2026-09-20

"群衆の心理" Hermann Broch 著

本書は、自伝の形をとっている。それは、生きた時代を実直に物語ったもの。
ヘルマン・ブロッホの生きた時代とは、ヒトラーに象徴されるファシズムが台頭していく時代、群衆が熱狂していく中で世界が崩壊していく時代、宗教はもとより、形而上学も、哲学も、無力感に襲われる時代。こうした社会状況を「うつけた薄明状態」と形容する。まさに、人間社会は夢まぼろしのごとくなり!
ブロッホは、群衆狂気論をぶちまけながら、民主主義とは何かを問い、その在り方を問い、そもそも存続すべきかを問う...
尚、入野田真右、小崎順、小岸昭訳版(叢書・ウニベルシタス)を手に取る。

主な政体には、君主制、貴族制、民主制の三つがあり、現在、民主制が最善で君主制が最悪とされる。だが、アリストテレスは、むしろ君主制が最善で民主制こそが最悪というようなことを、弟子たちに漏らした。弁論術で荒稼ぎするソフィストどもが横行すれば、都市国家アテナイの有り様を嘆かずにはいられなかったのか。ヒトラー政権もまた、当時、最も民主的とされたワイマール共和国から生まれ出た。
君主制はすぐさま僭主制と化し、貴族制は最優秀者たちの統治から固定された階級による支配へと移行し、民主制もまた衆愚政治と化す。単独支配、少数支配、多数支配のいずれの形を取ろうと、人間の本性は相も変わらず怠惰と見える。

そもそも民主主義とは、それほど高尚なものなのか。民主主義と兄弟のように扱われる自由主義にせよ、これらと手を組む資本主義にせよ、柔軟性においては少しばかり有利であろうか。民主主義の抱える問題と社会主義や共産主義が抱える問題とでは、どちらが深刻かと問えば、やはり比較的マシであろう。ただ、全体主義のように強制されるべきものなのか...

「民主主義国家とは、常に妥協の産物!」
それは、公民権を認めること、人権を保証することに始まるという。
おそらく、完全な民主主義なるものは存在しないだろう。それは民主主義に限らないが...
民主主義ってやつは、基本原理は同じでも、その在り方となると実に多様。ホッブズやロックが唱えた自然権や自然法に立ち返り、常に見直してゆかねば... やはり怠惰な人間には辛い。民主主義とは、人類には高尚すぎる代物なのか...

ブロッホはユダヤ人を両親に持ち、ゲシュタポに逮捕され、辛うじてアメリカに亡命し生き延びた。彼は小説家としても知られ、読者に働きかけることによって、文学が歴史の流れを変えられるかと問い掛ける。だからといって、小説家に人類を救え!などとふっかける気にはなれない。
大衆が狂気を克服するとなると、昔から政治や報道の領域とされてきた。だが、それを率先して扇動するのも両者。となれば、頼みは個人か。それこそ民主主義というもの。しかし現在、ソーシャルメディアの肥大化によって、個々が扇動の渦に飲み込まれていく...

「あらゆる真理は合理的表現を取ろうとする傾向をもつ。」
非合理的表現は、何らかの隠蔽を意図しているという。
あらゆる集団活動が、何かを教化しようとする。しかも、無意識的に。人間精神の根底には、サディスティックな享楽とマゾヒスティックな享楽が錯綜する。反ユダヤ主義の集団ですら、自らの狂気を感じ取っているだろう。群衆の狂気と個人の狂気は本質的に違う。集団の中にあれば、たとえ違和感を覚えても同調圧力に屈し、迫害を見て見ぬふり、 犯罪の黙認。しかも、正義を掲げ、過剰攻撃は過剰充足に埋もれ、犯罪意識までも消し飛ぶ。これこそ群衆心理というものか...

人間ってやつは、狂気する動物である。自称平和主義者のおいらだって、スポーツ観戦では贔屓目のチームに熱狂するし、まずいプレーにはブーイングしちまう。これが国家レベルになっても、けして戦争には熱狂しない!などという自信はない。それだけ何かに縋り、依存せずにはいられないってことだ。自立もできていないのだから。それは、イデオロギーに縋り、ファシズムにのめり込むのと何が違うのだろう...

人間の優越欲は、如何ともしがたい。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体は、他との比較でしか自己を確認することができない。
となれば、人よりマシな立場を欲して止まない。民族優越主義、国家優越主義、イデオロギー優越主義など、すべてこの類い。
人間は自分の意見に承認欲求を抱き、同調意見によって強化する。人間は、同種で群れるのがお好き!その分、孤独を恐れる。孤独から逃れるために、陶酔感情と自我肥大といった幻覚作用を欲し、政治的な奴隷、経済的な奴隷、イデオロギー的な奴隷へと引きずり込まれる。質の高い目的意識がなければ、集団意識に簡単に飲み込まれちまう。
群衆に埋もれる方が楽か、孤立する方が楽か、どちらも大して変わらないような気もする。仮に孤独を克服できたとしても、それも一つのイデオロギーということになろう...

2026-09-13

"ロートレアモン全集" Isidore Lucien Ducasse 著

石井洋二郎氏のロートレアモン論(前記事)に触発され、彼の翻訳で「全集」を手に取る。
本書には、「マルドロールの歌(全六歌)」と「ポエジー(I, II)」が掲載される。前者が悪魔風なら、後者は誠実風。どちらも悪ふざけに見えるのは、読み手が天の邪鬼だからか...

悪の言葉にも有用なところがある。それを心得ていれば、戒めにもなろう。すべての欺瞞は善の言葉に始まり、悪用されればより厄介となる。イジドール・デュカスは、言葉の逆転現象を弄ぼうってか。
詩ともなれば、音調が整っているだけに真理めいたものを歌い上げる。そこに理屈はいらない。言葉は箴言となり、心の中にいつまでも響く。理屈を必要とする箴言は出来が悪い...

