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- 2022-05-29 "私の酒 「酒」と作家たち II" 浦西和彦 編
- 2022-05-22 "「酒」と作家たち" 浦西和彦 編
- 2022-05-15 "「救済」の音楽" 礒山雅 著
- 2022-05-08 "ケインとアベル(上/下)" Jeffrey H. Archer 著
- 2022-05-01 "ゴッホは欺く(上/下)" Jeffrey H. Archer 著
2022-05-29
"私の酒 「酒」と作家たち II" 浦西和彦 編
2022-05-22
"「酒」と作家たち" 浦西和彦 編
昭和の文学運動は、プロレタリア文学にしても、新興芸術派にしても、機関紙などの雑誌に結集するところから展開されたという。その風潮は戦後も続き、雑誌には何か社会を動かす力があると信じることのできた、そんな時代である。平成、令和と続くグローバルなネット社会から眺めれば、なにゆえこんな媒体に... という感は否めない。しかしながら、昭和を生きた酔いどれ天の邪鬼の眼で大正から明治へ遡ると、骨董品のような古臭さを感じながらも文豪たる生き様に魅せられちまう。令和を生きる人も、昭和の文豪たちに文学たる何かを求めたりするのではあるまいか。酒は年月が経つほど味わい深くなるというが、文豪たちが放つ色彩にもそうしたものを感じる、今日このごろであった...
1955年、株式新聞社から「酒」という雑誌が創刊されたそうな。その頃、佐々木久子が入社したが、赤字のため一年で廃刊となり、彼女も解雇されたという。まだ戦争の余韻が冷めやまぬ時代、国民生活も貧しく、酒の雑誌なんぞを読む余裕のある人が少なかったと見える。
そこに、火野葦平の言葉「死ぬまで原稿を書いてあげるから」。このひと言に奮起した佐々木久子は、1997年まで独力で刊行し続けたという。
本書には、この雑誌に掲載された作家たちの酒縁(酒宴)が、三十八篇も収録される。
私小説がもてはやされた時代、小説家というのは、酒にだらしなく、性にだらしなく、金にだらしなく... そんな芸術家像を思い浮かべる。それも、身を削る思いで自己を曝け出した結果であり、小説家が特別というわけではあるまい。巷には、酒に逃げずにはいられない人生や酒に溺れる人生に溢れ、酒に命を奪われる人生だってある。
ただ、言葉を生きる糧にする芸術家だからこそ、余計に感じ入るものがあるのだろう。入水心中があれば、ピロポン中かアル中かも見分けられない死に様あり、陽気な酒豪が睡眠薬自殺をしたり、文壇には破滅型人間で溢れている。遺書には「将来に対する唯ぼんやりした不安」やら、「漠然とある不安のため」といったものも見かける。自我の征服に失敗すれば、その存在すら許せなくなるのだろうか...
「酒は人間と同じやうに、醜悪で動物的である。酒は人間と同じやうに、無邪気で天真爛漫である。すべてに於て『酒は人間そのものに外ならぬ』(ボードレール)それ故にこそ、人間性の本然を嫌ふ基督教が、酒を悪魔の贈物だと言ふのである。」
... 萩原朔太郎
一方で、執念で酒人生を全うした小説家たち...
酒の上で決して矩を超えない亀井勝一郎に、じっくり延々と飲み続ける横綱級の井上靖に、酒鬼!梅崎春生に... と。彼らは酒が好きなのか、酔うのが好きなのか。銀座のクラブで知的な話術でホステスたちを惹きつける高見順がローソク病を熱弁すれば、君に酔うのが好きなんだよ!なんて台詞も聞こえてきそうな...
「俺が酒を呑むのは、経済的スリラーを忘れるためや。寝るときも大コップ一杯のウィスキーを呑む。それで寝られんなんだら朝まで起きてな、しゃあない」
... 富士正晴
雑誌のタイトルからして、酒豪の武勇伝ばかりかと思いきや、まったく逆の下戸の逸話も...
川端康成は、一滴も酒が飲めないのに、酒席を楽しむ様は名人芸であったとか。大宅壮一も大変な下戸だったらしいが、夫人の方はイケる口らしい。漱石の芸ともなると、体質的にアルコールを受け付けなかっただけではモノ足らず、「吾輩は猫である」の猫がビールに酔って水甕に落ちてお陀仏ときた。彼の筆の酔いっぷりときたら...
酒を飲むとインスピレーションが湧くかもしれんが、それで文章が光彩を放つわけではあるまい。とはいえ、酒が飲めなくても、酒に関わることで筆の走りがよくなるということは、ありそうな話である。
ちなみに、亀井家の新年会では、太宰一派が猛威を振るったそうな...
