2023-12-31

介護歴七年目!ようやく喜びが感じられる境地に...

介護とは、日々気が狂いそうになる自分との闘いである。いや、もう狂っちまったか...

要介護 4 の婆ヤと要介護 2 の爺ヤと共に、七年目に突入!
パーキンソン病で難病指定を受けた婆ヤに、アルツハイマー型痴呆症の爺ヤに... 当初、怒りを爆発させてトイレットペーパを投げたりもしたが、今では笑い草。ゲンコツで開けた壁の穴はあえて補修せず、今では語り草。
そして、婆ヤが逝った。
これで少しは楽になるかと思いきや、爺ヤがパーキンソン病を患い、要介護 4 に昇格して集約された格好、あまり代わり映えしない。いや、今まで婆ヤが爺ヤを叱って緩衝材になっていたので、それがなくなると辛い!
それでも、七年目にして辿り着きつつある境地がある。いや、地獄を見るのはこれからだ!

婆ヤはもともと穏やかな人だったが、爺ヤは少し怒りっぽい人。老いていくと怒りっぽくなると聞くが、うちの場合、なぜか?どんどん穏やかになり、可愛くなっていく。おいらは、イタズラ好き。息子に可愛いと言われて、どんな気分よ?と言うと照れ笑いがまたいい。もっと喜ばせてやろう!って気分になる。ケアマネジャーさんには、相乗効果でしょう!と励まされる。
そして疑問に思う。介護士さんたちは、なりたくて選んだ仕事だろうか?と...

どんな仕事でも、なりたくてなる、仕方なくなる、成り行きでそうなる... それぞれ事情があろう。おいらの場合、好きで技術屋になった。介護士さんもなりたくてなったとしたら、喜びを感じる部分があるはず。訪問介護士さんや訪問療法士さんたちにも聞くのだが、老人たちの笑顔に救われるという。単純な気持だけど、それが実感できるようになってきたのは、五年を過ぎたあたりであろうか。
例えば、クリスマスにサンタクロースの帽子をかぶって写真を撮ってもらったり、訪問看護師さんたちにいじられる爺ヤの笑顔は微笑ましい。歯が抜けて尚更。
チーフ看護師さんには、お宅は介護施設なみの介護ルームに、プロの介護士以上に介護士さんやってますねぇ!と冗談まじりに励まされる。

福祉施設が乱立しても、まともな介護士や看護師が雇えなければ機能しない。実際、機能していない施設をちらほら見かける。どの業界も優秀な人の負担は増えるばかり。それで、丸投げ家族の苦情に晒されては、ますます成り手がいなくなる。
人口の膨れ上がった社会では、ある程度、自前でやっていかねばなるまい。今、介護力が問われている。

しかしながら、介護をやっているというだけで、頭ごなしに不幸のレッテルを貼る輩がいる。しかも、こうした方がいい!こうすべきだ!などと安直な判断を下し、大きな悩みに直面している人を追い込む。それで助言した気分になってりゃ、世話ない。そういう輩は視界から抹殺!やたらと絆を強いる社会では、孤独に救われることが多い。ヘルパーを呼べばいい!施設に入れればいい!... などとという助言はまったく役に立たないばかりか、腹が立つ。一般論なんぞクソ食らえ!そして、こっちがクソ食らう。
考えてみれば、排泄処理さえ克服できればなんとかなる。おまけに痔で、摘便テクを要する。看護師さんは、なんでもやりますよ!って言ってくれるけど、やはり悪い気が... 結局、人間なんてものは単なる熱機関か。喰って排泄するだけの存在か...

