2023-11-26

"山椒魚戦争" Karel Čapek 著

カレル・チャペックは、チェコの作家...
チェコというと、重々しい歴史を背負った印象がある。それもステレオタイプであろうが、歴史を遡ると、やはり重々しい。フランツ・カフカの場合、ちと異質な世界を魅せてくれたが、暗い感触は、やはり重々しい。

首都プラハは度重なる戦渦に巻き込まれてきた。神聖ローマ帝国の時代には「黄金のプラハ」と形容されるものの、「プラハ窓外放出事件」を発端に、ローマ・カトリックと改革派の衝突から三十年戦争に至る流れがあり、この地にプロテスタントの源泉を見る思い。しかも、チェコ語禁止などの文化弾圧を受けてきた。
ナチス占領下には、親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復として、リディツェ村の住民が老若男女問わず殺害され、村の存在そのもが抹殺された。戦後、リディツェと名のる町があちこちに出現することに...
東西冷戦時代には、「プラハの春」と呼ばれる変革運動が、ソ連主導のワルシャワ条約機構に弾圧され、チェコスロバキア全土を占領下に置いた。
チェコという地には、自由を求める不屈の精神が育まれると見える。本書も、その影を引きずるかのように...

本物語が諷刺であることは、疑いようがない。実際、ナチスがプラハを占領した時、いち早くゲシュタポがチャペック邸にやってきたそうだが、幸か不幸か、チャペックは既に病死していたそうな。

さて、人類がまだ知らぬ未開の地に、高度の知能を備えた生物の世界があるとしたら...
科学的に地球の構造を外観すると、中心には核があり、その周囲にマントルの層があり、その上に地殻が乗っかっていることになっている。だが、それだけだろうか。この地球で、人類にだけ与えられたとされる進化エネルギーが、他の生物にも... という可能性はないのだろうか。物語は、海底奥深くに棲む黒々とした生物との遭遇に始まる。山椒魚に似た姿から魔物と怖れられたが、実は高度な知能の持ち主であったとさ...
尚、栗栖継訳版(ハヤカワ文庫)を手に取る。

生物の種が、この地上を支配するための要件とはなんであろう。知能か。数の原理か。宇宙の重力法則に従えば、一つの要件として、おそらく種全体の総質量が物を言うであろう。アリやハエがいくら繁殖したところで、人類の総質量には遠く及ばない。文明の発達が人口爆発を引き起こし、地上の支配者へ加速させた、ということは言えそうだ。人類に、その資格があるかは知らんが...
では、人類の総質量を上回るほどに繁殖した生物がいたとしたら。しかも、人類に劣らず知能を発達させて...

「もし人間以外の動物が、文明とわれわれの呼んでいる段階に達したとき、人間と同じような愚行を演ずるだろうか。同じように、戦争をやるだろうか。同じように、歴史で破局を体験するだろうか。トカゲの帝国主義、シロアリのナショナリズム、カモメあるいは、ニシンの経済的膨張を、われわれはどんな目で見るだろうか。もし人間以外の動物が、『知恵があり数も多いおれたちにのみ、世界全体を占拠し、すべての生き物を支配する権利があるのだ』と宣言したら、われわれはどう言うだろうか。」

生産と消費を高めることで経済が成り立つ世界では、労働力こそが鍵。文句も垂れず、従順な働きアリは貴重な存在だ。人間は人間を奴隷にしてきた。
一方で、珍種は金になる。しかも、進化した山椒魚は賢く、うまく飼いならせば、人間以上に儲かりそうだ。奴隷商人はどこにでも湧いて出る。動物愛護団体の目を掠め、山椒魚シンジケートが裏社会を牛耳る。選りすぐりの山椒魚は売られ、買われ、交尾させられ、人類をはるかに超える数に繁殖させられる。
しかし、賢い山椒魚は奴隷の代役だけでなく、ご主人様の代役も務まるときた。そして、奴隷叛乱のごとく人間に襲いかかる。
戦争となると、人間を相手にする方が、はるかにやりやすい。同族同士であれば、相手が何を考えているかも分かるし、なにより互いに殺し合うのは人間の得意とするところだ。
21世紀ともなれば、気候温暖化で海面が上昇し、山椒魚の水陸両用体質の方が優位となろう。山椒魚相手では掴み合いにもならないし、海中に向かって銃剣突撃もできない。人類の肉体も海中で生きられるまでに進化させなければ...
そもそも、山椒魚は戦争というものを知らない。だからこそ、合理的に支配し、合理的に抹殺する手段を考案できる。最終的解決ってやつか。知能の発達は恐ろしい。実に恐ろしい。もはや人類は、AI の支援を仰ぐほかはない。それで、AI の奴隷になってりゃ世話ない!

