2026-07-26

"断絶の時代" Peter F. Drucker 著

1960年代末、かの P. F.ドラッカーは、知識社会の到来、知識労働者の興隆、情報社会の高度化、グローバル経済の出現といった大変革からもたらされる未来像を描いて魅せる。それは、来るべくして来る断絶の時代か...
尚、上田惇生訳版(ダイヤモンド社)を手に取る。

「手動のトロッコは、ゲリラ戦で活躍する。後続の列車のために、レール下の地雷を見つける。本書は、このトロッコである。未来はゲリラ戦である。予期せぬことが脱線の原因となる。本書は、そうならないための警報を発する。まだよく見えないいくつかの断絶が、政治と経済と社会を変えつつあることを、いち早く知らせるために...」

断絶は、主に四つの分野に見られるという。
一つは、新技術や新産業の出現。同時に、今日の重要産業や大事業が陳腐化する。
二つは、グローバル経済の到来。今日でもなお、エリート官僚たちが打ち出す経済政策は、主権国家を単位に言語、法律、イデオロギーといったものを前提にしている。だが、来るべく経済社会は、そんな枠組みの意味をなくすであろうと...
三つは、社会と政治の多元化。現実を支配しているのは中央集権だが、この最大の組織である政府に幻滅が広がり、その能力が疑問視されると...
四つは、これが最も重要なこととして、知識の性格の変化。すでに知識は、資本、費用、資源など様々な意味を含んでいる。労働と仕事、学ぶことと教えること、知識の本質と使い方は変化していき、権力者の知識ある責任が新たな問題になると...
いずれも、21世紀の今、目の当たりにしているところ...

「本書は趨勢を予測しない。非連続の断絶を見る。明日を予測しない。今日を見る。明日はどうなるかを問わない。明日のために今日いかに取り組むかを問う。」

高度な情報テクノロジーが、誰にでも情報や知識を手に入れる機会を与えてくれる。となれば、あとは個人の問題。意欲ある者は、ますます知識を得、偏狭な者はますます偏狭になり、意識格差を増幅させていく。その結果、意識の多元化とはほど遠い、二極化が進む。最も深刻な格差問題は、経済格差よりもこの意識格差であろうか。最も重要なこととして四つ目に挙げている知識の性格の変化は、これに当たるのやもしれん...

発明の時代から起業家の時代を得て、創造する能力が問われる時代、組織のあり方が問われ、マネジメントのあり方が問われ、個人のあり方が問われる。科学や技術のダイナミクス、市場やイノベーションのダイナミクス、そして人間のダイナミックス、ますます知の用い方が問われていく。そうした中でドラッカーは、組織の病や政府の病を指摘する。
まず、組織リーダの責務として、社会に敏感であることと...

「組織とは、自らのために存在するのではない。組織は手段である。それぞれが、それぞれの社会的な課題を担う社会のための機関である。生き物のように自らの生存そのものを至上の目的とすることはできない。組織の目的は、社会に対するなんらかの貢献である。その行動の評価基準は、生き物とは違い、自らの外部にある。」

次に、マクロ経済に特化した近代経済学に苦言を呈す。経済発展の理論でイノベーションを強調したシュンペーター以降、進展が見られないと...
多元化社会では善玉も悪玉も必要だという。いや、善玉の越権行為の方がはるかに危険か。民主主義国家のあり方を再確認するには、権威主義国家や共産主義国家の存在にも、それなりに意味があるのやもしれん。
政治学には、「統治のくもの巣」なる言葉があるらしい。本書は政治の実態をフェルト化現象で説明する。

「歴史上、今日ほど政府が突出した存在になったことはない。1900年頃の最も独裁的な政府さえ、今日最も自由な国において税務署が日常行っているほどには、市民のプライバシーに踏みこまなかった。ツァーの秘密警察さえ、今日当然とされているほどの公安調査は行わなかった。1900年頃のいかなる官僚も、今日政府が企業、大学、個人に記入させているほどの数字の詳細は求めなかった。しかも政府は、あらゆる国において、最大の雇用主となっている。そして政府は、あらゆるところへ進出している。しかし、それは本当に強力なのか。たんに太って巨大になっただけ... まったくのところ、政府は病んでいる... この政府への幻滅こそ、今日の最も深刻な断絶である。」

組織や政府が当てにならないとすれば、あとは個人のあり方が問われる。一流の人材を育てるには、できるだけ多くの人間に教育を与えることだという。イタリアのルネサンスしかり、日本の桃山時代しかり、オランダのレンブラントやルーベンスの時代しかり... と。
大学は多様な人材を必要とする。博士号を重視し、狭い専門分野を研究することは、知識をないがしろにするという。そのような種類の人間も必要だが、それぞれの分野に少しいればいいと。
多様な人材という意味では、アメリカにその強みがあったが、本書が刊行された時代に知の流出に警鐘を鳴らし、マネジメントの必要性を強調する。それは、組織のマネジメントばかりか、個人のマネジメントも含まれる。
しかしながら、個人は集団の中に埋もれ、ソーシャルメディアに埋もれていく...

