつは、実に多種多様な解釈を招き入れるもので、一筋縄ではいかない。一般的な基準としては、法が役目を果たすことになるが、条文の解釈もまちまちときた。よって、政治行動の正当性は、歴史に委ねられるところがある。
しかしながら、政治行動とは現実の今を生きることであって、のんびりと過去を考察している場合ではない。本書は、政治に倫理を結びつけたユートピア志向への警鐘という見方はできるだろう。要するに、政治はあくまで政治であって、倫理ではない!ってことだ。ヴェーバーの問題提起は、有識者に対して、特に理性人には挑発的なものとなろう。
「政治に関与する者は、権力の中に身をひそめている悪魔の力と手を結ぶ...」

1. 政治心理学
「政治とは何か。これは非常い広い概念で、およそ自主的におこなわれる指導行為なら、すべてその中に含まれる。現にわれわれは、銀行の為替政策とか、国立銀行の手形割引政策だとか、ストライキの際の労組の政策がどうだ、などと言っているし、都市や農村の教育政策、ある団体の理事会の指導政策、いやそればかりか、利口な細君の亭主操縦政策などといった、そんな言い方もできる。」
政治は、なにも政治家の専売特許ではない。人間、二人寄れば争いが起き、三人集まれば派閥ができる... なんて言うが、人間関係あるところに政治的な思惑が生じ、集団あるところに政治屋が蔓延る。これはもう人間社会の掟である。
アリストテレスが... 人間をポリス的動物... と定義したのは実にうまい。ポリス的とは、社会を育むこと、集団生活を営むこと。つまり、人間はみな寂しがり屋ってことだ。
そして、共存は競争を生み、自己の優位性を強調しようと躍起になる。これは、ある種の自己防衛本能の顕れである。人間は、自己存在を確認するために、本能的に世話好きなところがある。自分だけが良い目に会ったり、自分だけが良い事を知っていると思えば、誰かに喋らずにはいられない。宗教心は、押し付けがましいところから始まり、それが使命感へと肥大化させる。教育や指導の動機にも似たところがあり、良く言えば、啓蒙家の資質である。ただし、啓蒙とは恐ろしいもので、使命感によって他人を陶酔させようとしながら、自己陶酔に浸るところがある。
したがって、政治行動の末期症状に、自己陶酔や自己暗示といった心理現象を見て取れる。ヒトラーが自滅したのは、歴史の偶然だけで片付けてよいものやら。民族主義と深く結びついた国家社会主義を掲げる以上、戦争は避けられなかったはずである。これはもうイデオロギー特有の必然性であろう...
「権力追求がひたすら仕事に仕えるのでなく、本筋から外れて、純個人的な自己陶酔の対象となる時、この職業の神聖な精神に対する冒瀆が始まる。」

2. 国家と帰属意識
職業政治家の行動と動機を考察する上で、国家の概念を抜きには語れまい。ナポレオン戦争後、ヨーロッパに秩序を回復させたウィーン体制。これを崩壊させた十九世紀の革命機運、いわゆる「諸国民の春」から近代国家が続々と出現した。
つまり、現在の国家の枠組みが成立して、せいぜい二百年ぐらい。ハプスブルク家の六百五十年やロマノフ王朝の三百年と比べれば、まだまだ若い部類だ。世界は政治哲学をもつにはまだ若すぎる... とは誰の言葉であったか、なかなか的を得ていそうだ。
近代国家の特徴として、かつて国家間の紛争が領土問題に発していたのに対し、これに民族意識としてのアイデンティティが火種として加わったことが挙げられよう。どちらも帰属意識に発することに変わりはない。二百年の歴史を伝統と呼べるほどのものかは別にして、帰属意識として定着すれば、伝統意識を強烈に植え付ける。政治を実践する者にとって、帰属意識の扱いはデリケートな問題となろう。その根底に自己存在という意識があり、まさに国家の概念はここに発する。こうした意識が自己防衛本能を刺激し、集団意識となって国家安全保障の概念と結びついてきた。
ただし、こいつは自己陶酔の根源となる意識でもあり、しばしば愛国心という名で集団的自我を肥大させる。人間ってやつは、本能的に臆病である。臆病でなければ、これほどの文明は発達しなかったであろう。臆病ゆえに恐怖心を煽ることが、政治戦略では絶大な効果を得る。順風満帆な社会では、政治の存在感は極めて薄い。それが政治家にとって幸か不幸か...

3. 権力と虚栄心
政治を行う者は、その必然性から権力を求める。ヒュームの言葉に... 政治的企画室というのは、権力を握ると、これほど有害なものはないし、権力を持たなければ、これほど滑稽なものもない...いうのがあるが、実にうまい。
権力を、高慢な目的や利己的な目的のための手段として追求するか、優越感を満喫するために追求するか、あるいは使命感のために追求するか、そんなことは知らんよ。目的がどうであれ、政治家を目指すならば、支持者を募る必要がある。少なくとも民主主義社会ではそうだ。大衆からどう見られるか、これは政治家としての重要な資質の一つである。そもそも虚栄心のない人間がいるだろうか。評論家や学者の場合、それが鼻持ちならぬものであっても害は少なくて済むが、政治家の場合、虚栄心の満足が権力と直結するだけに見過ごすわけにはいかない。
政治行動の原動力が権力であるならば、この権力が正当性に裏付けられた暴力であるならば、これに相応しい特別な倫理観を要求せねばなるまい。ヴェーバーは、政治家の特に重要な資質として、情熱、責任感、判断力の三つを挙げている。しかも、この三つを貫く心に、悪魔的な信奉者となることまで要求している。情熱とは権力を味わう充実感、責任感とは政治哲学の信念、判断力とは冷静で客観的な視点で、それぞれのバランスをとることが政治家の資質ということになる。だが、一人の人間の内でさえ、心情倫理と責任倫理を和解させるには、よほどの修行がいる。そして、不倶戴天の敵が卑俗な虚栄心というわけだ...
「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。... どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてくじけない人間。どんな事態に直面しても、それにもかからず!と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への天職を持つ。」

4. 服従と人間装置
権力の正当性を語るならば、服従の正当性も語らねばなるまい。服従の正当性の根拠を問い詰めていけば、三つの純粋型に突き当たる。一つは、永遠の過去が持つ権威、習慣によって神聖化されるような「伝統的支配」の類い。二つは、天与の資質や英雄の啓示など個人に帰依するような「カリスマ的支配」の類い。三つは、法の命令が義務となるような「合法的支配」の類い。三つ目の服従が最も客観的と言えようが、実際は単独の純粋型を見ることは稀で、三つが複雑に絡み合った形で現れる。そして、心理学的に、無意識の服従という型も加えておこうか...
「暴力によって、この地上に絶対的正義を打ち立てようとする者は、部下という人間装置を必要とする。」
服従の原理は、部下や追従者という人間装置なしでは機能しまい。そこには、必ずと言っていいほど見返りの原理が働く。しかも、たいていは復讐、権力、戦利品、俸禄といった欲望の正当化にすぎない。
そもそも人間には、本能的に見返りを求める性癖があり、神の前ですら願い事を唱える。そりゃ、神も沈黙するしかあるまい。なぁーに心配はいらない。代わりに宗教が願い事を叶える、と約束してくれる。死後の世界で...
大衆は、心地よく服従する状態を求めているかに見える。だから、人のせいにし、組織のせいにし、社会のせいにし、それで安穏と生きていられる。いとも簡単に平凡きわまるサラリーマンに堕落してしまうのは、それを心底望んでいるからではあるまいか。服従とは、依存症の政治的状態を言うのやもしれん...

2019-09-22

"実利論 古代インドの帝王学(上/下)" カウティリヤ 著

ナンダ朝を倒し、マウリア朝を建国したチャンドラグプタ大王。彼には、カウティリヤという名宰相がおったそうな。ちょうど中国でいうところの諸葛亮のような知謀家が...
カウティリヤの書として伝えられる大著「アルタシャーストラ(Kauṭilīya-Arthaśāstra)」は、サンスクリット語で「実利の学」という意味。それは、紀元前四世紀のものとされる。ただ、後世に改版を重ねてきたという説もあり、その成立時期については未だ論争が続いているようである。
実際、本書には、学匠や偉人たち、あるいは、従来の諸説に対して、「それは正しくない、とカウティリヤは言う...」 という反論のフレーズがちりばめられ、カウティリヤ自身が書いたというよりは、カウティリヤの言葉をまとめた感が強い。古代の書ともなると、高名な偉人や聖人の名を当てて権威づけることが大いに考えられるわけだが、この際、成立時期や真の著者が誰かなんぞどうでもいい。既に古代インドでは、現代にも通ずる実践的な政治哲学、いや政治技術が語られていたということだ。マックス・ヴェーバーは、著作「職業としての政治」の中で、こう書いているという。
「インドの倫理では、政治の固有法則にもっぱら従うどころか、これをとことんまで強調した - まったく仮借ない - 統治技術の見方が可能となった。本当にラディカルな『マキャヴェリズム』 - 通俗的な意味での - はインドの文献の中では、カウティリヤの『実利論』に典型的に現われている。これに比べればマキャヴェリの『君主論』などたわいのないものである。」

古代インドでは、ダルマ(法)、アルタ(実利)、カーマ(享楽)が人間の三大目的と考えられていたという。カウティリヤは、アルタを中心に据え、他の二つをアルタに従属させる。そして、学問を、哲学、ヴェーダ学、経済学、政治学の四種に定め、その中で哲学を支柱に据える。
「哲学はヴェーダ学における法(善)と非法(悪)とを、経済学における実利と実利に反することとを、政治学における正しい政策と悪しき政策とを、そしてそれらの三学問の強さと弱さを、論理によって追求しつつ、世間の人々を益するものである。それは災禍と繁栄における判断力を確立し、智慧と言葉と行動とを通達せしめる... 
哲学は常に、一切の学問の灯明であり、一切の行動の手段であり、一切の法の拠り所である...」

本書は、こうした学問態度から、国益を徹底的に追求する思考法を披露してくれる。ここで特徴づけられる総合的な目線と合理的な視点は、国家論、王道論、外交論、軍事論、そして諜報論にまで及び、細目に渡って論じられる。
こんな具合に...
城砦都市を建設し、地方を植民して国造りをなす。商工農林に各省庁を設置し、官吏を登用し、中央と地方の行政に漏れなく国家体制を敷く。度量衡を定め、出入国者を監視し、酒類から遊女に至るまで統制下に置く。消費税や遊興税の類いを制度化し、違反者から罰金を徴収して国庫を潤す。同時に、国王は官吏の行動に目を光らせるばかりか、身内や後継者にも監視の目が向けられ、王自ら、民法、民事訴訟法、刑法など、あらゆる裁きの責任者となる。
かくして王道は刑罰権の行使と同義語に...

カウティリヤにとって、アナーキーこそ最も警戒するところ。抽象的な理想主義なんぞくそくらえ!と言わんばかりに、現実の国家元首像を書きまくる。君主といえども欲にまつわる人間の弱さをあぶりだし、王たる者がいかに人間の本性を巧みに利用すべきかを説く。もはや、理想王は策士の権化か...
しかしながら、とことん人間の醜態を暴きながらも、大前提とされる王者の資質が語られる。公明正大で共同体の秩序維持に務めるために、社会福祉のための法を定めるために、弱肉強食の弊を除くために、確固とした王権が必要だと説く。王は国民の安寧を守るために、常に精励努力して実利の実現を追求する。弱者の保護は王の義務であり、そのための秩序や揺るぎない権力が必要である、という論理。
そして、王たる者は、感情を抑え、誘惑を斥け、遊興に耽ず、行動の一切を挙げて国民の守護という最高の義務を自ら課す。最高位にある王は、唯一自己制御可能な特別な存在でなければならないというわけである。ここに、修身斉家治国平天下といった儒教的な政治観が、古代インドにも定着していた様子が伺える。
「しかし、王杖を全く用いぬ場合は、魚の法則(弱肉強食)を生じさせる。即ち、王杖を執る者が存在しない時には、強者が弱者を食らうのである。王杖に保護されれば、弱者も力を得る...
王の幸福は臣民の幸福にあり、王の利益は臣民の利益にある。王にとって、自分自身に好ましいことが利益ではなく、臣民の好ましいことが利益である...
臣民を法により守る王が自己の義務を遂行することは、彼を天国に導く。王が保護せず不正な刑罰を科する場合は、逆の結果となる。」

人間の本務は自己の義務に生きること。では、義務とはなんぞや。
仮に、王のために... とした場合、王は義務に足る人物かが問われる。世襲によって正統性が担保された君主は、たいてい僭主となることは、歴史が示してきた。真の君主が登場しても長続きしないことを。それは独裁制というイデオロギーの持つ特質、いや、人間の本質であろう。
仮に、国家のために... とした場合、国家は義務に足る体制を備えているかが問われる。それが民主制だとしても、政治的にも、経済的にも、施策がうまくいかなくなれば、国家権力は独裁色を強めていく。それでも独裁制よりは、ましか
これは、もう人間の本性の領域。そして、カウティリヤの言葉は、君主よ!しっかりしろ!と励ましているようにも映る...

ところで、本書には、やたらとスパイの話題が登場する。権謀術数では、暗殺や毒薬、怪しげな秘法まで伝授してくれる。男社会では女スパイの活躍の場が広がる、というのは古今東西で共通しているらしい。遊女館を情報アジトとして活用し、遊女長官という役職まで。ただ、「遊女」の定義が現代感覚とは、ちと違うようで、歌、器楽、吟誦、演劇、文学、絵画、琵琶、笛、太鼓、読心術、会話術、マッサージなど、様々な技能や知識を持つ女性とされる。
こいつは、スパイマニュアルか?それでいて、王道の徳目を説く?... ん~、もはや矛盾を通り越して支離滅裂!だが、政治とは、もともと矛盾した世界。いや、人間社会そのものが支離滅裂な世界。だから、実利論として成立するのである。
統治とは、人間を統制すること。それはすなわち、人を動かすこと。政治技術とは人を動かす術であり、そこには脂ぎった処世術も絡んでくる。様々な欲望から共通の利益を見出し、これを実現していくとなれば、功利主義的な思考も見て取れる。
また、国家間の問題はすべて領土に発するとし、必然的に隣国は敵とみなされるが、自己存在を脅かす存在として最も身近な存在こそ人間社会に内在する根深い病魔であろう。
この実利の学には、一古典の生命力を感じずにはいられない...

