2026-02-22

"第1感 - 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい" Malcolm Gladwell 著

原題 "blink: The Power of Thinkinng Without Thinking"
直訳すれば、ひらめき - 考えずに考える力... これに「第1感」との放題を与えた翻訳センスはなかなか。気まぐれ崇拝者をそそるタイトルだ!その 2 秒後、いつのまにか手に取ってやがる。
尚、沢田博、阿部尚美訳版(光文社)を手に取る。

「第一感」という用語は、将棋でよく耳にする。局面を見渡した時、最初に思いつく手や最初に受ける印象を大事にする。
一方で、「第六感」ってやつがある。それは、外界を感知するための五感機能を超越する感覚を想定したもの。五感を総動員した感覚、あるいは、理屈を超えた六つ目の感覚とでもしておこうか。
だがここでは、第六感をも凌駕する感覚を物語ってくれる。最初の 2 秒に感じたことを、ちょいとメモっておく。そうした習慣を身にまとうだけでも、新たな視界が開けると...

瞬時に判断が必要な場面で、知識や論理的思考が邪魔をすることはよくある。論理的に思考を組み立て、自発的に行動しているつもりでも、結局は自己満足にとどまっていることも。
とはいえ、瞬時の判断が浅はかだったと後悔することもある。外見や見た目に騙されるのも事実。容姿に惑わされ、人の良さそうな人に惹かれ、清潔感のある人に好感を持ち、誠実そうな人を信用する。時間がなければ、普段は認めてもいないステレオタイプや先入観に引きずられやすいものだ。
そうした第一印象は、どこからくるのか。それは経験や環境に裏打ちされたもので、経験を変えれば瞬時の感覚を養い、操ることができるというのが、マルコム・グラッドウェルの主張である。

本書には、「輪切り」という用語が散りばめられる。それは、様々な状況やパターンを断片的に読み取り、瞬間的かつ無意識のうちに判断する能力のこと。人間の認識能力は、現象を連続的に捉える傾向があり、それを抑えて断片的に捉えようというわけである。
解析学でも、積分的な見方と微分的な見方を交えながら本質に迫ろうとするが、実際に直面した状況に応じて視点をどのように断片化するかは至難の業。少なくとも、法則的に見い出せそうにない。
それこそ第1感!

そこで本書では、具体的な事例を羅列する戦略をとっている。心理学者や医者、通信兵や将軍、テニスコーチや家具デザイナー、音楽家や車のセールスなど、いずれも自分の無意識を鍛え、巧みに操る様子を。なるほど、第1感ってやつは、演繹的な思考よりも帰納的な思考の方が適合しそうか...

また、心理学には「適応的無意識」という用語があるそうな。
本書は「適応性無意識」とし、あえて「的」ではなく「性」を用い、精神分析学の立場を表明している。それは、フロイト流の無意識とは別物だという。フロイトは、意識すると心を乱すような欲望や空想をしまっておく場所が、心の奥底に存在することを唱えたとか。
対して、適応性無意識は、強力なコンピュータのようなもので、生きていく上で必要な大量のデータを瞬時に処理するという。厳しい生存競争を生き抜いてきたのは、この能力のおかげだとか...

「高度な思考の多くを無意識に譲り渡してこそ、心は最高に効率よく働ける。最新式のジェット旅客機が意識的なパイロットからの指示をほとんど必要とせず、自動操縦装置で飛ぶのと同じだ。適応性無意識は状況判断や危険告知、目標設定、行動の喚起などを、実に高度で効率的なやり方で行っている。」
... ティモシー・D・ウィルソン

では、ちょいと気になるところを拾っておこう。第1感で...

1. 15年後の夫婦仲を言い当てる心理学者
たった 15 分の録画した夫婦のさりげない会話から、将来離婚に至るかどうかを言い当てる心理学者がいるという。嫌悪、軽蔑、怒り、防衛、愚痴、悲しみ、拒絶、ニュートラル(無感情)などをパラメータ化し、「離婚の数学」とやらを実践して魅せたとさ。
その考察の中で、人間関係における批判と軽蔑の性質の違いと、それぞれの重みを指摘している。おそらく、互いに尊敬できる点が一つでもあれば、それでうまくいくのだろう...

「批判がいちばんよくないと思うかもしれない。批判は相手の人格を厳しく非難する行為だ。軽蔑は批判とは性質が違う... 相手を見下したような話し方をするほうがよっぽど関係はこじれる。相手を見下す言葉はすべて軽蔑だ。相手を自分より下に置いて、上下関係を作ろうとする... 軽蔑は嫌悪に似ている。嫌悪も軽蔑も人を完全に拒絶し、社会から追い出そうとする...」

2. 日常の受信パターンから重要な情報を嗅ぎつける通信兵
第二次大戦中、イギリス軍は多くの女性を信号傍受の仕事に当たらせた。毎日、モールス信号を聞いていると、ある特徴的なパターンに気づく。それは、発信者の側も気づいていない。情報漏洩ってやつは、機械的な欠陥よりも人為的なミスによるものが圧倒的に多い。それはエニグマ暗号解読物語として映画にもなったが、今日の最新鋭の暗号システムにおいても、最大の脆弱性は人間そのものということになろう...

3. 医療事故で訴えられる医者と訴えられない医者
医者が医療事故で訴えられるかどうかは、ミスを犯す回数とはほとんど関係ないという。腕のいい医者が何度も訴えられる一方で、度々ミスをしても訴えられない医者がいるとか。さらに、医療ミスが起きても、訴えない人がかなりの数に上る。現実に、患者の身内は、いい加減な治療というだけでは医者を訴えたりはせず、訴訟を起こすのは他に理由があるという。医者にせかされたり、無視されたり、個人的な扱いによるものが大きいと...

