石井洋二郎氏のロートレアモン論(前記事)に触発され、彼の翻訳で「全集」を手に取る。
本書には、「マルドロールの歌(全六歌)」と「ポエジー(I, II)」が掲載される。前者が悪魔風なら、後者は誠実風。どちらも悪ふざけに見えるのは、読み手が天の邪鬼だからか...
悪の言葉にも有用なところがある。それを心得ていれば、戒めにもなろう。すべての欺瞞は善の言葉に始まり、悪用されればより厄介となる。イジドール・デュカスは、言葉の逆転現象を弄ぼうってか。
詩ともなれば、音調が整っているだけに真理めいたものを歌い上げる。そこに理屈はいらない。言葉は箴言となり、心の中にいつまでも響く。理屈を必要とする箴言は出来が悪い...
「箴言は証明されるのに真理を必要としない。推論は推論を要求する。箴言はもろもろの推論の全体を包括する法である。ある推論は箴言に近づくにつれて完璧になっていく。ひとたび箴言になると、その完璧さゆえに、それが変貌してきたことを示す数々の証拠は却下される。」
「マルドロールの歌」は、なるほど刊行を拒否されただけのことはある。
汚物にまみれ、精液をぶちまけるといった光景に、男根の奇形、膣のただれ、皮膚の腐食、梅毒みどろ... といった語のオンパレード。これで、狂信、熱狂、悪夢を歌い上げちまうグロテスクぶり。
「ロートレアモン伯爵」を名乗ったのも、変身願望の現れか。デュカスは伯爵の称号も持ち合わせていない。貴族階級への嫌味か...
「天に願わくは、どうか読者が蛮勇を奮い、ひとときは自分が読むものと同じく凶暴になって、方向を見失わず、これらの暗く毒に満ちたページの荒涼たる沼地を貫いてみずからの険しい未開の道を見出されんことを...」
一転して「ポエジー」は、希望、期待、平穏、幸福、義務を歌い上げる。
本名を名乗るのも、実は自分が誠実な人間とでも言いたいのか。「マルドロールの歌」の後では、こそばゆい!
人間を崇高で完全な存在として持ち上げ、宇宙を不完全な存在と蔑めば、詭弁のオンパレード。人間は悪を許容しない... 人間の魂に堕落はありえない... 人間の理性こそ宇宙で最も信頼に値する... などと、やはりこそばゆい!
「作者と読者のあいだには暗黙とは言えない約束事があって、それによって前者は病人と称し、後者を看病人として受け入れている。詩人のほうこそが人類を慰めるのだ!両者の役割は勝手に入れ替わっている。」
さらに、「ポエジーII」では、偉人たちの言葉を引用しながら、誠実風に書き換える。パスカル、ダンテ、ヴォーヴナルグ、シェイクスピア、ラ・ロシュフコーなど、彼らの言葉は皮肉ぶっているからこそ人間の本性を暴き、箴言や名言となる。
だが、この皮肉ぶりを誠実風に書き換えちまうと、すべてが色褪せ、言葉をのっぺらぼうにしちまう。いや、誠実ではなく誠実風であることが、逆に皮肉っぽくも、嫌味っぽくもなる。
例えば、パスカルが「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。だが、それは考える葦である。」としたのに対し、「人間は一本の樫である。自然にはこれ以上頑丈なものは見当たらない。」と人間を逞しい存在とし、「宇宙は何も知らない。それはせいぜい考える葦にすぎない。」と宇宙の存在を蔑む。パスカルのパロディ版か...
ラ・ロシュフコーが「正義への愛は、大半の人間にあっては不正に耐える恐れにすぎない。」としたのに対しては、「正義への愛は、大半の人間にあっては不正に耐える勇気」とし、人間の勇気、理性、正義といったものを持ち上げれば、やはりこそばゆい!
「詩についての判断は詩よりも価値が高い。それは詩の哲学である。このように把握された哲学は、詩を包含している。詩は哲学なしで済ませることはできまい。哲学は詩なしで済ませることができる。」
「マルドロールの歌」によれば、人間は悪魔の化身。「ポエジー」によれば、人間はいずれ神に昇華する存在。悪魔も神も似たりよったり、いずれも人間の創造物に過ぎない。誰しも、地獄より天国がお好き。その影で創造主の代弁者どもが、免罪符をちらつかせて盲信者を募り、ふんずりかえってやがる。
人間の尊厳なんぞクソくらえ!人間ってやつは、喰って排泄するだけの熱機関に過ぎない。希望も、絶望も、クソ喰らえ!
「絶望は、偏見をもっておのれの幻影を喰らいながら、物書きが神と社会の掟を大量に廃棄し、理論的にも実践的にも邪悪になるように、淡々と導いていく。ひとことでいえば、人間の尻を推論において最も優先させるのだ。おっと、こんな言葉遣いをお許しあれ!繰り返しておくが、人は邪悪になる。そして眼は死刑囚の色合いを帯びるのだ。」