「箴言は証明されるのに真理を必要としない。推論は推論を要求する。箴言はもろもろの推論の全体を包括する法である。ある推論は箴言に近づくにつれて完璧になっていく。ひとたび箴言になると、その完璧さゆえに、それが変貌してきたことを示す数々の証拠は却下される。」

「マルドロールの歌」は、なるほど刊行を拒否されただけのことはある。
汚物にまみれ、精液をぶちまけるといった光景に、男根の奇形、膣のただれ、皮膚の腐食、梅毒みどろ... といった語のオンパレード。これで、狂信、熱狂、悪夢を歌い上げちまうグロテスクぶり。
「ロートレアモン伯爵」を名乗ったのも、変身願望の現れか。デュカスは伯爵の称号も持ち合わせていない。貴族階級への嫌味か...

「天に願わくは、どうか読者が蛮勇を奮い、ひとときは自分が読むものと同じく凶暴になって、方向を見失わず、これらの暗く毒に満ちたページの荒涼たる沼地を貫いてみずからの険しい未開の道を見出されんことを...」

一転して「ポエジー」は、希望、期待、平穏、幸福、義務を歌い上げる。
本名を名乗るのも、実は自分が誠実な人間とでも言いたいのか。「マルドロールの歌」の後では、こそばゆい!
人間を崇高で完全な存在として持ち上げ、宇宙を不完全な存在と蔑めば、詭弁のオンパレード。人間は悪を許容しない... 人間の魂に堕落はありえない... 人間の理性こそ宇宙で最も信頼に値する... などと、やはりこそばゆい!

「作者と読者のあいだには暗黙とは言えない約束事があって、それによって前者は病人と称し、後者を看病人として受け入れている。詩人のほうこそが人類を慰めるのだ!両者の役割は勝手に入れ替わっている。」

さらに、「ポエジーII」では、偉人たちの言葉を引用しながら、誠実風に書き換える。パスカル、ダンテ、ヴォーヴナルグ、シェイクスピア、ラ・ロシュフコーなど、彼らの言葉は皮肉ぶっているからこそ人間の本性を暴き、箴言や名言となる。
だが、この皮肉ぶりを誠実風に書き換えちまうと、すべてが色褪せ、言葉をのっぺらぼうにしちまう。いや、誠実ではなく誠実風であることが、逆に皮肉っぽくも、嫌味っぽくもなる。

例えば、パスカルが「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。だが、それは考える葦である。」としたのに対し、「人間は一本の樫である。自然にはこれ以上頑丈なものは見当たらない。」と人間を逞しい存在とし、「宇宙は何も知らない。それはせいぜい考える葦にすぎない。」と宇宙の存在を蔑む。パスカルのパロディ版か...

ラ・ロシュフコーが「正義への愛は、大半の人間にあっては不正に耐える恐れにすぎない。」としたのに対しては、「正義への愛は、大半の人間にあっては不正に耐える勇気」とし、人間の勇気、理性、正義といったものを持ち上げれば、やはりこそばゆい!

「詩についての判断は詩よりも価値が高い。それは詩の哲学である。このように把握された哲学は、詩を包含している。詩は哲学なしで済ませることはできまい。哲学は詩なしで済ませることができる。」

「マルドロールの歌」によれば、人間は悪魔の化身。「ポエジー」によれば、人間はいずれ神に昇華する存在。悪魔も神も似たりよったり、いずれも人間の創造物に過ぎない。誰しも、地獄より天国がお好き。その影で創造主の代弁者どもが、免罪符をちらつかせて盲信者を募り、ふんずりかえってやがる。
人間の尊厳なんぞクソくらえ!人間ってやつは、喰って排泄するだけの熱機関に過ぎない。希望も、絶望も、クソ喰らえ!

「絶望は、偏見をもっておのれの幻影を喰らいながら、物書きが神と社会の掟を大量に廃棄し、理論的にも実践的にも邪悪になるように、淡々と導いていく。ひとことでいえば、人間の尻を推論において最も優先させるのだ。おっと、こんな言葉遣いをお許しあれ!繰り返しておくが、人は邪悪になる。そして眼は死刑囚の色合いを帯びるのだ。」

2026-09-06

"ロートレアモン 越境と創造" 石井洋二郎 著

ロートレアモンとは、どんな人物か。フランスの詩人でアルチュール・ランボーと並び称されるそうな。どんな人間にも、その生き様には生きた時代と生きた土地が刻印される。芸術家ならば尚更。但し、その名声が死後に訪れることはよくあること。今、「ロートレアモン全集」へ向かう衝動は抑えられそうにない。著者石井洋二郎氏の翻訳で...

本名イジドール・デュカス。彼は、フランス人の移民を両親に持ち、南米の都市モンテビデオに生まれたという。13歳で大西洋を渡り、両親の故郷フランス南西部のタルブとボーで学び、南米への一時帰国を経て、21歳でパリへ上京。大都会の地に立って「マルドロールの歌」を匿名で発表したとか。
そして、その完全版をロートレアモン伯爵の名で出版しようとするも、24歳の若さで謎の死を遂げる。彼の人生は、国家の越境に留まらず、言語的にも文化的にも越境に彩られたものだったという。
越境に創造を掻き立てるものがあるのか。思えば、人生とは、何かを乗り越えることの連続。本書に「越境 = 創造」という図式を見て取る...

デュカスの代表作に、「マルドロールの歌」と「ポエジー」の二つが挙げられるらしい。前者はロートレアモン伯爵の名で、後者は実名で発表されたという。
「マルドロールの歌」には、標準的なフランス語から逸脱した奇妙な言い回しや変則的な破格構文が散見されるとか。フランス語とスペイン語の混在とするのが合理的な見方だが、バイリンガルだからこそ、どちらも完璧な言語になりえない。そもそも完璧な言語なんてありえるのか。あまり完璧な言い回しを求めると、芸術性そのものが損なわれる。
作風では、皮肉を超越した悪魔じみたものがあるらしい。わざとらしい善行、幼稚な思い上がり、滑稽な風潮を攻撃し、憂鬱、悲嘆、苦悩、絶望、沈痛なうめきを歌い上げる。ダンテが天国への道を、地獄や煉獄から導いたように。斯くして、残虐な暴力が炸裂する悪夢さながらの光景とは。デュカスは、不可解主義哲学者と称号されとか。そして、こう書簡したという...