「医療事故というと、どんでもなくややこしい問題のように思うかもしれないが、要は患者を大事にしているかどうかの問題であり、その態度は声の調子に現れる。医者にとって最も損な声は威圧的な声ということになる。」

4. 複雑系の洞察に鋭い将軍
戦略家の中には、情報を集めてすべてを見渡すことができれば、負けるはずがないと考える者も少なくない。孫子の兵法にも「彼を知り己を知れば百戦殆からず」という言葉がある。だが実際、適格な情報を適度に収集することは至難の業!情報過多で判断を誤らせるケースもしばしば。すべてを知ろうとすればするほど、却って身動きできなくなる。
いまや戦争は、軍隊と軍隊のぶつかり合いだけでは済まなくなった。破壊した戦車、撃沈した戦艦、撃墜した戦闘機の数を競い合う時代は終わった。高い戦闘力よりも高度な戦略力が問われ、軍事行動は経済システムや文化、あるいは国民性とも関わる問題である。これほどの複雑系では、軍事力だけでは先が見通せず、人間の思考が馴染んできた連続性とは程遠い状況にある。

「チェス盤を見てみろ!敵の動きはすべて分かる。でも勝てる保証はあるか?そんなものはない。敵の考えまでは分からんのだ!」

5. 偏見に惑わされるクラシック界
訓練を積んだクラシックの音楽家は、演奏の善し悪しを数小節で判断できるという。第二次大戦後、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のオーディションにて。仕切り越しに演奏を聴いた結果、合格と判定された人物は女性で、おまけに日本人だったとさ。
オーケストラが男性社会であった時代、しかも、西洋文化を代表するクラシック音楽を極東の僻地で理解できる者がいるはずがない、という偏見を露呈することに...
熟練した審査官ですら、実際より演奏がうまく見える演奏家はいるという。いい姿勢で自信たっぷりに演奏すると上手に見えたり、姿はぱっとしなくても演奏そのものは素晴らしかったり、楽器をもって立ち去る姿を見ただけで、なんてダサい奴だとか、何様のつまりだ、と思ったり、目に見えるものと耳に聞こえる音には、常にそうしたギャップがあるそうな...

2026-02-15

"言語の本質 - ことばはどう生まれ、進化したか" 今井むつみ & 秋田喜美 著

言語とは何か...
これを問うだけで深淵な世界が広がり、その種類となると、日常会話で使う自然言語から学術的な専門言語に、数学の記法やプログラミング言語まで無数に出くわす。
しかしながら、人間の思考となると、そうした言語を遥かに超え、深層心理や潜在意識までも含めた領域にある。言語を用いることが知的活動のすべてではないし、言語能力が認知能力のすべてではないのだ。思考という現象が、どこに発するのかは知らんが、知能の進化が言語によって牽引されてきたのは確かであろう。

言語は、思考を確かなものにする。思考の過程を辿り、自己を確認するための手段となる。また言語は、記憶を確かなものにする。偉人たちが遺した名言や格言が自己を戒め、思考のフィードバックによって自省を促す。言語論を語るのに言語を用いること自体が、既に自己矛盾に陥った感があるが、この自己矛盾こそが進化の過程では必要なのであろう。そして、言語とは何かを問えば、人間とは何かを問うことに...

さて本書は、認知科学者と言語学者が織りなす言語論である。
まず、言語として成立する十大原則に「コミュニケーション機能、意味性、超越性、継承性、習得可能性、生産性、経済性、離散性、恣意性、二重性」を挙げ、言語現象の源泉を「オノマトペ」から辿り、言語システムの進化を「推論」という思考過程から紐解く。

人間の思考には、「A ならば X」を「X ならば A」へ過剰に一般化する傾向があるという。推論には、思考バイアスがつきもの。討論会でも、結果と原因をひっくり返して迷走する様をよく見かける。
とはいえ、誤りを犯すリスクは、そのまま進化の可能性を匂わせる。不確かな状況下では確率的な解決も必要だ。人間は、ある事象を観察すると、その類似性を探り、言葉に導かれて観察不可能な領域にまで思考を広げる。それは、ある種の病理学であろうか...

ところで、AI(人工知能)に発する「記号接地問題」というのがある。対象を記号と結びつけることができれば、それで知ったことになるのか?認知できたことになるのか?という問題である。
言葉で説明できるからといって、それで知っていることになるのだろうか。言葉で定義できたからといって、それで理解したことになるのだろうか。AI に質問すれば、適格な答えが返ってくる。それで、AI は、その事象を知っていることになるのだろうか。こうした問題は、コンピュータは意志を持ちうるか、というアラン・チューリングの問い掛けに通ずるものがある。

では、こう問い直してみよう。
記号に接地することが、そのまま知識にならないとすると、何と接地できれば、知ったことになるのだろうか。人間の知識は、何が後ろ盾になれば、確かなものになるのだろうか。人間の知性とは、言語機能が示すように抽象的な概念を扱う能力を言うのであろうか。
最もシンプルな答えは... 言葉は国語辞典が知っているよ!