介護と仕事の両立はすこぶる難しい。だが、不可能ではない。しょんべんまみれで御飯を作り、ウンコまみれでキーボードを叩く。このマルチタスクは、なかなか手ごわい。介護マネジメントは、プロジェクトマネジメントの要領に似ている。
我が家は、2階がオフィス、1階が介護ルーム。おいらの場合、個人事業主で周りの理解もあり、かなり恵まれている。介護保険で適用される住宅改修を利用し、玄関や風呂場やトイレに手すりを設置。家を建てる時は介護なんてまったく想定していなかったが、理学療法士さんによると、廊下が広く、バリアフリーで、わりと介護向けの構造になっているらしい。
福祉用具は、車いす、シャワーチェア、トイレとベッドに補助手すり、あちこちに突っ張り棒と、ジャングルジム状態!
あとは、ナースコール、監視カメラ、音声感知、人体検知と、24 時間稼働中!
介護自体は大変だが、介護システムの構築は結構楽しい。おかげで、福祉関係者の見学コースに...

外部環境にも恵まれている。通所介護や病院など同系列の医療法人を利用し、ケアマネージャさんをはじめ、訪問介護士さん、訪問看護師さん、訪問理学療法士さん、栄養士さん、福祉用具屋さん、お医者さん... ついでに食堂や売店のおばさんたちの連携が素晴らしい。さらに、訪問歯医者さんに、訪問美容師さんに...
プロとはいえ、いつも笑顔で彼らの仕事ぶりには頭が下がる。感謝以外に言葉が見つからない。医療現場といえば、たいてい医師が主導する立場にあろうが、逆に、介護士さんや看護師さんたちが率先し、お医者さんは後ろから支えているような位置づけ。
こうした組織構造は、実に民主主義的で、上の命令がなければ動けない大企業や官僚組織とは違う。彼らこそ日本企業の組織の在り方、意識の在り方を問うているような気がする。
延命医療はいらない。一流医療もいらない。いかに穏やかに人生を完結させられるか、これが最大の関心事である。

おまけに、ボケ老人の頭を少しばかり活性化させようと、プロジェクタで大画面動画を上映中。コンセプトは、動画を壁に同化させ、絵画のように鑑賞す!
空間心理として、境界線がしっかりとしたテレビやスクリーンなどで繊細な大画面を眺めていると、鑑賞者を緊張させ、疲れさせてしまうところがある。
老人施設では映画やドラマを上演したりするが、痴呆症患者は内容についていけず、すぐに眠ってしまう。どうせ眠っちまうなら、気持ちよくなる映像を流したらどうだろう!と考え、例えば RelaxationFilm.com を... 実際、海外の風景を流していると、これは近くのどこどこの山だ!どこどこの川だ!などと、ちょっとしたデジャヴのような感覚に見舞われるようである。物理学的な観点からしても、自然風景というものは、地球上のどこでも大した違いはないのかもしれない。
そして、認知症予防学会のお医者さんたちと連携してモニタリング中!
ついでに、介護する側も癒やされる、今日このごろであった...

2023-12-24

"外骨という人がいた!" 赤瀬川原平 著

こんな時代に、こんな人がいたとは... 今宵は、明治の時代へタイムスリップ!
日露戦争の機運が高まり、日本国中に軍国主義が充満していく中、「滑稽新聞」なる刊行物が創刊されたそうな。タイトルからして、反骨精神に満ち満ちていることが伺え、天の邪鬼にはたまらん。
書き手の名は、宮武外骨。外骨というペンネームも薄気味悪いが、どうやら本名らしい。この名で説教され、怒鳴られでもすれば怖そう。自分の名前が珍しかったり、面白かったりすると、馬鹿にされたり、からかわれたりと、幼き頃から捻くれた人生を背負わされることがある。おいらも珍しい名字のせいで、ずいぶんと捻くれちまった。子供は残酷なものだが、大人はもっと残酷!陰険で、策謀的で、おまけに政治的で...