「現在、地球上には、文明化した山椒魚が、約二百億住んでいる。それは全人類のほぼ十倍である。このことから、生物学的必然性と歴史的論理によって、次の結論が出てくる。すなわち、山椒魚は、抑圧されているがゆえに、解放されねばならず、同質であるがゆえに、団結せざるを得ず、そしてこうして、世界始まって以来最強の勢力になった暁には、必然的に世界の支配権を握らざる得ない、ということである。そのとき、山椒魚は人間の存在を許すほどおろかだ、と諸君は思うだろうか。征服した民族や階級を絶滅させないで、奴隷にしたことによって、常におかした人間の歴史的誤りを、山椒魚がくりかえす、と諸君は思うだろうか。人間はエゴイズムから人間と人間とのあいだに新たな差別を、永遠につくり出し、その後、寛容の精神と理想主義から、ふたたび、そのあいだにかけ橋を渡そうとしたのだが、山椒魚も、そのような誤りをくりかえす、と諸君は思うだろうか。」

そしてついに、この長編の最終章で、著者は自問自答しながら山椒魚(サラマンダー)の正体を論じて魅せる...

「チーフ・サラマンダーは、人間なんだ。本名は、アンドレアス・シュルツといってね。第一次大戦当時は、曹長だったんだ。」

チーフ・サラマンダーとは、山椒魚総統のこと。その総統が第一次大戦で曹長だったとなると。盲目的に襲いかかる山椒魚どもはナチス軍団か。
ノルマンディー沖でフランス巡洋艦が山椒魚に魚雷攻撃を喰らえば、U ボートの襲来だ。ただ、海の怪物だけあって、航空機の操縦は苦手と見える。
山椒魚どもは、哲学や芸術というものを知らない。しかし、ボスのお気に入りとなれば、それを収集にかかる。ナチス高官どもの絵画略奪のごく。
そして、本能的な虚栄心と征服欲を剥き出しに山椒魚ダンスに熱狂し、最大のエロチックなイリュージョンを演じる...

「山椒魚には、もちろん精神はない。その点、人間に似ている。」
... G・バーナード・ショー

「マルクス主義者でさえなければ、山椒魚でも、なんでもよい。」
... クルト・フーバー

「きょう私は自作のユートピア小説の最後の章を書きおえた。この章の主人公はナショナリズムである。すじはまったく単純で、世界ならびに人間の滅亡。これは論理のみに基づいた、なんともうとましい一章である。そう、しかし、こういう結末のつけようしかないのである。人類を滅ぼすのは、宇宙の災害ではまずなく、国家・経済・面子といったもろもろの要因だけなのだ。諷刺作品を書くのは、人間が人間たちに向かって語ることのできる最悪のことである。これは、人間たちを非難するのではなく、彼らの実際の行動と思考から単に結論を引き出すだけのことなのである。」
... 付録「異状なし」より

2023-11-19

壁に動画を同化させ、絵画のように鑑賞す... by EH-LS800B

介護ルームの壁を賑やかにし、ボケ老人の頭を少しばかり活性化させようと美術品を物色する。いくつか候補が上がり、うん~... なんとか簡単に差し替えられる方法はないだろうか... などと思案していると、プロジェクタという選択肢を思いつく。おかげで、汚れた壁をせっせと掃除する羽目に...

コンセプトは、「動画を壁に同化させ、絵画のように鑑賞す!」
空間心理として、境界線がしっかりとしたテレビやスクリーンなどで繊細な大画面を眺めていると、鑑賞者を疲れさせてしまうところがある。第一の目的は、リラクゼーション!
老人施設では映画やドラマを上演したりするが、痴呆症患者は内容についていけず、すぐに眠ってしまう。どうせ眠っちまうなら、気持ちよくなる映像を流したらどうだろう... と考え、例えば、RelaxationFilm.com あたりをターゲットに。実際、海外の風景を流していると、これは近くのどこどこの山だ!どこどこの川だ!などと一種のデジャヴのような感覚に見舞われるようである。物理学的な観点からしても、自然風景というものは、地球上のどこでも大した違いはないのかもしれない。
そして、認知症予防学会のお医者さんたちと連携してモニタリングしているうちに、うちでも思い切って投資してみることに...
ついでに、痴呆症を相手にしていると、怒ることも、押し付けることもできず、こちら側のストレスもほぐすことに...

