2022-05-29

"私の酒 「酒」と作家たち II" 浦西和彦 編

「酒と作家たち」の第一弾(前記事)では、酒にまつわる作家たちの逸話を、息子が語り、娘が語り、夫人が語り、先生と慕う人が語り、仕事仲間たちが語ってくれた。武勇伝ってやつは、なにも酒豪だけのものではない。酒に弱くても酒の勧め方の妙技が飛び出せば、一滴も飲めない下戸が酒宴に同化しちまうのも名人芸。酒の場で飲めない存在は無に等しいが、飲まずに飲み、人を飲み、場まで飲んでかかる。無を実在に変えちまう空間能力ときたら、呆気にとられるばかり...

そして、第二弾!
今度は、作家たち自身が酒哲学とやらを熱弁してやがる。酒は飲むべし、飲まれるべからず... という古びた言葉も、俗悪極まるアフォリズムとして語り継がれてきたが、真理であることに違いはあるまい。これに輪をかけて、酒は暇潰しに飲むもの... 酒について語ることは自己精神を語ること... などと能書きを垂れてやがる。
ちなみに、酒に落ちると書いて、お洒落... と能書きを垂れるバーテンダーがいる。棒が一本足らんよ...

この「酒と作家たち」シリーズは、四十年に渡って、たった一人の女性編集者の手で刊行された雑誌「酒」に掲載されたエッセイ集で、本書には 49 篇が収録される。佐々木久子の孤軍奮闘ぶりは、事務所もなく、電話もなく、文房具も机もないところから始まったとさ。西宮酒造(日本盛醸造元)の伊藤保平会長から、イキな言葉をかけられ...
「お金が無いなら、倉庫があいているから、家賃はいらないから使いなさい。そして家賃が払えるようになったら出て行きなさい...」

総合雑誌に掲載される論説などは、時代とともに色褪せてしまうものだが、こと酒の話題となると、逆に時代色が引き立ち、味わい深くなる。文章も、熟成させる方がよさそうだ。
とかくこの世は色と酒というが、酒を飲みながら仕事をやると悪行のような言われよう。罪悪感まで植えつけやがる。
しかしながら、思考を活性化させるための適量は、刺激剤になる。ブログを書く時は、きまってやる。それで筆の走りも滑らかに。筆が滑らかになるのだから、思考だって滑らかになるはず。無論、撃沈しちまっては本末転倒。ソースコードを書く時は、さすがにやらないにしても、着想の段階ではやっちまう。この手の書は、純米酒をやりながら読むと、書き手と対話しているような気分になり、独り酒の持ちがいい。文豪たちに、酔悼!

さて、落穂拾いならぬ、酔文(名文)拾いといこう...

「天地開闢以来、人智を以って考えだしたもの、古くは火から、新らしくは原水爆の儔(たぐい)に至るまで、数えきれないほど数多いなかに、自分でこしらえて置きながら、自分がとッちめられて、醜態を演ずる現象の最も著しいのが、金と酒とだ。あれば、これほど便利重宝なもののない金とはいえ、一旦ないとなったが最後、これほどまた人困らせなものもなく、一人で、二人で、家族づれの大勢で、この世におさらば、という結末へも、往々にして導かれる。... ところで酒だが、こいつもまた厄介な代物をこしらえて了ったもので、飲まれる奴ならそこらじゅうにウジョウジョいるけれど、さて飲む人間となると、めったに見かけられない。」
... 里見弴

「もう一つアタマがほしい二日酔い」
... 川上三太郎

「その薬の効用は、即ち、酔うこと。酔うことで大方の人間は疎外されていた自分をとり戻すことが出来る。忘れていた歌がよみがえり、薄れかかった郷愁が戻っても来る。まっとうな人間らしい感情で素直に人を恨んだり、殺そうと思ったり、手前を嘲けったり出来るのも酒が入れば尚だ。甚だ礼儀正しい人間でも酒をのんだらばこそ、気にくわない奴をぶんなぐりも出来ると言うものだ。」
... 石原慎太郎

