富とは、なんであろう...
ありふれた言葉だけに、きちんと定義したものを見かけない。豊かさとも、ちと違う。物質的な豊かさと精神的な豊かさとを区別するなら、経済学が論じることのできる領域は前者ということになろうか。
ただ、物質的な豊かさを精神的な豊かさで補うことはできても、その逆はできそうにない。結局、幸せとはなんであろう... という問いに帰着する。しかし、幸せという概念も一筋縄ではいかない。経済学に精神的な豊かさまで求めても... 経済学者に、人類を救え!などとふっかける気にもなれん...
トマス・ロバート・マルサスは、富と価値を区別し、生産と分配の側面から経済原理を論じて魅せる。その語り口は、どこか人口論の影を引きずっているような... 地球の限られた資源を暗示しているような...
また、本書には、デヴィッド・リカードの名が散りばめられる。議論の対象として。だが、二人は反目しあってはいない。生涯で本音で議論し合える人物に巡り会えるのは、幸せであろう...
尚、小林時三郎訳版(岩波文庫)を手に取る。
人生の意味を労働に求める考えは、ヘーシオドスの時代から語り継がれる。しかも詩的に。労働や勤勉に価値を求める哲学は、アダム・スミスも、マルサスも継承しているようで、21世紀の今でも散見する。
マルサスは、労働を生産に結びつけ、生産による利潤と非生産による利潤を区別する。あらゆる階級の生産活動を国力に結びつければ、国富論も成り立つ。過剰生産は、かつての経済学者たちが論じてきたように、長期的には相殺もされよう。だが、仮想空間に編み出された価値となると...
資本蓄積のために節約を論じた時代から、資本拡大のために投資を論じる時代を経て、いまや、自然増殖する仮想価値から消費を煽る時代か。地代や労働賃金、あるいは資本の利潤で論じられた時代は、なにやら懐かしい。需要と供給の関係ですべて説明のつく社会は、なんとなく心が落ち着く。
生産や労働の概念も、時代とともに随分と変化したものである。お金に執着すれば道徳観を疑われるが、お金のおかげで安穏と生活できるのも事実。自由とは、その人の能力に依存するというのは一理ある。人間の欲望が、その人間の能力に比例するという見方も...
しかしながら、人には生まれ持つ環境や条件がある。労苦なしに得られる収入や財産など。貯蓄にしても、個人の神聖な義務となるところがある。老後にお金をため過ぎて処理に困るといったことが、本当に豊かなのか。巨額なローンを頼りに欲望を満たす社会が、本当に豊かなのか...
お金持ちほど節約家だったりする。いや、お金の使い方が合理的と言うべきや。人間の合理性には、物的合理性と心的合理性がある。お金との付き合い方のうまい人は双方の按配をよく心得ていると見える。
経済循環とは、分配や再分配を促すものであろうが、節約よりも浪費の方が合理的な側面がある。金は天下の回りもの!実際、金融政策は、消費を煽ることばかり。マルサス風に言えば、「生産という名に値しないもの」があまりに多すぎるのか。
では、生産に値するものとは。少なくとも生産費用に等しい価値を生み出すもの... などとするなら、貨幣価値という幻想を追いかけている気分にもなる。
お金を得る手段ともなれば、利息所得や配当所得、あるいは相続財産ばかりか、貨幣を右から左に流す金融業や情報を右から左に流す広告業など、様々な非生産的形態がわいてでる。いや、生産の仮想化と言うべきや。
権力を右から左に流す政権業まで、すべてがお金と結びつくから、資本主義経済、恐るべし!この経済体系では、投資家が経済循環に大きな役割を担うが、その反面、なんでも資本にしちまう、お化け経済にも映る。人類は、貨幣を自然増殖させちまう巨大な経済システムを出現させちまった。発明者自身が制御不能なほどの。エントロピーの法則に照らすなら、貨幣に始まる仮想価値の暴走は、まだまだ序の口やもしれん...
「食物にたいする欲望は、あらゆる人の胃の腑にかぎりがありので、それによって制限されるが、建物、衣服、什器および家具というもろもろの便宜品および装飾品にたいする欲望には、なんらの限度もなければ一定の限界もないように思われる。」
... アダム・スミス
