2026-07-05

"理論経済学の本質と主要内容(上/下)" Joseph A. Schumpeter 著

物事の本質を問えば、その素となるものを求める。哲学するとは、そういうことか。では、経済学にとっての素とは、なんであろう。
本書は、「純粋経済学」という語を用い、「アプリオーリ」「動学」という語をちりばめる。
カントは、人間の純粋認識として、時間と空間の二つを挙げた。
シュンペーターは、理論経済学の要素として土地、労働、資本は元より、財産の所有と権利といった帰属意識や価値観念を通して、価格理論、貨幣理論、貯蓄理論、分配理論、賃金理論、地代理論、利子理論を論じて魅せる。そして、これらの理論をニュートン力学との類似性に照らし、経済学の運動法則を探る。彼は、こうした視点を「変化法」と呼称し、従来の経済理論を、静学的な洞察から動学的な洞察へ発展させようと試みる。
尚、大野忠男、木村健康、安井琢磨訳版(岩波文庫)を手に取る。

「『すべてを理解するとはすべてをゆるすことである』という格言には、もっともな意味がある。一層適切にはなお次のように言うことができよう。すべてを理解する人には、ゆるすべきものは何もない、ということが分る、と。そして、このことはまた知識の世界にも妥当する。」

プトレマイオスの体系がコペルニクスの体系に屈したように、現代の理論もまた新たに見い出される理論に屈するのであろう。それが歴史というものか。スミスの富みの概念も、リカードの体系も、マルサスの原理も、経済学の発展に意義あるものであった。悪評高きロビンソンモデルにしても、そのまま吐き捨てるのでは、ちと惜しい。古典理論は、その時代背景を十分に考慮せずに先に進むと同じ轍を踏む。それを賛美しようが、非難しようが... 本書は、そうしたことに警鐘を鳴らしているような気がする。

学問の視点は、合理性や効率性を意識しすぎる感がある。それは、経済学に限ったことではない。欲望や利潤の最大化を見積もることは、現実離れしていないか。均衡状態なんてものが本当に存在するのか。経済学では、価格と効用が同義語ごとき扱われる。限界効用とは限界苦痛のことか...

しかしながら、何事も極限を考察することには意味がある。少なくとも学問的には。極限を記述する強力な道具に微分方程式があり、いまや経済理論の組み立てに欠かせない。
但し、これをそのまま鵜呑みにした経済政策は、しばしば弊害になる。それだけ経済状況は、カオス下にあるってことだ。シュンペーターも、「すべての理論は不完全!」とつい漏らしているが、おそらくそれが本音だろう...

そこで本書は、あえて人間性や心理的要件を排除する立場をとり、価格、貯蓄、分配、賃金、利子などの素朴な変動に着目することを表明している。数学的な記述は無味乾燥な議論にも映るが、そうした視点が逆に、人間と経済の棲み分けを暗示する。
実際、自由競争といえば、人間の自由行動に目を奪われがちだが、貨幣や資本そのものが自由に動き回り、もはや人間の手に負えない。人間を介さなくても、現実に交換関係は生じ、取引は成立する。おまけに、AI の参入とくれば、いよいよ人間は無用の産物か...

需要曲線と供給曲線の交差点で均衡状態を論じても、時間とともに曲線は左右に移動し、価値関数はいつも右往左往。享楽曲線や不快曲線も変化に富み、すべての相互依存関係から運動法則を見い出すのは、絶望的ですらある。それは、経済学だけでなく、心理学しかり、社会学しかり、そして、科学しかり。もはや経済学だけに、貧困問題を押し付けるわけにもいくまい...

ところで、「資本」というのも不思議な用語である。あらゆる価値を資本の一言で説明できちまうのだから。
例えば、不動産も、労働も、投資も、資本財となり、人材資本なんてものもある。
金融業ともなれば、他人からの投資まで自己資本として計上しちまう。返済義務が生じなければ、なんでも自分のもの!あとは自己責任で!あらゆる資本の間で依存関係が生じ、なんらかの奴隷制が成立する。
そもそも資本主義とはなんぞや?共産主義という語は分かりやすい。みんなで共に生産経済を発展させよう... などと綺麗事を並べれば、人間の本性をむき出しにするだけのこと。共産主義社会にも資本の概念はある。これに上級官僚や金持ちが群がるって寸法よ。ユートピアは人間にとって悪夢か...

2026-06-28

"ピュロン主義哲学の概要" Sextus Empiricus 著

真理の探求には、三つの立場があるという。それを見つけたと主張する者、それは永遠に見つけられないと主張する者、そして、結論を急がず、探求し続ける者とが...
人間の認識能力が不完全であることを認めれば、客観的な考察までも疑問視する。常に悠然と構え、何事にも疑いの目を向ける態度は、巷では懐疑主義と呼ばれる。それは、探求と考察を継続することから探求主義とも、あるいは行き詰まり主義とも...
この世には、判断を保留せねばならぬ事柄で溢れている。懐疑主義の第一の目的は、ドグマに毒されぬよう注意を払うこと。だからといって、すべての知識を否定するような独善的懐疑主義にも御用心!健全な懐疑心と啓発された利己心こそが、知の原動力となろう。しかしながら、この態度を保ち続けることは至難の業...

