2016-08-28

"サミング・アップ" W. Somerset Maugham 著

これで三冊目!サマセット・モームに嵌ってもうた... 尚、再び行方昭夫訳(岩波文庫版)を手に取る。

「月と六ペンス」と「人間の絆」で、事実と虚構が調和した半伝記と半回想録に魅せられた。ゴーギャンを題材に選べば、伝記として独り歩きをはじめ、架空な人格を暴露すれば、作家の知人で迷惑する人もいる。小説とは、自惚れと虚栄心の渦巻く世界。既成事実でなんでも正当化しようとする衝動は、いわば人間の性癖。人間の自己中心癖は途方もなく大きい。
しかしながら、この性癖をユーモアと解すると、まるで別の世界が見えてくる。そして、こう問わずにはいられない。現実と夢の違いとは何か?と。記憶を曖昧にしてくれるということが、いかに心地よいものか。その区別がつかなくなることが、幸せの第一歩!そして、モームの達した帰結が... 人間の存在は無意味!人生に意味などない!... としたところでなんの不都合はなく、むしろ生きる活力とすることができる。これぞ皮肉屋の真骨頂というものか。経験を十分に積み、老齢になってもなお、人生に意味を見い出せなければ生きては行けないとすれば、それは辛かろう...

「私はまた、自分の先入観に影響されぬように用心してきたつもりである。私は生来ひとを信用しない。他人は私に好意的なことよりも悪意のあることをすると思う傾向がある。これはユーモアの感覚を持つ者が支払わねばならぬ代償である。ユーモアの感覚を持つ者は人間性の矛盾を発見するのを好み、他人がきれい事を言っても、信用せず、その裏に不純な動機があるだろうと探すのだ。外見と中身の違いを面白がり、違いが見付からないときには、でっち上げようとする傾向さえある。ユーモア感覚を発揮する余地がないというので、真・美・善に目を閉ざしがちである。ユーモア感覚のある者はインチキを見つける鋭敏な目を持ち、聖人などの存在は容易には認めない。
だが、人間を偏った目で見るのが、ユーモア感覚を持つために支払わねばならぬ高い代償であるとしても、価値ある埋め合わせもあるのだ。他人を笑っていれば、腹を立てないで済む。ユーモアは寛容を教えるから、ユーモア感覚があれば、ひとを非難するよりも、ニヤリとしたり、時に溜息をついたりしながら、肩をすくめるのを好む。説教するのは嫌いで、理解するだけで充分だと思う。理解するのは、憐れみ、赦すことであるのは確かだ。」

THE SUMMING UP... とは、「要約したもの」といった意味。モームは散歩するかのように、思いつくままに題材を抽出しては意見を綴っていく。人生でも要約しようってか。なるほど、「人生のしめくくり」というわけか。散文とは散歩の一種で、人生とは散歩であったか...
彼は、自己の再発見と、考え方の一貫性を見つけようとするが、なかなかうまくいかない。一貫性ってやつは、想像力を欠いた人間の最後の拠り所である... とは誰の言葉であったか。矛盾によって一貫性を崩壊させるよりも、矛盾をも調和の中に取り込んでしまう方がずっと幸せであろう...
ところで、人生の締めくくりに思いを馳せて書く資格とは、何歳ぐらいを言うのであろうか。五十になる前に、このようなものは書くべきではない... と、ある小説家は語った。いずれ自分の死について考える時期がやってくる。寿命が延びれば、人生の締めくくりも先送り。モームは、六十を過ぎると同年輩の連中が亡くなっていく様を横目に、このような本を書かずに死んでいくことはさぞかし口惜しい、と執筆を始めた旨を告白する。
「こんなありきたりの結論に達したことを私は恥じる。効果を狙うのが好きな私なので、本書を何かはっと思わせるような逆説的な宣言で締めくくりたかった。あるいは、読者がいかにも私らしいと笑いながら認めるような皮肉を締めくくりとしたかった。どうやら私の言いたいことは、どんな人生案内書ででも読めるような、どんな説教壇からでも聞けるようなことだったらしい。ずいぶん回り道をしたあげく、誰でも既に知っていたことを発見したのである。」

1. 美徳の偏見
こんなありきたりの結論!... といって嘆くことはあるまい。言葉を知っているからといって、理解したことにはらない。概念を言葉で説明できたからといって、実感することは難しい。真、善、美などと三大美徳を持ち出したところで、真理がどこにあるかも分からず、何が善なのかも分からず、普遍性などというものが人間にとってどういうものかも分からない。にもかかわらず、人間は美徳とやらに依存せずにはいられない。正体が分からないから、実体が見えないから、狂ったように憧れるのか。
まだしも、美はましな立場にある。美的感覚は極めて主観的で、自己満足の上にあり、言葉で無理やり定義する必要もない。美は信仰に似ており、殺伐とした社会では芸術の美が辛うじて憩いの場を提供してくれる。そして、現実逃避のために芸術を盾にしながら、平凡なものは何であれ軽蔑の目を向ける。自分の落ち度が、他人の落ち度よりも、ずっと許しやすいとは奇妙である。どんなに知性を高めようとしても、どんなに理性を高めようとしても、教養ってやつは往々にして自惚れを旺盛にさせる。人間ってやつが結局は独善的な存在で、何も悟れないとすれば、分かった気になれるということが、いかに幸せであるか...
「私が思うには、千冊の書物を読んだのと、千の畑を耕したのと、どちらが高級かというと、差などない。絵について正確な解説が出来るのと、動かない車の故障箇所を発見できるのと、どちらが高級かという差はない。いずれの場合も、特別な知識が使われる。証券マンもそれなりの知識を持ち、職人もそれなりの知識を持つ。知識人が自分の知識だけが高級だと考えるのは愚かな偏見である。」

