前記事にて、アンリ・フレデリック・アミエルの大作「日記」(全四巻)を味わった。その余韻に浸り、抄本版を手に取る。河野與一訳(岩波文庫)から土居寛之訳(白水社)へ、翻訳者が違うのも、なかなか乙。
哲学者とは、世界中が酔いしれる中で、ただ一人さめている人をいうらしい...
アミエルは自我を取り戻すために、苦悩、義務、意志が必要だと自分自身に言い聞かすように綴る。自我と非自我、汎神論と有神論、スピノザとライプニッツの狭間で動揺しつつ、精神のゆらぎを受け入れようともがく。人生とは、善と悪の糸が複雑に絡まった織り物。万能の神に創造できぬものはない。だから、悪魔をもつくるのか。ここに、諦めの哲学を見る。なすがままに... ありのままに... 死に方は選べない。アーメン!
「生きてゆくためには、習慣は格言以上の働きをするものである。習慣は本能となり肉となった生きた格言であるからだ。自分の格言を改めるだけでは何にもならない。それは本の表題を変えるようなものだ。新しい習慣をつけるということがすべてである。なぜならばそれではじめてほんとうの生活へと到達することになるからだ。人生は習慣の織り物にほかならない。」
生きる上で、不動の一点を見つけることは至難の業。アミエルは、自由こそが最も固執する情念としながら、自由そのものに確信が持てずにいる。人生とは、諦めてゆくことへの修行。希望、所有、能力の限界を知り、多くの自由が削られていくことに耐える場。そうした受容の場で、自ら意志が欠けていることを嘆き、心の落ち着きを絶望に求め、孤独に自己の居場所を定める。そして、義務が自我を肥大化させ、使命が自我を膨張させていく自分自身に、運命を甘受せよ!と説く。厭世家の遠吠えのごとく...
彼は、日記に孤独者の打ち明け相手を求め、慰め相手を求め、自我の肖像が変化していくのを感じ取る。変身願望がそうさせるのか。生きる覚悟は、死ぬ覚悟と同じこと。いや、死ぬことよりも、老いてゆくことの方が難しい。人に読まれるために書くのではない。自我の救済者は、なにも人間である必要はない。過去を回想して未来への道しるべとし、自らを極楽浄土へ導くために。そして、日記は人生の清算書となる...
「人間がほんとうに人間であればあるほど、人間は孤立する。物を見通す力と善意とを増せば増すほど、同類が少なくなってくる。もし人間が完全なものになれば、それはたった一つの見本になることだろう。そういうわけで、優秀な性質は人間を孤立させ、その環境や一般人や大衆から引き離す。」
健全な懐疑心を保ち、啓発した利己心を実践することは難しい。それを、哲学とやらが手助けしてくれる。不機嫌を克服するためには、まず謙虚な気持ちになることだという。自分の弱点を知っていて、それを指摘されたからといって、なにゆえ怒る必要あるか... と。次に反省すること。結局、人はあるがままの存在でしかない... と。
「哲学とは、精神の完全な自由である。したがって、宗教的、政治的ないしは社会的なあらゆる偏見から独立することである。哲学はその出発点においては、キリスト教的でも異教徒的でもなく、君主的でも民主的でもなく、社会主義的でも個人主義的でもない。哲学は批判的であり公平である。哲学は一つのことしか愛していない。それは真理である。」
批評は、一つの芸術だという。それは、天賦、機知、鑑識力、直感である...と。それは教えられるものでも、論証されるものでもない... と。それは、偽りや改竄を見抜く能力によって支えられる... と。人が生きていく上では、自己批評もまた教訓となる。その率直な意志を自然の風景と同化することができれば、おいらでも詩人になれるだろうか...
「芸術は、自然のはっきりしない思想を浮き彫りにすることにほかならない。それは多くの線の単純化であり、目に見えない群れを外に引き出してくることである。霊感の火は感応インキで書かれたデッサンを浮かび上がらせる。神秘なものが明瞭になり、雑然としたものが明らかになり、複雑なものが簡単になり、偶然のものが必然になる。要するに、芸術は自然の意図を翻訳し、その意志(理想)を言いあらわすことによって、自然の正体を明らかにする。」