「私はミツキェヴィチ、バイロン、ミルトン、サウジー、A・ド・ミュッセ、ボードレール、等々がしたのと同じく、悪を歌いました。もちろん、いささか調子を誇張しましたが、それというのも、もっぱら読者を打ちのめしてその治療薬として善を欲するよう仕向けるために絶望を歌いあげる、あの崇高な文学の方向性に沿って、新たなものを生み出そうとしてのことでした...」

人間ってやつは、自分を誤魔化しながら、自己完結的に生きているところがある。真理だけでは心もとない。詭弁や欺瞞にも頼らなければ、現実を生きてゆくのは難しい。経験を積み、歳を重ねるほど...

「私は置き換える、憂鬱を勇気に、疑惑を確信に、絶望を希望に、悪意を善に、不平を義務に、懐疑を信仰に、もろもろの詭弁を平静な冷徹さに、そして傲慢さを謙虚さに...」

一連の二項対立は、官能ロマン主義の遺産か。悪を善にすり替えられるなら、なんでも正当化できる。いや、いつも悪は善を装い、いつも両者は結びついてきたではないか。もはや真理は存在しないのか。いや、永遠に到達できないからこそ崇高となる。二項対立間での越境は危険だ!対立すべく意識が同化していくと、自己存在すら曖昧になっていき、自己同一性が危機にさらされる。まさに、現代病そのものだ!

ところで、「ロートレアモン伯爵」という名は、どこからくるのだろう...
一般的な説によると、大衆小説家ウジェーヌ・シューの小説『ラトレオモン』に由来するそうな。ラトレオモンは架空の人物ではなく、17世紀に実在した騎士だとか。黒馬にまたがる大男で、野性的なイメージ。
ただ、伯爵の称号は持っていない。ラトレオモン伯爵を名乗るつもりが、表紙の誤植でロートレアモン伯爵になってしまったという説もあるとか。デュカスも伯爵の称号を持っていない。貴族という身分への越境か。尤も、人間には変身願望なるものがある。自分の生きる世界とは違う人間になりすまそうと、別人への越境を目論んだのか。そうでないと詩人になるのも難しいのか...

2026-08-30

" 「シュレーディンガーの猫」のパラドックスが解けた!" 古澤明 著

これも、ブルーバックスの一冊。
前々記事「量子テレポーテーション」、前記事「量子もつれとは何か」、そして、本書の三部作で一つの物語を成す。それは、存在の本質をめぐる物語である...

「シュレーディンガーの猫」とは、波動方程式の解釈をめぐって提起されたパラドックス。
まず、密閉した箱の中に、一匹の猫と放射性元素を入れる。放射性元素は、崩壊すると放射線が放出されて有毒ガスの入った瓶がわれ、そのために猫が死ぬという仕掛け。崩壊しなければ、猫は生きている。その確率、50%!
おまけに、放射性元素がいつ崩壊するかは予測不能の上に、観測不可能ときた。

科学には観測の哲学がある。まずは観ること!この客観的な姿勢こそが科学に意義を与える。
しかしながら、量子力学には、観測哲学を覆す呪われた法則がある。不確定性原理は告げる。一つの量子の位置と運動量を同時に決定することは不可能である... と。量子の世界では、共役となる物理量を同時に正確に観測させてはくれないのである。
となれば、統計的に、確率的に捉えるしかないのか。そこで、重ね合わせという裏技である。

これがパラドックスとされる所以は、量子力学に支配される放射性元素の状態と、ニュートン力学で説明できる猫の状態を関連づけていることにある。量子力学では、量子の状態を重ね合わせで捉える。放射性元素を重ね合わせで捉えるならば、猫の生死も同じように重ね合わせで考えなければ...

|猫の状態⟩
= |放射性元素が崩壊しておらず猫が生きている⟩ + |放射性元素が崩壊し猫が死んでいる⟩
= |放射性元素が崩壊していない⟩|猫が生きている⟩ + |放射性元素が崩壊している⟩|猫が死んでいる⟩

また、量子には粒子と波動の二重性がある。粒子として捉えることができなければ、波動として捉える。ド・ブロイ波とも呼ばれる物質波を記述したのが、シュレーディンガー方程式である。
通常の波は重なり合うと位相で相殺され、例えば、sin 波と cos 波が重なると波は消滅する。
だが、量子の世界は違うらしい。それぞれの位相を保ちながら重なり合うというのだから。しかも、一つの量子で観測不可能であったものが、二つであれば、相対的にまたがった物理量とすることができるという。一つの量子についての位置と運動量が、二つの量子についての相対位置と運動量の和として。
そして、猫の生死は、プラス位相とマイナス位相の二つの状態と見ることができるってさ...

ここでは、量子の状態を電場のイメージで描写し、「スクイーズド状態」で物語ってくれる。「スクイーズ」とは、「絞った」といった意味で、相対的にペアとなる位相と変位の関係は、雑巾を絞ったような波形になるという。
量子力学では、位相のずれに関わるものとして、干渉の度合いを表す「コヒーレンス」という用語を見かけるが、位相が揃うと振幅は増幅され、位相のずれが大きいほど個々で位相を保ったまま共存できるというのか。猫の生死は、まさに正反対の状態で位相が 180 度ずれた状態というのか。
しかし、これは波動として見るからであって、粒子として見ればありえない。今、シュレーディンガーの猫が、アリス物語のチェシャ猫に見えてくる。いや、人間が認識できるすべての存在が、そうしたものやもしれん...