2019-09-15

"ドイツ参謀本部興亡史" Walter Görlitz 著

「インテリジェンス」という言葉を追いかけ... 追いかけ... いつの間にか「ゲーレン機関」に漂着したかと思えば、今度は「ドイツ参謀本部」を覗き見している。もはやハシゴ癖は収まりそうにない。この用語が、政治の世界、特に軍事用語として広まってきた経緯があるだけに、それも自然の流れであろうか。人間の存在意識を根底から支えるものが生存競争にあるとすれば、人間の知的活動もまたここに発する。その極限状態にあるものが戦争であり、戦争ほど人間の本性を露わにする題材はあるまい。
戦争ってやつは、一人の英雄がやるものではない。集団を組織化し、いかに効率的に行動するかにかかっている。天才軍略家として誉れ高いナポレオンとて、その意味を理解していた。フランス革命によって解き放たれた大衆を軍隊としてまとめあげる方法論として。
ここでは、組織論という観点からインテリジェンスを眺めてみよう。ただし断っておくが、本書には「インテリジェンス」という用語は一切現れない。この酔いどれ天の邪鬼が気ままに関連づけているだけのことである...
尚、守屋純訳版(学研, WW selection)を手に取る。

世界最強の組織と謳われたドイツ参謀本部。これをもってしても、戦争には勝てなかった。良書を読まない人は字が読めないに等しい... とは、かの古代大哲学者の言葉だが、どんなに優れた知識を持っていても、その活用法が分からなければ無知に等しい、ということか。いや、知っていることが精神安定剤となることもあるので、一概には言えまい。
そもそもドイツには、地理的に不利な条件が揃っている。欧州大陸の中央に位置するがために、攻撃性を強めれば、必然的に東西二正面戦争を強いられる。それゆえ予防戦争こそが鍵となり、伝統的に防禦思想が主流であったのは孫子の兵法にも適っている。ヒトラーが出現するまでは... だけど。
対して、イギリスは海を隔てた自然の要害に守られ、後方支援を無限に受けられる立場。アメリカを味方にすれば... だけど。
エーリッヒ・フォン・ファルケンハインが、イギリスが最も強敵と見たのは、まったく正当であろう。陸軍国と海軍国の地理的な差は、長期的な経済戦争では想像以上に大きく、第二次大戦ではこれに制空権が加わる。
ちなみに、「我が闘争」によると、ヒトラーの理想的な同盟相手国は三つということになっている。イギリス、イタリア、日本である。どこかの領土に目をつける度に、その後方から口を出してくる存在は目障りでしょうがない。ヒトラーはイギリスが元凶という考えに憑かれていく。領土拡張と巨大兵器こそが権力者の象徴と言わんばかりに。独裁者の心理学には、まったく付き合いきれん...

さて、参謀本部という組織は、考えうるすべての条件や環境を考慮し、最悪のケースまでも視野に入れながら研究を進める立場。慎重論を唱えようものなら、臆病者や敗北主義者のレッテルを貼られる。人間には、弱みを突かれると、より攻撃性を増す性癖がある。スターリンの粛清も、赤軍将校が自主的に行動しようとしたことへの恐れに発する。支配層の自惚れは、いわば人間社会の法則。
そして、尻拭いは誰がやるか。戦争の最終局面における参謀本部の使命は、いかに戦争を終わらせられる材料を提供できるか、が問われる。暗殺未遂事件に、陸軍参謀本部の面々が深く関わっていたのも偶然ではあるまい。ニュールンベルク国際法廷は、参謀本部を犯罪的組織という訴追については免責したのだった...

「自らあえて決断する将帥には補佐役は要らぬ、部下はただ実行するのみ、というのは、いつの世紀でも、ほとんどあったためしのない第一級の理想である。大抵の場合、一軍の将たる者は補佐役なしに済ませられるものではない。特に正しい判断へと導くことのできる教養と経験をもった複数の人間が共通の結論を導きだせれば、それはまことに結構だ。だが何人そういう人数がいようと、有効なのはひとつしかありえない。軍隊の命令序列では補助の意見も従属せねばならない。... だが最も不幸なことは将帥が他からの統制のもとにあって、毎日、毎時間、自分の構想・計画・意図について総司令部の最高権力者の代理に、あるいは後方の電信によって、申し開きをせねばならぬことである。それでは、いかなる自主性も、迅速な決断も、大胆な敢行も失敗せざるをえない。それが戦争を指揮するうえで必要なはずなのに。」
... ヘルムート・フォン・モルトケ「戦争理論について」

1. 国民戦争
クラウゼヴィッツは、戦争を政治の一手段と位置づけた。戦争は政治の範疇でのみ有効性を持つと。大袈裟に解すれば、政治の範疇でのみ正当化も可能になる。
しかしながら、フリードリヒ大王の戦争からナポレオン戦争を経て、二つの大戦へと邁進していく様を眺めていると、いかに政治が戦争の一手段と位置づけられてきたことか...
その要因の一つに、戦争の長期化があげられる。それは総力戦を意味し、かつて国王と軍隊のものであった戦争は、大衆化と相俟って国民戦争へと変貌していく。いかなる卓越した作戦技能よりも経済的潜在能力が決め手となり、科学技術の質や人材の数、工業生産力、資源の確保、食糧配給、国民の士気などすべての社会的要素が絡んでくる。つまり、前線よりも国内の方が重要だということだ。戦争が大衆化すると、ちょいと愛国心をくすぐるだけで扇動効果も倍増する。もはや政治に属すのやら、戦争に属すのやら。いや、政治も、戦争も、人間社会の一現象に過ぎないということか...
「重要なのは、軍事と戦争における政治と社会の要素を考察することである。軍事機構や戦闘法、そして戦争指導というものは、一般に政治形態や文化・社会の発展段階を反映している。時代や大きく躍動する理念、あるいは政治体制とともに軍事機構や戦争観も変化する。このことはあらゆる民族や国家の歴史にあてはまる。」

2. 軍略家たちの哲学
ドイツ参謀本部には、偉大な軍略家たちの思想哲学の融合が見て取れる。まず、参謀本部制度の生みの親と呼ばれる二人。偉大な啓蒙家シャルンホルストが「政治的将校」という軍人モデルを提示すれば、無名を心得たグナイゼナウは「参謀将校は無名であるべし」という鉄則を提示した。
ちなみに、クラウゼヴィッツがシャルンホルストのヨハネであるとすれば、グナイゼナウは自分のことをシャルンホルストのただのペテロと書いたとか。
戦争が政治の手段である以上、軍人にも政治的な視野が求めれる。今日の軍人は、第二次大戦当時の帝国軍人とは違い、外交的感覚にも敏感でなければならない。戦いの優位性だけを考えるなら大量破壊兵器を用いれば済む話だが、それで国家の権威が失墜するとすれば何のための戦争か。二人の始祖の思想哲学は、現代感覚にこそ適合しそうである。
しかし、この理想主義の時代は、産業革命や技術革新とともに変貌を遂げる。戦略や戦術が高度化すると、大モルトケは軍事スペシャリストの育成に努めた。軍事学は、兵站算術から脱皮して数学的戦争体系へ。
どんな学問分野であれ、高度化が進むほど専門性を強めていくものだが、歴代参謀総長たちの人間像を追っていくと、伝統と革新の間で揺れ動き、教養学派と専門学派が対立しながらも、うまく融合しながら発展していく様子がうかがえる。
学識の広い政治的将校としては、小モルトケ、ハンス・フォン・ゼークト、ルードヴィッヒ・ベック、フランツ・ハルダーといった名を見かけ、技術革新と専門性に目を向けた学派としては、シュリーフェン、ツァイツラー、グデーリアンといった名を見かけ、人材は実に豊富で多彩。
彼らには、どんなに優秀な参謀本部といえども、統帥の代わりをすることはできない、という考えが浸透しており、ここに、統帥権の扱い、あるいは、後のシビリアン・コントロールの概念が暗示されているように映る。
ちょいと異色なタイプでは、塹壕戦で膠着状態に陥った時に登場したヒンデンブルクは、大モルトケとシュリーフェンから最高の評価を受けていたが、すでに高齢だった。にっちもさっちもいかない状況になると、年寄の出番がくるのは世の常。しかも、偶像化されて大統領に。
さらに、あらゆることに首をつっこみ、政治的陰謀に身を投じたアルフレート・フォン・ヴァルダーゼーや、政治に介入し、一時的にせよヒトラーと手を結んだルーデンドルフといった面々も見かける。
尚、ベックほどの人物でも、暗殺未遂事件の首謀者というイメージが強く、シャルンホルスト流の「政治的将校」というモデルが、皮肉な形で体現されることに...
そして、ドイツ参謀本部が残した組織哲学が真の意味で体現されるのは、ゲーレン機関を経てずっと後ということになろうか... いやいや、まだまだ先のことであろうか...

3. 東西どちらを優先すべきか
これは、ドイツ参謀本部が慢性的に抱えている問題である。大モルトケによると、それは東だという。確かに、広大なロシアには潜在的な脅威がある。
一方、シュリーフェンは西部戦線における短期決戦プランを提示した。さっさと西を片付けて、東に戦力を集中させようと。だが、これは外交と衝突する。中立を宣言したベルギーに対して大義名分が立たない。シュリーフェン・プランは、あくまでも二正面戦争は避けられないという悪夢を想定したもので、実行しなければならない代物でもないらしい。そこに、フランス軍もロードリンゲンへの進撃を準備していることが判明。第17号作戦である。マンシュタインは、より実行性の高いプランを提示した。装甲部隊の機動力でアルデンヌの森林地帯から国境沿いを進撃し、ベルギーを迂回する作戦である。だが、陽動部隊をオランダから北フランスへ展開すれば、結局は外交と衝突する。ベルギーの中立宣言は、スイスのものとは外交的にも、地理的にも意味が違う。
こうした作戦計画の立案工程には、戦略に従属する外交か、外交に従属する戦略か、という問題が提起されている。
ちなみに、当初、ロンメルの精鋭部隊は東部戦線に配備される予定だったという。だが、ムッソリーニの要請で北アフリカへ。ムッソリーニは同盟国としての頼りなさを露呈し、バルカン作戦のためにバルバロッサ作戦は一ヶ月以上延期された。冬将軍の到来までに決着をつけなければ、長期戦を覚悟しなければならないが、そんな目算はヒトラーにはまったくない。それどころか、前線では自国軍の監視役としてゲシュタポが目を光らせている。おまけに、ロシア人にスターリン粛清の解放軍として歓迎されたドイツ軍は、すぐ後に続いた親衛隊によって憎悪を増幅させていったとさ。東やら、西やら、という前に誰が敵で誰が味方なのやら...

2019-09-08

"諜報・工作 ラインハルト・ゲーレン回顧録" Reinhard Gehlen 著

「インテリジェンス」という用語を追いかけ... 追いかけ... いつの間にかこんなところに漂着している。この言葉は、知識が後ろ盾になった語であることに違いはないにせよ、軍事用語として広まってきた経緯がある。クラウゼヴィッツ流に言えば、軍事も政治の一手段。インテリジェンス機関は、政府の補助機関として発達してきた。国家安全保障を担う機関として。その活動は、諜報という性格を帯びている。
スパイの歴史が古代に、あるいは神話の時代に遡るにせよ、諜報機関として設立され、組織として本格的に機能し始めたのは二つの大戦から。近代戦争は国家総力戦の様相を呈し、国力を測るには、経済力、工業力、科学技術力、人口、エネルギー資源、地理、あるいは国民の性格や士気、イデオロギーなどあらゆる要素が絡んでくる。もし、戦争をやるなら正義の御旗が必要不可欠。特に、民主主義国家にとっては。民主主義の特徴として、いや、危険性として、国民感情を外交に反映させる傾向がある。先に攻撃を仕掛けて大戦果を上げても、末代までの恥となっては愚の骨頂。それゆえ、犠牲を最小限に抑えつつ、先にやらせるといった戦略が古くからある。先手必勝とは、先に備えるという意味で必勝となる。したがって、平時でこそ重要... 戦時では遅い... ということになる。これこそ、政治方面におけるインテリジェンスの意味することだと理解してきた。本書に、インテリジェンスという語は見当たらないが、こうした経緯に沿ってその発端を垣間見る...
「秘密情報任務の本質は、すべてを知る必要を別にすれば、歴史的潮流をフォローし、それを将来に投影する能力である。」

「ゲーレン機関」... インテリジェンス関連の書に触れれば、たいていこの名に遭遇する。東西冷戦時代の裏の立役者... BND(ドイツ連邦情報局)の前身... ヨーロッパでは CIA 以上に知られた組織で、その存在を誰もが知っていた。しかし、こいつがどこにあり、どこに所属しているかを知る者は限られている。資金源はどこか、本当に西ドイツの組織なのか、と疑われるほどに。ラインハルト・ゲーレンは、「顔のない男」と呼ばれた。ロンドンのタブロイド紙「デイリー・エクスプレス」に記事が躍る...
「ヒトラーの将軍、いまドルのためにスパイとなる!」

原題 "The Service: The Memoirs of General Reinhard Gehlen..."
「サービス」という言葉は商業用語として馴染んでいるが、ちょいと辞書を引いてみると... 奉仕、役に立つこと、助け、尽力、骨折り、功労、勲功... あるいは、公共事業、軍務、兵役などの意味が見つかる。シークレット・サービスが、大統領や首相など要人の警備という意味で使われるので、まったく違和感がないにせよ、一つの言葉には実に幅広い意味が含まれていることを改めて感じさせられる。まさに言葉の裏を読む世界!分かりやすさい言葉ばかり追いかけていると、思考停止状態に陥ると言わんばかりに...
現代の政治家たちが、現実に起こりつつある事柄にわずかな認識しか持っておらず、こんなことも想定できなかったのか?と驚かされることがある。わざと演じているのかは知らんが、誰にも知られずに影で世界を観察し、地道に分析している人たちがいる。大衆がソーシャルメディアで炎上合戦をやっている間に、彼らは社会を深く潜って真の情報戦を繰り広げている。本当の意味で世界を動かし、無知な大衆が幸せでいられるのも、名も無い彼らのおかげであろう。そして、シュリーフェン元帥の金言が輝きを増す...
「参謀本部将校は名前を持たない。」