まず、要求仕様は...
  • 設置場所は部屋の隅っこに固定したい。専門用語で「超短焦点」と言うらしい。プロジェクタの位置ズレはかなりシビアで、その度に調整するのでは介護ストレスを増幅させちまう。
  • 明るさは、3000 lm 以上。我が家の介護ルームは西日がきつい...
  • 解像度は、4K 相当。大画面ではある程度の画質が欲しい。
すると、EPSON EH-LS800B が浮上する。
超短焦点に、4000 lm に、4K 対応に... モノはいい!だが、コスパが悪い!
画像性能だけなら半額以下で買えそうだが、超短焦点は外せない。
おかげで、真面目に NAS 環境を検討してみたくなる、今日このごろであった...




1. Android TV 搭載 
オンラインの WiFi 環境さえあれば、YouTube などが流せて、とりあえず遊べる。
但し、仕様には WiFi 5 とあるが、なぜか?5GHz 帯が拾えない。うん~... 伝送方式や暗号方式をいろいろ試してみたが。2.4GHz 帯では重いデータがたまにコマ落ちする。アクセスポイント側で帯域を広げれば、ギリギリ許せるかなぁ...
尚、アクセスポイントは、BUFFALO WXR-11000XE12 を Wireless Bridge モードで運用中。電波状況も、すこぶるいい!Ethernet の口があれば中継機に接続して、プロジェクタに関係なく、6E でも飛ばせるんだけどなぁ...
ちなみに、EH-LS800B のファームには「有線 LAN」という設定項目がある。

2. Chromecast built-in
chrome ブラウザから全画面キャストを流せば、なんでもあり!ってのは大袈裟にしても、たいていのことはできる。プレゼンソフトでも、動画再生ソフトでも。
例えば、スライドショーをやるには、愛用の画像ビューワ IrfanView を使って風景画でも、日本画でも...

3. USB メモリから動画再生
"MoviePlayer" というアプリが既にインストールされ、USB 外部メモリから動画が再生できる。ファイル形式は、webm, mp4, mkv などに対応。
但し、mkv では、オーディオトラックが Dolby Audio 形式の場合、手動で切り替えないと音がでない場合あり。認識してくれるのだから、自動で切り替わってもよさそうなものだけど...
さて、YouTube は広告が、10分か、20分置きに割り込んできて、Relaxation Film を流してもリラックスできない。1 分間も流された日にゃ、従来の民放と何が違うのやら。その度にスキップボタンを押すのでは却ってストレスになる。おまけに、アカウント作るといいことあるよ!みたいなメッセージが鬱陶しい。広告ブロック撲滅キャンペーンかは知らんが...
なので、動画を手元に落とし、USB SSD(NTFS)経由でオフライン再生する。

4. その他
YAMAHA のスピーカ 2.1ch が搭載され、音質はまあまあ。
画面の境界線にぼかし機能があって、壁に同化しやすい。但し、もう少しぼかせると、もっと馴染みそうで、ぼかし効果の段階設定があるとありがたい。
スクリーンサイズは、150 インチまでの仕様だが、我が家にそんな壁はない。もったいないけど、120 インチ弱に抑えて...

5. おまけ
ストアでブラウザアプリを探しているが、操作性がイマイチ。テレビ対応のブラウザなどいろいろと試してみたが、リモコンの方がショボいのかも。わざわざニュースなどに特化したアプリをインストールしなくても、ブラウザの操作性が良ければ、なんでもあり!ってことになりそうなんだけど。いや、パワフルなモバイル機器とリンクすれば、なんでもあり!ってかぁ...

2023-11-12

"その言葉、異議あり! - 笑える日米文化批評集" Michael S. Molasky 著

「本書は、不良学者の無駄な時間の産物... まず役立たないという、へそ曲がりの意向から成り立っている。」こう宣言するマイク・モラスキーさん。
それでも、「逆説的に、このような、単なる遊びのつもりの非実用主義の姿勢こそ、知的な発見に不可欠」と自ら鼓舞する。いや、開き直りか。未練は男の甲斐性よ!
副題に「笑える日米文化批評集」とあるが、笑えるというより苦笑か。いや、冷笑か。アメリカ人の目で日本を観察し、日本ツウの目で祖国アメリカを振り返り、疑問に思うことを皮肉まじりに物語る。やはり文化ってやつは、距離を置いて眺める方がいい。それで文化論に遠近法が成立するかは微妙だけど。
それにしても、アメリカと日本を往き来する曖昧な立ち位置は、居心地が良さそう...