ここでは、言論の自由というものを改めて考えさせられる。言葉遊びに、パロディに、文字のツラで世界をぶった切る。こき下ろす相手は、批判精神を失った新聞屋に、ユスリ・タカリがまかり通る財界に、賄賂の警察署長さんに... お上に至っては、テんで話にならぬ大馬鹿者!テ柄にもならぬ事を威張る!などと、そのしつこさはケタ外れ。伊藤博文や明治天皇にも臆することなく、露骨即物精神をぶちまければ、案の定、投獄される羽目に。入獄四回に、罰金と発禁で二十九回と...
当時の検閲の厳しさや権力批判への圧力は、21世紀の現在とは比べ物になるまい。だがそれでも、誹謗中傷が弱者を襲い、政界や財界に忖度するマスゴミといった構図は、あまり変わらんようだ。言論の自由を盾にすれば、裁判も、牢獄も、同じことなのやもしれん...

赤瀬川原平は、遺品の眼鏡や着物を拝借して外骨に扮し、その書きっぷりも、当人が乗り移ったかのように、えげつない。反骨精神に満ちた外骨を紹介しようと、外骨の知識に飢え、骸骨になっちまったか。そして、こう言い放って外骨講義を始める...
「人類はみな外骨の話を聴く権利がある!」

外骨先生の主著には、「スコブル」という雑誌もあるそうな。スコブル念入りに、スコブル苦心し、スコブル猛烈で、スコブル慢心で... それが、スコブル面白いか、スコブルつまらないかは別にして、スコブル馬鹿げた表現力に、スコブル吸い込まれて、スコブル爽快!とくれば、読み手の方が、スコブル変になりそう。
外骨先生のスコブルぶりは、文面だけではない。挿絵や図板の存在感が、これまたスコブル強烈!絵は文章の背景にあるだけでなく、それ自体が言語機能をもってやがる。
そして、外骨講義は、「滑稽新聞」に掲載される図板をスライドで投影しながら、効果音とともに流れていく。しかも、妙にエログロ!R-18 指定か...

例えば...
ケツの穴が小さい... という言葉があるが、まさに、ケツの穴の大きさを比較しながら、なんと下品な官僚批判!
カシャン!
糞で書いた「法律」という文字は、いかにも臭ってきそうな。司法界には、糞法で溢れているってか。
カシャン!
露と露とが舌でもって接する。接吻とはそうしたものだそうな。そして、表面張力が破れちまった日にゃ、とろ~り合体!お子ちゃまの目に触れぬよう...
カシャン!

漢字論が飛び出せば...
「婆」という字を「波」+「女」に分解して、時代の荒波にもまれてきた女性ってか。
カシャン!
「口」から「耳」へ「囁く」のに、男から女へ向かうのが鉄則らしい。逆方向は、なんで禁句なの?
カシャン!
「襖」の「奥」には「衣」がどっさり隠されているとさ。衣服の整い具合で、その家の格式が決まるのかは知らんが。
カシャン!
ついでに本書にはないが、「信者」と書いて「儲かる」ってのはいかが。「酒」に「落ちて」「お洒落」ってのもいかが。いや、棒が一本足らんよ。
カシャン!

言葉遊びでは、隠語も、禁語も、なんでもあり!
「身体で飯を食ふ人」シリーズでは、口で飯を食ふ人... 落語家、目で飯を食ふ人... 鑑定家、鼻で飯を食ふ人... 香道家、喉で飯を喰ふ人... 義太夫、あたりで軽く流し、腕で飯を食ふ人... 無頼漢(ゴロツキ)、他人の耳で飯を食ふ人... 音楽家、他人の目で飯を食ふ人... 眼科医、とくれば、他人の肛門で飯を食ふ人... 痔疾医、とグロテスクに...
カシャン!
社会は分業と言われるが... 看病する役に、人を殺す役に、人を弔う役に、人を焼く役に... と軽く流せば、子を仕込む役に、子を孕む役に、子をおろす役に、子を挹(く)む役に、とドぎつくなっていき、出征する役に、戦死する役に... と、すべての役が等間隔で静かに流れていく。
カシャン!