1. 機関誕生秘話の背景
まず、ゲーレン機関誕生の背景に、第二次大戦中に既に始まっていたイデオロギー対立を無視するわけにはいかない。ルーズベルト大統領の腹心の友だったウィリアム・C・ブリット大使は、「ルーズベルが悪魔を追い出すために魔王の力を借りたこと、アメリカは今こそ本当の危機に直面しているということを確信しながら死んでいった。」と書いているという。ただしブリットは、「この事実が民主主義国において一般に浸透するまでには五年はかかるだろう。」と付言したとか。
ソ連も、西側に大規模な情報網を張り巡らせ、巧みな情報戦を繰り広げていた。首都ベルリンへの到達競争は、戦利品と戦後の主導権をめぐって激化する。戦利品とは、科学技術や機密書類といった物的なものだけでなく、優秀な人材の確保も含まれる。ソ連が米英に先んじてベルリンを陥落させたのも、偶然ではあるまい。1945年末、ソ連軍のペルシア侵攻によって動揺させられたにもかかわらず、世論が認識するには朝鮮戦争まで待つことに...
ゲーレンが米軍に投降した時、尋問にあたった将校の多くが「ドイツ軍 = ナチ」という図式しか頭になかったようである。陸軍参謀本部東方外国軍課の課長ゲーレンを米軍が確保したことは、ソ連にとって脅威となる。なにしろ東側共産圏に広大なスパイ網を構築した張本人だ。無論ソ連もゲーレンの行方を追っていて、西側にはソ連のご機嫌をうかがって、明け渡すべきだと主張する呑気な将校もいたという。
確かに外から見ると、陸軍参謀本部の位置づけはなかなか微妙だが、内から見るとヒトラーの機関と一線を画す。そもそも戦争目的からして違う。劣等人種論に憑かれたヒトラーは民族絶滅を目的としていたが、陸軍参謀本部は現実的な政治的解決を模索していたという。面従腹背の姿勢で知られるカナーリス率いる諜報機関アプヴェーアが、防波堤になっていたという見方もできそうか。本書は、カナーリス提督を信念の人、高潔な人と評し、提督の組織との協力時代から学んだ教訓が語られる。

2. 参謀本部と暗殺未遂事件
ヒトラー暗殺未遂事件に陸軍参謀本部の面々が関わっていた意味は大きい。ゲーレン自身は陰謀に加担していないというが、それは本当らしい。ただ、その情報すら知らなかったと言えば、さすがに嘘になろう。
ゲーレンの上司には、フランツ・ハルダー、クルト・ツァイツラー、ハインツ・グデーリアンという面々が連なり、彼らが、いかに男らしく夢想家の決定を覆そうとしたかを物語っている。ハルダー将軍は、こう言い放ったとか。
「とにかくヒトラーが私を追い出すまで、反論し続けてやる。彼はもう理性の声には一切耳をかそうとしない...」
自主的に判断し、行動することは、軍法会議もの。ヒトラー批判と見做されて。見事な官僚体質を助長する論理である。
使い古された軍人の掟に、命令は絶対服従!といったものがあるが、情報機関ではほとんど役に立たない。組織の末端で行動する情報員は独自の判断力がなければ話にならず、ヒトラー崇拝とは真逆の行動原理が求められる。
ヒトラー暗殺計画の妨害に、西側が噛んでいたという説も否定はできまい。チャーチルにとって、暴走オヤジの方が戦争は確かにやりやすい。いや、ゲーリングの方がましか。ん~、微妙だ。いやいや、ヒムラーだったらもっと悲惨だったか。ん~、実に微妙だ。いずれにせよ、政治の駆け引きってやつは、なかなか思惑通りにはならないもので、逆効果となるケースも多い。
バルバロッサ作戦の初期段階では、ドイツ軍はスターリンからの解放軍として歓迎されたという。こうした友好的な様子は、電撃戦で名を馳せたグデーリアン将軍の回想録にも見て取れる。しかし、ソ連民衆の好意も、後から乗り込んできた親衛隊によって憎悪に変貌させてしまう。ゲーレンは、独ソ提携の「ロシア民族解放プラン」を提示している。ドイツ参謀本部は、まさにそうした視点からソ連という広大な領土を分析していたという。スターリンを後ろから援護したのは、実はヒトラーだったというわけか。相手の文化までも抹殺にかかる検閲の狂気ぶりが貴重な情報源を断つとは、なんとも皮肉である。
そういえば、ある会津人の記録で、蒋介石が似たようなことを大日本帝国に対して警告していたのを思い出す。対立関係にあった国民党と共産党の双方から憎悪を買ってしまったと...
現在でも、「国家 = 民族」あるいは「国家 = イデオロギー」という図式しか描けない政治屋どもを見かけるが、戦略上、誰を敵にまわし、誰を味方にするかは死活問題である。
そして現在、グローバリズムが浸透し、各国で意識や価値観の二極化が進む。情報入手の機会が平等化していくと意識格差を助長するとは、なんとも矛盾した話だが、意欲のある人はますます意欲的に知識を求め、意欲のない人はますます置いていかれるという構図は、今に始まったことではあるまい。それは、金儲けの機会が平等化すると、金持ちはますます金持ちになり、貧乏人はますます貧乏になっていくのと似ている...

3. 紳士協定
ドイツ新政府がまだ樹立していない時期、OSS(米国戦略諜報局)のアレン・ウェルシュ・ダレスと紳士協定を結んだ様子を物語ってくれる。アメリカにとっては実にうまい話。ドイツ参謀本部の対ソ連諜報機関をそっくりそのまま取り込むことができるのだから。ただし、紳士協定というからには口約束のレベル。メモを残しているのかは知らんが、互いの信頼関係を示している。いや、ゲーレンには選択肢が他になかったのだろう...
内容は、ざっと六項目。
  1. 現存する勢力を利用して秘密のドイツ情報機関を設立し、従来行ってきたのと同様、東の情報収集を継続。
  2. アメリカの傘下ではなく、あくまでも協力的な立場。
  3. 完全にドイツ人の指導の下で、ドイツに新政府が樹立するまでアメリカの下で任務を受ける。
  4. アメリカから財政援助を受け、その代わりにアメリカに情報提供する。
  5. 新政府が樹立してドイツが主権を回復した時、同機関を存続するかどうかは新政府が決定する。
  6. アメリカとドイツの利益が食い違う立場に立たされたと考えた場合、同機関はドイツの利益を第一に考える。
ダレスは、後にCIA長官となる人物。CIA の基盤は、ゲーレンによって確立されたという見方もできそうである。

4. 予防戦争の哲学
どんな仕事であれ、究めようとする者は哲学者になるものだと思っているが、ゲーレンにもその姿勢が見て取れる。本書には、クラウゼヴィッツの名を所々で見かけ、ドイツ参謀本部に戦争論哲学が浸透していたことが伺える。フリードリヒ大王に始まり、シャルンホルストやモルトケを経て、プロイセン軍人魂が受け継がれていることも。
また、孫子を引用し、戦わずして勝つ... 敵を知り己を知れば百戦殆うからず... という思想哲学こそが情報の要、ひいては予防戦争の要としている。

「未来に関する知識は神からも悪魔からも獲得できない。また比較や測量や計算によっても手にはいらない。敵に関する知識は人間的な機関を通じてのみ獲得される...
使われるスパイの種類には五つある。生まれつきのスパイに心内のスパイ。向こう側から寝返ってきたスパイ、死のスパイに生のスパイ。五種類のスパイ全部が使われるにしても、彼らの秘密のやり方はだれにも決してわからないだろう。それをわれわれは神聖な秘密と呼ぶ。それは主人たる者の、計り知れない価値のある所有物だ。主人たる者はスパイ活動を個人的に統制しなければならない。寝返ってきたスパイは敵に関する最善の知識をもたらす。故に彼らはとくに丁重に扱え。」
... 孫子「兵法論」

5. イデオロギー論争
本書のイデオロギーに関する記述は、共感できない点もあるが、なかなか興味深い。
「イデオロギーは、観念論的あるいはブルジョア的考え方で構成される場合は誤った信念であり、弁証法的唯物論とプロレタリアの考えを反映するとき正しい信念となる。二つの基準が正しい思考方法と誤りのそれを区別する。哲学的要素(唯物論と観念論との差異)と階級上の要素(すなわち階級の差異)である。その意味で、マルクス・レーニン主義は科学的イデオロギーと非科学的イデオロギーの間に一線を画すことによって、現実の経験を真実と虚偽とを区別する基準にしようとする機会をわれわれから一時的にせよ奪うのである。社会に関して政治的に中立である知識はすべて、現実を表面的にしか把握されないとされ、イデオロギー的に誤りとして排斥される。」
ところで、共産とは、共に生産すると書く。なんと響きのいいこと。ソ連が崩壊し、イデオロギーの時代は終わっただろうか。まさか!
資本主義は自由主義との両輪で機能してきた。ケインズ風に言えば、経済が恐慌のような危機的状態でない限り、市場への政府の介入を極力小さくするということ。自由主義陣営は、共産主義が存在するおかげで、自由の尊さを測ることができたとも言える。その有り難味が見えなくなると、国家資本主義へと暴走を始める。この潮流は大衆の愛国心によって支えられ、大衆を煽る諜報戦略もまたイデオロギーキャンペーンから愛国心キャンペーンへと移行していく。愛国心とは、人間の存在意識を基礎づける帰属意識の象徴のようなもので、こいつをちょいと擽れば、集団意識で縛ることができる。しかも、無意識で。この原理を達人レベルで操ったのが、ゲッペルス文学博士だ。人間社会には、神の恩恵と同時に若干の悪魔の同居が必要なようである。でなければ、神の存在の有難味も忘れてしまう...
「共存とは、基本的に競争とうい性格があるにもかかわらず、共産主義者たちがことのほか望む状態である。」

2019-09-01

"情報戦と女性スパイ インテリジェンス秘史" 上田篤盛 著

「今は石油だが、10~15年もたたぬうちに、食糧やプルトニウムが不足するかも。その時、人々は我々に何を望むと?人々に問うのか?暖房がつかず、車も動かない。食糧不足で飢えに苦しんでいる。そんなとき人々はこう思う。黙って確保してくれ!」
... 映画「コンドル」より

本書は、第一次世界大戦から冷戦時代に渡る重大スパイ事件と、それに関わった女性たちの活躍を物語る。タイトルが示すとおり、女性スパイという切り口からインテリジェンスを語ってはいるが、歴史上の重要人物の行動指針や、その背景なども網羅される。
また、スパイ人名録、各国の諜報機関集、スパイ用語集、スパイ教訓集、情報戦史年表も付録され、スパイ事典という性格を帯びている。なるほど、情報戦という観点から歴史を眺めてみるのも、なかなかの酒肴(趣向)。実に多くの女性が影で世界を動かしてきたことを見て取れる。
ただ、どんな戦略や戦術を用いるにせよ、相手の特徴を厳密に分析した上で対処することに変わりはなく、ましてや男も女もあるまい。スパイ業界には、第一級のフェミニズムが根付いているようである...

「インテリジェンス」という用語は、個人的には人間の思考プロセスと深く結びつく印象があるが、実際は、政治と結びついて広まってきた経緯がある。もっといえば、政治の裏舞台、すなわち諜報、防諜、秘密工作などと結びついて。興味を引くには、やはりスリルとサスペンスが欲しい。そして、おいらの天の邪鬼な性癖が懐疑心を旺盛にさせていく。歴史とは、氷山の一角を記述したにすぎないのではないか... と。
知らぬが仏... ということが、この世には実に多い。とはいえ臆病ゆえに知りたいという欲求を抑えられない。面倒くさがり屋にとって新聞やテレビのニュースでお茶を濁すことが、いかに幸せか...
「スパイ」という用語は、忌み嫌われがちだ。こっそり覗き見するなどは、卑劣というわけである。似たような用語に「ハッキング」という語があり、不正侵入といった悪いイメージがつきまとう。
しかしながら、"lifehack" という用語を広義に捉えると、人生を自分の力でハッキングする... といった意味になり、組織に癒着した人生を自分の手に取り戻そうという意識も働く。コンピュータ工学の指南書では、なになに hack という題目をよく見かけ、ツールを徹底的に使いこなす... 技術を自分のものにする... といった意味が込められる。そして、スパイという用語をインテリジェンスを通して眺めていると、hack という意味が重なって見えてくる...

人間は臆病である。それを自覚できれるから事前に備えようとする。自覚できなければ備えようとはしないだろう。自覚できなければ学ぼうとはしないだろう。孫子の奥義には、その教訓が刻まれている。戦わずして勝つ!
事に備えるには、まず知ること。知るには、まず観ること。科学は現象を的確に観察するところから始まり、ここに人間の思考原理の源泉がある。インテリジェンスの世界でも、情報が基礎となる。情報がなければ、感情的推測の域を出ない。そして、的確な分析が要となる。
しかしながら、的確に... というのがなかなか手強い。分かりやすさを求めすぎると、言葉の裏が読めなくなる。分かりやすさに流される傾向は、アピールしたものの勝ちという風潮につながる。演説の達人が勝つ!それは、ヒトラーが証明して見せた。所詮、言ったもん勝ち!皮相的な言葉ばかりを追いかければ、自分で思考することを怠る。いや、自分で思考できなくなる。その方が楽やもしれんが...

それにしても、女は怖い!
男は自分より賢い女を敬遠しがち。特に、結婚相手では。どうやら自己防衛本能が働くらしい。ヴィクトル・ユーゴーはうまいことを言った、「女を美しくするのは神であり、女を魅惑的にするのは悪魔である。」と。
スパイ戦というと、男の世界というイメージが先行しがちだが、女でなければやれないこと、女の方が有利なことが実に多い。男性優位社会ともなると、却って女性の活躍の場が広がるとは、なんとも皮肉である。暗殺では女性の方が要人に近づきやすい... 独身者よりも夫婦の方が地域社会に溶け込みやすく潜伏しやすい... 妊婦は怪しまれにくい... 等々。
忍耐強さでも、一枚も二枚も上手か!
ゲシュタポの厳しい拷問で口を割る男性スパイが続出する中、最後まで秘密を守り、殉職した女性スパイが大勢いた。彼女らをスパイ活動に駆り立てるものとは何か。スリルを求めてのことか。男どもを魅了する快感か。政治的な使命感か。スパイ活動そのものが麻薬のようなものか。
素人女性が知らず知らずのうちに工作員に仕立てられるかと思えば、マイスター級の女性工作員がイケメンにコロッとひっかかる。そして、病死?事故死?自殺?
リヒャルト・ゾルゲは、「女性はスパイ活動に絶対に向かない!」と言い放ったそうな。だがこの発言は、官憲の調査の手が愛人に及ばないよう配慮したものと見る者も多い。敵を知り己を知れば百戦危うからず... との格言には、ある種の精神安定剤的な効用がある。知ることによって無用な恐怖心を排除するという。
しかしながら、男にとって女は永遠の謎。その証拠に、単純な甘い罠に引っかかり続ける。最高機密事項をピロートークで語り合う夜のクラブ活動では、いつもハニートラップの餌食よ...