「どちらの社会の完全なるインサイダーでもアウトサイダーでもない、そのような立場だからこそ、想像力を刺激され、批評眼が磨かれる。」

モラスキーさんには、ジャズ喫茶論(前記事)と居酒屋文化論(前々記事)にしてやられた。この大学教授ときたら、自ら「フーテンのモラ」と名乗り、日本全国をハシゴ。これを文化研究などと称し、思うままに日本探訪記を綴って魅せる。それこそ、日本人よりも日本人っぽい文脈をもって...
本書は、所々で英語のニュアンスを日本語で要約してくれるものの、あまり英語の勉強にはならない。むしろ、和製英語や日本語の使われ方に違和感を持つエピソードの方が興味深く、日本語の勉強になるから、語彙の逆輸入現象!とでも言おうか...
そういえば、むかーし、日本人のくせに着物も着れへんのか!とガイジンさんに大阪弁で馬鹿にされことがあったっけ。おかげで今では、出かける時は必ず和服である。

本書の言葉遊びは愉快!実に愉快!
語彙の乏しいおいらだって、言葉に関しては、いろいろ思うところはある。言語は使いやすく、分かりやすい方向へ流れ、意味合いも時代に流されやすいのは確か。この柔軟性こそが言語システムを進化させ、人類を進化させてきたのも確か。ただ、ネアンデルタール人のおいらが、現代語についていけないだけのことである。

言葉の乱用が、言葉を安っぽくさせるところがあるのも確か。本書とは関係ないが、例えば、謝罪や所信表明で見かける「真摯に受け止めます!」といった言い回しのおかげで、「真摯」という用語は、おいらの頭の中で胡散臭いという意味に変調される。
差別用語ともなると、有識者や教育家どもがこぞって目くじらを立てるが、それを禁止したおかげで、もっと具体的で過激な言葉を浴びせるのでは、差別を助長しているように見える。しかも陰湿に。昔の映画を鑑賞していると、なんでこれを禁止用語にせにゃあかんのか、と思うこともある。差別意識を問題提起する映画も成り立たなくなるのでは...
そもそも、差別のない社会ってあるのか。言葉を禁ずるより、言葉をどう意識するかの方が問題であろうに。そんなことを考えながら読んでいる読者も、かなりのへそ曲がりということであろう。

「検閲官のようにあれもこれも使用禁止語とするような『政治的に正しい』ならそれでよしとする、安易なポリティカル・コレクトネスはつまらないと思っている。いや、はっきり言えば、差別用語だからといってある表現を禁止する行為自体は怠け者のやり方だと思う。それよりも、その単語に付着しているイデオロギーや、それが含む偏見的発想などを、なるべく印象に残るような形で明るみに出せば、少なくとも良識ある人ならば、もう少し自覚して使うようになることを期待できると思う。あるいは初めてその問題点を意識した人は、その表現を使わないようになるかもしれない。」

さて、いつも長過ぎる前戯はこのぐらいにして、数多い体験談の中からちょいと気に入ったところを拾ってみよう...

1. 盲人に道を教えてもらう超方向音痴!
モラスキーさんは、超人的な方向音痴だそうな。自分の子供から「ザ・U ターン・キング」と嘲笑されるほどに。東京で迷子になった時、 なんと!盲人に道を教えてもらったという。相手が白い杖を手にしていることにも気づかず。すぐに謝ろうとしたが、丁寧に道順を教えてくれたそうな。
目が見えるから、本当に見えているとは限らない。真理ともなると、盲人よりも見えていない事が多い。ただ、見えた気になっている事も多いので、それで相殺され、うまくバランスされるのだろう...