1. オノマトペとは
オノマトペとは、擬音語や擬態語のこと。ゲラゲラ、ペコペコ、モグモグ、ドキドキ、メロメロなど、感情やイメージと直接結びつく幼稚な言葉で、大人の会議や討論会ではあまりお見かけしない。従来の言語学では補助的な扱いであったが、近年、言語の本質を巡って脚光を浴びているという。
各国語での違いが顕著なのは、動物の鳴き声であろうか。猫は、日本語でニャー、英語でミューやミャオ。犬は、日本語でワンワン、英語でバウワウといった具合に。
本書は、オノマトペを身体的で、アイコン的と特徴づけている。アイコン的とは、パソコンやスマホでお馴染みの分かりやすさを基調としたイラスト風の画像のことで、オノマトペとの違いは視覚的か音感的か。
そういえば、知り合いの子供が五歳で言葉も分からないのに、デスクトップ上でしっかりとゲームを起動できたりする。配置で判断するのか、絵柄で判断するのか。人間の知覚能力恐るべし!身を持って知る... と言うが、やはり知的活動の基本はこれであろうか...

「オノマトペは物事との間の部分的な類似性を頼りに、感覚イメージを写し取る。写し取るというオノマトペの性質ゆえに、その語形や発音、構成音そのものの特徴、さらには共起するジェスチャーや表情にまでアイコン性が宿る。言い換えれば、オノマトペは、その語形・音声や非言語行為のアイコン性を駆使して、感覚イメージを写し取ろうとすることばなのである。」

2. オノマトペの体系化
日本語は、オノマトペ性が保たれ、オノマトペが高度に体系化された言語だという。例えば、副詞からスル動詞を経て一般動詞となる過程にそれを見る。スル動詞とは、「~する」という表現のこと。「よろよろと」から「よろよろする」を経て「よろける」、「うろうろと」から「うろうろする」を経て「うろつく」、「ざわざわと」から「ざわざわする」を経て「ざわつく」といった具合に...
感情的ではあるが、文学的でもあり、芸術性はこうした性質に宿るのであろう。その発端は、純真な子供が好奇心を抱き、自律的に学習していくメカニズムにありそうだ。五十音の中でハ行だけが濁音と半濁音を持っているのも、音感的にオノマトペ性と関係がありそうな。スマホやパワハラといった略語が蔓延するのは、オノマトペ回帰であろうか...

「言語習得とは、推論によって知識を増やしながら、同時に学習の仕方自体を学習し、洗練させていく、自律的に成長し続けるプロセスなのである。」

ちなみに、論文などを書く時、欧米語に比べて日本語は向かないと指摘されたことがある。主語を省略したり、行間を読むといった習慣がそうさせるのか。昔、特許なんぞを書こうと一週間も篭もると、会話でも形式張ったり、主語を強調したり、しばらくぎこちなくなったものだが、英語ではそういうことがあまりないと聞く。そう単純なものでもないだろうけど...

3. 動詞枠づけ言語と衛星枠付け言語
言語は大きく種別して「動詞枠づけ言語」「衛星枠付け言語」があるという。それは、移動の表現による分類で、前者は移動の方向を述語動詞で表し、後者は述語以外で表すとか。
前者の例としては、日本語の動詞「横切る」、「降りる」といった表現。
後者の例としては、英語の前置詞 "across"、"downn"、"over" をともなった表現。
こうした違いを突きつけられるだけでも、単語が一対一では対応できず、翻訳が一筋縄ではいかないことが身にしみる。

4. アブダクション推論
やがて言葉は、身体的な比較から論理化や抽象化が進み、オノマトペ性から離れていく。事象をなにかとグループ化やカテゴリ化するのは、人間の性癖とも言えよう。それをもたらしたのが、推論的思考や論理的思考ということになろうか。
二大推論法といえば、演繹推論と帰納推論だが、本書では「アブダクション推論」に着目する。そう、仮説的推論ってやつだ。
演繹推論は、論理的に事象を組み立てながら答えを導く方法で、最も信頼性が高い。
帰納推論は、近似的な経験の積み重ねから一般化する方法で、しばしば例外も生じる。
アブダクション推論は、結果から遡って原因を推測する方法で、帰納推論に補足を与える。
帰納推論にしても、アブダクション推論にしても、きわめて確率的。しかしながら、人間社会に蔓延る事象はきわめて複雑で、演繹できるケースはそれほど多くはない。最も実践的なのは、アブダクション推論ということになろうか。誤りを修正することで、理解は深まる。仮説を立て、実験し、結果に反することで思考を修正していく。ブートストラップを起動させて...

「子どもが言語習得の過程で行っていること、つまり知識が新たな知識を創造し、洞察を生み、洞察が知識創造を加速させるブートストラッピング・サイクルが、まさに帰納推論とアブダクション推論の混合によるものだからである。」

2026-02-08

"日常言語に潜む音法則の世界" 田中伸一 著

本書は、音韻論をめぐる物語。日本語や英語の具体例を添えて...
「音韻論」とは、言語の機能を見据えつつ、音形を追求する分野だという。日常言語がコミュニケーション手段となれば、自ずと音声と意味の連携が焦点となる。意味を持つ音声を「言語音」と呼ぶそうな。咳払いや笑い声など非言語的な音声でも意味を持てば、それも言語音ということらしい。

言語音には様々な立場があり、意味を補助する場合もあれば、それ自体が意味を持つ場合もある。意味を与えるかどうかは、話し手と聞き手の双方次第。それは、経験的なものか、普遍的なものか。いずれにせよ、音声は口により発せられる。
口の形のために音声が制約されるのか、あるいは、思い通りの音声を発しようとするために口がこのような形に進化したのか。そして、そこに法則めいたものがあるのか。言語が人間精神と深く結びつく以上、そこには普遍性と多様性の駆け引きが渦巻く。生命の進化とは、そうしたものなのかもしれん...