2. 批評家の批評
モームは、現代批評が無益である理由の一つは、作家が副業でやるからだ、と苦言を呈す。だが同時に、今日ほど権威ある批評家を必要とする時代はないとも言っている。
あらゆる芸術が困難な状態にあるのも確か。実際、作家か?教育者か?区別がつかない人もいれば、有識者を名乗る人もいる。まるでストレス解消のために批判の対象を求めるかのように。孤独と相性のいい芸術に没頭している人が、そうやすやすと露出狂になれるはずもないか...
「偉大な批評家は、知識が広いと同時に、幅広い作風に共感できなければならない。その共感は、自分には興味がないものだから寛容になれるというような無関心に基づくのではなく、多様性への活発な喜びに基づくべきだ。偉大な批評家は心理学者と生理学者でなくてはならない。文学の基本的な要素がどのように人間の精神と肉体に関連しているかを認識すべきだからである。彼は哲学者でなくてはならない。澄んだ心、公平さ、人間のはかなさは、哲学から学べるからである。」

3. 芸術家の自己中心主義
芸術家の自己中心主義は酷いという。生来独我論者で、世の中は自分が創造力を行使するためにのみ存在すると思っていると。
なにも芸術家だけの性癖ではなかろうが、まず、それを自覚することが作家の第一歩となる。社会的義務を背負わされたところで重荷となるだけ。そのような重荷から自己を解放するためにのみ書くのが一番。世間に評価してもらいたい、専門家に評価してもらいたい、などという思惑は無用だ。人間を曝け出さなければ小説など書けやしない。羞恥心の渦巻く世界に身を置かなければ。これは、ある種の自殺行為か...
自己と葛藤すれば、自己に敗れ、自己を抹殺にかかる危険すらある。不安と惨めさから、自己をどう救えるというのか。賢明な作家であれば、心の平静のために書くよう配慮するだろう。独善的な世界に身を置けば、最大の危険は成功ということになる。
だが、成功ってやつは、自己を破滅させようと罠を仕掛けてくる。その罠に気づけば、成功は新たな創造力を刺激するだろう。そして、芸術家は、自惚れとの闘いを強いられ、成功することがより堅固な自信をもたらす。
しかしながら、年老いてもなお、自信に縋らなければ生きては行けないとすれば、それは辛かろう...
「芸術家は誰も自分の差し出すものを信じてほしいと望むけれど、受け入れられなくても怒りはしない。しかし、神はそのように物わかりがよくない。神は自分を信じるようにとあまりにも強く望むので、自分の存在を納得するために信者を求めるのかと勘ぐってしまう。神は神を信じる者に褒美を約し、不信心者を恐ろしい罰で脅す。私としては、私が信じないからというので腹を立てるような神は信じることが出来ない。私ほどの寛容ささえ持たぬような神など信じない。ユーモア感覚も常識も持たぬような神を信じるのは不可能だ。」

2016-08-21

"人間の絆(上/下)" W. Somerset Maugham 著

「絆」という言葉は、心地よく響く。だが、どんなに美しい言葉でも、肯定的に捉えるだけでは不十分である。政治屋どもに巧みに操られる「正義」しかり、宗教屋どもに催眠の術とされる「友愛」しかり、酔いどれ天の邪鬼には、こそばゆい。「きずな」から仲間の「な」を取れば、ただの「きず」。断ち切れない繋がりは、心を圧迫するばかりか、仲間意識ってやつを強迫観念にまで高める。義務という名の下で社会の生け贄に捧げるもの、それが良心ってやつか。身体や精神に障碍があったり、普通の人と違うというだけで虐げられれば、その運命を恨み、普通という言葉にどれだけの意味があるのかと自問せずにはいられない。おまけに自虐癖がしみつき、逃避先は哲学か、形而上学か。不器用な生き方しかできない人には、絆は苛酷な言葉となろう。だからといって、逃避先に義務や常識を選べば、同じことかもしれん...
一方で、孤独の試練が自立心を芽生えさせる。いずれにせよ、孤独に依存するか、集団に依存するかの違いでしかない。そして、ニヒリズムが到達した幸福観念とは...
成功も無意味、失敗も無意味とすれば、失敗を恐れる理由はなくなる。人間は、生まれて死んでいく存在でしかない。そして、生も無意味、死も無意味とすれば、死を恐れる理由もなくなる。ましてや孤独死など、自然死の一形態にすぎないではないか。自己存在を否定してもなお、心が平穏でいられるなら、真理の力は偉大となろう...
尚、「人間の絆」は、サマセット・モームの半自伝小説であり、訳者中野好夫(新潮文庫版)はこう書いている。
「少なくとも作家の名に値する作家というものは、なによりもまず自分自身のために書く強烈なエゴティストである。なまじ世道人心や良俗教育のために書かれた文学に碌なものがなく、ひたすら自我のカタルシスのために書かれた作品こそが、かえって人間を高め、浄める文学であるというのは、文学の一つの皮肉である。『人間の絆』もまた、実にそうした作品の一つであった。」