2. 取扱説明書はホラー映画?
日本の家電品の取扱説明書は、古典的なホラー映画に似ているという。その構造は、こんな感じだそうな...
まず、表紙デザインで読者に安心感を与え、油断させる。次に、危険!警告!事項によって脅し、そして、穏やかな注意!お願い!でやや安心させ、ようやく本題である使い方の説明で、さらに安心させる。だが再び、故障や異常などの対処で不安に陥れ、最後に、アフターサービスの説明で再び安心させて、完結!オーブントースターひとつとっても、爆発しそうで使えねぇじゃん!
しかし、契約書ともなると、欧米のドキュメント文化の方が詳細に仕組まれていそうである。近年、日本でも通信サービスや保険などで事細かく記載されるようになったが、安易な宣伝パンフレットで決めちまう習慣は如何ともし難く、まともに契約書を読んでいる人はごくわずかであろう。
尚、携帯の解約を、本書では奴隷解放宣言と称している。

3. SPAM vs. spam
日本語で "spam" といえば、迷惑メールのことだが、アメリカで "SPAM" というと食料品をイメージするそうな。それは、すでに調理された保存肉のことで、冷蔵庫がまだ普及していない時代に人気を博したとか。第二次大戦中の兵士の糧食にあやかって、これから死んでいく人間に喰わせる肉!といった意味にもなるらしい。
ジャンクメールにジャンクフードをかければ、同じスパムってかぁ...

4. Bush & Rice
Bush とは、ジョージ・W・ブッシュ元大統領。Rice とは、コンドリーザ・ライス元大統領補佐官。二人の対照的な人物像は、アメリカという国の二面性を反映しているという。それぞれの出身地から、テキサスなまりの強烈な白人男性と、南部なまりをまったく見せない黒人女性という配置。
ブッシュは、マッチョな言葉遣いで乱れた英語を多用し、挑戦的なフレーズを好む。
対して、ライスは、言葉を慎重に選び、外交官のように正確さと曖昧さを織り交ぜる芸達者ぶりは、馬鹿にされるような隙を与えない。ブッシュは、父親も大統領なら、裕福な家系を後ろ盾に。ライスは、人種的なハンディを克服する上で完璧な英語を操り、完璧な仕事をする必要があったと見える。
このような人物配置は、アメリカ民主主義を語る上で、あるいは、政治的メッセージとして重要な意味を持つ。
では、日本は?閣僚に女性を何人配選ぶかで騒いでいるようでは、女性に失礼であろう。やはり個々の能力を語らないことには...

5. 日本人の日本人論
日本はユニークだ... 日本語は難しい... 日本は島国だから... 日本は単一民族だから... といった類いの日本人論に物申す。昔から馬鹿げていると指摘されてきた議論だが、それも優越主義の表れか。
片言の日本語を喋れば、言語障害者のように見られ、それで見た方はというと、まともな日本語を喋っているのかも怪しい。近年、「おもてなし」なんて用語も、日本文化特有の意識として使われる傾向があるが、世界を見渡しても、もてなさない文化の方が珍しい。
人間ってやつは、帰属意識のようなものが自然に身につくもので、他に対して何かと優越したがるものである。
しかし、皮肉はなかなか厳しい...
「単一民族論は純血幻想に依拠しているイデオロギーであり、論理的に極限まで追求したら『近親婚こそ理想的だ』という結論に行き着くはずである。」

6. 大と小の体験!
初めて来日し、トイレで流そうとしたら、「大」と「小」の文字に戸惑ったそうな。漢字の意味は知っていたという。しばらく考えて、突然、意味を悟り、無事に難を逃れたとさ...
「初めて異文化に接する時、まさにこのような小さな体験が大きな比重を占めるようになるものだ...」

7. せめて名前だけでも幻想を...
アメリカの街づくりでは、自ら破壊した自然を道路などの名前だけで復活させるような自然回帰幻想があるという。
対して日本では、密集した住宅状況からの解放願望が、マンションやアパートの名前に反映されているとか。
"mansion" を辞書で引くと大邸宅や豪邸といった意味がひっかかる。これを集合住宅という意味で用いるのは日本だけらしい。
日本では、マンションに限らず、横文字がオシャレと言わんばかりに多用される。それで飽きてくれば、イタリア語に。ダサいとなれば、おフランス語!そして、学者までも横文字を乱用。高級そうな用語で実体を誤魔化そうとするのは、どこの世界も同じか...

2023-11-05

"ジャズ喫茶論 - 戦後の日本文化を歩く" Michael S. Molasky 著

前記事では、日本人よりも日本人っぽい居酒屋文化論にしてやられた。青い目のガイジンさんと呼ばれるのを嫌い、千鳥足放浪記を夢見て...
ここではジャズ喫茶論を熱く語ってくれる。ジャズ喫茶未経験者の門外漢が読む本ではないかもしれんが、こんな描写に、おいらはイチコロよ!