「小説を書くものにとって、酒は欠かすことのできないものだという、私の主張の根拠は、酒は忘却をもたらしてくれるというところにある。」
... 野間宏

「ひと歌書き上げたあとの、反芻のときに呑む、孤独な、暗い酒ほどに美味いものを、私は知らない。歌一曲を太刀のごとく畳につきさして、世の中と対決しているような、ちょっとした緊迫感があるのだ。」
... なかにし礼

2022-05-22

"「酒」と作家たち" 浦西和彦 編

昭和の文学運動は、プロレタリア文学にしても、新興芸術派にしても、機関紙などの雑誌に結集するところから展開されたという。その風潮は戦後も続き、雑誌には何か社会を動かす力があると信じることのできた、そんな時代である。平成、令和と続くグローバルなネット社会から眺めれば、なにゆえこんな媒体に... という感は否めない。しかしながら、昭和を生きた酔いどれ天の邪鬼の眼で大正から明治へ遡ると、骨董品のような古臭さを感じながらも文豪たる生き様に魅せられちまう。令和を生きる人も、昭和の文豪たちに文学たる何かを求めたりするのではあるまいか。酒は年月が経つほど味わい深くなるというが、文豪たちが放つ色彩にもそうしたものを感じる、今日このごろであった...


1955年、株式新聞社から「酒」という雑誌が創刊されたそうな。その頃、佐々木久子が入社したが、赤字のため一年で廃刊となり、彼女も解雇されたという。まだ戦争の余韻が冷めやまぬ時代、国民生活も貧しく、酒の雑誌なんぞを読む余裕のある人が少なかったと見える。
そこに、火野葦平の言葉「死ぬまで原稿を書いてあげるから」。このひと言に奮起した佐々木久子は、1997年まで独力で刊行し続けたという。
本書には、この雑誌に掲載された作家たちの酒縁(酒宴)が、三十八篇も収録される。


私小説がもてはやされた時代、小説家というのは、酒にだらしなく、性にだらしなく、金にだらしなく... そんな芸術家像を思い浮かべる。それも、身を削る思いで自己を曝け出した結果であり、小説家が特別というわけではあるまい。巷には、酒に逃げずにはいられない人生や酒に溺れる人生に溢れ、酒に命を奪われる人生だってある。
ただ、言葉を生きる糧にする芸術家だからこそ、余計に感じ入るものがあるのだろう。入水心中があれば、ピロポン中かアル中かも見分けられない死に様あり、陽気な酒豪が睡眠薬自殺をしたり、文壇には破滅型人間で溢れている。遺書には「将来に対する唯ぼんやりした不安」やら、「漠然とある不安のため」といったものも見かける。自我の征服に失敗すれば、その存在すら許せなくなるのだろうか...


「酒は人間と同じやうに、醜悪で動物的である。酒は人間と同じやうに、無邪気で天真爛漫である。すべてに於て『酒は人間そのものに外ならぬ』(ボードレール)それ故にこそ、人間性の本然を嫌ふ基督教が、酒を悪魔の贈物だと言ふのである。」
... 萩原朔太郎


一方で、執念で酒人生を全うした小説家たち...
酒の上で決して矩を超えない亀井勝一郎に、じっくり延々と飲み続ける横綱級の井上靖に、酒鬼!梅崎春生に... と。彼らは酒が好きなのか、酔うのが好きなのか。銀座のクラブで知的な話術でホステスたちを惹きつける高見順がローソク病を熱弁すれば、君に酔うのが好きなんだよ!なんて台詞も聞こえてきそうな...


「俺が酒を呑むのは、経済的スリラーを忘れるためや。寝るときも大コップ一杯のウィスキーを呑む。それで寝られんなんだら朝まで起きてな、しゃあない」
... 富士正晴


雑誌のタイトルからして、酒豪の武勇伝ばかりかと思いきや、まったく逆の下戸の逸話も...
川端康成は、一滴も酒が飲めないのに、酒席を楽しむ様は名人芸であったとか。大宅壮一も大変な下戸だったらしいが、夫人の方はイケる口らしい。漱石の芸ともなると、体質的にアルコールを受け付けなかっただけではモノ足らず、「吾輩は猫である」の猫がビールに酔って水甕に落ちてお陀仏ときた。彼の筆の酔いっぷりときたら...
酒を飲むとインスピレーションが湧くかもしれんが、それで文章が光彩を放つわけではあるまい。とはいえ、酒が飲めなくても、酒に関わることで筆の走りがよくなるということは、ありそうな話である。