思考の動きをそのまま言葉にすると、こうなるのだろうか。その場限りの使い捨て表現のオンパレード!極めて消耗的な力量でありながら本質的!お洒落にフランス語風に言えば、シュールレアリスムか。いや、スーパーモダンか。いやいや、あまりに規格外でスコブル恐ろしい...

さらに、外骨先生と赤瀬川氏の対談も見逃せない。もちろん架空だ。
外骨先生をパラノ人間とすれば、精神だけは元気なもんで!
これに負けじと、赤瀬川氏がスキゾ人間を自称すれば、「いいか、本当のスキゾ人間ってのは体なんてバラバラにしてなくしちゃってるもんだよ!」と反駁を喰らう。
パラノとは、パラノイア、つまり偏執人間。スキゾとは、スキゾフレニア、つまり分裂型人間。類は友を呼ぶと言うが、パラノ人間とスキゾ人間は、すこぶる相性がよいとみえる...

2023-12-17

"日本美術応援団オトナの社会科見学" 赤瀬川原平 ☓ 山下裕二 著

小雨降りしきる中、古本屋で宿っていると、冒頭の一文に誘われる。凡人は、日常の幸せにも気づかないもの。観察力を研ぎ澄まし、情緒を感じながら... そんな生き方をしたい、と思いつつも...

「日本美術応援団の対象とするものは、その名の通り日本の美術である。それがなぜ社会科見学なのか。それは、時として社会も美術だからである。たとえば国会議事堂というもの。その中では与党と野党が口角泡を飛ばして論争をしている。その論争の陰で、居眠りしているものもいる。それを報道陣が撮影していて、書記官は書記官でせっせと記録をとったりしている。そんなリズムの響き合いに、美術の可能性が秘められている。かどうか、とにかくそのみんなに共通していることは、給料をもらっているということである。金のためだけではない、ということはあっても、この世で金は重要である。それが社会というもので、その社会のてっぺんにある国会議事堂、これがふと、雪舟の水墨画に見えることはないだろうか...」

アリストテレスは、人間を「ポリス的動物」と定義した。ポリス的という言葉は、様々な解釈を呼ぶが、精神的に最高善を求める共同体、その一員としての合目的的な存在といった高尚な意味も含まれよう。
しかし、人間ってやつは、どんな社会であろうと、その集団性と無縁で生きられるほど強くはない。社会と何らかの関係を持ちながら生きているとすれば、日々社会勉強ということになる。これぞ、オトナの社会科見学!
そして、介護士の振る舞いや理学療法士の身体の使い方にも、美術を観る眼が養われるやもしれん。ひょっとしたら、御老体の排便姿に向けた怒りの眼差しにも...

日本美術応援団を結成するのは、この二人。超前衛派を自称する美術家赤瀬川原平と、美術史家山下裕二。現実主義者は、何事も手に触れてみないと気が済まないと見える。そのはぎゃぎ様はまるで修学旅行!それで、暗黙に節度を守りなさい!というのが、オトナの態度というものか。
しかし、童心に返らないと、純真な美術鑑賞は難しい。ましてや脂ぎったオトナには...

本書は、国会議事堂に近代美術を見、東大総合研究所博物館に文化資源廃棄物を見、東京国立博物館に侮れない常設展を見る。ド素人の美術鑑賞家は、大々的に宣伝される展示会の方に目がいってしまうが、真の美術鑑賞家は日頃の展示品に愉悦を覚えるらしい。
そして、観光客で賑わう鎌倉ではあえて一歩路地に入って静寂に浸り、長崎では歴史と商業のチャンポン都市を探訪し、奈良では世界遺産の宝庫ぶりを堪能する。美術の眼で眺めると、当たり前のように見えた社会も面白く見えるから、摩訶不思議!