1. 二番目に古い職業
「スパイは二番目に古い職業」と言われるそうな。一番目は言うまでもあるまい。それは、紀元前13世紀、旧約聖書の「ラハブの物語」に由来するそうな。モーゼによってカナン攻城を命じられたヨシュアは、イスラエル軍を率いてジェリコの城下に迫り、二人のスパイを先遣する。ジェリコにはラハブという娼婦がおったそうな。ラハブは二人を匿って、官憲からの逃亡を手助けしたとさ。だから一番目は、最初のスパイを助けた娼婦ということになる...

2. チャーチルの策略家ぶり
チャーチルは、チェンバレンと違って秘密工作、欺瞞工作、コマンド襲撃、ゲリラ作戦といった水面下の活動を好んだという。その策略家ぶりは、あの有名な二つの欺瞞作戦に見て取れる。
まずは、ミンスミート作戦...
正体不明の死体をイギリス軍将校に偽装して機密書類を携行させ、運搬途中で航空事故に遭遇したように見せかけ、偽情報を掴ませた。上陸地点のシチリア島からドイツ軍の目を逸し、バルカン半島に向けさせたのである。
そして、ダブルクロス作戦...
ドイツ軍のスパイを二重スパイとして活用し、偽情報を流して連合国の計画を誤認させようと仕組む。この作戦を仕切ったのは、MI5 が組織した「二十委員会」。二十はローマ数字で "XX"、すなわちダブルクロス。
暗号機エニグマ解読プロジェクト「ウルトラ」は、アラン・チューリングが活躍したことでも有名である。しかし、いくら正確に解読しても、その情報を素直に活用すれば、解読された可能性を敵に知らせるようなもの。そう思わせないために、たまにはやられなければならない。切り札ってやつは、出すタイミングが難しいのである。そこでイギリス軍は、決定的な被害を受けない程度に作戦上のミスを意図的にやる。
例えば、1942年8月、カナダ師団を中心とする約五千人の兵士が、ノルマンディー海岸に上陸して多数の死者を出したという。ヒトラーはイギリスに潜入させたスパイの情報によって待ち構えていたのである。だがそれも、チャーチルが一枚上手だったようだ。既にドイツ側のスパイを二重スパイとして獲得していたというのである。オーバーロード作戦への布石が、二年も前から...
チャーチルは、アメリカを参戦に仕向けるためにも女性スパイを放っている。イギリスは、開戦当初から人員不足を補うために、情報機関で女性を大量に採用している。そして、水面下の情報戦においては、名もない人々が最大の働きをしてきたということであろう。第二次大戦は、ブレッチリー・パークとチャーチルの策略家ぶりの勝利!というのは、ちと言い過ぎであろうか...

3. 赤いオーケストラ
「赤いオーケストラ(ローテ・カペレ)」と呼ばれるソ連がヨーロッパに展開したスパイ網がある。当時ソ連は、無線送信員をピアニスト、通信機をジュークボックスと呼んでいたという。
ちなみに、ドイツ内部の反体制分子は「黒いオーケストラ」と呼ばれる。いずれも、ゲシュタポが名付け親か。
ヒトラーの側近の情報が筒抜けってか。マルティン・ボルマンあたりの情報が...
となると、バルバロッサ作戦は、本当に奇襲だったのだろうか?ドイツ軍の電撃作戦に為す術がなかったとも、スターリンが独ソ不可侵条約を信じていたとも言われる。
しかし、実際は少し違うようだ。各地に展開されるソ連諜報網は、ドイツ侵攻の可能性をモスクワに送信していたという。予測していても、為す術がないことに変わりはないか。そもそもスターリンが、インテリジェンスに信頼を置いていなかったようである。ドイツがよもや二面作戦を遂行することはないという根拠のない自信を深め、ヒトラーはイギリスを破ってからソ連に向かうと信じていたとか。チャーチルからの警告はソ連を巻き込むための挑発であると。要するに、希望的観測ってやつだ。イギリスの警告に対しては、ミュンヘン会談に招かれなかったことを根に持っていたようである。
どんなに優秀なインテリジェンスを備えても、活用できなければ無に等しい。政策決定者には選択権がある。活用するか、無視するか。そして、インテリジェンス機関は親分の顔色をうかがいながら発言するようになる。これはもう人間の根源的な問題である。独裁者に限らず、イエスマンに囲まれると心地よいものである。

4. ヴェノナ文書
ヴェノナとは、第二次大戦末期から冷戦時代にかけて、米国の NSA と英国の GCHQ が合同で行ったソ連の KGB や GRU に対する通信解読工作で、その内容は、1995年に公開された。
この文書は、日本が対米戦争を決意させた「ハル・ノート」に、ソ連が一枚噛んでいることを明らかにしたという。原案作成に関与した財務省次官ハリー・デクスター・ホワイトという人物は、ソ連のスパイだったとか。ソ連がドイツと日本の挟み撃ちに合うのを避けたかったことは想像に易い。アメリカの対日圧力、日本と中国国民党の軍事衝突、南進政策、いずれもソ連から遠ざける意味では理に適っている。秘密工作を仕掛けなくても、その流れは同じだったかもしれないが、ソ連による対日秘密工作説を排除することはできない。
ヤルタ会談にも、ソ連のスパイが深く潜入していたことを明らかにしたという。ルーズベルト大統領にともなって会談に参加した政府高官がソ連のスパイであったと。その男は、アルジャー・ヒス。サンフランシスコ会議事務総長や国連総会アメリカ首席顧問などを歴任し、ルーズベルトの片腕として活躍した人物である。彼は収監されるものの、事実無根だとして回想録を書き、当時はアメリカの世論を味方につけたという。しかし、彼もまた...
このようにヴェノナ文書は、ルーズベルト政権の相当数の高級官僚がソ連側に籠絡されていたことを明らかにしている。
さらに、アメリカの核開発関連にもソ連のスパイが潜り込んでいたことを明らかにしたという。アメリカやカナダにおけるソ連スパイ団の総帥は、伝説的スパイ、ルドルフ・イヴァノヴィチ・アベル大佐。
ちなみに、マンハッタン計画にはニールス・ボーアやエンリコ・フェルミといった大科学者が名を連ねるが、あの女優グレタ・ガルボが、ボーア博士をナチス支配下のデンマークから逃がすエピソードも紹介される。ハリウッドの大女優が一役買っていたとは...
また、ローゼンバーグ事件は、「電気椅子に消えた夫婦のスパイ事件」として知られる。ローゼンバーグ夫妻は、物的証拠がないとして無実を訴えた。マスコミも冤罪事件として報じ、世間の同情をさそい、死刑中止を求める嘆願の声が集まった。それでも死刑は執行された。当時、アメリカではマッカーシー旋風が巻き起こり、赤狩りの犠牲になったとまで言われた。獄中から幼い息子に宛てた「愛は死をこえて - ローゼンバーグの手紙」という書は、前々から読んでみたいと思っている。しかし、ヴェノナ文書は、夫ジュリアスがソ連のスパイだったことを明らかにしたという。妻エセルの方は、どこまで関与していたか、死刑に値するのか、など疑わしい点もあるようだけど...
そして、ジョルジュ・コワリという男が、マンハッタン計画の秘密情報を盗み出し、ソ連に原爆をもたらした最大の立役者だという。ロシア大統領プーチンは、「彼のお陰でわが国の核開発期間は劇的に短縮された」と貢献を称えたとか。
ヴェノナ文書は、世界屈指の米国防諜機関をもってしても、摘発できないことが多くあることを暴露している。そして今後も、このような機密文書が公開され、過去の真相が暴かれていくのであろう。いつの時代も、情報に踊らされる一般人... という構図は同じか。

5. 起きなくてもよかった戦争とオオカミ少年症候群
フォークランド戦争は、後に「起きなくてもよかった戦争」と呼ばれたという。それは、政府が情勢判断ミスで抑止対応をとらなかったことにより、無駄な損害を出したという批判である。アルゼンチンの英国大使館は、再三にわたって警告を発していたという。
では、なぜイギリスは奇襲を予測できなかったのか?ここでは、二つの要因を挙げている。
一つは、アルゼンチン政権が一枚岩ではないことを見落とし、政治的意図を見誤ったというもの。英国外務省はアルゼンチン外務省の意図を正しく見積もってはいたが、見積もるべき対象のガルチェリ大統領らの意図を読んでいなかったという。
二つは、オオカミ少年症候群である。英国大使が、いつも警告情報を発し続けたというもの。これは、兆候と警告という問題だと指摘している。兆候を見落として警告を怠れば、批判に晒される。だから、警告する側はなんでもかんでも警告を発するようになる。いわば、責任逃れ的な官僚体質だ。意志決定者が、またかよ!ってなるのも道理である。
ちなみに、批判の構図にも見て取れる。評論家がいつも批判ばかりしていると、老害と見なされる。姑チェックの類いだ。それで、有識者や道徳者たちが、いつも憤慨しているのかは知らん...

6. 自己防衛のために...
「ケンブリッジ・ファイブ」と呼ばれるソ連の放った五人組もなかなか巧妙だが、これは古典的な方法論である。有名大学に入学させて、エリートを扇動するといったやり方である。
ちなみに、この五人組はホモセクシャルだったとか。当時、イギリスでは同性愛は罪とされ、アラン・チューリングも告発された。タブーの共有がより強い絆をつくるらしい。
尚、イギリスでは、スパイは紳士の職業とされ、ケンブリッジやオックスフォードなどの一流大学卒に占められるそうな。工作員にとって正義に身を包んだエリートほど挑発しやすい、というのはありそうな話だ。政治家に限らず有識者や知識人たちもターゲットとなり、彼らに吹聴させれば効果は絶大である。
こうした秘密工作が日常茶飯事であることも確かであろう。主要都市の地方議会に二世議員や三世議員を送り込むといったやり方も露骨にある。ヒューミント(人的工作)では、影響力のある人物なら誰でも利用し、小説家やミュージシャンなどもターゲットとなる。無論、人間だけでなく携帯端末や商品などもターゲットになりうるし、AI 時代ともなると、シギントやイミントなどとの境界も曖昧になっていく。
だからといって、こうした秘密工作が効果があるとは限らないし、むしろ逆効果となる場合もある。人間ってやつは、思考を押し付けられ、それを強く感じると、本能的に反発するところがある。混沌とした現代社会では、政治家や策略家の思惑はしばしば外れる。国内の経済問題に向けられる国民の不満を対外政策によって緩和しようとするのも政治家の常套手段だが、そんなことは大衆の多くが気づいているだろう。
ところで、アジアの歌姫テレサ・テンにも、スパイ説が囁かれた。だが本書は、そうした議論は無意味だと指摘している。スパイ活動は、誰でも協力者として利用するのが常道。本人は協力者となっていることにも気づかない。そもそも人間の意志ってやつは、その正体を掴むのが難しい。本人でさえ。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど都合のよいものはない。おいら自身も、誰かに扇動されていない!とは言い切れないし、無意識に片棒を担いでいるかもしれない。それがどんな棒かも分からず。そして、インテリジェンスは、国家防衛にとどまらず、自己防衛においても重要となろう...

7. オシントと地道な活動
諜報機関が使用する情報の 90% は、公開情報(オシント)から得られるという。少々意外だが、情報活動の中心は一般情報の分析にあるようだ。CIA、SIS、KGB などの活動を眺めていると派手な秘密工作に目がいくが、それも分析部門の地道な活動に支えられている。新聞雑誌の論評や政治指導者の公式発言などを丹念に積み上げ、過去との比較から何らかの変化や兆候を見出し、政策決定者のニーズに照らして解釈をつける。このような地道な情報分析が重要だという。
また、分析は知的でアカデミックなものだけにとどまらない。スパイの浸透合戦、暗号解読、秘密工作など、諜報、防諜、秘密工作のオンパレード。インテリジェンスに関する知識や現実感覚がなければ、偽情報に踊らされ、誤った分析結果を招く。
水面下で継続されるスパイ活動の研究は、すでに表面化した歴史の研究に頼るのが効果的だという。ただし、教訓は十人十色。これを通じて、どんな教訓を得るかは自己に問うしかない。自己顕示欲が強いと客観的な目を失う。自己抑制と客観的な目... これが至難の業!
さらに、休眠スパイもいる。本国から指令がくるまで、潜入先で善良な市民として過ごす。潜入ルートだけ確保して、指令が来ないまま生涯を終えることだってある。こいうタイプのスパイを発見することは至難の業!
「スパイ事件が起こるたびに、判で押したように『とてもスパイに見えなかった』という声が聞かれる。これは、まったくばかげている。"スパイらしいスパイ" などどこにもいない。本物のスパイは、アベル大佐やクローガー夫妻のように、善良な市民として社会秩序を守り、ひっそり生活しているものである。」

8. スパイ天国と裏切りの心理
日本に渡って在日韓国人になりすまし、韓国に合法的に潜入するという手法を確立したとされる北朝鮮の女性スパイが紹介される。自分に似た格好の人物を探し、その人間になりすます。本人はとっくに韓国に帰国しているのに偽装して日本に長期滞在する、といった具合に。韓国でのスパイ同士の接触は危険が大きいため、日本での接触が活用されるらしい。スパイ天国か。
ただ、工作員が逮捕後にあっさりと寝返るケースは、意外と多い。国内で吹聴された敵国の情勢から現実が大幅に乖離していると、騙された感を強く持つだろう。そこで、経済的繁栄ぶりなどを工作員に見せると、組織の締め付けと粛清の恐怖に怯えている自己を見つめ直し、自由で魅力的な社会に憧れて西側に亡命する、といった具合に。
この手のパターンは人間の根源的な問題であり、たいてい隠そうとする側がボロを出す。
「つまり、我が方が魅力ある国家および組織を運営することが、究極的なイデオロギー浸透の防波堤になるのである。」