「ドアをあけてみると、さらなる異様な世界が展開される。思わず耳をふさぎたくなるほどの大音量で音楽が鳴っている。アメリカで聴きなれたジャズの生演奏や、自宅にある安っぽいオーディオやラジオで聴いてきた音量とは雲泥の差で、むしろそれは、ロック・コンサートを思わせる爆音である。店内の風景も実に異様に映る。霧がかかった夕暮れのごとく、目を凝らさないと何も判別できない。店内は暗く、しかも青い煙が重々しく漂っている。徐々に目が慣れてくると、椅子に座る人たちの姿が浮き上がる。その様は人間の死体かミイラのようで、首をたらし不動のまま点在している...」

ジャズ喫茶というのは、日本独特の文化だそうな。ジャズやカフェといった要素は輸入品でも、これらを融合したカルチャーとなると、日本のものということになるらしい。著者は、自らこう名乗る...

「私、生まれはアメリカ、東京は葛飾にひところ暮らし、現在このニッポン列島を放浪している者でございます。姓はモラスキー、名はマイク。人呼んで『フーテンのモラ』と発します!」

そもそも、「ジャズ喫茶」とはなんであろう。戦後を背景にした映画などで耳にしたことはある。1950年代頃に始まり、90年代にはほぼ廃れ、この異様な空間を体験することは、おいらの年代では難しい。ジャズバーなら見かけるが、ジャズ喫茶となるとなかなかイメージできない。本書は、「客にジャズ・レコードを聴かせることが主な目的である喫茶店」と定義している。そのまんまやんけ!
バーと喫茶店の違いを言えば、夜の店か、昼の店か、ぐらいなもの。夜と昼では大きな違いかもしれん。お酒が出てくれば、法的に年連制限も加わるし...
音源が、レコードか、CDか、でも論争があり、こだわりは半端ではなさそうだ。レコードに針を落とす行為が、しべれるとさ。
しかし、個人経営で、こだわりがないという方が珍しい。呑み屋であれ、小料理屋であれ、寿司屋であれ、はまたま、物書きであれ、芸術家であれ、ついでに技術屋であれ... フーテンのモラさんのこだわりも、なかなかのものとお見受けする。そもそも、こだわりのない人間っているのだろうか。いや、いるやもしれん。公平無私と呼ばれる人も見かけるし...

但し、こだわりが強いからといって、正真正銘の通とは限らない。ジャズ喫茶が、自信たっぷりのオヤジが説教を垂れる場となれば、若者たちの足が遠のくは必定。
本書には「ジャズとはなんぞや」を答案用紙に書け!と命令するカルトまがいなマスターまでも登場し、これを「硬派なジャズ喫茶」と呼ぶ。それもごく稀なケースで、たいていは話しやすく快い店主ばかりであったと回想しているものの、あまりにインパクトが強く、「ジャズ喫茶人」などと呼称すれば、ステレオタイプで見ちまいそう。文章の切れが良く、描写があまりにリアルということもあろうか。当時は、ジャズ喫茶のマスターは威張っていて怖いというイメージが定着していたようだ。
ちなみに、東京四谷のジャズ喫茶「いーぐる」のマスター後藤雅洋は、このイメージに皮肉をこめて「ジャズ喫茶のオヤジはなぜ威張っているのか」という本まで出しているそうな。
しかし、説教好きなオヤジはどこにでもいる。呑み屋にも、職場にも、家庭にも... そうしたことを差し引いても、一匹狼風で、変わり者が多いことは確かで、個人事業主のおいらも、この手の人種に属すのは間違いあるまい。そして、この多様化の時代だからこそ、のさばることもできよう...