しかしながら、すべてを肯定的に観るのでは、芸がない。現物主義なら予備知識なしで臨みたいが、新進気鋭の作風だから注目を、最新の理論だから勉強を、というのでは、せっかくの好奇心も萎える。国宝などと言われて臨む態度もあろうが、天邪鬼な性癖が条件反射的に漏らす。なんで、こいつが国宝なの?って。義務教育で教わった歴史建造物にも疑いの眼が...
例えば、世界遺産に登録される法隆寺は、長安からの直輸入品だそうな。こいつを、日本の心!などと崇めれば、くすぐったくもなる。戦時中、坂口安吾はこう漏らしたそうな。「法隆寺が焼けてしまったら停車場にすればいい。それよりも、バラックに灯るあかりのほうが美しいんじゃないか!」って...
とはいえ、本場中国に遺らず日本に遺ったということは、歴史的建造物であることに違いはない。文化ってやつは、計り知れぬものがある。原産地で評価されないものが輸出先で評価され、逆輸入されることも。輸出先の文化とうまく融合して、独自の文化を育むことも... 

芸術家も計り知れぬ、生き急ぐタイプが多い。だから、自画像を描かずにはいられないのか。芸術作品には、主語が重要だ。いい意味での独裁でなければ...
しかし、やたらと自己アピールし、存在感が強調される社会は、やはり息苦しい。多情多感な芸術家となれば、尚更。
絵を描くことが、極楽となるか、地獄となるか。芸術は長く、人生は短し... と言うが、芸術家も泡沫の如くでなければ、やってられんらしい。
おまけで、本書には「羅漢応援団」も結成されるが、狩野一信の「五百羅漢図」にも芸術家のアドレナリンを感じ入り、生きる勇気を与えてくれる...

ところで、「社会人」という表現は、日本独特のものだそうな。そういえば、英語に訳してもピンとこない。成年や未成年といった用語は、海外でも法律で規定されるが、社会人となると、責任ある立場、自立した個人といった意味も含まれる。それで、すべて自己責任で!と、人のせいにしてりゃ、世話ない。
実際、子供じみた大人もいれば、大人っぽい子供もいる。駄々を捏ねる大人に、成熟した言葉を発する子供に、どちらも見ててくすぐったくなる。
しかし、こうした対照的な立ち位置が逆転しちまうと、それが芸術の要素になるから面白い。もともと芸術とは、人間模様を滑稽に炙り出し、それが芸術の域に達してきたところがある。世阿弥の「花伝書」にしても、モノマネや滑稽芸に日本の伝統芸能の源泉を見る。おそらく人間を自然に描くと、そうなるのだろう。人の心知らずして何が芸術か...

2023-12-10

"マクロプロス事件" Karel Čapek 著

原題 "Vĕc Makropulos"
Vĕc(ヴィエッツ)という単語には、なんとも掴みどころのない意味が含まれているようだ。翻訳機にかけるとチェコ語で「もの」という訳語がひっかかるが、もっと曖昧で思わせぶりな... あえて訳すなら、マクロプロス家に伝わる、意味ありげなモノ(物)... といったニュアンスであろうか。
これの邦訳版の表題は、いろんなパターンを見かけるが、どうもしっくりこない。秘密、秘法、処方箋... では、あまりに直接的で翻訳しすぎの感もある。分かりやすさを求める風潮では、その方がいいのかもしれんが、せっかくの思わせぶりが... 翻訳界でも悩ましい表題のようである。
本書は、「事件」としている。うん~... これが比較的合ってそうか。
そして物語は、遺産相続事件を発端に、美貌の女性の正体をめぐってサスペンス風に展開され、モノ(封印書)の中身が明らかにされた時、終幕を見る...
尚、田才益夫訳版(八月舎)を手に取る。

時は、三百年ほどさかのぼる。16世紀、神聖ローマ皇帝ルドルフは、侍医に不老不死の秘薬を所望した。侍医が秘薬の完成を告げると、試しにお前の娘に飲ませてみぃ... すると三日三晩、娘は高熱で意識を失い、侍医は皇帝の逆鱗に触れ、投獄されたとさ。それから三百年も生きてきたなんて、どうやって証明するの?
そして、不老不死の処方箋が焼かれた時、やっと死ねるわ!