ちなみに、亀井家の新年会では、太宰一派が猛威を振るったそうな...
「まだ日の暮れないうちから酒宴がはじまったが、いち早く集まってくるのが、太宰さんのまわりにいた人たち。つまり太宰の残党である。この一派は、酒が滅法強い。そして酔うほどに、話題はきまって太宰治である。太宰以外に、文学もなければ文学者もいない、といった勢いである。これでは、まるで太宰家の新年宴会である。... そしてたがいに酔うほどに、喧嘩口論がしばしば起こる。喧嘩をしかけるのは、きまって太宰一派。なにしろこの人たちは、太宰を自分の占有物と心得ているから、一派でもない評論家や作家の口から、太宰、という言葉が出るやいなや、きっとなって気色ばんでくる。ましてや、彼らが信奉している太宰論、太宰像と少しでも違った意見が出ると、猛烈に襲いかかる。こういうとき、亀井さんは決して止め男や裁き役にはならない。なるがままに委せて、ご自分はふだんどおりニコニコしているだけである。」

2022-05-15

"「救済」の音楽" 礒山雅 著

音楽には救われるよ...
政治屋どもの安っぽい言葉よりも、報道屋どもの正義漢ぶりよりも、宗教屋どもが押し売りする博愛よりも。存在感を声高にアピールする必要はない。音楽家に人類を救え!などとふっかける気もない。ただ奏でるだけでいい。才能を存分に発揮するだけでいい。彼らの自由な振る舞いにこそ救われる。
まったく、対位法には救われるよ...
音符の二次元配列を単純な幾何学操作で重ね合わるだけで立体的なカノンを奏で、主題を多重化させてフーガを奏で、しかも重低音で愛してくれる。

芸術作品には、思想、観念、哲学といったものが露わになる。だがそれは、芸術家が最初から意図したことではあるまい。評論家が、後付けで解釈を加えただけということもあろう。何事にも意味を与えないと落ち着けないのが、人間の性分。無意味な人生は、よほど恐ろしいと見える。意味が見い出せなければ、神の仕業にするだけのこと。いや、悪魔のせいに...
そして、作品は作り手を離れ、それ自体が独り歩きを始める。偉大な芸術作品とは、そういうもの言うのであろう。
こと音楽となると、演奏家はみな独自性を主張する。作品の一番の理解者であることを自負するかのように。そこには、様々な解釈が渦巻く。アレンジあり、インスパイアあり、オマージュあり... そして、パロディあり。エゴイズムの欠片もないところに、真の芸術は生じまい...

さて本書は、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナー論集を交えて、救済の音楽を外観してくれる。救済といえば、まず宗教音楽を思い浮かべる。大掛かりなパイプオルガンが教会で鳴り響く様子を。
バッハの存命中は、作曲家よりオルガニストとして名を馳せたと聞く。ルター派教会で開花したクラヴィーアの名手として。ドイツでは、ひなびた農村のささやかな教会にさえ、堂々としたオルガンが設置されるという。礼拝ではオルガンが不可欠となり、教会が劇場と化す。現代でも、平均律クラヴィーア曲集やインヴェンションは教育の場で生き続ける。
ただ、おいらの場合、教会で奏でる音楽にあまり良い印象が持てないでいた。大バッハのカンタータにしても、大袈裟に永遠の愛を唱え、神と魂が延々とラブシーンまがいのセリフを交わすとくれば、教会詩にはまったくうんざり。なので、バッハをずっと避けてきたところがある。ようやく味わえるようになったのは、三十代半ば頃。モーツァルトの対位法をより味わいたければ、やはりバッハ抜きでは...