「権力を馬鹿にすれば、悪用される。組織の力は使わなければならない。それは現実の存在である。理想をもつ者がどぶに捨てれば、どぶさらいがそれを拾う。教育ある有能な者が責任をもって使わなければ、無能で無責任な者がその座に座り、権力を振るう。社会的な目的に使わなければ、自らの目的に使う者の手に渡る。せいぜいのところ、自らの臆病さのゆえに専制者となる者の手に渡るだけである。」

2026-07-19

"道徳感情論(上/下)" Adam Smith 著

「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても...」
こう書き下ろすアダム・スミス。経済学の父と呼ばれる彼は、人間の本質に身を委ねる意義や自由な経済活動の意味といったものを論じて魅せる。
尚、水田洋訳版(岩波文庫)を手に取る。

後に、自由放任主義の礎となり、レッセフェール!や、神の見えざる手!といったスローガンに結びつけられるものの、そうした風潮に反発するかのように、自由で平等な個人の平和的共存は可能か、それは権力の介入なしにいかに可能か、と問いかける。そして、いかに利己的な人間であろうと、その根底に道徳原理があるからこそ... 自由とは、自己抑制の能力との調和においてこそ,,, と説く。伝統的な哲学の問題に、人間は生まれつき善か悪か、というのがあるが、スミスもまたそれを問うかのように...

人間が人間足るとは、どういうことか。道徳ってやつは上から目線で論じられるところがあるが、それほど高貴なものなのか。不遇が人を冷徹にするところもあるが、幸せすぎることが人を残酷にするところもある。平和的共存ってやつは、社会の中でしか生きられない個人の集まりから自発的に、しかも自然に築かれるものなのか。それは普遍原理と呼べるものなのか...

スミスの道徳感情論は、経済理論との間で利他心と利己心の狭間をさまようかのように記述される。自由放任主義を唱えれば、欲望を解き放つ議論になりかねないし、現在でも、経済学を学ぶと利己的になる... といった意見を耳にする。欲望のあり方を論じれば野心を増幅させ、どこかで歯止めが必要となる。それを、スミスは自己規制の原理として語る。同感や共感といった利他的情念が、義務の観念を呼び、正義の観念を呼び覚ますと...

古くから、徳は愛に発するとする考えがある。しかしながら、自愛心は利己心と矛盾しない。人のすべての情念が自己愛と結びつくのも事実。人は自己を愛されることを強く望む。
となれば、徳はいかに可能であろうか。知識によるか、忍耐によるか、慣行によるか、自己犠牲によるか、様々な要因や条件が考えられるが、徳や知恵も、悪徳や愚行も、人間が自然に具える本性。人間には、最高善に従おうとする意志が本能的に備わっているようでもある。
だが、善にも、悪にも、あらゆる人間の情念が暴走する可能性を秘めている。行き過ぎた道徳感情が、社会に害をなすこともあれば、行き過ぎた正義や行き過ぎた義務が、個人を追い詰めることもある。

スミスが生きた時代、封建的な道徳観念を批判し、個人の尊厳を唱えることの意味は大きい。同感、共感といった情念を、商品と同じように交換する議論。そこに正義や義務の概念を絡ませ。正義とは、互いの自由を侵害しない、等価の交換価値をいい、この点において経済活動と道徳感情を結びつける。

それにしても、言葉の扱いは難しい。道徳感情を経済学的な交換価値の一つとして捉えれば、道徳そのものが陳腐なものに見えてくるし、経済学用語が人間の本質を陳腐なものに見せちまう。
だが同時に、主観的な感情論から距離を置き、客観的な視点を与えるという見方もできる。本書に、価値交換の原点と自由主義の原点を見る思い...

2026-07-12

"経済学原理(上/下)" Thomas Robert Malthus 著

富とは、なんであろう...
ありふれた言葉だけに、きちんと定義したものを見かけない。豊かさとも、ちと違う。物質的な豊かさと精神的な豊かさとを区別するなら、経済学が論じることのできる領域は前者ということになろうか。
ただ、物質的な豊かさを精神的な豊かさで補うことはできても、その逆はできそうにない。結局、幸せとはなんであろう... という問いに帰着する。しかし、幸せという概念も一筋縄ではいかない。経済学に精神的な豊かさまで求めても... 経済学者に、人類を救え!などとふっかける気にもなれん...

トマス・ロバート・マルサスは、富と価値を区別し、生産と分配の側面から経済原理を論じて魅せる。その語り口は、どこか人口論の影を引きずっているような... 地球の限られた資源を暗示しているような...
また、本書には、デヴィッド・リカードの名が散りばめられる。議論の対象として。だが、二人は反目しあってはいない。生涯で本音で議論し合える人物に巡り会えるのは、幸せであろう...
尚、小林時三郎訳版(岩波文庫)を手に取る。

人生の意味を労働に求める考えは、ヘーシオドスの時代から語り継がれる。しかも詩的に。労働や勤勉に価値を求める哲学は、アダム・スミスも、マルサスも継承しているようで、21世紀の今でも散見する。
マルサスは、労働を生産に結びつけ、生産による利潤と非生産による利潤を区別する。あらゆる階級の生産活動を国力に結びつければ、国富論も成り立つ。過剰生産は、かつての経済学者たちが論じてきたように、長期的には相殺もされよう。だが、仮想空間に編み出された価値となると...