幸福の否定から到達した寂滅の幸福とは、いかなるものであろうか...
これは、絆に縛られた一人の男が、ついに絆を断ち切り、自由な人間観に目覚めていく物語である。主人公は、片足に先天性の障碍を持つために、生まれながらにして背負わされた運命という名の強い絆で結ばれる。彼は、幼き頃から自己存在の意味について問い続ける。
絶望の境地にある者が、人生を幸福の尺度で測れば、恐ろしく惨めなものとなる。もはや救いの道は、自意識の解放か。世間が勝手に描く幸福という幻影を追い払うには、数学や論理学に縋ってみるのもいい。主体に幸福を見いだせなければ、客体に見いだそうとするだけのこと。やがて信仰や義務から解放され、障碍意識から解放され、泥沼の人間関係から解放され、人生の重荷が除かれていく。
そして、なぜこれしきのことが分からなかったのか!と、およそ「絆」とは程遠い宇宙論に達するのであった...
「人生に意味などあるものか。空間を驀進している一つの太陽の衛星としてのこの地球上に、それもこの遊星の歴史の一部である一定条件の結果として、たまたま生物なるものが生れ出た。そうしてはじまった生命は、いつまた別の条件の下で、終りを告げてしまうかもわからない。人間もまた、その意義において、他の一切の生物と少しも変わりない以上、創造の頂点として生れたものなどというのでは、もちろんなく、単に環境に対する一つの物理的反応として、生じたものにすぎない。」

1. 半自伝小説
この作品は自伝小説という評判があるが、あえて半自伝と書いた。というのも、相違点が多いからである。
まず、モームは幼少期から、ひどい吃り癖があって極度の劣等感に悩んだという。一方、主人公フィリップは、生まれながらにして蝦足でびっこを引くという身体障碍者。
幼くして両親と死別し孤児であったこと、愚劣な牧師の伯父に養われる幼年期、内気で惨めな学校生活、宗教心を失っていく様、ドイツ生活での人生啓蒙、計理事務所や医学校の生活などは、モームの人生を投影している。
信仰心を失って自由精神を覚醒させると、芸術に心酔し画家を目指すが、才能の限界を知ると父親の辿った医学の道を志す。
そして、医学校を出てからの筋書きは、大きく乖離していく。フィリップは医者になるが、モームは作家に転身。
フィリップは、ミルドレッドの美貌に惹かれて財産を貢ぎ、人生を狂わせていく。けして交わってはならぬ!と分かっていても、男はみな小悪魔にイチコロよ!愛とは、何かを拠り所にすること、依存すること、そして、見返りを求めることか。利己主義の恩知らずめ!
ミルドレッドは別の男に気移りし、恋に敗れた男は虚栄心とプライドを崩壊させる。にもかかわらず、男に捨てられ舞い戻ってきた彼女を拒絶できない。無論、女に同情したわけではない。結婚前には両目を大きく開いて見よ!結婚してからは片目を閉じよ!... とは誰の言葉であったか...
やがて戦争が始まり、株の投機で全財産を失い、食べ物にも事欠く有り様。自殺の誘惑がちらつく。公衆浴場の入浴代が六ペンスとくれば、まさに「月と六ペンス」(前記事)...
愛ってやつは、実に恐ろしい。愛情で誤魔化している間は誰もが楽観主義になれるが、現実に目ざめた途端に誰もが悲観主義に陥る。愛の情念は両極端で、中庸の哲学というものがまったく通用しない。なるほど、男の悲しい性に加え、ドロドロな関係を演出しようとすれば、ミルドレッドは絶好の人物だ。ただ、小説のモデルとなった実在する女性がどこまで悪女だったのかは知らん。あながち空想でもなさそうだけど...
また、後に結婚相手となるサリーは、ミルドレッドとは対照的に妻の理想像を描いている。救いの女神に出会うと、かつて苦痛を与えた悪女さえも赦せるものらしい。ただ、実在のモーム夫人とは違うようで、夫婦仲は険悪だったという噂もある。
そして最後に、幻影の幸福を追求した結果、現実の幸福を手に入れた... というのは、おそらく本当だろう。フィリップは、自由で受容的な人生観を悟り、ついに本当の絆を獲得するのであった...

