2020-03-22

"空間・時間・物質(上/下)" Hermann Weyl 著

ヘルマン・ワイルの著作「シンメトリー」(前記事)で詩的な数学に触れながら、厳密な理解を要請してくる、この大著を読破するのに一ヶ月を費やしたものの、消化不良感に満ち満ちてやがる。
しかしながら、難解な書に触れる喜びというものがある。なにもかも分かりやすさに流される現代社会にあって、この天の邪鬼な性癖ときたら難解なものにこそ癒やされる。我武者羅に噛み付いているうちに、なんとなく理解した気分になれることだってある。ページを捲っては立ち止まり、ページを戻ってはまた進む。三歩進んで二歩下がるの精神が、相対的な前進へと導いてくれる。いや、ワンツーパンチを喰らって、一歩進んで二歩下がるってか。おまけに、最終ページに辿り着いた時のクタクタ感がたまらん。M だし...

本書は、一般相対性理論の数学的解説書としての性格を帯びている。
原著 "Raum, Zeit, Materie" は、1917年の夏学期に国立チューリッヒ高等工業学校で行った講義を元に書かれたもので、1918年に刊行されたそうな。その動機は、偉大な相対性理論という課題をかりて、哲学的、数学的、物理学的思考が互いに浸透し合うことの一つの例を示したいという願望に誘われたとか。アインシュタインの論文から、わずか二年後に...
相対性理論の根幹には時間と空間を統合した時空の概念があり、この連続体の歪みをもって、ニュートン力学で言うところの力や質量を説明して魅せた。ワイルは、空間、時間、物質の関係を統合的に叙述し、理論の生みの親以上にその本質を描ききったと評されたという。彼はこんなことをつぶやいたとか...
「私は、真と美を統一するように仕事をしてきたが、真か美かどちらかを取れと言われたら、美をとるよ!」
尚、 内山龍雄訳版(ちくま学芸文庫)を手に取る。

相対性理論は科学理論には珍しく、一般大衆にも関心を引いた。それは、人間の認識能力そのものが相対的だからであろう。ニュートンは絶対空間や絶対時間なるものを論じた。ならば、絶対幾何学なるものを構築することは可能であろうか。ワイルは、そんな問い掛けをしながら、アフィン幾何学、リーマン幾何学、計量幾何学... と渡り歩き、n次元多様体に救いを求めるかのように彷徨う。
幾何学を構築するためには、その空間に存在する物質の状態を記述するための座標系を必要とする。ユークリッド幾何学では、直角という性質がその役割を演じ、人間の認識空間では、xyz 軸を基準とする。
直角を代数学的に抽象化したものが、直交という概念。直交性を利用した変換系といえば、周波数解析、データ圧縮、近似法などでお馴染みのフーリエ変換やウェーブレト変換を思い浮かべるが、ラプラス変換やアダマール変換などあらゆる変換系が直交性の恩恵を受けている。変換系を直交性に基づいた写像と定義するなら、直交性の見い出だせるところに、相対的な幾何学を構築することができそうか...

1. 直交と場の哲学
現実世界は、物質と呼ばれる材料からできており、あらゆる材料は空間によって実在し、時間によって認識される。つまり、空間は、物質の存在する場として解釈される。「存在」という哲学的な意味を数学的に定義するならば、一部の空間を占有し、一時的に時間軸に配置される、ということになろうか。相対的な幾何学では、空間、時間、物質という三つの概念が運動によって結び付けられる。すなわち、存在するとは、運動するということだ。物質に絶対静止なる状態が存在するかどうかは知らんが...
物質の運動が場を規定する一つの要因となっているのは確かであろう。量子力学的には、物質が空間を形づくるという見方があり、「物質が場を生み出し、またその状態を一意的に規定する。」としても違和感なし。物体の運動は力と慣性の間で実現され、慣性場は物質との間に相互作用を持つ実在であるからして...
では、重力の実在はどうであろう。本書は、力とは別物で、むしろ慣性に属すべきものとしている。こうした見方によって、相対性理論は重力を場の歪みで説明できるというわけである。
「慣性場に対する物質からの影響は重力の現象として現れる。これこそアインシュタインの重力理論の核心である。」

では、場は自己を認識した時に生じるのか、あるいは、自己は場の存在が前提されて認識できるものなのか、と問えば、鶏が先か卵が先か論争に巻き込まれた感がある。
ユークリッド幾何学にしても、非ユークリッド幾何学にしても、第五公準を境界面にした抽象レベルの違いに過ぎない、といえばその通りだろう。どの段階で自己を認識できるかは別にして、それぞれ渡り歩く幾何学空間に抽象レベルという境界面があるように、人間の精神空間にも認識レベルという境界面があるのだろう。
慣性力、電磁力、重力など物理量が存在するところに場が存在し、そこに時空対称性なるものを見つける。直交性もある種の対称性。場とは、対称性に看取られた認識空間を言うのであろうか... などと思考をめぐらせているうちに、直交と場の哲学に放り込まれていく。どんな専門分野にせよ、それを究めようとすれば哲学者になるものらしい。
おかげで、場末の我が家から、ぐるぐるマップ上に直交配列される夜の社交場へ直行せずにはいられない。そこには、ホットな女性の重力場が生じているに違いない。ただ、女性ってやつは、なぜか体重計の前で軽い存在を演じてやがる...

2. 時間と空間に分解、そして、長さ!?
ところで、おいらには、時間の記述には微分が、空間の記述には積分が相性がいい... という感覚がある。そして、時空を理解するためには、時間と空間を分解してみるのがええと...
本書は、ローレンツ変換において、時間的成分に相当するものがエネルギー保存則で、空間的成分に相当するものが運動量保存則、という見方を提示している。ここまではええ...
しかしながら、空間の形成ではガウスの定理に看取られ... 空間内の振る舞いではマクスウェル方程式に看取られ... いずれも、おいらを電磁気学で赤点に貶めた奴らときた。
おまけに、数学の道具では、テンソル、双線型形式、二次形式が重要な役割を演じてやがる。ワイルは、テンソル解析を意のままに使いこなせるよう練習せよ!と要求してくる。すべての運動する物体にテンソルが規定できると宣言し、一般相対性理論を理解するには、テンソルに看取られた空間認識が必要だというのである。そして、空間を理解するには「エネルギー・運動量テンソル」ってやつが鍵になりそうだ。
テンソル演算そのものはそう複雑でもなく、ベクトルの親分ぐらいの感覚でいる。だがこいつを、ある規定された幾何学と結びつけようとすると、なかなか手強い。共変と反変の違いにしても、アフィン幾何学から計量幾何学へ移行した途端に、単なる表現の違いというところに落ち着く...
「座標系に依存する数個の変数列の一次形式は、その変数列のうち、座標系の基礎ベクトルの変換に反傾に変換される変数列を任意の反変ベクトルの成分でおきかえ、また共傾に変換される変数列を任意の共変ベクトルの成分におきかえることによって、この一次形式が座標系の選びかたに無関係な一定の値をもつようになるときは、この変数列の一次形式は、実はひとつのテンソルである。」

ワイルは、計量の本質をこう言い放つ!
「質量はその本質をかえりみれば、一種の長さである。」
ん~...
「幾何学的な、また物理学的な量はすべて、スカラーか、ベクトルか、あるいはテンソルのいずれかである。このことこそ、これらの量を内包している空間の数学的性質を物語る。」
ん~...
すべての物理量を長さで規定できるような幾何学を想定することが可能ということか。時間も長さで規定できるといえばそうだけど、時間の意味するものはその瞬間の状態にある。座標系で言えば、位置情報に意味がある。少なくとも人間の認識空間では、そうだ。ワイルは、空間の構造に対して、群論的な連続体をイメージさせようと仕掛けてくる。ガリレオ = ニュートン群からローレンツ = アインシュタイン群といったイメージを...
さらに、「距離多様体」という概念を持ち出して、アフィン的に接続されたアフィン接続多様体なるものを提示している。
確かに、重力を空間の歪みで記述すれば、距離の概念が生じる。では、他の力はどうであろう。様々な物質が相互作用する空間とは、それぞれの力を距離で記述した多様体が並列的に、あるいは、階層的に接続されたような空間であろうか...
やはり、ん~...
「長さ」のことをゲージと言い、場の理論に「ゲージ理論」ってやつがあるが、どうやらこの書に由来するらしい。おいらの空間認識では、「長さ」という概念をどんなに抽象化したところで、やはり「長さ」なのである。そもそも「長さ」ってなんだ???数学の落ちこぼれは、ますます計量テンソルとの距離を感じるのであった...