資本蓄積のために節約を論じた時代から、資本拡大のために投資を論じる時代を経て、いまや、自然増殖する仮想価値から消費を煽る時代か。地代や労働賃金、あるいは資本の利潤で論じられた時代は、なにやら懐かしい。需要と供給の関係ですべて説明のつく社会は、なんとなく心が落ち着く。

生産や労働の概念も、時代とともに随分と変化したものである。お金に執着すれば道徳観を疑われるが、お金のおかげで安穏と生活できるのも事実。自由とは、その人の能力に依存するというのは一理ある。人間の欲望が、その人間の能力に比例するという見方も...
しかしながら、人には生まれ持つ環境や条件がある。労苦なしに得られる収入や財産など。貯蓄にしても、個人の神聖な義務となるところがある。老後にお金をため過ぎて処理に困るといったことが、本当に豊かなのか。巨額なローンを頼りに欲望を満たす社会が、本当に豊かなのか...

お金持ちほど節約家だったりする。いや、お金の使い方が合理的と言うべきや。人間の合理性には、物的合理性と心的合理性がある。お金との付き合い方のうまい人は双方の按配をよく心得ていると見える。
経済循環とは、分配や再分配を促すものであろうが、節約よりも浪費の方が合理的な側面がある。金は天下の回りもの!実際、金融政策は、消費を煽ることばかり。マルサス風に言えば、「生産という名に値しないもの」があまりに多すぎるのか。
では、生産に値するものとは。少なくとも生産費用に等しい価値を生み出すもの... などとするなら、貨幣価値という幻想を追いかけている気分にもなる。

お金を得る手段ともなれば、利息所得や配当所得、あるいは相続財産ばかりか、貨幣を右から左に流す金融業や情報を右から左に流す広告業など、様々な非生産的形態がわいてでる。いや、生産の仮想化と言うべきや。
権力を右から左に流す政権業まで、すべてがお金と結びつくから、資本主義経済、恐るべし!この経済体系では、投資家が経済循環に大きな役割を担うが、その反面、なんでも資本にしちまう、お化け経済にも映る。人類は、貨幣を自然増殖させちまう巨大な経済システムを出現させちまった。発明者自身が制御不能なほどの。エントロピーの法則に照らすなら、貨幣に始まる仮想価値の暴走は、まだまだ序の口やもしれん...

「食物にたいする欲望は、あらゆる人の胃の腑にかぎりがありので、それによって制限されるが、建物、衣服、什器および家具というもろもろの便宜品および装飾品にたいする欲望には、なんらの限度もなければ一定の限界もないように思われる。」
... アダム・スミス

2026-07-05

"理論経済学の本質と主要内容(上/下)" Joseph A. Schumpeter 著

物事の本質を問えば、その素となるものを求める。哲学するとは、そういうことか。では、経済学にとっての素とは、なんであろう。
本書は、「純粋経済学」という語を用い、「アプリオーリ」「動学」という語をちりばめる。
カントは、人間の純粋認識として、時間と空間の二つを挙げた。
シュンペーターは、理論経済学の要素として土地、労働、資本は元より、財産の所有と権利といった帰属意識や価値観念を通して、価格理論、貨幣理論、貯蓄理論、分配理論、賃金理論、地代理論、利子理論を論じて魅せる。そして、これらの理論をニュートン力学との類似性に照らし、経済学の運動法則を探る。彼は、こうした視点を「変化法」と呼称し、従来の経済理論を、静学的な洞察から動学的な洞察へ発展させようと試みる。
尚、大野忠男、木村健康、安井琢磨訳版(岩波文庫)を手に取る。

「『すべてを理解するとはすべてをゆるすことである』という格言には、もっともな意味がある。一層適切にはなお次のように言うことができよう。すべてを理解する人には、ゆるすべきものは何もない、ということが分る、と。そして、このことはまた知識の世界にも妥当する。」

プトレマイオスの体系がコペルニクスの体系に屈したように、現代の理論もまた新たに見い出される理論に屈するのであろう。それが歴史というものか。スミスの富みの概念も、リカードの体系も、マルサスの原理も、経済学の発展に意義あるものであった。悪評高きロビンソンモデルにしても、そのまま吐き捨てるのでは、ちと惜しい。古典理論は、その時代背景を十分に考慮せずに先に進むと同じ轍を踏む。それを賛美しようが、非難しようが... 本書は、そうしたことに警鐘を鳴らしているような気がする。

学問の視点は、合理性や効率性を意識しすぎる感がある。それは、経済学に限ったことではない。欲望や利潤の最大化を見積もることは、現実離れしていないか。均衡状態なんてものが本当に存在するのか。経済学では、価格と効用が同義語ごとき扱われる。限界効用とは限界苦痛のことか...