2. ペルシャ絨毯と人生無意味論
人生の絵模様をペルシャ絨毯の彩りに重ねる一幕は、圧巻!この挿話に触れられただけでも、この作品と出会ったことに感謝したい...
老詩人クロンショーは、ペルシャ絨毯を贈ってくれた。人生の意味とは何か?その答えがここにあると。ペルシャ絨毯は、精巧な模様を織り出していく時の目的が、ただその審美感を満足させようとする。人生もまた、その瞬間、瞬間を、色鮮やかに生きようとするだけのこと。そして、フィリップは「東方の王様」の話を思い出す...
東方の王様は人間の歴史を知ろうと願い、ある賢者に500巻の書を選ばせた。国事に忙しい王様は、要約するよう命じた。二十年後、賢者は50巻に絞り込んだが、王様はすでに老齢で、浩瀚な書物を読む時間がなく、もっと要約するよう命じた。さらに二十年後、1巻に盛った書物を持参したが、王様はすでに死の床に横たわっていた。最後に賢者は、人間の歴史をわずか一行にまとめて申し上げた。
「人は、生れ、苦しみ、そして死ぬ。人生の意味など、そんなものは、なにもない。そして人間の一生もまた、なんの役にも立たないのだ。生れて来ようと、来なかろうと、生きていようと、死んでしまおうと、そんなことは、一切なんの影響もない。生も無意味、死もまた無意味なのだ。」
クロンショーの死は、いずれくるフィリップ自身の死を思わせる。偉大な詩人は、妻に虐げられ、金を失い、みすぼらしい最期を遂げた。世間で忌み嫌われる孤独死ってやつだ。
芸術家の運命に、死後花開く!というものがある。死してなお、人々の記憶に残れば本望であろう。だが、その幸せを享受できるのはごく一部の天才。そもそも死んだ者に幸福の概念などあるのか。すべてを無意味と結論づけちまえば、人生もそう怖くはなくなるだろう。この思考原理は、自暴自棄とはまったく正反対で、積極的に受容する運命論としておこうか。その瞬間、瞬間を、ゆっくりと精一杯生きようという。そして、あの芸人の言葉が聞こえてくる... 生きてるだけで丸儲け!

2016-08-14

"月と六ペンス" W. Somerset Maugham 著

これは小説なのか?小説ならば、主人公の動機や行為の理由、突然変化する気持ちの経緯などの説明義務があっていいはず。だが、あえて不可解という言葉で片付け、こんな一文が鏤められる。
「当時の僕は、未経験で人間の理解が浅くて、そんなふうにしか解釈できなかった。」
傍観者の一人称小説とすることで、主人公についての理解が満足のいくものではない、と素直に言い訳できる。決して意見を変えないのは馬鹿と死人だけというが、一人の人間が首尾一貫して生涯を全うするなんてことは不可能であろう。同じ人格の中に、到底調和できない情念が共存しているのだから。不可解を不可解のまま、矛盾を矛盾のまま描くから、リアリズムを演出し、人間味あふれた人物像が描ける。人間不可解論とは、こういうものを言うのかもしれん...
尚、数ある翻訳版の中から行方昭夫訳(岩波文庫版)を手にとる。

本書は、ポール・ゴーギャンをモデルにした創作小説である。彼の伝記では、数々の正統派物語があるにもかかわらず、「月と六ペンス」を思い浮かべる人も多いようである。
サマセット・モーム自身は通俗作家を名乗っていたというが、彼は皮肉屋か?はたまた照れ屋か?芸術の魔力に憑かれた男のロマンに女性蔑視のエゴイズムを重ね、冷笑的に描いて魅せる。
尚、モームは妻との関係が険悪だったそうな。数々の女性蔑視の台詞は、憂さ晴らしのために非常識な主人公に代弁させたのかは知らんが、フェミニストの攻撃に曝されたことだろう。
芸術家は世間に羞恥を曝け出し、自分自身を生け贄に捧げながら作品に思いを込める。性的本能が自虐にさせるのか?いや、M性がそうさせるのだろう。
主人公は、ゴーギャンの生きた痕跡に、モームの自我を組み込んだような人物である。二人の人物像が重なれば、もはや精神分裂症は避けられない。その証拠に、登場人物がことごとく支離滅裂な言動をぶちまける。人間ってやつは、誰もが精神分裂症を抱えているとでも言いたいのか?精神病を患わない人間は、もはや精神がないとでも言いたいのか?そうかもしれん。その本性を誤魔化し、自分自身を欺くために、常識やら地位やらに縋るというわけか...

ところで近年、「低欲望社会」という用語をよく耳にする。金銭欲や物質欲といった尺度から眺めれば、そうかもしれない。金銭欲、物質欲、名声欲といった欲望に一貫性を保つことができれば、生きるための拠り所にすることはできるだろう。
しかし、高度成長時代に当たり前とされてきた賃金増加は、既に息切れしている。そんな状況にあって、知識欲までも低迷していると言えるだろうか?新たな価値観を別の方面で模索し、欲望が多様化しているだけではないのか?人間が欲望を、そう簡単に放棄できるとは考えにくい。凡人は小欲なり、聖人は大欲なり... とは誰の言葉であったか。金になる仕事が減っても、金にならない仕事はいくらでも見い出せる。
例えば、ボランティアで技術を開発するフリー経済の場に身を置く人々がいる。最低限の生活費が確保できれば、他のことに生き甲斐を求めるのである。インターネットにしても、今でこそ勝ち組などと称して金儲けをしている連中が幅を利かせているが、もとももとはボランティア的な研究者の集まりから生まれたものだ。一時期フリーミアムというビジネスモデルが流行したが、現在のフリー経済はもっと多様化しているように映る。貨幣経済から知識経済への移行とでも言おうか。
すべての依存から解放されたいという思いには、欲望そのものからも解放されたいという矛盾がつきまとう。証券マンだったゴーギャンがすべてを捨て、画家になって遠く離れたタヒチに身を委ねたのは、現実逃避の結果でもあろう。フリー経済へ身を委ねるのも、ある種の現実逃避と言えば、そうかもしれん。しかしながら、現実逃避してもなお生きて行けるのが、天才という人種である...