2020-03-15

"シンメトリー" Hermann Weyl 著

小雨じめつく中、なんとも虚ろな気分で古本屋を散歩していると、数学を文学のように嗜める書に出会う。こいつぁ... 群論の入門書ではないか!いや、そこそこかじって余韻に浸る書であろうか。厳密な数学を空虚な気分で眺めると文学になるのか... ここに抽象化の真の意味が暗示されていそうな... なるほど、数学の詩人と謳われたヘルマン・ヴァイル。空虚な空間には、高度なシンメトリーが具わっているらしい...
しかしながら、よりずっと厳密に理解を要請する大著「空間・時間・物質」が、本書の横で手ぐすね引いて待ち構えてやがる...
尚、遠山啓訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。

数学屋たちは、数と数字の違いにこだわる。数は概念を示す。だから、万物は数である... との信仰が輝く。数字はそれを表す記号。すなわち、ただの手段。この手段を文学作品のように記述できれば、概念化され、心に調和をもたらす。
シンメトリーとは、まさに人の心に調和をもたらす空間概念である。この空間において、芸術は左右対称を、論理学は二項対立を根本原理とし、数学はその双方を相手取る。哲学は、二律背反の原理に中庸を見い出そうとし、数学は、数の抽象化によって調和を発見しようとする。
数の抽象化で最高峰に位置づけられるのが、群論である。合言葉は... 自己同型の集まりは群をつくる!自己同型とは、代数的な性質を保ちながら写像すること。代数的な性質とは、例えば、四則演算の結果が同じ体にとどまるかを問うた時、自然数体であれば、負数や少数が生じて整数体や有理数体にはみ出てしまう。演算結果が同じ体にとどまるかどうかを探ることは、数の性質を知る上で重要な鍵となり、方程式の解が代数体にとどまるならば、その方程式には代数的な解が存在することを意味する。解の発見とは、自己同型群を観察しながら自己を見つめ直し、自我を再発見するってことか。そして本書の中に、数学は哲学である... との持論を再発見するのであった...

ニュートンは絶対空間や絶対時間なるものを論じたが、そんなものが存在するかどうかは知らんよ。ただ言えることは、相対的な認識能力しか持ち合わせない生命体には、到底及ばないってことだ。直接認識できないとすれば、概念によって認識できる気分にはなれそうか。何事にも気分は重要だ。特に、心の持ち主には...
左も右も、善も悪も、相対的な概念であって、人間社会によって都合よく決められた基準に過ぎない。はたまた対称性も非対称性も。美術史家ダゴベルト・フライは、こんなことを言ったとか...
「シンメトリーは静止と束縛をあらわし、非対称は、運動と弛緩をあらわす。前者は秩序と法則を、後者は不分明と偶然を、また、前者は、法則のもっている厳密性と強制を、後者は、生命と遊戯と自由とをあらわしている。」

シンメトリーとは比の調和によって支えられる、いわば主観の概念である。鏡映、平行移動、回転といった幾何学操作によって点集合を変換し、この同型を探る過程に数学美を見る。ここに絶対客観なるものは見当たらない。だから、客観性なのである。
客観性とは、自己同型群における不変性を問うことであろうか。普遍的な美を追求することであろうか。様々な変換によって、どこまで同型を保ちうるか、どこまで代数的性質を保ちうるか、そして、どこまで数学美を体現できるか、などと問えば、その先に、自己相似形を追いかけるフラクタル幾何学が見えてくる。フェリックス・クラインは言う、「幾何学は、変換群によって定義される。」と...
ただし、本書には「フラクタル」という用語は見当たらない。

ところで、おいらの物事を理解したかどうかの判定基準に、図形的なイメージが湧くかどうかという感覚がある。ユークリッド空間的な脳内マッピングとでも言おうか。子供の頃からそうなのだが、いくら記号や文字を操作しても、上っ面しか理解できていないような気がする。頭の中に浮かぶ自己鏡像との葛藤とでも言おうか。サヴァン症候群のダニエル・タメット氏は「数字が風景に見える」と共感覚能力について語ってくれたが、理解空間にもそのようなものがあるような気がする。
よく数学で用いられる連続体やら、よく物理学で用いられる空間やら、こうした用語は単なる概念、もっといえば、人間の想像の産物にすぎないのではなかろうか。あらゆる関連性も...

2020-03-08

"ビーグル号航海記 新訳(上/下)" Charles Darwin 著

ヒトという種は、猿の進化版か、それとも猿の方が進化版か。地球に住む生命体の物理構造を辿れば、だいたい同じ分子に行き着く。糖質、タンパク質、核酸といった生体高分子と呼ばれるやつに。さらに辿れば、この宇宙に存在するすべての物体は、素粒子レベルでは同じ物理構造を持っている。種の起源を辿れば、やはり同じこと。自由意志の正体が単なる自由電子の集合体なのかは知らんが...
ここで注目したいことは、種が変化するってことだ。分子の組み合わせを微妙に変化させながら、体内に侵入してきた病原体に対して抗体を形成したり、厳しい気候に適合するために身体部位を変化させたり、環境が違えば、そこに住む生物の特徴にも違いを見せる。地理的に同じ諸島に属していても、それぞれの島で生物の特徴が違うばかりか、生態系からして違う。
本旅行記は、地球を一周しながら実に多種多様な光景を物語っており、ここに進化論構想の源泉を見る思い。進化とは、まさに変化を言う。いや、退化もそうか...
尚、荒俣宏訳版(平凡社)を手に取る。
「自然の偉大な運行においてまるっきり用をなさないように見える動物に遭遇すると、われわれはすぐに、なんでこんなものが創造されたのか、と首をひねりたくなる。しかしつねづね肝に銘じておくべきは、ところ変わればそれが社会の欠くべからざる成員であるか、あるいは過去の一時期そうであったものだろう、とみなす心がまえである。」

とはいえ、人間は変化を嫌うところがある。キリスト教世界では、種は神の創造物であり、生まれつき運命づけられた存在とされる。生物種が変化していくなんてもってのほか。世間では、チンパンジーの身体にダーウィンの顔をくっつけた風刺漫画が舞った。
ただ、あまりに変化なしでは退屈病を患わせてしまう。安住できる程度の小さな変化を求めてやまないのは、進化の過程があまりに長い年月を要するからであろう。物質ってやつは、原子が個々で存在する分には殺風景だが、分子として結合を始めるとまるで落ち着きを見せない。変身願望にでも取り憑かれたように。
この願望エネルギーが溜りに溜まると、ポテンシャル障壁を破って突然変異まで引き起こす。生物種に普遍の原理を求めるとすれば、まさに変化こそが法則ということになろう。
ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したものではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様化する必要がある、というのが真意のような気がする。ここでは、普遍性と多様性の相性の良さを物語ってくれる。現代社会では、どんな良いことでも同じことをする人が多すぎると何かと問題になる。一つの種が多すぎるとなれば、同じ種の中で多様化するほかはあるまい...

自然界では、運動する物体はすべて動力機関として働く。生物もまた一つの動力機関であることは確かだ。その証拠に、ひたすらエネルギーを消費する存在で、喰って排泄するだけの存在。人間社会で人が生きるということは、ゴミや排泄物を出すってことだ。そして、街づくりで最も深刻な問題がゴミ処理と排泄物処理ということになり、ここに文明の度合いが顕れる。もやは現代人は、野生のポテトを見る機会を失った。曲がったキュウリすらとんと見かけない。それが、高度な文明なのかは知らん...
「人は長いこと粗末な肉食だけをつづけると、脂肪分がとてもほしくなる。そこで純粋なオイル状の脂肪を、平気で大量に消費するようになる... これは、おもしろい生理学的事実だ。」

自然界には、生命が存在することによって台無しにしてしまう領域がある。不毛な土地の奇異な眺めにも、植物すら存在しないがために、ある種の威厳が備わる。敬愛する大自然がここまで残酷になれるものか、と嘆かわしい現象を引き起こすこともしばしば。
だから、人間は大自然に神を見る。自然は、宗教が安易に唱える「調和」ってやつの難しさを教えているようでもある。
人間社会には、何事も経験しなければ分からない、とする考えが蔓延している。奴隷に冷たい人は奴隷の立場に身を置いたことがない、としか想像できないとすれば、なんと絶望的であろう。人間社会は、永遠に奴隷制度に依存するほかはあるまい。
ちなみに、昔から言われてきた説に、こんなものがあるそうな。「利己心というのものは残虐行為が行きすぎるのを止める」という説だが、あながち否定はできまい...