しかしながら、何事も極限を考察することには意味がある。少なくとも学問的には。極限を記述する強力な道具に微分方程式があり、いまや経済理論の組み立てに欠かせない。
但し、これをそのまま鵜呑みにした経済政策は、しばしば弊害になる。それだけ経済状況は、カオス下にあるってことだ。シュンペーターも、「すべての理論は不完全!」とつい漏らしているが、おそらくそれが本音だろう...

そこで本書は、あえて人間性や心理的要件を排除する立場をとり、価格、貯蓄、分配、賃金、利子などの素朴な変動に着目することを表明している。数学的な記述は無味乾燥な議論にも映るが、そうした視点が逆に、人間と経済の棲み分けを暗示する。
実際、自由競争といえば、人間の自由行動に目を奪われがちだが、貨幣や資本そのものが自由に動き回り、もはや人間の手に負えない。人間を介さなくても、現実に交換関係は生じ、取引は成立する。おまけに、AI の参入とくれば、いよいよ人間は無用の産物か...

需要曲線と供給曲線の交差点で均衡状態を論じても、時間とともに曲線は左右に移動し、価値関数はいつも右往左往。享楽曲線や不快曲線も変化に富み、すべての相互依存関係から運動法則を見い出すのは、絶望的ですらある。それは、経済学だけでなく、心理学しかり、社会学しかり、そして、科学しかり。もはや経済学だけに、貧困問題を押し付けるわけにもいくまい...

ところで、「資本」というのも不思議な用語である。あらゆる価値を資本の一言で説明できちまうのだから。
例えば、不動産も、労働も、投資も、資本財となり、人材資本なんてものもある。
金融業ともなれば、他人からの投資まで自己資本として計上しちまう。返済義務が生じなければ、なんでも自分のもの!あとは自己責任で!あらゆる資本の間で依存関係が生じ、なんらかの奴隷制が成立する。
そもそも資本主義とはなんぞや?共産主義という語は分かりやすい。みんなで共に生産経済を発展させよう... などと綺麗事を並べれば、人間の本性をむき出しにするだけのこと。共産主義社会にも資本の概念はある。これに上級官僚や金持ちが群がるって寸法よ。ユートピアは人間にとって悪夢か...

2026-06-28

"ピュロン主義哲学の概要" Sextus Empiricus 著

真理の探求には、三つの立場があるという。それを見つけたと主張する者、それは永遠に見つけられないと主張する者、そして、結論を急がず、探求し続ける者とが...
人間の認識能力が不完全であることを認めれば、客観的な考察までも疑問視する。常に悠然と構え、何事にも疑いの目を向ける態度は、巷では懐疑主義と呼ばれる。それは、探求と考察を継続することから探求主義とも、あるいは行き詰まり主義とも...
この世には、判断を保留せねばならぬ事柄で溢れている。懐疑主義の第一の目的は、ドグマに毒されぬよう注意を払うこと。だからといって、すべての知識を否定するような独善的懐疑主義にも御用心!健全な懐疑心と啓発された利己心こそが、知の原動力となろう。しかしながら、この態度を保ち続けることは至難の業...

おまけに、人間のあらゆる認識や判断は相対的である。善や悪も、理性や正義も。人間は、万物の尺度を相対的にしか把握できずにいる。そのことを、常に心得ておくべし!これが、「ピュロン主義」というやつか。
この呼称は、古代ギリシアのピュロンという人が、懐疑的な考察に専心し、慎重な言い回しに徹したことに由来するという。そこには、無知を自認してこそ思考は深められる... というソクラテス哲学にも通ずるものがある。
古代ローマの叙述家セクストス・エンペイリコスは、自らの経験主義的立場から古代懐疑主義を物語ってくれる。エピクロス派やストア派を批判する立場をとりながら、アカデメイア派とも一線を画し...
尚、金山弥平、金山万里子訳版(西洋古典叢書)を手に取る。

なにゆえ哲学をやるのか。平静や節度ある態度で真理に挑むも、真偽の判断を下したがために動揺し、善悪を決定づけたがために抑制を失い、正義を掲げたがために横暴となるのでは、何をやっているのやら。
理性にも、二つあるという。内にある理性と言葉で表される理性とが。理性は、徳と結びつき、正義とも結びつきやすく、それだけに言葉で操られやすい。プラグマティストは、どうあるべきだ!こうするべきだ!と声高に唱える。だが、理性とは、自制心によって支えられるもの。自分の理性に自信満々でいられるのは、すでに理性が暴走していると見るべきや...