モーツァルト論では、ミサ曲に注目し、その核心部であるクレド書法について言及される。いわゆる、信仰告白の賛歌の章。それはモーツァルトに限らず、バッハにしても、ベートーヴェンにしても、伝統と混じり合って最も精神が露わになる部分ということになろう。アマデウスの魅力は、なんといっても伝統をぶち壊すほどの遊戯性にある。
対してベートーヴェンは、音楽に遊戯性を超えて思想を持ち込んだとされる。バッハがルター派の影響を受けたとすれば、啓蒙思想の時代とも重なり、ロックやルソーの影響もあろう。アマデウスにそんなものは感じない。もっと崇高な自由を。いや、気まぐれを...
バッハの楽譜は強弱をどのようにつけても受ける感じは変わらないが、ベートーヴェンの楽譜を強弱なしで演奏すると、意味を失って無味乾燥なものになるという。ハイドンやモーツァルトと比較してさえ、強弱が綿密に指示されているようである。第九は、歓喜の歌としても知られるが、そう単純なものでもあるまい。
「第九はなかなか複雑な性格を内包した作品である。しかしその呼びかけは単純明快で、音楽的にも圧倒的な説得力を備えているため、誰もがこの作品について、わかった気がしてしまうのではないだろうか。だが細部を調べてみると、首をひねらざるを得ない問題が、あちこちに出てくる。説得され、感動するからといって、作品のメッセージを正確に言語化できるとはかぎらないのである。」

ワグナーにとって芸術とは、人間をいかに救済するか、というテーマを自覚的に探求するものであったという。制度化されたキリスト教は、偽善的な騎士道世界の人々に見せかけの救いを与えこそすれ、生を深く生きる真の救済能力はないと。十字架の苦難を辿り直すことによってのみ救われると...
ワグナーを語り始めると、おいらもつい熱くなる。「ニーベルングの指輪」は、精神を呪縛し、自由を享受するいとまを与えない。ラインの黄金に、ワルキューレに、ジークフリートに、神々の黄昏とくれば、病的なほどの自己陶酔に浸る。まさに、ハーゲンの魔酒よ!
ワグナーを聴きながら罪の内省を問えば、無力感の憤りがつきまとう。道徳的な人間が人間らしいのか。罪を感じない人間が人間らしいのか。なにゆえ、悲観主義を忌み嫌い、ポジティブ思考に取り憑かれるのか。地獄がどれほどのものか。煉獄がどれほどのものか。天国はそれほど居心地の良い所か。愛ってやつは、人を救う反面、絶望の淵に追いやる。自己肯定感を煽って現実を見れば、絶望感を浴びせられる。人間は、自己意識の芽生えゆえに苦しむ。ならば、自己否定によって救われることもあろう。これが、おいらにとってのワグナーだ!
「バイロイトでこの作品を聴いていると、そうした救済がいま本当に実現したかのような錯覚に陥る。身体がほてり、ああ良かった、寿命が延びた、という気がするのである。そんな錯覚すなわち感動の中に、案外、人間の獲得しうる最良の救済が存在するのかもしれない...」

ところで、巷には「レクイエム」と題する曲があまりに多く、その意味なんぞ考えずにきた。本来、カトリック教会の死者のためのミサで用いられるラテン語の典礼文に曲を付けたもの。それが今では、典礼から離れ、もっと一般的な哀悼の意を表す用法とされる。こうした自由な発想は、ブラームスに始まったそうな。ルター訳聖書の章句を自由に組み合わせて人間のための追悼音楽として。尤も、この構想を最初に思いついたのが、ブラームスの師シューマンだったという。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」は、師シューマンの意思を受け継いだ形で成立したらしい...

2022-05-08

"ケインとアベル(上/下)" Jeffrey H. Archer 著

この作品に出会ったのは学生時代、三十年以上前のこと...
海外ドラマのシリーズ物として放送され、VHS に録画し、小説版を買いに走った記憶がかすかに蘇る。二十代は引っ越し貧乏で、その都度、書籍の群れを古本屋へ持ち込んだものである。ただ、こいつだけは蔵置したままと思っていたが、本棚に見当たらない。どさくさに紛れて処分しちまったか。ジェフリー・アーチャーの他の作品は何冊か残っているのだけど...
そして今、もう一度読み返したく、古本屋へ走る。なんと不合理な人生か。そもそも、推理モノを再読するという行為はどうであろう。一度読んだものを読み返すなんてことは、専門書でもない限り、滅多にやらないというのに...
同じ本を数年後にまた買って、あとで気づいて自分の馬鹿さ加減にうんざりするってことはよくある。いや、人間ってやつは時間とともに変わっていくし、同じ物でも違った光景が見えるかもしれない。ストーリーは分かっている。結末も分かっている。それでも衝動を抑えられずにいる。まったく天の邪鬼な性分ってやつは...
尚、永井淳訳版(新潮文庫)を手に取る。