ところで、量子力学には、二つの大きな流れがある。波動力学と行列力学である。本書でも、シュレーディンガー描像とハイゼンベルク描像の違いに言及してくれる。シュレーディンガー描像は状態が主役で、ハイゼンベルク描像は物理量が主役である... と。
普通の波では「振幅の 2 乗 = エネルギー」となるが、波動関数では「波動関数の 2 乗 = 量子の存在確率」になるという。
とはいえ、確率分布にせよ、物理量にせよ、ばらつきがあることに変わりはない。量子の重ね合わせは、振幅のような物理量の重ね合わせや波の干渉とは本質的に違う。
結局、量子を集合体として捉え、平均値や期待値といった統計的な情報、あるいは確率論が頼りか。
かの物理学者は、神はサイコロを振らない!と言ったが、どうやら神はギャンブル好きらしい...

2026-08-23

"量子もつれとは何か" 古澤明 著

前記事「量子テレポーテーション」では、量子力学を理解するためのキーワードに「量子の重ね合わせ」,「波束の収縮」,「量子エンタングルメント(もつれ)」の三つを挙げてくれた。本書は、その補足版といった位置づけで、「量子もつれ」に絞って物語ってくれる。

量子の世界には、呪われた法則がある。不確定性原理ってヤツが...
一つの量子の位置と運動量を同時に決定することは不可能!つまり、共役となる物理量を同時に正確に測定することはできないというのである。物理学は、現象をモデル化し、理論式で記述し、それを実験で検証する学問。実験の場で正確に測定できないとすれば、もはやお手上げか...
いや、量子ってヤツは、一つを相手にすると厄介な存在だが、複数まとめて相手にすると、呪われた法則をかいくぐることができるらしい。「量子もつれ」という裏技で...

ヒントとなるのは、「EPR パラドックス」という思考実験。それは、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンが、量子力学に突きつけた問題である。この思考実験には、二つの量子が登場する。二つの量子が絡むと、片方の量子の位置ともう片方の量子の運動量、もっと正確には、二つの量子の相対位置と運動量の和が決定できる場合があるというのだ。このような状態にある量子、あるいは量子系を「EPR ペア」と呼ぶそうな。

本書では、EPR ペアの生成実験が紹介され、光子が主役を演じる。量子力学の中で光を研究する立場に、量子光学という研究分野があり、量子の特性は粒子性と波動性を併せ持つとされる。ただ、電子や原子核といったものには質量があるが、光子には質量がない。実体がないのに、粒子性とはこれいかに!?
そこで助言をいただく。量子の世界で考察する時は波動性に着目し、粒子性はおまけ!ぐらいでいい... と。とはいえ、数式で表すと、粒子っぽい!だから、粒子ではなく、粒子性というわけだ。
ちなみに、二つの光ビーム(A, B)がエンタングルした状態の一例は、こんな感じ...

  1/(2√2) [(|0⟩A + |1⟩A)(|0⟩B + |1⟩B
   + (|0⟩A - |1⟩A)(|0⟩B - |1⟩B)]
   
波の現象は、振幅と周波数という二つの物理量で決定できる。そこで、AM 変調や FM 変調といった電気回路と対比させながら、光子のゆらきをイメージさせてくれる。違いは、電気回路で扱う周波数が百ギガヘルツ程度であるのに対し、光の周波数が数百テラヘルツと途轍もなく高いこと。これこそが大きな障壁なのだけど...

おまけに、光波は多くの光子が束になった状態で、個々の位相が特定できない。量子力学では、位相のずれに関わるものとして、干渉の度合いを表す「コヒーレンス」という用語を見かけるが、ここでは、位相をいかに揃えられるかという問題を突きつける。
ちなみに、位相が揃った状態を「位相整合」と呼ぶそうな。そして、干渉のしやすさから「スクイーズド光」というものを持ち出す。位相が揃うと振幅は増幅され、位相のずれが大きいほど個々で位相を保ったまま共存できるという特性があるらしい。通常の波は、位相がずれれば相殺されるが...
ちなみに、スクイーズドとは、ゆらぎを圧搾する、といった意味だとか。

また、ハーフビームスプリッターに光子を反射させる実験も、にわかに信じがたい!スプリッター面に対して、二つの光子をそれぞれ両面から同時に入射すると、それぞれの面で反射しそうなものだが、片側に両方の光子が出力され、もう片側には出力されないという。そればかりか、それぞれの面で生じる現象が重ね合わせの状態になるというのだ。二つの光子が互いに干渉しあって、片面に引き寄せられる現象は、波動性の特徴を表している。両面で生じる現象が重ね合わせの状態!?
これを受け入れられるなら、シュレーディンガーの猫が生と死で共存するようなことも、イメージできなくはない。いや、量子光学のトリックか...

「波束の収縮」という現象も気味が悪い!ばらばらに存在する重ね合わせの状態に、第三者が関与すると、ある状態に収縮しちまうというのだから...
しかも、遠隔操作のような作用も働くという。空間的に離れた二つの量子に対して、片方への観測の影響が、もう片方にも及ぶ、そのような量子ペアが存在するというのだ。かの物理学者が、不気味な遠隔作用とつぶやいたのも頷ける。

さらに、二つの量子エンタングルメントを拡張して、多量子間エンタングルメントや量子エラーコレクションにも言及される。
多量子間エンタングルメントでは、与えられた量子系の数が決められ、その構成図はそのまま量子コンピュータの実装イメージを与えてくれる。これにエラーコレクションが加われば、雑音源を加味したシャノンの通信モデルと重なる。どんな通信路にもノイズはつきものだが、量子の世界でのノイズとは、不確定性のことか...

