真理の探求には、三つの立場があるという。それを見つけたと主張する者、それは永遠に見つけられないと主張する者、そして、結論を急がず、探求し続ける者とが...
人間の認識能力が不完全であることを認めれば、客観的な考察までも疑問視する。常に悠然と構え、何事にも疑いの目を向ける態度は、巷では懐疑主義と呼ばれる。それは、探求と考察を継続することから探求主義とも、あるいは行き詰まり主義とも...
この世には、判断を保留せねばならぬ事柄で溢れている。懐疑主義の第一の目的は、ドグマに毒されぬよう注意を払うこと。だからといって、すべての知識を否定するような独善的懐疑主義にも御用心!健全な懐疑心と啓発された利己心こそが、知の原動力となろう。しかしながら、この態度を保ち続けることは至難の業...
おまけに、人間のあらゆる認識や判断は相対的である。善や悪も、理性や正義も。人間は、万物の尺度を相対的にしか把握できずにいる。そのことを、常に心得ておくべし!これが、「ピュロン主義」というやつか。
この呼称は、古代ギリシアのピュロンという人が、懐疑的な考察に専心し、慎重な言い回しに徹したことに由来するという。そこには、無知を自認してこそ思考は深められる... というソクラテス哲学にも通ずるものがある。
古代ローマの叙述家セクストス・エンペイリコスは、自らの経験主義的立場から古代懐疑主義を物語ってくれる。エピクロス派やストア派を批判する立場をとりながら、アカデメイア派とも一線を画し...
尚、金山弥平、金山万里子訳版(西洋古典叢書)を手に取る。
なにゆえ哲学をやるのか。平静や節度ある態度で真理に挑むも、真偽の判断を下したがために動揺し、善悪を決定づけたがために抑制を失い、正義を掲げたがために横暴となるのでは、何をやっているのやら。
理性にも、二つあるという。内にある理性と言葉で表される理性とが。理性は、徳と結びつき、正義とも結びつきやすく、それだけに言葉で操られやすい。プラグマティストは、どうあるべきだ!こうするべきだ!と声高に唱える。だが、理性とは、自制心によって支えられるもの。自分の理性に自信満々でいられるのは、すでに理性が暴走していると見るべきや...
宇宙の摂理は完全かもしれない。が、人間が知りうる摂理は不完全!古代の哲学者たちは、そのことに思いを馳せ、人間は人間自身を知りうるか?と問い続けた。プラトンが、人間は羽のない二本足の動物と定義した時、それで人間の正体を確信したわけではあるまい。アリストテレスが、人間は社会的動物であると定義した時、それで人間社会の正体を確信したわけではあるまい。パスカルが、人間は考える葦であると定義した時、それで人間の存在意義を確信したわけではあるまい。はたまた、言葉でうまく説明できないからといって、それをまったく知りえないということにもなるまい。
デモクリトスが、原子論を唱えた時、そこに実存と空虚の共存を見る。存在とは、虚像と結びついて成り立つ概念か。精神や魂も、理性や真理も、徳や正義も、そして、神も。神が不敬虔者を罰するなら、神にも悪意があると言わねばなるまい。
人間が常に平静を保ち、自然体でいることは至難の業。それゆえ、時として説得力のない議論に耽り、思い上がりや性急さを鎮めるために、あえて答えの得られない問答を繰り返す。真に理性を得ようとすれば、何事も自問自答を繰り返すしかなさそうだ。結論も控えめに...
しかしながら、人間社会には、自信満々に断言する者ほど目立ち、これを大衆が支持するという構図がある。二千五百年もの年月を経ても尚、懐疑心と批判精神を科学することは難しい。あの世で、ピュロンは愚痴ってるやもしれん。私はピュロン主義者ではない!と...