2019-08-25

"インテリジェンス 機密から政策へ" Mark M. Lowenthal 著

原題 "Intelligence: From Secrets to Policy"... こいつは、インテリジェンスの標準的な教科書だそうな。しかし、応用力の試される世界、マニュアル人間ではとても生きては行けまい。「インテリジェンス」という用語が国家レベルで論じられ、政治と結びついて発展してきたことは、本書が如実に物語っている。
とはいえ、その思考原理となると、政治的な側面よりマネジメントの側面が強く、社会科学や行動経済学、ひいては心理学に踏み込まずにはいられない。この領域では、経済学あたりで言われる「合理的行動」などといったモデルは、まったく当てにできない。無論ハウツー本ではない。読者を優秀な分析官に育てるものでもなければ、スパイに仕立てるものでもない。国家安全保障政策の策定において、インテリジェンスが果たす役割、その長所と弱点についての理解を手助けすること、そして、学生諸君や素人にも、そうした視点を持ってもらうことを目的としている。
著者マーク・M・ローエンタールは、CIA の分析部門の長を勤めた経歴を持ち、引退後、コロンビア大学やジョンズ・ホプキンス大学で教鞭を執ったという。この分野が講義として成り立つのも、アメリカの大学教育の奥行きを感じずにはいられない。ちなみに、翻訳者茂田宏氏は、こう書いている。
「人間の行動を説明する上で、観念論と唯物論の二つがあるが、私は人を動かすものは情報であるとの情報論というものがあってもいいのではないかとさえ考えている。」

本書の貫く姿勢に、こう告げられる。
「インテリジェンスは政策決定者を支援することを唯一の目的とする。」
インテリジェンスは、あくまでも政策を目的とし、政策に従属し、情報の収集や分析、諜報や防諜、秘密工作といった行為もまた政策目標と結びついてはじめて機能するというわけである。結びついていなければ、税金の浪費ってか。政策決定者の存在そのものが、社会の浪費とならぬことを願うばかり。
インテリジェンス機関には、少なくとも四つの存在理由があるという。戦略的奇襲攻撃を回避すること、専門的知見を長期に渡り提供すること、政策プロセスを支援すること、および情報、ニーズ、方法についての機密を維持すること。
かつて、「友好的なインテリジェンス機関などというものはない。友好国のインテリジェンス機関があるのみ...」と発言したのは誰であったか。インテリジェンス機関は、通常の政治機関とは明らかに違う性格を持っている。それは、機密性であり、民主主義と相容れないところ。スパイ活動、盗聴、秘密工作といった行為は、理想の国家像からはかけ離れており、暗殺までも正当化されかねない。表向き政治家たちは、開かれた政治というものをスローガンに掲げ、「秘密工作」といった用語を嫌って「特別政治活動」などと呼ぶ。
しかし、理想の人間像を掲げるならば、警察は不要となろう。人間の本性には悪魔性が潜む。個人が自己の悪魔性を抑制しても、集団化すると抑えきれない。おまけに、人間は寂しがり屋ときた。しかも、集団思考に操られてもなお自分で思考しているつもりでいる。これに対抗して、警察機能を強化したとしても、拡大解釈のうちに裁判機能まで行使してしまう。そして、国家にも抑止力が必要という議論が成り立つ。
もちろん、インテリジェンス活動も合法的であることが前提とされる。人間ってやつは、現実を見ず、理想郷ばかり追いかけていると、却って卑しくなるものらしい。人間社会に、万能な装置なんぞ存在しない。インテリジェンスとは、悪魔との和解... という見方もできそうか。もちろん行き過ぎた事例も多く見かけるが、民主主義の砦を影で支えてきたのは確かであろう...
「秘密工作には、概念上も実際上も、多くの論点がある。最も基本的なものは、そのような政策オプションの正統性であるが、この種の多くの疑問と同様、正しい解はない。主要な意見は、二つに分かれる。理想主義者と実用主義者である。理想主義者は、他の国家の内政への国家の秘密裏の干渉は、受け入れられる国際行動規範に違反すると主張する。第三のオプションという考え方自体が正統ではないというものである。実用主義者は理想主義者の議論を受け入れつつも、自国の利益のために、時として秘密工作が必要であり正統である場合があると主張する。数世紀にわたる歴史的な慣行を見ると、実用主義者に軍配が上がる。理想主義者は、歴史的記録は秘密の干渉を正統化するものではないと応じるだろう。」

1. 真理は人間を解放するか...
CIA本部の旧入口に入ると、左手の大理石の壁にこう刻まれるという。

「そして、あなたがたは真理を知るであろう。そして真理はあなたがたを解放するだろう。」
... ヨハネによる福音書第8章第32節

結構な言葉だ。しかし、実際に行われていることへの誇張で、誤解を招く元となる。政治は、正直者には向くまい。純粋な者には向くまい。ユートピアを夢想する者には向くまい。それは、皮肉に満ちた世界。それは、人間の本性を相手取る世界。凡庸な酔いどれには、知らぬが仏!という事柄があまりに多すぎる。
「インテリジェンスの単純さ...
映画『さよならゲーム』では、マネージャーは不運な選手たちに、彼らがプレイするべきゲームの単純さを説明しようとする。ボールを投げる!ボールを打つ!ボールを受ける!インテリジェンスにも似たような見かけ上の単純さがある。質問をする!情報を集める!質問に答える!両方のケースにおいて、細部に悪魔が多数潜んでいる。」

2. シギントとイミントの違い...
インテリジェンス関連の書に触れると、ヒューミントについては人的インテリジェンスとしての位置づけが分かるものの、シギントとイミントの違いがうまく飲み込めない。信号インテリジェンスと画像インテリジェンスの違いが。合わせてテキント、すなわち技術インテリジェンスとされるが、双方ともテクノロジーに支えられており、実際の区別は微妙であろう。そこで本書は、ちと皮肉まじりな指標を提示してくれる。
「シギント対イミント...
ある国家安全保障庁長官が画像インテリジェンス(イミント)と信号インテリジェンス(シギント)との違いを指摘したことがある。曰く、『イミントは何が起こったかを示すが、シギントは今後何が起こるかを示す』。その表現は誇大であり皮肉まじりではあるが、この発言は二つの収集方法の重要な違いを示している。」

3. インテリジェンスのユーモア?
分析官たちは、ちょいと暇な時に風変わりな収集方法について議論するという。最も有名なのがピツィント(PIZZINT)ってやつ。すなわち、ピザ・インテリジェンスである。ワシントン滞在の敵国の政府関係者が、CIA、国防省、ホワイトハウスに夜遅く向かうピザの配達トラックの数から、危機発生を探知するというもの。他にも、こんなものがあるそうな...

  • ラヴィント(LAVINT) : トイレ(lavatory)で聞かれるような情報インテリジェンス
  • ルーミント(RUMINT) : 噂(rumor)インテリジェンス
  • レヴィント(REVINT) : お告げ(revelation)インテリジェンス
  • ディヴィント(DIVINT) : 神から授かった(divine)インテリジェンス

そういえば、戦国武将の情報戦でも似たようなものがある。川中島の戦いで、上杉軍は炊事の煙量で武田軍の動きを察知したと言われる。いつもより煙の量が多いことで。
本書は、ユーモアとして紹介されるが、ユーモアでは片付けられないものを感じる。競争相手の分析では、高官の人間性までも分析され、異性関係やペットまでも、その対象となる。情報戦が高度化すればするほど、何がヒントになるか分からない...

4. 言語的な余談、oversight...
oversight には、二つの定義があるという。一つは、監督、注意深い配慮といった意味で。二つは、見過ごし、見落とし、無考慮といった意味で。インテリジェンスの監視では、議会や行政府は前者を実行し、後者を避けようとする。
一つの言葉でも、二つの異なる解釈が成り立つことはよくある。しかも、真逆な。情報がどんなに優れ、どんなに客観性が担保されようとも、分析・解釈の段階では主観性に満ちている。そして、分析結果が真逆となることもしばしば。人間の思考が介在するということは、そういうことだ。
インテリジェンスは、有用でありながら危険な側面が共存する。それゆえに監督責任がよく問われる。旧ソ連や中国では、国内情報と対外情報が一つの情報機関によって担われ、それが秘密警察的な機能を持つ事例が紹介される。米英などの民主主義国家では、こうしたことを排除するために、国内情報と対外情報を峻別する。
また、民主主義国家では、インテリジェンスの監督責任は行政府と立法府が共同で担う傾向にある。米国の場合、立法府が広範に監督権限を持つ点で、やや特異なようである。産業界などのリーダーたちが何かと公聴会に引き出されるのを目にするが、これも正義を崇拝する慣習からくるのだろうか。いつも説明責任を背負わされているリーダたちの給料がべらぼうに高いのも、その責務の裏付けであろうか。ただし、正義の暴走は、悪魔よりもタチが悪い...

2019-08-18

"インテリジェンスの歴史 水晶玉を覗こうとする者たち" 北岡元 著

なにゆえ歴史を振り返るのか。それは未来への布石。いや、過去をほじくり返して、ぼやいているだけか。過去から学ぶには、現在との関連性を見い出さなければ...
人間ってやつは、時間の連続性の中に身を置かないと、心が落ち着かないと見える。特に、予測不能な事態に直面すれば。そして、昔は良かった... などと老人病を発病させるのである。
古代ローマの歴史家クルティウス・ルフスは、「歴史は繰り返す...」との言葉を残した。カール・マルクスは、これを若干着色して「歴史は二度繰り返す。最初は悲劇として、二度目は喜劇として...」とした。歴史ならぬ言葉は繰り返される。戒めの言葉として。いや、皮肉の言葉として...
レオポルト・フォン・ランケは、「人類のもっとも幸福な時代は、歴史の本では空白のページである...」との言葉を残した。沈黙の時代こそが最も幸福な時代だとすれば、人類にとって絶望的である。そして今、記憶媒体の大容量化が進むばかりか、仮想化に邁進し、ますます騒がしい世となった。情報は、どこから飛んでくるかまったく予測がつかない。銃弾のごとく...
「予測する者は占い師ではない。彼らは教育者である。予測する者は将来を予言しようとするのではなく、代替シナリオを示すことにより高まる不確実性に対処すべきである。予測が役に立つためには、最もありそうな将来への経路の性質と可能性を述べるだけでなく、仮にその経路からはずれたらどうなるかを調査し、そのような領域に踏み込んだことを示す看板を識別しなければならない。予測とは分かっているものを要約し、それ以外の不確実なものを体系化する手段である。」

予測とは、知への予習。復習も大切だが、事前準備がより肝要である。頭のいい奴と仕事をする時は、特にそうだ。会議の場で情報を得るのでは遅い。事前に情報を検討していないと議論すらできない。読書するにしても、心の準備がなければ、それを受け入れる度量がなければ、目の前の幸せにも気づけない。
不確実な状況下ともなれば、心の平穏を保つことも難しくなり、情報や知識が不足しては苛立ちが隠せず、つい先に攻撃を仕掛けてしまう。クラウゼヴィッツは、「人間の恐怖心が、情報の虚言や虚偽の助長に力を貸す。」と言ったという。
そこで、あらゆる戦略において防御の兵法が役に立つ。孫子の兵法は、戦わずして勝つ!を信念とする。武士道の奥義は、相手に剣を抜かせないことにある。隙をおおっぴらにしながら、実は隙を見せない姿勢。それは、あらゆる事態に対して事前に備える姿勢である。先手必勝とは、先に攻撃を仕掛けるのではなく、先に備えるという意味で必勝となる。そして、この酔いどれ天の邪鬼ときたら、インテリジェンスとは、知の予習、ひいては人生の予習と解し、水晶玉と睨めっこするのであった。相手の意図ばかりか自我までも覗こうと..

「わしが教えようとしても、ことが現実となって現れないうちは、お前は、自分に認識できないことを何一つ習う気がしないのだ。」
... ワーグナー「ヴァルキューレ」より。神々の長ヴォータンが妻フリッカを諭そうとして

1. インテリジェンスの歴史紀行へ...
本書ではまず、かつて神の御手に委ねられた将来像の予測を、古代中国の思想家が人間の手に握らせるのを見る。古代ギリシアでは、巫女が神がかって未来の姿を告げていたが、それを人間の仕業としたのが、孫子であったとさ。
次に、情報伝達の時間差が情報に優先順位を与えていた時代から、技術革新によって時間差が縮小され、リアルタイムな活用範囲が拡がっていく様を見る。ここでは、時間差の影響の小さいものをベーシック・インフォメーションと呼び、時間差の影響の大きいものをカレント・インフォメーションと呼んで区別している。前者は、地理、人口統計、産業力といったもので、後者は、政策、戦略、作戦といったもの。ころころ変わる情報ほどリアルタイム性が要求されるのは、現在とて同じ。情報伝達の遅い時代にはベーシック・インフォメーションしか当てにできなかったが、リアルタイム性の確保された時代になると、カレント・インフォメーションの利用価値が高まり、ベイズ原理やデルファイ法も登場する。時間差ゼロは、いわばカレント・インフォメーションの理想郷というわけだ。
また、データの関連性と時間的変化を相手取りながら情報を組み立てていくプロセスは、ソフトウェア開発の現場を見る思い。時間構造の階層化にデータ構造を重ねていく様は、まさに抽象化のプロセス。
ついでに、相手の意図を探るために、こっそりと邸宅に侵入して信書を覗き見するような行為は、通信傍受や暗号解読といった形へ。相手の行動パターンを知る上で、人間性までも観察し、飼っているペットや趣味にまで及ぶ。敵を知り、己を知れば、百戦して殆うからず...というのは本当らしい。
さらに、戦争の変質と情報量の増大を背景に、インテリジェンス業務が組織化、官僚化していく様を見る。戦争の変質とは、かつて国王や宮廷のものだった戦争から、国民と一体化した総力戦への移行である。
こうして、「インテリジェンス」という用語が、国家安全保障の概念と深く結びついてきた経緯を物語ってくれる。軍から移植されてきたインテリジェンスというものを...
しかしながら、インテリジェンスの歴史は、失敗の歴史でもある。フリードリヒ大王は、「敗北はやむを得ないが、断じて奇襲されてはならない。」と言ったとか。ナポレオンは、「指導者はうち破られる権利を有するが、驚かされる権利は決して有しない。」と言ったとか。インテリジェンス研究家マーク・ローウェンソールは、「米国のインテリジェンス・コミュニティーの形成を促したのは、冷戦ではなく、真珠湾である。」と言ったとか。
いまや、技術の進歩によってあらゆる情報が入手可能となり、インテリジェンスの質は向上し、あらゆる方面の頭脳が結集される中で防衛組織が整備される。それでも、同時多発テロは起こった。大統領やその補佐官たちが、その危険性を知っていたにもかかわらず。
本書は、インテリジェンス業務の「途方もなさ」というものをテーマに掲げている。知的好奇心を掻き立てられるミステリーへのいざない、とでも言おうか。もはや、社会科学、行動経済学、心理学の領域。これはもう、情報の不確実性というよりは、人間そのものの不確実性と言うべきであろう...