「多量子間エンタングルメントこそが、量子コンピュータの本質であり、量子コンピュータが現在のコンピュータより高速になる拠り所である。」

そして、帰結は...
すべての元凶は、まったく不条理なもつれに発するのか。それは非局所的な相関関係で、一度でも関係を持っちまうと、離れていても付き纏われるというのか。
対象となる量子状態に、入力の量子状態をぶつけることで、出力の量子状態を炙り出す。これで、入力との関係が成立しちまう。関係を持ったからといって、相手が思い通りになるかは知らんが...
どうりで無数の量子で構成される人間が、いつまでも痴情のもつれに付き纏われるわけだ。量子の腐れ縁に、乾杯!

2026-08-16

"量子テレポーテーション" 古澤明 著

久しぶりにブルーバックスを一冊...
おいらが美少年だった時代、ブルーバックス教の信者であった。だが、脂ぎっちまった今、純真な好奇心の傾け方を思い出せずにいる。
このシリーズの魅力は、なんといっても分かった気にさせてくれること。分かった気になるということが、いかに幸せであるか。同時に、いかに危険であるか。
ある物理学者は言い放った。「量子力学がわかったと思ったら、それは量子力学を理解していない証拠である」と...

テレポーテーションといえば、SF で登場する瞬間移動のイメージ。時間を超える、光速を超えるといった...
しかしながら、量子テレポーテーションでは、そんな突飛な現象は登場しない。量子を相手取る時点で突飛ではあるのだけど。それは、電気が発見された時代と似た感覚であろうか。
ちなみに、ヴィクトリア女王時代、マイケル・ファラデーは首相から電気なるものに現実的な意義があるのかと尋ねられると、これに税金をかけることになるでしょう... と答えたと伝えられる。

量子の世界は、ニュートン力学では説明のつかない世界。その存在については、シュレーディンガーの猫や EPR(Einstein–Podolsky–Rosen)パラドックスといった思考実験で論じられる。だが、物理学はあくまでも実証学問!実証できなければ、単なる仮説に終わる。かのニュートン卿も、仮説嫌いで知られている...

不確定性原理は告げる。一つの量子の位置と運動量を同時に正確に測定することは不可能である... と。
測定するということは、対象とする物理現象とは別の物理現象、すなわち、観測過程が加わることになる。量子状態は、観測者という第三者が関与すると簡単に壊れてしまう。この法則こそ、量子力学を決定付けるエッセンスとなる。
状態が正確に把握できないものを、技術的にどう利用しようというのか。ましてや量子コンピュータなんぞ、夢のまた夢か!
なぁ~に、心配はいらない。完全に存在を定義できなくても、なんとなく存在するというだけで十分利用価値はある。量子の存在を定義づけるものは、スピンの状態などの量子情報や量子状態。ここで、存在感を示す物理量にエネルギーってやつがある。質量が定義できる世界では、あの有名な公式が幅を利かせる。

  E= mc2

では、質量が定義できない世界ではどうであろう。それは、プランク定数 h と光の周波数 ν で記述される。

  E = hν

量子状態を量子エネルギーの塊として捉えれば、それが不確定性原理を克服するエッセンスとなるだろうか。
今日、世界を席巻するデジタルシステムにしても、完全に制御できているわけではない。電流制御によって成り立っているものの、電子の個々を制御できているわけでもなく、統計的な制御に頼っている。それを支えているのが、エラーコレクション、すなわち誤り訂正機構である。どんな通信路にもノイズはつきもので、シャノンの通信モデルにも雑音源が考慮されている。
量子状態においても、量子の個々を相手取るのではなく、集合体として捉えれば、確率分布として扱うことはできそうか...

人間社会の統治でも、個々の人間を把握する必要はない。個人が持つ価値観、倫理観、世界観... などというものはあまりに多様性に富み、すべてを考慮することは不可能である。それでも、大衆の意志なるものを傾向として把握することは可能である。それは多数決的で、妥協点の模索でもある。
その意味で、量子力学は社会学的とも、統計学的とも言えそうか。少なくとも、無数の量子の塊で構成される人間よりも、個々の素朴な量子の方が扱いやすいし、集合論的な見方もできよう。集合論で扱えれば、数学が強力な武器となる。
そして、誤り訂正能力に持ち込めるほどの状態確率が担保できれば、量子コンピュータも夢ではなくなる...

ところで、人間の存在を定義づけるものとはなんであろう。肉体を感じ取る五感の存在か、精神の存在か、感情の存在か... などと並び立てたところで、そんなものが正確に把握できるわけではあるまい。そもそも、人間は本当の自分自身を知らずにいる。いや、知らぬが仏か!エネルギーを通して存在を感じているとすれば、霊感と何が違うのだろう...

本書は、量子テレポーテーションの理解のためのキーワードに、「量子の重ね合わせ」,「波束の収縮」,「量子エンタングルメント(もつれ)」の三つを挙げる。
多数の重ね合わせた状態を一つの運動量と見なすのはいいが、それでも個体群で捉えることが困難であることに変わりはない。そこで、量子には粒子性と波動性がある。粒子群で捉えられなくても、波束で捉えることは可能か。位相群にしてもエネルギー分布として捉えるならば、振幅で捉えることはできそうか。
数学的には、確率振幅というやつが有効だという。それを自乗すると存在確率になるというのだから。ここでは、光子の事例でその存在を物語ってくれる。光だって電磁波の一種に過ぎない。人間の目に見えるというだけで、とびっきりな存在とされるだけのこと...

「正しい量子力学の理解のために、あえて最も難しい例を挙げる。それは、時間的に長い波束、つまり、ほとんど波として振る舞う場合でも、光子を考えることができるという、我々の常識からは想像できない例である(これが真の量子力学である)。これが理解できれば(慣れてしまえば)、怖いものなし!光子というのはエネルギーが定まった状態であり、位相の情報を失った波の状態と考えるのが正しい。ここで、エネルギーとは波の振幅の自乗に相当する。」

2026-08-09

"人生について - 日記抄" Henri Frédéric Amiel 著

前記事にて、アンリ・フレデリック・アミエルの大作「日記」(全四巻)を味わった。その余韻に浸り、抄本版を手に取る。河野與一訳(岩波文庫)から土居寛之訳(白水社)へ、翻訳者が違うのも、なかなか乙。
哲学者とは、世界中が酔いしれる中で、ただ一人さめている人をいうらしい...