1. 科学者魂を垣間見る...
「ビーグル号航海記」は、艦長ロバート・フィッツロイ大佐が表明した一つの要望によって生まれたという。大佐は科学者の同乗を望み、これにダーウィンが志願する。その目的の裏には、政治的思惑と科学的好奇心が複雑に絡んでいたことだろう。海運国家としての使命も付け加えておこうか。地質学調査は金脈探索や鉱山開発を目的とし、原住民調査は後の奴隷支配を匂わせ、宣教師の派遣は精神的支配の布石。
しかし、ダーウィンの科学者魂は、そんな政治的な思惑をとうに越え、純粋な好奇心に邁進する。彼の記述には、旅の風景を喜びで彩るという思索が感じられる。まるで画家のように。どんな光景を前にしても失望はなく、ここにダーウィン流観測哲学を見る思い...
「わたしが強く信じてしまったことは、こうだ ―― 音楽を例にとると、音符が全部理解できて正当な感受性をもっている人は、音楽全体をもっと完全に楽しむことができるだろう、それと同じように、一つのすばらしい風景をあらゆる角度から調べる人も、風景が見せる全体の組み合わせの効果を完全に理解できるのだ、と。したがって、旅をする人はまず植物にくわしくなければならない。なぜなら、どんな風景も主たる装飾は植物が担っているからである。大きな裸岩が集まった光景は、どんなに殺風景であっても、少しのあいだなら壮大な印象を与えてくれるが、すぐに単調な眺めとしか思えなくなってしまう。ただし、この岩だけの眺めに、たとえば北チリのように、明るく多彩な色を塗りつければ、幻想的な風景となる。植物で覆えば、美しい絵とはいかないまでも、それなりの景色になるに違いないのだ。」

2. サンゴ礁に関する考察は圧巻...
「リーフをつくるサンゴは、地下面に上下の振動があったことを物語る驚くべき記念碑を、ずっと積みあげつづけ、しかも、それを守ってきた。われわれがいま見るバリアリーフはどれも、大地がそこで沈んでいることを示す証拠物であり、アトールはどれも、島が海中に沈んだことを示す記念碑なのだ。こうしてわれわれは、一万年の長寿に恵まれて変化の記録をずっととりつづけてきた地質学者から教えを受けるかのように、一つの巨大なからくりに関する手がかりを、いくつか獲得することになった。それは、地球の表面を切れぎれにして、陸と海をとりかえてしまうからくりなのである。」

3. ガラパゴスへの思い...
このような大自然物語に触れていると、人類には、どこか本能の奥深いところに自然回帰を欲するような原始的な意志が、まだ残されているような気がしてくる。原生動物の記憶か?遺伝子か?は知らんが、都会的な気取ったものに反抗心を抱くところが、なんとなくあるのだ。単に天の邪鬼な心が、そうさせるのかもしれんが...
文明化の波が地球の隅々に伝わり始めた19世紀、ゴールドラッシュの波がインディオの土地を穴ぼこだらけにしちまったとさ。21世紀の現在でも、余暇に自然を求めてやまない人々の影で、観光客の群れに荒らされる世界遺産という構図がある。ここに物語られるガラパゴス諸島の光景には、やはり癒やされる。大衆の目には触れさせてはならぬ楽園が、地上にはまだまだあることを教えてくれるのだから...
しかしながら、「ガラパゴス化」という用語は、現代社会では忌み嫌われる。孤立を恐れてはソーシャルネットワークに縋り、電子機器の奴隷と化し、ますます依存症を深めていく。慢性的な退屈病を患えば、いつも刺激を求めて徘徊し、慢性的な関係依存症を患えば、仮想社会を徘徊してやまない。騒々しい空間で自己を見つめ直そうとすれば、孤独を渇望し、誰とでも繋がろうとする社会ともなると、逆に孤独愛好家を増殖させる。人間社会に嫌気が差さないと、なかなか自然には目を向けないものである。
人間は何かに依存しなければ生きてはゆけない。空間にあっては集団社会に寄りかかり、時間にあっては自我に振り回され、そして、なによりも自然界の一員として存在する。自然だけを相手取るならそれほど悩まなくて済みそうだが、集団社会に自我が結びついた途端に人生は修羅場と化す。
そして、現代社会における恐怖の最たるものが、孤独死ってやつだ。なにゆえ、こうも恐れるのか。誰に看取られて逝きたいというのか。どんなに立派な墓を作ったところで、時代の流れと共に無縁墓となるは必定。墓の面倒を見る人がいなければ、共同墓地に入る方が賑やかそうだ。
そこで、無人島に真の自由を夢見る。群島は、それ自体が一つの小宇宙。嘆かわしいのは「ガラパゴス化」の方であろうか。いずれ、この忌み嫌われる用語に生命の故郷を感じる日が来るやもしれん...

2020-03-01

"燃えさかる火のそばで シートン伝" Julia M. Seton 著

古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風のような... そんなフレーズに出会った。
「バッファローの風が私たちの生活の中を吹くとき、私は燃えさかる火のそばで耳を傾けた。最初私の耳はその音をそのままに聞くことはできなかった。私の耳が調和しなかったのだ。しかし私は常にその風の存在には気がついていた。ただ長い間、はっきりそれを理解できないことで、私の心は落ちつかなかった。私には聞きとれなかったし、はっきりとわからなかったが、しかし私はそれを感じていた。」

おいらは、美少年と呼ばれていた頃から科学が大好きだったが、その中で敬遠してきた分野がある。生物学がそれだ。特に動物学を敬遠してきた。「シートン動物記」といえば、絵本で見たような... そんな感覚がかすかに残るだけ。小鳥を飼ったり、昆虫採集をやったりもしたが、あまり長続きしなかったような...
この感覚は未だ継続中で、呪縛を解こうと必死にもがくも、純真な子供心を取り戻すことは、脂ぎった大人には難しすぎる。ダーウィンの大作に触れるのにも、かなりの時間を要した。そして、シートンの大作となると、これに向かう勇気はまだない。おいらのタスク管理ツールには、このような ToDo リストに昇格しきれない、準 ToDo リストで溢れてやがる。
とりあえず、アーネスト・トンプソン・シートンの二番目の夫人ジュリアが記したシートン伝でお茶を濁すとしよう...
尚、佐藤亮一訳版(早川書房)を手に取る。

ボーイスカウトの創始者としても知られるシートン。幼き彼が会得した生活信条がこれだそうな。
「生きる喜びを求めよ!」
そして、天与の権利とは何か?と問いかける。
動物と人間の権利が衝突した場合、人間の方を優先するのは文明社会では当たり前。これに疑問を投げかけようものなら、環境ヒステリーなどとレッテルを貼られ、猛攻撃をくらう。それは、シートンの時代だけでなく、現代とて炎上沙汰をくらう。確かに、どんな議論にも右派もいれば、左派もいるし、中庸でいることの方がはるかに難しい。ただ世紀が変わると、どちらがヒステリーだったか再評価されるのが、人類の歴史である。
殺してしまった夥しい生命の権利はどうなるのか?と問えば、人間社会における最高の権利、すなわち、強者の天与の権利などという考えが浮かんでくる。そして、人間社会の合理性は自然界の合理性に適っているだろうか?と問わずにはいられない。かつて、希望の満ちた土地にバッファローの風が吹いていた。やがて、バッファローやカモシカの姿が消え、風は止んでしまった。動物の息苦しい世界は、人間だって息苦しい...