ドラマを観るのと小説を読むのとでは、たいてい印象が違う。映像は分かりやすく、展開もコンパクト、一方、活字は思わせぶりが強く、周りくどい。それはメディアの性格によるもので、好みの問題もあろう。映像が原作を壊すってことはよくある。特に、推理モノの場合。しかし、この作品に関しては、うまく映像化されているように思う。互いに補完しあっているような。そして、活字を追いながら、バックグランドで映像を流すのも、なかなかの趣向(酒肴)。それで新たな発見が得られたかは知らんが...

「ケインとアベル」という名は、旧約聖書「創世記」の兄弟物語「カインとアベル」に因んで題されたと聞く。しかし、兄カインが嫉妬のあまり弟アベルを殺すあたりの展開は重なるものの、二人の相克な関係となると、かなり違って映る。
まず、時代背景を巧みに利用し、読者の想像力を掻き立てる点を指摘しておこう。二つの大戦という激動の時代に、タイタニック号に象徴されるヨーロッパ移民とアメリカン・ドリームを重ね、資本主義とマルクス主義の対立の中で、自由主義社会から見たイデオロギー的思想の勃興を物語ってくれる。
さらに、世界恐慌の震源地となったウォール街を背景に、貸し渋るだけでなく、保身のため資金回収に走る銀行家たちと、次々にビルから飛び降りる企業家たち。こうした背景だけでも、憎悪と嫉妬の渦巻く構図が見て取れる。そこに、ボストンの名門エリートと無一文でホテルの給仕から財を築くポーランド移民を対決させるという寸法よ。
アメリカは、二つの大戦と地政学的に距離を置いて戦禍を免れ、経済力を後ろ盾に超大国へのしあがっていく。
一方、ポーランドはドイツとソ連に分割統治され、おまけにヒトラーの侵攻とくれば、対立構図を煽る作品という意味でも、やはり大作と言えよう...

それで、どちらの肩を持つか、と言えば、嫉妬深い天の邪鬼だから、アベルということになる。男爵を笠に着せ、ホテル・バロンを名乗るあたりは、ちとえげつないにしても...
尚、バロンとは、男爵の意味。
しかしながら、読破した瞬間にケインに寝返ってしまうのも、天の邪鬼だから。悔やんでも悔やみきれぬ人生を物語れば、現実に引き戻される思い。この、してやられた感は、M にはたまらん。それも、脂ぎった社会を生きてきたということであろうか...

結末を予測するとなると、映像の方からは読み取りづらいが、活字の方はあちこちに布石を打っているのが見て取れる。
例えば、友人のホテルグループが、期日までに二百万ドルの返済が見込めず、抵当権が執行されようとしている時、突然、匿名で出資者が現れる場面。アベルがケインに喧嘩腰で電話をし、友人が自殺した事へ復讐する旨を伝える... という展開は同じにしても、その威勢をケインは不愉快に思うどころか、むしろ自信満々のポーランド人を逞しく見ている。
アベルの方も、ケインの経営する銀行株 6% を所有しながら、なかなか止めを刺そうとしない。尚、8% 所有すれば、役員の座を要求でき、ケインを辞任に追い込むことができる。残りの 2% も算段がついているというのに。
逆に、不安に思ったケインが先に動いて墓穴を掘ることに。しかも、らしくないやり方で。アベルと裏取引をしている議員との汚職の証拠を、匿名で司法当局へ送りつけたのである。人間とは奇妙なもので、普段沈着冷静な判断力の持ち主でも、自分の問題となると途端に鈍ってしまう。ケインは、いささか後ろめたさを感じ、アベルが刑務所に入らなかったことを安堵している自分を意外に思っている。
そして、とうとうアベルが残りの銀行株を取得するという切り札を出し、ケインは銀行を追い出されることに。
アベルもまた、最終的な勝利の満足感があまりに小さいことを知って意外に思っている。
ケインは根っからの銀行家であり、アベルもまた叩き上げのホテル王であったとさ...