似たような分野に、「音声学」というのがある。論と学は、学問分野としての格の違いか、あるいは抽象度の違いか。いずれにせよ、言葉の意味にかかわる以上、社会学やコミュニケーション学に留まらず、心理学や生理学、あるいは認識論ともかかわることになろう...

「音韻論は、言語体系内において音声を互いの関係で捉える『関係論』といえる。であるがゆえに、本来は連続体であるはずの音声を言語ごとにどのように相対的に範疇化し、それが体系内においてどのように分布し変化すれば有意味な言語単位になるかのメカニズムを探ろうとする...
これに対し、音声学は、音声を連続体という実体のままで捉える『実体論』である。音声がコミュニケーションのために存在する以上、なるべく効率よく、つまり発音しやすく聞き取りやすくできているはずであるから、いろいろな言語の音声実体がどのような機能を備えているかについて、生理・音響・知覚の面からその絶対値を探ろうとする...」

音韻論にせよ、音声学にせよ、物理現象としては、周波数スペクトルと関わる。日本語と英語の発音では周波数帯が違い、言語として捉える認識メカニズムにも違いが生じる。日本語の五十音は、文字と発音でだいたい一対一の関係を持つが、英語のアルファベット26文字は発音記号と一対一で対応せず、発音記号となると実に多彩である。そのためか、日本語は喋れればだいたい読み書きもできるが、英語は喋れても読み書きができないというケースも珍しくない。

母音だけでも大まかに、3母音体系、5音母音体系、7母音体系がある。日本語は、5母音体系とされるが、世界の言語で共通しているのは {a, i, u} の3音。それは、色の三原色のようなものであろうか。人間の知覚能力は、三つの周波数の組み合わせで説明がつくのかもしれない。欧米語では、短母音や長母音に、複合母音が加わり、さらに多種多彩となる。

本書では、音の体系に見られる様々な関わり合いを外観していく。音素と規則の関わり合い、規則と制約の関わり合い、そして、規則と規則、制約と制約の関わり合いを。ある規則が別の規則を邪魔することもあれば、ある制約が別の制約の弊害になることもあり、自己言及と自己矛盾が渦巻く。

言語の力学では、普遍性を求める力と多様性を求める力が働き、その落とし所として最適形が論じられる。いや、妥協形という言うべきか。問題解決においては、やり方次第で結果は良くも悪くもなり、多くの分野で最適化の理論が幅を利かせる。言語学においても、「最適性理論」なるものがあるらしい。それが本当に最適な解をもたらすのかは知らんが、人間の持つ順応性は計り知れない。文法にも限界があり、暗黙のルールのようなものが生じる。言語の世界では、例外はつきもの。
そういえば、五十音の中でハ行だけが濁音と半濁音があるのも奇妙な話。ちなみに、プログラミング言語においても例外処理は欠かせない。

人間社会は、しばしば省略形を新語として出現させる。スマホやパワハラなど。こうした現象は、単純に効率性を促しているところもあるが、集団力学における合言葉のような意味合いもあろう。だから、知らない新語に出くわすとバカにされる。人間の優越主義は如何ともし難い。
ちなみに、パソコンはパーコンでも良さそうだが、長音のリズムが悪い。ワープロはワドプロでもよさそうだが、濁音が耳に障る。

文法は言語の規則とみなされているが、会話中に文法なんてものを意識しているだろうか。そういえば、文法は規則ではなく、規則性だ!と言い放った文学者がいた。文法を知らなくても用法を知っていれば、日常会話は成り立つ。単に、こんな風に言うとか、そんな風に言わないというだけのこと。それは、極めて慣習的で経験的なもの。

文字が主体か、音声が主体か、それは考え方にも影響を与える。そこで、思考のバリエーションを増やそうと思えば、他言語を学ぶというのも一つの選択肢となろう。周波数スペクトルの側面から、音楽を言語の一つとする手もありか。思考状態では、リズミカルな言葉が欲しい。名文や名言はたいてい音調がいい。心に響くものは、リズムをともなうらしい...

2026-02-01

"世界を数式で想像できれば - アインシュタインが憧れた人々" Robyn Arianrhod 著

言語の威力には、目を見張るものがある。思考やアイデンティティを自己確認するために欠かせないばかりか、世界を品定めするためにも...
まず、目の前の現実をどう見るか、どう意識するか、どう解するか。人は自然言語を通して推論する。日常会話で交わされる自然言語は極めて主観性が強く、暗黙的に共有される知識が渦巻く。これを補完し、確かな知識とする言語とは...
尚、松浦俊輔訳版(青土社)を手に取る。

「数学の言語で世界を想像する。」

ロビン・アリアンロッドは、客観性を帯びた数学という言語が、物理学で重要な役割を演じてきた歴史を物語ってくれる。
科学の主役といえば、やはり物理学であろうか。かつて科学は自然哲学と呼ばれ、古来、哲学者たちは、物理的な存在をめぐって論争を繰り返してきた。地球という存在、人間という存在、自己という存在を問えば、地球中心説、人間中心説、自己中心説を免れない。そこには、重力を介して存在の重みを感じる。

数学は、客観性において他の学問を凌駕する。自然言語との大きな違いは、予測的な扱いにせよ、数量的な扱いにせよ、その精度にある。そして、記述量の効率性ばかりか、無矛盾性を信奉とする。無味乾燥な学問と批判されることもあるが、自己顕示欲の強い人間には自省の念を抱かせるのに欠かせない。そのために、かつての科学者たちは宗教裁判の餌食にもされてきた。ちなみに、数学と無縁な哲学者を、おいらは知らない...