おまけに、人間のあらゆる認識や判断は相対的である。善や悪も、理性や正義も。人間は、万物の尺度を相対的にしか把握できずにいる。そのことを、常に心得ておくべし!これが、「ピュロン主義」というやつか。
この呼称は、古代ギリシアのピュロンという人が、懐疑的な考察に専心し、慎重な言い回しに徹したことに由来するという。そこには、無知を自認してこそ思考は深められる... というソクラテス哲学にも通ずるものがある。
古代ローマの叙述家セクストス・エンペイリコスは、自らの経験主義的立場から古代懐疑主義を物語ってくれる。エピクロス派やストア派を批判する立場をとりながら、アカデメイア派とも一線を画し...
尚、金山弥平、金山万里子訳版(西洋古典叢書)を手に取る。

なにゆえ哲学をやるのか。平静や節度ある態度で真理に挑むも、真偽の判断を下したがために動揺し、善悪を決定づけたがために抑制を失い、正義を掲げたがために横暴となるのでは、何をやっているのやら。
理性にも、二つあるという。内にある理性と言葉で表される理性とが。理性は、徳と結びつき、正義とも結びつきやすく、それだけに言葉で操られやすい。プラグマティストは、どうあるべきだ!こうするべきだ!と声高に唱える。だが、理性とは、自制心によって支えられるもの。自分の理性に自信満々でいられるのは、すでに理性が暴走していると見るべきや...

宇宙の摂理は完全かもしれない。が、人間が知りうる摂理は不完全!古代の哲学者たちは、そのことに思いを馳せ、人間は人間自身を知りうるか?と問い続けた。プラトンが、人間は羽のない二本足の動物と定義した時、それで人間の正体を確信したわけではあるまい。アリストテレスが、人間は社会的動物であると定義した時、それで人間社会の正体を確信したわけではあるまい。パスカルが、人間は考える葦であると定義した時、それで人間の存在意義を確信したわけではあるまい。はたまた、言葉でうまく説明できないからといって、それをまったく知りえないということにもなるまい。
デモクリトスが、原子論を唱えた時、そこに実存と空虚の共存を見る。存在とは、虚像と結びついて成り立つ概念か。精神や魂も、理性や真理も、徳や正義も、そして、神も。神が不敬虔者のみを罰するなら、神にも悪意があると言わねばなるまい。

人間が常に平静を保ち、自然体でいることは至難の業。それゆえ、時として説得力のない議論に耽り、思い上がりや性急さを鎮めるために、あえて答えの得られない問答を繰り返す。真に理性を得ようとすれば、何事も自問自答を繰り返すしかなさそうだ。結論も控えめに...
しかしながら、人間社会には、自信満々に断言する者ほど目立ち、これを大衆が支持するという構図がある。二千五百年もの年月を経ても尚、懐疑心と批判精神を科学することは難しい。あの世で、ピュロンは愚痴ってるやもしれん。私はピュロン主義者ではない!と...

2026-06-21

"芸術とは何か" Susanne Katherina Langer 著

S. K. ランガー女史には、人間が物事を表象的に捉える認識過程からシンボル哲学なるものに魅せられた(前記事)。ここでは、芸術哲学とやらに魅せられる。
シンボル化という感性は、人間の思考プロセスに根源的に組み込まれているらしい。それが意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ...
尚、池上保太、矢野万里訳版(岩波新書)を手に取る。

「感覚的形式を通しての表現能力は、着想力の必要に応じて成長する。芸術の目標は洞察であり、感情の本質的生命の理解である。だが、すべての理解は抽象化を必要とする。... シンボル化を伴わないところに理解はなく、抽象化を伴わないシンボル化もない。... 実存をまったくそのままに伝達しようと努めるのは無意味である。経験自体さえ、そのようなことはできない。私たちは理解する事柄を観念するのであり、観念作用は常に定式化、表示、抽象化を伴うのである。」

芸術とは、SM の世界か。芸術家たちは極めて独断的に仕掛けてくる。しかも、独善的ですらあり、S のなせる業!
しかしながら、鑑賞者の側に感じるものがなければ、そこに芸術は成り立たない。素直に感じたければ、M にもなるさ。もはやカノンの虜よ!
人間の認識力には、事物を抽象的に捉える機能がある。これを具現化する技術が芸術ということになろうか。その技法の極地は、美的啓示と至高の芸をもたらすが、巧妙な欺瞞の芸にもなりうる...

「芸術は技術である。だがそれはある特別な目的、すなわち、表現形式、つまり本然の人間的感情を打ち出して、視覚、聴覚、または、想像力を通して知覚できる形式を創造することを目的とする技術である。」

芸術は哲学でありうるだろうか。無論学問分野として、芸術と哲学は別物。
しかしながら、どんな事物であれ、そこに哲学的思考を見い出せないものはない。その意味で哲学とは、摩訶不思議な学である。存在意識が絡むから、そうさせるのか。存在という意識があやふやである以上、いかようにも解釈できる...