1. 「月と六ペンス」とは、まさに、月とスッポン!
タイムズの文芸付録に出たモーム著「人間の絆」についての書評には、こんな文句があったそうな。
「多くの他の若者と同じく、主人公のフィリップは月に憧れるのに夢中であったので、足もとにある六ペンスを見なかった。」
「月と六ペンス」という風変わりなタイトルは、ここから借用したものらしい。つまり、夢と現実を対置しているわけだ。夢を体現する人物として描かれるのは、主人公ストリックランド。ごく平凡な中産階級の証券マンは、四十にして突然家族や仕事を捨て、画家の道に身を投じ、タヒチで生涯を終える。物語は、社交界の評判や富に執着する人々と対比しながら夢と現実の狭間で展開され、そこに現実を生きる人々への痛烈な皮肉がこめられる。人間ってやつは、夢に縋ろうが、現実に縋ろうが、結局は何かを拠り所にしなければ生きては行けないというわけか...
「偉大さといっても、運に恵まれた政治家とか、成功した軍人のことではない。その種の偉大さは地位に付随するものであって、人間の価値とは無関係であり、事情が変われば、偉大でもなんでもなくなってしまう。退職した途端に、名宰相が屁理屈ばかりこねる尊大な男になりさがるとか、退役した将軍が都市の平凡な名士にすぎなくなるといったことは、誰もがよく見聞するところである。そこへゆくと、チャールズ・ストリックランドの偉大さは本物だった。」
ところで、夢と現実の違いとは、なんであろう。夢ってやつは、どんなにありえないストーリーであっても、見ている間は妙にリアリティを感じるものだ。一方、現実は、過去に追いやってしまえば、なんと馬鹿げたことかと笑いの種になるか、あるいは忘却の遥か彼方。それで、何が違うんだっけ?今、目の前で起こっている出来事が、夢か現実かは知らんよ...

2. ゴーギャンとの類似点と相違点
本書は、ゴーギャンとの類似点を多く見つけることができるが、相違点も多い。実際、ゴーギャン夫人が「月と六ペンス」を予見なしに読んで、自分の夫がモデルなどとは少しも思わなかったそうな。それはそれで、ちと鈍いような気もするが...

類似点は...
平凡な家庭の家長として証券関係の仕事に従事し、画家へ転向したこと。非社交的で社会常識を無視したこと。タヒチで現地人の妻を持ち、そこで死んだこと。死ぬ前に最高傑作を完成させたこと。後は、絵の手法や主題など...

相違点は...
ゴーギャンはフランス人で、主人公ストリックランドはイギリス人。物語では妻と完全に絶縁するが、ゴーギャンは家族をタヒチへ呼び寄せようとしたという。ストリックランドは絵画論を語らなかったが、ゴーギャンは自作についても他の画家の作品についても多弁に論じるなど、もう少し人間味があったようである。
また、友人のストルーヴ夫妻との関係がワイドショー風に展開される。ストリックランドは肉欲のために夫人に手を出し、彼のニヒリズムのために服毒自殺に追い込むが、ゴーギャンは友人の妻を誘惑したことはあっても深刻なものではなかったようである。
晩年のストリックランドはハンセン病を患わせて盲目となり、それでもなお壁面いっぱいに最後の傑作を残し、タヒチの妻に命じて焼却させる...

最後の傑作について、遺体を看取ったクートラ医師は、絵画知識がまったくないにもかかわらず、宇宙論的な感想をもらす。官能的な美しさは、むしろ恐怖を掻き立て、宇宙は無限で、時は永遠だという強烈な印象を与える絵であったと。それは、ゴーギャンの代表作「我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこへ行くのか」から、ヒントを得たものらしい。ほとんどの人間は物質主義者であり、この絵の前では物笑いの種にされるような...
「自然の隠れたる深淵にまで侵入し、美しくもあり、かつ恐ろしくもある秘密を発見した男の作品だ。人間が知るには罪深すぎる秘密を知った男の作品だ。どこか原始的で慄然たるものがあった。人間が描いたものとは思えなかった。彼は以前うわさに聞いた黒魔術を思い出していた。美しく、かつ淫らでもあった。やれやれ、まさに天才だ!」