数学という言語の基本文法は、単純な算術の規則に基づいている。主役となる加法や乗法は、一般化され、抽象化され、数学者の関心事は数える対象から数の性質へと向かう。数の体系において、交換法則、結合法則、分配法則などが成り立つかとうかを問う方向へ。
そして、物理的な実体は、算術の対象になりうるか。人間の実存認識は、数の概念との結びつきがすこぶる強いと見える。

人間にとって、物理的な存在には大まかに二つある。目に見える存在と、目に見えない存在とが...
前者は見たまんま!これに、方程式が後ろ盾となれば、説得力を増す。厄介なのは後者だ。いくら方程式が後ろ盾になろうと、世間はなかなか受け入れちゃくれない。
正しく見るとは、どういうことであろう。一つには、ありのままに見るということがある。だが、それだけでは足りない。ありのままに見ようとして、却って解釈を誤ることもしばしば。そればかりか、人間には見たいものを見ようとする性癖があり、見たくないものは見えないのである。現実を結果として追認し、正確に描写することはできても、それで現象を理解したことにはならない。特に目に見えない領域では、物理的な直観よりも数学的な思考が優ることが多い。

科学者たちの豊かな想像力は、無味乾燥な記述にも向けられてきた。目に見える世界は... 星座であったり、惑星であったり、リンゴであったり、これをガリレオやニュートンが...
目に見えない世界は... 電気であったり、原子であったり、量子であったり、これをファラデーやマクスウェルが...
そして、双方に関わる世界では、宇宙全体を思い描いたアインシュタインが...
彼らの想像力に幾何学と代数学の統合を見る。
幾何学的な視点は、ベクトル空間や、これを拡張したテンソル空間に...
代数学的な視点は、三角関数や微分積分学の記述に...

「アインシュタインをして、『ニュートンが理論物理学を創始して以来、われわれの物理的実在の構造のとらえ方が経た最大の変化は、ファラデーとマクスウェルによる電磁現象の研究に発する』と言わしめた。」

「場」の概念は、回転(rot)、発散(div)、勾配(grad)といった幾何学の操作に、微分演算子(∇)といった微積分学の記述が絡み、想像の世界を広げてきた。電磁場を記述するマクスウェル方程式しかり、重力場を記述するアインシュタイン方程式しかり。やはりマクスウェルの想像力には、目を見張るものがある。電気や磁気にも、光のような波の性質を想像させるのだから...

今となっては光も電磁波の一種だが、人間の目に見えるか見えないかの違いは大きい。放射線も電磁波の一種だが、人体への影響は如何ともし難い。物理法則に照らせば同類項でも、周波数が違うだけで人間社会での扱いは雲泥の差ときた。
本書は、かの四つの方程式で記述される電場と磁場の共演(饗宴)を、ウィリアム・ブレイクの四行詩になぞらえる...

 一粒の砂に世界を、
 野の花に天を見るべく、
 手のひらに無限を
 いっときで永遠をつかむ

2026-01-25

"イブの迷宮(上/下)" James Rollins 著

ジェームズ・ロリンズのシグマフォースシリーズに触れるのは、11 作目。このシリーズの作品番号は 0 から数えるので 10 番目ということになる。最初の邦訳版が刊行されたのが、2005年!20年かけてようやく追いついてきたか...
最先端の科学と古代から語り継がれる歴史を融合させる手腕は相変わらず。翻訳者桑田健(竹書房)との相性も相変わらず。そして、徹夜明けのブラックコーヒーも。今日も仕事にならんことも...

原題 "The Bone Labyrinth"...
Bone とは、アダムのものか、イブのものか。いずれにせよ、ホモ・サピエンスの祖先を巡る旅へといざなう。つまりは、人類の知能の起源を辿る旅へ...
意識という現象は、どのように説明できるだろうか。サピエンスは、ラテン語で「賢い」という意味。ヒト属で現存する唯一の種は、地球上で最も支配的な存在となった。言語能力は知能のバロメータとなり、人間が編み出した学術的論理は、生存競争の勝者を正統化する。小才の利く者が集団の中でうまく立ち回り、人が好く、愚直なだけが取り柄の者は踏み台とされる。これが、賢い種の社会か!狡猾な者が勝ち組となる論理は、市場経済や軍事においても実証済みときた。

人類の脳の発達過程は、約二十万年前のホモ・サピエンスの出現まで遡ることができよう。しかし、約五万年前に突然、武器や道具などの創意工夫、芸術や音楽といった嗜好が生まれ、文明なるものが出現した。脳の大きさや形は、それよりずっと昔からほぼ同じだったにもかかわらず。いや、過去一万年の間に脳のサイズは、むしろ 15% ほど縮小しているらしい。人類は、半導体のように集積度を上げ、よりコンパクトで合理的な構造を獲得しようとしているのか。人類学者は、この進化的な突然変異を「大躍進」と呼ぶ...

「知能の物差しとは変わることのできる能力だ。」
... アルバート・アインシュタイン

本書のテーマは、古代に生じた大躍進の原因を探求し、さらに第二の大躍進が生じる可能性を模索しようというもの。それは、なにが人間たらしめるか、を問うことに要約できる。
物語は、ネアンデルタール人やヒト科の亜種との交雑に始まり、遺伝子の組み換え技術に至る。どちらが亜種かは別としても、人間のゲノムにはネアンデルタール人や複数のヒト科絶滅種のゲノムが含まれていることが、科学的に判明しているという。なるほど、乱交パーティ遺伝子は現代人にも組み込まれていると見える。
ちなみに、チベット族が高地でも生活できるのは、デニソワ人という絶滅種の遺伝子のおかげだとか...