人間の思考は、言語を通じて強化され、概念となる。人間は思考段階を登っていく上で、その場その場で表象的な何かを求める。内面を投影する仕掛けとして、シンボルやイメージ感覚のようなものを。空間とは何か、時間とは何か、そして、そこに存在するものとは、自己とは... などと問うだけで哲学的思考へ導かれる。

芸術は、内面と強く結びつくだけに、実に多くの哲学的問題を提起する。芸術家は表象を超えた何かを創造し、鑑賞者も負けじと表象を超えた何かを想像する。それが、芸術の意義というものか。
芸術空間は、一つの仮象であり、空想的幻影であり、虚空間であり、それでいて純視覚的空間で覆い、その全体がヴィジョンを提示する。そして、実在と概念を結びつける思考過程で、その思考そのものが哲学的であることを知らしめる。
芸術作品に癒やされるのは、それが真理へ導くからであろうか。おそらく、真理そのものが重要なのではあるまい。真理へ近づこうとする過程こそが...

「科学は普遍的表示作用から緻密な抽象化に進み、芸術は緻密な抽象化から、普遍性の援用をまつことなく、生命的内包作用に進む...」

2026-06-14

"シンボルの哲学" Susanne Katherina Langer 著

人間の思考は、物事を象徴的に捉えるところがある。それは、どこに発するのか...
最も顕著なものに、言語現象がある。それは音声に発し、記述の仕方を経て概念と化し、記号論や構文論に至る。言語は、人間が思考する上で極めて重要な役割を担う。それはコミュニケーション手段だけでなく、自己意識や存在認識などにも寄与し、おかげで、より多くの知識を得、学ぶ意欲を高める。その反面、欺瞞に惑わされ、感情が煽られることもしばしば...

こうした意識過程をより抽象的に捉えると、シンボルという概念が浮かび上がる。美術や音楽も、祭典や儀式も、人間は認識できるものすべてをシンボル的に捉えているところがある。
S. K. ランガー女史は、言語の論理的機能と感情的特性、聖礼や神話の発生源、音楽や芸術の意義といったものを、シンボル化という根源的な意識に照らしながら論じて魅せる。
尚、矢野万里、池上保太、貴志謙二、近藤洋逸訳版(岩波書店)を手に取る。

「哲学史上、どの時代にもそれ独特の先入見が存在する。各時代の問題は、政治的理由とか、社会的理由などの一目でわかる実践的な理由のためではなく、知性の発達に伴なういっそう深遠な理由のために、各時代に特有なものとなっている。」

人間は、認識できるものすべてに意味を与えようとする。まずは、一個人が生きる意味とは何であろうか... と。自己を象徴的な存在とすれば、自我を肥大化させるばかりか、無意味なものには拒絶反応を示す。精神そのものが非合理的な存在でありながら、認識をとりまく存在となると、そのすべてに合理性を求めてやまない。これぞ人間の性癖か...

確かに、言語では表記できない領域がある。しかも、それは思いのほか広大ときた。無意識の領域がそうであるように。そんな領域にまで意味を与えようとする意識が、シンボル化の原動力になっているのだろう。実践的なヴィジョンは行動のための指針を与えるが、これもまた心の中でシンボル化される。ある種の依存症か。となれば、人間にとって物資の欠乏よりも、シンボルの欠乏の方がより深刻なのやもしれん...

シンボル化という抽象的な意識が具体的な言語で記述され、芸術やら科学やらに投影されると、明確な定義を与える前に何らかの解釈を施さずにはいられない。やがて、解釈という行為は義務と化し、学術的な権威をまとうことに。仮説の有用性とは、そうしたものであろうか...

芸術や音楽は、居心地の良さを提供してくれるばかりか、自己の居場所を与えてくれる。人間は意味のある場所が与えられると、心が落ち着く。それが幻想であろうと、幻想だと知りつつも...
人間の有意義説に縋る性癖は、抑えられそうにない。人間は生涯を通して、意味と解釈の狭間で無意味の充満する世界を有意味で充填させようともがく。ただそれだけのことやもしれん...

「自由の本質は目的の実現可能性なのである。人類は、自己の主要な目的の挫折のために、種としての人類の定義そのものに属しているような目的さえも挫折したために苦悩してきたのである。シンボル的過程のどんな失敗も、われわれの人間的自由を廃棄させるものである。」

2026-06-07

"マキャベリの名言" 矢島みゆき 編訳

「君主論」に触れたのは十五年ほど前。そして、共和国に焦点を当てた「フィレンツェ史」やディスコルシこと「ローマ史論」にも触れてみたが、未だ消化不良!マキャベリの政治思想に少しでも近づけるよう名言集を手に取るも...

名言の効用とはなんであろう。行動指針の一つに、言葉で説明できるか、ということがある。言葉は動機を明確にし、やるべきことも明らかにし、名言はそれを後押ししてくれる。

「言葉で表現できる行動をせよ!」

おいらは、完全に一貫性を持った著述家を知らない。どんな著述家も、どこか多面性を具えている。偉大な著述家ともなれば抽象レベルが高く、それゆえ勝手な解釈や誤った解釈を招き入れる。
だとしても、彼らの著作はそんなものまで呑み込んじまうから、そりゃ、飲まずにいられない。まぁ、理解からは程遠くても、偉人の言葉というものは生きてゆく上で励みとなる。凡人ばかりか、凡人未満にも... 愉快!愉快!