3. 人間不可解論
ストリックランドは、安定した生活が保証されているにもかかわらず、突然すべてを捨てた。退屈病がそうさせるのか?マンネリという名の拷問がそうさせるのか?世間は言う。労働の尊さを知れ!と。彼も自問したに違いない。証券取引所で金儲けすることが真の労働なのか?と。
ストリックランド夫人の考えは、四十の男が突然蒸発するのは女ができたに違いない、ということ。知性が低ければ抽象的な議論を嫌悪し、人生とは何か?などと自問することもないと蔑む。結局、社交界の地位や富の尺度でしか価値が語れない世界にうんざりしたのだろう。こうした行動に不自然さを感じない。むしろ不可解なのは周囲の連中である。
三流画家ダーク・ストルーヴは、友人としてパリで貧乏生活を続けるストリックランドを援助し、重病を患うと自分の家に引き取る。妻ブランチを寝取られたにもかかわらず、ストリックランドを崇め続けるとはどういうわけだ?
妻ブランチは、もっと不可解!ストリックランドはエゴイストで世間の評判が悪く、ブランチも思いっきり嫌っていた。夫ダークが重病のストリックランドを引き取ると打ち明けた時も、絶対いや!と拒否。だが、体を丁寧に洗ってやったり、愛想笑みを浮かべたり、嫌った素振りを一切見せない。
やがてストリックランドの肉体に惹かれ、二人で家を出る。ストルーヴ夫妻が倦怠期にあったのかは知らん。ついに献身的な世話は報われず服毒自殺する。恋心ってやつが、見事に利己心を覆い隠してしまう。孤独愛好家には、自虐願望の性癖があるらしい。
その一方で、タヒチで結婚した妻アタは、超人的な愛の持ち主。神の寛容さでもなければ、これだけのエゴイストを包み込むことはできないだろう。
さて、ストリックランドの方はというと、まったく罪悪感がなく、見事なほどに男のエゴイズムを貫く。夜の社交場で、こんな台詞を吐くと袋叩きにされるだろう。とはいえ、小さな声で... 惚れ惚れする!
「俺は愛など要らぬ。そんな暇はない。愛は人間の弱点だ。俺は男だから、女が欲しいこともあるさ。だが欲望が満たされれば、他のことに向かう。性欲は克服できんが、そいつを憎んでもいるのだ。精神を虜にするからだ。あらゆる欲望から解放され、邪魔なしで仕事に没頭できるときを、いつだって待ち望んでいる。女は恋以外に何もできないから、滑稽なほど恋を重視するのだ。そして、恋こそ人生のすべてだなどと男にも思い込ませようとする。恋など人生の瑣末な部分にすぎん。情欲なら分かる。正常で健康的なものさ。だがな、恋は病だ。女は快楽の道具だ。伴侶だの、仲間だの、連れ合いだのという主張には我慢ならんよ。」

4. 良心という名のスパイ
世間に支持されたいという人間の願望はとても強い。世間の批判を恐れる気持ちも同じく強い。そこに良心ってやつが、心の隙間に入り込み、個人の幸せよりも社会の利益を優先させるという寸法よ。実は最も手に負えないのが、肥大化した良心なのかもしれん...
「およそ良心というものは、社会が自らを維持する目的でつくった規則が守られているかどうかを監視するために、個人の内部に置いている番人である。個人が法律を破らぬよう監視するために、個人の心の中に配置された警官だとも言えよう。自我なる要塞に潜むスパイなのだ。」

2016-08-07

"パロール・ドネ" Claude Lévi-Strauss 著

「主題とモノに突き動かされれば、人は、あとで自分が何を言ったのか思い返せないほどの激情と力強さをもって語るものである。」
... ルイ・ド・ルヴロワ・ド・サン=シモン「回想録」より

口頭で残せば、制約から解き放たれる。発言が検証されなければ、口の動きに任せて語ることができる。魂の奥底に潜む無意識の領域を覗こうとすれば、思考は手探りで進み、横道に逸れることもしばしば。春風に誘われて散歩するがごとく。もちろんボイスレコーダの持ち込みは禁止だ。
本書は、文化人類学者レヴィ=ストロースが高等研究院とコレージュ・ド・フランスで32年に渡って行った講義集である。そこには思考のスケッチが集められ、彼の著作群の道案内人となってくれる。「人類と歴史」、「悲しき熱帯」、「構造人類学」、「今日のトーテミスム」、「野生の思考」、「神話論理」、「親族の基本構造」、「はるかなる視線」、「遠近の回想」などの...
講義ですべてを語り尽くすことは不可能だ。せめて思考の道筋を辿ることのできる素材を残したい... あとは聴衆の理解力に委ねたい... との声が聞こえてきそうな。
「私の即興癖ゆえに、予想されなかった問題や謎がしょっちゅう立ち上がり、主題を追求する前に、それをまず解決するよう強いられることもあったが、あとで出てくる結果は同じであった...」

講義が行われた二つの研究機関は、フランス共和制の理念に沿って誕生した。学問精神は自由精神とすこぶる相性がいい。そこに、政治的思惑や経済的実益など無用だ。仮説やアイデアを存分に試すのに、王道も邪道もない。もし定式化に失敗したとしても、それが無意味ということにもならない。思考の過程が大切なのだから。天才とは、無意味を意味あるものに、無意識を意識あるものに、そして無駄を存分に謳歌できる人のことを言うのであろうか。なるほど、この酔いどれが、無意味、無意識、無駄を恐れるのも道理である...