「知能とは進化における偶然の産物であって、必ずしも優位とは限らない。」
... アイザック・アシモフ

生物学には、「雑種強勢」という用語がある。それは、二つの異なる種が交わると、生まれた子供はどちらの親の種よりも形質的に強い特徴を持つというもの。例えば、メスの馬とオスのロバの間に生まれるラバは、空間的知能が馬やロバよりも優れているのだとか。
それで、人類とネアンデルタール人との間に、どんな雑種強勢がもたらされたというのか。ネアンデルタール人は、単なる原始的な穴居人ではない。ある研究によると、虫歯の痛み止めに、鎮痛効果のあるサリチル酸を含む植物や天然の抗生物質であるアオカビを口にしたことが報告されているという。食人の習慣があったことも...

遺伝子の良いとこ取りとくれば、生命体そのものがまるで遺伝子の方舟!
DNA の欠片さえあれば、人間はクローンを創るだろう。いつか必ず!生殖細胞レベルでの制御はドーピング問題も意味をなくすだろうし、放射能下でも生きられる遺伝子までも求めるだろう。
古くから人間は、象や猛獣を兵器とし、ネズミのような小動物を病原菌をばらまく兵器に利用してきた。バイオテクノロジーによる軍拡競争は激化するばかりで、はるかに凶暴な種を創り出しては軍事利用するやもしれん。絶滅種を対象とすれば、ジェラシック・ワールドも現実味を帯びる。そして、遠い昔の偉人たちが蘇るとすれば...

人間の好奇心は、ことのほか手ごわい。純粋な好奇心は、いずれ脂ぎった欲望と結びつく。人間は、自ら編み出した技術によって人間自身をどこへ導こうというのか。進化の歴史は、単純な右肩上がりではなさそうだ。何事も進化の過程には、退化の時期も必要なのであろう。自省の意識を植え付けるためにも... 自浄遺伝子を育むためにも...

「ここに眠りしはアダムの骨、人類の父。永遠(とわ)の眠りを妨げることなきよう祈る... さもなくば、世界は終わりを迎えるだろう。」

2026-01-18

人生という名の雑用...

人生とは、それほど大層なものなのか。雑用に負われる日々を思えば、くだらない疑問に憑かれる。
「この世に雑用なんてものはない。雑な仕事があるだけだ!」とは、誰の言葉であったか。自由なんてものは高等過ぎて、いざ与えられても、何をやっていいのか、よう分からん。才ある者は、雑用までも喜びにしちまうのであろう。雑用はなるべくあったほうがいい。なくしちまうと退屈病に襲われ、痩せ細っちまう...

大人どもは、いつも文句を垂れる。具体的に示せ!と。誰かに当たる性癖は依存症の表れ。政治家に当たってはお前のやり方が悪いと憤慨し、道徳家に当たっては空想論もいい加減にしろと糾弾し、教育家に当たってはお前のしつけが悪いと誹謗中傷を喰らわせ、芸術家に当たっては人類を救え!などとふっかける。

巷にはハウツー本が溢れ、ノウハウセミナーはいつも大盛況。恋愛レシピから幸福術、あるいは人生攻略法に至るまで。移り気の激しい凡人は、洪水のごとく押し寄せる流行りの知識に右往左往するばかり。仕舞には消化不良でゲロを吐き、もっと分かりやすくしろ!と文句を垂れる。

一方、才能豊かな連中ときたら、哲学者の曖昧な言葉を金言にしてやがる。何をヒントにするかは自由と言わんばかりに...
これほど無意識の領域が広大だというのに、なにゆえ自由なんてものが信じられるのか。真の自由なんぞ、この世にありゃしない。あるのは自己満足感だけだ。人生に意味や目的があるのかは知らん。それを求めてやまないのは人生に意味があると信じ、自己存在感を噛み締めたいだけだ。自分の人生が無駄ではないと...

真理を求めるのは、それがないと生きられないからではない。盲目感に耐えられないだけだ。正義感に操られては非難癖がつき、倫理感に憑かれては意地悪癖がつき、理性や知性までもうっぷん晴らしの手先となる。自由に生きるよりも、人のせいにし、社会のせいにし、神のせいにしながら生きる方がはるかに楽ってもんよ。

すべては自己の正当化!凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼ごときが、自由が欲しい!と大声で叫んでいる間も、才能豊かな連中は静かに自由を謳歌してやがる。どう足掻いても奴隷に成り下がるのであれば、そこから逃げだすさ。どうせ人生なんてものは、雑用よ!

2026-01-11

自己肯定には嘘が欠かせない... 自己責任にも逃げ道がなくっちゃ...

巷では、自己肯定感ってやつがもてはやされる。自己肯定に縋らないと生きて行けないのなら、人生は辛い。実際、こんな感覚は他人否定によって支えられている。
巷では、自己責任論が渦巻く。自己に責任を持てる人間がどれほどいるというのか。既に、こんな言葉はお前が悪いという意味で使われている。

自己を知るには勇気がいる。自ら演じた醜態を遠近法で眺め、羞恥心と距離を置けば、どちらが本当の自分やら。自己肯定感に嘘は欠かせない。自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大、おまけに、自己嫌悪に自己否定とくれば、自我を失うのも容易い。これで自己責任論を免れ、めでたしめでたし!