アミエルは自我を取り戻すために、苦悩、義務、意志が必要だと自分自身に言い聞かすように綴る。自我と非自我、汎神論と有神論、スピノザとライプニッツの狭間で動揺しつつ、精神のゆらぎを受け入れようともがく。人生とは、善と悪の糸が複雑に絡まった織り物。万能の神に創造できぬものはない。だから、悪魔をもつくるのか。ここに、諦めの哲学を見る。なすがままに... ありのままに... 死に方は選べない。アーメン!

「生きてゆくためには、習慣は格言以上の働きをするものである。習慣は本能となり肉となった生きた格言であるからだ。自分の格言を改めるだけでは何にもならない。それは本の表題を変えるようなものだ。新しい習慣をつけるということがすべてである。なぜならばそれではじめてほんとうの生活へと到達することになるからだ。人生は習慣の織り物にほかならない。」

生きる上で、不動の一点を見つけることは至難の業。アミエルは、自由こそが最も固執する情念としながら、自由そのものに確信が持てずにいる。人生とは、諦めてゆくことへの修行。希望、所有、能力の限界を知り、多くの自由が削られていくことに耐える場。そうした受容の場で、自ら意志が欠けていることを嘆き、心の落ち着きを絶望に求め、孤独に自己の居場所を定める。そして、義務が自我を肥大化させ、使命が自我を膨張させていく自分自身に、運命を甘受せよ!と説く。厭世家の遠吠えのごとく...

彼は、日記に孤独者の打ち明け相手を求め、慰め相手を求め、自我の肖像が変化していくのを感じ取る。変身願望がそうさせるのか。生きる覚悟は、死ぬ覚悟と同じこと。いや、死ぬことよりも、老いてゆくことの方が難しい。人に読まれるために書くのではない。自我の救済者は、なにも人間である必要はない。過去を回想して未来への道しるべとし、自らを極楽浄土へ導くために。そして、日記は人生の清算書となる...

「人間がほんとうに人間であればあるほど、人間は孤立する。物を見通す力と善意とを増せば増すほど、同類が少なくなってくる。もし人間が完全なものになれば、それはたった一つの見本になることだろう。そういうわけで、優秀な性質は人間を孤立させ、その環境や一般人や大衆から引き離す。」

健全な懐疑心を保ち、啓発した利己心を実践することは難しい。それを、哲学とやらが手助けしてくれる。不機嫌を克服するためには、まず謙虚な気持ちになることだという。自分の弱点を知っていて、それを指摘されたからといって、なにゆえ怒る必要あるか... と。次に反省すること。結局、人はあるがままの存在でしかない... と。

「哲学とは、精神の完全な自由である。したがって、宗教的、政治的ないしは社会的なあらゆる偏見から独立することである。哲学はその出発点においては、キリスト教的でも異教徒的でもなく、君主的でも民主的でもなく、社会主義的でも個人主義的でもない。哲学は批判的であり公平である。哲学は一つのことしか愛していない。それは真理である。」

批評は、一つの芸術だという。それは、天賦、機知、鑑識力、直感である...と。それは教えられるものでも、論証されるものでもない... と。それは、偽りや改竄を見抜く能力によって支えられる... と。人が生きていく上では、自己批評もまた教訓となる。その率直な意志を自然の風景と同化することができれば、おいらでも詩人になれるだろうか...

「芸術は、自然のはっきりしない思想を浮き彫りにすることにほかならない。それは多くの線の単純化であり、目に見えない群れを外に引き出してくることである。霊感の火は感応インキで書かれたデッサンを浮かび上がらせる。神秘なものが明瞭になり、雑然としたものが明らかになり、複雑なものが簡単になり、偶然のものが必然になる。要するに、芸術は自然の意図を翻訳し、その意志(理想)を言いあらわすことによって、自然の正体を明らかにする。」

2026-08-02

"アミエルの日記(全四冊)" Henri Frédéric Amiel 著

アンリ・フレデリック・アミエルとえいば、やはり「日記」であろうか。しかし、これは日記というより告白の書、いや、彷徨の書と言うべきか。かの小説家の如く、ぼんやりとした不安を漏らしつつも、空虚な盲目の鬼ごっこ... 意地悪な運命の隠れんぼ... でもやっているかのようで、箴言めいた文句を鏤める。
尚、河野與一訳版(岩波文庫)を手に取る。

「結論。日記は講義の準備でもなく構想の稽古でもない。それは話すことも書くことも筋道と方法を立てて考えることも教えない。それは心理的な寛ろぎ、休養、食道楽、無駄な活動、仕事の見せ掛けである。」

丸一日をバイロンに捧げては、ドン・ファンを読み、カインを読み、ゲーテに捧げてはファウストに耽り、なお陰湿な世界から逃れられず、ヘーゲルやショーペンハウアーを試みるも、一向に視界は開けず、挙げ句にダンテの煉獄に縋り、バルザックに、ディケンズに、ヴォルテールに身を委ねるも... 荒涼たる悲観論の中に自我を埋没させていく。キリストのドグマでさえ自己のエゴイズムに染まっていくとすれば、人間とは絶滅に値する存在か。エホバの従僕の叫びが聞こえてきそうな、いや、メフィストの囁きが...