「ともかく現在に生きよ。過去の豊かさから学ぶことを忘れず...」

こと政治の世界では、理想郷を掲げると、逆の形が出現する。憎悪ってやつは、悪行からだけでなく、善行からも生じる。どんなに優れた政体を打ち立てようとも、どんなに高尚なイデオロギーを掲げようとも...

「ダンテは言う、過去の歴史を学ぶことこそが科学であると。また、学んだ歴史について人と語り合うことも科学である。」

古くプラトンは著作「国家」の中で政治指導者に哲学者を据えた理想像を描き、マキャベリは著作「君主論」の中で政治に必要な力量と決断力を持つ君主像をちらつかせた。
しかし、どんなに優れた政治指導者が出現しても、これに続く者は愚人ども...

古くアリストテレスは、最高の政体は君主政で次が貴族政、そして最悪な政体が民主政と愚痴めいたことを弟子たちに漏らした。マキャヴェッリもまた、「フィレンツェ史」や「ローマ史論」を通して共和国の欠点を炙り出した。
現実に、君主はすぐさま僭主に成り下がり、貴族は贈賄の類いにまみれ、民衆とて移り気が激しく暴徒の群れと化す。人間が人間を統治するには、善だけでは不十分!善も悪も人間の本質であり、やはり社会には法というものが必要なようだ。統治する側にも、統治される側にも...

「時の経過がもたらす各種の恵みを楽しむと良い。時はあらゆる種類の出来事をもたらしてくれる。悪に似た善や善ともまごう悪を...」

どんなに善良に生まれつこうが、どんなに優れた教育を受けようが、人はやすやすと堕落しちまう。自らの野心に踊らされ、他人の悪徳に誘われ、やすやすと悪事に手を染める。人間とは、そうしたものだということを心得ておく必要がありそうだ。偉人たちから何を学ぶか。それは、善行だけでなく悪行からも...

「卓越した人物は、どのような環境に置かれても常に変わらない。運命が彼らを高い地位に就かせたり、あるいは虐げさせたりすることがあっても毅然として変わらず、常に不屈の心を持ち続けることができる。」

2026-05-31

"ローマ史論(全三巻)" Niccolò Machiavelli 著

「ディスコルシ」こと「ローマ史論」...
ニッコロ・マキャヴェッリは、歴史家リウィウスの大作「ローマ建国史」から最初の十巻に着目し、政治論を論じて魅せる。「君主論」と補い合うように...

古くプラトンは、著作「国家」の中で政治指導者に哲人を据えた理想像を描いた。だが、どんなに優れた政治指導者であろうと、これに続く者は愚人ども...
マキャヴェッリは、著作「君主論」の中で政治に必要な力量と決断力を持つ君主像を描いた。だが、どんなに優れた政体を思い描こうと、どんなに高尚なイデオロギーを掲げようと、結局は現実に引き戻される。
あとできることと言えば、なんであろう。「すべての道はローマに通ず...」というが、やはり原点に立ち返ることか。共和国の原点、ここにあり!と...
尚、大岩誠訳版(岩波文庫)を手に取る。

「平等の存するところ、君主国にはなり得ぬ。それの存せぬところ、共和国とはなり得ぬ。」

人間が編み出した政体は、大まかに三つ。君主政、貴族政、民主政が、それである。だが、それぞれに深刻な欠点を抱え、僭主政、寡頭政、衆愚政となるも紙一重。
古代ローマの場合、その起源は王国に始まり、やがて共和国となり、強大な帝国へと発展していったが、その基盤となると、最初期から共和国になるまでにほぼ確立されていたという。

まず、偉大な精神は、始祖ロームルスに始まる伝説の王たちによって築かれる。その支柱に据えられたのが、自由精神。マキャヴェッリは主張する。「ひとつの都が存続するには、自由人の力によらなければならない。」と...
賢君が二代続けば、精神的影響は大きい。三代続けば尚更。古代ローマの場合、七代続いて共和国へ導いた。その過程で、創立者たちの叡智が伝統精神として法に刻まれ、法の精神を育んでいく...

次に、国家の在り方は、三つの要素で力関係を均衡させていく。統領、元老院、護民官がそれである。統領は君主とその取り巻き連中。元老院は貴族や上流階級で構成されて国家の最高機関となり、いわば統領のお目付け役。護民官は平民の代表で、国の隅々にまで政治機構を浸透させる役割がある。
この時点で平民の意向がどれほど反映されるかという問題は残るにせよ、後に護民官を選出する平民会が大きな存在感を持つことになる。こうした三要素を具えた政体は、君主制、貴族制、民主制の混合物という見方もできよう。ここに分権の起源を見る思い...

更に、宗教が絡む。帝国の時代にはキリスト教が国教とされ、教会の権威が加われば政治の主導権はいずこへ。政教分離の思想は、こうした有り様からも見い出せよう...