自己責任ってなんだ。本当に自分に課したものなのか。自己を見つめずして、自己責任もあるまい。それは、何かに依存している自分を受け入れてこそ成り立つ。自己責任を明確にするために、説明責任を自己に課す。そんなことをしても、精神の縄張りを確認するだけ。そう片意地はらんと、自己責任にも逃げ道がなくっちゃ...

誰もが参加できる自由な形態にも、自己責任論が渦巻く。メーリングリストで「コーディング規約に従っていないので修正するように...」などと指摘された日にゃ... 指摘する側が自発的なら、指摘される側も自発的なだけに恥ずかしい思いをする。誰もが自由に参加できる!というのは、実はハードルが高い。実は、権威主義的な監視よりも民主主義的な抑圧の方が、はるかに厳しいのやもしれん。分散型リポジトリとは、自己責任型を言うのか。
確かに、自由な活動は自己肯定感をそそる。これを自己責任で背負うなら、ここにも逃げ道がなくっちゃ...

2026-01-04

すべては神のせい!神様はズボラでなくっちゃ...

不運な境遇を神のせいにすれば、救われるだろうか。重い病を神のせいにするのと運命論で片付けるのとでは、どちらが楽になれるだろうか...

一方で、幸運な出来事には、誰はばかることなく自分の力だ!と断言できる。なんとおめでたいことか。しかし、そうでも考えないと、生きてゆくのは難しい。やはり人間には、神が必要なようだ。しかも、沈黙しておられる。なんて都合のよい存在であろう。神の声が聞こえると主張する者にとっても、神を信じない者にとっても...
神という存在は、迷い心から生じるのか。いや、迷い心を鎮めてくれるものなら、なんでもあり。悪魔の囁きにも耳を傾け、無神論者にもなるさ...

宇宙の摂理は完全かもしれないが、人間が知りうる摂理は不完全ときた!
古代の哲学者たちは、そのことに思いを馳せ、人間は人間自身を知りうるか?と問い続けた。プラトンが、人間は羽のない二本足の動物である... と定義した時、それで人間の正体を確信したわけではあるまい。アリストテレスが、人間は社会的動物である... と定義した時、それで人間社会の実体を確信したわけではあるまい。パスカルが、人間は考える葦である... と定義した時、それで人間の存在意義を確信したわけではあるまい。言葉でうまく説明できないからといって、それをまったく知りえないということにもなるまいが...

デモクリトスが、原子論を唱えた時、そこに実存と空虚の対立を見る。存在認識とは、虚像との対置において成り立つものであろうか。精神や魂も、理性や真理も、徳や正義も、そして、神も...
神が不敬虔者を罰するなら、神にも悪意があるに違いない。神が不完全なら、人間にとっても親近感がわくし、信じる気にもなれる。神様はズボラでなくっちゃ!

2025-12-28

"有閑階級の理論" Thorstein Veblen 著

有閑階級とは、なんとも挑発的な用語だ。こっちときたら、貧乏暇なし!嫉み、妬みの類いは、ことのほか根深い。
アカデメイアやリュケイオンに学園が創設された時代、哲学のできる身分は生活にゆとりのある家柄であった。王族や貴族の時代、その階級に属すだけで社会的に威信をまとうことができた。21世紀の今、やはり裕福な家庭の方が教育費をかけられ、まったく羨ましい限り。それで賢くなれるかは知らんが...

資本主義社会では、金は天下の回りもの!なる言葉が大手を振る。巷には様々な所得形態に溢れ、生産の対価、卸売や流通の対価、取引手数料、不動産賃貸、広告収入、金利所得、配当金、年金、あるいは派生的な金融アルゴリズムに身を委ねるなど、ますます多様化が進む。不労所得という用語もあるが、労働の概念そのものが変化し、生産性と非生産性の境界も曖昧になっていく。直接的生産と間接的生産といった方が、当を得ているであろうか。経済の繁栄は、資本の循環こそ源泉。血液の流れのごとく。それで、浪費を正当化できるかは知らんが...

ソースティン・ヴェブレンは、「衒示的閑暇」「衒示的消費」という用語を持ち出す。衒示的とは、顕示的、誇示的といった意味らしい。つまり、見せびらかしの閑暇や見栄っぱりな消費である。
自己顕示欲は、ことのほか手ごわい。資本家階級は生活のための労働を免れ、学問やスポーツやレジャーに御執心。哲学を論じ、宗教を論じ、政治を論じ、軍事を論じ、愛国心を旺盛にしていく。近代化とは、そうした時代であろうか。社会的な威信をまとうために高価な商品を買い漁り、物財や儀式に神聖なるものを求め、並外れた富の所有や浪費によって名声を得ようとする。
ヴェブレンは、こうした有閑階級に対して反感を匂わせながらも、近代社会の経済的要因の一つとしての意義を論じて魅せる。有閑階級は、所有の意識とも強く結びついてきたという。有閑階級と奴隷階級の始まりは、鶏が先か卵が先かの関係にも似たり。いずれにせよ、私有財産制は、人間が人間を所有するという意識に始まったとさ...
尚、小原敬士訳版(岩波文庫)を手に取る。

「閑暇が、名声の手段としていちはやく優越したことは、高貴な職業と下賤な職業との古代の区別にさかのぼることができる。閑暇が名誉あることであって、至上命令となったのは、ひとつには、それが下賤な労働からの免除を示すからである。高貴な階級と下賤な階級との古い社会分化は、りっぱな職業と下賤な職業との上下の差別にもとづく。」