とはいえ、人間社会に嫌気が差さないと、なかなか自然には目を向けないもの。社会学者マックス・ヴェーバーは、学問は自然の真相に到達するための道である... と説いた。かつて科学は自然哲学と呼ばれ、自然との調和から人間の合理性というものを問うた。いつの間にか、その対象は自然物に対して人工物で区別され、人間社会における合理性を問うようになった。
産業革命に始まる経済的大成功は、爆発的な人口増殖を招く。そして、人に依存し、組織に依存し、社会に依存しているうちに、最も依存しているはずの自然との関わり方が見えなくなる。そもそも人間が多過ぎるのだ。地球という有限のアクアリウムにおいて、人間の数だけは限りがないなんてことはありえない。
自然は常にそこにある。目の前に見えなくても。自然は自立自尊している。だから依存症患者の憧れの的。原始林の中では、誰にも罰せられずに野蛮人でいられる。いや、文明社会だって競争原理に囚われた野蛮人で溢れている。天災と人災はどちらが恐ろしいだろうか。天災が神の仕業なら、人災は悪魔の仕業か。そして、神と悪魔が手を取り合って、もっと恐ろしい災いに見舞われるのかは知らん...
「まったく虚構というのは、一般的には扱いやすい。『半分が真実である嘘は』詩人の言葉によれば『危険なものである』という。その中に存在する僅かな真実の要素が、それに戦う力と生命とを与えて、もっと悪くしてしまうからだ。... そういう危険な語り方をするのが、民間伝説なのだ。そして時代から時代へと残存していくすべての伝説にみられるその力の強さは、僅かの事実に由来するということは、かなり確かなことである。」

それにしても、これは科学だろうか。ある者は文学だという。また、ある者は描く動物があまりに人間的だという。動物の生き方を人間の感情に対比させ、さらには神話や古典文学にも対比させ、まるでイソップの寓話。この動物物語を科学と呼ぶには、ちと躊躇する。
ここでは、シートン流の言語哲学を垣間見る。彼は、緻密な科学者である面と、想像力豊かな物語作家である面とを奇妙に合わせもっていたという。詩情や哀愁に満ちた物語... くだけた文章へのこだわり... こうした要件が、堅苦しい論説よりも説明に余裕を持たせる。科学書を読みやすく配慮することによって、読者の心を用語にではなく、考え方に向けさせる。学者連の論説では、難解きわまる特殊な用語を多用しては自分の研究に権威を与えようとする動きが見られるが、シートンはこうした傾向に一石を投じる。
動物観察は、多様性に満ち満ちており、専門用語でひと括りに説明できるものではあるまい。それは、人間観察とて同じ。シートンは、動物を説明するのに三つの要件を挙げている。

  • 第一に、例外的な動物を一匹選んでもよい。
  • 第二に、それと同類の動物の冒険や性質を、その一匹に代表させてもよい。
  • 第三に、作者は同類の動物が実際にそんなことをするのがわからなくても、種々の行動をさせてもよい。

もはや、客観性を放棄しているような、いや、客観性の限界を生物学に投影しているような。要するに、あらゆる動物行動は、可能性でしか説明のしようがないということか。つまりは、確率論でしか。物理学にしても、しばしば量子の個々の運動を確率的に論じ、統計力学で処理する。ましてや、その量子の大集合体である動物の個々の行動を説明するとなると...
ここに多様性が、確率論を通じて普遍性と結びつく思い。さらには、文学が多様性を通じて科学と結びつく思い。もう一つついでに、シートンの観察哲学にダーウィン思想を見る思い。自然と戯れるとは、こうした結びつきを楽しむことを言うのやもしれん。そして、この言葉がいつまでも残るのであった...
「人間のこの世における一番重要な仕事は、『自分自身を知ることである』と教えられた。」

2020-02-23

"英語で手帳をつけてみました" 有子山博美 著

何を学ぶにせよ、手段は人それぞれ。慣れ親しむことこそ肝要。楽しめれば、尚いい...
言語は手ごわい。なにしろ精神を相手取る代物だ。母国語として、精神空間で絶対的な地位を確立している日本語ですら、うまく操れないというのに。同じ単語でも、会話の相手と同じイメージを描きながら喋っているのだろうか?と思うこともしばしば。客観性の強い専門用語ですら、専門家の間でニュアンスが違うと見える。
しかし、それでコミュニケーションが成り立っているのだから、人間社会は摩訶不思議!いや、成り立っていると思い込んでいるだけのことやもしれん...

言語は手ごわい。外国語ともなれば、文化の違いを思い知らされる。著者の体験談によると、TOEIC 960点でも、いざ外国人を前にすると、英語のフレーズが口からなかなか出てこないらしい。人生は短い。点数競争に興味はない。興味のないことに手を出している余裕はない。外国語そのものに興味を持たねば...
媒体は、映画でも、海外ドラマでも、洋書でも、音楽でも、はたまたゲームでも、なんでもあり。学生時代と違って、大人の勉強は自由でいい。ちなみに、始めておいらを虜にしたセリフがこいつだ...

"Go ahead, make my day."

コンピュータ業界では、プログラミング言語を習得するには、とりあえず書いてみる!理屈は後からついてくる... といった考えがある。自然言語とて同じ、まずは喋りまくること。しかし、ダーティハリーがおしゃべりじゃ、さまにならねぇ...

そういえば、二十年も前になろうか、駅前留学をしたこともあった。セミナーを受講するより、サロンで雑談している方がはるかに勉強になったっけ。おいらに欠けている機能は、英語耳!英語の技術論文や規格書などに触れる機会はあっても、音声に触れる機会が極端に少ない。ようやく周波数に慣れ、それなりに会話ができるようになり、少しは自信もついたが、継続しなければやはり衰える。
先日、産学連携センターのサロンでお茶をしていると、和服を着ていたせいか、数人の外国人に話しかけられた。すると、手を必死に動かしながらも、口はなかなか動いてくれない。一人はドイツ人で英語があまり得意ではないらしく、ハンドサイン・ジェスチャーを駆使していたので、彼とは意気投合した。なるほど、会話では相槌も重要!外国版の相槌の仕方を知っているだけでも、なんとなく会話が成り立った気になれる。ドイツ語と日本語の狭間で、英語が漂っているような奇妙な会話空間は、多様な文化圏に身を置くようで、なかなかエキサイティング!一つの言語圏に支配されない非言語コミュニケーションってやつを体験しているような...
日本では英語にこだわる傾向にあるが、グローバル社会を謳うなら、様々な言語が飛び交うような会話空間こそ自然なのであろう。地球を一周すれば、英語だけでも多様な方言で溢れている。コミュニケーションなんてやつは、それが成り立っていると思い込むことができれば幸せになれる...

何を学ぶにせよ、子供の素朴な学び方が一番参考になる。つまりは、真似ることに始まる。脂ぎった動機は余計だ。
本書は、英語に慣れ親しむための手段を提案してくれる。まずは、生活習慣として、手帳、ToDo リスト、予定帳、日記などを手短な英語にしてみる。そして、「出来事 + 感想」をセットで書く習慣を... と。
人の行動は意外とパターン化されていて、口癖もあるもので、英語のフレーズもこれに乗せるとよさそうだ。英語で手帳をつける時のスマートな書き方を紹介してくれるサイトも多い。
さらに、英単語を分解して語源を辿ったり、反対語、同義語、類似語を拾って、芋づる式に語彙を広げていく。関連付けを意識すると覚えやすい。
また、接頭語や接尾語の意味、動詞や形容詞の名詞化、あるいは、日本語では馴染まない無生物主語といった構文解説は、知っているつもりではいたが、再認識させてくれる。そして、なによりも口に出してみること。音読やシャドーイングの癖を。
要するに、ネイティブな英語に触れる機会を増やし、英語を楽しもうというわけである。人間の精神空間は、ある種の信号処理装置として捉えることができよう。インプットが少なければ、アウトプットも少ない。脳内記憶素子は、様々なインプット情報の関連付けによって活性化される。いや、人体そのものが熱機関としての存在。喰って、排泄するだけの。ただそれだけのことやもしれん...

近年、Online サービスも充実し、その場で翻訳や発音を知ることができるのはありがたい。G さん翻訳も、そこそこ使えるようになってきたし、機械学習やディープラーニングもなかなか侮れない。
いくら辞書を引いても、文章を組み立てる上でコロケーションってやつに悩まされる。単語の結合の仕方には文化的な性質が含まれ、気に入ったフレーズを丸ごと真似て、カスタマイズしていくのが手っ取り早い。それは、日本語の文章を組み立てる時でもやっていることだ。
本書は、そのための良い方法として、名言集を薦めている。ここで紹介してくれるのはこれだ...