そもそも国家とは何か、本当に必要なのか。そして、その形が、なぜ共和国なのか...
自由精神こそ鍵というわけだが、政治指導者を選ぶ自由は民衆にあるか。政体を選ぶ自由は民衆にあるか。自由は妥協との折り合いの中で成り立つ。それが正当かは、ただ信じるのみ。自由とは、信仰の類いか。少なくとも、自由は自己抑制との釣り合いにおいて行使される。善には制約があるが、悪にはそれがない。

国家には、当たり前のように付随する法というものがある。そもそも法とは何か、本当に必要なのか...
法は悪に対するものとなり、法の下での正義は駆け引きの道具となる。せめて復讐心が伝染せぬよう願うばかり。結局、毒をもって毒を制す!の原理に縋るほかはないのか...
こと政治の力学では、高貴な理想を掲げるほど泥沼にハマる!恐怖、憎悪、嫉妬といった情念は、人間の本質であり、これを避けることはできない。確かに、人間は聖人になりきることはできないが、悪魔になりきることもなかなか難しい。それがせめてもの救いか...

政体は時代とともに変化していく。変化こそ不変!ゆえに、何事も改善は必要であろう。それでも、基本精神を見失うな!というのが、マキャヴェッリの立場。確かに、古代ローマのそれは理想に程遠い。三千年を経た 21 世紀の今でも...
そもそも理想がどんなものか、そんなものが本当にあるのか、ますます分からんよ... マキャヴェッリ先生!

「政治や歴史上の数多の事例を取り扱ったひとたちの挙って説明することに従うと、国家を建設し国宝を制定するものとしては、何よりも先に、人間はすべて悪人で、思う通りに振る舞う機会があればすかさず其の非道ぶりを発揮して私欲を満たそうと身構えていることを常に考えている必要がある。」

2026-05-24

"フィレンツェ史(上/下)" Niccolò Machiavelli 著

権力者といえば... 悪の権化、冷徹で狡猾な独裁者... といったダーティーなイメージがつきまとう。だが、共和国精神の根付いた地域では、人間的な面を併せ持つ政治指導者を言うらしい。とりわけフィレンツェの地には、共和制ローマから脈々と受け継がれる伝統精神なるものがあるとか。
ニッコロ・マキャヴェッリは、「君主論」で政治的な力量を備えた人物を論じて魅せた。本書では、フィレンツェ共和国の発祥から、その黄金時代に君主的存在となったロレンツォ・デ・メディチの死までを物語ってくれる。いわゆる「偉大なるロレンツォ」を「君主論」に、ある面で重ね、ある面で反するかのように...
ここでは「すべての道はローマに通ず...」という格言を引いて、「それはフィレンツェを経て...」と付け加えておこう。
尚、齊藤寛海訳版(岩波文庫)を手に取る。

アリストテレスは、最高の政体は君主制で次が貴族制、そして最悪が民主制と愚痴めいたことを弟子たちに漏らした。しかし、君主は野心のために僭主に成り下がり、貴族もまた贈賄の類いにまみれ寡頭化し、民衆とて移り気が激しく暴徒の群れと化す。それでも、比較的ましなのが民主制ということになろうか。
人間の集団性はことのほか手ごわい。権力ってやつは、一部に集中したり、肥大すると、社会の弊害になるものらしい。それは、人間の本質であろうか...

マキャヴェッリは、フィレンツェ史を通して共和国の長所と短所を炙り出し、あるいは、共和国にあるべき君主像をちらつかせ、いずれ出現する近代国家の礎となる権力分立や政教分離といった政治思想へ導くかのように物語る。彼もまた、アリストテレスのように共和国の行く末を案じていたのであろうか。
権力ってやつは、強すぎても、弱すぎても、腐敗するものらしい。しかも、腐敗の伝染力は極めて強い。どんなに優れた政体を取り入れようと、どんなに高尚なイデオロギーを思い描こうと、すぐさま現実に引き戻される。

概して、共和国には破滅を運命づけられた大家があるらしい。メディチ家もそうした家の一つだったのか。絶え間なく繰り広げられる権力抗争の裏で、憎悪、敵意、対立から党派が生まれ、処刑、追放、静粛の横行。貪欲と野心でのし上がる者ども。力ある者が力なき者を足蹴りし、才ある者が才なき者の鼻面を引き回す。これが人の世か...
支配者の命令したいという欲望と民衆の隷従したくないという願望が衝突し、少しでも権力を手中にすると、自己顕示欲を膨らませ、権威主義に陥る。
現代、民主主義や自由主義の対極に権威主義や全体主義が配置される。だが、独裁者を生み出すのは、民衆だ!
自由主義者は全体主義を忌み嫌い、全体主義者は個人を生かすためと称して民衆の結束を強いる。結束が維持できなければ、自由が悪魔と結託し、個人を抹殺にかかる。実は、自由主義と全体主義は表裏一体なのかも...

政治指導者が、いつも市民を監視していなければならないとすれば、なんと滑稽な社会であろう。自由とは、権限を持つ側の論理か、それとも与えられる側の論理か。平等とは、それを主張する者の論理か、それとも発言すら許されない者の論理か。そして、正義とは誰の論理か。
極端なことを言えば、基本的人権以外に権利は必要なのか。どんな聖人君主が命令を下そうとも、それを行うものは愚人。愚人の行動には、模範的な規定と、具体的な条文が必要なようだ。おかげで、法の条文は増すばかり。エントロピーのごとく。これに教皇の権威と戒律が加われば、エントロピーの勢いは増すばかり。政治と宗教の力学原理は、すこぶる似ている。やはり分離した方がよさそうだ...