「まだ日の暮れないうちから酒宴がはじまったが、いち早く集まってくるのが、太宰さんのまわりにいた人たち。つまり太宰の残党である。この一派は、酒が滅法強い。そして酔うほどに、話題はきまって太宰治である。太宰以外に、文学もなければ文学者もいない、といった勢いである。これでは、まるで太宰家の新年宴会である。... そしてたがいに酔うほどに、喧嘩口論がしばしば起こる。喧嘩をしかけるのは、きまって太宰一派。なにしろこの人たちは、太宰を自分の占有物と心得ているから、一派でもない評論家や作家の口から、太宰、という言葉が出るやいなや、きっとなって気色ばんでくる。ましてや、彼らが信奉している太宰論、太宰像と少しでも違った意見が出ると、猛烈に襲いかかる。こういうとき、亀井さんは決して止め男や裁き役にはならない。なるがままに委せて、ご自分はふだんどおりニコニコしているだけである。」
2022-05-15
"「救済」の音楽" 礒山雅 著
2022-05-08
"ケインとアベル(上/下)" Jeffrey H. Archer 著
2022-05-01
"ゴッホは欺く(上/下)" Jeffrey H. Archer 著
名画にまつわるミステリーは、枚挙にいとまがない。ダ・ヴィンチ、ピカソ、フェルメール... そして、ゴッホ。
原題 "False Impression"... これに「ゴッホは欺く」との邦題を与えた翻訳センスはなかなか...
さて、誰を欺いたのか?名画には贋作がつきまとう。高値がつけば尚更。
しかしながら、偽物も侮れない。少なくとも、優れた画家の手によらなえれば成立し得ない。技術はオリジナルと互角か、それ以上か...
とはいえ、偽物がオリジナルを超えることはできない。少なくとも、経済的価値や政治的価値においては。オリジナルには、人を狂わす何かがあるらしい...
尚、永井淳訳版(新潮文庫)を手に取る。
大富豪や権力者たちに、美術品コレクタをよく見かける。純粋に芸術に親しもうとする人、えげつなく漁りまくる人、戦利品とされた時代もある。広く知られる話では、ナチスの高官たちが名画を漁りまくったという事実がある。ウィーンへの復讐か、イデオロギーの後ろ盾か、それとも資金作りか、脂ぎった動機はいくらでも拾い上げられる。
本物語では東京が一舞台を担っているが、バブル全盛期には、日本人が国宝級の西洋美術品を落札する様子がしばしば報道された。棺桶まで持っていくと豪語し、人類の遺産を私物化していると非難される輩まで飛び出す始末。
優れた美術品には、それを蒐集するだけで征服感を満足させるものがあると見える。確かに、偉大な芸術作品には、作者の意図を超越した社会を代弁する力がある。
ただ、盗んだ名画を金に替えることは、古くから難しいとされる。それが本物であるだけでは足りない。正当な所有者であることも合わせて証明する必要がある。むしろ、証明書の方が貴重だったりして...
本物語の主役は、「耳を切った自画像」。ファン・ゴッホの熱狂的な愛好家たちにとって究極の高み。
英貴族の女主人は破産寸前で、ファイナンス会社に名画を売りに出すことを持ちかけられる。ある晩、女殺し屋が侵入して女主人は命を落とす。殺し屋は左耳を切り取って、雇い主にメッセージとして送ったとさ。名画だけでなく、遺産もろとも略奪しようという魂胆か...
「この世に買収できない人間はいない!」
ファイナンス会社の美術品コンサルタントを勤める女性は、雇い主のあくどいやり方に我慢できず、殺された女主人の方につき、純粋な買い手を第三国に求める。ファイナンスへの負債を返済し、家の資産を債権者たちから守り、なおかつ税金を納めるのに充分な金額で売却できる相手を求め、舞台は東京へ。
「日本人は駆引きを弄する相手には我慢がならない国民性だった。」
一方、ファイナンス会社の会長は、ファン・ゴッホを手に入れてご満悦ときた。しかし...
「ファン・ゴッホが左の耳を切り落としたことは小学生でも知っているぞ!... しかし、彼が鏡を見ながら自画像を描いたこと、そのせいで右耳が繃帯で覆われていることは、知らない小学生だっていますよ。」
展開にせよ、文体にせよ、軽快なリズムに乗せられて、つい一気読み!
大体、ジェフリー・アーチャーという作家は、全体の設計図をきちんと完成させてから書き始めるのではなく、あるアイデアが浮かぶと筆の勢いに任せて一気に書きあげるタイプだそうな。読者同様、先が見えないままスリルを味わいながら書き進めるんだとか。いささか強引ではあるが、酔いどれ天の邪鬼は暗示にかかりやすい。
そして、学生時代にハマった「ケインとアベル」を読み返したくなる今日このごろであった...