"The greater danger for most of us lies not in setting our aim too high and falling short; but in setting our aim too low, and achieving our mark."
... Michelangelo

“The man who thinks he can and the man who thinks he can't are both right. Which one are you ?”
... Henry Ford

名言は洗練されているだけに、デスクトップ上で泳がせておくと、ええ感じ。
そして最近、気に入っているフレーズがこいつだ...

"Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever."
... Mahatma Gandhi

"The highest happiness of man is to have probed what is knowable and quietly to revere what is unknowable."
... Johann Wolfgang von Goethe

なんといっても、音調とリズムがええ...
慣習とは、すなわち、リズム。興味を持ち続けるためには、心地よい周期が欲しい。生活のリズムってやつに。何かを会得したと実感したり、なんらかの達成感を味わえれば、それが、ささやかな恩賞となる。そして、自己にステータスのようなものが感じられる。ゲームをやり続ける動機として、アイテムを集めたり、ポイントを貯めたりといったことがある。キャラクタの成長を自己のステータスに投影するのである。名誉や財産に執着するのも、ある種のステータスを求めてのこと。知識のコレクションやスキルアップにも、同じ心理学が働く。こうなると、自己啓発もリズムに支配されたかっぱえびせん状態!
そして今、嵌っているリズムがこいつだ...

Dressed in black, With slanted hat.
  黒を着こなし、帽子を斜めに構え
No one knows, What you see.
  誰も知らねぇ、奴の目がとらえているものを
  ...
Stylish looks, With shaggy beard.
  粋なルックスに、もじゃもじゃの顎髭
And chicks and scotch, Relieve your pain.
  そして、いかす娘(こ)とスコッチが、奴の苦痛を和らげる
Revolver fires, Let it go!
  リボルバーが火を噴く、もう、手がつけられねぇ!
Trailing notes, And smoking barrel.
  余韻に浸る、煙る銃身に

Like a wolf in bush of ghosts.
  亡霊どもに看取られた狼のように
You never care, Who's gonna get close behind you back.
  奴は気にしない、背後から誰が忍び寄ろうと
Never feel sorry for being all alone.
  孤独でも嘆くことはない
Every minutes, every seconds, every little moments.
  いつ、どんな時でも...

Never be harsh, You're so sweet.
  けして、むごい奴じゃねぇ、あまい奴さ
Gently move, With bitter jokes.
  紳士に振る舞い、きついジョークも飛ばす
Don't look back, The deed is done.
  振り返るな、これで終わりさ
The sun shows up, Just as bright.
  太陽が昇り、辺りが明るくなる
  ...
A man in black.
  黒の似合う奴

... "Revolver Fires" by Lupin the 3rd "Jigen's Gravestone"

こんな臭いフレーズ、どこで使おうか知ったこっちゃないが、俺に言わせりゃ、ロマンに欠けるなぁ...

2020-02-16

"特別料理" Stanley Ellin 著

前戯(前記事)で、伝説と謳われた「最後の一壜」を浴びせかければ、メインディッシュに、隠れ家レストランで幻とされる「特別料理」を喰らわす、この小説家ときたら...
飲酒家には、無二のヴィンテージを目の前でお釈迦にし、美食家には、肉汁たっぷりの魔性の血腸詰を頬張らせ、こいつは神への冒涜か!スタンリイ・エリンは、人間に潜む数々の悪意を、非情なまでに皮肉たっぷりに暴いて魅せる。幻想や妄想ってやつは唱え続けると、それが現実になるって本当だろうか。そもそも精神の実体が幻想のようなもの。推理小説がある種の心理学の書というのは本当らしい...

特別料理の食材は、アミルスタン羊!
アミルスタン種ってなんざんしょ?御存じない?まさに絶品でしてね。まさにスペシャル!そちらの恰幅のいい旦那にだけこっそりお教えしましょう。ささ、どうぞ厨房へ...
ちなみに、amir(アミール)はアラビア語で支配者や王族の称号を意味し、アミルスタンとは、どうやら裕福で贅沢に肥え太った種のことらしい。太った羊が美味いかどうかは知らんが、羊は宗教との結びつきの強い由緒ある動物。子羊は、イスラム世界では生贄の動物とされ、キリスト世界では磔刑にあったキリストの象徴とされる。迷える子羊とは、神という牧人に導かれる大衆のことだ。文化人類学によると、かつて人肉嗜食という文化があったと聞く。カニバリズムってやつだ。人間という種は人肉を餌食する本能から抜けられないと見える。実際、人間社会には人間を貪って太ろうとする輩がわんさといる...

それはさておき、ここは美食家の集うレストラン。高級志向で選ばれし客しか入れない。この店では選り好みができない。出されたものを黙って食すだけ。美味いものをひたすら食べさせられ、ブクブク太らされるという寸法よ。店主は、「不思議の国のアリス」に出てくるチェシャ猫のように、ニヤニヤ笑みを浮かべておもてなし。
そして今宵、滅多に出されないスペシャル料理が用意されたとさ。古今に絶した料理の傑作中の傑作が。しかし、十年間ずっと見かけてきた、いつもの席に座る太った常連客がいない。この日に限って、その存在がスペシャルときた...

尚、本書には、「特別料理」、「お先棒かつぎ」、「クリスマス・イヴの凶事」、「アプルビー氏の乱れなき世界」、「好敵手」、「君にそっくり」、「壁をへだてた目撃者」、「パーティーの夜」、「専用列車」、「決断の時」の十作品が収録される。

[お先棒かつぎ]
真面目すぎるがゆえに雇い主にいいように操られ、殺人までも。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど都合のよいものはない。もはや誰の意志か?
「わたしと同類の人間という動物の大多数にとって、大事なのは自分に与えられた役割というものであって、動機でも結果でもないということだ。」

[クリスマス・イヴの凶事]
二十年前のクリスマス・イブ。妻を亡くした旦那は、以来、部屋に籠もって壁とにらめっこ。そして二十年後のクリスマス・イブ、弁護士が訪れ、義妹殺しで姉に疑惑を抱く。姉も弟も時間は止まったまま。ただ、姉はすっかり老婦人に、なんとも黄昏感を帯びたミステリー...

[アプルビー氏の乱れなき世界]
法医学書ってやつは、狂気と欲望の結果の恐るべき研究か。おぞましい事例集は、まるで殺人マニュアル。この権威ある書によると、小型絨毯は酔っ払い運転よりも多くの人命を奪っているという。マニュアルどおりに、金持ちの妻を娶っては絨毯を引っ張って事故に見せかけて殺し、それが六人も続けば、七人目が本当に事故だとしても...

[好敵手]
チェス好きの夫と、まったく趣味の合わない妻。妻はチェスの相手を招くことを嫌う。もてなしが面倒なのだ。仕方なく一人チェスをやり、盤面をグルグル回しているうちに、自我もグルグルになり、ついに分裂。
ちなみに、仏教用語に「トゥルパ」という語があると聞く。化身や幽体離脱といった類いで、仮想実体のような存在を言うらしい。精神分裂病も、自我の二面性に幽閉されるという意味では同じこと。そして、本当の自分はどちらの側に?夫にとって白は好敵手。白にとって妻は邪魔な存在。一人二役を演じていると、もう一つの人格が独り歩きをはじめ、ついにやっちまったってか。警察官の尋問に... 私の名はホワイトです!
「それじゃ一つ教えてもらいたいが、およそ自分は欠点だらけの愚かな女のくせに、自分より限りもなく立派な男と結婚して、それからその男を自分と同じレベルに引き下げ、それでもって自分の弱みと愚かさを隠しおおすことを生涯の執念としている女よりも残酷な存在があるかね?」

[君にそっくり]
その連中ときたら、どいつもこいつも同じ型紙をあてて切り抜いたような奴ら。いい家の出、有名校出身、おまけに、やる気充分であることを上品に見せる能力とくれば、面接官もコロリ。そんな連中に憧れて、服装や立ち居振る舞いを真似れば、同類項になれるだろうか。そこに、かつて上流社会に身を置いていた人物と出会う。彼は自分の失態のために、富豪の父親に追い出されたのだとか。彼の真似をして生きていくうちに、そっくりさんに。真似られた元の実体は、そっくりさんに抹殺され。そして、ある富豪の娘と結婚を企てるも、その富豪の息子は行方不明で、そっくりさんにそっくりだったとさ...