アミエルは、いまだ真の献身、真の信仰ができずにいると自戒する。あらゆる成功に嫉妬し、社会に反抗心を抱き、人から受けた好意や人の名誉を認めようとしない自分がいる、と...
鎮めることのできない虚栄心、想像力を欠く利己心、これらを日記の題材にすることで、自己を救おうというのか。日記を芸術作品に仕立て上げ、自我を芸術の中に埋没させることで、自己を救おうというのか。
自我を非我の如く冷静に観察せよ!と自らを説き、幸福とは満足すること、真の謙遜は満足すること、心の平静は満足により... とするも、自分の記憶力と知力の限界を測り、自己の無力さを悟る。
それで、自己否定に満足を見るのも、自己肥大より、自己欺瞞よりましか。突き詰めれば、悲観論は楽観論に通ずるらしい...

精神を事物に屈服させ、人間から人格を奪うこと、これが現代社会の傾向だという。それは、デカルトの二元論に発する、と...
自由と平等、どちらが実現しやすいであろう。平等は、権威主義でも、共産主義でも、ある程度強いることができるし、宗教とて服従の下で成り立つ。対して、自由は、現実的に自由な個人のいない個人主義ということになるらしい。
それでも自由に帰依し、自発的な服従はできる。真の自由を得るには、何に服従すればいいのか。健全な懐疑心をともない... 啓発された利己心を少しばかりともない... やはり自由の実践は難しい。
せめてもの慰めに、格言めいた言葉をいくつか拾ってみる。その日の気分によって拾う言葉も違ってくるのだけど...

「虚世の途に於て習慣は格言にまさる。習慣は、生きた格言が本能となり肉となったものである。格言を改めるということは何にもならない。本の標題を変えただけのことである。新な習慣を採るということが肝腎である。それは生活の実体に立ち入ることになる。生活は習慣の織物に他ならない。」

「狂気とは何であるか。錯覚の自乗である。常識は、事物と人間と常識自身の間に規則的な関係、生き方を設定して、安定した真理、永遠な事実に触れているという錯覚を持つ。」

「人間が本当に人間であればある程、孤立して来る。明瞭と善意を増せば増す程、同類が少なくなる。もしも完全なものになるとすれば、唯一しかない実例になるだろう。その意味で、優秀な性質は人間の周りに空虚を作り、その人間をその環境、卑俗、多数から分離する。幸いにして慈愛はその人間に深淵を再び跨がせる。」

「教育は目的を変えないにしても方法を変える。努力による満足の次に、忍耐による満足が来る。いずれにしても満足していろ。平静にしていろ。それが一番強い力だ。」

「革命とは何か。自分の旗に記した或る主義の名に於て権力の把握に成功した、暴徒のことである。」

「自殺の本能は私にあっては保存の本能と同一なものになっている。」

「どっちが偉大か、モーツァルトかベートーヴェンか。無益な問である。一方は完成していて他方は巨大なのである。前者は完全な芸術の平和、美であり、後者は崇高、恐怖と憐憫、立奏して味わう美である。」

「愚人を相手にする態度ほど人柄を表わすものはない。」

「誠意は、今でも遍く守られている徳である。その結果、嘲弄するものに対しては立腹し、器用な人間に対しては不器用さを示し、狡猾な人間に対しては反感を抱き、上品な趣味に対しては素朴な感嘆を発し、且つ高雅な身振をぎこちなく誇張する。」

「老いることを心得るのは、叡智の傑作であり、偉大な生活術の最も困難な部門の一つである。」

2026-07-26

"断絶の時代" Peter F. Drucker 著

1960年代末、かの P. F.ドラッカーは、知識社会の到来、知識労働者の興隆、情報社会の高度化、グローバル経済の出現といった大変革からもたらされる未来像を描いて魅せる。それは、来るべくして来る断絶の時代か...
尚、上田惇生訳版(ダイヤモンド社)を手に取る。

「手動のトロッコは、ゲリラ戦で活躍する。後続の列車のために、レール下の地雷を見つける。本書は、このトロッコである。未来はゲリラ戦である。予期せぬことが脱線の原因となる。本書は、そうならないための警報を発する。まだよく見えないいくつかの断絶が、政治と経済と社会を変えつつあることを、いち早く知らせるために...」

断絶は、主に四つの分野に見られるという。
一つは、新技術や新産業の出現。同時に、今日の重要産業や大事業が陳腐化する。
二つは、グローバル経済の到来。今日でもなお、エリート官僚たちが打ち出す経済政策は、主権国家を単位に言語、法律、イデオロギーといったものを前提にしている。だが、来るべく経済社会は、そんな枠組みの意味をなくすであろうと...
三つは、社会と政治の多元化。現実を支配しているのは中央集権だが、この最大の組織である政府に幻滅が広がり、その能力が疑問視されると...
四つは、これが最も重要なこととして、知識の性格の変化。すでに知識は、資本、費用、資源など様々な意味を含んでいる。労働と仕事、学ぶことと教えること、知識の本質と使い方は変化していき、権力者の知識ある責任が新たな問題になると...
いずれも、21世紀の今、目の当たりにしているところ...

「本書は趨勢を予測しない。非連続の断絶を見る。明日を予測しない。今日を見る。明日はどうなるかを問わない。明日のために今日いかに取り組むかを問う。」

高度な情報テクノロジーが、誰にでも情報や知識を手に入れる機会を与えてくれる。となれば、あとは個人の問題。意欲ある者は、ますます知識を得、偏狭な者はますます偏狭になり、意識格差を増幅させていく。その結果、意識の多元化とはほど遠い、二極化が進む。最も深刻な格差問題は、経済格差よりもこの意識格差であろうか。最も重要なこととして四つ目に挙げている知識の性格の変化は、これに当たるのやもしれん...

発明の時代から起業家の時代を得て、創造する能力が問われる時代、組織のあり方が問われ、マネジメントのあり方が問われ、個人のあり方が問われる。科学や技術のダイナミクス、市場やイノベーションのダイナミクス、そして人間のダイナミックス、ますます知の用い方が問われていく。そうした中でドラッカーは、組織の病や政府の病を指摘する。
まず、組織リーダの責務として、社会に敏感であることと...