「老いしもの、もはや来たらず!栄華の夢も、灰燼に帰するなり!」

人類は、何千年も前から不老不死の妙薬を夢見て、迷信とともに様々な処方箋をこしらえてきた。三千年紀が幕を開けた今日でも、長寿で、いつまでも健康でいたいと切望して止まない。人生を十分に謳歌するには、どのくらい生きればいいというのか...
医学は進歩し、寿命は着実にのびていく。幸若舞「敦盛」には、人間五十年... と詠われ、現在は人生百年時代と言われる。健康でいられるなら、いつまでも生きていたい。不老不死なら、これにまさる希望はない。
しかし、だ。長く生きれば、それだけ有意義な人生が送れるだろうか。それだけ幸せな人生が送れるだろうか。それだけ人間というものを悟れるだろうか...

「死後の生、霊魂の不滅への信仰は、人生の短さにたいする激しい不満の表明以外の何でありましょう...」

夭逝した偉人は多い。病死、戦死、刑死、獄中死、自殺... 二十歳で死を覚悟した大数学者は、理論の着想に、僕にはもう時間がない!と走り書きを添えた。
死と向かい合って、ようやく生と向かい合えるということもあろう。生の有難味を、死が教えてくれるということもあろう。生を浪費する人間には、時間と死の概念が必要だ。
セネカは、人間のどうしようもない性癖の一つ「怒り」を抑える方法として、果敢ない死を思え!と説いた。ガンジーは、明日死ぬと思って生きよ!不老不死だと思って学べ!と説いた。死と隣合わせだから、生にも迫力がでてこよう。死を覚悟するから、覚悟した生き方もできよう。

人間社会は、奇妙なものだ。死がありふれれば、生を崇め、生がありふれれば、死に思いを馳せる。生死にも、希少価値という経済原理が働くようだ。
誰とでも繋がろうとするソーシャルメディアが猛威を振るう時代では、むしろ煩わしい関係を徹底的に切っていく方が楽ということもあろう。巷では、孤独死が不幸の象徴のような言われようだが、実は、孤独死こそ理想的な死ということはないだろうか。
老化にも意味がある。死を覚悟する時間を与えてくれるのだから。痴呆症にも意味がある。歳をとる恐怖心を和らげてくれるのだから。
何百年も生きられる時代となれば、人口問題と直結し、少子化問題などと言ってはいられまい。皮肉なことに、戦争や疫病が人口増殖の抑制に寄与している。あとは、安楽死ビジネスが盛況となるか。あるいは、地球外への移住を加速させるか。やがてヒューマニズムが命ずるやもしれん。そろそろ死ななきゃならん!と...

「いいかね、ほとんどの有用な人間の使命は、ひとえに、無知なるがゆえに可能なのだ!」

2023-12-03

"R.U.R. ロボット - カレル・チャペック戯曲集I" Karel Čapek 著

カレル・チャペックの小説「山椒魚戦争」は、知能の発達したオオサンショウウオが、やがて人類の総質量を上回り、知能をも上回り、地上の支配者であった人類を滅亡させちまうという物語であった(前記事)。人類が様々な種を絶滅させてきたように...
自然界で進化した生物が発見されると、これを人身売買のごとく商品化し、繁殖までさせて労働力にしちまう。シンジケートまがいの経済システムは、まさに人類の発明品!