[壁をへだてた目撃者]
壁を隔てた隣の部屋の女性の声に恋をして。彼女には暴力狂の夫がいて、悲鳴が絶えない。ある日、凄い物音とともに女性が殺された?彼女を助けるために警察を呼び、事細かく事情を説明するが、あれ?死んだのは男!その証言のために殺人動機は十分ときた。幻想が幻想を呼び、妄想が妄想を掻き立て...

[パーティーの夜]
舞台俳優の妻はホームパーティーがお好き。夫は、こんな連中との付き合いがもううんざり!愛人の女優と逃げようとすると、妻に拳銃で撃たれ、その場に倒れる。そんな女優との共演が何度繰り返されてきたことやら。自己に毒づく自己愛が現実逃避に求めた場所は、舞台か?現実か?そんなことは知らんよ。本人でさえ...

[専用列車]
株屋の専用列車は、会社の重役やその道のプロといったスペシャルな連中が帰宅に利用する。列車を降りると、自動車の中で熱烈なキスを交わす妻と知らぬ男。怒った夫は、自動車事故で正義の裁きをくらわせる。アスピリンを飲んで居眠り運転を装い、浮気相手をやっちまった。その仕返しに、妻は夫を自動車に乗せて共に専用列車へ向かって突進!

[決断の時]
あまりに徹底的な自信家は、人から好かれないもの。ある高名な館を賭けて自信家同士が対決する。相手は手品師で、脱出奇術のし掛けを自信満々に語ってみせる。応用できる道具はなんでも。一筋の針金、一欠片の金属、一片の紙切れさえも。しかしながら、案じて生命を託す気になれる道具は、ただ一つだという。それは目にも見えず、手に取ることもできないもので、一度として裏切ったことがないそうな。どうやら人間の性質に関わるものらしい。錯誤誘導の類いか。手品師は、予め自分は心臓病を患っていることを告げる。
そして、密室のドアを閉め、そこから一時間以内に脱出できるかどうかの賭けが始まった。手品師は、息が苦しいと叫ぶ!ドアを開けるか、開けないかの決断の行方は?
「完全なジレンマに直面した時はじめて啓示を読み取るだろうという真の意味をさとった。それは人間が否応なしに自己の深みに目を向けさせられる時、おのれについてあるいは学ぶかもしれないことの啓示だった...」

2020-02-09

"最後の一壜" Stanley Ellin 著

寒い冬空に小雨がちらつき、モヤモヤ感の残る中、お決まりの古本屋を散歩していると、ちょいと風変わりな推理小説に出会った。ヘミングウェイが推理小説を書くと、こんな風になりそうな... いや、悪趣味な風刺小説といったところか...
主人公たちは滑稽な生き様を痛快なほどに曝け出し、ニヒルな笑いをさそう。しかもここには、十五もの短篇が群れてやがる。短篇はええ。仕事の合間のオアシス。忙しいからこそ病みつきになる。おまけに、おいらの読書人生の基本ジャンルが推理モノときた。無論、この衝動を抑えられるはずもなく...

分かりやすいということが、世の中をいかにつまらないものにしていることか。いかに騒々しくしていることか。分かりやすさに群がる社会では、ちょいと分かりにくいものに癒やされる。説得力ある言葉より、オブラートに包まれた言葉に救われる。単純明快な振る舞いにでなく、モヤモヤ感の満ちたチラリズムに色気を感じる。小説の世界には、いつまでも読者自身が読み解く余地を残してもらいたい。歯切れの悪い描写で想像を掻き立ててもらいたい。でなければ、すぐに退屈病に襲われる。滑稽な人間社会は、皮肉屋にとっての理想郷。苦難をも皮肉まじりに生きられれば... スタンリイ・エリンは、自作短篇をこう評したとそうな。
「人間の性質に含まれる邪悪の条痕を扱うもので、それはまた人間性をかなり嘆かわしいほど魅力的にしている。」

そこには...
無実の罪で処刑された歴史事件の重々しさに、これを追求して明るみになった真実の軽薄さを投射したり、賭博熱で破滅した息子に現金に執着する母親を重ねたり、真冬の暖房器をめぐるアパートの家主と住人の揉め事という平凡な光景に、おそらく醜怪極まりないであろう殺人行為を埋もれさせたり... といった二元投影論に。
恋敵の肖像画を切り裂こうとした嫉妬女を自ら振りかざしたナイフで返り討ちにし、リアリティを追求した映画プロデューサを等身大の石像にし、ワイン狂を殺す最上の方法に最高級ワインを床に注ぐ... といった意地悪ぶり。
おまけに、贋金が贋の人間をつくるのか、誠実さの裏の顔にころりとくれば、現実逃避に明け暮れる五十過ぎの男は夢の中の小娘に御執心ときた。貧乏画家を喰い物にしてきた画商マダムが喰い物にされ、たった10ドルで人殺しができるかの賭けにそれが優秀な兵士の証明ってか。
はたまた、大都会というジャングルに住む息苦しさや、世間で讃美される正義という観念に嫌みを効かせ、世代間の価値観の違いを浮き彫りにし、孤独死を恐れて面倒な人間関係も惰性的に、貧乏人はますます貧乏に... といった現代社会が慢性的に抱える問題を嘲笑って魅せる。
こいつは、本当に推理小説なのか?クライマックスのオチでどっと疲れが... 思考回路がクタクタになると、モヤモヤ感もクタクタになるらしい...

尚、本書には、「エゼキエレ・コーエンの犯罪」、「拳銃よりも強い武器」、「127番地の雪どけ」、「古風な女の死」、「12番目の彫像」、「最後の一壜」、「贋金づくり」、「画商の女」、「清算」、「壁のむこう側」、「警官アヴァカディアンの不正」、「天国の片隅で」、「世代の断絶」、「内輪」、「不可解な理由」の十五作品が収録される。

2020-02-02

"経済学の名著30" 松原隆一郎 著

人間には縄張り意識という性癖がある。それは、客観性を謳う学問の世界とて同じこと。どんな学問分野においても、学派に分かれては互いに批判しあう風潮が見てとれる。ただ、正しく理解しなければ、正しく批判することもできまい。こと経済学においては、学派の群れは流行り廃りが激しく、やれケインズは死んだ!だの、もはやスミスは遺物!だのと吹聴する輩をよく見かける。確かに、どの処方箋も不十分。
しかし、だ。偉大な警鐘を抹殺してきたのは経済学者たち自身ではないのか。ある経済学者は経済学を学ぶと利己的になりやすいと指摘したが、カネの研究に走ると目先の現象に囚われやすいのか、現在の多くの経済モデルが何らかの形でマネタリズムを包含しているかに見える。生き甲斐までも金儲けの道具としてしまえば、やはりそういう目で見てしまう。
小さな政府と大きな政府、自由競争と価値分配、計量化アプローチと非計量化アプローチ... 等々の対立構図を煽っては、自由と平等の対立にまで及ぶ。経済学の枠組みでは、自由という価値観を「自由放任主義」という用語でひと括りにしてしまうが、自由ってやつは実に掴みどころのない多様な概念で、いかようにも解釈できる。悪行をやるのも、自由といえば自由なのだ。「道徳感情論」を著したアダム・スミスは、確かに「見えざる手」について言及した。彼はあの世で愚痴っているだろう。経済学の父と呼ばれることに違和感を抱きつつ...
「古典が古典であるゆえんは、異なる時と所での観察や思索をもとに、現在を支配する考え方に対しまったく別の地平から異論をつきつけてくるところにある。議論が乗っている地平そのものが異なるのだから、まずはそれを理解しないと反論もできないだろう。しかし独占志向が強すぎるせいか、経済学には誤解したままでの反論があまりにも多い。『経済学の進歩』と言われるものの大半は、誤解によって異説を排除し、自派の説を体系化することにすぎない。」