宇宙の摂理は完全かもしれない。が、人間が知りうる摂理は不完全!古代の哲学者たちは、そのことに思いを馳せ、人間は人間自身を知りうるか?と問い続けた。プラトンが、人間は羽のない二本足の動物と定義した時、それで人間の正体を確信したわけではあるまい。アリストテレスが、人間は社会的動物であると定義した時、それで人間社会の正体を確信したわけではあるまい。パスカルが、人間は考える葦であると定義した時、それで人間の存在意義を確信したわけではあるまい。はたまた、言葉でうまく説明できないからといって、それをまったく知りえないということにもなるまい。
デモクリトスが、原子論を唱えた時、そこに実存と空虚の共存を見る。存在とは、虚像と結びついて成り立つ概念か。精神や魂も、理性や真理も、徳や正義も、そして、神も。神が不敬虔者のみを罰するなら、神にも悪意があると言わねばなるまい。

人間が常に平静を保ち、自然体でいることは至難の業。それゆえ、時として説得力のない議論に耽り、思い上がりや性急さを鎮めるために、あえて答えの得られない問答を繰り返す。真に理性を得ようとすれば、何事も自問自答を繰り返すしかなさそうだ。結論も控えめに...
しかしながら、人間社会には、自信満々に断言する者ほど目立ち、これを大衆が支持するという構図がある。二千五百年もの年月を経ても尚、懐疑心と批判精神を科学することは難しい。あの世で、ピュロンは愚痴ってるやもしれん。私はピュロン主義者ではない!と...

2026-06-21

"芸術とは何か" Susanne Katherina Langer 著

S. K. ランガー女史には、人間が物事を表象的に捉える認識過程からシンボル哲学なるものに魅せられた(前記事)。ここでは、芸術哲学とやらに魅せられる。
シンボル化という感性は、人間の思考プロセスに根源的に組み込まれているらしい。それが意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ...
尚、池上保太、矢野万里訳版(岩波新書)を手に取る。

「感覚的形式を通しての表現能力は、着想力の必要に応じて成長する。芸術の目標は洞察であり、感情の本質的生命の理解である。だが、すべての理解は抽象化を必要とする。... シンボル化を伴わないところに理解はなく、抽象化を伴わないシンボル化もない。... 実存をまったくそのままに伝達しようと努めるのは無意味である。経験自体さえ、そのようなことはできない。私たちは理解する事柄を観念するのであり、観念作用は常に定式化、表示、抽象化を伴うのである。」

芸術とは、SM の世界か。芸術家たちは極めて独断的に仕掛けてくる。しかも、独善的ですらあり、S のなせる業!
しかしながら、鑑賞者の側に感じるものがなければ、そこに芸術は成り立たない。素直に感じたければ、M にもなるさ。もはやカノンの虜よ!
人間の認識力には、事物を抽象的に捉える機能がある。これを具現化する技術が芸術ということになろうか。その技法の極地は、美的啓示と至高の芸をもたらすが、巧妙な欺瞞の芸にもなりうる...

「芸術は技術である。だがそれはある特別な目的、すなわち、表現形式、つまり本然の人間的感情を打ち出して、視覚、聴覚、または、想像力を通して知覚できる形式を創造することを目的とする技術である。」

芸術は哲学でありうるだろうか。無論学問分野として、芸術と哲学は別物。
しかしながら、どんな事物であれ、そこに哲学的思考を見い出せないものはない。その意味で哲学とは、摩訶不思議な学である。存在意識が絡むから、そうさせるのか。存在という意識があやふやである以上、いかようにも解釈できる...

人間の思考は、言語を通じて強化され、概念となる。人間は思考段階を登っていく上で、その場その場で表象的な何かを求める。内面を投影する仕掛けとして、シンボルやイメージ感覚のようなものを。空間とは何か、時間とは何か、そして、そこに存在するものとは、自己とは... などと問うだけで哲学的思考へ導かれる。

芸術は、内面と強く結びつくだけに、実に多くの哲学的問題を提起する。芸術家は表象を超えた何かを創造し、鑑賞者も負けじと表象を超えた何かを想像する。それが、芸術の意義というものか。
芸術空間は、一つの仮象であり、空想的幻影であり、虚空間であり、それでいて純視覚的空間で覆い、その全体がヴィジョンを提示する。そして、実在と概念を結びつける思考過程で、その思考そのものが哲学的であることを知らしめる。
芸術作品に癒やされるのは、それが真理へ導くからであろうか。おそらく、真理そのものが重要なのではあるまい。真理へ近づこうとする過程こそが...

「科学は普遍的表示作用から緻密な抽象化に進み、芸術は緻密な抽象化から、普遍性の援用をまつことなく、生命的内包作用に進む...」

2026-06-14

"シンボルの哲学" Susanne Katherina Langer 著

人間の思考は、物事を象徴的に捉えるところがある。それは、どこに発するのか...
最も顕著なものに、言語現象がある。それは音声に発し、記述の仕方を経て概念と化し、記号論や構文論に至る。言語は、人間が思考する上で極めて重要な役割を担う。それはコミュニケーション手段だけでなく、自己意識や存在認識などにも寄与し、おかげで、より多くの知識を得、学ぶ意欲を高める。その反面、欺瞞に惑わされ、感情が煽られることもしばしば...