ところで、文化の源泉とはなんであろう。文化は、民族や地域などの集団社会から育まれる。群れる習性がそうさせるのか?
では、人間はなぜ群れようとするのか?自己確認のための手段か?相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体は、他人との対比においてのみ自己を確認できる。その意識には排他的心理が働く。自分は特別なのだと...
おそらく、仲間意識や敵対心を人間の意識から根絶することはできないだろう。人間は、自分自身がなんであるかを求めてやまない。自己の居場所を求めてやまない。そこに答えが見つからなければ、信じるだけだ。救ってくれない宗教なんぞに居場所は与えられない。だから、無条件で信じこませようと必死だ。人がなんらかの罪を意識しているとすれば、まずもって罪人を救済しなければなるまい。さすがに宗教は、目のつけどころが鋭い。存在を確認する術がない事象ほど、存在中心主義を旺盛にさせるのであろうか。人間中心主義、民族中心主義、西欧中心主義、自己中心主義... すべては他との対比において出現してきた。人間社会は相も変わらず迷信や慣習に深く依存し、存在が脅かされない程度に科学的事実を認める用意がある。宗教に依存すれば、宗教観を否定する存在は絶対に認められない。存在にとって不都合なものには寛容ではいられないのだ。すべての存在原理は、自己存在、ひいては自己愛に発している。これが人間の性癖というものか...
いまだ人類は、精神の正体を知らない。正体を知らなければ、確実な存在証明ができない。もはや存在の証を過去の栄光に縋るしかない。忌々しい過去は抹殺にかかる。
しかしながら、人類学には、文化なり、人々なり、その対象や記憶が消滅していくという困難がつきまとう。純粋に自然と向き合ってきた先住民は減少する一方で、近現代人はますます文明の波に呑まれていく。過去が次々と忘却に追いやられる分、未来が過去に呑み込まれていけば、それが希望となるだろうか。人類は、存在の原点を失おうとしているのだろうか...

1. 言語学と人類学
レヴィ=ストロースは、言語学が示している道こそが人類学の取るべき道であると説く。そして、その構造概念は多くの場合、共時態と通時態を組み合わせた二つの次元からなるという。これは統計学的な観点からの発言のようだが、平均値と呼ぶには弱い、一般化と呼ぶのもいまいち、普遍性と呼ぶにはちと大袈裟な気もする。いずれにせよ、この分野は抽象化よりも多様化の方が相性が良さそうである。言語は、論理性だけでは説明ができない、慣習と深く結びついた側面を持ち、こんな時はこういう風に言うものだ!とった暗黙の法則に支えられている。
「ソシュールによれば、世界中のあらゆる言語は、言語が有縁性と恣意性に割り当てている場所にしたがって秩序づけることができる。一方には文法的言語があり、もう一方には語彙的言語があるが、その間にはさまざまな媒介の形式が組み入れられている。」

2. 多様性と不平等
こと人間社会に関して、例外のない法則はないだろう。人間個体に奇形があるように、人間社会にも奇形がある。時には、例外の方が多数派だったりする。権利の定義は、はたして多様性と普遍性のどちらを基軸にすべきであろうか。これは、自由と平等の共存に匹敵する難題である。
人間社会では、進化は二つの形態をとるという。一つは、長時間に渡る量的進化で、もう一つは、細かな観察が要求される多様化であると。地球資源に依存することでは、古代人も現代人も同じ。だが、文明が高度化するほど、根源的に依存している自然物の存在を覆い隠し、間接的に依存している人工物の存在を大きく見せる。集団に依存し、機械に依存し、仮想空間に依存し... ますます依存症を強めれば、自立性や自律性を失わせるのか。先住民の言語や文化は保護政策の対象とされるものの、彼らは既にアイデンティティを見出すことが難しいようである。それどころか先住民という概念すら曖昧になってしまい、貧困層と混同される。多様性という用語は、しばしば不平等と解釈されるようである。異色で理解の難しい風習に出会っては、未開人や野蛮人などとレッテルを貼る。俗進化論と結びつけば、猿の文化というわけだ。
一方で、どんなに善意をもって、文化や民族の特徴、男女の役割などを構造的に唱えても、宗教家やフェミニストの攻撃に曝される。人類学用語は、下手すると差別用語に仕立て上げられるのだ。レヴィ=ストロースが、ルソーの「不平等起源論」に執心するのも分かるような気がする。

3. 間接的表象と交換原理
神話の表すレトリックやモチーフには、何が意図されているのだろうか?わざと主題をぼかし、暗喩の類いを多用する裏に、いかなる精神メカニズムが隠されているのだろうか?間接的表象は、神話だけでなく、トーテミズムや仮面信仰、あるいは儀式や慣例にも現れる。人は何かに願いを込める時、仮想的な対象を欲する。実体に縋ることができなければ、自由に存在を定義できるのだから。偶像化とは、ご都合主義の現れか。儀式や慣例を常識とするのは、そこに心の拠り所でも求めているのか。
精神的な表象は論理性だけでは説明できない。言語は、そうした曖昧な領域までも内包している。言語を論理的な記号でしか解釈できなければ、神話に隠された論理を解読することもできないだろう。神を思い描くのは、叱ってくれる存在を欲する M性の現れであろうか?神の代理人を称するのは、S性の現れであろうか?人間にこのような性癖を与えた神もまた、チラリズムがお好きなようだ...
現在でも、物事を面白おかしく説明するために喩え話が用いられ、プレゼンテーション技法でもよく用いられる。分かりやすい言葉ばかりに触れていると、文学性を乏しくさせ、文章の奥行きが読めなくなる。やはり、心をくすぐるのは間接的な表現の方であろうか。いや、洗脳するには直接的な表現の方がいい。皮相的な表現に対してヒステリックにさせる性癖こそ、扇動者の望むところだ。無条件で信じこませるには、感情を直接操る方が合理的である。
じっくりと読書する暇もない現代人は、分かりやすいものに飛びつく性向がある。そこで、分りやすくもあり、間接的な表象でもあるハイブリッド型の社会が、仮想化社会であろうか?仮想化もまた、間接的表象であり、ある種の偶像化と言えよう。貨幣経済が価値指標を明確にし、名誉や肩書が存在を保証してくれれば、欲望の所在が分りやすくなる。溢れる情報に混乱させられれば、流行に身を委ねるだけで、心に落ち着きを取り戻せる。精神に何かを語りかけたければ、仮想化した存在に訴えるのも有効のようだ。
欲望の代替を求め、実体の代替を求め、そこに交換の原理が生まれる。おまけに、負債は常に交換の対象とされ、その中に妻や夫が含まれるケースも珍しくない。互いの保険金や性関係において。人間にはスワップ好きの性癖がありそうか...
「トーテム的表象が目的としているのは、社会的現実のあらゆる側面の一方から他方への可換性を保証すること、そして言語の面においては、自然と社会の次元における有意味な側面を同じ単語で表現し、片方からもう一方への絶え間ない移行を可能にすることである。」