本書は、反目を繰り返す経済理論史のゴタゴタ劇にあって、30冊を好意的に紹介してくれる。なるほど、中立の目で眺めるには、好意的に書き下ろすのが合理的というわけか。歴史やその背景を紐解きながら、短所を踏まえて長所を拾い上げ、なにゆえそのような考察に及んだかを想像してみる。
重商主義は、封建的束縛から民衆が解放されつつある時代に、貿易という手段をもって自由精神を体現しようとした。貿易による差額に目をつければ、サヤ取りの原理を旺盛にさせていくのだけど。
市場メカニズムは、価値の尺度を統計的に解決する方法論として、欲望の群れを相殺する形で機能させようとした。世間で非難される投機行為だって、政府や企業の思惑を排除した形でお金が流れるという意味では、より客観的な行為という見方もできなくはない。そこで、市場参加者の価値観が多種多様であることが鍵となるが、群がる価値観は偏りすぎるほどに偏っており、欲望が相殺するどころか、一方向に暴走を始める。
その暴走の処方箋として登場したケインズ理論は、世間に政府介入の必要性を知らしめたが、今度は一部の業界との癒着を助長し、ピラミッドでもなんでも造ってしまえと、無駄な公共投資を呼び込む。
こうして眺めていると、それぞれの時代背景の下で、過去の経済学者たちの考えはそれなりに納得できる。要するに、万能な経済理論がいまだ発見されていないというだけのこと。経済理論は常に移ろいやすく、しかも極端に触れ、おまけに過去の理論はゾンビのように蘇る。この学問分野は中庸という概念がすこぶる苦手と見える。呪文のように唱えられてきた、見えざる手、自由放任主義、労働価値説、マルクス主義、ケインズ改革... いずれも自足を満たせずにいる。
そして本書で展開される、ロックの「統治論」やスミスの「道徳感情論」に始まる名著めぐりも、マネタリズムへ傾倒していく様を概観しながら、仕舞にはアマルティア・センの「不平等の再検討」に引き戻される。いま自由の砦を死守せねば... 市場の奴隷にならず、貨幣の奴隷にならず...
「自派のとはまったく異なる発想がありうることを知ることこそが、古典を読むという行為の醍醐味である。ケインズの『一般理論』を通読しても第十二章は読み飛ばすとか、スミスの『国富論』に目を通しても『自然な資本投下の順序』という概念は無視するといった読み方では、古典を読んだことにならない。たとえ理解できなくとも、また自説にとって不都合であっても、違和感を否定せず記憶に留めるような謙虚さを持ち続けることが、古典を読むことの意義なのである。」

本書は、マルクス派のマルクス知らず、ハイエク読みのハイエク知らず、ケインジアンのケインズ知らず... といった皮肉を交えて物語ってくれる。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この皮肉な面ばかりに目が行ってしまうから困ったものである...
市場への介入を論じた者はすべて重商主義者とみなされた時代、彼ら経済思想家たちは本当にスミスの敵だったのだろうか。「国富論」については、まだまともに読まれていない!と言い放ち、道徳論を無視した形で経済学が専門分野として邁進していく様を物語る。
リカードの「比較優位説」には感服したものだが、既にこの時代に、フリードリッヒ・リストは「資本主義には文化に応じた型がある」と論じていたとか。現代の画一化へと向かうグローバリズムへの警鐘ともとれる理論を。
生産と分配の図式に則った J. S. ミルの社会改革ヴィジョンは、自分が幸福になろうとするのは人間の基本行動だが、なにも直接自分の幸福を目的とせずとも、幸福感を味わえる方法があることを告げている。人助けや社会に役立つなどの動機で。物質的幸福と精神的幸福の両面から論じたミルは、功利主義が一枚岩ではなかったことを示している。
ワルラスの一般均衡理論は、自由競争のもとで市場が自動的に需給の均衡をもたらすことを論証しようとした。だが、ワルラス自身はちょっと風変わりな社会主義者だったようで、思想的にも土地の固有を訴えた父を引き継いでおり、結果的に資本主義擁護論を唱えてしまったことが不本意であったとか。
バーリとミーンズが著した「近代株式会社と私有財産」は、既に所有と経営の分離について論じられている。株式会社の登場は、17世紀のオランダやイギリスの植民会社に見て取れるが、現在でも会社は誰のものか?などと論争を繰り返す。スミスは、個人会社こそが利潤の追求と経営の合理性を両立させ、ひいては国富の増進に寄与すると述べたという。経営者が自分で資本を保有し、労働者を直接雇い、土地を自分の名義で借りるため、責任をもって利潤に励むからと。マーシャルも経営者が所有者でもある古典的な中小企業の形態が望ましいと考えたとか。このように、経営者が企業の非所有者でありうる株式会社の形態は、放漫経営に陥ると指摘した経済学者は少なくない。そして21世紀、M&A が横行し、企業ガバナンスの問題を露呈する。
ケインズの「一般理論」には、所有と経営の分離の観点から株主が企業の利潤や配当を当てにするよりも投機に走りがちになり、過剰に悲観して貨幣を使わなくなって流動性の罠に陥り、そのために不況を招き入れるという主張も含まれていたようである。そして本書は、「一般理論」をこう評している。
「ワルラス以降の新古典派が工学化を推し進めていた経済学を、人間社会の学 = モラル・サイエンスの圏内に復帰させようとした記念碑的作品である。」

サムエルソン経済学は、教科書としての地位を獲得した。その特徴は、ミクロとマクロという二つの視点。ミクロ理論では新古典派的に、企業や消費者、労働者や資本家など個別の経済主体の行動を最適化し、それらの集計した需要と供給の価格の調整作用により市場の均衡を分析する。マクロ理論ではケインズ理論的に、雇用量や一般物価、利子率や生産量、国民所得、消費や投資額などの変数の関係を、消費関数や投資関数、生産関数、需要関数や供給関数などによって定式化し、これらを用いて財市場、資産市場、労働市場などを均衡状態として描き出す。両者はミクロとマクロの相違はあれど、市場を均衡において捉える点で共通している。
しかしながら、本書はサムエルソン教科書の罪も指摘している。以降の経済学は、フリードマンやルーカスらの数式志向へ急速に傾倒していき、ノーベル経済学賞の方向づけともなった。マネタリズム時代の幕開けである。だからといって、数式志向が悪いとも言えまい。客観的な価値判断を数量化することの意義は大きい。問題は思想哲学を見失ってしまったことだ。経済学は哲学を持つにはまだ早すぎるってか...

本書は、マネタリズムへ流されそうな経済学の名著めぐりにあって、物質的経済学から精神的経済学へ引き戻そうとする意図をどころどころに見せる。ちょいと異質なところでは、豊かさを論じたガルプレイス、正義の側面から論じたロールズ、さらには、マネジメントとイノベーションの側面からドラッカーも登場する。そして最後に、アマルティア・センの貧困についての言及で締めくくられ、ホッとする...
ところで、マルクスの「資本論」だが... 二十年もの間、こいつが ToDo リストの読書欄にずっとのさばっていやがる。お茶を濁そうと、「資本論」の序説に当たる「経済学批判」に触れた時はなかなかのものだと感じ入ったものだが、「共産党宣言」に触れた途端に距離を置きたくなる。万国のプロレタリア団結せよ!などと叫ばれた日にゃ...
そして、本書のこのフレーズで、やっぱり読んでみようかなぁ... という気にさせてくれるが、どうなることやら...