「サプライズは、敵が見えないまま起こるのではない。敵が見えているにもかかわらず、起こるのである。」
... 1994年、ジェフリー・オリーリー米国空軍少佐の言葉より

2. 官僚制のメリット
混沌とした時代には柔軟性が求められ、官僚化の弊害がよく指摘される。おいらも、アレルギー反応を示す言葉だ。官僚化への警鐘は、CIA にも向けられる。より古くに確立されたインテリジェンス組織と張り合う、もう一つのインテリジェンス組織に成り下がる、と...
しかしながら、官僚制はすべて駄目!潰してしまえばうまくいく!といった類いのものではない。米国フーヴァー研究所のインテリジェンス研究員ブルース・バーコウィッツは、こう指摘しているという。
「伝統的なインテリジェンス組織は、実は古典的な官僚組織の変形にすぎない。官僚制は三つの明確な特徴を有している。すなわち分業、階層性に基づく構造と指揮命令系統および作業手順の標準化である。これは多くの組織において、規則の中に明文化されている。官僚制には毀誉褒貶があるが(中略)それは必ずしも悪いものではない。実際官僚制は、人類のマネジメントの歴史上で最も偉大な発明かもしれないのだ。それに先立つ組織に比べれば、官僚制はより効率的で、説明責任も果たしやすい。また官僚制は専門化することができ、かつコミュニケーションと統制のラインが明確になっている。」
冷戦時代、官僚的なインテリジェンス組織はソ連の脅威を監視する上で充分に機能したという。ソ連自体が強固な官僚制に立脚していたからである。だが、冷戦終結後に脅威が多様化し、拡散した時代には不向き。官僚的組織は、他部署と情報交換をする機会を管理し、制限してしまう。与えられた業務に集中しなければ批判を受け、他人の縄張りに目を向ければさらに批判を受ける。優秀な官僚ほど命令の上下関係は絶対的で、正式に与えられた命令の範囲を越えたがらないらしい。我が国では、忖度という言葉が飛び交っているようだけど...
一方、官僚制を完全に破壊してしまうと命令系統が機能しなくなり、インテリジェンス組織そのものが成り立たなくなるという。大量の情報を秩序と専門性をもって分析し、インテリジェンスを機能させるためには最低限の官僚制は必要というのである。そこで、「官僚制を弱める」とうい議論になる。
さらに、文化論に及ぶと、なんとなく馴染みのある光景が見えてくる。インテリジェンスの失敗は、システム構造にあるのではなく、もっと根深い文化的なところにあるというわけだが、企業でも組織図などの構造だけをいじるようなことをよく見かける。名刺の肩書がころころ変わったり...
ところで、官僚という言葉を忌み嫌うおいらでも、日常を振り返ってみると、やはり官僚的なところが多分にある。日々のルーチンワークの中に。当たり前のように義務としている仕事は、本当に義務と呼べるほどのものなのか?と自問してみると、懐疑的にならざるをえない。それでも、惰性的にやってしまうのが習慣ってやつだ。常に習慣を見直そうと心懸けているものの、いや、そのつもりでいるものの、結局は先延ばしで、やっぱりやってしまう。行動パターンが安定しているというのは平静を保つ上でも重要な要素となるが、あまりワンパターン化すると、今度は退屈病を患ってしまう。そこで、良い習慣を!という議論になるのだけど...

3. 相手の意図は重視されるべきか...
もちろん重視されるべきであろう。分かればの話だが。相手とは敵のことだが、そもそも相手の意図は重要か?という議論がある。意図を重視する側は、相手の意図が分からなければ、実際にどれほど脅威なのか分からないと主張する。意図のみが真の脅威を測ることを可能にすると。意図を軽視する側は、相手にある程度の敵意があり、かつ軍事力の情報があれば十分と主張する。最悪のシナリオを想定していればいいと。
ただ、この議論には大前提がある。例えば、冷戦時代、米国はソ連の軍事力をほぼ把握していた。そして、多少なりとも敵意があったことも事実。相手国の情報が正確に把握できていなければ、感情論に訴えるしかない。そして、悲劇を増大させた歴史をわんさと見てきた。
いくら人間の意図を知るのに限界があるとはいえ、相手の脅威は意図と能力によって構成されるであろう。国王の一言で戦争がおっぱじめらる時代は、国王の意図を知ればいい。それでも、人の意図を知ることの難しさがつきまとう。人の意志を相手取るということは、気まぐれを相手取るようなもの。しかも現在は、政治指導者一人の意図で何かが変わるわけでもない。どうせ分からないのであれば、最悪のシナリオを想定する方が現実的かもしれない。そして、エージェントを送って、相手をこちらの意図に誘導する方が手っ取り早い、という考えも成り立つ。世論ぐるみで誘導すれば。ちなみに、CIA の予測はよく当たるらしい...

4. 参謀制度とナポレオン
インテリジェンス組織の起源は、参謀制度にあるようである。参謀制度といえば、プロイセンのものが有名である。だが、その起源を遡るとプロイセンとフランスの制度が混じり合っているという。
まず、フリードリヒ大王の時代に組織化の傾向が見られる。大王が視野に入れたのは、兵站と作戦の両方であったが、組織化という意味では兵站の方が中心だったようである。作戦面では、天性の戦略家ゆえに組織なんて不要ってか。
その後、ナポレオンが本格的な参謀制度を導入し、ナポレオンに敗北したプロイセンが発展させ、普仏戦争でプロイセンが勝利すると、今度はフランスが模倣するという流れ。
一方、英国で本格的な組織化のきっかけになったのは、ボーア戦争だという。ボーア戦争は、地理を熟知する現地人を相手にゲリラ戦の様相を呈し、インテリジェンス上では大失態を演じてしまう。戦争省軍事作戦局の防諜を担当する第五課(MO5)は、世界屈指の MI5 へ。Operation から Intelligence への移行か。
総力戦に突入した第一次大戦では、防諜から諜報をしかける動きへと発展していく。米国は、プロイセンを模倣したフランスの体制を、第一次世界大戦中に模倣したという。
ところで、ナポレオンの参謀本部は興味深いものがある。彼の軍事的成功は、ひとえに天才的才能というイメージがある。戦略や謀略の面では、シュテファン・ツヴァイクの描いた警務大臣ジョゼフ・フーシェの影がつきまとい、秘密警察という組織も、彼に発しているような印象さえある。
しかし、参謀本部を明確に組織し、情報を組織的に収集、分析し、インテリジェンスを機能させていたのは、おそらくナポレオンが初めてではなかろうかというのである。
まず、ナポレオンにして「スパイの皇帝」と呼ばしめたカール・シュルマイスターという人物を紹介してくれる。彼は、フランス語、ドイツ語、ハンガリー語に堪能で、変装にも長け、彼の組織はプロイセンやロシアにスパイを送り込んだという。ウルムの戦いで、オーストリア軍のマック将軍を不運に陥れたと目される人物である。
また、ルイ・ベルティエ元帥の参謀部はあまり知られてない。ただし、この参謀部がどの程度のものであったのかは議論が分かれるようである。例えば、軍事史家ゲルリッツは、ナポレオンは自分で作戦計画を起草したので、ペルティエ元帥は命令の文書化と伝達を行う皇帝付き副官団長にすぎなかったという厳しい評価を下しているとか。歴史家ダグラス・ポーチは、当時の水準では実に精巧なシステムで、ナポレオンの三つの総司令部の一つで、私的な軍事キャビネットを備え、用兵、人事、インテリジェンスの三部門に分かれていたと評しているとか。
いずれにせよ、ナポレオンの先見性に注目したい。兵站と作戦の両面のインテリジェンスを、戦略と戦術の両レベルで組織していたというのだから。ここで、ナポレオンの金言が一段と輝く。「交戦し、しかる後はひたすら待ち、観察せよ」と...
しかし、これだけ分析を重視したにもかかわらず、ロシア遠征まで手を広げ、強行し、没落の一途を辿った。どんなに冷静沈着な情報と分析をともなったところで、野望には勝てないと見える。インテリジェンスの世界は、やはりミステリー!いや、人間そのものがミステリーなのやもしれん...

2019-08-11

"インテリジェンス入門 利益を実現する知識の創造" 北岡元 著

インテリジェンス... この用語は、国家戦略と結びついて広まってきた経緯がある。情報活動というよりは諜報活動との結びつきが強く、きわめて政治色の強いイメージ。つい、盗聴や暗殺といった物騒なものを想像してしまう。しかしながら、ここには血沸き肉躍るスパイのエピソードなんぞ、とんと見当たらない。実は、そういうものを期待して本書を手に取ったのだけど...
だからといって期待外れに程遠く、目から鱗が落ちる思い。我が家の辞書を引くと、「知性、知能、理解力...」とある。確かに「諜報」という意味も含まれるが、それではあまりに視野が狭い。本書は、「判断や行動に直結する知識」と定義している。もっと言えば、その知識から創造しうるもの、といったところか。
人間の行動パターンには、自分の利益を守り、それを増進する、という動機がつきまとう。利益とは、なにも金銭欲や権力欲に発するとは限るまい。そういうものが、政治との結びつきが強いのは確かだけど。
ここでは、まず「自らの利益を自覚する」を根底の動機に据える。言い換えれば、自己を観察すること、自分自身をしっかりと知ること。インテリジェンスは、強い者よりも弱い者にとって強みとなりそうである。劣っていると自覚するからこそ、考え、工夫する。目先の儲けよりも、潜在的に得られる何かがあるかもしれない、と。目先の勝ち負けよりも、将来的に得られる大きなものがあるかもしれない、と。
まだ気づいていない利益、そういうものを見抜く目を持ちたいものである。情報とは、現実を写したもの。まずは観ること。そして、自己啓発、自己実現、自己投資の側面から読んでみる。なるほど、インテリジェンスとは、人生戦略と深く結びつく用語であったか...

1. 要求ありき...
まず、インテリジェンスを必要とし、利用する側に、カスタマ(顧客)とリクワイアメント(要求)の存在がある。一方、その要求に答えて情報を収集し、加工、統合、分析、評価、解釈のプロセスを経て、インテリジェンスを生産し、配布する側がある。これを「情報サイド」と呼んでいる。
要求ってやつは、状況に応じて刻々と変化するもので、その都度、両者の調整が必要となる。技術屋の世界でも、要求仕様が変化しなかったケースを経験したことがない。依頼元自身が要求を理解していないケースも珍しくなく、調整しているうちに相互理解を深めていくといったプロセスを踏む。そこで、プロトタイプといった方法が有効であるが、インテリジェンスの現場でも同じような形で試行錯誤を続けるようである。こうしたプロセスを「インテリジェンス・サイクル」と呼んでいる。
個人で完結するなら、カスタマと情報サイドの双方において一人二役を演じることになる。国家機関でも、企業でも、同じ組織内で構成すれば、一人二役と言えなくもないが、たいていは部署が違う。人員不足で一人二役を演じる部署もあろうけど...
もちろん、こうした思考構図は真新しいものではないし、ましてや政治の専有物でもない。ただ具体事例となると、国家安全保障や企業戦略の側面から解説され、CIA や MI5 といった組織を見かける。それも、著者が外交官という経歴の持ち主ということもあろうが、こうした構図を体系的に利用してきた最古の現場となると、やはり国家防衛の場ということになろうか。なぁーに、問題はない。国家防衛の原理は、自己防衛の原理にも応用できるし...
ちなみに、政府情報機関におけるインテリジェンスの意識は、その国の文化や歴史とも深く関係するようである。第二次大戦以前では、アメリカが戦時にのみ重要視したのに対して、イギリスは平時でも重要視してきた点で、その深みと徹底さが伺える。そして日本はというと... 伝統的に情報に疎いという噂は、どうやら嘘ではなさそうだ。
さて、思考の原理には、自問の原理が働く。疑問を持てなければ、思考を働かせることも叶わないし、要求も見いだせない。要求が見いだせなければ、工夫も見いだせない。そして、疑問のレベルが問われるのである。技術とは、こうした工夫の連続状態を言うのであろう。そして、インテリジェンスもまた、ある種の思考技術だと解している。有機体のごとくうごめくものだと...