ここでは、人間が大量生産したロボットが、同じ役を演じる。R.U.R. とは、ロッサム・ユニバーサル・ロボット社。当社が開発した万能ロボットは、人間よりも安く、完全に従順な労働力を提供致します!
こいつぁ、人造人間か!バイオノイドか!人間を装うなら、少しは気違いじみていなくちゃ...
尚、本書には、二つの戯曲「ロボット」と「白疫病」が収録され、栗栖継訳版(十月社)を手に取る。

1. R.U.R. ロボット
「ロボット」の語源は、この物語に由来するそうな。元々はスラブ語らしいが、チェコ語の "robota" は賦役、苦しい労働を意味するという。強制労働のための機械というわけか。
この物語は、アラン・チューリングやフォン・ノイマンが提起した問題にも通ずるものがある。それは、コンピュータが意思を持ちうるか?という問い掛けである。

しかし、これは本当にロボットの物語であろうか。産業革命以降、世界中に工業化の波が押し寄せ、大量生産の時代ともなると、機械的な仕事が急激に増え、否応なしで命令に従う労働者が求められる。やがて植民地主義が旺盛になり、なりふり構わず人種や民族も一緒くたに労働力の集約にかかる。これぞ、生産合理性!
組織に隷属し、人間に隷属し、社会保障制度に縋る人々。自分で思考することを放棄し、情報を鵜呑みにする大衆。生産と消費を高めることでしか経済が回らない社会では、その成員がロボット化することで経済合理性がまかなわれる。うんざりする仕事は誰かに押し付けて、われわれは楽をしようではないか。そんな理想郷に思いを馳せるも、意志を持っちまった徒党が、そんな地位にいつまで甘んじてくれるやら。
世間には、非人道的な人間がわんさといる。これからの社会は、ロボットらしくないロボットも増えていくだろう。それは、 人工知能が暗示している。
そして、ロボットに戦争というものを教えてしまったら最後、人間よりもはるかに合理的な方法でやってのけるだろう。いや、わざわざ教えなくても、人間を観察していれば、いずれ知ることに...

「われわれは人間の弱点を知ったのです。人間のようになろうと思えば、殺しかつ支配せねばなりません。歴史を読むがいいのです!人間の書いた本を読むがいいのです!人間になろうと思えば、支配しかつ殺さねばなりません!」

2. 白疫病
熱病にかかったように軍備拡張が広がる世界で、今にも戦争をおっぱじめようとしている元帥がいる。その時、新たな疫病が蔓延!これはペストではない。ペストは全身が黒くなって死んでいくが、この病は白くなった肉の欠片がぼろぼ落ちていく。
しかし、ナショナリズムの熱病も同じことやもしれん。戦争は人口増殖の抑制に寄与する。疫病もまた...

そんな最中、貧しい人々を献身的に診察していた一介の開業医が、この白い病の治療薬を発見する。侵略戦争をきっぱりとやめ、恒久的な平和条約を結ぶ国にのみ、この治療薬を提供致します!
医者の倫理からすれば、どんな患者にも治療薬を提供するのが道理だが、あえて政治家の論理を通す。平和テロか!
元帥は、医者の要求を頑固として拒否し、愛国心に燃える大衆がそれを後押し。人間ってやつは、一旦、権力欲に憑かれると、民衆の苦痛を見ても、立ち止まる勇気が持てなくなる。そして、大衆もまた熱狂から抜けられなくなる...

「きみは、平和は戦争にまさる、と信じているが、私はね、勝った戦争は平和にまさる、と信じている。戦争に勝つ機会を国民から奪う権利など、私にはないのだ。戦死者たちの血によってこそ、ただの国土が祖国になるのだからね。戦争あってこそ、人間の集まりが国民になり、男たちが英雄になるのだよ。」

こう主張する元帥も、いざ白い病が自分に感染して死が迫ってくると医者の要求を受け入れ、治療薬を提供してもらうことに。だが、医者が元帥邸へ治療薬を届ける途中、大衆にリンチされて命を落とす。この国賊め!元帥万歳!戦争万歳!いつの時代も、大衆(体臭)に付ける薬はない...