4. 双系出自体系と平等関係
共系(双系)、すなわち、父母系の対等な認識に基づく出自体系は、例外としての親族構造ではなく、頻出するというから、なかなか興味深い。伝統的な親族関係では、妻の貰い手と贈り手の間において不平等な関係が生じる。政治的地位を獲得したり、武力的安全性を確保するために、女性が利用されてきた。そこで、集団的な対等関係を担保するために、女性と女性を交換しあうことになる。ただ、父系制か母系制かによって、交叉イトコ婚や平行イトコ婚などの意味も違ってきそうである。人間社会には、平等関係を求める資質を持っていながら、膨大な統計パターンから、結局は不平等関係に落ち着く性質でもあるのだろうか?多くの物理現象が、均等ではなく、カオスへ向かうように。圧倒的に父系制が多い事実も、数学的に説明できるのだろうか?
「共系体系と単系出自による社会との間の差異は、おおまかに言って、節足動物と脊椎動物との違いになぞらえることができよう。単系出自の場合、社会の骨格は内在的なものであり、それは人格的な地位の共時的かつ通時的な網の目からなり、そのなかで個人の地位は、ほかのあらゆる地位と固く結び付けられる。共系の場合、その骨格は外在的なものであり、それは領土的な地位の網の目からなり、つまり土地占有の体系だと言える。こうした領土的な地位は、個人にとっては外部のものであり、彼らは、このような外的な制約によって定められる範囲内で、一定の自由度をもって自己の身分を定めることができる。」

5. お家制度
世界の様々な地域には、家族、氏族、リネージなどでは説明のつかない社会集団があるという。家制度ってやつだ。ギルドにも似たような形態で、封建制を支えてきた制度でもある。これは、血縁による世襲というだけでは説明できない。家柄の格付けが政治的、経済的地位を保証する一方で、お家断絶や家督相続で問題となる。集団責任の意識も強い。伝統芸道では、家元が絶対者として君臨する。こうした権威的意識は、ある種の結束力をもたらすが、もともとは信仰的な意識から発しているのかもしれない。やがて、系統的、カースト的な意識が常識化され、封建社会の基盤となっていく。慣習とは恐ろしいものである。
現在ですら、夫婦別姓を認めることに拒否反応を示すのは、どこかに「お家」というものに執着があるのだろうか?血の絆から実益の絆へ。いずれの絆も、幻想といえばそうかもしれん...
「家制度を有するすべての社会では、対立しあう二つの原理の間で緊張や、またしばしば紛争が発生する。つまり本質的に相互に排他的な原理が並び立っているわけである。たとえば出自と居住、外婚と内婚、ここでもやはり正確に応用することのできる中世風の述語を用いれば、人種の権利と選択の権利が、それである。」

6. 儀礼メカニズムとゲーム理論
本書は、神話の論理を説明するために、神話の言説をある種のメタ言語として扱っている。一方で、儀礼のメカニズムを説明するために、「パラ言語」というものを提案している。神話も儀礼も意味作用を持っているが、程度の違いがある。というより、意識か無意識かの違いであろうか。儀礼の価値には、祭具や身振りのうちに含まれる形式的な意味合いが強い。現在でも、儀礼そのものが慣習に呑み込まれるケースをよく見かける。様式から外れると、非常識やら、無礼者やら、とお叱りを受けるわけだ。そして、意味を尋ねると、説明できないのである。
また、神話モデルの分析では、言語学との対話が最も良いやり方で、儀礼モデルの分析では、ゲーム理論を用いるのが良いとしている点は、なかなか興味深い。まずゲームを、無数の試合展開を可能にする規則の総体として定義し、次に、二つのチーム間でバランスが生じるような特別な試合展開を想像し、その試合展開の中から最も合理的なシナリオを選択しようとする... といった考察である。確率論的でありながら、量子進化論的とも言えようか。ゲームの目的は勝利することだが、チーム内には分離作用が生じる。うまく試合運びができれば、合理的な役割分担が生じ、うまくいかなければ、分裂の火種となる。
儀礼もまた人と人を結びつけたり、反目の種となったりする。ここで言う合理性が自然法則に適っっているかは知らんが、人間社会において区別と差別は紙一重のようである。人の好き嫌いも気まぐれといえば、そうかもしれない。親子や兄弟、あるいは神の前で誓った二人が、最も根深い憎悪を抱くのも道理であろうか...