2. 継続ありき...
本書は、伝統的な三分類法を紹介してくれる。ヒュミント(HUMINT: Human intelligence, 人的情報)、シギント(SIGINT: Signals intelligence, 信号情報)、イミント(IMINT: Imagery intelligence, 画像情報)の三つ。シギントとイミントが技術的手段なので、合わせてテキント(TECHINT:Technical intelligence)とも呼ばれる。
今日、情報の収集方法では、人を介したり、コンピューティングやネットワークを介したりと情報源も多様化し、直接的であったり間接的であったりと階層化も進み、複雑きわまりない融合物として捉える必要がある。
また、平面的に図式化した CIA の古典モデルを紹介してくれる。基本的なステップは、リクワイアメントの伝達、計画、指示、インフォメーションの収集、加工、統合、分析、評価、解釈、そしてインテリジェンスの生産、配布といった流れ。だが現実は、単純な平面図式では表現しきれない。
そこで本書は、立体的で螺旋的なモデルを提示してくれる。cia.gov あたりで見かけたような。ステップ毎に生じる変化に応じて、伝達1, 収集1, 配布1, 伝達2, 収集2, 配布2, 伝達3, ... てな具合に。こまめに生産、配布するとなると、まるでソフトウェアのアップデート。インテリジェンスは、継続的なプロセスだという。本書は、"CI(Competitive Intelligence)" というあまり馴染みのない用語を紹介してくれる。
「CI とは、SCIP(Society of Competitive Intelligence Professionals)によって、『それに基づいて、企業が行動や判断できるようになる程度にまで分析されたインフォメーション』と定義されているが、重要なのは、米国の政府情報組織が過去に培ってきたインテリジェンス関連の手法を企業に適用している点である。」
それは、Xerox, IBM, Motorolra などの大企業ばかりでなく、中小企業にも浸透しているという。マーケティングリサーチにおいて、CI 導入前は、市場状況をある時間で区切ってスナップショットしていたらしいが、導入後は、リアルタイムにアップデートしていく連続的な解析プロセスになったとか。インテリジェンス・サイクルもまた一回転で終わるのではなく、継続的な回転が求められるというわけである。
ただ、こうした思考プロセスは、どんな戦略論にもあてはまるだろう。孫子の兵法でおしまい!というわけにはいかない。クラウゼヴィッツ論でおしまい!というわけにはいかない。どんな優れた理論でも再検証を繰り返し、常に違った視点を養わなければ。やはり知識ってやつは、日常の連続体を言うのであろう。そりゃ、学生時代にいくら勉強しても、社会人になって勉強しなければ、すぐに馬鹿になる。知識を得たいという欲望は、自己の早期警戒機能を磨こうとする意欲... という見方もできよう。
賢い人間と仕事をしていると、やはり疲れる。おいらのような能力のない人間が対等に付き合おうと思えば、知識の予習は絶対に欠かせない。そして、人生観のアップデート呪縛は、うまく習慣づけるとワクワク気分にさせてくれる。人間ってやつは、死ぬ瞬間までアップデートを続けるしかなさそうだ...

3. 組織ありき?... いや、弊害?
インテリジェンス・サイクルは、必然的に柔軟性を備えることになり、当然ながら「常識」なんて言葉は忌み嫌われる。とはいえ、インテリジェンスを謳った組織であっても、やはり官僚化、硬直化の波を避けるのは難しい。どこの国でも政府絡みの組織では、カスタマが権威主義者ということがよくあり、情報サイドの方も高度な教育を受けているだけにプライドが高い傾向にある。
本書は、「ストーブパイプス」という用語を紹介してくれる。ストーブの煙突の複数形で、それぞれの煙突の間で相互連絡がないという意味。事例では、ヒュミントを担当する CIA、シギントを担当する NSA(国家安全保障局)、イミントを担当するNGA(国家地球空間情報局)の間で、連絡が悪くなりがちな状況を挙げている。ちなみに、おいらの好きな海外ドラマ「NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班」では、CIA との縄張り争いがすこぶる激しく、おもろい。
また、「最小公分母(ローウェスト・コモン・デノミネータ)」という用語を紹介してくれる。数学では、最小公倍数という用語を使うが、分母の方に重きを置いている点に注目したい。分母の最小公倍数とでも言おうか。プロジェクトマネージャを経験すれば、チームの活力に共通意識が重要であることを知っているだろう。この意識の知的レベルが低下すると、チームそのものの存続が危ぶまれる。志が高く優秀な人材ほど逃げていくからだ。インテリジェンスの世界でも、同じことが起こるようである。問題解決に向かう意識が全員一致であれば、それに越したことはないが、やはり個人差が生じる。底辺を見捨てるわけにはいかず、意識教育が必要となる。コンセンサスと知的レベルの高さは両立できるか?この問題はかなり手強い!
「カスタマーを取り巻く現実を分析すればするほど、情報サイドの人間の視野は拡がって、特定の政策や企業戦略・戦術はむしろ相対化されてしまい、それらのいずれかをサポートするような立場からは、ほど遠くなっていく。インテリジェンスを担当するものに必要とされる視野とはこのようなものなのだ。このようにあらゆる特定の政策や企業戦略・戦術を相対化できるほどに、カスタマーの利益を理解できるような人材を育成することが、最も重要なのである。」

2019-08-04

"現代音楽の創造者たち" Hans Heinz Stuckenschmidt 著

ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットは、アルノルト・シェーンベルクに作曲を学び、音楽批評家として活躍した。ストラヴィンスキーの「春の祭典」が受け入れられなかった時代、音楽家の生産物はますます自由主義と表現主義の混合物という印象を与えていく。音響学の対象となるものすべてが手段と化し、いわばなんでもあり。愛の行為や、酔っ払った聖職者や、幻覚に惑わされるファウスト博士や... 様々な場面で擬音や雑音が用いられ、ジャズの断片までも利用される。精神活動のあらゆる様相を表現するために、複雑なリズム、ポリフォニー、不協和音といったものを融合させ、一つの有機体として浮かび上がらせるのである。音楽は、神への奉仕か、それとも悪魔の技か。シュトゥッケンシュミットは、自由な無調性から電気音楽に至る新たな音楽の時代の勇敢な擁護者を演じてくれる。
「わたしのパンテオンには、多くの神々のための席がある...」

世の中の大きな流れの影では、小さな反抗が育まれる。その小さな力が蓄積された時、新たな風潮が出現する。突然変異のごとく。創造と破壊のサイクル、これが歴史というものか。どうやら人類は飽きっぽいと見える。きまって世紀末に、懐疑的で退廃的な傾向が見て取れるのも気のせいか。だが、その新たな風潮も混乱期を経て、同じ志を持つ者の共鳴を呼び、ある様式に収束していく。ルネサンスの時代にも、古典回帰という思潮の下に多くの万能人を出現させた。
しかしながら、そこに辿り着くまでの過程は十人十色。それは、個々が我流で自由を体現しているからであろう。
世間では、自然主義が勢いづいても逆に超国家主義を旺盛にさせ、ダーウィンの徒が勢いづいても神秘主義者は衰えを知らないというのに、ここに紹介される20人もの音楽家たちは実に多彩、多様に自由を謳歌している。象徴派あり、高踏派あり、印象派あり、古典派あり、主観主義あり、構成主義あり、ロマン主義の残党までいる。人そのものが形式だと言わんばかりに...
正しい反論は、その対象を正しく理解してこそ可能となる。新しい事を始めるという行為が、古いものを熟慮した結果なのか、その行為が盲目的で偶像的な破壊行為に及んでいないか、などと問えば、あるワグナー崇拝者は反ワグナー党に鞍替えし、あるシェーンベルク学徒は反シェーンベルク論をあげつらう。それも人の形式に束縛されず、自己形式を追求した結果であろう。自由とは、能力の解放!才なくば、永遠に呪縛をさまよう、というわけか...

ところで、本書で用いられる「電気音楽」という表現は、いつしか「電子音楽」と呼ばれるようになった。その流れは、電子工学との相性の良さを告げている。もっと言えば、数学との相性である。音響学の数学的な研究は、古代から受け継がれてきた。ピュタゴラス音律などがそれである。オクターブ内に12音を均等配置すれば、その組み合わせは単純に、12! = 479,001,600 通り。音楽家たちは、これらのパターンから、不協和音のみならず、雑音までも芸術の枠組みで語り始めた。数学には素数という崇められる存在があるが、小節にもプリミティブな音列が存在するのだろうか...
どんな学問分野であれ探求が進めば、いずれタブーを冒す。動は反動を呼ぶ!これが物理法則というもの。新たな方法論を編み出せば、伝統を汚すとの批判を受ける。だが、新たな試みによってのみしか古典の理解を深めることはできまい。電子音楽には音楽の解放という意義深いものがあり、けしてバッハやモーツァルトを古臭いと蔑むことにはならない。そして今宵の BGM は、「大ト短調交響曲」でいこう...
「あたらしい音の全交響曲は、工業的世界のなかで現われ、われわれの一生を通じて、日々の意識の一部をなしている。もっぱら音をあつかっている一個の人間が、以上のあたらしい音によって、昔とかわらずにいるはずはあるまい。そこで、現代音楽の演奏会を聞いたあとでは、一体、たいていの作曲家は、つんぼなのか、それとも数百年以来、オーケストラが作り出してきた音で満足しているほど想像力が貧弱なのかと、考えないわけにゆかない。」

2019-07-28

"シェーンベルク" Hans Heinz Stuckenschmidt 著

音楽のド素人でも、つい読みいってしまう音楽論というものがある。それは、歴史を投影しているからであろう。いや、音響論からの視点も見過ごすわけにはいかない。つまりは、数学的な側面からの見方である。
十九世紀から二十世紀初頭、近代社会は自由精神を目覚めさせ、王侯貴族のものであった芸術はブルジョア階級を経て解放へと向かった。これに共鳴するかのように、伝統派のブラームス党と急進派のヴァーグナー党が激しく対立。その新たな風潮を呼び込んだのが、シェーンベルクだったという。彼の編み出した十二音技法とは、自由や平等を旺盛にしていく時代に、十二音すべてを平等に扱おうとした結果であろうか。一つのオクターブに十二音を均等配置し、その組み合わせは、12! = 479,001,600 通り。これらの音列から発せられるリズムとやらの音響現象に無限の可能性を探る。これが音楽家の仕事というわけか。
シェーンベルクの音楽は分かりにくい!とは、よく耳にする。だがそれは、無調音楽に関してのものだろう。ピカソだって「泣く女」のような絵ばかり書いたわけではないし、シェーンベルクだって、弦楽四重奏曲や管弦楽曲にロマン派の余韻を漂わせている。
とはいえ、詩句もなく、韻律もなく、詩節もなく、ただ心の中で奏でる音を気の向くままに書くとは、いかなる境地であろう。音楽の散文とでも言おうか。音素材の弁証法とやらに固執している感もある。協和音と不協和音の境界を曖昧にし、雑音をも区別せず、調性から脱した域に入って、すべての音楽形式の束縛から逃れようと...

しかしながら、法則ってやつは、正しく理解されなければ、正しく反抗することができない。この天才とて、やはりバッハは特別な存在だったと見える。バッハの平均律からヴァーグナーの半音階手法を経て、対比すべくものを目覚めさせていく。
こうして眺めていると、相対的な認識能力の持ち主は幸せかもしれない。ある一つの何かを認識できれば、その対称的な存在をも認識できるようになる。ただそれも、才能豊かな者の特権ではあろうけど。
そして、あまりに急進的な試みは、却って古典回帰の魂を呼び覚ます。妥協なき探究心は、順行だけでは飽き足らず、やがて逆行へ転じ、さらに逆行の逆行へと導かれる。惑う星がごとく...
さて、今宵の BGM は、保守派の憤慨を買ったとされるリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」でいこう。いや、ショパンの影を感じるドビュッシーも捨てがたい...

「シェーンベルクは、作曲技法の天才的学者であり、自分がドイツ = オーストリア音楽の伝統の最大の道と信じたところを、まっしぐらにつきすすんだ人間である。調性の廃棄と不協和音の解放の結果として考えられる、すべての音響の価値の均等化が、彼の仕事である。彼が、道に到達したのは、思弁によるのでなくて、内面の声に強要されたからであるということこそ、論議の余地のないほど明瞭に、彼の生成の道程を証明するものである。この様式が新しい音楽の表現の可能性としてはっきりさせたこと、即ち、4度和声、調性的にあいまいにされた導音の技法、非合理的な、小節縦線を否認するようなリズムの扱い、やたらと多い加線と非旋律的な歩みをもった旋律の扱い、線的ポリフォニーと、ソナタの図式からうけついだ展開的構成の原子化、こういったものはすべて、今日では、すでに歴史的なものになり、ほとんどあらゆる重要な作曲家の語法の資源になってしまっている。」

ところで、音楽には、ピュタゴラスの時代から数学的に論じられてきた歴史がある。そして、平均律の導入によってオクターブを平均的に十二分割すると、音響組織の合理化が促され、自由な転調、半音の等価性といったものが原理的に示された。さらに、機械的な作曲法まで提示されると、コンピュータでも作曲できそうに思える。今では、AI がそれをやっているし...
ある形式を徹底的に追求すれば、それに反する形式が見えてくる。何か一つに気づけば、倍、倍、倍... と覚醒させていく可能性がある。この認識過程は、数学に看取られているのだろうか。べき乗数に支配されて...
まさに、十二音技法の応用は無限の可能性を示唆している。それは、精神的合理性と数学的合理性は合致するか、と問い掛けているようにも見える。神は退屈しているに違いない。絶対的な認識能力を会得してしまったがために、もう覚醒させるものがないのだから。そして羨ましがっているだろう。人類は対位法なるものの完成を永遠に見ることはできまい。この幸せ者め!と...

2019-07-21

"マルチモニタに睨まれて... 八面楚歌!?

モニタってやつは、向こうから一方的に光を放ち、こちらは受け身でそれを見る。だから、出力装置なのである。しかしながら、八面にも囲まれると、向こうからも見られている感じがして、なんとも奇妙な気分になる。テレビ会議中にポーズをとってたりして...
誰かがリモートで仕掛けているのか?贅沢にも二面でリソース監視をやれば、お返しに八つの目線で人間監視をくらう。仮想ワークスペースを加えれば、どれだけの影の眼に見張られていることやら。仮想空間ってやつは恐ろしい。入力と出力の役割を曖昧にさせやがる。そもそも人間精神の実在が曖昧なのだから、まったく違和感なし。
今、自己監視の主導権を取り戻さねば...




左六面がメインマシン(Win 10 Pro)、右縦二面がサブマシン(CentOS 7) ...(上写真)
尚、Pro にしたのは、Active Directory 環境が欲しかったため...
おまけに、箱の中ではイルミネーションの共演ときた。
ケースは、be quiet! DARK BASE 700 BGW23 ...(下写真)




こいつに負けじと、Animation GIF を拾ってきては GIMP2 で分解・加工し、Rainmeter にコマ送りで埋め込む。こんな作業を何度繰り返したことやら。写真では分かりにくいが、実はあちこちでアニメーションしまくり。
あらゆる球体が回転してるわ、猫の亡霊もどきがうごめいているわ、妖怪もどきが散歩してるわ、黒目がウインクで誘ってるわ... おまけに、物体の動力源に 6 気筒やら 4 ストロークやらがピストン運動に励み、Core i9 BOX の中では、14nm のダイが点滅し、パネルの中の道は永遠に続く...
数学諸君だって黙っちゃいない。方程式の踊りを横目にピュタゴラスが三角関係で悩ましく周り、フラクタルがふらふらしている側を流体力学が流しをやり、DNA が螺旋ダンスで行列式と戯れ、黄金比が巨大な目ん玉の瞳孔へと無限小に吸い込まれ、おっ!πもポロリ... 節操のないデスクトップになっちまった。まったく、be Quiet!
画面はあるだけ消費し、贅沢はあるだけ浪費する、ってか。今、デスクトップの素材探しより、人生の素材探しである...