こうした意識過程をより抽象的に捉えると、シンボルという概念が浮かび上がる。美術や音楽も、祭典や儀式も、人間は認識できるものすべてをシンボル的に捉えているところがある。
S. K. ランガー女史は、言語の論理的機能と感情的特性、聖礼や神話の発生源、音楽や芸術の意義といったものを、シンボル化という根源的な意識に照らしながら論じて魅せる。
尚、矢野万里、池上保太、貴志謙二、近藤洋逸訳版(岩波書店)を手に取る。

「哲学史上、どの時代にもそれ独特の先入見が存在する。各時代の問題は、政治的理由とか、社会的理由などの一目でわかる実践的な理由のためではなく、知性の発達に伴なういっそう深遠な理由のために、各時代に特有なものとなっている。」

人間は、認識できるものすべてに意味を与えようとする。まずは、一個人が生きる意味とは何であろうか... と。自己を象徴的な存在とすれば、自我を肥大化させるばかりか、無意味なものには拒絶反応を示す。精神そのものが非合理的な存在でありながら、認識をとりまく存在となると、そのすべてに合理性を求めてやまない。これぞ人間の性癖か...

確かに、言語では表記できない領域がある。しかも、それは思いのほか広大ときた。無意識の領域がそうであるように。そんな領域にまで意味を与えようとする意識が、シンボル化の原動力になっているのだろう。実践的なヴィジョンは行動のための指針を与えるが、これもまた心の中でシンボル化される。ある種の依存症か。となれば、人間にとって物資の欠乏よりも、シンボルの欠乏の方がより深刻なのやもしれん...

シンボル化という抽象的な意識が具体的な言語で記述され、芸術やら科学やらに投影されると、明確な定義を与える前に何らかの解釈を施さずにはいられない。やがて、解釈という行為は義務と化し、学術的な権威をまとうことに。仮説の有用性とは、そうしたものであろうか...

芸術や音楽は、居心地の良さを提供してくれるばかりか、自己の居場所を与えてくれる。人間は意味のある場所が与えられると、心が落ち着く。それが幻想であろうと、幻想だと知りつつも...
人間の有意義説に縋る性癖は、抑えられそうにない。人間は生涯を通して、意味と解釈の狭間で無意味の充満する世界を有意味で充填させようともがく。ただそれだけのことやもしれん...

「自由の本質は目的の実現可能性なのである。人類は、自己の主要な目的の挫折のために、種としての人類の定義そのものに属しているような目的さえも挫折したために苦悩してきたのである。シンボル的過程のどんな失敗も、われわれの人間的自由を廃棄させるものである。」

2026-06-07

"マキャベリの名言" 矢島みゆき 編訳

「君主論」に触れたのは十五年ほど前。そして、共和国に焦点を当てた「フィレンツェ史」やディスコルシこと「ローマ史論」にも触れてみたが、未だ消化不良!マキャベリの政治思想に少しでも近づけるよう名言集を手に取るも...

名言の効用とはなんであろう。行動指針の一つに、言葉で説明できるか、ということがある。言葉は動機を明確にし、やるべきことも明らかにし、名言はそれを後押ししてくれる。

「言葉で表現できる行動をせよ!」

おいらは、完全に一貫性を持った著述家を知らない。どんな著述家も、どこか多面性を具えている。偉大な著述家ともなれば抽象レベルが高く、それゆえ勝手な解釈や誤った解釈を招き入れる。
だとしても、彼らの著作はそんなものまで呑み込んじまうから、そりゃ、飲まずにいられない。まぁ、理解からは程遠くても、偉人の言葉というものは生きてゆく上で励みとなる。凡人ばかりか、凡人未満にも... 愉快!愉快!

「ともかく現在に生きよ。過去の豊かさから学ぶことを忘れず...」

こと政治の世界では、理想郷を掲げると、逆の形が出現する。憎悪ってやつは、悪行からだけでなく、善行からも生じる。どんなに優れた政体を打ち立てようとも、どんなに高尚なイデオロギーを掲げようとも...

「ダンテは言う、過去の歴史を学ぶことこそが科学であると。また、学んだ歴史について人と語り合うことも科学である。」

古くプラトンは著作「国家」の中で政治指導者に哲学者を据えた理想像を描き、マキャベリは著作「君主論」の中で政治に必要な力量と決断力を持つ君主像をちらつかせた。
しかし、どんなに優れた政治指導者が出現しても、これに続く者は愚人ども...

古くアリストテレスは、最高の政体は君主政で次が貴族政、そして最悪な政体が民主政と愚痴めいたことを弟子たちに漏らした。マキャヴェッリもまた、「フィレンツェ史」や「ローマ史論」を通して共和国の欠点を炙り出した。
現実に、君主はすぐさま僭主に成り下がり、貴族は贈賄の類いにまみれ、民衆とて移り気が激しく暴徒の群れと化す。人間が人間を統治するには、善だけでは不十分!善も悪も人間の本質であり、やはり社会には法というものが必要なようだ。統治する側にも、統治される側にも...

「時の経過がもたらす各種の恵みを楽しむと良い。時はあらゆる種類の出来事をもたらしてくれる。悪に似た善や善ともまごう悪を...」

どんなに善良に生まれつこうが、どんなに優れた教育を受けようが、人はやすやすと堕落しちまう。自らの野心に踊らされ、他人の悪徳に誘われ、やすやすと悪事に手を染める。人間とは、そうしたものだということを心得ておく必要がありそうだ。偉人たちから何を学ぶか。それは、善行だけでなく悪行からも...