「組織とは、自らのために存在するのではない。組織は手段である。それぞれが、それぞれの社会的な課題を担う社会のための機関である。生き物のように自らの生存そのものを至上の目的とすることはできない。組織の目的は、社会に対するなんらかの貢献である。その行動の評価基準は、生き物とは違い、自らの外部にある。」

次に、マクロ経済に特化した近代経済学に苦言を呈す。経済発展の理論でイノベーションを強調したシュンペーター以降、進展が見られないと...
多元化社会では善玉も悪玉も必要だという。いや、善玉の越権行為の方がはるかに危険か。民主主義国家のあり方を再確認するには、権威主義国家や共産主義国家の存在にも、それなりに意味があるのやもしれん。
政治学には、「統治のくもの巣」なる言葉があるらしい。本書は政治の実態をフェルト化現象で説明する。

「歴史上、今日ほど政府が突出した存在になったことはない。1900年頃の最も独裁的な政府さえ、今日最も自由な国において税務署が日常行っているほどには、市民のプライバシーに踏みこまなかった。ツァーの秘密警察さえ、今日当然とされているほどの公安調査は行わなかった。1900年頃のいかなる官僚も、今日政府が企業、大学、個人に記入させているほどの数字の詳細は求めなかった。しかも政府は、あらゆる国において、最大の雇用主となっている。そして政府は、あらゆるところへ進出している。しかし、それは本当に強力なのか。たんに太って巨大になっただけ... まったくのところ、政府は病んでいる... この政府への幻滅こそ、今日の最も深刻な断絶である。」

組織や政府が当てにならないとすれば、あとは個人のあり方が問われる。一流の人材を育てるには、できるだけ多くの人間に教育を与えることだという。イタリアのルネサンスしかり、日本の桃山時代しかり、オランダのレンブラントやルーベンスの時代しかり... と。
大学は多様な人材を必要とする。博士号を重視し、狭い専門分野を研究することは、知識をないがしろにするという。そのような種類の人間も必要だが、それぞれの分野に少しいればいいと。
多様な人材という意味では、アメリカにその強みがあったが、本書が刊行された時代に知の流出に警鐘を鳴らし、マネジメントの必要性を強調する。それは、組織のマネジメントばかりか、個人のマネジメントも含まれる。
しかしながら、個人は集団の中に埋もれ、ソーシャルメディアに埋もれていく...

「権力を馬鹿にすれば、悪用される。組織の力は使わなければならない。それは現実の存在である。理想をもつ者がどぶに捨てれば、どぶさらいがそれを拾う。教育ある有能な者が責任をもって使わなければ、無能で無責任な者がその座に座り、権力を振るう。社会的な目的に使わなければ、自らの目的に使う者の手に渡る。せいぜいのところ、自らの臆病さのゆえに専制者となる者の手に渡るだけである。」

2026-07-19

"道徳感情論(上/下)" Adam Smith 著

「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても...」
こう書き下ろすアダム・スミス。経済学の父と呼ばれる彼は、人間の本質に身を委ねる意義や自由な経済活動の意味といったものを論じて魅せる。
尚、水田洋訳版(岩波文庫)を手に取る。

後に、自由放任主義の礎となり、レッセフェール!や、神の見えざる手!といったスローガンに結びつけられるものの、そうした風潮に反発するかのように、自由で平等な個人の平和的共存は可能か、それは権力の介入なしにいかに可能か、と問いかける。そして、いかに利己的な人間であろうと、その根底に道徳原理があるからこそ... 自由とは、自己抑制の能力との調和においてこそ,,, と説く。伝統的な哲学の問題に、人間は生まれつき善か悪か、というのがあるが、スミスもまたそれを問うかのように...

人間が人間足るとは、どういうことか。道徳ってやつは上から目線で論じられるところがあるが、それほど高貴なものなのか。不遇が人を冷徹にするところもあるが、幸せすぎることが人を残酷にするところもある。平和的共存ってやつは、社会の中でしか生きられない個人の集まりから自発的に、しかも自然に築かれるものなのか。それは普遍原理と呼べるものなのか...

スミスの道徳感情論は、経済理論との間で利他心と利己心の狭間をさまようかのように記述される。自由放任主義を唱えれば、欲望を解き放つ議論になりかねないし、現在でも、経済学を学ぶと利己的になる... といった意見を耳にする。欲望のあり方を論じれば野心を増幅させ、どこかで歯止めが必要となる。それを、スミスは自己規制の原理として語る。同感や共感といった利他的情念が、義務の観念を呼び、正義の観念を呼び覚ますと...

古くから、徳は愛に発するとする考えがある。しかしながら、自愛心は利己心と矛盾しない。人のすべての情念が自己愛と結びつくのも事実。人は自己を愛されることを強く望む。
となれば、徳はいかに可能であろうか。知識によるか、忍耐によるか、慣行によるか、自己犠牲によるか、様々な要因や条件が考えられるが、徳や知恵も、悪徳や愚行も、人間が自然に具える本性。人間には、最高善に従おうとする意志が本能的に備わっているようでもある。
だが、善にも、悪にも、あらゆる人間の情念が暴走する可能性を秘めている。行き過ぎた道徳感情が、社会に害をなすこともあれば、行き過ぎた正義や行き過ぎた義務が、個人を追い詰めることもある。

スミスが生きた時代、封建的な道徳観念を批判し、個人の尊厳を唱えることの意味は大きい。同感、共感といった情念を、商品と同じように交換する議論。そこに正義や義務の概念を絡ませ。正義とは、互いの自由を侵害しない、等価の交換価値をいい、この点において経済活動と道徳感情を結びつける。

それにしても、言葉の扱いは難しい。道徳感情を経済学的な交換価値の一つとして捉えれば、道徳そのものが陳腐なものに見えてくるし、経済学用語が人間の本質を陳腐なものに見せちまう。
だが同時に、主観的な感情論から距離を置き、客観的な視点を与えるという見方もできる。本書に、価値交換の原点と自由主義の原点を見る思い...