ただ、これほどの泥仕合ともなれば、やはり、どちらかが死なないと終幕できないと見える。どんでん返しの展開なんてものは、最初の感動に過ぎず、もはやどうでもいい。本当の感動は、そこに至るプロセスに求めたい。二人を辛うじて救ったのは、互いの息子と娘が結ばれ、孫に後を託すことができたことであろうか。それで、映像と活字のどちらが好みか、といえば、やや活字の方か。おいらは、前戯好きだし...

2022-05-01

"ゴッホは欺く(上/下)" Jeffrey H. Archer 著

名画にまつわるミステリーは、枚挙にいとまがない。ダ・ヴィンチ、ピカソ、フェルメール... そして、ゴッホ。
原題 "False Impression"... これに「ゴッホは欺く」との邦題を与えた翻訳センスはなかなか...
さて、誰を欺いたのか?名画には贋作がつきまとう。高値がつけば尚更。
しかしながら、偽物も侮れない。少なくとも、優れた画家の手によらなえれば成立し得ない。技術はオリジナルと互角か、それ以上か...
とはいえ、偽物がオリジナルを超えることはできない。少なくとも、経済的価値や政治的価値においては。オリジナルには、人を狂わす何かがあるらしい...
尚、永井淳訳版(新潮文庫)を手に取る。


大富豪や権力者たちに、美術品コレクタをよく見かける。純粋に芸術に親しもうとする人、えげつなく漁りまくる人、戦利品とされた時代もある。広く知られる話では、ナチスの高官たちが名画を漁りまくったという事実がある。ウィーンへの復讐か、イデオロギーの後ろ盾か、それとも資金作りか、脂ぎった動機はいくらでも拾い上げられる。
本物語では東京が一舞台を担っているが、バブル全盛期には、日本人が国宝級の西洋美術品を落札する様子がしばしば報道された。棺桶まで持っていくと豪語し、人類の遺産を私物化していると非難される輩まで飛び出す始末。
優れた美術品には、それを蒐集するだけで征服感を満足させるものがあると見える。確かに、偉大な芸術作品には、作者の意図を超越した社会を代弁する力がある。
ただ、盗んだ名画を金に替えることは、古くから難しいとされる。それが本物であるだけでは足りない。正当な所有者であることも合わせて証明する必要がある。むしろ、証明書の方が貴重だったりして...


本物語の主役は、「耳を切った自画像」。ファン・ゴッホの熱狂的な愛好家たちにとって究極の高み。
英貴族の女主人は破産寸前で、ファイナンス会社に名画を売りに出すことを持ちかけられる。ある晩、女殺し屋が侵入して女主人は命を落とす。殺し屋は左耳を切り取って、雇い主にメッセージとして送ったとさ。名画だけでなく、遺産もろとも略奪しようという魂胆か...
「この世に買収できない人間はいない!」
ファイナンス会社の美術品コンサルタントを勤める女性は、雇い主のあくどいやり方に我慢できず、殺された女主人の方につき、純粋な買い手を第三国に求める。ファイナンスへの負債を返済し、家の資産を債権者たちから守り、なおかつ税金を納めるのに充分な金額で売却できる相手を求め、舞台は東京へ。
「日本人は駆引きを弄する相手には我慢がならない国民性だった。」
一方、ファイナンス会社の会長は、ファン・ゴッホを手に入れてご満悦ときた。しかし...
「ファン・ゴッホが左の耳を切り落としたことは小学生でも知っているぞ!... しかし、彼が鏡を見ながら自画像を描いたこと、そのせいで右耳が繃帯で覆われていることは、知らない小学生だっていますよ。」


展開にせよ、文体にせよ、軽快なリズムに乗せられて、つい一気読み!
大体、ジェフリー・アーチャーという作家は、全体の設計図をきちんと完成させてから書き始めるのではなく、あるアイデアが浮かぶと筆の勢いに任せて一気に書きあげるタイプだそうな。読者同様、先が見えないままスリルを味わいながら書き進めるんだとか。いささか強引ではあるが、酔いどれ天の邪鬼は暗示にかかりやすい。
そして、学生時代にハマった「ケインとアベル」を読み返したくなる今日このごろであった...