「卓越した人物は、どのような環境に置かれても常に変わらない。運命が彼らを高い地位に就かせたり、あるいは虐げさせたりすることがあっても毅然として変わらず、常に不屈の心を持ち続けることができる。」

2026-05-31

"ローマ史論(全三巻)" Niccolò Machiavelli 著

「ディスコルシ」こと「ローマ史論」...
ニッコロ・マキャヴェッリは、歴史家リウィウスの大作「ローマ建国史」から最初の十巻に着目し、政治論を論じて魅せる。「君主論」と補い合うように...

古くプラトンは、著作「国家」の中で政治指導者に哲人を据えた理想像を描いた。だが、どんなに優れた政治指導者であろうと、これに続く者は愚人ども...
マキャヴェッリは、著作「君主論」の中で政治に必要な力量と決断力を持つ君主像を描いた。だが、どんなに優れた政体を思い描こうと、どんなに高尚なイデオロギーを掲げようと、結局は現実に引き戻される。
あとできることと言えば、なんであろう。「すべての道はローマに通ず...」というが、やはり原点に立ち返ることか。共和国の原点、ここにあり!と...
尚、大岩誠訳版(岩波文庫)を手に取る。

「平等の存するところ、君主国にはなり得ぬ。それの存せぬところ、共和国とはなり得ぬ。」

人間が編み出した政体は、大まかに三つ。君主政、貴族政、民主政が、それである。だが、それぞれに深刻な欠点を抱え、僭主政、寡頭政、衆愚政となるも紙一重。
古代ローマの場合、その起源は王国に始まり、やがて共和国となり、強大な帝国へと発展していったが、その基盤となると、最初期から共和国になるまでにほぼ確立されていたという。

まず、偉大な精神は、始祖ロームルスに始まる伝説の王たちによって築かれる。その支柱に据えられたのが、自由精神。マキャヴェッリは主張する。「ひとつの都が存続するには、自由人の力によらなければならない。」と...
賢君が二代続けば、精神的影響は大きい。三代続けば尚更。古代ローマの場合、七代続いて共和国へ導いた。その過程で、創立者たちの叡智が伝統精神として法に刻まれ、法の精神を育んでいく...

次に、国家の在り方は、三つの要素で力関係を均衡させていく。統領、元老院、護民官がそれである。統領は君主とその取り巻き連中。元老院は貴族や上流階級で構成されて国家の最高機関となり、いわば統領のお目付け役。護民官は平民の代表で、国の隅々にまで政治機構を浸透させる役割がある。
この時点で平民の意向がどれほど反映されるかという問題は残るにせよ、後に護民官を選出する平民会が大きな存在感を持つことになる。こうした三要素を具えた政体は、君主制、貴族制、民主制の混合物という見方もできよう。ここに分権の起源を見る思い...

更に、宗教が絡む。帝国の時代にはキリスト教が国教とされ、教会の権威が加われば政治の主導権はいずこへ。政教分離の思想は、こうした有り様からも見い出せよう...

そもそも国家とは何か、本当に必要なのか。そして、その形が、なぜ共和国なのか...
自由精神こそ鍵というわけだが、政治指導者を選ぶ自由は民衆にあるか。政体を選ぶ自由は民衆にあるか。自由は妥協との折り合いの中で成り立つ。それが正当かは、ただ信じるのみ。自由とは、信仰の類いか。少なくとも、自由は自己抑制との釣り合いにおいて行使される。善には制約があるが、悪にはそれがない。

国家には、当たり前のように付随する法というものがある。そもそも法とは何か、本当に必要なのか...
法は悪に対するものとなり、法の下での正義は駆け引きの道具となる。せめて復讐心が伝染せぬよう願うばかり。結局、毒をもって毒を制す!の原理に縋るほかはないのか...
こと政治の力学では、高貴な理想を掲げるほど泥沼にハマる!恐怖、憎悪、嫉妬といった情念は、人間の本質であり、これを避けることはできない。確かに、人間は聖人になりきることはできないが、悪魔になりきることもなかなか難しい。それがせめてもの救いか...

政体は時代とともに変化していく。変化こそ不変!ゆえに、何事も改善は必要であろう。それでも、基本精神を見失うな!というのが、マキャヴェッリの立場。確かに、古代ローマのそれは理想に程遠い。三千年を経た 21 世紀の今でも...
そもそも理想がどんなものか、そんなものが本当にあるのか、ますます分からんよ... マキャヴェッリ先生!