自由ってやつは、奪うものでもなければ、与えるものでもあるまい。巷には自己責任論が渦巻き、自由主義に内包される責任に耐えられなくなると、権威主義に傾倒していく。民主主義や自由主義にとっての最大の脅威は、権威主義でも全体主義でもなく、それ自身にあるのかも。敵が己自身にあるとすれば、これに対抗できるものは... 基本的人権とは?法のあるべき姿とは?人間足らしめるものとは?と、その原点を問い続ける他はあるまい...

「国々は、大多数の場合、それぞれが変遷していく過程で、秩序のある状態から秩序のない状態へ、それからまた新たに、秩序のない状態から秩序のある状態へと移行する。なぜなら、この世のことに対して、自然は静止することを許さないからである。国々は、最終的な完全さに達したら、もうそれ以上は上昇することがなく、下降するしかない。同様に、下降するとなると、無秩序のせいで最低の状態にまで達するが、必然的にそれ以上は下降することができず、上昇することになる。
  ...(略)...
武勇は平穏を生み出し、平穏は無為を、無為は無秩序を、無秩序は破滅を生み出し、同様に、破滅からは秩序が、秩序からは武勇が、武勇からは栄光と幸運が生まれるのである。
  ...(略)...
だから、分別のある人は、教養は武力の後にやってくること、国家や都市では最初は哲人ではなく、武人が生まれるのを観察することになる。」

2026-05-17

"詩と認知" George P. Lakoff & Mark Turner 著

原題 "More Than Cool Reason: A Field Guide to Poetic Metaphor..."
シェイクスピアの言葉から引かれているらしい。これを「冷めた理性の及びもつかぬ...」と邦訳し、「詩と認知」との邦題を与えている。「冷めた理性の及びもつかぬ...」を主題に、「詩と認知」を副題とした方が、隠喩が利いていそうな...
尚、大堀俊夫訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。

言語学には、「認知的隠喩論」なるものがあるらしい。詩ってやつは、想像力や思考力を掻き立てるメタファーであり、道徳的、社会的、個人的な問題意識を高める手助けになると...
また、本書には、シェイクスピア、ダンテ、ミルトン、キーツ、エリオットら、あるいは、聖書やサンスクリット恋愛詩が鏤められ、原題にあるようにメタファー・ガイドブックにもなっている。

 Because I could not stop for Death...
 He kindly stopped for me...
 The Carriage held but just Ourselves...
 And Immortality.

 佇む死を待てずにいると...
 かれは私のために立ち止まってくれた...
 客車には私たちと...
 永遠だけが乗っていた。
 ... エミリー・ディキンソン

「冷めた理性」とは、客観性に裏付けられたもの。これに「及びもつかぬ...」とするところに、客観主義への批判が込められる。
かつて、科学でなんでも解決できると豪語された時代があった。だが現在、あらゆる学問分野で科学的分析が進みながらも、客観主義、機械主義、構造主義、物質主義... といった主張だけでは限界を感じる。
そこで、心の本質的な営みを詩的隠喩に求めるのが、言語学者ジョージ・レイコフと文学理論家マーク・ターナーの試みである。人間精神の合理性を、客観性と主観性の調和に求めて...

「隠喩を研究することは、精神と文化のかくれた面に向い合うことである。詩の隠喩を理解するには、慣習的な隠喩を理解することから始めなければならない。それはとりもなおさず、ある世界観の存在、想像力に加わる制約、そして日常の出来事を理解する上で隠喩の果たす重要な役割を知ることに他ならない。これはそのまま詩の隠喩がもつ力の核となる。なぜならわれわれの日常的な理解の根底を認識し、新たな様相のもとに経験させるのが詩のはたらきだからである。」

隠喩ってやつは、日常的に広く使われるだけに、却って気づかぬところがある。自明であれば、その奥底にあるものを見落としがち。
一方で、生や死といった概念に時の流れが結びついて、人生観を暗示する。人生は旅路、人間は旅人、生は奴隷、死は自由、死は安息の場、死は人生の帰結... などと。生命体は、時間軸上で死を運命づけられている。だからこそ生の虚しさを想い、死の果敢なさを想わずにはいられない。

「時は全てを運び去る。心までも...」
... ウェルギリウス

詩の特徴は、なんといっても音調をともなって、人の心に言葉を刻み込むこと。気分を乗せるには、リズムが重要だ。諺、格言、名言といった文句も、音調がともなって訓示や戒律となる。これらの音調には隠喩が媒介し、それゆえ人は言葉に動かされる。
しかしながら、詩を理解するには、それなりの知識がいる。隠喩を味わうにも、それなりの経験がいる。そうでなければ感じることもできず、いったい何が言いたいのか?などと最低な感想をもらす。「盲人はドブに文句をつける」とさ...