「使用価値はけっして資本家の直接の目的として扱われるべきではない。それどころか個々の利潤ですらその目的とはいえず、目的はただひとつ、利潤の休みなき運動である。より多くの富をめざすこの絶対的な衝動、この情熱的な価値の追跡は、資本家にも貨幣退蔵者にも共通している。しかし貨幣退蔵者は愚かしい資本家でしかないのに対して、資本家は合理的な貨幣退蔵者である。貨幣退蔵者は流通から貨幣を救い出すことによって価値の絶えざる増殖をめざすが、もっと利口な資本家は貨幣をたえず新たに流通へとゆだねることによって同じことを実現する。」
... 「資本論」第一巻第二篇第二章より

2020-01-26

時間に翻弄され... 自我に翻弄され... あとは、なんとかなら~わ主義

自然界において、時間に方向性があるかどうかは知らん。が、少なくとも人間界においては、時間の矢は絶対的な法則として君臨してやがる。あの大科学者は言った、「エントロピーはすべての科学にとって第一の法則である。」と...
エントロピーといえば、たいていの物理学の教科書で、ただ「増大する」とだけ記される。覆水盆に返らず... 喰っちまったラーメンの末路は排泄物... 空けちまったボトルにおとといおいで... といった格言は、すべてこの法則の支配下にある。それは、時間の方向性に幽閉された世界。あらゆる物体が空間に対して様々な方向へ移動できるというのに、人間の認識だけが一方向性に支配されるとは、神もケチなことをなさる。
人間にとって、最も手に負えない認識が「自我」ってやつだ。こいつが精神病を患わせる。自我は時間の産物であろうか。ならば、時間から解放されれば、自我も解放されるだろうか。否、時間が自我の産物であろうか。ならば、無我の境地へ導けば、時間の概念から解放されるだろうか。自我(じが)と時間(じかん)には、同じ音律を感じる...

「私たちは時間を抹殺することを運命づけられている。こうして、少しずつ死んでいくのだ。」... オクタビオ・パース

どんな事柄でも、究めようとすれば哲学者になれるというが、時間を究めるのは絶望的ときた。ただ、人間ってやつは、何かに束縛されたり、制約を受けることによって、そこに価値を見い出す能力を持っている。束縛がなければ、自由にも価値を見い出せないし、苦難に遭遇しなければ、幸福を見つけることもできない。
そして、時間の矢に幽閉されるからこそ、見い出せる価値がある。いくらでもやり直せるなら学ぶ必要もないし、時には取り返しがつかないということが救ってくれる。あとは、時間が解決してくれるさ...
人間の認識が、すべて自我の産物で、時間の産物であるとしたら、人生なんてものはすべてが独り善がり... これですべてが片付けられれば、この世は極楽よ。天国と地獄があるなら、まさにこの世がそれだ。生き甲斐を見つけられれば天国、見つけられなければ地獄...
いくら独り善がりとはいえ、人間はひとりで生きては行けない。何かに依存しなければ生きては行けない。では、何に依存しながら生きて行くか?これが問われる。自我に目覚めれば、独学に突っ走るのもいい。やはり独学は楽しい。自分のペースで好きなように寄り道ができる。愛人と学べるなら最高!目的はただ一つ、自由を謳歌することだ。この道が天国行きか、地獄行きかは知らん。ましてや知性や理性を会得しようなどという野心はない。そして、世間知らずで終わるだろう。知りたくもないが...
独学の苦労は、ルネサンスの時代とは比べ物になるまい。高度な情報社会では、食欲旺盛なだけ知識を得ることができる。快楽人として、享楽人として、欲情と好奇心を存分に解放できる道はますます開けている。もちろん女性への欲情も修行のうち。ちなみに、恋愛すると頭が悪くなるわ!と夜の社交場のお嬢に諭された。馬鹿は死んでも治らんと...

「私も青春のことを懐かしみ、若い人を羨むことがあるが、しかし、もう一度若くなって世の中を渡ってこなければならぬと思うと、何よりも先に煩わしい思いがする。」... 正宗白鳥

時間の矢に一度捕まっちまえば、あとはやり続けるだけ。そして、継続することに価値を見出す。「継続は力なり」というが、それは、組織や人間関係といった日常の決まりきった枠組みに安住することではあるまい。好きなことをやる... という切り口から、人生戦略を再検討してみるのもいい。ついでに、仕事という用語を再定義してみるのもいい。自由に生きるとは、そういうことかもしれん。
流行り廃りに振り回される人生なんてつまらない。本も買えないほど困窮してはたまらないが、カネや名声を追いかけて生きるより、好きなことを追いかけて生きる方がいい。カネにならなくても、仕事はいくらでも見つけられる。そのためにも、年収に惑わされず、最低限の生活を心得て...
おいらの金銭感覚は、かなり保守的だ。それは投資行動にも反映されている。保守的とは、綿密に調査して行動することであって、その場に安住して行動しないということではない。生活は貧相でも、気持ちはデラックスにいきたいものだ。なにもかも商業主義に奔走するご時世で、自由の砦をやすやすと明け渡すわけにはいかない。貧乏暇なし!個人事業主は年中無休!まだまだ分からないことだらけ、やりたいことがやまほどある。らしくない生き方は、もう御免だ。そして、これからも足掻き続けるだろう。それが死ぬ瞬間まで継続できれば幸せかもしれぬ。あとは、なんとかならーわ...

「人は繰り返し行うことの集大成である。それゆえ優秀さとは、行為でなく、習慣である。」... アリストテレス

2020-01-19

過去に狂い... 未来に狂い... そして、現在に狂う...

「現実は夢を壊すことがある。だったら、夢が現実をふち壊したっていいではないか。」... ジョージ・ムーア

人間の認識能力ってやつは、時間を平等に扱わない。過去、現在、未来で抽象化し、実に都合よく解釈してみせる。未来に悲観すれば過去の思い出に縋り、過去に絶望すれば未来に根拠のない希望を抱く。そして現在はというと、幻滅しては現実逃避を試み、いつも幻を追っかけてやがる。どうりで人間社会は仮想世界へ驀進するわけだ。時間の矢は常に無情。過去は片時も休まず未来を抹殺し続ける。責任を持てなければ未来を覗くのにも勇気がいるし、行いを悔いたところで、おとといおいで!と神が嘲笑う。
そして気づかされる。できることと言えば、現在を精一杯生きることぐらいなものだと...

「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」... ナポレオン

人間ってやつは、時間の連続性に身を置かないと心が落ち着かないと見える。精神病患者の多くは、精神内時間の連続性が失われることに原因があると聞く。癲癇病患者は、痙攣のさなか時間が停止したような崇高なひとときを味わうことができるそうな。この病が、古くから「聖なる病」や「悪魔の呪い」などと呼ばれる所以である。離人症患者は、自己を失い、存在感を失い、放心状態となって時間を感じなくなるそうな。このような精神がテレポートするかのような現象は、時間の呪縛から逃れたいという欲求から生じるのであろうか。精神内時間ってやつは、数学のように離散性と連続性をうまく使い分けているようだ。
精神正常者とされる人々だって負けちゃいない。曖昧な記憶を無理やりにでも認識空間の時間軸に押し込め、辛うじて連続性を保ってやがる。埋め尽くせない時間の隙間には誤った記憶までこしらえ、しまいには言い訳をする。記憶にごじゃいません!と...

「人生をもう一度やり直せるとしても、同じ間違いをするでしょうね。ただし、もっと早いうちに...」... タリューラ・パンクヘッド

では、未来に思いを巡らせてみては、どうであろう。十年後の自分を想像しても、そうなったためしがない。おそらく十年後も、想像のつかない世界を生きていることだろう。いくら未来に備えても、そうはならないってことだ。だからといって備えないわけにはいかない。臆病心を紛らわすために...
知的生命体が精神という能力を獲得してしまうと、正常も異常もたいして違いがなくなると見える。実現不可能な夢想から自己分裂を引き起こし、緻密な将来設計から逸脱すれば自分自身が許せないときた。精神を獲得するということは、精神病を患うということか。ならば、少しばかり精神異常を自覚できる方がいい。そういえば、人間とは精神である... と定義した実存主義者がいた。「人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身が関係するところの関係である。すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている。」と...
なんだこの難解な単語の羅列は???狂ったかキェルケゴール!なるほど、狂人が演じられれば、幸せというわけか...

人の一生とは、狂言のようなもの。猿の面をかぶれば猿に、武士の面をかぶれば武士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。セレブリティの面をかぶればセレブかぶれにもなれる。あとは、幸運であれば流れに乗じ、不運であれば逆境を糧とし、いかに達者に振る舞うか。人生とは滑稽芸なのやもしれん...

「私は『奇人は貴人』だと考えているから、漫画にも大勢の奇人変人を描いています。こうした人たちには、好奇心の塊のような、我が道を狂信的なまでに追求している人が多い。つまり、誰が何と言おうと、強い気持ちで、我がままに自分の楽しみを追い求めているのです。だから幸せなのです。さあ、あなたも奇人変人になりなさい。」... 水木しげる