初期の財産意識は、戦利品に見ることができるという。征服欲は領土に留まらず、文化を征服し、人間を征服する。ここに奴隷制の原点を見る想い。
戦争をやるのが男どもなら、征服地の女は戦利品扱い。やがて戦争に勝つことが集団社会の誇りとなり、優越主義や民族主義を旺盛にしていく。ここに帝国主義の原点を見る想い。
人口密度が高まり、掠奪集団が一つの固定した産業共同体に成長していくと、財産権を支配する権威が増大していく。

やがて法が整備され、力で財産を掠奪することも不可能となり、行儀作法や礼儀作法を重んじる上流階級は、確固たる地位へ押し上げられていく。有閑階級が概して保守的なのも道理である。そして、下流階級がそれに憧れ、模倣するようになる。
自尊心と呼ぶところの自己満足感が、人からの尊敬を集めることを基礎とするなら御の字!だが、知性も、理性も、世間体の対象というのが本音であろう。
哲学とは、暇人の学問か。閑暇を得て、ディオゲネス哲学にでも耽り、犬のように気ままに生きたいものだ。しかし現実は、集団社会に尻尾を振り、社会制度に縋りながら生きている。人間の集団依存症は、ことのほか手ごわい...

では、すべての人間が有閑階級に昇華すれば、平和な社会になるだろうか。労苦のすべてをロボットに委ねれば、誰もが有閑階級に身を置くことができるだろうか。
一方で、別の力学が働く。生産性の欲求という力が。クリエイティブな職業に就き、活動的に生きたいという人は大勢いる。社会のために役立ちたいと考える人も少なくない。こういう人々に尊敬の目が集まるのも事実。こうした意識に、本書は「制作本能」という用語を当てる。
自己の存在意義を求めるのは、いわば人間の本能。かくして、有閑階級が人間性を高めるのか、堕落させるのか。人間が人間を所有するという意識に問題があるとするなら、すべての人間を AI の前で奴隷化しちまえば、人類が夢見てきた真の平等社会が実現できるだろうか...

「かつておこなわれたあらゆる機械的な発明が、人間の日常の労働を軽減させたかどうかは、いまにいたるまで疑問である。」
... J. S. ミル

2025-12-21

"シンメトリーの地図帳" Marcus du Sautoy 著

数学をミステリー仕立てに...
本書は、シンメトリーという幾何学的性質を群論と結びつけて物語ってくれる。群論とは、数学界で最もミステリーな存在とでも言おうか。定義そのものは、そう難しくはない。結合法則が成り立ち、単位元が存在し、逆元が存在する。ただそれだけのこと。だが、この単純さ故に自然数の深遠さを告げている。しかも、こいつが幾何学の美の象徴たるシンメトリーと密接に関係するというのだから、むしろ群論の地図帳というべきか。
シンメトリーの要素は、図形を決定づける辺の数や面の数といった集合で表され、これらの数の演算と変数で組み立てられる方程式が絡む。つまり、方程式の解をめぐる問題でもある。辺の数が素数の正多角形のシンメトリー群という視点は、素数からゼータ関数へ、さらに楕円曲線へと導かれる。なるほど、群論とは、シンメトリーな言語であったか...
尚、冨永星訳版(新潮社)を手に取る。

自然界は、多種多様なシンメトリーに看取られている。雨粒や雪の結晶から素粒子まで。それはエネルギー効率が良いからであろうか。巻き貝はフィボナッチ数に現れる黄金比に従って殻を成長させていく。ミツバチは、六角形のクレマチスの花や放射状花弁が並ぶデイジーやヒマワリといった回転シンメトリーに惹かれ、マルハナバチは、ランやフォックスグローブやマメ科の植物といった左右対称の鏡映シンメトリーに惹かれる。ハチの目が、こうした幾何学を識別できるほどに進化したのは、そこに滋養エネルギーを感じとるからであろうか。
人間もまた、美術や建築、あるいは異性に対してシンメトリーな幾何学美に惹かれる。カノンは、その定義からして並進シンメトリーの一例。バッハの対位法には対称性が渦巻き、ゴールドベルク変奏曲がシンメトリーを奏でる。
周りを意識する生物には、常に不安がつきまとう。この不安から逃れるために法則めいた安定した存在が求められる。シンメトリーな居心地とは、そうした類いであろうか。生命体が厳しい環境で生き抜くには、自然界に点在するシンメトリーを見分ける能力が必要なのかも...

「自然のなかのシンメトリーは、いわば言語なのだ。動物や植物はシンメトリーを使って、遺伝的な優位から栄養に関する情報まで、実に多様なメッセージを伝えることができる。シンメトリーは、なんらかの意味があるという印であり、ごく基本的な... いや、ほとんど原始的といってもいい... コミュニケーション形態なのである。」

ところで、シンメトリーとはなんぞや。幾何学的な美的感覚の内にあることは確かだ。これを知りたければ、その構造を分解し、幾何学的な元素として分類していく。まずは、バラバラにして構成要素に還元せよ!人間の美に対する還元主義は旺盛と見える。自然数を素数で因数分解するように、シンメトリーの素数なるものを探求する。
しかしながら、シンメトリーの分類定理ができたとしても、化学の周期表のようにはいくまい。容易に化合物を作ったりはできないのだから。
そこで本書は、「...表」ではなく「アトラス(地図帳)」という語を用いてシンメトリー群のマッピングを試みる。アトラスとは、ギリシア神話の巨人神になぞらえてのことであろうか。正多角形にまとわりつく有限回転群から、ガロア群、リー群、マシュー群を辿り、196883 次元空間にして数論のモンスターが姿を現す。自然は偉大だが、自然数もまた偉大と言わねばなるまい...