言葉の認知は、存在意識と強く結びつく。詩や隠喩に有難味を感じるのは、認知対象の存在を意識しているからであろう。
そこで本書は、「存在の大連鎖」という説を論じて魅せる。
この大連鎖を関係と解するなら、キェルケゴールにも通ずるものがある。彼はこんな言葉を遺した... 人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身が関係するところの関係... すなわち、自己とは自己自身にまつわる関係... さらに、関係の、関係の、関係の...  と。
相対的な認知能力した持ち得ない知的生命体は、他との関係から自己を認知するしかないだろう。関係においてのみ存在意識が成り立つとすれば、人間は依存地獄を生きる他はない。

人間の定義を言葉に頼ると、人間は動物である、生物である、物質である.. と自然界における地位がどんどん押し下げられ、存在そのものが曖昧になっていく。パスカルの言葉に「人間は考える葦である」というのがあるが、隠喩を用いれば高尚さを装うこともできよう。曖昧さを抽象化の概念で包み、崇高な宇宙論とすることもできよう。身体的に、生物的に、本能的に、そして理性的に... と辿り、物理的な存在から精神的な存在へ昇華させることもできよう。隠喩の大連鎖は、因果関係を崇高な意識へ高めていく。

しかしながら、巧妙な言葉は、しばしば強烈な自意識を覚醒させちまう。自己啓発から自己実現へのプロセスは、自我を肥大化させ、自惚れから自己陶酔へ。隠喩で語られる精神ってやつが、どれほど偉大かは知らんが、御用心!御用心!

「狭き門より入れ、滅びにいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者おほし...
生命に至る門は狭く、その路は細く、之を見出す者すくなし...」
... マタイ伝福音書 7:13-14

2026-05-10

"認知意味論 - 言語から見た人間の心" George P. Lakoff 著

本書を分類すると、言語学ということになろうが、大枠では認知科学に属すらしい。認知科学とは、心理学、言語学、人類学、哲学、コンピュータ科学など多岐にわたって、人の心というものについて知見を統合する学問だという。言語学者ジョージ・レイコフは、こんな問い掛けから「経験的実在論」とやらを論じて魅せる。
理性とは何か?それは、いかに意味づけられるか?理性が普遍的なものだとすれば、いかに体系化できるか?と...
また、人間の思考を発達させてきた要因に言語があり、言語が思考を牽引するのか?思考が言語を牽引するのか?あるいは、その双方か?と...
尚、池上嘉彦、河上誓作、他訳版(紀伊国屋書店)を手の取る。

レイコフは、自らの研究の立場を「経験基盤主義」と呼び、客観主義に対抗する。客観主義といえば、科学!かつて、科学でなんでも解決できると豪語された時代があったが、その流れに反発するかのように...
客観性では他を寄せ付けない数学にしても、数学の完全性を目論んだヒルベルトは、ゲーデルの不完全性定理によって挫折せざるを得なかった。このパラドックスの主役に躍り出たのが、集合論だ。言語体系もまた、文法と語彙の集まりで成り立つ集合論と見ることができよう。
まさに本書は、集合論的な言語論から記述を超えた領域へと踏み込み、認知哲学の重要性を唱える。人間にとって言語とは、抽象的な記号と機械的な操作を超越した存在であると...

言葉で説明できるからといって、本当に理解できているとは言えまい。精神や心といった概念は、言葉ではいくらか説明できるが、その実体を見た者はいない。物理的に自由電子の無数の群れとすることはできても、そこに思考や意思のようなものが生じるメカニズムは解明できていない。
科学は、原因と結果を結びつける学問だ。結びつけられなければ、様々な解釈を呼ぶ。しかも都合よく。解釈との馴れ合いがなんでも分かった気分にさせる。人間にとって気分は重要だ。それで、心を平穏に保てる。物事を客観的に捉えるために言語は欠かせない。だが、思い込みを旺盛にし、自我を肥大化させるのも言語だ。

人間足るとは、どういうことか?そのために言語は、どういう位置づけにあるのか?こうした疑問は、チューリングの問い掛けにも通ずる。それは、機械は意思を持ちうるか?ということ。そもそも意思とはなんであろう。それが、言語を超越した現象だとすれば...
今や AI がもてはやされる時代、AI が言語化によってのみ機能するとすれば、完全に身を委ねるのは危険ということになりはしないか。いや、人間よりましかも。もし、AI が言語を超えた領域にまで踏み込むようになれば、理性らしきものを獲得するのだろうか。やはり、人間よりましかも...

言語による認知は、分類、類似性、属性、カテゴリ化といったものを起点にし、これに意味を与えようとする。相対的な認知能力しか持ち得ない知的生命体ができることといえば、他との比較においてのみ。言語が人間の認知活動で重要な役割を果たしているのは確かだが、概念の会得に言語だけでは心許ない。人間が編み出す概念のすべては、自己言及に踏み込んだ途端にパラドックスの網にかかる。
概念は、メタファー、メトニミー、心的イメージを媒介し、思考は、ゲシュタルト的特性を有し、循環論的でもあるという。身体的で、生理的で、情念的で... それで、言語を超越した理解力とは、いかなるものだというのか。少なくとも、言語では説明できそうにない。

とはいえ、言語による記述を認めなければ、学問は成り立たない。この書は、言語学者が自らの学問の限界を示そうとしたのであろうか。いや、学問全体の限界を...
つまり、人間は人間自身を永遠に理解できないというのか。だとしても、AI が人間っぽくなれば、その比較において少しは理解できるかも。そして、人間という概念も変わっていくのかも...