モラさんは、ジャズ喫茶が醸し出す不気味な空気から「行動文法」を読み取る。
まず、クールに振る舞うこと。次に、お喋りは最低限、そして、レコード鑑賞に陶酔しているというボディランゲージをはっきりとアピールすること。さらに、レコードジャケットやライナーノートを手にとり、たまにはリクエストしてみる... これが、60年代から70年代前半の暗黙のルールだそうな。
ちなみに、ルール破りでは、山下洋輔の武勇伝を紹介してくれる。平気でペチャクチャ喋って「会話禁止!」の紙を目の前に突きつけられたそうな。イエローカードか!一発レッドか!
これに似た光景は、バーやクラブでも見かける。いや、ジャズピアニストとしての反発心の表れか。モラさん自身もピアニストであり、ジャズ喫茶非国民!の同胞が見つかったと安堵した様子。ジャズミュージシャンが従順なジャズ喫茶オタクになることは、かなり難しいと見える。
とはいえ、こうしたルールのおかげで、内向的な性格や自閉症が救われるということもある。レコードという音源技術が、鑑賞者を集団から解放し、そのために疎外させ、私的な行為へと走らせる。
そして、その技術は、デジタルメディアからネットワーク共有という道筋を開き、さらに自己を見つめる機会を与え、孤独愛好家を増殖させる一因ともなる。まさに現代の縮図だ!

本書は、ジャズ喫茶の変遷を物語る上で、日本文化研究者エクハート・デルシュミットの論文を引き合いに出す。
  • 50年代は「学校」... ジャズを勉強する場。マスターが教師となって。
  • 60年代は「寺」... オーディオ装置が整い、店内を暗くし、大音量でレコードをかけ、禁欲的な瞑想の場と化す。
  • 70年代は「スーパー」... フージョンやロックが流行り、客離れ対策として店内を明るくし、流行音楽をかけるようになる。
  • 80年代は「博物館」... ウォークマンや CD が発明されると、わざわざジャズ喫茶で音楽を聴くまでもなく、古い LP やジャケットなど過去を保管する場へ。

モラさんは、このデルシュミット論を元にジャズ喫茶興亡記を論じている。特に、ジャズ喫茶とダンスホールとの関係、あるいは、学生運動や反体制精神との繋がりは興味深い。
そして、ジャズ喫茶の出現から盛衰の歴史を辿ると、概ね三つの要素で説明できるという。三つの要素とは、「欠如」「距離感」「希少性」であり、これを「3K原則」と呼ぶ。
欠如とは、一流のライブやジャズ専用のラジオ放送局がなかったこと。
距離感とは、ジャズの本場アメリカからあまりに遠いこと。それは、地理的な要素だけでなく、文化的にも、精神的にも。
希少性とは、生演奏の代替物となる高音質のオーディオシステムが一般人には手が届かなかったこと、あるいは、輸入盤のレコードの入手が難しかったこと。
そして、この 3K が満たされるとともに、ジャズ喫茶は衰退していったとさ...

それにしても、こうしてジャズ喫茶の興亡記を眺めるだけで、戦後の日本社会が外観できようとは。ジャズ喫茶というちっぽけな文化にも、それだけの多面性が備わっていたということであろう。ジャズ喫茶の衰退に、その時代を生きた人間を重ねると、過去の遺物を美化し、懐古したくもなろう。しかし、時間は無常だ!

「結局、私自身がジャズ喫茶とともに歳をとり、周りのオヤジ客にすっかり溶け込む年齢に達してきたわけである。この歳になると、余生よりもすでに生きてきた年月の方が長いという自覚と喪失感が、突然迫ってくることがあるのは、私だけではないだろう。そのせいか、ジャズ喫茶を含め青春時代を振り返るとき、甘美な懐古感に浸かりたくなることは自然な衝動なのかもしれない。あるいは、ジャズ喫茶が消滅していくこと自体が、まるで自分の死期を暗示しているかのように感じる、と言ったら大袈裟だろうか...」

ところで、こんなに熱く語ってくれるフーテンのモラさんには大変申し訳ないが、本書の中で最も感服する文章はジャズ喫茶論とはまったく関係のないところに見つける。それは冒頭にあるこの文章で、おいらが美青年だった頃の記憶が蘇る。やっぱり、日本人よりも日本人っぽい文章を書くお人だ!

「電車が新宿に近づき、おもしろそうな町だから降りてみようじゃないか、と思った瞬間、車両のドアが開き、そのまま人ごみに飲み込まれ流されてしまう。流れに逆らっても身動きできそうにない。魚群のなかの一匹の小魚に化けたと想像する青年は、即座に状況を分析し、対策を講じる... 周りの魚と一定の距離を保ちながら同じ速度で進めば、きっと大丈夫だろう... と。それから、考えることを一切放棄し、流れに身を任せる。徐々に流れと一体化してくると、するすると前進できることに気づき、奇妙な陶酔感さえ覚えはじめる。だが改札口から吐き出されると、突然、魚群も一気に解散してしまう。また陸に足がついたようだ、とふと我に返る。」