それにしても、デスクトップに数式をでかでかとアニメーションさせるのは、おいらにとっては新たな感覚。ちょっぴり癒やされたりして。「万物は数である」との信仰も悪くない。学生であれば、英単語あたりをスライドショーさせたりするのであろうか...

1. Nagios ってどうよ...
システムの入れ替えついでに、監視ツールを見直すことに。愛用してきた Zabbix をお払い箱にするつもりはない。ただ、他のヤツも試してみたい。そこで、Nagios というわけである。
さすがにメジャーなだけあって情報が豊富で、インストールで苦労することもなかった。監視機能はプラグインで実装する形で、雛形も多く用意されている。ping, disk, users, procs, load, swap, ssh, http, snmp など。こいつらを軽くカスタマイズすればいい。ほとんどそのまま使えるけど。
ちなみに、Zabbix は、テンプレートをいじり倒す仕組み。
また、クライアント側には、NRPE(Nagios Remote Plugin Executor)という監視用プラグインがあって、こいつをインストールしておけば、NRPE 用ポートを開けておくだけで監視対象にすることができる。
ちなみに、Zabbix は、サーバエージェントとクライアントエージェント、これにデータベースサーバを加えた構成で、この部分だけを見れば、Nagios の方が扱いやすい。
ただ、グラフ機能となると、Nagios の本体に見当たらない。今回は、PNP4Nagios を導入してまあまあ。Nagiosgraph というのもなかなからしいので、いずれ試してみたい。
ちなみに、Zabbix のグラフ機能は、スクリーン機能で x 行 y 列に配置でき、マップ機能でネットワーク構成がお絵書きでき、しかも、こいつらをスライドショーできる。実は、この機能が病みつきで、Zabbix はやめられまへん...

2. 改めて、Zabbix に病みつき...
今回、システムの入れ替えで、Zabbix もインストールをやり直したが、いつのまにか標準テンプレートが増えているような。気のせいか?前にインストールした時は、snmpwalk コマンドで MIB を歩き回ったものだが。[テンプレート作成]で、"Template SNMP Device" を選択するだけで、とりあえずうまくいく。
Zabbix も Nagios も snmpwalk コマンドを一度も叩かずに設定が終わって、狐につままれたような。ちと不安だから、確認のために叩いたけど...
そして、Zabbix のリカバリ機能に病みつき。LLD(Low Level Discovery)ってやつが実装されていて、対象機器を動的に設定できる。テンプレートは機器の内部構成やバージョンの違いなどによって微妙な調整が必要だったりするが、こいつのおかげで作業を抽象化してくれる。実は、このテンプレート管理が結構面倒だったりする。
ただし、LLD 更新間隔は、default で 3600 秒になっていて、対象機器がなかなか反映されず、かなり悩んでしまった。酒のつまみを用意している間に、いつのまに監視用アイテムが増えて、ビックリ!

3. chrome のタブ自動切替に病みつき...
監視モニタ用にブラウザの存在は欠かせない。そして、chrome ウェブストアで、"Revolver Tabs" という拡張機能を発見!
タブを周期的に切り替えてくれる。Zabbix だけならスライドショー機能で事足りるが、複数のツールを眺めるなら、こいつはええ...

2019-07-14

パワフルなヤツを黙らせよ!

管理者権限の必要な複数のアプリケーションをバッチで起動したい!... そんなことがよくある。今までは、DOS スクリプトでバッチファイルを作成し、これを管理者権限を与えたショートカットで実行していた。
尚、ショートカットには、[詳細設定]に "管理者として実行" というオプションがある。

そして今、マシンを入れ替え、マルチモニタの増築ついでに、バッチファイルをランチャーに埋め込みたい!... とふと思ってしまう。すると、バッチファイルにどうやって管理者権限を与えるか?という問題に出くわす。Linux なら、この手の問題で悩むことがあまりないのだけど...
おっと!PowerShell がありがたいオプションを持っていた。Start-Process スレッドで、"-verb runas" を指定すればいい。
しかし、これだけでは、PowerShell のウィンドウが開いて鬱陶しい。
さらに、ありがたいオプションがあった。"-WindowStyle Hidden" を指定すればいい。
例えば、こんな感じでバッチファイルを仕込んでおく...

  powershell start-process hogehoge.bat -WindowStyle Hidden -verb runas

しか~し...
これでもほんの一瞬だけ PowerShell のウィンドウが開きやがる。なんとも中途半端な仕様である。この現象が気になるかどうかは人それぞれであろうが、おいらは気になって眠れそうにない。
ん~... どうやら外部の言語系で黙らせるしかなさそうだ。そして、何を使うか悩んでいると、Win 10 には、VBScript が標準装備されていた。中身がこんな感じの hogehoge.vbs ファイルを作成し、こいつをランチャーに埋め込んで実行することに...

  CreateObject("WScript.Shell").Run "powershell start-process -WindowStyle Hidden hogehoge.bat  -verb runas", 0

末尾の ",0" がおまじない。例えば、おいらが愛用している Rainmeter であれば、こんな感じで埋め込む。

  ...
  [HOGEHOGE_EXECUTE]
  Meter=xxx
  LeftMouseUpAction =!execute ["hogehoge.vbs"]
  ...

ん~... 2段階で実行するのも...
PowerShell は、パワフルなヤツでいろんなことができそうだけど、なんとも中途半端な存在に映ってしまう今日このごろであった...

2019-07-07

フルーティなヤツら...

マシンの入れ替えついでに、オーディオ系統を見直すことに...
そして、Realtek High Definition Audio にちとハマってしまう。最新版の Realtek HD Audio Driver(Ver 6.0.1.8710) をインストールすると、微妙にうまくいかない。光端子とスピーカ出力をショートカットキーで切り替えられるようにしているが、スピーカ側のサウンドエフェクトが効かない。設定はできるのだけど。光端子側は正常。マザーボード ASRock Z390 Extreme4 には、Realtek ALC1220 Codec が搭載されているので、どちらも動くはず。そこで、古いバージョン(Ver 6.0.1.7960)をどこからか拾ってきてインストールすると、うまくいった。
尚、音声出力の切り替えには、DefaultAudioChanger(Ver x64_1.0.3)をずっと愛用している。

ついでに、フルーティなヤツらをいじる...
Windows Media Player 用の視覚エフェクトに、FRUITY というソフトウェアがある。こいつのメータ類が凝っていて意外とおもろい。ただ、デザインツールの使い勝手がいまいちで、慣れるまで一苦労だけど。そして、こんな感じで、いくつかの視覚パターンを作っているが、この酔いどれ天の邪鬼がデザインすると、どうも節操がない...






デスクトップのカスタマイズツールでは、Rainmeter を愛用しているが、オーディオ制御系がちと不安定。ソースのスイッチングなど。使えないほどではないのだが。凝ったイコライザや VU メータなどを公開してくれる人たちがいて惜しいのだけど、おいらの能力ではうまくチューニングできないでいる。
てなわけで、オーディオ系は、このあたりで落ち着いてる...

WMP + XTHREE(スキン) + FRUITY + DefaultAudioChanger

ちなみに、Win10 は、タスクトレイのスピーカアイコンからアプリケーションごとに音声出力デバイスを選択できるようになった。

[サウンド設定を開く] -> [アプリの音量とデバイスの設定]

2019-06-30

コアも、スレッドも、2倍!2倍!

サブマシンがへたってきた。基板が反ってきたのか、メモリの接触が甘い。SDRAM の端子をアルコールで軽く拭いて挿し直せば復活するが、季節の変わり目にまたぶっ飛ぶ。年に、二、三度の頻度は、サーバマシンとしては許せない。十年無休で働いてもらい、そろそろかぁ... ついでに、おいらもそろそろかぁ...
尚、退役マシンは、DELL Studio XPS 8100。
さて次のマシンは、やはりメーカ品より BTO がいい。部品の選択肢が広がるし、余計なソフトウェアも入っていないし...

1. 今回のテーマは...
まず、CPU は、8 コア、16 スレッドにこだわりたい。ついでに、マルチモニタの増築。今まで、メインマシン + サブマシンを、4画面 + 2画面で構成していたが、これを、6画面 + 2画面へ。
そして、新マシンの構成は...

  CPU            : Intel Core i9 9900K(UHD Graphics 630搭載)
  Mother Board   : ASRock Z390 Extreme4   -> 2画面出力
  Graphics Board : nVidia GeForce RTX2060 -> 4画面出力
  CPU Cooler     : COOLER MASTER MasterLiquid ML240L RGB
  SSD & RAM      : 1TB & 32GB
  Case           : be quiet! DARK BASE 700 BGW23

GPU 搭載の Core i9 を選択。9900K は熱対策をそれなりにやらないとヤバいようで、CPU クーラーをちょっぴり派手に。当初、表示パフォーマンスがいまいちかと思いきや、UHD Graphics 630 のドライバを最新版にすれば、そうでもない。




ぐるぐるマップを眺めると、なかなかの迫力!
ただ、これだけの画面に囲まれると、向こうからも見られている感じがして、なんとも恥ずかしい気分になる。テレビ会議中にポーズをとったりして...
これで、ほぼ理想的な仕事環境が整ったと満足しているが、だからといって能力があがったと勘違いしてはまずい。むしろ贅沢が祟って感覚が鈍るかもしれないし、恵まれれば工夫も怠る。もっと恐ろしいことは、こんな贅沢も三日もすれば慣れちまったってことだ。自己啓発、自己実現、そして自己投資ってやつは、結局は自己陶酔の類いか...

2. まずは実験...
購入前に、現行マシンで構成を試してみた。4画面ではグラフィックボードの 4 ポートで事足りたが、6画面ではマザーボードの 2 ポートを加える。

  CPU            : Intel Core i7-7700(HD Graphics 630搭載)
  Mother Board   : ASRock Z270 Extreme4   -> 2画面出力
  Graphics Board : nVidia GeForce GTX1060 -> 4画面出力

マザーボード側の GPU を活かすために、UEFI で設定変更。

  [IGPU Multi-Monitor] = "Enable"

画面が増えても、負荷はあまり増えていない模様。当初、再起動に問題があったが、UEFI をアップデートしてうまくいった。
それにしても、BIOS レベルでいじるとなると、それなりに緊張が走るものだが、ASRock のマザーボードには、"Internet Flash" なんてものがあって、これをクリックするだけでアップデートしてくれる。拍子抜け!
ちなみに、むかーし、BIOS を壊した経験があり、会社の ROM ライタで焼き直して四苦八苦したのは、もう三十年前の話。パソコンがどんどんプラモデル化するようで、非常にありがたいことなんだけど、まったく緊張感がないのも寂しい気がする。贅沢な愚痴か...
さぁ、実験もうまくいったことだし、新マシンはお気に入りの ASRock をベースに... というのが事の経緯である。

3. 病みつき... be quiet!
PURE BASE 600 の隣に DARK BASE 700 が並ぶと、なかなかの眺め。高さの違いが、ちと気になるけど。
DARK BASE 700 のフロントパネルには、6色のイルミネーション機能が搭載され、単色や点滅などのパターンがスィッチで切り替えられる。後ろの PURE BASE 600 に反射していい感じ。
ちなみに、Core i9 が入っていた BOX(写真右下)は、オブジェに使える...




ちょっと面を食らったのが、DARK BASE 700 には、フロントパネルに光学ドライブを据え付けるスペースがない。前面がすっきりして、ええ感じなんだけど、最近のケースって、そういう傾向にあるのだろうか。
そういえば、光学ドライブはあまり使わないばかりか、いざ使う時でも、OS の入れ替えか、レスキューか、あるいは、ディスク廃棄時に物理フォーマットするぐらいなもの。おいらの用途では、USB で外付けする方が理に適っている。ノートパソコンにも使えるし。
ちなみに、退役マシンを物理フォーマットしようとしたら、ようやくドライブが壊れていることに気づく有り様。

4. イルミネーションなヤツら...
箱の中で、密かにイルミネーションに励むヤツらがいる。ASRock が静かに点滅し、COOLER MASTERがド派手に...
マザーボードには、"ASRock Polychrome RGB Utility" とやらが装備され、UEFI で速度やイルミネーションパターンが設定できる。Breathing, Cycling, Random など。音楽と同期させるのもなかなか。
ちなみに、MasterLiquid シリーズの RGB コントローラが見当たらず、箱の中を探し回ってしまった。電源周辺のカバーを外して、ようやく見つかる。それにしても、こいつはコントローラに見えない。単なる接続部品にしか...

5. シャットダウンもどきには...
イルミネーション機能はなかなか楽しめる。しかし、シャットダウンしても光りっぱなしでは鬱陶しい。てなわけで、マザーボードの ACPI(電源管理)をいじる。
ちなみに、Win 7 のシャットダウンはスリープ状態が S5 だが、Win 10 のシャットダウンもどきはスリープ状態が S4 である。
ASRock のマザーボードは、UEFI で 以下の Deep Sleep モードを選択できる。

  [Deep Sleep] = "Enabled in S4-S5"

ちなみに、CentOS 7(サブマシンを Linux 化)は以下で OK!

  [Deep Sleep] = "Enabled in S5"

しかしこれは、Win10 が登場した時から気になっている仕様である。きちんとシャットダウンできない!?Win 8 あたりから、そうなっているらしいが、少なくともデスクトップでは余計である。人間の行動パターンからして、機械が異常状態に陥れば、それをリセットしたいと考えるだろう。その手段の第一候補がパソコンの場合、シャットダウンということになる。そんな時にシャットダウンが当てにならないとすれば、人間の方が異常状態に陥りそうである。
巷では「ハイブリッドシャットダウン」などと呼ばれているらしいが、おいらは「シャットダウンもどき」と呼んでいる。OS 側でも、高速スタートアップを無効にするなど細かく設定できそうだが、マシンが異常状態に陥っている時でも、そんなものを当てにしていいものなのか。なにしろ、知らず知らずのうちに、マシンが勝手に目を覚ましそうな仕様なのだ。どうせなら、おいらが深い眠りについている間に、仕事も勝手に片付けておいてよ...