2026-05-03

"最新コンパイラ構成技法" Andrew W. Appel 著

原題 "Modern compiler implementation in ML"
ML(Meta-Language)とは、Algol 系の言語で、高次の視点、すなわちメタ視点から言語を論じる場面に適しているという。本書は、プリンストン大学のコンパイラ講座に沿った教科書だそうな。アンドリュー・エイペルは、自ら提唱する Tiger 言語を ML で実装するストーリーを描いて魅せる。
ちなみに、「Tiger 言語リファレンスマニュアル」を覗いてみると、文脈的な依存関係があまりなく、コンパクトな命令型言語とお見受けする。ソフトウェア工学をプリミティブなレベルから学ぶには、恰好な題材やもしれん...
尚、神林靖、滝本宗宏訳版(翔泳社)を手に取る。

コンパイラと言えば、実行可能なマシン語への翻訳機とでも言おうか。むか~し、おいらが美青年と呼ばれた時代、日本語プログラミング言語に憑かれ、アセンブラ言語のマクロ機能を駆使して翻訳機を書いた頃の記憶がかすかに蘇る。
当時、C言語が主流となりつつあったが、コンパイラ性能はイマイチだし、リソースもしょぼい。リアルタイムシステムでは、まだまだアセンブラ言語に頼らざるを得ない時代であった。
現在、スクリプト言語が華やかに台頭する。言語の分かりやすさや柔軟性は、プログラムのメンテナンスに欠かせないが、人間にとっての分かりやすさと、マシンにとっての効率性は相い反するところがある。実は、根底で密かに活動する翻訳機の存在意義は、以前より増しているのやもしれん。自然言語で機械翻訳が活躍しているように...

コンパイル処理の流れは、お決まりなところがある。字句解析、構文解析、意味解析、データ構造解析、中間言語による抽象化、命令セットの割り当て、レジスタやメモリの割り当て、実行可能なコードの生成... といったところ。
本書は、こうしたトピックに加え、オブジェクト指向型言語のコンパイラ "Object-Tiger" と、関数型言語のコンパイラ "Fun-Tiger" の実装例を紹介してくれる。

まずは、コンパイラの理想像を描いてみるのもいい。抽象レベルでは、無限のレジスタやメモリ、最も効率的な命令セットを想定することもできる。これらを現実のリソースに割り当てるの時、効率的な割り当てがコンパイラの性能にかかってくる。
本書は、こうした視点に付随して、多くの仕掛けやアルゴリズムを紹介してくれる。注目したい話題は、「静的単一代入形式、高階関数、ごみ集め、パイプライニングとスケジューリング」といったところ...

1. 静的単一代入形式
すべてのデータの流れや経緯を単純な代入で組み立てていく記述様式で、集合論的な視点を与えてくれる。人間の思考は言語学的な視点に着目するが、コンピュータは数学的な構造を持っており、集合論的な記述が効率的。データの生存解析にも有効で、ゴミ集めのための情報としても活用できる。

2. 高階関数
関数の入れ子になる仕組みで、引数に関数を渡すことができ、結果に関数を返すこともできる。スコープの入れ子も含めて,,, こうした性質は Tiger 言語の特長でもあり、コンパイラの実装で有用だという。

3. ごみ集め
この機能はコンパイラが持つべきかは微妙だが、ごみ判定のための支援をコンパイラがやってくれると助かる。
そもそも、ごみとは何か?本書では、「ヒープに割り当てられたれコードのうち、プログラム変数からポインタと連鎖を辿って到達できないもの...」と定義される。
お馴染みの静的コンパイルでは、到達可能かどうかの判定をコンパイラ側でやって、あとは、ガベージコレクション側に任せることもできる。
だが、ランタイム時に実行するような動的コンパイルでは、ごみ集めの機能も組み込みたい。ごみ処理機構は人間社会同様、システムの秩序に影響を与え、致命的な問題ともなりかねない。ちなみに、新種のプログラミング言語は多くのごみを出すらしい。
そこでアルゴリズムでは、ガベージコレクションの文献でも見かける「マークスイープ回収法」、「参照カウント」、「Cheney のアルゴリズム」、「世代別回収法」、「Baker アルゴリズム」などが紹介される。

4. パイプライニングとスケジューリング
要するに、時分割並列処理を行うための仕掛け。あらゆるデータや命令セットを完全に平等に配置できれば、並列処理が効率的に分配でき、マルチコア環境をフル活用できるだろう。
だが、データも命令セットも、生存条件や処理順などの依存関係を持っている。データの先読みや先行処理を効率的にやるにしても、レジスタは有限だし、メモリも有限だ。メモリの多重構造までもプログラマに意識させるのも酷だし、キャッシュ構造も考慮したい。
おまけに、対象となる言語仕様との兼ね合いも絡むとなれば、コンパイラの仕事はますます増えるばかり。こうした事を意識せずにプログラムが書けるようになったのも、彼ら縁の下の力持ちのおかげ。ありがたや!ありがたや!