「政治や歴史上の数多の事例を取り扱ったひとたちの挙って説明することに従うと、国家を建設し国宝を制定するものとしては、何よりも先に、人間はすべて悪人で、思う通りに振る舞う機会があればすかさず其の非道ぶりを発揮して私欲を満たそうと身構えていることを常に考えている必要がある。」

2026-05-24

"フィレンツェ史(上/下)" Niccolò Machiavelli 著

権力者といえば... 悪の権化、冷徹で狡猾な独裁者... といったダーティーなイメージがつきまとう。だが、共和国精神の根付いた地域では、人間的な面を併せ持つ政治指導者を言うらしい。とりわけフィレンツェの地には、共和制ローマから脈々と受け継がれる伝統精神なるものがあるとか。
ニッコロ・マキャヴェッリは、「君主論」で政治的な力量を備えた人物を論じて魅せた。本書では、フィレンツェ共和国の発祥から、その黄金時代に君主的存在となったロレンツォ・デ・メディチの死までを物語ってくれる。いわゆる「偉大なるロレンツォ」を「君主論」に、ある面で重ね、ある面で反するかのように...
ここでは「すべての道はローマに通ず...」という格言を引いて、「それはフィレンツェを経て...」と付け加えておこう。
尚、齊藤寛海訳版(岩波文庫)を手に取る。

アリストテレスは、最高の政体は君主制で次が貴族制、そして最悪が民主制と愚痴めいたことを弟子たちに漏らした。しかし、君主は野心のために僭主に成り下がり、貴族もまた贈賄の類いにまみれ寡頭化し、民衆とて移り気が激しく暴徒の群れと化す。それでも、比較的ましなのが民主制ということになろうか。
人間の集団性はことのほか手ごわい。権力ってやつは、一部に集中したり、肥大すると、社会の弊害になるものらしい。それは、人間の本質であろうか...

マキャヴェッリは、フィレンツェ史を通して共和国の長所と短所を炙り出し、あるいは、共和国にあるべき君主像をちらつかせ、いずれ出現する近代国家の礎となる権力分立や政教分離といった政治思想へ導くかのように物語る。彼もまた、アリストテレスのように共和国の行く末を案じていたのであろうか。
権力ってやつは、強すぎても、弱すぎても、腐敗するものらしい。しかも、腐敗の伝染力は極めて強い。どんなに優れた政体を取り入れようと、どんなに高尚なイデオロギーを思い描こうと、すぐさま現実に引き戻される。

概して、共和国には破滅を運命づけられた大家があるらしい。メディチ家もそうした家の一つだったのか。絶え間なく繰り広げられる権力抗争の裏で、憎悪、敵意、対立から党派が生まれ、処刑、追放、静粛の横行。貪欲と野心でのし上がる者ども。力ある者が力なき者を足蹴りし、才ある者が才なき者の鼻面を引き回す。これが人の世か...
支配者の命令したいという欲望と民衆の隷従したくないという願望が衝突し、少しでも権力を手中にすると、自己顕示欲を膨らませ、権威主義に陥る。
現代、民主主義や自由主義の対極に権威主義や全体主義が配置される。だが、独裁者を生み出すのは、民衆だ!
自由主義者は全体主義を忌み嫌い、全体主義者は個人を生かすためと称して民衆の結束を強いる。結束が維持できなければ、自由が悪魔と結託し、個人を抹殺にかかる。実は、自由主義と全体主義は表裏一体なのかも...

政治指導者が、いつも市民を監視していなければならないとすれば、なんと滑稽な社会であろう。自由とは、権限を持つ側の論理か、それとも与えられる側の論理か。平等とは、それを主張する者の論理か、それとも発言すら許されない者の論理か。そして、正義とは誰の論理か。
極端なことを言えば、基本的人権以外に権利は必要なのか。どんな聖人君主が命令を下そうとも、それを行うものは愚人。愚人の行動には、模範的な規定と、具体的な条文が必要なようだ。おかげで、法の条文は増すばかり。エントロピーのごとく。これに教皇の権威と戒律が加われば、エントロピーの勢いは増すばかり。政治と宗教の力学原理は、すこぶる似ている。やはり分離した方がよさそうだ...

自由ってやつは、奪うものでもなければ、与えるものでもあるまい。巷には自己責任論が渦巻き、自由主義に内包される責任に耐えられなくなると、権威主義に傾倒していく。民主主義や自由主義にとっての最大の脅威は、権威主義でも全体主義でもなく、それ自身にあるのかも。敵が己自身にあるとすれば、これに対抗できるものは... 基本的人権とは?法のあるべき姿とは?人間足らしめるものとは?と、その原点を問い続ける他はあるまい...

「国々は、大多数の場合、それぞれが変遷していく過程で、秩序のある状態から秩序のない状態へ、それからまた新たに、秩序のない状態から秩序のある状態へと移行する。なぜなら、この世のことに対して、自然は静止することを許さないからである。国々は、最終的な完全さに達したら、もうそれ以上は上昇することがなく、下降するしかない。同様に、下降するとなると、無秩序のせいで最低の状態にまで達するが、必然的にそれ以上は下降することができず、上昇することになる。
  ...(略)...
武勇は平穏を生み出し、平穏は無為を、無為は無秩序を、無秩序は破滅を生み出し、同様に、破滅からは秩序が、秩序からは武勇が、武勇からは栄光と幸運が生まれるのである。
  ...(略)...
だから、分別のある人は、教養は武力の後にやってくること、国家や都市では最初は哲人ではなく、武人が生まれるのを観察することになる。」